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本迹のログ倉庫

32美髯公:2009/11/03(火) 13:23:20
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

201 :梅:2008/11/30(日) 22:01:52
もくれんさん

>>197
>百六箇抄の、「天台」とか「日蓮」・・・「男」とか「女」
>これは「体」の違いというより「法門」を語る上での表現で
>あくまで「法門の勝劣」を立て分けていると解釈するべきと思います。

「法門の勝劣」であることは、百六箇抄に書かれているのですから、
おっしゃる通りですね。
問題は、『どうして「男と女」を出したか?』です。
しかも、これは唯受一人の口伝ですから、何でがはっきりしないという
ジレンマがありますね。
ただし、勝劣の立て分けですから、男女の差別を前提にしていることは
間違いないでしょう。

大聖人とジェンダーについては、いろいろ考察がなされているようです。
その一端は、「かぐら文庫」にもありますから、ご参考にどうぞ。

さて、男女の性差別は当時としては、むしろ「当たり前」ですね。
しかし、だからと言って、性差別を前提に本迹を論じたものとして済まし顔でいては
時代遅れのそしりを免れません。

私は、新しい基本的人権が時代の要請する中で、憲法解釈で補われてきたように
大聖人の御書についても、現代の新しい知見を取り入れて解釈されてよいと
考えています。
もちろん、戸田先生が生命論で日蓮仏法を現代に蘇らしたとか、
そういうことではありません。

そこで、百六箇抄には多々「後加」があったとされているのは
日亨師の研究はじめ、一般に了解のところです。
それで、偽書説も出てくるわけですね。

しかし、先に憲法の例をあげたように、時代の変遷によって
その当時おける知見からの、新しい解釈や書き加えがあってもおかしくは
ありませんね。
口伝ということからも、そのようなことを全く否定する方が、
むしろ不自然かも知れません。

つまり、基本的な本迹の勝劣は天地の違いで当然ですが
時代時代の解釈で、わずかな違いのものや、ほとんど違わないものや、
あるいはイコールになったものや相対されるものが、
流動化したり融合化したり、そんな使われ方などがないだろうかという疑問です。
本迹勝劣派や本迹一致派の対立が出るというのも、
教義解釈の研究が盛んに行われた結果ですね。

そして、「男と女」ですぐ思い浮かぶのは、陰陽道の思想です。
ご存知のように、男は陽、女は陰とするものですね。
「陽と陰」というフツウの語感だと、陽が善で陰は悪みたいに思えませんか?
しかし、陰陽の考えでは必ずしも勝劣や優劣をいうのではないようです。
昼と夜・光と影・柔と剛などは対立するものではなく、
むしろ調和すべきものととらえるようですね。
陰陽思想は大聖人当時よりはるか以前に日本に入って来ているわけですから
仏教の教義や解釈に当然影響を与えていると考えるべきでしょうね。
そういう視点で見れば、色と身・依と正なども対立概念ではありませんよね。
しかし、それでも本迹はいえるかも知れません。

前回、柔軟な思考について述べました。
「自他の本迹」が書かれていないからといって、それだけの理由で
完全否定するとすれば教義解釈の余地をも否定し、現在の創価学会の教義も
否定しなければならないでしょう。
バカなことを言えば、「人間革命」なんて言葉は御書にないわけですからね。

沖浦版で、私を「ガチ」だとか「融通がきかない」と非難したものがいます。
しかし、そう非難した当人たちが、悪口・雑言し今や境涯の低さを
さらけ出しています。
なぜでしょうか?
私には、真剣に御本尊に向かったことがないと思えてなりません。
私たちは今、真摯に対話をしようとしています。
その前提には、御本尊様への信や祈りがあるからですよね!
これを忘れないでやりましょう。

今夜はここまでで、帰宅します。


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