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本迹のログ倉庫

27美髯公:2009/11/03(火) 12:56:41
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

192 :もくれん:2008/11/30(日) 10:21:15
>>187 梅さん

>大聖人の「発迹顕本」を軽々に言うと突っ込みどころになります。
>貴女のお考えでは、もともと御本仏にもかかわらず、本地垂迹で勝劣を問うことに
>なってしまいますよ。
>この辺は、先になって対話になるかもしれませんが、今は結論を出さずに
>置いた方がよさそうに思いませんか?

もちろん、結論は急ぎませんし、本当は考えてもいなかったのですが、

>>162
>私は、通底する概念が、勝劣や優劣であるとしたものであって、本と迹に
>立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません。
>そうした、立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を用いると考えるのが妥当だろうと
>思います。

>2行目は何を言われているのか、私には分かりません。
>しかし、1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの
>考えに一致していますね。
>貴女はどう考えているのですか?

それを受けて、「恋」さんの論を又、引用しました。

>>171
>本迹を勝劣の概念と書いたら、
>『大聖人の発迹顕本はどうなのか』と、質問されました。
>>152の先生の指導で、スッキリしますね。

>大聖人の発迹顕本とは、本地垂迹という概念を、大聖人の竜の口の法難に
>当てはめて捉えた。
>そして、それを定義したのは、後世の弟子でしょう。 日寛上人が最初か。
>私たち凡夫も、仏の生命を開けば、仏の境涯を開けば、
>発迹顕本したといえるでしょう。

恋さんの論は、勝手に引用しておいて、講評するつもりもありませんし
たまたま、先生の講義がありましたので、参考程度には書いておきましたが、

>>171  ・・先生の講義から・・・・
>★ 大聖人の御内証においては、久遠の仏としての御境地は、すでに
>赫々としてあられたと拝察します。
>恩師戸田城聖先生は「清澄寺大衆中」の御文を講義された際、大聖人は
>虚空蔵菩薩に、日本第一の智者となし給えと祈願された清澄寺在住の時
>すでに御本仏と覚られたと拝せると言われておりました。
>事実、もし、末法御本仏としての御境涯を得ておられなかったならば、
>32歳の立宗宣言もなかったはずであります。

これは、梅さんの発言です
>しかし、1行目は「本迹は優劣や勝劣とイコールではない」という沖浦さんの
>考えに一致していますね。

沖浦さんの考えに一致していますね?という梅さんの、「問いかけ」に
なんとか、考察しなくてはというのが、スターでで、
大聖人の発迹顕本を、「論ずる」ほどの気持ちはありません。
ただ、引用した先生の講義内容は、深く受け止めています。


193 :もくれん:2008/11/30(日) 10:54:33
>>187  梅さん

>もしかしたら、誤解してらっしゃるかも知れません。
>「本迹一致」というのは「本迹勝劣」に対する考え方です。
>本迹勝劣が法華経28品を迹門14品と本門14品とで法門上の勝劣が
>あるというのにたいし
>本迹に分けないという説を立てる宗派を本迹一致派といいます。

★>本迹に分けないという説を立てる宗派を本迹一致派といいます。

これについては、仏教哲学大辞典より
▼法華経前半14品迹門と、後半14品本門は、法門上の勝劣はなく、
▼本来「一致」であるとする説のこと。本迹勝劣に対する語。


このことは、承知はしていましたが、
しかし、結果的に「余計」なことを書いたわけです。


>>172
>さて、以上から分かることを簡単にまとめると
>①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと
>②本迹は相対的であること
>③本迹は流動的であること
>④本さらに迹は優劣・勝劣を論じるものとは限らないこと
>考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。

★>考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。

私が先回りをして「余計」なことを、書いてしまったわけです。

★>①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと

については、その後、考察を加えたことを、次のレスで書きます。


このことが念頭にあったので、先回りして書いた結果になりました。


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