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Web誌友会 板/2

4628a hope:2014/11/21(金) 23:27:17 ID:cEpBaIdo

>>4627 a hope所感)

大調和の神示の冒頭に、

『汝ら天地一切のものと和解せよ
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。
・・・』

とあるように、本当に天地一切のものへの感謝が出来ていれば、どんな病気と診断された人であれ必ず救われるのだと思いますが、
ふつうの人間はそんなに簡単に天地一切のものへの感謝はできないわけですから、
やはり病気になれば、病院へいって治療をするのが正しい行動ではないかとわたしは思っています。

ですが、「生命の實相」のどこかにも書いてありましたが、医者の一言で病気が治ってしまったり、
悪化してしまったりということも本当にある事だと感じています。

そのように、医者というのは、患者の生命に大きな影響を与えてしまうわけですから、
直観たちまち病因とその治療法とを知ることのできるという「霊的直観力」があるということがとても重要になってくるのだと思います。

おそらく「霊的直観力」のある医師は患者からの評判がよく、その病院も繁昌しているでしょうから、
もし病気になってしまったら、できるだけ繁昌している評判のよい医師に看てもらうのがよいのではないかと感じています。

また、他のどんな職業であっても「霊的直観力」のある人の方が、能率よく仕事をこなし、社会的にも貢献しているのだと思います。

この後、テキストにはどうすればこの「霊的直観力」を養成できるのかが説明されています。

テキストの謹写を続けます。

4629a hope:2014/11/21(金) 23:37:11 ID:cEpBaIdo

トキさま

トキさまがどのような意図で、このご著書をご紹介されたのかよくわかりました。
丁寧なお返事をくださりありがとうございます。 合掌。

4630a hope:2014/11/23(日) 12:01:05 ID:cEpBaIdo

>>2621>>2624トキさま 

トキさまが中国人の長所もたくさん認めてくださっていて、中国の将来についても明るい見通しを持ってくださっていることをとてもうれしく思います。
ですが、今回の件で、もう少し思うことがあるので、わたしの正直な気持ちを述べさせていただきます。


かつて、日本が高度成長期だったころ、日本人は拝金主義になりませんでしたでしょうか?
「海外旅行での恥はかき捨て」だと言って、海外の高級店での買いあさりなどのひどいマナーでの買い物をしていませんでしたでしょうか?

また、食材の産地書き換えや使い回し等、程度の差こそあれ、似たような非常識は日本人もしています。
実際、台布巾で床も拭いてしまっているような日本人をわたしは知っています。
布巾と雑巾の区別をしない人は、日本人にもいるのです。

中国と日本は国土、人口等の規模が違いますから比較にはなりませんが、もしかしたら、日本人も似たようなことをしていないかと、
中国人の行動を見て批判する前に自らの行動も反省すべきなのではないでしょうか?

目の前に現れる現象は、すべて自分の心の影ですよね?
そして、本当の「悔い改め」には、自己反省が必要だとここで学びました。
日本人は「神の国」に生まれたから特別な人種なのではなくて、「神の国」に生まれたからこそ、
「神の子」の自覚を持って生きて行かなければいけないのだと思います。

「生長の家」がこの日本国に出現した理由は、その自覚をもった日本人を増やすためなのではないでしょうか?

それに白人から見れば、中国人も日本人も韓国人も同じ顔をしたアジア人で大差ありません。
そのアジア人同士が波長を合わせて、どちらの国が優れているとか、どちらの国が野蛮だなどと批判し合っているのはとても悲しい現実だと思います。

せめてわたしたち「生長の家の教え」を信仰するものは、たとえ他国の事であっても現象の悪を認めず、
相手の実相を信じて礼拝していきたいですね!

4631a hope:2014/11/23(日) 15:07:07 ID:cEpBaIdo
>>4630 訂正

偽)>>2621>>2624トキさま 
正)>>4621>>4624トキさま

4632トキ:2014/11/23(日) 19:55:18 ID:.7kA9qJU
>>4630

 ご丁寧なコメント、ありがとうございます。
優しい御心には感激しました。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

4633SAKURA:2014/11/23(日) 23:37:01 ID:???
こんばんは… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>4626の投稿の続きです。…が?

■拝読しながら…気になる文章がありましたので…
>>4630 の文章の中から…
>>「生長の家の教え」を信仰するものは、たとえ他国の事であっても現象の悪を認めず、
相手の実相を信じて礼拝していきたいですね!<< (一部抜粋)

■現状の国際化…この問題の前に「戦争時代」にも…多々なる問題がありましたかと。
過去の歴史を振り返りますと…当時からの国家間でのその思想・思考の相違からの
多々なる弊害が現在まで及んでいる事は歴史上取り消す事はできないものです。
多くの方々は、その事に関しましては、内心思い当たる事がある面ではないのでしょうか?

■【此の雑巾・フキンのお話…】なのですが…?

現状、【日本国内】での販売時にて目の前で見た事であり…正直申しますと?
他の場所でも数回見た事があります…。
確かに?日本人の中でもそのような?区別の出来ない方も…戦後は多かったかと?
しかしながら「義務教育」を受ける世代からは、…つまり「断魂・断崖世代」では、
少なくとも「義務教育」の学校教育課程で教えられたモノという記憶があります…。
但し?その中でも…【環境・境遇】からは、本人の捉え方の問題になりますでしょうか?
失礼ながら…「炭鉱関係」とか?

■「しつけ」と云うことに最終的にはなりますのでしょうか?

■【 他国の事…実相を見るべき… 】。。。
確かに仰います通りとは思います。…が?
現状では…日本国に来日されて生活する上では、少なくとも『慣習』は、その国の『慣習』に
基ずいた行動を執って戴きたいモノです。
国際化というベールで…御本人達の国の慣習をそのまま持ち込んで「日本国内」での
生活をなさいますと…その考え方に同調します日本人は…それはそれで…いいのでしょうが?
現状?見えない形での【弊害】が起きて居るのは事実ですかと。

つまりは最終的には『 類の法則 』と云うことになりますのでは????

少なくともその事に寄ります【衛生問題】が将来的に於きました時は?
如何なものなのでしょうか?この頃…考えてしまいます…。
(又!時間がありました時に投稿させて頂きます…。)

          つづく 
                         ❤〜SAKURA

4634a hope:2014/11/24(月) 00:42:33 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第14巻 p161〜

さてしからばこの何事にも絶対に必要な直観力を養成するにはいかにすべきか。
先刻もいったように、幼児より子供の「神秘がる心」を押し消さないようにすることだ。
神秘なることを神秘として教えよ。

深く考えれば実に神秘であるところの現象を、当たり前の茶飯事だとして、見のがしてしまうような習慣をつけてはならぬ。
草木をただの毛細管現象で生長する機械だと教えてはならぬ。
あらゆる物にやどる生命の神秘を教えよ。

神秘に驚異し、崇敬し、その生命の神秘に一歩でも近づくことを名誉と思い、生命を合掌礼拝するように子供を教えよ。

ああ、生命の神秘を驚異し尊ぶ心――隣人愛も、生物愛護も、敬虔なる宗教心も、画期的な科学的発明も、偉大なる哲学も、妙なる芸術も、
それから実業界のすばらしき成功さえも、皆この生命の神秘を礼拝する心によって得られるのだ。

(中略)

こんなことを書いてもわたしは神仏に祈って相場をやれというつもりではないのだ。

ただわたしのいいたいのは、神仏はあるぞということだ。信仰は運命を支配するぞということだ。
いっさいの大成に必要な直感とか霊感とかいうものは、神秘を礼拝することによって得られるということだ。

諸君よ、石像を石だと思うな。木像を木だと思うな。そこには神秘な力と交通するアンテナが張られているのだ。

どんな小さな神社でも軽蔑するな。その前を通る時には頭を下げて通れ。

諸君よ、大芸術を産み出すために祈れ。自分の心を浄めるために祈れ。自己の生活を傑作とするために祈れ。

確乎不動の信念を得るために祈れ。友だちの病気の平癒のために祈れ。

わたしは「生長の家」の兄弟たちのために毎日祈っているのだ。

諸君は諸君で自己の家族や知人の平安のために祈れ。諸君の子供の生長のために祈れ。
そして諸君の子供にも親たちと一緒に神仏を祈ることを教えよ。

祈ることを教えることは神秘に近づく道を教えることだ。

かくする時、いっさいに応用してあらゆる偉大なるものを産み出すところの源泉となるべき霊感と直覚とが、
やがてあなたの子供たちを祝福する日が来るに相異ないのだ。

4635a hope:2014/11/24(月) 00:43:13 ID:cEpBaIdo

>>4634 a hope所感)

<<祈ることを教えることは神秘に近づく道を教えることだ。>>
人生を幸福に導く「霊的直観力」を養うカギはどうやら「祈り」にあるようですね。

4636a hope:2014/11/24(月) 00:50:14 ID:cEpBaIdo

>>4633 SAKURAさま


貴重なご意見をいただきありがとうございます。合掌。

たしかに、国際関係は複雑な時代背景があったり、それぞれの国の生活習慣等も異なったりしますからなかなか難しいのかもしれません。
ですが、生長の家の「人間神の子」の真理は万国共通の真理ですから、わたしたちは自信を持って信仰できますね。

SAKURAさま、お元気そうでなによりです。
また、いつでもご気軽にweb誌友会にご参加くださいね。

4637a hope:2014/11/28(金) 09:57:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第14巻 p166 5行目〜

信仰実話は数多くたびたび繰返して子供に話してきかせよ。
しだいにそれより導いて、ついに彼をして大生命と一体であるとの自覚までに高めあげるのである。
ひとたび自己を守護する大生命の存在を深く心に印(いん)せられたものはあらゆる事物に恐怖しない。
彼は恐怖しないがゆえにたとい病気に罹ることがあっても速やかに治るのである。
彼は恐怖しないがゆえにいかなる困難にも挫折しない。
彼は恐怖しないがゆえに新しい試みをなすに躊躇しない。
・・・

4638a hope:2014/11/28(金) 09:59:06 ID:cEpBaIdo

>>4637 a hope所感)

どんなに頭脳明晰で勇敢な人間であっても無神論者(神さまの存在を信じていない人)は、
何かのきっかけで「恐怖心」に捉われたとき、人生に挫折してしまうのだと思います。

たとえどんなに失敗しても、人生は「魂を磨くための学校」であり、神さまがいつも温かく見守ってくださっていることがわかっていれば、
人は必ず立ち上がることができるのだと思います。

4639a hope:2014/11/30(日) 00:18:57 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」p173 5行目〜

自己を尊敬されたいものは、ひとを尊敬せよ。世界は正札であって駆け引きではない。
支払ったものだけのものが、自分に返って来るのである。尊敬を支払えば尊敬が返ってくる。
深切を支払えば深切が返ってくる。愛を支払えば愛が返ってくる。
だから子供から尊敬せられようと思う親たちは、子供を尊敬することを吝(おし)むな。
子供を尊敬すれば、子供もまた「善き父」または「善き母」としてその親たちを尊敬するのだ。

子供の教育には「道理」をもって子供の心のうちの神(道理)に相対するようにせよ。
強制は決して子供の心のうちにある神を生かしはしないのである。
かくのごとく「道理」をもって子供たちに内在する神に対するとき、
時には子供の方か大人に対して理論上勝つということもありうるのである。
かくのごときときには、大人の権威にかかわると思って※横車を押しとおすようなことをするな。

あらゆる者は大人でさえも、真理(神)の前には跪(ひざまず)かねばならぬところの
最小(いとちい)さきものであることを知らしめねばならぬのである。
真理の前に大人が跪いて見せるとき、子供もまた、真理の前に跪かねばならぬことをさとるのである。

大人が子供にいい負けたと思わせるような解決をしてはならない。
子供に負けるのではない、真理の前には大人でも素直に頭を下げるのが
どんなに善いことかであるかの実例を見せるようにするのである。
実にこのことは人間性の素直な発達のために大切なことであって、
すぐ子供も真理の前には頭を下げはじめるのである。

大人が自己のまちがっている場合に、そのまちがいを押しとおすようにしないならば、
子供の性質も素直になって悪いと自覚しながら頑張るというようなことはだんだん少なくなってくるのである。

※横車を押す ・・・ 横に車を押すこと。転じて無理と知りながら自分の言い分を通すこと。

4640a hope:2014/11/30(日) 00:20:46 ID:cEpBaIdo

>>4639 a hope所感)

<<かくのごとく「道理」をもって子供たちに内在する神に対するとき、時には子供の方か大人に対して理論上勝つということもありうるのである。
かくのごときときには、大人の権威にかかわると思って横車を押しとおすようなことをするな。>>

わが家でも、このようなことはしばしば起こります。
子供がすぐにいうことを聞いてくれなかった時など、感情にまかせて叱っていると、
子供の方がずっと冷静に、なぜ、わたしの言うことを聞きたくないのかを説明しだしたりします。
子供には子供の言い分がちゃんとあるんですよね。
そういうときに、「親に反抗するとは、けしからん」と叱って強制してやらせるのは、生長の家の教育法ではないわけですね。

そこで一呼吸して、「そうか、そういう理由があるんだね、それじゃあ、今すぐじゃなくてもいいから、やってくれるとうれしいな」
と言いかえたりすると、子供は「うん、後でやる」と本当に素直にやってくれます。

自分の子供って自分から生まれていますから、なんとなく自分の分身か付属品のように感じてしまいがちですが、
本当は、一人一人が尊い〝神の子さん〝 なんですよね。
でも、そんな大切なことを、忙しい日常に追われているとついうっかり忘れてしまいます。

<<だから子供から尊敬せられようと思う親たちは、子供を尊敬することを吝(おし)むな。
子供を尊敬すれば、子供もまた「善き父」または「善き母」としてその親たちを尊敬するのだ。>>

そうか、わたしが子供達に尊敬されていないのは、わたしの「子供たちへの尊敬の念」が足りないからだったのですね・・・

がんばります( `―´)ノ

4641a hope:2014/11/30(日) 16:26:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第14巻 p176 2行目〜

大人よ、子供の考えることに碌(ろく)なことがあるかという先入観を棄ててしまえ、
天国に入る者は心は幼児の心のごときものであると古(いにしえ)の聖者はいった。
そのように時として子供の唇からは天的な啓示が語られることがあるのである。
たとえにも「負(お)うた子に教えられて浅瀬を渡る」という。
子供の言葉に霊界よりの啓示を聴くことのできるものは祝福された人である。

子供が自分自身で考えついた考えを尊重してやることは、その考えと同じ方向にはたらく心の働きを励まし助長してやることになるのである。
これは実に大切な励ましである。
子供は「励まし」か「嘲(あざけ)り」かでいっそう高く発達もすれば、
逆にいっそう低く退歩もする分水嶺(ぶんすいれい)に立っているのである。
多くの若き心はもう一歩のところで大発明大発見をするという瀬戸際まで漕ぎつけながら大人の嘲笑にあって委縮してしまっている。
世界はこうした愚かな大人の嘲笑がなかったらならば今よりもいっそう進歩していたかもしれないのである。

大人よ、若き心の独創的な考えの芽を摘むな。
どんなにそれが小さくとも、いやしくとも独創的でありえさえするならば、その価値を讃えよ。
どんなにそれが早熟的な、大人にとって嫌や味なものであろうとも、子供の独創性が発揮されているものならばその価値を認め、
価値をたたえられることによって発達するのが生命の法則であるからである。

4642a hope:2014/11/30(日) 16:27:58 ID:cEpBaIdo

>>4641 a hope所感)

この後テキストでは、<<幼児期の心に印象された記憶がいかに大切なものであるか>>が述べられていて、
「生長の家の教育法」の目的、根本原則、方法がさらに詳しく説明されています。

また、>>4625でトキさまが、立花隆さんの「臨死体験」をご紹介くださり、たとえ生まれた直後の嬰児であっても、
産婦人科医の不注意で言った言葉が潜在意識にあっために、その後の男性の人生に大きく影響していた、
という興味深い事例をご紹介してくださっています。

<<子供は生まれつきの霊感的語学者であって、音で聞いて言葉の意義を霊感で直接的に把(つか)むのである。
彼は不思議な直覚的理解力をもっていて大人の言語を大人の言語をかなり十分理解しうる。>>p183 7行目〜

人は大人になるにつれて、色々な経験をして世間的に賢くなると同時に、
この「直覚的理解力」が衰えてきてしまうのかもしれませんね。

生まれたばかりの嬰児は(生まれる前の胎児もですが)、そういう意味では全く汚れのない「神聖」そのものなのですね。
(つづく)

4643a hope:2014/11/30(日) 16:29:52 ID:cEpBaIdo
>>4642つづき)

その、「神聖な命を守る運動」にわたしも協力しています。
大熊先生ががんばってくれているからこそ、わたしもこの素晴らしい運動に参加することが出来ています。

大熊先生のブログを見たり、you-tube を視聴するだけでも応援になるそうです。
みなさま、ご協力をどうそよろしくお願いいたします m(__)m

http://blogs.yahoo.co.jp/inoti333mamoru777/MYBLOG/yblog.html

以下、大熊先生からのメール内容を転載させていただきます。 合掌。

―――――――――――――

速報です。
  合掌 ありがとうございます。

赤ちゃんを守る救命センター。
一般社団法人いのちを守る親の会
「奇蹟の事務所」設立秘話が8分の、
動画になって全世界に公開されました。
ぜひ、皆さん、ご覧下さい。↓

http://youtu.be/A1Hjhegwj88

宣伝くだされば下さるほどに
妊婦さんや赤ちゃんが救われます。
どうか、ご協力お願致します。

       合掌  再拝

             大熊 良樹 拝  

――――――――――――――

4644a hope:2014/11/30(日) 23:21:49 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第30回 web誌友会 予告

期間  12月1日〜12月31日まで
テキスト 「生命の實相」第15巻 人生問答篇 上
内容  新生活への出発 人生の悩みを解く(上)
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆


早いもので、今日で11月も終わり、明日から12月に入ります。

そこで、テキストを第15巻の「人生問答篇」に進めたいと思います。
現在の「生長の家」教団は、あまり個人救済に力をいれていらっしゃらないようですが、
「生命の實相」を拝読していると、昔の生長の家は「生長の家」の人間神の子の真理を伝えることによる個人救済が
活動内容の大部分を占めていたような印象を受けます。
それに昔は「生命の實相」を拝読するだけで病気が治ってしまうという奇蹟が現実にたくさん起きていたのですよね。

現代の情報化社会に生きるわたしたちは、ふつうに生活しているだけで色々な情報が否応なしに入ってきてしまいます。
ですから「生命の實相」を拝読しても、わたしたちの頭の中にはいってしっている余計な知識が邪魔をして、
素直に真理が心に響かなくなっているのではないかと感じています。

わたしはこれからも出来るだけ心を真っ白にして、聖典「生命の實相」を拝読していきたいです。

4645a hope:2014/12/01(月) 10:43:29 ID:cEpBaIdo

12月に入りましたので、第30回 web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

4646a hope:2014/12/01(月) 10:47:51 ID:cEpBaIdo

つづきまして、今回のテキストである 第15巻の『新生活への出発―― 幸福なる生活への序曲―― 』(序章)より抜粋謹写させていただきます。
 

・・・(前略)・・・p14 後から4行目〜

諸君よ、この書を手にせられたのを機会に今日からあなたの家庭をもっと明るく笑いに満ちたものとしようではないか。
苦い顔は家庭の外でも見飽きるほど見ているのである。
厭味(いやみ)や小言はもう飽き飽きするほど家庭の外で聞かされているのである。
せめてわれらは家庭にいる間だけでもわれらの人生を楽園としようではないか。
われらが外へ出て人生の戦いを戦うとき、振り返って、帰れば楽しい明るい慰められるべき家庭があることはなんという力強いことであろう。

諸君よ、この人生の楽しいオアシスを、決して苦い火宅とするな。
あなたの天国に地獄を持ち込むな。
一歩あなたの家庭に入るとき、そこを天国だと思え。
家庭の全員が、そこを天国だと思うようにするならば、そこに本当の天国ができ上がるのである。


「運命の神も、快活な人には十歩も百歩も譲歩する」(Fate itself has to concede a great many things to the cheerful man.)
という西洋の諺がある。
日本の諺「笑う門には福来る」というのと好一対(こういっつい)である。

天照大神が岩戸隠れをせられて天地ただ暗黒に満たされたとき、その暗黒の真っただ中にあって悲観せず、失望せず、
陽気な音楽を奏でつつ明るい笑いを笑い、ついにその暗黒を笑いによって吹き飛ばした天宇受売命(あまのうずめのみこと)こそ
生粋の古代日本人の標本であり、「生長の家」人の好標本であるのである。
苦難に面するとも朗らかに哄笑(こうしょう)せよ。
やがて諸君はその苦難を征服することができるであろう。

天宇受売命(あまのうずめのみこと)は八百万(やおよろず)の神々の奏(かなで)出でる音楽につれて明るい踊りを踊ったのであった。
音楽にもいろいろあるが、明るいリズムの音楽は聴く人の心のリズムを明るくし、肉体のリズムまでも調子よくし、
その結果心の悩みはもちろん、肉体の健康をさえもよくするのである。
近頃、琴曲(きんきょく)の名人でその演奏によって他人の病気を治したという実例がある雑誌に出ていたが、さもあるべきことである。
(つづく)

4647a hope:2014/12/01(月) 10:49:44 ID:cEpBaIdo
>>4646 つづき)

輝くような明るい笑いは人生の不幸を吹き飛ばし、不治症をさえ雲散霧消(うんさんむしょう)する不思議な効果をもっているものなのだ。
われわれが健康でなかったり、不幸であったりするのは自己の魂の中の天照大神が岩戸隠れをしているからであるのだ。
魂の中の天照大神が岩戸隠れをしてしまったら、形の世界はことごとく暗澹として光明を失ってしまうのである。
なぜなら形の世界は心の世界の映像(かげ)にすぎないからである。

諸君もしらるるとおり、日本古典の『古事記』によれば、天照大御神が天岩戸に御隠(みこも)りましたとき、
万物ことごとく暗黒の中に沈水してしまったのである。
その時、心の岩戸を開いて天照大神の出御(しゅつぎょ)を促したところのものは、
天宇受売命の明るい動作に促された八百万神々ことごとく高天原を揺り動かすような哄笑(おおわらい)であったのである。

諸君はこれをたんなる神話だと思うか。
しからず、これは生命の創価作用を説明する深遠なる象徴劇であったのだ。

「生長の家」ではわれわれ人間は皆神の子であるという。
われわれが神の子であるとは、各人は「天照大御神」を各自の魂の底に包蔵しているということである。
言い換えれば皆が天照大御神の御子(みこ)であるということである。

では、われわれは今日から神の子らしく朗らかに生き、各自に宿る天照大御神を岩戸を開いて導き迎え奉り、
この大御神の子たる実をあらわし、われわれは太陽の子だということを実相を現実にあらわそうではないか。

陰鬱にふさぎ込んで明るさを失ってしまうことは心の天の岩戸を閉ざしてしまうことである。
どんな善人でも陰気が心の中に籠っては太陽の魂が閉ざされているのであるから、本当の善人だということはできないのである。
本当の善人は心が明るくなければいけないし、いつまでも暗(やみ)を見つめる心を捨てなければならないのである。
(つづく)

4648a hope:2014/12/01(月) 10:51:27 ID:cEpBaIdo
>>4647 つづき)

禍(わざわい)を転じて福とするのが日本精神である。
死んでも死なないのが日本人であった。
伊邪那岐命が、その子迦具土神(みこかぐつものかみ)を切り給うたとき、その御刀につきたる血からも、
殺されました迦具土神の頭(こうべ)からも、胸(みむね)からも、腹(みはら)からも、陰(みほと)からも、
左の手からも、右の手からも、左足からも、右足からも、神々が生まれ給うたと『古事記』にある。
日本人にとっては一つの「死」は多くの「生」への始まりであった。
「死」さえも明るく見るのが日本精神であったのだ。

・・・ (中略)・・・

諸君はみんな神の子ではないか、神の子が朗らかに笑うほど自然な行事はないのである。
諸君が明るく笑う時、たちまち諸君の本性たる「神の子」に立ち帰るのである。
諸君が神の子たる本性に帰るとき、明るく朗らかな朗らかな神の子の本来の面目に復帰する時、諸君はもうそのままで自由自裁なのである。

天之岩戸は外にはなく、心で築いたものであるから、心が明るく朗らかなるその本来の面目に帰るとき、
もうそこには天岩戸は消えているのである。
何よりも明るく朗らかに笑うことが自己に宿る無限力を引き出す第一歩である。
「明るく朗らかな神の子が自分である。ああ自分が神の子であることがありがたい。」
今日から、就寝前の一分間と、朝目が覚めたときの一分間とに、こう二十回ほど繰り返して丹田に力を籠めた低声で自分の心に言って聞かせよ。
そして機会あるごとに大笑(たいしょう)せよ。
諸君の運命と健康とはこの言葉の力と笑いの力で日々にその前日よりもいっそう明るく改善されたものとなるであろう。

この一文をもって本章の序章とする。
本書は「生長の家」が昭和九年八月にその本部を東京に移転する以前、阪神間、住吉村の道場で実際にわたしに人生指導を求められた際の対談であり、
掲載の順序は第一章以外は座談の年代順に集めたものである。

著書しるす


感謝 合掌。

4649トキ:2014/12/01(月) 21:56:43 ID:SPm6GZyk
a hope様、誌友会ではお世話になります。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

4650a hope:2014/12/01(月) 23:03:02 ID:cEpBaIdo
>>4648 訂正 

自由自裁→自由自在

4651a hope:2014/12/01(月) 23:05:46 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

今日から、第15巻の人生問答篇に入りたいと思います。
今朝、序章となっている「新生活への出発」の後半部分を謹写させていただきました。

第1章の「家庭争議の解決を語る」を拝読して感じたのですが、
昔の信徒さんというのは本当に「生命の實相」の真理をそのまま家庭生活で実行されていたのですね。

家庭の老人が小言をいうのも「自分の心の影」であり、
「生命の實相」をお友だちが受け取ってくれないのも「自分の心の影」であり、
ご主人の入れ歯を女中が割ったのも「自分の心の影」であると自己反省されることで、
家庭や友人関係を調和させてしまっています。
とても素晴らしい信仰姿勢だと感じました。

拝読していて、本当にうらやましいと思ったのはは、登場されている信徒の方々が、
谷口雅春先生と普通に対話されているということです。
当時は、質問すれば雅春先生から直接お答えがいただけたのですよね。

わたしたちは、もう雅春先生の直接のご指導は受けることはできませんが、
雅春先生が残してくださった聖典はいくらでも拝読することができます。

今回のテキストのように対話形式になっていると、具体的で判り易いですし、
雅春先生に対してとても親近感がわいてきます。

みなさんも、どうそご一緒にお勉強してくださいね!

4652a hope:2014/12/06(土) 00:25:56 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p38 10行目〜

杉野――ところがこの四、五日来憂鬱(ゆううつ)が来ましてねぇ。
理由がわからないで心境が朗らかになれない。
別に原因がないのに心が憂鬱なのです。

そうしますと今まで順序がトントン拍子にいっていた会社の仕事が一時失敗(しくじり)ましたのです。
それは委(まか)してある店の者が不良品を買ったというようなことですが、
わたしの心が朗らかであればこんなことは起らない。

わたしの心が朗らかでないために、それが会社の仕事、店の者の仕事に反映してそういうことが起こったのであります。
実に環境はわが心の影というわけですねぇ。

それがどうしてわたしの心にこういう朗らかでない心境が起ってきたのであるかどうかもわからない。
ところがよくよく反省してみますと四、五日前に『三日会会報』というのが来ました。
それをポケットに入れて電車の中で読んだのであります。

いつでも会社へ往復の電車の中では聖典『生命の實相』を読むようにしていましたのですが
ちょうど『三日会会報』が来たものですから、この雑誌も『生長の家』の分身だと思うものですから、
読んだら真理を知る上に同じ効果があるつもりで読み始めたのですが、
読んでいると『生長の家』と少し違うところがあるような、変な不安な憂鬱な気がしたのです。

なんだかその理論は物質の存在を認めているような、
小我自我(にせもののわれ)の存在を認めているような点がありますので、
読んでいるうちに物質も存在する、現象も存在するというような気がしてきたのです。
(つづく)

4653a hope:2014/12/06(土) 00:30:31 ID:cEpBaIdo

>>4652 a hope所感)

<<この雑誌も『生長の家』の分身だと思うものですから、
読んだら真理を知る上に同じ効果があるつもりで読み始めたのですが、
読んでいると『生長の家』と少し違うところがあるような、変な不安な憂鬱な気がしたのです。
なんだかその理論は物質の存在を認めているような、
小我自我(にせもののわれ)の存在を認めているような点がありますので、
読んでいるうちに物質も存在する、現象も存在するというような気がしてきたのです。>>

わたしは杉野さんが読んだという『三日会会報』というものがどんなものかはまったく知りませんが、
雅宣先生のご文章を拝読していると、わたしはまさに上のような感じがするのです。

確かに、雅宣先生は実相世界の存在をお認めになっていて、実相独在であるということも、
現象世界が「影の世界」であることもそのご文章中に表現されてはいますが、
一方で、本来ないはずの現象世界や罪を犯す現象人間をもあたかも存在するかのように表現されてしまっているので、
わたしはそのように感じてしまうのだと思うのです。

この後に雅春先生の杉野さんの発現へのお返事がありますので、明日謹写したいと思います。

4654a hope:2014/12/06(土) 00:33:08 ID:cEpBaIdo
>>4653訂正
杉野さんの【発現】へのお返事 →杉野さんの【発言】へのお返事

4655a hope:2014/12/06(土) 10:45:03 ID:cEpBaIdo
>>4652 つづき

「生命の實相」第15巻 p39 後から7行目〜

谷口――「ニセ物の我」とか「本物の我」とかいう区別はない。
いずれも真我(ほんもの)の表現だという、偽説に迷いなさるな。

「生長の家で物質は無い、現象界は蜃気楼のように心の影にすぎない」と申しますのは理論や理屈でそう言うのではなく、
実際真理において「物質はない」から無い(○○)と言うのであります。
実相から観て現象は映像(かげ)でるから映像であるというのであります。
そのほかに別に理由はないのであります。

むろん聖典『生命の實相』の中には椽大(てんだい)の筆を揮(ふる)って物質のない理論が詳しく書いてあります。
しかしそれは実相の悟りに導くためにそう書いてあるだけでありまして、
理論がこうだから「物質は無い」と結論するのではありません。

理論は、真実の悟りに導く方便として後から造ったものであって、理論より先に「物質はない」という真説があり、
その真理の啓示を解りやすく納得させるために理論を説いているのであります。

だからその真理に権威があって読んで信ずる人の心に「生命の実相」を悟らせ、自由自在の心境に達せしめ、
その副作用として医術難治の痼疾(こしつ)でもズンズン治る例がたくさんあるのであります。

むろん、理論はどうにでもつけられる。
「物質は有る」とでも「ニセ物の我こそは本当の我である」とでもどうにでもつけられます。
そしてその理論を信じたい者は信ずることができます。
それを信ずることも自由であります。

しかし、そういう理論を信じますと、信じなくとも多少在来の信念に動揺を来(きた)しますと、
「物質がある」という自己の信念の結果、物質によって自分自身が自縄自縛(じじょうじばく)せられることになり、
先の自由自在の心境が不自由な心境になり、不完全なる「ニセ物の我」を真我(ほんもの)の一顕現として肯定する結果、
不完全な状態が自分の世界にいっそう多く顕れて来、今までトントン拍子にいっていたことがトントン拍子にゆかなくなるのであります。
(つづく)

4656a hope:2014/12/06(土) 10:47:37 ID:cEpBaIdo
>>4655 つづき)

われわれが五官で物質を観、現象を観、それに立脚していろいろ複雑な理論を作りあげて、
物質もある、現象もあると肯定するのはいともやさしいことなのであります。
科学者はみんなそれをやっている。

しかし実相覚で「物質は無い」というのは理屈ではないのです。
誰でも頭の善さを信じて理屈で真理に這入ってゆこうとして理屈をますます複雑にし、
「物質は無い」と単純に承認すればよい所を、
「物質は無いと有るとを超越したところの有るである」と無理に複雑化して言ったり、
「ニセ物の我は無い」と単純に否定すればよいところを「ニセ物の自分も真我(ほんもの)の一顕現として実在である」
などと複雑に言っていられると、いつのまにかその人は物質があるやらないやら、
自分自身で言っていながらわからなくなるのです。
(つづく)

4657a hope:2014/12/06(土) 10:51:36 ID:cEpBaIdo

>>4655 >>4656 a hope所感)

次に、雅宣先生の「次世代への決断」の『大地震は〝神のはからい〝 か?』p82から雅宣先生のご文章を一部ご紹介させていただきます。

<<・・・しかし、その一方で、生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。
この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、
地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。
そうすると「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。
しかし、その場合、自然界の法則によるのは、「百年に一回起こる大地震」だけではなく、
「九十九年間は大地震が起こらない」状態も当然含むのだから、「九十九年間の地殻の安定は神がもたらす」ということも同時に言わなくてはならない。
なぜなら、〝法則としての神〝 は人間にとって悪いことだけをもたらすのではなく、良いこと、ありがたいことも、常にもたらしているからだ。・・・>>p86 3行目〜
(一部分だけの紹介をお許しください。)


みなさんは、この雅宣先生のご文章を読まれて混乱されませんか?

ここにある「物理学や化学の法則」または「自然界の法則」とは地殻変動等を起す「物質世界の法則」のことなのだと思いますが、
雅宣先生は<<「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。>>
とお答えになってしまっているのです。

要するに、物質世界を神の創造であると複雑な表現ではありますが、認めてしまっておられるのです。(二元論)

物質世界(現象世界)は実相世界が屈折されて投影された映像であり、本来無いものであり、
決して神の創造ではありませんよね?

わたしが理解している「神の法則」は「神への中心帰一の法則」です。
「神の法則」が完全に顕われている「実相世界」は久遠の今であり、人間に不幸をもたらすような不安定は存在しない、
常に安定だけをもたらす、完全円満な理想世界だと信じています。


みなさま、わたしの解釈に間違いがあれば、どうそご指摘ご指導をよろしくお願いいたします。

4659トキ:2014/12/06(土) 19:39:28 ID:0iMHaNvk
>>4657

a hope さま

 総裁のご文章は、すごく分かりにくい文章ですが、総裁の言いたい事はこういう事でしょうか。

>>生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」

 というところから、いきなり、

「物理学や化学の法則も、法則とある以上は、神様が作ったものである。」

として、次に、

「地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則に基づくものである。」

とあるから、

>>「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。

という結論に至る、という解釈かしら?

(つづく)

4660トキ:2014/12/06(土) 19:47:53 ID:0iMHaNvk
 私個人の解釈では、

>>生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」

というのは、もともと、「心の法則」を説明する時に使う説明です。

 同じ「法則」でも、物理や化学の「法則」は現象世界の問題と理解します。

 百歩譲って、法則が神様が作ったとしても、その法則を使うのは、神様では
ありません。以前、Winyというソフトを作った人が逮捕されましたが、使った
人には責任はあるが、作った人には責任がないと無罪になりました。それと同じ
で、法則を作った事から、その法則が作動する行動や言動(かりにこういう
表現を使いますが)をした人と、法則を作った(?)人とは、別の存在です。

 この総裁のご文章は彼個人の自然観を説明するための文章ではありますが、
生長の家の信仰を伝えるものではない、といえます。

4661SAKURA:2014/12/06(土) 23:11:50 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。

「トキ様」「a hope様」へ……横スレにて…失礼いたします…。

■□ 『小櫻姫物語』からなのですが??
その中から「橘姫さまのお話」――>入水についてのお話で。。。詳しくは、
【 四十一、海神の怒り 】の内容から………
時代背景と致しましては……重複しますでしょうが?
「神武天皇のお后さまの入水の事」からでも思いますには、
やはり『人・霊』から来る事もあるようですし………

■【地・震】は?やはり『神の法則』から来る事もありますでしょうし……?
更に……
『人間の念』からでも、来す事もある事ではと思う次第です。

■□『小櫻姫物語』の中から……(具体的投稿文…抜粋)
「小櫻姫様の指導霊のお爺様」の“言・葉”からの抜粋なのです。

>>■橘姫の御物語は一と先ずこれにて打ち切りといたしますが、ただ私とし
て、ちっとここで申添えて置きたいと思いますのは、海神の怒りの件でござい
ます。大和武尊さまのような、あんな御立派なお方が、何故なれば海神の怒り
を買われたか?――これは恐らくどなたも御不審の点かと存じまするが、実
は私もこれにつきて、指導役のお爺さんにその訳を伺ったことがあるのでご
ざいます。その時お爺さんは斯う答えられました。――

『それは斯ういう次第じゃ。すべて物には表と裏とがある。命が日本国にとり
て並びなき大恩人であることはいうまでもなけれど、しかし殺された賊徒の身
になって見れば、命ほど、世にも憎いものはない。命の手にかかって滅ぼさ
れた賊徒の数は何万とも知れぬ。で、それ等が一団の怨靈となって隙を窺
い、たまたま心よからぬ海神の援けを獲て、あんな稀有の暴風雨を巻き起し
たのじゃ。

あれは人霊のみでできる仕業でなく、又海神のみであったら、よもやあれほど
のいたずらはせなかったであろう。たまたま斯うした二つの力が合致したれば
こそ、あのような災難が急に降って湧いたのじゃ。

当時の橘姫にはもとよりそうした詳しい事情の判ろう筈もない。姫があれを
ただ海神の怒りとのみ感じたのはいささか間違って居るが、それはそうとして、

あの場合の姫の心胸にはまことに涙ぐましい真剣さが宿っていた。
あれほど真心が何ですぐ神々の御胸に通ぜぬことがあろう。それが通じたれば
こそ大和武尊には無事に、あの災難を切りぬけることが出来たのじゃ。
橘姫は矢張り稀に見るすぐれた御方じゃ。』

 私はこの説明が果してすべてを尽しているか否かは存じませぬ。ただ皆さ
まの御参考までに、私の伺ったところを附け加えて置くだけでございます。<<

上記を投稿させて頂きましたが……
『人間の念…想念感情』からと…考えられますのでは??
皆様も御存知の■【源氏物語…蒼い君】…にでも伺えますかと…思うのです。

最後に…「霊の世界」へ持って行けますモノとは『物質』はできませんが〜〜〜
『想念感情』は持って行けるモノ…これだけは断言できますでしょうか??

         ❤〜SAKURA

4662a hope:2014/12/07(日) 00:18:41 ID:cEpBaIdo

トキさま 

お返事をありがとうございます。 合掌。

(トキさまのご発言)『生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」
というのは、もともと、「心の法則」を説明する時に使う説明です。』

ですが「神の法則」とは現象人間の偽我による「心の法則」のことではないですよね?

わたしは現象人間の過去に犯した罪や迷いが「心の法則」によって現れるのが自壊作用なのではないかと理解していますが、
この「神の法則」とは「心の法則」でも、実相世界の展開のことなのだと思うのですが・・・。

わたしは、現象世界の法則であっても、その法則が人間の迷いや罪によって屈折することなく実相世界からそのまま真っ直ぐに投影されていれば、
すべてが大調和して現れると思うのです。
ですから、地震などの天変地異などによって現象人間が被害を受けて見えてしまうのは、
現象人間の過去の迷いが消えるための自壊作用なのではないかと思っています。
たしか、雅春先生は、「津波は流産児の涙である」と言われたのですよね?
(今、大熊先生が「赤ちゃんの命を守る運動」を頑張って展開してくださっていますが・・・)

ですから雅宣先生の<<地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。>>
というお考えにはすごく違和感があります。

なぜなら、「甘露の法雨」にも、
「神があらわるればすなわち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、
乏しきものなし。」
とあるように、神があらわれれば地震などという人間を苦しめるような不調和な事態は起きないのが真理だとわたしは信じているからです。

それに、天変地異も戦争も不慮の事故も病気もすべて現象世界の出来事ですから、すべては影であり実在ではないわけですから、
たとえ何が起っても、わたしたち「生長の家の教え」を信仰しているものは実相世界の完全円満さを信じることができるわけですから、
わたしたちは本当に幸せだと思います。


(トキさまのご発言)『 この総裁のご文章は彼個人の自然観を説明するための文章ではありますが、生長の家の信仰を伝えるものではない、といえます。 』

トキさまがハッキリと、「生長の家の信仰を伝えるものではない」と否定して下さっていて「ホッ」としました。

雅宣先生のご文章を拝見していて感じることは、雅宣先生は「生長の家の教え」の概要は頭では理解されているようですが、
「生長の家」の信仰はされていないのではないかということです。(純子先生にも同じことを感じます。)

だって、お二人のFBにも、ブログにも、神想観をしているとか、聖典を拝読しているとか、愛行をしているとかそういうお話はほとんど出てきませんものね。

わたしの感じていることが間違いだったら心からお詫びいたしますが、もしそれが当たっていたとしたら、
そのお二人が「生長の家」の頂点に立つ総裁・副総裁をされているというのはとても不思議なことですね。

4663a hope:2014/12/07(日) 00:33:36 ID:cEpBaIdo
>>4661SAKURAさま

web誌友会ご参加ありがとうございます。 合掌。
今夜は遅いので、また明日お返事させていただきますね。

4664志恩:2014/12/07(日) 05:39:31 ID:.QY5jUA6
a hope様

トキ様、SAKURA様が、コメントされてましたが、大熊良樹先生も ブログに、
この事に関する 生長の家の教えから 観られた コメント を載せておられましたので,転載させて頂きます。
……………………………………….
大熊良樹先生のブログより

📈【 地震は地球の 感情座の異変】📉 平成26年19月9日

▽いのちはひとつであり。。互いに影響 し合っている のである。
それは、人間の関係 においてもそうであるし・・(自他一体であるという事である)
自然(地球)と人間も同じ関係にある。

自然災害について、思う事があります。結果には 必ず原因があり、そこには 必ず法則が 働いています。
 法則自体は「悪」では ありません。。
現象顕現の法則は、「現れ」即「洗われ」として、 浄化の働きを 持つのであります。。
現象は、諸行無常であり、「出たら」(かたちになったら)「消える」(無くなる)のです。
一定のエネルギーがたまると 抑えられたエネルギーは、容量を越えると、機会(縁に触れて)をえて「発露(顕現)」するのが法則であります。

しかし、なに(原因)に対して、なに(結果)が起こるか、法則に照らして、知ること わかること(理解すること)は、 災難を回避するための、
重要な智慧であると思います。。。

▽昭和52年刊行の「如意自在の生活365章」(日本教文社)p45にて、
谷口雅春先生は、天変地異 について こう説かれています。

地球もまた生命体であるから、人間とひとつであり、(「人間は「体」の面から見ると地球より 発生した「地球の子」みたいな
ものであるから」【本文引用】と表現されています。。)

原爆水爆など 地殻実験したり、地球を汚し貶めると)人間の想念感情が乱れたりすると、(また人間同士で貶め合うと)
地球の内層にある霊体・幽体・エーテル体 等に損傷をうけて、
(地球からまた)人間感情に影響を与えたり、噴火 地震などの天変地異という 現象となるという内容である。。。
 (あい呼応してしまう・・という事である)

まさに人と地球は ひとついのちであり 強くつながっているのだ。
地震は周期的に起こるだろうが、起きるタイミング。 人時処、三相応が重大である。。。
同じ地震 といっても・・ 地震の起こる場所で規模で タイプで、津波が起こるか 起こらないが決まる。
また、住宅の 建てる高さ海抜、位置。に寄って被害が変わる。。

朝か、昼か、夜か、いつ起こるかで・・被害も変わる。。
人間の想念感情 ということでいえば・・先祖が津波は ここまで来るぞ、と書いて石碑で残しているのにも関わらず、
無視して・・・千年に一度の災害が 来るものですか・・と、国民を代表する国会議員が震災直前に 言ったりする。。
われわれは、大いに「神」に「先人」に 御先祖様の声に・・・大自然の声に耳を 傾けなければ成らないと思うのであります。。

何々したから これこれが起こった・・   というのは光明思想 ではありません。(天罰思想と いうのでしょうか・・)

神は愛であり、裁きや試練など  一切与え給わないので  あります。逆であります。これこれを大事に しなさいという愛の教訓。
これを大事にしたら幸福になれますよ・・ という「幸福への鍵」。
幸福人生への重大ヒントともいえる・・     

大切な教えが  暗示されているのが  現象なのであります。これを「心象」といいます。 
われらはなお一層、真摯に声なき声に耳を傾けて「心象」たる「現象」から、 如何に生きてゆくべきか  学んでゆかねばなりません。
中絶をこのまま赦し続けて、尊き赤ちゃんのいのちを 見殺しにし続けるのならば、いくら上っ面の「国際平和」を祈り、
(深層に根差した祈りとは  いのちを礼拝する祈りである。)

「自然保護運動」を展開しようとも、

 (現象は心の影であり、 いのちを礼拝するところから自然が整う。)

 それは「空念仏」であり、 本末転倒となるのであります。

そういう「正中」(御意)を外した祈りなき信仰者は私の周囲にはいませんが・・。この事は実に大切なことであります。

4665志恩:2014/12/07(日) 05:43:58 ID:.QY5jUA6
4664: 平成26年19月9日 ➡平成26年10月9日に訂正

4666志恩:2014/12/07(日) 07:53:44 ID:.QY5jUA6
「法則」(ルール)について

雅宣総裁が語られる「物理学や化学の法則」というのは、人間が作り上げた 地球でしか通用しない「地球の法則」
と,私は受け取っております。

一方、谷口雅春先生が説かれた「心の法則」とは、雅宣総裁が言われる
「地球の法則」を“超越した“ “人智を超えた“高級霊界に導かれている「宇宙の法則」だと思っております。

ともかく、いま地球は 大激変中のようですね...、それに伴って、それに連動するかたちで、生長の家も 大激変中のようです。

前に、縹様が詳しく教えて下さいましたが、
雅春先生の神示や、様々な預言に書かれてある通り、 今、われわれは、新しい時代の潮流「宇宙の法則,心の法則」の時代へ と
大きく舵を切ろうとしている転換期の時代のところに 差し掛かっていて、そういう時代に ご一緒に 生きている….。

そして、本来の生長の家の「心の法則」とは、
雅宣総裁が、今、語られておられるような1000人のうち、5人が、理解出来るかどうかも分からないというような
「複雑」「難解」な法則ではなく、創始者であられる雅春先生が説かれておられた法則は、もっともっと「単純」な法則なのでは?

この法則で生きれば、都会に生きようが、森で生きようが、どこで生きようが、どこのどなたでも 大安心の気持ちで生きられる 平易な心の法則です。

このような 元の教えの 心の法則を 確信し、実践さえすれば、

「束縛」➡「自由」
「不公平」➡「公平」
「ムダ・ムラ・ムリ」➡「効率」
「短所是正」➡「長所進展」…..の世界が、宇宙に通用する永遠の法則なのですから、自ずから展開しだすと思います。

「心の法則」ではなく、
雅宣総裁のお立場に立ち、雅宣総裁の説かれる、「地球の法則」の お考えに照合した考え方をしてみますと、正しいことを仰っている。

《人間の文明がこれまで築いてきた社会システムや考え方のために、地球環境は今、大変な危機に直面していること、
それらの危機の原因を作ったのは、人間のエゴと嫉妬心が産み出したことだ。》

この雅宣総裁の これらの考え方は、「地球の理・法則」なのですが、「地球の理・法則」とは、人類が作り上げた、地球でしか通用しない法則のことですから。
もうすぐ通用しなくなりそうですよ。

そして、ここ10年の間に、このような雅宣総裁の考え方は急速に勢いをなくしつつあるように思います。
いま幸せに生きている人たちは、ほとんどが「宇宙の理・心の法則」に従って生きようとしている人たちだからです。

「地球の理・法則」を、
雅宣総裁が、音頭をとって、主張されてる事と,裏腹に、生長の家の教団内部の組織自体が、エゴに支配された閉鎖的な空間になっている、
そのエゴの法則に支配された組織になってしまって、教団全体が、こんなに凋落しているのは、どういうわけでしょう。

このことを1つとっても、このお考えが 
人類を幸福にするものとは、正反対である 誤った一時的な法則である事が、理解出来るではありませんか。

一方、これと対極に位置するのが、雅春先生が説かれた「宇宙の理である心の法則」であると存じますが、

こちらの方が、開放的で共生と融和を基礎にした永遠の法則のようです。

なるべく早く、元の教えであるこちらに変わるのが正しいと思われます。これは「全宇宙で通用しているルール」で、開放系のルールですから。

4667a hope:2014/12/07(日) 10:09:47 ID:cEpBaIdo

>>4661 SAKURAさま

『小櫻姫物語』の興味深いご文章を紹介してくださりありがとうございます。
志恩さまご紹介の>>4664の大熊先生のご文章にも『「地球」が「人間の感情想念」にあい呼応してしまう』という内容があります。
SAKURAさまのご紹介してくださって文章の内容となんとなく似ていると感じました。

以前、このweb誌友会でも、『「人類意識」と大きな災害の関係』の内容を学んだ気がしています。
後で探して、復習してみますね。

SAKURAさまのご参加とても嬉しです。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。 合掌。

4668a hope:2014/12/07(日) 10:12:05 ID:cEpBaIdo
>>4664 志恩さま

大熊先生の貴重なご文章を探し転載してくださりありがとうございます。
このご文章は、赤ちゃんの命を含めた個人の命(魂)の救済をおろそかにしている現教団への警告のようにもとれますね。

<< (現象は心の影であり、 いのちを礼拝するところから自然が整う。)>>

この言葉が「どーん」と心に響きました。



また、>>4666では「法則」についての素晴らしいご指導をありがとうございます。

わたしは、雅宣先生は「生長の家の教え」は小さいころから学ばれていたでしょうから、
頭では十分理解されているのではないかと思うのです。

ですが、現象の問題を見つめられすぎて、そのことに捉われてしまわれた。
そこで、「現象は本来無い」と理屈ではわかっていても、現象的な「地球の理・法則」を重視され、
どうしても現象処理的な運動をされてしまうのだと思うのです。

でも、それは志恩さまがおっしゃるように、雅春先生が説かれた「宇宙の理である心の法則」とは、
まったく別物ですよね。

雅宣先生が一日もはやく、本来の「生長の家」の教えの素晴らしさを思い出して下さることを祈っています。

4669a hope:2014/12/07(日) 10:16:06 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます!

今朝、大熊先生のブログへ行きましたら新しyou-tube が紹介されていましたのでご紹介させていただきます。

https://www.youtube.com/watch?v=9pmz3jbNI8E&feature=youtu.be&list=UU72N5dUOwviUHUlBGtmU92w
↑「いのちを守る親の会」大熊理事長の情熱溢れる文書「退職の辞」公開!!( 2014/12/06 公開)

4670トキ:2014/12/07(日) 20:54:46 ID:PIBoJmSc
a hope 様

 コメント、ありがとうございました。

 遠出をしていましたので、ただいま帰りました。お返事遅れてごめんなさい。


 最初に谷口雅春先生のご著書、「人間そのものの発見とその自覚」という聖典
を拝読させていただきます。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------

「人類の運命を決するもの」という題で話すことになっております。「人類の運命を決す
るもの」という題を話すについては、運命とはなんぞやということを話さなければならな
いと思います。運を天に任せるなんていう言葉がありますが、運という字はめぐるという
字が書いてあるのであります。運というのは誰か神様から強制的に吾々に割り当てられた
ところの宿命というものではないのであります。「因果はめぐる」なんていう諺がありま
すように、原因、結果の法則によって、その原因が結果となり、その結果がまた新たなる
原因を作って循環してゆくことになっているのであります。

 従って、いいことをしたらきっといいことが出てくる。悪いことをしたらきっと悪いこ
とが出てくる。人を憎めば憎まれる。奪えば奪われる、というところのその根本的な
「因果の法則」というものがあるのであります。その「因果の法則」をまた「業の法則」
とも言います。或いは「心の法則」ともいうのであります。吾々個人も、その運命とい
うものを自分がつくってその結果を穫り取るのでありますが、「大体、個人の運命とい
うものは決まっているか」と言うて訊く人がありますが、大体、生まれた時にその運命
の三分の一は決まっているのであります。

 それは、何故、決まっているかというと、これは神様が与えたんじゃなくて、吾々は
何回もこの世に生まれ更わってきているのでありますから、過去に、生まれ更わる間に
積み重ねてきたところの業の蓄積によって決まっているのであります。

(p198より謹写)

(つづく)

4671トキ:2014/12/07(日) 21:23:10 ID:PIBoJmSc
 谷口雅春先生の教えで、「神」と「法則」の言葉が出てきた場合は、いわゆる
「縦の真理」で言及される場合もあれば、「横の真理」で言及される場合もあり
ます。

 例えば、聖経 続々甘露の法雨の中にある、

 「神の子 人間」の上には、神の法則のみ支配す。

とあるのは、縦の真理と理解するのが普通でしょう。一般論として使う場合は、
「神」と「法則」が出てきた場合、大半は「縦の真理」で理解すべきです。

 ただし、「心の法則」での説明と理解すべきあと思われる場合もあります。

「人間そのものの発見とその自覚」(谷口雅春先生著)のP210にある、
「法則としての神と個別的人格としての神」というくだりは、横の真理と解釈する
のべきだと私は解釈しています。

 「神は法則である」という言葉が、生長の家の講演などで使われる場合は、だいたい
「不昧因果」(ふまいいんが) に近い意味に使われています。「神は法則である」と
出たら、だいたい、「だから、えこひいきしない」という言葉が続くのが普通です。もっとも
これは繰り返しますが、私個人の理解ですが。

 特に、総裁がこの二つの言葉を

>>「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」

という理論を正当化する根拠に使ったなら、これは「横の真理」の例えとして使ったとしか
考えられないからです。(「縦の真理」だと、これは疑問の余地なく間違いになります。)

 以上、ご説明申し上げました。

 さて、誌友会に戻ります。

(つづく)

4672トキ:2014/12/07(日) 21:43:12 ID:PIBoJmSc

 さて、生命の実相第15巻の95pに谷口雅春先生が

 「心で心が治せないというのは「迷いの心」で「迷いの心」が治せるはずが
ないということなんでしょう。「迷いの心」でいくら力んでみても「迷いの心」
は治せません。「迷いの心」を治すのは、「真理を知った心」のみです。

とあり、「迷いを治すのは真理のみです」と書かれています。

 ほんとうの真理を知ることの大切さを痛感する次第であります。

4673a hope:2014/12/08(月) 00:08:39 ID:cEpBaIdo

>>4670 >>4671トキさま

「心の法則」と「神」に関するご説明をありがとうございます。
とてもよく理解できました。合掌。

たしか「不昧因果」(ふまいいんが)という言葉は、以前トーキングスティックボードで復興Gさまが、
「百丈野狐」のお話をしてくださった時にお勉強したのを思い出しました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/154
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/159

少し難しいお話だと感じましたが、雅春先生のご解釈が深くて感動したのを覚えています。


<<「人間そのものの発見とその自覚」(谷口雅春先生著)のP210にある、
「法則としての神と個別的人格としての神」というくだりは、横の真理と解釈する
のべきだと私は解釈しています。>>

「人間そのものの発見とその自覚」というタイトルの聖典もあるのですね。
雅春先生はいろんな角度から真理を説いて下さっていますが、わたしは今まで雅春先生の聖典を拝読していて、
矛盾を感じたり混乱したりしたことは一度もありません。
それは、本当に「神さまのお言葉」なんだからだと感じています。


ところで、先日>>4656で謹写した部分の最後の一文が抜け落ちていたので半分だけ再掲させていただきます。

―――――――――――――
p40 後から3行〜
われわれが五官で物質を観、現象を観、それに立脚していろいろ複雑な理論を作りあげて、
物質もある、現象もあると肯定するのはいともやさしいことなのであります。
科学者はみんなそれをやっている。

しかし実相覚で「物質は無い」というのは理屈ではないのです。
誰でも頭の善さを信じて理屈で真理に這入ってゆこうとして理屈をますます複雑にし、
「物質は無い」と単純に承認すればよい所を、
「物質は無いと有るとを超越したところの有るである」と無理に複雑化して言ったり、
「ニセ物の我は無い」と単純に否定すればよいところを「ニセ物の自分も真我(ほんもの)の一顕現として実在である」
などと複雑に言っていられると、いつのまにかその人は物質があるやらないやら、
自分自身で言っていながらわからなくなるのです。
理屈は迷わせるのです。

―――――――――――――――――――

抜け落ちていたのは「理屈は迷わせるのです。」という最後の一文ですが、
雅宣先生のご文章は、本当にこの理屈が多いようにわたしは感じています。

4674志恩:2014/12/08(月) 09:29:46 ID:.QY5jUA6
a hopeさんは、他の掲示板はご覧になってないそうですが、「愛国」本流掲示板にa hopeさんのご発言が転載され、それに対するコメントも書かれてありましたのでご紹介します。

雅宣先生の「次世代への決断」の『大地震は〝神のはからい〝 か?』に混乱・・・ (5593)
日時:2014年12月06日 (土) 12時23分
名前:きんき

トキ掲示板より

a hope:2014/12/06(土) 10:51:36 ID:cEpBaIdo
>>4655 >>4656 a hope所感)

次に、雅宣先生の「次世代への決断」の『大地震は〝神のはからい〝 か?』p82から雅宣先生のご文章を一部ご紹介させていただきます。

<<・・・しかし、その一方で、生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。
この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、
地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。
そうすると「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。
しかし、その場合、自然界の法則によるのは、「百年に一回起こる大地震」だけではなく、
「九十九年間は大地震が起こらない」状態も当然含むのだから、「九十九年間の地殻の安定は神がもたらす」ということも同時に言わなくてはならない。
なぜなら、〝法則としての神〝 は人間にとって悪いことだけをもたらすのではなく、良いこと、ありがたいことも、常にもたらしているからだ。・・・>>p86 3行目〜
(一部分だけの紹介をお許しください。)

みなさんは、この雅宣先生のご文章を読まれて混乱されませんか?

ここにある「物理学や化学の法則」または「自然界の法則」とは地殻変動等を起す「物質世界の法則」のことなのだと思いますが、
雅宣先生は<<「地震などの天変地異は神がもたらすのか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。>>
とお答えになってしまっているのです。

要するに、物質世界を神の創造であると複雑な表現ではありますが、認めてしまっておられるのです。(二元論)

物質世界(現象世界)は実相世界が屈折されて投影された映像であり、本来無いものであり、
決して神の創造ではありませんよね?

わたしが理解している「神の法則」は「神への中心帰一の法則」です。
「神の法則」が完全に顕われている「実相世界」は久遠の今であり、人間に不幸をもたらすような不安定は存在しない、
常に安定だけをもたらす、完全円満な理想世界だと信じています。

みなさま、わたしの解釈に間違いがあれば、どうそご指摘ご指導をよろしくお願いいたします。

……………………………………………………………………

おいおい、「物理学や化学の法則」が「神」かよ。 (5599)
日時:2014年12月07日 (日) 11時48分
名前:講師会長やめました。

>地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから<

>地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。<

おいおい、「物理学や化学の法則」が「神」かよ。

科学万能は「唯物論」だよ。

霊の法則が抜けているよ。すなわち、「愛の法則」ダ。


さては、講師試験、受けていないな?この人は。

a hopeさんの言われる通りですね。

4675a hope:2014/12/08(月) 11:55:04 ID:cEpBaIdo

>>4674 志恩さま

愛国掲示板の記事をご紹介くださりありがとうございます。
わたしは生長の家関係の掲示板は、すべて拝読はしませんが目を通すようにしていますので、
時々、わたしの投稿を紹介してくださっている方がいるのは知っていました。

今回は、「講師会長やめました。」さんが、わたしの投稿に賛同してくださるコメントをくださっていて心から感謝しています。 合掌。

他の雅宣先生の講習会での質疑応答の内容や、組織板でトキさまが教えて下さった教団の来年度の方針などを拝見してしると、
現教団がおおきく真理から外れて、迷走している様子がハッキリと伝わってきます。

なぜ、この様なことが起こっているのかわかりませんが、わたしはたとえ一人になっても「生命の實相」を学び続け、、
正しい「生長の家」の信仰を続けていきたいと思っています。

4676SAKURA:2014/12/08(月) 19:52:07 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。

>> 4667 「a hope」様 お返事ありがとうございました…。「感・謝」……

昨日…横スレにて…投稿させて頂きました中に…『霊の世界』……
■「小桜姫物語」の引用を…投稿させて頂きました…。
(尚!この著者は、「創立者 谷口雅春先生」とも関連されました方かと思います…。)

尚!重複しますが…下記が詳細投稿の記事(フェイス・ブック)からの抜粋投稿と……
させて頂きます…。此処で…討論されていましたところの
『地震』に関しての話題は〜〜〜『神が与えたもうか?』…
この件の参考になればと…個人的なる解釈として詳細投稿させて頂きます…。
↓↓
              つづく
                     ❤〜SAKURA

4677SAKURA:2014/12/08(月) 19:54:36 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。
>>4676投稿の続きです。

■―― 霊界通信 ――■  −その63− 
「小桜姫物語」 浅野和三郎 著  (転載編) ―その1―
    ―― 【 四十一、海神の怒り  】 ―― 
――――――――――――――――――――――――――――――

■私が伺った橘姫のお物語の中には、まだいろいろお伝えしたいことがございますが、とても一度に
語りつくすことはできませぬ。

何れ又良い機会(おり)がありましたら改めてお漏しすることとして、ただあの走水の海の御入水遊ば
されたお話だけは、何うあっても省く訳にはまいりますまい。あれこそはひとりこの御夫婦の御一代を
飾る、尤も美しい事績であるばかりでなく、又日本の歴史の中での飛び切りの美談と存じます。

私は成るべく姫のお言葉そのままをお取次するRことに致します。

『わたくし達が海辺に降り立ったのはまだ朝の間のことでございました。風が少し吹いて居りましたが、
空には一点の雲もなく、五六里もあろうかと思わる広い内海(いりうみ)の彼方には、総の国の低い
山々が絵のようにぽっかり浮んで居りました。

その時の私達の人数はいつもより小勢(こせい)で、かれこれ四五十名も居ったでございましょうか。
仕立てた船は二艘、どちらも堅牢な新船でございました。

『一同が今日の良き船出を寿(ことほ)ぎ合ったのもほんの束の間、やや一里ばかりも陸へ離れた
覚しき頃から、天候が俄かに不穏の模様に変って了いました。西北の空からどっと吹き寄せる疾風、
見る見る船はグルリと向きをかえ、人々は滝なす飛沫を一ぱいに浴びました。
それにあの時の空模様の怪しさ、赭黒い雲の峰が、右から左からも、もくもくと群がり出でて満天に
折り重なり、四辺(あたり)はさながら真夜中のような暗さに鎖されたと思う間もなく、白刃を植えた
ような稲妻が絶間なくなく雲間に閃き、それにつれてどっと降りしきる大粒の雨は、さながら礫
(つぶて)のように人々の面を打ちました。

わが君をはじめ、一同はしきりに舟子達(かこたち)を励まして、暴れ狂う風浪と闘いましたが、
やがて両三人は波に呑まれ、残余(のこり)は力つきて船底に倒れ、船はいつ覆るか判らなくなり
ました。すべてはものの半刻(はんとき)と経たぬ、ほんの僅かの間のことでございました。

『かかる場合にのぞみて、人間の依むところはただ神業ばかり……。私は一心不乱に、神様にお祈祷
(いのり)をかけました。船のはげしき動揺につれて、幾度となく投げ出さるる私の躯――それでも
私はその都度起き上りて、手を合せて、熱心に祈りつづけました。と、、忽ち私の耳にはっきりとした

一つの囁き、『これは海神の怒り……今日限り命の生命を奪る……。』
覚えずはっとして現実(うつし)にかえれば、耳に入るはただすさまじき波の音、風の叫び――が、
精神(こころ)を鎮めると又もや怪しき囁きがはっきりと耳に聞こえてまいります……。


『二度、三度、五度……幾度くりかえしてもこれに間違のないことが判った時に、私はすべてを
命に打ち明けました。命は日頃の、あの雄々しい御気性とて「何んの愚かなこと!」とただ一言に
打ち消して了われましたが、ただいかにしても打ち消し得ないのは、いつまでも私の耳にきこゆる
あの不思議の囁きでございました。

私はとうとう一存で、神様にお縋りしました。
「命は御国にとりてかけがえない、大切の御身の上……何卒この数ならぬ女の生命を以て
命の御生命にかえさせ玉え……」

二度、三度この祈りを繰りかえして居る内に、私の胸に年来の命の御情思(おんなさけ)が
こみあげて、私の両眼からは涙が滝のように溢れました。一首の歌が自ずと私の口を突いて
出たのもその時でございます。真嶺刺(さねさ)し、相模の小野に、燃ゆる火の、火中に立ち
て、問いし君はも……。

『右の歌を歌い終ると共に、いつしか私の躯は荒れ狂う波間に跳(おど)って居りました、
その時ちらと拝したわが君のはっと愕かれた御面影――それが現世での見納めでございました。』

― その2 ―に続く
❤〜SAKURA

4678SAKURA:2014/12/08(月) 19:56:51 ID:???
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。
>>4676>>4677の投稿の続きです。

■―― 霊界通信 ――■  −その63− 
「小桜姫物語」 浅野和三郎 著  (転載編) ―その2―

    ―― 【 四十一、海神の怒り  】 ―― 
――――――――――――――――――――――――――――――

■橘姫の御物語は一と先ずこれにて打ち切りといたしますが、ただ私として、ちっとここで申添えて
置きたいと思いますのは、海神の怒りの件でございます。大和武尊さまのような、あんな御立派な
お方が、何故なれば海神の怒りを買われたか?――これは恐らくどなたも御不審の点かと存じまするが、
実は私もこれにつきて、指導役のお爺さんにその訳を伺ったことがあるのでございます。
その時お爺さんは斯う答えられました。――

『それは斯ういう次第じゃ。すべて物には表と裏とがある。命が日本国にとりて並びなき大恩人である
ことはいうまでもなけれど、しかし殺された賊徒の身になって見れば、命ほど、世にも憎いものはない。
命の手にかかって滅ぼされた賊徒の数は何万とも知れぬ。で、それ等が一団の怨靈となって隙を窺い、
たまたま心よからぬ海神の援けを獲て、あんな稀有の暴風雨を巻き起したのじゃ。

あれは人霊のみでできる仕業でなく、又海神のみであったら、よもやあれほどのいたずらはせなかった
であろう。たまたま斯うした二つの力が合致したればこそ、あのような災難が急に降って湧いたのじゃ。

当時の橘姫にはもとよりそうした詳しい事情の判ろう筈もない。
姫があれをただ海神の怒りとのみ感じたのはいささか間違って居るが、それはそうとして、

あの場合の姫の心胸にはまことに涙ぐましい真剣さが宿っていた。あれほど真心が何ですぐ神々の
御胸に通ぜぬことがあろう。それが通じたればこそ大和武尊には無事に、あの災難を切りぬけることが
出来たのじゃ。橘姫は矢張り稀に見るすぐれた御方じゃ。』

 私はこの説明が果してすべてを尽しているか否かは存じませぬ。ただ皆さまの御参考までに、
私の伺ったところを附け加えて置くだけでございます。

                  つづく
❤〜SAKURA

4679SAKURA:2014/12/08(月) 20:00:19 ID:???
「トキ様」 へ 「a hope様」 へ 「観覧者の皆様」へ 
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜す。
>>4676>>4677>>4678 の投稿の続きです。

>> 4667 「a hope」様 お返事ありがとうございました…。「感・謝」……

私の申し伝えたい事は…
■【人間の念!〜〜思念!〜〜〜】つまり人間は肉体人間ではなく…
生命そのもの…つまり!霊的のモノ――>すべて「霊的人間」とは???
【心…】から来るものではないのでしょうか・『心の法則』

ですから〜〜〜

■□「地震・災難」とか?その他の場合は、やはり!
■「霊・界」でも軌道修正は、なされている様です。…が?――>『レイヌのお話』より!
(生命の実相に記載されています。)それが〜〜〜悲しいかな?
『念!〜〜思念!〜〜“心の世界感”が〜〜〜悪の方へ傾いた場合』は、
しかもかなりの【悪・念…】がきたす時は、さすがに「霊・界」でも……
やはり「軌道修正は出来ないとの事」を【生命の実相】でも書かれていました。
…が?【地・震】も〜〜〜「念…想念感情」から?起こりうる事と〜〜〜

そうしますと、現状…【生長の家】は、唯!
全面的に【エコ運動】中心を打ち出している中身ですから『心・の・法・則』は……
都合のいい解釈論で云っているように思います。

本当に!『心が豊かになる!!』のは〜〜〜【物からの“唯物論”の展開】に
どうしても見えて致し方ありません。

■今!の【生長の家】は夜の世界=水物中心とか?このように見えてしまいます。
色々な方の情報を収集しましても……変です〜〜〜ョネ!
最終的には【知・識】これは〜〜〜【心の状態によるモノ】では〜〜?

「神の世界」から〜〜〜遠のいた感じ〜♫が見えて致し方がないのですョネ!!
今回!【小・櫻・姫・物・語】を読んでから、
正直な話…3代目…今の「総裁御夫婦」におりましての【愛…】とは…??
この頃?疑問が〜〜〜いたるところに見えてしまいます…。
また!最近まで「HO職員」という名目上の職員(臨時?外部職員?)なのでしょうか?
果たして、これは【教・化・部】にどのような影響を及ぼすモノなのでしょうかと、
個人的ではありますが〜〜〜じっくり!じっくり!見ております…。

                  ❤〜SAKURA

4680a hope:2014/12/08(月) 21:29:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p41 7行目〜

南――それではわれわれは「物質は無い」「ニセ物の我は無い」と単純に信じていれば一番よいのでございますね。

谷口――そうです。それを反駁(はんばく)する理論づけすることは、肉眼で見て有るように見えるものを有るといい、意識に有るように感じられる「我」を有るというのですから最もやさしいことで、もっとも信じやすい理論ができるのですが、それは今までの人間知恵であって人間が新たに生まれ更(か)わって救われる真理にはならないのです。

南――それでもお釈迦さんは『涅槃経』で「我」があるということをお説きになったではありませんか。

谷口――そうです。お釈迦さんは四十余年間「無我無我」といって「お前たちの我(われ)だと感じている我というものは本来無いものじゃ」とお説きになり、徹底的に「ニセ物の我(われ)」の非存在をお説きになった後、『法華経』と『涅槃経』とに「本物の我」の 存在をお説きになったのです。
『般若経』に無我が説かれていて、『涅槃経』の「有我」が生きてくるのです。
『般若経』のごとくに「我」の存在を否定することをせず、「ニセ物の我」というのも「本物の我」を肯定主張することになりますと、わがまま勝手次第、生存競争、弱肉強食、病気の我の存在をも肯定することになり、そこからショーペンハウエルのように暗い人生観が生まれてくることになるのであります。

4681a hope:2014/12/08(月) 21:31:58 ID:cEpBaIdo

>>4680 a hope所感)

ここでも、偽我「ニセ物の我」の否定と、真我「本物の我」の肯定つまり「悔い改め」がいかに大切か述べられています。

ですが、わたしたちはこうして生きていても、自分が悪いことをしているとか、罪を犯しているなんて思いながら生活している人はあまりいないと思うのです。
ほとんどの人が自分は正しいことをしていると感じているからこそ、衝突が起きたり、喧嘩がはじまったりするのだと思います。

テキストでは、この後、原さんという方が、雅春先生にどうしたら「本当の我」と「ニセ物の我」の区別がつくのかと質問しています。

続けて、謹写していきます。

4682a hope:2014/12/08(月) 22:01:26 ID:cEpBaIdo

>>4676 〜 SAKURAさま

ご紹介くださった「小桜姫物語」の著者、浅野和三郎さんというのは、大本教を谷口雅春先生と御一緒に退会された方ですね。
以下、ウキペディアから抜粋させていただきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5

<<専従活動家時代[編集]
早稲田大学を中退して大本の専従活動家になっていた谷口は、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記を任せられたり、機関紙の編集主幹などを歴任するなど、教団内で嘱望されていたが、1922年(大正11年)の第一次大本事件を期に、浅野和三郎に従って大本から脱退。浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ねていたが、当時流行のニューソート(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。>>

そしてこの「小桜姫物語」というのも、霊界通信のようですがとても興味深い内容ですね。

ところで、SAKURAさまも、最近の教団や雅宣先生や純子先生のご様子がおかしいと感じていらっしゃるのですね。
わたしは、現「生長の家」教団は、どんどん人の感情や心を大切にしないつまり「愛」のない宗教団体になってしまっていくような気がしています。

4683a hope:2014/12/09(火) 21:56:46 ID:cEpBaIdo
>>4680訂正 

正)谷口――そうです。お釈迦さんは四十余年間「無我無我」といって「お前たちの我(われ)だと感じている我というものは本来無いものじゃ」とお説きになり、徹底的に「ニセ物の我(われ)」の非存在をお説きになった後、『法華経』と『涅槃経』とに「本物の我」の 存在をお説きになったのです。
『般若経』に無我が説かれていて、『涅槃経』の「有我」が生きてくるのです。
『般若経』のごとくに「我」の存在を否定することをせず、「ニセ物の我」というのも「本物の我」【というものもひっきょうは一つの真我の顕われだと言って、「ニセ物の我」】を肯定主張することになりますと、わがまま勝手次第、生存競争、弱肉強食、病気の我の存在をも肯定することになり、そこからショーペンハウエルのように暗い人生観が生まれてくることになるのであります。

※【 】内の文が抜けていました。m(__)m

4684a hope:2014/12/09(火) 21:58:21 ID:cEpBaIdo
>>4683につづきます)

原――この行為は「本当の我」の顕われであるか、「ニセ物の我」の顕われであるかとういうことはどうして区別をつけたらよいのですか。

南――誰か悟りというのもを持って来て、これが悟りじゃと見せてくれませんか?

南――(誰も無言なので自分で悟って)心というものを見せてくれというのと同じか。ハッハッハッ……。

谷口――われらの実相は自他一体のものであるから、ヨリ多く自他一体の働きをするものはヨリ多く「本物の我」が顕われており、自他一体を切り割(さ)く働き――利己主義、忘恩、反逆などという「自他一体を切り割(さ)く働き」は「ニセ物の我」が顕われているのです。

4685a hope:2014/12/09(火) 22:00:41 ID:cEpBaIdo

>>4684 a hope所感)

自他一体を切り割く働きが、利己主義、忘恩、反逆などだとすると、その対義語を考えれば自己一体の働きということなのでしょうか?


利己主義(自分の利益だけを考え,他人を顧みないこと) ←→ 利他主義(利他を第一に考えて行動する主義)

忘恩(受けた恩を忘れること)←→ 報恩(恩返し)

反逆(権威・権力などにさからうこと)←→ 帰順(反抗をやめて服従すること)

また、以前、「自他一体の自覚」は生長の家の愛だともトキさまから教わりました。
今の「生長の家」にこの「愛」はあるのでしょうか?

4686a hope:2014/12/14(日) 18:51:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p49 後から7行目〜

谷口――病気の症状も「家庭の中の小言」と同じように、これは「身体(からだ)の中の小言」ですから、やはり、家庭の中の小言をなくする方法と同じようにして治るのですよ。

佐瀬さんのおっしゃった「小言も愛さなければならない、小言を言う人の身になって、ああ言って下さるのでありがたいと思うようになったら、かえって家庭の中の小言がなくなった」という事実と同じように身体(からだ)の中の小言でも同じことです。

身体の中にも治す力と舅姑(しゅうとしゅうとめ)がいて、それが自分の心、身体に応じて小言を言ってくださるのです。

その小言が熱となり、痛みとなり、苦しみとなり、吐瀉(としゃ)となり、下痢となって現われるのですから、自分の内部に働いている「自然寮能博士」という舅姑の心持ちになって、「こんなわたしの身体に気をつけてくださるのだ、ありがたい!」という気持ちになって発熱でも疼痛(とうつう)でもありがたく受ける気持ちになれば速やかにその病が治ってしまうのです。

4687a hope:2014/12/14(日) 18:53:59 ID:cEpBaIdo

>>4686 a hope所感)

『大調和の神示』に「天地万物に感謝せよ」とありますが、わたしたちは病気や犯罪、
災害等の自分にとって不都合にしか思えないことには、なかなか感謝できないのが普通だと思います。

ですが、『それをしなさい』と神さまは「大調和の神示」で繰り返されていますね。
実相世界は「感謝」で満たされていて、「病なく、迷いなく、罪なく」すべてが大調和しているのだから、
わたしたちもすべてに感謝できて、天地の万物と和解できれば、みんな、救われるのですよ、と。

そして、それができるのが「神の子人間」であり、それを人類に知らしめていくことが、
生長の家の「人類光明化運動」なのだと思いました。

4688a hope:2014/12/17(水) 09:59:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p50 6行目〜

谷口 ―― 雑念というのも、病気の症状や家庭の小言と同じことです。
小言は家庭を善くする働きであって、その小言の使命を知り、その小言はありがたいと思って反撥せずに素直に受けるようにしますと、自然と小言を言う必要がなくなって家庭が平和になり統一するのと同じように、雑念というのも実は心を平和にして精神統一をする働きがあるのです。
空の雲というものは一見、空を曇らしているように見えますけれども、雲というものは本当は空を綺麗にすみきらす働きをするものなのです。
(中略)
雲は空気を澄みきらす働き、症状は病気を治す働き、雑念は心を澄みきらす働きなのです。

4689a hope:2014/12/17(水) 10:00:08 ID:cEpBaIdo

>>4688 a hope所感)

途中、中略しましたが、ここに「空の雲」を例えにあげて、「業の自壊」(自壊作用)の説明がとても詳しくされています。
晴れ渡った実相世界から見れば、現象世界での様々な不都合と見える状態はすべてこの雲に当たるのですね。
そう思うと、なんだかどんな困難な現状でも冷静に対応できそうな気がします。

4690:2014/12/17(水) 10:10:20 ID:???

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」より謹写―

◆ 信仰の満潮期と干潮期

 吾々が真理にふれる時、そして神との接触が行われたと自覚された時、凡ゆる方面に吾々の生活が輝いて来て、病は癒やされ、家庭は調和し、事業は繁盛におもむき、「行く所可ならざるなし」というような状態になるのが普通である。そういう時にその人は信仰に熱がのっていて、所謂る「感激中」というような状態になるのである。所がその感激中は、そう長くは続かないのであって所謂信仰の「干潮期」がやってくるのである。最初に自分を感激せしめたその同じ真理が、今では一向自分を感激せしめないし、それに伴って自分をとり囲んでいる物質的環境も順調に行かなくなって色々の悩みやいらいらしさが現れて来るのである。
 ある場合には、自分自身又は家族の中に突然の病気が現れて来たり、愛する者との間に何か紛争が捲き起って来て耐えがたいような状態を演出することもある。暗黒が自分の周囲をとじこめて、迷宮はますます迷宮に入り、再び真理の光を見る望みは失われ去ったようであり、ともすれば、自暴自棄になろうとする。病気や周囲の不調和そのものの苦しみよりも、一度はあんなにも奇蹟を現して、自分に輝く世界を見せてくれていた真理が、今は何の効果もなく、この悩みを解決する力を失ったという事の打撃の方が、尚一そう痛切に感じられるのである。もう拠り所がない、もう掴むべき一筋もないというような時が往々にして訪れる。淋しい信仰の頽廃期である。

◆ 真理の種子は暗黒の中にも生長する

 かかる時吾々の魂は叫ぶ。真理は無力なのか? 信仰は無駄なのか? 祈りはきかれないのか? 否、否、祈りはきかれているのである。真理は有力に働いているのである。吾々はそれに対して信仰をもたなければならない。ただぐらつきかけているのは自分の信仰だけである。暗闇の中でも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸して吾々を生かしている。かように、真理は吾々の暗黒期の中でも有力に働いていてくれるのである。祈りはきかれてすべてが順調に進んでいるのである。暗黒に見え、逆境に見えている時にさえも、真理の種子はそこに生長し、祈りはそこに実現すべく働いているのである。祈りによって蒔かれたる真理の種子は潜在意識の暗黒の大地の中に蒔かれていて、そこには日光が射さないけれども、種子は次第にふくらみかけているのである。そして、緑の小さい芽がその胚芽から生長し出でつつあるのである。吾々は一旦自分の潜在意識に蒔かれたる真理の種子が、もう芽をふかないかと思って、掘りかえしてみるような愚かな事をしてはならないのである。吾々が種子を目に見えない地面の中に植えつけて、その発芽するのを大地の力に任せてしまうかのように、吾々は祈りの結果を、祈りによって蒔かれたる真理の種子の生長を、神のみ手に完全に委ねて、神が神の方法によってそれを適当な時期に適当な形で、芽を出し茎をのばし、葉を広げ、蕾をつけさせてくれるまで待たなければならないのである。神に任せてこの待つ心のないものは遂に美しき花を見ずに終るかも知れないのである。

4691:2014/12/17(水) 10:11:16 ID:???

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」より謹写――

◆「現象の善さ」よりも「魂の善さ」を

 一たん蒔かれたる真理の種子は、吾々阿が信念の欠乏から、掘り返してみない限りは必ず膨脹し、必ず根を拡げ、必ず芽を出し、頭をもたげ、土を破るのである。その結果は破壊と振動とがその周囲に起るのである。それが起らないようでは、その祈りが効果があったというに足りないのである。新しい大きな芽が頭をもたげる時には大地の周囲が破壊するのである。かくて古きものは破壊し新しきものが現れるのである。周囲に起る不調和と見えたものは吾々が祈りを求めた新しき状態に移るために古き状態が真理によって爆撃されつつある光景にすぎないのである。これを吾々は「迷いの自壊作用」といって来たのである。この自壊作用そのものの中に神が吾々の祈りに応じ給うた解答があるのである。吾々はその変化の中に、擾乱の中に、不調和の中に、病気の中に、周囲の反抗の中に、祈りの実現しつつある過程を見て、感謝し得るだけの智慧をもたなければならない。吾々に必要なのは形の世界がすぐに調和してしまうということではないのである。神の求め給うのは吾々の生命の進化であり、魂の発達である。そんな擾乱の中に於いてすらも、その奥に神の智慧と愛との導きのあることを見得る所の魂の発達こそ、神が吾らに課し給うた所のものであるのである。吾々は直に小さな「現象の善さ」を求める。然し、神はもっと立派な「魂の善さ」を与えようと欲していられるのである。吾々が神の前にさし出す盃が余りにも小さいのである。吾々はもっと大きな盃をださなければ神の愛と恵みを完全に受けることはできないのである。神は吾々が形ある小さきものの成就を求めたのを契機に、形なき宇宙に拡がる魂の喜びを与えようとしておられるのであるということに気がつかなければならないのである。

◆ 解決を神の方法に委せ切れ

 もし吾々があらゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような状態が信仰を得た後に、毎日祈っているにも拘らず現れたとしたならば、吾々は喜ばなければならないのである。それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。地面が動きだしたからといって、その地面の動きを征服しようと戦ってはならないのである。またその地面を平かにしようと鍬や鋤を加えてはならない。吾々は驚いたり騒いだりしてはならないのである。吾々は神に全托しなければならない。神は「神の方法によって」吾が祈りにこたえ給うのである。自分の我の心で「神の方法」を批判してはならない。かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、
「神よ、あなたの無限の智慧を以って吾を導き給え。神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、そしてこの試みに耐えてわが魂の発達致しますように」というようでなければならないのである。
 もし吾々が、祈りにも拘らずそこに現れた不完全な状態と見えるものに対して、恐れ戦き、或は周章狼狽し、我の心でその状態を変化しようと努力するならば、折角「神よあなたの方法にお任せ致します」と祈ったその祈りを、取消してしまうことになり、神の智慧に逆いて我の智慧を行使することになり、結局、祈った事物の実現をおくらしてしまうことになるのである。
 祈りは我々が神のみ心に対して完全に任せきり、「神の方法」に逆わなくなった時に、もっともなめらかに実現するのである。然しこれは時としては甚だ難しいことがあるかも知れない。ある場合には、今迄かくも愛し、かくも恩恵を与えてきた相手が自分に反抗して立ち、自分に矛を向けて、小さな欠点を鵜の目鷹の目で探しだし、恩を仇で返すような仕打をしてくることがあるかも知れない。そのような時に、普通ならば吾々は彼を憎み、自己を弁護するために、彼と同じように彼の欠点を数えあげて相手を傷つけたくなるであろう。然しそれでは決して神のみ心にかなうやり方ではないのである。かかる状態が自分の目の前に現れたということは、自分の魂がそれによって磨かれて、かかる敵をすらも愛する力を、わが魂に実現せんがための、神の摂理であるのである。

4692:2014/12/17(水) 10:16:53 ID:???


>>4688 a hopeさん

 上記は自壊作用に関する、私の好きな文章の紹介です。雅春先生は、本当に素晴らしいと思えます。

 さて以下に同書より、もうひとつ紹介します。祈りですが、「効果があるから不調和な事が起こるのだ」・・・・・その事がよく理解できる御文章です。そして不調和の中にあっても「これは、祈りの効果が現れつつある過程である」、そう確信できる御文章でもあります。ご紹介しますが、

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」より謹写――

◆ 祈りの反応としての不調和

 祈りの反応として現れて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。

 それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。すべて古きものの破壊は新しきものの実現の場所を造りつつあるのである。

 発熱の中に、発疹の中に、下痢の中に、古きものが燃焼しつくされ、排泄され、新しき組織ができつつあるのである。これは祈りの応答として、神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。肉体は魂の「機関」であり、精神の「座」であるから、発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、必要なる所の改造が行われつつあるのである。それは肉体の不調和の状態の如く見えているかも知れぬけれども、それは病気でもなければ不調和でもないのである。魂の機関が、精神の座が、それによって浄められつつあるのである。祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることができるならば、吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の浄化作用に対して「ありがとうございます」と感謝しなければならないのである。




4693「訊」:2014/12/17(水) 16:22:31 ID:???

 「web誌友会参考文献板」にも、自壊作用のご文章を掲載しました。199と200がそれです。

 ご参考になさってください。



4694a hope:2014/12/17(水) 22:25:15 ID:cEpBaIdo

>>4692「訊」さま

自壊作用に関する雅春先生の素晴らしいご文章をたくさんご紹介くださりありがとうございます。合掌。
拝読していて、「谷口雅春に訊け」ブログを思い出していました。

毎回、雅春先生やその御子弟の先生方のご文章にぴったりの音楽と映像をつけて紹介してくださっていて、
当時のわたしはあのブログにどれだけ感動してどれだけ救われていたかわかりません。
今となっては懐かしい思い出のようにもなってしまいましたが・・・。

ところで、「迷いの自壊作用」ですが、これぞ「生長の家」の〝個人救済の要〝 となる真理なのではないかと感じています。

わたしは「自壊作用」というと、聖経「天使の言葉」の冒頭にに収録されている「久遠生命」の神示を思い出します。

「久遠生命」の神示
(無相円相一切相の神示)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1896
(帰幽の神示)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1897


わたしは、人が本当に救われるというのは、病気が治ったり、お金に困らなくなったり、人間関係がうまくいったりするような、
現象的に都合がよくなるようなことではないと思っています。

どんな困難な事に出くわしても、神を信じて大安心の心持ちでいられるようになること、
「生き通しの生命」を心から信じられるようになること、
どんな相手であっても自他一体感を感じられるようになること、

そういうことではないかと感じています。

4695まこと:2014/12/17(水) 22:39:53 ID:bVgHiQ3c
雅則さんって
教えを何もわかってないのですねえ世襲って駄目ですね。
さ悟った人がなると良いですね。
物質無しをね。
な中々いないでしょうが。

4696まこと:2014/12/17(水) 22:48:20 ID:bVgHiQ3c
どんな困難に出くわしても、、、
行き遠しの命を信じて、、、
a hopeさん
そうですね、すごい!
そうなれない自分、いったいいつになったら、、

4697a hope:2014/12/18(木) 10:36:13 ID:cEpBaIdo

>>4695 >>4696 まことさま

web誌友会ご参加ありがとうござます。 合掌。

ところで雅則さんとは雅宣先生のことでしょうか?

わたしは、雅宣先生は「現象問題」に捉われすぎてしまって、
混乱されているように感じています。

その人が真理を悟っているかいないかは、完全に悟っている人ではないとわからないと思うのです。

だから、わたしたち一般人は、悟らずに迷っている人の書いた文章を読んでも、
それが迷いだとは気づかないわけですから、同時に迷いに落ちていってしまうのだと思います。

「生命の實相」は完璧な聖典です。
わたしたちは、本当の悟りが得たかったら、大悟された雅春先生の「聖典」だけを拝読していればいいのだと思います。

4698a hope応援団:2014/12/18(木) 10:51:20 ID:V8o5OZMU
その人が真理を悟っているかいないかは、完全に悟っている人ではないとわからないと思うのです。

だから、わたしたち一般人は、悟らずに迷っている人の書いた文章を読んでも、
それが迷いだとは気づかないわけですから、同時に迷いに落ちていってしまうのだと思います。

                     ↓
言葉を変えれば岡山の講習会参加者の半分が自由意思参加者として、4000人は迷いの淵に沈みつつある馬鹿者だということになる

4699トキ:2014/12/18(木) 11:14:22 ID:W358PcAI
 私が若いころは、まだ、谷口雅春先生の直弟子の方々がご存命でしたが、
こういう方々でも、晩年、

 「長年、生長の家をやってきて、やっと最近になって、谷口雅春先生の
言われていたことが少しわかるようになってきた。」

としみじみ述会されていたのを思い出します。現象の世界に生きる私たち
が、谷口雅春先生の教えを完全に体得するのは、少し時間がかかるのかも
しれません。谷口雅春先生ご自身が、「自分も一修行者」と言われていま
したが、進歩向上の余地が無限にあることに喜びを見出すべきなのかもし
れません。

4720a hope:2014/12/18(木) 19:02:05 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p52

荒川――われわれは過去にいろいろ「集積」があってそれを浄めるためにはいろいろの努力をしなければならない。
一朝一夕にその「集積」が集まらない。
善くなろうと思えども善くなれない憾(うら)みをうたた感ずるのであります。

谷口――達磨が「悟り」ということを言い出したために悟らぬ人が殖え、『大乗起信論』に無明の起源が論ぜられたために「無明」はあると思って迷う人が殖えたのです。
「無明」なんか本来ないのですよ。集積は無いから放っておけば自然に消える。
「迷い」は本来無いから放っておけば自然に消える。「ある」と思えば引っかかる。
無いとわかれば自由自在なのです。

荒川――なるほどよくわかりました。

谷口――「迷う我」が本来あると思うから、いろいろと苦労をして迷いから覚めねばならぬと思うのですが、「迷う我は無い」と知ったら「迷い」から覚めねばならぬと苦労する必要はない。
「迷い」から覚めようと苦労しないからいつまでも「迷い」ままでいるかというとそうではない。
心が「迷い」という自分の仮相のものに引っかからなくなるから、「迷い」が自然になくなるのです。・・・

4721a hope:2014/12/18(木) 19:06:45 ID:cEpBaIdo

>>4720 a hopeまとめと所感)

この後、雅春先生は『「迷う我」というものの考え方に三つある』としてその三つをご説明くださっています。(p52 後から3行目〜)

以下にまとめてみます。

「迷う我」の三つの観方

一、「迷う我」は無い(「生長の家」の考え方)
→「迷うまい」と自力的に努力しなくても、無いものに引っかかりようがないから、「迷う我」に引っかかりようがなくなり、自然に本当の自分が顕われてきて本来の自由自在な自分が顕現し現実の上にも人間がよくなる。


二、「迷う我」と見えるものも大生命の大きな一つの流れである(ショーペンハウエルの考え方)
→我欲の自分をそのままのさばらせることも大生命の働きだからそれでいいと肯定することになりこの世に修羅の巷(ちまた)を現出することになる


三、「迷う我」は大生命の顕われだけれども歪な顕われであるから、それを努力によって正しく修養してゆかねばならない(荒川氏の考え方)
→われわれは不断の努力がなかなか大変であって迷わぬまでに修養を継続してゆくことが果たして人間にできるかが問題になる


わたしは、「迷いは自由から来る」とご主張されている雅宣先生の「迷う我」の観方は、
この三番目の荒川氏の考え方によく似ているのではないかと感じています。


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