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立ち話・雑談スレッド

286堅皇:2011/03/07(月) 01:53:00
>>しげきょんさん

> 念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです

そうですね、単なるイメージと言う事ですね。
つまりは思い込みと言う事になろうかと。

さてさて、仏は一体何の為に法を説いてきたと言うのでしょう。
毎日読んでいる方便品にはここ書かれています。

吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
「私は仏と成っより已来(このかた) 種々の因縁、種々の譬諭をもって
広く言教を演べ無数の方便をもって衆生を引導して。諸の執着を離れさせてきた。」
だそうです。

つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。

> 大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)

その通りですね、若き日の日蓮は真言こそが第一と思われ、真言密教の菩薩である虚空蔵菩薩への誓いを立て
釈迦仏を本尊として念仏により経を読誦されました、間違いはございません。

この後に日蓮は法華経第一と悟られ立宗宣言を行ったわけですから。

ですから、真言も念仏も一度は通る道なのかもと言っているではないですか。
ただ、くれぐれも念仏が過ぎると行き着く先に気をつけましょうと言うことですね。

287しげきょん:2011/03/07(月) 08:59:03
日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?
ひいては法華経しゃくもんの立場も破り去った本門上行の垂迹を払って
久遠以来の如来の境涯を開かれた
末法の衆生の主師親のを確立したのではないだろうか

288堅皇:2011/03/07(月) 10:44:02
> 日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?

吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。

更に言えば真言念仏は権経ではございません。
いずれも実教である法華経以後のものであり、その法華経の理に反し
尚且つ法華経を無視したり法華経より優れているとしているから謗法だと言う事です。

方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか説いてないわけですね。
舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

また、比喩品では世尊は舎利弗に遊び場で此の法印を宣伝するのはダメだと説かれています。
何故ならば、この「以信得入」の此の法印は利益か大きいのと同時に大変危険だからと言う事ですね。
特に執着の強い人、依存の強い人(増上慢)に聞かせれば法を謗り阿鼻地獄へ落ちるとも言われているからです。

解ります?「以信得入」と言ってもただ何でもかんでも信じればよいと言う話ではないんですよ。
創価の指導では誰彼構わずにこの「以信得入」と言う言葉を宣伝してますが。

密教の始まりはこれらを元にして段階的に秘密裏に仏法の実践を行おうとしたわけですね。
もちろん密教の形態では、取り仕切り側のさじ加減で変わるものなので法華経の趣意を掴んでいるとは言いがたいのですが。

しげきょんさんの話は日蓮や法華経の理論ではなく日寛さんの理論ですね。
「選択集」と同様な理を立てた日寛さんは執着の強い人(増上慢)だったと言えると思います。

289御意見番:2011/03/07(月) 14:05:37
>>288

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。


>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

釈尊が十如是・世雄偈を説いた後、舎利弗以外の衆生が動執生疑を起こし、
舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりの後に「五千の上慢」が会座から
立ち去ってはいるけど、霊鷲山の会座には五千に留まらないほど数多くの
衆生が集ってたわけですが。


堅皇さん。

貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?

290堅皇:2011/03/07(月) 15:44:54
> 方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
> 霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。

ちもろんその程度の事は理解しております。
但し、立ち去っていった上慢の比丘・比丘尼の存在があると言う事ですね。

更に加えて言えば、この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね。
彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから。

具体的に謗法者となるのは此の法を謗る事にあるわけですからね。

つまりは権経自体は法華経に近づけるための方便と言う事になり
法華経を知りつつ法華経を謗る真言念仏が謗法と言う事になりますね。

日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。
さて、法華経の何処に権経を誹謗して捨閉閣抛しなさいということが書かれているというのでしょう。
ましてや法華経を所破とはあるまじき行為であり正に念仏と同じく謗法であると言えますね。

291御意見番:2011/03/07(月) 17:16:11
>>290


>ちもろんその程度の事は理解しております。

堅皇さんは「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」と言ってたでしょ?

舎利弗を対告衆として、霊山の会座にいた一切衆生に説いたとされる方便品の経文と
異なる話をしておきながら、な〜にが「ちもろんその程度の事は理解しております」
ですか(呆)


>この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね
>彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから


「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。

その上で、十是実相の話に動執生疑を起こして霊山の会座から立ち去ったという
方便品の流れを理解出来ないで、な〜にが「彼らはまだ此の法に出会ってない」
ですか(呆)

292堅皇:2011/03/07(月) 17:28:52
ところでふと思ったのですが御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。
経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。
もしかして法華経の解説書などを目にされてそう思われたのですかね。
ちなみに僕はこの「妙法蓮華経」自体が方便であると捉えたから舎利弗と言う個人ではないとの判断なのですがね。

また訳を読むにあたって一人の訳では読んでないわけですね僕は
より現代訳に近い方が読みやすい理解しやすいと言う事はありますが同時に意味が若干異なる場合があります。
例えば「三昧」と言う言葉等を取り上げれば「瞑想」などと訳されているものもあります。
確かに解りいいと言うこともありますが、では「禅定」とは何か。
同じく「瞑想」と訳されていたり、「如来」と言う言葉も単純に「仏」と訳されている場合もあります。
「如来」と「仏」が同義であれば最初から書き分ける必要はないわけですね。

1つの訳文、解説書に依存してしまう事も同じく著に囚われる事だと思います。
御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると判断されたのかは解りかねますが
もし、解説書に書かれているからと言う理由であれば解説書に依存されている事になり
その状態こそが増上慢だと言う事になるかと思います。

と言うのも石山教学に触れている方々は南無妙法蓮華経という教相が真言であるとの考えですから
御書を読む場合でも教相で捉えるところがあると思います。
方便品を教相で捉えると単に舎利弗という二乗作仏の話と捉えられてしまいますが
これを観心で捉えると二乗作仏であるなら全ての衆生もまた十如是であるから自ずと「煩悩即菩提」の文字が浮かび上がってくるわけですね。

つまりは「煩悩即菩提」は確かに密教で表現された言葉ですが
法華経の文の底に既に沈めてあったということになります。

よく石山教学の方々も文証、理証、現証と言う言葉を使われますが、実際に用いられているのは文証だけですね。
理証となる考えはどこかの解説文書に依存して現証に至ってはまるで無視、これを増上慢と言わず何を増上慢と言うかですね。

293堅皇:2011/03/07(月) 17:34:15
> 「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。

「十是実相」は法華経の触りですよ。
舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。

294しげきょん:2011/03/07(月) 18:02:08
>方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
>霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが

それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ

295御意見番:2011/03/07(月) 18:03:17
>>292-293

>御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。

「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことを
いうわけでしょ。


>経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。

方便品の始めに

「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく」

で、「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」とする堅皇さんは、釈尊が「舎利弗に告げたまわく」で
方便品を説き始めた時、霊山には「舎利弗一人しかいなかった」と解釈してたの
ですかい?


>「十是実相」は法華経の触りですよ。
>舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。


舎利弗が三度懇願したのは「十是実相」の後でしょ。



堅皇さんの発言を再掲

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。


堅皇さん。

貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?

296しげきょん:2011/03/07(月) 18:10:26
舎利仏は一人霊山会にいたのではありません
二乗を代表してその他の眷属一同釈尊の十如是方便を説いたのです

297しげきょん:2011/03/07(月) 18:44:48
>日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。

間違ってる事説きなさんな
しゃへいかくほうは法然の説いた謗法でしょう
混乱狂学は止めなさいよ

298しげきょん:2011/03/07(月) 19:02:33
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。
権教は欲望やエゴの生き方をセーブしてきたけど
末法に近くなり権教の僧が欲得や名声欲に溺れて着出してもはや方便の権教じゃ
治せなくなっており
日蓮は方便権教ではもはや成仏もかなわないし
社会も混乱して何も解決しないと説かれて南無妙法蓮華教の 大法をもって
根本的無明法の正しい道に暗き衆生にっとって太陽のように明るい希望の道を切り開いたのです

299堅皇:2011/03/07(月) 20:44:22
> 堅皇さんの発言を再掲

> >方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
> >説いてないわけですね。

> >舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
> >更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

御意見番さんがどう解釈したか存じませんが

僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然

「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を指しているわけですよ。

つまりは三乗はなく全てが一乗であるというくだりの部分ですよ。
ここが世尊が説くのを最もためらった重要な箇所なんですから。

> 「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことをいうわけでしょ。

そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり
唱える題目も「南無妙法蓮華経」であるわけですからそれ以外は全ては参考程度と言う話ですね。

300堅皇:2011/03/07(月) 20:46:28
>>しげきょんさん

> それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
> 異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
> 六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
> これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ

創価学会も何時の間にか本当に傲慢な存在になってしまったもんですね。
創価学会は地涌の菩薩確定と言う話ですか。

俺がまだ子供の頃は「法華経に地涌の菩薩の事は書かれているが創価学会が地涌の菩薩のという確証はない
でも我々が地涌の菩薩だと言う事を信じて頑張ろう」という話をする幹部も沢山いたのですが
もうこう言った姿勢で捉えている人は誰もいないという話ですね。

もうこうなると「嘘も方便」ではなく「方便が真実」って事になってしまっているわけだ。
もっとも「本因妙」と言う言葉自体が「方便が真実」って話なのでしょうがないですけどね。

301堅皇:2011/03/07(月) 20:49:40
その勝手な思い込み、依存、執着の持ち主の事を「増上慢」と言うわけですよ。

302しげきょん:2011/03/07(月) 21:27:18
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな

303しげきょん:2011/03/07(月) 21:28:22
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな

304御意見番:2011/03/07(月) 22:25:13
>>299


>僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然

>「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
>最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を
>指しているわけですよ。


堅皇さんの元発言を再掲

>吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。


「吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。」

この経文は「汝已慇懃三請」の後ではなく、十如実相(十是実相は漢字間違いでした)
の前に説かれているわけでしょ。


>そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり

七文字の題目を信じるのもいいけど、法華経の教学を語るならば、
法華経開結の読み下し文を読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。

305堅皇:2011/03/07(月) 22:54:55
>>御意見番さん

まいりましたね、ここでも切り文で来ますか。

>>286 僕の発言は
吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。

この辺の説明では「此の法」とは言ってないですよ。
僕は「仏法とは」と表現してありますからね。
> つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
> 確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。

そりゃそうですよ、毎日勤行で唱えている部分はこれまでの権経を褒め称えている部分であり
まだ核心部分に入ってないですからね。

何故に石山流の勤行が長行ではなく「十如是」までで終わっているかは
「十如是」が核心部分だと思ったか、増上慢の集まりの団体だからかは知りませんけどね。

方便品の一連の話をちゃんと最後まで聞いて初めて
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」となるわけですから。

いきなり権経の方便を取り去ってしまったら法華経にたどり着く事も出来ないわけではないですか。

つまるところ仏法の何たるかを理解する為にも権経は必要であり
また、法華経に辿り着いた人は権経の理に執着してはいけないという事でしょう。
石山教学は完全にその逆を行っていると申し上げたいわけですね。

306堅皇:2011/03/07(月) 23:50:27
>>しげきょんさん

> なんか過去の指導者の言に拘ってますな

指導じゃないよ、それだけ昔は御書を創価から配られた解説本だけを鵜呑みにしないで
ちゃんと考えて読んでいた人が多かったって話よ。
当事は、子供だったからそれこそ意味が全然解らなかったけど今になっていろいろと思い出すことが多いわけ。
「久遠元初」に対してなんか言い訳臭くて納得できないなと言う話や
日顕曼荼羅が謗法曼荼羅と言い出したのは危険な話だとか
「九識論」と「一念三千」は本来別次元の話だとか。

今となるとなんでこの様な議論をしていたかの意味が良く解るという話ね。

307堅皇:2011/03/08(火) 18:13:57
えーと、1つだけ僕の書き込みに関してのお詫びです。
勤行に関しての方便品での「十如是」と言う物は石山流に限った話ではないということ。
また、この「十如是」までを長行とする考え方もあるみたいですね。

これは一体何を所依としているかと言う根拠までは解りかねますが。

一宗派の問題に書いた事はお詫びいたします。
宗内の腐敗に関した事例も日蓮正宗だけに限らずその他の日蓮宗派でも多かれ少なかれありますからね。

もっとも広宣流布というものを目指しながら各門流と称し組織の分裂を繰り返しているのは
何も石山派だけに限った話ではないということでもありますからね。

308御意見番:2011/03/08(火) 23:16:09
>>305

>僕は「仏法とは」と表現してありますからね

ほぉ〜

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

「此の法」を「仏法」とした場合、

そうなると釈尊は「仏法」を「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」
ということなのなのかい?



堅皇さんの発言を再掲

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です


舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりは、会座にいる衆生を意識した内容に
なってるでしょ。

舎利弗「今者四衆、ことごとく皆疑い有り、唯、願わくは世尊、この事を敷演したまえ」
釈尊「もし、この事を説かば、一切世間の諸天及び人、皆当に驚疑すべし」

会座の衆生が十如実相の文を聴いて疑いを起こしたがゆえ、その衆生の心を知った
舎利弗が、衆生の疑いを晴らすため、代表して釈尊に教えを懇願し、
釈尊がそれを拒否するやりとりが「三止三請」なわけだろ。

だからこそ、舎利弗が、会座の衆生を代表する「対告衆」としての意義があるわけ
じゃんか。

「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」は、
五千の上慢に入らなかった会座の衆生を無視した我見だぞ。


何度でも言うけど、法華経の教学を語るならば、法華経開結の読み下し文を
読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。

309しげきょん:2011/03/08(火) 23:24:15
堅皇氏の考えると言うのは疑うと言うことを意味している
つまり不信を合えてするという考えですね
不信こそ 迷いの主、、無明ですよ
以信得入以前の考えですよ 悟りから迷いへの転落ですよ 即身成仏から
歴劫修行への転落ですよ

310堅皇:2011/03/08(火) 23:50:09
>>御意見番さん

解んない人ですね。

仏法と言えば南無妙法蓮華経も権実大小も全て含まれるわけでしょう。
それに対する「此の法」と言う表現は見て取れば解るっしょ。

>>しげきょんさん

先ずは方便品を全部読んでみるとこ。
また比喩品に書かれている「以信得入」の前後をよく読んでみることですよ。

そうすればただ何でもかんでも信じればよいと言う事ではない事が解りますよ。

先ずは信と著の違いを見極める事ですね。
しげきょんさんのは信ではなく著だから。

311しげきょん:2011/03/09(水) 19:18:37
別に以信得入を説いたからと言って
なんでもかんでも 信じろと説いていません
貴方の脳内変換で 勝手に言われちゃ話になりませんわ
もちろん御本尊の当体であることを  強く信じ智恵へと転換することですよ
基本は御書御本尊大聖人です

312しげきょん:2011/03/09(水) 19:30:43
堅皇氏の説は 方便を説かなきゃ仏法に入れないという執着に囚われています
法華経の真実から法は説くべきです
勇気があれば、、、だが

313しげきょん:2011/03/09(水) 19:42:08
方便をごまかしごまかし説いていけば ごまかしが本当と思う人が出るでしょう
真実を説くから大聖人と同じ勇気慈悲が湧現するから人生が楽しいのでしよう
つまり方便は方便でしかないのです法華経は題目で得た真実の体験を説くものです
回りくどい方便なんか説いていたら広宣流布は大変立ち遅れてしまうものです

314堅皇:2011/03/10(木) 12:11:11
>>基本は御書御本尊大聖人です

かつては同じくそう思っていたんですけどね。
ただ、御書御本尊大聖人と言う事自体が、日蓮正宗が作り上げた「本覚思想」によって成り立っていますからね。
この「本覚思想」と言う物は秘伝や口伝主義が多発し比叡山の僧風を堕落させた中古天台と同じ思想ですからね。

また御書を基本と据える事が秘伝や口伝を持ち込むには都合の良い状況であるとも言えます。
簡単な話、秘伝や口伝を日蓮の御書だと信徒に触れ回れば良いだけの話になりますからね。
つまりは中古天台の悪しき時代に逆戻りと言う事になると言う事です。

仏法では「信」を段階的に捉えているわけですね。
シュラッダー:信 プラサーダ:浄信 アディムクティ:信解 バクティ:誠信

で、バクティと言う物は本来仏法にはないものでヒンドゥー教によるもので
まーバクティとは「絶対の帰依」と言う事ですね。
これに対する仏法はプラサーダ止まりと言う事でも仏法が宗教では無かったと言う事が物語れますね。

羅什の「妙法蓮華経」が逐語訳ではなく意訳と言う事はご存知かと思いますが
本来のプラサーダをバクティに意訳したのは他でもない羅什と言う事になります。
余程その書かれている内容に確信があったという裏づけにもなりますよね。
更にこのただでさえ「信」をより強調した羅什訳の「妙法蓮華経」に対し更に「南無」を加えて
更に「信」を強調したという事になります。
つまり日蓮にとっての「妙法蓮華経」と言う物は「絶対の絶対の帰依」と言う事になるわけですね。

そこまで日蓮が誠信を尽くした「妙法蓮華経」を何故に信じれなくて本覚思想の秘伝や口伝書を信じるのかと言う話。
であれば、「南無御書御本尊大聖人」でいいのではないですかね。
もっとも石山派の中ではそれ以前にやってる行為が「南無日寛上人」「南無六巻抄」「南無文底独一本門」ですけどね。

315しげきょん:2011/03/10(木) 22:56:22
所詮仏法が存在するのは
行学二道が行われるところしか存在しないのでは
折伏の行、教学の学の、二つを怠りなく進める人のいる場所が寂光土ではないかと
言えるのです
学だけでは観念的にしか仏法がありそうなだけで 実践の行に具体的証拠になる
仏法の実在が出てくるのではと思います
それは権益冥益の二つの利益があるのは当然ですが自身の命に実態として
どちらも行学の結果証拠として現れてくるものだと確信します

316堅皇:2011/03/11(金) 02:37:02
>>しげきょんさん

行学二道と言ってもねぇ。
その「行」をやるにしてもしげきょんさんの場合、体力も精神力も既に枯れ果ててるのではないですかね。
ぶっちゃけた話、両親が倒れてしまったらしげきょんさんはどうやって生きていくのか。
しげきょんさん自身の体調も去ることながら両親ももう若くないでしょうに。
一日も早く依存癖から抜け出せるようには願ってます。

と言う事で構うのはもうお仕舞い。
このままではもう何も変わらないと思うので、本当に困ったときが来たら
訊ねてきてくれればいいから。

それでは説教オヤジさんの復活も見込めそうに無いので
お元気じゃなさそうだけどお元気で。

317しげきょん:2011/03/11(金) 23:16:34
お構い無く、、、依存じゃなく親子互いに協力し合って生きています
これも創価のおかげです
仲良く協力し合っているのが 言葉だけで依存と断じられては
かなわないよ ほっといて下さいなとしか言いようがない


貴方は貴方の道を歩めばいいよ

320首都高バトル01:2011/09/30(金) 10:11:09
堅皇さんと説教オヤジさん〜 のスレで、

>50 より、たぶん勢いで書かれたと思うのですが、
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」とありますが、一念三千は、天台によってではないですか?
そのところ、すみませんが補足願えれば、ありがたいのですがよろしくお願いします。 しょうもないツッコミをしてすみません。

どこに書いていいのやら、ここのスレの皆さん、突然 申し訳ありません。

321首都高バトル01:2011/09/30(金) 11:14:08
ついでですので、十如是ってなんでしょう?
十の如是の語句の解説ではなく、華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。
十如是の映像を持って十界が顕れ、十界のそれぞれの一念によって十如是の映像が、顕れる。
依正の依、つまりまわりや環境、他人の一瞬のしぐさに十如是の映像を見る間もなく(本当は見ているが、めちゃくちゃ速い)、十界のどれかを観じ、
そしてそれに素早く反応しようと今観じた十界とは別に、対処しようと(依正の正)、自らに内在する十界が顕れ、どう対処するかの十如是の映像が意識に顕れる。これも瞬間なので内在する十界のどれかが顕れ、その強い一念で十如是の映像を確認することなく、その映像のとおりに行動しているのかもしれない。

つまり十界互具は、互具にとどまらず、互顕するのではないでしょうか?

まとめてみます。
「 十如是を持って、十界は顕現し、十界を持って、十如是は顕現する。南無妙法蓮華経を持って(唱えることにより)、仏界が湧現し、仏界を持って最高理想(具体的行動内容)の十如是が顕現する。

観心本尊抄講義で戸田先生曰わく、「 妙法蓮華経とは、即これ十界互具である 」

322首都高バトル01:2011/09/30(金) 11:28:53
では、仏界の一念とは、どのような生命状態なのでしょう?
一つの方向から、また機会があれば述べてみたいです。

一応まとめていますので...。

323説教オヤジ:2011/09/30(金) 22:14:57
開目抄上
「法華経方便品の略開三顕一の時仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う、」
開目抄下
「宗宗互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり
天台の一念三千これなり」

一念三千法門
「法華経は念念に一心三観一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され
無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身煩悩具縛の身即本有常住の如来となるべし、」

一念三千法門
「法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観一念三千と云う事あり、」

まだ、言わせるか?

324堅皇:2011/09/30(金) 23:07:08
>>首都高バトル01さん

一念三千は、天台によってではないですか?

これは説教オヤジさんに対しての質問だと思いますがその通りで
一念三千は法華経の諸法実相、十如是を天台が釈したものですね。

更に言えば十界論も天台の釈ですね。

ただあえて言うならば諸法実相も十如是も一念三千も十界論も同義であると言えますね。
天台は法華経最上の元で釈されてますので
全てが一乗と言う事で法華経の義に反してないと思われますから
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」と言う文には
僕は指した違和感は感じません。

厳密に言うのであれば釈迦は法華経は説いてませんし
法華経を説いたのは釈迦滅後の僧集団であり
更に天台や日蓮が指す法華経とは、その梵本法華経の事ではなく
鳩摩羅什訳の妙法蓮華経を指すわけですから
「釈尊は法華経方便品に於いて」の時点で釈尊は法華経を説いてないだろうとなりますし
「法華経方便品に於いて十如是を説き」の時点で法華経では十如是は説いてないだろうと言う話になりますからね。

325堅皇:2011/09/30(金) 23:07:45
> 華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、
> 一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。

これは違うと思います。
と言うより妙法蓮華経第一の解釈ではないと言えます。
華厳経にある義を妙法蓮華経の義により釈すのは妙法蓮華経第一となりますが
妙法蓮華経の義を華厳経の義により釈すとそれは華厳経第一となってしまいます。

例えるならそれは「煩悩即菩提」を「菩提即煩悩」としてしまう様なものですね。
これは真言宗が妙法蓮華経第一と捉えずに大日経等を第一と据えてしまった事と同じ過ちに思います。

日蓮の言い分によりますと真言は天台の一念三千を用いているにも拘らず
妙法蓮華経の義(もちろん諸法実相)から外れているので、語だけを用いるのは泥棒だと揶揄しているわけですね。

もっとも妙法蓮華経よりも華厳経が第一であると捉えられているのであれば
華厳経より妙法蓮華経がどれだけ優れているかと言う話から始めなければいけなくなりますが。

でもって天台の一念三千、三千一念は当然一念が実相であり三千が諸法と言う事が当て嵌まりますが
その一念とは何なのかと言われれば、やはりそれは諸法実相と言う事になろうかと思います。
つまりは、諸法実相の実相とは諸法実相であり、その実相もまた諸法実相で形成されていると言う事。

人間は何により形成されているかと言えば細胞の集合体であると言う事
その細胞は何により形成されているかと言えば細胞を形作っているものの集合体。
何処まで言っても諸法実相は諸法実相で形作られており実相と言う単体の存在はない
無限の無始無終と言う話であると言う事であると言えますね。

この妙法蓮華経の諸法実相に反し全ての宗教は始まりを見出そうとして
その始まりを神や本仏と言うもの作り出しているわけで
真実は諸法実相、十如是と言う縁起によって成されると説かれているのは
妙法蓮華経以外に現時点では存在していないと思いますから僕は妙法蓮華経を信じているわけです。

326説教オヤジ:2011/10/01(土) 05:44:57
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
>一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、

十法界事
>本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、

まだ挙げろってか?

327堅皇:2011/10/01(土) 18:38:53
説教オヤジさん

「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」も「十法界事」も単なる日蓮の釈ですよ。
ここでの質問は法華経(妙法蓮華経)に一念三千や十界論と言う物が出てきているのかと言う話です。

一念三千や十界と言うものはあくまで天台が妙法蓮華経の「義」によって表現された「語」であるという事です。

328首都高バトル01:2011/10/02(日) 02:05:11
遅くなって申し訳ありません。
説教おやじさんへ
いっぱい書いてくださいまして本当にありがとうございます。
勉強になりました。 子どもがおぼえたての言葉を連発するように、こういう指摘をすると言うことは、まだまだ未熟者です。ご勘弁のほどを。

堅皇さんへ
諸法実相の言葉は、そのとおり諸法実相なんですが、しかしその言葉は、指すゆびですよね。この世の中というか、十法界、森羅万象という大きな視点というか、全体像で視ると、諸法実相の実体は、生命ですよね。

それからご指摘の文章が、華厳経第一(私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)にならないようにするには、どう書き換えるかということですよね。

(1)引用文が見当たらない。
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。
(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?
(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?
(5)とにかく妙法蓮華経こと法華経第一にしたいので、文章をどう組み立てたらいいか考えてみます。、、、文章をあとさき逆にしてもなぁ〜、五陰もな〜、難しいです。ハイ。

329首都高バトル01:2011/10/02(日) 02:42:28
付け加えて〜
諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。

330堅皇:2011/10/02(日) 14:23:54
首都高バトル01さん

> (私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)

とのお話ですが基本的に日蓮信者の方々は法華経が第一ではなく
日蓮及び御書第一と捉えられている方が多いと思います。

更に言えば日興門流では日興第一であり御書に外れる義であっても遺誡置文にあればこれが第一
もっと言えば、日蓮正宗で言えば歴代法主の書にあればこちらの方が第一となり
御書や妙法蓮華経から外れる義であっても、これを第一として捉えているわけです。

これが正解か不正解かと言う議論はその内容を精査する必要があるとして
言えるのは妙法蓮華経が第一と言う事ではなくなってしまっていると言う事です。

その際たるものが「久遠元初の自受用報身」や「文底独一本門」と言う事ですね。
妙法蓮華経にある語は「久遠実成」に「諸法実相」ですから
この義に照らせば「久遠元初」は「久遠実成」と義が異なりますし「文底独一本門」は「諸法実相」と義が異なりますよね。
異なる義が交差する時にどちらの義を根本に第一として捉えるかと言う事ですね。

僕は妙法蓮華経を第一と据えますから「久遠元初」や「文底独一本門」と言う方便は法華経を理解した時点で捨方便しますが
日蓮正宗及び創価学会の方々は歴代法主の書を第一と捉えてますから逆に
「久遠元初」や「文底独一本門」を持ってして「久遠実成」や「諸法実相」の方を捨方便していますよね。

ちなみに天台の「一念三千」は「諸法実相」に義が異なるものではありませんが
「一念三千」の「一念」もまた「諸法実相」ではなく「実相」と言う単体のものと解釈するならば
妙法蓮華経と義が異なるものとなり、禅宗や真言宗の様な捉え方となってしまうということです。

また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが

331堅皇:2011/10/02(日) 14:24:37
また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが
「久遠元初」では九界の境界を超えた仏性はある日突然一人の人物によって発生させたという考えであり
天台の「十界互具」と言う事にも義が異なると言えると思います。

以下ご質問の回答です。

(1)引用文が見当たらない。

僕は妙法蓮華経を第一として考えていますので文証は基本的に妙法蓮華経及びそれを証明させるための諸経です。
加えて妙法蓮華経を第一と捉えた上で妙法蓮華経を守らんがための第二に大般涅槃経を用います。

日蓮信者の方々はどうしても「語」に拘る方が多いようですが
僕は「義依不依語」の観点から「語」ではなく「義」を追求しているわけです。
「語」に拘り音読、丸暗記を基本として考えているのは真言密教の考え方ですね。

対する羅什、天台、日蓮に共通する事は「語」に依らず「義」に依り解りやすく意訳して伝えているところにあります。
これが仏法がインド、中国、日本へ渡って使われる言葉や表現方法が異なれど
その「義」が伝わるものだと言えますが
密教が用いた音訳は発声自体は継承されても「義」が全く異なり
仏法が仏法で無くなってしまった所以であるとも言えると思います。

大切な事は「語」なのか「義」なのか、その両方を比べた時
僕は間違いなく「義」が大切なものであると思っています。

意味の解らない丸暗記の文章を羅列するよりは、その「義」を汲み取り
少しでも理解しやすいように伝える事が本命だと考えています。

332堅皇:2011/10/02(日) 14:25:26
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。

先にも説明しましたが人は「十界互具」であり「久遠実成」であるわけですから
「仏の目や境界(境涯ではなく境界)を通せば」で言う「仏」とは人々に内在するものですから
なにも偏った思想では無いと言うことです。
「仏の目や境界」とは誰もが既に用いているものであると言えますから。
これを引き出せるか引き出せないかと言う話であり、仏とは人間を超える何かと言う事ではありませんから。

(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?

諸法の引用はしますよ、妙法蓮華経では一切の諸法を認めているわけであり
また、それらの諸法の中に実相があると言っているわけですから引用しないわけがないです。

但し、天台も日蓮も諸法の段階的な優劣は説いています。
これは妙法蓮華経を守り広めるための大般涅槃経の義ですね。

どちらも間違いではないと言う観点に立ち、どちらが最上かを計るためのものですね。
A案しかなければA案を選択するしか道はないですが
A案とB案が存在すれば、どちらがベストであるか計る必要があるでしょう。
互いに逆の方向を目指せばまとまるものもまとまらない。
そこで優劣を決め考えを纏める必要があるということです。

その中で最も優れていると判断されたのが妙法蓮華経であるわけですから
華厳経の義を妙法蓮華経で解釈すれば最上の解釈となり
逆に妙法蓮華経を華厳経の義で解釈すれば最上の解釈ではなくなるということですね。

333堅皇:2011/10/02(日) 14:26:04
ちなみに華厳経では仏とは盧舎那仏と言う一仏に集約されていると言う教えであり
妙法蓮華経では仏とは一切衆生に内在するものであり全ての人々が仏であると言う教えです。

妙法蓮華経を華厳経で解釈すれば一切諸仏は一仏に集約すると言う考えになり
華厳経を妙法蓮華経で解釈すれば一仏(盧舎那仏)とは一切諸仏の集合であると言う考えになります。

日蓮は本尊と言う形をとり華厳経の一仏信仰の様な形を取っていますが
その実は曼荼羅と言う形で本尊の中に一切諸仏が描かれているわけで
妙法蓮華経の義に異なる事無く一切諸仏を敬う形に纏め上げているわけです。
これは華厳経を妙法蓮華経で解釈しているという事になりますね。

逆に曼荼羅を用いて、これこそ御本仏(盧舎那仏)、日蓮大聖人のお姿だと解釈するなら
妙法蓮華経を華厳経で解釈したと言う事になります。

もともと法華経を突き詰めると華厳経に逆戻りしてしまう事は良くある話です。
日本でも過去に聖徳太子の時代に広まった法華経が聖武天皇の時代では華厳経に陥ったと言う。
縦軸で考えるところでは一番遠いところに位置しているように見えるが
実のところ、らせん状に繰り返し輪廻している事が解ります。

(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?

妙法蓮華経の持つ義を華厳経の義を持って解釈するならそう言う事になりますね。

「変毒為薬」や「煩悩即菩提」と言う考え方も妙法蓮華経の義に即していると言えます。
薬を成す為に毒を用いるわけであり、毒と言われるものでも使いようによれば薬として活用できるわけです。
と言う事は毒の中に薬となる成分が既に内在していると言う事ですね。
ですからここでも「十界互具」や「久遠実成」と言う義は当て嵌まるわけです。

毒と言う存在を「捨閉閣抛」してしまうと薬を得ることも叶わなくなってしまいます。

334堅皇:2011/10/02(日) 14:26:51
と言う事は逆も言えるわけですね、薬を持ってして毒を作り出す事だって出来るんですから。
薬の中には毒の成分も内在しているわけですから逆に用いると
薬を飲んでいるように思っていても実はどんどん毒を盛り込んでいる事にもなりかねない。

「即」と言う事でイコールと考え逆に用いても同じだろうと考えがちですが
「変薬為毒」や「菩提即煩悩」と使い方を間違えれば浮かばれる事はありませんからね。

> 付け加えて〜
> 諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。

これも逆の捉え方だと思います。
「究極するところ十如是は、御本尊」ではなくて
「究極するところ御本尊は、十如是」なのだと思います。

以上、大変長くなってしまいましたが。

335首都高バトル01:2011/10/03(月) 11:02:22
堅皇さんへ
長い文章でのご説明ありがとうございます。
まだまだ勉強不足なもので、仏教用語で理解できてないものがいっぱいありすぎて、難しいです。 しかし勉強になります。

「 諸法の実相は、南無妙法蓮華経 」この文章で、実相と南無妙法蓮華経は、一緒だと思うのですが、よくよく考えてみると同じものでありながら、別物にみえてくるのですが。つまり実相は、南無妙法蓮華経を指す言葉であると言うことが。 私の見解ですみません〜 十如是は、御本尊と思えてなりません。

語より義が第一 〜 堅皇さんの言われるとおりだと思います。
では、義は、何を指しているのでしょうか? まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。義と言う文、語の先と言うより、義の言葉の中の底へ突き当たる、行き止まりまで。そこが、その言葉の、その文の底、一番深いそれより行きようがないところがあるように思えるのですが。義は義だから何ものでもないと言われればそれまでなのですが...。


あまり詳しくないのですが、天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり、もっとすごいのは、ぐるぐるお堂の中を歩きながら、念仏を唱える修行、四種三昧の中の常行三昧で、般舟三昧経によって設けられたものだそうです。まず道場を荘厳して阿弥陀仏の像を本尊として安置し、九十日間外出しないで、沐浴しつつ本尊の阿弥陀仏のまわりを、阿弥陀仏の名を唱え、念じ歩きながら歩き回る修行だそうです。天台大師が止観(の中の円頓止観)を修する為に行う修行の一部だそうです。
天台大師は、どのように瞑想や念仏を唱える修行をとらえているのでしょう?
また日蓮大聖人は、天台大師のこのような行いをどうとらえられているのでしょうか?また天台大師が瞑想や念仏を修行に取り入れているのに、大聖人の時代、日本の天台宗が真言はさておき、(どういう意図の流れで真言を取り入れたかは、勉強不足でまだわからないないので、すみません)、念仏を取り入れたことに反対され曲解と言われるのでしょうか?

336首都高バトル01:2011/10/03(月) 11:38:14
その状況が大変なら大変なほど、この先どうなるんだろうという思いを強くした時、この先の状況が意識に映像とまで言わなくても、「これから、ああなって、こうなって行きそうだ」と思いますよね。最悪ならば状況打開の案を考えますよね。一見、状況をもとに、打開案が根本みたいですが、状況を捉えるもの、打開案が出てくる先、というか捉えるところと、出てくるところが元であり、もっとも状況打開案が出てくるところが大事と思っていますので、義はそこにあるとして、そのことを文章にすると華厳経第一には、ならないですよね。華厳経の文を引用しても。  しつこくてすみません。

普段人間が行っていることですよね。そういう機能というか、、、
大変になればなるほどそのような状態が命の中から起こってきますよね。

337首都高バトル01:2011/10/03(月) 12:17:48
すいませんもうひとつ。真言宗で一念三千を取り入れると泥棒と、日蓮大聖人は言っていますが、例えば五智(十八円満抄の中の)は、弘法大師によるものですよね?違いましたら訂正して下さい。すいません。
とにかく日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?

法華経は主だから、全て法華経よりのものだから法華経の持ち物(爾前.権教)だから許されると言う考え方?

338首都高バトル01:2011/10/03(月) 13:12:16
ほかに判ずる本門(法華経の)より次元の高い経がないから「 但真実の依文判義は本門に限るべし 」ですが、まだ奥がありますよね。
「  」の文の上ならそこまでですけど、もっと奥の文の底の行き止まり、これ以上ないところ、つまり文底独一本門の義によって文上の本門は判ぜられる(依義判文)ほかないと言うこと。

したがって、文底独一本門の南無妙法蓮華経のみが他の義を借りずに、そのまま真実・究極の義を示す「 依文判義 」であると言うこと。

339首都高バトル01:2011/10/03(月) 13:44:54

究極するところ「 義 」は、文底独一本門の南無妙法蓮華経であると言うこと。

340首都高バトル01:2011/10/03(月) 15:27:10

南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。(ほうぼうや曲解するとあるかな〜?) ほうぼうの漢字が出てこなくてすみません。

九界即仏界は煩悩即菩提に、 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?、仏界所具の九界や、仏界所具の地獄もあるし煩悩があとにくることはあるでしょう。)に、皆、お題目を唱え、悩み苦しみながら闘い、またお題目を唱え闘う、そのくりかえしのなかに、より強靭な煩悩即菩提になっていくように思ったりします。九界即仏界と煩悩即菩提を同じ意味にとるのは、まずかった?
まだまだ教学力は、この程度なのですみません。

死に金と生き金という考え方(NHKの龍馬伝より)
その場でなくなる金の使い方か、使うことによって何倍もの大金になって帰って来たり、大きな価値を生み出す金の使い方。

こんな言葉はないですが、死に教学と生き教学というものは、どのようなものなのでしょう?
さらに、死に人生と生き人生とは?

破壊のための行動なのか、創造する行動なのか?
生き金を使い、生き教学を実践し、生き人生であゆみ、破壊する人ではなく創造する、創造していく、人でありたいです。



ちなみに生き教学(本当の教学の実践)には、励ましと激励は、必要ですよね。

341首都高バトル01:2011/10/03(月) 16:33:28
これは、当てはまらないのかな〜?
変毒為薬〜毒の中に薬の成分が潜んでいる。薬の中に毒が潜んでいる。
それでは、煩悩の中に菩提が潜んでいる。菩提の中に煩悩が潜んでいる。
悩みの中に悟りが潜み、悟りの中に悩みが潜む。
九界の中に仏界が潜んでいて、仏界の中に九界が潜んでいる。
これぐらいでやめときます。まだまだ理解には、とおいので、、、菩提即煩悩がもしあったら、悟りの中に悩みがあるなんて今は理解できません。またそれを考えると、仏界即九界の仏界の中に九界が潜んでいる。これもよくよく考えると難しいですよね。

寿量品の文に、「 以何令衆生. 得入無上道. 速成就仏身. 」は、仏界即九界なのかな〜 ?  とにかくお題目を唱えることは、九界即仏界ですよね。

結論を出してから投稿するではなく、ひとりごとのような質問をぶつけるスタンスでの投稿ですみません。

342堅皇:2011/10/03(月) 19:01:54
首都高バトル01さん

> 義は、何を指しているのでしょうか? 
> まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。

皆同じ事を考えるようですね。
この考えの下に天台門下は真言密教に染まっていったのだと思います。

基本的に仏法は無始無終の輪廻を説くものであり
何処まで言っても行き止まりは無いという考えであるという事です。
これに逆らっているのが真言密教であると言う事です。

つまり仏法では「深理」は追求できても「真理」は顕せない。
「絶待」は求められども「絶対」は存在し得ない。
この「真理」や「絶対」は存在し得ないと言う絶対的な真理を顕したのが妙法蓮華経と言う事。

> 天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり

基本的に天台の止観行のベースは禅定ですからね。
日蓮のように曼荼羅(世界)に向けるものではなくあくまでも己心の中での行法となりますから
折角一念三千の法理を明かしているのですが依報に働きかけずに己心と言う正報に留まっているので
「理の一念三千」と呼ばれるわけですね。
対する日蓮の場合は己心から曼荼羅(世界)と言う依報に働きかけているので
「事の一念三千」となるわけです。

加え、ちと天台の教えと天台門下による天台宗の教えとがごっちゃになっているような。
阿弥陀仏はあくまで念仏が用いたものであり
もともとの天台では釈迦如来や薬師如来がベースであり
念仏を取り入れた事により、これらが全て阿弥陀如来にすげ変わったものだと思われます。

343堅皇:2011/10/03(月) 19:02:26
> 日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?

これは僕も当初抱いた疑問でしたね。
先ず何より、本尊や曼荼羅と言うものは完全に真言のパクリではないかと。
更にいえば「南無」は念仏のパクリであるという事ですね。
泥棒、泥棒といっている日蓮の方が泥棒なんじゃないのか?と正直思いました。

で、よくよく内容を読んでみるとパクリは仏法的に全然OKなんですよ。
咎められるのは、パクって義を変えた"まがい物"を作って
これが本物だと言い張るのが罪であるという事ですね。

アイデアだけを盗み取り、全く違うものを正規品として触れ回る事を泥棒と言っているわけです。

で、真言も念仏も毒であるわけですが
毒の中にも薬の成分が内在しているわけであり「久遠実成」「十界互具」ですから
それを「変薬為毒」した形で、本尊や曼荼羅、「南無」と言うものを活用していると言えるでしょう。

また、妙法蓮華経では新たなものを取り入れてはいけないかと言えばそうではなく
後世に妙法蓮華経を補填する諸法が現れることも示唆されています。
それが「陀羅尼品第二十六」ですね。

日蓮は全てのを否定しているのではなく誤りの部分を指摘しているだけの話ですから。
故に日蓮がしたためた曼荼羅には密教の不動明王や愛染明王
日本の昔からの神々である八幡大菩薩や天照大神なんてのも記されています。

日蓮正宗的に言えばこれらを讃えるなんて大謗法だという考えなんでしょうけど。

344堅皇:2011/10/03(月) 19:02:59
> 南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。

万能薬なんてものはこの世に存在しないですよ。
薬を服用する事により必ず副作用と言うものが付きまといます。
また、薬に依存する事により薬無しでは生きられない状況にも陥りますからね。

よく薬を過信評価する人がいるのですが
薬は極力服用しないで治せるものなら治すというのが医学の中では常識事です。
もちろん、服用すべき時に服用しないと言うのももちろん問題ですが。

> 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?

たえず煩悩が前なのではなく、煩悩を菩提を持って行った方がいいですよねと言う話。
菩提から煩悩へ、仏界から九界へ向かいたいと言うなら止めはしませんが
苦しみたいから仏法を実践していますと言う人はいないのではないかと。

もちろん理論的には同じ事ですから可能ですが不毛だと思います。

345首都高バトル01:2011/10/04(火) 01:09:34
ちょっと、ひとりごとを書きます。

生命は勝負に勝つことで生存し、人間にまで進化した。人間世界では、正しき法の下での勝負しか許されない。これは、人間が破滅しない為、人間が生存していくには正しき法の下が、不可欠であるということを人間は知っている。(勝負に勝つことが、生存の第一条件)...まず勝負を先とするは、生存の極意。

ひとの前に灯りを灯せば、我がまえ明らか。治世産業と相違しない(一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず)...人は負ける時、不幸せになるのが世の中の一般である。弱肉強食しかり、戦争、災害、しかし人が負けても(人を負けさせても)幸せになる、幸せにさせる法則がある。社会も経済もその法則で動いて人間社会、お互いが生存、共存しあっている。つまり世を治める産業もこの道理で円満に動いて発展、繁栄して行っている。
...ひとを驚かせ勝っても、負けた人たちを不幸にしない、ひとを驚かせ、ひとに勝つことが...おのれの対象者が、驚き負ける事が、より幸せになる法則がある。...ピータードラッガー風に言うと、イノベーションサプライズ;既存の常識を超えた発想、創造する価値がひとを驚かせ、ひとに負けを与えるがその中身は、納得と感動があれば、それに対してひとは負けを受け入れ、幸せになる、その気持ちを得る。そういう提案、行動するひと、団体、組織、企業は、隆盛、繁栄していく。
(例)身近なところで、男女の恋愛、、、彼女をデートに誘う、彼は付き合ってお互いをもう充分知り、もうボチボチいけると感じている。
デートは、サッカーか、野球観戦に。(ありふれていてスミマセン)
そこで彼がイノベーション.サプライズを起こす。;電光掲示板に、プロポーズのメッセージ..彼女が驚き、納得、感動すれば、彼女は負けを認め、プロポーズを承諾し、幸せを受け入れる。そして彼は、ガッツポーズを決め、勝利を手に入れ、彼女を驚かせ負けさせたのに、彼女からありがとうの感謝の言葉までもらう。
自分が勝つことで皆を幸せにできるんだったら、絶対やった方がイイ。

ひとは驚きと、納得と感動を与えられたら、負けを認め、幸せを受け入れる生きものである。〜 最高の勝利の法則 〜 by 首都高バトル01。
その上で、お互いが信じあえるひとや世界を広げていくが大事。
実践する方からは、驚き負けの幸せにするである。
ひとりごとでした。

346首都高バトル01:2011/10/04(火) 02:47:02
ひとりごと(2)
持つは難し。〜最高の勝利の法則〜を陳腐化させないために、
モチベーションアップ法カレンダー(成功、失敗カレンダー)を作ってみる。
今日の1日の終わりに、自分の評価を記す。
記入は簡単。  〜最高の勝利の法則〜を実践し、失敗したか、成功したか、記す。
失敗したら[失敗.明日こそ成功させる]と書く。
成功したら[成功、明日も成功させる]と書く。
これを繰り返し毎日書く。

その効果は〜 勝負心が養える。勝ちぐせがつく(世の中、そう甘いかな?)。
明確な目標と設定が、はっきりしてくる。一日一日を勝とうとする意欲と、強くなる力がつく。信心の基本、人生の勝利につながる。題目の向上、真剣な祈りの題目が、あげられるようになる。人生はどこまでいっても、これの繰り返し、挑戦しないと未来は拓けない。だらだら生きる毎日にいい未来はない。限界まで努力する習慣がつく。人生に結果を出そう。結果を残そう。勝利しよう。毎日の成功の積み重ねが、その割合が大きくなればなるほど、未来の扉は大きく開く。
(なんかちょっと How to 本みたいになってしまいましたが、もしかしたら誰かの役に立つかも知れません。)

わが友に贈る・2011.9.10付ー聖教新聞より。
未来のために今日を勝つことだ。 今を勝つことだ。
不撓不屈の信心で。 さあ挑戦の一歩を!

(地湧の菩薩、本因の仏として、目覚めたら)全ての人の一日一日は、(本当は)超過密スケジュールである。気づかないだけである。

学会活動及び座談会に参加すれば、仲間、同志とのふれあいにより、安心感と元気が出る。信行学に徹し、学会活動をしっかり行えば、モチベーションアップ法カレンダーは必要ないかも知れない。

法華経題目抄より「 妙と申すは開と云う事なり 世間に財(たから)を積める蔵にカギなければ開く事かたし 開かざれば蔵の内の財を見ず 」

347首都高バトル01:2011/10/04(火) 14:44:23
十如是の説明にこうありました。
十は、(十界それぞれに、瞬間の生命にそなわる十種の共通の構造)は、置いといて、 如是は「是(か)くの如(ごと)き」と読み、「ありのままに見た事物・事象のすがた」という意。
わかりやすく付け加えて、
目や感覚器官、心を通して意識に描かれる映像はなんでしょう?
それは、十の構造を持つ、「ありのままに見た事物・事象のすがた」であると言うこと。 これを十如是と言います。 たいへんよくできました。

あまりきかない、聞いたことがない、それはあっているのか?いないのか?
正統なものの理解につながるのか?
そういう内容を「 冒険 」と表示してから、これからは、書きます。

さっそく冒険します。
・ 一個人の生命自体について依正を立て分ければ、一念心が正報であり、肉体が依報になります。
・ 一念三千の法理を依正に立て分ければ、五陰と衆生の二世間が正報であり、国土世間が依報になります。依正の二報ともに一念の生命に収まるということ。

問題(1):依正を一個人の生命で立て分ければ、肉体と一念心になりますが、また一念三千も依正に立て分ければ、上記の通りですが、
では、 三世間を一個人の生命で立て分ければ、どうなるでしょう。

問題(2) 地湧の菩薩のすがたは、どれくらいあるでしょうか?
一例、・虚空会の儀式に現れる。・末法のはじめに上首の上行菩薩として現れる(日蓮大聖人)(再往、内証は、置いときます)。その教えを受持して悪世末法に弘めている私達は、そのけんぞくとなります。
いろいろとほかにも出てくると思いますが、質問の意図は、問題(1)と同じで、最終的に一個人の生命(内)では、どのすがたが、地湧の菩薩であるか?が、知りたい訳なんです。 虚空会の儀式での地湧の菩薩のすがたと行ない、それと御本尊の前で我々、一個人の生命(内)で起こる現象が相似していること。
生命(内)において地湧の菩薩のすがたを指す実体はなにか?
また本化地湧の菩薩が所持している本法とはなんなのでしょう?

思うのは、なんでもかんでも一個人の生命(内)に約すのは、よくないのか?約せるものと約せないもの、約さない方がいい、約す必要がない?なぜ地湧の菩薩のすがたを生命においてこれだと言わないのか?依正、つまり人と環境あたりで表現はとめておいたほうがいいのかと言うこと。はっきり言って一個人の生命(内)において地湧の菩薩は、仏界の一念心、そして本法

348首都高バトル01:2011/10/04(火) 16:46:30
>>347の続き〜
本法は、仏界の一念心(一念発起心?)が一緒に持ってくる自らが生命の中から引っ張り出した、仏界の瞬間の生命にそなわる十種の構造の事物・事象のすがた、ここでいうところの本法とは十如是、仏界の一念心と言っているので必要ないが、生命内に十界を互具しているうちの仏界所具している十如是(自分が行なう具体的行動内容)。
こうなってくるとだんだん迷路にはいりそうなので(いや、充分入っている)
いやなんですけど、とにかく進めます。
・環境から生命に取り入れる十如是と・生命内から引っ張り出してくる自分がこれから行うであろう具体的行動内容の十如是をどう分けて表現したらいいか?単純に、所と能なら十界で使っている所具、能具と混同、混乱しかけない。所や能と言っても、具、化、開、依、証などいっぱいあるし。とにかく所と能の能の方と言うことで勘弁して下さい。
こんな私でも、創価王道の掲示板の十如是1~3は、所と能の違いと言う表現で、終わっており、ここまでバチッと言えていません。

またそこから発展して冒険します。
(1)利潤弘深についてどう捉えるか?
・横軸に時間と空間、縦軸に一瞬の瞬間の一念心の生命内より生命(身)に起こる現象。横軸の各点は妙法が行われる場所(虚空会の儀式、御本尊の前で唱題する一個人とその生命)、両端は、過去の始まりのちょっと前(竹膜の違い、観心本尊抄参照)と無限の尽未来際へ。縦軸は先ほど言った横軸の各点より下というか無量の義がいっぱい詰まっている、法性之淵底玄宗之極地、九識心王真如の都、縦軸の下。縦と横は、十文字ではなく、横軸の各点より下、つまりTの字。縦の上は、横軸の各点より上に、全方向に広がっていくかたち。縦軸に横軸を全て包含し、その場所で瞬間、瞬間に起こる(虚空会の儀式の場所と仏壇の前の我々が、ゴッチャになりそうですが)虚空会の儀式や、唱題する我々の生命内から生命(身)に向かって起こる現象。一瞬に時間と空間を包含する、これを宇宙即我と言い、弘く潤っていく(虚空会の儀式に地湧の菩薩が出現し、使命をおびて四方に去っていく、また一個人では生命に現象が起こり広がっていく。これを我即宇宙。(2)地湧の菩薩と本法を 体 と 用 で表現するとどうなるか?(一個人の生命においてはこれも一緒)(地湧の菩薩が、日蓮大聖人であれば、本法所持の本法とは、南無妙法蓮華経、そして日蓮大聖人の体から出した用は、南無妙法蓮華経)

349首都高バトル01:2011/10/04(火) 18:31:53
宇宙即我と我即宇宙を断定して言ってしまいました。
まだ充分な理解に至っておりません。
宇宙との一体感なら宇宙.我.一体でいいわけだし,
宇宙即我も我即宇宙も自分中心(我)で展開しますよね。
そうであるならばですよ、一体感ではなく、宇宙即我は自分に引き寄せている。我即宇宙は自分から宇宙に解き放っている。
宇宙の星々も人間と同じ生命であるという実感?そんな考え方も。

とにかく目的は自己啓発、人間革命なので、それを手助けする為に、教学では生命において何を指しているのか、何を表現しているのかを踏まえて、取り組みたいと思います。

研究対象の教学もありますが、それは研究される人に任せて(堅皇さんはそういう取り組みをされているのかな〜?)、信心は幸せになるためにやっているので
、はっきり言って、教学は究極のHowtoであり、御書は究極のHowto本ではないでしょうか。御本尊の凄さを説明し、こうやれば幸せになりますよと、励まし、激励と共に人々を幸せにしていくために本来、教学はあると思います。

ちょっと話はそれますが、私は、沖浦克治さんは、学会教学を、正確に捉えられていると思います(何もかもわかった上でこれが最上だとかなり強引に進んでおられると思います。)宗門の策謀によりひどいやり方で学会を切り離し、その後この問題は解決せず年だけを重ね、現在に至っています。
その宗門と創価学会が別れたところを分岐点として、もう宗門とは、完全に別れてしまったんだ。そう結論づけるのか、そうではなく宗門と創価学会の再生はあるのか?どちらに転ぶかわからない?とにかく宗門は破折する、それが続いたまま。今になる。
そこのところで信心の捉え方が、
(1)以前のまま
(2)分岐点より宗門との和解は未来永劫ないとして、信心を新たに組立て直す。(沖浦さんは、この位置だと思います。たとえ矛盾が出ても、本人はそれはわかっているんですが、しかばねを乗り越え、強引にでも、信心はこうやってやるんだ、という確信で突き進んでおられるのだと思います。)

(3)分岐点も時代の要請も関係なく、信心は完璧に完成されているので
あり、何があろうと教学の中身は変更しない。

(1)か(3)とにかく学会は、いままでどおり教学に関しては変わってないと思います。
あるかないか、、、もし学会と宗門が和解した時、沖浦さんの教学の捉え方は、どうなってしまうかと言うことです。

350首都高バトル01:2011/10/04(火) 19:24:20

無作の三身は、一個人の生命においては、何を指すのでしょうか?
一心三観や、当体義抄で説明されていますので、
これは、これ以上、冒険しません。

351堅皇:2011/10/04(火) 21:40:25
首都高バトル01さん

>>345 のひとりごとに関してはほぼ同意です。
・勝負に勝つことが、生存の第一条件
・おのれの対象者が、驚き負ける事が、より幸せになる法則がある。...ピータードラッガー風に言うと、イノベーションサプライズ
・ひとは驚きと、納得と感動を与えられたら、負けを認め、幸せを受け入れる生きものである。

結論から言えば勝負は方便であり実相は幸せを得れるかどうか。
また、幸せを得れるかどうかもまた方便であり実相は悟り、仏性を得れるかどうかに掛かるものだと。

>>346
> 失敗したら[失敗.明日こそ成功させる]と書く。
> 成功したら[成功、明日も成功させる]と書く。

したがって、これでは足りないと思います。
失敗したら「その原因を探る」
成功したら「その原因を探る」やはり全ては一乗であると言う事。

暗に一つの策に溺れ執着しても勝負を制する事もできず
また、勝ちに執着しても悟り、仏性を得る事ができない。

>>347
> 問題(1):依正を一個人の生命で立て分ければ、肉体と一念心になりますが、また一念三千も依正に立て分ければ、上記の通りですが、
> では、 三世間を一個人の生命で立て分ければ、どうなるでしょう。

同じく五陰、衆生、国土の三世間により正報が形作られていますね。

352堅皇:2011/10/04(火) 21:40:58
> 問題(2) 地湧の菩薩のすがたは、どれくらいあるでしょうか?

これは無数に存在しますよ、生物は生死流転しますから地湧の菩薩の誕生は後を絶たないものといえます。
自身の体の構造を考えてみても絶えず古い細胞は死に新しい細胞は生み出されるわけですから。

>>349
> 宇宙即我と我即宇宙を断定して言ってしまいました。

誰が断定しているんですか?
「宇宙即我」と言えば「梵我一如」と同義に思えます。
少なくとも仏法は「諸法無我」ではないかと思います。
更にいえば「縁起」も無視していますから既に仏法ではないと思います。

「宇宙即我」だとバラモンやヒンドゥー教
もしくは道教や禅宗と同様の捉えかたであると思いますね。

あえて表現するのであれば「宇宙即我々」と言う感じですかね。

そう言う意味では「当体義抄」に書かれていることも仏法に反すると思っています。
誰が書いたか知らないけれど日蓮の法を下げる行為に繋がっている書のひとつであると思っています。

353首都高バトル01:2011/10/06(木) 09:46:57
冒険します。

・一個人の生命自体について三世間を立て分ければ、五陰世間は十如是、衆生世間は十界互具、国土世間は心をとりまく一個人の生命全体。
・一個人の生命自体について事の一念三千の観心(一番大事な、御本尊に向かって唱題の時、生命に起こる、また起こす現象)において三世間を湧出品(法華経)に描かれる地湧の菩薩で立て分ければ、
五陰世間は、本法所持の本法(所証及び能証の智、この説明は後の観心本尊抄の文意で)。衆生世間は、地湧の菩薩(十界互具、十界が所具する仏界の一念)。国土世間は九識心王真如の都、法性之淵底玄宗之極地(生命内奥)。

「我等己心の釈尊は五百塵点の当初・名字凡夫の御時に所顕の三身にして無始の古仏なり」御書P1022。

「妙楽大師いわく[当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し]等云云」〜観心本尊抄よりの文意は、「当に知るべし本地自受用身の身土・我等が信心の一念の中の三千である。ゆえに成仏の時この本地難思の境智の妙法に称い、一身の五大が法界に遍じて所証となり、一念の信心が法界に遍じて能証の智となり(十界互具、つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕れ、十如是(御本尊)を見とる、読み取るを所証とし、そして自らの命の中から十界「最高の仏界を湧現が目的」が顕われ、最高理想の自らこれから行う具体的行動内容の十如是の姿を感じ見とる、自らが行う幸せの答えを能証の智とし)、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。」

「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕わし給えり」P513。

即について、また冒険したいので機会があれば、、、。
なぜ仏法即社会なのか?、、信心即生活なのか?
即が使われる熟語をできるだけ集め、それらの表現から共通の法則性を見つける。
今考えられるのは、無明即法性と法性即無明の冥伏と顕現(総勘文抄を参考にして)。法華の円。どちらを主にするか? 。体と用の関係で表現できるのか?。
即より右側の語に変化移行をどう捉えるのか?。能(主)具所(従、受)具は冥伏、能証所証は顕現。また即は左右の語が合体(どちらも顕現した状態)、しかしそれなら不二や体一や一体、一如だし、、、。 難しいです。

これぐらいで、またいつかと言うことで、今日はこのへんで、失礼いたします。

354首都高バトル01:2011/10/06(木) 11:01:13
訂正〜つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕われ〜
 つまりまわりや環境を通じて五大こと自らの身に受ける作用により十界として顕われ。

訂正ではなく付加〜久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。〜
 久遠元初の境智冥合の自受用報身と顕れるのである。


「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じ三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、 能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の効能なり敢て之を疑うべからず之を疑うべからず、」
御書.P512

355首都高バトル01:2011/10/06(木) 12:24:42
一個人の生命自体について事の一念三千の観心において、相似している虚空会の儀式に出現する地湧の菩薩の姿と行いを三世間で立て分けたとき、
衆生世間は、(命の中なのに世間と言うのはおかしいですが、)地湧の菩薩、
その証得する所証の実体は、、、御本尊 。

356首都高バトル01:2011/10/06(木) 12:44:42

事の一念三千の観心は、受持即観心。

357説教オヤジ:2011/10/07(金) 15:21:18
>首都高バトル01

この御仁・・・・・
かなり面白き人物なり。
ワシも勉強になりそうじゃ。
いずれ、教学談義でもやらかそうかの。

358首都高バトル01:2011/10/07(金) 16:31:00
説教オヤジさんへ
いえいえこちらの方こそ、いつも勉強させてもらってます。
まだまだ未熟者でありまして、機会があればいろいろ教えて下さい。


「 eijisenseiのブログ ブログテーマ.現象展開の法則=十如是 」 
という、成長の家の関係者のブログがあるのですが、十如是の捉えかたが似ているように見えますが、似て非なるものである事を書きます。

十如是を一個人の生命において五陰、感覚器官や心を通じて意識に映る映像と捉えている。
ではなくて、〜を通して意識に顕われる映像の事物、事象の姿が、十如是。
十如是を映像と捉えると、堅皇さんの言われる、その義は華厳経第一になってしまいます。権経と実経の区別が付いていない。
だから十如是の考えと色即是空は、一緒、同じと、ブログでは書かれています。
どこからその発想が出てくるのか、あまり詳しくないのですが、信仰の対象が神になってます。
十如是の捉えかたが、少し似ていると見えますが、似て非なるものであると言うことを書きました。
法華経の奥義が示すところまで、ぜんぜん届いていない内容です。

359首都高バトル01:2011/10/07(金) 17:18:16

なぜ色即是空は、色と言わず依正の依を使い、、、
依即是空 空即是依 依不異空 と言わないのでしょう?(依即是空ありました?ありませんよね?)  
依即是空にしたらもう少し広がるように思います。 色即是空は、人間生命において五官の働きや五陰、意識との関係性について語られている。
そこに映し出される映像の姿まで到達してしていない。

宇宙生命に約せば、色即是空は科学がもっともって発達しないとその作用は、わからないのではと思います。いろんな宗教家たちが言っていることは、宇宙生命に約そうとして、とらえどころのない一般人にはわからない内容になってしまっている。さらに進んでわからない事自体が色即是空。多くの般若心経の出版物の内容は混沌の中にある、混沌だから答えを求めて出版物が増えていく。

360首都高バトル01:2011/10/07(金) 21:20:48
>>358
訂正〜 × 成長の家
  ○ 生長の家

361堅皇:2011/10/07(金) 22:53:35
首都高バトル01さん

> なぜ色即是空は、色と言わず依正の依を使い、、、
> 依即是空 空即是依 依不異空 と言わないのでしょう?(依即是空ありました?ありませんよね?)  

「色即是空」は「色心不二」と同義で「色」は「色心不二」の「色」ですね。
で、「色心」を併せ持ったのが「正」となり、これに不二なのが「依」になるわけです。

対する「空」は三諦で顕すところの仮諦、空諦、中諦の「空」
「仮」と「空」を併せ持っての「中」であり、「正」に匹敵するわけですから
「依即是空」ではバランスがおかしくなります。

ちなみに十如是に当て嵌めれば
「空」が「性」で、「中」が「体」であり、「体」を「因」とし
「縁」に匹敵するところが「依」と言う感じですかね。

362首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:00:44
・大志、大願、決意が、命の中から何が現れてくる。
よし頑張ろうと決めた時、出てくるものはなんだろう?

・まる子「お母さ〜ん、この料理、めちゃくちゃ美味しいね!私も作りたい。
お母さんどうやって作るの?教えて?」
・まる子のお母さん「めんどくさいわね!できたもの食べてりゃいいでしょ。」
・まる子「ねぇ〜ねえ〜お母さん、おせえてョ〜」

・まるこのおかあさん「しょうがないわね〜。じゃ実さいにどう成って、どうやってつくるか、おかあさんといっしょにつくりながらおぼえて、まるこも実さいに、ひとりでもつくれるように成りなさい。」

・まる子のお母さん「このおりょうりは、いちば〜んさい初は、なべにみずをいれるのよ。」

・ナレーター「こうしてまる子は、美味しい料理をつくれるようになったのである。 おしまぃ。」

・研究者にとって、ものごとの成り立ちは、研究課題であり仕事である。

363首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:46:14
ちょっと冒険。気にしないで下さい。
一念に三千が収まる。〜三千即是一念。

空は、唯識(識というぐらいだから意識全般?)や法相宗の考えによく出てきますよね。空と心は一緒なのかなぁ?
空の領域に心がはいるのかなぁ?反対に心の領域に空が、、、?
もし空の領域に心が入るのであれば、、、、一念三千即是空。

364首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:57:41
堅皇さんへ
>>361 ありがとうございます。
難しい内容ですが、理解できるように頑張ります。

365首都高バトル01:2011/10/08(土) 00:27:59
冒険が脱線ぎみなので、
題目を唱え、気を引き締めることに、そうすることにしよう。

そうすることにしよう〜は、エジソンの母でよく使われていたなぁ〜。(ひとりごと)

366堅皇:2011/10/08(土) 07:54:09
首都高バトル01さん

> 空と心は一緒なのかなぁ?

僕は一緒であると思います。
ただ、空は仮と縁しないと中諦とならないわけですから
性は相と縁しない限り体を成さないと言う事で
つまり空は心と言えども空だけでは自我としての心と言う体は成さないところにあると思います。

で、死んだらどうなるかと言えば心は色(身体)から離れて空のみとなるので自我は無くなるが
確かにこの世に存在すると言うもの。

ここでも心や空の「非実非虚」が顕せると思います。

自我とは何処から生まれるかと言えばあくまで「縁」に接する事によりその実を知る。
つまり「因」があれども「縁」がなければ「因」であると言う認識も出来ない。

人間の感情の変化と言うものは全て「因」と「縁」とのギャップにより認知するもの。
美味いという感情は不味いものを知った上で、美味いと感じるところ。
好きと言う感情も、嫌いなものを知った上で、嫌いと感じるところ。
もちろんその逆も言えます。

これは光が何故明るいと認識できるかと言う事と同じであるといえますね。
光が明るく感じるのはそれを照らす対象物があって始めて成り立つというもの。
何もない宇宙空間が真っ暗に思うのは光を受ける対象物
つまりは空があれども仮がないから光を感じさせず
性があれども相がない、因があれども縁がない状態を示しているものかと。

故に空や一念と言うものを単独で顕す事は不可能であり、一念もまたその一年を作り出す三千により形成されていると言う事だと思います。

367河内平野:2011/10/21(金) 18:09:59
皆さん、お久しぶりです。ちょっと宣伝させてください。

「河内平野の教学研鑚ノート」を作りました。

最新
『創価学会と三時の弘教』をアップしました。(長文です)

http://kawachiheiya.blog.fc2.com/blog-category-2.html

368はぐれ雲 ◆HHaU7zEjNg:2011/10/21(金) 19:07:46
こら!かわっち平野よ、暇なやっちゃの〜w

369ぜんまい:2011/10/21(金) 22:53:40
河内平野さん、はぐれ雲さん、お久しぶりです。

元気にしていますか?





370首都高バトル01:2011/10/22(土) 00:16:37
河内平野さん どうもです。
また教学研鑽の為に拝見させてもらいます。

お知らせ、ありがとうございます。

371京阪電車の燈 ◆AIo1qlmVDI:2011/10/22(土) 12:49:38
重厚かつ長大な研鑽ノートの完成、おつかれさまです。

感想を兼ねて、明確に断言させていただきますと、
「何一つ間違った事は書いておられません。」です。

今後、つまらん揶揄を含め、反発をも予想されますが、
軽く一蹴されることでしょう。
彼らは恥をかくだけです。

372はぐれ雲 ◆HHaU7zEjNg:2011/10/22(土) 13:11:05
ぜんまいさんおひさ〜^^

京阪さん心配性ですね〜^^誰も書いてないからかわいそうにと思ってかいてあげたのですがなにか?w
たまたま覗いた所でかわっちさんのこの書き込み見たものだからつい反応してしまったのもありますが・・・・・

374首都高バトル01:2011/10/23(日) 21:54:29
十界互具を人間の生命内に観ると、
まず依報(さまざまな十如是の姿)を覚知することにより十界が顕れる。
そしてそれに対処しようと、正報の自らの境涯に応じて収まる十界が顕れることにより対処しようとする十如是(立ち向かう自分の姿)が、顕れる。

十界×十界、それぞれに十如是が収まる。心具から始まり心生(湧現、顕現)へ・・・十如是を持って十界は顕れ、十界を持って十如是が顕れる。

働きを捉えることで、十界互具がどういうものか、見えてくる。

妙法蓮華経は、即これ十界互具である。

認識と対処・・・
生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。

十界互具についてこういう捉え方をする内容があるかを
あちこち見たのですがなかったものですから、これについてお尋ねします。

みなさんどう思われます?

375首都高バトル01:2011/10/23(日) 22:30:55

一瞬の生命、一念に十界互具を含む三千諸法が収まる。

一念三千は十界互具より起こる。

376首都高バトル01:2011/10/24(月) 13:34:45

難信難解だからなぁ〜(機根が整わない?)

十界互具は、法数のカウントに留まり、もう一歩突っ込んだ説明がない。

こういう視点で観ているのは、首都高バトル01だけかぁ〜???

377高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/10/29(土) 12:18:31
首都高バトル01さん こんにちは!

 人とは、何かを考えたことは、ありますか?

 例えば、ダーウィンの進化論的なこと・・・など。

378首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:16:29
高速太郎さん どうもです。

すごく哲学的ですね。
人はなんであるか?・・・考える葦であるとか、言いますよね。

進化論ですか。壮大なお話ですね。
勉強になりますので、また教えて下さい。 よろしくです。

379首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:28:49
・サイコロを転がすと毎回、目が数が違う(同じ数の時もある。)。(サイコロが止まった瞬間や、止まった時)

・生命は、たえず変化している。いま見た瞬間が次には、変わっている。転がしたサイコロのように定まらない。
そしてグ〜ルグル回っている。グ〜ルグルと。

・色心で見てみます。
生命は永遠不変であり、人間の生命は、肉体を構築し、肉体(妙法蓮華経の姿)に属します。
仏界は、心に属し、本門に有ります。また縁に随がい(御本尊、題目)、現れます。
生命も仏界も差別がなく、絶対であります。

その生命と心、仏界と肉体をグ〜ルグルまわり、一定にとどまらず、変化します。

・永遠不変の生命から縁に随がい心(十界、仏界)が現れ、その心が肉体を動かします。

・サイコロの目、数のようにある時は、永遠不変の生命のまま(ボ〜としているのかどうなのか?心が現れていない状態)。
またある時の一点をみると、心が肉体を動かしている状態。つまり不定。

生命とは、迹門不変真如。 仏界とは、本門随縁真如。
人が生きている限りたえず変化し、一定でない。

・依正で見てみます。
御本尊は、非情に属し、体は永遠不変の生命の冥伏した妙法蓮華経の姿というより、体は永遠不変の生命を保ち(冥伏し)ながら、仏界の生命が全面に出たまま、(ヒーローズのヒロ.ナカムラが時間を止めたそのままの状態)止まっている状態。

・とても失礼で申し訳ないのですが、
サイコロをふってみます。
御本尊は、不変真如から随縁真如、出現停止状態。我々は、その都度変わる、変化する。

・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。
随縁不変・一念寂照の御本尊。

・迹と本は定まらない。・・・迹本不定。

寝ているとき人は、迹(不変真如のまま)?

参考・・・御書P.708
御義口伝の冒頭の帰命についての所、参考にして下さい。

380首都高バトル01:2011/10/30(日) 02:36:58
訂正
×出現停止状態
○出現して、停止状態

381高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/10/30(日) 09:49:18
首都高バトル01さんへ こんにちは!

 十界互具を理解するには、人とは何なのかを考える事も必要かと・・・。

>>379 >・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。

 すべてのもの(生命)とは、人の生命のことを指しているのですか、それとも全生物の生命ですか?

382首都高バトル01:2011/11/02(水) 21:00:28
>>381
そうですよね。 生命と表現したらそう思いますよね。

すべてのものとは、宇宙に存在するすべてのものと言う意味でご理解下さい。

383無名:2011/11/14(月) 21:49:36
>>372
沖裏の太鼓持ちは引っ込んでいてくれ。

384首都高バトル01:2011/12/23(金) 00:20:05
忘れまじ、学会精神!!!

>>http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19990427/p1

385首都高バトル01:2011/12/23(金) 05:52:03
一番大変な時、先生は何をされていたか?

>>http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20041215/p1


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