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新エスペラントNEPO*進行中
62
:
ベダウリンデ
:2009/09/18(金) 09:01:12
感情語について不思議に思う点。
例えば同じ境遇にさらされても、怒る人と怒らない人がいるように、
感情とは、各個人がそれぞれの内面で感じ取るものである。
エスペラントでは、ĝoji,mal-ĝoji,koleri,timi、は、"senti 〜"と定義される。
つまり、「〜と感じる事」という定義で、主語は、その感情を感じる本人となる。
一方、感情を表す語として、驚き、興奮、興味、等もあるが、これらは
surprizi,eksciti,interesiで、意味としては「驚かす」「興奮させる」「興味を持たせる」となる。
つまり、これらの単語では、主語は、その感情を感じる本人ではなく、別の物となる。
感情とは、個人が内面で感じるものなので、驚きや興味も、感じるのはその人本人の筈である。
同じ物を見ても、他の人も自分と同じく「驚き」や「興味」を持つとは限らない筈である。
なぜ、一部の感情語は、主語が本人にならないのであろうか。
感情語の主語を何にするか、統一しないと不自然ではないか、と思った。
これらの単語を名詞化した単語も、ĝojo,kolero,timoが、その感情を感じてる人の気持ち=感情そのもの、であるのに対し、
surprizoは驚かす行動または驚かす物、interesoは興味を持たせる物、または興味を持った人の感情、
一方、興奮はekscitiĝoとなるらしく、名詞化した時の意味づけもばらばらで、統一性が無い、と思った。
日本語でも、「面白いもの」は、面白がるのは各人であるにも関わらず、物そのものが「面白い」となるので、その点はエスペラントと同じである。
民族語ではこのように表現するのが普遍的なのか、もし普遍的であるとするならば、
喜ぶ怒るなどの感情語と、何を基準にして差異が生じるのか、その点は明確にすべきである、と思った。
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