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本迹のログ倉庫

18美髯公:2009/10/17(土) 12:52:57
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


170 :梅:2008/11/28(金) 14:11:31
もくれんさん

「眠っている時は迹・起きている時は本」のテーマは難しいですね。
ただ言えることは、従来の「月は本・池に映る陰は迹」からでは十分な説明はおそらく不可能でしょうね。
それをあえて説明したりすると、どこかにぎこちなさがでてくると思います。
それでは、正しい解釈になりませんね。

では、どういうアプローチが相応しいか考えましょうよ。
私は、恋さんの「本迹」から貴女が出しておられる次の結論の検証が必要と思います。

>★ 結局、同一の体の「立て分け」がポイントですね。

貴女が「同一の体」という言葉の定義が必要かと思いますが
とりあえず「同一のモノ」として考えて差し支えないとして考察を進めます。

結論から先に言うと、本迹は必ずも同一の体とはいえないようですよ。
「月と池の影は同一の体ではないでしょう」などという屁理屈を言うつもりはありません。

百六箇抄にざっと目を通してくださいませんか。
今日は仕事場に御書を持ってきていないので、正確にあげられませんが、貴女がお読みになれば直ぐわかります。
「天台は迹・日蓮は本」とか「男は本・女は迹」とか体が違うものの間で本迹を論じていますよ。
そういう事例は106の中にいくつでも出てきます。

そもそも、法華経でいえば、前14品と後14品で本迹を言いますね。
本門迹門の立て分けを踏まえるうえで大切なところです。本来の本迹はここにありました。
そして、各品はそれぞれ別の体です。
しかも、大聖人の文底独立本門からは、法華経28品すべてが迹門になってしまいますね。

さて、以上から分かることを簡単にまとめると
①本迹は必ずしも同一の体で論じるものと限らないこと
②本迹は相対的であること
③本迹は流動的であること
④本迹は優劣・勝劣を論じるものとは限らないこと
さらに考察を進めれば、本迹を論じる視点がまだまだ出てくるでしょうね。

ここまでの私の論で異議がありますか?

ネットの対話とかを見ていると、特に教義論が絡む場合、皆さん大変にヘタクソです。
それは、たくさん論点があるものですから、これもあれも言いたくなってしまうからでしょうね。
相手を破折しようとしている時は、特にその傾向が顕著ですね。
東国人さんが沖浦板を訪れた時が典型的な例です。
何ページにもわたるような論文をいっぺんに突きつけられましたね。
あれでは、掲示板のような限定された場所では対話に全くなりません。
私も読むのが嫌になったくらいです。

ですから、もくれんさんとのこの対話では一つ一つテーマを論じるようにしませんか?
現在は、私たちは本迹論の入口にいますよね。
これは、教義を検証する上で、とても重要な出発点だと認識しています。
しかし、この本迹でさえ論点はいくらでも出てきてしまいます。
そこで、まずは上記の①についてのみ論点を絞ってみませんか。
それが解決できたら、あるいは一定の方向がみえたら次に進みましょうよ。
それと、「続く」もよいのですが、あまり長くなると論点がボケてしまう恐れがなきにしもですね。

以上、私の提案を含めて書き込みます。


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