したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

トーキングスティックボード

159復興G:2011/09/09(金) 11:07:58 ID:Ir7svY6w

>>155 :「訊け」管理人殿
> 早朝よりなにやら、ただならぬ動きが・・・・
> これまた今回のテーマ、
> 名 文 の 予 感 ア リ ア リ

なんて言われると、

ウーン、がんばらなくっちゃ!
なんて、構えてしまうじゃないですか。

構えたら、負けですね。

「構える」ってことは、相手は自分と相対した向こう側にいると思うから構えるんですね。

構えたら、必ずどこかにスキが出来るから、負けちゃうんです。

相手はいない。自分ばかりだ。聞いてくれる人(読んでくれる人)も、みんな自分だ。自分が、自分の分身に話をするんだ。相手は自分なんだ。なんてうれしい、楽しいことなんだろう!

――と思えるようになったとき、私は初めて、「オレは話が最大の苦手だ」と思ってた劣等感から解放されました。今じゃあ、話をしに行くのが楽しみになって・・・・。

ああ、皆さんは私なんですね。

そういうわけで――

「百丈野狐」の話も、百丈和尚と一老人の話になっているけど、老人は百丈自身の心中の人物、心の影なのだ、というのが谷口雅春先生の御解釈です。老人は「前百丈(ぜんひゃくじょう)」。説法している百丈大智禅師「今百丈(こんひゃくじょう)」の心の影、旧我である。前百丈は「私は人間ではありません(非人なり)」 “real man” でない、変化身(へんげしん)つまり野狐だと言う。それが
「修行に修行を重ね悟りを開いた人(原文:大修行底の人)は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と問う。

谷口雅春先生は、
<<(「大修行底の人」というのは)人間的工夫をこらし、修行を尽くして其の極に達せば、つひに神に到達し得ると信じて大修行して或る境地に達した人が大修行底の人である。それは余程の境地に達してゐても、修行修行と云つてゐる間は自力の境を脱してゐない。自力の境を脱してゐない限りに於て、自力は旧我であるから、旧我を磨き磨きする事によつては、つひに新我に到達することは出来ない。それは瓦を磨いて珠となすことが出来ないのと同様である。また自力は仮我であるから、仮我を捨てない限り真我を発見することは出来ない。>>

<<前百丈が五百生野狐身に堕して、その野狐身を脱することが出米なかつたのは、「不落因果(因果に落ちず)」と答へたためではない。瓦を磨いて宝石になるかと云ふにも等しい愚問に対して、大修行がどうの斯うのと問題にしてゐるところにある。そんな悟の程度では「不昧因果(因果くらまさず)」と答へたところが矢張り野狐身に堕するであらう。答は渾心の悟から出て来なければならない。>>

<<不落と云っても不昧と云っても、悟った人なら、どちらを答へて見ても正しいが、悟らぬ人なら、どちらを答へて見ても間違だ。
「不昧因果」と唯口の頭(さき)だけで云つても、それは口頭禅であって、決して五百生野狐身を脱し得る筈はないのである。・・・・前百丈は旧我として偽我として、又今百丈は新我即ち実在我として相対してゐる。偽我の立場に於て、不落因果と云つても不昧因果と云つても、その「因」なるものは、中間因であり、妄想因であるから、「因果に落ちず」でも、「因果を昧まさず」でも妄想を弄ぶことになるから、妄想は妄想を生んで五百生(ごひゃくしょう)野狐身、変化身、無常身を脱することが出来ないのである。ところが、実在我としての自覚に立つ者が、「因果を昧さず」と云ふときの因は中間因ではなく、「本来因」であり、「実相因」である。「実相」に於て吾々が本来佛性であり神性であることが根本因である。この根本因を昧すことがなかったならば、「不昧因果」こそ野狐身を摧破する一大鉄槌となるべきである。
だから裏山の巌の下へ行くと、野狐身が死んで了つてゐたのである。その死んでゐる野狐の姿は今百丈の「迷ひの我」であり、「旧我」であり、「変化身」であつた。さればこそ懐かしいものの一つであり、僧を葬る儀式に則つて葬つたのである。>>

――いや、私も谷口雅春先生から「野狐身を摧破する一大鉄槌」を受けている気持ちです。
(つづく)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板