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本迹のログ倉庫

46美髯公:2009/11/13(金) 12:39:59
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

223 :もくれん:2008/12/02(火) 19:34:30
>>220の続き

>この場合「本」が静物で、それを写した作品は「迹」になるだろうが、
>価値は作品にあるというです。
>ここで本当に言いたかったことは、「本迹は優劣に限らない」なのです

風景画、静物・例えば「リンゴ」などでは、作品そのものが、文句なしに
価値があるといっても過言ではないでしょう。
題材にした現地の風景とかリンゴとか、価値の上下・優劣を「絵画」と
比較すること自体が通常は、ないはずです。
評価されるのは絵画からの「感動」であり画家の力量であり、

価値が作品にあるということは「貨幣的価値」「鑑賞して感動する価値」
が思いつきます。

「貨幣的価値」といえば、ジョン・レノンの「スケッチ画」がオークションで
ものすごい「高値」がつく・・などニュースで聞くこともあります。
すでに「評価」の定まっている画家、例えば「ゴッホ」の絵などは無条件で
億単位の値段がつくわけです。
しかし、どんなにお金がある人でも、その「ゴッホ」の絵に億単位のお金を
出す意思の無い人も、当然おります。
美術館で「入場料1000円」で、「こころゆくまで」鑑賞する人もいます。

小学生が描いた「お母さんの絵」は、絵画コンクールで、入賞しなくても
その絵を描いた子供の母親には「世界一の宝物」であることでしょう。
でも、現実に生きて生命活動をしているこの母親、つまり、生身の人間と
紙の上の「お母さんの絵」は、比較するべきものでないし、
優劣というより、いざとなれば、どちらが大切かは、勿論、本物の母親でしょう。
万が一、その大切な「母の絵」を紛失しても、それでは「又描こう」で
すみませんか。作品に価値はあるが、臨機応変に対処もできる。

絵画にしても、映像作品にしても、果たして「本迹」で立て分けるべき
ことでしょうか。被写体と作品をです。
本迹で立てわけるには原点に戻り、「あらゆる現象」ですね。動的ですね。

確かに、「法華経の智慧」で、法華経28品を「スクリーン」と先生は表現しま
したが、やはり何かが違うと思います。
その「何か」は、まだ説明できません。

法華経28品そのものが、「迹」ですね。大聖人の文底独一本門を「本」とすれば
法華経も「スクリーン」にもなれば「迹」そのものにもなります。
法華経28品にしても、大聖人の南無妙法蓮華経にしても、「法」そのものですね。
片や、まわりくどく、ばかていねいに、「法」を説明し・・・
片や、単刀直入に「南無妙法蓮華経」のひとことで「法」を顕し・・・
「仏」の「説法」という現象・事象での「本迹」ですね。
この場合、修行が簡単なほど、「法門」の価値は高いですね。
釈迦・天台の仏法と比較して、大聖人の仏法が「勝れている」のは
修行が、万人に可能であるという点が大きいですね。

芸術作品ではと・・・作家が作品を創造する「行為」「作業」「作品への一念」
などは、同一作家での「本迹」は当然あるはずですね、
命を削る思いで、魂を打ち込んで作品を創る・・その作家としての「本」
結果、すばらしい作品ができても、被写体との「本迹」は無理なのでは?
売れればいいと、惰性での創作活動であれば・・・その作家としての「迹」

私たちが「地涌の菩薩」の自覚での行動であれば「本」
惰性で、表面的には広布の行動をしているようでも、心が堕ちれいれば「迹」

いや〜〜わかりませんですね。



芸術作品は、評価する人によって、評価が変わります。
たまたま「絵画」を例にしましたが、「映像作品」でも同様かと思います。

絵画にしても、映像作品にしても、「被写体」と「作品」は「本迹関係」かは
いまだ疑問があります。

先ほどの法華経28品が、スクリーンの例とは、何かが違う・・
でも、それが何かは、今はまだ明確に説明できません。


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