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「部室」板/3

1486役行者:2012/09/07(金) 14:49:24 ID:TbHz4HEI

goroさま


 深淵なテーマで、大変、勉強になります。

 心より感謝申し上げます。

1487goro:2012/09/08(土) 10:35:30 ID:Cc8Z7oOY
◆「知仁勇」の象徴
 我が国は、シナの孔子・孟子らの思想を消化吸収し、発展深化させてきました。
その過程で「三種の神器」を「知仁勇」の象徴と解釈する試みが現れました。
これを天皇の帝王学に生かしたのが、杉浦重剛(しげたけ)でした。

 杉浦は、「真の人格者」と尊敬された偉大な教育者でした。
杉浦は、昭和天皇が皇太子の時代、数え16歳から21歳まで、
天皇の倫理を説く重任にあたりました。その際、ご講義のために書いたのが、
『倫理御進講草案』(三樹書房)です。(大正3年、1914)

 杉浦は『草案』の序文において、御進講の基本方針を掲げます。

 「今進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。

一、五條の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと」

 杉浦は、この方針の第一について、次のように述べます。

 「三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根底にして
国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。

1488goro:2012/09/08(土) 10:36:55 ID:Cc8Z7oOY

 殊に神器に託して与えられたる知仁勇の教訓は、国を統べ民を治むるに
一日も忘るべからざる所にして、真に万世不易の大道たり。故に我国歴代の天皇は、
皆此の御遺訓を体して能く其の本に報い、始に反り、常に皇祖の威徳を顕彰せんことを勉めさせ給へり。
是れ我が皇室の連綿として無窮に栄え給ふ所以、また皇恩の四海に洽(あま)ねき所以なり。
左れば将来我国を統御し給ふべき皇儲殿下は先づ能く皇祖の御遺訓に従ひ皇道を体し給ふべきものと信ず」

 ここには「神器」を「知仁勇」の三徳をもって解釈する通説が述べられています。

◆将来の天皇へのご講義

昭和天皇が受けた最初の講義は、「三種の神器」についてでした。

 御進講の最初の項目、「三種の神器」は、次のように始まります。

 「…三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証(みしるし)として授け給いたるのみにあらず、
此を以て至大の聖訓を垂れ給ひたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、
頼山陽などの皆一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり。

 例へば鏡は明らかにして曇り無く、万物を照して其の正邪曲直を分ち、之を人心に比すれば則ち知なり。
知は鏡の物を照すが如く、善悪黒白を判断するものなり。玉は円満にして温潤、恰も慈悲深き温乎たる人物に比すべし。
是れ仁の体にして、仁とは博愛の謂なり。又剣は勇気決断を示すものなることは殆ど説明するまでも無く、
若し之を文武の道に比すれば、鏡は文、剣は武なり。

 詮じ来れば三種の神器は知仁勇の三徳を宝物に託して垂示せられたるものなること益々明瞭なりとすべし」と。
 「鏡・玉・剣」はそれぞれ、「知・仁・勇」の徳を示すという儒教的な解釈が述べられています。
もっともただ「知仁勇」を説くのであれば、シナ思想の崇拝・模倣にとどまります。
私は、「三種の神器」に込められた神意を体現するための道具として、
儒教の概念が借用されたに過ぎないと考えます。

1489goro:2012/09/08(土) 10:37:56 ID:Cc8Z7oOY

◆東西に共通する根本道徳
 話を戻すと、続いて杉浦は、「知仁勇」の来歴をシナにさかのぼります。
 「之を支那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、『中庸』に記されたるあり。
世に人倫五常の道ありとも、三徳なくんば、之を完全に実行すること能はず。
言を換ふれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。
支那の学者既にこれを解して、知は其の道を知り、仁は其の道を体し、勇は其の道を行ふものなりと云へり」

 杉浦は、「知仁勇」は四書の一つ『中庸』から来ていることを述べ、
「人倫五常の道」は、「知仁勇」の「三徳」があって、初めて実行できる徳目であるとします。
そして、人倫の「道」を「知る」のが「知」、「体する」のが「仁」、「行う」のが「勇」と説明しています。
いわば、認識、体得、実行です。

 シナに続いて、杉浦は西洋について述べます。杉浦は、西洋における「知情意」は、
シナの「知仁勇」と同じであるという解釈を示します。そして、「完全なる知情意」という
「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」であると定義しています。

 このように杉浦は、「三種の神器」は「知仁勇」の徳を象徴するものと解釈するだけでなく、
「知仁勇」は、シナにも西洋にも通じる普遍的な根本道徳であると説いています。
説くところが世界大であるところに、浩然の気が感じられましょう。

1490goro:2012/09/08(土) 10:38:46 ID:Cc8Z7oOY

◆「実践躬行」
 『草案』の「三種の神器」と題された項目を結ぶにあたり、杉浦は、以下のように記しています。

 「支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、
身を修め、人を治め、天下国家を平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して
遺訓を垂れ給ひたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、宜しく此の義を覚らせ給ふべきなり。…

 凡そ倫理なるものは、唯口に之を談ずるのみにては何の功もなきものにて、貴ぶ所は実践躬行の四字にあり」と。
 このように、杉浦は、将来の天皇に対して、第一に「三種の神器」を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の
三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げたのです。そこで、最も強調されたのは、
「実践躬行」でありました。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することです。

 杉浦は、「帝王学とは」と聞かれ、「至誠の学問じゃ」と答えたと伝えられます。「至誠」については、
『草案』では吉田松陰の一節に「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という孟子の言葉が掲げられています。「至誠」とは、ただ「実践躬行」によってのみ、体得・感化できるものと申せましょう。杉浦が、「至誠」の人、吉田松陰を深く尊敬していたことは、言うまでもありません。

1491goro:2012/09/08(土) 10:40:02 ID:Cc8Z7oOY

◆忘れられた理想の想起
 倫理御進講とは、将来の天皇への御教育でした。天皇が自ら学び、実践すべき君主の倫理を明らかに
しようとしたものでした。一方、国民には、明治天皇による「教育勅語」が、国民の倫理を示していました。(1)

 この「勅語」は、天皇が国民に道徳的実践を命じたものではなく、天皇自らが実践するから、
共に実践しようと、国民に親しく呼びかけるものでした。「教育勅語」の末尾の部分には、次のようにあります。

 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶(こ)い幾(ねが)う」
(私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを常に胸に抱いて、その徳を一つにすることを、心から念願します)と。


 天皇は、神意を体するために、神器が象徴すると解される「知仁勇」を「実践躬行」する。
その天皇の呼びかけに応えて、国民は徳を養おうと努める。こうして君民が徳を一つにする
道義国家を目指すところに、明治日本の理想があったと言えましょう。

 その忘れられた理想を想起すること。それによってわが国は、活力を取り戻し、
より豊かな精神文化を生み出してゆくことができるだろうと、私は思うのです。

1492役行者:2012/09/08(土) 17:16:59 ID:Z6MADVpU

  goroさま

 勉強になります。鏡、玉、剣の三種の神器の大切さを改めて理解しました。


>杉浦は、将来の天皇に対して、第一に「三種の神器」を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げたのです。そこで、最も強調されたのは、「実践躬行」でありました。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することです。

 杉浦は、「帝王学とは」と聞かれ、「至誠の学問じゃ」と答えたと伝えられます。「至誠」については、

『草案』では吉田松陰の一節に「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という孟子の言葉が掲げられています。「至誠」とは、ただ「実践躬行」によってのみ、体得・感化できるものと申せましょう。
 杉浦が、「至誠」の人、吉田松陰を深く尊敬していたことは、言うまでもありません。<

 特に上記部分に心が動かされました。昭和大帝は畏れ多いことですが、「至誠」を貫かれた方だと思いました。
 
 三種の神器が示す真髄を活かし、生きる。今まで考えも及ばなかったこの日本の心を沈思黙考し、実践してゆくよう精進してゆきます。

1493goro:2012/09/09(日) 14:43:54 ID:Cc8Z7oOY

許して活かす〜明治維新に見る日本精神

 激動の時代における変革には、殺戮・謀略などは避けられません。
なまの人間がすることだからです。しかし、明治維新の犠牲者は、
わずか2〜3万人程度と言われます。
これに対し、フランス革命は、犠牲者200万人といわれます。
ロシア革命に至っては、さらにこれに数倍すると見られています。
中国の人民民主主義革命においては、日中戦争における死者よりも、
内戦による死者の方が遥かに多く、その数は1千万人を超えると見られています。

1494goro:2012/09/09(日) 14:44:33 ID:Cc8Z7oOY

 この違いは何処から来るのでしょうか。
明治維新は白人列強がアジアを植民地にしてきたなかで、日本の独立を死守するための変革でした。
日本人同士が分裂して争いを続ければ、必ず白人の介入・支配を受け、インドやシナ(清国)と
同じ運命をたどるという危機意識があったと思います。それが、できるだけ流血を少なくして、
非西洋世界で初めての大変革を成功させた原因にあると思います。

 徳川最後の将軍・慶喜は、朝廷との内戦を避け、政権を天皇に返す道を選びました。
世にいう大政奉還です。朝敵であるにもかかわらず、明治新政府に許された慶喜は、
その後21人の子供をつくり、長寿をエンジョイしました。これは、フランス革命において、
ルイ16世がギロチンで殺されたことと、対照的です。

1495goro:2012/09/09(日) 14:45:03 ID:Cc8Z7oOY

 徳川家の宗主・家康を祀る日光東照宮も破壊されることなく、今日も多くの参詣者を集めています。
慶喜の家臣・勝海舟も、維新後の時代を生き延びた一人です。海舟は、日本国のために、幕府に自ら幕を引かせました。
とりわけ、列強につけいれられずに、日本の独立を死守するため、西郷隆盛と話し合い、江戸無血開城を実現したことは、
世界史にまれな偉業です。江戸百万の市民が、それによって戦火から守られたのです。

 しかし、海舟は主君・慶喜に対しては、非常に申し訳なく思っていました。
そして、徳川家の名誉を回復できるよう、尽力し続けました。その効あって、明治31年、ついに慶喜は、
明治天皇の拝謁を許され、温かいもてなしを受けました。慶喜は公爵に叙され、養子・家達(いえさと)は
貴族院議長、孫・喜久子は高松宮妃となり、徳川家は今日も繁栄しています。

1496goro:2012/09/09(日) 14:47:42 ID:Cc8Z7oOY

 このことも、王族・貴族は子供まで惨殺されたフランス革命とは、大きな違いです。
海舟は西郷と話し合って江戸無血開城を実現したのですが、その際、重要な役割を果たした者に、
山岡鉄舟がいます。鉄舟は、海舟の命を受けて単身、陣中の西郷に談判に行き、西郷に海舟の意思を伝えました。
そして、西郷と勝海舟の交渉を実現し、江戸無血開城を成功に導いたのです。

鉄舟は、維新後、西郷・岩倉・勝らの切なる推挙により、明治天皇の侍従となり、教育・補佐にあたりました。
鉄舟は賊軍の幕臣出身でありながら、天皇の養育を任じられたのです。幕臣の中には海舟らと意見を異にし、
徹底抗戦の道を選んだ者もありました。彼らも侍だったからです。
その一人榎本武揚は、最後の最後まで抵抗する道を選びました。
本州から北海道に渡った榎本は、蝦夷共和国を作って日本から独立。
函館の五稜郭に立てこもって抗戦しました。しかし結局、敗れ、榎本は降伏しました。
フランス革命であれば、当然、一族一味虐殺です。

1497goro:2012/09/09(日) 14:48:34 ID:Cc8Z7oOY

ところが、榎本と戦った官軍参謀・黒田清隆は、「日本の将来に欠くべからざる人物」だと惜しみ、
榎本の助命に奔走しました。それが実って釈放された榎本は、抜群の能力を生かして、
新政府で外務・農商務などの大臣を歴任し、新国家建設に活躍しました。
 榎本の助命の影には、西郷隆盛がいました。西郷にとって、海舟のような猛虎を赦免しているのだから、
ネコ程度の榎本の命をとるまでもないと、度量を示したのです。

 西郷は一時、新政府の中心、首相格の筆頭参議となり、善政を行いました。
そのとき、西郷は薩長藩閥の枠をこえ、すぐれた人材は、旧幕府や敗北した藩からも登用しました。
ジャコバンの指導者ロベスピエールが、反動派や意見の異なるものを次々に処刑し、恐怖政治を行ったのとは大違いです。

1498役行者:2012/09/09(日) 18:37:01 ID:CSeqac6k

 goroさま

 またまた貴重な資料、ありがとうございます。
 「許して、活かす」勉強になります。

 >明治維新は白人列強がアジアを植民地にしてきたなかで、日本の独立を死守するための変革でした。
 日本人同士が分裂して争いを続ければ、必ず白人の介入・支配を受け、インドやシナ(清国)と同じ運命をたどるという危機意識があったと思います。それが、できるだけ流血を少なくして、非西洋世界で初めての大変革を成功させた原因にあると思います。<


 ここが日本人の日本人たるところと思うのです。感情的に暴走せず、良識ある判断をくだすのです。そして、許して、活かす。
 この日本の危機に貢献すべく、生長の家もかくありたいモノです。

1499うのはな:2012/09/10(月) 11:50:05 ID:MXfo9tzo
1312 :だから:2012/09/10(月) 08:43:50 ID:ZZ2cPnFw >>1311
別にあなたになにも書いてないんじゃないですか??

誌友会だってあなたへの対応で苦労されておられましたよ。
迷惑こうむったってあなたが変な投稿するからでしょう??
無関係な文章書き込んで迷惑って。。。

>> メールか訊けブログでやって (神の子様)

1500うのはな:2012/09/10(月) 11:53:56 ID:MXfo9tzo
 
 きのう、さくらマネと訊け監督が「うのはなさんのクレームブログ」に
さくらもいっていい?どうぞ、みたいな会話を過去ログで読みましたが、
訊け氏もそれ以外の人も前回の誌友会前夜や、それいがいのとき、訊けブログの
話題や関係ないことをもちだしてきたと思います。

なにが関係ないかは管理人の判断だと思いますが、その管理人は別版をつくられましたので、
次回からはそちらもご活用ください。

1501うのはな:2012/09/10(月) 11:55:14 ID:MXfo9tzo
1951 :「訊け」管理人:2011/12/20(火) 15:56:34 ID:UodBcqiE
 ごめーんうのちゃん・・・・・・・・・まだ聞いてないんだわ。やっぱそれ、
聞いた方がいいのかなあああ。

 あと、「利用されたてあげない」ってのは、何地方の料理なの?美味い?

1952 :「訊け」管理人:2011/12/20(火) 16:01:31 ID:UodBcqiE 利用されたて(揚げない)

         /\
        /   \
      /____\
       ̄/ ̄ ̄\ ̄
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  //  \___/  \\
   ̄   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|    ̄
      |      |
       |_____|
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       / /     \\
      / /       \\


 こんな感じ?「揚げない」ってことは、おでんみたいなやつ?

1502goro:2012/09/10(月) 13:12:08 ID:Cc8Z7oOY

 西郷は薩摩勤王軍の先鋒として、荘内征討の軍を率いた人でした。
荘内藩(現在の山形県)は徹頭徹尾佐幕に始終して、ある時には江戸の薩摩屋敷に焼打をかけ、
遂には最後まで踏留れる佐幕派として、薩軍をその領地の入口にむかえてこれと戦ったのです。
しかし、西郷は激戦ののち、敗者の立場を思いやり、極めて寛大な処置をしました。

 その武士の情けは、荘内藩士を感激させ、彼らは西郷に深い敬愛を抱くようになりました。
『西郷南洲翁遺訓』(岩波文庫等)は、西郷に接した荘内藩士によって伝えられたものです。
荘内藩の子弟はこの遺訓によって訓練陶冶せられ、今日でも西郷は当地の人々の尊敬を集めています。

1503goro:2012/09/10(月) 13:14:32 ID:Cc8Z7oOY

 西郷は、明治維新の最大の難事、廃藩置県を成功させた中心人物でもあります。
西欧で廃藩置県のような「革命」をすれば、犠牲者数百万、争乱数年を避けられまいといわれます。
それを「無血革命」で成し遂げたのが、明治維新です。そのとき旧階級である大名は、
みな華族として身分・収入を保証され、旧家臣たちも、忠義が果たされ、安堵を得たのです。
 しかし、西郷はいわゆる「征韓論」で敗れ、政府官僚の腐敗を憤って、郷里の鹿児島に帰り、
西南戦争が起こりました。それは明治政府最大の危機となりました。敗れた西郷は、
「明治の逆賊」と言われました。しかし西郷は死後、明治天皇の思し召しにより、
正三位を追贈され、その功績を称えられました。東京上野には銅像が建てられ、
今も「西郷どん」として国民に慕われています。

 これらの事例は、フランス革命には、決して見られないことばかりです。
ロシア革命と比較しても同様です。中国の人民民主主義革命と対比しても、そうです。
明治政府は、旧敵に対して復讐せず、かつての反逆者・朝敵の粛清や訴追をしませんでした。
その淵源は、国民を「大御宝(おおみたら)」と呼んで大切にしてきた
神武天皇以来の皇室の伝統に求められます。ここには、おのずと、日本人固有の精神、
「日本精神」が表れていると思います。

 明治以降の日本は、維新において戦った同士が遺恨怨念を超えて、ともに近代国家の建設に努力してきました。
明治維新後、最大の危機であった日露戦争では、国民は一つになって、この国難を乗り越えました。
私達の父祖達は、そのように日本人として大同団結し、同じ国民として一つに結び、
近代という困難な時代を生き抜いてきてくれました。そのおかげで、今日の日本が、私たちがあることを、
感謝したいと思います。そして、わが国に伝わる共存調和の精神の素晴らしさを理解・継承していきたいと思うのです。

1504神の子さん:2012/09/10(月) 13:15:22 ID:Cc8Z7oOY

人権と日本精神

 学校教育では、戦前の日本では、ひどく人権が軽視されていたというイメージが植え付けられます。
戦前は人権という考え方が、今より遅れていたのは確かです。しかし人権という言葉は知らなくとも、
昔の日本人は義理・人情をもって、助け合う生き方をしていました。ただ戦前の日本は今に比べると非常に貧しかったので、
貧困に伴う悲しい話はたくさんあったのです。「日本精神」だから人権が軽視されたという事とは違うと思います。
それに、戦前は世界全体が遅れていました。先進国のアメリカでさえ黒人が人種差別を受け、
イギリスはインド人を奴隷同然に扱っていたのですから。

 人権に関して、20世紀最大の出来事はなんでしょうか。私は、白人による植民地支配がなくなったことだと思います。
それで初めて、有色人種も、基本的人権を保護されるようになったのです。

 この過程で日本は、大きな役割を果たしているのです。日露戦争で日本がロシアに勝ったことが、
白人の植民地支配を突き崩しました。このことが有色人種に解放への希望をもたらしたのです。
また、第1次大戦後のパリ講和会議で、日本代表団は、史上初めて人種平等案を提案しました。
票決は賛成多数でしたが、議長のウィルソン米大統領が全会一致でなければ無効としました。
アメリカの黒人たちの期待は、大統領によって裏切られたのでした。黒人たちが公民権を得たのは、
はるか後の1960年代のことでした。

1505goro:2012/09/10(月) 13:18:49 ID:Cc8Z7oOY

 大正時代の日本では「大正デモクラシー」というように、立憲議会主義が定着しつつありました。
大正2年には、尾崎行雄代議士が弾劾演説によって、桂内閣を倒したほどで、日本は英国流の議会政治に近づきつつあったのです。
普通選挙の実現も、日本は世界で指折りに早かったのです。収入に関係なく成人男子に選挙権を与えるという、
当時の世界では最も進んだものでした。人権についての意識も段々発達しつつあったのです。

 ところが、国際情勢が厳しくなると、昭和5年頃から軍部が台頭し、段々、統制が強くなっていったのです。
特に12年のシナ事変以降、独伊のファシズムを模倣した政策が推進されました。大東亜戦争では、
「日本精神」という言葉が、軍部によって盛んに利用されました。内容は戦意発揚・国策遂行的なものでした。
そのため戦後、「日本精神」と聞くと、軍国主義を連想する人が多くなってしまったのです。
しかし、それは本来の「日本精神」とは違うのです。

1506goro:2012/09/10(月) 13:20:04 ID:Cc8Z7oOY

本来の「日本精神」は、誠実・勤勉・正直、礼儀正しく、親切な心なのです。
和を大切にし、相手を思いやる精神なのです。明治生まれや大正生まれの人には、
そういう「日本精神」を持っている人がたくさんいます。
それが証拠に、台湾の開発に尽くした先人・先輩たちは、台湾で「日本精神」を伝え、
それで今なお感謝されているわけでしょう。

ブラジルの日系人も、昔ながらの「日本精神」を持ちつづけています。
私たちが取り戻すべきは、そういう日本人の心だと思います。

1507goro:2012/09/10(月) 13:46:07 ID:Cc8Z7oOY

台湾に生きる「日本精神(リップンチェンシン)」

 台湾は、戦前50年間にわたり、日本の領土でした。
当時、台湾で日本人から教育を受けた人に、蔡焜燦(さいこんさん)氏がいます。
蔡氏は現在、ハイテク企業等、数社を経営する台湾財界の著名人です。氏は、次のように語っています。
「私の経営理念の根底には、日本統治時代の教育精神がありました。
日本人の教師たちは、われわれ台湾人に『愛』をもって接し、『公』という観念を教えてくれました。

 私は、会社経営にあたっては、常にこの『日本精神』で臨み、『大和魂』で艱難辛苦を乗り越えてきました。
それは、きっとこれからの台湾の国づくりにも不可欠の精神だと思います。

 日本の台湾への最大の贈り物は、この精神を残してくれたことです。公の意識とそれに殉ずる精神、武士道の心です。
今、私たちはこのサムライ精神で大陸と対峙し、台湾人のための台湾づくりに向っているのです。
 『日本精神』は台湾語で『リップンチェンシン』と発音し、これはすべて良いものという意味の普通名詞となっています」
(『日本の息吹』平成12年6月号)

蔡氏と同じく台湾人の金美齢氏は、「日本精神」とは、次のようなものだと言います。

「台湾における『日本精神』は、勤勉、向学心、滅私奉公、真面目、約束事を守る、時間を守るといった諸々の価値を包括している。
それはたとえば『この人は〝日本精神″で店を経営している』と言われる商店主は、大いに信用できるということなのである」
(月刊『日本』 平成10年5月号)

1508goro:2012/09/10(月) 13:48:38 ID:Cc8Z7oOY

蔡焜燦氏には『台湾人と日本精神〜日本人よ胸を張りなさい』(小学館)という著書があります。
この本は、戦前の台湾で、日本人がいかに立派なことを行ったかを、台湾人の立場で記しています。
そして、台湾の人々が、日本統治時代に日本人から教育された「日本精神」を、今日も大切に持ち続けていることを伝えています。

蔡氏は本書で、次のように書いています。

「かつての祖国・日本の若者たちよ、あなた方の先人たちは実に立派であり、
いまも台湾の地で『日本精神』が崇敬されている事実の語るところを君たちの後世に伝えられよ。
そして、自国の歴史を正当に評価し、自信と誇りを持って堂々と胸を張って未来に雄雄しく羽ばたいてほしい。
『日本人よ、目覚めよ、そして自分の国を愛しなさい!』 これは"元日本人"からあなた方に送る激励のメッセージである」

 日本精神で経営を行ってきたという元日本人・蔡焜燦氏が、日本精神を説く言葉には、確かな重みがあります。
近年、破綻に陥った雪印やそごう等の企業の経営者に欠けていたもの、そして混迷する日本の社会を変えるために必要なもの、
それは、私たちの先祖・先輩が持っていた「日本精神」なのではないでしょうか。

1509神の子さん:2012/09/11(火) 08:17:13 ID:???
おはようございます

誓願券に書いてある言葉は変わったのでしょうか?
昨年のとは違うように思うのですが、どなたか教えて下さい。

1510役行者:2012/09/11(火) 15:59:41 ID:ugNZvmuc

 goro様

 >>西郷は激戦ののち、敗者の立場を思いやり、極めて寛大な処置をしました。
 その武士の情けは、荘内藩士を感激させ、彼らは西郷に深い敬愛を抱くようになりました。<<

  山形県は随分と西郷翁とのゆかりが深いようですね、会津藩にも西郷さんが行っておればあのような悲劇はなかったかと思うのです。

 とある方のブログから拝借!

>官軍の総大将であった西郷隆盛は、戦いに勝ち、庄内藩鶴ケ岡城下に兵を進駐させる時、自軍の兵の刀を召し上げて、丸腰で入城させた。薩摩の兵士達は、激しい戦闘の末に勝利し、いまだ興奮も覚めやらぬ状況だろうから、乱暴狼藉を働く可能性がある。それを未然に防ごうという意図だった。ところが普通であれば、敗者側の刀は当然取り上げるべきものなのに、西郷は庄内藩の武士達が誇りを失ってはいけないからと、逆に彼等には帯刀を許したのである。これには庄内藩の人達が驚いた。この結果、本来であれば敗者側には勝者側に対する憎しみが残るはずが、逆に敵軍の総大将である西郷隆盛に対する尊敬の念が高まり、ついには彼に私淑する人まで現れた。特に庄内藩の若者の中には、西郷隆盛の教えを直接請いたいと願う者が多くでるようになった。<


あっぱれ、西郷翁!


 >これらの事例は、フランス革命には、決して見られないことばかりです。
ロシア革命と比較しても同様です。中国の人民民主主義革命と対比しても、そうです。
明治政府は、旧敵に対して復讐せず、かつての反逆者・朝敵の粛清や訴追をしませんでした。<

 西南の役後の西郷さんの評価は、西郷翁の人柄、功績によること大ですが、明治天皇の大御心がはたらいたからではないでしょうか、これが日本の国柄ですよ。

 >明治維新後、最大の危機であった日露戦争では、国民は一つになって、この国難を乗り越えました。
 私達の父祖達は、そのように日本人として大同団結し、同じ国民として一つに結び、近代という困難な時代を生き抜いてきてくれました。そのおかげで、今日の日本が、私たちがあることを、感謝したいと思います。そして、わが国に伝わる共存調和の精神の素晴らしさを理解・継承していきたいと思うのです。<


 私もそのように思います、敵を許し、大同団結する。

 また、日露戦争の戦闘振りは、大東亜戦争以上に日本の本来あるべき姿の見本になると思います。戦争に聖戦は認めませんが、義と情の上に成り立っていた日本的近代国家の樹立は此処にあると思います。大いに学ぶべきコトがあるかと存じます。

 >人権に関して、20世紀最大の出来事はなんでしょうか。私は、白人による植民地支配がなくなったことだと思います。
それで初めて、有色人種も、基本的人権を保護されるようになったのです。<

 ただただ、チェスト!です。


>「台湾における『日本精神』は、勤勉、向学心、滅私奉公、真面目、約束事を守る、時間を守るといった諸々の価値を包括している。
それはたとえば『この人は〝日本精神″で店を経営している』と言われる商店主は、大いに信用できるということなのである」<

 本当、うれしい話です。

 >日本精神で経営を行ってきたという元日本人・蔡焜燦氏が、日本精神を説く言葉には、確かな重みがあります。
近年、破綻に陥った雪印やそごう等の企業の経営者に欠けていたもの、そして混迷する日本の社会を変えるために必要なもの、それは、私たちの先祖・先輩が持っていた「日本精神」なのではないでしょうか。<

 感無量、異議無し!

1511「訊け」管理人:2012/09/11(火) 16:35:30 ID:???


 ご存知のお話しかもしれませんが、一応掲載致します。テーマは「なぜかくも庄内藩、厚遇されしや?」というものです。なお、うちの祖父談を基にしますためやや、薩摩寄りのお話でござます。歴史的検証に耐えられるかどうかは、不明の話になりましょう・・・

 さて、その庄内藩ですが「実に強かった」らしいです。ウドさあもその辺りへの畏敬の念、禁じえなかったのかもしれません。なお、戦史に拠れば官軍に対して一時は、庄内藩が押したそうです。官軍を押し戻し、それどころか、隣藩にまで攻め込んで戦うという奮戦ぶりで、官軍に負けていなかった模様です。(ですが、庄内藩単独が戦ったところで、勝負の流れは変えられず。すでに周囲の諸藩も官軍に降伏してしまいましたため敗戦)庄内藩は当然、開城の際に厳罰を、覚悟した模様ですね。

 と こ ろ が 、官軍の代表者として城を接収に来た参謀・黒田清隆(きよたか)の態度は、「勝者でありながらまことに謙虚であった。」わけです。あまりにも黒田が庄内藩に対して丁重であったので、官軍の中には「これでは、どちらが勝ったのか分からん」という不平さえ出たらしいのですが、この黒田の態度は、ウドさあが与えた指示によるものだったそうです。やはり、隣県まで押し返した庄内藩に対し、ウドさあはたいへん共感を覚えたようですね。つまり「もし自分が庄内藩士であったら、やはり同じように、最後の最後まで主君・徳川家のために戦っていたはずだ」という気分が、ウドさあにはあったらしい。だから、ウドさあは庄内藩を罪人のように扱わなかったのだ、と云うのが祖父談です。


 このウドさあの気持ちを知ったとき、庄内藩は惚れ込んでしまった様子です。ちなみに、西郷隆盛の言行録として有名な『西郷南州遺訓(なんしゅういくん)』ですが、じつはこの書物は、庄内藩が製作したものです。ウドさあを愛するがあまり、テキストが必要になったのでありましょうね。
 ちなみにたしか西南の役の際は、庄内藩から義勇軍が参戦してます。無論、薩摩方に味方し明治政府軍と田原坂で、激闘しております。

 以上、ご存知かもしれぬな、補足話でございました。


追伸

 今月24日は、「南洲忌」でございます。合掌。




1512goro:2012/09/11(火) 17:23:24 ID:Cc8Z7oOY
我が先祖も田原坂において官軍と戦い戦士されています。
熊本に住んでいた時、田原坂を訪ねましたが、車1台がやっと通れるくらいの細い道が続き
白壁の記念館には弾痕が数多く残っていました。公園には薩軍と官軍の戦死者の名前が
出身地ごとに掘られてある横長の大きな石碑がありました。

坂道の途中の南西に開けた景色から鹿児島本線を走る電車がゆっくりと
久留米方向へ移動しているのが見えて、不思議な感覚になった事が記憶にあります。

陸軍大将 西郷隆盛は廃藩置県後の立場を失った武士階級のやり場のない
怒りや悲しみ等を収斂されるかのように、それを一心に背負って、
負ける戦いとわかっていながら後に西南戦争と言われる戦いに突入したのだと思います。

薩軍としては親子兄弟、親戚など一族が薩軍・官軍に別れて戦った
悲劇の戦争でもありました。

今の我々は様々な先祖の有り様の延長線上に生かされていることを
忘れてはならないと思います。

1513goro:2012/09/11(火) 17:52:53 ID:Cc8Z7oOY
こうとしか生きようのない人生がある・・・・
今、どう生きるかの瀬戸際に立たされているような気がします。

遥かな轍 - 堀内孝雄
http://www.youtube.com/watch?v=D6OWqQk0qUU

「愛しき日々」堀内孝雄
http://www.youtube.com/watch?v=abdoobSe3kg&feature=fvwp&NR=1

1514goro:2012/09/12(水) 00:25:21 ID:Cc8Z7oOY

マンガ『台湾論』と日本精神

 台湾では、「日本精神」とは、誠実・勤勉・礼儀・約束を守る・公共心などを
意味する最高に良い言葉だそうです。それは、戦後の私たちが失った心なのです。

◆小林よしのり氏の『台湾論』
 平成12年、人気漫画家・小林よしのり氏は、単行本『台湾論』(小学館)を出しました。

 小林氏は、台湾へ行き、前総統・李登輝氏、現総統・陳水扁氏と対談しました。その模様が本書に描かれています。
また、蔡焜燦氏をはじめ日本を愛する台湾のリーダーたちが、多数登場します。そこに出てくるキーワードが、「日本精神」です。
数えてみたところ、21回、「日本精神」という言葉が出てきます。主な個所を挙げてみます。

1515goro:2012/09/12(水) 00:26:02 ID:Cc8Z7oOY

 「日本の歴史はここ台湾の地で凍結して、そのまま残っている。かつて日本の植民地時代に青春を送り、
『日本精神』を宿した者たちが、世界から正式な国として認知されず、日本から見離され、
どうせ中国に吸収されるだろうと高を括られながらここまで戦ってきたのだ」

 「李登輝氏はこう言った。『あまりにも横暴で汚職ばかりがまかり通る統治に台湾の本省人たちはじっと耐えた。我慢した。
 それは日本の教育を受けていたからだったんですね』 やがて人々は誰言うとなく『日本精神』
(リップンチェンシン)と囁くようになり昔を懐かしむようになった」

1516goro:2012/09/12(水) 00:28:09 ID:Cc8Z7oOY

◆台湾のリーダーと日本の政治家・マスコミ

 「神は台湾を見捨てなかった。『日本精神』を体現した男が、
 すでに帰台して頭角を現すのを待っていたのだ」それが李登輝氏であると、本書は書いています。
 「李登輝氏のリーダーとしての資質の原点に、農業を学問として究めたスペシャリストとしての一面と、
 日本精神の継承者という一面がある」

 李登輝氏は、戦前、京都帝国大学に学び、陸軍少尉として日本軍に入隊しました。
 新渡戸稲造の『武士道』を愛読し、「公」の精神を持って、台湾の発展に尽くしてきた人物です。
 そこに、日本で学んだ日本精神が、生かされているというわけです。

 これに比べて小林氏は次のように述べています。
 「今の日本人に特に政治家とマスコミに『日本精神』のカケラもないことは、明白だ。
森総理が『日本は天皇を中心とする神の国』とサービストークしただけで、やつらは『戦前に戻す気か』と大騒ぎしている。
…やつらは日本の神の概念と西洋のGOD=一神教の概念の違いすら全くわかっていないのだ」

1517goro:2012/09/12(水) 00:29:20 ID:Cc8Z7oOY

◆台湾に生きる日本精神

 さて、小林氏は、台湾の庶民について、次のように書いています。
 「日本に来た外国人の日本人に対する印象の第1位は『親切』である。
 それは日本人の美徳であって誇っていい。
台湾の庶民にもやっぱり『日本精神』は受け継がれているとしか思えない。
台湾で店に入ると『根が善良な人たち』が一生懸命、サービスしようとする。
商売根性だけの人がうわべだけでサービスしている感じが全くない」

 李登輝氏の側近・膨栄次氏は言います。「台湾語に『あさり』という言葉がある。
日本語でいさぎよいこと…つまり『あっさり』が台湾語として残ったものが『あさり』だ! 
『あさり』という言葉は、そのまま台湾語でホメ言葉になっている! 
『あさり』は日本が台湾に残した日本精神(リップンチェンシン)なのだ!」

これを受けて、小林氏は「あとがき」に次のように書いています。
「『あさり』という言葉を今も誉め言葉として残すという台湾の『日本精神』に、
日本の若者も触れるチャンスが訪れることを祈る」
 小林よしのり氏の『台湾論』、また蔡焜燦氏の『台湾人と日本精神』は、
私たちに、日本人とは何か、日本人はどう生きるべきかを考えさせてくれる本だと思います。

1518goro:2012/09/13(木) 13:59:22 ID:Cc8Z7oOY

世界を救う日本精神〜藤原正彦

藤原正彦氏の著書『国家の品格』(新潮新書、平成17年11月刊)が売れ続けている。
新書で200万部を超えたのは、過去最速だという。
本書のいわんとするところは、書籍案内がよく表わしている。
「日本は世界で唯一の『情緒と形の文明』である。

国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、
この誇るべき『国柄』を長らく忘れてきた。
『論理』と『合理性』頼みの『改革』では、社会の荒廃を食い止めることはできない。
いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、
『国家の品格』を取り戻すことだ。」と。

1519goro:2012/09/13(木) 14:00:04 ID:Cc8Z7oOY

 こうした主張が本書では明快でわかりやすく説かれている。指摘が的確でしかも深い。
随所に独創的な視点が見られ、ユーモアにも富んでいる。
なかでも私は、武士道精神の復活を訴えていることに強い共感を覚える。
その点に照準を合わせて内容を要約するならば、次のようなまとめができよう。

西洋近代文明の特徴は、論理と合理である。しかし、それだけでは、物事はうまくいかない。
数学は、不完全性定理によって、論理の限界を明らかにしている。
実は論理の出発点は情緒や形なのである。情緒や形の核となる美意識や道徳観は、
わが国では武士道に集約される。戦後、国家の品格を失ってきた日本が、
国家の品格を取り戻すには、卑怯を憎む等を教える武士道精神を教育することが重要である。

 私は武士道を日本精神の精華だと考えているが、
『国家の品格』は武士道と日本精神の関係について直接触れてはいなかった。
藤原氏の近著『この国のけじめ』(文藝春秋)は、この点に言及している。
「世界に誇りうる日本人の規範意識」と題した文章においてである。
(産経新聞平成15年7月30日号に初出)

1520goro:2012/09/13(木) 14:00:36 ID:Cc8Z7oOY

 それによると、藤原氏の父親は、幕末の下級武士の家に生まれた祖父から
「泥棒の中でも火事場泥棒ほど恥ずかしいもものはない」と繰り返し教えられたそうである。
火事場泥棒とは、火災の混乱に乗じ、困り果て途方に暮れている人間につけこみ、
物品を奪うという行為である。日本人は、こういう行為を卑劣なものと考える。

 昭和20年8月9日、ソ連は、日本が対米戦争で気息奄々(えんえん)となった機をとらえ、
満洲等に攻め入った。虐殺・略奪を重ねたうえ、2百万人ともいわれる日本人をシベリアに強制連行し、
抑留酷使した。イラク戦争では、バグダットが陥落したころ、爆撃で壊された店舗や、
もぬけのからになったビルから、人々がさして悪びれもせず物品を運び出す。そういう略奪をテレビで見せつけられた。
 これに比べ、わが国では、阪神大震災のとき、そのようなおぞましい行為が見られなかった。
「火事場泥棒を、とりわけ卑劣なものと考える我が国の美風が、まだ残っているということである」と藤原氏は書く。
そして、次のように続ける。

1521goro:2012/09/13(木) 14:01:16 ID:Cc8Z7oOY

 「泥棒も火事場泥棒も法律的には等しく窃盗である。論理的には同等でも後者のほうが罪深いと日本人は考える。
『他人を騙して金をとる』と同じ詐欺であっても、『年寄りや弱者を騙して金をとる』は格段に罪深い。
卑劣とか卑怯がなぜいけないかは、論理的にはほとんど説明できないが、日本人はそう考える。
 このような日本人の規範感覚は、武士道精神に根差している。この精神は、鎌倉時代に『弓矢とる身の習い』、
すなわち戦(いくさ)における掟として成立したが、平和の長く続いた江戸時代には精神にまで洗練され、
小説、芝居、講談などを通して町人にまで広まったから、日本精神と呼んでよい。
誠実、慈愛、惻隠、忍耐、名誉、孝行、公の精神などを重んじ、卑怯を憎む精神である」

 藤原氏は、このように武士道が精神にまで洗練され、国民全体に広まったものを、日本精神と呼ぶ。
そして、次のように説く。

 「世界はいま、混迷の中にある。この世界を救う手立てとして、日本精神がきわめて有望と思う。
人類を不幸にするに違いない、行き過ぎた市場経済に対しては、大きな者が小さな者をやっつけるのは卑怯、
という感覚が歯止めとなる。社会を不安定にするリストラには慈愛や惻隠が役立つ。
はびこる個人主義や利己主義には公の精神を、横行するいじめには卑怯を、子供の万引には『親を泣かせる』とか
『お天道様が見ている』を、教えるのがよい。不正や不道徳な行為に対しては名誉や自制が抑止力となる。
環境問題には自然への畏怖が役立とう。

1522goro:2012/09/13(木) 14:02:06 ID:Cc8Z7oOY

 天正の遣欧少年使節も明治の留学生たちも、この日本精神ゆえの品格で世界の人々を印象づけた。
日本精神を規範とした江戸の社会は当時、世界でもっとも優れていた、と最近になって英国の学者たちが注目している。
現代日本人が、この精神をしっかり取り戻し立派な社会を作れば、いまなお論理合理を金科玉条としている世界の多くの人々も、
必ずや覚醒するだろう」

 日本精神は「世界を救う手立て」として「きわめて有望」と言う藤原氏は、日本精神に内在する可能性を言い当てている。
 日本精神とは何か。さらにその神髄に触れたいと思うならば、大塚寛一先生の著書が、最良の導きとなるだろう。
本書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)は、真の日本精神こそ、日本を再建し、
世界を救う指導原理であることを、理論的かつ実証的に明らかにしている本だからである。

1523goro:2012/09/13(木) 23:29:05 ID:Cc8Z7oOY

乃木大将御夫妻 殉死 100年祭

 「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」

9月13日は乃木希典・静子夫人が自決されて、100年なります。
御夫妻の葬儀には、約20万人が集まったそうです。

乃木大将御夫妻の事については「訊け」どんのブログに詳しいです。見てくいやんせ。

乃木神社の道向いに日本教文社があり、昔はその奥に新教連がありました。

ここでは野木先生から書道と静物画を御指導いただきましたが。
庭の草花や木の小枝などを拾ってきて写すのですが、
友人が野木先生に上手いと褒められて本人がビックリしていました。
本人の絵を見るとウルトラヘタで先生は何処を見て褒めて下さったのか謎のままでした。
観るところが違ったのでしょうが、私にも本人にも永遠の謎になりました。

東京に初めて生長の家本部ができた所でもあります。26歳の父はここで数ヶ月
尊師から直接御指導頂いたと言っていました。多分昭和10年頃の事だと思います。
父を思い父が喜ぶことをしようと心に決めました。
私は本日を限りに三代目総裁の完全円満の御姿だけを観るように致します。

1524「訊け」管理人:2012/09/14(金) 08:43:14 ID:???


 「薩摩の女以外は娶りません」と言われた乃木大将ですが、ひょっとすると薩軍に軍旗を奪われた件、「心に留め置くための」ものだったかもしれません。現代人には推し量ることは出来ぬとは申せ、軍旗を奪われた先の土地から「妻をとる」という決断です。もう、同大将に於かれては西南の役以降は「死後の世界」だったのかも・・・・そんな余談はさて置きまして以下、乃木大将について語らせて頂きます。テーマは「野戦指揮官としての乃木大将」というものになります。

 結論から申せば乃木大将、「野戦指揮官としても世界一」の能力があったようです。少なくとも最近の評価は、そうなっている様子です。たとえば『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』(別宮暖朗著)という本があるのですが、これを読みますと判然とします。同書には「如何に乃木戦術が合理的だったか」等が縷々、記されております。

 さて、乃木大将ほど評価が分かれる人物も、珍しいと思います。否定派は「旅順攻略のまずさ」を基にしてきます。一方の評価派は、大将の「人格面の素晴らしさ」で論じてきます。これでは話がかみ合いませんよね。ですが同書、これを読みますと否定派をも、唸らせることが可能です。もしも司馬遼太郎さんですが、ご存命でありましたら困ったかもしれません。

 「そう云えば」で思い出したのですが、祖父談です。祖父は乃木大将を「評価」しておりました。

 なお祖父は乃木大将を「野戦指揮官として評価」していたわけであり、なにも、人格面に目を晦まされていたわけではありません。祖父は人格面の素晴らしさを以てそれで、「戦術のまずさ」までも弁護するような人物ではございませんでしたし。(生き死にがかかった現場将校でしたし、その辺はおもしろい情報が得られるのが、祖父談でありました。乃木大将に関しては「人格は良かったが指揮官としてはクエスチョン」という評価、聞いた覚えがないのです。)

 さてその祖父談ですが、かの旅順攻略戦――もう、誰が指揮官になっても「あれくらいは死んだであろう」と云うものでした。なにも乃木さんだったから戦死者が、増えたわけではなさそうです。祖父曰く「篠原どん(※)がご存命で指揮を執られても、あれくらいは死んだ」とのこと。むしろ乃木さんだったから「あの程度の損害で済んだ」とも、言えるのかもしれません。なお、この「あの程度の損害で済んだ」の言は上記紹介しました本を読まれれば、たぶんどなたも納得されると考えます。『坂の上の雲』だけだとこの発言、「なにをー!?」になる恐れ大ではありますが。



<註>

※ 篠原どん

 篠原国幹(薩摩)西南の役で戦死した陸軍少将。おそらく、日本史上「最優秀の」部類にある野戦指揮官。
 一言も言葉を発せずに連隊を統べてみせ、その運動の見事さを明治天皇が賞賛。「篠原に習え」と言われた演習地がのち、「習志野」となった模様。(裏付ける資料はない点も付記しますが、まあ、そんなウワサが立ってもおかしくない位の野戦指揮官だったとのこと)

1525役行者:2012/09/14(金) 20:20:49 ID:s0/C/GEs

 合掌

乃木大将に対しての的を射た評価をありがとうございました。
 日本人は乃木大将みたいな人柄をたまらなく好きなんですよ、失礼な言い方ですみません。
 
 それは、日本精神を体現した方だからでしょう。

 goro様の云う下記投稿文。

 >> 「世界はいま、混迷の中にある。この世界を救う手立てとして、日本精神がきわめて有望と思う。
 人類を不幸にするに違いない、行き過ぎた市場経済に対しては、大きな者が小さな者をやっつけるのは卑怯、という感覚が歯止めとなる。社会を不安定にするリストラには慈愛や惻隠が役立つ。
 はびこる個人主義や利己主義には公の精神を、横行するいじめには卑怯を、子供の万引には『親を泣かせる』とか『お天道様が見ている』を、教えるのがよい。不正や不道徳な行為に対しては名誉や自制が抑止力となる。
 環境問題には自然への畏怖が役立とう。 <<


 これまた、的を射ていると思われます。
 では、この日本精神を世界に如何に弘めるか、これが問題です。
取りあえず、


 >>日本精神とは何か。さらにその神髄に触れたいと思うならば、大塚寛一先生の著書が、最良の導きとなるだろう。
 本書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)は、真の日本精神こそ、日本を再建し、世界を救う指導原理であることを、理論的かつ実証的に明らかにしている本だからである。<<


 ここから読んでみます。

1526goro:2012/09/15(土) 12:08:49 ID:Cc8Z7oOY

引き続きほそかわ氏のブログより転載させて頂きます。

日本精神の宗教的表現としての神道

わが国は、四季の変化に富んだ豊かな自然のなかで、自然崇拝・祖先祭祀をともにする共同体が、
天皇を中心として集合し、一大家族のような社会を構成してきた。この社会に自ずと発生・成長したのが、
人と人、人と自然が調和して生きる「日本精神」である。 また、その宗教的な表現が、神道である。

◆最高神としての天御中主命
 神道は一般に多神教といわれる。そう思っている人が多いだろう。学者・有識者の中にもそう言う人が多い。
宗教学にいう有神論と無神論、一神教と多神教等の分類は、もともとキリスト教を基準としている。
そこには、唯一的な超越神、男性的な人格神を、価値的に上のものとする価値判断が入っている。
この分類によると、神道は多神教だとされる。

 わが国では古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、
それを「カミ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。
それが自然の事物や現象だったり、人間の霊魂だったり、生きている人間だったり、
対象はさまざまである。何でも「カミ」になってしまう。まさに多神教である。

1527goro:2012/09/15(土) 12:09:42 ID:Cc8Z7oOY

 確かに一面でそのとおりなのだが、多神の間の相互関係をどうとらえるかによっては、
奥深い話になっていく。神道が、単なる多神教ではないことを示唆するものがある。
天御中主命という観念である。

 天御中主命は、『古事記』の冒頭に現れる。「アメノミナカヌシ」
名前の通り、宇宙の中心に存在する神である。

 この神は、記紀が編纂された時代に、シナの道教の道・太極・陰陽の思想にあわせて、
人工的に作られたものではないかといわれている。名称は、天の中心にあってすべての星々がその周りを回り、
それ自体は不動である北極星を連想させる。シナの天上皇帝や北辰信仰に通じるものかもしれない。
歴史的には鎌倉時代の度会家が創始した伊勢神道、江戸時代の平田篤胤による復古神道など、
様々な神道思想の中で、天御中主命は宇宙の中心の神、最高神として崇拝されてきた。
この神を根源的・原理的な神ととらえ、宇宙の根本理法であり、
かつ万有権現の原動力を象徴したものととらえる見方が可能である。
そして、皇祖神・天照大神を含む八百万の神々は、すべて天御中主命という本源の神の現れと位置づけることもできる。

1528goro:2012/09/15(土) 12:11:04 ID:Cc8Z7oOY

◆一即多、多即一の論理
神道は、アニミズムだとも言われる。アニミズムは精霊信仰、霊魂信仰などと訳される。
人類学者のタイラーは、アニミズムを「霊的存在に対する信仰」と定義し、宗教のもっとも単純で原始的形態とした。
そして素朴なものから複雑なものまで宗教はすべて、なんらかの形でアニミズムを含んでいると主張した。

 彼は、原初形態としてのアニミズムから段階的に一神教に進化したのだと考えた。最初は「すべて(All)」だったのが、
「たくさん(Many)」に減り、最後は「ひとつ(One)」になった。しかし、「ひとつ」だけはあったはずが、
それもどこにいるのかわからなくなった。それが、西洋の近代人である。精霊も妖精も消えてしまい、祖霊のことも忘れ、
Godのことも信じられなくなった。一神教は、かくして無神論にいたった。こうして近代人は精神を病んだり、悪夢にうなされたり、
攻撃性を自他に向けたりしている。これでは「進化」ではなく、精神的には「退化」である。

これに対し、タイラーの考え方から「進化=進歩・向上」という価値判断を除いて価値相対化すると、宗教のさまざまな形態は、
アニミズムの特殊化・多様化であると考えることもできる。 つまり、アニミズムの特殊な形態が多神教であり、
さらに非常に特殊な形態が一神教だという見方である。一神教の文明やそれを否定した無神論の社会でも、
アニミズム的な基層の文化は決してなくならない。ユングの研究はそのことを明かしている。
このように考えると、失ったアニミズム的な感覚を取り戻すことが、より豊かな精神世界を現代人にもたらすだろう。
ただし、近代化を経た後の人間は、原始未開の時代のアニミズムにそのまま戻ることはできない。

1529goro:2012/09/15(土) 12:11:47 ID:Cc8Z7oOY

 そこで現代的な観点に立って、一神教か多神教ということに話を戻すことにしよう。
多神教は広義では、アニミズムを含める場合があるので、ここではアニミズムも含めて、
多神教と呼ぶことにする。先ほど「カミ」について書いたが、仮にそれを天御中主命という名前に置き換えれば、
自然の事物や現象、人間の霊魂や生きている人間もみな「カミ」と呼ばれるものは、
天御中主命という本源の神の現れだというとらえ方となる。すると、わが神道では、
「多」であるところの神々は、「一」であるところの本源の神の現象または姿ともいえる。
「多」の相を見れば多神教的だが、「一」の源を思えば一神教的でもある。

 こうした関係は、唯一男性神を基準におく「一」か「多」か、という単純な形式論理ではとらえられない。
また、「有」である神の運動を根本においた、ヘーゲル的な「有」の弁証法でもとらえられない。

 そこで、しばしば哲学者や宗教学者によって、西田哲学の場所的論理が援用されるわけである。
西田哲学とは、西田幾多郎の哲学のことであり、難解で有名である。西田の場所的論理とは、
「一即多、多即一」「絶対の無即有」という論理である。そこに、一神教でもなく多神教でもなく、
また一神教でもあり多神教でもあるようなものにアプローチする手立てがあると思う。

つづく

1530うのはな:2012/09/15(土) 12:41:45 ID:SgYy8hFw

訊け管理人さまへ

 あなたは部室版でも出入り禁止要請がでるほど、過去にも今の3版でも
問題になっているし、以前、うのはなに貴女は歴史にお詳しくないようなのでと
決めてかかりながら薩摩藩について補足説明しますとか、要望もないのに勝手に
薩摩藩の話など書き出してきました。

そのような経過から、今後薩摩藩の話は続きは別版などでなさってください。
個人的には恥しらずの田舎サムライはいりません。

1531うのはな:2012/09/16(日) 20:54:40 ID:mlekxk7E

本流対策室版では、二元論がどうとかの話題になっているのかと思っていたが、
どうも人を批判するのは御教えに反している、、とかいう、いつもの
本流掲示板にたいする批判話になっていくようである。

 わたしは掲示板というところは、色々なあやかし、幻惑がとびかっているように見える。

1532goro:2012/09/17(月) 01:26:19 ID:Cc8Z7oOY

◆無にして有、ゼロにして無限大
 天御中主命は、ユダヤ=キリスト教的な「有」の神ではありえない。
また、宇宙をその外から製造したり、人間の世界に介入する人格神でもない。
「有」の世界にある私たちには、見ることのできない「無」の神である。
しかし、存在しないのでない。相対の次元にある私たちには対象化できない、
絶対の次元そのものを象徴するものと思われる。

 私は、有形的な「一」というより、無形的な「ゼロ(0)」にしてかつ「無限大(∞)」
といった限界概念だと考えている。仏教にいう「空」にあたるだろう。言語や論理を超えている。
しかし、まさにそれによって、自己があり、世界がある。 点とは位置だけあって、面積のないものと定義される。
「有」だが「無」でもあるわけである。小学校で使ったものさしがある。ものさしの長さは、30センチだが、
その中には何個の点が入るか。無限大に入る。「有」でもあり「無」でもあるものが、有限の中に無限大にある。
 不思議な世界である。それが、私たちが生き、死にしている、この世界である。

上記のように考えると、天御中主命を本源の神とする神々の体系についても、
一神教か多神教かというような単純な論理ではとらえられない。むしろ大変高度な世界観を表現したものと思う。

 天御中主命を「カミ」に置き換え、『古事記』や神道の諸派から切り離して考えることも可能である。
日本人が古来、「カミ」と呼んで崇め、畏れ、また親しんできたものは、一神教でも多神教でもとらえられない。
一神教も多神教もみなそこから湧き出てくるところの本源、絶対の次元を象徴するものと考えられるわけである。

1533goro:2012/09/17(月) 01:26:56 ID:Cc8Z7oOY

◆天照大神と本源の神
 一般に日本の神話では、天照大神が中心と考えられている。天照大神は太陽神であり、
また皇室の祖先神とされる。高天原の主宰神と描かれている。それゆえ、神道の最高神とする考え方がある。
ただし、記紀においては、天照大神はイザナギ・イザナミの男女二神から生まれたと記され、
イザナギ・イザナミには、またその祖先となる神々があるとされている。

 『古事記』の場合は、天御中主命を筆頭とする天神七代の系譜に、イザナギ・イザナミが現れる。
天照大神は父神イザナギから生まれた娘と位置づけられている。つまり、神々の系譜では、かなり後の代に現れた神なのである。
そのため、天照大神を神道の神々の体系において、中心・最高の神とするには、無理がある。系譜上、そのまた元があるためである。

 記紀には天御中主命・タカミスビ・カミムスビで造化三神、またはタカミスビ・カミムスビでムスビニ神とする記述がある。
その一相であるタカミムスビ(タカギノカミとも)が、天照大神に助力を授けている記述もある。
この点からも、天照大神を始源神とはなしえないことは明らかである。

 天照大神は、日本民族の諸氏族の氏神の中の最高位ではある。その意味では最高神である。
神道を民族宗教という範囲で考えるのであれば、それでよいだろう。しかし、神道を単なる民族宗教でなく、
宇宙的・哲学的な本質をもつものととらえる場合は、天照大神は、中心・最高の神には不適格となる。
宇宙の根本理法にして万有顕現の原動力を象徴した神では、ありえない。

 タカミムズビ、カミムスビ、イザナギ、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ・オオモノヌシ等も、同様に、本源の神とはできない。
これらの神々もまた、なにものかの現れまたは作用であって、本体そのものを象徴してはいないからである。

 この点で、神道思想のうち、天御中主命に注目する見方は、神道を普遍性のある世界宗教のひとつとして発展させる可能性を開く。
この場合、天照大神は、本源の神である天御中主命の現れであり、人格神として誕生し、ニニギノミコトをわが国に遣わし、皇室の祖先となり、
民族の中心となったと位置づけることができる。ほかの神々、諸氏族の氏神等も、みな本源の神の現れであり、
天照大神を中心とした一大親族のような関係となっている。

1534goro:2012/09/17(月) 01:27:29 ID:Cc8Z7oOY

◆民族宗教から世界宗教への可能性
 原理的には、天御中主命と、ユダヤ=キリスト教のヤーウェ=エホヴァ、
イスラムのアラー、ヒンズー教のブラフマン等とは、一体異名と考えられる。
神を宇宙の根本理法にして万有顕現の原動力と考えれば、神はひとつだからである。
このように考えると、一神教といわゆる多神教との戦いも、
一神教どうしの戦いも、人間が勝手に神の名において争っているだけである。

そのうち、日本の神道のように世界の神々が一大親族のように結び合って帰一していく時代がくるだろう。
そのときの構造は、一神教でもなく多神教でもない、「一即多」「多即一」の神道的な構造になるだろうと思う。
その前に、人類が自滅しなければの話であるが。
従来の神道は多神教的であり、アニミズム的である。神道の中にある一神教的な次元について考える人は、少ないだろう。
全国にある神社は、8万社といわれる。そこにさまざまな神が祀られ、時々の祭りが行われている。
こういうあるがままの現実が神道であり、また日本の文化である。

ただ神道が今のままで止まっていたら、単なる民族宗教で終わるだろう。その中にある価値は、
日本文明以外の文明や、人類社会に生かされることなく、封じられたままとなるだろう。
ユダヤ教は、イエスが出るまでは、まったくユダヤ民族の民族宗教でした。今もユダヤ教徒は、
まったくユダヤ的である。しかし、その中には、キリスト教という世界宗教が生まれ出てくるような潜在力があったわけである。

 私は今日の世界において、神道の本質を掘り下げ、その中にある潜在力を発揮することが、
もしできれば、地球環境の保全や国際社会の共存共栄に資するものとなれる、
そういう可能性が神道には眠っているように思う。言い換えれば、日本の精神文化の中には、
そういう可能性が潜在しているように思うのである。それを生かすことができれば、日本の再建もできるし、
世界の平和・繁栄にも貢献できる。生かすどころか、見出すことさえも出来なければ、
日本という国と文明は、段々沈み、溶け、消滅していく。どちらかであろう。

 今日、外国人の有識者で神道に注目する人々が、次々に現れている。
日本人自身が、日本精神の宗教的表現である神道と、その中に潜む偉大な発展力に目を
向けるべき時である。

つづく

1536うのはな:2012/09/17(月) 09:33:50 ID:Lu5TENfc
>1535
 すみません。上記goro様の投稿を見ないで書きました。
 もう間にはいらないので、おゆるしください。

1537志恩:2012/09/18(火) 07:59:48 ID:.QY5jUA6
goro様

goro様がされた古事記、神道関係の枢密な事柄の謹写を,有り難く、夜中に
心静かに拝読させて頂きました。

ありがとうございます。

1538goro:2012/09/18(火) 17:41:57 ID:Cc8Z7oOY

うのはなさま
単純な入力ミスと思われますので訂正させて頂きます。

「たまのをを むすびかためて よろづよも みむすびのかみ みたまふゆらし」

繰り返し黙読しますと、結びの原理(陰陽調和)の世界が観えてくるような気がします。
桃太郎のお話は若い頃よくしました。子供も喜びます^^v
日本昔ばなしには奥が深い物が沢山ありますね。
2歳の孫に話してあげる日が来るのを楽しみに待っています。

志恩さま
私もコピペしながら学ばせて頂いています。
「日本精神」は天照大御神様の「天壌無窮の神勅」神武天皇の「建国の詔」
更には明治天皇の「教育勅語」にその真髄が表されていると思います。
その内容が凝縮されて「國體」になったと思えば誇らしい気持ちでいっぱいになります。
父が詩吟の國體編をよく吟じていたことを思い出しました。祈っていたようにも思えます。

日本人に生まれて、谷口雅春先生の真理を学ばせて頂き、本当に良かったと思います。
まだまだ初歩的発展途上人ですが教を信じて進んで参りたいです。

1539うのはな:2012/09/18(火) 20:55:38 ID:YWcH1hUU
>1538 goro さま

 御指摘、訂正ありがとうございました。

 たまのをを むすびかためて よろづよも みむすびのかみ みたまふゆらし

 これは、おまじないの効果としては寿命を延ばすと書いてありました。

1540goro:2012/09/18(火) 23:38:00 ID:Cc8Z7oOY

日本における道と徳

(1)わが国固有の道

 シナの固有の思想・宗教は、儒教であり、道教である。わが国でこれに当たるものは、神道である。
わが国における道と徳について考えるに当たり、日本神道のことから始めたい。

 「神道」という言葉は、シナから入ってきた漢語である。漢語でこの場合の「神」は、
鬼神つまり死霊の意味である。「神道」の原義は、墓場への道をいう。わが国では、
この言葉をまったく違う意味に転用した。「神の道」「神ながらの道」として、
わが国古来の信仰を表わす言葉に使ったのである。その例を『日本書紀』に見ることができる。
聖徳太子の父・第31代用明天皇の段に、「仏法を信じ、神道を尊ぶ」とある。「神道を尊ぶ」とは、
日本の神々や皇室の先祖を敬うことである。

 聖徳太子について書いた太子伝では、補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。
儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、
以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されている。ここで「神道」というのは、
日本古来の道を言う。日本固有の宗教を、神道という漢語で呼んでいるわけである。

1541goro:2012/09/18(火) 23:38:35 ID:Cc8Z7oOY

 漢語の「神道」にある「神」の字を、日本人は「かみ」という大和言葉で読んだ。
ただし、日本の「かみ」とシナの「神」は違う。日本人は、人間を超えた力を持つ存在、
人知で知りえない働きや現象をすべて「かみ」と呼んできた。自然の事物や現象、祖先や偉人・英雄の霊などを、

一様に「かみ」と名づける。漢字であれば、天・霊・鬼・神・社・稷等をすべて「かみ」と呼び、
その総称として「神」という漢字を利用した。

 「神道」は、「かみ」としての「神」に「道」という漢字が結合した言葉である。
「道」は、シナの文献とともに入ってきた外来の観念であるが、神道という漢語がわが国固有の伝統を
表す言葉として転用された。先の太子伝の補註に見るように、儒道・仏道に対比して、神道が使われた。

 「神道」という文字は、「神の道」または「神ながらの道」と読んだのだろう。
「神ながら」とは、万葉集や祝詞に見える言葉である。「神ながら」は、
「神でおありになるまま」「神として」「神の御心のままで人為を加えないさま」(『広辞苑』)を意味する。

「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」と大伴家持が歌った句が、万葉集に載っている。
「葦原の瑞穂の国」とは、日本のことである。その日本の国とは、「神ながら言挙げせぬ国」である。
家持は、そうわが国の特徴を表現している。
そういうわが国に古来伝わる道が、「神ながらの道」であり、「神の道」、神道である。

1542goro:2012/09/18(火) 23:39:10 ID:Cc8Z7oOY

(2)「神ながらの道」が歴史を一貫

 6〜7世紀のわが国に、シナから儒教・道教・仏教が入ってきたとき、日本人はわが国固有の神道を保ちながら、
外来の思想・宗教を取り入れた。固有の宗教を土台として、その上に、儒教・道教・仏教が融和・総合された。
こうして固有の精神を失うことなく、外来の文化を摂取して、精神文化を豊かに発展させてきた。神道は、
「神の道」「神ながらの道」であり、神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道である。
自然崇拝・祖先崇拝を元にした宗教である。

 以前書いたように古代のシナにも、自然崇拝・祖先崇拝の宗教があった。
天神地祇への信仰であり、祖先の霊への信仰である。これは、日本風に言えば、シナの神道となるだろう。
古代のシナでは、「神ながらの道」を踏んで政治を行った聖王の治世が理想化され、「先王の道」とされた。
儒教では「先王の道」の復活を目指して「修己治人の道」が発達した。これに対抗して、老子の「無為自然の道」が思索されもした。

 これに対し、わが国では、神話の神々を祖先に持つ皇室が、建国以来、民族の中心にあって、現代まで脈々と続いている。
シナで言えば、三皇五帝が単に神話・伝説上の存在ではなく、彼らの子孫である王家が、古代から一貫して継承され、
現代においてなお存在しているようなものである。それゆえ、わが国においては、「神ながらの道」が途切れることなく、
歴史を貫いてきた。「先王の道」は失われることなく、代々の天皇に継承・実践されてきた。国民は仏教や儒教、
道教を養分として取り入れて、独自の精神文化を発達させてきた。

 このような文化発展が可能となったことには、聖徳太子の功績が大きい。
太子は、シナから流入する思想・宗教の文献を読破し、日本独自の理念を打ち立てた。
それが「和」である。太子が制定し十七条憲法は、「和をもって尊しとなし」と始まり、
「和」をわが国の基本理念に定めた。

1543goro:2012/09/18(火) 23:39:49 ID:Cc8Z7oOY

 「和」は、シナの儒教では徳目ではない。三徳・五常・五倫には挙げられない。『論語』には、
「礼の用は和をもって貴しとなし」とあるが、これは礼という徳目のもたらす効果として和をいうものである。
すなわち、礼つまり儀礼は社会に和合をもたらすというのが趣旨である。「和して同ぜず」という言葉」もあるが、
協調はするが妥協はしないといった意味で、「和」が徳目とされているわけではない。
 「和」は、仏教の徳目とも言えない。仏教には、「和敬」「和合」等の言葉があるが、そのもとは仏の慈悲である。
太子は仏教の興隆に努めはしたが、わが国を仏教国にしようとしたのではない。皇室にも伝わる固有の神道を根本として、
外来の思想・宗教を取り入れてわが国の精神文化を豊かにしようとしたのである。

 シナから思想・宗教の入ってくる以前より、わが国の社会では調和が大切にされてきたものと思われる。
その中心には、天皇があり、国民全体が一大家族のような共同社会を形成する。 古代の日本人は、国名を「わ」と言ったものらしい。
「わ」は、環濠集落を意味する。「輪」であり、輪になった集団である。「わ」と聞いてシナ人が「倭」の字を当てたのだろう。
日本人は、その字を嫌って、「和」の字を当てたものと思われる。
太子の「和」は、こうした日本固有の理念を「和」という漢字を借りて表わしたものだろう。

 「和」の国・日本に伝わってきた道が、「神ながらの道」「神の道」であり、神道である。
人々は、調和を心がけながら、知らず知らずにこの道を踏み行ってきた。そこに自ずと育成された徳が、日本人の美徳と言えよう。

 つづく

1544goro:2012/09/20(木) 10:02:59 ID:Cc8Z7oOY

(3)日本人の美徳

 日本人をよく知る外国人は、日本人の特徴として、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等を挙げる。
これらは、日本人の具体的な美徳と言えよう。日本人は、四季の変化に富む、豊かな自然のなかで、人々が天皇を中心として、
一大家族のような社会を構成して生きてきた。そこに自ずと発生・成長したのが、人と人、人と自然が調和して生きる日本精神である。
日本精神の根底には、自然を愛し、自然を畏れ、また祖先を大切に祀る敬神崇祖の念がある。その宗教的な表現が神道である。
「神の道」「神ながらの道」である。

 わが国固有の神道は、自然崇拝・祖先崇拝の生き方である。自然の事物や現象を神と感じ、神を敬い、神を畏れる。
また祖霊を尊び、大切に祀る。古代の日本人は、清明心つまり「清き明き直き心」を大切にした。
自然神・祖先神には心身を清めて向かい、人には邪心なく接する。罪けがれを忌み嫌う。
正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等の日本人の美徳は、「清き明き直き心」の働きと言えよう。

 人々が「清き明き直き心」をもってともに生きる社会に実現されるのが、「和」である。
聖徳太子が基本理念とした「和」は、人々が「清き明き直き心」を大切にし、
「神ながらの道」に沿って生きる社会の理念と言えよう。人々が、人と人、人と自然の調和を心がけて、
和をもって日本古来の道を踏み行ってきたところに、徳が育成され、日本人の美徳が豊かに継承されてきたものと思う。

1545goro:2012/09/20(木) 10:03:40 ID:Cc8Z7oOY

(4)日本精神の発達と武士道

 さて日本人は、聖徳太子の打ち出した指針のもとに、神道を根本として、外来の儒教・道教・仏教を摂取してきた。
固有の宗教を保ちながらこれらの思想・宗教を共存させ、時間をかけて融合させてきた。儒教は主に思想として学ばれてきたが、
儒教の持つ宗教的な要素はわが国の慰霊の習俗に深く溶け込んでいる。
道教は、陰陽五行説や庚申信仰など、わが国の文化・習慣の一部になっている。
仏教は言うまでもなく、日本人の倫理観・世界観に多大な影響を与えてきた。
とりわけ道徳に関しては、仏教の因果応報・罪障消滅の思想が、日本人がもともと持っていた罪・穢れの観念と結びついて、
日本人の道徳の深い部分を形作ってきたと思う。

 そして、神道を基盤として、神仏融合・神儒混交等が進み、宗教心に深く根ざした道徳が発達し、
正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等の美徳がよく発揮されてきたものと思う。
とりわけ平安後期から発達した武士の文化には、神道・儒教・仏教のさまざまな影響が見られる。
なかでも道徳面においては、儒教の思想を日本独自に解釈し、これによって徳性を養ってきた。
武士には、皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者という三つの特徴がある。
その特徴は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応する。こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、
平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出した。江戸時代に入って、
それが一層、自覚的に表現されることになった。これが、今日いうところの武士道である。

1546goro:2012/09/20(木) 10:04:22 ID:Cc8Z7oOY


 徳川家康は、朱子学を幕府の教学に定めた。それにより、儒教は武士の基本的な教養の一部となった。
日本人は、シナの儒教を単に摂取するのでなく、これを深く研究した。山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らは朱子学を出て、
直接経書を研究し、古学派と呼ばれる。この過程は、儒教を日本化する過程でもあった。
 武士道は、儒教の概念を使用することによって独自の表現を得、理論化・体系化された。
しかし、根本にあるのは、わが国固有の精神であって、武士の潔さ、
美意識、敵を愛する心などは、シナの文化には見られない独自の徳性である。

 日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、とりわけ豊かに成長・成熟した。
明治維新は、武士道の発揮によって、成し遂げられた一代改革だった。近代国家の建設の中で、身分としての武士は消滅した。
しかし、その後、武士道は国民全体の道徳となった。大東亜戦争の敗戦後、武士道は失われつつあるが、
いまなお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続けている。
日本精神の歴史及び武士道については、いろいろ書いてきたので、ここでは簡単に終えたい。

 上記のような精神的伝統にあって、わが国における道と徳を最もよく表しているものが、
教育勅語だと私は思う。続いてその点を中心に書きたい。

つづく

1547goro:2012/09/21(金) 13:43:42 ID:Cc8Z7oOY

教育勅語における道と徳

(1)勅語が説く日本の徳
 教育勅語は、わが国の教育の理念・目標を説くものである。
また、日本人が古来受け継いできた自己本来の日本精神が、よく表現されているものでもある。

 教育勅語には、日本における徳の由来・内容・実践が簡潔明快に表現されている。
勅語は、「朕惟うに 我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」と始まる。
このように最初に、「徳を樹つること」として「徳」が出てくる。
 続いて、「我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは
此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。ここでは、忠と孝という徳目が出てくる。

 第1段に続く第2段では、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」と始まり、
家庭におけるあり方、社会におけるあり方、国民としてのあり方が説かれる。

 第3段では、「斯の道は」と「道」が示される。徳とは道の実践によって身に得るものである。
そして、最後は「朕爾臣民と倶に挙々服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」と、また「徳」が出て締めくくられる。

 このように教育勅語は、最初に「徳を樹つること深厚なり」と「徳」が述べられ、
最後に「其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」と結ぶ。それゆえ、教育勅語は、
日本人の徳の由来と内容、その実践を説いたものだという理解ができるだろう。

1548goro:2012/09/21(金) 13:44:20 ID:Cc8Z7oOY

 次に、もう少し詳細に見てみよう。

 第1段は、「我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」と、日本における徳の由来から始まる。
この一文は、明らかに記紀神話に基づいている。天照大神を皇祖とし神武天皇を初代天皇とする皇室の祖先が、日本の国を始めた時、
「うしはく」ではなく「知らす」という姿勢がめざされた。つまり力による支配ではなく、徳による統治が目指されたのである。
神武天皇以来、天皇は国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、親が子を思うように慈しみをもって政治を行うことに努めた。

 教育勅語は、「仁」の文字を使っていない。しかし、ここにおける徳が意味するものは、
「仁」である。「仁」は、いつくしみ、思いやりを意味する。孔子は、聖人君子の身につけるべき徳として、「仁」を説いた。
「仁」は、忠つまりまごころと恕つまり思いやりを含意する。「仁」は、以後、儒教の道徳思想の中心にすえられた。
「仁」の上は「聖」である。「仁」の理念を実現した理想的な状態が「聖」である。

 孟子は「仁」と「義」を合わせた「仁義」を説いた。力による支配ではなく徳による統治、
すなわち「覇道」ではなく「王道」を掲げ、君主は「民の父母」であるべきことを教えた。
さらに宋学では、「仁」を天道の発現と見なし、一切の諸徳を統括する主徳とした。
朱子学では、「仁」は観念的に理解されたが、陽明学は「万物一体の仁」を説いた。
「草木瓦石」に至るまで自分と一体であると考えれば、それらに対する哀れみが生まれる。
それが「万物一体の仁」である。哀れみが生まれれば、何とかしようとして、心が動く。
心が動けば人をして行動させることになる。ここに「知行合一」が目標とされる。

1549goro:2012/09/21(金) 13:45:06 ID:Cc8Z7oOY

 「仁」は、ついにシナでは理想にとどまり、実現できなかった。陽明学もシナでは消滅した。
しかし、わが国では古来、天皇は、「仁」の体得・実行に努め、「民の父母」たらんとした。
歴代天皇は、常に国民の安寧、世界の平和を祈念してこられた。その伝統は、今日まで続く。

 日本とシナの徳の違いは、公と私の構造と関わる。シナの古代帝国は家産制国家だった。
国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者だった。日本は7〜8世紀にシナに学び、
中央集権的な家産制国家をめざしたようであるが、シナでは帝国全体が皇帝の
「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違う。

 わが国では、天皇は「公」の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になった。
シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、
人民のために仁政に努めた。シナの理想は、日本において現実のものとなった。しかも、古代から今日までその伝統が続いている。

 こうして、天皇が行う「仁」に対し、国民が応えて行う徳目が「忠孝」である。
「忠」とは、偽りのない心、まごころ、まことである。特に、君主に対して真心をもって仕えることを言う。
「孝」とは、親を大切にすることである。祖先を大切に祀ることもいう。
 勅語は、「我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは
此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す」とある。
全国民が心を一つに合わせて忠孝の美風を作り上げてきたことが、日本の国柄の最も優れた美点であるとしている。

 勅語は、わが国の美風、「国体の精華」は、国民が忠孝を実践してきたことだというが、
実際は、天皇が仁を行なうのに対し、国民が忠孝をもって応えてきたものである。
天皇と国民の間に、仁・忠・孝が実践されている姿が、わが国の国柄の特徴をなす。
大和言葉で言えば、人々が、清き明き直きまことの心、まごころで、互いを思いやり、
和をもって生きる国が日本である、と言えよう。

1550goro:2012/09/22(土) 23:08:09 ID:Cc8Z7oOY

(2)「親⇒祖先⇒皇室⇒神」という連なり
 前項で天皇と国民の間に、仁・忠・孝が実践されている姿が、わが国の国柄の特徴をなすと書いた。
その背景には、わが国が天皇を中心に国民が一大家族のような社会を形成しているという、
わが国独自の特徴がある。国民は、親を大切にすることで、祖先をも大切に祀る。
これが「孝」の実践である。祖先をさかのぼると皇室につながると日本人は信じてきた。
祖先が皇室の分かれだったり、祖先が皇室に仕えてきたりした家系が多い。わが国では、
皇室は国民の本家のような存在と考えられてきた。それゆえ、祖先を敬うことは皇室を敬うことにつながる。
これが「忠」の実践である。

 また、国民は、祖先のはじめを氏神として祀ってきた。皇室は、天照大神を祖先神としている。
さらに、イザナギ・イザナミへとさかのぼる。そこでは、皇室と国民は源をともにする。
こうして日本では、神話の神々と人とが連続している。また、皇室と国民がつながっている。
すなわち、「親⇒祖先⇒皇室⇒神」という連なりがあると信じられてきた。

 こうしてわが国では、親と祖先に対する「孝」は、そのまま皇室に対する「忠」につながっていく。
自分の家の祖先神に対する敬いは、皇室の祖先神に対する敬いにつながっていく。このような国柄においては、
天皇への忠と親・祖先への孝のもとは、一つとなる。これを「忠孝一本」という。また、神を敬うことと、
祖先を崇めることは、別々の事柄ではない。神を敬えば祖先を崇めることに通じ、祖先を崇めることは神を敬うことになる。これを「敬神崇祖」という。「敬神崇祖」と「忠孝一本」が一つのものであることを理解するところに、
日本精神を理解する要諦がある。

 教育勅語には、「神」という文字は使われていない。儒教の「天」という文字も使われていない。
勅語の起草者は、思想的・宗教的な対立を生みやすい用語を避けた。しかし、文字に表わさなくとも、
勅語の背景に、わが国固有の信仰があることは、明治時代の日本人には、常識として理解されただろう。
「敬神崇祖」と「忠孝一本」が、ひとつの源から発していることが、戦前までの日本人には、
直感的に理解されていただろう。あえて言うまでもない共通認識ということである。

 以上書いたことは、日本文明の鮮やかな特徴であり、シナ文明とは明確な対比をなす。
ここまで読んできていただいた人には、そのことがはっきり理解されるだろう。

1551goro:2012/09/22(土) 23:08:48 ID:Cc8Z7oOY

(3)徳目と実践
さて、教育勅語の第2段は、「爾臣民」から「〜ニ足ラン」までである。ここでは、
初めに天皇が国民に対して「爾臣民」と親しく呼びかけ、国民が守り行うべきことを示している。
そして、具体的な徳目を掲げて、それを実践する意義が明らかにされている。
 ここでは第1段で述べられた忠孝を実践するための徳目が具体的に述べられていく。
挙げられた徳目は12ある。「孝行」「友愛」「夫婦の和」「朋友の信」「謙遜」「博愛」
「修学習業」「智能啓発」「徳器成就」「公益世務」「遵法」「義勇」である。

 第1段で、日本における徳の由来と内容を述べた教育勅語は、この第2段で徳の詳細を明らかにしているわけである。
これらの徳目は、個人的から家族的の私的な道徳にとどまらず、社会的から国家的の公的な道徳に及んでいる。
これらは単にシナの儒教の徳目を列挙したものではない。日本人の精神的伝統に基づいて再編されているとともに、
近代国家・日本の国民として期待される徳目へと発展されている。

 第3段は、「斯の道は」と始まる。すなわち「斯の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 
子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず」とまず述べる。
徳は、道の実践によって身に得られるものである。『老子道徳経』では、道とは「無為自然の道」であった。
儒教においては、道とは「修己治人の道」であり、それは天の道に基づくものであった。
ともに道を踏み行うことによって得たものを、徳と呼ぶ。

 教育勅語は、道について主題的に説いていないが、「斯の道」とは皇室の祖先が残し、
代々受け継がれてきた教訓であり、皇室の子孫も、国民も等しく守ってゆかねばならない道だとする。
この道については、項目を改めて書きたい。

 教育勅語は、最後を次ぎの言葉で結ぶ。

 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」

 その大意は、「私もまた、国民の皆さんとともに、父祖の教訓を常に胸に抱き、
この徳を守り実行して共にすることを、心から念願するものであります」ということであろう。

 これは明治天皇が国民に呼びかけたものである。「拳拳服膺」とは「謹んで捧げ持つように、
常に心に抱いて守り実行すること」を意味する。天皇は自ら実行するともに、
国民に対して、一緒に実行して、徳をともにしようと呼びかけている。
これが、わが国における徳の実践のあり方である。

 教育勅語は、最初に「徳を樹つること深厚なり」と徳の由来を述べ、徳の内容を展開し、
最後に「其の徳を一にせん」と徳の実践を呼びかけている。教育勅語は、日本人の徳の由来と内容、
その実践を説いたものであるという理解が可能だろうと思う。
 教育勅語には、「徳器を成就し」とあり、徳の器つまり徳の入れ物としての人間の人格完成を説いている。
こうした考え方が教育に具体化され、「修身」において、具体的な徳の体得が教育された。それが、
日本精神を受け継ぎ、発展させるものとなっていた。「修身」だけではなく、国語、国史(日本史)、
音楽等、教科の全体が、日本人の徳を涵養する教育となっていたのである。これは驚くべきことと言わねばならない。

1552goro:2012/09/22(土) 23:18:02 ID:Cc8Z7oOY

(4)教育勅語が示す道
徳とは、道を踏み行うことによって身に得るものである。教育勅語は、第3段にて「斯の道は
実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 之を古今に通じて謬らず 
之を中外に施して悖らず」と述べる。教育勅語における道とは、どのような道なのだろうか。

シナの儒教では、道とは「先王の道」であった。神話・伝説に伝えられた三皇五帝が天意に基づいて行なった道である。
天の道に基づく人の道である。その道を踏んだ先王の行いが受け継ぐべき伝統であり、回復すべき理想だった。
 わが国でこれに相当するものは、なんだろうか。「皇祖皇宗の遺訓」の源には、何があるのだろうか。
私は、源は神話に伝わる神勅にさかのぼると思われる。

日本神話の物語の一つに、天孫降臨の話がある。
そこで、天照大神は、孫のニニギノミコトを日本に派遣される時に、次のような言葉を与えたとされる。

  「豊葦原の千五百秋の瑞穂国は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべく地(くに)なり。
  宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。
  宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、まさに天壌(あめつち)とともに窮りなかるべし」

天壌無窮の神勅と呼ばれるものである。ここで日本は、稲穂が豊かに稔る国だと表現され、
皇室の祖先は、この国で末永く繁栄するように、天から遣わされてきたとされている。
教育勅語における「皇祖皇宗の遺訓」とは、この神勅を源として、代々の天皇に受け継がれてきた教訓と考えられる。

1553goro:2012/09/22(土) 23:18:34 ID:Cc8Z7oOY

 初代神武天皇は、ニニギノミコトの孫とされる。『日本書紀』によれば、神武天皇は、奈良の橿原(かしはら)の地で、
初代天皇に即位したとされる。この時、神武天皇は、日本建国の理念を高らかに謳い上げたと伝えられる。

その理念は、「橿原建都の詔」に示されている。

「上はすなわち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、
下はすなわち皇孫(すめみま)正しきを養ひたまふ心(みこころ)を弘めむ。
然して後に六合をかねて以て都を開き、八紘を掩(おお)ひて宇と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」

ここに「徳」が出てくる。「うつくしび」という大和言葉に、徳という外来の文字を当てている。
「うつくしび」は、いつくしみと同じであり、慈愛を意味する。神における「仁」とも言えよう。
現代的に言えば、神の愛である。

引用部の大意は、「天照大神が日本という国をお与え下さったご慈愛にお応えし、
祖先のニニギノミコトが正しさを養われた御心を広めていきたい。そして、それによって、
国中を一つにして都を開き、さらに天下に住むすべてのものが、
一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにすることは、なんと良いことではないか」と解される。

ここに表わされた理念を一語にしたのが、「八紘一宇(はっこういちう)」である。この言葉は、
日本人の「道徳上の目標」を表す言葉であって、侵略主義とは無縁のものであることが、
東京裁判においても認められている。本来は「世界は一家、人類みな兄弟」という意味であり、
英語ではuniversal brotherhood と訳されている。

1554goro:2012/09/22(土) 23:19:36 ID:Cc8Z7oOY


また、神武天皇の「建都の詔」には、
「苟(いやし)くも民に利あらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」という言葉がある。

ここで「民」は、「おおみたから」と読む。そこには、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れている。
そして、国民の福利をめざす政策を行おうという方針が示されている。以来、わが国では、力ではなく徳、
覇道ではなく王道をもって国を治めるという理想が、受け継がれてきた。

 教育勅語における「皇祖皇宗の遺訓」とは、神勅を源として、神武天皇の掲げた理念、
努めた態度を受け継ぐものだろう。そして、そこに表われているものが、日本における道であると考えられる。
 日本における道が、単に日本人及び皇室の祖先から受け継がれてきた道なのであれば、
特殊民族的なものにとどまる。ところが、教育勅語は、この道は、昔も今も、
いつの時代に行なっても誤りがない道であり、日本だけでなく、世界中どこの国で行なっても、
間違いのない道であるという。すなわち、日本固有の道であるとともに、
時代・場所を超えて普遍的に通じる道だとしている。

 これは、民族的なものをそのまま世界に押し広めて、同化させるという意味ではない。
民族的なものの中に、普遍的なものが本質として認められるという意味だろう。
すなわち、教育勅語の説く道も、『老子道徳経』の道も、儒教の道も、あるいは世界のあらゆる文化・
社会における道も、根本においては、一つの道の現れであり、その普遍的根源的な道が、
それぞれに感知・表現されたものと考えられる。

 わが国の道もまた、そのような普遍的根源的な道の現れであり、
日本においては、古来の道が途切れることなく守り継がれ、明治維新後、
世界の中の日本という時代を迎えた時に、改めてその道の価値が自覚されたということだろう。

つづく

1555goro:2012/09/23(日) 14:22:40 ID:Cc8Z7oOY

(5)「和」の精神
 道を踏み行うことによって、徳が身につく。教育勅語の説く道を行うことにより、天皇と国民には、徳が共有される。
その徳とは、天皇における「仁」であり、国民における「忠孝」である。そして、天皇が「仁」を行い、国民が「忠」を行い、
各家庭に「孝」が行われている状態を表す理念が、「和」であると私は考えている。

 古来、日本人は、人と人、人と自然の調和を心がけてきた。古くから国名を「わ」と呼び、「倭」を嫌って「和」の字をあてた。
国の中心となる「やまと(山門)」には、「大和」の字をあてた。いかに日本人が「和」を重視してきたかを示すものだろう。
 聖徳太子は、「和」を十七条憲法に明文化し、国家国民の理念として確立した。ここで太子は、「仁」「忠」「孝」を具体的に述べてはいない。
第6条に「君に忠」「民に仁」という文言はあるが、「孝」の文字は登場しない。それゆえ、私が、天皇が「仁」を行い、国民が「忠」を行い、
各家庭に「孝」が行われている状態を表す理念を「和」というのは、太子の言葉そのものによるのではない。

 十七条憲法において、内容として説かれているのは、「忠」のみである。 すなわち、第12条に「国に二君なく、
民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主とす」とある。
すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとした。
また第3条に「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とある。
太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記している。これらの条文は、天皇に対する「忠」を具体的に説くものといえる。

 「仁」については、具体的な記述はない。明記されていないが、天皇・皇族が「仁」を行なうことが前提とされていると推察される。
というのは、第12条に「兆民(おほみたから)」という語がある。民を意味する言葉を「おおみたから」つまり大切な宝物と呼ぶのは、
『日本書紀』の神武天皇のくだりと同じである。 ちなみに、民を意味する言葉には、「億兆」という漢語もある。教育勅語には、
「億兆心を一にして」という文言があるが、これを大和言葉で読めば、「おおみかたら心を一にして」となる。

 「孝」については、十七条憲法では、内容的にも触れられていない。しかし、古代の日本人にとって、親を大切にし、
祖先を大切に祀ることは、当然のことだった。十七条憲法は、仏教について「篤く三法を敬え」として、仏法僧を挙げている。
明示された文言だけ読めば、日本を仏教国にするための憲法かと誤解する。聖徳太子は、用命天皇の皇子であり、推古天皇の摂政を務めた。
皇室においては、古来の儀式が行われていた。神々を祀り、祖先を祀る儀式である。それは神道、「神の道」「神ながらの道」の実践であり、
同時に皇室における「孝」の実践でもある。太子は、憲法に「孝」を盛り込んではいないが、「孝」は言うまでもない前提だったと考えられる。

1556goro:2012/09/23(日) 14:23:16 ID:Cc8Z7oOY

(6)時を超えて貫くもの

 聖徳太子の十七条憲法は、日本の国家国民の理念として、「和」を打ち立てたものだった。
太子以後、日本人は、「和」の理念のもと、「和」の精神を発展させてきた。
 十七条憲法の約1200年後に発せられた「五箇条の御誓文」にも、聖徳太子の「和」の精神が生きている。
第1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」がそれであり、
第2条の「上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし」も同様である。
聖徳太子の説いた「和」の理念は、千年の時を超えて、近代日本の建設にも生かされたと言えまよう。


 教育勅語には、「和」の文字はなく、「和」の理念を明示的に述べた文書ではない。
しかし、勅語の全体が「和」の精神を表現したものだと、理解することは出来るだろう。

 第1段に「我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり。
我が臣民 克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして
教育の淵源亦実に此に存す」とある。天皇が「仁」を行い、これに対し、国民が「心を一つにして」応えて、
忠孝を行う。これはまさに、聖徳太子が目標とした「和」の姿だろう。

 また、最後に「朕爾臣民と倶に挙挙服膺(けんけん)して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶ひ幾う」とある。
天皇が国民に、道の実践を呼びかけ、天皇と国民が徳を一つにしようとともに努力する。そのあり方は、聖徳太子が、
「率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主とす」と書いた
わが国の国柄が、道徳的・精神的にさらに発展した姿だと言えよう。

1557goro:2012/09/23(日) 14:24:29 ID:Cc8Z7oOY

 日本神話、十七条憲法、五箇条のご誓文、教育勅語等の間には、幾千年幾万年の時を超えて貫かれているものがある。
そこに表われているのが、日本人の精神、日本精神なのである。

 歴史や伝統の中から日本精神を学び取ろうとするには、文書の文字に書かれたものだけでなく、
文字に記されていない構造を読み取ることが必要だと私は考えている。書いてある文字が思想の全体ではない。
日本人は、「言挙げせず」をよしとしてきた。非常に重要なことや、逆に当たり前のことは、あえて書かないできた。
文字になっていないことをも、構造として読み取らないと全体を把握できない。私が感得したいと思っているのは、
日本神話、十七条憲法、五箇条のご誓文、教育勅語等に通底しているもの、日本人の心の深層に流れてきたものである。
思想ではなく、心を感じ取ることなくして、日本精神はとらえられないと思う。

むすびに〜日本人の美徳を回復するために 明治の日本人が持っていた日本精神は、大正、昭和と進むに従って、徐々に失われた。
それが大東亜戦争突入の原因にある。戦後の日本人は、敗戦で自信を失って祖先の伝統を否定した。
物質科学の発達によって、神を見失い、自己過信に陥っている。
「和の精神」、共存共栄の調和の精神を忘れ、利己主義に陥っている。その結果、日本人としての美徳を失ってきた。

 今では日本人には美徳がある、と日本人が自分で言っても、最近の日本人はどうなっているんだと外国人に言われてしまう。

 安倍首相は、「活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、『美しい国、日本』」を目指すと所信を述べた。
首相は、その「美しい国」の姿の第一に、「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」を挙げる。これは、日本のよき伝統を取り戻した姿といえよう。
こうした「美しい国」は、国民が、かつて日本人が持っていた徳を取り戻し、徳を身につけてこそ実現できる。
そのためには、日本人が古来踏み行ってきた道を思い起こし、日本人の徳の由来・内容を知り、先祖・先人の美徳に学ぶことが必要だと思う。

1558気になるので・・・?:2012/09/24(月) 13:31:25 ID:Cc8Z7oOY

世界に誇れる日本の国柄とその心

世界に誇れる日本の国柄とその心について、日本の国柄の特徴は何か日本の国に伝わってきた心とはどういうものか、
それがなぜ今日、失われてきたのか、それを取り戻すにはどうすればよいか、について述べたい。

第1章 日本の国柄とその心とは
(1)日本の国柄と皇室の存在

 日本といえば、昔はフジヤマ・ゲイシャといわれた。最近はドラえもん、ポケモンが日本のイメージになったりしている。
しかし、日本の伝統や文化をよく知る外国の有識者は、日本の国のほかの国にない特徴として、皇室の存在をよく挙げる。
現在の天皇は第125代。古代から今日まで一系の皇室がずっと続いている。こういう国は、他にない。
イギリス、デンマーク等の王室は、せいぜい数百年。シナは、古代から王朝が何度も変わり、いろいろな民族が入って支配している。

 国柄を具体的に表すものを憲法という。英語では、国柄と憲法を一つの言葉で表す。constitution がそれだ。
戦後の憲法は、主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を三原則だと学校では教えているが、本当にそうか。
憲法には、三原則の前に、日本の特徴を表わしているものがある。本文を読むと、第1章は、天皇と題されている。
第1条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると書かれている。そこに、国柄が表されている。

 わが国は、皇室が国の中心に存在し、皇室を中心に国民が団結して、歴史が織り成されてきた。
これが日本の国柄の最大の特徴である。この国柄の特徴を学ぶことなくしては、
日本の歴史・伝統・文化を深く理解することはできない。戦後の学校教育は、この点を教えていない。
自分の国のことを知らない青少年を日々作り出している。海外に出て、日本のことを聞かれて、答えられず、
自分が自分の国のことを教わっていないことに気づく若者が多い。教育が間違っている。

1559気になるので・・・?:2012/09/24(月) 13:32:04 ID:Cc8Z7oOY

(2)仁と「おほみたから」〜神武天皇の詔

では、こうした国柄を持つ日本に伝わってきた心とは、どういうものか。
昨年、皇室に実に40年ぶりに、男のお子様が誕生された。
悠仁様と名付けられた。お名前には、「仁」という文字が使われている。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上陛下、皇太子様、秋篠宮様等、みな「仁」がお名前についている。
皇族男子は、お名前にみな「仁」という文字をつけている。これは平安時代からの伝統だという。
このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしている。
「仁」は、いつくしみ、思いやりを意味する言葉である。

 「仁」のルーツは、はるか歴史をさかのぼる。
 小学生に最初の天皇は誰かと聞くと、推古天皇、仁徳天皇などと答える。
初代は、神武天皇だが、教科書に載っていない。だから子どもたちは、最初の天皇の名を知らない。
 神武天皇は、一説によると2667年前に、奈良県橿原(かしはら)の地で、最初の天皇の位についたとされる。
そのとき、「橿原建都の詔」を発したとされる。その詔(みことのり=天皇のお言葉)の中に、
国民を意味する言葉として「民」「元元」という文字が出てくる。これらの文字は「おおみたから」と読む。
宝物だというのである。神武天皇は、国民を宝物のように大切に考えた。ここに「仁」のルーツがある。

 「橿原建都の詔」には、次のような部分がある。
「六合(くにのうち)を兼(か)ねて以(も)って都(みやこ)を開(ひら)き、
八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為(せ)むと、亦(また)可(よ)からずや」

 これは、「国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、
また良いことではないか」といった意味である。

1560気になるので・・・?:2012/09/24(月) 13:33:41 ID:Cc8Z7oOY

 国中が一つの家族のように暮らせる国、世界中が一つの家族のように暮らせる世界をつくりたいーーそれが、
日本建国の理想である。この建国の理想を一言で表す言葉が、「八紘一宇」である。
八紘一宇は、日本がアジアを侵略するスローガンのように誤解されているが、東京裁判では、
なんら侵略的な意図のない言葉だと確認された。英語ではuniversal brotherhoodと訳される。
人類みな兄弟という意味になる。

 他の国では、国王・皇帝は、自分の権力を求め、国を支配し、国民から搾取する。
それゆえ、それに恨みを抱いたものが、政権を奪い、新たな王朝を立てる。それを繰り返してきた。
それに対し、日本では、建国の理想のもとに、天皇が国民をわが子のようにいつくしみ、国民に思いやりを持ってまつりごとを行う。
国民はこうした天皇の御心に応え、天皇をわが親のようにしたい、天皇を中心として国民が家族のように結び合って生活してきた。
だから、神話の時代から21世紀の今日まで、一系の皇室が125代も続いている。

 こうしたわが国では、各家庭にあっては、親は子供を愛情を持って育て、子どもは、親が年を取って弱ってもどこまでも大切にする。
夫婦は、男女の特長を認め合い、欠点を補い合って、和を心がける。また祖先を大切に祀り、子孫の幸福・繁栄を願う。
そうした家庭が寄り集まって、一つの国をなしている。社会にあっては、人々が助け合い、共存共栄を心がける。
海外の文化も積極的に取り入れて、固有のものと調和させてしまう。その国全体の要に皇室があり、
国民は皇室を中心として団結して生活する。これが、日本のもともとの姿であり、これこそ、
日本人が世界に誇ることのできる国柄であり、その心である。

1561気になるので・・・?:2012/09/24(月) 13:34:11 ID:Cc8Z7oOY

(3)「わ」の国の「和」の精神

 わが国の国名は、日本(にっぽん)という。
「日(ひ)の本(もと)」の国、つまり太陽のもとにある国、太陽が昇る国を意味する。
それを旗に表したのが、「日の丸」である。国名と国旗が深く結びついている。

 もっと古くは、国名を「わ」と言ったらしい。「わ」は、「輪・環」を意味する言葉だ。
シナ人に、お前の国の名はなんと言う、ときかれて、「わ」と言うと答えたのだろう。
それでシナ人が、「倭」の文字を当てた。「倭」は、背が曲がってたけの低い小人をいう。
日本人の先祖は、この字を嫌って、「和」の字を当てた。また国の中心、都を表わす「やまと」という地名に「大和」の文字を当てた。「大和」を「やまと」と読むのは、まったくの当て字である。日本人の祖先は、それほど「わ=和」を重んじたのだろう。

 こうした和を重んじる考え方を理念として表現したのが、聖徳太子である。
約1400年前、推古12年(604)に太子は、十七条憲法を制定した。
太子は、その中で「和の精神」を説いた。また同時に、わが国のあり方、国柄を表現した。

 憲法第一条は、「和をもつて貴(とうと)しとなし…」という言葉で始まる。
「和をもつて貴(とうと)しとなし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。
(略)上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(ろん)ずるに諧(かな)うときは、
すなわち事(じ)理(り)自(おのず)ら通(つう)ず、何事(なにごと)か成(な)らざらん。」とある。
「お互いの心が和らいで協力するのが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。
(略)人々が上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、
何ごとも成し遂げられないことはない」というような意味である。

1562goro:2012/09/24(月) 13:34:58 ID:Cc8Z7oOY

 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではない。
「人々が調和すれば、道理にかない、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いている。

 また、太子は続く条文において、「和」を実現するための心構えを説いている。
すなわち、第十条では人への恨みや怒りを戒め、第十四条では人への嫉妬を禁じている。
第十五条では「私(わたくし)」を超えて「公(おおやけ)」に尽くすように説いている。
そして、最後の第十七条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし」と記されている。
「重大な事柄は一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」というのである。

 聖徳太子の「和」の精神は、一般に調和が大切という程度の意味と思っている人が多い。
しかし、聖徳太子が説いたのは、「天皇を中心とした和の精神」である。ここをしっかり把握したい。
第三条に「詔を承りては必ず謹(つつし)め」とある。天皇からお言葉を頂いたら、謹んで受けよというのである。
太子は、豪族・官僚たちに天皇の言葉に従うように記している。

 第十二条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。
率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主(あるじ)となす」とある。
ここにも「おほみたから」が出てくる。国に二君はなく民に二人の君主はいない。国中の民は、
天皇を君主とする。国民統合の中心は、天皇であることを明記している。
 第十五条には「私に背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり」とある。
私の利益を超えて公のために向かって進むのが、臣下たる者の道であると説いている。
 ここに日本における天皇と国民のあり方が示された。さきほど国柄を具体的に表すものが憲法だと言ったが、
十七条憲法は、日本の国柄を表現している。

 こうして太子は、天皇を中心として国民が統合された国のあり方を、理想として打ち出した。
神武天皇の理想を受け継いだものといえる。

 太子の理想は、大化の改新や律令制において追求された。
その後、平清盛、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉など有力者がいろいろ出たが、
誰も皇室をおかして成り代わろうとする者はなく、皇室は一貫して存続してきた。

 19世紀半ば過ぎ、幕末に、欧米列強が押し寄せ、民族存亡の危機に直面した。
このとき全国各地で草莽の志士達が立ち上がった。吉田松陰、西郷隆盛、坂本竜馬らだ。
彼らは、天皇を中心とした新しい国づくりをめざした。

1563goro:2012/09/25(火) 18:53:03 ID:Cc8Z7oOY

(4)五箇条のご誓文と教育勅語

 明治維新にあたり、明治天皇は、五箇条のご誓文を発せられた。
ご誓文は、近代国家日本の出発点において、
国是つまり国家の根本方針を示したものである。

第一条には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」、
第二条には「上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし」とある。
天皇を中心に仰ぐ新しい国を作ったところ、天皇は、国民に対して、広く会議を行なって、
何でも話し合って決めたい、身分の上下に関係なく、みな心を一つにして国づくりを進めたいと言っている。
ここにも聖徳太子の「和の精神」が表われている。
また、神武天皇の国民を「おほみたから」と思う心や「八紘一宇」の理想が生きていることがわかるだろう。

「五箇条の御誓文」というと、五箇条だけと思っている人が多い。
教科書には、五箇条しか載っていない。しかし、実は五箇条の下に、重要な言葉が続く。
明治天皇の誓いの言葉である。その中に「万民保全の道」という言葉がある。
国民すべての安寧を実現する道ということである。天皇は、国民すべての安寧を実現することを、天地神明に誓う。
そして、国民には、協力・努力して欲しいと呼びかけている。それが、五箇条のご誓文である。

 次に、明治23年に、明治天皇は、教育勅語を発せられた。
教育勅語は、日本の国の国柄とその心を表わし、これを教育の根本にすえたものである。
冒頭に「朕(ちん)惟(おも)うに 我が皇(こう)祖(そ)皇(こう)宗(そう) 国を肇(はじ)むること宏遠に 徳を樹(た)つること深厚なり」とある。
皇祖皇宗とは、皇祖が天照大神、皇宗が神武天皇と解するのが有力な説である。皇祖皇宗つまり皇室のご先祖が、国を始めたとき、徳というものを立てましたというのが出だしの意味である。その徳とはなにか。
これが先ほど述べた「仁」である。天皇が国民に対し、いつくしみ、思いやりを持ってまつりごとを行なうことである。

 こうした天皇の御心に応えて、国民は、君に忠、親に孝を実行してきたと勅語は言う。
それが「我が臣民(しんみん) 克(よ)く忠に克く孝に」の意味である。忠とはまごころを意味する。
まごころをもって、天皇に仕えることを、君に忠という。親に孝とは、子どもが親を大切にすることをいう。
このようにして、国民が忠孝を実行してきたことが、日本の国柄の最も美しいところだと勅語はいう。
勅語は、それを、教育の根本にすえようと言っている。

「億兆心を一にして 世々厥(そ)の美を際済(な)せるは 此(こ)れ我が国体の精華にして
教育の淵源(えんげん)亦(また)実に此(ここ)に存す」というのがその部分である。

 勅語は、続いて、家庭における道徳、社会における道徳、国民としての道徳を具体的に説く。
それは、学校教育だけでなく、家庭教育の指針ともなっていた。だから戦前の世代の日本人は、
うそをつかない、約束を守る、よく働く、みなで助け合うなど、外国人も驚くような立派な国民性を持っていた。

1564goro:2012/09/25(火) 18:55:55 ID:Cc8Z7oOY

 第2章 日本精神の神髄

 先ほど書いたように、神武天皇の詔、十七条憲法、五箇条のご誓文、教育勅語に一貫して伝わってきたもの。
それが、日本人の精神、日本精神といえる。日本精神という言葉は、戦前広く使われた。
昭和8年から日本精神がブームのようになり、多くの学者や有識者が、日本精神を説いた。
そのほとんどは、古事記・日本書紀などの書物の中から、日本精神とはこういうものだろうと考えた。
しかし、真の日本精神を伝える運動を推進された大塚寛一先生の説く日本精神は、それらととらえ方の深さが違う。

 大塚先生は、真の日本精神は、宇宙の根本原理、万物を生み出す原動力の表れだという。
その根本のところまで把握しないと、本当の日本精神とは言えないという。
聖徳太子の「和」の精神は人の和を説くものだが、大塚先生は、宇宙万物を貫く法則、
調和の理法に立って、日本の国に伝わる精神を見ておられる。
そして、日本精神とは、宇宙の根本理法が人間生活のうえに表われたもので、
自然の法則にかなっていると説いておられる。
 こうして大塚先生は、宇宙の根本理法を体得された境地、
万有生成の原動力を発揮されるお立場から、日本精神の神髄を初めて明らかにされた。

 真の日本精神とは、宇宙の法則にのっとって、人と人、人と自然が調和して生きる生き方である。
だから、世界中どこにもあてはまる精神である。 私たちの先祖は、日本精神の神髄のところまでは、
把握できていなかったものの、親から子、子から孫へと日本人の心を伝えてきた。
それによって、世界にも稀な立派な国柄を形成し、維持・発展してきた。そのことを今も明らかにしているのが、台湾である。

 金美齢氏は、台湾では日本精神は「リップンチェンシン」だといい、今もポピュラーな言葉だという。
日本精神は、誠実、勤勉、礼儀正しさなど人間のよいところを集約した言葉として、使われている。
例えば「あの店の経営者は、日本精神がある」といえば、「信用ができる」という意味なのだという。

1565goro:2012/09/26(水) 12:15:13 ID:Cc8Z7oOY

第3章 日本精神が失われている現状

 現在では、多くの日本人は、自分の国の国柄を知らない。自分の国に伝わってきた日本人の精神を知らない。
そのことが、今日の日本の社会に現れているさまざまな問題の根本原因にある。

 現代日本は、家庭を見ると、家庭の崩壊が起こり、親子・夫婦・兄妹のバラバラ殺人事件が頻発している。
また、しつけのできない親が増えている。学校を見ると、いじめ自殺が増え、中学生が文科相に手紙を書いて、
助けてくださいと訴えている。校内暴力は低学年化し、小学生が先生に暴力を振るう事件が目立っている。

 社会を見ると、企業倫理が低下し、社内の基準を超えた牛乳を使ってお菓子を作っていた会社が問題になっている。
美しい国・日本の象徴である富士山では、ごみを捨てて帰る人が多く、富士山がごみの山のようになってきている。
また国家を見れば、政治家の実態が報道され、事業所費・光熱水費などが取りざたされている。
実態は1000兆円ともいわれる膨大な財政赤字があり、それを子供や孫に押し付けるような形になっている。

 このように家族・学校・社会・国家のさまざまなところで、問題が吹き出ている。これらの根本にある原因は、
日本人が日本の国柄を忘れ、日本人の心、日本精神を失ってきているところにある。

1566goro:2012/09/26(水) 12:16:02 ID:Cc8Z7oOY

第4章 日本精神は、なぜ失われたか
 (1)戦前は、本来の日本精神からはずれて大敗

 なぜ日本精神は、失われてきたのか。敗戦後、日本精神が失われてきたと考える人が多い。
確かにそうだが、大塚先生は、戦前から日本精神からずれてきていたと見ておられる。その大意を述べてみよう。

 明治時代の日本人は、日本精神を中心として一致団結していた。だから、6億のシナや3億のロシアに勝つことができた。
ところが、日本人は、それ以後、段々、日本本来の特質を忘れ、一にも欧米、二にも欧米という考えにとらわれてしまった。
大正の初めごろから、さかんに外来思想をとり入れ、それを中心に動いてきた。外来思想とは英米の資本主義、自由主義がそうだし、
共産主義も入ってきた。その結果、本来の日本精神がないがしろにされ、政治家も日本の本質がわからなくなってしまった。

 日清・日露戦争に勝った後、アジアは安定し、自分から攻めて行かなければ他から攻撃されるような心配がなくなった。そうなると次第に、
政治家が国のことよりも、自分の利益にとらわれて、腐敗・堕落していった。その政界の腐敗ぶりを見かねて、軍人が政治に口を出すようになった。明治天皇は、「軍人は政治に関与してはならない」という勅諭を出しておられるが、軍人がそのお言葉に背き、政治に介入するようになった。
そして、青年将校などが、時の政府を倒せばなんとかなると考えて、5・15事件、2・26事件を起こした。
また海外では、軍部が満州事変を起こし、支那事変にいたると、シナで泥沼のような戦いに引きずり込まれていった。

 当時、わが国では盛んに日本精神が唱えられていた。しかし、大塚先生は、当時の学者や文化人等が唱える日本精神は、
本来の日本精神からはずれてきていると見ておられた。そして、昭和14年9月11日、「大日本精神」と題した建白書の送付を開始された。
先生は、独伊と結ぶ三国同盟に反対し、対米英開戦に反対・警告された。奥様の国恵夫人が先生の書いたものを編集・印刷・発行された。
毎回千余の建白書を、時の指導層に送り続けた。開戦すれば、日本は大敗を喫し、新型爆弾が投下され、大都市は焦土と化すと予言された。
しかし、時の指導層はその建言を受け入れなかった。

 そして、ヒットラーやムッソリーニ等の覇道をまねた東条英機が、遂に英米と開戦した。
そのため、日本は建国以来はじめての敗戦を喫してしまった。

 昭和天皇は、三国同盟に反対され、英米との開戦を避けるよう強く願われていた。
当時の軍部は、明治天皇の遺勅に反し、昭和天皇の御心に背いて暴走した。戦後は、
日本精神そのものが間違っているように教育している。しかし、日本精神が悪いのではない。
指導者が日本精神を踏み外したのである。大塚先生は、大意このように説いておられる。
戦後の日本は、いま述べたことを根本的に反省して、再出発すべきだった。
しかし、その反省をせずに進んできていることに気づかねばならない。

1567goro:2012/09/26(水) 12:18:43 ID:Cc8Z7oOY

(2)戦後、日本人が日本精神を失ってきた理由
 戦前は、指導層が本来の日本精神を踏み外した。しかし、戦後は、国民全体が日本精神そのものを失ってきている。
日本精神を失ってきたことは、戦争に負けた以上に大きな誤りを冒し続けているのである。
 戦後、日本人は自己本来の精神を失ってきている。それは、どうしてか。

① 敗戦による自信喪失
 日本人は敗戦によって自信を喪失してしまった。欧州の国々であれば、しょっちゅう戦争をしているから、
戦争に負けても、またいつかやりかえしてやるというくらいに考えて、善の悪のとは考えない。ところが、
わが国は四方を海に囲まれた自然条件に恵まれ、外敵に攻められて敗れるということがなかった。
そのため、たった一度の敗戦で自信を失ってしまった。そして、日本の過去のものは、良いものも悪い物も何もかも、
封建的だとか古いとかいう理由で捨て去ってしまうという愚かなことをした。

②日本弱体化政策で精神的に骨抜きに
 この背後には、占領軍による占領政策がある。
占領軍は、日本が再びアメリカ及び世界の脅威にならないように、日本を弱体化させようとした。
 まず戦争の罪悪感を植え付け、日本人を精神的に骨抜きにしようとした。民族の歴史や記憶を忘れさせようとした。
日本人としての誇り、愛国心を消し去ろうとした。

 教育勅語を否定し、修身教育をなくした。教科書から教育勅語は除かれ、日本人の道徳、精神的伝統を教えないようにした。
 憲法までを変えた。GHQがわずか1週間ほどで造った英文の憲法を押し付けられた。銃砲下で言論が規制されるなかで、
英文を翻訳して憲法がつくられた。現行憲法は、日本の国の国柄・伝統・歴史にふれていない。
前文を読んでも、どこの国の憲法かわからない。天皇の権威と権限を弱め、個人の自由と権利を強調し、
責任と義務の少ない規定にした。そのため、国の中心が見失われ、国民が精神的に分裂するようになってしまった。

② 経済中心・もの中心、個人中心・自己中心に
戦後の焼け野原から復興するため、父母や祖父母の世代は、苦労した。
しかし、経済成長・物質的繁栄が得られると、段々経済中心・もの中心の考え方に陥るようになった。
国家や公共のことを考えず、個人や私の利益を追求するうちに、個人中心・自己中心の考えが広がった。
それが家庭にも及び、家族の中でも個人中心・自己中心の考えが強くなった。その結果、親が子どもをちゃんと教育できなくなった。

1568goro:2012/09/27(木) 12:33:42 ID:Cc8Z7oOY

日本会議 オピニオン・歴史より転載です。

−欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか−

15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、やがてアジア全域を植民地化した。
彼ら白人帝国主義国はいかなる侵略行為を行ったのかを知ることにより、
大東亜戦争が欧米列強からのアジア解放の聖戦であったことが理解されると思います。

1 掠奪と搾取

350 年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、
強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などの
ヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。
インドシナ半島東部を支配したフランスは、無主の土地に没収令を出して、申告のない土地を
収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。

イギリスは、インドの綿織物輸入で利益を上げていたが、産業革命で自国の綿製品が盛んになると、
インドの綿製品には課税しイギリスの綿製品には免税して逆輸入させてしまった。
これによりインドの紡績業は大打撃を受け、織物都市のダッカの人口は激減した。

また、茶の輸入により入超になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すために
インドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。
財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、
香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。

1569goro:2012/09/27(木) 12:34:24 ID:Cc8Z7oOY

2 貧困と飢餓

列強は、アジアの都市・沿岸地方における貿易で利潤を得るのが目的であったが、
18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製品の市場として広範囲な植民地を直接支配するようになった。
土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、白人の資本投下によるプランティションで行われたが、
それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。

そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、
完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。
その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。

ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、
1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。

1570goro:2012/09/27(木) 12:34:56 ID:Cc8Z7oOY

3 複合民族化

大規模農業の急速な開発によって、大量の労働者を必要とした列強宗主国は、大量の移民政策をとった。
インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が1860年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加。
マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者にインド・タミール人が大量に移入された。

これらの移入アジア人は、現地社会と融合せず固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会ができあがってしまった。
また、植民統治では、この移入アジア人を金融と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、
次に華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い現地民が最下層の地位におかれるという階層社会を造った。
この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、マレー人52%、華僑39%、インド人12%という
複合民族国家が形成され、戦後も深刻な民族対立の原因となっている。

1571goro:2012/09/27(木) 12:35:27 ID:Cc8Z7oOY

4 弾圧と虐殺

列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。
イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。

当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。
白人殺害1に 対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。
事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。

フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、
6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。
1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。
「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」

アメリカとて例外ではない。米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、
全域を制圧した。また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、
米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。

1572goro:2012/09/27(木) 12:36:35 ID:Cc8Z7oOY
5愚民政策

列強のアジア支配の例として、オランダの350年間にわたるインドネシア支配の特徴を、
ASEANセンターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。

①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使って
 間接統治した。徹底した愚民政策をしいたのである。

②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用。
そして、オランダとインドネシアの混血児を作り中間階級として使い、民族の分断を策した。

③社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア国民の憤慨と憎悪は華僑に集まるよう仕向けた。

④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。3人のインドネシア人が立ち話することすら許されず、禁を犯せば反乱罪で処罰された。

⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。

1573goro:2012/09/28(金) 12:09:29 ID:Cc8Z7oOY

列強の侵略にあえぐアジア

清(中国)
1662 年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、
イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。
特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、
半ば植民地の状態となった。

朝鮮
14世紀に李氏が朝鮮半島を統一したが、17世紀に入ると清の攻撃を受けて服属した。
欧米列強は鎖国を続ける朝鮮に開国をせまり、我が国も日朝修好条規を結び開国を進めたが、
日清戦争によって宗主国の清に朝鮮の独立を認めさせた。その後ロシアが朝鮮を圧迫したが、
日露戦争を経て、我が国が朝鮮の指導・監督権を獲得し、1910年、日本の領土(日韓併合)となった。

インド
紀元前4世紀に統一国家の出現を見たインドは、16世紀にはムガル王朝が成立した。
しかし、1600年にイギリスがインドに進出して乗インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。
イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。
以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。

ミャンマー(旧ビルマ)
1044 年にパガン王朝が全土を統一したが13世紀の元帝国の侵入後は小国に分裂し、やがてアラウンバヤ王朝が統一を達成した。
17世紀以降、イギリスの乗インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、
1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。

インドネシア
14世紀にはジャワ島を中心にマジャバヒト王国が勢力を拡大したが、17世紀にはマタラム王国などイスラム系の群小国家が成立した。
17紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、
19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。

1574goro:2012/09/28(金) 12:11:13 ID:Cc8Z7oOY

マレーシア
15 世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、
イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して
1895年にマライ連邦を結成した。

インドシナ三国
中国支配にあったベトナムは、10世紀に独立政権が誕生したが、19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、侵攻された。
ベトナムの宗主権を主張する清がフランスと戦った(清仏戦争)が敗れたため、1885年フランスの保護国となった。
カンボジアは、9世紀のアンコール朝がカンボジア最盛期の王朝となったが、14世紀以降は周辺国に侵入を受け衰還し、
ベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。ラオスも、14世紀半ばにランサン王国が最初の統一国家となったが、
1893年にフランスの保護国となった。フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。

フィリピン
7千余りの島嶼をもつこの地域は、マレー・インドシナ系の民族が、イスラム教を信仰していたが、
16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、
皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦卑でスペインに勝ったアメリカが
フィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。

タ イ
13世紀のスコータイ王朝が最初に民族統一国家をつくり、14世紀から4 百年続いたアユタヤ王朝を経て、
1782年に今日のバンコク王朝が創設された。19世紀から20世紀にかけてイギリスとフランスからの進攻を受けて
ラオス・カンボジア・マレーにある領土を取られたが、インドシナ半島の英仏両国の緩衝国家として独立を保った。

この稿終了

1575goro:2012/10/01(月) 19:40:04 ID:Cc8Z7oOY

今回も細川氏のオピニオン・サイトより転載させて頂きます。

 米・中・韓――売国と自虐の構造を断つ(2005.4.24)

少し古い論文ですが国家間の基本的な構造は変わっていませんので
参考にしていただけるとおもいます。

1576goro:2012/10/01(月) 19:48:05 ID:Cc8Z7oOY

 01■米・中・韓――売国と自虐の構造を断つ

アメリカは、貿易赤字と財政赤字の双子の赤字を抱えている。それゆえ、金がたくさんあるわけがなく、
普通は金融引き締め政策を行うべきところである。ところが、アメリカの投資会社は、ありあまる金をもって、
日本への金融や銀行の増資などにどんどん進出している。その金はどこからくるのか。日本からである。
日本の金が還流して、日本企業の買収に使われているのである。
 
 日本経済は、ものづくりを基本に置いている。それが資本主義経済の本来の姿である。
優秀で魅力のある自動車や電機製品は、消費者の購買意欲をひきつける。
その結果、日本は貿易黒字国となっている。

実は日本はバブルの時以上に、金あまり状態になっている。大企業は、銀行にどんどん借金を返している。
逆に、銀行は、いろいろ理由をつけて中小企業から融資を引き上げている。そのため、日本国内では金を融資するところがない。
そのためジャパン・マネーは、アメリカに流れていく。

その金で日本は、アメリカ国債を買っている。アメリカ国債を買うことによって、アメリカの赤字を日本が埋め合わせているのである。
ここで重要なのは、日銀が、金利ほとんどゼロの政策を取り続けていることである。
これは、日本の金をアメリカに誘導し、アメリカ国債を買うように仕向ける政策だろう。
日本の指導者が、アメリカに強制されて行っている政策だろう。

日本から流出した金は、形を変えてアメリカ人の金となって、日本の買収に使われている。
アメリカは貿易で損をした分を金融で取り返しているのである。最も典型的な例は、
日本国が3兆円の援助をした新生銀行を、アメリカの投資会社が10億円で買って7千億円儲けた話だ。
これは日米間に出来上がってしまった国際経済の仕組みによる。

 今の日本は、アメリカの金庫になっている。アメリカは他人の金庫の中に、手を突っ込み、好きな時に好きなだけ持ち出せる。
だから、貿易赤字を改善しようと本気で思ってはいない。汗水たらして働かなくとも、上がりを吸い上げる仕組みを作り上げたからである。
パラサイト現象である。金融奴隷といっても良い。

既に日本の優良企業の株を40%、50%と持つアメリカ企業が多数出ている。そのうえさらに、
日本は、アメリカ企業が一銭の金も払わなくとも日本企業を買収できるという、恐るべき株式交換の方法を実施するよう、
アメリカから求められている。今の日本は、これを拒むことができない。せいぜい実現を遅らせて、衝撃を和らげるのが精一杯である。

1577goro:2012/10/01(月) 19:48:51 ID:Cc8Z7oOY

現在、日本は膨大なるアメリカの債権を持っていながら、経済にも外交にも生かせない。
持っているだけで、使えない債権だからである。今後もアメリカの貿易赤字が増え続けると、
ドルの価値は年々下がっていく。そうなれば、日本の銀行が持っている債権は、
何十兆円という膨大な損失を蒙ることになる。宗主国と保護国の関係のようだ。

 どうしてこんなことになったか。奇蹟の高度成長を成し遂げ、世界一の経済大国になったはずだったのに。
まさにそこまで行ったからこそ、アメリカは日本を抑えにかかったのである。大東亜戦争で最初は日本が圧勝していたが、
ミッドウェー海戦から逆転し、最後はアメリカに惨敗したのと似ている。

根本原因は、わが国は、国防に決定的な弱点を持つ欠陥国家だということにある。現行憲法は国防を自ら規制している。
そのため、ソ連を崩壊に追いやったと喜んだのもつかの間、軍事大国化した中国や核開発を進める北朝鮮の脅威に対し、
自分で自分を守る力がない。責められれば、してもいないことまで謝罪してご機嫌を取り、いざという時にはアメリカに守ってもらうしかない。
それも絶対的な保証はない。日米安保条約には、必ず守るなどとは書いてないからだ。

 現行憲法を守る限り、自ら得た富によって自分を他国に売るという売国行為と、冤罪とわかっていて謝罪する自虐行為を続けることになる。
GHQによって押し付けられた憲法を放置してきたことが、いよいよ本格的な影響を及ぼしてきているのである。
現行憲法に固執し、永遠の金融奴隷、無期の冤罪人に甘んじるか。それとも憲法を改正して防衛力を高めたうえで、
アメリカと真に対等な関係を結び、周辺諸国にもの言う外交を行える国となるか。日本人はぎりぎりの選択を迫られている。

1578goro:2012/10/01(月) 19:49:46 ID:Cc8Z7oOY

 02■領土問題は、主権・国防・憲法の問題 2005.4.20初掲/2011.8.1加筆

戦後、日本は、独立を回復すると、失われた領土の問題に取り組んできました。米国との間では、昭和43年に小笠原諸島、
47年には沖縄の返還が実現しました。しかし、旧ソ連、現在のロシアとの間では、北方領土問題が依然として未解決です。

さらにそのうえに、新たな領土問題が発生しました。周辺国から次々と領土要求を突き付けられているからです。
韓国からは竹島、中国からは尖閣列島です。領土問題は、中国・韓国の反日運動の争点の一つとなっており、わが国は危機に直面しています。

◆領土問題の本質
領土問題は、独立国家としての主権を維持することに関わる問題です。
その本質は、主権・国防・憲法の問題です。主権には、対内的な権利と、
対外的な権利との両面があります。対内的な権利とは、国内の統治に関する権利です。
これに対し、対外的な権利は、領土や関税や在留外国人に関する権利です。
対外的な権利としての重要な要素が、領土に関する権利です。

領土なくして国家は存在しません。欧州には「一寸の領土を奪われて黙っている国民は、
全部の領土を奪われても黙っている」という言葉があるほどです。
領土問題においては、その国民がどこまでを自国の領土だと意識しているかが重要です。
そして、他国に対して国家主権を明確に主張し、それを維持する努力をすることが必要です。
国際法上、領土と認められている地域であっても、国民が自国の領土だと積極的に認識していない場合は、
他国の侵犯を受けても、鈍感になります。それどころか、他国が不法占拠し、
実効支配しても、それを排除するための行動を起こさなくなってしまいます。
戦後のわが国は、まさにそういう状態にあります。国防について、憲法で大きく規制しているからです。
私は領土問題の根本原因は、現行憲法にあると考えています。

1579goro:2012/10/01(月) 19:50:36 ID:Cc8Z7oOY

 ◆竹島・尖閣の次は対馬・沖縄
竹島は、明治38年(1905)、日本政府は内務省訓令により、「隠岐島の西北八十五里にある島嶼」を「竹島」と命名し、
島根県の所管としました。以後、いかなる国もこれに異議を唱えることはありませんでした、米国は、昭和26年(1951)、
ディーン・ラスク米国務次官補の書簡で、竹島は明治38年以降、島根県の管轄下にあり、
韓国から過去に領土権の主張はなされていないことを認めています。

ところが、大東亜戦争後、韓国の大統領となった李承晩は、昭和27年(1952)1月18日、
一方的に公海上に軍事境界線(李承晩ライン)を設定して、竹島を自国の領土に含めようとしました。
これに対し、わが国は有効な抗議・行動をせず、同年4月28日の独立回復後も、韓国の不法占拠を許し、
竹島の実効支配を受ける状態となっています。昭和40年(1965)6月22日の日韓基本条約締結まで、
このラインを越えたことを理由に韓国により、日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷、3929人が抑留されました。

韓国では国民に竹島は自国の領土だと教育・宣伝し続けてきており、現在ではほとんどの韓国人が竹島は韓国領だと主張します。
韓国の民間団体は、非公式の場では、対馬を初め、「北九州も山陰も韓国の領土だ」と主張しています。

竹島の約90キロ西に鬱陵島(うつりょうとう、ウルルンド)があります。鬱陵島は直径10キロメートルほどの島で、
1万人ほどの人口があります。竹島は日本固有の領土ですが、鬱陵島は韓国領です。
 わが国では、鬱陵島は江戸時代、「竹島」と呼ばれ、現在の竹島(韓国名・独島)は「松島」と呼ばれていました。
当時、鳥取藩の漁民が「松島(現在の竹島)」を幕府から拝領し、
「竹島(現在の鬱陵島)」へ渡る中継基地などに利用していたことが多くの文献に記録されています。

 一方、韓国の鬱陵島からは、竹島を肉眼で見ることはできません。遥か彼方の「独島」は当時、韓国側の視野にはなかったのです。
鬱陵島の沖には「竹島」という別の島があって、韓国の古地図に描かれた島はこれなのです。
 わが国は敗戦後、サンフランシスコ講和条約で、それまで日本領だった朝鮮・台湾等の領土を放棄しました。
その際、朝鮮については、「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定されました。竹島は、入っていません。
講和条約の調印前、韓国側が規定に竹島を含めるよう求めたが、受け入れられなかったものです。

1580goro:2012/10/01(月) 19:51:15 ID:Cc8Z7oOY

さて、尖閣諸島は、明治28年(1895)1月14日の閣議決定により、沖縄県の所轄としました。
日本領土に編入して以来、いかなる国からも異議申し立てはありませんでした。戦前はかつお節工場がありました。
大東亜戦争の敗戦後は米国施政下に置かれましたが、沖縄返還協定により昭和47年(1972)、沖縄とともに日本に返還されました。
以後、沖縄県石垣市に所属します。

尖閣諸島は日本領だということをシナは認めていました。大正9年(1920)、中華民国駐長崎領事がシナ漁民救助に対する「感謝状」を、
当時の沖縄県石垣村(現、石垣市)村民に贈っている。この漁船が遭難した当時、中華民国政府の外交当局が、感謝状の中で尖閣諸島のことを
「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記しています。

昭和44年(1966)発行の中華人民共和国政府作成の地図で「釣魚島」ではなく、「尖閣群島」と日本名で表記していました。

ところが、昭和43年(1968)、国連アジア極東経済委員会(エカフェ)が、この地域に石油、天然ガス等の埋蔵資源があると発表すると、
1970年代から、台湾・中国があいついで同諸島は数百年来、わが国の領土であったと主張しはじめました。中国は平成4年(1992)の領海法で、
尖閣諸島を一方的に中国領と定めました。現在、中国は、尖閣諸島(中国名は釣魚島)は「中国の不可分の領土である台湾省の一部」であると主張しています。
中国では、沖縄は本来中国領だという主張さえも、学者から出されているようです。

竹島・尖閣諸島から対馬・沖縄等へと、領土問題は拡大するおそれがあるのです。

1581goro:2012/10/01(月) 20:03:02 ID:Cc8Z7oOY

◆北方領土問題はどうして起こったのか?

今日の周辺諸国との領土問題を考える際、北方領土問題がなぜ未解決のままなのかを深く認識する必要があると思います。
この問題の認識を通じて、国際社会における主権の維持を真剣に考える必要があるでしょう。

 そもそも北方領土問題の発端は何だったのでしょうか。

大東亜戦争の終戦間近、アメリカの原爆投下で日本が決定的に弱まったとき、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、対日参戦しました。
昭和20年8月9日のことです。それは背後から袈裟懸けに斬りつけてくるような不意打ちでした。ソ連は満州・南樺太に侵攻し、略奪の限りを尽しました。
日本は、8月15日に「ポツダム宣言」を受け入れて、条件つき降伏をしました。すると、ソ連はその3日後の8月18日から、千島列島に攻め込んできました。

ソ連が列島北端の占守島に上陸し始めたとき、日本軍はこれに応戦し、激しい戦いを繰り広げました。
しかし、日本軍は北部方面司令官の命令で23日に局地停戦協定を結び、降伏しました。
アメリカが侵攻してきていないことを確認したソ連軍は、8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島、
9月3日に歯舞群島に上陸し、9月4日には全四島を占拠し終えました。

当時四島にはロシア人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいました。
島で生活していた人々の中には、着の身着のまま逃げてきた人もいます。住み慣れた土地を離れられなかった人々も、
昭和22年にはソ連軍によって強制的に日本へ送還されました。
以後、旧ソ連及びロシアは、北方四島をそのまま不法占拠し続けているのです。

1582goro:2012/10/01(月) 20:05:56 ID:Cc8Z7oOY

 ◆北方四島は、歴史的にも条約上も日本領

 北方四島がわが国固有の領土であることは、歴史的に明らかなことです。北方領土は、歴史的に、
一度も外国の領土になったことがないわが国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、
わが国に帰属すべき領土であることは疑う余地もありません。

幕末の1854年2月7日に、日本はロシアを「日露和親条約」を結び、千島列島は択捉島とウルップ島の間を国境とし、
樺太は両国民混住の地と決められました。明治維新後、わが国は、1875年に、千島列島をロシアから譲り受ける代わりに、
樺太全島の権利を放棄する「千島樺太交換条約」を結びました。この条約では、譲り受ける千島列島として、
シュムシュ島からウルップ島迄の18の島があげられています。その中に国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島は入っておらず、
これらの島々が日本領であることを物語っています。北方4島は、福岡県の面積にほぼ等しい総面積を持っています。
千島列島とともに世界三大漁場の一つにあり、豊かな資源に恵まれています。

こうしたわが国固有の領土である北方四島が、大戦後、現在もなお、ロシアの不法占拠の下に置かれています。
北方四島の返還を一日も早く実現することは、まさに国家の主権にかかわる重大な課題です。

ソ連の行為は、連合国の第二次大戦の処理方針である「領土不拡大の原則」に反しています。

連合国は、「領土不拡大の原則」を度々宣言しています。昭和16年(1941)の英米共同宣言(大西洋憲章)や、
昭和18年(1943)、アメリカ・中華民国・イギリスの指導者が集まって協定を発表したカイロ宣言もそうでした。
カイロ宣言では、「われわれは、日本の侵略をやめさせるために戦争をしているのであって、自国の領土を拡大する意図はない。
日本が、暴力(戦争)でとった領土は返される」と述べています。
「領土不拡大の原則」は、日本が受諾し、降伏のきっかけとなったポツダム宣言のなかにも引き継がれています。

この原則に照らすならば、わが国固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはありません。
またそのような法的効果を持つ国際的な取り決めも存在しません。

1583goro:2012/10/02(火) 14:15:03 ID:Cc8Z7oOY

 ◆ヤルタ密約とスターリンの野望

ソ連が北方領土の領有を主張する最も有力な根拠としているのが、ヤルタ協定です。
この協定は、昭和20年(1945)2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、
ソ連のスターリン元帥が、クリミヤ半島にある保養地ヤルタに集まって取り決めた秘密協定です。
その内容は、「ソ連が、日本に対する戦争に参加すること。
日本の敗戦において、樺太の南部とこれに隣接するいっさいの諸島はソ連に返還され、
千島列島はソ連に引き渡される」というものでした。
 しかし、ヤルタ協定は、米英ソ三国間の密約にすぎず、わが国が批准した国際条約ではありません。
わが国はそれに拘束される国際法的な根拠は何もありません。
ヤルタ協定の当事国である米国は、昭和31年(1956)、「ヤルタ協定はただそれを署名した国の
首脳が共通の目的を述べたにすぎない」と認め、「その当事国によるいかなる最終的決定をなすものではなく、
また領土を移転するいかなる法律的な効果を持つものではない」という見解を明らかにしています。

平成9年10月に米国立公文書館で「米ソ密約地図」が発見されました。
それによると、米ソ両国が対日戦における軍事行動の範囲を定めた秘密合意では、千島列島のソ連軍占領地域を
北千島四島に限定、北方領土を含む残りの千島中・南部は米軍の占領地域と指定しており、
ソ連軍の全千島占領は、米ソの密約に反して行われた事実が、明らかになりました。
北方四島の占拠は、米との合意を破ったソ連の膨張主義的軍事行動だったのです。

スターリンのねらいは、全千島だけではなく、北海道を武力制圧することにありました。
米軍がこれを察知し、すばやく対処したために、すんでのところで北海道は守られ、
北方四島だけで収まったというわけです。

1584goro:2012/10/02(火) 14:15:44 ID:Cc8Z7oOY

 ◆北方領土返還運動と交渉の遅滞

北方領土返還動は、終戦の年、安藤根室町長がマッカーサーに直訴したことに始まります。
以後、返還要求の声は全国に広まり、各地で様々な団体による返還運動が展開されています。
返還を求める署名は約7千万人にも上っています。

日本はサンフランシスコ講和条約で、多くの国と講和条約を結び戦後処理を行いました。
日本は千島列島、樺太の一部の権利、権原、請求権を放棄しました。
この時、わが国は千島列島に対する領有権を放棄したのですが、わが国の政府は、同条約による「千島列島」には、
日露和親条約で国境を定めた択捉島以南の南千島は含まれないとしています。この択捉島以南の南千島が、
日本固有の北方領土です。一方、北方領土を除く千島列島、つまりわが国が放棄した北千島については、
講和条約に帰属先が明記されていません。ソ連は講和条約に署名していないので、
南樺太および北千島の領有権は「未定」であるというのが、わが国の政府の立場です。

講和条約締結後、アメリカは、北方四島は常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、
かつ、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならない旨の公式見解を明らかにして、
日本の立場を一貫して支持しています。

わが国は、北方領土の返還を求めて交渉を続けてきましたが、旧ソ連及びロシアは、日本との間に領土問題は存在しない、
といって問題そのものを認めない姿勢を続けました。ようやく平成5年(1993)、エリツイン大統領が訪日した際、
北方四島の帰属問題を「法と正義の原則に基づいて解決する」と確認した「東京宣言」が宣言されました。
宣言では、北方四島の島名を列挙して、領土問題はその帰属に関する問題と位置づけられました。

1585goro:2012/10/02(火) 14:17:22 ID:Cc8Z7oOY

しかし、その後もいっこうに進展は見られません。北方領土問題が解決していないため、
わが国は、今もロシアとは正式な平和条約を結んでいません。南樺太および北千島の領有権は「未定」のままです。
日本の戦後は終わっていないのです。

 わが国の政党の中で、日本共産党は、全千島列島の返還を唱えています。
同党によると、日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時のスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にあり、
ヤルタ会談を根拠とした千島列島の併合は、「領土不拡大」の原則を蹂躙するものです。
そして、サンフランシスコ講話条約の「千島放棄条項」を見直し、択捉島以北を含む全千島列島について
「返還されるべき正当な根拠を持った日本の領土」としてロシアと交渉すべきとしています。
この論理で言うならば、南樺太も対象に含まねばなりません。わが国の政府は、ソ連は講和条約に署名していないので、
南樺太および北千島の領有権は「未定」であるという立場です。ソ連及びその法的継承者であるロシアとの交渉は、
北方4島に限定して行われてきており、今から対象を広げることは、交渉を難しくします。
私は、北方4島は日本の「固有の領土」としてわが国に返還してもらい、
帰属が「未定」の南樺太・北千島はロシア領と認めるというのがよいと思います。

 今日北方四島では、ただ同然の価格で私有化が進められているといいます。
他国の領土を不法占拠して返さないどころか、住み着いた者で分けてしまおう、というのでしょう。
そのため、日本政府は領土問題交渉で、ロシア中央政府、サハリン州行政府だけでなく、
民間の土地所有者にも配慮しなければならなくなっています。

 国家において、領土を失うことは、独立主権国家としての威信や国民の誇り等の無形の価値の喪失が大きいと思います。
それを前提としての話ですが、平成3年(1991)、当時自民党幹事長だった小沢一郎氏が独断で訪ソして、
ゴルバチョフ書記長と会談した際に作成した資料で、北方4島の資産価値を5,000億円としたことが話題になりました。
北方領土はロシアに不法占拠されているので、わが国は当地で生産活動を出来ていませんが、豊かな漁場なので漁業ができ、
また温泉等による観光業も行えるでしょう。
それ以上に重要なのは、石油・天然ガスが埋蔵されている可能性があり、潜在的な資源価値は大きいでしょう。


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