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新エスペラントNEPO*進行中

21なつ:2009/08/26(水) 19:24:39
こんにちは。
ベダウリンデさん。まったくそう。うなずきながらこのスレを読んでいました。
まあ数詞に関しては煮詰める必要がかなりあるでしょうね。そこは僕は保留です。

さて、これは国語レベルの問題ですが、日本人の人で敬語が分かってない人が大勢います。
「敬語と丁寧語の区別が分かっていない!」という表現をする人自体わかっていない。敬語と尊敬語の混同です。
敬語には、尊敬語、丁寧語、謙譲語の3つ(最近では5つに分け始めてもいる)あります。
「英語には敬語がない!」という表現は、間違いで「英語には尊敬語がない!」あるいは、「英語には敬語のうち丁寧語しかない!」というのが適切だと思います。
この英語というのにはエスペラントあるいは他のヨーロッパの言語がたぶんあてはまります。
そして丁寧表現というのはすべての言語にあるんじゃないかな。
ただしその考え方、使用方法は各言語で違い、誤解を生む可能性のほうが高い。
NEPOの場合、ベダウリンデさんが言うように尊敬語、謙譲語は不要でしょう。
そしてぞんざいに、あるいは、高圧的に、命令形の「動詞だけ」をどなって用いるのと、bonvoliを用いて「文」を構成するのとでは、
国際共通的に丁寧であるか否かほぼわかることですので、それで必要かつ十分でしょう。
エスペラントが条件形を用いて丁寧表現をするのは、ヨーロッパ的だと思います。
フランス語ではMi volas〜じゃなく、Mi volus〜というのが丁寧表現で一般的です。
英語では、条件形の活用が失われて過去形にすることで丁寧を表しますね。
どっちみちヨーロッパ的表現であることはまちがいありません。
命令形の動詞1語よりも、Mi petasで文を構成するほうが丁寧であり、
自分の名前を1語言うだけよりも、Mi estasで文を構成させるほうがより丁寧である
というのは共通的(あるいは容易に理解できる)ではないでしょうか。
参考になるか分かりませんが、「日本語手話」は日本語とは別言語と言ってもいいくらいです。
違いは、コミュニケーションをとるため、より簡略化された身振りを使うということです。
それによって、一番の違いは、健常者の日本語よりも直接的な表現かつ感情が豊かだということでしょう。
NEPOもそれにあてはまると思います。価値観の違う人たちの最も効率的に誤解の少ない表現方法は、直接的な言い方(と顔で感情をはっきりと表現)でしょう。

エスペロさんは、エスペラントはヨーロッパ人同士の共通言語であればいいという考え方ですが、
エスペロさん自身ヨーロッパ人なんですか?そうじゃないと矛盾した考えだと思うのですが。
それともアジア人とは話す気はさらさらなく、ヨーロッパ人とだけ話すのだという昔のインテリぶった考え方であるとか?

22エスペロ:2009/08/26(水) 20:07:04
Kara Nacu...Dankon por via mencio pri mia komento...
なつさん・・・私のコメントに関するお言葉に感謝します・・・

Mi estas japano...Mi asertas ke lingvo bezonas iagradan klincidon au konkorodon...
私は日本人です・・・私は、言語には一定の整合性が必要だと思います・・・

Ne uzeblas nek praktikeblas ia linvo kia konsistas el disordo kaj miksigxo vortare kaj
gramatike...?
語彙でも文法でも、ごっちゃ混ぜの言語は、使いものにならないのでは・・・?

E estis kreita kiel pure europeca lingvo...Kaj europaj lingvoj(angla,hispana
,franca,portugala,rusa...) nun estas parolataj kiel oficialaj lingvoj en plejparto da la mondo...
Europo,Norda Euroazio,Norda kaj Suda Ameriko,Oceanio,Afrika,Suda Azio...
エスは、純粋にヨーロッパ語としてつくられました・・・そして、ヨーロッパ語(英語、スペイン語、
フランス語、ポルトガル語、ロシア語・・・)は、世界の大半で公用語として話されています・・・
ヨーロッパ、北ユーラシア、南北アメリカ、オセアニア、アフリカ、南アジア・・・

23ベダウリンデ:2009/08/27(木) 10:21:04
>それによって、一番の違いは、健常者の日本語よりも直接的な表現かつ感情が豊かだということでしょう。
そうなんですか。ちょっと感動しますね。
民族語では「いやみ」や「皮肉」、比喩を使用しての悪口、とか、いやらしい表現にも満ち満ちてます。
それが民族語の「豊かな表現力」ではあるけれど、文化が違えば皮肉が皮肉として通じない可能性もある。
褒めてるのに相手はいやみだと思ってしまったり、これは、同一文化に属していてもありうる。
「文化による裏読み習慣」が存在すると、意思疎通って複雑になるんだと思う。
スムーズな意思疎通のためには、手話でやってる「顔表現」を文字化して、
自分がどう思ってるのかを率直に、他意なく、伝えられるといいと思う。

エスペロさん。
今のエスペラントはヨーロッパ語的で、エスペロさんはそれに満足してるかもしれないですが、
実際には、「エスペラントをアジア化したい」と思ってる日本人エスペランティストは多いみたいですよ。
一月をウヌア・モナートと言う主義の人とか、「敬語導入」の話も私が発想したものではないですし。
NEPOでは各文化を「ごちゃ混ぜ」に取り入れるのではなく、エスペラントから、国際交流には不要なヨーロッパ色を排除する感じです。
「敬語取り入れたから平等になった」みたいな、単純なアジア化とは、ちょっと異なります。

それと、作業面ですが、巨視的な作業と、ちまちま作業があるのです。
ちまちま作業は、エスペラント語根の個々の見直しです。考えただけで気が遠くなります、が、手はつけはじめようか、と・・

巨視的な作業は、夢があって、考えると面白いですよ。
例えば、病名。 病気は複雑なので、正式な名称は国際的な医学名になると思いますが、
日常使う範囲では、「何の、何が、どうなる、病気」程度に表せたら、専門用語知らなくても分かりやすいかな、みたいな。
まず、大きく、①体内における異常症状、②感染による病気 ③怪我、に分けて、
①では、 「何の」は「脳の、心臓の、血液の・・・」。「何が」は「動きが、血流が、成分が・・・」
「どうなる」で「止まる、破裂する、乱れる・・」みたいな感じで、大雑把に言う。
医学の知識が無ければ「何が痛い」病気、でもいい。
他にもっと良い発想ありませんか?
NEPOはエスペラントのベテランより、エスペラントは初心者でもいいから、
学術一般に詳しい人や、人ができない自由な発想ができるやわらか頭の人を、最も求めてます。

24北辰:2009/08/27(木) 14:35:55
ベダウリンデさん
> 興味が無い人には、決してお勧めしません
 「興味が無い」わけではありません。エスペラントの実用上の問題や
その解決のための意見、工夫は聞きたいと思います。
> エスペラントの単語は合成語が意外と少なく、
とは、何によって判断したのですか。辞書によって?
JEIの「エスペラント日本語辞典」と、大学書林の「エスペラント小辞典」との
ページを開いてみた印象、ずいぶん違いませんか?
辞書の編集方針の違いからですが、どう思います?
 エスペラントの合成語は日常の言葉の使用上の必要によって自由に作れるもの、
辞書が その大きな可能性をすべて記録している、とは思えません。
ベトナムの作品でよく見た samsortulo, 辞書には見えないようだが、
合成語と理解すれば、すぐわかりますね。そんなものは載せてないのかな。
使われたものは皆載せれば親切だが、辞書が大きくなりますね。
samideano のような 立派な純合成語を どんどん使って、理解されれば
広まるでしょう。
> ヨーロッパ語をそのままエスペラント化したような単語が非常に多くて、難しい
我々非ヨーロッパ人にとっては、そうですね。ヨーロッパ人にとっては
逆でしょう。だから Ido, Occidental, Interlingua のような
「自分たちになじみやすい」ことばを作りたがるのでしょう。
 基本的なエスペラントの単語からの合成語を広げる事も考えていい、と思います。
エスペラントの非ヨーロッパ化、中立化になりますね。

25なつ:2009/08/27(木) 19:31:26
エスペロさん
では、中立的でもなければ、国際的でもないエスペラントを
そうだと、認めた上で、それでもやる日本人は、
ヨーロッパに隷属、服従的以外のなにものでもないと思いますよ。
また、中立的である国際的であるという表の看板を外したヨーロッパ言語の一つのエスペラントは
ヨーロッパ言語からみたら癒着語的で不自然であり、まるで魅力がありません。
よりヨーロッパ的なインテルリングワをやればいいと思いますよ。

26エスペロ:2009/08/27(木) 20:09:53
Dankon...kara Nacu...
なつさん、ありがとうございます・・・

Vi prave deklamas ke Interlingua au Ido pli preferatas de europanaoj pro
sia europeco...
おっしゃるとおり、インテルリングワやイドの方がヨーロッパ語的でヨーロッパ人には
好まれています・・・

Ili,tamen,estas parolataj au uzataj de malmultaj homoj...E jam agnoskatas kaj
rekonatas kiel planlingvo...tion mi taksas alte...
しかし、これらの言語を話す、或いは使う人たちは少ないです・・・エスはすでに
計画語として認知されています・・・私はこのことを高く評価しています・・・

Kaj ecx inter azianoj Esperanton eklernas tiuj,kiuj jam komprenas europajn lingvojn...
tiuj azianoj ne havus ne-akordan senton pri europeco de E...
それから、アジア人の中でも、エスを始める人たちは、ヨーロッパ語をすでに
理解している人たちです。これらのアジア人たちは、エスのヨーロッパ語性に違和感を
もたないでしょう・・・

27なつ:2009/08/28(金) 18:10:34
エスペロさん、ありがとうございます。
つまり妥協ですね。
エスペロさんは、より広く認知されているということを重要視してエスペラントを選んでいる。
そして、自然言語では、英語がお得意なんですかね。これは単なる想像ですが・・・
「みんなが知ってるからだもんねええ」という考えはエスペロさんの日ごろの意見と違い、主体性がなく受動的で違和感があります。
みんなが知っているものをさらにより使いやすくしようというのがNEPO思想です。
NEPOが「みんなが知ってるからだもんねええ」になったら、ご理解しはじめてくださいね。

(ちなみにアジアで第一外国語が英語じゃなくほかのヨーロッパの言語のところって現時点でありますかね)

28ベダウリンデ:2009/08/30(日) 10:26:45
北辰さん
>> エスペラントの単語は合成語が意外と少なく、
>とは、何によって判断したのですか。辞書によって?
ヨーロッパ系の文書を読んだ上での判断です。
例えばpola radioの冒頭ニュースで、誰某の談話がポーランド語で流れ、その少し後にエスペラント語で訳されるのですが、
全く同じ単語使ってるんだな、と思いましたよ。
アジア人同士で片言のエスペラント語で交流して、それで満足ならそれはそれでいいのですが、
私は、ヨーロッパ人の文書でも、分かりやすく読みたかったのです。それが理想だったのです。
今は、ヨーロッパ人はヨーロッパ語をそのまま使って、楽にエスペラントしてると思います。
アジア人のやり方はよく知らないし、合成語はヨーロッパ人よりは多く使ってるかもしれませんが、
ヨーロッパ人を前にしたら、ヨーロッパ人の言い方を理解するのに必死になると思います。
今のままではヨーロッパ人に楽なエスペラントであり続ける事は変わらないでしょう。
それを変えるには、別派として、非ヨーロッパ人が望む形の新エスペラントをちゃんと作って、
彼らの前に提示してやらなくちゃ駄目だろう、と思うのです。
彼らが新エスペラントに従うかどうかは非常に怪しいですが、
今のままずるずると、ヨーロッパに引きずられた言語を「国際共通語」だなどとうそぶくよりは
きちんと理想を形にしたいと思ったのです。

ちなみに今の作業ですが、Baza Radikaro Oficialaの名詞だけ表にコピーして分類分けしてるのですが、
ヨーロッパ文化に偏ってるな、と改めて思いましたよ。
あれは、アカデミーオとかいう公的機関が公式に決定した基本語根なんですよね?
それがどうしてヨーロッパ寄りに偏ったままの状態で権威ある存在になってるのですか?

29北辰:2009/09/01(火) 02:26:51
ベダウリンデさん
> 談話がポーランド語で流れ、その少し後にエスペラント語で訳される
> のですが、全く同じ単語使ってるんだな、と思いました
ポーランド語にもラテン系の単語は結構あるようだから、これを使えば
ポーランド語の文のあとに似たエスペラントの単語を並べることはできそうです。
そうするとエスペラントの単語もなじみやすく、記憶しやすい、なかなか
いい聞き取り練習の学習教材になっているようですね。
 しかしポーランド語のすべてがラテン系ではないから、この方法、ある限界が
あるでしょう。そこに samideano のような純エスペラント的合成語が入って
くればおもしろい。
 昔UEA本部で働いていた永田明子さん、だいぶ前の世界大会で
文法用語のエスペラント化(脱ヨーロッパ・脱ラテン化)を提案した。
動詞の 現在・過去・未来 は aseco, iseco, oseco とする、など
わかりやすいもので、アジア人出席者は 拍手で歓迎、
ヨーロッパ人は「なにそれ?」といった受け取り方に見えたが、
その場だけで忘れられるには 惜しい提案でした。
> アカデミーオとかいう公的機関
は確かに存在し、時々「勧告案」など出しているが、それに従うかどうかも、
その権威を認めるも認めないも、エスペランチストが実用の中で決めることです。
20年ほど前に出た「国名表」は該当国のエスペランチストの使い方を無視した
ものがあって、アジアではまったく Akademio の案の方が無視されています。

30ベダウリンデ:2009/09/01(火) 09:08:34
>いい聞き取り練習の学習教材になっているようですね。
polaの冒頭ニュースは政治的な内容が多いので、政治用語というのはヨーロッパ全域で共通語になってるな、
というのがよく分かります。
日本人には馴染みのない用語(カタカナ語になってない)なので、
「西洋人はこんなに楽してるのか!ずるい」と思うショックが大きいですよ。
>ヨーロッパ人は「なにそれ?」といった受け取り方に見えたが、
やはり、ヨーロッパ人に提案しても無駄なのでしょう。
>アジアではまったく Akademio の案の方が無視されています。
でしょうね。しかし「抗議」もしないで「無視」と言うのは、アジア人らしい大人しさですね。
それではいつまでたっても、ヨーロッパ人は「自分たちの非」に気がつかないでしょう。
また、それを作った時点で、非ヨーロッパ人の意見が全く反映されてなかったという意味では、本当に差別的言語ですよねー。
酷すぎる差別言語エスペラント!と、訴えたくなりますね。
そんな言語を「中立平等」だなんて、差別されてる側が、よく言えるもんだ、と思います。
エスペラントは、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人を差別で分断する差別言語ですよ。

私の理想では、基本用語くらい全世界で統一し、何人であってもそれを基本に造語するように取り決めれば、
本当の意味で「国際共通語」になったのに、と思います。

31ベダウリンデ:2009/09/01(火) 09:45:14
で、「力及ばず」は目に見えているのですが、アカデミーオ語根の見直しを、細々と行い続けてます。
すごく大変です。民族語の力も無いし、手がかりも少ないし。でも、自分の理想は自分なりに試してみようかな、と。
のめりこむと人生狂いそうだし、そこそこ、で。

例えば、animo,spirito,mensoの違い。
日本語ではどれも「精神」で、あったとしても微妙な違いで、自信を持って「使い分け」できない。
今までのエスペランチストは、その違いを必死になって理解しようとしてたんだけど、
NEPOでは、不要なものは削っちゃえるんです。

animo,spirito,mensoは、英語ではsoul,sprit,mindoと、それぞれ意味が近いようです。
日本人でもカタカナ語で「ソウル、スピリット、マインド」と言いかえれば、区別できそうですが、
その区別の根拠に自信が持ててるとは限らない。英語話者の意識と一致してるかも自信ない。
英語でも、3語が一対一かというと、そうでなく、animoの一部の語義はspritである。
違いを際立たせれば、animo=死んでも生きる霊魂、spirito=精霊、menso=知性に近い、と区別できるが、
各民族語で訳語の当て方がばらばら。(参考lernu辞書,ReVo)

①仏語や独語、露語では、animoは別の訳語で、spiritoとmensoが同一訳語。
②中国語ではanimoとspiritoが「精神」で、mensoは「心智」。
(心智という熟語は日本語には無いですが、すごくいい訳語だと思った)
③韓国語とトルコ語では、animoの訳語は載っていても、spiritoとmensoの訳語が載ってない。
(訳しづらいのかな、と思った)
④3語に3つの別々の訳語を載せてたのは、ポーランド、イタリア、フィンランドなど)
全部は調べてないけど、上記4タイプに分類できるかも。

つまり、3語のイメージは民族によってばらばらみたいです。
ヨーロッパ人でも一対一になってないし、絶対混乱してるはずです。
(話し手と聞き手が自分の母語に合わせて解釈して通じた気になってる)
特にアジア人は、3語の区別が難しいようなので、それだったら、まとめちゃいましょうよ、と。
案ではanimoにspiritoの意味を吸収してspirito削除。
mensoはintelektoとか、よりはっきり定義できる別語に吸収して削除。なんてどうか、と。
「心智」をエスペラントにするならsaĝ-animoとかにする。

32ベダウリンデ:2009/09/01(火) 12:06:54
>文法用語のエスペラント化(脱ヨーロッパ・脱ラテン化)を提案した。
>動詞の 現在・過去・未来 は aseco, iseco, oseco とする、など
よく考えたら、これは絶対変ですよ。
だって、-as,-is,-osという時制の説明をする前の段階で、
これから説明するはずのas,is,osという用語を使う!?
「-asを使うのはどんな時ですか?」「as時制の時です」????
はあ?って思ったヨーロッパ人が正しい。
ろくに考えもせず拍手喝采したアジア人って、、、、。。。

そう考えると、今使うpasinta tempo,venonta tempoもおかしい。inta ontaが入ってるから。
nun-tempo,antaux-nun-tempo,malantaux-nun-tempoにすればいい。

33北辰:2009/09/03(木) 15:38:35
> > 動詞の 現在・過去・未来 は aseco, iseco, oseco とする、など
> よく考えたら、これは絶対変ですよ。だって、-as,-is,-os という時制の説明
> をする前の段階で、これから説明するはずのas,is,osという用語を使う!?
Kion vi imagas au~ fantazias pri la situacio??!!?
世界エスペラント大会の場だから、as, is, os なんか日常使い、わかっている
人間の前での話だったんだけど?? 何を説明する必要がある??!
> pasinta tempo,venonta tempo もおかしい
??? 現実に問題なく使われておりますが? PMEGを見てください。
> nun-tempo,antaux-nun-tempo,malantaux-nun-tempoにすればいい
Nun-tempo: AS-finaj^o として PMEGに 出ています。あとの二つは
まるで判じものですね。ここの4行前の例で、すんなりわかる、と思いますが。

34なつ:2009/09/03(木) 19:44:06
面白いwwww
北辰さんは、文の解釈力が全くないのが分かりました。
最近の書き込みの全て把握力の欠如から述べておられますので、
僕も含めみなさん、分からせようと説明しなければならないのが面倒臭いですw
>>日常使い、わかっている人間の前での話
wwwwwww
>>現実に問題なく使われておりますが
wwwwwww
なんで日常使ってて問題にしていないやつ限定にしちゃったんだ??www

動詞の語尾がasの時の時制をAS時制という
では、語尾をASにするのはどういうときか?
それはAS時制のときに、語尾をASにするのである。w
循環論法っつうかなんていうんでしょうか。論理学を中等教育で学ぶ西洋人は嫌がりますかね。
「これでいいではないか!みんなasがどのように使用するか、知ってるではないか!」
んなこといってねえってwトートロジーのこと言ってるんだってw
pasintaやvenontaにしても日常語で使われていても、はたして
それは、NEPOとしてふさわしいかどうかの話なの。日常的に使われていようがいまいが
関係ないの。
矛盾点、理解度、論理構成などなど、再検討すべきかどうかがここのスレね。
このスレではね。

この人、疲れますね、ベダウリンデさん、Rakuさん

35:2009/09/03(木) 21:20:04
>なつさん
そういう嘲笑的な書き方は非常に不愉快です。
NEPOに対する「ひいきの引き倒し」的な言動は慎んでください

36ベダウリンデ:2009/09/04(金) 11:18:19
asecoが変なのは、
日本語文法で、非過去を「う時制」、過去を「た時制」と言うがごとくの、一目瞭然の変さです。
日本人なら、語尾が「う行」は非過去、「〜た」は過去と、日常使ってて説明する必要無いでしょ、
だからって、「書く、走る、読む、という時の時制はなんですか」「う時制です」。変でしょう。
おかしいと思わない方がおかしい、としか思えないんですが、なんでおかしいと思わないのでしょうね?
pasinta venontaも厳密には怪しい言い方だけど、
pasiで過去を予感させ、 veniで未来を予感させてるから、まだマシなんだと思う。

ところで、今は感情を表す語を整理中なのですが、感情語って民族語に依存してて難しいですね。
日本語の、恨むと憎む、悲しいと切ない、は、英語の分け方と異なるんだなー、などと再発見。
日本語の基準にとらわれず、ネットでちょろっと見た色々な学説を参考にしつつ、
また、現行エスペラントにもできるだけ合わせて、不要な語はまとめてみようと思ってます。が、困難な作業です。
怨むは憎むに吸収し、切ないは悲しいに吸収となると思いますが。
また、感情語を動詞に統一するか、とか。色々と悩んでます。

37なつ:2009/09/04(金) 19:05:31
申し訳ございません。
が、NEPOに対するひいきの引たおしなるものではなく事実だというのは明々白々。
ですが、ここでリセット!

38ベダウリンデ:2009/09/04(金) 19:21:26
ウィキペディアの「感情」で調べたんですが、
中国の五情、七情、六情には、怨 (うらみ)、 悪 (にくしみ)、 憎 (にくしみ)が入ってる。
中国語での正しい意味は知らないですが、日本語訳から察するに「憎む」だと思いました。
それに対して西洋の学説では、ダーウィンとエクマンさんという人の説が載っていたのですが、
両者に「軽蔑」と「嫌悪」が入っていて、「憎しみ」 は入っていない。
「憎しみ」「軽蔑」「嫌悪」は、日本語のニュアンスでは、それぞれ異なるけれど、
西洋語は日本語とは感情の区分けが一致しないのだろうな、と思いました。
英語のhateも憎むと嫌うの意味がある。lernuの英E辞書でも、hateはmalamoとmalŝato。
しかしmalŝatoを引くと、disdain(軽蔑)とdislike(嫌い)。

エスペラントだと、malを付けるので、日本語の感覚に近くなるかもしれない。
malamo=amoの反対なので、malŝatoやmalestimoより、積極的に強く嫌う感じとなる。つまり「憎む」。
ŝatiには二つ意味が合って「高く評価する」「好む」があるけど、malŝatiを「好む」の反対だとすると「嫌う」。
malestimiは「その人の人間性を高く評価する=尊敬」の反対なので「低く評価する=軽蔑」。
嫌悪という激しい意味の単語にはabomenoがあるが、これはmal-ŝat-egoで代用できるから、削除可能。

39エスペロ:2009/09/04(金) 19:35:44
Miaj karaj,pardonon por vin desaponti...
皆さん、水をさしてすみません・・・

Mi preferas 'prezenco','preterito','futuro'...al 'aseco','iseco','oseco'...
私は、'aseco','iseco','oseco'より、'prezenco','preterito','futuro'の方を好みます・・・

Tiuj vortoj ja estas pli facile akcepteblaj de parolantoj de europaj lingvoj...
これらの言葉の方がヨーロッパ語の話者には容易に受け入れられやすいからです・・・

40北辰:2009/09/05(土) 07:31:46
このスレの最初(1 名前:ベダウリンデ)に次の発言がありました。
> ①エスペラントの単語は合成語が意外と少なく、
>  ヨーロッパ語をそのままエスペラント化したような単語が非常に多くて、難しい。
> ②それゆえに、我々非ヨーロッパ人には不利で、不平等だ!
> NEPOは、上記の点を改善したいと思ってる新エスペラント構想です。
第1行には同意しにくいが、第2行以下は理解できます。つまるところ、
エスペラントの現実の 問題点の認識の上に立って、改善を進めようとするもの、
と理解します。現実にエスペラントを使っているものとして興味を感じ、
ご意見を拝聴しております。
そこで(29 名前:北辰)で 故 永田明子さんの提案を紹介しました。
> 動詞の 現在・過去・未来 は aseco, iseco, oseco とする、など
純エスペラント語根の合成語でヨーロッパ系の 影もなく、わかりやすい。
ヨーロッパ人からは「疑問だ」と反論が相次いだが、日ごろ使い慣れた
ヨーロッパ系の文法用語への なじみが強かったから でしょう。
> 日常語で使われていても、はたしてそれは、NEPOとしてふさわしいか
> どうかの話なの。日常的に使われていようがいまいが関係ないの
と発言される方もありましたが、現実に使われている上での問題点への言及は
ありませんでした。現実無視の空想的議論でいいのでしょうか?
それで現実の問題点を「改善」できると思いますか?

41ベダウリンデ:2009/09/05(土) 10:52:25
>'prezenco','preterito','futuro'
極端なヨーロッパ語志向=現行エスペラントでは個人的志向として使えますが、NEPOでは絶対不可。
>aseco, iseco, oseco
純エスペラント語根の合成語だが、「論理的な破たん」をしてるので、エスペラントでもNEPOでも不可。
もしこれが仮に、現行エスペラントで「現実に使われて」いたとしても、
使われてる事自体が、考え不足による提案、群れ体質による安易な同調、習慣化させてしまえば勝ちだという弱肉強食主義、
などの結果だと思うので、矯正されるべきです。

>現実に使われている上での問題点への言及
「現実に使われている」用語の中には、ヨーロッパ人が勝手に母語に合わせて解釈したりして、
その結果、非ヨーロッパ人には理解しづらくなってる概念などもあります。
NEPOではそれらを再定義して修正したいです。

NEPOはエスペラントとは異なった別分派なので、現行エスペラントの「現実」に対して
必ずしも迎合する必要はありません。
用語の再定義の際しては、元々のエスペラント定義は『できるだけ』尊重しますが、
かなり変える可能性もありです。

42ベダウリンデ:2009/09/05(土) 11:39:54
感情語に関しては、ざっと調べた結果、「喜び」「悲しみ」「怒り」「恐れ」が、
人類共通的な最も基本の感情と言える、と思いました。
さらに他の感情も追加するが、どこまでが人類共通的にできるか、今後の課題です。

今は、「怒り」「憎しみ」「嫌悪」について考えています。
日本語と英語で比較しています。
日本語の「怒る」=激して気があらだつ。
同「憎む」=感情を傷つけ逆なでするものに対し、不快感・抵抗感を持ち、時にはそれをことばにし、そのものをやっつけたいと思う意)
同「嫌悪」=憎み嫌うこと。不愉快に思うこと。

英語angry=不当、非情、不快なふるまいをした相手を傷つけたくなるような、強い感情
同hate=誰かを非常に嫌う、非常に嫌ってangryを感じる

エスペラントでは
koleri=侮辱や不満を与えた人に対する強い精神的動揺
mal-amo=誰かに対し悪意や悪事をしたくなる情熱

A=感情、B=原因、C=意思(相手を傷つけたい)、D=嫌う、とすると、
怒る=A、憎む=BC、嫌悪=BCD
angry=ABC、 hate=(AB?)CD
koleri=AB、malamo=C

辞書の説明だけでは片手落ちですが、各自母語の影響で、koleriやmal-amoの解釈は
かなり変わると思いました。

今は誰の助けも無く、一人でできる範囲で考察してますが、
民族語について詳しい人の助言があれば非常に助かります。
一人でも細々やっていく事が重要だと思ってます。
作業は困難で時間が取られます。ただの楽しい「空想」ではありません。

43なつ:2009/09/06(日) 01:24:32
エスペロさんの思考はもうみんな知っています。
まず、mal排除論者でしょ?
malnovaじゃなくoldaのような。
malaltekostaじゃなくcxipaとかもかな
ヨーロッパ主義のインテリ臭ぷんぷんの感じがします。

こういうのを最近ではヨーロッパに土下座フェラチオする人間といいます。

44エスペロ:2009/09/06(日) 13:49:13
Lingvistiko instruas ke NE ekzistas iuj ajnaj lingvoj,kiuj estus intermiksitaj
de pluraj lingvofamilioj...
言語学の教えるところでは、複数の語族が交じり合った言語は存在しないということです・・・

Ene de Duon-Kontinento Barato,ekz. ekzistas pluraj lingvofamilioj: Hindo-Europa, Dravida, Austro-Azia,
Cin-Tibeta...sed lingvistoj asertas ke NE ekzistas tie iaj ajnaj lingvoj, kiaj estas intermiksitaj de tiuj
diferencaj lingvofamilioj...
例えば、インド亜大陸では、インドヨーロッパ語族・ドラヴィダ語族、アウストロアジア
語族、シナチベット語族など複数の語族が存在しますが、言語学者によれば、インドには
これらの異なった語族が交じり合った言語は存在しないということです・・・

Lingvo bezonas ian koincidon, mi asertas...E estis kreita kiel pure europa lingvo...
E devu konsisti el pure vortoprovizo kaj gramatiko de europaj lingvoj...se ne,
tia eventuala lingvo ne uzeblus nek praktikeblus...mi pretendas...
言語には一定の整合性が必要だと思います・・・エスは純粋にヨーロッパ語として
つくられました・・・エスは、純粋にヨーロッパ語の語彙と文法から成り立つべきだと
思います・・・もし、そうでない言語ができたとしても、実用にならないと思います・・・

45:2009/09/06(日) 21:56:43
>43
そういう言い方が他人を不快にさせるのです。

46なつ:2009/09/07(月) 20:22:08
>>44
そのソースをお願いします。
オーストロアジア語族のベトナム語が一見シナチベット語族のごとく、
声調言語であることをご存じないご様子。
さらに漢字文化圏で語彙の60%が日本のように漢語なので、
学べば学ぶほどどっからみてもシナ・チベット語族です。でも違うみたいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E8%AA%9E

>>45
他人を不快にさせないようにさせないように当たり障りの無い表面的な言葉ばかり使う日本人はどうですかな。
ぼくは自分の言葉に責任は持っています。

47エスペロ:2009/09/08(火) 07:07:35
...First Farmers The Origin of Agricultural Societies(Japana traduko:
・・・農耕起源の人類史 2008)de Peter Bellwood p.286...
ピーター・ベルウッド著 日本語訳『農耕起源の人類史』(2008年)p.286・・・

La vortoprovizo de korea lingvo,ekz. konsistas plejparte(70%) el cxin-devena vortoj.
Sed oni ne asertas ke korea lingvo apartenas al cxin-tibeta lingvofamilio...
例えば、韓国語の語彙の大部分(70%)は漢字語ですが、しかし、韓国語がシナチベット語族に
属しているとは言いません。

Distingendas depruntitaj vortoj kaj tiuj originaj...
借用語と本来の語彙とは、分けられなければいけません・・・

48ベダウリンデ:2009/09/08(火) 10:36:35
理想的な国際語として、感情語は何をどのような定義で取り入れるべきか、考えてます。
様々な学者が、生物学的な研究などを経て、数多くの定義をしています。
それらを融合し、考えようと思ってます。

中国五情  喜,楽         哀    怒 怨
中国六情  喜,愛,楽       哀    怒 悪
礼記七情  喜,愛         哀    怒 悪      摺          欲
仏教七情  喜,愛,楽 哀 怒 悪 欲
印度9情  恋愛,笑い   悲しみ  怒り 嫌悪    恐れ  驚き     平和 活力
デカルト  喜び,愛        悲しみ   憎しみ          驚き  欲望

       
マクドゥーガル(1908)本能 愛情・慈悲(tender-emotion) 怒り 嫌悪 恐れ 得意 服従 おどろき(wonder)
ワトソン(1930)神経学的基盤 愛情             いかり(rage)   恐れ,
アーノルド(1960 )好意傾向 愛情      悲しみ  怒り 憎悪,    恐れ 欲望 希望 忌避 勇気 落胆
プラッチク(1980)生物学的 喜び 悲しみ 怒り 嫌悪 恐れ 驚き 予期 受容
パンクセップ(1982)神経学的 いかり(rage) 恐れ 期待 パニック
トムキンス(1984)神経学的   喜び, 苦痛 怒り 嫌悪 軽蔑 恐れ 興味 驚き 恥
イザード(1991)神経学的    喜び, 苦痛 怒り 嫌悪 軽蔑, 興味 驚き 恥 罪
エクマン(1992)顔面表出    喜び, 悲しみ 怒り 嫌悪 恐れ 驚き
ジョンソン=L&O(1987)生物学的 よろこび(happiness) 悲しみ 怒り 嫌悪, 不安


各単語英訳
怒り(anger) 嫌悪(disgust) 悲しみ(sadness)憎悪(hate)喜び(joy)軽蔑(contempt) 驚き(supraise)愛情(love)興味(interest)苦痛(distress)

複数参考にしましたが、特に http://www30.atwiki.jp/_pub/numazaki07/affec09.pdf p39参考

49ベダウリンデ:2009/09/08(火) 10:55:37
ずれたので書きなおし
中国五情-----------------------------喜,楽-------------哀-------怒-----怨---------------------------------------------------------------------
中国六情-----------------------------喜,愛,楽----------哀-------怒-----悪---------------------------------------------------------------------
礼記七情-----------------------------喜,愛-------------哀-------怒-----悪-----------摺-------------------欲----------------------------------
仏教七情-----------------------------喜,愛,楽----------哀-------怒-----悪--------------------------------欲----------------------------------
印度9情-----------------------------恋愛,笑い---------悲しみ---怒り---嫌悪---------恐れ----------驚き------------平和--活力----------------
デカルト-----------------------------喜び,愛-----------悲しみ----------憎しみ---------------------驚き---欲望--------------------------------
マクドゥーガル(1908)本能-------------愛情・慈悲(tender-emotion)-怒り---嫌悪---------恐れ--------------------------得意--服従--おどろき(wonder)
ワトソン(1930)神経学的基盤-----------愛情-----------------------いかり(rage)--------恐れ--------------------------------------------------
アーノルド(1960 )好意傾向------------愛情-------------悲しみ----怒り---憎悪---------恐れ-----------------欲望-----希望--忌避--勇気--落胆
プラッチク(1980)生物学的-------------喜び-------------悲しみ----怒り---嫌悪---------恐れ----------驚き------------予期--受容-------------
パンクセップ(1982)神経学的--------------------------------------いかり(rage)--------恐れ--------------------------期待--パニック----------
トムキンス(1984)神経学的-------------喜び-------------苦痛------怒り---嫌悪---軽蔑--恐れ---興味---驚き------------恥-------------------
イザード(1991)神経学的---------------喜び-------------苦痛------怒り---嫌悪---軽蔑---------興味---驚き------------恥----罪------------
エクマン(1992)顔面表出---------------喜び-------------悲しみ----怒り---嫌悪---------恐れ----------驚き--------------------------------
ジョンソン=L&O(1987)生物学的------よろこび(happiness)-悲しみ----怒り---嫌悪---------------------------------------不安--------------------

各単語英訳
怒り(anger) 嫌悪(disgust) 悲しみ(sadness)憎悪(hate)喜び(joy)軽蔑(contempt) 驚き(supraise)愛情(love)興味(interest)苦痛(distress)

50ベダウリンデ:2009/09/08(火) 11:12:18
考察:
アジアではプラスの感情を細やかに感じ分ける。(喜愛楽)。西洋人は一つにまとめる。
デカルトは例外的(17世紀の人だし)で、アジア的な定義をする。
悲しみと怒りは、東西を問わず感じるが、特に悲しみを定義しない西洋人学者もいる。
主に神経学系で、悲しみの代わりに、いかりをrageと定義し嫌悪も含めるか、または、悲しみの代わりに苦痛を定義する。

中国では「悪」と書くが、日本語訳では「にくしみ」となる。仏教でも同じ。
憎しみと嫌悪が別の感情として並ぶ事は全くないので、両者は区別できない近い感情であることが分かる。
恐れ、驚き、興味、欲望なども、感情として考えられている。

日本人は憎しみと嫌悪を別の感情のように感じるが、正確には定義分けできない。
日本人は「エスペラントでamoの反対はmalamoだから憎しみだね」などと安易に解釈しているが、
その感情を嫌悪とどう区別するかが問題である。

51なつ:2009/09/08(火) 18:32:48
>>47
韓国語の語彙が漢語だからってシナチベット語族とは似てもにつかぬことぐらい誰だってわかる。
ベトナム語はどうなの?
オーストロアジア語族なのに声調言語であり孤立語。
オーストロアジア語族だといわれなければ、シナチベット語族だと、間違ってしまう。
さらに付け加えて、語彙が漢語が多いから、なおいっそうシナチベット語族だと思ってしまう。
っていう付け加えで語彙の話を言ったまでのこと。別に語彙は本質的ではないことは百も承知。
韓国語とりたてるまでもない。でも、その欧米人の筆者が間違っているだけであり、
あなたは裏を取らず信頼してしまっただけなので別にいいですよ。
朝鮮半島、中国に関しては綿密に調べられるのに、別分野では安易に信じてしまうんですかな。
ただし、ベトナム語は「シナチベット語族である」という言語学者もいるかもしれないし、
「声調があるからなんなんだ!孤立語だからなんなんだ!それはシナチベット語族の根本的特徴ではなく、ただの地域性である」
って言い始めると、もうお話にならなくなるんだけどね。

さて、これは雑談。日本語はどうなんだろうか。
南島語族的発音体系で、朝鮮半島的な文法体系。語族不明とされることが多く、複数の語族の混成言語なのではとも思う。
となると複数言語の混成言語は語族不明とするから複数言語の混成言語は存在しないということもいえるかもしれないw

52エスペロ:2009/09/09(水) 07:30:04
Kara Nacu,vi pravas...Cxina-Tibeta lingvofamilio kaj Austroazia lingvofamilio,
plue Taja lingvofamilio estas karakterizataj de tonaj kaj izolaj lingvoj...mi
ne komprenas kial lingvistoj diferencigas tiujn 3 lingvofamiliojn en apartajn
lingvofamiliojn respektive...
なつさん、おっしゃるとおりです・・・シナチベット語族とアウストロアジア語族、
さらにタイ語族は、音調言語と孤立語が特徴です・・・何故言語学者たちがこれら
3語族をそれぞれ別の語族とするのか、分かりません・・・

Supozeble ekzistas iaj karakterizagxoj,kiuj apartigas tiujn lingvofamiliojn...
おそらく、これらの語族を別ける何か特徴があるのでしょう・・・

Peter Bellwood k.a. konsideras ke tiuj 3 lingvofamilioj kaj Austronesia lingvofamilio
(Malaja,Tagaloga,Malagasa k.a.) originis en la suda kaj centra parto de Cxinio...
ピーター・ベルウッドらは、これら3語族とオーストラネシア語族(マレー語、タガログ語、マラガシー語など)
は中国南部および中部に起源したと考えています・・・

Antau 6 au 5 mil jaroj,ties parolantoj kreskis en procedo de kultivado, kaj ili enmigris suden en
Sud-Orientan Azion...tiele Bellwood k.a.asertas...
6000年か5000年前にこれらの語族の話者たちは、農耕の進展につれて
人口が増え、東南アジアへ移住していったと、ベルウッドらは主張しています・・・

53ベダウリンデ:2009/09/09(水) 09:49:39
ミスを修正(学術的な事なので、ミスはなるべく修正)
中国五情-----------------------------喜,楽-------------哀-------怒-----怨-------------------------------------------------------------------
中国六情-----------------------------喜,愛,楽----------哀-------怒-----悪-------------------------------------------------------------------
礼記七情-----------------------------喜,愛-------------哀-------怒-----悪-----------摺-------------------欲---------------------------------
仏教七情-----------------------------喜,愛,楽----------哀-------怒-----悪--------------------------------欲---------------------------------
印度9情-----------------------------恋愛,笑い---------悲しみ---怒り---嫌悪---------恐れ----------驚き------------平和--活力----------------
デカルト-----------------------------喜び,愛-----------悲しみ----------憎しみ---------------------驚き---欲望--------------------------------

マクドゥーガル(1908)本能-------------愛情・慈悲(tender-emotion)-怒り---嫌悪---------恐れ--------------------------得意--服従--おどろき(wonder)
アーノルド(1960 )好意傾向------------愛情-------------悲しみ----怒り---憎悪---------恐れ-----------------欲望-----希望--忌避--勇気--落胆
プルチック(1980)生物学的-------------喜び-------------悲しみ----怒り---嫌悪---------恐れ----------驚き------------予期--受容-------------
ワトソン(1930)神経学的基盤-----------愛情-----------------------いかり(rage)--------恐れ--------------------------------------------------
パンクセップ(1982)神経学的--------------------------------------いかり(rage)--------恐れ--------------------------期待--パニック----------
トムキンス(1984)神経学的-------------喜び-------------苦痛------怒り---嫌悪---軽蔑--恐れ---興味---驚き------------恥-------------------
イザード(1991)神経学的---------------喜び-------------苦痛------怒り---嫌悪---軽蔑--恐れ---興味---驚き------------恥----罪------------
エクマン(1992)顔面表出---------------喜び-------------悲しみ----怒り---嫌悪---------恐れ----------驚き--------------------------------
ジョンソンレアード&オートレイ(1987)生物学的---よろこび(happiness)-悲しみ----怒り---嫌悪---------------------------------------不安----------------

ブリッジェス・2〜4歳児の感情------喜び,愛情,愉快--------------怒り----------------恐れ--------------------------不愉快---興奮--------

各単語英訳(マクドゥーガル〜ジョンソンの行)
怒り(anger) 嫌悪(disgust) 悲しみ(sadness)憎悪(hate)喜び(joy)軽蔑(contempt) 驚き(surprise)愛情(love)興味(interest)苦痛(distress)

他にも無数の学者が感情について研究し、ロボットの表情、介護、ビジネス等、様々な分野で応用されているようである。
人工言語でもなるべく応用したいものである。

54ベダウリンデ:2009/09/09(水) 10:05:37
他には、シュロスバーグやラッセル等、感情を円環モデルに配置する研究もある。
プルチックは立体形である。

喜びと悲しみについては、それらが対象の感情であるとの認識は共通のようである。
デカルトは自分に属したものが、善いものなら「喜び」、悪いものなら「悲しみ」とした。
プルチックとラッセルも、表の上で、喜びと悲しみを対象軸に置いている。
ゆえに、ĝojo喜びの反対はmalĝojo悲しみである点は、現エスペラントを継承して良いと思われる。

55Velanoju:2009/09/09(水) 18:27:14
> 50
> 日本人は憎しみと嫌悪を別の感情のように感じるが、正確には定義分けできない。
> 日本人は「エスペラントでamoの反対はmalamoだから憎しみだね」などと安易に解釈しているが、
> その感情を嫌悪とどう区別するかが問題である。

私の場合は

憎しみ --- malamo  干渉したくなる。
嫌悪 --- malŝato  干渉したくなくなる。軽蔑感または吐き気を伴う。

という感じで区別しています。

am- は干渉したくなる気持ち
ŝat- は評価による感情

を表す、と。

56ベダウリンデ:2009/09/12(土) 09:56:35
>>55
参考ご意見ありがとうございます。
きちんと公的に定義されていれば、それはそれで「使える定義」と思いました。
気になるのは「私の場合」とあるので、エスペラント界で意識統一されてる事象ではない、という事でしょうか?
意識統一が無いなら、各自勝手に母語の影響のもとで使用してしまう可能性が考えられます。
そうなると、表面上は意思疎通しているようでも、本当の意味ではできてない可能性がでてきます。
今のエスペラントでは、とにかく意思疎通できればそれでOKなのですが、
理想の人工言語では、母語が異なっても中身の食い違いが無いようにするにはどうすべきか、考えてます。

愛の反対語は憎しみか、という事を検討していました。
中国六情では、喜怒哀楽に加え、愛悪が追加されます。
愛と悪は反対語である、との理由で並べて追加されたと思われます。(この場合、悪の訳語はにくしみ)
英語でもloveの反対語はhateとなってます。
デカルトは善い対象への気持ちが愛、悪い対象へは憎しみ、として対にしています。
アーノルドは、有益対象へは愛情、有害対象へは憎悪、としています。
愛を基本感情とせず、喜びや幸福をそれに代える学者は、決して憎しみを加えず、嫌悪を加えます。
愛を喜び・幸福という感情に含める場合、憎しみは嫌悪に含まれるのではないか、
というのが私の仮説です。
喜びの反対語は悲しみであるにも関わらず、喜びと嫌悪は密接に関係しています。
英語のhateは日本語訳では、憎しみと嫌悪があてられます。
漢字の悪にも、わるい、むかつく感じ、にくむ、と色々な意味があるようです。
日本語の嫌悪を辞書で引くと、「憎み嫌う、不愉快」なので、憎むという感情を含んでいる。
また、日本語で「罪を憎む」とか言う場合は、憎む気持ちに干渉を伴うとは限らない。

55の案は優れていますが、am-とŝat-は、意味を完全に分離する必要があるのか、と私は思ってました。
分離したとして、みんなが自然に「厳密に」使い分けできるのか。
どちらかがどちらを含む事はできないか、 ŝat-はam-etなのか、それともŝatがamを含むのか、など。。。

57なつ:2009/09/12(土) 16:03:36
>>52
その通り。
分かって頂ければ今までの失礼な談お詫びいたします

58なつ:2009/09/12(土) 16:26:23
sxatiは、
amiが英語のloveとlikeの二つを包含するフランス語のaimer由来であるものに対して
作られた(正しくは新しい概念を付け加えられた)likeの意味の語であり比較的新しい概念の語だと認識しています。
すなわち英語のlikeとloveを分けたい人(イギリス人や日本人)がsxatiをlikeの翻訳に便宜上使うと思っていましたが、どうでしょうか。
おそらくフランス人はami=aimerとしsxatiを使わない傾向なのでは?
それが本来のエスペラントでもあり、物について好き(like)といいたいのであればplacxiを使えば誤解なく問題ないとエスペラント初級を学ぶと思いますが・・
(これは僕の決め付けだったのかもしれませんが。)
それにしても、gxojiとgxuiは僕には何が何やらわかりません。

59ベダウリンデ:2009/09/13(日) 14:57:09
>>58
母語の影響でamiとŝatiの使い方の差が出る、という事ですね。
個人的にamiとŝatiを使い分けたとしても、相手によっては意図が通じない可能性もある、という事ですね。
ReVoにも(ってReVoも古いとか言われそうだけど)元々のŝatiはamiより高い尊敬を意味してたのに、
今はplaĉiと同じになっちゃって、尊敬の意味では他の単語を使うようになった、とありますね。
他の例では、「〜したい」という意味でmi ŝatus 〜と使う例も見るし、ŝatiは混乱の元となってるので削除かな?とも思います。
或いは、amiを「好き」程度の意味で使う事に対して心理的に抵抗のある民族が多数派だったとしたら(現にそうだから意味が変わってきた?)
ŝatiを残してamiは削除でもいいと思います。
削除するにも抵抗があれば、ami=ŝat-egiの特殊な意味、としても良い。そしたらplaĉiは無くしてしまっていいかもしれない。
何を取るかは置いといても、ami(love)とŝati(like)は厳密に区別せず、まとめていいかな、と思いました。

ĝojiとĝuiは、ĝojiは基本感情語として重要ですが、ĝuiは検討を進める必要がありますね。

あと、雑談的に思った事。
英語やエスペラントには「吐き気がするほど嫌い」という単語があるんですが、日本語にはそういう単語無いな〜、というのが不思議でした。
日本語で、最も嫌う単語は「嫌悪」「憎悪」で精いっぱいなんですよ。
なのでエスペラントのabomeniも、日本語にはできないかも。
なんでかな?と思うと、日本って農耕民族で、江戸時代なんかでも町は清潔だった。
西洋は肉食だから家庭で家畜の処理をするのも普通だし、都市なんかも汚物で不潔だったっていうし、
「吐き気する」環境が西洋にはごく身近にあったのかな、なんて思ったりした。
どっちにしろ、「嫌い」という感情にetとegはあっても、
「どのように嫌いか」で単語を分ける必要は無いかも、と思いました。

60ベダウリンデ:2009/09/13(日) 17:33:58
基本感情は、「喜び、恐れ、驚き、嫌悪、怒り、悲しみ」の6感情が、学者達に共通して多く取り上げられる。
エスペラントではĝojo,timo,surprizo,malŝato(malamo),kolero,malĝojo、であろう。

そもそも感情(少なくとも基本感情)が人類に共通(普遍的)なのか、という点では、
ダーウィンの進化論に基づく学派であるエクマン、イザード、プルチック、といった有名どころが支持している。
ただし、感情の表出(表情)は、文化差や性差で異なる。(ごもっとも)
「社会構成主義」とやらでは、感情は社会レベルでの分析の結果、らしい。
国際共通語の立場としては、感情の表出はともあれ、感情そのものは人類に共通してくれてないと、
そもそも国際共通語が成り立たない。よって「進化論学派」を支持するしかない。

プルチックのように、感情を円錐状の立体にする案は応用できるかな、と思ったけれども、
日本人の自分から見ると、円環状のつながり部分が若干不自然に感じられた。
感情を座標上に並べる案は他にもあるけど、概して不自然な感は否めなかった。

また、感情を説明する時「〜した時などの××な気持ち」と書く場合があるが
「〜した時」に表れる感情は文化によって異なる可能性があるため、多用すべきでない、と思った。
例えばこう?
ŝati=senti al io agrabla aŭ bona aŭ bela aŭ inda por vi(好きという感情)
malŝati=senti al io malagrabla aŭ malbona aŭ malbela aŭ malinda por vi(嫌いという感情)

61ベダウリンデ:2009/09/14(月) 16:53:26
心理学入門書に興味深い事が書かれてあったのでメモ的に。
エクマンと意見を対立させてるラッセルは、情緒語を調べ、
「アフリカ人は怒りと悲しみを同意語に用い、サモア人は憎しみと嫌悪を区別せず、
タヒチ人は恥と困惑を区別しない。また、日本人は恥と自責心を区別しない」と述べたという。
確かに、怒りと悲しみは非常に近い感情で、怒りが悲しみになったり、悲しみが怒りになったり、容易に変貌する。
憎しみと嫌悪が近い感情だという感覚も、今まで私が分析してきたとおりだし、恥と困惑が近いのも理解できる。
ただし、日本人は恥と自責心を区別しない、というのは、どーでしょう?
区別できないんじゃなくて、恥という感覚が広くて、その中に自責心も含まれる、というだけではないか。
自分のせいで失敗した事を日本人は恥とみなすけど、西洋人はそうじゃないのかもしれない。
となると、アフリカ人、タヒチ人、サモア人の例でも、感情を区別できないのではなく、広く大きな意味の語があるだけで、
自分の感情を分析して区別すれば区別できるのではないか、と思った。
NEPOでも、広く大きな意味の語を作り、必要ならばその中の特別な意味に単語を割り当てたいと思った。
また、「〜なくらい嫌い」という意味を表す場合、abomeniのような別単語にするのではなく、
(preskaŭ)vome malŝati とか言えばいいと思う。
日本語では「唾棄」という語があるが、それはkraĉe malŝati。
他の民族語でも「〜なくらい嫌い」という表現が他にもあれば、自由に応用でき、表現力も損なわない。
恥や罪悪感という感情については、その要因はそれこそ文化によって非常に異なるであろうので、
定義する時は注意しなければならない。

62ベダウリンデ:2009/09/18(金) 09:01:12
感情語について不思議に思う点。
例えば同じ境遇にさらされても、怒る人と怒らない人がいるように、
感情とは、各個人がそれぞれの内面で感じ取るものである。
エスペラントでは、ĝoji,mal-ĝoji,koleri,timi、は、"senti 〜"と定義される。
つまり、「〜と感じる事」という定義で、主語は、その感情を感じる本人となる。
一方、感情を表す語として、驚き、興奮、興味、等もあるが、これらは
surprizi,eksciti,interesiで、意味としては「驚かす」「興奮させる」「興味を持たせる」となる。
つまり、これらの単語では、主語は、その感情を感じる本人ではなく、別の物となる。
感情とは、個人が内面で感じるものなので、驚きや興味も、感じるのはその人本人の筈である。
同じ物を見ても、他の人も自分と同じく「驚き」や「興味」を持つとは限らない筈である。
なぜ、一部の感情語は、主語が本人にならないのであろうか。
感情語の主語を何にするか、統一しないと不自然ではないか、と思った。

これらの単語を名詞化した単語も、ĝojo,kolero,timoが、その感情を感じてる人の気持ち=感情そのもの、であるのに対し、
surprizoは驚かす行動または驚かす物、interesoは興味を持たせる物、または興味を持った人の感情、
一方、興奮はekscitiĝoとなるらしく、名詞化した時の意味づけもばらばらで、統一性が無い、と思った。

日本語でも、「面白いもの」は、面白がるのは各人であるにも関わらず、物そのものが「面白い」となるので、その点はエスペラントと同じである。
民族語ではこのように表現するのが普遍的なのか、もし普遍的であるとするならば、
喜ぶ怒るなどの感情語と、何を基準にして差異が生じるのか、その点は明確にすべきである、と思った。

63ベダウリンデ:2009/09/20(日) 16:30:03
エスペラントの難点を考えていると、人間の思考の不思議さにも気付かされます。
人間は、自分自身の「感情」と、その感情をもたらす要因となってる「物」を、区別しづらいのではないか、と思いました。
「面白い」は人間の感情であるが、「面白い物」は自分の外部に存在する「物」である。
エスペラントでもfeliĉa「幸福な」の名詞形であるfeliĉoには
feliĉaなsento=感情という意味と、feliĉa okazaĵo=出来事=物、の二つの意味がある。
interesoもinteresasする物と、interesataなsento=感情、と二つの意味がある。

以下、感情語の語根のいくつかについて調べました。
各語根の、動詞形、形容詞形、名詞形の意味を分析し、
それが意味する事は「感情」なのか「物」なのか、分類してみました。
動詞形は、自動詞的な意味をもつもの=senti〜 と、他動詞的な意味をもつもの=他者を〜する の2タイプに分かれます。
形容詞形は、「感情」を形容する場合(mi estas 〜a, 〜a mieno, 〜a homo)、「物」を形容する場合(〜a aferoなど)、と分けられる。
名詞も、「感情」そのものを指す場合(〜なsento)と、その感情をもたらす「物」(io,ago,situacio,okazaĵo)を表す場合とがある。

おそらく辞書により定義が異なるであろうと思われますが、主にReVoに従いまとめました。

64ベダウリンデ:2009/09/20(日) 16:42:55
感情語語根------------------------------------動詞形(-i)-------形容詞形(-a)----名詞形(-o)
ĝoj/i(koler/i,kompat/i ktp)-------------------自動詞型-----------感情----------感情
plezur/o(abomen/o)----------------------------自動詞型----------------物-------感情
feliĉ/a----------------------------------------------------------感情-物-------感情-物
trankvil/a-------------------------------------------------------感情----------感情
interes/i-------------------------------------他動詞型----------------物-------感情-物
surpriz/i(amuzi)------------------------------他動詞型----------------物------------物
ĉagren/i(ted/i)-------------------------------他動詞型----------------物-------感情
embaras/o-------------------------------------他動詞型-----------感情-物------------物

以上の様に、感情語は、動詞化した時に、自動詞型と他動詞型に分かれるのに加え、
形容詞化・名詞化した場合も、感情を意味するのか、物を意味するのか、が、単語によりバラバラに定義されている、
という事が分かる。

65ベダウリンデ:2009/09/20(日) 17:03:52
このような事象は、エスペラントに甚だしい不規則性をもたらしている、と言える。
我々が学ぶ場合も、いちいち正しく覚えなければならないので非常に負担である。
おそらく、民族語の影響であろうが、せっかくの人工語なのだから、びしっときっちり、例外なくしたらどうだろうか。

例えば、感情語は全部、基本的に形容詞として定義し、表、上から、
「喜んでいる状態」「楽しんでいる状態」「幸福を感じてる状態」「平静な状態」
「興味を持ってる状態」「不意をつかれ驚いてる状態」「困ってる状態」「当惑してる状態」
と、意味的に統一する。
-iĝiを付ければ「〜な状態になる」。-igi=「他者を〜する」。
名詞化した場合は「〜な感情」を主な意味とし、場合によっては、同時にその感情の要因となってる「物」も意味する、とする。
「物」である事を明示したければ、-aĵoとする。

この点については、今回はこれ以上掘り下げず、「案」という段階で終わらせておく。

感情語とは不思議なもので、自分の感情とその要因を区別できない他に、
人間には「共感力」があるんだなあ、と痛感させられた。
人間は、自分の感じる感情と同じ感情を、他者に対し-igiする事ができる。
また、他者から何かされた時の感情を、自分一人でも感じる、つまり、-iĝiもできるのである。
人間の「共感力」が、感情語を複雑にしたのかもしれない、と思うと面白い。

66ベダウリンデ:2009/09/24(木) 17:14:36
迷ってるのは感情語のベースを動詞にした方がいいのかどうか、です。
エスペラントは、品詞語尾の付け替えで品詞は何にでもなるけど、ベースの品詞が何であるか、重要なようです。
形容詞は状態を表しますが、分類すると、純粋に客観的な状態(赤い等)と、主観で判断した状態(美しい等)、
感情と結びついてる状態(楽しい等)、とに分けられ、その区別が非常に難しいです。
例えばagrablaは、物を形容し、「快い物」となります。
日本語の感覚では、「快い」は感情語のように思いましたが、「私はagrabla」とは言わないようです。
なのでagrablaは主観で判断した状態、と言えると思いました。
trankvilaは「私はtrankvila」と言うので、感情の状態です。
これらの違いの判断は非常に難しいです。
感情と結びついた状態は動詞化すると、その違いが明確化するかもしれない、と思いました。

67ベダウリンデ:2009/09/25(金) 10:27:34
主観で判断した状態も、感情に密接してるレベルと、感情から比較的独立してるレベルとがあります。
agrablaは、感情密接度がかなり高いので、感情語とみなしても良いようにも思います。
ある物をagrablaだと思うのは、それを見た自分の感情がagrablaになるからです。
malĝojaな物は、それを見た自分がmalĝojaになるからです。それと同じ意味で。
gaja,viglaも主観で判断した状態ですが、感情密接度は低いです。
なぜなら、ある物(人)をgaja,viglaだと思っても、それを見て自分もgaja,viglaになるとは限らないからです。

このように、エスペラントでは、感情語の品詞が統一されていないので、非常に分かりづらいです。
感情語は感情語であると明示的に定義して、どれも動詞(自動詞型)として同じ扱いでまとめてくれれば、分かりやすかったと思います。
感情語にはこれこれがあって、動詞ならこういう意味、形容詞化すればこういう意味、とはっきり決まってたら、何と使いやすいか。
人間の感情なんて大体決まってるから、今の状態に一番近い感情語を選択すればいいと思う。
せっかくの人工語なのだから、語彙の意味まで統制して使いやすくしてほしかったな、と思います。

68ベダウリンデ:2009/09/29(火) 09:14:19
「困る」という意味で使われるĉagreni, ĝeni,embarasoの区別がつかなくて「困って」います。
ReVoでは
ĉagreni=誰かの意図や希望に反対して、その人に不愉快を起こさせる。
日本語では「悩ませる, 困らせる, 苦しめる」

ĝeni=①誰かの動作を邪魔する、誰かに対し不便にする、居心地悪くする。
===②道徳的に邪魔して誰かの行動や決意を困難にする。
日本語では「邪魔する, 厄介をかける, 気を使わせる」

embarasi=①物理的な邪魔をして、誰かの動作や行動をĝeniする
===②誰かを、簡単に抜け出られない状況に置く。
日本語では「(動作を)妨げる, 迷惑をかける, 当惑させる」

どれも迷惑をかける側が主語になる「他動詞型」で、名詞形は、邪魔となる「物」を表します。
日本語訳を見ると、まったくもって区別がつきませんが、
自分なりに区別してみると、ĉagreniは故意や悪意を感じ、やられた側も苦痛が大きい?
ĝeniは「気をつかわせる」的な意味に使う場合が多い? 意味的には軽い?
embarasoは英語のembarrassだとすると意味がはっきりする。「当惑、決まり悪い」という意味。

69ベダウリンデ:2009/09/29(火) 09:31:37
3語の意味が漠然としていて区別が曖昧です。
「邪魔する」という動作だけを表したいなら、malhelpiで十分です。
ĝeni①、embarasi①は不要です。何でmalhelpiして、その結果相手がどうなるか、は文脈で分かります。
「やられた側の感情や状況」まで、意味の中に持ち込もうとしているから、単語が複雑化したんだと思う。
「気を使う」とか「当惑する」とか、その本人にしか分からない感情だと思う。
その感情を抱いてる本人を主語とする自動詞ではなく、他動詞にするから不自然なんだと思う。
だって、敢えて「気を使わせてやる」「当惑させてやる」なんて、普通、思いますかね?
相手が気が回らないから、こっちが余計に「気を使う」んじゃないですか。
それに「当惑」だって、こっちに悪気は無くても、本人が勝手にするんじゃないですか、普通は。
感情語と動作語は、きちっを分けてほしい。

70ベダウリンデ:2009/09/29(火) 09:52:40
「気を使う」「当惑する」を「気を使わせられた」「当惑させられた」と
被害者意識をこめて表現する民族の割合は多いのでしょうか?
他の民族語について知らないので、是非とも知りたいですね。
少なくともヨーロッパ系は、被害者感情で表現する、という事でしょう。
民族語は自然に発展したものだから文句は付けられないですが、
人工語では「妥当な表現」に修正する事が可能です。
感情の表現として、被害者意識で表現するのと、相手には関係ないけど自分はこう思った的に表現するのと、
国際語ではどっちがふさわしいでしょうかね?
被害者意識は出さないでいた方が、異文化交流には無難だと思うのですが。

71ベダウリンデ:2009/09/30(水) 09:24:34
感情語の定義は、おそらく、人工言語を作る上で、最も難しい点なのではないか、と思いました。
私は人工語一般には興味が無いので、他の人工語ではどうやってるか知りませんが、
感情は、目に見えない事象である点、論理で説明できない点、各民族語で定義の分け方が全く異なるであろう点、
などの理由で、定義が非常に難しいと思う。
西洋語(またはその他の自然語)を簡略化してそれでよしとする人工語ならば、特定の民族的な言い方に偏っても良いのですが、
仮にも「言語的な中立」を掲げるならば、最も苦心する箇所だろうと思うのですが。

そもそも、「気を使う」という繊細な感情が、日本と同じ意識で他民族も意識してるのか、疑問になりました。
もちろん、どの民族の人だって、他人に対し良かれと思う事を、言われる前に率先して行う(つまり気を使う)事はするでしょう。
でも、和英辞典を引くと「気を使う」は「人に対して常々親切な、思いやりのある」という単語を使え、とありました。
言われてみれば、「気遣い」と「親切・思いやり」の差って何でしょう。はっきり説明できないです。
強いて言えば、「親切」は自分から進んで行い、自分も豊かな気分になるけど、「気を使う」は、実は気が重い、嫌々ながらやる感じ?
世界には、旅人を「心から」もてなす民族がいるみたいですが、そういう民族は「気を使う」のでしょうか?
いつも「親切」になれるのかな?
英語やエスペラントで、「気を使う」という単語が単独で存在しないのは、日本的な「気遣い」の感覚があまり無いのかな?
そうならば、日本的な意味での「気を使う」はどこに分類したらいいのでしょうか?「迷惑をかけられる」「親切にする」「世話する」?

72ベダウリンデ:2009/10/02(金) 10:28:59
「エスペラントで感情は表現できるのか?」は、よく聞かれるエスペラント批判です。
エスペラントにだって「怒る」とか「喜ぶ」とかいった感情語はあるので、私は今までは「感情は表現できる」と思ってました。
でも厳密に言えば、各民族特有に存在するであろう繊細な感情レベルまでは、正確に伝えるのは難しいかもしれませんね。
まあ、それを言ったら、英語で日本人特有の感情を伝えるのも難しいだろうし、何もエスペラントに限った話ではない。
そもそも文化の根底が異なれば、価値観だって違うし、全く同じ感情を共有してると思う方が勘違いかもしれない。
民族語ならば、感情語もその民族の感覚に合われて使いこなすのが正しい用法でしょうが、
エスペラントには、お手本とすべき「特定の民族」は、理論上存在しない。
ここはやはり、感情語はできるだけ大雑把に区分し、どの民族も平等に、自分の感情を大雑把に言ってもらうのが良いと思う。
それでは「エスペラントでは感情の表現はできないのではないか」となりますが、
幸い、人間には「共感力」があるんですよね。

私がエスペラント文を読んで、ĉagreno, ĝeno,embarasoのいづれか一つが出てきたとする。
私はその用法の正確な使い分け方を知らない。
でもシチュエーションは分かるから、日本語で言うと大体こんな感じで「困って」るんだろうな、と想像はできる。
感情が想像でき、共感でき、感動だってできる。
感情の単語が厳密に分からない癖に感動できるって一体どういう事なのか、と。
基本感情語をキーワード的に置いておけば、かなりの部分、読者が補って理解してくれちゃうのでは、と。
それでいいんじゃない?と。
対面の会話なら、表情が見えるので尚更「感情語」なんて必要ないでしょう。
表情で伝わるのは、基本感情的なものだけだろうし。

73ベダウリンデ:2009/10/06(火) 11:05:28
学問疎いんですが、NEPOでやろうとしてる事は、言語学で言うと「意味論」のジャンルかもしれないですね。
言語学にも色々ジャンルがあって、音韻論とか統語論(文法の分析?)とかは研究も割と進んでいるみたいですね。
意味論は、学問的にも難しい領域なんだろうなーと思う。
今までの「エスペラント改造論」は、音韻(LとRの区別をやめろ、とか)や文法(対格なくせ、とか)のレベルに止まっていたと思う。
それはきっと、言語学で完成したジャンルがそこまでだからなんだ、と思った。
意味論レベルでの改造って未開拓の分野で、実はものすごーく高度な事かもしれないですね。

『対論 言語学が輝いていた時代』の中で、エスペラントに懐疑的な鈴木氏は
「地球環境が均一でない以上、人類の言語が一種類になるはずがない」と言い、
「(エスペラントは)単語同士がほとんどイコールでつながってる欧州六カ国語対照辞典的な発想」なので
「そこにアジア語、日本語が入ると意味論的なギャップが大きくなる。私のエスペラントの世界性に対する疑問がそこにある」と言う。
それに対してはエスペラント支持派の田中氏も「エスニックな固有性の部分が一番弱いところ」と認める。

鈴木孝夫さんは著書「ことばと文化」(1973年の古い本です)の中でも次のように述べている。
「私の考えでは、日本語を、そして日本的現実をはかる尺度は、日本語それ自体、日本的現実それ自体に求められるべきだと思う。
もし西欧起源の尺度と対比させ、普遍化を目ざすならば、それは両者を共に含み、共に説明できる一段高い次元に於いてのみ可能」
と言っている。そうなんです、そういう高い次元での普遍化を、私は新エスペラントに求めているのです。
でないと鈴木氏の言うように「西欧の尺度を流用しての安易な普遍化」にすぎないし、そんな言語が「共通語」なんて嫌なのです。

74ベダウリンデ:2009/10/08(木) 10:07:24
挨拶語について
挨拶とは、『人と人とが出会ったときや、別れるときに交わす儀礼的な動作や言葉。また、その言葉を述べること。』(goo辞書)
エスペラント語ではsaluti=礼儀正しい身振りで、誰かに尊敬や行為を示す(ReVo)
salutiの定義には、「出会った時」などの使用場面の定義が無いのですが、日本語の定義と同じような場面で使用されると想定します。
挨拶は、動物の仲間同士が出会った時の、「敵じゃないですよ」と示すサインと同じ所から発達したと思われるので、
おそらく人類でも、普遍的に行われるでしょう。
でも、その表現方法は、各民族で異なっている。
日本語では「こんにちは(良いお日柄ですね)」。ヨーロッパ語一般では「良い日」。
他には「貴方の上に平安あれ」「もうご飯食べましたか」「どちらへお出かけですか」などなど。
未知の民族が一体どんな表現で挨拶してるのか、全く想像もつきません。
が、それらをひっくるめて、抽象的に「挨拶」=salutoと言います。

saluti(o)は抽象的な意味の単語です。エスペラントでは、この抽象語を用いてsalutonと挨拶します。
「挨拶を」という意味です。民族のオリジナリティを超えた抽象単語を用いて「挨拶」を表現するのです。
抽象語なので、相手への具体的な思いやりなどは、一切感じられません。
しかし、抽象的=普遍的=民族的差異の克服です。
私は人工語には、既存の民族語では不可能な「普遍性」を求めるので、salutonという表現を高く評価します。

エスペラントにはBonan tagonという言い方もありますが、
これはヨーロッパ一般の表現(ヨーロッパ民族以外でも同様の表現をする地域もあるが)の直訳なので「普遍性」がありません。
NEPOでは、Bonan tagonでなく、Salutonを、出会い時の挨拶用語として固定したいです。

75ベダウリンデ:2009/10/08(木) 11:07:17
狭い意味での「挨拶語」の他に、コミュニケーションを手軽にする短い決まり文句が必要です。
日本語で言う「ありがとう」「ごめんなさい」「おめでとう」などの類です。
そういう言葉で何が必要か考えると、①感謝とその返礼、②謝罪とその返礼、③許可を求める言葉と受諾と拒否、④勧める言葉と受諾と拒否、⑤おめでとうなどの祝辞とその返礼
他にも⑥頑張れなどの励まし⑦よく来たねなどの歓迎の意、⑧その他、日本的ですが、いただきます、おかえり、ただいま、おじゃまします、などなど、考えられます。

エスペラントではsalutonの要領での決まり文句が他にも既にあります。
①感謝=danko なので、ありがとう=dankon
⑤祝辞=gratuloなので、おめでとう=gratulon
②誤る言葉pardononについては、若干検討します。
saluton,dankon,gratulonは、話者が聞き手にsaluto,danko,gratuloを「渡す」のですが、
pardonoの意味は「許し」なので、pardononは、話し手は聞き手からpardonoを「受ける」のです。
でもまあ、pardononはpardonoを下さいの略、と考えて、現状でよし、としましょうか。
もしも、-onという挨拶語を、話し手が聞き手に「言葉の意味を渡す」と意味に統一して定義すれば、
渡すべきものは「謝罪の意」なので、pardon-peto=許しを請う事を、聞き手に「渡す」べきです。
或いは「許して下さい」という命令形で表現するなら、全く文句なかったです。

⑥「頑張れ」は色々な言い方が考えられる。「勇気を」「努力を」「幸運を」などなどを、あなたに祈る、とでも言うのでしょうか。
励まし方には色々民族性が出そうなので、「励まし」という抽象語をあなたに「渡す」と考えれば、「普遍的」かもしれません。

76ベダウリンデ:2009/10/09(金) 09:37:31
salutiの定義は、日本式の「挨拶」で考えるのか、ReVo式の「敬意を示す」で考えるのか、きちんと決めなければなりませんね。
日本式なら「出会ったときや、別れるとき」なので「さようなら」もsalutonになります。
ReVo式は時点を定義してないので、出会い別れと間の、何らかの時点でも必要ならばsalutonと言っていい事になります。
日本式定義に従って「さようなら」もsalutonにしたら、現実問題として支障が出るのは必須です。
ReVo式に、salutonを「敬意の表明」とすると、日本人感覚での「礼」も、言葉で言えばsalutonになります。
昔の日本人のように会話中に何回もペコペコお辞儀したり、何かのイベント開始時・終了時に「礼」したりも、
言葉ではsalutonとなるのでしょう。
しかし、現代社会の、特に国際交流では、「敬意の表明」は、出会いの開始時に一回行えば十分です。
そうすると、今のsalutonの使い方に近くなります。
もちろん、開始時以外であっても「敬意を表明」したければ、個人の自由で随時salutonと言って良いとします。

日本人のイベント開始時・終了時の「礼」は、言葉にすると、「お願いします」「ありがとうございました」かもしれません。
「ありがとうございました」はdankonでいいけど、「お願いします」はエスペラント訳しにくい。
この場合、イベント開始時に改めて「敬意を表明」するという意味で、salutonと言えば良いと思う。
エスペラント会でも囲碁はさかん(?)だと聞きましたが、対局の前には何と言って挨拶してるのでしょうか?
私の理屈ではsalutonですけどね・・・

77ベダウリンデ:2009/10/13(火) 10:10:47
「励ましを」という意味での決まり文句を考えていたのですが、いいのがありませんね。
日本語では『励まし』は『励むようにする』『励む』は『気力を激しくする』。
エスペラントで言うと、kuraĝigi勇気づける、が最も近いかもしれない。
だったら、頑張れ=kuraĝonでもいいんだけど、なんか、もうちょっと意味の深みが欲しい。
「勇気」を出して、できるだけ「努力」して、なお且つ「幸運」にも恵まれ、しかもそんなに自分を追い詰めず「気楽に」、その結果「成功を」あなたに望みます、
というような便利な言葉があったらいいのに。
そんな単語、日本語にもエスペラント語にも英語にも無い。でも便利ならば新しく作っても良いと思う。

言語の文化とは何でしょう? その言語で文学が存在する事? それだけではないと思います。
人間の身の回りに存在するあらゆる具体抽象を、適当に切って意味づけしていくのが言語です。
存在自体には区切りは無いけど、その切り方が言語によって異なるから、
同じような意味の単語でもよく調べると、言語によって細かい意味づけが違っていたりする。
そういった「区切り方と意味づけ」が言語の文化なのではないか、と思う。

その民族しか理解できない微妙なニュアンスを持つ単語が存在するという。
俗説承知で例をあげると、日本語の「もったいない」、韓国の「ハン」、ポルトガル語の「サウダージ」などなど。
エスペラントにもそういうのがあってこそ「文化がある」と言えるのではないか?

エスペラントにも「カベる」「ワニる」など、独自で生み出した言い回しがあるから文化があるんだ、という説は聞く。
でもそれって、業界用語、陰語のレベル。これを「文化」などと言うには気恥ずかしくないだろうか。
「カベる」「ワニる」という単語に、エスペランチストにしか理解できない微妙なニュアンスがあるとは思えない。
もしあったとしても「侮蔑」というニュアンスを超えるものではないと思う。
「カベる」「ワニる」は、エスペラント運動に対して負の行動をする者に対する揶揄の言葉である。
そんな陰湿な単語だけが「エスペラントにも独自の文化があるよ、ほらこのとおり」では寂しすぎる。
国際語としてコミュニケーションを円滑にするような、プラスの意味での独自の単語があれば、威張っても良いと思う。
その意味で、エスペラント版の「頑張れ」を、そういう言葉として新たに作ると良いと思う。

78ベダウリンデ:2009/10/19(月) 09:52:57
鈴木孝夫さんの説のパクリなんですが、日本語は音韻数が少ないので、単語(=音韻の組み合わせ)の数が制限される。
つまり、日本語(やまとことば)では単語が少ししか作れないから、一つの単語の表す意味が広くなった、という事のようである。
例では、日本語の「なく」は生物が音を出す事全部。「なる」は無生物が音を出す事全部。英語では動物の種類ごとに「なく」単語が異なる、という事だ。
つまり、音韻数の少なさが幸いして(?)、日本人は物事の概念を広くとらえる習性を持つようになった。
あるいは逆に、概念を広くとらえてたから、音韻数を増やさなくてすんだ、とも言えるのか。
まあ、相乗効果なんでしょう。

NEPOは意味論的な改造が主体のエスペラント改造で、単語の「意味」の変革が主たる目的です。
やまとことばの「なく」のように、単語の概念を広げることで全体の単語数を減らし、それにより学習者の負担を減らすのです。
その意味では、日本人の概念の分け方は、NEPOの参考になると思いますね。
てゆうか、意味論での異議申し立て自体、日本人にしかできないかもしれません。

79ベダウリンデ:2009/10/19(月) 10:54:55
例えば、日本語の「言う」は、広辞苑では「必ずしも伝達を目的とはせず言葉や音声を発する表出作用をいう」とある。
つまり、「ぶつぶつ言う」「きーきー言う」など、伝達を目的としないような発声も「言う」で言える。
和英で「言う」を引くと、tell,say,talk,speakなどがある。
エスペラントでは、say,tellがdiri、talk,speakがparoliのようです。
ここで気になるのは、英語やエスペラントに、日本語の「言う」と同じ意味の単語(つまり必ずしも伝達目的で無い発声を含む)があるのか、という事です。
paroliは初心者風に訳せば「話す」なんですが、日本語の「話す」は「言う」より狭い意味です。つまり「伝達目的」が前提です。
ReVoを見ると、paroliの一番目の意味は「自分の音声器官を機能させる」なので、「言う」に近い広い定義となってます。
せっかく定義はありながら、日本語の「言う」のような有効活用はされてないのではないか、と思いました。
初心者風の勘違いかもしれないですが、talk,speak,paroliは、日本語の「話す」の意味、
つまり、ちゃんとした言葉で表現する事が前提になってる様なイメージが、あくまでイメージですが、あるんですよ。
ぶつくさぐだぐだ「言う」ような、曖昧な発声をする「言う」の意味では使いづらい気がする。
実際使いづらいから、grumbliという別単語があるのかもしれないし。

単純にvoĉi(”声”の動詞化)を日本語の「言う」みたいな広い意味で使えばいい!と思ったけど、
voĉi=voĉdoni(投票する)なんだって。そういう「変な点」を変えたいよなーと思う。

80ベダウリンデ:2009/10/23(金) 12:52:06
仮にvoĉiという単語を「発声する」という意味で使えば、
声が大きいか、小さいか、高いか、低いかという発声方法に主眼を置いて、
様々な発声に関する単語を網羅することができる。
大きい発声=叫ぶ、どなる、わめく
小さい発声=つぶやく、ささやく
高い発声=金切り声
低い発声=どすをきかす
voĉiには独り言的な発声も含み、paroliは内容を伴って相手に伝える事と定義すれば、
小さいvoĉiはつぶやく、で、小さいparoliがささやく、と意味を分化する事ができる。
どすをきかす時も、一人で「ゴルア」とか言うだけならvoĉiで、内容が伴う時はparoliとすればよい。
それプラス、話し手(その発声を聞いてる人である場合が多い)の感情も入れられると良い。
現在は-aĉは「粗悪」を示す接尾辞であるが、「話者の不快感」を示せると良いと思う。
高い声には良い声も悪い声もあるけど、キーキー言う声は聞き手に不快なので
高いvoĉ-aĉiと言えば分かりやすい。

81ベダウリンデ:2009/11/02(月) 17:00:57
-aĉを「話者の不快感を示す」という意味にすると、用途が広がると思う。
別掲示板で見かけた意見で、abruptaとsubitaの違いが分かりにくい、とあったけど、
abruptaを「不快にsubita」つまりsubit-aĉa、とすればいいと思う。
また、「やせている」という語もmal-dikaだけでなく、
「ほっそりした」とか「貧相な」とかいう意味で、それぞれ別単語があるらしいです。
それらも、話者から見てみっともないと思う痩せ方には-aĉを付けてmal-dik-aĉaとし、
美しいと思う痩せ方には、別の接辞をつければいいと思う。
「太ってる」も同様で、日本語で「ふっくらした」と言いたいなら、「美しい太り」と表現すればいい。
嫁入り前の女性を小屋に閉じ込めて食べさせて太らせる民族もいるというので、そういう場合も「美しい太り」と表現してもらえれば意は通じると思う。
日本人の感覚では「ふっくら」じゃなくて「ぶくぶく」じゃん、という肥り方かもしれないけど、その民族が美しいと思うなら「美しい太り」なのです。

つまりまとめると、「時間的な唐突性」とか「サイズ的な太さ」は、話者の気持ちを含まない、あくまでも物理的な視点での言及とし、
話者の価値観・感情は接尾辞で付け足す、という案です。

82talisker:2009/11/05(木) 22:19:10
ご苦労様です。
スレを頭から読み通した印象としては、エスペラントの意図的なピジン化を目指しているのだろうか、と感じられました。
>>3 で不満の具体例を述べておられますが、実際の作業?は真っ先にあげた不満の解消とは別のところから取りかかっておられるんですね。
あくまでも不満の一例でしかないからということなのでしょうか。
不満の主要点としてヨーロッパ由来の語が多いことを槍玉に挙げておられますが、こうしよう!と作り上げた俺様語的な合成語もまたヨーロッパ由来の基本語の組み合わせなんじゃないでしょうか。
結局のところ、あれこれと頭でっかちな理屈を述べるわりには、わけの分からない変種表現を増やしているだけに思えてなりません。
そもそも欧米からの脱却とやらを目指すのであれば、非欧米圏のエスペランチストにここで出している珍妙な合成語の代案を実際に使ってみて、説明抜きで疎通するか検証しないんですか?

83ベダウリンデ:2009/11/06(金) 09:46:36
>82
ご意見ありがとうございます。スレを頭から読んで頂いただけで御苦労さま、感謝です。
>エスペラントの意図的なピジン化
ピジンじゃないですよ。ピジンはあくまでも自然発生言語で、文法規則等が確立してない状態の言語です。
NEPOは人工語なので、規則性は人工的に作りますし、それが目的です。

>実際の作業?は真っ先にあげた不満の解消とは別のところから取りかかっておられるんですね。
そうなんですよ。手のつけやすい箇所&自分の関心のある箇所からやってます。
でも根本は同じですよ。多すぎる語根の削減と、ヨーロッパ人だけが語感的に理解できるという優位さの解消、です。
職業名は-istで統一したいな〜等という事は、今でも頭を巡らせているのですが、なかなか難しいのです。
そのあたりもそのうち書きたいのですね。なにしろテーマが壮大なので、思った以上に大変なのです。

>こうしよう!と作り上げた俺様語的な合成語もまたヨーロッパ由来の基本語の組み合わせなんじゃないでしょうか。
基本的に既存のエスペラント語根を使っています。(エスペラントの遺産を継承して分かりやすくするためです)
故にヨーロッパ由来の基本語の組み合わせになります。エスペラントが元々そうですから。
エスペラントの悪い点は、単語の意味までも、ヨーロッパ人が暗黙に理解できる定義にしてしまって、
説明も十分ではない、という点です。私が分かりにくい、と思う点はそういう点なのです。
>説明抜きで疎通するか検証しないんですか?
既存のエスペランチストは、今のエスペラント語を信奉して満足してる人がほとんどですから、
馬鹿にされて終わりなのが目に見えてます。「理屈」というより「信念」で受け入れられないでしょう。
もしも同じ趣旨の人がいるならば、相談してみたいです。

最近の言語学では、ものの考え方や概念など、人類の普遍的な部分と、民族文化に依存する部分がある、と
だんだん分かってきたみたいなのです。(言語学は入門書読んでる段階)
人類普遍的な部分だけを学術的に抽出すれば、そこから人工言語ができそうだし、
なんで無いのかな、と思いますが、何十年か後にはほんとに誰かが作りそうだな、とも思います。
それは「エスペラント」から離れたものかもしれないけど、私の理想と同じものです。

84:2009/11/06(金) 17:20:27
-istの「主義者」という意味は世界中に浸透してるので分離は難しそうですね。

85なつ:2009/11/08(日) 00:40:14
感情語は今の僕には発言できるレベルではありません。
特に語彙の取捨選択。
ただ、たとえば英語で「退屈だ」は
私は退屈だはboredで動詞受身、あれは退屈だはboring形容詞
あるいは、
それは、interestingだ。に対して、私はinterestedだ。です。
中学校で習う英語です。
つまり、私はinterestingだって言うと、「自分は興味深いと思われる存在である」ってなる。
退屈だなあって思って「私はboring」っていうと「自分は退屈と思われる存在である」ってなる。
自分は動詞受身であるべきで、be+形容詞にしてしまうとおかしくなるわけです。
でも「私はam angry」(形容詞)で怒っているを表します。不規則なんですよね。
あるいは「私はam enjoying」(動詞)です。
これはNEPOではぜひ統一すべきですよね。
esti 形容詞、igxi、igi等で・・・
少しでたので・・○○の人を意味する語はエスペラントでは区別しすぎなんじゃないかと
これ、以前言った感じがしますが・・uloなんているんですかね。
いや逆にuloを「○○って人」っていう意味ですと、なんでもこれ一つで当てはめられる気もします。
istoなんて廃止したらどうでしょうかね?職業人限定語なんて造語豊富な漢字も基本ありません。

>>-istの「主義者」という意味は世界中に浸透
世界中!!!!!!!!!
おっと、ここにも世界=ヨーロッパと思っている人発見
日本の欧米奴隷主義こそ浸透して気持ちの悪い

86なつ:2009/11/08(日) 11:03:20
vocxiを発声行為すべてに適応するのはとてもいいことだと思います。
vocxiに接辞を付けたり、副詞を置いたり。
「言う」系もですし、「話す、会話する」系もvocxiでいいんじゃないでしょう。
alvocxiやkunvocxiやintervocxiなどが考えられます。

87ベダウリンデ:2009/11/08(日) 16:20:01
なつさんは大胆派だから、意見も自由で面白いですね。
私も目標としてはなつさんのように大胆にばっさり切りたいのですが、慎重派なんだと思います。
これは切っても安心だと思われる周辺部からちょこちょこ切ってる感じですね。
見る人によってはもどかしいかもしれないですね。

>>-istの「主義者」という意味は世界中に浸透してるので分離は難しそうですね。
英語の接尾辞-istは、エスペラント同様に、専門家とか主義者とかの意味も含み、
他にも、…する人、…に関係してる人、…の性格の人の意味を持つようです。
日本語でもピアニスト、ロマンチスト、等と言うではありませんか。
〜イスト=〜主義者という思い込みは、逆に偏ってます。
また、英語でも-istは接尾辞であるので、「分離」は簡単です。

私が困っているのはistのつかない職業名です。(ist残すか否かは別にして)

例えば、外交官はdiplomat-oで、外交(名詞)はdiplomati-o、明らかに同根の単語なのに別語根の扱いです。
それでいて、「外交する」という動詞は無いんですよ。
「外交する」という動詞があれば、外交官も外交も一つの語根から派生できるのに。
例えば、外交する=diplomat-i、外交官=diplomat-isto、外交=diplomat-o。
これでもいいんですけど、いいのかなーこれで、的な躊躇も。上手い案、無いですかね?

88なつ:2009/11/08(日) 23:17:55
外交「diplomatio」というのがありますから、
外交する「diplomatii」でいいんじゃないでしょうか。
外交官は「diplomatiisto」とする。
これだと今の語根を使いしかも1語根(diplomati)で間に合います。

同じように
filozofo「哲学者」に対して現行エスは、
filozofio「哲学」。これまた2語根つかってわけがわかりません。
これもfilozofiistoで対応可能でしょう。

vocxiは「発声行為すべて。声を出す行為全部」としたら説明は容易になると思うのですが。
これは、「聞く」auxdiは聴覚一般すべてを包含していて「聴く」としたいのであれば
alauxdiなどにすればいいし、
「見る」vidiは視覚器官が受け止めるすべてを指し、「観る、視る」としたいのであれば、
alvidiなどにすればいい、というのと同様です。

89ベダウリンデ:2009/11/09(月) 16:50:12
>外交する「diplomatii」でいいんじゃないでしょうか。
外交官diplomat-oが元来の語源で、それからの派生が外交diplomati-oではないか、と思ったのです。
哲学者=filozof-o→哲学=filozofi-oのように、先に「職業名」が有り、職業内容はそこから派生されたのではないか、と。
ところが、-istoという接尾辞は、先に職業内容が有り、そこから派生される職業名なので、順番が逆になります。
-istoを付けるために、diplomat-oから派生したdiplomati-を語根として採用し、本来の語根であったdiplomat-を破棄するのは、
なんか順番が違うようで、それで悩んでいたのです・・・
この悩みは、エスペラントが、設計理念である造語体系に馴染まない西洋語を安易に採用した結果から生じてると思います。
エスペラントの負の遺産だな、と思います。

まあ、理屈は置いておいて、我々の分かりやすさを重視すれば、
diplomati-を語根として採用し、diplomat-は破棄した方がいいかもしれませんね。
哲学者もfilozofoなんて言わないで、filozofi-istoにした方が、長くはなるけど、反面耳で聞いて分かりやすい。
「哲学する」も従来通りのfilozofi-asの方が、filozof-asより、フィロゾフィーという音が強調されて分かりやすいですね。

ここには書かないで悩んでいましたが、書いてみると視点が新たになりますね。

vocxi、auxdi関係は、最終的にはそうなってもいいと思いますね。まだ検証はしてないですが。

90なつ:2009/11/10(火) 20:57:42
なるほど、そういう意図だったんですね。
確かに、外交官、哲学者という語がはじめにありきの語幹と派生語幹であり、
負の遺産です。istoとは造語法が逆なんですよねえ。

vocxi、auxdi、vidiは検証しても大丈夫だと思うんですけど・・・
vocxorganoは「くち」でしょうかね

91ベダウリンデ:2009/11/11(水) 10:30:06
auxdi、vidiは、今のところ、問題は思い浮かびません。
vocxiに関しては、「声を発する」をいう広い意味にして、
vocxiの中の「言葉として相手に通じるように発する」という意味は、diriだけでも残しておいた方がいいのではないか、と今は思っているのです。
理由は、言葉は人間だけが持つ能力で、人間にとって非常に重要な要素である、と思われるからです。
vocxiだけだったら猿でもできる。或いは動物が鳴く、吠える事もvocxiに含めていいかもしれない。それと区別してdiriは残す。
絶対こうあるべきだ、という強い主張ではなく、個人的な意見です。一人の意見で決まる事ではありませんから。

vocxorganoは「くち」、は問題ないと思います。

同じ趣向を理解できる人が、もー少しいたらいいのになーと思いますね。
言葉について深く考えるきっかけにもなるし、考えてみると面白いものですよ。

92なつ:2009/11/11(水) 23:21:04
僕は、もともと
言う、話す、会話する、しゃべる、diri、paroli、say、talk、speakなど、
diriすべてがそれらを包含するという考えでした。
それは、vocxiでもいいなという考えでした。
それは動物などの声を含めるかどうかというのは考えていませんでした。
diriは人間唯一のものであるという意味にしては、という検討ですね。
なるほど、それは考える余地ありですね。

もう少し考えが同じ人が増えればいいんですけどね。
僕はエスペラントを学んで必然的な帰結であり、
日本人がエスペラントを学べば必ず至る帰結だと思ったんですが・・・

93なつ:2009/11/13(金) 15:06:13
勘違いを生むかもしれないので訂正
「diriすべてがそれらを包含するという考えでした」
→「diriすべてにそれらを包含させよてもいいかなという考えでした」
vocxiには、その包含したdiriよりもさらに広い概念になりうるわけです。
人類以外の動物のものまで含ませられるという点で。
じゃあそうしてもいいんじゃないかなと思うのです。diriすら不要でvocxiで。
すべての生物の発声・発音行為をvocxiで。僕には、
新聞で「誰々が〜〜と言った」も、
壇上からスピーチで「話した」も、
みんなでわきあいあい「会話したも、
犬がワンワン「吠えた」も、
脳裏に描く無音の映像は「口をパクパクしている」もので全く同じなんですよね。
引用伝達だけの無感情の「言う」でも、ある意図目的をもって一方向に向けるスピーチも、
目的のない双方向の会話も、威嚇だけの発声行為も、みんな同じに見えてしまう。
じゃあそういうのは、みんなvocxiでいいじゃないかと。
犬の場合はvocxi malalteとかvocxi grandeと副詞で補ってもいいし、
鳥の場合はkantiにしてもいいし。

広い概念を使うということで思い出すのが、アルカだったでしょうか。
各言語には、「ある物を使用するとき決まった動詞」が存在する。
いわゆるコロケーションの話
松戸さんの例示を引用させてもらえば、
エスペラントでは「傘をさす」や「傘をさしている」に相当するものすら
コロケーションとしてないに等しいそうだ。
Mi malfermis ombrelon.(傘を開いた)
Mi sxirmas min per ombrelo.(傘で自分を覆っています)
Li estas kun omblelo.(傘をもっている)
アルカでは、ある物をその目的に応じて使用するときには同じ動詞があるという。
仮にNEPOではuziとすることにしましょう。
となると、傘をさすのは、傘の目的に応じて使用するわけですから、
Li uzas ombrelon nun.で一発です。上記3つでもいいですが、まよえばこれを使えばいい。
ロウソクをつけるも、テレビをつけるも、シャワーを浴びるも、湯船につかるも
とりあえずuziで済ますことを許容させてしまうわけです。
「その目的に応じて使用する行為に、ある動詞(仮にuzi)を使う」という発想は異文化、異言語間の
人たちがコミュニケーションを円滑にするには、結構、使い勝手がいいのではないでしょうか。

94ベダウリンデ:2009/11/16(月) 10:01:02
なるほど、ある物をその目的に応じて使用する場合はuziなのですね。
そういうルールが公式に確立されていると、西洋文明に詳しくない諸民族にとって、
西洋ルールをいちいち気にしなくてすむので、非常に楽になると思いますね。

前から思っていた事ですが、エスペラントでは、道具とその道具を使う動詞の区別が難しいのです。
動詞の中に道具のイメージが一体化してる。(英語も同じみたいですね)
例えば、よく言われる例に、kombi=髪を櫛でとかす、というのがあり、櫛はkomb-iloとなります。
動詞=行いたい動作、があって、それを行うために考案された道具に-iloを付ける。
しかし、broso=ブラシは最初から道具名で、「ブラシする」はbrosiであっても、ブラシそのものはbros-iloではない。
kombiは櫛でとかす事だから、ブラシで髪の毛とかす事は、kombi per brosoと言えるのかどうか、不明。
それから、ナイフはtranĉ-iloだけど、フォークはforkoなんですよね。「フォークで刺す」はforkiなのにfork-iloではない。
似たもの同士がなぜ区別されるのか、西洋文明を日常で生きていない私には謎です。
鋏はtond-iloなので、「鋏で切る」はtondiかな、と思うと、tondiの元々の意は羊毛などを刈り込む事なのです。
つまり、元々牧畜民族が羊の毛を刈り取るために考案した道具が鋏であり、
我々が文房具として使ってる鋏は応用例にすぎないのか〜と初めて認識する次第。
その辺りの感覚が、「昔は○○で使ってたんだよね」的な感覚としても、全く理解できないので、
非西洋人には不利だな〜と思っていたのです。
人間の意思(=動詞)があって、それが道具を生むのか(-ilo)
道具が先にあって(他所から流入してきたりして)、その道具を使うという意味で動詞を作るのか、
統一するか、或いは、併存するならその区別の基準をはっきりしてもらいたいのです、エスペラントには。

今のエスペラントを変えるのは無理だから、新改造案としてやるしかないのです。
現代文明には電話やパソコンなど、一言で「○○するための道具」と表現できない道具が多い。
またブラシやフォークのように、単純な道具なのに西洋人にとってさえ「最初から道具名」である物も多い。
そうすると、道具名を基準にしてuziを使うか、あるいは単純に動詞化するのも、エスペラントルールでは可能だと思う。
「傘をさす」もombrel/iと言えるのでは?

>日本人がエスペラントを学べば必ず至る帰結だと思ったんですが・・・
エスペラントには様々な不備が存在するのに、既存エスペランチストの皆さんは、
平気で目をそらして満足しきれるという、右翼とか左翼とか問わずに皆がそうだという事が
非常に驚きであります。

95なつ:2009/11/17(火) 19:18:02
エスペラントを学ぶ前あるいは学ぶ直前までは、
人工語でありすぐマスターできる。
すぐマスターできる細工が、ふんだんにほどこしてあるに違いない。
という錯覚に陥っています。少なくとも僕はそうでした。
でも、万年コメンツァントがこれでもかっている。
理由はいろいろありますが、基本単語は造語法によってどんどん記憶できるが、
500語くらい覚えれば、あとは遅々として進まなくなる。ヨーロッパの価値観で造語法にたよらずヨーロッパの単語をどんどん取り入れていってるからで、
ここまでは何回も書いたことがあります。で、NEPOを考える上で意味論的に語について考えていくと、
外見上エスペラントは不規則的なものを廃しているかに思えて実は、あまりにも不規則なもので塗り固められているというのが分かってきますね。
それが万年コメンツァント製造の理由でもあったわけですね。
つまり、「istoは職業にする接尾語である」簡単でしょ?って初め教わるのに
あらら、filozofoとfilozofioの関係のごときものを散見しはじめる。
「道具にはiloをつける」ほら簡単に語彙を増やせるでしょ?すごいでしょ?で教わるのに、
実は、ナイフで切るtrancxi、ナイフ→trancxilo (これはいいねえ)。
forkiフォークで刺す→forkoフォーク (× forkilo あれ??)
tondi毛を刈る→tondiloはさみ (なんじゃ?)
となるわけだ。
動詞(-i)から道具(-ilo)にするのを原則にすべきだと思うんですよね。
なぜなら、道具(o)が先にありきで動詞(-i)があるものは、
動詞「〜する」(-i)→「〜すること」(-o)と混同の恐れがあるわけです。
わかりやすい例をいうと、forki刺す→forko刺す道具「フォーク」であるのなら
plori泣く→ploro泣く道具??となってしまう。
逆に、ploro「泣くこと」であるのならforkoは「刺すこと」でなくてはならないはず。
やはり道具があるものは動詞を基本にして-i「〜する」、-o「〜すること」、-ilo「〜する道具」
と統一すべきなんじゃないかと思う。これが、人工言語の真髄の一つなんじゃないかと。
いたずらに自然言語のように不規則にする必要は全くないわけです。
ombreli傘を差す→ombrelilo傘
telefoni電話をかける→telefonilo電話 いいでしょうかねえ
まあいっそのこと、forvocxiloでもいいですし。
傘はkontrauxpluvilo長いかな。
ombri影をつくる、傘をさす→ombrilo傘なんてどうでしょう。

96ベダウリンデ:2009/11/19(木) 09:45:16
フォークはforkiloにしたい、と、私も全く同じく考えていました。
なぜならば、一目瞭然でそれが道具であると分かるからです。
エスペラントの接尾辞は非常に便利で、造語のためだけでなく、それを付ければ単語の性質までが一目瞭然となります。
様々な言語で名詞をグループ分けするという概念があります。
日本語では〜個、〜本という助数詞もその一種だそうです。印欧語の男性名詞女性名詞、スワヒリ語の名詞クラス、など。
NEPOでも接尾辞を利用して、名詞のクラス分けのような概念を導入したらどうでしょうか?
職業人には全部-istoがつく、道具には全部-iloがつく、というように。
それと同じく、動物や植物にも名詞クラスを示す接尾辞があったらいいと思う。
全部の名詞に接尾辞を付ける必要はない。抽象名詞や世界共通の自然物には不要かもしれない。
文化や住んでる地域によって大幅に異なるものだけに、名詞クラス接尾辞をつけると良いと思う。

例えば、「○○のように」とか「○○が立っていた」と書かれている時、その○○が大体何なのかだけ分かれば良い。
いきなり全く分からない単語が出てきて、そこでストップして辞書のお世話になって、
その和訳名を知って、なんだ動物・植物かと思っても、結局それが具体的にどんなものなのか、身近に存在しないから分からない。
西洋固有種の鳥とか魚とか草木の名前をいきなり書かれても困る、と思ってた。
住んでる地域が違うのだから、何かの動物に例えてるんだ、とか、なんかの木が立ってるんだ、とか
それさえ分かれば十分なのです。

>ombrilo傘
いいですね。そもそもombrelo自体がombroからの派生語だったのでしょう。
日本人はアンブレラという英単語は知ってても、「影」という単語はシャドーだと思ってるから、
エスペラントではombroを新しく覚えなくてはならなかった。
影->影を作る->影を作るための道具、という流れになるのですね。
「物(人)が影を作る」場合と「傘をさす」場合は区別したいので、その場合はuzi ombrilonとするか、
或いはombr-il-iと言えば、-il-iという接尾辞で、何らかの道具を使用してるのだ、という事がはっきりするから良いのでは?

97なつ:2009/11/19(木) 19:54:49
名詞クラスを表す接尾辞(接頭辞)は、考察するに有意義だと思います。
人間を表す接尾辞はいっぱいあるのですから。
ベトナム語を少し紹介しますと・・・
日本語の助数詞にあたるものにベトナム語では類別詞があり、
日本語の助数詞のような働きのほか、そのほかのひとつとして、名詞クラスを示す働きをします。
日本語でいうと、一匹のウサギは言えますが、ベトナム語風にいえば、1動物ウサギで
さらに、動物ウサギと言え、ウサギは「動物」なんだといい始めで示すわけです。
無生物(物)、生物(動物)、機械、乗り物、書物、果物(丸い物)、薄い四角い物、
大建物など。また、例えば「乗り物・踏むこと」で自転車を意味します。
僕が前に考えていたのは、例えば、(あくまでも例えば)besto malpuro→ねずみ みたいなものです。
これを、besmalpuro、あるいは、malpurbesoと接辞を使うようにするのも、いいかもしれません。
名詞クラス提示に加えて同時に造語にも使うわけです。
名詞クラスだけを示すのであれば、ただ長ったらしくなるデメリットがあります。
なので超基本なものとか、明白なら省略可能としたりが可能なシステムがいるとは思います。

--iliで「ある道具を使っている」というのはいいかもしれません。

98だにょ:2009/11/19(木) 22:35:53
単純な語(=知覚可能な事物の名詞)でも、「ウサギ」のように西洋文化の影響が強いものがありますね。
家兎kunikl/oと野兎lepor/oを分ける必要があるのでしょうか?
BROの重要度は低いのですが、使用頻度の高いkunikloだけで十分な気がします。
英語でもrabbitとhareを厳密に使い分けていないみたいですし。

・kunikuloは、意味を脱色する(般化する)。家兎、野兎を問わず、ウサギ一般を指す名詞とする。
・野兎を言い表すときは、接頭辞「sovagx-」をつけて「sovagx-kuniklo」と造語する。
・家兎を言い表すときは、飼育目的に応じてbruta kuniklo(家畜のウサギ)、hejma kuniklo(ペットのウサギ)などと呼ぶ。

このような感じで改良してくれたら、例えば「月の兎」を訳すとき、
いちいち説話を調べて野兎か家兎かを吟味しなくて済むのですが。

99だにょ:2009/11/19(木) 22:38:39
>>9
エスペラントの改良手続きに名前をつけてみました。
意味についての改良案は、だいたいこの10パターンに収まるかも?
「融合」「分離」「吸収」「発散」
「般化」「特化」「付加」「捨象」
「維持」「認容」の10パターンです。

▼融合
複数の語からなる語を、より少数からなる語へ置換すること。造語要素の抽象度を高める。
・mal/san/ul/ejo→hospitalo
・mangx/o/baston/etoj→baston/etoj

▼分離
一又は二以上の語からなる語を、より複数からなる語へ置換すること。造語要素の抽象度を下げる。
・hospitalo→mal/san/ul/ejo
・butiko→vend/ejo
・hospitalo→mal/san/ul/ejo
・monoteismo→unu/di/ismo
・abomeno→mal/sxat/ego
・abrupta→subit/acxa
・gxeniとembarasi→mal/helpi
・kukoとtorto→dolcx/ajxo
・「使いたくないエスペラント単語集」の置換例

▼吸収
類似包含関係にある語群から語を選択して代替させること。語の重複を是正。
・animoとspirito→animo
・mensoとintelekto→intelekto
・amiとsxati→sxati
・bon/vol/usとmi pet/as→mi petas
・strandoとplagxo→どちらか一方。
・auxtomobiloとauxto→auxto(人為的にZipfの法則にあわせる。使用頻度が高いほど語が短いとの法則)
>>66 感情語は、動詞に変化させて使用しないことにする。ベースとなる品詞を形容詞に定め、
 副詞と名詞にだけ品詞語尾を変化させる運用でいく。以下、例。
 Mi sensas agrablecon.
 Kusxi estas agrable.
 Li donis al sxi ion agrablan.
 Ni dezras sensi agrablecon.
 Mi estas trankvila.
 Reakiru vian trankvilon!

▼発散
主に多義的な語を、複数の語に「分離」して、それぞれの語に用途・機能を割り当てて専門化させること。
・多義語deのほかに、前置詞farを導入して、deとfarを使い分けることにする。

▼般化
その語の持つ意味を一般化・抽象化して拡張すること。語義範囲の拡張。
・teoは「紅茶」ではなくて、「お茶一般」という意味にする。
・sxakoは「西洋のチェス」がディフォルトではなくて、「将棋類(日、韓、中、印、欧米の)」という意味にする。

▼特化
その語の持つ意味を具体化して限定すること。語義範囲の縮減。
・neces/ej/oは「要所」ではなくて、「便所」という意味に限定する。
・前置詞jeは時刻の表現のみに使用?

▼付加
本来の意味に類似しない、別の意味を新たに付け加えて、多義的な語にすること。転義も「付加」に含まれる。
・krokodilは「ワニ」という意味だけでなく、「母語で会話する」という意味も付け加える。

▼捨象
類似しない複数の意味を持つ語について一部の意味を無効にすること。
・vocxoの「票」という意味を封じ、「発声」の意味だけに限定する。

▼維持
従来どおり、変更を加えないことを(ほぼ確信をもって)決定すること。
・「名詞の語尾はoで終わる」というルールには変更を加えない。

▼認容
従来にない語根を導入すること。
・数字表現にtelionojやgilionojを導入。
・発明品テレビは、造語せずにtelevid/oという語根を導入。

100だにょ:2009/11/19(木) 22:39:18
●用例1

「方向に関する言葉は、非常時に聞き間違わないよう改良すべき。mal/dekstraを発散させて、新語根のlivaを認容する。ただし、mal/dekstraはlivaに融合させず、維持したままにして、どちらの語も使えるようにする」
「Bonan tagonは、Salutonに融合させてしまおう」
「ザメンホフはabruptaという語を故意に語根リストに入れたそうだが、この語はsubit/acxaという語に分離・吸収できそうだ」
「leporoは、kunikloを般化させた上で、それに吸収させたらどうか?」
「他動詞と自動詞の区別が複雑なので、感情語の動詞は形容詞と副詞と名詞に吸収させて運用したらどうか?」
「vocxoは、票という意味を捨象するべきだ」
「箸を意味するhasxioは、日本語に偏っているので認容しない」
「el/don/iは、“ある特定の空間や時点から外部へ与える”という意味を捨象し、“出版する”という意味を付加した語なのだろう。ひょっとすると、el/don/iは“ある人の脳から他人へ観念を与える”という意味かもしれないので、意味を特化してできた語かもしれない」
「私はfare deという言い方を維持しているが、アルカのkakisさんはdeを発散させてできた前置詞farを用いる。farは、動詞語根far/iに新たな意味を付加したものなのか?」

101だにょ:2009/11/19(木) 22:40:34
●用例2(活用例)造語はデタラメです。

◎ヘロイン(heroin/o)の検討リスト(ヒロインhero/in/oの混同を避ける)

融合→なし
分離→fort/eg/morfin/o, plej/supr/narkot/ajx/o... ←デタラメ(^_^;
吸収→morfin/o, opi/o
発散→なし
般化→なし
特化→なし
付加→pulvor/suker/o
捨象→なし
維持→heroin/o
認容→diamorfin/o

◎外交官(diplomato)の検討リスト

融合→なし
分離→diplomati/ist/o, diplomati/an/o, diplomati/ul/o, regn/agent/o,
   regn/agent/o, regn/komisi/ul/o, regn/funkci/ul/o, ekster/funkci/ul/o... ktp
吸収→なし
発散→なし
般化→なし
特化→なし
付加→なし
捨象→なし
維持→diplomat/o
認容→なし

◎憲法(konstitucio)の検討リスト

融合→なし
分離→suveren/jur/o, plej/alt/jur/o, rajt/kod/o... ktp
吸収→jur/o
発散→なし
般化→なし
特化→なし
付加→なし
捨象→なし
維持→konstituci/o
認容→なし

◎コスプレの検討リスト

融合→なし
分離→kostum/o/lud/o
吸収→maskerad/o, mask/o/vest/o
発散→なし
般化→なし
特化→なし
付加→なし
捨象→なし
維持→なし
認容→kosple/o

102だにょ:2009/11/19(木) 22:46:04
>>99
「融合」と「分離」のところで、造語要素の抽象度を「高める」と「下げる」
と書きましたが、逆かもしれません。汎用的な語を使って表現することが「分離」ですね。

もっとも、このような分類が役立つかわかりませんが。

103ベダウリンデ:2009/11/20(金) 10:08:42
だにょさん、bonvenon!緻密な分析力は流石ですね。
その優秀な能力の一部を「エスペラント改造案」にも向けてみませんか?
既存のエスペランチストは現状満足派ばっかりだから、
いくら「萌え〜でエスペラント普及を!」と訴えても馬の耳に念仏でしょう。
NEPOでも現状は(今のところは?)何も変わらないかもしれないけど、
テーマは「エスペラントの理想化」なので、たとえ一人でやってても「夢」があるから、空しさ感は無い。
一人でなく複数の人で考えれば、自分の考え方も刷新されるし、さらに有意義なのです。
現存エスペラントの活動や学習も続けながらできますよ。とりあえず、ごあいさつまで。

104ベダウリンデ:2009/11/21(土) 10:52:42
>>97
>なので超基本なものとか、明白なら省略可能としたりが可能なシステムがいるとは思います。
BROにある動物単語を一部整理して、それだけは普遍名詞扱いでクラス提示を不要とし、それ以外は明示する、とか。
地域に馴染みの深い、住民にとって思い入れのある動物種などは、民族語名+動物クラスで示してもらう。
例えば、鯉karpoは現在BROにあり、これはそのまま普遍語として残して良い。
並んでgobioカマツカという魚もBROにあるが、コイ科らしいが、私はそんな名前の魚初めて聞いた。
なので、gobioはgobio-fiŝoなどと言ってほしい。
日本語でフナと言いたい場合、karasoはBROには入ってない。しかもkarasoはヨーロッパブナであるかもしれない。
日本人はここでいつも悩む、日本のフナはkarasoかどうか。
だったら、funa-fiŝoと言うか、特にフナという呼び名を強調する必要がなければkarp-etoでも良い。

>>98
>このような感じで改良してくれたら、例えば「月の兎」を訳すとき、
>いちいち説話を調べて野兎か家兎かを吟味しなくて済むのですが。
そうなんです、こういう悩みをいつも押しつけられるのです、非西洋人は。ウサギは一個にしたいですね。
ちなみに、「月の兎」の訳はどっちにしたのですか?
月に兎がいるというイメージは日本的なので(中国韓国あたりにもあるかもしれないけど)
日本のイメージで考えると野兎じゃないか、と私は思いましたけど。

105ベダウリンデ:2009/11/21(土) 11:01:24
>>99
ここまで緻密に分析してもらえて感動です。
今まではてきとーに思いつくままに考えていましたから。
10分類は、どのやり方もNEPOでは可能性に入っています。
ただし、新語根が増えるやり方(融合、発散、認容)は、よっぽどの理由がある場合に限ります。
そうしなければ非常に不都合であり、新語根を導入したメリットがかなり大きい場合です。
また、語彙が比喩的に拡大する「付加」も、そうとう検討する必要があります。

106Kanva:2009/11/21(土) 19:17:27
> 月に兎がいるというイメージは日本的なので(中国韓国あたりにもあるかもしれないけど)

インドでもあります。
月のことをシャシン(śaśin=兎を持つもの)とも言う。

107luni ◆CcpqMQdg0A:2009/11/23(月) 17:15:08
ええと、Kakisの二次人格だよ。=・д・=
fare deの用法をどこで使ったのかは定かでないけど
rezenzo fare de fama verkisto(有名な作家による批評)みたいに使うのかな。
英語で言うbyで、行為者を表すのです。fare deを直訳するとmakely ofみたいだけど……。
アルカでもklit yut axtan estiで、"yut"だけでbyの意味にしてるから誤解しちゃったのかな。

108だにょ:2009/11/24(火) 22:09:22
>誤解しちゃったのかな

えっ? fare deとfarは同じ意味ですよね?
luniさんの使い方は、正しい使い方なのでは?
よくわからないけれど。ブログで見たような気がしますが。
勘違いかも。

109だにょ:2009/11/24(火) 22:33:50
様々な立場から語根がセレクトされているようなので、面白いのをリンクしておきます。

◎エスペラント日本語基本辞書(4,730語)=公認基礎語根+エスペラントの基礎+アカデミーオ公認語
http://vastalto.com/kagi/zyuuyoudo.html

◎エスペラント日本語辞典(JEI)が指定する重要語(2,400語)
http://www.jei.or.jp/eldono/ejvortaro_gravaj_0.htm

◎沼津エスペラント会が指定する重要語(重複含めて1,019語)=機能語リスト+基本語彙リスト
http://www2.tokai.or.jp/esperanto/kinogo.html
http://www2.tokai.or.jp/esperanto/kihongoi.html

◎コーパスによる使用頻度調査(467〜465語)固有名詞、魔法用語(?)を含む。上位467語(上位664語)
http://miresperanto.narod.ru/biblioteko/tishljar/15.htm
http://eeo.8k.com/EoDktH/Morfemo1.htm

◎ベーシック・イングリッシュ850語とエスペラントの対比(952語)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/esp-siryo7.htm

110ベダウリンデ:2009/11/26(木) 09:24:37
>109
情報収集ありがとうございます。私はそういうのが不得意なので非常に助かります。

日本指定の基本語根は西欧指定のBRO等と比べると、若干違いがあると思います。
おそらく、日本人が見て過不足の無いように選択してあり、
それを見る日本人にとっても、違和感は生じないかもしれません。
また、日本指定のものでは、動物名を取り入れる頻度は低いようです。karpoも入ってません。

問題なのは、それが日本国内だけで有効な状態になってる事です。
BROなんか無視して日本指定の基本語根だけ覚えればいいよ、と言われても、
西欧の文書に西欧指定の基本語根に入っていれば、文句は言えない訳です。
必要なのは、両者のすりあわせです。「互いに勝手に」では「国際的」でも何でもないです。
他のアジア諸国でも勝手に独自の「基本語根」を定めているかもしれない。
それらを突き合わせて、何が共通かそうでないかを洗い出してみる、という作業が
ほんとは必要なんですが、そんな大変すぎる地味な作業は、、、なかなか手が出せません。
誰かそんな仕事してくれてないでしょうかね?
とにかく、日本指定の基本語根で満足するのではなく、
異文化のものを異文化の目で検証する方法が、国際基準に向けての作業としては比較的楽か、
と思い、今はその路線でいってます。
BROの語根は、日本人からすると破棄して当然な単語が沢山入ってるわけですが、
彼らから見るとそれらは必要な単語なのです。
なので、破棄する代わりに代案も考えてあげるようにしないといけない、と思うのです。
日本指定の基本語根を、異文化人が検証してくれたら、それもいいかもしれません。

コーパスは、「生きた言語」としての参考資料になりますが、
NEPOでは、それにそんなに囚われる必要ないと思います。
近い意味の語の中では何が好まれてるか、などを参考にするのには良いですね。

ベーシックイングリッシュは、私も調べたく思ったのですが、本とか、無いんですよね。
それに、いくら簡単になったとしても、結局は「米国文化」を表現するための言語だと思います。
また、動詞の数を少なくして多くの事を表現するには、我々が中学の時に苦労した「イディオム」を使う事になります。
「探す」はlook forじゃなくてサーチでいいです。エスペラントでもvidi porじゃなくてserĉiでいいのです。
単純に850語の比較ではなく、イディオム込みでどんな動詞表現が用意されているのか、知りたいです。

111ベダウリンデ:2009/11/26(木) 09:34:10
別スレでだにょさんが書いた小話、すごくいいですね。
>>http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160742040/135
>>http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160742040/136
お茶については私も前に調べて、「紅茶」は英語やエスペラント語では「黒茶」だけど、
中国では、さすがお茶の原産地、もっと色々な色でお茶を分けてるんですよね。
そういう「エスペラントならではの文化摩擦」みたいなネタをお笑いとして、もっと書いて下さいよ。
語彙の解釈がそれぞれの文化でバラバラである、という問題点の指摘となるので、非常にNEPO的発想です。

112だにょ:2009/11/26(木) 23:04:55
この前の質問に答えます。どうも投稿方法に問題があって、タイムラグが出てしまう(^ ^;

>「月の兎」の訳はどっちにしたのですか?

leporoです。
エスペラント改良の必要性を感じていますが、いざ実行の段となると使い分けてしまいます。
説話はウィキペディアで調べました。
>この伝説は、仏教説話『ササジャータカ』を発端とし、『今昔物語集』などを始めとして多く語られている。
とあります。「手塚治虫の漫画にそんなのあったっけ」というわけで、おそらく野兎。

電子辞書には「(一般に)ウサギ(兎)」とあります。ウサギ一般はleporoなのでしょう。
しかし、コーパス調査によるとleporoは上位に入っていません。kunikloはかなり上位です。

ドラマの世界では「天(時代)、地(場所)、人」の3つを最初の段階で観客に状況をみせて
理解させるというルールがあります。それを応用して、、、

言葉には、
(1)歴史的に、できる限り不変的、
(2)地理的に、できる限り普遍的、
(3)民族的に、できる限り不偏的との3つの守るべき「フヘン原則(=平等原則)」があると仮定します。
となると、過去の使用頻度が多いkunikloを消すのは、歴史的な継続を極端に断絶させるのでためらってしまうのです。
「sovagx-kunikloって何だよ? 野生化した飼いウサギ? ペットでも逃げ出したのか?」と言われるのが落ちですし。

113だにょ:2009/11/26(木) 23:06:06
妙なことをどんどん書きます。次の単語を採用しろと主張しているわけではないです。

頻出語根kunikloは次のような処理も可能ではないでしょうか。長い耳が特徴の動物ってウサギが代表なので、
ウサギという言葉を知らなくても、besto de longaj orelojで十分意味が通るはず。
だからkunikloとleprtoは、longorel/best/oまたはlongorel/animal/oという語に分離吸収させたい。
なるべく短い語にしたいなら-ul-という「人・動物の接尾辞」を使用すればlong/(a)/orel/ul/o。
「月の上の長い耳の野郎たち」と思われますが。

月の兎 la longorelbestoj sur la lumo (月の上の長い耳の獣)

114だにょ:2009/11/26(木) 23:06:56
↓コーパスの解説です。

>3. Kelkaj morfemoj havas klare tro altan nombron. Temas chefe pri vortoj el familia konversacio,
>kiam patro rakontis fabelon al infano, kie ofte ripetighis vortoj alie neuzataj.
>Ili estas: "karoto", "shafo", "lago", "chevalo", "kuniklo" kaj "sauno".
(適当訳)形態素の中はとても高い出現頻度のがある。おとぎ話の朗読といった家庭での会話だと、
他の場面では使われない言葉がよく繰り返される。にんじん、ひつじ、湖、馬、家ウサギ、sauno(サウナ?)なんかがそれ。

たぶん絵本に「家ウサギ」が沢山登場しているということでしょう。
エスペラントと、ある程度の互換性を持たせたいなら、
ウサギの吸収等はこういう利用実態を捨てちゃうことになるんですよね(>_<;

115だにょ:2009/11/26(木) 23:28:49
こうして、書いたのを垂れ流すのためらいがあるんですよ。
個人的には、このスレッドは、非常に重要だと思っているんですが。
前回も「あーあ、とうとうやっちゃった」という感じで。

唐突ですが、コンビニって墓参り用の線香などの葬式用品をたいてい売っているそうです。
コンビニは売れた商品の数などのABC分析というのをやっていて、Aの売れ筋商品を残し、
Cの死に筋商品を切っていき、売れる商品だけが常時店内に陳列されるようにしています。
ところが滅多に売れない線香のようなCの商品も置いてある。これはなぜかというと、
突然誰かが亡くなったときとか、緊急事態に困らないようにするためですね。

語彙の選択にもこういった事が大切で、単純に使用頻度の高いAの商品(語彙)から選べば良いってもんじゃない。
ベーシック英語は、7,000の英単語を重複がないように絞っていき、使用頻度ではない基準で850語を抽出したとか。
コンビニでいえば線香のような語を、緊急時にちゃんと表現できるよう抽出してあるそうです。

何が言いたいかというと、頻出語根(売れ筋商品)+必須語根(線香を含む)という組み合わせで、
本当に基本的な語根をはっきりできたら、いいんじゃないかと。

中途半端ですみません。

116ベダウリンデ:2009/11/27(金) 10:26:50
>「月の兎」の訳はどっちにしたのですか?
思うのですが、西洋人の感覚では、家兎=かわいい、野兎=かわいくない、
というイメージがあるのではないか、と。
英語で言うと、rabitとhareの違いだけど、例えばクマのプーに出てくる「ラビット」という兎は、
外見的にはかわいくないし、おそらく野生だし、私の感覚では野兎っぽいんだけど、
物語の登場人物だから、伝統的に言ってラビットなんだと思う。
(家兎は穴兎の家畜化で、「ラビット」は穴兎だ、とも言えますが)
逆に、日本の雪ウサギは、種別は野兎だけど、超かわいい。
それなのに、どうして「かわいくない名前」で呼ばれなければならないのか。
ネズミもそうです。英語の辞書に「西洋の家ネズミはマウスだが、日本の家ネズミはラットである」とある。
マウス=かわいいハツカネズミ、ラット=汚いドブネズミみたいなイメージで、
日本のネズミは汚いラットだ、と決めつけられたら不快だな、と。
月の兎も、かわいさイメージが必要なら、rabitと呼んでもいいじゃないか、とも思う。

おそらく、rabitイメージがエスペラントではkunikloに置き換わっているんですよね。
そういう動物への「イメージ」は、それこそ文化で異なるので、払拭したいのです。
kunikloは現コーパスでは上位ではあるが、兎の一般名称はleporoを採用して(longorelbestoも当然視野に)、
leporoから「かわいくない」というイメージを払拭できたらいいのに、と思う。
NEPOではコーパスに囚われる必要無い、とはそういう事です。
はっきり言うと、今までの「利用実態」は無視していい。そうじゃなきゃ、やる意義も無いと思う。
日本指定の基本語根では、動物名は極力控えた印象だが、使用頻度は低くても人間生活には絶対必要だと思う。
それをどうやって、極力語彙を減らして取り込むか、です。

117なつ:2009/11/29(日) 19:34:31
とても興味深い内容が続いていますね。
売れ筋商品と「緊急的必須商品」ですか・・・

少なくとも僕には野うさぎ、家うさぎ、穴うさぎの区別を目でみてわかりません。

子供のころ、アメリカのドラマを見たんですが、親が鼠駆除をしようとしたら、
子供たちが「マウス」駆除反対というプラカードをもってデモを部屋でするという内容でした。
ミッキーマウスもミッキーラットだったら人気がでていなかったと思います。
実際、ウサギもネズミもかわいいかどうかが判断の指針のウェイトを占めているんじゃないかと思うんですが。
だから童話に出てくるのはkunikloが圧倒的に多いわけで。
ただ、仏教説話のウサギはどっちなのかなあって悩みどころです。
正直いって、考えてもみてなかったのを今、僕なりに考えたら、
僕の感覚では餅をついてる月のうさぎちゃんはkunikloで
話自体に出るのは野性で食用になるようなイメージでleporo
なんです。大麦と小麦の区別と同じで「そんなのどっちでもいい!
いや、むしろ同じであるべきだ!」と思ってしまう。
もう一つ、生物学的には同じでも、大きさで表現を変える動物もいますよね。
わし・たか。くじら・いるか などです。
こういうのは総称名で一括して特にいいたいときはetをつけるあるいはsovagxなどして
言い分けるようにすればいいとは思いますが、その総称名をどっちにするかが悩むところですね。
まあ、いずれも僕は「分離」が好きですので、
「長耳野郎」(ウサギ総称)、「強鳥」(猛禽類総称)
「海動物」(鯨イルカ類)、「歯動物」(ネズミ総称)でしょうか・・・

118ふじこlp:2009/11/30(月) 04:36:00
可愛いか可愛くないかを決めるのは誰なんですか?
個々人が主観で決めて良いのであれば、ある一匹のウサギが怠惰そうにこちらを
睨みつけ、地面をダスダスと踏み鳴らしたときにはleporoと呼び、同じウサギが
餌欲しさでピョコピョコと近付き、すがりつくように前足をこちらの太腿にのせて
甘えた表情でこちらを見上げてきたときにはkunikloといったふうに、状況に応じて
呼び分けると、そういうことでしょうか。
個人的には月にいるウサギが野ウサギか穴ウサギかなんてことは、それこそどうでも
良いことに思えるのですが。月面の模様にウサギを見出さない民族からすれば、どの
ウサギを選んだところで、kuniklo/leporoになんて見えるかなあ?と思うだけの話
だし、ぶっちゃけ月面に獣などはおらず、surluna videblajxoでしかないので。
また、大麦と小麦の区別がどうでも良いのであれば、大豆と小豆の区別もどうでも
良いということでしょうか。球体で大粒の種はすべてpizo?大豆で赤飯作れますかね。
小豆粉の搾り汁にニガリを加えても凝固せず、豆腐にならなかったという実験番組を
テレビで見ましたが。言語上、両者の区別がなされないのであれば、材料にどちらを
使っても良いことになりますよね。
ここで交わされる話を見ていると、大衆食堂でたぬきうどんを注文したとき、店の人が
間違えてきつねそばを出しても「まあ麺には違いないからどうでもいいか、食えるし」
という発想なのだなと感じさせられるのですが。冷やし中華なんかを出しても文句は
言えないってことになるのでしょうか。
だとすればウサギやネズミといったミクロなレベルでどうこう言うのではなく、全部
まとめて kvarpieduloj(四足歩行の獣すべて)とか、fluguloj(鳥類すべて)、
nagxuloj(魚類すべて)とかで済ませてしまえば良いのでは。閾値をどこに置くかの
違いでしかないのですから。
vocxiのくだりを読むと、she speaks, yet she says nothing(口を開けてなにか
話してはいるが、意味内容のあることを何も語ってはいない)のような表現を、英語
からであれ日本語からであれ翻訳できそうにはありませんね。
いずれにせよ、非常に雑で抽象的な表現力しか持たない言語を目指しているのだろう
ということは分かりました。

119ベダウリンデ:2009/11/30(月) 16:50:36
>可愛いか可愛くないかを決めるのは誰なんですか?
「民族文化」です。動物の個体を各個人が見てその都度判定するものではありません。
日本には古来は野兎しかいなかったが、お伽噺に登場する兎を見る限り、日本人にとって兎は「かわいい存在」であったと思われる。
野兎=かわいい、と決めたのは「日本文化」です。
ヨーロッパには、ヨーロッパ人が区別したくなるほどに異なる2種の兎がいたと思われる。
足が短く丸っこい体型のかわいいkunikloと、すばしこそうで野性味あるleporoと。
kunikloの写真http://eo.wikipedia.org/wiki/Kuniklo
leporoの写真http://eo.wikipedia.org/wiki/Leporo
ヨーロッパ人は両者を区別してkunikloのみを「かわいい兎」と認め、物語にも多く登場させた。
それは「ヨーロッパの文化」がそう決めたのです。

>ぶっちゃけ月面に獣などはおらず、surluna videblajxoでしかないので。
科学的にはそうでしょう。しかし「フォークロア」では違います。
人間は古今東西、その想像力で、動物や、時には生命の無い物まで擬人化し、
神話やお伽噺の中で、人間のように行動させ、会話させてきたのです。
それはどの世界でも共通です。人間共通の文化だと思うので、私は大切にしたいですね。
ふじこさんにとっては、そういうフォークロアは「どうでも良いこと」なのですね。
「エスペラントでお伽噺を訳すな」というお立場なのですね。まあそれはそれで、個人の好みでしょう。

私は「お伽噺を訳す」事には賛成なので、その立場で考えます。
その場合例えば、「月の兎」をkunikloで訳すかleporoで訳すかは重要問題です。
生物学的に言うと日本の兎はleporoなので、日本人がイメージする月の兎は、かわいいleporoです。
でも、leporoと訳した場合、ヨーロッパ人にそのかわいさをイメージしてもらえるのかどうか。
もしもあんまり良くないイメージをもたれたら、本当の意味での「日本人の心」って通じなくないですか?

120ベダウリンデ:2009/11/30(月) 17:24:04
>大麦小麦、大豆小豆、たぬきうどんときつねそば
まあ、たぬきうどんを食べたければ日本語で注文しろ、という事ですね。
人間は自分達の周りにある存在物を、区別する必要がある限り細かく分類し、個々に名前を付けます。
そうしないと生活に不自由だからです。
でも、自分の見たことも無いもの、区別のしようもない物を、細かく分類されて言われててもすぐに理解できますか?
南米だの何処だののバザールで、日本では見たこともないような色とりどりの豆だの野菜だのを売っている。
きっと現地ではそれぞれに名前があるのでしょう。
でも、それの名前を現地語でいきなり言われて理解できますか?
外国人もdaizu-oだのazuki-oだのいう単語を暗記しなくてはならないのですか?
世界に存在する物の種類は無限大です。それらに個々に名前をつけるのですか?
そうしたいなら、それも良いでしょう。
でも、そうしたら暗記量が無限大となり、「覚えやすい使いやすい」国際共通語ではなくなると思いますね。
暗記しなくていい、分からなかったら質問すれば良い、と?
azukiとまず言って、それは何かと聞かれて、豆の一種です、と答える。
豆の一種ですと言われても、相手の知識が前提に無ければ、どんな豆か具体的にイメージできない。
なら最初から「豆」って言えばいいじゃん。
もしも相手が日本のお店でazuki買ってお汁粉作りたいなら、そこで初めてazukiという日本語名を教えてあげればよい。
エスペラントは民族語ではないのだから、特定の民族文化の物だけ細かく命名されてても、使いづらいと思う。


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