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本迹のログ倉庫

1美髯公:2009/07/18(土) 14:54:36
 
此処への書き込みは、管理人・スレ主以外は厳禁といたします。
違反投稿に関しましては即削除いたします。

  『五重の相対』とは
 大聖人の教義の一つ。一切の宗教・哲学・思想を比較検討して
その浅深・高低・優劣を判釈する五つの批判原理を言う。
これらの判定により大聖人の仏法が最高で有ると言うことが証せらる。

①内外相対・②大小相対・③権実相対・④本迹相対⑤種脱相対ですね

①は仏教と仏教以外との比較優劣の判定、
②は一代の諸経を小乗経と大乗経に立て分け比較優劣の判定、
③は大乗経の中でも法華経(実)と法華経以外(権)に立て分け比較優劣の判定、
④は法華経28品を14品までを迹門、15品からを本門と立て分け比較優劣の判定、
⑤は大聖人の仏法(寿量文底下種益の法門)と釈迦の仏法(寿量文上脱益の法門)との比較優劣の判定。

  『相対』とは

 ①むきあっていること。対立。
 ②お互いに関係があること。
 ③差別界の現象
 ④他とひきはなしては考えられないこと

以上が国語辞書です

 ①他との勝劣浅深を比較すること
 ②相互に向き合っていること。
 ③相互に関係をもっていること。対立すること
 ④哲学上、絶対に対することばで、他との関係において存在すること。
  あるいは、一定の関係、状況において妥当することをいう。
 ⑤天台において、相対種の開会の略称として用いる。

以上が仏教哲学大事典からです。

 『本迹』とは

 ①本地、垂迹
  本地:仏・菩薩の本体
  垂迹:仏・菩薩が衆生教化のために種々の化身を現じる姿

 ②本門、迹門
  1) 法華経二十八品の前半十四品を迹門、後半十四品を本門と言う
  2) 釈迦仏法を迹門、日蓮仏法を本門と言う
  3) 迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智と言う
  4) 知識を迹門、智慧を本門と言う

いつでも、読みやすいように上記語句の説明を最初に持って来ました

2美髯公:2009/09/10(木) 13:54:20
 以下、他板での「本迹」に関する説明および対話を

転載して行きます。

各人の、考察の一端にでもなればと希望しておりますm(__)m

3美髯公:2009/09/10(木) 13:58:54
−創価学会非公認非公式掲示板 本迹に関して対話するスレッド−

4 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 11:50:49 ID:AJ3hr85o0
 私の本迹に関する考え方を申します。

 本迹を優劣と同一視してはいけないと思います。
 本迹は立場の相違だと捉えた方が適切であると思っています。
 絶対的な真理で本迹を判断は致しません。
 カントの価値論の
 真善美を、牧口先生は、利美善になさいました。

 真理は認識の対象であるから価値の根本からはずされたのです。

 絶対的な法の優劣はこれと同様です。
 たとえば、爾前経の機根の衆生に法華経をといても無駄です。
 法の絶対的な高さからですと、自行化他のお題目を説けばいいですね。
 ところが釈迦も天台も伝教も、お題目は広めなかった。
 衆生の機根の故です。
 この場合、衆生が悟りやすい法、実践しやすい法が本です。
 お題目は迹ですね。
 この衆生はそう言う衆生です。
 法の絶対的な優劣では迹のお題目が勝ります。

 これで分かるように、仏法は人のための法です。
 法のための人ではありません。
 ですから衆生が本、そのための法が迹。
 衆生によって説く法を変えるわけですね。
 これが当然だと思います。


6 :梅:2008/11/11(火) 20:33:35 ID:GzTbFjgs0

ここに、牧口先生の価値論がでてきて、なるほど〜っと思い始めています。

「新・人間革命」第8巻P148で本迹の具体例が出ています。
その最初に、『たとえば、眠っている時は「迹」、起きている時は「本」。』とありますが
私にはそれが分かるようで、分からないでいました(というか・・「います」)
これも、価値論を前提にすれば、眠っている時は価値を創造しているとは言えませんから
「迹」でいいわけですね!?

沖浦さんが言われる「本迹」は『優劣』ではないという点は、『勝劣』の立て分けとは違うのかなど
もう少し勉強していきたいと思っています。
まだまだ、私には言及する力はないと自覚しています。

4美髯公:2009/09/10(木) 14:01:57
−創価学会非公認非公式掲示板 本迹に関して対話するスレッド−

7 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 20:57:18 ID:AJ3hr85o0
 梅さん

 本迹と、勝劣を同じで論じると駄目なんです。
 勝劣はある意味では絶対的な優劣なんです。
 本迹は現実主義なんです。

 学生で学ぶ時は本、遊んでいると迹。
 でも、遊んでいる時劣るとは限らないのです。
 この場合本迹がそのまま優劣じゃないですね。

 日蓮正宗は曼荼羅を絶対として信徒を支配してきた宗派です。
 ですから、曼荼羅が本で勝なんです。
 信徒は人間ですから、迹で劣なんです。

 何が何でもこうしておかないと、曼荼羅を取り仕切りする出家の優位が保てません。
 少し考えると分かりますが、出家に飯食わしているものは在家でしょう。
 じゃ、本は在家じゃないですか。

 曼荼羅は人の信心のためでしょう。
 じゃ人が本で曼荼羅が迹です。

 信心しないと仏になれない、その信心のためには曼荼羅本尊が必要です。
 最初に衆生の成仏と言う大目的があって、仏法は全てがその大目的にしたがって顕われます。
 
 『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』
 (新尼御前御返事)

 法が絶対で本なら、衆生の機根なんか気にするもんですか。
 サッサと法を説いて、悟れない奴は捨てておけ。
 こうりますよ。
 でもそうじゃないと大聖人様が仰せでしょう。
 
 疑うことないですね。 
 曼荼羅が本は、日蓮正宗の邪義です。

 人のための宗教なら、人が本、教えが迹。
 当然の道理だと思いますよ。

5美髯公:2009/09/24(木) 12:32:55
−創価学会非公認非公式掲示板 本迹に関して対話するスレッド−

8 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 21:18:23 ID:AJ3hr85o0
 参考資料です

法華経の智慧 〜二十一世紀の宗教を語る 第五巻 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20刊)
如来神力品① 地涌の菩薩への「付嘱」―― 広宣流布への荘厳な儀式
全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!

 「凡夫こそ本仏」の大宣言 (P171〜)
斉藤(斉藤克司教学部長・副会長) 考えてみれば寿量品で否定された「始成正覚」という考え方には、きわめて危険な要素があったのではないでしょうか。
 つまり釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で「始めて」悟った ――この始成正覚の「前は凡夫」「後は仏」と考えてしまうと、「人間・釈尊」が見えにくくなります。
 実際のところは「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ「わが仏界」に目覚めた。そうやって目覚めたからこそ、「人間として」最高の生き方ができた。
 つまり「人間・釈尊」として一貫しているわけです。この一貫性を「始成正覚」は切断してしまう危うさがある気がします。

遠藤(遠藤孝紀副教学部長・墨田区副区長) 始成正覚以後は「人間を越えた」何か特殊な存在になった、そんな錯覚に陥りやすいですね。
 釈尊という人格を、目の当たりにできた 釈尊在世の衆生はいいとして、釈尊滅後の人には、どうしてもそう思われがちだと思います。

須田(須田晴夫副教学部長・墨田区副区長) そこから釈尊を神格化したり、自分達は「凡夫でしかない」と卑下してしまった。これは謙虚なようで、じつは傲慢の裏返しですね。
 「人間(凡夫)」の尊貴さを知りもしないのに、知ったつもりで人間不信になっているわけですから。

名誉会長(池田大作創価学会名誉会長)  「凡夫でしかない」 ―― そういう言い方は、とんでもない間違いです。
 そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
 然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』 (全集P1358)   
 『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』 (全集P1359)  
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。 
“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。 
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、
 実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない ――こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。
 そう言えるのではないだろうか。

6美髯公:2009/09/24(木) 12:44:46
−けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板 もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋−

147 :もくれん:2008/11/27(木) 14:32:15
これからは、「梅」さんへの「専用レス」です。

梅さん、この夏、沖浦さんの、旧板で沖浦さんが「本尊は衆生己心の妙法で、曼荼羅が迹」が、
掲げられ、東国人さんが、乗り込み、「罵詈雑言掲示板」が生まれ、すぐ消え
とりあえず、その後、旧板のスローガンは、降ろされたのですね。
てっきり、沖浦さんも「その気」は、無くなったと解釈していました。

9月中旬頃、突然、又、「一大秘法はお題目」「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」を
主張し始め、その勢いは止まることはありませんでした。

10月中旬まで「対話」を続けましたが、氏の「カン違い」の一番の原因は
「本門の本尊」の「本尊」の意味を、完全に「カン違い」しているのです。

もう何度も書きましたが、書籍「教学の基礎」より
三大秘法の根本である一大秘法は「本門の本尊」
「本門の本尊」とは、
日蓮大聖人が胸中に所持されている、久遠元初の妙法たる南無妙法蓮華経であり、
またそれを(そっくりそのまま)図顕された曼荼羅本尊です・・・

ですから「本門の本尊」の本尊とは「法」そのものですし
曼荼羅本尊も「法」そのものです
ただ、曼荼羅本尊は物質という面から、寿命はある・・・
しかし、そこに顕された「法」そのものは永遠である・・

ですから、沖浦氏の「カン違い」は「本尊」の言葉の意味が、
正しく理解できてないことに尽きます。
そして、宗門(日顕宗)との、氏なりの「たたかい」で、味わったこと・・
つまり、宗門は「坊主が御本尊、なかんずく戒壇様を信徒支配のために
道具として利用している・・これはその通りですね」
この、体験が、曼荼羅本尊を、更に「物」として見る傾向に拍車が
かかってしまった・・と、私は推測していますし・・

梅さんは、有名な「創価仏法研鑽掲示板」、ご存知でしょうか?
その板の常連さんとも、何度か意見を交換しましたが、
概ね、意見は一致しております。
その板の常連さんは、ここ数年間、沖浦氏とは「教学談義」を
してきた方々です。
沖浦氏の思考の傾向性は、もう見抜ききっていますから。
私なんか、この夏からですから、最初は「ビックリ仰天」でしたが。

続く

7美髯公:2009/09/24(木) 12:56:13
−けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

148 :もくれん:2008/11/27(木) 14:52:17
>>147の続き  梅さん

原点に戻り
「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」・・これは、入り口で「アウト」です

曼荼羅御本尊と私達の関係を「本・迹」で、表現すること自体、間違いですね。

御本尊様は、私達にとって「帰命の対境」であり・・
御本尊を「明鏡」として、己心の仏界の生命を涌現する・・・

との表現はしますよね。

以下は、オアシスで書いたものを「貼り付け」ましたが
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じく全集から、生死一大事血脈抄から  142P〜

したがって、この「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との
三つと言う表現は、一応、・・・・途中略・・・

再応、元意の辺は、
久遠元初の自受用報身如来 即 日蓮大聖人 と
文底独一本門の大御本尊と
そして、私どもの生命がともに 南無妙法蓮華経であり、

この三つは「まったく差別はないと、解りて、と拝すべきであります。

★これを、差別があると思っていくのは、真実の仏法ではありません。
 仏は、素晴らしい特別な存在であるとし、我々衆生は、卑しく
 醜い存在であって、とうてい仏になどなれるはずがないと考えるのは
 大なる誤りであります。

★ しかしながら、「この三つ全く差別無しと解りて」といっても、
 それを、事実のうえで、「解る」・・理解するというところまで
 達していないのが、凡夫であります。

★  その場合「解りて」とはどういうことかといえば、
  「以信得入」「以信代慧」と示されるごとく「深く信心をとって」
   ということになるのであります。

★ともかく、御本仏日蓮大聖人の御生命も南無妙法蓮華経であり、
 その大聖人の御生命をそのまま、「すみにそめながして、かきて候」
 と仰せられている御本尊も、南無妙法蓮華経である。

★ そして、もったいないことでありますが、
  私ども、一人一人の生命もまた、同じ南無妙法蓮華経であると
  「こう信じて」、南無妙法蓮華経と唱える時、私どもの生命に
  生死一大事の血脈、すなわち、南無妙法蓮華経の大生命が
  脈々と湧現してくるのであります。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しいていえば、曼荼羅本尊も「本」私達も「本」ですね・・
差別はないのですから、しかし「信」が条件ですよと・・
ですから、「本・迹」の表現は、完全に間違いなんです。
まず、これが第一段階ですが・・

続く・・


御本尊様は、私達にとって「帰命の対境」であり・・
御本尊を「明鏡」として、己心の仏界の生命を涌現する・・・

との表現はしますよね。

8美髯公:2009/09/24(木) 12:58:55
  −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
   もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

149 :もくれん:2008/11/27(木) 15:12:27
>>148の続き  梅さん

梅さんの今の心情としては、沖浦さんが「本当は何を言いたいのか」
ここですよね。
沖浦さんは、仏法は人間のためにあるのだ・・人間主義の宗教・・
これを「言いたい」のですが、
確かに宗門は、信徒支配で「御本尊利用」・・
その他「聖職者」を「仲介」させないと、ダメ・・という宗教は人間主義では
ないですね。
日蓮仏法こそ、凡夫が本来、偉大な仏である・・人間主義の最高峰ですよね。
しかし、「間違った、教学表現」の故に、結果としては「邪義」に堕します。

天城氏は、日顕宗と「たたかい抜かれた」お方だそうです。
一切の妥協を許さず「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」の表現を見て
これは、日顕宗の「人本・仏迹」論に匹敵する邪義であると断定しました。
天城氏の主張は、全く正論です。
沖浦氏が、自説を「間違いでした、カン違いでした」と撤回しない限り
邪義は邪義のままです。

さて、何故、沖浦氏はここまで自説に執着するのか・・

その原因の一は、前レスでの「本門の本尊」の「本尊」の意味の「カン違い」
これが、ほとんど全てではないでしょうか。
沖浦さんの板の、ホセ・ラサールさんも、同様です。
ホセさんは、オアシスで、良い発言をしています・・
「御本尊を拝する人間の「信力」「行力」こそが、大切であると」
全くその通りなんですが、やはり「本尊」という言葉に「迷妄」が
あります。
沖浦さんの板で、ホセさんと、若干「やり取り」がありますので
ご参照下さい。

続く


150 :もくれん:2008/11/27(木) 15:32:22
>>149の続き   梅さん

沖浦さんの「恥さらし」をするようですが、
オアシスの
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7888/1164545168/

の57です。

> 大聖人様も曼荼羅なしでのお悟りです。

このレスは「衝撃」でした。
御本仏とは、どのような「資格」のお方かの「認識ゼロ」の事実を
知ってしまいました、このことが、自説の「迷妄」を、気づけない
理由のまた一つでもあると、推測いたします。

それから、金原氏の本ですが、
この件については、まずは梅さんの「考え」を先に聞かせていただいた
方が、ベターかと判断します。

とりあえず、簡単ですが、書き連ねてみました。
疑問点等は、できればこの板のこのスレッドに、書いていただくと
ありがたいです。

9美髯公:2009/09/30(水) 12:41:30
    −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
     もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

157 :梅:2008/11/27(木) 19:16:19
もくれんさん
こんばんは

>これからは、「梅」さんへの「専用レス」です。

しかも、私の心情にまで配慮して書かれているとのこと
とても嬉しく、また、ありがたく思います。

私はあまり他の板は見ません。
ですから、前にオアシスで、もくれんさん宛てに書いた以外は、
他には投稿していません。
相手が信にたるかどうかは(教義なんかではありませんよ)、
私にはとても大切な要素だからです。

貴女はご存知なかったかも知れませんが、
この板の主催者である粛坊さんとは沖浦板で若干のやり取りを
しています。
残念ながら、彼とは良い対話にはなりませんでした。
というよりも、マズイ雰囲気で終わっています。
ですから、正直に言えば、この板での書き込みも逡巡するものがあるのです。

さて、ぐたぐた余計なことは置いていて

>原点に戻り
>「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」・・これは、入り口で「アウト」です
>曼荼羅御本尊と私達の関係を「本・迹」で、表現すること自体、間違いですね。

本迹の使い方が違うのではないかというご指摘は、確かに伝統的な教学では
違うかもしれないですね。
このことは、沖浦板の「三大秘法について考えませんかⅠ」No838での
私の投稿の中で投稿者の多くに見て取れる本迹の混乱について
触れるコメントをしました。

しかし、原則的な本迹の理解ではなく使われてる用例もありはしませんか?
たとえば、「眠っている時は迹・起きている時は本」のような場合です。
私は、この用例があまりよく理解できないのです。
貴女は、どう思われますか?

もし、この用例が従来の本迹の用例として合理的説明ができるなら
そこで改めて沖浦さんの本迹の使い方を考察したいと思います。

それから、私は仕事をしながらの投稿ですので、レスが遅れることがあります。
ゆっくりモードでよければと思うのですが、宜しくお願いします。

10美髯公:2009/09/30(水) 12:51:10
    −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
      もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

158 :もくれん:2008/11/27(木) 19:25:37
梅さん  又続けます

「戒壇様本懐論」これも、相当影響がありますね、沖浦説の成立に。
この戒壇様本懐論は、まさに、沖浦さんの「新板」で、森野さん達と
語り合った、それなりに思い出ですね。

沖浦さんが、大聖人の出世の本懐は、弘安2年10月12日の御建立の
一閻浮堤総与の大御本尊・・は「違う」と主張していました。
その故に、日寛上人の否定・・

一大秘法がお題目との主張は、誰か学会員のブログの影響があると
指摘していた方がいます。
大聖人の出世の本懐はお題目では?と、私見を書いていた「ブログ」の
存在は私も知っています。
案外、沖浦さんも、自説と言っても、他人の書いたものに影響を受けている可能性は
あります。「創価仏法研鑽掲示板」でも話題になりましたが。
ですから、強固に自説を主張するようで、以外と他人に影響を受けています。
オモシロイことがありました。

私との「対話」で沖浦氏が
「宇宙には始まりがある」と、
私「それは違います。仏法の宇宙観では、宇宙は無始無終です、
 先生も著書で書いています」
沖浦氏「先生と私は考えが違います」
2〜3日後、法華講系の掲示板で、沖氏「宇宙は無始無終です・・」と
白々しく書いていました。早速、「新ネタ」を取り入れていました。

戒壇様本懐論にまつわることも、
全部、「本門の本尊」の「本尊」の「真の意味」の「カン違い」です。
一番、大切なことですが、南無妙法蓮華経といっても、御本仏日蓮大聖人の
「おいのち」を離れては存在しないということなんです。
それが、沖氏には、正しく認識できていません。
己心の妙法といっても、御本仏の「いのち」から離れては、ありえません。

それから、天城氏の破折論文があれほど膨大なのは、次から次へと
自説の根拠として、いろいろ、出してきて、それを一つ一つ破折したからです。

若鷹掲示板では、私も「ひどい目」にあいました。
沖浦父への、対話で使用した先生の文章と
息子への対話で使用した先生の文章が  「合成捏造」されました。
管理人に「削除要請」をしまして、削除してもらいましたが、
とんでもない「捏造教義」を、でっち上げられました。

それから、沖氏の掲示板で「時乃旅人」さんが、怒っていましたが
「M氏」の実名と具体的職業を書いて、彼が先生の講義を結果的に「捏造」
したかのような「発言」がありました。
梅さんも、時乃旅人さんと、あの時、やり取りがありましたね。

自説の「こじつけ」のためには、先生の著書さえ「捏造」の事実・・

ここまでくると「沖浦さんが何を言いたいのか」を理解してあげようと
しても、限界があります。
「ウソ」「捏造」の大量生産のオンパレードでした。

11美髯公:2009/09/30(水) 12:54:25
    −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
      もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


159 :もくれん:2008/11/27(木) 19:59:05
>>157  梅さん

さっそく、この板へお越しいただきありがとうございます。

>貴女はご存知なかったかも知れませんが、この板の主催者である粛坊さんとは
>沖浦板で若干のやり取りをしています。
>残念ながら、彼とは良い対話にはなりませんでした。
>というよりも、マズイ雰囲気で終わっています。
>ですから、正直に言えば、この板での書き込みも逡巡するものがあるのです。

全く、気づいていなくはないですが、粛坊さんは「教学対話」は自由に
広い心で、見てくださっています。
それに、沖浦氏の板では、もはや不可能です、
それに、ここは「説教オヤジ」さんという、頼もしいオヤジさんもおられます。
粛坊さんには、私から「あいさつ」をしておきますから、ご心配なさらないで
下さい。

>本迹の使い方が違うのではないかというご指摘は、
>確かに伝統的な教学では違うかもしれないですね。
>このことは、沖浦板の「三大秘法について考えませんかⅠ」No838での
>私の投稿の中で投稿者の多くに見て取れる本迹の混乱について
>触れるコメントをしました。

>しかし、原則的な本迹の理解ではなく使われてる用例もありはしませんか?
>たとえば、「眠っている時は迹・起きている時は本」のような場合です。
>私は、この用例があまりよく理解できないのです。
>貴女は、どう思われますか?
>もし、この用例が従来の本迹の用例として合理的説明ができるなら
>そこで改めて沖浦さんの本迹の使い方を考察したいと思います。

「本・迹」の教学上の使用例は、法華経28品の前半14品が迹門、
後半14品が本門、しかし、日蓮大聖人の文底独一本門から比べると
法華経本門も「迹門」になると・・・
あとは、「発迹顕本」ですね、

他板で恐縮ですが、創価仏法研鑽掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1223375717/

ここは私も何度かレスさせていただいています。
そのなかで「恋」さんのレスは、私も勉強させていただきました。
教学の論客がそろっています。勿論「うのみ」にはせず、常に先生の著書と
照らし合わせますが、それにしても「正確な論客揃い」です。

「本・迹」関連は 113・136・154
その他、三大秘法関連 71・74・75  大変参考になります。いずれも恋さんですが
まずは、この掲示板を参照していただくと、話がし易いです。

そもそも、この「創価仏法研鑽掲示板」での「三大秘法について考えませんか」
スレッドは、沖浦さんが立てたものです。8月初旬です。
ここを、暇なとき「じっくり」読んでいただくと、沖浦さんの「つまずき」
が一目瞭然です。

>それから、私は仕事をしながらの投稿ですので、レスが遅れることがあります。
>ゆっくりモードでよければと思うのですが、宜しくお願いします。

梅さんのペースで、どうぞ、どうぞ・・
私とて、都合でレスが遅れることもありますでしょうから。

12美髯公:2009/09/30(水) 12:58:12
    −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
      もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


162 :梅:2008/11/27(木) 22:07:40
もくれんさん

貴女の言われたところに目を通しましたよ。
次の文は、恋さんが154で書かれているものです。

>私は、通底する概念が、勝劣や優劣であるとしたものであって、
>本と迹に立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません。
>そうした、立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を
>用いると考えるのが妥当だろうと思います。

2行目は何を言われているのか、私には分かりません。
しかし、1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という
沖浦さんの考えに一致していますね。
貴女はどう考えているのですか?

私は恋さんや沖浦さんが言われている考えに立てば
私の前回の投稿で、貴女にどう考えますかと疑問にした
「眠っている時は迹、起きている時は本」という考えも説明できるかと思います。
もちろん、このようにわざわざ本迹を立て分けた意味・意義はあるはずですね。

13美髯公:2009/09/30(水) 13:09:37
    −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
      もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


163 :もくれん:2008/11/28(金) 00:06:42
>>162  梅さん
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、
その役割を明確にするためのものでしょう。
法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、
一人の人間であったりです。
あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、
本迹の関係にあるわけでもありません。

つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、
本と迹に立て分けて、明確化する。』

大聖人の発迹顕本とは、本地垂迹という概念を、
大聖人の竜の口の法難に当てはめて捉えた。
そして、それを定義したのは、後世の弟子でしょう。日寛上人が最初か。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は、恋さんの154から貼り付けました。

>一つのものに立て分けが行われ、その役割を明確にするためのものでしょう

>あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、
>本迹の関係にあるわけでもありません。

>ある一つの事象に対して、その本質を探るために、
>本と迹に立て分けて、明確化する

★  結局、同一の体の「立て分け」がポイントですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

タンポポ:2008/11/25(火) 23:43:25 ID:WwDrUF2wO
今日帰りしな国会議事堂を見ていてちょっぴりわかった事。
国会議事堂へ選挙で上がれた国会議員は迹。市町村議員や市町村長も迹。国民が本。
国民のために働ける国会議員や市町村長や市町村議員は本。
国会のためや市町村長利益のために動く国会議員や市町村長や官僚らは迹。
国民のために働けている国会議事堂議会が本。
市町村民のために働けてる市町村議会が本。と悟り理解できました。
国会議事堂議会議員や市町村長や市町村議会議員は本として国民の幸せのために
一生懸命本分を尽くして欲しいと願います。チョイ悟りまで。
宗教の中でも同じですね。民衆のため人間のための宗教であることが本だね。
宗教のために人間では迹だね。


昨夜、タンポポさんの書き込みが「発端」で「もやし夫婦」と論議に
なりましたね、タンポポさんの言うように、「議員たるもの、民のために
尽くせ」それを言うために、上記ように「本・迹」を使用したら
「トンチンカン」ですね

ある議員がいて、「民に奉仕の精神で尽くせば、議員として「本」
その同じ議員が、初心の決意を忘却していつしか「宴会に明け暮れ、
賄賂をもらい・・」堕落してしまったら「迹」でしょう。
このように「同じ固体」間での「立て分け」ですね。

仏教哲学大辞典では、恋さんが解説してくださったようには、書いてありませんから
恋さんの解説は貴重でした。

>本と迹に立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません
これは、日蓮大聖人の発迹顕本を言っていると思います。
明日、もう少し準備してから、又書きます。

>本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの考えに一致していますね。
貴女はどう考えているのですか?

ただ、沖浦さんは「違うものどうし」に適用してしまっていますね。
例えば、曼荼羅と衆生・・

曼荼羅御本尊の「本・迹」は、ありますよ。

これは明日書きます。

それから、以前は「友に同苦する自分は迹」「同苦される友は本」などと・・
かなり、沖浦氏自身が使い方が、ころころ変わってはいますが、

又、明日以降、整理してみます。

14美髯公:2009/10/14(水) 13:07:05
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165 :もくれん:2008/11/28(金) 10:37:37
>>163 梅さん

>曼荼羅御本尊の「本・迹」は、ありますよ。

これは、誤解されやすいので、いの一番に「正確」に書いておかないと・・・

「御書の世界」単行本は持ってないので、大白蓮華の年月で記します
2003年1月号 御書の世界 第13回 御本尊(下)

★ 32p  名誉会長発言

大聖人は、御自身の己心に根源の妙法を感じ取り、御自身の生命のコスモスを
虚空会を用いて御図顕された。それが、「十界具足」の「曼荼羅御本尊」です。

★ 23p 名誉会長

大聖人は、付嘱を受けた地涌の菩薩の導師である上行菩薩の再誕のお立場から
寿量文底の根源の法である南無妙法蓮華経を直ちに示し、私たちが信受すべき
明鏡として御本尊を顕してくださった。

その際、ただ南無妙法蓮華経だけを示しても、その深い意義は分かりにくい。
そこで、既に広く知られていた虚空会の意義を用いながら、南無妙法蓮華経の
深義を明らかにされたのです。

★ 「本・迹」に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で
   虚空会は「迹」です。
  「迹」をもって、「本」を顕すのです。


以上、すべて書いてあるとおりに転載しましたので、又、ご確認いただければ
更に、はっきりします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は、私が沖裏さんと、まだ好意的に「何とか沖浦さんの言いたいことを
理解しようと、対話していた際に、ねじまげて、捏造されて、更には
耕冶さんとの「対話」で使用した、先生の「引用」と、ドッキングさせ
「合成捏造」して、若鷹掲示板に、書き込まれました。
速やかに、「削除依頼」をして、今は勿論残っていませんが。

その時から、つまり、明確に「捏造」された時点で、私の沖浦さんに
対する「スタンス」が180度変わりました。
ちなみに過去の反逆者の常套手段は、「ウソ」「妄言」
先生のスピーチにも、明確にあります。
日顕も「ウソ」の塊でした。

続く

15美髯公:2009/10/14(水) 13:08:38
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166 :もくれん:2008/11/28(金) 11:09:39
>>165の続き   梅さん

>>162
>私の前回の投稿で、貴女にどう考えますかと疑問にした
>「眠っている時は迹、起きている時は本」という考えも説明できるかと思います。

眠っている時は迹、起きている時は本・・・
これは、新・人間革命 18巻 148pに記述されている文ですね。

眠っている状態の自分と、起きている状態の自分の「勝劣」は
ちょっとわかりずらいですね。
ただ、明確なのは、「同一人物」の「本・迹」ですね。
沖浦さんは、自分と他者の関係で「本・迹」を使います。
その実例を貼り付けます。沖浦さんの旧板からです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やまいぬさん 投稿者:沖浦克治 投稿日:2008年11月 4日(火)08時29分59秒
 少しだけ本迹に関する私の考えを書いておきます。

 今日の聖教新聞3面に足立区のことが載っています。
 創大での足立区総会、先生がお見えになられ指導をなさいました。

 『創価学会の信念とは、代々の会長が犠牲になっても、会員は絶対に犠牲にしないことである。』

 先生は、会員が本、ご自分が迹だと仰せなんですよ。
 もったいないでしょう。
 だから、先生が創価学会をここまでになされたんだと思います。
 これが心の底から分かれば、自分はあらゆる事で自分の人生では本。
 これがわかります。

 そうすると、他のあらゆる方々にとって自分は迹なんだ。
 これが分かるんですよ。
 どんなに自分が幹部になろうと、どんなに社会で成功しようと、そんなものは他の方々にとっては迹に過ぎない。
 これが分かるんです。
 これを分かった人は絶対に威張らないし、傲慢にはならないのです。

 自分の人生で自分は本だ、だから、苦悩する友人の人生では自分は迹なんだ。
 中心はその方なんだ。
 自分は意見を絶対に押し付けない。
 その人のために祈ろう。
 同苦とはね、そう言う行為なんです。

 本迹はそのように立て分けるのです。
 それが生きた教学です。

 私は本迹をそうとらえています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメントは次のレスで

16美髯公:2009/10/14(水) 13:10:31
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167 :もくれん:2008/11/28(金) 11:37:58
>>166の続き

やまいぬさん宛ての沖浦さんのレスですが、この時点では、まだ、やまいぬさんに
沖浦さんも、「自分の思い」を素直に語っています。
関係は、まだ悪化してませんでしたからね。

このレスでの、氏の「言いたい内容」そのものは、間違ってはいないですね。
確かに「会員」を自分の名誉のために「利用」する幹部もいる・・・
一会員でも「成果」のために、友人を「利用」する人もいる・・
つまり、「他者」を自分の「手段」にしてはいけない・・・
あくまで「他者」の真の幸福のための「行動」でなくてはいけない・・
概ね、そのような「意味」で、言っていると解釈します。

その時も、私も「若鷹掲示板」に投稿して、「せっかく、良いことを
言っているのだからこそ、本・迹を正しく使わないと、沖浦さんが「損」
ですよと、かなり好意的に進言しました。
勿論、はぐらかされましたが。
若鷹は、あまり過去ログは大量にありませんので、もう私のレスは
消えていますが。

★ 他者と自分の関係で「本・迹」を使うのは、絶対に間違いです。
  伝統的教学としても、やはり、一般論としての「迹」も
  影とか跡とかの意味ですから、「本体」があってのことですし
  言葉の意味が、時代と、ともに変わる例はありますが、
  漢字で表現される「迹」そして同じ「跡」は「表意文字」
  ですから、「意」が変化してしまったら、「表意文字」の意味がなくなります。

そのことを「無視」して、大多数の学会員の理解は得られないです。
非常に「損」なことを、わざわざしているのです。
この「損」なことについては、以前から私も進言しました。

他者と自分の関係といえば、タンポポさんが「うのみ」にして
議員と民の関係で「本・迹」を使いました。
日々朗らか(決意)さんも、調子に乗って「創価学会が本・公明党が迹」
なんて、ほざいていましたが、レスは探しませんが・・・

創価学会の「本・迹」といえば、破門前後で、そういえるのかもしれませんが・・

続く


168 :もくれん:2008/11/28(金) 12:05:35
>>167の続き
本題に入らないとですね

>>162
>私は恋さんや沖浦さんが言われている考えに立てば
>私の前回の投稿で、貴女にどう考えますかと疑問にした
>「眠っている時は迹、起きている時は本」という考えも説明できるかと思います。
>もちろん、このようにわざわざ本迹を立て分けた意味・意義はあるはずですね。

極端な例をいえば、正確には「布団」に入っていても、昔の武士など
いつ敵に襲撃されても、反撃できるように、完全には眠ってしまわないで
「緊張状態」でいる場合もありますね。
この状態は「眠っている時」には、該当しませんね。

会社にいて、デスクで仕事をしていると、周囲から見えても、心は「上の空」・・
起きていても、「本」ではありませんね。

新・人間革命の記述の
「眠っている時」は、基本的に「生命活動」がストップしている状態ですね。
夢はどうなのだと言われると、又複雑になるので、ここでは触れませんが・・

今世が終わり、来世が始まり、生命活動が始まる・・
死から次の世への、「中有」の状態が、「眠っている時」に例えられますね。

★ 眠っている時は迹、起きている時は本
については、現時点では「保留」にさせてください。
勿論、先生の著書の一節ですから、「そのとおり」に受け止めていますが
現時点では「合理的」な説明が、できません。

同一人物が「眠っている時」と「起きている時」での「勝・劣」は
あえていえば、生命活動をして「価値を生む」か、生命活動がストップして
いて「何も価値を生み出さないか」くらいしか、考えつきません。

睡眠は、生物にとって生命維持のために絶対必要ですから、その意味でいえば
「価値」そのものですが、・・・ここは、ちょっと難しいですね・・・

続く

17美髯公:2009/10/17(土) 12:51:27
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169 :もくれん:2008/11/28(金) 12:23:00
>>168の続き  梅さん

新・人間革命 18巻 148p 

「百六箇抄」の最後の付文である「立つ浪・吹く風・万物に就いて本・迹
を分け、勝劣を弁ず可きなり」御書 869p
の箇所で、伸一はこう語った。

「立つ浪、吹く風、いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けて
いきなさいという御文です。つまり、私たちの人生にも、生活にも全部
「本・迹」がある。それを、きちっと見極め、立て分けていかねばならない。
たとえば、眠っている時は「迹」、起きている時は「本」
勉学が本分である学生が、遊びにふけっているのは「迹」
勉学に打ち込んでいるのは「本」といえる。
また、勉強しているといっても、立身出世のための勉強であれば「迹」・・・
 
少しとばして

ゆえに、広宣流布に生き抜く人生こそが「本」となる。

新・人間革命は「広宣流布」が根本で書かれていますから、一般論としての
「睡眠」が「迹」だけでは、説明できず、
「睡眠状態」は、「広宣流布」の「一念」の意義でいえば、熟睡状態は
「一念」も休止状態ですね。
とりあえず、現時点では、このくらいしか、説明できません。

続く

18美髯公:2009/10/17(土) 12:52:57
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170 :梅:2008/11/28(金) 14:11:31
もくれんさん

「眠っている時は迹・起きている時は本」のテーマは難しいですね。
ただ言えることは、従来の「月は本・池に映る陰は迹」からでは十分な説明はおそらく不可能でしょうね。
それをあえて説明したりすると、どこかにぎこちなさがでてくると思います。
それでは、正しい解釈になりませんね。

では、どういうアプローチが相応しいか考えましょうよ。
私は、恋さんの「本迹」から貴女が出しておられる次の結論の検証が必要と思います。

>★ 結局、同一の体の「立て分け」がポイントですね。

貴女が「同一の体」という言葉の定義が必要かと思いますが
とりあえず「同一のモノ」として考えて差し支えないとして考察を進めます。

結論から先に言うと、本迹は必ずも同一の体とはいえないようですよ。
「月と池の影は同一の体ではないでしょう」などという屁理屈を言うつもりはありません。

百六箇抄にざっと目を通してくださいませんか。
今日は仕事場に御書を持ってきていないので、正確にあげられませんが、貴女がお読みになれば直ぐわかります。
「天台は迹・日蓮は本」とか「男は本・女は迹」とか体が違うものの間で本迹を論じていますよ。
そういう事例は106の中にいくつでも出てきます。

そもそも、法華経でいえば、前14品と後14品で本迹を言いますね。
本門迹門の立て分けを踏まえるうえで大切なところです。本来の本迹はここにありました。
そして、各品はそれぞれ別の体です。
しかも、大聖人の文底独立本門からは、法華経28品すべてが迹門になってしまいますね。

さて、以上から分かることを簡単にまとめると
①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと
②本迹は相対的であること
③本迹は流動的であること
④本迹は優劣・勝劣を論じるものとは限らないこと
さらに考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。

ここまでの私の論で異議がありますか?

ネットの対話とかを見ていると、特に教義論が絡む場合、皆さん大変にヘタクソです。
それは、たくさん論点があるものですから、これもあれも言いたくなってしまうからでしょうね。
相手を破折しようとしている時は、特にその傾向が顕著ですね。
東国人さんが沖浦板を訪れた時が典型的な例です。
何ページにもわたるような論文をいっぺんに突きつけられましたね。
あれでは、掲示板のような限定された場所では対話に全くなりません。
私も読むのが嫌になったくらいです。

ですから、もくれんさんとのこの対話では一つ一つテーマを論じるようにしませんか?
現在は、私たちは本迹論の入口にいますよね。
これは、教義を検証する上で、とても重要な出発点だと認識しています。
しかし、この本迹でさえ論点はいくらでも出てきてしまいます。
そこで、まずは上記の①についてのみ論点を絞ってみませんか。
それが解決できたら、あるいは一定の方向がみえたら次に進みましょうよ。
それと、「続く」もよいのですが、あまり長くなると論点がボケてしまう恐れがなきにしもですね。

以上、私の提案を含めて書き込みます。

19美髯公:2009/10/17(土) 12:55:03
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171 :もくれん:2008/11/28(金) 14:22:57
>>169の続き  梅さん

>>162
>2行目は何を言われているのか、私には分かりません。
>しかし、1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの考えに一致していますね。
>貴女はどう考えているのですか?

恋さん、すみません、対話をやりやすくするために「154」全文、転載させて
いただきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1223375717/154

恋:2008/10/12(日) 17:53:15
本迹を勝劣の概念と書いたら、
『大聖人の発迹顕本はどうなのか』と、質問されました。
>>152の先生の指導で、スッキリしますね。
以下、質問への補足です。
本迹も、基本的には【二元論】であって、
本とは、本体・本質・根本という概念に相当し、
迹とは、仮・影・跡(あと)という概念に相当するでしょう。
私は、通底する概念が、勝劣や優劣であるとしたものであって、本と迹に立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません。
そうした、立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を用いると考えるのが妥当だろうと思います。
★これらは、善悪などの二元論を考察するときにも、その立て分ける基準を考えるのと同じでしょう。
そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、その役割を明確にするためのものでしょう。
法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、一人の人間であったりです。
あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、本迹の関係にあるわけでもありません。
つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、本と迹に立て分けて、明確化する。』
大聖人の発迹顕本とは、本地垂迹という概念を、大聖人の竜の口の法難に当てはめて捉えた。
そして、それを定義したのは、後世の弟子でしょう。 日寛上人が最初か。
私たち凡夫も、仏の生命を開けば、仏の境涯を開けば、発迹顕本したといえるでしょう。
昭和52年当時は、発迹顕本は大聖人に限るのであって、私たち凡夫の発迹顕本を語るのは謗法だと、宗門に叱られましたね(爆)
しかし、定業化できなければ、すぐに別の境涯(命)に移ってしまいますので、その定業化の修行が一生成仏でしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

梅さん、私も改めて「恋」さんの解説を何度も読んで、「スー」と解かり
かけてきました。が、
最初に読んだ時は、梅さんのように、細かく精緻に読んでいなかったのは確かです。

>1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの考えに一致していますね。・・梅さん

>立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を用いると考えるのが・・恋さ
★ 結果的に恋さんは「勝劣」が存在すると言っていませんか?

大聖人は「発迹顕本」されて「御本仏」の御立場になりました。
この立て分け自体、当時の普通の門下は、解からなかったかもしれません。
日興上人、日目上人は、勿論「理解」できていたでしょうが、
「御内証」については、先生の「観心本尊抄」講義 全集24 231p

★ 大聖人の御内証においては、久遠の仏としての御境地は、すでに
赫々としてあられたと拝察します。
恩師戸田城聖先生は「清澄寺大衆中」の御文を講義された際、大聖人は
虚空蔵菩薩に、日本第一の智者となし給えと祈願された清澄寺在住の時
すでに御本仏と覚られたと拝せると言われておりました。
事実、もし、末法御本仏としての御境涯を得ておられなかったならば、
32歳の立宗宣言もなかったはずであります。
時すでに釈尊の白法は陰没した末法であることは明々であり、したがって
釈尊の仏法をもって立てられる道理がありません。
釈尊の仏法ではない新たなる仏法を立てられたことは、御自身が末法救済の
御本仏であるとの御確信があったればこそであります。
しかも、大聖人は20余年間、釈尊の法華経を身をもって読みきられ、
大聖人の出現によって釈尊の法華経は虚妄でなくなったといえるまで実践
しぬいて、いよいよ、御自身が御本仏としてのお振る舞いに移られたわけで
あります。・・・講義抜粋はここまで・・・

続く

20美髯公:2009/10/17(土) 12:57:25
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172 :もくれん:2008/11/28(金) 16:09:18
>>170 梅さん
170と171は、かぶりましたが、

>さて、以上から分かることを簡単にまとめると
>①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと

そうですね、先生の「いっさいの現象」の表現が正しいと思います。
私の表現は浅はかでした。

>②本迹は相対的であること
これは、OKですね。 五重の相対でも「本迹相対」ですからね
本迹一致派は、間違いですからね。

しかし、ちなみに、相対とは、
a 他との勝劣浅深を比較すること
b 相互に向き合っていること
c 相互に関係を持っていること
d 哲学上「絶対」に対する語で、他との関係において存在すること、あるいは
  一定の条件のもとで妥当することをいう
  (仏教哲学大辞典より)
aは該当しますが、b c d は 微妙ですね、というより、該当しませんね
「本迹相対」は「a」の意味で使われていて、他の3つは使えませんので

本迹は相対的である・・との表現は、厳密には「正しくない」のでは
本迹は勝劣の概念である・・がやはり「正しい」と思います。

>③本迹は流動的であること

これは、ちょっとまだ、わかりません。
流動的とは具体的に、よくわかりません。

>④本迹は優劣・勝劣を論じるものとは限らないこと

これは、先生が、新人間革命で、明確に
「いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です」
とありますので、やはり「勝劣」は立て分けるが正解と思います。
論じるというより「立て分ける」が正解と思います。
勝劣の概念は、不可欠ということになりますね。

>さらに考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。
これは、出てくる可能性は否定できないです。

>ここまでの私の論で異議がありますか?

個別に返答したとおりです。

>「天台は迹・日蓮は本」とか「男は本・女は迹」とか体が違うものの間で本迹を論じていますよ

恋さん論の引用です
>そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、その役割を明確にするためのものでしょう。
>法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、一人の人間であったりです。
>あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、本迹の関係にあるわけでもありません。
>つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、本と迹に立て分けて、明確化する。

>天台は迹・日蓮は本・・・・「仏」という事象・現象の立て分けですね
>男は本・女は迹・・・人間という事象・現象の立て分けですね
①でのコメントの、通りです。

>まずは上記の①についてのみ論点を絞ってみませんか。
そうですね、①については、納得です。

いや〜〜梅さん、さすがに鋭い(汗)
オアシスでのことを思い出します(喜)

私は②から④まで、簡単に答えてしまったので、梅さんの「考え」を
お待ちします。

21美髯公:2009/10/17(土) 12:59:15
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177 :梅:2008/11/28(金) 17:03:48
もくれんさん

①については、お互いに合意できたようですから、次の②を対話しましょう。
一つずつやりましょうね(*^_^*)

恋さんは、本迹を二元論から論じたものとしていますね。
私はそのアプローチが正しいとか間違っているとかは申せません。
しかし、恋さんは西洋的な二元論と東洋的な二元論を一緒くたにしているように思われます。
当然のことながら、このところは厳密に検証される必要がありそうです。

今、仮に「立て分ける」ことを、恋さんや貴女の言う「優劣・勝劣」の基準としましょう。

A>天台は迹・日蓮は本・・・・「仏」という事象・現象の立て分けですね
B>男は本・女は迹・・・人間という事象・現象の立て分けですね

すると、Aは貴女も私も納得できるかも知れません。
しかし、Bは少なくとも「女」である貴女も、あるいは現代のジェンダーの考え方からも
「男が優れ、女が劣るとは、オイオイなんてこと言うの」ってなりませんか?
それは、「解釈の誤解です」なんて言ったって、手遅れになるかも知れないですよね!

そこで、本迹には、貴女があげたa・b・c・dでaの勝劣深浅だけでなく、b・c・dも含むのではないか?
そう考えを進めるのが合理的思考ではありませんか?
つまり、ここでは西洋的な善悪の二元論では行き詰ってしまうと思いませんか?

そこで、上記の問題を解決するには
②相対的とか②流動的の視点での考察が必要かと思います。
それをしないと「眠っている時は迹・起きている時は迹」はいつまでも行き詰ったままです。

結論:本迹は優劣・勝劣・深浅だけではなさそうだ

貴女はどう思いますか?
長くなると論点がボケますから、ここまでで投稿します。


179 :梅:2008/11/28(金) 17:15:40
訂正

起きている時は迹→本 でした
でも、流動的を考察すると、もしかして、逆も真?


180 :梅:2008/11/28(金) 17:37:56
もくれんさん

書き忘れました。

>>④本迹は優劣・勝劣を論じるものとは限らないこと

>これは、先生が、新人間革命で、明確に
>「いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です」
>とありますので、やはり「勝劣」は立て分けるが正解と思います。
>論じるというより「立て分ける」が正解と思います。

この人間革命の部分はしっかり読まないと、すっと過ぎてしまいます。
それは、私たちは「本迹は勝劣」と最初から思い込んでいるからです。

この文では「本迹、勝劣を分け・・」と書かれていますが
本迹と勝劣の間を「、」で区切り
「本迹の勝劣」とは書かれていませんね。

これは本迹=勝劣だけではないことを前提にしているとも読めます。
ですから、一部の検証だけで、本迹全体を見てしまうわけには行かないと思いませんか?

私が①〜④とあげてみたのも、いろんな観点があるからだと考えてみてください。
ですから、貴女の「正解」の結論も、まだお預けにしておきませんか?

22美髯公:2009/10/17(土) 13:01:07
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


181 :もくれん:2008/11/28(金) 18:05:44
>>177 梅さん

私は御書で「百六箇抄」を、確認しませんで、レスを書くだけで一杯だったのですが

自分として「悔い」が残るので、>>172の補足です。
これは、私の納得のために書くので「気にしないで」ください。

私は、百六箇抄は、目を通したことは勿論ありますが、内容を理解できるように
読んだことはありません・・正直な告白

そこで、今回の「本・迹」論議で、なかんずく「梅」さんの「問題提起」で
向き合ったのが真実です。
信心の古い方は、以前、大白蓮華に先生の「百六箇抄講義」が掲載された
そうで、「本」としては、発刊されていないのかな? 残念ですが、仕方ないです。

2002年発行 仏教哲学大辞典の「百六箇抄」の項目の抜粋

百六箇条からなり、脱に50、種に56箇の本迹を立て分けている。
本抄は大聖人の最要深秘の法門である種脱相対が明らかにされ
大聖人の文底下種仏法を勝、
釈尊・天台の文上脱益を劣とすることを前提に
脱の50箇条では、脱益仏法における本迹・勝劣が示され、
種の56箇条では下種仏法における本迹・勝劣が明かされている

つまり、あくまで「法門」のことであるから・・・・・・それで・・と

確認しなかったのは、私のミスですが、
>「天台は迹・日蓮は本」とか「男は本・女は迹」とか体が違うものの間で本迹を論じていますよ

天台・日蓮 関連では、
本果の妙法蓮華経の本迹・・・・の中で
  日蓮は一向本、天台は一向迹

在世観心法華経の本迹・・・の中で
   一品二品は在世一段の観心なり天台の本門なり
   日蓮が為には教相の迹門なり

脱益像法時剋弘教の本迹・・・では
   天台の本迹は倶に日蓮が迹門なり・・・

男女関連では

久遠自受用報身の本迹・・・で
 男は本・女は迹・知り難き勝劣なり・・・

私の納得のためなので、転記ミスはご容赦下さい・・・と 見直しはしないので

>天台は迹・日蓮は本・・・・「仏」という事象・現象の立て分けですね
>男は本・女は迹・・・人間という事象・現象の立て分けですね

結果的に「浅はかな」ことを、書きました(汗)右側の私の書いた箇所です。
つまり、あくまで「法門」の勝劣ですから、(ヒヤ汗)
勝手に我流で「解釈」することの、愚かさ痛感・・・

男は本・女は迹 については、私の手持ちの先生の著書に書いてあったのは
記憶してますので、すぐ探すのは大変ですが、機会があれば、読めるでしょう。
いずれにしても、「法門」の勝劣だということで・・・・

でも①は、納得ですから「同一の体」は、完全に「カン違い」ですので・・

23美髯公:2009/11/03(火) 12:44:23
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182 :もくれん:2008/11/28(金) 18:23:18
梅さん

これも、私の納得ですから、気にしないで下さい、正規の応答ではないですので。

私にもわかりそうな、御文があります、その一つが、(他にもありそうですが)
とりあえず、ひとつだけ

下種証明・多宝仏塔の本迹
     久遠実成・無始無終・本法の妙法蓮華教是真実は本なり
     久遠の本師は妙法なり、本有実成釈迦多宝は迹なり

これなんて、もろに 勝劣 そのものと 言えるのでは ?

誰か(例えば恋さんとか、指導役で参加していただきたいですね(ヒヤ汗)


183 :梅:2008/11/28(金) 19:15:29
もくれんさん

>誰か(例えば恋さんとか、指導役で参加していただきたいですね(ヒヤ汗)

ネットには優れている人たちがたくさんいますね。
しかし、私たちの対話ですから、他人に頼る前に自分たちの全知全霊を
傾けませんか?
私は貴女の知性に学ぶところが大きいと思ったからこそ、この板に来たのです。
私と粛坊さんは、肌が合わないのですよ(笑)
ですから、このスレ以外に見ていません。
もちろん、貴女が個人的に指導を受けられることは、
それがネットであっても全くご自由です。
ただし、対話ではご自分の言葉で語ってくださいね。
私も、出来るだけそうするように努力します。

それと、唱題する時に雑念があってはいけないのかも知れませんが
私は折に触れて、唱題中で考えます。
気がついたとき、直ぐにメモを取ってしまうこともあります。
この対話でも、そのようにして得たことを書き込んでいます。

百六箇抄は私たちのレベルでは、分かったら奇跡ですよね!
先生は戸田先生から最初の1箇条を数日もかけて講義を受けていましたね。
そういう御書ですからねぇ、私にはチンプンカンプンです(^_^;)
私は、本迹にはいろいろあるんだなぁくらいで取り上げたに過ぎません。
それと、偽書説もあることはご存知ですよね。
他宗の血脈書だそうですから、私たちが学ぶのは「コア」の部分で
十分ではないでしょうか。

24美髯公:2009/11/03(火) 12:46:12
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184 :もくれん:2008/11/28(金) 22:29:30
>>177 梅さん

>結論:本迹は優劣・勝劣・深浅だけではなさそうだ

>貴女はどう思いますか?
>長くなると論点がボケますから、ここまでで投稿します。

先生の新・人間革命の「記述」ですが、まぎらわしいのはそうですね。
でも、御書の御文は
「・・万物に就いて本迹を分け、勝劣を弁ず可きなり・・」とあります。
これは、分けて、そして、勝劣を弁ぜよ・・と読めます。
ただ、浪とか風の、本迹は、ピーンときませんね。

ですから、②の結論は
私は、やはり、勝劣だと思います。優劣という言葉も似ていますが、
勝劣とは、若干違うような気がします。仏法は勝負といいますし。
あれから、いろいろ点検しましたが、

そもそも「迹」は影とか、跡とか、仮にとか、やはり、劣ります。
大聖人の発迹顕本については、結果として「御本仏」は勿論「勝」ですが、
御本仏の宣言以前の御内証は「劣」とはいえませんが、お立場という立て分けでは
勝劣があると思います。ちょっと、表現しずらくて、

本迹一致派があるそうですが、彼らは「一致」が正しいと信じていますが
仏法の正邪を本当に判断できる者からすれば、「間違い」で
本迹一致は、真実には存在しないのだと思います。

では、あとは、何があるかといえば、まさか逆の「本が劣り、迹が優れ勝り」
なんて、ありえないはずです。

ちょっと、パソコンの具合が悪くて、レスが遅れました。

それから、誰か・・なんて弱気になって申し訳ないです。
そうですね、自立してやらないと意味ないですから。

浅深の概念は、いまひとつピーンときません。
広い意味では、勝劣の中に含まれると思います。
内容が深いからこそ「勝」であると、
内容が浅いからこそ「劣」であると

②の結論は、本迹は勝劣だ・・で決めました。


185 :もくれん:2008/11/28(金) 22:35:31
>>184  訂正

②と④を、単純に間違えました。

25美髯公:2009/11/03(火) 12:48:20
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186 :梅:2008/11/29(土) 12:50:27
もくれんさん

参考資料を送ります。
一読して貴女の感想をレス下さい。


【一大秘法】
『唯一無二の秘密の法体の義で、南無妙法蓮華経の一法をさすともに、それを顕現された本門の本尊、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊をいう。
本門の本尊は開けば三大秘法となり、更に六大秘法、八万法蔵となるが、合すれば一大秘法となる。』

【本門の本尊】
『本門の本尊とは、弘安二年(1279年)十月十二日に御図顕された未曾有の大曼荼羅のことであり、本門戒壇の大御本尊のことである。
この本尊こそ、日蓮大聖人の出世の本懐であり、末法の全世界の民衆を即身成仏させうる大御本尊である。
また本門の本尊に法の本尊と人の本尊がある。法の本尊とは、文底独一本門・事の一念三千・無作本有の南妙法蓮華経である。
人の本尊とは、久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・日蓮大聖人である。
この人法の本尊はその名が異なるけれども、その体は一であり、人即法、自受用身即一念三千である。
これすなわち正中の正、妙中の妙なのであり、本門の本尊こそ行人所修の明鏡である。
観心本尊抄に「観心の本尊」が明かされているが、これは「本門の本尊」と同義である。
「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊である』


187 :梅:2008/11/29(土) 13:42:57
もくれんさん

>>184
>私は、やはり、勝劣だと思います。優劣という言葉も似ていますが、
>勝劣とは、若干違うような気がします。仏法は勝負といいますし。

この辺はそれほどこだわることはないと思います。
「勝」という漢字は、確かに「勝ち負け」で使いますね。
しかし、「勝劣」でいえば「まさる」とか「すぐれる」の意味だと思います。
景勝とか名勝などという使い方にも似ていますね。

>そもそも「迹」は影とか、跡とか、仮にとか、やはり、劣ります。
>大聖人の発迹顕本については、結果として「御本仏」は勿論「勝」ですが、
>御本仏の宣言以前の御内証は「劣」とはいえませんが、お立場という立て分けでは
>勝劣があると思います。

大聖人の「発迹顕本」を軽々に言うと突っ込みどころになります。
貴女のお考えでは、もともと御本仏にもかかわらず、本地垂迹で勝劣を問うことになってしまいますよ。
この辺は、先になって対話になるかもしれませんが、今は結論を出さずに置いた方がよさそうに思いませんか?

>本迹一致派があるそうですが、彼らは「一致」が正しいと信じていますが
>仏法の正邪を本当に判断できる者からすれば、「間違い」で
>本迹一致は、真実には存在しないのだと思います。

もしかしたら、誤解してらっしゃるかも知れません。
「本迹一致」というのは「本迹勝劣」に対する考え方です。
本迹勝劣が法華経28品を迹門14品と本門14品とで法門上の勝劣があるというのにたいし
本迹に分けないという説を立てる宗派を本迹一致派といいます。

>②の結論は、本迹は勝劣だ・・で決めました。

④の結論は「勝劣に限らない」ではなく「勝劣が必ずある」ということですか?


188 :梅:2008/11/29(土) 14:12:33
訂正

>>184
本迹を分けない→勝劣を分けない


189 :梅:2008/11/29(土) 14:16:32
再訂正 m(__)m

>>184→187

26美髯公:2009/11/03(火) 12:50:01
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
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190 :もくれん:2008/11/30(日) 09:35:36
>>186 梅さん

>「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊である』

近年の学会出版物からは「戒壇」の文字は無くなっています。
近年の先生の著書の「本門の本尊」関連も同様です。

結論からいえば「妥当」だと思います。
そして「納得」しています。

「本門の本尊」の一番、適切な表現は
書籍「教学の基礎」の

本門の本尊とは、日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法たる
南無妙法蓮華経であり、またそれを図顕された曼荼羅本尊です

大聖人の出世の本懐についても、弘安2年10月12日は、そのとおりですが
「戒壇」の文字は無いです。 「御書の世界」より

私は、近年の学会出版物の記述に「納得」しています。


191 :もくれん:2008/11/30(日) 09:47:09
>>187  梅さん

>「勝」という漢字は、確かに「勝ち負け」で使いますね。
>しかし、「勝劣」でいえば「まさる」とか「すぐれる」の意味だと思います。

そうですね、勝れていて、が、妥当だと思います。
勝れ、勝つ が 同時に 含まれると思います。

27美髯公:2009/11/03(火) 12:56:41
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
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192 :もくれん:2008/11/30(日) 10:21:15
>>187 梅さん

>大聖人の「発迹顕本」を軽々に言うと突っ込みどころになります。
>貴女のお考えでは、もともと御本仏にもかかわらず、本地垂迹で勝劣を問うことに
>なってしまいますよ。
>この辺は、先になって対話になるかもしれませんが、今は結論を出さずに
>置いた方がよさそうに思いませんか?

もちろん、結論は急ぎませんし、本当は考えてもいなかったのですが、

>>162
>私は、通底する概念が、勝劣や優劣であるとしたものであって、本と迹に
>立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません。
>そうした、立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を用いると考えるのが妥当だろうと
>思います。

>2行目は何を言われているのか、私には分かりません。
>しかし、1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの
>考えに一致していますね。
>貴女はどう考えているのですか?

それを受けて、「恋」さんの論を又、引用しました。

>>171
>本迹を勝劣の概念と書いたら、
>『大聖人の発迹顕本はどうなのか』と、質問されました。
>>152の先生の指導で、スッキリしますね。

>大聖人の発迹顕本とは、本地垂迹という概念を、大聖人の竜の口の法難に
>当てはめて捉えた。
>そして、それを定義したのは、後世の弟子でしょう。 日寛上人が最初か。
>私たち凡夫も、仏の生命を開けば、仏の境涯を開けば、
>発迹顕本したといえるでしょう。

恋さんの論は、勝手に引用しておいて、講評するつもりもありませんし
たまたま、先生の講義がありましたので、参考程度には書いておきましたが、

>>171  ・・先生の講義から・・・・
>★ 大聖人の御内証においては、久遠の仏としての御境地は、すでに
>赫々としてあられたと拝察します。
>恩師戸田城聖先生は「清澄寺大衆中」の御文を講義された際、大聖人は
>虚空蔵菩薩に、日本第一の智者となし給えと祈願された清澄寺在住の時
>すでに御本仏と覚られたと拝せると言われておりました。
>事実、もし、末法御本仏としての御境涯を得ておられなかったならば、
>32歳の立宗宣言もなかったはずであります。

これは、梅さんの発言です
>しかし、1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの
>考えに一致していますね。

沖浦さんの考えに一致していますね?という梅さんの、「問いかけ」に
なんとか、考察しなくてはというのが、スターでで、
大聖人の発迹顕本を、「論ずる」ほどの気持ちはありません。
ただ、引用した先生の講義内容は、深く受け止めています。


193 :もくれん:2008/11/30(日) 10:54:33
>>187  梅さん

>もしかしたら、誤解してらっしゃるかも知れません。
>「本迹一致」というのは「本迹勝劣」に対する考え方です。
>本迹勝劣が法華経28品を迹門14品と本門14品とで法門上の勝劣が
>あるというのにたいし
>本迹に分けないという説を立てる宗派を本迹一致派といいます。

★>本迹に分けないという説を立てる宗派を本迹一致派といいます。

これについては、仏教哲学大辞典より
▼法華経前半14品迹門と、後半14品本門は、法門上の勝劣はなく、
▼本来「一致」であるとする説のこと。本迹勝劣に対する語。


このことは、承知はしていましたが、
しかし、結果的に「余計」なことを書いたわけです。


>>172
>さて、以上から分かることを簡単にまとめると
>①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと
>②本迹は相対的であること
>③本迹は流動的であること
>④本さらに迹は優劣・勝劣を論じるものとは限らないこと
>考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。

★>考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。

私が先回りをして「余計」なことを、書いてしまったわけです。

★>①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと

については、その後、考察を加えたことを、次のレスで書きます。


このことが念頭にあったので、先回りして書いた結果になりました。

28美髯公:2009/11/03(火) 13:02:14
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

194 :もくれん:2008/11/30(日) 13:57:20
>>193  これは、私の納得のためですので、梅さんとの「正規の質疑応答」
とは、無関係なので、気にしないで下さい。

>★>①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと
>については、その後、考察を加えたことを、次のレスで書きます。

再度、恋さんの論を使わせていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>171
以下、質問への補足です。
本迹も、基本的には【二元論】であって、
本とは、本体・本質・根本という概念に相当し、
迹とは、仮・影・跡(あと)という概念に相当するでしょう。
私は、通底する概念が、勝劣や優劣であるとしたものであって、
本と迹に立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません。
そうした、立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を用いると考えるのが
妥当だろうと思います。
★これらは、善悪などの二元論を考察するときにも、その立て分ける基準を
考えるのと同じでしょう。
そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、
その役割を明確にするためのものでしょう。
法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、一人の人間であったりです。
あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、
本迹の関係にあるわけでもありません。
つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、
本と迹に立て分けて、明確化する。』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人類の発迹顕本・・・この言葉は「御書の世界」第10回 「法難下」で
         先生が実際に使用されています。
       普通の学会員であれば、これが何を意味するか、特に説明の
       必要はないでしょう。

創価学会の発迹顕本・・人間革命で「戸田先生」と「山本伸一」の会話の中で
        言われていた「記憶」があります。今は、調べませんが。
       又、宗門からの破門により、「創価学会は発迹顕本した」
       このような表現も、記憶にあるような「気」もします。

書籍「法華経の智慧」第4巻  75P〜

毎朝・毎夕に「顕本」・・
これも、普通の学会員には、特に説明は不要でしょう。

そこで
>本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと

同一のカテゴリーは、正解だと思います。人類とか団体とか
(広い意味では、団体などは、「同一の体」と表現できるのでは?)

では、人間の個人の「本迹」は文字通り「同一の体」での「立て分け」です。

余談ですが、興味深いレスを他板でみました。
バナナの中身が「本」皮が「迹」・・・同一の体の説明としてです・・
それを読んだ時は、特になんとも思いませんでしたが、
「リンゴ」は、私は基本的に「皮のまま」食べます。実も皮も「本」で
種だけが「迹」でしょうか?これは冗談ですので、スルーしてください。

梅さんとの「双方向思索」のおかげで、ものすごく重要なことを
認識しました。
「現象・・・先生の表現
「事象・・・恋さんの表現

このように、何らかの、アクション・行為・現象・事象が「本迹」の判断対象で
もちろん、「一念」などの「こころの作用・はたらき」もふくまれるはずです
というより、目に見える現象・行動は「一念」の結果ですから。

誤解を招かないよう先生の言葉を添えておきます。
さきほどの「御書の世界」第10巻より
「捨てるべき「迹」とは「弱気」です。臆病の心です。大聖人は「勇気」の
本地のお姿を示すことで、発迹顕本を万人に示された。
この大聖人の「勇気」のお心を、自身の決意として、あらゆる困難に莞爾として
立ち向かっていくことが、今度は私たちの発迹顕本につながる。

続く


195 :もくれん:2008/11/30(日) 14:03:55
>>194  正誤

さきほどの「御書の世界」第10巻より  第10回の「誤り」でした

29美髯公:2009/11/03(火) 13:06:30
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

196 :もくれん:2008/11/30(日) 14:23:59
>>194の続き

>>166   沖浦さんの「本迹」の価値観を再掲します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先生は、会員が本、ご自分が迹だと仰せなんですよ。
 もったいないでしょう。
 だから、先生が創価学会をここまでになされたんだと思います。
 これが心の底から分かれば、自分はあらゆる事で自分の人生では本。
 これがわかります。

 そうすると、他のあらゆる方々にとって自分は迹なんだ。
 これが分かるんですよ。
 どんなに自分が幹部になろうと、どんなに社会で成功しようと、
 そんなものは他の方々にとっては迹に過ぎない。
 これが分かるんです。
 これを分かった人は絶対に威張らないし、傲慢にはならないのです。

 自分の人生で自分は本だ、だから、苦悩する友人の人生では自分は迹なんだ。
 中心はその方なんだ。
 自分は意見を絶対に押し付けない。
 その人のために祈ろう。
 同苦とはね、そう言う行為なんです。

 本迹はそのように立て分けるのです。
 それが生きた教学です。

 私は本迹をそうとらえています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「我流」の「本迹観」では、あるけれど、「内容的」には「正しい」ので
惜しいわけです。

★「自他」「依正」で、立て分けてもらえれば、皆さんから「共感」を
得られたのです。これに関してはですが。

★ ただもうひとつの、沖浦さんの「本迹」論のクライマックスである
「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」は、「御本仏」を「すっ飛ばす」暴挙です。
氏が、衆生の己心の妙法を強調したいのは、理解できますが、
そして、衆生の胸中の「本尊」を強調する御書の御文はたくさんありますが、

★「本迹」論の単なる「使い方間違い」以前の問題をはらんでいるわけですが
しかし、「本迹」の正しい使い方を、わきまえていれば、ほとんど犯さない
過ちでもあります。

★ そういう意味で「入り口でアウト」は、そのとおりだと再認識しています。

続く


197 :もくれん:2008/11/30(日) 14:56:38
①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これについて、結論をまとめないといけませんね。
一度は「同意」しましたが、
絶対に「他」と「自」の間で、立て分けは、無いです。再確認です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、
その役割を明確にするためのものでしょう。
法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、
一人の人間であったりです。
あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、
本迹の関係にあるわけでもありません。
つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、
本と迹に立て分けて、明確化する。』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やはり、恋さんの「説明」に尽きるのではないでしょうか。
「ある一つの、あるいは、同一種類の、事象・現象・・・」これが
結論です。

百六箇抄の、「天台」とか「日蓮」・・・「男」とか「女」

これは「体」の違いというより「法門」を語る上での表現で
あくまで「法門の勝劣」を立て分けていると解釈するべきと思います。

ちなみに、「男は本・女は迹」について、私の手持ちの本にあるはずですが
すぐ探せないので、記憶でですが、
先生の著書でしたが
「御本仏も男、創価学会の会長も男・・・意味のあることだ・・・」というような
記憶があります。
だからといって、差別ではなく、「堤婆達多品の竜女成仏」でOKですし、
法華経の智慧 第3巻 146P
「永遠の生命から見れば、男といっても、女といっても
ある人生では、男性となり、ある時は女性と生まれ、固定的なものでは
ありません。その意味でも、あらゆる人の中に「男性的なるもの」と
「女性的なるもの」が両方あると考えられます。」

先ほどの「法門」の「男は本・女は迹」は、よくわかりませんが、・・・・・

続く

30美髯公:2009/11/03(火) 13:10:51
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

198 :もくれん:2008/11/30(日) 15:12:36
>>184  これは、「付録」のようなもので・・・

>でも、御書の御文は
>「・・万物に就いて本迹を分け、勝劣を弁ず可きなり・・」とあります。
>これは、分けて、そして、勝劣を弁ぜよ・・と読めます。
>ただ、浪とか風の、本迹は、ピーンときませんね。

★>ただ、浪とか風の、本迹は、ピーンときませんね。

これについて思索しましたが、「依正不二」に尽きるのではないかと
今は思っています。

「万民一同に南無妙法蓮華経と唱うれば、吹く風枝をならさず・・」
ちょっと正確に全部出てきませんが、

「正報」たる人間生命が「本」を顕していくとき、風や浪も「本」の
現象として、顕れる・・・今はまだ浅はかな考えかもしれませんが
梅さんの「問題提起」により、茶碗を洗いながらも、真剣に考え続けて
いましたので・・一応書いておきます。


199 :梅:2008/11/30(日) 15:19:06
もくれんさん

>>190
>私は、近年の学会出版物の記述に「納得」しています。

私が資料として書き込んだ記載は、「新版・仏教哲学大辞典」昭和61年版です。
したがって、この当時の創価学会には「本門戒壇の大御本尊」は、
何ら問題のない宗門の教義でした。
問題がないというより、「戒壇の大御本尊」は根本崇拝としての本尊であり
「一大秘法である本門の本尊」とする宗門・創価学会の根本教義でした。
ですから、信仰する学会員にとっても、極めて常識的で何ら疑う余地のないもの
だったのです。
それゆえ、正本堂建立の意義もまさにあったのですね!
「戒壇の」は、単なる修飾語句などではありませんでした。

したがって、単に表現をかえたで済むような問題ではないし
学会員として、本当は、簡単に納得するような問題でもないはずです。
にもかかわらず、現在でははずされていて、
しかも、あまり問題としていないようにもみえる。
それはどうしてでしょうね。
単に、『宗門と別れたという事情変更により、従来の解釈を改めた』では
世間一般では通用しないように思います。

それに、もっと根本的に言えば、自分自身の信仰の教義ですから
「戒壇の」が外されたことに、真摯に向き合うことが必要ではありませんか?
特に、宗門・法華講の人たちから見れば、それが学会批判にもなるし、
それで脱会した人たちもいるわけです。

沖浦批判者は、この点にはあまり触れないようにしていますね。
しかし、それでは沖浦さんが「何をいいたいのか」という理解を踏まえての
批判にはならず当然ながら、正攻法の論議として成り立ちようがありません。
ですから、関係ない悪口を声高に叫ぶような非難投稿に陥るのが多いのだと
思います。

貴女は、変更された学会の出版物の記述を、
何故・どのようにして納得したのでしょう?
もっとも、貴女が宗門と別れて後の入信者なら、
この問題はスルーされてけっこうです。
わざわざ信心のいらぬ葛藤をする前提に欠けますからね。

31美髯公:2009/11/03(火) 13:17:47
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200 :梅:2008/11/30(日) 19:18:21
もくれんさん

>>197
>そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、
>その役割を明確にするためのものでしょう。
>法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、一人の人間であったりです。
>あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、
>本迹の関係にあるわけでもありません。
>つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、
>本と迹に立て分けて、明確化する。』

以上は、貴女が恋さんの解釈を引用をし、「その説明に尽きる」と
されたのですね。
私は前にも触れましたが、ご自分で咀嚼して対話を進めた方がベターだと思います。
もう少しはっきり言えば、恋さんのお考えは恋さん自身のものです。
その上で、貴女は「・・同一種類・・」という言葉を加えて入れています。
そこで、対話の内容に取り上げて、私が批判的に論じれば、
それは彼に向けたものにもなりかねませんよ。
これでは、対話の当事者でない恋さんに失礼ですね。
引用はお互いに注意深くしましょう。私もそのように努力します。

それはともかくとして
恋さんは「基本的に」と前提を置いています。
「基本的に」は「原則的」より広く応用を認める考え方ですね。
たとえば、『細部はともかく大筋においては基本的に賛成する」とか
「○○党が与党に入ることは基本的施策を果たす為には・・」なんていう
使い方をします。
したがって、原則に対する例外よりも、より多くの事例を受け入れる姿勢が
あるといえましょう。
そして、「あらゆる事象・現象について本迹を立て分け論じる」とすれば
「基本的」には、広がりを持った考察が出来るということではないでしょうか?

まず、眠っている時と起きている時の本迹は、それをどう解釈するかはともかく
同一個体ですから問題ないでしょうね。
では、次の本迹はどうですか?

「法華経の智慧」第5巻216ページに
親から一千万円うけついだとして、一千万円それ自体を「本」その「証文書」を
「迹」だとしています。
これを、相続した家屋と権利証に応用して喩えてもいいですよね。
家屋と権利証はまさに別のモノです。

また、同書173ページでは
『凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎない
・・・絶対者と思われている神仏は、じつは凡夫=人間の「影」であり
「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない・・・』
とあります。
これは神仏の役割を「用(働き)」で考察したものですよね。
とすれば、私たちがよく言葉にする「諸天善神」について
「・・Aさんの真剣な祈りにより、Bさんが諸天善神になってくれた・・」
なんてよく言いますよね。
働きの面に着目して言えばAの「本」に対し、Bは「迹」の働きをしたと
言えませんか?

これは、貴女が否定する「自他」への応用を試みたものですから
直ちに、貴女の賛否を問うているわけではありません。
こんな思考方法もあるのではと提示してみただけです。

しかし、本迹を「限定的」に使うのは
「立つ波・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」(869)
の立場とは明らかに違いますよね。
私たちは、現在の思想背景も踏まえ、もう少し柔軟に本迹を考えてもよいように
思います。

32美髯公:2009/11/03(火) 13:23:20
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201 :梅:2008/11/30(日) 22:01:52
もくれんさん

>>197
>百六箇抄の、「天台」とか「日蓮」・・・「男」とか「女」
>これは「体」の違いというより「法門」を語る上での表現で
>あくまで「法門の勝劣」を立て分けていると解釈するべきと思います。

「法門の勝劣」であることは、百六箇抄に書かれているのですから、
おっしゃる通りですね。
問題は、『どうして「男と女」を出したか?』です。
しかも、これは唯受一人の口伝ですから、何でがはっきりしないという
ジレンマがありますね。
ただし、勝劣の立て分けですから、男女の差別を前提にしていることは
間違いないでしょう。

大聖人とジェンダーについては、いろいろ考察がなされているようです。
その一端は、「かぐら文庫」にもありますから、ご参考にどうぞ。

さて、男女の性差別は当時としては、むしろ「当たり前」ですね。
しかし、だからと言って、性差別を前提に本迹を論じたものとして済まし顔でいては
時代遅れのそしりを免れません。

私は、新しい基本的人権が時代の要請する中で、憲法解釈で補われてきたように
大聖人の御書についても、現代の新しい知見を取り入れて解釈されてよいと
考えています。
もちろん、戸田先生が生命論で日蓮仏法を現代に蘇らしたとか、
そういうことではありません。

そこで、百六箇抄には多々「後加」があったとされているのは
日亨師の研究はじめ、一般に了解のところです。
それで、偽書説も出てくるわけですね。

しかし、先に憲法の例をあげたように、時代の変遷によって
その当時おける知見からの、新しい解釈や書き加えがあってもおかしくは
ありませんね。
口伝ということからも、そのようなことを全く否定する方が、
むしろ不自然かも知れません。

つまり、基本的な本迹の勝劣は天地の違いで当然ですが
時代時代の解釈で、わずかな違いのものや、ほとんど違わないものや、
あるいはイコールになったものや相対されるものが、
流動化したり融合化したり、そんな使われ方などがないだろうかという疑問です。
本迹勝劣派や本迹一致派の対立が出るというのも、
教義解釈の研究が盛んに行われた結果ですね。

そして、「男と女」ですぐ思い浮かぶのは、陰陽道の思想です。
ご存知のように、男は陽、女は陰とするものですね。
「陽と陰」というフツウの語感だと、陽が善で陰は悪みたいに思えませんか?
しかし、陰陽の考えでは必ずしも勝劣や優劣をいうのではないようです。
昼と夜・光と影・柔と剛などは対立するものではなく、
むしろ調和すべきものととらえるようですね。
陰陽思想は大聖人当時よりはるか以前に日本に入って来ているわけですから
仏教の教義や解釈に当然影響を与えていると考えるべきでしょうね。
そういう視点で見れば、色と身・依と正なども対立概念ではありませんよね。
しかし、それでも本迹はいえるかも知れません。

前回、柔軟な思考について述べました。
「自他の本迹」が書かれていないからといって、それだけの理由で
完全否定するとすれば教義解釈の余地をも否定し、現在の創価学会の教義も
否定しなければならないでしょう。
バカなことを言えば、「人間革命」なんて言葉は御書にないわけですからね。

沖浦版で、私を「ガチ」だとか「融通がきかない」と非難したものがいます。
しかし、そう非難した当人たちが、悪口・雑言し今や境涯の低さを
さらけ出しています。
なぜでしょうか?
私には、真剣に御本尊に向かったことがないと思えてなりません。
私たちは今、真摯に対話をしようとしています。
その前提には、御本尊様への信や祈りがあるからですよね!
これを忘れないでやりましょう。

今夜はここまでで、帰宅します。

33美髯公:2009/11/03(火) 13:28:05
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202 :梅:2008/12/01(月) 15:50:08
もくれんさん

前回の続きです

>>196
>「我流」の「本迹観」では、あるけれど、「内容的」には「正しい」ので
>惜しいわけです。

さて、貴女は沖浦さんの投稿を「我流の本迹観」と批判し
にもかかわらず「内容的に正しい」というわけですね。
しかし、これは論理が破綻しています。
その内容が正しいとするなら
その本迹観が誤っていないことを前提にしないと成り立たないからです。

沖浦さんは、貴女が引用された部分に限れば
『先生は、会員が本、ご自分が迹だと仰せなんですよ』
と述べ、最後を次のよう結んでいます。
『本迹はそのように立て分けるのです。それが生きた教学です。
私は本迹をそうとらえています』
とされているのですから、その投稿内容は先生のお考えを踏まえた上で
現実場面での本迹を述べたわけです。
ですから、この本迹の前提が間違いなら
○○が「本」とか「迹」とかいう内容部分も全て誤りであって
単なる、言葉の問題ではないのです。

「我流」と批判するからには、何故そういえるのか検証してなくては
言えないはずですね。
それがなければ、「我流」と批判した方がまさに「我流」なわけです。
私があなたとの対話を「本迹」を出発点に考えたのも
沖浦さんの本迹観が間違いだという非難が多いからです。
検証もなく間違いだというのは、批判ではなく、単なる非難であって
対話になりませんね。
ここで、非難者のHNを言って特定すると、この対話の妨害がなされるかも
知れません。
ですから、その愚は避けますが、批判の多くは非難に終始しています。
悪口雑言を言い始めたら、その類であることは間違いありませんね。


203 :梅:2008/12/01(月) 21:52:24
もくれんさん

>>197
>絶対に「他」と「自」の間で、立て分けは、無いです。再確認です。

「絶対に」と言い切ってしまうと、苦しくなりませんか?
貴女が、このように考えたのは
「勝劣」を勝ち負けのように思われたことに起因するのではないですか?
字面(じづら)だけみれば、確かにそのように思えますが
必ずしもそうではないことは、>>187で少し触れました。

さて、本と迹については
今手元にある「法華経の智慧」第4巻から、言葉の意味の使われ方を
引いてみます。

【本】
本地・本源・本体・真実の姿

【迹】
本体に対する影・用(働き)・仮の姿

探せばもっとあるかも知れませんが、差し当たりこれくらいで十分です。
これを勝劣で判定するわけですが、天地雲泥の差もあれば、
そうでないものもあると思います。
姿や用(働き)に着目した場合なども、むしろ勝劣を問うのが
おかしくなるかも知れません。

たとえば、沖浦版の「三大秘法について考えませんかⅡ」のNo25で
ホセ・ラサールさんが教学師範の方に指導を受けたとしての投稿があります。
詳しくはご覧いただければよいですが、勝劣を優劣と表現しています。
また、『自分にとって大事なもの、大切なものは、嫁さん、彼女、友人、皆、
本と言ってあげてくださいとの事です』
と言われたようです。
この師範とされる方の発言は、自他のあることを前提にされたうえで、
優劣では相手を尊重するようにということでしょうね。

ところで、本体と影でいえば、先生は影を「スクリーンの映像」と
表現していました。
このスクリーンの映像ということなら、写真や画像と言っても同様ですね。
さらに言えば、写生画家が描いた作品の絵でもかまわないでしょう。
しかも、優れた芸術作品は本体より優れているという視点もあってよいかも
知れません。

このようにあらゆる場面で本迹をいうなら、勝劣を厳格に言う必要はなさそうです。
場面場面で使い分ければよいと言うことになります。
この点について、貴女はどう考えますか?
貴女はバナナの話で、とりわけ疑問を持つまでもなく、
本迹を受け入れていたようですね。
この辺も含めて考えてみてください。

34美髯公:2009/11/04(水) 12:42:45
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204 :もくれん:2008/12/01(月) 23:52:02
>>199 梅さん

レス遅くなって申し訳ないです。

>にもかかわらず、現在でははずされていて、しかも、あまり問題として
>いないようにもみえる。
>それはどうしてでしょうね。

結論から、書きます。私の考えですが。
破門によって、創価学会はまぎれもなく「発迹顕本」したと思います。
宗門と一緒の時代は、創価学会にとっては「迹」の状態だったと思います。

逆に言えば、創価学会と一緒だったから、宗門はかろうじて「日蓮正宗」
たりえたわけです。(先生のスピーチより)
広宣流布の教団である、創価学会を破門したことで、完全に「邪教団」
に成り下がったわけです。

パソコンの調子が悪いので一旦、送信します。


205 :もくれん:2008/12/02(火) 00:18:35
>>199  梅さん

平成5年のスピーチでは、先生も「戒壇」の言葉は使っていました。
http://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html  124 です
会員に対する、緩やかな「舵取り」であったと思います。

>貴女は、変更された学会の出版物の記述を、何故・どのようにして
>納得したのでしょう?

意識して納得したというより、師匠を信じているからとしか表現できません。
師匠の人類に対する思い、そして未来への責任感・・
あまり、頭が回転しなくて、語彙が貧弱ですが、

>沖浦批判者は、この点にはあまり触れないようにしていますね。
>しかし、それでは沖浦さんが「何をいいたいのか」という理解を
>踏まえての批判にはならず

「理解を踏まえた」批判者は、少しですがいることはいます。
http://jbbs.livedoor.jp/study/3764/
こちらの論客は「理論派」です

沖浦さんの板で、沖浦さん自身が「戒壇様本懐論」のスレッドを立てましたね
沖浦さんが、こだわっているのは「大聖人の御本懐」の点なんですね、

ただ、関西方面の批判者は「教義上」のことより、過去の行状などに
重点をおいているようです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1224136224/
「説教オヤジおおいに語る」の 281からの私のレスもご参照ください

一旦送信します

35美髯公:2009/11/04(水) 12:47:30
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206 :もくれん:2008/12/02(火) 08:56:22
>>199 梅さん

>それに、もっと根本的に言えば、自分自身の信仰の教義ですから
>「戒壇の」が外されたことに、真摯に向き合うことが必要ではありませんか?
>特に、宗門・法華講の人たちから見れば、それが学会批判にもなるし、
>それで脱会した人たちもいるわけです。

私自身は、破門後、特に考えたことがない・・というより、他の個人的な
悩み等で忙殺されて、「そのこと」が、頭に入り込む余地が無かったというのが
正直なところでした。

この夏、今回の流れで、先生のスピーチも、再確認いたしました。

私も何度か、正本堂で御会扉を受けています。
当然、弘安2年10月12日御建立の「出世の本懐」の御本尊さまと信じていました。

例の金原氏の本は「弘安2年10月12日御建立の《真偽》や如何に」という本らしい
ですね。

「ほんもの」であったとしても、今は「他宗・他教団」にあります。

先生のスピーチにより、はっきりと認識できたことですが、

例えば、身延にも大聖人の御真筆の曼荼羅御本尊はあります。
その他の日連宗(いわゆる五老僧の流れですね)にも、大聖人の御真筆が
あるそうですね。

謗法の寺にある御本尊にどんなに題目を唱えても功徳は無い・・先生の指導より
(それに、身延などは、釈迦像を本尊にしているらしいですが)
それでも、題目は唱えているらしいですね。

日顕宗の題目には、絶対に功徳は無い・・先生の指導より

大聖人の真筆であろが、法主の書写であろうが、謗法の「寺・教団」
では、功徳に絶対に無い。

現実問題として、「戒壇さま」は、私たちの手の届かないところです。
もし「戒壇様」恋しさに、大石寺に行くようであれば、行くこと自体が
謗法である・・・先生のスピーチより

それでも、割り切れない人はいると思います。
そのような「気持ちの揺れ」に、宗門からの学会員に対しての「ゆさぶり」も
繰り返し、あるのだと思います。

続く

36美髯公:2009/11/04(水) 12:48:41
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207 :もくれん:2008/12/02(火) 09:32:43
>>206の続き  梅さん

>それでも、割り切れない人はいると思います。
>そのような「気持ちの揺れ」に、宗門からの学会員に対しての「ゆさぶり」も
>繰り返し、あるのだと思います。

割り切れない・スッキリしない・釈然としない・・・・・それでも、創価学会員で
いたい・・宗門には行きたくない・・・だけど納得できない・・・

人知れず、そのような「複雑な思い」を抱えて、学会に在籍している方が
いることを否定はできません。

以前、耕冶さんから「学会が正統である証拠を、御書から見出したい」との
発言がありました。この正統とは、日蓮大正人直結という意味です。

私は「世界200余の国・地域に現実として、広げた・・この事実こそ
何よりの証拠ではないかと・・答えました。
耕冶さんも、うなずいていました。

池田先生の指揮・指導のもと、この世界広布の現実・・

創価学会の広宣流布への行動・実践の現実を直視すれば・・
更に、「師弟」が無ければ、絶対に不可能なことです。
創価学会という団体だけでは、不可能でした。
究極的には「師弟」しかありません。

★さて、現実問題として「気持ちの揺れ」を抱えている方への「対処」ですが

結論から言えば、その時、その時の「打ち出し」といわれる「たたかい」に
全力で挑戦し続けることしか「自得」の道は無いと確信しています。

この「自得」というのは、深いことだと思います。
教学・理論・理屈・だけでは、不可能で、化他行のなかでしか「自得」できない
と思います。

個人的には「支援のたたかい」は、不軽菩薩の行の最たるものと認識していますし
その他の、「打ち出し」といわれるすべての「たたかい」が、自分の仏界の生命を
強固にしていくと思います。

ですから、「とにかく、実践しましょう」と返答し、実践しながら師の指導を
学んでいきましょう、と答えます。

御書そのものを直接、拝読するのは大切なことですが、ホセ・ラサールさんも
沖浦さんも、「報恩抄」の一節すら、先生と違うことを主張しいます。
我流の御書の読み方は、恐ろしいと思います。
次のレスで書きます。

続く

続く

いったん送信します

37美髯公:2009/11/04(水) 12:51:45
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208 :もくれん:2008/12/02(火) 09:52:33
>>207の続き

このスレッドの >>143  >>146  ですが

かねてから、沖浦氏は「一大秘法は、本門の題目」と主張しています。
最近、参入した、ホセ・ラサール氏も、同様の主張です。

一大秘法は「本門の本尊」ですから、両氏の主張は、明確に「間違い」ですが
両氏が根拠として、あげている御書が、いみじくも先生が「報恩抄講義」で
三大秘法なかんずく一大秘法について、講義に使用している御書と同じです。

しかし、それでも両氏は、先生と異なる主張をします。
御書の「我流」の拝し方の「おそろしさ」を痛感します。

ひとまず、送信します


209 :もくれん:2008/12/02(火) 10:27:10
>>202  梅さん

順不同になりますが、返答しやすいことからレスします。

>私があなたとの対話を「本迹」を出発点に考えたのも
>沖浦さんの本迹観が間違いだという非難が多いからです。
>検証もなく間違いだというのは、批判ではなく、単なる非難であって
>対話になりませんね。

確かに、曼荼羅本尊と、私たちの関係を「本・迹」で表現したのは「前代未聞」で
当然「本・迹」に注目が集まりました。

本迹の原点に戻り「勝劣」の概念であるからこそ、
曼荼羅と衆生は、「勝劣」の関係でなく、「本来は差別がなく、信の一字で
境地冥合できる・・言い換えれば、どちらも、本来は「本」である

★ 曼荼羅本尊自体の「本迹」
★ 衆生自身の「本迹」

元品の無明・・迷うを凡夫・・・迹
元品の法性・・悟るを仏・・・・・本

★でも、私はまだまだ、梅さんと一緒に検証しますよ。

>検証もなく間違いだというのは、批判ではなく、単なる非難であって対話に
>なりませんね。
>ここで、非難者のHNを言って特定すると、この対話の妨害が
>なされるかも知れません。

あまり、他の方のことを「検証能力」が無いなどと表現すると、問題にも
なりますし、「検証する必要が無い」との判断の方が大半だと思います。

★今回、沖浦氏に批判が集中したのが「熱原公演」が、一番大きいウエイトを
占めると思います。このことは、又別に書きますが。

実は、沖浦氏は、何年も前から、現在の己義を主張していたようです。
さして問題にもならなかったのは、役職の無い一会員で比較的、未活動の方という
認識でみられていたようです。

現場でもおります。自己流のことを主張する方は。
責任職の方でしたら、大変な問題発言になっても、一会員の立場で
影響力のあまり無い方でしたら、タイミングをみて「適切な指導」で
簡単に収束するケースが多いと思います。

とりあえずここまでで・・・

38美髯公:2009/11/04(水) 12:58:27
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210 :もくれん:2008/12/02(火) 12:42:40
>>202 梅さん

>さて、貴女は沖浦さんの投稿を「我流の本迹観」と批判し
>にもかかわらず「内容的に正しい」というわけですね。
>しかし、これは論理が破綻しています。
>その内容が正しいとするなら
>その本迹観が誤っていないことを前提にしないと成り立たないからです。

沖浦さんの「言いたいこと、つまり他者に尽くす・・」これは正しい
という意味で書いたのですが、梅さんに誤解させてしまったのは
お詫びします。

>>203
>貴女はバナナの話で、とりわけ疑問を持つまでもなく、
>本迹を受け入れていたようですね。
>この辺も含めて考えてみてください。

あのバナナの「例え話」は明確に間違いです。
しかし、ひとさまのレスの引用ですので、あからさまに批判するのは
まずいとの判断の含みはありました。あいまいにしたのは確かです。
この点も、梅さんに誤解させてしまいました。
バナナにしろ、リンゴにしろ、その「物」自体の「本迹」は無理です。
あくまでも「現象・事象」についての「本迹」ですから。
彼は、「同一の体」ということで彼なりに思考したことでしょうが
引用して、結果的に梅さんに混乱を与えてしまいました。
お詫びします。

>>200
>「法華経の智慧」第5巻216ページに
>親から一千万円うけついだとして、一千万円それ自体を「本」
>その「証文書」を「迹」だとしています。
>これを、相続した家屋と権利証に応用して喩えてもいいですよね。
>家屋と権利証はまさに別のモノです。

今、法華経の智慧で確認しました。
一千万円が「本」、借用書が「迹」ですね。
一千万円という「実体」があって、借用書が発生しますね。
ひとつの現象ですね。
一千万円という実体・実物が無い「借用書」は偽造しても、無意味ですね。
詐欺師はその限りでは、ないでしょうが。

>家屋と権利証はまさに別のモノです。

家屋という「実体」が存在しているからこそ「権利証」が発生します。
これも「ひとつの現象・事象」だと思います。
実体が無いのに「権利証」を、偽造して詐欺をする人もいますが。

家屋といえば、法華経28品は「家の設計図」に例えられますね
「家」そのものは「南無妙法蓮華経」すなわち「御本尊」であると
この場合、設計図は「迹」で、家そのものは「本」ですね

体そのものが同じことも、「本迹」の一つの要件の場合もありますね。
「梅」さんの「本迹」
「もくれん」の「本迹」
しかし、梅さんが「本」で「もくれん」が「迹」これは明確に間違いですね。
ある団体の「本迹」
いずれも、その「固体」の「現象・事象・行為」等に「本迹」があるので
バナナの例のように、「もくれん」の頭が「本」とか「尻」が「迹」は
論外ですね。

ある「現象・事象」の「本迹」・・いかがでしょうか
先ほどの「一千万円」と「借用書」「家」と「権利証」
勿論、家と権利証は、物体としては「別物」です、しかし
無関係な「体」どうしでは「本迹」は、発生しませんね。
一千万円と「家の権利証」とか、「家」と「一千万円の借用証書」とか

★しかし、梅さんの「言いたいこと」が少し、わかってきました。
★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
★本迹は発生しない。
★梅さんの「問題提起」が無ければ、ここまでは考えませんでした。

39美髯公:2009/11/04(水) 12:59:34
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211 :もくれん:2008/12/02(火) 13:30:18
>>203  梅さん
>>絶対に「他」と「自」の間で、立て分けは、無いです。再確認です。

>「絶対に」と言い切ってしまうと、苦しくなりませんか?
>貴女が、このように考えたのは
>「勝劣」を勝ち負けのように思われたことに起因するのではないですか?
>字面(じづら)だけみれば、確かにそのように思えますが
>必ずしもそうではないことは、>>187で少し触れました。

これは>>210で書いたように「関連の無い固体(自他)どうしはありえない」に
訂正します。

>たとえば、沖浦版の「三大秘法について考えませんかⅡ」のNo25で
>ホセ・ラサールさんが教学師範の方に指導を受けたとしての投稿があります。
>詳しくはご覧いただければよいですが、勝劣を優劣と表現しています。
>また、『自分にとって大事なもの、大切なものは、嫁さん、彼女、友人、皆、
>本と言ってあげてくださいとの事です』
>と言われたようです。
>この師範とされる方の発言は、自他のあることを前提にされたうえで、
>優劣では相手を尊重するようにということでしょうね。

「自他不二」といいますね。
先生の指導に、この地球上で、たった一人でも不幸な人が残っていれば、
自分の幸福もありえない・・とあります。
他者と自分は、優劣というより「自他共の幸福」という観点から、両方「本」で
なくてはいけないと思います。
ただ、御本仏とか創価の三代の師匠などは、自分の幸福など眼中にも無く
民衆の幸福のためだけの人生であるわけですが。
究極的には、私たちも「自分」のことは、さしおいて「他者」のために
尽くせるのが目指すところではありますが。
それでも「自他」が優劣の関係は、無理があります。
「梅」さんも「本来・尊い仏」
「もくれんも本来・尊い仏」
これ以外には、ないと思います。

>ところで、本体と影でいえば、先生は影を「スクリーンの映像」と
>表現していました。
>このスクリーンの映像ということなら、写真や画像と言っても同様ですね。
>さらに言えば、写生画家が描いた作品の絵でもかまわないでしょう。
>しかも、優れた芸術作品は本体より優れているという視点も
>あってよいかも知れません。

元々は「天台」の言った、「月」と「池に映った月」が淵源ですね。
本物の月は実在します。池に映ったり、同時に河に映りますし、更に同時に
湖にも映ります、又、家のたらいの水面にも映るかもしれません。
あくまで、「実在」に対しての「本迹」で、この場合は「影」に該当しますね。
だからといって、人間の影がただちに「本迹」の概念に相当するとは考えられず
人間などの意思を持つ「固体」では、あくまで「行為・ふるまい」などに
適用されるとは思いますが。
それでも、人間とか犬とかの「影」については「保留」にしておきます。

>優れた芸術作品は本体より優れているという視点もあってよいかも知れません。

「オリジナルの作品」には作者の「魂」があるから貴重だと思います。
どんなに「精巧」に作られていても「模造」は「模造」だと思います。
ただ単に「上手い」「下手」とは別の話ではないでしょうか。

>自他のあることを前提にされたうえで、優劣では相手を尊重するようにと
>いうことでしょうね。

これは非常に重要な観点で、他者を手段にしてはいけないといことだと思います。
前にも書きましたが、卑近な例でいえば、幹部が「成果」のために「会員」を
手段として「利用」する・・言語道断ですね
あくまで「会員」の「絶対的幸福確立」のために「奉仕」するべきであって・・
ただ、それを「幹部」と「会員」の優劣の概念に適用するのは無理が
あると思います。
生命の尊厳に序列はつけられないとの観点から、自他ともに「尊貴」これが
正しいと思います。

順不動になりがちですが、反応しやすい箇所からしか、応答できなくて
申し訳ありません。

40美髯公:2009/11/04(水) 13:04:57
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212 :もくれん:2008/12/02(火) 13:52:46
>>209  梅さん

>元品の無明・・迷うを凡夫・・・迹
>元品の法性・・悟るを仏・・・・・本

仏界の生命(法性)で地涌の菩薩として「行動する・振舞う」が「本」ですから
又、誤解させかねないことを書いてしまいました、反省します。

普通は、御本尊への「信」により、無明即法性  この表現が正確です。
法性・無明だけでは、明らかに「本迹」の概念とは違いますから。


213 :もくれん:2008/12/02(火) 14:37:26
>>200 梅さん

>以上は、貴女が恋さんの解釈を引用をし、「その説明に尽きる」と
>されたのですね。
>私は前にも触れましたが、ご自分で咀嚼して対話を進めた方がベターだと
>思います。
>もう少しはっきり言えば、恋さんのお考えは恋さん自身のものです。
>その上で、貴女は「・・同一種類・・」という言葉を加えて入れています。
>そこで、対話の内容に取り上げて、私が批判的に論じれば、
>それは彼に向けたものにもなりかねませんよ。
>これでは、対話の当事者でない恋さんに失礼ですね。
>引用はお互いに注意深くしましょう。私もそのように努力します。

確かに、私は「沖浦説」に対しては「結論」は出ていて、あらためて「本迹」を
考える意思は、梅さんから「問題提起」されるまでは、ありませんでした。
細かく点検したことによって、私も「おおざっぱ」にしか理解していなかった
そのことは、確認できました。
考えていなかったから、「恋」さん説に頼った面もありました。
それは、反省します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>156  風凛さん

>梅さんの現在の「心情」に配慮しながらの「対話」であることを
>ご理解下さい。

>これが、一番、今は肝心なんです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは、かっての「罵詈雑言」のことでの風凛さんとの「やり取り」です。

梅さんとの「対話」をするにあたって、かっての「罵詈雑言」をただちに
正当化されてしまっては、「対話」が成立しない故の、私の風凛さんへの
「事前警告」であったわけです。
そのような「意味」での、配慮です。

しかし「教義」に関しては、「心情的配慮」は不要です。
梅さんが、沖浦説を否定したくないのであれば、今度は逆に
「沖浦説が正しい」証明が必要になります。

そろそろ、対話の方向性をそちらに向けませんか?
本迹はどんなに、いじくっても「沖浦説が正しい」根拠は出せないはずです。

>>157
>本迹の使い方が違うのではないかというご指摘は、確かに伝統的な教学では
>違うかもしれないですね。
>このことは、沖浦板の「三大秘法について考えませんかⅠ」No838での
>私の投稿の中で投稿者の多くに見て取れる本迹の混乱について
>触れるコメントをしました。

>しかし、原則的な本迹の理解ではなく使われてる用例もありはしませんか?
>たとえば、「眠っている時は迹・起きている時は本」のような場合です。
>私は、この用例があまりよく理解できないのです。
>貴女は、どう思われますか?

>もし、この用例が従来の本迹の用例として合理的説明ができるなら
>そこで改めて沖浦さんの本迹の使い方を考察したいと思います。

>>確かに伝統的な教学では違うかもしれないですね。
伝統的な教学に、則るべきだと思います。
まして、沖浦氏は「曼荼羅」に「本迹」を使ったのです。
眠っている私と、起きている私の、「本迹」の合理的説明はまだ不完全ですが、
梅さんも「伝統的」な教学では「違う」とまで「判断」できているなら
充分だと思います。

その伝統的な教学云々すら「理解」できていないで、沖浦説の判断が
できないネット上の、沖浦氏と親しい方がまだ何人かいます。
この板にもいます、有名な日々朗らか(決意)さんです。

「邪義」を唱える沖浦氏と「親しく」するのは「間違えた宗教の開祖」と
親しくするのも同然だ・・だから、つきあうのであれば、「破折」せよ
と皆さんが言っているわけです。

「間違えた宗教」のおそろしさは、梅さんでしたら説明不要ですね。

41美髯公:2009/11/07(土) 12:55:32
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215 :もくれん:2008/12/02(火) 15:29:59
もくれん:2008/12/02(火) 15:28:03 ID:gO.Fk5NY0
>>195 沖浦さん

>聖人御難事は10月1日、戒壇様は12日、出世の本懐じゃありえません。

先生の「御書の世界」第22回 熱原の法難(下)より

10月1日は、出世の本懐を遂げられることを「宣言」した日・・・・
10月12日・・大御本尊を御図顕された日・・

★出世の本懐である、大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命」の
★民衆の出現を待たれて実現されたのです。

★ 確かに近年の先生の指導からは「戒壇」は無いです。
 が、出世の本懐として「御本尊」を建立されたのは、先生の述べておられる
 とおりです。私は「先生の言葉」を勿論信じますが、沖浦さんはいかがですか?

弘安2年10月12日御建立の「大御本尊」は、いまどこに ??????

と、大聖人の出世の本懐が「御本尊建立」であるのを、否定するのは
別次元のことでは?

日付のことは、先生の著書のとおりで、何も「ミステリー」は
ありません。

以前、ある学会員のブログで、沖浦さんと同じく「日付」がどうのこうので
大聖人の出世の本懐は題目ではと、「私見」ですと断って述べているのを
目にしたことがあります。
その方も「御本尊」建立は「本懐」ではないのではと・・
結構「沖浦さん説」に、共感して同意を示す方もいるようですね。
ただ、鶏が先か、卵が先かは、わかりませんが、たまたま、意見の一致する方も
いるようですね。

★★★  私は池田先生の言葉を信じます。★★★

私を説得しようなんて、思わないでくださいね。
一応「日付」のことで、「カン違い」されているようなので「親切心」
からレスしましたので、これ以上は「議論」はありませんので。

42美髯公:2009/11/07(土) 12:58:38
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216 :梅:2008/12/02(火) 15:45:51
もくれんさん

ざっとレスを読みました。
その中で
>>210
に書かれている
>一千万円が「本」、借用書が「迹」ですね。
>一千万円という「実体」があって、借用書が発生しますね。
>ひとつの現象ですね。

は間違えています。
「借用書」ではないのです。
もう一度確認下さい。
借用書としては、もしかして、この本迹は違ってくるかも知れませんし
私があげた権利書の本迹との関連した理解も疑わしくなりそうです。

>>209
>あまり、他の方のことを「検証能力」が無いなどと表現すると、問題にも
>なりますし、「検証する必要が無い」との判断の方が大半だと思います。

私は「検証能力」がないなどという発言はしていません。
しかし、何故「検証する必要がない」と判断するのか、そういう態度には
問題があるだろうとは思います。

>実は、沖浦氏は、何年も前から、現在の己義を主張していたようです。
>さして問題にもならなかったのは、役職の無い一会員で比較的、未活動の方という
>認識でみられていたようです。

貴女は「己義」という言葉を、「邪義」と同様に使われていますか?
私は検証もなしに、そう決め付ける姿勢を疑問に思います。

たとえば、本迹を「本迹相対」で「勝劣」としか考えない思考方法は
正しいのでしょうか?
現に、そうではない使われ方もしているではないか、そういう指摘を言ってます。
ですから、そうした本迹論をめぐる再検証が必要かと思っています。
それがなければ、沖浦批判は出来なかったはずです。

さて、レスがなかったので少し先に論を進めたのですが
沖浦批判が入ってきて論点がぼやけたように思います。
「自他について本迹はない」というのが貴女のお立場ですね。
しかも自他とも「本」だとも言われています。
これは本迹論の一方を言うのみで、本迹論にはなりません。
論点を絞り、この辺のところを考えてみましょう。
そこで、私が喩えとしてあげた「諸天善神」の用について、
貴女はどう思われますか?

本題とは関係ないのですが、ちょっと紛らわしい点を確認します。
私の投稿の引用は>でされているようですが
>>207の最初にある>はご自分の投稿です。もし必要なら>>にしてください。
また★は何を意味しますか?
私は貴女の結論を言うところかと思いましたが、そうでもない使われ方も
しているようなので・・

43美髯公:2009/11/07(土) 13:01:59
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217 :梅:2008/12/02(火) 15:52:21
もくれんさん

私の投稿は、>>213を読む前に書いたものです。
したがって、少し齟齬があるかも知れません。

これから出かけますので、レスはその後になります。


218 :梅:2008/12/02(火) 16:16:57
もくれんさん

>>211
>>優れた芸術作品は本体より優れているという視点もあってよいかも知れません。

>「オリジナルの作品」には作者の「魂」があるから貴重だと思います。
>どんなに「精巧」に作られていても「模造」は「模造」だと思います。
>ただ単に「上手い」「下手」とは別の話ではないでしょうか。

このところは、誤解されています。
スクリーンの映像(迹)が、写真や画像と同じく、
優れた芸術家の作品だった場合です。
本体と言っているのは、たとえば静物画なら、その「画題」となった静物です。
この場合「本」が静物で、それを写した作品は「迹」になるだろうが、
価値は作品にあるというです。
ここで本当に言いたかったことは、「本迹は優劣に限らない」なのです。
この辺は、また後にします。

ちょっと気になったものですから・・
それでは出かけます。

44美髯公:2009/11/07(土) 13:07:01
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219 :もくれん:2008/12/02(火) 17:32:33
>>216 梅さん

>親から一千万円うけついだとして、一千万円それ自体を「本」
>その「証文書」を「迹」だとしています。
>これを、相続した家屋と権利証に応用して喩えてもいいですよね。
>家屋と権利証はまさに別のモノです。

>は間違えています。
>「借用書」ではないのです。
>もう一度確認下さい。
>借用書としては、もしかして、この本迹は違ってくるかも知れませんし
>私があげた権利書の本迹との関連した理解も疑わしくなりそうです。

「借用書」は単純に「証文書」のミスです。
申し訳ありません。

>何故「検証する必要がない」と判断するのか、そういう態度には
>問題があるだろうとは思います。

そもそも「曼荼羅御本尊」と私たちの関係は「本迹関係」は
絶対にありえないとほとんどの皆さんが、承知しているからです。

検証といえば、天城氏は沖浦氏に「自説が正しいことを証明せよ」と
アプローチしたわけです。
沖浦氏の側に「証明責任」があると思います。
沖浦氏が「自説」を「正しい」と、証明できればいい話です。

分けて送信します。

220 :もくれん:2008/12/02(火) 18:35:01
>>203 梅さん

>ところで、本体と影でいえば、先生は影を「スクリーンの映像」と
>表現していました。
>このスクリーンの映像ということなら、写真や画像と言っても同様ですね。
>さらに言えば、写生画家が描いた作品の絵でもかまわないでしょう。
>しかも、優れた芸術作品は本体より優れているという視点も
>あってよいかも知れません。

法華経の智慧 第5巻 217P

「南無妙法蓮華経如来」が、法華経28品というスクリーンに「影」を
映した結果、久遠実成の釈尊(仏界)や上行菩薩(九界)の姿になったのです。
だから、どこまでも「妙法」が「本」上行菩薩は「迹」です。

法華経28品・・・・・・・・・・・・・・・・スクリーン
久遠実成の釈尊や上行菩薩・・・・・・・影 迹 (映像)といってもいいでしょう
南無妙法蓮華経如来・・・・・・・・・・・・本
★ この場合の「本迹」は明確に勝劣ですね。

・・・・・・・・・・・ 映画館のスクリーン
映画「ライオン物語」の映像・・・・・・・・・・・・・・・・・迹
被写体になった生きている本物のライオン・・・・・・・・・・・本

と、建前上、分けてみましたが、これは、本当は「本迹」でないと思います。
では、何だと言われれば、単に「映像作品」であると思います。

神力品の文・・・「証文書」・・・・・・迹
妙法そのもの・・・・・・・・・・・・・本
神力品の文も「文底」で正しく捉えれば「妙法」という「価値」を手に入れられる。
明確に「勝劣」ですね。

「証文書」・・・・・・・・・・・・・・迹
一千万円そのもの・・・・・・・・・・・本
「証文書」も、紛失しなければ、いずれ「本体一千万円」の価値を手に入れられる。
明確に「勝劣」ですね。

>この場合「本」が静物で、それを写した作品は「迹」になるだろうが、
>価値は作品にあるというです。
>ここで本当に言いたかったことは、「本迹は優劣に限らない」なのです。

★  価値は作品にある・・・・・・

次のレスで・・

45美髯公:2009/11/07(土) 13:12:20
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221 :梅:2008/12/02(火) 19:14:52
もくれんさん

>>204
>結論から、書きます。私の考えですが。
>破門によって、創価学会はまぎれもなく「発迹顕本」したと思います。
>宗門と一緒の時代は、創価学会にとっては「迹」の状態だったと思います。

貴女のお考えでよいのです。それだからと言って、
それを己義だなんて申しません。
それでは、対話になりませんからね。
しかし、おかしいとおもえば反論します。

創価学会の発迹顕本ということは、「迹を発いて本を顕す」という事ですから
破門以前は貴女の言う「迹」なんでしょうね。
ですが、貴女は本迹を相対し「勝劣」で論じるとされていました。
戒壇の大御本尊にも関係することですが、
本門の本尊=戒壇の大御本尊=出世の本懐とされていましたね。
「迹」の時代には、学会にとっても、これは動かせない根本教義でした。
しかし、「迹」であったとするなら、これらの教義も
見直されてしかるべきだと思いませんか?

創価学会は貴女のおっしゃるように発迹顕本したとしても
巨大教団ですから、あたかも大客船であって、小舟のように小回りなんて
出来ません。
したがって、教義関係も少しずつ変化するより方法はないと思います。

したがって、先生の講義等を引くにしても、出来るだけ最新のものを
用いるべきですね。
この対話を行うきっかけとなった天城さんの沖浦批判論は、会長講義を
引かれていますが昭和52年「諸法実相抄」及び昭和53年「観心本尊抄」です。
先に私が昭和61年版「仏教大辞典」の記述を参考に出しましたが
今では考えられないほどの記述が多々あるのですよ。
たとえば、日顕さんの項目などは読んでいて恥ずかしく、
こちらの顔が赤くなるほどです。
どなたかがお持ちでしたら、借りて読んでみると私の言うことが
よく分かるはずです。
したがって、そういう時代背景を踏まえて引かれるのはけっこうですが
そうでない場合には注意しなければなりません。
ですから、私は「法華経の智慧」を参考として引いているのです。
これとて、もしかして「古い」かもしれないのです。

>>211
>それでも「自他」が優劣の関係は、無理があります。
>「梅」さんも「本来・尊い仏」
>「もくれんも本来・尊い仏」
これ以外には、ないと思います。

「もくれんさん」と「梅」はそもそも自他の関係にないのです。
したがって、お互いに本迹も優劣も考える必要はありません。

本迹を論じるのは、あくまでも貴女が言われてる事象とかの関係性において
ではないでしょうか。
また、この場合はいわゆる「優劣」で考えるのでもないのだろうと思います。
ホセさんの投稿に出てくる教学師範さんは、この辺りのことを
言われてるのかも知れません。


222 :梅:2008/12/02(火) 19:33:13
もくれんさん

>>210
>★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
>★本迹は発生しない。

上記はその通りだと思いますが、貴女の結論ではないのですね?

46美髯公:2009/11/13(金) 12:39:59
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

223 :もくれん:2008/12/02(火) 19:34:30
>>220の続き

>この場合「本」が静物で、それを写した作品は「迹」になるだろうが、
>価値は作品にあるというです。
>ここで本当に言いたかったことは、「本迹は優劣に限らない」なのです

風景画、静物・例えば「リンゴ」などでは、作品そのものが、文句なしに
価値があるといっても過言ではないでしょう。
題材にした現地の風景とかリンゴとか、価値の上下・優劣を「絵画」と
比較すること自体が通常は、ないはずです。
評価されるのは絵画からの「感動」であり画家の力量であり、

価値が作品にあるということは「貨幣的価値」「鑑賞して感動する価値」
が思いつきます。

「貨幣的価値」といえば、ジョン・レノンの「スケッチ画」がオークションで
ものすごい「高値」がつく・・などニュースで聞くこともあります。
すでに「評価」の定まっている画家、例えば「ゴッホ」の絵などは無条件で
億単位の値段がつくわけです。
しかし、どんなにお金がある人でも、その「ゴッホ」の絵に億単位のお金を
出す意思の無い人も、当然おります。
美術館で「入場料1000円」で、「こころゆくまで」鑑賞する人もいます。

小学生が描いた「お母さんの絵」は、絵画コンクールで、入賞しなくても
その絵を描いた子供の母親には「世界一の宝物」であることでしょう。
でも、現実に生きて生命活動をしているこの母親、つまり、生身の人間と
紙の上の「お母さんの絵」は、比較するべきものでないし、
優劣というより、いざとなれば、どちらが大切かは、勿論、本物の母親でしょう。
万が一、その大切な「母の絵」を紛失しても、それでは「又描こう」で
すみませんか。作品に価値はあるが、臨機応変に対処もできる。

絵画にしても、映像作品にしても、果たして「本迹」で立て分けるべき
ことでしょうか。被写体と作品をです。
本迹で立てわけるには原点に戻り、「あらゆる現象」ですね。動的ですね。

確かに、「法華経の智慧」で、法華経28品を「スクリーン」と先生は表現しま
したが、やはり何かが違うと思います。
その「何か」は、まだ説明できません。

法華経28品そのものが、「迹」ですね。大聖人の文底独一本門を「本」とすれば
法華経も「スクリーン」にもなれば「迹」そのものにもなります。
法華経28品にしても、大聖人の南無妙法蓮華経にしても、「法」そのものですね。
片や、まわりくどく、ばかていねいに、「法」を説明し・・・
片や、単刀直入に「南無妙法蓮華経」のひとことで「法」を顕し・・・
「仏」の「説法」という現象・事象での「本迹」ですね。
この場合、修行が簡単なほど、「法門」の価値は高いですね。
釈迦・天台の仏法と比較して、大聖人の仏法が「勝れている」のは
修行が、万人に可能であるという点が大きいですね。

芸術作品ではと・・・作家が作品を創造する「行為」「作業」「作品への一念」
などは、同一作家での「本迹」は当然あるはずですね、
命を削る思いで、魂を打ち込んで作品を創る・・その作家としての「本」
結果、すばらしい作品ができても、被写体との「本迹」は無理なのでは?
売れればいいと、惰性での創作活動であれば・・・その作家としての「迹」

私たちが「地涌の菩薩」の自覚での行動であれば「本」
惰性で、表面的には広布の行動をしているようでも、心が堕ちれいれば「迹」

いや〜〜わかりませんですね。



芸術作品は、評価する人によって、評価が変わります。
たまたま「絵画」を例にしましたが、「映像作品」でも同様かと思います。

絵画にしても、映像作品にしても、「被写体」と「作品」は「本迹関係」かは
いまだ疑問があります。

先ほどの法華経28品が、スクリーンの例とは、何かが違う・・
でも、それが何かは、今はまだ明確に説明できません。

47美髯公:2009/11/13(金) 12:41:47
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

224 :もくれん:2008/12/02(火) 19:46:03
今、ちょっと思いつきましたが、

先ほどの一千万円と証文書ですが、結果的に「同じ価値」があるのだが
一時的に違う形態であると・・・当然「本物・本体」のほうが確かですから
「本」ですし、「迹」の方は、一歩間違えると「パー」になってします危険もある。
紛失とか、

法華経28品と大聖人の「南無妙法蓮華経」は、結果的に正しく「対処」つまり
「文底」で読めば、同じ価値を生む・・・しかし、一歩間違えると、つまり
文底での読み方ができないと、価値を生まないばかりか「損」をする・・

本迹には、このような「意味合い」がありますね。

私の「本迹」でも、「迹」のまま、一生を過ごせば「本来の価値」を
出すことができずに、「損」な人生になってしまう・・

ちょっと頭が疲れました・・


225 :もくれん:2008/12/02(火) 19:57:11
>>222  梅さん

>★しかし、梅さんの「言いたいこと」が少し、わかってきました。
>★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
>★本迹は発生しない。
>★梅さんの「問題提起」が無ければ、ここまでは考えませんでした。

>>222
>上記はその通りだと思いますが、貴女の結論ではないのですね?

私の「オリジナルの結論」ではないのは「確か」ですね。
梅さんの「問題提起」があって、思索したことですから。

>★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
>★本迹は発生しない。

この2行については、納得していますよ、現時点では、

48美髯公:2009/11/13(金) 12:46:25
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

226 :梅:2008/12/02(火) 20:00:09
もくれんさん

>>210
>「証文書」も、紛失しなければ、いずれ「本体一千万円」の価値を手に
>入れられる。
>明確に「勝劣」です。

これから書くことは細かすぎて、上記はスルーしちゃおうと思いましたが
後で後悔しないために書き込みます。

まず、一千万円(本)ですが、すでに親から譲り受けているのです。
ですから、その「迹=影」としての「証文書」があります。

実体を証明するものですから、それなりに価値はあるでしょうね。
しかし、「証文書」を紛失しても、その一千万円の所有権そのものには
影響は全くありません。
そして、そのような本迹を「勝劣」のみでとらえるのは、ほんのちょっと?です。


227 :梅:2008/12/02(火) 20:17:15
もくれんさん

>>224
>先ほどの一千万円と証文書ですが、結果的に「同じ価値」があるのだが
>一時的に違う形態であると・・・当然「本物・本体」のほうが確かですから
>「本」ですし、「迹」の方は、一歩間違えると「パー」に
>なってします危険もある。
>紛失とか

>>226は上記を読む前に投稿準備したものです。
ちょっと行き違いましたが、証文書なんてなくてもよいのは、
ご理解いただけたでしょうか?

>法華経28品と大聖人の「南無妙法蓮華経」は、結果的に正しく「対処」
>つまり「文底」で読めば、同じ価値を生む・・・
>しかし、一歩間違えると、つまり文底での読み方ができないと、
>価値を生まないばかりか「損」をする・・
>本迹には、このような「意味合い」がありますね。

これは、かなり問題発言かも知れませんよ(笑)
それは、この文の1と2行目です。
3、4行は同意です。


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