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Web誌友会 板/2

4655a hope:2014/12/06(土) 10:45:03 ID:cEpBaIdo
>>4652 つづき

「生命の實相」第15巻 p39 後から7行目〜

谷口――「ニセ物の我」とか「本物の我」とかいう区別はない。
いずれも真我(ほんもの)の表現だという、偽説に迷いなさるな。

「生長の家で物質は無い、現象界は蜃気楼のように心の影にすぎない」と申しますのは理論や理屈でそう言うのではなく、
実際真理において「物質はない」から無い(○○)と言うのであります。
実相から観て現象は映像(かげ)でるから映像であるというのであります。
そのほかに別に理由はないのであります。

むろん聖典『生命の實相』の中には椽大(てんだい)の筆を揮(ふる)って物質のない理論が詳しく書いてあります。
しかしそれは実相の悟りに導くためにそう書いてあるだけでありまして、
理論がこうだから「物質は無い」と結論するのではありません。

理論は、真実の悟りに導く方便として後から造ったものであって、理論より先に「物質はない」という真説があり、
その真理の啓示を解りやすく納得させるために理論を説いているのであります。

だからその真理に権威があって読んで信ずる人の心に「生命の実相」を悟らせ、自由自在の心境に達せしめ、
その副作用として医術難治の痼疾(こしつ)でもズンズン治る例がたくさんあるのであります。

むろん、理論はどうにでもつけられる。
「物質は有る」とでも「ニセ物の我こそは本当の我である」とでもどうにでもつけられます。
そしてその理論を信じたい者は信ずることができます。
それを信ずることも自由であります。

しかし、そういう理論を信じますと、信じなくとも多少在来の信念に動揺を来(きた)しますと、
「物質がある」という自己の信念の結果、物質によって自分自身が自縄自縛(じじょうじばく)せられることになり、
先の自由自在の心境が不自由な心境になり、不完全なる「ニセ物の我」を真我(ほんもの)の一顕現として肯定する結果、
不完全な状態が自分の世界にいっそう多く顕れて来、今までトントン拍子にいっていたことがトントン拍子にゆかなくなるのであります。
(つづく)


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