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1  仏教大学講座講義集に学ぶ      【 開目抄講義 】  (Res : 21)

1名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/05/27(金) 22:12:28  

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00~21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 開目抄講義 】は、講義集の第三、第五集に掲載されております。
10名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/04/22(月) 16:21:48  

                                 二

  「開目抄」はいうまでもなく人本尊開顕の書である。本尊とは「根本尊敬」の意であるが、それが「人」であるとは、どういう事であろうか。
 そこに実は、日蓮大聖人の仏法の基本的な考え方が隠されているのである。人本尊という言葉だけからすれば、一般の宗教に見られがちな偶像の
 概念に似ている様な感がする。事実、仏教においても、仏像は偶像としての機能を果たしてきた。それが仏教の本質を少なから歪めてきた事は疑い
 ない。「仏」といえば、人間とは縁のない名であり、何千年か前の偉人の名であり、ある場合には死人の代名詞であったりする。
 「仏」とは、覚者であり、宇宙を究極に於いて律する法を悟った人をいうにもかかわらず、仏がその法自体であるかの様な印象を与えている。人は
 「神」には成れないが「仏」には成れる。というところに仏教の本質があるにもかかわらず、仏が神と同一の存在になってきたのが、仏像に象徴
 される仏教のあり方ではなかろうか。

  宗教の役割は、人間の目に映り、時空間を流動する事象を測定しうる世界にのみ生きていては人間ではない、その奥に横たわる本質の世界に目を
 向けよ、と教える所にあるはずである。「宗」という字が根本の意であれば、宇宙、人生の根本を教えるものという意味が明らかになろう。
 そのために、まずこの人間存在、またそれが構成する社会が如何に卑小かお知らしめる事も、有効な教育手段であるに違いない。日頃、傲慢で
 エゴに凝り固まっている人間が如何に愚かで矮小であるかを教え、もっと尊いもの、「聖」なるものを知らなければ、人間として生きている事には
 ならない。こう強調する事が宗教者として当然の行為であると考えるのも無理はない。
16名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/05/04(土) 18:49:49  

 キリスト教にあっても、人間を「原罪」を背負った罪深き存在であるとしているのは、よく知られている所であり、仏教にあっても、浄土系の宗派、
 なかんずく浄土真宗などはその典型である。そこでは善人が蔑まれ、悪人こそ仏の慈悲を受けるに足る「正機」の衆生であると考える。
 それはひたすら、神という存在、阿弥陀仏の慈悲を教える事によって、日常的現世から脱却して一歩高みに登らせようという意図から来たもので
 あるかも知れない。
17名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/05/04(土) 19:25:28  

 しかし、こうした教育方法の一方の罪、弊害は人間を事実に於いて矮小化せしめやすいという事であろう。神という巨大な存在に比べて人間は
 如何に小さいか、
18名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/05/04(土) 19:27:10  

 しかし、こうした教育方法の一方の罪、弊害は人間を事実に於いて矮小化せしめやすいという事であろう。神という巨大な存在に比べて人間は
 如何に小さいか、また阿弥陀仏の慈悲に縋るべき哀れな衆生を強調する事は、そのまま人間をその境涯から出させない事でもある。
19名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/05/04(土) 19:32:59  
子供に「・・・・してはならない」と教えると小さくなる。
20名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/05/04(土) 19:37:27  

 と呼びかけるように教えるのが教育の極意だというが、まさにその警句と同じである。
21名前:美髯公 ◆eqY.FnGTp2 投稿日:2019/05/04(土) 19:41:29  

 しよう
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2  続 備前の日記帳  (Res : 126)

1名前:備前 ◆TtzwqSGci2 投稿日:2012/11/23(金) 21:42:56  
 昔昔、今は無き某掲示板で「備前の日記帳」というスレを立ち上げておりました
 もので、此方では「続」と前に付けさせて貰いました。
  「口舌の輩の部屋」と似通った傾向のスレとはなるとは思いますが、御贔屓にお願いしますね v(-_^
120名前:沖浦克治 投稿日:2018/05/20(日) 15:57:40  
 備前さん、今日は。

 掲示板を閉めましたが閲覧可能にしておくことに致しました。

 以上、ご報告まで。
121名前:備前 ◆2GDyOqBWxA 投稿日:2018/06/10(日) 01:18:13  
 あいやァ~!沖浦さん見えられていたのですか、と言う
 昨日書き込まれた様な錯誤の挨拶を返しておこう(^^;
 ご丁寧に有難うございます。

 さて、はや六月、しかも中旬。早いもので一年の半分が過ぎました・・・
 てなわけないな(^^; 最近、結構ボケ始めて困ってしまう(笑
 なァ~んか、来週の土日に中古パソコンが売りに出されるよう

 今のσ(^^ 所のよりは、はるかに高性能ですからね。一遍後学の為にも
 顔を出してみますか。入場料を取られる訳でもなし。
122名前:備前 ◆6BUFoKwUnA 投稿日:2018/06/25(月) 00:40:54  
 パソコン、買い替えた。
 結局、北村での買い替えとなりました。
 詳しいお話は、後日という事で(笑
123名前:備前 ◆0RYNX4144o 投稿日:2018/10/09(火) 23:55:28  
 ありぃ~(^^;
 既に四ヶ月も・・・・・・・m(__)m マッコトスマン
 いやぁ~、小説を読もうと言うサイトにつかりっぱなしに
 なっていて・・・・・・・(^0^ アハハハハ

 σ(^^ 来月いっぱいで、仕事やめます(笑
 ズルと違うぞなもし。
 まぁ~、一応様子見ってとこですな。
124名前:備前 ◆0RYNX4144o 投稿日:2019/01/20(日) 21:15:05  
 おめでとうございます・・・・・(^^;
 ハァ~、随分とお暇してました(笑 もう一月の下旬ですか~
 いや、いや月日の経つのは早いものですねぇ~(^0^;

 一応、失業保険等の手当ても終わったことだし
 まァ~たそろそろ就職活動に勤しみますか。
125名前:備前 ◆0RYNX4144o 投稿日:2019/02/10(日) 22:53:37  
 ふみ!ざっくりと一ヶ月振りですか・・・・
 まァ~、良しとしますか(^^

 先だって、祥伝社版の『紫禁城の黄昏』を注文したのですが
 品切れで重版未定との事・・・・・・この手合いの物は期待できない
 のだが、少しガックリきたな(笑

 岩波書店版はどうか知らないが、もし有っても購入不可だな。
 原作の第一章~第十章、第十六章が未掲載と言う不完全物だから

 で、そのついでに『東条英機 歴史の証言』と『大東亜戦争の正体』
 と言うのを購入しました。
 『東条英機 歴史の証言』は思っていたのは少し違っておりました。
 東京裁判における宣誓供述書です。噓は無いですね。
 まだしっかりとは読んでおりませんが。
126名前:備前 ◆0RYNX4144o 投稿日:2019/04/22(月) 15:32:33  
 二か月と12日振り?・・・・・・・・(^^;
 いつの間にやら桜も散り、えらく暖かくなってきていますな。
 最近では朝五時には、夜が明けて明るくなってきてますな。

 さて、そろそろ職に就かねば喰っていけなくなってきたよな(笑
 今回は、職安経由ではなく派遣会社を使ってみようかと思う。
 かなり時給に差がついているからな。
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3  功徳を語り合う  (Res : 118)

1名前:見習い 投稿日:2015/12/19(土) 21:30:49  
 沖浦様の要請より立ち上げました。
 何方でも御参加ください。
112名前:沖浦克治 投稿日:2017/08/15(火) 20:42:39  
 本日の功徳。

 家族と友人とでご飯です。
 ごく普通の日常の行為に功徳が薫る・・・・

 本当に功徳~~!!!!

 https://www.facebook.com/katsuji.okiura/posts/991516534323178?notif_t=like¬if_id=1502784939117557
113名前:沖浦克治 投稿日:2017/08/21(月) 08:16:59  
 おはようございます。

 今生徒がトレーニングを終えてバイトへ行きました。
 この生徒のおかげで一日のリズムが作れるようになりました。

 昔勤め人の頃、朝起きる時間も出て行く時間も、トレーニングの時間帯も常にほぼ同じスパンでした。
 所が白馬で自営業になって、特に雪のないシーズンは朝の規制がありません。

 それで何となくダラダラ起きて、ダラダラコーヒー飲んで、ダラダラと練習を始める悪癖が付いてしまいました。
 記録伸びない訳ですね。

 今、生徒のおかげで7時少しすぎから30分のコーチングが日課になりました。
 
コーチング終了して1時間明けて自分のトレーニング。
 良い生徒に恵まれる。
 嬉しいです!!

 功徳~~!!
114名前:沖浦克治 投稿日:2017/08/24(木) 07:55:56  
 聖教新聞の体験談読みました。

 大阪のタケウチサイクル。

 竹内さんが言われました。

 「信心と商売は比例しまっしゃろ。」

 凄い!!!!
 この人が先輩でおられる関西創価。

 嬉しい~~!!

 功徳~~!!
115名前:沖浦克治 投稿日:2017/08/25(金) 06:55:57  

 聖教新聞読みました。

 中村茂夫さん(83)=羽倉崎支部、副本部長ご夫婦の体験です
 一部抜粋引用致します。

 中村さんに新たな目標ができた。
 “池田先生のように、世界中の人と友情を結びたい”
 マリーナで、海外の人を見掛けると、気さくに声を掛けた。
 自宅に招いたり、ヨットに乗せたり。
 「君と僕が友人になることが、平和の一歩になるんやで」
 ~引用終わり~

 もう20年ほど前でした、夕刊にジンバブエのミュージシャンの話しが載っていました。

 ジンバブエはつい最近まで白人の支配が続いていて、解放されたけれども、未だ経済は白人が支配している。

 ミュージシャンたちは音響機材が買えないので、劣悪な条件で白人のプロモーターと契約せざるを得ない。

 日本は豊かな国で、日本人は親切だと聞いた。
 それで、ポンコツでも良いから音響機材を寄付しててくれる人を探しに日本にやって来た。

 概ねこういう意味が書いてありました。
 私はすぐに連絡をしました。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
116名前:沖浦克治 投稿日:2017/09/03(日) 07:54:41  
 おはようございます。

 白馬村のパワーリフティング協会が活性化して来ました。
 嬉しいです。
 
 これからは、最も小さい単位が大事になると思っています。
 どういう競技も最初は下から起こります。
 
 選手が誕生して少し増えると組織が出来る。
 選手たちが自己表現の場として大会に出たくなる。
 すると、必然的に大会などを開催する必要に迫られますので、組織が必要になるのです。
 
 私共も同じです。
 長野県は、10年前組織がありませんでした。
 数名のリフターがいて、個々人で実業団やブロック大会にエントリーするだけ。
 県の大会は長期間開いていませんでした。
 
 私が神戸から転居し、トレーニングジムをオープンしたのが2006年8月1日。
 そこから数年して、長野県に協会を作ったのですが、ジムのメンバーたちの、
 大会をして欲しい!
 との声に押されてのことでした。
 
 自分一人がやるだけなら、協会設立なんて手間暇とお金のかかることはしませんでしたでしょう。
 ブロック大会で標準記録出して、後は全日本に出れば良いですからね。
 協会を作った時自分で決めたことがありました。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
117名前:沖浦克治 投稿日:2017/12/05(火) 21:07:33  
 今晩は、皆様方。

 3月31日が土曜日です。

 私の板ですが、年末に閉める予定を年度末に致しますので、その日私の家でオフ会やりましょう。

 スケジュール調整されてお一人でも多くご参加下さいませ。
118名前:備前 ◆2GDyOqBWxA 投稿日:2017/12/17(日) 21:14:43  
 先週、母が介護施設に入所できました。
 数年前に四件ほど申込み、途中で近況確認書を
 提出するのを忘れていたため再申込みと言う状況でしたので、
 あまり期待できず津高の方に期待していたのですが

 あれよあれよという間に決まってしまいました。
 昔、付き合いのある業者の方の母上が同じ所に入所したさい
 日当たりの悪いところに決まったと愚痴られていたので
 心配しておりましたが、結構日当たりの良いところなので
 一安心と言う所です。
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4  本迹関連の部屋  (Res : 180)

1名前:美髯公 投稿日:2009/07/18(土) 14:25:22  
 「本迹」と一応銘を打ちましたが、「本迹」に限らず「教義一般」も

こちらで、お願いいたします。

話が入り組んでくれば、その時は分割も考えますのでm(__)m
174名前:JJJ 投稿日:2017/03/01(水) 04:14:44  
失礼します。
御本尊は、虚空会の儀式を象ったと言われておりますが、私は、そうは捉えておりません。
霊山一会儼然未散ですから、実体は見えませんが、仏性と言う心性の形でその儀式が題目と共に行われていると捉えております。不思議一ですから、書写本尊と題目に顕れ、一体となっていると、捉えております。つまり世間の物の外用を写す鏡ではなく、不思議一体の御本尊と言う仏界の明鏡を、境智冥合するところに顕れる自身の仏性、心の鏡で自身に内在する生命が、同じ南無妙法蓮華経と正観する南無妙法蓮華経如来であるとすることを、御本尊を鏡としてそこに自身が南無妙法蓮華経如来であると見ていると、捉えております。

ですので、
御本尊は、(開門 [開塔] .起後のところの、本化本尊 →起後のところとは、久遠を明かす寿量品所顕の本化本尊 .)本門の本尊と捉えております。

分かりにくいかと思いますので、
次回に、長文になりますが、全容を書きます。
また御本尊、中央.実相.南無妙法蓮華経について語らせて頂きますと、久遠や法界、宇宙という概念が加わります。

本日は、これで失礼いたします。
175名前:沖浦克治 投稿日:2017/03/28(火) 05:57:11  
 昨日は今年2回目のオフ日に致しました。
 連日の闘いで疲れた身体と心を癒しました。

 唱題もお昼の1時から30分。
 朝夕の勤行を一回にまとめてやりました。

 それまでの時間ひたすら食べて寝ていました。
 そして思いました。

 近い将来勤行も朝夕ではなく、日に一回自由な時間帯でやるようになるだろうな・・・

 その方が合理的ですね。
176名前:沖浦克治 投稿日:2017/04/02(日) 06:29:32  
 上行菩薩は一人だけではないと書いたら、色々あちらこちらで反論がございます。

 真面目なご意見もございましたので少々ご説明致します。

 御書には

 『此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中国ごと人ごとに弘むべし、』
 (妙密上人御消息)

 とございます。
 人ごと国ごとに弘めるのですから、一人では不可能です。
 地涌の菩薩の代表としてのシンボルの上行菩薩。
 この菩薩の本地は何か?

 久遠の南無妙法蓮華経如来です。

 そして私共一切衆生も同じく寸分違わぬ久遠の南無妙法蓮華経如来。
 御書に如来の説明がございます。

 『されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際に周く堅に三諦の源底に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。』
 (御講聞書)

 『然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。』
 (御義口伝巻下)

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
177名前:沖浦克治 投稿日:2017/04/08(土) 05:51:03  
 他板でも、上行菩薩で浮かれ騒ぐ方もおられます。

 少し整理しておきます。
 多くの方の位置付けは、

 久遠元初の仏>上行菩薩。
 
 こう云うものですね。 
 久遠元初の自受用身如来が宇宙の最初の仏で、それが大聖人。
 釈迦はその法門である南無妙法蓮華経を修行久遠実成で仏に成った。
 上行菩薩はその釈迦の法華経を末法で弘める人。

 ですので、大聖人が上行菩薩の再誕だと云う思想はありません。 
 大聖人は御書の中で、ご自身が上行菩薩である事を明確に否定されておられます。

 『而るに日蓮上行菩薩にはあらねどもほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、』
 (新尼御前御返事)

 明快に否定されておられる。
 誰がどう読んでも大聖人は上行菩薩ではあり得ません。

 釈迦仏法の限定された思想の中の上行菩薩の位置付けは、私共大聖人門下とは無関係なのです。

 大聖人は久遠の南無妙法蓮華経。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
178名前:沖浦克治 投稿日:2017/04/17(月) 06:34:48  
 クジラさん所にsewさんが書き込まれておられますね。

 私はこの件でどちらの味方もいたしませんが、一つだけ書いておきます。

 sewさんとは現実に何度か対面しております。
 クジラさんとは対面をしておりません。
 ですので、現状では

 sewさんのご指摘の内容が実際にあった。

 と、大きな確率で考えております。
 但し双方のお話をお聞きしないと結論は出せません。
 将来クジラさんと対面することがあるなら、その時お聞きいたしますでしょう。
 クジラさんに対面をしてその説明を要求する、と云う事ではございません。

 対面の機会があって(私は強く望んでおりますが)、クジラさんがその話題に触れる事をお許しになられるなら、その時はお聞きしたいと存じます。

 対面による対話こそが、創価学会の基本であり、大聖人仏法の根幹をなす行い。
 これは昨日も書かせて頂きました。

 『人生の大事は対面による対話しかどうしようもない。』(主意)

 牧口先生以来、創価の伝統でございます。

 『書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん、』
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
179名前:沖浦克治 投稿日:2017/06/11(日) 06:35:42  
縦線時代の戦友たちが4人で昨夜やって来られました。

 ご夫婦お二組。
 70歳超えてます・・・・・

 4人ともに池田先生から名前で呼ばれる人です。
 昭和33年~37年の入会の方々。
 私は組織では全く出世(書き方良くないですが)せず、戦友たちは幹部になって大活躍。

 人生の総仕上げにかかって全く平等に戻りました。
 忌憚のない話が弾んで楽しかったです。
 
 4人ともに関西創価学会の草分けの方々です。
 それで質問いたしました。
 掲示板で常に争っていたことです。

 一大秘法って何ですか?

 4人一斉に即答。

 本門の題目です!!

 やはりな~~・・・・・
 
 私は兵庫県神戸市で入会して、4か月後の任用試験。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
180名前:沖浦克治 投稿日:2017/08/29(火) 15:28:00  
 テレビも北朝鮮のミサイルで塗りつぶされています。

 ミサイルは怖いですが、桁違いに恐ろしいものがあります。

 隣国が何時責めてくるかわからない。
 だからわが国も核兵器を所有して対抗すべきだ!!

 それには先ず憲法九条を何とかせねばならない。
 憲法改正に向けて国民の危機感を煽り、それによって再軍備を正当化すべく憲法改正の世論を作ってしまおう。

 軍備は凄くお金がかかります。
 当然膨大な利権が生まれます。

 原発の利権の見通しが立たない現在、軍備で儲けたい一握りの政治家と企業がある。

 今こそ私共は、トルストイ、ガンジーに代表される武力によらない抵抗を思うべきです。

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1名前:管理人 投稿日:2009/04/15(水) 03:13:39  
ようこそ、NET創価法論館へ

ご自由にスレッドをお立てください、掲示板タイトルの趣旨に合わないスレッド、書き込みは削除する場合がございますので宜しくお願いいたします。

尚、削除依頼や要望などがございましたらこちらへお願いします。
66名前:沖浦克治 投稿日:2015/12/16(水) 05:46:55  
 功徳の体験を書きたいのですが、スレッドをお作りいただけませんでしょうか?
67名前:見習い 投稿日:2015/12/16(水) 22:59:21  
 了解いたしました。
 スレッド名は何とつけましょうか?
68名前:沖浦克治 投稿日:2015/12/17(木) 12:48:39  
功徳を語り合うスレッドなどはいかがでしょうか?
69名前:見習い 投稿日:2015/12/19(土) 21:15:48  
 沖浦様、遅くなりまして申し訳ございませんでした。
 了解いたしました。
70名前:見習い 投稿日:2016/01/03(日) 11:53:22  
 新年明けましておめでとうございます。
 本年もまた宜しくお願いいたします。
 
 食べては寝、食べては寝を繰り返していますと
 この様な遅い挨拶となりました。遅くなりまして申し訳ございません。
 明日から、出社となる方々も多いとは思います。

 今年もまた一年、元気で無事故で乗り切りましょう!
71名前:見習い 投稿日:2016/05/22(日) 21:14:44  
 今晩は、沖浦様

 「仏教大学講座講義集に学ぶ」は転載のみを目的とした
 スレッドでございますので、せっかく書き込みくださっているのですが
 誠に申し訳ありませんが、勝手ながら「本迹関連の部屋 」に引越しをさせて
 いただきました。

 今後は、皆様もお気をつけ下さることをお願い申し上げます。
72名前:沖浦克治 投稿日:2016/05/23(月) 17:01:41  
見習いさん、お手数をおかけいたしました。

 申し訳ございません。

 今後はそのように致します。
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6  仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人と法華経 】  (Res : 40)

1名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/12/28(月) 15:25:45  

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00~21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 日蓮大聖人と法華経 】は、講義集の第五集に掲載されております。
33名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/04/10(日) 20:54:54  

 九界即仏界を、真実の意味で“即”ならしめる、すなわち因果倶時にするには、どうしても時間の制約を破らなければならない。日常的な時間の制約を破って
 はじめて、先ず因があって後に果が来るという、因果異時を破る事が出来る。ここに、日常時間を打破して永遠の視点を、導入する事が要請されるのである。
 この要請に応えたのが、本門寿量品の久遠実成の説法といえる。五百塵点劫という久遠の過去に立つ時、時間の制約下に置かれていた先因後果の、動かす
 べからざる関係を逆転して、先果後因の関係にも、因即果、果即因の因果倶時の関係にも自在に展開する事が出来る。つまり迹門で説いた十界互具を真実の
 意味で、互具互融ならしめる為には始覚という時間軸を、無始本覚という超時間、永遠性により逆転しなければならない。

 以上、三つの立場からの論を述べたが、そこで明らかになった様に、何れも説法の主体者たる仏の側の問題であると言う事である。その意味で当に“能化”
 なのであって所化たる衆生は、全く受動的にならざるを得ない。当然と言えば当然であるが、意外にもこの一点が、本文の理解にとって不可欠の条件となる。
 爾前権教に於ける九界と仏界との間に断絶を設ける思想も、又それを法華経迹門で十界平等と打ち破った思想も、共に能化たる仏の側から打ち出された、説法
 内容の変化に過ぎない。更に今度は、始成正覚であった仏が、久遠実成を開顕して本覚を表わすのも、仏の側の一方的な宣言である。

  先に述べた様に、迹門は仏の側から衆生に仏界を具足するという、九界即仏界を宣言したものであったが、説く仏自身が始成正覚であった為に、その一事の
 故に「始覚の十界互具」と大聖人は断じられた。元来、断絶と差別のあった九界と仏界とが、迹門で始めて互いに具する事が明らかにされたわけであるから、
 それ自体革命的な説法ではあるが、しかし如何に互具と言っても原理的、理論上の説に過ぎない。その意味では、まだまだ九界と仏界とが相対している、と
 言って良いであろう。「本無今有の失」とは当に、何故に九界に仏界を具すのかという理由や根拠がないまま、偶然的に九界即仏界が宣せられているに過ぎない、
 と言う欠点を有していると言う事である。
34名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/04/17(日) 20:52:19  

 ところが、本門の久遠実成の発迹顕本によって、その欠点が除去された、つまり「本覚の十界互具」となったというのである。言い換えれば、「無始の本仏」
 「無始無終の義」「無始・色心常住の義」「本有の大乗菩薩界」と言った迹門には、欠けていた重要な思想が満足されたと言う事になる。この場合、一往“無始”を
 久遠、過去常と言う事にしておこう。なぜなら、にちれんだいしょうにんは、わざわざ“無始”について「但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして
 是過去常に非ざるなり」(P.421 ⑯)と述べられているからである。“無始”の意味する内容として、永遠、超時間という言葉を、これまで何度も使用してきた
 が、未来常住か過去常かについては、それほど注意せずに用いてきた。しかし、ここに於いて大聖人は、はっきりと未来常住ではなく、過去常でなければならない
 と断定されている。

 永遠、つまり日常的時間を突破するという点では、既に方便品で、「是の法は法位に住して世間の相常住なり」との説法がある。だが、これは説く仏が始覚である
 故に、未来の常住を説いたものに過ぎず、その意味では有始無終と言う事になる。涅槃経に於いても、仏性の常住を説くが、この場合も又未来常住に過ぎない。
 更に、一見過去常を思わせる化城喩品の三千塵点劫の説法も、主眼は釈迦が声聞弟子を化導してきた、その始終の因縁を明かす所にあり、説く仏は始成正覚の
 ままである。大聖人の言われる“無始”すなわち“過去常”は、あくまで釈迦自身の始成正覚を打ち破って、久遠の過去へと遡り、その上に立っての永遠性で
 なければならない。過去常があって未来常住が言われねばならない。それであって、初めて無始無終と言えるのである。さて、「無始無終の義」は仏界常住の
 義であり、「無始・色心常住の義」は九界の衆生が常住であると言うことである。
35名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/04/20(水) 22:13:13  

  結局、本門に入って仏界も九界も、すなわち十界が同時に常住となり、その上で十界互具を説いたので「本覚の本有の十界互具」と言われたのである。
 ここにも、仏の発迹顕本、即ち過去常の開顕による仏界常住の義が宣せられて、その結果として九界の衆生も常住となり、更には国土世間も常住の寂光土と成る
 と言う、大聖人独自の思想がはっきりと表われている。先程の第一の立場で明らかにした様に、寿量品は常住の仏界に常住の九界を具す、仏界即九界の側面
 を明らかにしたものである。当に、日蓮大聖人の法華経を捉える視点は、一貫して本門で明かされる常住の生命に焦点が当てられている。

 そう思って、「一代聖教大意」に於ける十界互具論を見直してみると。仏界に九界を具する仏界即九界の側面を、強調されていたことが分かる。本稿でも、幾度か
 引用した爾前権教の“厭離断九の仏”を破する文証の中で、「【九界を仏界に】具せざるが故に」「【凡夫の身を仏に】具すと云わざるが故に」(【】は傍点の
 代わり。傍点は筆者)「仏の身に九界が本よりありて」「実には九界を離れたる仏無き故に」等々と、仏界中心の論を展開されている。大聖人の首尾一貫した論の、
 発展を思うべきであろう。それ故、妙法=十界互具=一念三千も、全て無始無終の十界互具の生命を、起点として展開されて行くのである。妙法も、寿量品に
 開顕された常住の仏界の生命の、不可思議な力用を表わす言葉となり、十界互具論も常住の仏界の生命に、具足される常住の九界を意味し、一念三千も常住の
 仏界の一念に具される三千、となる。

  迹門を基軸に論を展開した天台教学は、妙法を哲学的に捉え、十界論は九界の衆生に仏界を具する側面に傾き、一念三千論も衆生の一念に具される三千を
 強調する。総じて天台哲学は、九界の因より仏界の果を望む従因至果の法門となるのに対し、日蓮大聖人の仏法は、常住の仏界から逆に九界の因に働きかけ、
 これを救い取って行く従果向因の法門となるのである。更に言えば、共に内在即超越、超越即内在を共通にしつつも、天台教学が九界の衆生の因に内在する
 仏界の果を、止観行という禅定の修行によって内観し、仏果に到達した瞬間に九界を超越しようとする、内在から超越を志向するのに対し、日蓮大聖人の
 仏法は、超越的な常住の仏界の果に具する九界という、仏界即九界の本源的な生命の力用を、九界の衆生の因の中に内在せんとして、超越から内在を志向する
 のである。ここに、御本尊の建立が要請されてくる、必然性が存するのである。
36名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/05/04(水) 20:58:11  

                                  【文底の意味するもの】

  これまで「十法界事」を中心としつつ、かなりのスペ-スを費やして、日蓮大聖人の十界互具論の本質に迫ってきたが、本抄で示された基本論調は、そのまま
 以後の著述に、引き継がれていくのである。文永九年に著された人本尊開顕の重書「開目抄」では、「十法界事」のテ-マが一段と深化され、明瞭なる文底観心の
 立場から、より鮮明に説かれていく。まず、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいだ
 さず但我が天台智者のみこれをいだけり。一念三千は十界互具よりことはじまれり」(P.189 ②)と、文底観心の立場より、種脱相対を明かされる。すなわち
 一念三千法門は、法華本門寿量文底の南無妙法蓮華経に、包み込まれているというのである。ここで“文の底にしづめたり”との表現に、重大な意義が込められて
 いる。なぜ“文の底”と言われたか。

 元来、一念三千の法門は天台大師が、法華迹門の諸法実相・十如是や二乗作仏の思想をもとに、天台観心の立場によって構築したものであるが故、迹門を表にした
 法門である。その一念三千の法門が、法華本門寿量品の文底に秘沈されている、と言われたのは何故か。ここに於いて、先程「十法界事」で検討した、日蓮大聖人
 独自の十界互具論即一念三千論が、重要な意味を持ってくるのである。すなわち、久遠を開顕した常住の仏界の生命に具す九界であり、久遠仏の一念に具足される
 三千が、日蓮大聖人の十界互具、一念三千であるとすれば、当然、大聖人の捉えられる一念三千が、発迹顕本を説く本門寿量品に、求められて行くのは必然で
 あろう。しかし、寿量品の発迹顕本そのものが、一念三千の法門を表わしていない為、教相にこれを求めるわけにはいかない。発迹顕本した久遠仏の、常住の
 生命に具足されるものだからである。それ故に“文の底にしづめたり”と、言われたのである。
37名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/05/15(日) 22:17:12  

  更に日寛上人は、法華寿量の文底に南無妙法蓮華経が、秘沈されていると言う日蓮大聖人の元意を追究し、見事な論を展開された。日寛上人は寿量品に説き
 明かされた本因、本果、本国土の三妙合論の文は、未だ真実の意味の十界互具、一念三千を成就していないとの観点に立たれている。すなわち久遠五百塵点劫に
 於いて、長期間にわたる菩薩道を行じて仏果を得たというのが、寿量品の本因・本果である。言い換えれば九界の本因の後に、仏界の本果に到達した事になる。
 確かに釈迦が仏果を得てからは、九界も仏界も共に釈迦の生命に具備されて常住を明かし、仏界即九界、九界即仏界の妙なる生命の実在を明らかにしてはいる。

 しかし、厳密に言えばこの場合の常住は、一種の“有始無終”となり、真実の無始無終ではない。なぜなら、釈迦が仏果を得る前に、長期間の菩薩道を行じた
 事を述べ、九界から仏界に至るという始覚性を残しているからである。その意味では始成正覚の在り方を、五百塵点劫という久遠の昔に、移したに過ぎない
 結果に陥っている。ただ久遠の開顕という超時間、永遠性は、釈迦が仏果を得てからの仏界即九界、九界即仏界の妙なる生命の実在を、明かす上での根拠に
 なっている。問題は、始覚性を如何にして払拭するかである。そこに見出されたのが、久遠の釈迦を本因所住に於いて不退転に登らせ、成仏せしめた根源の法
 =南無妙法蓮華経であった。

 日寛上人は、その久遠仏を仏たらしめた能生の根源の法こそが、事の一念三千即南無妙法蓮華経であり、この法を久遠元初以来所持された末法の御本仏こそ、
 日蓮大聖人であると断定された。ここに、日蓮大聖人が胸中深く抱かれた本意が、明らかとなったのである。日寛上人より開かれた、究極の思想によれば、
 結局、寿量品開顕の久遠仏とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の御生命になる。従って久遠仏の一念に具された三千とは、久遠元初自受用報身如来
 即日蓮大聖人の、一念の心法に具された三千となり、それはすなわち、妙法=南無妙法蓮華経と表わされる。ここに、自受用身(人)即事の一念三千(法)の
 人法一箇の、久遠元初仏の生命が明々了々となるのである。日蓮大聖人が御図顕に成られた御本尊の相貌こそ、大聖人御内証の御生命たる一念三千の当体なのである。
38名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/05/20(金) 22:13:33  

  更に「開目抄」には、次の如き重要な一文がある。
 「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を
  開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の
  心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千も
  あらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮かべるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、
  四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の
  仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(P.197 ⑩)

 かなり長くなったが、重大な思想内容が織り込まれているので、あえて引用させて頂いた。ほぼ「十法界事」に於けるテ-マと重なる内容であるが、本文の
 後半部分の展開は、日蓮大聖人の末法独一本門の独創性を示して余す所がない。「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば
 四教の因やぶれぬ」との文は、先の「十法界事」の“始覚の十界互具”であっては何故に、日蓮大聖人の所謂“真実の十界互具”にならないかという、
 その理由を簡潔に述べられている。迹門の始成正覚の仏は、爾前の蔵・通・別・円の四教を説いた仏と同じ始成の仏果である。それ故、本門寿量品に於いて、
 始覚を発って久遠の本果を開顕したと言う事は、四教の仏の果を打ち破り、否定した事になる。四教の仏果が否定された事は、同時にその仏果を得る為の、
 九界の修行因(仏因)を破った事になる。それ故、次に「爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり」
 と述べられたのである。

 九界を因とし、仏界を果とする十界の因果は、爾前・迹門に於いては、無常始覚の故に否定された。本門寿量品に於いては、無始常住の九界の因と無始常住の
 仏界の果との因果を説き顕わしたのである。「十法界事」における「本有の十界互具」を、ここではこの様に表現されたのである。
 また、“本因本果の法門”とは、始成の仏果と九界の仏因とは異なり、仏界も九界も共に本有常住の因果である事を示されている。先に述べた時間論の視点で
 言えば、始覚の現在時間では因と果が異時にならざるを得ない所を、久遠本有常住の超時間によって、倶時ならしめるのが本因本果の法門といえよう。
 この様にして超時間、永遠性によって成立する因果倶時とは、久遠仏の生命の不可思議性に他ならない。
40名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/05/22(日) 21:03:23  

 それ故に、更に「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と述べられたのである。無始本有の
 因の九界は、無始本有の果の仏界に具わり、無始本有の仏界は無始本有の因の九界に備わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千になるとの仰せで
 あり、正に久遠仏の十界互具の生命そのものなのである。ここを日寛上人の思想によって読む時、久遠元初の自受用報身如来の生命になり、同時に南無妙
 法蓮華経の一法になる事は言うまでもない。「当体義抄」に於いて「至理は名無し聖人理に観じて万物に名を付けくる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り
 之を名けて妙法蓮華経と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(P.513 ④)
 この中で、因果倶時・不思議の一法である南無妙法蓮華経を修行する者が、「仏因・仏果・同時に之を得る」と言われている点が、重要である様に思う。
 仏因(九界)も仏果(仏界)も因果倶時で、法で言えば南無妙法蓮華経の妙法そのものであり、人で言えば久遠元初の自受用報身如来の生命そのものであるが
 故に、その妙法を修行する、すなわち妙法を唱えれば唱うる主体の生命が妙法則久遠元初の生命となると言う事である。

  ここで整理をかねて、今一度之までの論述を振り返ってみると、迹門では九界の衆生に始覚の仏界を具すと、理的に九界即仏界の十界互具が説かれた。
 本門寿量品の発迹顕本、久遠実成開顕によって始覚の仏界が否定された事になり、その必然の結果として、能具の九界の衆生(因)も否定された。こうして、
 迹門の九界即仏界を否定し去った後に、今度は本有常住の仏界に本有常住の九界を具足する、常住の仏界即九界が成り立ってくる。もちろん、常住の九界即
 仏界も、成立するのは当然である。これすなわち、久遠仏の生命そのものの相貌である。更に文底観心から言えば、久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の
 御生命そのものであり、同時に南無妙法蓮華経の一法となる。この人法一箇の当体を、日蓮大聖人は御本尊として図顕され、「末代幼稚の頸にかけさしめ給う」
 たのである。この御本尊に妙法と唱うれば、唱うる者の生命に南無妙法蓮華経即久遠元初仏の、常住の仏界即九界、九界即仏界の大生命が感応妙で涌現して
 くるのである。その時、無始の九界に仏界を具し、無始の仏界に九界を具す、真実の十界互具・百界千如・一念三千の当体として蘇生する。

  さて、南無妙法蓮華経即久遠元初仏の生命こそ、宇宙と生命の根源であり、人間を含めた宇宙森羅万象を貫いて躍動する力用に他ならない。宇宙と生命の
 根源についての最初の日蓮大聖人の悟りが、法華経と天台の一念三千説を媒介にしつつ、深化発展し法華経迹門を超えて遂に、法華本門寿量品の文底に南無妙
 法蓮華経即久遠元初仏の大生命を樹立されるに及んで、その究極の境地に達せられたのである。そして、究極の悟りの境地を御本尊として図顕され、三大秘法
 具足の一閻浮提の大仏法が、ここに打ち立てられた。

  本稿は、ひとまずここで打ち切りたい。
  残る今一つの重書“観心本尊抄”の検討、並びに妙法の題目についても、まだまだ考察すべき事柄が多いが、それらについては、後日を期したい。
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7  自己紹介のスレッド  (Res : 33)

1名前:管理人 投稿日:2009/06/16(火) 20:27:23  
自己紹介をお願いします。
27名前:元管理人 投稿日:2011/06/29(水) 10:26:18  
某男子部員様。

ようこそお越しくださいました、ここは約二名様の独壇場と化しておりますが、それにも怯まず3人目の独壇場として御参加くださると嬉しいですね。

お好きにスレッドを立ててもかまいませんよ。
28名前:雨煽り 投稿日:2013/06/27(木) 22:08:18  
雨煽りと申します。

備前さんに、絡みに来ました。

よろしくお願いします。
29名前:見習い 投稿日:2013/06/28(金) 13:02:53  
 こんにちは、雨煽り様。
 ようこそ、おいでくださいました。m(__)m
 いつの間にか、多少マニアック的な板になっておりますが
 楽しんで下されば幸いです。

 スレ立てを表明くだされば、さっそく立てさせていただきますので
 今後とも宜しくお願い致します。
30名前:沖浦克治 投稿日:2015/12/12(土) 06:19:31  
 沖浦克治です。

 御無沙汰いたしておりましたが、又書かせていただきたく、ご挨拶申し上げます。
31名前:見習い 投稿日:2015/12/13(日) 19:34:44  
 久方ぶりに覗いてみれば、上がっていたもので何方であろうと
 思えば、沖浦さんでしたか(笑

 一度されているのですから、気を使われなくとも宜しいのに(^^;
 どうぞ、遠慮なくお書きください。
32名前:グラスルーツ 投稿日:2016/01/08(金) 23:35:08  
はじめまして。

群馬の壮年部員です。

沖浦さんのところから来ました。

よろしくお願いします。
33名前:見習い 投稿日:2016/01/09(土) 20:17:19  
 ようこそいらっしゃいました、グラスルーツ様。
 スレ立てが必要でしたら、お申し出ください。
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8  口舌の輩の部屋  (Res : 124)

1名前:美髯公 投稿日:2009/06/17(水) 15:26:01  
 掲示板の主旨とはズレが生じますが、この部屋は意見交換を

主眼として行きたいと思います。

理由は簡単で、私が議論に向いてないタイプだからです。

そしてまた、謂れ無き悪口・雑言は禁句といたします。

犯せば、管理人さんよる即行削除の対象となります。

以上を御了承の上、入室をお願いいたします
115名前:美髯公 投稿日:2014/01/03(金) 21:12:22  
 おめでとう御座います。
 本然も宜しく、おたの申ォ〜します。

 本年も途切れ途切れになるかと思いますが
 宜しく、お願い致します。
116名前:美髯公 投稿日:2014/03/16(日) 21:55:26  
 今晩は!
 ご無沙汰しております。
 さて、拙のパソが急にプッツンして、既に数ヶ月。

 いまだ、銭がなくデーターの移行も出来ずにおります。
 今しばらく、この状態が続くかと思いますが
 何分と良しなにおたの申します。
117名前:単己菩薩 投稿日:2014/04/13(日) 21:37:14  
初めまして、単己です。私自身、多宝の塔、以前悩み迷いました。結論が出たので
単己の未熟な、答え書きます。如来の謎が解ければ、多宝も自ずと答えが出ます。
法華経の28品、一人の人間の一生の生命説いている。特に序本に本文引誘の答えあり
羅漢参集、医学的には、数のケタ違い、釈迦当時、細胞なる多分医学用語無し、
故に天から降る曼荼羅華、マンジュシャ華と説く、現実には、母の卵子と、父の
精子結合し、臨界起こす、成人になれば、60兆其の細胞の核に遺伝子有り
200分の1ミリの細胞、ミトコンドリア、人ゲノム。人ゲノムとは面白い人間の
形を作る細胞の事、仏法では単箇の細胞の事を如来と名づける、其の如来人ゲノム
設計図、五体の設計図五体となれば、呼び名が多宝如来と替わる人間の五体を仏法では
見宝塔と説く、母の母体で人ゲノムの我が一身の形なるまで仏法では3辺土田と説いている
完成すれば、我が心釈迦と説く此れ我が知なり、多宝如来我が五体並座と説いている
此れで2仏並座なり、多宝善哉皆是真実と、此れ因果俱時妙法成り我が心のままに多宝の肉体
は証明する其れも俱時同時です。書けば長すぎ笑われる。多宝如来の塔とは、釈迦は五体を2足
尊、日蓮は五体多宝の塔を五角と説いた、此れ人間の体型なり、
  飽きると失礼この辺で、  単己菩薩五千の上漫の事です。方便品の
121名前:美髯公 投稿日:2015/05/18(月) 19:15:20  
 まッいどォ~!と言いもてお久しぶりでおます。m(__)m
 本日、パンクしたPCよりサルベージしてまいりました。(笑
 えろォ~時間がかかりました、誠にスンマヘンでした。

 また、ポチポチとupしていきますよって、よろしゅうに。v(^^
122名前:美髯公 投稿日:2015/05/24(日) 21:33:56  
 まッいどォ~!
 本日二連投でおまん!(笑
 で、宝塔編は本日でおしまい v(^^

 次回からは、御書講義一辺倒ではなく趣を変えて
 大聖人についての講義を掲載して行きたいと思いまんねん
 つらつら各掲示板を眺めておると、なァ~んか基本部分が
 欠けているように思われて仕方おまへんのや

 まァ~最初は、セオリー通りに大聖人の生涯からでしょうな
 まッ!お楽しみにな!
123名前:美髯公 投稿日:2015/05/31(日) 21:05:13  
 すんまへんなァ~ (^^;
 最近・・・と言うより久方ぶりの投稿ですよってに
 字数制限がつかめず、管理人はんに削除依頼を出しっぱなしなって
 えろォ~小汚い様相を呈しておりますが、今しばらくの御辛抱をm(__)m
124名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2016/01/02(土) 10:48:05  
 明けましておめでとうございます
 本年もよろしゅうお頼申し上げます。

 昨年末ごろより、始めておりますよってに、
 よろしゅうに。
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9  仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】  (Res : 78)

1名前:美髯公 投稿日:2015/05/25(月) 22:33:19  

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00~21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 日蓮大聖人の生涯 】は、講義集の第一・二・三集に掲載されております。
72名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/11/14(土) 20:51:09  

      【「撰時抄」述作の意義】

  こうした不安定な社会状況、騒然とした時代背景のもとに「撰時抄」は著わされたのである。時に建治元年(一二七五年)、聖寿五十四歳の時である。
 「日蓮大聖人の御一代の化導は、『立正安国論』に始まり『立正安国論』に終わる」と言われているように、大聖人の実践の基本原理は「立正安国論」で
 あった。さらに「開目抄」に於いて、大聖人自身が末法永遠の救世主たる事を明らかにし、「観心本尊抄」に於いて、末法に弘まるべき法体「一閻浮提
 第一の本尊」を示した。これらに対して、「撰時抄」は一閻浮提第一の本尊の広宣流布を、未来の弟子に託した未来記と言える。いわば末法の時に、
 地涌の菩薩としての使命を担って出現し、広宣流布を目指す信仰人の、実践の在り方を明確にした実践の書と言える。

 大聖人は「撰時抄」に於いて、当時の日本に充満している災に三ありとして念仏、禅、真言の三宗を指摘し破している。だが、その内でも別しては、
 真言宗の破折にその鉾先が向けられていると言える。つまり「立正安国論」では念仏を一凶と断じたが、「撰時抄」では真言宗を他の念仏、禅とは
 似るべくもない大僻見であるとしているのである。佐渡流罪以前、大聖人の破折の鉾先は専ら念仏、禅等に向けられ、以後は主として真言へと変化して
 きている。つまり鎌倉布教時代に於ける「守護国家論」(述作三十八歳、P.36)及び「唱法華題目抄」(同三十九歳、P.1)では、真言宗を天台宗と同等に
 扱っているような趣がある。この事から佐渡流罪以後に於ける真言破折の姿勢を、単に大聖人の内的発展の為であると捉える向きもあるが、建長五年
 (一二五三年)の立宗宣言の時に於ける、四箇の格言の中で真言亡国と、はっきり打ち出している事から考えても、それはまさに大聖人の「時を選取
 しての所破の次第」であったと解すべきである。
73名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/11/23(月) 14:21:08  

  さらに「三沢抄」には「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(P.1489 ⑦)とあるが、日寛上人はここに、
 所破と所顕の二義があるとしている。所破とは佐渡以前に於いては真言を破していないからであり、所顕とは同じく三大秘法の大御本尊を顕わさなかったが故
 であると。それでは何故、佐渡以前に於いては、真言を破折しなかったのであろうか。同じく「三沢抄」に「此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等
 にも召し合わせ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんぞ、さらば・よもあわじと・をもひて
 各各にも申さざりしなり」(P.1489 ⑦)とある。この様に大聖人は以前から真言宗を民族、社会を滅亡させる元凶と見なし、公場対決によって理論闘争の決着を
 付けようと考えていた事が分かる。ここに佐渡以前に於いて、敢えて真言を破折しなかった大聖人の真意が明らかである。

 佐渡以後に於いては、専ら真言を破折し、三大秘法の仏法を顕わしたのである。その理由は先に述べた通りであるが、更に付け加えれば、一念三千の実体である
 三大秘法の大御本尊建立に当たって、真言宗が天台家から盗んだ一念三千を、あたかも自宗の教義であるかのように宣揚している玉石混淆の誤りを正し、真実の
 一念三千の法門を世に知らしめんが為であったと考えられる。

 最後に日寛上人の述べた所顕、すなわち三大秘法の大御本尊建立の義から、この「撰時抄」の立場を考えてみたい。大聖人はインド、中国、日本三国に渡る仏教
 史の中で、伝教大師が法華経円頓の戒壇を叡山に建立した事に対して高く評価している。それは「されば伝教大師は、其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・
 妙楽にも勝れてをはします聖人なり」(P.264 ⑤)と記している事からも明らかであろう。この様に伝教の戒壇建立を宣揚したのは、翌年の「報恩抄」(P.293)に
 おける三大秘法の開顕、更に「三大秘法禀承抄」(P.1021)における滅後の弟子への戒壇建立の委託等の、一連の所顕の伏線であったと考えられる。つまり、
 「撰時抄」は三大秘法の大御本尊建立のプレリュ-ドを奏でたものと言う事が出来よう。
74名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/11/28(土) 23:08:10  

      【師恩謝徳の書「報恩抄」】

  建治二年(一二七六年)旧師道善房は清澄寺で寂しい生涯を閉じた。その報せが大聖人に入ったのは六月であった。確かに不甲斐のない師匠ではあったが、一度
 師恩を受けた道善房である。その訃報に接した時の胸中を「報恩抄」には「それにつけてもあさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・
 はしりたちてもゆいて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども・・・・」(P.323 ⑮)と述べられている。ここには旧師の死去を痛む、一人の
 人間としての大聖人の姿が浮き彫りにされている。本来ならば自分が馳せ参じ、旧師の墓前にて回向したい。しかし、世間の人々は自分の事を遁背の身と思っている
 故、不本意ながら差し控えたと。ここに「報恩抄」の一書をした為、弟子の日向に託し義浄房、浄顕房の許に届けさせたのである。この日向は、大聖人が小松原の
 法難後、房総方面の弘教に努めている折、得度して弟子になったと伝えられている人物である。

 大聖人は建治二年の正月に「清澄寺大衆中」という書を認めて、清澄の同志の人達を教誨しているが、その書は日向が中心となって読み聞かせてあげなさいと、
 言われている。日向が自分の出身地でもある、安房方面の指導的役割を担っていた事が伺われる。義浄房と浄顕房には日向を読み手として、嵩が森の頂上で二、
 三遍また故道善房の墓前で一遍読み、その後はこの日向に預けておいて常に聴聞し修学すべき事を指示されている。当時の清澄寺は、大聖人に強く反発した
 円智房、実成房等の念仏僧も既に死んでおり、他の妙法信仰の人達も自由に出入りが出来たらしい。義浄房等は大聖人の指導通り、故道善房の為に「報恩抄」を
 読誦し、回向を行った。この報告を受け取った大聖人は、大変喜び後年礼状を二人に送っている。「華果成就御書」と呼ばれる書がそれである。
 「さては建治の比・故道善房聖人のために二礼かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入って候」(P.900 ⑨)

  さて「報恩抄」は、父母・師匠・三宝・国王の四恩報謝の為に著わされた書であるが、別しては師恩謝徳のために記された書である。「報恩抄」には、日蓮
 大聖人が報恩の為に弘通した法華経の実体である本門の三大秘法が顕わされている。本門とは迹門に対する言葉で、仏の本地を説き明かした法門と言う事であり、
 釈尊の場合それは法華経寿量品であった。しかし、日蓮大聖人の本門とは三大秘法の南無妙法蓮華経に外ならない。釈尊は法華経寿量品に於いて、五百塵点劫
 という久遠に菩薩道を行じて成仏した事を説いている。釈尊が、そこで得た法の正体こそ、南無妙法蓮華経なのである。妙楽が「脱は現に在りと雖も具に本種を
 騰す」と述べているように、釈尊やその他の仏菩薩の悟りの核心には必ず南無妙法蓮華経が存在する。
75名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/12/13(日) 19:42:55  

 日蓮大聖人は自身の観心の立場から、法華経の文の背後に秘されている、南無妙法蓮華経を鋭く洞察されたが故に、文底独一本門と称されるのである。
 この文底極一本門の形貌は如何なるものか。それが三大秘法であり、「報恩抄」にはこの三大秘法が整足して説き顕わされている。これは画期的な事で、
 五大部中でも「報恩抄」以外に類を見ない。故に「報恩抄送文」にも「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ」(P.330 ⑪)と述べられているのである。
 日寛上人の「報恩抄文段」には、この点について言及し「『大事の大事』とは、凡そ五大部の中に、安国論は佐渡已前にて専ら法然の謗法を破す。故に
 唯これ権実相対して未だ本迹の名言を出さず。況や三大秘法の名言を出さんや。開目抄の中には広く五段の教相を明かし、専ら本迹を判ずと雖も『但本文
 寿量の文底秘沈』と云って、尚未だ三大秘法の名言を明かさず。撰時抄の中には、天台未弘の大法経文の面に顕然なりと判ずと雖も、しかも浄・禅・真の
 三宗を破して、未だ三大秘法の名義を明かさず。然るに今当抄の中に於いて、通じて諸宗の謗法を折伏し、別して真言の狂惑を責破し、正しく本門の三大
 秘法を顕す。これ則ち大事の中の大事なり。故に『大事の大事』というなり。吾が祖はこれを以て即ち師恩報謝に擬したもうなり」と述べている。

  ただし、大聖人が波木井郷に到着して間もなく五月二十四日付で「法華取要抄」を著わされたが、その中に「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」
 (P.336 ②)と、三大秘法の名言が見られる事は注目すべき点である。ともあれ「報恩抄」で顕わされた、三大秘法は日蓮大聖人の仏法の教義で基幹と
 なるものである。「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士と
 なるべし」(P.328 ⑮)と記されている本門の本尊とは、「開目抄」 「観心本尊抄」で明らかにされた所の本尊である。

 「本尊」とは、端的に言えば人間の主体、幸福を確立する根源の実体であり、根本として尊敬する信仰の対境である。日蓮大聖人は末法全民衆の依り所で
 ある観心の本尊を、弘安二年(一二七九年)十月十二日に建立された。これが一閻浮提総与の大御本尊である。この本尊に「人の本尊」と「法の本尊」が
 あり、ここに「本門の教主釈尊」とあるのが人本尊にあたり、文底独一本門の教主釈尊の義である。すなわち、末法に於いて主師親の三徳を具備されている
 日蓮大聖人の事である。又「法本尊」とは「所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」との相貌を具備している大御本尊で
 ある。しかし、その大御本尊は大聖人の生命それ自体であるが故に、人法一箇の大御本尊とも言う。
76名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/12/15(火) 23:54:51  

  次に本門の戒壇とは本門の本尊が安置される場所の義である。戒壇とは、元々僧侶が戒律を持つ事を誓う場の事であった。しかし日蓮大聖人の仏法に於いては、
 特別な戒律を持つ必要はなく、本尊を受持する事が、そのまま戒を持った事に通ずるのである。「教行証御書」に云く「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は
 三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど
 破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し」(P.1282 ⑩)と。また戒壇の戒とは、元来「防非止悪」すなわち非を防ぎ、悪を止める義である。
 末法事の戒は全人類の不孝と悲惨の根源に迫り、生命に内在する非道と根本悪を防止する事にある。従って、一閻浮提総与の大御本尊の前で人類の恒久平和と
 幸福確立を祈願する時、そこが本門の戒壇となるのである。

  第三に本門の題目とは、日蓮大聖人の仏法の修行すなわち観心である。この題目に信と行の題目がある。まず本門の本尊こそ、疑っても疑い得ない究極の
 実体であると信ずる事が題目の根本であり、これが信の題目である。更にその信を根本に、自行化他に亘る題目、即ち自らも人間完成を目指して題目を唱え、
 また他の人々にも菩提心を発させ題目を唱えさせて行く実践が行の題目になる。この信行は不即不離のものである事は言うまでもない。
77名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/12/16(水) 23:04:17  

  この一閻浮提の内に於いて、未曾有の三大秘法の南無妙法蓮華経を弘めるに当たっての大難は、先に見た通りである。それを忍び乗り越えられたのは、
 偏に「一切衆生の異の苦」を全て我が「一人の苦」とされる大聖人の大慈悲の故に外ならない。そこで「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・
 未来までながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、
 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」(P.329 ③)と、妙法弘通の功徳が説き明かされる。

 そして濁乱の末法の世界で、妙法を弘通した大聖人の功徳は悉く「故道善房の聖霊の御身に集まるべし」(P.329 ⑭)と、その功を旧師道善房に帰せられた
 のである。ここに師恩報謝が完結する。更に言えば「報恩抄」は、別して師恩報謝のために著わされたが故に、このように結ばれているが、決して大聖人の
 功徳は故師のみに帰するものではない。通じて父母・師匠・国主の恩を挙げられている様に、末法の御本仏として一切衆生に功徳を及ぼし、救って行くとの
 宣言なのである。ここに挙げた文で「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までながるべし」と、妙法の広宣流布を明言されている事は
 重要である。しかも、それはあたかも春に花が咲き、秋に果実が実る様に「時のしかしむる」所であり、宇宙生命のリズムは南無妙法蓮華経のリズム
 それ自体である事を闡明にされているのである。
78名前:美髯公 ◆zkpDymnu/M 投稿日:2015/12/20(日) 19:48:29  

      【熱原法難と出世の本懐】

  日蓮大聖人に変わって、妙法弘通の第一線に立ったのは、日興上人を始めとする各弟子達であった。中でも日興上人の富士方面に於ける活躍は目覚ましく、
 実相寺、四十九院、滝泉寺等の住職が次々と妙法に帰して、更に広く農民の間に妙法が浸透していった。その結果、必然の事として、三障四魔が競い起こって
 きた。特に下方庄熱原郷の天台宗滝泉寺を中心に法難が勃発した。これを「熱原の法難」と言うが、大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊建立の、
 機縁となった事件として重要な意味を持っている。

 建治期から大聖人門下に対して、加えられていた迫害が激しくなったのは、弘安二年(一二七九年)に入ってからである。同年九月二十一日、上野房日秀の
 持田の稲刈りに集まった信徒を、滝泉寺の院主代行智等が武装して襲い、二十人を捕えて鎌倉に送ったのである。大聖人は、無実の罪で捕えられた信徒の農民を
 救う為、自ら幕府に抗議する訴状の文案を考えられ、それを日興上人が認めて、日秀等の名で幕府へ提出された。鎌倉で裁きにあたったのは、平左衛門尉頼綱で
 ある。頼綱は妙法の信仰を、捨てようとしない二十人の農民の内、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬罪に処したのである。

 この法難は、それまでの迫害が大聖人御自身に対するものであったのに対して、信徒が蒙った弾圧であった事、しかも横暴な権力者の生命に及ぶ難にも、信仰を
 貫き通した点に特徴がある。日蓮大聖人は時の到来を感じて、同年十月十二日に末法万年に渡って、全世界の人々が根本として信仰すべき本門戒壇の大御本尊を
 顕わされたのである。大聖人の仏法の骨格は三大秘法であるが、根本はこの大御本尊に摂せられるのである、従って大聖人の仏法は全人類の救済が目的なのである。
 出世の本懐をとげられた大聖人は、日興上人に仏法の全てを付嘱され、弘安五年(一二八二年)十月十三日、安証として御入滅なされたのである。御年六十一歳で
 あられた。
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10  仏教大学講座講義集に学ぶ     【 “宝塔”の意義について 】  (Res : 21)

1名前:美髯公 投稿日:2013/11/17(日) 20:36:19  

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ‘蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ∧法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  8渋紊凌擁・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 “宝塔”の意義について 】は、講義集の第八集に掲載されております。
15名前:美髯公 投稿日:2015/05/19(火) 23:34:31  

  次に「宝塔品二十箇の大事」に入っていきたい。「第三 四面皆出の事」(P.740 ②) に「御義口伝に云く四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の
 塔を荘厳するなり」と説かれている。
 宝塔品には、宝塔の相を明かして「四面に皆、多摩羅跋栴檀の香を出して、世界に充徧せり」と説いてある。この四面とは、我等が生老病死の四相であると
 仰せなのである。本来、生老病死とは人間生命の根源的な苦悩である。その苦悩をもって「我等が一身の塔」すなわち自身の生命を荘厳するとは
 一体どういう事なのか。

 たとえば病気。我々が病気故に御本尊を持ち、自らの生命を開拓し、宿命転換ができたとする。そして妙法の仏力・法力を我が身の上に実証しゆく事は、
 まさしく我が生命を荘厳したことになる。「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、
 病によりて道心はをこり候なり」(「妙心尼御前御返事」 P.1480 ①) と述べられている通りである。また死についていえば、大聖人が御本尊を顕される
 機縁になった熱原の法難に際し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の農民が不惜身命の信心を貫いて首をはねられた。たとえ無名の庶民の死であったとしても、
 彼等の名は“熱原の三烈士”として、七百年後の今日に至るまで日本国中、否全世界に語り継がれている。死が一身を荘厳したのである。

 このように、生きる事、老いる事、病気で苦しむ事、そして死という最大の苦悩さえもが自身の生命を荘厳していく事になる。そこに南無妙法蓮華経の
 偉大な功徳力がある。「我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら四徳の香を吹くなり」(P.740 ③) とは、その原理をいわれているのである。
 四徳とは、常楽我浄である。常とは、三世にわたって永遠に連続して不滅である事。楽とは、生死、煩悩の苦を明らかに見つめ、それを即、涅槃、菩提の
 楽にしていく事。我とは、仏という無上の我が宇宙に遍満している事。浄とは、染法を離れ、浄法にして鏡の如く清浄な事をいう。我々の生老病死という
 四相それ自体が、ありとあらゆる人々にこの四徳の薫風を与えていく。「四面に皆、多摩羅跋栴檀の香を出して」とは、そうした四徳の香りを表している
 だと、大聖人は仰せなのである。
16名前:美髯公 投稿日:2015/05/20(水) 23:59:50  

 さらに「南無とは楽波羅蜜・妙法とは我波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜」と。すなわち、我々が大御本尊に帰命し奉り、南無妙法蓮華経を
 唱え南無妙法蓮華経に生き抜く事が真実の安楽であり、楽波羅蜜となる。また「妙法とは我波羅蜜」― 我々の生命の中には我というものが厳然と存在する。
 その我を妙法の当体として輝かして行くという事である。「蓮華とは浄波羅蜜」― 蓮華の特質の一つは、如蓮華在水といって、泥沼の中に華を咲かせる。
 いかなる世界であれ、どんな時代であれ、自分自身が最高の清浄な生き方が出来るという意味である。最後の「経とは常波羅蜜」― “三世常恒なるを経と
 いう”とある通り、自分自身の生命が永遠に続いて行くという事を示している。従って、南無妙法蓮華経と唱える事が、すなわち四徳を我が身に輝かせて
 いくことになるのである。
17名前:美髯公 投稿日:2015/05/22(金) 00:18:26  

  「第五 見大宝塔住在空中の事」(P.740 ⑪) には、次のように述べられている。
 「御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が
  住在空中なり虚空会に住するなり」
 宝塔が空中に住したとは、いったい何を表しているのか。まず大聖人は、この「見大宝塔」とは宝塔が一身の事であり、「住在空中」とはその我等の一身が
 滅に帰す、すなわち大宇宙に帰していく事であるといわれている。そして南無妙法蓮華経と唱え奉り信心に励む我々が住する処が「住在空中」であり、
 虚空会であると結論づけられている。

 ここで大聖人が示されようとしているのは色心不二、生死不二の理法である。見大宝塔とは色法 (健全なる身体) であり、住在空中とは心法 (価値創造しゆく
 知恵、精神) である。また、その色心不二、生死不二の当体として生命が永遠である事を明かされている。所詮、信心の一念とは、我が胸中を指す以外にない。
 それを住在空中、あるいは虚空会と説いているのである。従って我等が空中に住するとは、まさしく御本尊を信受し題目を唱える事によって絶対に
 崩される事のない永遠の幸福境涯に住する事をいうのである。また、宝塔品では一座大衆をも釈尊が神通力をもって虚空に引き上げ事が説かれているが、
 これも我々衆生の滅の相、すなわち死の相を表している。つまり、我々の生命は永遠にこの生と死を繰り返す。この生死の当体である生命そのものを
 変革する事によって、生死を即涅槃と転ずる事ができるとも仰せである (「第十一 摂諸大衆皆在虚空の事」) 。

  考えてみれば、七宝に飾られた宝塔が大地から涌現し虚空にかかったという宝塔涌現、そしてその後に展開される虚空会の儀式とは、まさしく我々の
 生命が生と顕われ、死と顕われ、その生死の相を永遠に繰り返していく、実にダイナミズムを説き起こそうとしたものといってよいだろう。
 しかも、もう一重立ち入って見るならば、その生死の苦海に沈む我々の生命を、いかにして即涅槃と開覚せしむるか ― その大転換のドラマをも暗示して
 いるのである。大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するのを皆在虚空と説くなり生死即涅槃と被摂するなり」 
 (P.742 ②) と仰せである。すでに、虚空会の儀式を借りて、大聖人は大御本尊を御図顕された事をみてきた。恐らく大聖人の御心中は、一切衆生が
 この大御本尊を生命の大回転軸として、生死の苦海から永遠不滅の絶対的な幸福境涯に自在に遊戯する人間革命の壮大なドラマを、事実の上に読み取られて
 いたのではないかと拝せられるのである。
18名前:美髯公 投稿日:2015/05/23(土) 00:17:22  

  次に「第八 南西北方四惟上下の事」は、宝塔品において釈尊が白毫相の光を放って四方十方を照らせば、その光の届く所、いたるところで十方分身の
 諸仏が説法している様子が浮かび上がったという個所についての御義口伝である。
 大聖人は、この十方とは十界を顕わしていると仰せである。しかし、白毫相の光とは十界の衆生が共に具えている貪・瞋・癡の三毒の光であると仰せである。
 そして、この三毒の光を「一心中道の智慧」というと結論づけられている。十界の衆生が等しく具えている三毒とは、実は白毫相の光であったというので
 ある。貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろか) ― この三毒が、なぜ白毫の光となるのか。それが十界の生命の本有の力用だからである。
 
 すなわち、我が身の三毒を転じていく以外に真実の幸福生活はありえないのである。そして、我が生命の三毒と真正面から取り組む以外に、自身の変革は
 ありえないと決定し、信心に励む所にこそ、一心中道の智慧が顕われてくるのである。従って、一心中道の智慧とは煩悩・豪・苦の三道を、法身・般若・
 解脱の三徳と転ずる信心の一心の事である。我々が南無妙法蓮華経に生ききる時に「十界同時の光指す」― つまり十界のそれぞれが、その当体を改める
 事なしに妙法の当体として輝き渡る生活に入る事ができると仰せなのである。
19名前:美髯公 投稿日:2015/05/23(土) 23:33:29  

  次に「第十四 此経難持の事」(P.742 ⑮) に触れておきたい。これは「此の経は持ち難し」についての御義口伝であるが、これは我々の信心に於ける
 根本姿勢であると心得ておきたい。大聖人は「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」と仰せである。これを結論していうならば、受けるべき難を
 受けずして成仏はありえない、との御指南なのである。「教行証御書」に「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(P.1282 ②) と、我々の信心の根本姿勢を
 戒められているのは、それ故である。すなわち、我々凡夫が自身の胸中に仏界を涌現しゆくには、難を受けるという厳しい戦いがなければならない。
 難を受ける事によって自身の生命が磨かれ、我が己心の仏界が現じてくる。これは仏法の厳然たる方程式なのである。

 他の御義口伝では「難来るを以て安楽と意得可きなり」(P.750 ②) と仰せである。また「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を
 持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、『則為疾得・無上仏道』は疑なし」(P.1136 ⑤) とも仰せである。このご教示から、ひるがえって我々の信心の
 姿勢を考える時、勇気という特質が何にも増して重要になってくると思われる。我々自身の生命の淵源を直視し、そこに刻み込まれた宿命と対決し、成仏の
 実証を示して行くためには、いかなる苦難に直面しようともそれを敢然と乗り越えて行く勇気ある信心、実践が不可欠の要素であるからだ。
 
 我々はその根本姿勢を、大聖人の御生涯から学ぶ事ができる。「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(P.970 ⑭) ― これは大聖人ご自身の激闘の
 生涯の中で、身をもって会得された信心の精髄から発したご教示であると拝せる。いずれにしても、難を乗り越える勇気がなければ信心の本当の醍醐味は
 味わえないし、また、仏法の真意も到底理解できるものではないと知りたい。従って、我々は信心の根本姿勢の核心に“勇気”を置き、そこから発する
 不動の人生を生き抜いて行きたいものである。
20名前:美髯公 投稿日:2015/05/24(日) 13:40:03  

  戸田前会長は、よく次のような意味の指導をされていた。
 「仏法の本質は慈悲である。しかし我々凡夫には、慈悲といってもなかなかそれを実践できるものではない。それに代わるものは勇気である。勇気が慈悲に
 通じるのである」と。実際、苦悩に沈む一人の友を前にして、我々は何をなし得るか。彼の生命を揺り動かせる程の力強い激励の言葉を、どれほど用意
 できるだろうか。また絶望の淵にあってなお“さあ、頑張ろう”との一言を、どれほどの深い響きをもって発する事ができるだろうか。そう考えた時に、
 現実の闇が深ければ深いほど、苦悩の嵐が吹けば吹くほど、信心の確信に裏付けられた勇気という特質が、何にも増して大切になってくるのである。

 その勇気とは、また自身の宿命を直視し、それと真正面から対決するという方向へ向かうものでなくてはならない。人の常として、ともすれば自身の内面から
 目をそらし、外面を飾る事ばかりに気を奪われがちなものである。蔵の財、身の財より心の財第一 ― これは大聖人の御指南である。社会的な地位や財産、
 あるいは表面的な才知うぃいくら積んでも、内面の心の財を積まなければ砂上の楼閣にすぎないのである。要は、自身の生命に刻印された“一凶”を
 禁ずる勇気を持つ事である。自身が直面する苦悩の根源を見すえ、それに敢然と取り組む姿勢に、真剣な祈りも生まれてくる。その時はじめて一生成仏への
 第一歩を踏み出す事ができる。このように、真の勇気は決意を生み、その決意は信心を深めていく ― この繰り返しの中に一生成仏・人間革命という、
 我々の最高の人生の目的も達成されるのである。

  ともあれ、滅後末法において法華経を受持し弘通する事は難事中の難事である。そして、その仏法の方程式通り、大聖人は六難九易の実践の上に、
 大御本尊という宝塔を打ち立てられたのである。その事に思いを至すならば、大聖人の大慈大悲に心からの感謝の念を禁じ得ない。しかも「今日蓮等の
 類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を多宝涌現と云うなり」(P.741 ②) と。あるいは「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故に
 よって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし」(P.1244 ⑬) とも仰せである。
21名前:美髯公 投稿日:2015/05/24(日) 21:16:50  

  我々が御本尊を受持し唱題に励む姿が宝塔涌現であり、御本尊という宝塔に入る事になると仰せなのである。釈迦・多宝の二仏が並座し、三世十方の
 分身の諸仏が来集し、迹化他方の大菩薩・二乗・人天の大衆が連なった宝塔の儀式とは、まさしく大聖人御図顕の大御本尊の相貌であった。
 すなわち宝塔とは我々の生命を映し出す明鏡たる大御本尊そのものである。そして、御本尊を受持する我々の胸中にも、宝塔は涌現する。我々もまた
 大御本尊という宝塔の中に入って行く事ができるのである。これが宝塔の意義の根底である。
 以上、宝塔の意義について、大聖人の御書をたどりながら考えてきた。まだまだ深い意義が数多くあるが、今回はこの辺で終わる事にする。
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