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新エスペラントNEPO*進行中
61
:
ベダウリンデ
:2009/09/14(月) 16:53:26
心理学入門書に興味深い事が書かれてあったのでメモ的に。
エクマンと意見を対立させてるラッセルは、情緒語を調べ、
「アフリカ人は怒りと悲しみを同意語に用い、サモア人は憎しみと嫌悪を区別せず、
タヒチ人は恥と困惑を区別しない。また、日本人は恥と自責心を区別しない」と述べたという。
確かに、怒りと悲しみは非常に近い感情で、怒りが悲しみになったり、悲しみが怒りになったり、容易に変貌する。
憎しみと嫌悪が近い感情だという感覚も、今まで私が分析してきたとおりだし、恥と困惑が近いのも理解できる。
ただし、日本人は恥と自責心を区別しない、というのは、どーでしょう?
区別できないんじゃなくて、恥という感覚が広くて、その中に自責心も含まれる、というだけではないか。
自分のせいで失敗した事を日本人は恥とみなすけど、西洋人はそうじゃないのかもしれない。
となると、アフリカ人、タヒチ人、サモア人の例でも、感情を区別できないのではなく、広く大きな意味の語があるだけで、
自分の感情を分析して区別すれば区別できるのではないか、と思った。
NEPOでも、広く大きな意味の語を作り、必要ならばその中の特別な意味に単語を割り当てたいと思った。
また、「〜なくらい嫌い」という意味を表す場合、abomeniのような別単語にするのではなく、
(preskaŭ)vome malŝati とか言えばいいと思う。
日本語では「唾棄」という語があるが、それはkraĉe malŝati。
他の民族語でも「〜なくらい嫌い」という表現が他にもあれば、自由に応用でき、表現力も損なわない。
恥や罪悪感という感情については、その要因はそれこそ文化によって非常に異なるであろうので、
定義する時は注意しなければならない。
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