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意味論

1プロジェクトラーニング:2009/08/04(火) 13:38:20
勝手にスレッドを立てしまいまた怒られないかと心配ですが、野田さんが私がOなる人物とは別人だと言っていただいたおかげで、気分が晴れました。ところで、よく藤原肇さんは「〜は意味論が理解できていない」という趣旨の発言をされています。昔小室直樹さんとの対談のときにもその話が出ていました。これは私の知る限り私が大学生の頃からずっとそう言っておられます。その時からわからなかったのですが、そもそも意味論とは何なのでしょうか。言語学とか論理学とは異なるものなのでしょうか。この意味論を学ぶのに最低限読んでおかねばならない書籍にはどのようなものがあるのでしょうか。意味論を知り現実にどう活かすかは自分で考えますので、なにかとっかかりとなるような事をどなたかご教示いただけないでしょうか。

40プロジェクトラーニング:2009/08/25(火) 06:11:30
T.N.さん、『経世済民の新時代』(藤原肇)をお読みですか? 正慶孝氏との対話の中で藤原さんがおっしゃっているのは、一つはメタサイエンス(全体を統括する原理、公理、ホーリスティック)の重要性で、それを経済学で一例を示すと、コンドラチェフの波でありレオンチェフ表だと述べられている。もう一つがバランス感覚で、百科全書派を取り上げ、全体が見えてその中で問題を位置づけし、全体との関係を比率として捉えることが理の基本とある。藤原さんの教えを真摯に受けとめ、自ら学び自ら「開智」していきましょう。ジョン・デューイは、教養とは、絶え間なく、意味の認識の範囲を拡大し正確さを増していく能力であると述べています。何学でもいいではありませんか。状況に適した問題解決を思考していきたいものです。ともに切磋琢磨いたしましょう。

41T.N.:2009/09/08(火) 19:57:13
 「ジャパン・レボリューション」の第三章、藤原氏と正慶孝氏の対話で
「将棋を見ても、玉(王将)があり、金・銀があり、桂馬と香車はニッキ(肉桂)と香辛料であるというように、
自然の宝の交易品が織り込まれています。」
「将棋盤にはメッセージが込められている。一種の曼荼羅といってもいいですね。「王」ではなく「玉」である意味
を受け止めないとダメです。」
という部分。将棋がチェスと最も違う点は、相手から取った駒を使えることですが、これについて日本の戦闘の風習
に由来するという解説を読んだことがあります(負けた側の家臣が処刑されるのではなく、勝った側の家来になる)。
それよりも、将棋を単なる戦闘ゲームでなく、交換を土台とした経済ゲームの面も持つと考えたほうが、すっきり理解
できるようです。

42T.N.:2009/09/11(金) 19:45:32
 「ジャパン・レボリューション」の第六章、藤原氏の発言
「中国は漢字を簡略化したために古典を読めなくなっていますし、韓国もハングル文字化によって中国の古典を
読めなくなっています。それに比べて、漢字を使っている日本人は恵まれているのですが、そのメリットを生か
していませんね。」
これは、将来中国や韓国で意味論オンチが大量発生するかもしれないという、警告ないし予言のように思えます。
日本人の場合は、近年増えているカタカナの外来語の問題を一先ず置くと、漢字をどう取り扱い、どう付き合うか
ということが、意味論オンチに陥らないための第一歩となるようです。

43T.N.:2009/09/13(日) 02:35:59
 付け加えさせていただきますと、藤原氏が米国を去り台湾に移られたのは、中国の古典を読むのに一番便利な
場所ということも理由の一つだったのではないかと考えております。

44T.N.:2009/09/15(火) 01:17:10
 9月14日、NHKの「クローズアップ現代」で希望学を取り上げていました(番組は前半を少し見ただけな
ので、多少違っているかもしれません)。ゲストに呼ばれた先生が、多くの人の調査から、希望とは漠然とし
たものに対するもの、幸福が現状維持的なのに対し希望は変化を求めるものというような解説でした。何だか
当り前のことを再確認しただけのような解説に思えました(そりゃまだ叶っていないことを、ねがいのぞむ
ものでしょうし)。
 昔の人がこの概念に当てはまる字は何だろうと必死に考え、当てはめた漢字を音読みして多くの言葉が生まれ、
それを何代にも渡り人々が違和感無く使って現代に至ったこわけですから、まず漢字から考え始めるのが一番
効率的なのではないか、そういう習慣が日本中に広まったらどんなだろうか、などと考えた次第です。

45プロジェクトラーニング:2009/09/15(火) 07:04:03
今週末から最大9日の休みがとれる秋の大型連休が始まります。国内の消費不振の問題を少しでも解決できるのではないかと期待が寄せられています。私の問題意識は言葉です。誰がつけたのか知らないがシルバーウィークと言うそうです。ゴールドに対してシルバーですから「5月のゴールデンウィークに次ぐ」という発想になります。カレンダーを見て下さい。祝日の配置はまったく同じ構造で5月と遜色ないのです。シルバーウィークという言葉を使った瞬間にゴールデンウィークの消費額の何掛けとなるのに決まっている。私案は、たとえばアースウイークとか言ってみたらどうか。このかけがえのない地球を想い時間を使おうというコンセプトで、環境、愛、知恵、平和、そういった普遍的な価値を、地球を想って享受する連休とする。ちょっとしたひとり言でした。

46一色:2009/09/19(土) 10:38:08
『さらば暴政』の造刷りが待たれますが、東京の大手書店でもまだ初版のものばかりのようです。ソフトカバーだから初版が多かったのでしょうか。

47T.N.:2009/10/11(日) 23:18:56
 「マクロメガ経済学の構造」の297頁、藤原氏の発言
「日本には未だ意味論的な学問が存在しないし、個人の生活習慣の中に、ことあるごとに辞書をひいて、正確な
意味を調べようとする態度が、フランス人のように定着するに至っていない」
漢字に注目することが、日本人にとって意味論を活用する第一歩かと考えるのですが、これはそれ以前の第零歩
ともいうべき心得かと思います。最近は携帯に便利な電子辞書もありますし、それでわからない言葉はインター
ネットで検索すれば大体はわかります。ただ漢和辞典だけは昔ながらのものを使っているので、漢字の語源もわ
かるような便利なものがあればと思っています。

48千々松 健:2009/10/12(月) 10:36:31
最近「懈怠」の読み方と意味を調べる必要があった。
「カイタイ」と読む場合は法律用語に属していて、1)訴訟行為などで、一定の期日を守らないで責任を果たさないこと。2)「過失」と同義
「ケタイ(ゲタイ、ケダイ)」と読む場合は仏教用語に属していて、1)悪を断って、善を行うのに全力的でないこと、精進の反対。2)なまけて、おこたること
良く「過誤・懈怠」と並んで使用する場合があるが、「過誤・過失」に読み換えてもよさそうである。ただし、この場合の過失は「期日を失念して経過してしまうこと」と読み取らねばならない訳です。
電子辞書やネット上の意味検索でもかなりのことが解り便利になりましたが、まだまだ広辞苑などの紙媒体も手放せませんね。

49T.N.:2009/10/13(火) 01:24:38
 「マクロメガ経済学の構造」の300頁、藤原氏の発言
「ことばと共に次元の展開の問題が大切であり、コミュニケーションにおいて低エントロピー交信が出来るよう
になった人は、次の段階で多次元発想へと開拓領域を拡げていくのです。」
この中の「低エントロピー」、「多次元発想」がそれぞれ意味論活用の第二歩、第三歩に当たるのではないかと
考えます。
 まず「低エントロピー」ですが、同書276〜278頁の藤原氏の発言
「国際的な次元でも、お金の意味する哲学的な内容が、その実態と全く違ったものになってしまった。今こそ誰
かがセマンチックス(意味論)で、画期的な仕事を残さなければならない時です。」
「昔は穀物や肉として価値それ自体があり、次に金貨や銀貨のように価値に密着した物質が代理通貨になった。
更に、金との交換性を持つ兌換紙幣から、遂には紙切れにすぎない不換紙幣になり、ついこの前は信用というこ
とで小切手や手形という私文書みたいなものになってしまったと思ったら、情報化時代になって今度は単なる符号
に変ってしまった。実体としてのモノと符号の間の肉離れは実にすさまじい」
「意味論(セマンチックス)としてのことばの概念が、情報化のスピードに追いつけないのと、実体と媒体との肉
離れ現象が著しい。」
ここでのお金の例に見られるような、空間的・時間的移動による言葉と実体との乖離を小さくするところに、意味
論の価値の一つがあるのだと思います。
 次に「多次元発想」ですが、同書306〜307頁の藤原氏と松崎弘文氏の対話
「決めつけた言い方をするなら、現在の経済学が議論しているのは、極大と極小の問題にすぎない。」
「それから、時間を無視したバランスの問題です。更につけ加えるなら、社会的な富の配分ということになる。例
えば、企業の経営論においても、毎日経営を行っている企業を対象にしている訳で、利潤ということばも、果たし
て適正利潤かどうかは問題にせずに、とりあえず利益といったことで大福帳勘定でごまかしてしまっている。」
”極大と極小”というのは、例えば利潤を極大に、費用を極小にというようなことかと思います。大福帳のような
閉じたその家だけという次元なら、とにかく利潤を最大にするのが最も合理的な行動です。これが複式簿記式の社
会とつながりのあるより高い次元で考えると、不当に高い利益は誰かの不当な損害となるわけですから、より価値
の高い適正利潤という考えが生まれてくる。更に時間も考慮したより高い次元では、長期的な利益も考慮に入れる
ことになるわけです。同じ利潤という言葉でも、次元の展開の程度により、内容が変わってきます。

50千々松 健:2009/10/13(火) 12:10:10
「空」=「そら」と「くう」の次元の違いについて
 夜空(よぞら)に一杯の星の輝きはまさに色(いろ)そのものです。この星空(ほしぞら)を「有」としましょう。実際に古くから人類は星たちを結んで星座などイメージして来ました。
昼間は太陽に照らされてその星空は見えなくなり一面の青空(あおぞら)のみです。この青空を「無」としましょう。
この次元では星空も青空もまさに「色(いろ)」の世界です。
 しかし、夜も昼も見上げている天空の「本質」を考えると、星空の有に非ず、青空の無に非ず、「空(くう)」としか言いようがないのです。
『色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』とはこのことを意味しています。前半の空と色は「そらといろ」の次元ですが、後半の空と色は「くうとしき」と呼び、より抽象化が進んだ高い次元になると考えられるのです。
インドで誕生した厳密な意味をもつ「ゼロの概念」も実は二重の否定で成り立っていることが解ります。プラス(正数)に非ずして、マイナス(負数)に非ずの存在はゼロ=0に行き着くしかありません。
紀元前に釈迦が仏教を説き、その後に竜樹が大乗仏教を確立してから「空=ゼロの発想」が定着し、やがて数学の世界にゼロの発見をもたらしたと私は解釈しています。

もしも「ゼロの発見と般若心経」にご興味があれば、以下をご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/zero-ku.html

51T.N.:2009/10/16(金) 00:24:08
 千々松様、サイト拝見しました。

 「理は利よりも強し」の246〜247頁
「江戸時代中期の富永仲基は「出定後語」の中で、言葉には類別と時代と人の制約条件があり、言葉の乱れが概念
の解体に繋がるから、条件の識別がセマンチックスの基礎だと論じた。」

 千々松様の「空=ゼロ」に至るまでの思想の流れを、仲基の「加上」の理論(思想家が先人をしのぐために新説
を工夫すること)のように、思想史的に位置づけると面白そうなのですが、私の能力ではとても論じられないので、
提案に止めさせていただきます。

52千々松 健:2009/10/19(月) 08:21:45
>51 T.N.様 有り難うございます。
富永仲基は大阪で、適塾も大阪ですね。基本から考え、必要十分に考え、順序と逆序で考えることの大切さを再認識させられました。
「役に立つこと」すなわち「何かを変える智慧を内蔵していること」という意味で般若心経はあらゆる角度から見直しがなされて、時空を超えて、伝えられるべきものと考えています。
音読に適したリズムを持たせたものを編集して載せていますので、ご利用ください。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/yomuhannya.html

53千々松 健:2009/10/22(木) 10:10:36
>52につづく
ごく簡単に言えば、富永仲基は現存する仏教経典類は「加上」の法則で解釈すべきであるという方法論を述べているのだと思います。
お釈迦様の言ったと伝えられる表現でいえば、今の時代は「末法の時代」に該当しる訳で、加上に加上が重ねられて、当初の意味が深耕されたり、拡大解釈されたり、場合によっては曲解されたりしたと考えねばならないことになります。
いずれにしても、彼は「法」が正しく伝えられないことを見通していたわけです。
「既知のもので未知のものを見たり、未知のものを既知のもので見たりする方法」により、仏教の全体像を見直してこそ仏教におけるルネッサンスが可能となると思います。
その最初の一歩は「般若心経」の翻訳上の見直しにあると考えています。
般若心経の位置づけが旧仏教(小乗)に対して新仏教(大乗)を唱える派によるキャッチコピーであるとすれば尚のこそ、有でもなく、無でもない、空の概念を提示することが重要であるので、
流布されている玄奘訳には古い鳩摩羅什訳の「非過去、非未来、非現在」を復活させ、「無無明」は「非無明」に置き換えて、サンスクリット語の「na」という否定形を前後の関係から「不・無・非」の三つに区別して訳すことが肝要でしょう。
そうしてこそ、有か、無かの二元論の小乗に対して、両方を非ずとした「空の論理」が引き立つのです。
例えば「無苦集滅道」は苦集滅道が無くてよいのではなくて、一旦はとことん「苦集滅道」で問題解決を図ることが必要であるが、その後は「苦集滅道」を離れて、とらわれない見方をする十分さが大切であると解釈すべきでしょう。従って「必要十分条件」「順序と逆序」に当たり「非苦集滅道」に訳した方が適するわけです。
 詳細は下記の新改訳「般若心経」案をご覧願います。
 http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/muniarazu.html

54T.N.:2009/10/25(日) 01:32:09
 「教科書では学べない超経済学」の184〜185頁、藤原氏と落合莞爾氏の対話
「フランス語ではコンピュータをオルディナトゥールと呼ぶが、英語のように単なる計算する機械ではなくて、
秩序(Ordre)と言う言葉を語幹に持っています。そして、それが秩序形成を命じる者だというのは、意味論的
に非常に興味深いと思うのです。」
「コンピュータだと計算機が進化したものだが、秩序を司るとしたらこれは神様の延長になりますね。」
名称一つにも英国の経験論や帰納法、フランスの理性論や演繹法が窺われるのが面白いところです。

55千々松 健:2009/10/25(日) 10:01:12
>54 ordre=orderにちなんで、
"Don't order them captain, ask them." これは「K19」というハリソン・フォードが監督兼主演をした史実に基づいた映画のクライマックスに出てくる台詞です。
核燃料事故を起こしたソ連原潜の副艦長がハリソン演じる艦長に進言した印象深い言葉です。日本語の字幕には確か「命令しないで、頼みなさい。」というように出ていたかと思いました。
ただし、映画を見れば解るように、今まで、艦長があらゆることを単独に意思決定し、命令を出して事故の復旧に当たるが、旨くいかなくなり、色々のことが発生する中で、経験を積んだ副官が、苦渋に満ちて伝える言葉であり、
それに対して少しの間をおき、ハリソンは納得して、全艦員に現状を訴え、どんな選択があるだろうたと質問しているのです。種々の意見を聞きだした上で、では、こうしたいがどうだと再度聞きなおして、最後の決死隊を放射能に汚染されたコアに送り、結果的に助かるという流れです。
この場面ではASKは依頼ではなく、質問の意味なのです。キーワードを正しく翻訳するのは大切なことですね。

56T.N.:2009/10/28(水) 00:58:21
 「理は利よりも強し」の170頁
「情報を質の面で掘り下げる時でない限り、一般にインテリジェンスの面は看過されがちだ。だが、インテリジェ
ンスはソフトな能力であり、分析と評価を加えて全体の中で位置づけ、どんな条件が意味づけに必要かを考えて、
実践の構想をするプロセス全体を指す。」
この中の”どんな条件が意味づけに必要か”の部分。文脈の中でその言葉が、どういう条件で使われているかは、
省略されていることが多いので、それを読み手自身が補って読まないと、本当の正しい意味が掴めません。>51
で触れた富永仲基はその条件を類別・時代・人としたわけです。

 参考になりそうな例を一つ。クリフォード・ストール著「インターネットはからっぽの洞窟」第2章の話。
1980年代前半、中国の南京に留学したストール氏は、宋明朝時代の天体観測記録を研究している中国人の教授
が、そろばんを使った手作業で計算しているのに呆れ、持ちこんだパソコンで効率を上げてみせようとします。し
かし、計算結果が合わない。中国人教授の指摘でストール氏は、彼が観測者ごとの精度の違いやあやふやな記述ま
でも考慮した複雑なデータ処理方法をあみだしていたことを知ります。本当に大変なのは、データを理解し、それ
をどう利用したらいいかを考え出すことだと悟ることになります。

57T.N.:2009/12/08(火) 02:30:20
 昔のTVのスパイ物に指令を伝えたテープが”このテープは自動的に消滅する”の言葉を最後に、炎上すると
いうような描写がありました。なぜこんなことを思い出したかというと、NHKのニュースでパソコンからの情報
漏洩を防ぐために、ハードディスクに穴を開けて破壊するという話題を取り上げていたからです。意味のあるも
のを破壊して無意味なものにするわけですが、この場合対象が物理的に存在しているので、わかりやすいわけで
す。千々松氏がよく取り上げられるゼロの発見については、対象が見えないためゼロの認識に至るまで、途方も
無い年月が必要でした。最初から”無い”で済ませてしまうと思考の対象にならないので、”無が有る”とする
ことにより、ようやく深く考えられるようになったわけです。
 ついでに書くと、数学や哲学では自己の自己に対する作用はしばしば盲点になるらしいので、自動消滅するテ
ープというのは、中々気が利いたアイテムです。

58千々松 健:2009/12/08(火) 16:38:20
<SWOT分析に意味を持たすには>
マーケティングの手法で「SWOT分析」というのが知られています。内部環境である自社の強みと弱みを把握して、他社も含む外部環境である機会と脅威を分析したりするものです。
これを、より戦略的に使用するためにはストーリー性を持たさなければならないことを最近やっと理解しました。
強み(S)のコアを使って、脅威(T)やリスクを抑え込んで、機会(O)に変える工夫をして、弱み(W)を他社との提携などのアライアンスで補強して、結果として強みに変えていくこと、といった一連の物語を構築するのです。
SWOT分析表の中では丁度8の字形を描くようにして考えていくのが良いのです。そうしてこそ、分析が分析に終わることなく、一連の統合思考から具体的な行動への道筋が見えてくるのではないかと考えています。
ISO9000(品質)ISO14000(環境)に続いてISO31000(リスク・マネジメント)が国際標準化したようです。
リスクをいかにコントロールするか、テイク・リスクして新規の事業や政策に立ち向かっていくかが問われている今日この頃です。

59千々松 健:2009/12/08(火) 16:38:49
<SWOT分析に意味を持たすには>
マーケティングの手法で「SWOT分析」というのが知られています。内部環境である自社の強みと弱みを把握して、他社も含む外部環境である機会と脅威を分析したりするものです。
これを、より戦略的に使用するためにはストーリー性を持たさなければならないことを最近やっと理解しました。
強み(S)のコアを使って、脅威(T)やリスクを抑え込んで、機会(O)に変える工夫をして、弱み(W)を他社との提携などのアライアンスで補強して、結果として強みに変えていくこと、といった一連の物語を構築するのです。
SWOT分析表の中では丁度8の字形を描くようにして考えていくのが良いのです。そうしてこそ、分析が分析に終わることなく、一連の統合思考から具体的な行動への道筋が見えてくるのではないかと考えています。
ISO9000(品質)ISO14000(環境)に続いてISO31000(リスク・マネジメント)が国際標準化したようです。
リスクをいかにコントロールするか、テイク・リスクして新規の事業や政策に立ち向かっていくかが問われている今日この頃です。

60千々松 健:2009/12/09(水) 10:22:55
>58と59が操作ミスのためにダブってしまい済みません。
今回の政府の「事業仕分け」から何を学ぶか
 基本的にはロジカルシンキングとコミュニケーション能力が官僚たちに不足して、学者や科学者たちが組織的な声明を一方的に発表し、短絡的に反発しているという印象が持たれた。いずれにしても、ディベートやネゴシエーションといったスキルの重要性が見えてきたと思う。
 私がIT業界に居て、新卒たちの文系と理系の発想の違いや、優秀なシステムエンジニアに育てるための基礎訓練を通じて学んだことは、今から思えばフローチャートのような「目に見える形」にすることの重要性であった。言葉や感情を超えて、形にしたり表にしたり数値化したり、時には絵を描いたりしてコミュニケーションを深め、その結果お客様に納得のゆくシステムが作れるということであった。
 次年度からは「三拍子でワルツは踊ろう」の戦略ツールを使用して、●Want、▲Plan、■Actionの各レベルを具体的に明示して、トータルとして見て無駄な事業は止め、選択と集中を行って欲しいものである。

61プロジェクトラーニング:2009/12/09(水) 19:15:28
千々松さんがSWOT分析を話題に出していただいたのでコメントさせていただきます。S(強み)W(弱み)O(機会)T(脅威)の用い方の本来は、SO・WO・ST・WTから戦略オプションを導き出すことにあります。企業研修で必ずSWOT分析をしますが4象限のSWOTを整理して終わることが多く的を射ません。まったくの茶番です。最も大事なことは何をもってSWOTと言えるのか。これは高度な判断です。ビジネス現場での問題は、①SWOT整理が軽薄なこと、②戦略オプションが導けていないこと、この2点に尽きます。三品和宏(以下敬称略)『経営戦略を問い直す』・沼上幹『経営戦略の思考法』を読まれると良いでしょう。さて千々松さんご指摘の戦略に物語が要るのか。楠木建などが論を立てていますが私は現実的ではないと考えます。強みを活かすことが真っ先だ、これしか言えないと思うからです。統合思考についてはロジャー・マーティンの『インテグレーティブ・シンキング』などを参照されると宜しいでしょう。

62プロジェクトラーニング:2009/12/09(水) 19:31:06
T.N.さんのコメントを読みこんなことを思いました。鎌倉時代に藤原定家という公家の歌人がおりました。私は最近、堀田善衞『定家明月記私抄』を読了したのですが、定家の歌に「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ」があり、無いのに有る、これが日本文化の源泉ではないかと感じ入りました。ひとり言ですが、もっと質素な暮らしをすべしと内省しました。感性の鋭い若者が今日では消費生活に嫌気をさしていることを考えると日本文化の深遠から引きつける磁力は随分と大きく認識の持ち方でいくらでも豊かさは享受できると信じております。

63T.N.:2009/12/10(木) 01:25:15
>51 富永仲基の”言葉には類別と時代と人の制約条件があり”の類別について。同じ言葉でも本来の意味から
拡張されたり、新しい意味を持ったり、反対の意味を持ったりするということなのですが、これを思想に適用する
とどうなるか。例えば儒教で”性は善でも悪でもない”という考えがあり、次に性善説が説かれ、さらに性悪説が
生じる。一つの文章を読み解くのと同様の方法で、より大きな思想やその流れも理解できることになる(考えに
時間の流れを加味したのが大きい)。
 こう見てくると、議論に次元展開やフラクタルを多用する藤原氏の考え方に、意味論は非常によく適合していると
言えます。

64千々松 健:2009/12/10(木) 09:55:08
 SWOT分析についてですが、本来のSO・WO・ST・WTにWT・TOを加えると、新たな次元になりイノベーションが可能になるでしょう。
 それを気付かせてくれたのは、リスク・マネジメントでした。「リスクをチャンスにすること」とは「TからOへ」に相当します。また、昨日、自動車会社のスズキがVWと提携すると発表したように、
小型車しか造れなかった弱みが今度は強みに転換すること、即ち「WからSへ」に相当することは明らかでしょう。
 「1)学んだこと 2)気づいたこと 3)次にやること」で思考して行動することは●▲■の三拍子に繋がります。それは又「守破離」にもカサネられるでしょう。
 次にやること即ち■は、実践行動レベルの計画を8W1Hの考えにより、具体的な最適解でもって物語を構築してから実践に移すことを意味しています。

65千々松 健:2009/12/10(木) 10:02:10
>64
一行目の「WT・TO」を「T0・WS」へ訂正します。
「リスクをチャンスへ・弱みを強みへ」となります。

66プロジェクトラーニング:2009/12/10(木) 13:00:38
トムとジェリーで、トム(ネコ)がジェリー(ネズミ)を追っかけるのですが、ジェリーは壁の欠けた小さな穴を通るのです。体が大きいトムはそこで何もできずに立ちすくむ。千々松さんのオリジナル用語(SWOT分析でより他のフレームで説明した方が良いでしょう)だとWSです。ウィルコムの逆転戦略など事例は豊富にあります。「スズキが小型車しか造れなかった弱みを持っていた」などの認識は、私の指摘したSWOT整理の軽薄さを示すよい例となりましょう。鈴木修氏の発想をご存じですか。造れないのではなく造らないのです。繰り返します。強みを活かすことが真っ先です。ジェリーの認識に体の小さい「弱み」は存在しません。体の小さい「強み」を知恵を効かし活かしたのです。

67千々松 健:2009/12/22(火) 11:30:16
 インテリジェンスの高い人達が全てであれば、たとえ「禁じ手」も許されるのですが、世の中はよく2:8と言われるように、残念ながら8割程度は
言葉どおりに受けてしまい、予期せぬ反応をしがちな訳です。その点を考慮しないと大事は成就しません。
 実際的に禁じ手は生命にも危ないのでルール違反とされていて、武道家自身は「禁じ手」を打っては失格してしまいます。
必要ならば「禁じ手」や「封じ手」は影の参謀がやるものでしょう。
その意味で、鳩山首相と小沢幹事長の関係も捉えてみたら良いのではないでしょうか。
 打ち上げ花火も一度は可能ですが、継続して事業にして行くには、それなりの「人、物、金、情報、市場」の五つの要素が肝要な訳ですから・・・
多少の読み替えは必要になりますが、それは政府である「国家の経営」にも言えることではないでしょうか。
<新政権100日目と冬至を超えて>

68千々松 健:2009/12/23(水) 10:21:57
 本日の朝日新聞に「二人羽織り」で将棋を指している政治風刺漫画が出ていました。
「禁じ手」や「封じ手」は小沢氏が後に居て指していることが見て取れるのですが、まさに鳩山首相との関係を一枚の絵で見事に表現しているので、タイミング的にもびっくりしました。
さて、一昨日は岡本行夫氏が昨日は星浩氏が首相と会っているようですが、対米外交とジャーナリズムの再構築に繋がる切っ掛けとなるのでしょうか? 
今後、注目したいと思います。

69千々松 健:2009/12/23(水) 11:54:50
「カタルトシメス」という松岡正剛氏の表現に出会いました。外国語ではなくて「語ると示す」のことでした。
その意味するところを勝手に解釈すると「語る」とは物語るに通じて、文字のなかった時代から語り継がれた語り言葉になるのでしょう。また「示す」とは何かと考えると、具体的に何かを見せたり、絵に描き示すこと、あるいはノンバーバルで事柄を示すことと考えて良いでしょう。
そうすると、私流には「コトバとカタチ」になります。言葉を左脳で情報処理して、形を右脳で情報処理して、両方の情報処理を繋いでいる間脳(脳梁も含める)が左右を統合しながら処理して、インテリジェンスに定着していくのではないかと想像しています。

70千々松 健:2009/12/23(水) 20:49:57
“多民族の融合によって成る欧米社会にとって、社会的規範の存在は不可欠であり、その成立過程において西洋近代精神も育成されたと言える。実は「数学の論理」こそ、その根底にある。例えば欧米の「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また「必要条件と十分条件」の基本が理解されていなければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」も理解しがたい。
要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい”

以上が『超常識の方法』にて小室直樹氏の言いたかったことの骨子であろう。
そして、付け加えるならば、長く単一民族と信じて疑わないで来た日本人が、この多民族社会の持つ常識に欠けることを自身の「弱み」として認識した上で、何事にも当たる必要があると言いたいのであろう。

71千々松 健:2009/12/23(水) 22:56:17
「キリスト教の精神」と「契約の精神」との関係は多少の説明が必要です。キリスト教の「旧約聖書」はキリスト誕生以前の古い時代での神との契約について書かれたもので、「新約聖書」はキリスト誕生以降の神との契約の書と言えるからです。
決して旧訳・新訳ではなく、「約」は契約の意味なのです。
その契約はまた、人間関係においても、企業関係においても、国際関係においても成立するものです。
その要(かなめ)は何でしょうか? 最近 若き頃の孫正義ソフトバンク社長のDVD講演を聞き、気がつかされた事がありました。
それは何かと言うと、商売は「Win−Winの関係」が重要なことは確かなのですが、最初の切っ掛けはどうであれ、事業がお互い継続化するためには、事前に予知されるリスクの点においても平等に負うべきということです。
例えば、どちらかのみがリスクを持つ、あるいは一方がノン・リスクであるような場合は成功しないという大原則です。
リスクの無い関係はあり得ないのです。リスクをお互いが承知の上で、リスク・マネジメントをして行くことがより自然なのでしょう。
 それにしても沖縄返還に関して、実は「密約」が交わされていたという事実の発覚はショックでした。

72T.N.:2010/02/04(木) 21:56:33
 アップされた新記事”「無血革命」後の日本を展望”拝見しました。鳩山首相の所信表明演説での「無血の平成維新」
という言葉の使い方が批判されています。”維新”はファシストの言葉であり、その意味はクーデターであると。
 ただ、これについては「ジャパン・レボリューション」でも指摘されていますが、”革命”という言葉は”○○革命”
という形で商業的に散々利用され、手垢の付いたものとなってしまった。”回天”は一般には戦時中の兵器を連想させ、
本来の意味と結びつき難い。已む無く消去法で、受け入れられやすい”維新”に落ち着いた、と考えたいところです。
 言葉が水増しされている状況では、本来の意味の解説から始めねばならないのが厄介です。

73千々松 健:2010/02/04(木) 22:11:24
量子力学の父と言われたハイゼンベルグは「部分と全体」の中で、「専門家は、その対象とする部門について非常に多くの知識を持っている人というのではなくて、その専門とする分野において、起こりうる最も重大な間違いを知っており、したがって、いかにしてこれを回避できるかを知っている人である。」と述べて いる。これはまさに「リスク・マネジメントと危機管理」の分野でも大切なことであろう。

昨今のトヨタ自動車のアクセルペダルとブレーキに関する問題は、安全性における危機管理の甘さが露呈してしまったようだ。一方「政治とカネ」の問題は、回避の仕方を十二分に熟知した専門家であるために、一難は去った模様である。

74T.N.:2010/02/18(木) 01:18:20
 中野好夫著「人は獣に及ばず」から
 岩村忍の著書に中国元代の詩人・学者、鄭思肖の「心史」の話が出でいて、その中の一節、当時の元代社会に
おける職業の格付けについて

「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八娼、九儒、十丐」
  (道は道教、丐は乞食・物貰い)

 注目すべきは儒、つまり学者が娼よりも下であること。この基準に従うと、藤原氏が御用学者を批判するのに
使う「インテレクチュアル・プロスティチュート」は褒め言葉になります。

75藤原肇:2010/02/18(木) 22:57:20
音楽の素養が不足しているためだと思うが、気軽なオペレッタのほうが好みに合うせいで、年末にウィーンのブルグ座で「フレーダーマオス」を楽しみ、それで新年を迎えた経験が何度かあった思い出がある。
それでも、旅のつれづれにオペラの興行に遭遇して、かなりの数のオペラを楽しんできたのであり、どんなオペラが印象深かったかと尋ねられれば、「セビリアの理髪師」「マダムバタフライ」「椿姫」「フィガロの結婚」「ラボエーム」と答えそうだ。
ブタペストを訪れたときに幸運なことに、「ラボエーム」を三日連続で興行していたので、三晩立て続けにオペラハウスに通い詰めたように、ロッシーニの素敵なメロディーは魅惑的とはいえ、イタリア歌劇としては「蝶々さん」の方がピンとくるのは、舞台が幕末期の長崎を舞台にしたの話なのと、日米関係をシンボライスしているせいだろう。
また、「セビリアの理髪師」と「フィガロの結婚」は共にボンマルシェの作品で、フィガロはウィーンのオペラ座で観劇したが、スカラ座での床屋劇の方がより印象的だった。「椿姫」はパリの古いオペラ座で見たか、ことによるとシャンベリーの劇場だったかも知れない。
セビリアの床屋はフィガロだから続き物であり、問題は「マダム・バタフライ」と「椿姫」であるが、蝶々さんは芸者というよりも娼婦に近い妾であり、椿姫はサロンを主催する高級娼婦である。十九世紀はまだ女性が解放されていなかったので、高級娼婦や妾が女性の生きる道だったから、悲劇の主人公として登場しても不思議ではない。
だだ、彼女たちは文学や歌劇に主人公として登場するが、江戸っ子から軽蔑されたヨタカは絶対に登場せず、私がかつて「電波芸者」についての議論において、田原総一郎や桜井良子を名指しで「電波ヨタカ」と呼び、御用学者をインテレクチュアル・プロスティチュートと呼んだのは、意味論的に厳密な区別をしたつもりだった。
だから、T,Nさんが娼が儒よりも上だと結論付けるのは問題で、娼には芸を身に着けてなる芸者を含む公と、私益のために芸もない私的な娼の違いがあり、御用学者の多くがカネのために走狗として、権力に節操を売るという解釈をしたいのですが、どんなものでしょうか。

76T.N.:2010/02/19(金) 00:31:02
 藤原様、お手数を掛けることになり、大変申し訳ありません。まず、74の投稿目的なのですが、「情報を
発信することの価値」スレッドで書いている私自身、腹立たしく感じる内容が続いていたこともあり、読まれ
ている方にも気分転換になればと思い、書いてみたものです。中野氏の引いている岩村氏の本によると、鄭思肖
自身が学者であり、蛮族出身の元朝では、あまり学問というものを尊重せず、彼も学をもって官途を志したが
挫折に終った。そこでやっかみ、自嘲ということもあり、娼婦の下、乞食の上に置いたらしい。つまり、特殊な
条件下での八つ当り気味の基準を、私が冗談の種に使ってみたというところです。相済みません。

77千々松 健:2010/02/19(金) 11:06:59
<事業仕訳効果を3倍にする方法>
今回の国の事業仕訳における大義名分はムダを無くすことであった。しかし、ゲーテの「当為」=To Doを引用するまでもなく、ムダだけでは収まらないのです。「やりたいこと、できること、求められていることの三つが重なった部分=大切なこと=大事(ダイジ)と呼ぶ」に絞り込むことこそ大義としなければならないと思う。ムダは「やりたいこと且つできることだが求められていないこと」に過ぎない、その他にもカットされるべき対象にムリとムシがある。ムリは「やりたいこと且つ求められていることだができないこと」であり、ムシは「できること且つ求められていることだがやりたくないこと」である。数学の集合論の発想が必要とされるし、それは選択と集中の理屈であろう。

宮本武蔵が“われ、ことに於いて後悔せず”と言い残したことの意味を吟味するとゲーテとの共通性が見出されるのです。
この観点から事業仕訳を行えば、単純面積計算でムダ:ムダ+ムリ+ムシ=1:3となり、3倍のカット効果となるでしょう。事業のスリム化はこの三つのムを無くすことです。『スリー・ム』は3ムに通じると思います。(語呂遊び?)
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/sigoto.htm

78T.N.:2010/02/20(土) 00:43:51
>76 結果的に藤原氏を煩わせることになってしまったのですが、直接に意味論の話を伺えたのは怪我の功名
かとも思えるので、少しだけ続きを。先に引いた本によると、同様の自嘲を晴らした元朝の読書人はほかにも幾
人かいるそうで、順位が多少変わるものの、一官、二吏と、九儒、十丐はつねに不動だとのこと。問題は上位を
譲らぬ官、吏と儒との途方も無い格差。昨日までの貧乏学者が権力の走狗となるや、たちまち富と名声を得る。
この格差ゆえにそうしたことが、昔から続いてきたのでしょう。千々松氏が「日本の回天」スレッド49で引い
た「ルーミー語録」もそれを前提としたものと思います。窮乏の内に死んだとされる孔子の一番弟子顔回の真似
が、誰にでもできるものではない。利用される者の心の貧しさを攻めるだけで、解決することなのか。あるい
は、シャミッソーの「影を売った男」でも思い浮かべるべきなのか。

 新約聖書の”人はパンのみにて生くる者に非ず”、論語で孔子が政を問われて信・食・兵を挙げ、やむを得ぬ
場合はまず兵を去り次に食を去れと説く。いずれも食(経済)よりも大切なものがあるということで、藤原氏の
「理は利よりも強し」に通じるかと思います。ただ私などは、食(経済)を2番目辺りに置いているところに、
しっかりしているというか、したたかな一面を感じます。

79T.N.:2010/03/10(水) 23:05:54
 NHKのTV「クローズアップ現代」で無料ビジネスを取り上げていました。チョコレートを商品に使った実験で、
価格を下げていくのですが、価格が無料になると消費者の行動が予想のつかないものになる。無料というのは有料
の商品と全く違う意味を持ってくる。数学でゼロと無限の取り扱いが厄介なように、人類にとって無と無限は、
まだまだ謎が多い対象のようです(逆に言えば、活用の余地が多く残っている)。

80T.N.:2010/03/13(土) 00:05:10
>「日本の回天」スレッド54 藤原氏が平野氏に託した「ジャパン・レボリューション」の意味をどう解釈するか。
例えば藤原氏が代価を受け取れば、本は商品ですが、無償としたことにより商品とは別の意味を持つものとなった。
藤原氏の言葉を借りれば”平成無血民主革命の行く手を照らす松明”となる。これに近いのは、教会で無償配布され
る聖書でしょうか。

 現在の経済学では無償の価値は測れない(無償のボランティアとか)。料金が無になると、意味の転換が起こり、
有料の商品とは違うものになってしまう。そこで経済より上位の価値を持つものとなったと考えるべきか、経済学
が無の概念を取り込めば説明できるようになるのか。
 ともかく経済学に限らず、無と無限の概念を取り込めれば、大きく視界が広がるような気がします。

81千々松 健:2010/03/13(土) 15:26:31
無は無限を産み、有は有限に終わる。そして更に、非無・非有であれば空が生まれ、そこには永遠の循環が見られるであろう。
その意味で清水博先生が述べている「生命の贈与循環」は正に無償の価値贈与を意味していると思う。
ギブ&テイクは交換価値から貨幣制度を産むが、無償のギブ&ギブは何ら貨幣を必要としない。それは同じく貨幣を必要としなかった物々交換の世界とも意味は違ってくる。
あくまでも「交換」は価値の双方向への移動であるが、「贈与」は一方向の移転となるからだ。
親から子へ、子から孫へ、それは遺伝子のごとく引き継がれていき、その母親の愛が無償であるように、その過程では何らの対価も求められない。
貨幣(マネー)も言葉もコンピュータも人間を幸福にするための道具でしかない。それらの便利性は認めるとしても、その便利な道具たちが主人となって人間を奴隷化してしまっては本末転倒である。どんなことが起きても人間が主人公でなくてはならないと思う。

82T.N.:2010/03/14(日) 21:09:41
>「英語版Japan's Zombie Politicsの出版について」84以降で取り上げられているキンドルを、無料ビジネス
の一例とすると、見事に無と無限の組合せです(実際には擬似的な無と無限ですが)。

・通信料無料で利用者を無限に増やす。
・再ダウンロード無料で、端末1つで無限の本が読める。
・ダウンロードに時間・場所の制約無し、これにより無限の時間・空間内での利用可。

 無と無限を捉えれば、21世紀のビジネスの方向性が掴めるかもしれません。

83千々松 健:2010/03/16(火) 17:01:48
「間脳幻想」を1年ぶりに図書館より借りて観ました。
絵図・イラスト・写真といったビジュアルは全て見開きの左ページに配置されていることが確認できました。
左側にカタチ、右側にコトバというスタイルが徹底していましたから、やはり左脳と右脳の情報処理機能でノーベル生理学・医学賞を取ったスペリーの理論に沿っていると感心しました。
 実は脳活性型ノートである「鎌倉ノート」においても、その考え方に沿った手書き式ノートになっています。
鎌倉と言えば樹齢1000年と言われた鎌倉八幡宮の大銀杏が3月10日に強風のため根元から倒れてしまいました。公暁が実朝暗殺時に隠れた銀杏として歴史に残った木であったのに残念です。
また、若木の生命体から育つことを祈願しましょう。

「間脳幻想」P312からの引用です。
藤原「新しい形態をもって生命体が発展していくメカニズムは、促進物質と抑制物質の攻防戦にあり、それがより高い次元において統一された表現形式がフィボナッチ数列だ、と確信します。」

「生命の贈与循環」により、親樹から子木へ更には孫の木へと遺伝子的に伝わっていくと考えると、フィボナッチ数列が関与するに違いないと思います。
そして、9を法とするモジュラー形式によりフィボナッチ数列を見直せば24項目毎の循環性とFLKM系列の4系列が「賢者の石=霊薬」となって現れたということになるのです。

84千々松 健:2010/03/17(水) 00:07:57
「間脳幻想」からの引用つづき
P130
藤井「量子物理学が素粒子理論を通じて、ハイゼンベルグの世界にたどりつき、易経における太極を物質の究極のモデルとして考える科学者たちが続々と現れています。そのアナロジーを使うならば、おそらく生命現象におけるさまざまなものが、そこにたどりつくだろうし、脳の機能における最後に残っているフロンティアとしての意識の問題も、最終的には陰と陽が統一された太極のモデルの中で、われわれにひとつの解答をもたらすでしょう。」
(原文の大極は太極に変更してあります。太陰大極図の表現もあるようですが、グーグル的には太極の方が圧倒的でした)
クオリア研究者である茂木健一郎が読んでいれば、何とコメントするでしょうか?
P233
藤原「記号論ばかりがもてはやされる日本では、意味論は苦労が多いから、誰もやらない。日本人で意味論に正面から取り組んだのは、弘法大師一人しか居なかった、と言えます。」

フィボナッチ数列から産まれた「21世紀マンダラ」としての「神聖方陣」と「ラセンモデル」は、まさに陰陽の太極を表現しています。そしてカタチとコトバ(数)で或る何かを意味しているのではないでしょうか。

85T.N.:2010/03/18(木) 00:57:04
>82 ネットで調べてみた限りでは、0×∞ というのは定義できない、従って値としても示せないということ
のようです。無料ビジネスというのは、こうしたことを考慮して行っているのかどうか。
 ただ経済的な利が仮に無だとしても、それ以外の面が無という訳ではない。キンドルを例に考えれば、膨大な数
の人々に極めて効率的な読書の機会を提供するわけで、その結果はそうでない場合と比べて、たいへんな違いがあ
る。あまりにも利にだけ着目すると、それ以外の面(特に簡単に測れない要素)を見逃し、誤った評価をすること
になりかねない。歴史上、経済的にも軍事的にも無に等しいような聖人が、後世の歴史を変える程の影響力を持ち
えたのは、測れない面が巨大だったからではないかという気がします。

86藤原肇:2010/03/19(金) 09:54:24
『間脳幻想』は終に出版社において在庫がなくなり、再販予定がないので入手が困難になると思います。その理由は図版が多かったために製作コストが嵩み、一冊作るのに5000円以上も費用がかかったが、内容がそれに値すると落合莞爾さんが考えたので、初版を買った人にプレゼントする意味で本を出し、飼った人に喜んでもらうという配慮があったのです。
だから、ぼろぼろになるまで三冊買い換えたという飯山さんなどは、その恩恵を最大限に満たした読者だと言えるし、多くの人が同じ満足感を味わったと聞いています。熱心に書き込みを続けている千々松さんが、図書館から借りて読んでいたと知り驚きましたが、藤井先生の薫陶を存分に味わうという意味では、本を手に入れて書き込みしながら読めば、より多くの収穫が期待できると思います。
品切れになった今となって唯一の方策は、「宇宙巡礼」の書店を訪れることであり、そこには未来の読者のために何十冊かが確保され、入手可能になっているはずですが、同じことは『ジャパン・レボリューション』にも言えもことでして、後数週間で平野さんとの対談が出れば、たちまち読者が殺到して売り切れてしまうかも知れません。
鳩山や小沢はこの本を平野さんから受け取ったでしょうが、彼らがこの本を呼んで理解するだけの人物なら、日本の政治はもつとまともな形で動いているはずであり、それを正慶さんは草葉の陰で嘆いているのではないかと思います。

87千々松 健:2010/03/20(土) 08:17:48
「間脳幻想」は読めば読むほどに味が出て来て、まるで噛めば噛むほどに滋養となる高級梅干しのようです。
読む人の問題意識に比例して、威力を発揮する不思議な力があるのですね。是非とも手元に置いて書き込みしながら、また時間を置いて何度も読み返しながら愛読して行きたいと思います。

さて「想念力の驚異」(東明社1996年)P30から
塩谷信男「メタでもパラでもないより大きなもので、宇宙の無限力と共に生きること」にヒントを貰いました。
もしや「パラメタ」は般若波羅蜜多のパラミータに通じているのではないでしょうか?
パラ般若でメタ般若が「Infinite Cosmic Power」の意味になるのではないかと思います。
そして、道具も道場も必要としない「正心調息法」はまさに無料で無限を産むという例になると考えました。

88千々松 健:2010/03/20(土) 21:38:40
有機化学におけるベンゼン環の結合には「オルト結合、パラ結合、メタ結合」の3種類が存在し、6角形の核で、隣同志に位置する場合はオルト結合(位)、一つ越えた場合はメタ結合、二つ越えた場合(反対側)はパラ結合と名付けられているそうである。
ギリシャ語が語源であるとされるが、パラについては「パラギャーテー」のパラ(彼岸)に似ているので梵語にも共通するであろう。
パラは両側の、〜の向こうに、〜に似た、という意味もあるし、折り紙のイメージかもしれない。中央の折れ線(川)でもって折ると両側(岸)になるカタチであるので、こちらの岸から、あちらの岸へ渡るイメージになり、
それは陰の世界と陽の世界の違いとの相似象でもあろうか。
お彼岸の季節にあたり、十勝産の小豆のつぶあんで出来たおはぎを食べながら、そう考えた。


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