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意味論
53
:
千々松 健
:2009/10/22(木) 10:10:36
>52につづく
ごく簡単に言えば、富永仲基は現存する仏教経典類は「加上」の法則で解釈すべきであるという方法論を述べているのだと思います。
お釈迦様の言ったと伝えられる表現でいえば、今の時代は「末法の時代」に該当しる訳で、加上に加上が重ねられて、当初の意味が深耕されたり、拡大解釈されたり、場合によっては曲解されたりしたと考えねばならないことになります。
いずれにしても、彼は「法」が正しく伝えられないことを見通していたわけです。
「既知のもので未知のものを見たり、未知のものを既知のもので見たりする方法」により、仏教の全体像を見直してこそ仏教におけるルネッサンスが可能となると思います。
その最初の一歩は「般若心経」の翻訳上の見直しにあると考えています。
般若心経の位置づけが旧仏教(小乗)に対して新仏教(大乗)を唱える派によるキャッチコピーであるとすれば尚のこそ、有でもなく、無でもない、空の概念を提示することが重要であるので、
流布されている玄奘訳には古い鳩摩羅什訳の「非過去、非未来、非現在」を復活させ、「無無明」は「非無明」に置き換えて、サンスクリット語の「na」という否定形を前後の関係から「不・無・非」の三つに区別して訳すことが肝要でしょう。
そうしてこそ、有か、無かの二元論の小乗に対して、両方を非ずとした「空の論理」が引き立つのです。
例えば「無苦集滅道」は苦集滅道が無くてよいのではなくて、一旦はとことん「苦集滅道」で問題解決を図ることが必要であるが、その後は「苦集滅道」を離れて、とらわれない見方をする十分さが大切であると解釈すべきでしょう。従って「必要十分条件」「順序と逆序」に当たり「非苦集滅道」に訳した方が適するわけです。
詳細は下記の新改訳「般若心経」案をご覧願います。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/muniarazu.html
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