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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

302鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/02(土) 22:29:36 ID:1d4drIFg0
行うことは自我を強めることになるじゃろう。
行わないことで自我も弱くなるのじゃ。
行いが無く、行う自分がなければ自我も無いのじゃ。
そのための工夫が法なのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2019/11/02(土) 23:51:45 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話174

1936年3月2日

アメリカ人紳士、ハンド博士が尋ねた。

「自我の源を見いだす方法は二つあるのでしょうか?」

マハルシ
 二つの源があるわけではなく、二つの方法があるわけでもありません。
 源も方法もただ一つです。

質問者
 瞑想と真我探究の違いは何でしょうか?

マハルシ
 瞑想は自我を保たなければできません。
 そこには自我と瞑想の対象があります。
 この方法は間接的なものです。
 一方、真我はただ一つです。
 自我を見いだすこと、すなわちその源を探究することで、自我は消え去ります。
 その後に残ったもの、それが真我です。
 この方法は直接的なものです。

質問者
 では私はどうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 真我をとらえなさい。

質問者
 どのようにするのですか?

マハルシ
 今でさえ、あなたは真我なのです。
 しかしあなたはこの自我意識と絶対意識を混同しています。
 この偽りの自己同一化は無知によるものであり、自我が消えるとともに無知も消え去ります。
 それゆえ、自我を殺すことだけが唯一為すべきことです。
 実現はすでにそこに在ります。
 実現を達成しようと試みる必要はありません。
 なぜなら、それは外側に在るのではなく、新しい何かでもないからです。
 それは常に遍く存在し、しかも今ここに在るのです。

304鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/04(月) 22:05:20 ID:1d4drIFg0
本来自己を探求することだけが、真の修行なのじゃ。
その一つだけが真の修行なのじゃ。
しかし、直接それをすることが難しい者のために瞑想や其の他の修行もあるのじゃ。
ただ今ここにあり続けることが出来るならば、アートマンも実現できるのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2019/11/04(月) 23:58:35 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話175

1936年3月3日

N・スッバ・ラーオ氏が尋ねた。

「ヴィシシュタアドヴァイタ哲学(限定不二一元論)の信奉者は、真我実現(アートマ・サークシャートカーラ)が神の実現(パラマートマ・サークシャートカーラ)の前段階であると主張しています。
 これはかなり困難な問題だと思われます」

マハルシ
 真段実現とは何でしょうか?
 一方がもう一方を実現するというような二つの真我が存在するのでしょうか?
 そこに二つの真我が在るわけではありません。
 まず真我実現を達成しなさい。
 それから何が起こるかを判断すればよいのです。

質問者
 『バガヴァッド・ギーター』は、「神の身体はすべての魂を統合してできたものである」と述べています。

マハルシ
 誰もが自我を消滅させることに同意しています。
 ならば、同意された問題をまず解決しなさい。
 個々の個人性(ナーナー・ジーヴァトヴァ)についてはアドヴァイタの一派も言及していますが、これらはみな霊的向上とは何の関わりもないことです。
 まず真我を実現しなさい。
 それから、その先に何があるかを見ればよいのです。


*神の身体はすべての魂を統合してできたものである:『バガヴァッド・ギーター』11-15

アルジャナは言った。
わが主、クリシュナよ。
あなたの身体の内に、あらゆる神々やさまざまな生けるものたちが見えます。
蓮華の上に座すブラフマー神やシヴァ神、あらゆる聖賢や蛇たちの姿も。

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/05(火) 23:05:58 ID:1d4drIFg0
自分自身が悟りを得ていないのならば、神がどのような姿形をしていようが何の意味も無いのじゃ。
何一つ知らずに死んでいくならば、神がいてもいなくても苦から苦へと生死を重ねるだけであるからのう。
先ず自分がアートマンを実現することだけが肝心なのじゃ。
そのための実践に全力を注ぐがよいのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2019/11/06(水) 00:25:26 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話176

1936年3月7日

ハンド博士は明日アーシュラマムを去る。
ヒマラヤ(ハリドワール)を訪れ、ここに戻り、それからボンベイへ行き、エジプト、パレスチナ、ヨーロッパを周ってアメリカに帰国する予定だと言う。

彼は丘の頂上に行きたいと思い、シュリー・バガヴァーンに同行することを求めた。
好きな高さまで同行してもらい、そこから頂上までは自分で登り、帰り際に丘の上の約束した場所で落ち合って欲しいという提案だった。
シュリー・バガヴァーンは微笑んで、ベアズリー博士の体験について聞いたことがあるかどうかと尋ねた。

ハンド博士
 彼は私の友人です。
 彼は私にすべてを語ってくれました。
 素晴らしい話でした!
 マハルシ、私はあなたよりも年上です。
 それでもどうか私を年寄りだと見放さないでください。
 私は少年のように丘を登ることができます。
 あなたが最後に丘の頂上に登られたのはいつのことでしょうか?

マハルシ
 およそ十一年前です。
 ベアズリー博士は何と言っていましたか?

質問者
 それは固い秘密です。
 あなたが私と二人きりになってくださるなら、すべてをお話します。


マハルシはただ微笑むばかりだった。

質問者
 マハルシ!
 あなたは目に見えない聖者(リシ)との交感を意識しておられますか?

マハルシ
 もし目に見えないなら、どうやって彼らを見るのですか?

質問者
 意識の中でです。

マハルシ
 意識の中に他者は存在しないのです。

質問者
 個人性もないのでしょうか?
 私は個としての存在を失うことを恐れています。
 人間としての意識は、意識の中には存在しないのでしょうか?

マハルシ
 なぜ個人性を失うことを恐れているのですか?
 夢のない眠りの状態はどのようなものだったでしょうか?
 そのとき、あなたは個としての存在を意識していましたか?

質問者
 それは可能です。

マハルシ
 しかしあなたの体験はどうでしょうか?
 もし個人性があるなら、それが深い眠りと言えるでしょうか?

質問者
 それは解釈しだいです。
 マハルシならどう言われますか?

マハルシ
 マハルシがあなたの体験について語ることはできません。
 彼はあなたに何も押しつけないからです。

質問者
 わかっています。
 だからこそ私はこれほど彼と彼の教えを愛しているのです。

マハルシ
 実際、あなたは深い眠りの中で個人性を失うことを願って、ベッドに入るのではありませんか?
 なぜそれを恐れるのですか?

質問者
 仏陀のニルヴァーナとはいったい何なのでしょうか?

マハルシ
 個人性を失うことです。
 
質問者
 私は失うことを恐れています。
 ニルヴァーナの中に人間としての意識は存在しえないのでしょうか?

マハルシ
 二人の自己が存在すると言うのですか?
 現在の眠りの体験について考えてみなさい。
 それから答えなさい。

質問者
 私はニルヴァーナにおいても個人としての意識を維持することは可能だと思っています。
 私は個人性を失うことを恐れているのです。


その後、質問者は丘に登り、それから丘の周辺を歩き、正午から午後八時までに二十キロほどを歩いて回った。
彼は疲れて帰ってきたが、農業、社会状況、カースト制度、インド人の精神的資質などについて非常に明晰な講話を行った。

308鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/06(水) 21:43:17 ID:1d4drIFg0
個人はなく、個人としての意識もないのじゃ。
それらはあると思われている幻想なのじゃ。
無いものに名前とイメージをつけてあると認識しているだけなのじゃ。
幻想が無ければ真の意識が在るのじゃ。

309避難民のマジレスさん:2019/11/06(水) 23:41:36 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話177

1936年3月10日

質問者
 マハトとは何でしょうか?

マハルシ
 それは絶対意識から放射された光です。
 種子が発芽する前に膨張し、それから芽を出して生長するように、絶対意識は光を放射し、自我として顕現し、それから身体と宇宙として拡張していきます。

   絶対意識
   チット
    ↓
  放射された意識
   マハト
  (膨張した種子)
    ↓
   自我
  アハンカーラ
    ↓
    心
   マナス
   ↓  ↓
  身体  世界
アハム「私」イダム「これ」


チャドウィック少佐
 マハトは宇宙意識と同じものなのでしょうか?

マハルシ
 そうです。
 それは自我と宇宙が誕生する以前のものです。
 それはそれらすべてを含んでいます。
 スクリーンに投影されたあらゆる画像が目に見えるのは、光源から放射された光によってです。
 同様に、身体やその他のあらゆる物体が目に見えるようになるのは、(絶対意識から)放射された意識の光によってです。
 それゆえ、マハトも宇宙意識と同じものなのです。

 (小宇宙においては)身体やその他のあらゆる事物は、すべて脳の中に含まれています。
 脳に(意識の)光が投射されると、脳の中の印象は身体や世界として現れるようになります。
 自我は自身を限定されたものと同一視するため、身体も世界も分離したものと見なしてしまうのです。

 鍵をかけた部屋の中でベッドに横たわり、ロンドンにいる夢を見たとします。
 夢の中では大勢の人がいて、あなたもその中の一人です。
 その夢の中では、ある特定の身体があなた自身として同一視されます。
 ロンドンやその他の物事が、あなたの部屋やあなたの頭の中に入ってくることはできないはずです。
 それでも、そのような広大な空間や長い時間の経過が、あなたにとって知覚可能だったのです。
 だとすれば、それらは脳から投影されたに違いありません。
 世界は広大で脳はとても小さいのに、そのような巨大な創造が脳ほどの小さな領域におさまるとは驚くべきことではありませんか?

 スクリーンのサイズには限界がありますが、それでもあらゆる画像がその上を通り過ぎ、それを目で見ることが可能になります。
 そのような小さなスクリーンの上に長い出来事の連鎖が現れるということに、あなたは驚きもしません。
 物事の現れと脳の関係もそれと同じことなのです。

質問者
 それでは、宇宙意識は実現と同じではないのですか?

マハルシ
 宇宙意識は自我の背後に存在しています。
 それをイーシュヴァラ神と呼び、自我をジーヴァと呼ぶとしましょう。
 イーシュヴァラを「絶対なるもの」と呼んでもいいでしょう。
 そこに違いはありません。

 イーシュヴァラにさえ浸透する意識が「絶対なるもの」なのです。

   パラー
  絶対なるもの
    ↓
 イーシュヴァラ
 宇宙意識(マハト)
  ↓    ↓
 ジーヴァ─ジャガト
 個人意識 世界

310鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/07(木) 23:10:23 ID:1d4drIFg0
全ては本来意識なのじゃ。
個我があると思っている者のために中間的な存在であるマハトも説かれるのじゃ。
意識が大樹であり、固体が木の葉であるならば、マハトは枝に喩えられるのじゃ。
個体のためにそれは在ると言えるが、葉がなくなればそれもなくなるのじゃ。

311避難民のマジレスさん:2019/11/07(木) 23:17:21 ID:bwSJSFmU0
>>310
いつも超わかりやすい解説ありがとうであります。
なんとか早期のパパジ購読会再開をしたいであります。
できるまでの間、oshoの存在の詩を読んでるであります。
(´・(ェ)・`)つ

312避難民のマジレスさん:2019/11/07(木) 23:55:41 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話178

質問者
 『真我探究』(ヴィチャーラ・サングラハム)の中に述べられている炎とは何なのでしょうか?
 それは真我の炎(アートマ・ジョーティ)と言われ、その背後にある実在を探究するようにと指導されています。

マハルシ
 『ヴェーダ』もその炎について述べています。

  夕スヤーハ・シカーヤー・マディエー・パラマートマー・ヴィヤヴァスティータハ。
  絶対なるものはその炎の中心に宿る。

 その炎は「自我─意識」と同一視されているものです。


*『真我探究』の中に述べられている炎:『真我探究』質問29

弟子
「私は彼である」という観念を通して、炎のごとく輝く実在と自己が同一であるという真理に瞑想するその目的は何でしょうか?

マハルシ
(A)実在と自己が同一であるという観念を培う理由は、
 「すべての本質であり、カイラーサ、ヴァイクンタ、パラマパダなどと呼ばれる8枚の花弁を持つハートの蓮華の中央には、親指ほどの大きさで、稲光のように目をくらませ、炎のように輝く実在がある。これに瞑想する者は不死となる」という聖典の言葉による。
 この瞑想をすることによって、
 (1)「私は異なる」や「それは異なる」という分別心、
 (2)限定されたものへの瞑想、
 (3)実在は限定されているという観念、
 (4)実在は1つの場所に限定されているという観念、
 などに陥ることを免れるのである。

(B)「私は彼である」(サハ・アハム=ソーハム)に瞑想する目的をここに説明しよう。
 サハは至高の真我を、アハムは「私」として現れた真我を意味する。
 シヴァ・リンガであるジーヴァは、ブラフマンの都市である身体の中のハートの蓮華の座に宿る。
 自我の本質である心は、それ自身を身体と同一視し、外側へとさ迷い出す。
 それゆえ、身体の中に位置づけられた「私」を取り除き、心をハートの中に連れ戻さなければならない。
 静かな心で「私は誰か」と探求してゆくと、真我の本性は「私─私」という霊妙な姿で現れ出す。
 真我の本性はすべてであり、無である。
 それは内外という区別なく、いたるところに現れる。
 真我は「私はブラフマンである」という真理を表しながら、炎のように輝いている。
 もしも自己であるブラフマンに瞑想することなく、自己とブラフマンが異なるものと想像していたなら、無知が消え去ることはないだろう。
 それゆえ、自己同一視の瞑想が指導されるのである。

*タスヤーハ・シカーヤー・マディエー…:『マハーナーラーヤナ・ウパニシャド』259(黒ヤジュル・ヴェーダ)

パラマートマーは『ヴェーダ』を攪拌することで生み出される知識の炎の中心に宿る。

313鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/08(金) 22:09:28 ID:1d4drIFg0
>>311 ご苦労さんなのじゃ。
 急がなくて善いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

胸の炎を観る法は胸のチャクラに集中する行なのじゃ。
実際に炎があるわけではないのじゃ。
それも内光なのじゃ。
眉間でも丹田でも集中していれば見えてくるものじゃ。
それを観ることとによってサマーディに入れる集中力とエネルギーが養われるのじゃ。

314避難民のマジレスさん:2019/11/08(金) 23:39:21 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話179

1936年3月11日

フリードマン氏は聖者スワミ・ラームダースを訪れ、ある質問をした。

ラームダースは
「あなたにとってもはや再誕生はなくなるでしょう」と答えた。

フリードマンは言った。
「これで再誕生することへの不安はなくなりました。
 (たとえ再誕生したとしても)そこには同じラーマ神と同じラームダースがいて、同じラーマ神への探究があり、同じ実現の至福があることでしょう。
 このラーマ・リーラ(神の戯れ)を繰り返すことに、いったい何の問題があると言うのでしょう?」。

フリードマンの問いに対して、ラームダースは何の異論もないことを認めた。
「それは喜びと戯れになるのです」と。

フリードマンはさらに、
「ラーマ神はラームダースの中に融け入り、合一の至福の内に在る」とラームダースが言ったと伝えた。

「彼らは同じままです。
 そこにはやはりラームダースがいて、ラーマ神がいました。
 融合が起こり、至福があったのです。
 それは永遠なのです」と。

そう伝えるとフリードマンはシュリー・バガヴァーンに意見を求めた。

マハルシ
 それはすべて、今ここで起こっていることと同じだけ真実なのです。


*フリードマン氏はスワミ・ラームダースに…

マハルシの西洋人帰依者であるモーリス・フリードマンは、ラーマ神への帰依を通して真我を実現したケーララ州の高名な聖者スワミ・ラームダースのアーシュラムを訪れた。
ラームダースはフリードマンが現世で真我実現することを予言し、彼が再誕生することはもはやないと語った。
その予言どおり、フリードマンは1960年代後半にボンベイでニサルガダッタ・マハラジに出会い、彼の臨在のもとで真我を実現した。
その後、彼はマハラジの『アイ・アム・ザット 私は在る』(ナチュラルスピリット刊)を翻訳する。

315鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/09(土) 22:45:06 ID:1d4drIFg0
西洋人でもアートマンを真摯に追及していれば、悟りを得られるという真実がわかるのじゃ。
人種も国籍も何の関係もないのじゃ。
すべての人間が悟りを得られるのじゃ。
どれほど真摯に悟りを求めているかが一番大事なのじゃ。
真摯に悟りを求める心構えがあれば、グルにもそれがわかるのじゃ。

316避難民のマジレスさん:2019/11/09(土) 23:53:30 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話180

再びフリードマン氏が語った。
「眠りは無意識の状態ですが、目覚めの状態には心の活動があります。
 心は眠りの中で潜在的な状態として存在していたのです」

マハルシ
 あなたは眠りの中にいなかったのですか?

質問者
 いいえ、私はそこにいました。
 しかし無意識の状態だったのです。
 そこには「私は眠りと目覚めの両方の状態に存在している」と言う心と無意識の状態の両方を観照している人がいるはずです。

マハルシ
 誰がその観照者なのでしょうか?
 あなたは「観照者」について語ります。
 そこには観照する主体と観照される対象があるはずです。
 これらは心の創造物です。
 観照者という観念は、心の中にあるのです。
 もしそこに無意識状態を観照する人がいたなら、彼は「私は無意識を観照した」と言ったでしょうか?
 あなたは今、心を用いて、「そこには観照者がいるはずだ」と言いました。
 誰がその観照者だったのでしょうか?
 あなたは「私」と答えるはずです。
 その「私」とはいったい誰でしょうか?
 あなたは自分自身を自我と同一視して「私」と言います。
 この「私」という自我が観照者なのでしょうか?

 そう語るのは心なのです。
 心がそれ自身の観照者になることはできません。
 自らに限定を押し付けておいてから、あなたはそこに心や無意識を観照する人がいると考えるのです。
 あなたは「私は観照者だ」とも言います。
 無意識を観照する人が「私は無意識を観照する」と言うべきであって、現在の心が不当にそう主張することはできないはずです。

 こうしてみると、その説全体が支持できないものとなります。
 意識は無限です。
 限定された存在となったうえで、心は我がもの顔で自分自身が観照者の地位にあると不当に主張するのです。
 本当はそこに観照すべきものなど何もありません。
 「それ」は在るのです。
 シンプルな「存在」として。

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/10(日) 22:28:26 ID:1d4drIFg0
眠りの中ではもはや主体と対象はないじゃろう。
それを認識できるからには主体と対照がある筈だというのが自我なのじゃ。
何も無いところに主体を投射しているのじゃ。
それも観念に過ぎないものじゃ。
実在を観ていないのじゃ。

318避難民のマジレスさん:2019/11/11(月) 00:29:32 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話181

質問者
 ヤド・ガトヴァー・ナ・ニヴァルタンテー・タド・ダーマ・パラマン・ママ。
 「それ」に達すれば、再び回帰することはない。それが私の至高の住処である。

 その「ダーマ」(住処)とは何を意味するのでしょうか?
 それは宇宙意識を超えた絶対なる境地のことではありませんか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 「ナ・ニヴァルタンテー」(再び戻ることはない)は「無知に再び覆われないこと」を意味するのではありませんか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 それから推測すると、宇宙意識に到達した人たちは、まだ無知の魔の手から逃れていないということでしょうか?

マハルシ
 それが「いかなる天上界(ローカ)も、たとえブラフマー神の司る天上界に達したとしても、人を転生から解放することはない」という言葉の意味することなのです。
 『バガヴァッド・ギーター』には、「私に到達すれば転生はない…それ以外の者たちはすべて束縛の中にいる」と述べられています。

 さらに、「往くこと」(ガトヴァー)という言葉が示すように、「動き」(ガティー)があるとあなたが考えているかぎり、そこには「帰ること」(プナラーヴリッティ)もあるのです。
 ガティーはあなたの誕生(プールヴァガマナム)を暗示しています。
 誕生とは何でしょうか?
 それは自我の誕生です。

 ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達します。
 そしてそれを達成したら、再び戻って来るのです。
 それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめなさい。
 あるがままに在りなさい。
 あなたが誰なのかを知りなさい。
 生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。
 そして真我として在りなさい。

質問者
 おっしゃるとおりです。
 しかし何度この真理を聞いても、いまだに私たちは惑わされ、そのことを忘れてしまうのです。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 それを想い起こさせてくれる何かがしばしば必要なのです。


*ヤド・ガトヴァー・ナ・ニヴァルタンテー…:『バガヴァッド・ギーター』15-6

「それ」に達すれば、再び回帰することはない。
太陽も、月も、火も「それ」を輝かすことはできない。
それが私の至高の住処(すみか)である 。

*私に到達すれば転生はない:『バガヴァッド・ギーター』8-16

ブラフマー神の世界をも含めたすべての世界が、輪廻転生の法則に支配されている。
おおアルジュナ!
だが私に達した者が再誕生することはない。

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/11(月) 22:15:33 ID:1d4drIFg0
大悟徹底すればもはや転生も無いのじゃ。
サマーディとか、無我になっただけでは転生もあるのじゃ。
サマーディでも神に等しい知見はもてるがのう。
それによっても転生は終わらないのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2019/11/11(月) 23:29:03 ID:5s4WbEXg0
>>319
悟りを追求することは、無我を追求することはてあり、無我であれは無分別であり、不二一元であり、死を恐れないきょうちを求めることでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

321避難民のマジレスさん:2019/11/11(月) 23:43:30 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話182

その日、一枚の興味深い写真がなくなった。
シュリー・バガヴァーンはそのことに関心を寄せているかのように見えた。

フリードマン氏が
「シュリー・バガヴァーンはこのことをどう見ているのですか?」と尋ねた。

マハルシ
 あなたが私をポーランドに連れて行くという夢を見たとしましょう。
 あなたは目覚めて私に尋ねます。
 「私はこれこれしかじかの夢を見たのですが、あなたもそのような夢を見ましたか、
  あるいはそのことについて知っていますか?
  あるいは、それについてのあなたの見解はどのようなものですか?」と。

質問者
 それでは、あなたは目の前で起こっていることに気づいていないのですか?

マハルシ
 それらはすべて心の仕業なのです。
 その質問もまたそうです。


それから、シュリー・バガヴァーンは、シュリー・ラーマがシーターを捜す物語を語った。

マハルシ
 女神パールヴァティーはシヴァ神に尋ねました。
 「なぜ全知全能のラーマがシーターを失ったことで嘆いているのですか?」と。

 シヴァは言いました。
 「ラーマは今でも完全なのだ。
  もし完全性がテストされ、明らかにされるべきだと言うなら、
  パールヴァティーがシーターの姿をしてラーマの目の前に現れてみるがいい。
  そして何が起こるか見てみなさい」。

 彼女は言われるとおりにしました。
 
 ところが、ラーマは変身したパールヴァティーの姿を無視しながら、
 まだ「ああ、シーターよ!おお、シーターよ!」と涙して叫び、盲目の人のようによろめくばかりで、
 パールヴァティーにまったく注意を払わなかったのです。

322鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/12(火) 22:50:59 ID:1d4drIFg0
この世で起こることは全て夢の中の夢に過ぎないのじゃ。
それに囚われれば苦になるだけなのじゃ。
すべては心が作り出し、それに心が迷い、苦にしているだけなのじゃ。
その仕組みが明らかになれば苦もまた無いものと知れるのじゃ。

323避難民のマジレスさん:2019/11/12(火) 23:35:21 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話183

1936年3月13日

ボンベイから来た紳士が言った。

「私はシュリー・オーロビンド・アーシュラムでマザーに次のような質問をしました。

 『私は神が本当の姿で現れることを祈って、想念を起こすことなく心を空白状態に保つ修練をしましたが、何も見ることができません』。

 すると、彼女の答えはこのようなものでした。

 『その態度は正しいものです。
  力は天から降りて来るでしょう。
  それは直接体験なのです』。

 私はこれ以上何かするべきでしょうか?」

マハルシ
 あるがままのあなたで在りなさい。
 天から降りて来るようなものなど何もなく、現れもしません。

 必要なのは自我を失うことだけです。
 存在する「それ」は、常にそこに在ります。
 今このときでさえ、あなたは「それ」なのです。 
 あなたは「それ」から離れてはいません。
 空白状態はあなたによって見られています。
 空白を見ているあなたはそこに存在しているのです。

 何を待つと言うのでしょうか?
 「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとする欲望はすべて自我の働きです。
 あなたは自我の罠に陥っています。
 これらのことは「あなた」ではなく、すべて自我が語っているのです。

 あなた自身で在りなさい。
 それ以上何も必要ありません。

324鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/13(水) 00:13:54 ID:1d4drIFg0
>>320 そのような理解でも善いのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

325鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/13(水) 23:36:36 ID:1d4drIFg0
神が天から降りてくるなどということはありえないのじゃ。
それは存在しないからのう。
自我が無ければ常に全ては在るじゃろう。
そうすれば神さえも観念でしかなかったと気付くのじゃ。

326避難民のマジレスさん:2019/11/13(水) 23:51:34 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話184

マハルシ
 身体の底辺にはムーラーダーラ、中心にはハート、頂点にはサハスラーラ(頭頂部)などという想像をすることはすべて誤りです。
 一言で言えば、「考えることはあなたの本性ではないのです」


*ムーラーダーラ

脊柱の底辺に位置する一番目のチャクラ。

327鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/14(木) 21:44:17 ID:1d4drIFg0
クンダリニーやチャクラを説く教典には、一つ一つのチャクラに花があり、神が宿っているとかいうのじゃ。
それはただ集中を促進するための方便でしかないのじゃ。
花も神もいないのじゃ。
それに囚われれば障害になるのじゃ。
自らの本性を探求する方が大事というのじゃ。

328避難民のマジレスさん:2019/11/14(木) 23:40:32 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話185

マハルシ
 聖典には次のような言葉が見られます。

 「語ることなく語られた言葉」
 「真理を示され永遠の静寂にとどまる」

 語られることのない言葉とはどういうことでしょうか?
 それはただ沈黙なのです。
 それはプラナヴァ(聖音オーム)、あるいはマハーヴァーキャ(偉大な確言)です。
 それらは「言葉」とも呼ばれています。


*「語ることなく語られた言葉」:『ダクシナームールティ・ストートラム』第一頌 シャンカラーチャーリャ作

至高のブラフマンの本性を、沈黙を通して教える彼。
ブラフマンの内に安住する最も有能な弟子たちに囲まれた、若く、最も卓越したグル。
光輝を表す手印(チンムドラー)と慈悲深き容貌、南向きの姿でご自身を現した父(なるダクシナームールティ)に讃えあれ!

*「真理を示され永遠の静寂にとどまる」:『エーカートマ・パンチャカム』5

マハルシ自身によるベンバ韻律のタミル語の詩。

ただ真我だけが唯一の実在として永遠に存在し続ける。
太古の昔、すべての師の祖師であるダクシナームールティが、絶え間ない沈黙を通して「それ」を教えたというのに、いったい誰が「それ」を言葉で表せるというのか?

329鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/15(金) 22:54:34 ID:1d4drIFg0
沈黙によって実践できるならばそれが一番善いのじゃ。
沈黙に耐えられない者のために言葉による実践が説かれるのじゃ。
沈黙の言葉に耳を傾ければ、全てがありのままに現前するのじゃ。
無我になれば自然に沈黙が訪れるじゃろう。

330避難民のマジレスさん:2019/11/16(土) 00:07:25 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話186

マハルシ
 私たちは新聞を読み、その中のあらゆる記事を読みますが、紙自体について知ろうとすることはありません。
 私たちは価値のないものを取って、本質を棄ててしまうのです。
 これらすべての記事が印刷されている基盤である紙、その基盤を知ればすべては知られるでしょう。

質問者
 あなたは「唯一存在する『一なるもの』、それが実在だ」と言われました。
 その「一なるもの」とは何なのでしょうか?

マハルシ
 「一なるもの」とはサット(存在)です。
 それは世界の現れ、私たちが見ているものすべて、そして私たち自身です。

質問者
 アートマン(真我)とは何でしょうか?
 アートマンには究極性があるのでしょうか?

マハルシ
 まずアートマンとは何かを学びなさい。
 それを知ったなら、その後でそれに究極性があるのかどうかと尋ねることもできるでしょう。
 あなたがアートマンと呼ぶもの、それは何ですか?

質問者
 ジーヴァがアートマンです。

マハルシ
 ジーヴァとは何かを学びなさい。
 ジーヴァとアートマンの違いとは何でしょうか?
 ジーヴァそのものがアートマンなのでしょうか、それとも、アートマンとして何か個別に存在するようなものがあるのでしょうか?
 あなたが観察するものには終わりがあります。
 創造されたものには崩壊と終焉があります。
 創造されなかったものに終焉はありません。
 存在する「それ」は観察されえません。
 それは観察不可能なのです。
 顕現とは何なのか、それを見いださなければなりません。
 顕現の崩壊、それが終局です。
 存在するものは永遠に存在します。
 新たに現れたものはやがて失われるのです。

質問者
 人間として生まれた後、ジーヴァには何が起こるのでしょうか?

マハルシ
 まず私たちが何なのかを知ろうではありませんか。
 私たちは自分が何なのかを知らずにいます。
 それを知るまでは、そのような質問は要点を逃しているのです。

(記録者ノート:
 バガヴァーンはここで明らかに、身体を誤ってアートマンと同一視すること〔デーハートマ・ブッディ〕について言及している。
 その結果、誕生と死という混乱した概念が生じる。
 なぜなら、アートマンには誕生も死もなく、土、火、空気、水などの元素に影響されないからである)

  アショーチャーン・アンヴォーショーチャス・トヴァム、
  プラジニャーヴァーダンシュ・チャ・バーシャセー。

  あなたはあたかも自分が賢いかのように語っているが、
  実は悲しむ必要もないことを嘆いているのだ。

  『バガヴァッド・ギーター』第2章11節

 誕生したもの、それは何でしょうか?
 あなたは何を人間と呼ぶでしょうか?
 もし誕生や死や再誕生についての説明を求める代わりに、「私は誰なのか?今、私はどのように在るのか?」と問いただせば、そのような質問は起こらなくなるでしょう。
 深い眠りにおいても、夢見においても、目覚めにおいてもあなたは同じです。
 「私」という想念がジーヴァなのでしょうか、それとも身体がジーヴァなのでしょうか?
 これは想念なのでしょうか、それとも本性なのでしょうか?
 あるいは生きているという体験などが私たちの本性なのでしょうか?


 ここでマハルシは『バガヴァッド・ギーター』第二章五二節から引用した。

  ヤダー・テー・モーハカリラン・ブッディールヴィヤティタリシュヤティ、
  タダー・ガンターシ・ニルヴェーダン・シュロータヴャスャ・シュルタスャ・チャ。

  あなたの知性が妄想の迷宮を超えれば、
  これまで聞いたこととこれから聞くであろうことすべてに無関心でいられるようになるだろう。

  『バガヴァッド・ギーター』第2章52節

質問者
 なぜ真我探究(アートマ・ヴィチャーラ)が必要なのでしょうか?

マハルシ
 真我の探究をしなければ、世界の探究(ローカ・ヴィチャーラ)があなたに忍び入るでしょう。
 明らかなこと(真我)が探究されないまま、存在さえしないもの(世界)を求めることになるのです。
 ひとたび探究するものが見つかれば、ヴィチャーラも終わり、あなたはその中に安らぐでしょう。
 身体とアートマンを混同するかぎり、アートマンは失われたと見なされ、それを探究することになります。
 しかしアートマン自体が失われたことなど一度もありません。
 それは常に存在しているのです。
 もし「身体がアートマンだ、感覚がアートマンだ」と言うなら、そのときはジーヴァートマンもパラマートマンも存在するでしょう。
 幾千もの物事がアートマンと呼ばれています。
 それゆえアートマンの探求とは、何が真のアートマンかを知ることにあるのです。

331鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/16(土) 21:08:43 ID:1d4drIFg0
人は肉体とか、観念とか、記憶を自分と思っているのじゃ。
それは飾りに過ぎないものじゃ。
本質ではないのじゃ。
本質を知らないで、自分は何か知識で覚えても無意味なのじゃ。
先ずは自らの本質を捜し求めるのじゃ。

332避難民のマジレスさん:2019/11/16(土) 23:50:16 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話187

ケーヴァラ・サマーディとサハジャ・サマーディ

質問者
 絶えず真我に黙想した結果、サマーディに没入した人の身体は動かなくなる、と私は信じています。
 身体は活動的かも非活動的かもしれませんが、そのような黙想に専心する心は、落ち着きのない身体や感覚の影響を受けなくなるでしょう。
 心の乱れは必ずしも身体的活動の兆候ではないからです。
 しかし別の人は、身体的活動はニルヴィカルパ・サマーディを妨げると主張しています。
 あなたの意見をお聞かせください。
 あなたは私の主張の生き証人なのです。

マハルシ
 あなたがたの意見はどちらも正しいものです。
 あなたはサハジャ・ニルヴィカルパについて、もう一人はケーヴァラ・ニルヴィカルパについて語っています。
 ケーヴァラ・サマーディの場合、心は真我の光の中に没入しています。

 一方、深い眠りの中では、心は無知の暗闇の中に沈んでいます。
 主体はサマーディとサマーディから出た後の活動状態とを区別します。
 したがって、サマーディから出た後の活動、身体や視覚や生命力や心の不安定、対象や活動の認識は彼にとってすべて障害となるのです。

 しかしながら、サハジャ・サマーディの中では、心は真我の中に融け入って失われたため、区別や障害はもはや存在しません。
 そのような人の行為は、半分眠りかけている幼児が食事を与えられているのと似ており、周囲の人は見ていても、本人は気づいていないのです。
 動いている牛車の上で眠っている御者は、牛車の動きに気づいていません。
 なぜなら、彼の心は暗闇に沈んでいるからです。
 それと同じように、真我のチット・アーナンダの忘我の境地に融け入って、心が死んでしまったサハジャ・ジニャーニは、彼の身体的活動に気づかずにいるのです。

 黙想とサマーディという二つの言葉は、質問の中であいまいに使われていました。
 黙想とは強制された精神的過程であり、一方サマーディは努力の彼方にあるのです。

 眠り
 (1)心は生きている
 (2)忘却の内に沈んでいる

 ケーヴァラ
 (1)心は生きている
 (2)光の中に沈んでいる
 (3)縄に結びつけられた桶が井戸の中に沈んだような状態
 (4)桶に結ばれた縄で引き上げることができる

 サハジャ
 (1)心は死んでいる
 (2)真我の中に融け去った
 (3)海の中に流れ込んでアイデンティティを失った河のよう
 (4)ひとたび海に流れ込んだ河がもとに戻ることはできない

333鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/17(日) 21:07:19 ID:1d4drIFg0
サマーディにも幾つかの種類があり、段階があるとヨーガスートラにも書いて在るのじゃ。
サマーディに達しただけで悟ったことにならないのじゃ。
集中する対象があるサマーディから、対象のないサマーディへと進んでいくのじゃ。
無努力によって達成された対象のないサマーディこそアートマンの実現なのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2019/11/17(日) 23:18:40 ID:fYP18Ay20
>>333
無努力によって達成されるとは、どう言う意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

335避難民のマジレスさん:2019/11/17(日) 23:43:18 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話188

心の本質は気づき、あるいは意識です。
しかし自我に支配されると、それは理性、思考、感覚器官として機能します。
自我によって限定されない普遍的な心は、それ自体から分離したものが何もないため、ただ気づいています。
これが、聖書が「私は私で在るものである」という言葉で意味したことなのです。

自我に支配された心はその活力を奪われて弱まり、想念から受ける責め苦に耐えられません。
しかし自我のない心は、夢のない深い眠りの中で幸福です。
そうしてみれば、不幸と至福が心の様態でしかないことは明らかです。
それでも、弱い心の状態を強い状態に変容させることは容易ではありません。
活動性は弱さであり、結果的に不幸を招きます。
受容性は強さであり、それゆえ至福をもたらします。
潜在的な強さはまだ現れていないため、効力はありません。

ある稀な存在の中に現れる普遍的な心は、他者の個人的な(弱い)心と内奥にある普遍的な(強い)心を連結させることができます。
そのような稀な存在が、グルあるいは神の化身と呼ばれるのです。

336鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/18(月) 22:53:29 ID:1d4drIFg0
>>334 もはや集中しようとか、サマーディに入ろうとか思わないで自然に入るサマーディなのじゃ。
 ただいつものように座るだけで達成されるのじゃ。
 意志や努力があれば、そこに自我も起きてしまうのじゃ。
 忘我になっても僅かに自我が残ってしまうのじゃ。
 意志も努力も無ければ忘我のまま無我になるのじゃ。

 そのために日々の修行が大事なのじゃ。
 何の対象も努力もないサマーディに入れば、無我になり全てがありのままに観られるのじゃ。
 
自我が心を変化させるのではないのじゃ。
心はありのままにあるだけなのじゃ。
自我によってただび謬見が起こるだけなのじゃ。
それによって本来の機能が隠されてしまうのじゃ。
無我になれば本来の機能を取り戻すのじゃ。

337避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 00:20:42 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話189

1936年5月19日

M・オリヴァー・ラコンブ氏はパリ大学のインド文明学会から派遣された中年のフランス人紳士で、フランス領インドからここを訪れていた。
他の聖者たちとも出会っており、マハルシとの面会も希望していたのである。
滞在は三時間ほどだった。
彼は『バガヴァッド・ギーター』、『ウパニシャド』、シュリー・シャンカラーチャーリャやラーマーヌジャの聖典とその注釈などをサンスクリット語の原典から読んでいた。

彼は尋ねた。

「マハルシの教えはシャンカラの教えと同じものでしょうか?」

マハルシ
 マハルシの教えは彼自身の体験と実現の表現でしかありません。
 他の人たちがシュリー・シャンカラの教えと一致していることを見いだしたのです。

質問者
 まったくそのとおりです。
 同じ実現を異なった方法で表現することはできるのでしょうか?

マハルシ
 実現した人は彼自身の言語を用いるでしょう。


シュリー・バガヴァーンは「『沈黙』こそが最高の言語なのです」と言葉を加えた。


質問者
 ハタ・ヨーガやタントラの修練について、マハルシの意見をお聞かせください。

マハルシ
 マハルシは存在するいかなる教えも批判することはありません。
 すべての方法が心の浄化を助けます。
 清められた心だけが修練方法を理解して、それに専心することができるのです。

質問者
 カルマ、ジニャーナ、バクティ、ハタという異なったヨーガの内、どれが最高のものでしょうか?

マハルシ
 『ウパデーシャ・サーラム』(教えの精髄)の第十頌をごらんなさい。
 すべての道の中でも真我の内にとどまることが最高位のヨーガです。

  心がハートの源に融け入ることこそ、
  カルマ(行為)、バクティ(帰依)、ヨーガ(瑜伽)、ジニャーナ(知識)である。
                   『ウパデーシャ・サーラム』第10頌
 
 深い眠りの中には、世界も自我も不幸もありません。
 しかし真我は存在し続けます。
 目覚めの中にはそれらすべてがあります。
 それでも、真我はそこに存在しています。
 常に存在する真我の至福を実現するには、一時的なはかない現象を取り除かなければなりません。
 あなたの本性は至福です。
 その他のすベては「それ」の上に現れとして押し重ねられているのです。
 「それ」を見いだしなさい。
 そうすれば、あなたは純粋な真我としてとどまるでしょう。

質問者
 そうです。
 常在の真我を発見するためには、本来のものではない限定を取り除くことだけが必要です。
 それがシャンカラの説くところであり、そこには達成することも失うこともないのです。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 (横にいた人に向かって)彼は理解しています。

質問者
 探究者にとって日常の仕事はどのように為されるべきでしょうか?

マハルシ
 行為者との自己同一化なしにです。
 例えば、あなたがパリにいたとき、この地を訪れる予定でしたか?

質問者
 いいえ!

338避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 00:21:21 ID:o3CMzonY0
マハルシ
 ごらんなさい。
 あなたがいかに意図なしにそうしてきたかを。
 『ギーター』は「人は行為なしにとどまることはできない」(第十八章十一節)と述べています。
 望もうと望むまいと、あなたが誕生した目的は果たされるでしょう。
 目的がそれ自身を満たしていくのを許しなさい。

質問者
 なぜこれほど多くの修練方法が指導されるのでしょうか?
 例えば、シュリー・ラーマクリシュナはバクティが解脱のための最高の方法だと語っています。

マハルシ
 それは探究者の視点によるのです。
 あなたは『ギーター』を学びました。

 シュリー・クリシュナは
 「私やあなたやこれらの王たちが存在しなかったときは一度もなかったし、
  未来に彼らが存在しなくなることもない。
  実在でないものはけっして存在しないし、実在が消え去ることもけっしてない。
  存在してきたすべては今も存在し、また存在し続けるだろう」と説き、また
 「私はこの真理をアーディティヤ(太陽神)に教えた。彼はそれをマヌに教えた……」と説きました。

 アルジュナは
 「どうしてそうありえるでしょう?
  あなたは何年か前に生まれただけなのに、
  どうしてアーディティヤに教えることができたと言うのでしょう?」と尋ねます。

 するとシュリー・クリシュナは
 「そうだ。私たちは過去にいくつもの誕生を経てきた。
  私は私の過去世を覚えているが、あなたは覚えていないのだ。
  それらの過去世で何が起こったのかをあなたに教えよう」と答えたのです。

 ごらんなさい!
 「私も、あなたも、これらの王たちも存在したことはなかった」と言っていたクリシュナが、今は
 「幾生も前から生きてきた」と語ります。
 クリシュナは矛盾しているように見えますが、そうではありません。
 彼はアルジュナの見解に合わせて、彼のレベルで語っているのです。

 聖書の中には、イエスの言葉でそれに相応する文章があります。
 「アブラハムより以前に、私は在る」。
 賢者は時と場所、人々や環境に合わせて教えるのです。


訪問者は立ち去ることを悔やんでいた。

マハルシは微笑んで言われた。

「去るということも、戻るということもありません」。

フランス人紳士は即座に応えた。

「あなたは時間と空間を超越されたのです」。

彼はポンディシェリーに帰った。


*人は行為なしにとどまることはできない:『バガヴァッド・ギーター』18-11

身体を持つかぎり、活動を完全に放棄することは不可能だ。
真の放棄者とは、仕事の結果への期待を放棄する人のことなのである。

*私やあなたやこれらの王たちが…:『バガヴァッド・ギーター』2-12

私が存在しなかったことは一度もない。
あなたも、ここにいる王たちも。
われわれが未来に存在しなくなることもない。

*私も、あなたも、これらの王たちも存在したことはなかった…:『バガヴァッド・ギーター』2-20

この言葉は『ギーター』第2章12節の中に見られないが、その要旨は第2章20節に表されている。

魂には誕生も死もない。
生じたこともなく、存在しなくなることもない。
不生、永遠、常住、原初の存在。
身体が殺されようと、彼が殺されることはない。

339避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 00:21:32 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話189

1936年5月19日

M・オリヴァー・ラコンブ氏はパリ大学のインド文明学会から派遣された中年のフランス人紳士で、フランス領インドからここを訪れていた。
他の聖者たちとも出会っており、マハルシとの面会も希望していたのである。
滞在は三時間ほどだった。
彼は『バガヴァッド・ギーター』、『ウパニシャド』、シュリー・シャンカラーチャーリャやラーマーヌジャの聖典とその注釈などをサンスクリット語の原典から読んでいた。

彼は尋ねた。

「マハルシの教えはシャンカラの教えと同じものでしょうか?」

マハルシ
 マハルシの教えは彼自身の体験と実現の表現でしかありません。
 他の人たちがシュリー・シャンカラの教えと一致していることを見いだしたのです。

質問者
 まったくそのとおりです。
 同じ実現を異なった方法で表現することはできるのでしょうか?

マハルシ
 実現した人は彼自身の言語を用いるでしょう。


シュリー・バガヴァーンは「『沈黙』こそが最高の言語なのです」と言葉を加えた。


質問者
 ハタ・ヨーガやタントラの修練について、マハルシの意見をお聞かせください。

マハルシ
 マハルシは存在するいかなる教えも批判することはありません。
 すべての方法が心の浄化を助けます。
 清められた心だけが修練方法を理解して、それに専心することができるのです。

質問者
 カルマ、ジニャーナ、バクティ、ハタという異なったヨーガの内、どれが最高のものでしょうか?

マハルシ
 『ウパデーシャ・サーラム』(教えの精髄)の第十頌をごらんなさい。
 すべての道の中でも真我の内にとどまることが最高位のヨーガです。

  心がハートの源に融け入ることこそ、
  カルマ(行為)、バクティ(帰依)、ヨーガ(瑜伽)、ジニャーナ(知識)である。
                   『ウパデーシャ・サーラム』第10頌
 
 深い眠りの中には、世界も自我も不幸もありません。
 しかし真我は存在し続けます。
 目覚めの中にはそれらすべてがあります。
 それでも、真我はそこに存在しています。
 常に存在する真我の至福を実現するには、一時的なはかない現象を取り除かなければなりません。
 あなたの本性は至福です。
 その他のすベては「それ」の上に現れとして押し重ねられているのです。
 「それ」を見いだしなさい。
 そうすれば、あなたは純粋な真我としてとどまるでしょう。

質問者
 そうです。
 常在の真我を発見するためには、本来のものではない限定を取り除くことだけが必要です。
 それがシャンカラの説くところであり、そこには達成することも失うこともないのです。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 (横にいた人に向かって)彼は理解しています。

質問者
 探究者にとって日常の仕事はどのように為されるべきでしょうか?

マハルシ
 行為者との自己同一化なしにです。
 例えば、あなたがパリにいたとき、この地を訪れる予定でしたか?

質問者
 いいえ!

340避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 00:27:28 ID:o3CMzonY0
>>339は重複ミスですm(__)m

341避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 06:51:56 ID:2sx.6tK.0
>>336
ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

342鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/19(火) 21:50:25 ID:1d4drIFg0
>>341 どういたしまして、またおいでなさい。


何の障害も無く直接自己を脱却してアートマンの実現に至ることが出来るならば、それが一番なのじゃ。
それが出来ない者のためにさまざまな道が在るのじゃ。
神に自己を放棄できるならば帰依の道が善いのじゃ。
肉体の修練によって自我を消せるならばハタヨーガやクンダリニーヨーガをするととよいのじゃ。
そのように各人の嗜好や性質によって違う道を選ぶのじゃ。

343避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 22:50:02 ID:epMV0g7w0
>>342
くまは、出来るだけ意識を内側に向けてある方法を、数息観やヴィパッサナーで身につけて、超楽になったであります。
それだけでも充分であります。
(´・(ェ)・`)つ

344避難民のマジレスさん:2019/11/19(火) 23:44:28 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話190

1936年5月30日

ホールの中には、日が暮れる前にいつもかごに入るペットのリスが一匹いた。
マハルシがちょうどそのリスに「かごに入って眠りなさい」と語りかけたとき、超越意識に達したと宣言していた一人の訪問者が、今晩は暑いので、リスの咽が渇いているはずだから水を与えてはどうかと提案した。
彼の、自分は動物のことを理解しているという出過ぎた確信は、マハルシから何の反応も引き起こさなかった。
彼は繰り返しそう伝えた。

数分の沈黙の後、マハルシは言った。

「たぶんあなたは咽が渇いているのでしょう。
 灼熱の太陽の中、焼けるような岩の上で長時間坐って瞑想をしていたのですから、きっと水差し一杯の水を飲みたいでしょう」

質問者
 そのとおりです。
 水は飲みました。

マハルシ
 リスの咽はそれほど渇いていません。
 あなたは灼熱の太陽の中で苦行をしていたのですから咽が渇いたに違いないのです。
 なぜそれをリスに押しつけるのですか?

マハルシは言葉を付け加えた。

マハルシ
 私は熱くなった岩の上に立ちながら太陽に向かって目を閉じている彼を見たのです。
 私はしばらくそこにいましたが、彼の邪魔をしたくはなかったので立ち去りました。
 このような人たちは、何でも好きなことを好きなようにするのです。

質問者
 私がしたことは、前もって意図したことではありません。
 それは自然に起こったのです。

マハルシ
 ほお!そうですか!
 私たちのような他の者は、何でも意図を持ってすると言うのですね!
 どうやら、あなたはすべてを超越したようですね!

質問者
 私がこのように行動したのはこれが初めてではありません。
 あなた自身が私に霊感を与えて、これらすべてのことをするよう導いたのです。
 それなのに、あなたはなぜ私がそのようなことをしたのかとお尋ねになる。
 どうしてですか?

マハルシ
 なるほど。
 あなたは私にコントロールされて行為すると言うのですね。
 それでは、その結果もあなたのものではなく私のものと考えるべきです。

質問者
 疑いなくそのとおりです。
 私は私の自由意志ではなく、あなたからの霊感を受けて行為するのです。
 私には私自身の意思というものがないからです。

マハルシ
 このような馬鹿げた考えはもうたくさんです!
 『マハーバーラタ』の中のドゥルヨーダナもこう語ったのです。

  何が正しいことかは知っている。
  だがそのように行為することは私にはできない。
  何が間違ったことかは知っている。
  だがその行為を棄て去ることは私にはできない。
  ハートの中に宿る聖なる何者かが、
  私に行為するよう駆り立てている。
  それゆえ、私は行為するのだ。

 あなたとドゥルヨーダナとどこが違うと言うのでしょう?

質問者
 何の違いもありません。
 しかし私は意思というものを持たず、それなしに行為するのです。

マハルシ
 あなたは普通の人々を遥かに上回ったのです。
 私たちは個人の意思で行為しているのですから。

質問者
 どうしてですか?
 あなたはご自分の本の中で「行為は自動的に起こる」と述べられているではありませんか?

マハルシ
 もういい!たくさんです!
 あなたやあなたのようなもう一人の訪間者は超越的存在として振る舞う!
 あなた方には十分な学識があり、もう学ぶ必要もないのです。
 もしあなたが度々ここを訪れないことを知っていたなら、私もこのようなことは何も言わなかったでしょう。
 好きなようにしなさい。
 しかししばらくすればこのような常軌を逸した初心者の状態も、真理の光の下で暴かれることでしょう。

質問者
 しかし私はすでに長い間この境地にあるのです。

マハルシ
 もうたくさんです!


*『マハーバーラタ』の中のドゥルヨーダナ…

『マハーバーラタ』に登場するカウラヴァ百人兄弟の長男。
パーンドゥ兄弟を迫害、追放し、最後にはクルクシェートラにて戦いを挑んだ。

345鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/20(水) 22:18:51 ID:1d4drIFg0
>>343 善かったのじゃ。
 
 先に行けば更に安らぎがあるじゃろう。
 更に精進あるのみなのじゃ。



超越意識とか霊感とか何か神秘的な体験があればそれに執着する者も多いのじゃ。
体験は何の意味も無いのじゃ。
囚われればそれも障害になるのじゃ。
今ここにある心が見えればそれで十分なのじゃ。

346避難民のマジレスさん:2019/11/21(木) 01:10:16 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話191

アーシュラマムに住むコーエン氏がヨーガの修練方法について語った。

マハルシが所見を述べた。

マハルシ
 パタンジャリの聖典(『ヨーガ・スートラ』)はすべてのヨーガ体系に適応されます。
 その目的は精神的活動を停止させることです。
 方法は異なっても、その目的に向けた努力が為されるかぎり、それはヨーガと呼ばれます。
 その努力がヨーガなのです。

 精神的活動の停止は数多くの方法によってもたらされます。

 (1)心自体を調べること:心が調べられたとき、その活動は自動的に停止します。
              これがジニャーナの方法です。
              純粋な心が真我なのです。

 (2)心の源を探ること:源は神、真我、あるいは意識と呼ばれます。

 (3)一つの想念だけに集中すること:この方法は他のすべての想念を消し去り、
                   最終的にはその想念自体も消え去ります。

 (4)ハタ・ヨーガ
 
 同じ目的に向かっているかぎり、これらの方法はすべて同一のものなのです。

 心を制御している間は、気づいていることが必要です。
 さもなければ、眠りに落ち入ってしまうでしょう。
 主な要因は気づきにあります。
 それはパタンジャリが、プラーナーヤーマ(調息)の修練の後でさえプラティヤーハーラ(制感)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)を強調しているという事実に示されています。
 プラーナーヤーマは心を安定させ、想念を抑制します。
 だとすれば、なぜそれ以上進展させる必要があるのでしょうか?
 なぜなら、気づきという要因が必要不可欠になるからです。
 心が抑制された状態なら、モルヒネやクロロフォルムを摂取すれば模倣できますが、それが解脱 (モークシャ)に導くことはありません。
 なぜなら気づきが欠けているからです。

347鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/21(木) 23:30:34 ID:1d4drIFg0
心を調べることは観察なのじゃ。
心が観られたならば自己同一化が消えて心は止まるのじゃ。

探求は直接アートマンに達する道なのじゃ。
死の恐れを超えて真摯に心の源に達することができる者だけが可能なのじゃ。

集中はディヤーナとかサマーディに達する道なのじゃ。
瞑想なのじゃ。

ハタヨーガは肉体の訓練によってサマーディに達する道なのじゃ。
それも気付くための実践なのじゃ。

348避難民のマジレスさん:2019/11/22(金) 00:11:33 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話192

1936年6月3日

会話の流れの中でマハルシが説明した。

マハルシ
 誰が解放を求めると言うのでしょう?
 誰もがただ幸福だけを望んでいます。
 しかしその幸福でさえ感覚器官を通しての快楽なのです。

 あるグルにこの問いが問われました。

 グルは言いました。
 「まったくそのとおりだ。
  感覚によって得られた喜びは、解脱の歓喜と同じものなのだ。
  そのような解放への願望は人生で達成すべき四つの目標の内の一つである。
  これはすべての人に共通したものであり、それゆえ誰もがこの真我の知識を得るにふさわしいのだ」と。

 実際のところ、『ヨーガ・スートラ』などに述べられている探究者の完璧な資質や資格すべてを所有している人は、世界中を探しても一人もいないかもしれません。
 それでも、真我の知識の探究は放棄してはならないのです。

 誰もが自分自身の体験において、真我として存在しています。
 それにもかかわらず、人はそれに気づかず、身体と真我を同一視して不幸を感じるのです。
 これはあらゆる不思議の中でも最大の不思議です。
 人は真我なのです。
 なぜ真我としてとどまり、不幸から立ち去らないのでしょうか?

 初めのうちは、あなたは身体ではないと言われなければなりません。
 なぜなら、誰もが自分を身体でしかないと見なしているからです。
 実際のところ、人は身体であり、それ以外のすべてであるのです。
 身体は全体の一部でしかないからです。
 最終的にはそれを知らなければなりません。
 まず意識と意識のないものを区別し、それからただ意識として在ることです。
 その後で、意識のないものも意識と異ならないということを理解するでしょう。

 これが識別(ヴィヴェーカ)です。
 最初の識別は最後まで継続しなければなりません。

 その結実が解放なのです。


*人生で達成すべき四つの目標(プルシャールタ)

ダルマ(正義)、アールタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)。

349避難民のマジレスさん:2019/11/22(金) 00:31:12 ID:MIbXhRL60
>>347
ここに書かれてることが修行法の全てでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

350鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/22(金) 21:33:43 ID:1d4drIFg0
↑実際に悟りを得られる法としては全てじゃろう。
多くの者がそれらの法によって悟りを得たのじゃ。
他に帰依の道等もあるが神に執着してしまうから、それで悟った者はみたことがないのじゃ。


身体や感覚などとの自己同一化を始めは厭離しなければならんのじゃ。
それらから自己が無くなり、自己観念も無くなれば無我なのじゃ。
観念も無くなり認識も無くなれば身体や感覚も意識の現われであったとわかるのじゃ。
すべては意識の表れであり、意識だけが存在するすべてであると気付くのじゃ。

351避難民のマジレスさん:2019/11/23(土) 00:19:36 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話193

マハルシが語った。

「自由意志と運命は常に存在しています。
 運命とは過去の行為の結果であり、それは身体に関わっています。
 身体がその運命に沿うように行為させなさい。
 なぜあなたがそれを心配するのですか?
 なぜそれに注意を払うのですか?
 自由意志と運命は身体が存続するかぎり続くでしょう。
 しかし叡知(ジニャーナ)はその両方を超越するのです。
 真我は知識と無知を超えています。
 もし何かが起こるとするなら、それは過去の行為の結果として、あるいは神の意思として、あるいはその他
の要因から起こるのです」

352鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/23(土) 22:22:25 ID:1d4drIFg0
>>351 何かが起こるかもしれないと心配する必要は無いのじゃ。
起こることは必然的におこってしまうのじゃ。
起こらないことは起こらないのじゃ。
心配は無意味なのじゃ。
それはただ心の働きとしてあるだけのものなのじゃ。

353避難民のマジレスさん:2019/11/23(土) 23:40:42 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話194

アマラプラムからの訪問者、スッパ・ラーオ氏が尋ねた。

「どのように心を制御すればよいのでしょうか?」

マハルシ
心をとらえなさい。

質問者
どうすればよいのでしょう?

マハルシ
心には実体がありません。
事実、それは存在しないのです。
心を制御する最も確かな方法は、それを探し出すことです。
そうすれば、その活動は止むでしょう。

354鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/24(日) 22:36:29 ID:1d4drIFg0
心は実体無く、働きだけがあるものじゃ。
唯物論者はそれを肉体の能力に過ぎないとまで言うのじゃ。
それを止めるにはただ観ればよいのじゃ。
観察できればそれは自己一体化を失い、止まるのじゃ。
人には本来心を止めることが出来る能力があるからなのじゃ。

355避難民のマジレスさん:2019/11/25(月) 00:19:03 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話195

1936年6月6日

ベナレス大学で文学修士号と理学博士号を取得したジャールカ氏は、妻と子供を失って悲嘆にくれていた。
彼は心の平安を求め、どうすればそれが得られるのかを尋ねた。

マハルシ
 誕生と死、快楽と苦痛、つまり世界と自我は心の中に存在しています。
 もし心が破壊されれば、これらすべても破壊されるでしょう。
 注意すべきは、それを休止状態にさせるのではなく、消滅させなければならないということです。

 眠りにおける心は休止状態にあります。
 それは何も知りません。
 それでも目覚めれば、あなたは以前のあなたのままです。
 悲しみに終わりはありません。
 それでも、もし心が破壊されれば、悲しみは心とともに消え去るのです。

質問者
 どうやって心を破壊するのでしょう?

マハルシ
 心を探しなさい。
 探し出そうとすれば、それは消え去るでしょう。

質問者
 私には理解できません。

マハルシ
 心とは想念の束にすぎません。
 想念が起こるのは考える人が存在するからです。
 考える人とは自我のことです。
 もしも自我を探せば、それは自動的に消え去るでしょう。
 自我と心は同じものです。
 自我は他のすべての想念が起こる根本の想念なのです。

質問者
 どううやって心を探すのでしょうか?

マハルシ
 内面に潜り込みなさい。
 あなたは現在、心が内面から湧き起こってくることに気づいています。
 ですから、内面に沈み込んで探しなさい。

質問者
 まだどうすればよいのか理解できません。

マハルシ
 あなたは呼吸制御を修練しています。
 機械的な呼吸制御では最終目的に達せません。
 それは補助的な訓練でしかないからです。
 呼吸制御を機械的にしている間も、心の中で注意深く「私」という想念を覚えていなさい。
 そしてその源を探し出すのです。
 そうすれば呼吸が沈み込む場所から「私」という想念が立ち現れることを見いだすでしょう。
 それらはともに沈み込み、ともに立ち現れます。
 「私」という想念が呼吸とともに沈み込んだとき、無限に輝きわたるもう一つの「私ー私」が現れます。
 それは途切れることなく続いて行くでしょう。
 それが目的地(ゴール)です。
 それは神、真我、クンダリニー、シャクティ、意識、ヨーガ、バクティ、ジニャーナなどといった異なった言葉で知られています。

質問者
 まだはっきりしません。

マハルシ
 まず試みなさい。
 それがあなたを目的地に導くでしょう。

356鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/25(月) 22:13:54 ID:1d4drIFg0
妻子を失くすという愛別離苦の深い悲しみも心から起こるものじゃ。
心が観られたならばそれは消えるのじゃ。
どんなに深い苦も心から起こるゆえに、心が観られれば消えるのじゃ。
機械的な繰り返しでなく、注意深く心の源を探ればそれは観られるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

357避難民のマジレスさん:2019/11/25(月) 23:40:06 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話196

1936年6月9日

ある訪問者が『ラマナ・ギーター』の第二章に述べられている三つの方法について尋ねた。

マハルシは、呼吸制御が心の制御、つまり想念の抑制や消滅を助けることを指摘した。

マハルシ
 ある人は吸気、呼気、保持という呼吸制御を修練するかもしれませんし、あるいは呼吸保持だけを修練するかもしれません。
 別のタイプの修練をする瞑想者は、心の制御をするにあたって呼吸を制御し、結果として呼吸停止が自動的に起こります。
 呼気と吸気をただ見守ることも呼吸制御となります。
 これらの方法は、一見三種類あるように見えるかもしれませんが、実際は一つです。
 なぜなら、それらはみな同じ目標に達するからです。
 それらは探究者の成長段階とその人の性癖や精神的傾向にしたがって採用されます。
 しかし実際のところ、修練方法は二つしかありません。
 それが真我探究と帰依(明け渡し)です。
 どちらも一方がもう一方へと導くのです。

質問者
 「私」を探しても何も見つかりません。

マハルシ
 なぜなら、あなたは自分を身体と自己同一化し、目と視野を同一視することに慣れてしまったため、何も見えないと言うのです。
 見られるような何がそこにあると言うのでしょうか?
 誰が見ると言うのでしょう?
 どうやって見ると言うのでしょうか?
 そこにはただ意識だけが在り、それが「私」という想念として現れ、自らを身体と同一視します。
 そして目を通して自身を外側に投影し、周囲に物事を見るのです。
 目覚めの状態にある個人は限定されているため、(外側に)何か自分とは異なるものを見ていると思い込みます。
 彼の感覚はその証人であり、権威の証しなのです。
 それでも彼は、見る者、見られるもの、視野がすべて同じ意識の現れ、すなわち「私ー私」であることを認めようとはしないでしょう。
 真我が目に見えるべきだという誤った思い込みを絶つには、黙想が助けとなります。
 実際は、そこに目に見えるものなど何もないのです。
 あなたは今、「私」をどのように感じていますか?
 自分自身の存在を知るために、鏡を手にするでしょうか?
 気づきが「私」なのです。
 それを悟りなさい。
 それが真理です。

質問者
 想念の源へと探究していくと「私」を感知するのですが、それだけでは十分得心できません。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 「私」の認識は形態、おそらく身体に関連したものでしょう。
 純粋な真我に関係するものは何もありません。
 真我は何とも関わりを持たない純粋な実在であり、身体や自我はその真我の光を受けて輝いています。
 すべての想念を静めれば、純粋な意識だけが残るのです。

 眠りから目覚めたとき、そして世界に気づくようになる寸前、そこには純粋な「私ー私」が在ります。
 眠ることなく、あるいは想念が起こるのを許すことなく、それをとらえなさい。
 もし純粋な「私ー私」をしっかりととらえたなら、たとえ世界が見えようと問題はありません。
 見る者は現象の影響を受けずにすむのです。


*『ラマナ・ギーター』の第二章に述べられている三つの方法

内奥の核心で、ハートは「私ー私』という真我に気づき、ブラフマンとして一人輝く。
真我探究によって、呼吸制御によって、あるいはハート深く潜ることによってアートマンの内に永遠にとどまりなさい。

358鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/26(火) 22:52:49 ID:1d4drIFg0
呼吸を制御すれば心は止まるじゃろう。
ただ見守っていてもそうなるじゃろう。
行き着くところは同じなのじゃ。
それによってサマーディに入れるのじゃ。
その忘我の状態によって気付きも起こるのじゃ。

359避難民のマジレスさん:2019/11/27(水) 00:21:07 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話197

この日、アーメダバードから二人のパールシー教徒、グル・ビラムジーとシリン・ビラムジーが到着した。
夜になって、彼女たちはマハルシと対話した。

質問者
 バガヴァーン、私たちは子供のころから霊的な道に目覚め、哲学書を読んできました。
 そして今はヴェーダーンタに魅了され、『ウパニシャド』、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』、『バガヴァッド・ギーター』などを読んでいます。
 瞑想も試みているのですが、進歩が得られません。
 どうすれば実現できるでしょうか?
 どうか真我実現に向けて私たちをお助けください。

マハルシ
 あなたはどのように瞑想をしていますか?

質問者
 私は「私は誰か?」と自分自身に問い始めました。
 「私」は身体ではない、「私」は呼吸ではない、「私」は心ではないと消し去っていくと、これ以上進むことができないところにたどり着きました。

マハルシ
 それが知性の行き着くことのできる果てなのです。
 今までのあなたの過程は知的なものにすぎません。
 実際、すべての聖典が過程について述べているのは、ただ探究者を真理に導くためです。
 真理を直接指し示すことはできません。
 だからこそ、この知的過程があるのです。

 わかるでしょうか?
 「私」ではないものすべてを消去するその人に、「私」を消去することはできないのです。
 「私はこれではない」、「私はあれではない」と言うためには、そこに「私」がいなければならないからです。
 この「私」が自我であり、「私」という想念です。
 この「私」という想念が立ち現れた後に、その他すべての想念が現れます。
 それゆえ、「私」という想念がすべての想念の根源なのです。
 もしこの根を抜き取れば、他のすべての想念も根こそぎにされるでしょう。
 だからこそ、根である「私」を見いだしなさい。
 「私は誰か?」と問いなさい。
 その源を見つけなさい。
 そうすれば他のすべての想念は消滅し、純粋な真我だけが残るでしょう。

質問者
 どうすればいいのでしょうか?

マハルシ
 深い眠りの中、夢の中、そして目覚めの中でも、「私」は常にそこに存在し続けています。
 眠りの中にいたその同じ人が、今話をしているのです。
 そこには常に「私」という感覚があります。
 それとも、あなたは自分自身の存在を否定するでしょうか?
 それはできません。
 あなたは「私は在る」と言います。
 それが誰なのかを見いだしなさい。

質問者
 それでもまだ私には理解できません。
 あなたの言われる「私」とは偽りの「私」のことです。
 いったいどうやってこの偽りの「私」を消滅させるのでしょうか?

マハルシ
 偽りの「私」を消し去る必要などないのです。
 どうして「私」がそれ自身を消去できると言うのでしょう?
 あなたがするべきすべてとは、その源を見いだして、そこにとどまることだけです。
 あなたが努力によって到達できるのはそこまでです。
 その後は、彼方なるものに身を任せるだけです。
 そこでは、あなたは無力です。
 努力でそこに到達することはできないからです。

360避難民のマジレスさん:2019/11/27(水) 00:28:57 ID:o3CMzonY0
質問者
 もし「私」がいつも今ここに在るなら、なぜ私はそう感じないのでしょうか?

マハルシ
 そのとおりです。
 それを感じないと言っているのは誰でしょうか?
 本当の「私」が言うのか、それとも偽りの「私」が言うのか?
 調べてみなさい。
 すると、それが偽りの「私」であることがわかるでしょう。
 偽りの「私」が障害です。
 真実の「私」が隠されないように、偽りの「私」は取り除かれなければなりません。
 「私は実現していない」という想いが実現への障害なのです。
 実際は、それはすでに実現されています。
 それ以上実現されるべきものなど何もないのです。
 さもなければ、実現とは何か新しいものだということになります。
 今までなかったのだから、これから起こるということです。
 しかし誕生したものは死ななければなりません。
 実現が永遠のものでないなら、得る価値もないでしょう。
 それゆえ、私たちが探究するものは、新しく起こる何かではなく、永遠なるものなのです。
 ただ今は障害によって知られていないだけです。
 それこそ私たちが探究しているものであり、ただ障害を取り除くことだけが必要なのです。
 無知のために、永遠なるものが永遠であるということが知られずにいます。
 無知が障害です。
 無知を拭い去りなさい。
 そうすればすべてうまくいくでしょう。

 無知は「私」という想念と同一です。
 その源を見つけ出しなさい。
 そうすれば、それは消滅するでしょう。

 「私」という想念は霊魂のようなものです。
 目には見えませんが、身体とともに立ち現れ、成長し、身体とともに消え去ります。
 身体意識が偽りの「私」です。
 この身体意識を棄て去りなさい。
 それは「私」の源を探ることによって為されます。
 身体が「私は在る」と主張することはありません。
 「私は身体だ」と言うのはあなたなのです。
 この「私」とは誰かを見いだしなさい。
 源を探り当てれば、それは消え去るでしょう。

質問者
 そのとき、そこには至福が在るのでしょうか?

マハルシ
 至福は存在ー意識と同じ源に在ります。
 永遠の存在に関するあらゆる議論は、至福にも当てはまります。
 あなたの本性は至福であり、その至福を覆い隠しているのは無知なのです。
 至福を解き放つために、無知を取り除きなさい。

361避難民のマジレスさん:2019/11/27(水) 00:29:42 ID:o3CMzonY0
質問者
 私たちは世界、個人、神の究極的実在性を見いだすべきなのではありませんか?

マハルシ
 それらはすべて「私」の生み出した概念です。
 それらの概念は「私」という想念が現れた後にのみ生じます。
 あなたは深い眠りの中でもそれらについて考えましたか?
 あなたは深い眠りの中でも存在していました。
 その同じあなたが、今話をしているのです。
 世界、個人、神が実在であるなら、深い眠りの中にも存在していたはずではないでしょうか?
 それらは「私」という想念に依存しているのです。
 世界が「自分は世界だ」と言うでしょうか?
 身体が「私は身体だ」と言うでしょうか?
 「これは世界だ」、「これが身体だ」などと言うのはあなたなのです。
 それゆえ、これらはすべてあなたの観念にすぎません。
 あなたが誰なのか、それを見いだしなさい。
 そうすれば、疑問はすべて消え去るでしょう。

質問者
 真我実現の後、身体はどうなるのでしょうか?
 それは存在するのでしょうか、しないのでしょうか?
 私たちは実現した人たちが、普通の人たちのように行為しているのを見ています。

マハルシ
 今、この質問を起こす必要がどこにあるでしょうか。
 実現した後で、もしも必要なら問いなさい。
 実現をした人たちについて言うなら、彼らのことは彼らにまかせればよいのです。

 なぜあなたが彼らについて気にするのですか?

 実際、実現した後では、身体やその他すべては真我とは異なったものとして現れないのです。

質問者
 常に「存在ー意識ー至福」として在る私たちを、なぜ神は苦難の中に置くのでしょうか?
 なぜ神は私たちを創造したのでしょうか?

マハルシ
 神があなたのもとに来て、「私があなたたちを苦難の中に置いたのだ」と言うでしょうか?
 そのように言うのはあなたなのです。
 それはまたしても偽りの「私」です。
 それさえ消え去れば、「神がこれやあれを創造した」と言う人はいなくなります。
 
 存在する「それ」は、「私は在る」とさえ言いません。
 なぜなら、「私は存在しないのではないか?」という疑いが起こることなどないからです。
 疑いがあるときだけ、自分自身に「私は人間だ」と想い起こさせねばなりません。
 しかしそうする人など誰もいないでしょう。
 その反対に、「自分は牛や水牛なのではないか?」という疑いが起こったときに、
 「自分は牛でも水牛でもない。私は人間だ」と想い起こさなければなりません。
 こんなことはけっして起こらないでしょう。
 自分自身の存在と実現においても同じことです。

362鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/27(水) 21:55:52 ID:1d4drIFg0
私の探求は頭や知識で考え出したことでは出来ないのじゃ。
経典や師匠に教わったからと、呼吸は自分ではないとか、肉体は自分ではないと繰り返しても観念を観ているだけになるのじゃ。
今ここに実際にあるものを観察しなければいかんのじゃ。
肉体は確かにあるじゃろう。
それがどのような時に自分と感じ、どのような時ならば自分と感じないか今ここで観るのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2019/11/27(水) 23:42:22 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話198

1936年6月10日

ある女性たちが「人間が低次の動物に転生することはあるのでしょうか?」と尋ねた。

マハルシ
 あります。
 かつて国王だった賢者が鹿として生まれ変わるというジャダ・バラタの逸話が聖典の中にあるように、それは可能なのです。

質問者
 個我は動物の身体の中でも霊的進歩を遂げるのでしょうか?

マハルシ
 非常に稀ですが、ありえないことではありません。

質問者
 グルの恩寵とは何でしょうか?
 それはどのように働きかけるのでしょうか?

マハルシ
 グルとは真我なのです。

質問者
 それはどのように実現に導くのでしょうか?

マハルシ
 イーシュヴァロー・グルラートメーティ。「神はグルや真我と等しい」。
 人は世俗の物事では満たされなくなり、欲望を満たすために神に祈りを捧げ、それによって心が清められます。
 そして世俗的な欲望を満たすよりも、神を知りたいと願うようになります。

 そのとき、神の恩寵が現れ始めます。
 神はグルの姿をとって帰依者の前に現れ、真理を説きます。
 そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。
 帰依者の心は強くなり、内面に向かうことができるようになります。
 瞑想によって心はさらに浄化され、ついにはわずかなさざ波さえない静寂の内にとどまるのです。
 その静寂が真我です。
 
 グルは外面と内面の両方に存在します。
 外面からは、心が内面に向かうように後押しをし、内面からは、心を真我に引き込み静かになるように助けます。
 これがグルの恩寵です。
 神、グル、真我の間には何の違いもないのです。

364避難民のマジレスさん:2019/11/28(木) 05:27:54 ID:LABA5HjA0
僭越ながら一言失礼します。

心の観察は深く広く繊細にして、肉体と肉体をまとう空気感、
それらのリアルな反応を観察するのが良いと思います。

365避難民のマジレスさん:2019/11/28(木) 22:07:47 ID:TrJpxZ7w0
くま、駅で160円の水割缶を一気飲みしたのである。
今夜はその記念日である。
そんなことをしてみたい気分であった。
(´・(ェ)・`)つ

366鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/28(木) 22:32:20 ID:1d4drIFg0
外面のグル実在の人間のグルは修行者に心の中を観るように説くのじゃ。
心の中を観ればそこに内面のグルも見出せるのじゃ。
内面のグルは更に深い心の奥へと修行者を導くのじゃ。
おそれずにその沈黙の教えに従えば悟りもやってくるのじゃ。

367避難民のマジレスさん:2019/11/29(金) 00:36:18 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話199

同じ女性たちがいくつか質問をした。
それらは、すでに実現されているはずの永遠の真我を実現できずにいる彼女たちの現状に関するものだった。
実現のしるしは至福であり、それが欠けているのだと。

マハルシ
 ただ一つの意識だけが存在します。
 私たちは身体意識、自我意識などの何種類かの意識について語りますが、それらはただ同じ絶対意識の相対的状態を表しているにすぎません。
 意識なしには時間も空間も存在しません。
 時間と空間は、意識の中に現れるのです。
 それは映画の画像が投影されるスクリーンのようなもので、私たちの本性は絶対意識なのです。

質問者
 そのような対象物はどこから現れるのでしょうか?

マハルシ
 「あなた」が立ち現れる「そこ」からです。
 まず主体を知りなさい。
 それから対象について質問しなさい。

質問者
 それは質問の一側面でしかありません。

マハルシ
 主体は対象をも含みます。
 その一側面はすべてを包括した側面でもあるのです。
 まずあなた自身を見なさい。
 それから対象物を見なさい。
 あなたの中に存在しないものが外側に現れることはありえないのです。

質問者
 それでは満足できません。

マハルシ
 満足感はあなたが源に達したときにのみ得られます。
 それまで心は落ち着かないでしょう。

質問者
 至高の存在は属性を持つのでしょうか、持たないのでしょうか?

マハルシ
 まずあなた自身が属性を持つのかどうかを知りなさい。

368避難民のマジレスさん:2019/11/29(金) 00:37:09 ID:o3CMzonY0
質問者
 サマーディとは何でしょうか?

マハルシ
 自己の本性です。

質問者
 それならば、なぜそれに達するための努力が必要なのでしょうか?

マハルシ
 その努力は誰のものでしょうか?

質問者
 マハルシは私が無知であることを知っておられます。

マハルシ
 あなたは自分が無知であることを知っているのですか?
 無知の知識は無知ではないのです。

 すべての聖典は、意識が二つあるのかどうかを調べる目的だけのためにあります。
 すべての人の体験が、ただ一つの意識の存在を証明しています。
 ただ一つの意識がそれ自体を二つに分割できるでしょうか?
 真我の中で分離を感じるでしょうか?
 眠りから目覚めたとき、人は目覚めでも眠りでも変わらない自分を見いだします。
 誰もがそれを体験しています。
 違いは見ること、視野にあるのです。
 この違いは、あなたが自分を体験から分離した見る者だと想像するために生じます。
 体験は、あなたがすべての体験において同じ存在であることを示しているのです。

質問者
 無知はどこから現れるのでしょうか?

マハルシ
 無知といったものは存在しないのです。
 それは現れたことさえありません。
 誰もが知識そのものなのです。

 ただ、知識が容易に輝き出さないことは確かです。
 失ったと思っていたネックレスが自分の首にかかっていたことに気づいたという話や、十人の愚か者たちが自分自身を数えることを忘れて、他の人だけを数えたという話のように、無知を追い払うことが、常に存在する知識を顕わにするのです。
 知識であれ無知であれ、それは誰にとって現れるのでしょうか?

質問者
 外面から内面へと進展していくことはできないのでしょうか?

マハルシ
 そのような区別がどこにあるでしょうか?
 眠りの中で内面や外面といった区別を感じますか?
 この区別はただ身体だけに関連し、「私」という想念である身体意識とともに現れます。
 いわゆる目覚めの状態自体が幻影なのです。

 あなたの視野を内面に向けなさい。
 そうすれば、世界全体が至高の霊性に満たされるでしょう。

 世界は幻影だと言われています。
 幻影は、実は実在なのです。
 物理学でさえ宇宙の起源をたどり、微細な、極めて微細な根本物質にたどり着いています。

 世界は幻影だと言う人々に対しても、世界は実在だと言う人々に対しても、神は同じです。
 異なるのは彼らの見解だけです。
 そのような論争に巻き込まれる必要などありません。
 目標は一つであり、すべての人にとって同じなのです。
 それを見極めなさい。

369鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/11/29(金) 23:02:49 ID:1d4drIFg0
すべてのグルは修行者に常に自らの心の中を観るようにと勧めるのじゃ。
世界とか他人を見ても何も起こらないのじゃ。
すべての注意力を心の中に向けた時に変容は起こるのじゃ。
それ以外に道は無いのじゃ。

370避難民のマジレスさん:2019/11/30(土) 00:32:11 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話200

1936年6月14日

コーエン氏はポール・ブラントンの『秘められたインド』の最終章に使われた「強烈に輝く光」という表現の説明を求めた。

マハルシ
 その体験は心を通して起こったものであるため、初めは強烈に輝く光として現れました。
 心の潜在的傾向(ヴァーサナー)はまだ破壊されていません。
 それでもその体験において、心は無限の能力の内に機能したのです。

 ニルヴィカルパ・サマーディ、つまり無区別のサマーディ(区別のない至高の至福に満ちた静寂の境地)は知識と無知を照らし出す純枠意識から成り立ち、光と闇を超越しています。
 それが闇でないことは確かです。
 しかしそれが光ではないものと言えるでしょうか?
 現在、物事は光の中でのみ知覚されます。
 真我を実現するのに光を必要とするということは間違いでしょうか?
 いったい真我が光を必要とするでしょうか?
 ですから、ここで言われる「光」とは、真我をその本性として現す意識のことを意味するのです。

 ヨーギーたちは、ヨーガの修練を通して真我実現する前に、色や光のヴィジョンを目にすると言われています。

 かつて女神パールヴァティーは、至高の境地を実現するために苦行をしました。
 彼女はある種の光を見ましたが、それを真理とは受け入れずに退けました。
 なぜなら、その光は真我から発されたものだったからです。
 真我は不変のままでした。
 彼女はその光が「至高なるもの」ではないことを見極めたのです。
 さらに苦行を続けると、今度は無限の光を体験しました。
 彼女はこれさえも至高の実在ではなく、単なる現象にすぎないとして退けます。
 そしてさらなる苦行を続け、ついに超越的な平安の境地を得ました。
 こうして彼女はそれこそが至高なるものであり、真我だけが唯一の実在であることを実現したのです。

 『タイッティリーヤ・ウパニシャド』は「苦行を通してブラフマンを探し出しなさい」と述べ、さらに「苦行がブラフマンである」と述べています。
 別の『ウパニシャド』では、「『それ』自体が叡知のみからなる苦行である」、
 『カタ・ウパニシャド』(第二巻二章十五節)は「そこでは太陽も月も星も炎も輝かない。それらはすべて『あの』光によって輝き出すのだ」と述べています。


*『タイッティリーヤ・ウパニシャド』は…:『タイッティリーヤ・ウパニシャド』2-1-3

苦行を通してブラフマンを探しなさい。
苦行がプラフマンである。
彼は苦行をしたのである。

*別の『ウパニシャド』では…:『ムンダカ・ウパニシャド』1-1-9

「それ」自体が叡知のみからなる苦行である。
「それ」はすべてについてすべてを知っている。
それ自体が知識という形のタパス(苦行)である。

371鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/01(日) 00:31:22 ID:1d4drIFg0
瞑想をしていると光を観ることも在るのじゃ。
それは内光という体内のエネルギーが見えただけのものじゃ。
悟りとかアートマンの実現ではないのじゃ。
真の悟りやアートマンの実現は全てを明らかに照らす光に喩えられるが、光を見る体験はそれではないのじゃ。
すべての観念と表象を超越した平等と平安の境地にたどり着くまで惑わされてはいかんのじゃ。

372避難民のマジレスさん:2019/12/01(日) 01:03:41 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話201

パールシー教徒の二人の女性が尋ねた。

「常に存在し、最も身近にあるはずの真我が実現されないのはなぜでしょうか?」

マハルシは以下の話をした。

(1)『スワカンターバラナン・カター』の物語から、首にかかっているネックレスを調べずに探し続ける話。
(2)『ダシャマ』の物語から、十人の愚かな男たちが自分自身を数えなかったため九人しかいないと嘆き悲しんだ話。
(3)ライオンの子供がロバの群れの中で育てられて、自分をロバだと信じる話。
(4)カルナが実の親を知らずに育つ話。
(5)王の息子が非下賤民の家庭に育てられる話。

彼女たちはさらにシュリー・オーロビンドのヨーガについてと、
彼が『ヴェーダ』の時代のリシ(聖者)たちの体験を超えたと宣言したことについて、
それからマザーが、彼女の弟子たちは『ウパニシャド』の時代のリシたちの実現のレベルから始めるだけの力量を持っていると語ったことなどについて、マハルシの意見を求めた。

マハルシ
 オーロビンドは完全な明け渡しを勧めています。
 まずは完全な明け渡しをして、その結果を待ちなさい。
 討論は今ではなく、その後で、もし必要ならばできるでしょう。
 限定という束縛を取り除いてもいない人が、超越体験について論議するのは無駄なことです。
 明け渡しとは何なのか、それを学びなさい。
 それは自我の湧き起こる源に融け入ることです。
 自我は真我に明け渡されます。
 私たちがあらゆるものを愛おしいと感じるのは、真我の愛ゆえです。
 自我を真我に明け渡し、「至高の力」である真我の望むがままに自らをゆだねなさい。
 自我はすでに真我のものです。
 私たちは自我に対する何の支配権も持っていません。
 明け渡す前でさえ持ってはいないのです。
 しかし私たちは自我を所有していると考えるため、それを明け渡さねばならないのです。

質問者
 神の意識を天上から降臨させるということについてはどうでしょうか?

マハルシ
 それはすでにハートの中に在るのではないでしょうか?
 「おお、アルジュナ、私はハートの広大な広がりの中に在る」とクリシュナは言いました。
 『ウパニシャド』のマントラの中には、「太陽の中に宿る彼は、人間の中にも宿る」と述べられています。
 「神の王国は内側にある」と聖書は述べています。
 このように、誰もが神は内側に在ることに同意しています。
 降臨させるような何がそこにあると言うのでしょう?いったいどこから?
 誰が何を持ってくると言うのですか?いったい何のために?

 実現とは、ただ永遠に内在している実在の認識を妨げるものを取り除くことだけです。
 実在は存在しています。
 ある場所からある場所へともたらす必要はないのです。

質問者
 オーロビンドは「真我実現は始まりであり、そこからさらに発展してゆく」と宣言していますが、これについてはどうでしょうか?

マハルシ
 まず実現しなさい。
 そして見てみなさい。


マハルシはそれに似た理論について語り始めた。

マハルシ
 ヴィシシュタアドヴァイタ哲学の信奉者は、「真我がまず初めに実現され、実現をした個人の魂は宇宙の魂に明け渡されなければならない。そのとき、初めてそれは完結する。部分が全体へと明け渡されるのである。それが解脱であり、サーユジャという合一である。単なる真我実現は純粋な真我を孤立させたまま止まってしまう」と主張します。

 シッダたちは、「死後に身体が死体として残されるようでは解脱に達したとは言えない。彼らは生まれ変わるだろう。身体が虚空や光に融け去った人だけが解放されたのだ」と言います。

 アドヴァイタ哲学のシャンカラの学派は真我実現で止まりますが、シッダはそれで終わりではないと言います。

 他にも、クンバコーナムの故ヴェンカタスワミ・ラーオ、クッダッパハのブラフマーナンダ・ヨーギーなど、自分自身のお気に入りの理論が最高だと賞揚する人たちがいます。

 真実は、実在が存在しています。
 そして、それはいかなる討論の影響も受けないのです。
 私たちは無益な議論に関わらず、ただ実在として在り続けようではありませんか。

373避難民のマジレスさん:2019/12/01(日) 01:13:55 ID:o3CMzonY0
*以下の話…

(1)『スワカンターバラナン・カター』、シャンカラーチャーリャ作『アートマ・ボーダ』第44節の物語から、首にかかっているネックレスを調べずに探し続ける話。
 真我は常に存在していながら、無知ゆえに気づかれずにいる。
 これは首にかけていることを忘れて首飾りを探す人に等しい。

(2)『ダシャマ』の物語から、10人の愚かな男たちが自分自身を数えなかったため9人しかいないと嘆いた話。
 対話63を参照のこと。

(3)ライオンの子供がロバの群れの中で育てられて、自分をロバだと信じる話(英語の原書ではヤギだが、元の物語ではロバ)。

 昔、ある洗濯屋が川で洗濯しているところへ、一頭の雌ライオンが水を飲みにやって来た。
 そのとき、猟師がそのライオンを矢で射止めてしまった。
 ライオンは死ぬ間際に子供を産み落とした。
 猟師は母ライオンの皮を剥いで去って行った。
 洗濯屋は残されたライオンの子を家に連れ帰り、ミルクを飲ませて育てた。
 このライオンの子は母親を知らずに洗濯屋に育てられた。
 そして毎日彼と一緒に川に行った。
 やがてこのライオンは大きくなると、他のロバと一緒に草を食べ始めた。
 ある日、この「ロバ」が他のロバたちと一緒に野原で草を食べているのを一頭のライオンが見た。
 そのライオンは若いライオンに「お前はロバではない、ライオンだ」と告げた。
 しかし自分をロバと信じきっていた若いライオンは言った。
 「いいえ、ライオン様、嘘はおよしください。私はロバなのです」。
 そこで、この賢いライオンは彼を川に連れて行くとこう言った。
 「水の上に映るお前の顔を見てみなさい。お前の顔は私の顔と同じではないのか?」。
 この若いライオンは声を張り上げて叫んだ。
 「確かに私の顔はあなたの顔と同じです!」

 「さあ、口を開いて私のように吼えるのだ」。
 すると彼は口を大きく開けると吼え出した!
 そのとたん、彼はライオンになった。
 この咆哮が、本当の自分についての疑いをぬぐい去ったのだ。
 そして、たちまちこのライオンはロバを餌食にするためにその後を追いかけていった。
 賢いライオンはグル、若いライオンは探究者、そして咆哮は「私はブラフマンである」という確言を示している。

(4)カルナが実の親を知らずに育つ話。
 カルナは『マハーバーラタ』に登場する弓の名手。
 クンティーが太陽神スーリヤとの間に生んだ子。
 クンティーはクル王パーンドゥの妃となる以前に、聖者ドゥルヴァーサから任意の神を父親とした子を産むマントラを授かっていた。
 しかし結婚する以前に好奇心から太陽神スーリヤを呼び出してしまい、スーリヤの子を産んだ。
 これがカルナである。
 未婚での出産の発覚を恐れたクンティーは、生まれたばかりのカルナをかごに入れて川に流してしまう。
 カルナは御者アディラタに拾われて育てられ、クンティーの後の子パーンダヴァ五兄弟と敵対するカウラヴァ王家に仕える戦士となる。
 クルクシェートラの戦いの直前にクンティーは自分がカルナの生みの親であることを告げ、パーンダヴァ王家に味方することを懇願するが、カルナはドゥルヨーダナへの恩義を選んでカウラヴァ王家のために闘い命を失う。

(5)王の息子が非下賤民の家庭に育てられる話。
 理由あって父親の元を離れた王の息子が非下賤民の家庭に育てられ、自分のアイデンティティを忘れるが、再び王に出会って王位を継承するという物語。

374鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/01(日) 22:55:01 ID:1d4drIFg0
先ず自分がアートマンを実現しなければ何もわからないのじゃ。
すべての経典は実践することだけを説いているのじゃ。
それによってアートマンを実現して始めて意味がわかるのじゃ。
四万十川に行かないで観光案内だけを読んでいても本当の四万十川は永遠にわからないのじゃ。

375避難民のマジレスさん:2019/12/02(月) 00:49:21 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話202

1936年6月15日

パンジャブ出身の悲しげな面持ちの紳士が、自分はジャガンナート、プリー近郊のジャレーシュヴァルから来て、カマコーティピータムのシュリー・シャンカラーチャーリャからマハルシを訪れるよう指示を受けたと語った。
彼は世界中を旅して回った。
またハタ・ヨーガを実習し、「私はブラフマンである」という確言に黙想を続けてきた。
あるとき空白状態に陥り、脳が高熱を生じて死の恐怖に襲われたため、マハルシの指導を求めたのだった。

マハルシ
 誰が空白状態を見ているのでしょうか?

質問者
 見ているのは私であるということはわかっています。

マハルシ
 空白を見ている意識、それが真我なのです。

質問者
 その答えでは満足がいきません。
 私には理解できないのです。

マハルシ
 死の恐怖は「私」という想念が現れた後にだけ起こります。
 誰の死を恐れると言うのでしょうか?
 誰にとっての恐れだと言うのでしょうか?
 そこには自己と身体との同一化があります。
 それがあるかぎり恐れもあるでしょう。

質問者
 しかし私は自分の身体に気づいていないのです。

マハルシ
 気づいていないと言うのは誰でしょうか?

質問者
 私にはわかりません。

マハルシ
 これまでどのような瞑想方法を用いてきたのですか?

質問者
 「アハン・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)です。

マハルシ
 「私はブラフマンである」は単なる想念でしかありません。
 誰がそれを言うのでしょう?
 ブラフマン自身はそうは言いません。
 なぜそれを言う必要があるでしょう?
 真の「私」はそう言いません。
 なぜなら、「私」は常にブラフマンとして在るからです。
 それを口に出して言うことは、単なる想念でしかありません。
 誰の想念なのでしょうか?
 すべての想念は偽りの「私」、つまり「私」という想念から現れるのです。
 思考なしにととまりなさい。
 想念があるかぎり、そこには恐れもあるでしょう。

質問者
 私がそれを考え続けていると、忘却状態に陥り、脳は熱を帯びて、恐怖が起こるのです。

マハルシ
 そうです。
 心が脳に集中するため、そこに熱を感じるのです。
 それは「私」という想念のせいです。
 想念が存在するかぎさり、忘却もあるでしょう。
 「私はブラフマンである」という想念があり、続いて忘却が起こります。
 それから「私」という想念が起こり、同時に死の恐怖も起こります。
 忘却も想念も「私」という想念にとってのみ起こるのです。
 それをとらえなさい。
 そうすれば、それは亡霊のように消え去るでしょう。
 その後に残るもの、それが真の「私」です。
 それが真我なのです。

 「私はブラフマンである」という確言は集中の助けとなります。
 それは他の想念を払い去って、その一つの想念だけが継続するようになります。
 そうなったとき、それが誰の想念なのかを見なさい。
 それは「私」から起こるということが明らかになるでしょう。
 「私」という想念はどこから起こるのでしょうか?
 それを調べなさい。
 そうすれば「私」という想念は消え去り、至高の真我が自ら輝き出すでしょう。
 それから先は努力する必要もありません。

 真の「私」だけが残ったとき、それが「私はブラフマンである」とは言わないでしょう。
 人間が「私は人間だ」と繰り返し言うでしょうか?
 疑われないかぎり、どうして自分自身のことを人間だと宣言する必要があるでしょう?
 自分のことを動物と間違えて、「いいや、私は動物ではない。私は人間だ」と言う人がいるでしょうか?
 ブラフマンも「私」も一者であるため、それを疑う他者もそこにはいません。

 それゆえ、「私はブラフマンである」と繰り返す必要もないのです。

376避難民のマジレスさん:2019/12/02(月) 02:10:16 ID:LABA5HjA0
僭越ながら一言失礼します。

獅子は水面を見て自ら吼え己の声を聞き獅子と知りますが、
修行者も見る聞く五感により実感を得て速度と範囲を広げられると思います。

377鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/02(月) 22:14:54 ID:1d4drIFg0
本来のブラフマンの法は意識を広げていくものなのじゃ。
私はブラフマンと唱えても集中の助けにしかならないのじゃ。
それでブラフマンにはならないのじゃ。
無意味な法を行うよりアートマンを自らの心の中に追求するほヴよいのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2019/12/03(火) 00:41:45 ID:o3CMzonY0
ラマナ・マハルシとの対話203

1936年6月17日

デリーの電信電報局で財務部長を務めるヴァルマ氏は、ポール・ブラントンの『秘められたインド』と『秘められた道』を読んだ。
彼は結婚後十二年間をともに幸せに過ごした妻を失ったばかりだった。
悲しみに暮れた彼は慰めを求めていた。
読書にも慰めを見いだすことはできず、ただそれを破り捨てたいと思うばかりだった。
質問をしたいとも思わなかった。
彼はただここに座り、マハルシの臨在のもとにいることで慰めを受けたかったのである。

マハルシはあたかも想いを寄せているかのように、ときおり話しかけては沈黙を保っていたが、やがてこのように語り始めた。

マハルシ
 「妻は身体の半分を占める」と言われています。
 それゆえ、彼女の死は苦痛に満ちたものに違いありません。
 しかしながらこの苦痛は、私たちの視点が身体的なものだからなのです。
 もしその視点が真我のものであれば、それは消え去るでしょう。
 『ブリハダーラニヤカ・ウパニシャド』は「妻が愛おしいのは、真我の愛ゆえ」と述べています。
 もし妻や他の人たちを真我と同一と見たなら、どうして苦痛が起こりえるでしょう?
 それにもかかわらず、このような悲劇は哲学者の心さえ揺さぶるのです。

 私たちは深い眠りの中で幸せでした。
 そのとき、私たちは純枠な真我としてとどまっていました。
 今この瞬間でさえそうです。
 深い眠りの中では、妻も他の人も、「私」さえも存在していません。
 彼らは今、(目覚めの状態に)現れ、喜びや悲しみを湧き起こらせるのです。
 深い眠りの中で至福に満ちていた真我の至福は、なぜ今も続かないのでしょうか?
 その唯一の障害こそ身体と真我との偽りの自己同一化です。

 『バガヴァッド・ギーター』は
 「非実在は存在せず、実在が存在しなくなることはない。実在と非実在という真理は、その両方の本質を見る者によって知覚される」、
 「実在は常に実在であり、非実在は常に非実在である」、
 「彼は生まれることもなく、死ぬこともない。今まで存在したこともなければ、存在をやめるということもない。不生、永久、永遠なるもの。たとえ身体が殺されても死ぬことはない」と述べています。
 こうしてみると、誕生も死もありません。
 目覚めが誕生であり、眠りが死なのです。

 あなたが仕事場に行ったとき、あるいは深い眠りについたとき、あなたの妻はあなたとともにいたでしょうか?
 彼女はあなたから離れていたのです。
 あなたは彼女がどこかにいると思っていたため、安心し、満足していました。
 一方、今のあなたは彼女がいないと思っています。
 違いは考え方にあるのです。
 それが苦悩の原因です。
 妻がいないという想いが苦悩をもたらしたのです。
 これはすべて心の悪戯です。
 心は快楽があるときでさえ、自らに苦痛を与えます。
 しかし苦痛も快楽も心の産物なのです。

379避難民のマジレスさん:2019/12/03(火) 00:43:05 ID:o3CMzonY0
 なぜ死者について嘆くのでしょうか?
 彼らは束縛から解放されたのです。
 嘆きとは、心がそれ自身を死者に結びつけるために創り出した鎖です。

 「誰かが死んだからといってどうだと言うのか?誰か滅んだからといってどうだと言うのか?
  あなた自身が死になさい。あなた自身が滅びなさい」という諺があります。
 これからすれば、人が死んだ後でも苦悩はないのです。
 このような死は何を意味するのでしょうか?
 身体は生きながら、自我が消滅することです。
 自我が存続するかぎりは、人は死を恐れ続けるでしょう。
 人は他の人の死を嘆きますが、もし(自我を殺して自我の夢から目覚めることで)人より先に死ねば、嘆く必要もありません。
 深い眠りの体験は、身体なしに在ることの幸福をはっきりと示しています。
 賢者も身体を放棄した後の解脱について語り、そのことを承認しています。
 それゆえ、賢者は身体を棄て去ることを待ち望んでいるのです。
 何の喜びもなく賃金のためだけに重い荷を頭に担ぐ運搬人が、目的地まで運び終え、ついには重荷から解放されて喜ぶように、賢者もこの身体に耐え、それを棄て去るための定められた正しいときを待ち望んでいるのです。
 もし今あなたが妻という重荷の半分から解放されたなら、それに感謝して喜ぶべきではないでしょうか?

 それでも、やはり喜ぶことはあなたには無理でしょう。
 あなたの視点が身体的なものだからです。
 死後の解脱などといった教えに詳しいはずの人たちでさえ生きながらの解脱を讃え、
 それを「身体を永遠に生き続けるように保つ神秘的な力」などと呼ぶのですから!

 もし身体的な視点が放棄され、真我として在るならば、苦悩は消え去るでしょう。
 嘆き悲しみは真の愛のしるしではありません。
 それは対象への愛、その形態のみへの愛着であることを露わにしています。
 それは愛ではありません。
 本当の愛とは、「愛の対象は真我の中にあり、けっして消滅することはない」という確信をもたらすものなのです。
 (マハルシはこのことに関連して『ヨーガ・ヴァーシシュタ』から、アハリャーとインドラの物語を語った)

 それでも、このような状況での苦悩は、賢者との交際によってのみ真実慰められるものなのです。


*『ブリハダーラニヤカ・ウパニシャド』は…:『ブリハダーラニヤカ・ウパニシャド』2-4-5, 4-5-6

妻が愛おしいのは妻ゆえではない。
妻が愛おしいのは真我ゆえである。

*アハリャーとインドラの物語:『ヨーガ・ヴァーシシュタ』より

マガダ王国のインドラディユムナ王にはアハリャーという非常に美しい妻がいたが、彼女はインドラという若い美男子と密会していた。
2人が相思相愛であることを知った王は、 最も苦痛に満ちた方法で2人を拷問にかける。
だが、強烈に互いを愛し合う2人の心は、身体的な苦痛を苦痛とも感じず、精神的な愛の融合の中で至福を感じるばかりだった。
王は最終的に2人を国外に追放する。
そして2人は幾生にも渡って生まれ変わり愛し合い続けたのだった。

380鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/03(火) 22:49:01 ID:1d4drIFg0
愛別離苦も他人の肉体への執着から起こるものじゃ。
肉体への執着が無ければ苦も無いのじゃ。
肉体はいずれはなくなるものであると確かに理解して心の中に不滅の実在を探すのじゃ。
それに達すれば肉体が無くなっても人は消滅しないと気付くのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2019/12/04(水) 00:50:38 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話204

1936年6月18日

「真我の光輝」についてマハルシが語った。

マハルシ
 「私」という観念は自我を意味し、「私」の光輝は真我実現を意味しています。
 それは知性の鞘(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)の中で「私ー私」として常に輝いています。
 それは純粋な知識です。
 相対的知識は単なる概念でしかありません。
 至福の鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)の中の至福でさえ、一つの観念でしかないのです。
 それが観念であるかぎり、どれほど精妙なものでも体験を得るまでは「私は幸せに眠った」と言うことはできません。
 人は知性を通して至福の鞘について語ります。
 眠りにおける至福も、人にとっては一つの観念にすぎません。
 知性も同様です。
 至福の体験という観念は、眠りの中では非常に精妙なものであるため、その(相対的な)知識を同時に持っていなければ体験は不可能なのです。

 真我に固有の本性は至福です。
 至高の至福の実現においてさえ、ある種の知識の存在が認められるはずです。
 その知識は最も精妙なものより精妙だと言えるでしょう。

 ヴィジニャーナ(明晰な知識)という言葉は、真我実現の知識と物事の知識の両方を意味しています。
 真我は叡知です。
 その叡知は二つの方法で機能します。
 自我と結びついたとき、それはヴィジニャーナ(客観的知識)と呼ばれますが、自我を取り除き、普遍の真我が実現されたときの知識も、やはりヴィジニャーナ(絶対的知識)と呼ばれます。

 このヴィジニャーナという言葉は知的概念を起こさせます。
 それゆえ、「真我実現した人は心を用いて知る。しかし彼の心は純粋である」と言われ、
 また「揺れ動く心は不純で、静かな心は純粋である」とも言われるのです。
 純粋な心そのものがブラフマンです。
 それゆえ、ブラフマンとは賢者の心に他ならないのです。

 『ムンダカ・ウパニシャド』は「ブラフマンを知る者はブラフマンの真我となる」と述べています。
 これは不条理ではないでしょうか?
 彼を知り、彼になる?
 それは単なる言葉にすぎません。
 賢者はブラフマンなのです。
 ただそれだけです。

 思考機能は賢者の体験を伝達するために必要です。
 彼は無限の広がりに黙想し続けていると言われ、創造主やシュカなどの賢者は、そのような黙想から一瞬も逸脱したことがないと言われています。

 ニミシャールダン・ナ・ティシュタンティ・ヴリッティ・ブラフマイーン・ヴィナー、
 ヤター・ティシュタンティ・ブラフマディヤーハ・サナカーディヤーハ・シュカーダヤーハ。

 創造神ブラフマーやサナカ、シュカなどの聖者は、
 一瞬でさえブラフマンの黙想から逸脱することはない。

 『テージョー・ビンドゥー・ウパニシャド』第1章47節

 そのような「黙想」もまた単なる言葉でしかありません。
 それが(黙想する者と黙想される対象に)分割されないかぎり、どうやって黙想すると言うのでしょう?
 分割されなければ、どうして黙想が可能でしょうか?
 「無限なるもの」がいったいどんな機能を持てると言うのでしょう?
 海の中に流れ込んだ川を「海のような川」と呼ぶでしょうか?
 だとすれば、完全な「無限なるもの」として在りながら、なぜ完全となった境地への黙想について語る必要があるのでしょうか?

 その言葉はそれが語られた精神において理解されなければなりません。
 それは無限なるものの中に融け入ることを意味しているのです。

 真我の光輝、あるいは真我実現もそれと似たようなものです。
 真我は常に輝いています。
 それなら、この「私」の光輝は何を意味するのでしょうか?
 その表現は心の機能を認めることを暗示しています。

 神と賢者は「無限なるもの」を絶えず、永遠に体験しています。
 彼らのヴィジョンが妨げられることは一瞬さえありません。
 神や賢者の心が機能するということは第三者による推測ですが、事実はそうではありません。
 そのような憶測は、仮説から論理的に結論を導き出そうとする個我の感覚に基いたものなのです。

 個人性が存在しなければ、知的機能は働きません。
 個人性と心の機能は共存しています。
 一方は他方なしには存在しえないからです。

 真我の光輝は知性の鞘の中でのみ体験できます。
 それゆえ、ヴィジニャーナが物事の知識であろうと真我の知識であろうと、それは純粋知識である真我に依存するのです。


*『ムンダカ・ウパニシャド』は… :『ムンダカ・ウパニシャド』2-2-9

ブラフマンを知る者はブラフマンの真我となる。
至高のブラフマンを知る者はブラフマンとなる。
彼の家系に生まれた人でブラフマンを知らない人はいない。
彼は不幸を克服し、過ちを乗り越える。
そしてハートの結び目を断ち切り自由となる。
彼は不死に達したのだ。

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/04(水) 23:32:31 ID:1d4drIFg0
ブラフマンを知ることでブラフマンとなる純粋な知識とは気付くことなのじゃ。
自我に囚われている時でさえ自他の全てが常にブラフマンであったということに気付くのじゃ。
そこには知識があるが、それは観念として表される必要も無いものじゃ。
観念としての知識は他人に説くために必要になるだけなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2019/12/05(木) 00:43:54 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話205

コーエン氏はハートの性質について考え続けていた。

「霊的ハートは鼓動するのか?
 もしそうなら、いったいどのようにして?
 もし鼓動しないのなら、どうやってそれを感じ取るのだろうか?」と。

マハルシ
 このハートは身体的ハートとは異なります。
 鼓動は身体的ハートの機能ですが、霊的ハートは霊的体験の座です。
 これがそれについて言えるすべてです。

 発電機が照明や扇風機などのシステム全体に動力を供給するように、原初の力はハートの鼓動や呼吸器系の働きなどにエネルギーを与えるのです。

質問者
 「私ー私」の意識はどのように感じられるのでしょうか?

マハルシ
 途切れることのない「私」の気づきとしてです。
 それはただ意識なのです。

質問者
 それが起こるとき、私たちは知ることができるのでしょうか?

マハルシ
 できます。
 意識として。
 あなたは今でさえ「それ」なのです。
 それが純粋なとき、間違えることはありえません。

質問者
 なぜ私たちは瞑想のためにハートという場を与えられたのでしょうか?

マハルシ
 なぜなら、あなたが意識を探し求めているからです。
 どこに見いだせると言うのでしょうか?
 それが外側にあるでしょうか?
 あなたは内面を探らなければなりません。
 それゆえ、内側を見なさいと指導されるのです。
 ハートとは意識の座、あるいは意識そのものです。

質問者
 何に瞑想すればよいのでしょうか?

マハルシ
 「瞑想する者とは誰なのか?」。
 まずそう問いなさい。
 そして瞑想者としてとどまりなさい。
 瞑想する必要などないのです。

384鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/05(木) 22:46:21 ID:1d4drIFg0
瞑想とは自分が居ない時に起こるものだとクリシュナムルティもいうのじゃ。
それは自分を忘れるサマーディの境地なのじゃ。
自分が居ないことがわかれば瞑想は自然に起こるものじゃ。
自分をどこまでも追求すればそれがないとわかるのじゃ。

385避難民のマジレスさん:2019/12/06(金) 00:17:26 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話206

アラハバード大学の物理学講師であるB・C・ダース氏が尋ねた。

「知性は人とともに立ち現れ、人とともに消えゆくものなのでしょうか?」

マハルシ
 知性とは誰のものでしょうか?
 それは人のものです。
 知性は単なる道具でしかないのです。

質問者
 そうです。
 それは死後も生き残るのでしょうか?

マハルシ
 なぜ死について考えるのですか?
 眠りにおいて何が起こるか見てみなさい。
 あなたの体験はどのようなものですか?

質問者
 しかし眠りは一過性のものです。
 一方、死は違います。

マハルシ
 眠りは二つの目覚めの状態の中間にあり、死もまた二つの誕生の間に起こります。
 どちらも一過性のものです。

質問者
 私が言いたいのは、魂が肉体を離れたとき、それは知性を連れて行くのかどうかということです。

マハルシ
 魂が身体を離れるということはありません。
 身体が異なるのです。
 それは粗大な身体でなければ、眠りや夢見や白昼夢のときのように微細な要素でできた身体の中にいるでしょう。
 知性は変わりませんが、身体は環境にしたがって異なるのです。

質問者
 魂の身体はアストラル体なのでしょうか?

マハルシ
 今は知性がアストラル体なのです。

質問者
 どうしてそうありえるでしょう?

マハルシ
 どうやらあなたは知性が身体のように限定されることはないと考えているようです。
 しかしそれはある特定の要因の集合体でしかないのです。
 アストラル体がそれ以外の何だと言うのでしょう?

質問者
 しかし知性は一つの鞘なのではありませんか?

マハルシ
 そうです。
 知性なしには鞘も認識されません。
 五つの鞘が存在すると言っているのは誰でしょうか?
 そう告げるのは知性ではないでしょうか?

386鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/06(金) 23:37:24 ID:1d4drIFg0
知識を集める者は知性が自分と思うのじゃ。
そうであるから知性が死んだ後もあって欲しいのじゃ。
知性も道具に過ぎないものじゃ。
アートマンを求める役には立つがいずれは捨ててしまう道具でしかないのじゃ。

387避難民のマジレスさん:2019/12/07(土) 00:16:41 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話207

マハルシ
 深い眠りは純枠な非二元的状態です。
 眠りの中にまで個人の魂と普遍の魂という区別が起こるでしょうか?
 眠りとはすべての区別を忘れ去った状態を意味しています。
 ただこれだけが幸福と見なされるのです。
 その幸福を得るために、いかに人々がベッドを用意するか見てみなさい。
 柔らかいクッション、枕など、すべてはぐっすりと眠りにつくため、つまりは目覚めの状態を終わらせるためなのです。
 それにもかかわらず、柔らかいベッドなどは、深い眠りの状態そのものには何の役にも立ちません。
 それが意味することは、すべての努力は、ただ無知を終わらせるためのものだということです。
 そしてひとたび実現してしまえば、努力は無用になるのです。

388鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/07(土) 23:01:18 ID:1d4drIFg0
深い眠りの意識はそのまま死者の意識ともつながっているのじゃ。
肉体を失った者も意識としてあるのじゃ。
それが悟りを得ていない者には輪廻であり、悟った者には涅槃なのじゃ。
死のある一切衆生に輪廻はあり、涅槃への道も在るのじゃ。

389避難民のマジレスさん:2019/12/08(日) 00:38:01 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話208

マハルシ
 自己を明け渡せばそれで十分です。
 明け渡しとは、自分自身を自己存在の原因の源に放棄することです。
 そのような源があなたの外側にいる神だと想像することで自分を欺いてはなりません。
 あなたの源はあなたの内側に在ります。
 あなた自身をその源に明け渡しなさい。
 つまり源を探し出し、その中に融け去るということです。
 あなたは自分が外側にいると想像するため、「源はどこにあるのか?」と尋ねます。
 ある人たちは、
 「砂糖はそれ自体の甘さを味わうことができない。
  味を楽しむためには味わう者が存在しなければならない」、
 「それと同じように、個人は『至高なるもの』になることも、その至福の境地を楽しむこともできない」と主張し、
 それゆえ「一方には個人性が、もう一方には神性が維持されなければならず、そうすることで『楽しむ』ことが成り立つのだ」と言うのです!
 神には砂糖のように意識がないとでも言うのでしょうか?
 どうして自分自身を明け渡しておきながら、至高の至福を楽しむために個人性をとっておくことができると言うのでしょう?
 そのうえ彼らは、「魂は神の王国にたどり着いてそこにとどまり、『至高の存在』に奉仕する」と言います。
 「奉仕」という言葉で神を欺けるとでも言うのでしょうか?
 神が知らないとでも言うのでしょうか?
 神は人々の奉仕を待っているとでも?
 純粋意識である神は、「私から分離して奉仕をしようというあなたはいったい誰なのか?」と逆に尋ねるのではないでしょうか?

 そのうえ彼らは、「個人の魂は自我を取り除くことによって純粋になり、主の身体にふさわしくなる」と主張します。
 つまり主は霊性であり、浄化された魂たちが主の身体を構成すると言うのです。
 魂のための魂などというものがありえるでしょうか?
 いったいいくつの魂が存在すると言うのでしょう?
 その答えとは、「多くの個人の魂が存在し、一つの至高の魂が存在する」であるに違いありません。
 その場合の「魂」とは何なのでしょうか?
 身体などではありえないはずです。
 それらすべてが消し去られた後に残るもの、それが「魂」と言われるものに違いありません。
 消し去ることのできないものとしての「魂」を認識した後でさえ、「至高の魂」が存在することが知られるはずです。
 その場合、異なるすべてのものを取り除いた後に残る究極の実在、その実在として認識された魂とはどのようなものでしょうか?
 もしそれが正しいなら、除き去ることのできない実在として描写された魂は、真の魂ではないということになります。
 このような混乱の原因はすべて「魂」(アートマン)という言葉にあります。
 同じ言葉「アートマン」が身体、感覚、心、生命原理、個人の魂、至高の存在を示すものとして用いられてきました。
 一つの言葉を広範囲に適用してきたことが、個人の魂(ジーヴァートマン)が「至高なるもの」の身体を構成するという概念を生み出したのです。

390避難民のマジレスさん:2019/12/08(日) 00:39:09 ID:ESRLx5g.0
  おお、アルジュナよ!
  私は生きとし生けるものすべてのハートの内に座す真我である。

  『バガヴァッド・ギーター』第10章20節

 この詩節は、主が生きとし生けるものの真我(アートマン)であることを示しています。
 それは「(複数の)個我の中の真我」と述べているでしょうか?
 いいえ。
 その反対に、もしあなたが真我の中に融け入るなら、個としての存在は消え去り、源そのものになるのです。
 だとすれば、明け渡しとは何でしょうか?
 誰が誰に明け渡すと言うのでしょうか?
 これが帰依、叡知、探究を織り成しているのです。

 ヴィシュヌ神崇拝者である聖者ナンマルヴァールは、
 「『私』と『私のもの』にしがみついたために私は迷宮に迷い込み、真我を知らぬままさ迷い続けました。  真我を実現したとき、初めて私自身があなたであり、『私のもの』もあなたでしかないことを理解したのです」と語っています。

 こうして見れば、帰依とは自己を知ること以外の何ものでもないことがわかります。
 限定不二一元論の学派もそれを認めてはいますが、それでも彼らは伝統的教義に固執し、個人は「至高なるもの」の一部、つまり主の身体の一部だと主張します。
 彼らの伝統的教義は、
 「個人の魂は浄化されなければならず、それから『至高なるもの』に明け渡されなければならない。
  そのとき、自我は失われ、人は死後にヴィシュヌ神の天国に行く。
  そうして初めて『至高なるもの』を楽しむことができるのだ」と言うのです!

 「自分は原初の源から離れている」と言うこと自体が偽りなのです。
 自我を取り除いて純粋になりながら、しかも「至高なるもの」に奉仕するために個人性を維持するということは、人を欺く策略です。
 何という二枚舌でしょう──初めに何が本当に神のものなのかを決め、それから神への奉仕を装うのです!
 いったい神がこのすべてを知らないとでも言うのでしょうか?
 

*ある人たち:限定不二一元論の学派。

*その場合、異なるすべてのものを…:in that case, how was the soul

記録された言葉と英語表現が不明確であるため、原典の英語は理解し難い文章になっているが、マハルシはこの対話の中で、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論学派)の
「何が『魂』なのかを知るには『魂』以外の存在をすべて取り除かなければならない。
 それゆえ、身体や世界だけではなく『至高なるもの』をも取り除いて初めて『魂』を知ることができる」
という方法論の誤りを指摘し、このような混乱の原因はすべてアートマン(魂)という言葉に広範囲な意味を与えたことによると説明している。

*おお、アルジュナよ!…:『バガヴァッド・ギーター』10-20

おお、グダーケーシャ(アルジュナ)よ!
私は生きとし生けるものすべてのハートの内に座す真我である。
私は生きとし生けるものすべての始まりであり、中間であり、終わりである。

391鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/08(日) 22:52:06 ID:1d4drIFg0
帰依とは本来神仏に自己の心身を全て明け渡すことなのじゃ。
しかし、それができる者は少ないのじゃ。
信仰する神仏にさえ自己の心身を全て明け渡すことに不安や恐れが在るのじゃ。
気が狂ったり死んだりするのではないかと恐れるのじゃ。

多くの者にとっては自分を明け渡すことができるのは、自分しか居ないのじゃ。
自分を知り尽くすことで心身を明け渡したことになるのじゃ。
それが出来れば自分と思っていたものが無くなるのであるから全て明け渡しているのじゃ。
自分を知れということが全ての賢者達の教えなのじゃ。

392避難民のマジレスさん:2019/12/09(月) 00:16:30 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話209

1936年6月19日

物理学講師のB・C・ダース氏が自由意志と運命について尋ねた。

マハルシ
 それは誰の意思でしょうか?
 あなたは「私のです」と言うかもしれませんが、あなたは意思と運命を超えているのです。
 「それ」としてとどまりなさい。
 そうすれば、そのどちらも超越するでしょう。
 それが意志によって運命を克服するという意味です。
 運命は克服できます。
 運命とは過去の行為の結果です。
 賢者との交際(サットサンガ)によって悪い性癖は克服されます。
 そのとき、正しい視野のもとに体験を観ることができるようになるのです。

 今、私は存在する。
 私は楽しむ者だ。
 私は行為の結果を楽しむ。
 私は過去に存在したし、未来にも存在するだろう。
 この「私」とはいったい誰でしょうか?

 この「私」が行為とその楽しみを超えた純粋意識であることを見いだすことが、自由と幸福の獲得なのです。
 そのとき努力はありません。
 なぜなら真我は完全であり、それ以上獲得するものなど何も残っていないからです。

 個人性が存在するかぎり、人は行為者であり楽しむ者です。
 しかし個人性が失われれば、神の意思が支配し、出来事の流れを導きます。
 神の力を感じ取ることのできない人たちが個人性を感じるのです。

 戒律や修行は個人のためのものであって、解脱した人のためではありません。
 聖典の戒律の中に自由意志は良いものであるということが示されていますが、それは運命を克服することを意味しています。
 そしてそれは叡知によって為されるのです。
 叡知の炎はあらゆる行為を焼き尽くします。
 叡知は賢者と交わることによって、と言うよりむしろ賢者の霊的な臨在によって得られるのです。

393鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/09(月) 22:51:01 ID:1d4drIFg0
意志とか運命という時、人は個我に囚われて幻想を見ているのじゃ。
個我がなければその意志も運命も無いのじゃ。
ただあるがままにあるだけなのじゃ。
何かを行うと言う事は無く、行うものは無く、行う対象もないのじゃ。
あるがままにある時智慧も自ずからわいてくるのじゃ。

394避難民のマジレスさん:2019/12/09(月) 23:09:36 ID:LABA5HjA0
僭越ながら二言失礼いたします。

肉でエネルギーを養う作戦をとっている方々もいると思うので、
備忘録的にヨーガの4段階での肉の配分をブログに掲載しました。

肉でエネルギーを必要とするなら調気行をやったほうが良いと思うので、
ハタ・ヨーガプラディービカー、ヨーガ・スートラ、
ゲーランダサンヒター、シヴァサンヒター、
などを参考にして調気行をしておくと気量の上がり方も変わってくると思います。

395避難民のマジレスさん:2019/12/10(火) 00:16:15 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話210

マハルシ
 人は高次の力によって行動しています。
 にもかかわらず、彼はすべてを自分自身で為すと考えます。
 それはちょうど足の不自由な人が、もし立てるように支えてもらえるなら敵と戦って退散させてやるのに、と空威張りするようなものです。

 行動とは欲望に駆り立てられたものです。
 欲望は自我が立ち現れた後に起こります。
 自我は高次の力から生じ、その存在も高次の力に依存します。
 自我は高次の力から離れて存在することはできないのです。
 だとすれば、なぜ「私がする、私は行為する、私は機能する」といった無駄話をするのでしょう?
 
 真我を実現した人は、世界に恩恵を与えずにはいられません。
 彼の存在そのものが最高の善なのです。

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/10(火) 22:38:02 ID:1d4drIFg0
自分が行うとか、自分が選ぶとか、自分がしないことも無いのじゃ。
自分というのは無いからのう。
ただ意識が在るだけなのじゃ。
意識が無ければ肉体も無いのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2019/12/11(水) 00:18:29 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話211

物理学講師のB・C・ダース氏が尋ねた。

「ヨーガとは合一を意味しています。
 いったい何と何の合一なのかと不思議に思ってしまいます」

マハルシ
 まさにそのとおりです。
 ヨーガは、初めに区別があって、後に一つのものが別のものと合一するということを意味しています。
 しかしいったい誰が誰と一つになると言うのでしょう?
 あなたは探究者であり、何かと合一されることを探し求めています。
 もしそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければなりません。
 しかし真我はあなたに最も近いものです。
 そしてあなたは常にそれに気づいています。
 それを探し求め、それとして在りなさい。
 そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていくでしょう。
 そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるのです。
 いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)なのでしょうか?
 見いだしなさい。

質問者
 石なども、常にそのように在るよう運命づけられているのでしょうか?

マハルシ
 誰が石を見るのでしょうか?
 それらはあなたの感覚によって知覚され、感覚は心によって作用します。
 それらはあなたの心の中にあるのです。
 それは誰の心でしょうか?
 質問者が自分でそれを見いださなければならないのです。
 真我が見いだされれば、このような質問も起こらないでしょう。

 真我は対象よりも親しいものです。
 まず主体を見いだしなさい。
 そうすれば対象はそれ自身の面倒を見るでしょう。
 対象はそれぞれの人のそれぞれの観点にしたがって見られます。
 それによって、さまざまな理論が展開していきます。
 しかしそれらの理論を見、認識するのは誰でしょうか?
 それはあなたです。
 あなたの真我を見いだしなさい。
 そうすれば、心はさ迷うことを止めるのです。

質問者
 心とは何でしょうか?

マハルシ
 想念の束です。

質問者
 その源はどこにあるのでしょうか?

マハルシ
 真我の意識にです。

質問者
 それならば、想念は実在ではないということです。

マハルシ
 そのとおりです。
 唯一の実在は真我なのです。

398鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/11(水) 22:35:36 ID:1d4drIFg0
想念も石も実在ではないのじゃ。
人がただそのように名づけてイメージしたからあると言っているだけなのじゃ。
存在するといえるのは意識だけなのじゃ。
ヨーガとはその気付きに辿りつく手段に過ぎないのじゃ。
その境地にたどり着けば捨てて善いのじゃ。

399避難民のマジレスさん:2019/12/12(木) 00:16:57 ID:ESRLx5g.0
ラマナ・マハルシとの対話212

マハルシ
 プラダクシナとは「すべてが私の内に在る」ことを意味しています。
 アルナーチャラの周辺を回ることは世界を一周するほどの効果があると言われています。
 それは世界全体がこの丘に含まれているということです。

 アルナーチャレーシュヴァラ大寺院の周りを歩いて回ることも、同様に良いことです。
 自分自身がぐるぐると回るのもやはり良いことなのです。

 つまりすべてが真我に含まれているということです。
 『リブ・ギーター』は「私は固定されたままだ。一方、無数の宇宙は私の心の中の観念となり、私の内側で回り続ける。これが最高のプラダクシナの瞑想である」と述べています。


*プラダクシナ:神聖な対象に対し常に右肩を向けながら、その周りを歩いて回る礼拝行為。

400鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/12(木) 22:37:36 ID:1d4drIFg0
すべてが自分の観念であるならば、遠くの寺に行って巡礼する必要は無いのじゃ。
自分が回れば善いのじゃ。
近くの寺や山を回るのも善いのじゃ。
すべてが自分の中で回るのじゃ。
自分が曼荼羅なのじゃ。

401避難民のマジレスさん:2019/12/12(木) 23:05:12 ID:x7.1aJVk0
>>400
うむ。
たしかに、そのとおりでありますね。
どこにも行かなくても修行できるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ


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