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Japanese Medieval History and Literature
快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
荒行してみるか。
おはようございます。
今年も、西国から見守っております。
新年そのものについては、あんまりこだわらない感じでした。
また、呑んで過ごしてしまいました。
いま、ちょっと思いついたのですが、企画している史料講読会で、「荒行」をやってみようかと・・・。詳しくは、編集長のブログをご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/m/200709
今、思うとこれはすごい企画ですよ。
あけまして、おめでとうございます。
一夜明けて新年、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昔ほど新年を厳かに感じなくなったのですが、歴史を紐解いていると、身を清め、新たな一年を目指す重要な日なのかなあと思います。
昨年から、私の中では「斎王」の話が、堂々巡り(というか、どんどん広がっておりまして)、「斎王歴史博物館」のHP↓にはまっております。特に「斎王百話」という学芸員の方コラムが面白いですね。本当は伊勢神宮に参拝したいところですが、このコラムで伊勢に行った気分になるのもよいかも。
http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/
>釈由美子が好きさま
>しばらくお願いします。
私専門家で無いので、訪れてくださる方々を飽きさせてしまう(いや、呆れさせてしまう)のを恐れているのですが、ゆるゆるとお相手させていただきます。
★何か、おめでたい画像をと思ったのですが、↓那智の滝でございます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003937.jpg
「武威、武威」
みなさま、
新年おめでとうございます。
どうぞ、本年もいろいろと御教示くださりますよう、お願い申し上げます。
さて、年末は二十九日までオシゴト(の後、呑んで)、三十日から大掃除を始めたのですが、本日、ま、まだ終わっておりませぬ。というワケで、返答も遅れ気味でございます。
NAO4@吟遊詩人さま
筆綾丸さま
すでに古くなってしまった話題ですが、伊勢祭主の藤波家(大中臣氏)につきましては、『大中臣祭主 藤波家の歴史』(藤波家文書研究會編。続群書類従完成会、平成五年(一九九三)三月)が有益です。同刊行会からは、もう一冊、藤波家関係の本があったように記憶しておりますが...
なお、明治維新後、祭主の制は、名は同じでもナカミは違ったものとなっております。既に御周知のことと存じますが。
また、
> 最後の斎王祥子内親王が保安寺に入り周徳上人と称したのが慶光院の始まりとのことで
すが、根拠史料が知りたいところですね。
> 「慶光院」の権威付けをするのには、古代の斎王の系譜を引くかのような工作を行ったのではあるまいかと思ってしまうのです。
> 恐らく、守悦にしても清順にしても、信仰心あるれる勧進比丘尼で、慶光院自体に元々はそれほど権威があったわけではないのではないかと思っているわけです。
NAO4@吟遊詩人さまのお考えで間違いないものと存じます。
祥子内親王と保安寺との関係について知る所は、『新葉集』巻十の詞書、という程度でございまして、周徳という法名についても当然、根拠を知りません。
kariさま
> 『続史愚抄』暦応3年5月30日条によると、後醍醐天皇の娘である懽子内親王(のちの光厳上皇妃。宣政門院)が京都西郊の「保安寺」に入室していますが、
対応する史料、『玉英記抄』暦應三年五月卅日條、
宣政門院御出家之由、人告之。如幻。爲尼著黒衣給。
に「黒衣を著したまふ」とありますので、禅尼となったことは確実ですね。なお、『師守記』暦應三年五月卅日條にも対応する記載がありますが、本文は未確認であります。
どうにも勉強不足でスミマセンが、このような程度であります。
さて、保安寺に関しては、私にも分からないことばかりであります。
ということで、以前に入力しておいたデータに検索をかけてみましたところ、いくつか史料が出てまいりました。
まず、西郊の保安寺のことと思われますのは、光明院に関する記載として、『園太暦』文和四年八月十二日條の廣義門院女房奉書に、
法王【光明院】の御名もむつかしき御事ニて候ほとに、たゝこの御あんのてらをこそ、御名にて候ハんすらめと思まいらせて候。保安寺ニて候。
とあり、また、『園太暦』文和四年九月四日條に、
保安寺法皇【光明院】去月晦日御移住深草金剛壽院。花山内府入道【花山院長定】著黒衣參候。其外僧衆廿人許祗候。一向爲叢林儀。自今月朝於僧衆御齋食。自京都祗候仲經入道并承仕唯教法師等、皆給暇出京。教行入道【山科】息喝食一人奉付云々。誠貴事也。
とあります。
和泉国の保安寺につきましては、後土御門院の皇女の保安寺宮(なお、「仁尊」というのは、保安寺宮の同母弟で圓滿院宮となりました、三宮の名であります)に関する史料として、次のものがありました。
『親長卿記』文明五年十月廿二日
午剋若上臈(花山院故内府持忠女。權中納言政長姉)令出御産所給(件女房室町殿御臺【日野富子】上臈也。雖然一兩年被懸叡念、自去正月懷妊云々)。御産所北御所(御臺御私所也)也。雖有御産氣未誕生云々。未剋許大納言典侍被予申云。覺勝院僧正(良助)産附【符】有怪異之由所被聞食及也。早々申遣可召進云々。即進上之。酉剋許降誕(皇女云々)。禁裏女房少々走參。依禁中産穢也。疎骨通達不可然歟。當時如此觸穢無憚禁制。仍自由之儀連々出來神慮難測。・・・・・
『親長卿記』文明六年三月廿八日
東御方(御臺御方【日野富子】上臈。花山院中納言政長御姉妹也。一兩年咫尺龍顔、姫宮【のち保安寺宮】一人降誕)
> 文明6年8月27日
『言國卿記』文明六年八月十六日
一、泉國保安寺殿ヨリ、姫宮御迎ニ御ヒクニ【比丘尼】兩人昨日上洛也。今日彼兩人禁裏ヘ被參、同姫宮御方ニテ御酒アリ。女中御見參也。
『親長卿記』文明六年八月十九日
入晩參内。姫宮御方(三歳)來廿二日、令下泉國給、令成寶安寺【保安寺】御弟子給。・・・・・ 件姫宮、花山院中納言姉妹御腹也。・・・・・
『言國卿記』文明六年八月十九日
一、姫宮御方、就泉御下、男數御花ムケニ一チヨ[ウ]シ、各一種持參申。・・・・・
『言國卿記』文明六年八月廿日
一、夜ニ入、ヒカシノ御方【東御方。藤原兼子】、姫宮御方ノ御ナコンヲシミ【御名残惜しみ】トテ、柳一カ・御カハラケ物共御持參アリ。同御方ニテ御酒アリ。・・・・・
『言國卿記』文明六年八月廿一日
一、姫宮、御暇乞ニ御臺【藤原(日野)富子】ヘナラせ給了。
一、姫宮御方ヘ御暇乞ニ、安禪寺殿【後花園院皇女觀心】・曇花院殿【後花園院皇女】・眞乘院殿【後花園院皇女】御參アリ。御酒在之。
一、明日姫宮御下向雖可有、路次ノヒヤウシノ事ニツイテ、旁遲々スル事アリ。來廿七・八日比マテ延引也。
『言國卿記』文明六年八月廿三日
一、ハウヨキニツイテ、園【基有】陣屋ヘ、姫宮御方、御カタヽカヘ【方違】ニナリ了。同上臈御チノ人【乳人】被參了。ヤナキ二カ【柳二荷】モタせラルヽ也。御方ノ御留守、予ウケタマワリ仕了。勾當局・大御チ人來。御酒被下了。
『言國卿記』文明六年八月廿四日
一、保安寺御ヒクニ【比丘尼】サムシユソ【さん首座】、柳二カ【荷】・折二合持參アリ。姫宮御方ニテ御酒アリ。大典侍局・勾當局・同姫宮御チ人【乳人】被出也。保安寺上臈チンシユソ【ちん首座】モ被參也(民部卿イモウト也)。四辻・民部卿・予メサレ御酒タフ也。予ニ御シヤクトラせラレ了。
『言國卿記』文明六年八月廿七日
一、早朝ニ此御所ヨリ姫宮御下向アリ。御方ニテ御出。御祝アリ。御サカ月【盃】參也。男數、源中納言・民部卿・公兼朝臣【正親町】・予・以量【橘】メンタン【面談】ニ參了。サムシユソ【さん首座】ノ御シヤク也。
また、
> 文明13年10月23日 保安寺宮、和泉より参内して代始を謝す。ついで、同宮領遠江国村櫛庄延年名の年貢を催促す。
は、
『親長卿記』文明十三年十月廿三日
雨下。法安寺【保安寺】殿(禁裏【後土御門院】女。御喝食)今日自泉州御上洛、令宿予亭給。暫可有御在京云々。
『親長卿記』文明十三年十一月九日
法安寺姫宮【保安寺喝食】御申村櫛庄【遠江國敷智郡】讓分事、申内府【大寺實淳】。今日申御返事。一國依一亂、近年有名無實云々。申女子讓之由相違。可仰其子細云々。
『親長卿記』文明十三年十一月九日
陰。詣内府【大寺實淳】亭。保安寺殿【後土御門院の女子】御知行村櫛庄【遠江國敷智郡】之内延年名事、女子讓之間、不可致沙汰之由、亂之始申之。非女子讓、永代御知行之子細、可申披之由、先日仰之間、申其子細了。見支證了。令存知之由返答。簡要、遠江國信濃小笠原出張之間、物〓不沙汰、年貢令到來者可進上之由申之。
『親長卿記』文明十三年十一月十六日
、猶雨雪時々下。今日保安寺宮【喝食。後土御門院の女子】御下向泉州。數日御座予亭。珍重自愛々々。進御宿妙之由、種々有叡感。
ですね。
なお、尼宮さまは、強盗の被害にも遭っているようです。
『實隆公記』永正元年七月七日(乙未)
白浪入保安寺宮(云々)。
> 天文2年1月3日
『實隆公記』天文二年正月十一日(甲寅)
保安寺宮昨日(【右傍】去三日云々)入滅給(云々)。可憐々々。後土御門院第〓【二】姫宮。鳳栖院相國【花山院持忠】女腹(第一)、於北小路殿御誕生。妙善院【日野富子】被養申。此御誕生後、御母儀被候内裏、數年後、爲上臈官仕。本妙善院上臈也。
この保安寺宮は、日野富子との縁が強く、この点でも興味深いですね。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
酔っ払いの話
といっても、昨年あった話(ごめんなさい・・)ではなく、平安時代のお話。
先の投稿でご紹介した「斎王歴史博物館」のHPに載っておりました。
「長元の御託宣」って、業界では有名なお話なのでしょうか?
伊勢神宮の斎王が、あまりの待遇の悪さに切れてしまい、酔っ払って、天皇家の衰運やら、斎宮寮の長官とその妻が不正などを御託宣してしまった話です。
http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/hyakuwa/0032/hyakuwa-32-20030201.htm
なかなか、この↑サイト嵌ります。
>阿哈馬江さま
丁寧な解説、しっかりした史料、どうもありがとうございました。
やはり、プロ系の方は違いますね。瞬時にこういう史料が出てきてしまうところが凄いです。ため息がでてきます。
「慶光院」と「祥氏内親王」の関係の推理が、当たっていたようで、嬉しい反面、やはりプロには足元にも及ばないと、もっともっと体力(=基礎学力)を付ける必要があるなあと思っている次第です。
本年もよろしくお願いいたします。
>kariさま、相国入道さま
なんとなく、留守番をしておりますが、今後とも御贔屓にお願いいたします。
二年参り
あけましておめでとうございます。
八坂神社と平安神宮にお参りして、京風の雑煮を食べてきました。
大聖寺と三時知恩時と霊鑑寺(鹿ケ谷比丘尼御所)の門だけを見て、森蘭丸の阿弥陀寺
と西園寺家の西園寺と四条天皇の泉湧寺と九条家の東福寺などを見て、帰ってきました。
はらはらと風花が舞い、愛宕山頂がほんのり白くなっていました。
ホントに酔っ払ったの?
NAO4@吟遊詩人さま
>「長元の御託宣」って、業界では有名なお話なのでしょうか?
の、ようです。
自分の所、どこかに次の二件があるはずです。
杉崎重遠「〓【女專】子女王」
(『王朝歌人伝の研究』(新典社、一九八六年三月)所収、二九七〜三二四頁)
早川庄八「長元四年の斎王託宣事件をめぐって」
(早川庄八『日本古代官僚制の研究』(岩波書店、一九八六年十一月)所収、一八五〜二二六頁。初出、「平安時代における天皇の一断面──長元四年の斎王託宣事件をめぐって──」、『講座日本思想3・秩序』(東京大学出版会、一九八三年)所収)
また、未見ですが、次の論文もあります。
岡田荘司「平安中期の天皇と神宮 ──長元四年伊勢斎宮神託事件を中心に──」
(古代学協会『古代文化』四五-三、平成五年(一九九三)三月)
他にも関係文献はあるものと存じますが、自分が把握しているのは以上のとおりです。
> プロ系の方は違いますね。
いーえ、いえ、私は日本史学業界では文字どーりのシロートでございます。
ただ、個人的に「面白い」と思った史料を、(PC9800パソコンの時代から)ともかく片っ端から入力するよう心掛けた結果、
> 瞬時にこういう史料が出てきてしま
っただけのことでして...
今後、史料のテキストの電子データ化が進めば、誰でも、容易に原典史料を使うことができるようになるわけですね。もちろん、史料の選択、人物比定等について、それなりの眼力が求められますが。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
スダコの公事銭
京都の台所「錦市場」の酢蛸を見ながら、こう考えた。
遠く中世の頃は、この近くの六角今市に魚棚公事銭がかかり、関白殿下の渡領として鷹司
家が課税権を有しておったと聞くが、二十一世紀の現在では、国税と府税と市税という
租税債権が、ゴチャゴチャと蛸の吸盤のように魚棚に吸い付き絡み付き、要するに、今も
昔も何も変わっておらないが、物流に課税するという思想は、一体、いつごろ発生したも
のであろうか?
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住
みにくい。・・・・・・
「お姉さん、このスダコ、くださいな」
「おおきに」
阿哈馬江さま
御引用の「言國卿記」は面白いですね。「柳」は銘酒かと思われますが、どこの銘酒か
わかりますか。河内の金剛か何かでしょうか。また、姫宮下向の餞にある「一種持參」
の「種」は酒の肴と思われますが、こういう場合の肴は、スルメとか干物が普通なの
でしょうか。
高貴な姫宮も、最初は「喝食」として入寺するのですね。おどろきました。また、白浪
ですが、これは江戸期の言葉かと思っていましたが、室町期に既にあったのですね。
NAO4@吟遊詩人さま
慶光院と伊勢国司北畠氏との関係などがわかれば面白いな、などと考えています。
柳樽
筆綾丸さま
> 大聖寺と三時知恩時と霊鑑寺
これはこれは、マニアックな訪問先ですね! いずれは私も門前めぐりをしたいものです。
> 関白殿下の渡領
ということは、「鷹司家が」でなくて「鷹司家も」とか「鷹司家など五摂家が持ち回りで」、とすべきでしょうね。
> 柳
一般名詞として酒の異称かと思いますが、断言はできません。
> 「種」は酒の肴と思われますが、
例えば、『泰重卿記』元和六年十二月廿八日辛未条に、
五辻より可參之由案[内]。未刻、和泉進物(五辻殿【之仲】へ)銀子五枚・太刀折紙・馬代(艮子壹枚)、同内義へ杉原十帖・艮子二枚、綾小路殿【高有。五辻之仲男】へ銀錢二貫文、同内義へ杉原十帖・付帶二筋、内衆へ銀錢五貫文也。予【土御門泰重】諸白二荷・肴三種五辻殿持參申候。・・・・・ 乱酒無正躰。及鷄鳴、予歸宅也。和泉ハ其侭其夜から不罷歸候。自他歡喜不斜候。家君御滿足不過之候。
と、また、『泰重卿記』元和六年十二月廿九日壬申条に、
滋野井【季吉。五辻之仲男】へ今朝從和泉樽壹荷・肴三種參候。予銀錢一貫文持參候。又五辻殿昨日爲礼參候。和泉ヘヤ參、ほう光あんと雜談とも申候。・・・・・
とあり、「肴三種」と見えますので、「〜荷・〜種」の「種」が肴であることは確かです。
具体的な内容につきましては、後世の史料ですが、『禁裏執次詰所日記』文政三年五月廿二日丁丑条に、
一、女御御方江御使 長橋殿 大和殿 (添使)右京大夫
若宮樣江
御太刀 一腰 御馬代黄金 壹枚 御産衣 五重 昆布 一箱 鯣 一箱
干鯛 一箱 御樽 貳荷
女御御方江
白銀 三拾枚 三種 貳荷前同斷
右之通被爲進。御品御使番持參。
とありまして(われながら、よくぞこのようなテキストを入力したものよ、と思います)、ここでは、コンブ、スルメ、タイの干物が「三種」として挙げられております。
室町時代にどのようなものが「三種」に入っていたかは、どなたかより御教示をたまわることができますれば幸いと存じます。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
美作学講座「美作を彩る人々」のご案内
美作大学では、津山市教育委員会との共催により、一般の方を対象として美作学講座を開講いたします。後期は、「美作を彩る人々」と題し、美作地域で活躍した人物を取り上げます。奮ってご参加ください。
【講座の概要】いずれも13:30〜受付開始
?2008年2月19日(火)14:00〜15:30
テーマ「漆間一族と法然」
講師:津山市教育委員会副参与 湊 哲夫氏
?2008年2月26日(火)14:00〜15:30
テーマ「宮本武蔵」
講師:美作大学地域生活科学研究所客員研究員 渡邊 大門氏
?2008年3月4日(火)14:00〜15:30
テーマ「森 忠政」
講師:津山郷土博物館主幹 尾島 治氏
?2008年3月11日(火)14:00〜15:30
テーマ「箕作阮甫」
講師:津山洋学資料館学芸員 小島 徹氏
?2008年3月19日(水)14:00〜15:30
テーマ「白岩龍平」
講師:山陽学園大学 特任教授 太田 健一氏
□場所:美作大学 本館 31教室(事前申込不要/関心のある講座のみの受講可)
□参加費:無料
□問い合わせ先
〒708-8511 津山市北園町50 美作大学 教務課・生涯学習講座係
TEL:0868-22-7310/FAX:0868-23-6936
E-Mail:kyomu@mimasaka.ac.jp
開室時間:月〜金/8:30〜17:30
主催:美作大学・美作大学短期大学部 / 共催:津山市教育委員会
美作学特別講座「美作の近代史を探る―美作の女性史と自由民権―」のご案内
美作大学では、これまで生涯学習講座「美作学講座」や講演会・シンポジウム「美作中世地域史研究を拓く―美作学への招待―」を開催し、地域史研究の成果を還元して参りました。
それを受けて、美作学特別講座として「美作の近代史を探る―美作の女性史と自由民権―」と題し、講演会を開催することといたしました。この講演会は、一般の方に広く開放するもので、どなたでも自由に参加することができます。奮ってご参加ください。
記
1.開催概要
?日 時:平成20年2月10日(日) 13時30分〜(13時開場)
?場 所:美作大学 本館 31教室
?講演? <13:30〜15:00>
題 目:「民権期の津山の女性」
講 師:香山 加恵氏(女性史研究家)
?講演? <15:10〜16:40>
題 目:「美作の自由民権と近代」
講 師:坂本 忠次氏(関西福祉大学教授/岡山大学名誉教授)
2.参加費:無 料
3.申込方法
申込不要(当日、直接会場にお越しください)
4.問い合わせ先
〒708-8511 岡山県津山市北園町50
美作大学 教務課生涯学習係
TEL:0868-22-7310 FAX:0868-23-6936
主催:美作大学・美作大学短期大学部
宸翰英華
阿哈馬江さま
霊鑑寺の門を見て、哲学の道を行くと、なんと、風花がフッサール哲学風に舞いはじめた
ので、疎水縁の喫茶店に入りますと、西田幾多郎ケーキセットというのがあり、敬意を表
して食べてみると、なかなか佳い味のケーキでした。
鷹司家はご指摘のとおりでした。
荷と種、ほんとによくぞ入力なされましたね。お蔭さまで、とてもよくわかりました。
今日は、『宸翰英華 乾坤』(帝國學士院編纂 紀元二千六百年奉祝會 昭和19年12月
11日発行)を眺めていました。
花園天皇宸筆御記(92 伏見宮御藏)は、詞書きの後に二条大路と大書され、牛車(2台)、
殿上人(9人)、武官(9人)、地下人(17人)、牛飼童(1人)、牛(1頭)、馬(5頭)が、洒脱な
筆致で描かれています。
後花園天皇宸筆琴腹繪(170 京都御所東山御文庫御物)は、寝殿造風の縁に僧体の貴人
が書見し、庭に陰陽師風の老人が座り、草花から秋の景らしく、精密な線描です。
前者は、もしかすると、絵日記のかなり早い例なのかもしれません。両天皇の絵はほとん
どプロ並で、後花園という名は花園の画才の後継者という意味があったのかもしれないな、
などと思いました。
謹賀新年
謹んで初春のお慶びを申し上げます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
実家に帰りましたら、父がG市検定(上級)の受験勉強をしておりました。
なつかしの単語カードを使って暗記中。
ちょっと試してみたら、パーフェクトに覚えていて、わが父ながら、やるな!と思いました。
が、単語カードの弊害もあるようで。
私「桔梗一揆は?」
父「土岐頼康」
ここまでは良いのですが。
私「で、この桔梗一揆って、いつどこでだれが土岐頼康と何のために戦って、どういう結果になったの?」
父「…それはだな、えーっと…たしか、応仁の乱のときに南朝と戦ったんだ」
私「…父上。私はこの時代のこの町の歴史は知らないけど、応仁の乱のときに南朝と戦っていた人はいないと思う」
父「なにいっ?!」
といった具合に細かいことをつっこむとだめだめです。
ここで「桔梗一揆」が何なのかご存知の方は、私の質問自体がだめだめなのにお気づきでしょう。
「一揆」というと、私などみ〜んな反乱のことだと思ってしまって、上記のようなとんちんかんなことになってしまうのですが、
何らかの理由により心を共にした共同体のことをさす言葉でもあるそうです。
桔梗一揆は、桔梗を家紋にもつ土岐氏一族の武士団のことをさします。
「土岐軍団」という感じですかね。
ちゃんと南朝と戦ってます(笑)。応仁の乱のときに〜というのが間違いなのです。
父はG市検定のあとは、長年勤めた会社があって土地勘のあるN市検定も受けるそうです。
やる気満々だなあ。
私は、今年は、なにをしようかなあ。
とりあえず、新しいことに手をつける前に、これまで手をつけているあれこれに、ひと区切りをつけてまとめたい、と思っています。
柳酒屋
柳酒は京都の有名ブランドです。おそらく『国史大辞典』でも立項されているのではないでようか。詳しくは、『豊田武著作集』の最初の方の巻か、小野晃嗣の酒造業の本をご覧下さい。
今年も留守番
>阿哈馬江さま
>ホントに酔っ払ったの?
文献ご紹介いただき、ありがとうございます。平安時代の酒ですから、そんなにアルコール度数が高いわけはないですし、長元の御託宣のときの斎王は、確信犯で、勇気ある行動だったのかもしれませんね。
>筆綾丸さま
>慶光院と伊勢国司北畠氏の関係
清順の時代だとすると、北畠具教の時代でしょうか。伊勢国司北畠氏は、伊勢神宮神領を横領したとかで、あまり仲がよかったようには思えませんが。
>渡邊大門さま
>美作学特別講座「美作の近代史を探る―美作の女性史と自由民権―」
ご案内ありがとうございます。「自由民権運動」は、中学のとき「加波山事件」を調べたことがあるのですが、知識が東日本に偏っていて、新鮮に感じました。
>はぎつきみたえさま
本年もよろしくお願いいたします。
>これまで手をつけているあれこれに、ひと区切りをつけてまとめたい
イチョウの話ですかね。
>笛田均さま
>柳酒
はじめまして。
ご教示いただきありがとうございます。
酒の歴史を調べる上で、手軽に入手できると言うことで、「日本の酒??(坂口謹一郎著、岩波文庫)」なんかどうでしょうね。
三毬打
笛田均さま
ありがとうございます。
http://www.erratum.jp/sake-shop/kyotohistory.htm
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka14.html
五条坊門西洞院の中興という土倉の副業(本業?)としての銘酒のようですね。
NAO4@吟遊詩人さま
伊勢神宮は織田弾正忠家のように大事にしないと駄目ですね。
kariさま
昔の話ですが、横井清『中世民衆の生活文化(上)』(講談社学術文庫)に次のように
ありました。
「・・・また「羽根つき」も、女の子、男の子、それに大人たちもまじっての「胡鬼板」
遊びとして正月の景物になりきっていた。やがてくる夏の日々に害虫にくわれぬまじない
だともいわれたが、とまれそうした消厄除災の祈りが胡鬼子(羽根)の冴えた音色には
こもっていた。この胡鬼板は、正月半ばの「三毬打」(どんど焼き)で、毬打遊びの竹
や正月の飾り物などといっしょに灰となる」(86頁)。
胡鬼子は害虫の羽の表象として「三毬打」で焼かれたようですね。
ウィキペディア「くずし字」項目
ネット辞書ウィキペディアに「くずし字」の項目を作りました。削除依頼が出て検討中となっておりますが、近代以前の筆書き文書の情報が、大量であるにも関わらず、余りにも常識化していないのに危機感を覚えて作ったものです。どなたか、加筆修正なり、建設的な提案なり、お心に留めてくださると大変ありがたいと思っております。よろしくお願い致します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%9A%E3%81%97%E5%AD%97
あるいは、グーグル検索「平仮名」文中「「くずし字」で移動できます。
http://park.geocities.jp/siryouhihann/index.html
山口・御堀堂の外郎は美味い
笛田均さま
さっそくの御教示、ありがとうございます。
> 『国史大辞典』でも立項されている
ありました。第十四巻の85頁に、「やなぎざけ 柳酒」(執筆、鈴木敦子氏)。
室町時代から江戸時代に
かけての京都を代表する美酒。京都下京五条
坊門西洞院南西頬に店を構えた柳酒屋は、姓
を中興(なかおき)といい、土倉業をも営む京
都の都市豪商であった。・・・・・
「参考文献」に、小野晃嗣『日本産業発達史の研究』も挙げられておりました。
なお、当該項目の末尾に、
・・・・・ このころ【文明十年】から「大柳」
と称するようになったようである。江戸時代
にも「柳」は美酒として著名であるが、中興
家との関係は明瞭ではない。
とありますが、僭称酒が現れたのか、それとも、「外郎」のように普通名詞化してしまったのか、どちらかなのでしょうね。
筆綾丸さま
> 『宸翰英華 乾坤』
続編をも含めて、未所持であります(というより、永遠に所持できないかも...)。
中村直勝氏によると、古書店に出るようなことがあれば是非とも入手すべき、ということなのですが。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
まあ、勝手に留守番
>阿哈馬江さま
>『宸翰英華 乾坤』
こんな本があることさえ知りませんでしたが、「日本の古本屋」↓で検索すると、ありますね。凄い値段です(でも、パソコンより安いか)。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Syousai?sc=7C1E562948F282FB4ED18997687098EA&p_bk_tourokubi=64E2FB7FA8CE463D6A74F00A729E2EE81CB4378617D9855C&p_bk_seq=4735&wg=W
>筆綾丸さま、阿哈馬江さま
>柳酒
本文を確認せずに書き込んでしまいましたが、「日本の酒(坂口謹一郎著、岩波文庫)」にも、少しだけ記載があります。
以下そこからの引用
いったい酒に銘をつけるのは、いつの時代にはじまったか。小野晃嗣教授によると、中世の文明年間、洛中の有名な「大柳酒屋」が、その酒に「六星紋」をつけたのが、一番古いという話である。
この文からすると、「柳」は銘柄ではなさそうですが。
>盛衰栄枯さま
はじめまして
ウィキペディアでは、あつい議論がされているようですね。面白いお話で、議論の中身も傍目に見ていると面白いのですが、議論している方が、友好的な感じがしないのが、ちょっと気になるところです。
>筆綾丸さま
検索かけてみると、↓朝熊山金剛證寺というお寺がありますね。
「北畠公」と「慶光院 清順」の供養塔が共存しているところが、なんとも不思議です。
http://www.kirari1000.com/base_data/base_data.php?kirari_cd=00176
↑左詰になってしまいました。何故か分かりません。
柳営御用達?
なぜ「柳」なのでしょうね。
五条坊門西洞院南西頬に柳の名木でもあったのか、柳営(室町殿)御用達だったのか、
白楽天等の漢詩に柳と酒を結びつける名句でもあったのか、世阿弥の遊行柳でも踏まえ
ているのか、卯(ウサギ)の赤い目のパロディなのか・・・名称の由来がわかると面白
いですね。
横井清「中世民衆の生活文化(中)」(講談社学術文庫)に、「六角魚棚図」(京都府
光円寺所蔵『京洛月次風俗図扇面流屏風』)があり(70頁)、魚棚公事銭の課税客体が
わかって面白いのですが、店の前を行く「振売り」に興味を惹かれました。「振売り」
への公事銭はどのようになっていたのか、また、天秤棒に吊るした籠の中には、何が入
っていたのか、と。嵯峨の筍か、久世の瓜か、大原の炭か、丹波の栗か・・・。
芭蕉『炭俵』に、
振売の 鴈あはれ也 えびす講
を発句とする歌仙があるけれども、もしかすると、籠の中味は雀かもしれない。
『宸翰英華 乾坤』は、計量してないのでわからないのですが、ゆうに20kgくらいは
あって、大和(乾)や武蔵(坤)のように、超弩級の巨艦主義的豪華本です。
http://de.wikipedia.org/wiki/Quellenkritik
「洛中洛外図屏風を史料としてア・プリオリに用いることも、また洛中洛外図屏風の史料
的欠陥に恐れる余り、これを史料としては排することも、共に私たちの歴史研究の体質に
関わることなのであった。その意味からすれば、私たち中世研究者に向かって、これらの
作品は、歴史研究の方法そのものの在り方について問いかけているのだといってよいで
あろう」(上記同書65頁〜)
この文などは、絵がどこまで Quelle たりうるか、という Kritik ですね。
「柳」があったようですね。
>筆綾丸さま
>三毬打
でリンクされているサイトに書かれているような内容が、国語辞典系にも書かれており、「柳」は屋号であり、「柳酒」として、銘柄でもあるのですね。更に酒の異称として「柳」が使われていたようです。「六星紋」は、商標というか、マークとして書かれたようです。
>なぜ「柳」なのでしょうね。
昨年1月に放送された「知るを楽しむ歴史に好奇心 日本酒なるほど物語(小泉武夫)」のテキストを調べてみますと、
p125 (柳酒の)醸造元は五条坊門西洞院にあり、門前に柳の木があったことから「柳の酒屋」と呼ばれていた。
とありました。
大柳酒屋に次ぐ酒屋として、五条烏丸に「梅の酒屋」があり、将軍足利義尚が文明11年に足を運んでいるようです。
発酵の後醍醐味
NAO4@吟遊詩人さま
さすが小泉先生ですね。
「多聞院英俊日記」にある「酒の火入れ」は、パスツールの低温殺菌法
(pasteurization)と同じだ、と見抜いたのも、たしか小泉先生でしたね。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4166604996.html
http://www.bunshun.co.jp/yonda/suii/suii.htm
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=4409
『宸翰英華』への言及は『天皇の書』にありますが、『宸翰英華』を通覧しますと、
僭越ながら、同一天皇の複数の書から、なぜこれを撰ぶかな、と感じたものがあり、
とりわけ、後醍醐の書などは、ほかにいいのがあるのにな、と思いました。
『宸翰英華 乾坤』で、興味深く思ったのは、「正親町天皇宸筆般若心経」(大覚寺蔵)
でした。「今茲辛酉革命當不未決之元号杖議無行矣頗違先代芳躅朕耻之時也(中略)永
禄四年九月日」とあります。
辛酉革命の改元は、901(延喜)、961(応和)、1021(治安)、1081(永保)、1141
(永治)、1201(建仁)、1261(弘長)、1321(元亨)、1381(南朝弘和、北朝永
徳)、1441(嘉吉)、1501(文亀)、1681(天和)、1741(寛保)、1801(享和)、
1861(文久)で、非改元は、中国かぶれの三善清行の建言以後、永禄4年(1561)と
元和7年(1621)の、わずか二度だけなのですね。
辛酉革命の改元は、神武の即位を踏まえてか、二月が通常のようですが、正親町は九月
まで改元を模索したものの、ついに諦めて、呵責の念に駆られながらも、代わりに、
紺紙に金泥で写経して大覚寺に奉納した、という事情だったようですね。しかし、なぜ
大覚寺なのか。
永禄4年と云えば、将軍義輝が還京して、まがりなりにも幕府は洛中に存在したのだか
ら、改元もできたはずですが、なぜ駄目だったのか。
正親町は、践祚が弘治3年(1557)で即位が永禄3年(1560)なので、即位翌年の改元は
宜しくない、というような先例でもあったのか。
あるいは、改元に必要な堂上家が食い潰して地方の大名に居候していたため、そもそも
杖議が成立しなかったということなのか。
辛酉革命
>筆綾丸さま
>小泉武夫 先生
この掲示板の一連の酒談義がなければ、小泉先生の存在にあまり気がつかなかったのですが、「発酵」の権威なのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%AD%A6%E5%A4%AB
いろいろこの件で読ませていただいているうちに、「肴」が「酒菜」(「菜」は副菜の意)を知り、なるほどなあと思った次第です。
>「天皇の書」(小松茂美著、文春新書)
この本でしたら、簡単に手に入りそうですね。「辛酉革命」の改元は本場中国では無かったとか。面白いお話です。
改元不能
>筆綾丸さま
中世後期において、改元が実現しないのは、その費用を武家(幕府)が支出してくれないケースがほとんどです。その典型が称光天皇の即位改元で、将軍義持から改元にOKが出なかったために、結果として当時の「応永」が前近代としては最長の35年まで続くことになりました。おそらく義輝(や三好長慶)も改元費用の負担を渋ったのではないでしょうか。『言継卿記』あたりを見れば、詳しい事情がわかるかもしれません。
亥子餅
笛田均さま
『史料綜覧巻十』の「御湯殿上日記」から、前後の出来事を抜粋しますと(甚だ恣意的ですが)。
永禄3年
9/19 近衛前嗣、越後に下向す
10/7 義輝に亥子餅を賜ふ
11/14 廷臣・宮女に御薫物を頒ち賜ふ
12/11 観雪御宴あり
??永禄4年
1/1 義輝、毬杖玉を献ず
1/18 御三毬打
?????? 2/15 涅槃会
2/22 水無瀬宮法楽連歌御会
3/3 節供御祝、御闘鶏あり
???? 閏3/10 義輝をして、御築地を修理せしめらる
?? 3/22 ??水無瀬宮法楽和歌御会
4/11 本願寺光佐を権僧正に任ず、是日、光佐、御礼物を献ず
5/5 節供御祝、義輝に御薬玉を賜ふ、賀茂競馬
?? 6/29 六月祓
7/7 七夕和歌御会、御楽あり
7/15 盂蘭盆会
7/25 御倉職立入宗継の保管する御物を禁中に移す
8/1 八朔御贈遺あり
9/2 近衛前嗣、物を献ず
9/4 本願寺光佐、物を献ず
9/5 後奈良天皇聖忌、御法会を山城般舟三昧院に修す
9/16 御念仏あり
9/20 宸筆般若心経を三条西公条に賜ひ、大覚寺に納めしめらる
?? 10/7 義輝に亥子餅を賜ふ
????10/18 ??三条西公条、大覚寺所蔵の嵯峨天皇宸翰般若心経等を叡覧に
?????????????? 供す、之を勅封あらせらる
11/6?? 薫物を調合あらせられ、之を廷臣に頒ち賜ふ
時系列を眺めてみますと、月次行事をやめて、本願寺に献金させれば(あるいは法華の
町衆に)、改元費用も何とかなったのではないか、という気もしますが、そいう訳に
はいかないのですね。ただ、改元に関わる記述は、ひとつもありません。
将軍義輝は、剣術修練に余念がなかったのか(ただ貧乏なだけだったのか)、あんまり
将軍らしいことはしてないですね。将軍たるもの、亥子餅なんぞ嬉しがって食べていて
はいけません。義輝が辛酉革命の改元を躊躇したのは、1441年の義教の不吉な前例が
あったからかもしれませんね。鴨の子が産まれたら、気をつけねば・・・。
時系列で驚くのは、この戦国の世における後鳥羽供養ですね。『史料綜覧』で、数十年
をざっと見ましたが、ほぼ毎年行っているのですね。後鳥羽の御霊を鎮めて、天下静謐
を願う朝廷の祈りなのかもしれませんね。
NAO4@吟遊詩人さま
『天皇の書』は続編を期待しているのですが、無理かもしれませんね。
改元理由まとめ
>笛田均さま
>「言継卿記」
ですか。どうもありがとうございました。
近所の図書館にあるようですので、調べてみようかと思います。
>筆綾丸さま
>『史料綜覧巻十』の「御湯殿上日記」から、前後の出来事
詳細な記述ありがとうございました。
「改元」に関しまして、私も興味を持ったのですが、歴史読本1月号が「特集 日本の年号」ということもあり、「永禄4年」の件書かれているかなあと期待してみたのですが、ありませんでした。
皆様十分ご承知と思いますが、この雑誌に書かれている改元の理由を以下まとめてみます。
(1)代始(だいし)改元 :天皇の代替わりに際し、改元すること。
(2)祥瑞(しょうずい)改元 :不可思議な天然現象や珍しい動物・植物・鉱物などの出現
を、天子の政治が天帝に認められた吉兆とみなし、それを
???????????????????????????? 寿ぎ改元。
(3)災異改元 :(2)と逆に自然の災害や異変を天の戒めとみなし、人心一新
???????????????????????????? のため改元すること。
(4)革年改元 :中国伝来の讖緯(しんい)説により、干支一巡六十年(一
???????????????????????????? 元)の一定倍数周期のうち、「辛酉」年に革命が起き、
????????????????????????????「甲子」年 に革令が生ずると予見し、変革に伴う不安・混
???????????????????????????? 乱を避けるために改元を行ってきた。
(5)その他の改元 :(1)〜(4)に当てはまらないもの。または表向き(3)災異とな
???????????????????????????? っているが、他の複雑な理由によるもの。
改元不能(続き)
>NAO4@吟遊詩人さま
失礼しました。永禄4年は『言継卿記』は現存しないようです。
『御湯殿上日記』はありますが、記主に改元への関心があるかどうか疑問です。
『皇室制度史料』にも「改元」などという巻はないでしょうし…。
>筆綾丸さま
改元のような大きなイベントの場合、儀式の参加者もそれなりの威儀を調える必要があるでしょうから、そのための費用などとして彼らに支払うお手当(「御訪」)もかなりかさむはずです。ルーティンの行事を削っても、とても追いつかないでしょう。むしろ年中行事を遺漏なくきちんとやりおおせることこそが、(観念的には)日本の安寧を守るための、朝廷にとっての「統治行為」でもありますし…。
同じように臨時の大きなイベントとして、天皇の即位式があります。後奈良天皇が践祚から10年後に、その子の正親町天皇も2年余り後になって、ようやく即位することができたことはよく知られています。いずれも各地の大名に費用の拠出を呼びかけて、ようやく実現した即位でした。応仁の乱前に行われた、後花園天皇から後土御門天皇への皇位継承にあたっても、幕府は諸国に譲位段銭を賦課して費用を調達しており、この段階で既に自力でポンと即位費用を出すだけの財力が幕府にはなかったことがわかります。義輝や三好長慶に言わせれば「辛酉革命なんてどうでもいいじゃん」ということであったかもしれません。
それよりむしろ興味深いのは、60年後の元和7年に改元が行われていないことです。なぜ秀忠は改元費用を出してくれなかったのでしょうか。こちらの方が、西洞院時慶や土御門泰重の日記が遺されているので、事情がわかるかもしれません。その辺りに永禄の先例への言及があれば良いのですが…。
辛酉の厄
笛田均さま
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido4.html
1621年の場合は、秀忠の激怒が尾を引いていて、朝廷も必要経費を幕府にお願いきなかっ
たのではないか。・・・そんな気がします。
『史料綜覧巻七』で、1441年の改元関連の記事を抜粋しますと。
2/12 安倍有清をして、天曹地府祭を行ひ、辛酉の厄を禳はしむ
2/13 辛酉革命事定
2/17 辛酉革命杖議、嘉吉と改元す
2/21 廷臣等、改元を幕府に賀す
是月、室町第に怪異あり
3/9 義教、五壇法を室町第に修して、辛酉の厄を禳ふ
3/21 孔雀教法を清涼殿に修して、辛酉の厄を禳はせらる
4/10 幕府、仁王教法を石清水八幡宮に修す
5/9 義教、大般若経法を室町第に修す
5/10 幕府、仁王教を石清水八幡宮に修す
5/20 義教、五壇法を室町第に修す
5/27 義教、普賢延命法を室町第に修す
6/21 義教、仁王教法を室町第に修す
6/24 赤松満祐、義教を其第に饗して、之を弑し、挙族播磨に走る
辛酉の厄は禳わねばならぬ、というゾレン的な強迫観念が、内裏と室町、ともに存在し
た。正親町は、辛酉の厄を紺紙金泥の般若心経に封印した、と信じ、義輝は、辛酉の厄
なる迷妄を卜伝直伝の剣でスパッと斬り棄てて、電光影裏斬春風、ふふふ、と微笑を浮
かべていたのかもしれないですね。
嵯峨天皇の嘉例にならって、大覚寺に納めたようですね。正親町の般若心経は日付がな
いのですが、「御湯殿上日記」から、9月20日、三条西公条が奉納したとわかり、面白
い。また、嵯峨天皇宸翰般若心経は叡覧後、蘭奢待の如く、また勅封するのですね。
勅封といえば、正倉院の閉封と開封について、宮内庁から奈良国に通知があるようです
が、どのような書式なのか、どなたか、御存知ありませんか。繁文縟礼の国だから、
そんなものはない、ということは、よもやあるまい、と思うのですが。
http://osaka.yomiuri.co.jp/shosoin/news/st71130a.htm
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2007toku/shosoin/shosoin-1.htm
「学僧 湛睿の軌跡」展
>筆綾丸さま、>笛田均さま
元和7年(1621年)の改元がなされなかった理由としては、大河ファンの私としましても、和子の入内と関係があるのではないかと思いました。(「葵徳川三代」では、四辻公遠(よつつじきんとう)の娘の件が問題になっておりました。)
ところが、歴史読本1月号の久保貴子さんの見解では、永禄4年(1561年)の辛酉、永禄7年(1564年)の甲子
は改元が行われず、一旦「途絶した。」との見解が書かれています。従って、元和7年(1621年)の改元もされなかったというのです。そして、元和10年(1624年)甲子改元の復活、延宝9年(1681年)辛酉改元も復活したとの見解です。
なお、元和10年(1624年)甲子改元は、家光の将軍代替の意図があったのではないかとされています。
●「学僧 湛睿の軌跡」展
金沢文庫で開かれております↑見てまいりました。やはり、地味な企画だけあって空いておりました。
本題とはあまり関係ないのですが、「華厳経関脈義記」にイチョウの葉が栞として使われておりまして、この時代にはイチョウは渡来していたのか、葉っぱだけ中国から持ってきていたのかなあなどと思ってしまいました。
例の補助解説冊子(湛睿版)今回も置いてありましたので、いただいてきました。
呼ばれたのかしら?
>NAO4@吟遊詩人さま
>この時代にはイチョウは渡来していたのか
もし、所有者により当時(典籍の成立した14世紀末)に挟まれたものだとしたら、日本にイチョウが渡来していた!という物的証拠としては日本で最古のものになります。
ただ、そのはさまれたのがいつか(いつ生きていた誰がはさんだのか)というのがわからないわけでして。
と、偉そうに書いておりますが、これは
『写真と資料が語る 総覧・日本の巨樹イチョウ−幹周7メートル以上22メートル台までの全巨樹−』(堀輝三・堀志保美共著 内田老鶴圃 2005年)
のなかの記述の受け売りでございます。
葉っぱだけ中国から持ってきたという可能性はまずないでしょう。
むしろイチョウは、最初は『果実』扱いで、「ぎんなん」という形で日本に入ってきていると推測されます。
それでも、日本では古くても14世紀までしかさかのぼれそうにないようです。
なので、実朝暗殺の場にイチョウが居合わせるのはちと無理があります。
このイチョウの葉のしおり自体については、納富常天氏が「鎌倉期典籍と葉子 金沢文庫研究余滴」(『神奈川県博物館協会報22』1−7 1969年)という論文を書いておられますよ。
炭素かなんか測ると年代がわかるんでしたっけ?
お呼びしました。
>はぎつきみたえさま
>そのはさまれたのがいつか(いつ生きていた誰がはさんだのか)
どうもお越しいただきありがとうございます。どんどん「銀杏学」積まれてますね。
おっしゃるとおりですね。
「学僧 湛睿の軌跡」展の図録p58には、「防虫作用のある栞として銀杏の葉が挟み込まれており、書写当時のものと考えられている。」と書かれていて、
正和5年(1316年)久米寺にて湛睿が書写し、文保2年(1318年)「古本」との校訂を行ったことが奥書から分かるそうです。
何故書写当時のものと考えられるのか根拠は書かれていないので、金沢文庫ちょっと早まったかなあと言う感じです。
>炭素かなんか測ると年代がわかるんでしたっけ?
C14を利用した「放射性炭素年代測定法」ですね。測定誤差が±20〜±40 年とかで、結構正確にいつごろのものか分かるでしょうね。
足利将軍列伝
以前、「鎌倉将軍執権列伝(安田元久編、秋田書店)」を入手して、「足利将軍列伝(桑田忠親編、秋田書店)」も手に入れたいものだ。それも、法外な値段でなく。
と思っていたのですが、昨年は「日本の古本屋」のサイトで確認しても1万円以上の値がついていて、ちょっと手が出ませんでした。その後も、古本屋を覗く度に探したりとしていたのですが、お目にかかれずにおりました。
ところが、昨日古書の特設売り場で、目にして、嬉しくて購入してしまいました。千円でした。とっても嬉しかったのですが、帰宅して、久しぶりに「日本の古本屋」サイトで検索してみると、やはり千円で出ていて、喜びが半減してしまいました。
探している本は、諦めずに小まめに検索してみるべきだなあと思った次第です。
同時に「図説 ふじさわの歴史(藤沢市発行)」なる本を見かけて、1500円で購入しました。私は初めて見かけた本で、内容もしっかりしてそうなので、購入したのですが、店番をしていた方も、こちらの本を珍しがっておられました。
教えて下さい
初めて書き込みします。
実は試験で「日本中世史を学ぶ意義」を述べよ。という議題が課せられているのですが、私は全く日本史について分からないので、もしよければご意見などを頂けると嬉しいです。
お願いします☆★
私だったら
>知らぬ者さま
はじめまして。
掲示板の留守番をしております「NAO4@吟遊詩人」と申します。
管理人様方超多忙につき、勝手に留守番している者でして、お役に立てるかどうか分かりませんが、意見を述べさせていただきます。
私は、子供の頃から歴史全般が好きで、楽しくて、道楽と言うか、ストレス解消と好奇心を満たすために勉強しておりまして、「日本中世史を学ぶ意義」といった高尚なことを考えているわけではありません。
私は、素人ですが、アーカイブスの設立趣旨(未読でしたら、ご覧ください。)にもありますように、皆さん似たような感覚ではないかと思います。
しかし、このような設問がされた場合、私だったら、鎌倉〜室町期に起こったことを踏まえて、平安時代からの流れの中で、何故その変化が起きたかを考えてみますが。
ただ、その変化を政治的な側面だけでなく、文化的、経済的、宗教的側面から考えることができれば、より広い考察ができると思います。
それ以前に・・・。
まず、HNでいいからきちんと名を名乗ってください。
歴史の授業を受けてきて「全く日本史について分からない」とは、どういうことですか?
どんな授業だったのか、少なくともその背景について述べてください。
そもそもそれ以前に、試験の解答を掲示板に求める姿勢は、相当に安直で危険です。
ともあれ、同様の問題で悩む人は専門の方の中にも多いと思います。
ヒントになりそうなサイトを紹介しておきますが、丸写しなどは避けてください。
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/
http://shikado.cocolog-nifty.com/zakki/
http://toshiito.cside.ne.jp/hist_Q_A.htm
http://blog4.fc2.com/wdaimon/index.php
ご連絡
>NAO4@吟遊詩人さん
昨日は中前勉例会で久しぶりにお会いできましたが、飲み会に参加されなかったので、あまり話せませんでしたね。
掲示板管理については、今までと体制を変えた方がよいと思っているので、運営委員会に提案するつもりです。
少しお待ちください。
レスとかです。
>kariさま
どうもありがとうございました。
ところで、以前話されていた
東アジア恠異学会編『亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす』
出てますね。
http://kaiigakkai.hp.infoseek.co.jp/syoukai2.htm
>鈴木小太郎さま
本当にお久しぶりです。昨日はお会いできて嬉しかったです。このところ忘年会・新年会が多く、家族サービスを怠っておりまして、飲み会は遠慮させていただきました。
>掲示板管理については、今までと体制を変えた方がよいと思っているので、運営委員会に提案するつもりです。
ご配慮痛み入ります。あくまでも留守番と言うことで、管理はしておりませんが、どうも自分では品位を落としているような気がしまして、ちゃんとした管理人の方がいらしたほうが良いと思います。
↓余り関係ありませんが、たまたま行った伊勢原市役所前で、見つけました。太田道灌像
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003971.jpg
いえいえ。
>NAO4@吟遊詩人さん
品位を落とすなど、とんでもないことです。
ところで、「宸翰英華」ですが、これは「紀元二千六百年奉祝の記念として後世に遺すに足るべきもの」として企画されたので、筆綾丸さんがおっしゃっているように、非常に立派なものですね。
某県立図書館で気軽に頼んだら、職員の方が二人がかりで台車で運んで来られて、少し恐縮したことがあります。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm
神の声?仏の声?
久しぶりに『古今著聞集』を通読してみたのですが、
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巻第一 神祇「八幡に通夜の夜、夢に北条義時は武内宿禰の後身と知ること」
誰と聞き侍りしやらん、名をば忘れにけり。その人、八幡に参りて通夜したりける夢に、御殿の御戸をおしひらかせ給ひて、誠にけだかき御声にて、「武内」と召しければ、・・・
--------------------
この「誠にけだかき御こゑ」とは誰の声なんですかね。
八幡の本殿に祭られているのは誉田別尊(応神天皇)、比※大神[※口+羊]、息長帯比賣命(神功皇后)ですから、一応、この三者が候補者になりますが、実はこの直前の段に、
--------------------
「興福寺の僧八幡に参籠し、夢に春日・八幡両大明神の託宣を得たる事」
興福寺の僧の、いまだ僧綱などにはのぼらざりけるが、学生にては侍りけれども、いと貧しかりければ、春日社に参りて申しけれども、そのしるしもなかりければ、寺のまじらひも思ひたえて、八幡に詣でて七日こもりて祈念しけるに、或る夜夢に、ゆゆしげなる客人の参り給へりけるに、大菩薩御対面あるよしなり。客人、「某と申す僧やこもりて候」と申し給ひければ、「さること候ふ」と答へ申させ給ひけり。・・・・
--------------------
とあって、こちらでは八幡大菩薩の声となってますね。
中世人の感覚だと義時化身譚の方も八幡大菩薩と考えるのが素直かもしれませんが、しかし武内宿禰と会話している訳ですから、どちらかといえば神話的人物の方がふさわしいような感じもする、と。
そして、女性の声ならばそれと記述するのが自然のようにも思えるし、御本殿中央にいるのは応神天皇だから、ま、応神天皇なのかな、とは思うのですが、他方、中世の説話・伝承の世界では神功皇后の存在感は相当大きいので、神功皇后であってもおかしくはないかな、と。
結論は、結局のところよくわからん、と。
(引用は新潮日本古典集成「古今著聞集」上より)
参考:石清水八幡宮御本殿
http://www.iwashimizu.or.jp/5/j/8/index.htm
同種の話
『古今著聞集』には、後嵯峨院も石清水八幡宮で「鈴のこゑ」のような声を聞いたという話が出てきますが、こちらは橘成季ではなく、後世に別人の手により「なよ竹物語」(「鳴門中将物語」)が編入されたものと考えられていて、義時化身譚との比較は慎重に行う必要がありますね。
---------------------
第八十七代の皇帝、後嵯峨天皇と申すは、土御門天皇の第三の皇子なり。父の御門、寛喜三年遠所にて御事ありし後は、御めのと大納言通方卿のもとに、かすかなる御すまひにてわたらせ給へば、御位の事はおぼしめしもよらず。大納言さへ身まかりにければ、仁治二年の冬の比、八幡へ参らせ給ひて、御出家の御いとま申させ給ひけるに、暁、御宝殿のうちに、「徳はこれ北辰、椿葉の影ふたたび改まる」と、鈴のこゑのやうにて、まさしく聞えさせ給ひければ、これこそ示現ならめと、うれしくおぼしめして還御ありけり。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-kokonchomonju-gosaga.htm
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そして、この話は『増鏡』にも出てきます。
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その冬ころ、宮いたうしのびて、石清水の社にまうでさせ給ふ。御念誦のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に「椿葉の影ふたたびあらたまる」といとあざやかにけだかき声にてうち誦じ給ふ、と聞きて御覧じあげたれば、明け方の空すみわたれるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかにみえつる御夢ならんとあやしくおぼさるれど、人にものたまはず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu4-tuchimikadoinojino-arisama.htm
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後嵯峨院は格別に石清水八幡宮への崇敬が深くて、実に28度も御幸があり、これは歴代治天の参拝回数記録のトップだそうですから、実際に何か神秘的な体験をしたのかもしれないですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/iwashimizu-ryakushi-sanpai.htm
ホイホイ答える神。
小太郎さま。
ご無沙汰しております。
『明月記』文暦2年(1235)閏6月22日条所載、同月20日田中幸清書状によると、朝廷への訴訟に臨んで石清水神人らが東宝殿の御戸を叩き、「訴訟ヲハ憐とハ思食ぬカ、アハレ御戸の開ヨカシト申」したら、扉が自然に開き、東御殿が「鳴動」した。これを見聞して、神人等数百人が「声を放ち叫喚し、涙を流して平伏」(訓読筆者)したそうです。
どうも、戸を開けてくれたり、御殿に示現してくれたりと、八幡の神は非常に分かりやすくて親切ですね。ここには、「怪異」と言われて卜占が必要とされるような厄介な暗号性は微塵もなく、問いかけに対する直截で単純な回答という、中世の神に独特の性格があるように思われます。
NAO4@吟遊詩人さま。
『亀卜』は表紙が中々コミカルでしょう。
執筆陣および論文題目を見ても、コンパクトながら画期的な内容だと思います。
石清水周辺の清らかでない方々。
>kariさん
ご無沙汰しております。
いつもご配慮、ありがとうございます。
>八幡の神は非常に分かりやすくて親切ですね。
確かにそうですね。
笑ってしまうくらい、分かりやすい反応をしてくれます。
ま、実際には神様に存分に活躍してほしい人たちが、いろんな演出をしたり、適当な話を作ったりしている訳で、当時であっても、それらを素直に信ずる人もいれば、冷ややかに眺めている人もいたんでしょうね。
早川庄八氏に「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」(『中世に生きる律令−言葉と事件をめぐって』)という論文がありますが、私は石清水のことを勉強し始めたばかりの頃にこの論文を読み、以来、石清水周辺の連中はどうも胡散臭いのが多い、という強固な偏見を抱いています。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hayakawa-shohachi-iwashimizu.htm
松花堂弁当
>小太郎さま、>kariさま
石清水八幡宮には参詣したことがないのですが、
京阪電車で何度か横を通り過ぎたことがあり、その印象では人家が男山に迫り、ケーブルカーまであって、古の趣はないのかなあなどと思いました。
恐らく、中世には「静寂」と「暗闇」が存在したのでしょうか。
自分の印象を確かめようと、航空写真を見てみますと、八幡駅から見ると奥の方に結構広い森が広がっているのですね。これは行ってみたくなりました。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&lr=lang_ja&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
ところで、この航空写真を見ていますと、「松花堂跡」というのが気になりました。(↑縮尺を少し小さく(+方向)してくだされ。)
それで、検索をかけてみますと、「松花堂」は石清水八幡宮の僧で、書道家であり、文人なのですね。松花堂は十字に仕切った箱を作り、絵の具箱や茶会のタバコ盆などとして使っていて、後世、大阪の商人がこれにヒントを得て、「松花堂弁当」を作ったとか。
http://www.kkr.mlit.go.jp/naniwa/03/newspaper/47_4.html
いやー勉強になりました。
また品位を下げてしまいました・・・ ご勘弁を
>kariさま
>『亀卜』は表紙が中々コミカルでしょう。
実は、「ポケモン」かと思ってしまいました。
また品位を下げてしまいました・・・ ご勘弁を
(これではいけない)の謎
>NAO4@吟遊詩人さん
私も石清水八幡宮に参詣したのは一度きりです。
それも一人でブラブラ歩いただけなので、石清水の歴史に詳しい人と一緒に、また行ってみたいですね。
今日は『日本中世史を見直す』(悠志社、1994)を読み直していたのですが、佐藤進一・網野善彦・笠松宏至氏の対談記録の中に、佐藤氏の次のような発言がありました。
佐藤氏が、現在残っている「平政連諫草」は長崎左衛門尉に渡す前の草稿だろう、と考えている根拠を述べている部分です。
---------------
おそらく割り注でやったものか、本来入るべきでないものが説明的に入ったか、そんな感じです。精選して提出した文章ではありえない。そういう前提に立って考えると、貞時を諫めているんですが、第一条の最初のページの終わりから五・六行目に、貞時が出家して後、政務に熱心でなくなり「時々有偃息之志」(これではいけない)といっています。この「偃息」という言葉ですが、これは『古今著聞集』(巻一一、画図一六)の中に「ふるき上手どものかきて候おそくづ(偃息図)の絵なども御覧も候へ」とある「おそく」に当り(偃は呉音)、男女同衾の意味です。
『古今著聞集』はカナ文ですから、「ソク」が「息」なのか「側」なのか、これではきめられませんが、「偃側」でも同じ意味であることは、『本朝文粋』(巻一二)の鉄槌伝によって知られますし、養老令の医疾令の中に、医針生(医生と針生)が学習すべき経典を示した条があり、針生は、素門、黄帝針経等の外に「兼ねて流注・偃側等の図・・・・を習へ」とある。この偃側の図も、同じ意味でしょう。ともかく江戸時代には、『古今著聞集』のこの語(おそくづ)に「偃息図」の字を当てています。さて政連の『諫草』に「時々偃息の志あり、日々政務に接(まじ)はりがたきのよし、おぼしめさるるか(政務をとるのがいやだとお思いなのですか)」などというのは、よっぽどつっこんだ諫言だと思いますね。こういったものを黙って受け取ったかどうかということも、疑問なんだけれども。
---------------
「時々有偃息之志」の現代語訳が(これではいけない)であるはずはないのですが、何故、(これではいけない)がついているのか。
不思議なり。
参考:ウィキペディア「春画」
(※リンク先、注。この項目には性的な表現や記述が含まれます。閲覧はご自身の責任で行ってください。免責事項もお読みください。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%BB
(無題)
☆多摩郷土誌フェア開催のご案内☆
今年も立川にて恒例の、多摩郷土誌フェアが開催されます。
第20回多摩郷土誌フェア
◆開催期間◆??平成20年1月25日(金)〜27日(日)
◆時間◆??10:00〜19:00(最終日は17:00まで)
◆会場◆??オリオン書房ノルテ店(多摩モノレール立川北駅前パークアベニュー3F)
◆参加市町村◆??八王子.立川.武蔵野.三鷹.青梅.府中.昭島.調布.町田.小金井.小平.日野.東村山.国分寺.国立.福生.東大和.東久留米.武蔵村山.多摩.稲城.羽村.あきる野.西東京(久しぶりに出展します).瑞穂.日の出.奥多摩.檜原.??以上28市町村
※??なお、今年は小平市が主催担当致します。
※??販売書籍に関しましては、当日、現地まで行かないと詳細は分かりませんが、在庫があれば、新たに多摩市の関戸合戦、東村山市の正福寺展図録等の販売がされるのではないかと思います。
お時間等がございましたら、是非ともお出かけくださいませ。
まずは、ご案内まで。
????※wakasa百姓※
坊ちゃんと桃太郎
http://www.bk1.jp/product/02939370
北イタリアを旅しながら、寝る前に、この本を少しずつ読みました。
http://www.liberonweb.com/asp/libro.asp?ISBN=8854502359
本屋に『坊ちゃん』の伊訳があり、表紙におどろきました。肖像権がどうなってるの
か、わかりませぬが、左から三人目は、学習院初等科時代の日本国皇太子です。
http://www.japanitalytravel.com/banner/genova/genova3.html
ジェーノヴァで、この美術館に入ると、桃太郎のパネル展示や鎌倉期の百万塔や平安期
の密教具などがあり、Chiossoneめ、ずいぶん漁りやがったな、という感じでしたが、
入館者は私だけの、うら悲しい斜陽美術館でした。
小太郎さん
おひさしぶりです。
小松茂美『天皇の書』に、『懐風藻』を初見とする「宸翰」の用例の説明がありますが、
後醍醐の置文(元弘三年八月廿四日付、宗峰国師宛)の末尾に、殊染宸翰貽言於龍華耳
(ことさらに宸翰を染め、言を龍華にのこすのみ)とあり、紀元二千六百年奉祝記念の
『宸翰英華』という表題の出典は、この六朝時代風の四六駢儷文のような気がしますね。
後醍醐の荘重な駢儷体に敬意を表して、帝國學士院は、はじめ、『宸翰龍華』としたが、
龍華などという抹香臭い語は時節柄宜しくない、という強硬な異見が出て、龍の代わり
に十六弁のはなぶさが撰ばれ、昭和19年12月に発行された・・・と考えてよいならば、
原拠の置文にある龍華(龍華下生三会)から弥勒菩薩の救済観念が消え去って、敗戦
間際の何か不気味なものが、たちのぼってくるような感じがしました。
(これではいけない)再論
「平政連諫草」の関係部分、佐藤進一氏自身の読み下し文で紹介すると、
------------
これに因て禅閣(貞時)御在俗の時専ら覇業を扶け、御出世の今漸く政要に疎なり。この条、評定裁判は両国吏に任せ、引付探題は七頭人に委ぬ。功なり名遂げて真に帰し実に趣く。時々偃息の志あり。日々政務に接(まじわ)りがたきのよし思食(おぼしめ)さるるか。
------------
となります。
ちなみに、真に帰す、とは出家することだそうです。
さて、(これではいけない)はやはり謎なのですが、先に紹介した佐藤進一氏の発言は、老碩学による膨大な学識に裏打ちされた非常に高尚な猥談なので、あるいは佐藤先生が興に乗って暴走してしまい、とても活字にできない薀蓄を延々述べられて、編集者が「これではいけない」と思わず叫び、テープ起こしの時に「本来入るべきでないものが説明的に入った」、というようなことは、ま、たぶんなかったんでしょうね。
ちなみに佐藤先生が言及されている『本朝文粋』の「鉄槌伝」は本当に素晴らしい名文なので、身体論で著名な斉藤孝氏には、是非とも『声に出して読みたい日本語 』に追加採用していただきたいと思います。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/
>大竹雅美さん
いらっしゃいませ。
研究会情報もお寄せください。
>筆綾丸さん
おひさしぶりです。
『宸翰英華』命名の経緯、真実味がありますね。
天皇の書
>筆綾丸さま
お久しぶりです。やはり、ご旅行でしたか。
話題にされていらっしゃった『天皇の書』(小松茂美著、文春新書)
書店で取り寄せてみました。1140円というのは新書にしては高いなあと思っていたのですが、現物を見て、納得いたしました。
普通の新書2冊分くらいの厚みがありますね。これに匹敵するのは、「新書アフリカ史(講談社現代新書)」くらいかなあと思ってしまいました。
中身も実にマニアックな感じがします。新書でこんな本を出すなんて、出版社にしても著者にしても、なかなか素晴らしいと思います。ただ、あまり部数は出ないでしょうね・・・
『書物の中世史』
今日は五味文彦氏の『書物の中世史』(みすず書房、2003)をパラパラめくっていたのですが、「中世の知の体系・ネットワークを明らかにしようとつとめた」(あとがき)作品ですから、引用される文献が非常に広範かつ多彩で、内容を追いかけて行くだけでも大変ですね。
自分が読んだことのない書物については、五味氏の流れるような文章で説得されると、ついついそうかな、と思ってしまうのですが、『五大帝王物語』など、自分でもそれなりにしつこく読んだ文献については、五味氏との感覚の違いを多々感じます。
五味氏は『五代帝王物語』の特徴の第一として御霊信仰の影響が強いことを挙げていて、まあ、確かに『五代帝王物語』には怨霊話・化け物話が多いことは多いのですが、その書き方も、対象との距離を失って、怨霊話・化け物話を本気で信じ込んで書いているというよりは、読者の反応を予想しつつ、けっこう楽しんで書いているように思えます。
私としては、五味氏が第七の特徴として挙げている「『古今著聞集』に見える「興言利口」のような話が見える点」を、もっと重視したいですね。
例えば、五味氏も引用している三条公房に関する記事は、
-------------
同時に三条太政入道公房公のありしを、世の中、おそろしからぬ太政入道と名けたりし、をかしくぞありける。此の三条の相国禅門は極てしれたる人にて、申べき事ありて今出川の第へわたりたりけるに、乗ながらやり入れさせて、中門廊に車よせて、手づから裏無を取いでて、堂上にはきて、公卿座に居て、対面して帰にけり。傍若無人の振舞をかしかりけり。
-------------
となっていて、作者は笑い好きで、相当辛辣ですね。
こういうタイプの人が書いた作品の第一の特徴として御霊信仰の影響が強いことを挙げるのは、私には非常に違和感があります。
五味氏は最後の方で、
-------------
『五代記』の執筆の時期はすでに見たように後宇多の治世の時代であるが、その時期には嘉元二年に後深草院が亡くなり、翌年には亀山院がなくなるなど、相次いで後嵯峨の子が亡くなっている。そのことから後嵯峨が御霊になって祟っているのではないかと思われたことであろう。そこでかつて後嵯峨に仕えて出家入道した作者が後嵯峨の治世を点検して御霊にはならないことを確かめた上で、さらにその後嵯峨が遺した意思にもとづいて政治が行われるように、と書き記したものと考えられる。
-------------
と書かれていますが、後深草院・亀山院が若年で相次いで亡くなったのならともかく、後深草院は62歳、亀山院は57歳ですからね。
まあ、ひとつの時代が終わったなという感慨は多くの人が持ったでしょうが、兄弟の相次ぐ死は後嵯峨院が御霊になって祟っているのが原因だ、などと思った人はいなかったでしょうね。
そんなことを裏付ける史料はただのひとつもなく、『五代帝王物語』の特徴の筆頭に御霊信仰の影響をあげる五味氏の頭の中に浮かんだ、豊か過ぎる想像力の産物だと思いますね。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07077.html
勝手に宣伝・鎌倉遺文研究会第138回例会の御案内
日時:1月31日(木)18:00〜
場所:早稲田大学文学学術院第2研究棟6階第7会議室
報告者:谷口榮氏
題目:「武士の城と屋敷」
[報告者の一言]
吾妻鏡には、城・要害・柵などの軍事的な施設とともに、館・宅・家などの武士の屋敷に関する用語も登場する。
これらの武士が所有する諸施設と用語を整理し、その用法について、発掘された事例や考古学的な面も加えながら検討を行いたい。特に吾妻鏡において館の用い方は一定の規則があり、治承4年12月12日条は、象徴的な存在だと思われる。
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
遠いのですが。
またちょっと紹介させてください。
少人数ですが、中々に濃いメンバーが集まりつつあります。
「実隆公記」を読む会
下記のとおり会のご案内をいたしますので、ご参加の程お願いいたします。
なお、資料準備の関係上、参加希望の方は、あらかじめ担当者(下記連絡先)までご連絡いただけると幸いです。
記
日 時:2008年2月9日(土) 14:00〜
場 所:就実大学 附属図書館3階 スタディルーム(岡山市西川原1−6−1)
※図書館を初めてご利用される方は、2階の入り口で閲覧手続きまたは利用証の発行手続きを行ってください。ゲート前で、中の職員に呼びかけてくだされば結構です。身分証が必要となります。
その他:終了後は、懇親会を予定しています。
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/kibi/index.html
鞍馬天狗
NAO4@吟遊詩人さま
『天皇の書』では、後宇多法皇の施入状が、法名を梵字で署名していて、興味深いものが
ありますね(173頁)。なんでわざわざ、サンスクリットなんだ、と。
また、後深草の消息が、天皇の年賀状としてもっとも早い遺例の一通である、というのも
面白いですね。
http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/bonzisyo/bindex.html
後宇多法皇の梵名がサンスクリットで正確に理解できれば良いのですけれども。
『宸翰英華』の中の後醍醐の書に、サンスクリットを記したものがあるのですが、
天皇の書で、印欧語族の記入があるのは、この2例だけかもしれませんね。しかも、
横書きであるべきものが縦書きであるという、いわば倒錯的なエクリチュールで
あり・・・。
暗殺前の永禄8年(1565)3月14日に、義輝、花を鞍馬寺に観る、という文章が『史料
綜覧』にあり、なんか佳い文章だな、と思いつつ、NHKの木曜時代劇『鞍馬天狗』
をみてました。
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kuramatengu/
勘返状
>筆綾丸さま
私にとりましては、「天皇の書」とシンクロするかのように、昨日は東博で開かれております「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」見てまいりました。
小岩の「第7回 史料講読講座」で上京するついでに、上野に立ち寄ったわけですが、いやー素晴らしかったです。「宸翰」あり、藤原家の名筆あり、書は全く分からない私でも、芸術性のあるのが良く分かります。結構来場者がありまして、ほどほど並びました。
●勘返状
って面白いと思いました。送り主は、わざと行間を空けておき、送られたほうは返答を、その空いた行間に書き込んで送り返すという方式ですね。これって、今のメールのレスの返し方に似ているじゃありませんか。相手の文に引用符「>」を付けて書いて、その下にレスを各方式。
>後宇多法王の施入状 >梵字
そう言われてみると、梵字ですね。板碑にも梵字が書かれていますから、この時代に梵字が出てきてもおかしくはないのでしょうが、「宸翰」であるというのが珍しいのでしょうか。
>鞍馬天狗
このところ、フィクションは避けたい気分があって、注意していなかったのですが、配役を見ると、興味をそそられます。
日本史史料研究会研究選書
既にご存知の方も多いと思いますが。
http://www.iwata-shoin.co.jp/backnews/ura/ura490.htm
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
御堂関白記
「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」が東博で始まりましたね。前回の「大徳川展」の大混雑を思うと、東博へ行くのは気が引けますが、やはり国宝「御堂関白記」などはみたいものです。10年年以上前、日本古文書学会の巡検で陽明文庫において対面して以来となりそうです。また、重文の「春日鹿曼荼羅図」も必見でしょう。偶然か、フジテレビ「鹿男あをによし」にも関連しています。破天荒なストーリーと思いつつも、原作者の万城目学さんはその点はしっかりと押さえているようです。
『天皇の書』、私も読んでみました。
小松茂美氏は1925年生まれとのことで、けっこうなお年ですね。
2006年に出した『天皇の書』も、相変わらずの元気一杯・気力充実ぶりで、独特の良い味を出してますね。
細かいことを言うと、
---------------
翌文永五年の八月、兄の後深草上皇に四歳の皇子(後の伏見天皇)がいるにもかかわらず、わずか二歳の幼児にすぎないこの新皇子(世仁親王=後宇多)を皇太子とした。わが家系から皇位のチャンスを失った後深草上皇が、失意のあまり深い怨みを抱いたとしても不思議ではない。絶望の果てに、落飾入道を決意する。驚いた関東申次(鎌倉幕府取次役)の権中納言西園寺実兼(20歳)が、幕府の執権時宗(18歳)に愁訴した。結果、後宇多天皇(世仁親王)の皇太子には後深草上皇の皇子(煕仁親王=伏見天皇)が立つことになった。以後、家系紛糾の激化を避けるため、交互の皇位継承を定める両統(大覚寺統と持明院統)迭立(かわるがわる即位する)が成立したことは、周知のとおり。(157p)
---------------
となっていますが、煕仁親王の立太子は文永五年(1268)ではなく、建治元年(1275)で、7年間ほどずれてますね。
また、
---------------
(伏見天皇は)以後、十年間の東宮時代を経る。やがて、「アシザマナル事サエイデキテ践祚」(『神皇正統記』)の運びとなった。が、これは幕府の前執権北条時宗の計らいであった。退位した後宇多天皇(大覚寺統)は二十一歳、代わって即位した伏見天皇(持明院統)は二十三歳であった。(170p)
---------------
とのことですが、時宗は伏見天皇が即位した弘安十年(1287)の3年前に死んでいますので、時宗の計らいということはなかったでしょうね。
この「アシザマナル事サエイデキテ践祚」の事情は今まで謎だったのですが、細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史−権威と権力』の第五章「飯沼大夫判官資宗-平頼綱政権の再検討-」で、非常に説得的な説明がなされていますので、小松茂美氏にも教えてあげたいところですが、ま、昔から細かいことは気にしない豪快な方みたいですから、大きなお世話でしょうね。
私がブチブチ書いたこと以外にも歴史的事実に間違いは多いでしょうが、少なくとも書の分析にはあまり関係しないはずなので、決して『天皇の書』の価値と魅力を損なうものではないと思います。たぶん。
>筆綾丸さん
>後宇多法皇の梵名
「梵名」というのも、変な響きですね。
しかし、後宇多の書の見事さには、正直、圧倒されます。
>NAO4@吟遊詩人さん
>勘返状
まさにメールのやりとりと同じですね。
申込書
昨日の横綱決戦はいい相撲でしたね〜!すばらしい!
さて、水戸光圀の『鎌倉日記』を見たくて、先日問い合わせをしていた水府明徳会様から丁寧なお返事をいただきました。
よ〜し、早速利用申し込みだ!と、申込書をプリントアウトしたのですが…。
住所・氏名・年齢・電話番号・職業まではともかく、
「〜以下の欄に記入。記入なき場合、史料利用許可が下りないことがあります」
として求められたのが、
「所属学会」
…が、学会入ってないとだめなの?!
「主な研究歴」
…いや、主なも何も書くほどのことなどありませんです。
「論文・著作等」
…へなちょこ卒論しかないんですが…
というわけで、素人さんお断り、といわれているのかなあと思ったのですが、
もういいや、気づかなかったふりをして出してしまおう、と開き直ることにしました。
明日は証明写真を撮ってきます。
なんか襟元のきちんとした服を探さないと…。
そんなことを心配している割には、せっかく東京に行くんだし、自由が丘が近そうなので、
なんかおいしいもんでも食べてこよう、とグルメガイドをチェックしたりしてもいるのでした(笑)。
私の名はバジラムン
NAO4@吟遊詩人さま
『天皇の書』にも、
? 土御門書状、後鳥羽加点
の勘返状がありますね。
「加点(がってん)をして返事をかき加えた書状は、平安時代からあった。それを、古い
時代には鹿爪らしい言葉を使って勘返というたが、何となく物々しすぎるので、加点状の
方がよいと思う。合点という人もある」(中村直勝『日本古文書学 中』948頁)
として、いくつかの勘返状があります。
? 冷泉為相書状、万里小路宣房加点
? 藤原定家書状、藤原実房加点
? 某書状、西園寺実兼加点
? 後醍醐消息、後宇多加点
また、相田二郎『日本の古文書 上』には、
? 尊円親王書状、後光厳加点
があります。
上記の例から言い得るのは、加点者はより高位の者である、ということで、各々におい
て、前後を逆転させると、おそらく勘返は成り立たないだろう、ということでしょうか。
小太郎さん
結構、誤謬があるのですね。うーむ・・・。
後宇多の梵字の署名に関係して、前後の天皇の法名を列挙しますと。
土御門ー行源、後嵯峨ー素覚、後深草ー素実、亀山ー金剛源、後宇多ー金剛性、
伏見ー素融、後伏見ー行覚・・・
ここで、昔からわからぬことなのですが、承久3年7月8日に出家した後鳥羽の法名で、
あるいは良然と云い、あるいは金剛理と云うのですね。
http://www.saigyo.org/cgi-bin/cr2.cgi?gotoba-txt
前者は顕教的な命名の如くであって聖覚を戒師として出家すれば良然となり、後者は密教
的な命名の如くであって仁和寺の道助法親王を戒師として出家すれば金剛理となる、とい
うことなのか。ではなぜ、法名が顕密体制の如くなのか。頓珍漢な疑問なのかもしれませ
ぬが、これがどうもわからぬのです。
金剛源や金剛性の金剛は、空海の灌頂名「遍照金剛」に由来し、両界曼荼羅の金剛を表象
するのでしょうが、後鳥羽には、なぜ二通りの法名があるかの如くなのか。金剛理として
の隠岐の後鳥羽は、流麗なサンスクリットで署名していたのかもしれない・・・。
『日本古文書学 下』(917頁)の「後宇多法皇宸筆伝法灌頂作法奥書」(大覚寺文書)
に、例の梵字の署名があり、バジラムンという発音表記がありました。後宇多の法名は
バジラムンで、後鳥羽は、理にあたる梵字が不明ですが、バジラなんとか、となるのかも
しれませんね。
重富島津家
>阿哈馬江さま
ご無沙汰いたしております。岩田書院のコラム?なかなか面白いですね。日本史史料研究会研究選書のこともありますが、アマゾンの話も面白い。そういえば、アマゾンって品切れになっていても、ジュンク堂に問い合わせすれば在庫にあるということがよくありますからね。マーケットプレイスの不思議な値段も理由が分かりました。
>水戸御史大夫さま
>「御堂関白記」
>「春日鹿曼荼羅図」
しっかり見てまいりました。鹿島神宮は格式が高いのですね。
>小太郎さま
参戦ありがとうございます。
>小松茂美氏
まえがきしっかり書かれていますね。
>はぎつきみたえさま
>水戸光圀の『鎌倉日記』
いよいよ始動ですか。イチョウ?
閲覧の成功お祈りしています。
>筆綾丸さま
>勘返状
そうでしたか。どうもありがとうございました。
やはり、親しき間なのでしょうね。
●重富島津家
先日、第7回史料講読講座の後の飲み会で、「島津」が面白いという話がでておりましたが、私も最近島津の分家筋って、面白いかもしれないなあと思っていたところです。例の越前島津家ですが、重富島津家とも呼ばれ、かの久光公も継いでいたのですね。篤姫を見ていて気がつきました。
ヴァジャラ
NAO4@吟遊詩人さま
> 勘返状
以前、誰か忘れましたが、ある文化人が、どこかで、電子メールの返事で、自分の文章が引用されてそれに対する回答がなされることに不快感を覚える、と書いていたのを見た覚えがあります。この人、勘返状を見た事がないんだなぁ、と思ったものです。
>「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」
> いやー素晴らしかったです
そうですか。平日の朝一番ならば、それほど込んではいないと思いますが、キッカケもないし、フトコロも豊かでないし...
> 岩田書院のコラム?
面白いし、勉強になりますが、ちょっと書き過ぎかな、と思うこともありますね。
昨年秋、本郷での史学会大会のときは、釈さま、如月さま、高遠さま、葵さまと話をしている間、岩田社長はじめ出版関係者の方々には背を向けるようなカタチになっておりましたが、岩田書院の箱入ハードカバーの学術書を二冊も買い、散財したのであります。
なお、
釈さま、
御父君の御介護、お見舞い申し上げます。
筆綾丸さま
> 後鳥羽の法名で、あるいは良然と云い、あるいは金剛理と云う
『皇室制度史料 太上天皇』に何か書いてあるのではないかと思いまして、手元にあるコピーをひっくり返してみましたが、当該の部分をコピーしなかったためでしょうか、お目当ての情報は見つけられませんでした。
> バジラなんとか
モンゴル人に多い人名(または人名の一部)の「オチル」は、チベット語経由で入ったものですね。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
明日
久しぶりに鎌倉遺文研究会の例会に出ようかと思って、暫く前からスケジュールを調整していたのですが、今日になって一瞬にして全てが崩壊しました。
ま、ひと頃と違って、夜に少し論文を読める程度の余裕が出てきたので、遺文研も次の機会を待つことにします。
ところで、昨日から黒田智氏の『中世肖像の文化史』(ペリカン社、2006)を読んでいるのですが、同書に出てくる亀山院皇子の良助法親王という人物は非常に奇妙な伝説に彩られていて面白いので、後で少し紹介しようと思います。
>筆綾丸さん
>バジラなんとか
当時の人にとっても、異国風の何とも不思議な響きだったんでしょうね。
気になります。
>NAO4@吟遊詩人さん
>まえがき
若い頃は苦労したんでしょうけど、地位を得てからは●●さも●●●て、●●●●の●●●人でもありますね。
Vajra
http://en.wikipedia.org/wiki/Vajra
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0303/sin_k114.html
金沢文庫本日本図(称名寺藏)は、蒙古襲来後の14世紀前半の製作のようですが、金剛源
の亀山法皇あるいは金剛性の後宇多法皇に、Vajra=金剛杵=シューニャ(空)=
日本国・・・というような世界認識はあったのか、と思いました。
・・・中世〈日本〉の宗教的思考・思惟は、こうして〈国土〉とそれを生み出した聖な
る鉾、そして〈国土〉を支える聖なる柱を独鈷の〈かたち〉としてイメージすることに
よって、〈日本〉を三国世界の中心軸に位置づけたのであった。そしてさらに、独鈷の
シンボリズムは拡張され、〈日本〉を独鈷杵、震旦を三鈷杵、天竺を五鈷杵として表象
する三国世界=金剛杵とするイメージ世界さえ生み出していったのであり、それが中世
〈日本〉の三国世界をシンボリックなイメージとして〈かたち〉づくったのである(『龍
の棲む日本』52頁)。
『史料綜覧巻九』を眺めていると、大永7年(1527)7月13日の「御湯殿上日記」に、
「御倉職中興某、酒饌を献ず」とあり、おどろきました。
これは銘酒「柳」の中興家でしょうが、御倉職を務めていたのですね。 同時期の御倉職
に立入宗康という名がありますが、中興家は政治的駈け引きで立入家に負けたのか、ある
いは、あんまり宮中御用達としての旨味がないので手を引いたのか、酒の質が落ちた
のか・・・。
またまた伊勢参り
2/1たまたま休みが取れたので、伊勢に日帰り遠征いたしました。
前回行ってから、日が経っていないせいか、だいぶ伊勢市の地理が分かってきました。
目的地は、「歴史系イベント情報」に載っている皇學館大學の佐川記念神道博物館「福富家文書展」と、以前から気になっていた「斎宮歴史博物館」。
(1)福富家文書展
こじんまりとやっておりました。見学者は私しかなく、好きなだけ見入っておりました。中世の文書だけでなく、近世のものも混じっており、その文書が保存されていた木の箱も展示されておりました。中世文書というのは大体神社仏閣に伝わるのでしょうが、古くから続く武家や公家の家には、こういう風に伝わるんだなあと思った次第です。まあ、家宝でしょうからね。
皇學館大學は、神宮徴古館と道(御幸)を挟んで、反対側にありますから、前回行ったときもちょっとだけ覗いており、何も迷うことなく、行ったのですが、同じ敷地にある神宮文庫にも立ち寄りました。神宮文庫では、慶光院関係の書籍をあたってみました。いくらかありますね。ただ、あまり時間がなかったので、閲覧は申し込まなかったのですが。注意点は閲覧できる日が、
木・金・土に制限されているので、閲覧可能な日に行くことでしょうね。
(2)斎宮歴史博物館
驚くほど立派な建物で、資金が潤沢だなあと思った次第。素人にも分かりやすいように、展示に大分工夫がされておりました。
ただ、啓蒙目的に走りすぎて、収蔵品のアピールが今一つかなあと思った次第です。映像展示もやっていて、他に客が殆どいなかったせいもあって、勧められるがままに、3種類全部見てしまいました。
最大の目的は、ここの図書コーナーにある、斎宮関係の論文集、書籍であったのですが、まあ大体欲しい情報は入手できました。
映像で、勅使と斎宮の役人が話すシーンがあるのですが、古文(当たり前ですが・・)で話していたのに驚きました。
>阿哈馬江さま
>キッカケもないし、フトコロも豊かでないし...
研究者はなかなか大変ですね。そのようなご発言なんとなく、感動してしまうのですが。
>「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」
は、どうも歴史に興味があるという方だけでなく、「書」に興味があるという方も多いようです。普通はあまり人だかりしていない古文書が、逆に人だかりしています。御堂関白記も人気がありましたが、藤原佐理の書もなかなか。
>鈴木小太郎さま
>暫く前からスケジュールを調整していたのですが、今日になって一瞬にして全てが崩壊しました。
何かお仕事大変そうですね。頑張ってくだされ。
>黒田智氏の『中世肖像の文化史』(ペリカン社、2006)
>同書に出てくる亀山院皇子の良助法親王という人物は非常に奇妙な伝説
面白そうですね。ご紹介いただける日を楽しみにしております。
>筆綾丸さま
>銘酒「柳」
私も、これほど隆盛を極めた銘柄が、衰退したのは、どうしてなのだろうかと思っていたのですが。
>龍の棲む日本 黒田日出男著
面白そうですね。
宗教戦争
NAO4@吟遊詩人さま
強行軍でしたね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%B3%95%E8%8F%AF%E3%81%AE%E4%B9%B1
京都の富裕な町衆は法華宗のようでしたが、中興家は天文法華の乱のとき、滅亡したのか
もしれませんね。
小太郎さん
『日本中世史を見直す』(悠思社)で、「これではいけない」のところをみましたが、
なんだかわからないですね。
すこしあとに、「御倉」の議論がありますが、これが面白いですね(40頁〜)。
網野 後醍醐は地頭の所領の二十分の一を徴収して、御倉に出させていますね。新政の
法にも、「正税以下色々の雑物等、所出二十分の一を以て御倉に進済すべし」と
あります。(中略)これによって見ても、後醍醐がこの用途の徴収を本気でやっ
たことは確実ですし、ここで天皇直属の「新御倉」が京都に設置されたのでは
ないでしょうか。多分、土倉を「御倉」としたのではないかと思いますが、こう
した所出二十の一の徴収という方式が、後醍醐以前にあったのかどうかです。
佐藤 所出二十分の一に関連して言うと、そういう取り方をするには所出というか、
土地の生産高を把握しなければいけない。それでどうも貫文表示に切り換える必
要があったのではないか、と思っています。
笠松 所出の何分の一とかいうのは、所得税みたいなものですか。
網野 そうですね。
佐藤 幕府の立場で全体に生産高の二十分の一とかするというのは、古い発想からは
出てこないですね。
網野 そう思いますね。建治元(1275)年の御家人交名では、負担がすべて貫高になっ
ていますから、その素地はこの頃には出来ていたと思いますが、それを課税の
制度としたことが考えられるとすれば、やはり得宗領ではないでしょうか。
こういう新規の課税は、中国にはもっと進んだシステムがありますぜ、というふうな
渡来僧の入れ知恵だったのかどうか・・・。
企画展のお知らせと勝手な宣伝各2題
皆さんこんばんは、企画展と研究会のお知らせをいたします。
>企画展その?
埼玉県立文書館にて、斉藤古寿(ひさとし)氏所蔵文書が、埼玉県立文書館に寄贈されたことを受けまして、中世文書10点を現在展示中であります。
期間 1月22日から2月24日まで(休館日は月曜日)
場所 埼玉県立文書館1階展示室
アクセス JR浦和駅西口から、徒歩10分 埼玉県庁裏で、国道17号線沿い。
展示している文書一覧
1 永禄3年(1560)10月17日 北条氏康感状
2 永禄4年(1561)9月 8日 乙千代丸(北条氏邦の幼名)判物
3 永禄7年(1561)6月18日 北条氏邦印判状
4 永禄9年(1566)閏8月2日 北条氏邦知行宛行状
5 永禄11年(1568)12月6日 北条氏邦諸役免許状
6 元亀3年(1572)7月26日 北条氏邦知行宛行状
7 元亀3年(1572)7月26日 北条氏邦知行宛行状
8 元亀3年(1572)7月26日 北条氏邦印判状
9 天正2年(1574)9月1日 北条氏邦印判状
10 天正16年(1588)1月3日 北条氏邦受領書出
です。
北条氏邦は、北条氏康の三男で武州鉢形(埼玉県寄居町)城主として、主に西上野(群馬県の高崎市・沼田市など)の領国進出の先方となります。しかし天正18年(1590)の小田原合戦では、鉢形城で籠城するも結局降伏します。氏邦は、前田利家の軍門に下り、以後、加賀前田家に従い慶長2年(1597)8月8日に亡くなります。
また斉藤家は、戦国時代から、秩父地方で良質の炭が生産される定峰谷の炭焼き職人の責任者だったそうです。特に戦国期に炭に関する史料が登場するのは大変珍しいものですので、是非見学にいらしてください。
>企画展その?
『国宝の真髄に迫りたい 室町時代武家文書のすがた』 国宝上杉家文書の世界?
場所 伝国の杜 米沢市上杉博物館
期間 2月9日から3月9日まで 休館月曜日
今回の目玉は 元徳四年 2月29日 木戸宝寿宛足利高氏書下(足利尊氏の初見文書)
が展示されるそうです。これだけでも必見の企画展ですので、お知らせいたします。
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp
>シンポジュウムのお知らせその?
シンポジウム「中世小田原城と石垣山一夜城、そして近世小田原城へ」を開催。
天正18年(1590)に天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた小田原合戦は、戦国時代の終わりを告げるとともに近世の幕開けとなる、わが国の歴史上の転換点にあたるできごとでした。
小田原北条氏は、小田原城を関東進出の拠城として規模を徐々に拡大し、この合戦に備えて城と城下町を周囲約9kmに及ぶ土塁と空堀を張り巡らす戦国時代最大級の城郭を築きました。
一方、秀吉は石垣山に東日本では最初の総石垣による城郭を築き、小田原方を兵糧攻めしたのです。
これによって小田原方は降伏し、小田原城は徳川家康の支配下に置かれ、後に石垣を張り巡らした城郭へと姿を変えていくのです。
この合戦をとおして、小田原城と石垣山一夜城を比較するとともに、戦国時代の小田原の歴史について考えます。(主催者のコメントより)
【日時】平成20年2月11日(月・祝)
【会場】小田原市民会館 小ホール
【定員】300名(当日先着順)
【内容】
9:30 開会
9:40 基調講演? 戦国期の小田原城と城下(國學院大學講師 森幸夫氏)
10:20 基調講演? 東日本における織豊城郭の出現(織豊期城郭研究会代表 中井均氏)
11:10 基調講演? 発掘調査に見る小田原城(文化財課職員)
11:50 休憩
13:00 特別講演 小田原北条氏の関東進出と支配(静岡大学教授 小和田哲男氏)
14:40 シンポジウム
「中世小田原城と石垣山一夜城、そして近世小田原城へ…」
16:30 閉会
詳細は・・・http://www.city.odawara.kanagawa.jp/
小田原市生涯学習部 文化財課
電話番号 0465-33-1717
にお願いいたします。
>シンポジュウムのお知らせその?
栃木県中世考古学研究会第10回研究会を開催。
特別シンポジュウム 唐澤山城の重要性を探る
栃木県中世考古学研究会では、第10回を記念し、特別シンポジュウムとして、保存への機運が高まりつつある唐澤山城の重要性について考える機会を設けたいと思います。今回の研究会は、唐澤山城と佐野の遺跡群について文献史学、考古学、地域史研究の立場から発表をいただき、検討を深めるものです。中世城館の歴史に興味のある方のご参加と活発なご議論をお待ちしています。(主催者のコメントより)
記
1 日 時 平成20年2月23日(土)午前10時〜午後4時30分
2 場 所 佐野市城北地区公民館(堀米町1173)0283−24-5772
3 参加費 1,000円(資料代等)
4 内 容
10:00〜10:05 主催者あいさつ
10:05〜10:15 趣旨説明
10:10〜11:20 唐澤山城の歴史的意義 峰岸純夫氏
11:20〜12:00 石垣の変遷から見た唐澤山城の意義 齋藤慎一氏
12:00〜1:00 昼 食
1:00〜1:30 唐澤山城調査の現状 出居 博氏
1:30〜2:00 唐澤山城の城下町 江田郁夫氏
2:00〜2:30 佐野氏の城館跡について 茂木孝行氏
2:30〜3:00 佐野の遺跡群とその特徴 大澤伸啓氏
3:10〜4:30 討 論(司会・齋藤弘氏、荒川善夫氏)
4:30 解 散
5 主 催 栃木県中世考古学研究会
6 共 催 安蘇史談会・唐澤考古会
7 参加申し込み メールまたは葉書にて、下記までご連絡ください。
斎藤弘 メール bxf04042@watv.ne.jp
〒326-0338 栃木県足利市福居町602
この唐沢山城は、佐野氏の居城で北関東でも最大級の山城です。
皆様ふるってご参加ください。 以上皆様にお知らせいたします。
雪
雪!ですね。
北国の方、受験生の方、その他この雪で大変な思いをしている方がたくさんいらっしゃると思います。
私みたいに予定のない人間には、久しぶりの雪、ちょっと嬉しいのですが。
冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(清原深養父)
今日は出社が大変
>筆綾丸さま
>天文法華の乱のとき、滅亡したのかもしれませんね。
ダメージはあったかもしれませんが、↓によると、甘すぎる柳酒が、二段仕込、三段仕込の酒に負けていったということのようです。消費者の嗜好の変化と、技術革新に負けたということでしょうか。
http://www.kikusui-sake.com/home/story_6.html
>相国入道さま
>『国宝の真髄に迫りたい 室町時代武家文書のすがた』 国宝上杉家文書の世界?なんかとても惹かれるものがあります。しかし、米沢は遠いかな。
謙信以前の上杉家文書というのは、上杉憲政から伝わったものなのでしょうか?
>はぎつきみたえさま
昨日は、雪合戦、雪だるま作りやらされてしましました。
エソテリックな後宇多院
NAO4@吟遊詩人さま
興味深い記事ですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125203.html
吾妻鏡建長4年(1252)3月19日の宗尊親王関東下向のくだりには、意味不明の用語が一杯
ありますが、道中、かなり酒も飲んでるようですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125209.html
同年9月30日と10月16日には、禁酒令の記述もありますね。田舎の鎌倉でも、これだけ酒
が出回っていたところをみると、京都・奈良・大坂は凄かったのでしょうね。
ひさしぶりに『増鏡』(講談社学術文庫)を眺めてみますと。
「さしぐし」の亀山院剃髪のところに、
「さて九月の初めつかた、中の院は御髪おろさせ給ふ・・・・御法名金剛覚と申すなり」
とあって、金剛源ではなく金剛覚となっているのですね。
また、「浦千鳥」の後宇多潅頂のところに、
「遊義門院の御髪にて梵字ぬはせ給へり」
という不思議な一文がありますね。これは、遊義門院の遺髪で後宇多院が自分の法名
バジュラムン(金剛性)を何かに縫われた、という意味でしょうか。とするならば、
なんと言いますか、後世の刺青にも通ずるような至上の愛の表現ということになりま
すか。あるいは、遊義門院の法名を梵字で何かに縫われた、という意味なのでしょう
か。・・・いずれにせよ、密教は esoteric で、よくわからない。
上杉家文書について
>NAO4@吟遊詩人さま
『上杉家文書』はご指摘の通り、謙信以前は上杉憲政から伝えられたもの、上杉一族の越後上杉氏のもの、謙信の実家長尾氏から伝えられたものとに別れます。謙信以前の文書が、全て憲政から伝えらたのかなお検討の余地があるようです。もう一度全体像を見直す必要があるかもしれませんね。私もこの企画展行けるかどうか、微妙なところです。
それから前の書き込みで、斉藤家文書の中で秩父の定峰谷は、(さだみねだに)と呼ぶのだそうであわせてご報告申し上げます。
真夜中にゴソゴソと・・・。
>はぎつきさん
>清原深養父
名歌揃いですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hukayabu.html
>筆綾丸さん
>「これではいけない」
誰も反応してくれないので、もしかしたら自分が大変な勘違いをしているのかなと若干不安だったのですが、やっぱり変ですよね。
>遊義門院の御髪にて梵字ぬはせ給へり
岩波大系と『増鏡詳解』(和田英松・佐藤球)を見ましたが、特別なコメントはありませんでした。
布地に遊義門院の毛髪で何かを刺繍したのでしょうが、単に「梵字」となっていますから、名前と特定もできませんね。
遺髪で縫うという行為は、筆綾丸さんのおっしゃるように、どこか生々しい感じがします。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-kanjo.htm
>NAO4@吟遊詩人さん
>良助法親王
すみませぬ。
後ほど。
>相国入道さん
いつもありがとうございます。
個人的には唐澤山城シンポに特に興味があります。
峰岸先生も相変わらずお元気そうですね。
「髪繍」または「繍髪」
当麻寺には「中将法如毛髪種字三尊」なるものがあり、毛髪により阿弥陀三尊をあらわす梵字を刺繍とか。
http://www.taimadera.org/list.htm
かたや大原の寂光院には「建礼門院髪繍(はっしゅう)」があり、「南無阿弥陀仏」の名号を髪の毛で刺繍せり。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007110700035&genre=J1&area=K1D
また、「両界種子繍髪曼荼羅図」というのもあるらしい。こちらは残念ながら画像なし。
http://alacarteofchina.at.infoseek.co.jp/butuga-18.htm
簡単ですが
>筆謝丸さま、>鈴木小太郎さま
髪で刺繍するというのは、何とも気味が悪い感じがするのですが
>esoteric
こういう言葉が、英語にあるのですね。東方キリスト教などのことを表す表現でしょうか?
>相国入道さま
>『上杉家文書』
なるほど、越後守護職家上杉氏からの文書もありえるのですか。
上杉博物館のHPを見ていると、「足利義昭御内書」に加えて、「織田信長副状」がありますね。ああ、これが信長がいちいち義昭の書状に加えたというものかと思った次第です。
尊氏二百年忌法会
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/046monjo_muromachi.htm
永禄12年2月8日付の義昭御内書は「上杉弾正少弼」宛で、信長副状は「直江大和守
(景綱)」宛のようですが、「との」と「殿」や署名の有無など、両者の形式の相違が
興味深いですね。
また、副状の日付は御内書の二日後ですが、これも面白いですね。俺は義昭の御内書を
二日後に「内覧」したが、これでよい、その旨、輝虎殿へ伝えられよ、というような不遜
な響きすらありますね。
麟の崩し字に、どうだ、俺が信長だ、というような裂帛の気魄が感ぜられ、この形の一群
の花押のなかで、もっとも美しいもののひとつかもしれませんね。これを拡大でみると、
信長の美的センスにはただならぬものがありますね。
『史料綜覧』弘治3年(1557)4月29日「尊氏二百年忌法会を等持寺に修す」という朽木谷
流寓中の義輝の記事を読んで、尊氏と義輝の両花押を比べると、なにか感動的なものが
あります。
義昭の花押は、室町将軍家の武家様花押の系譜を引きつつも、戦国時代の eccentricな
風潮が影を落としているのかもしれませんね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Esoteric
これを読むかぎりでは、ギリシャ語に由来するけれども、英語としての初例はトマス・
スタンレーの「哲学の歴史」(1701年)で、ピタゴラス教団を論じたときの用語のよう
ですね。たしかに、ピタゴラス教団は秘教的でしたから。
小太郎さん
中将姫の梵字髪繍から、後宇多院のものも想像できるようですね。
髪繍のとき、後宇多法皇が真言のきれぎれに、あるいはグノーシスムのように、あるいは
ヘルメティシスムのように、ひそかに呟いてのは、定家の艶歌だったかもしれませんね。
?? かきやりしその黒髮のすぢごとに うち臥すほどは面影ぞたつ
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4831511587.html
昨日、この本、すこし立ち読みしました。キーワードは勝軍地蔵でしょうか。承久の変の
とき、ラスプーチン聖覚が、後鳥羽のために、清水寺の勝軍地蔵で行った鎌倉調伏の祈祷
が中世の初見のようですね。
網野 (寄物の法が後世まで続くことは)寄鯨の場合でもわかりますね。
笠松 寄鯨なんていうのがあるんですか。
網野 あるんですよ。弱った鯨が岸に流れついてくる。あまり動けないのだけれども、
それにだれが先に銛を入れたか、どちらの村に引っ張っていくかという大騒動
が起こるんですね。
(『日本中世史を見直す』106頁〜)
「鵜のゐる岩のはざま、鯨の寄る礒なりと」(『とはずがたり』巻4)
「寄る」の意味に違いがありますが、『とはずがたり』に「寄鯨」が出てくるのですね。
ちょっとおどろきました。
毎度馬鹿馬鹿しい
カキコばかりで申し訳ありませんが。
コンビニでちらりと見た記事を、ネットで検索してみたら怖くなってしまったので、怖いの苦手な方、一緒に怖がってください。
心霊写真?侍幽霊でございます。
http://news.livedoor.com/article/detail/3497371/
>NAO4@吟遊詩人さま
>雪合戦、雪だるまづくり
それは、雪降ったらやらなきゃだめでしょう!必須ですよ!マストですよ!
私にも子どもがいたら率先して遊ぶのですが(笑)。
>小太郎さま
>清原深養父
>名歌揃いですね。
そうなんです。
この方の歌はロマンチックでわかりやすいので好きです。
鯨の寄る島
>筆綾丸さん
すぐには思い浮かばなかったのですが、伊勢の大湊の場面ですね。
------------------
その暁の出潮の舟の乗りに、宵より大湊といふ所へまかりて、いやしき浦人が塩屋のそばに旅寝したるにも、「鵜のゐる岩のはざま、鯨の寄る磯なりと、思ふ人だに契りあらば」とこそ、古き言の葉にもいひおきたるにこは何ごとの身の行方ぞ。待つとてもまた憂き思ひの慰むにもあらず、越えゆく山の末にもあふ坂もなしなど、思ひつづけて、また出でんとする暁、夜深く、外宮の宮人常良がもとより、本宮へつくべき便り文をとり忘れたる、遣はすとて、
たちかへる浪路と聞けば袖濡れてよそになるみの浦の名ぞ憂き
返し、
かねてよりよそになるみの契りなれどかへる波には濡るる袖かな
------------------
古い詩歌の一節として引用しているので、特定の海岸について述べたものでもないようですが、非常に興味深い表現ですね。
講談社学術文庫版「とはずがたり」の次田香澄氏の注には、『宴曲集』第三、袖湊(そでのみなと)から、「鵜のゐる岩の狭間にも、葎の宿萱が軒、埴生の小屋のいぶせさも、・・・・・契の末のかはらずは、虎臥す野べ鯨の寄る島にも、留めばとまりなんやな」(『宴曲集』第三、袖湊)と紹介されていて、これも気になります。
>NAO4@吟遊詩人さん
>esoteric
密教も博物館の展示などでは、Esoteric Buddhism と訳されていることが多いですね。
試しにウィキペディアで「真言宗」の英語版を見ると、esoteric が満ち満ちてます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shingon_Buddhism
>はぎつきさん
ギター侍?
荼毘紙
小太郎さん
大槻清準『鯨史稿』(恒和出版)という本に、鯨は梵言では摩竭あるいは摩伽羅と云い、
華厳経に出てくる、とありました。
『とはずがたり』が華厳経の梵言を踏まえていたかどうか、わかりませぬが、あまり
類例がなく、とても気になる表現ですね。
中村直勝『日本古文書学 下』に、次のような箇所がありました。
『三代実録』仁和二年(886)十月廿九日のところに、この日逝去した藤原多美子の美
しい物語をのせておる。多美子は清和天皇女御の一人であったが、天皇崩御の後、御生
前に賜った御消息文を改めて新紙に漉き直し、それに『法華経』を謹写して、故帝のた
めに、大斎会を設けて、この経巻を恭敬供養した。これは世上に流伝する「大聖武」と
いう古経切が荼毘紙と言われておるが、その故智を換骨したのであろう。荼毘紙という
のは仏法篤信者が、自分のものすべてを仏に供養せんとする熱意から、火葬にせられて
残った最後の骨灰をも、仏に供養すべく、それを紙漉の資料の中に混入してもらって、
漉き上げた紙であると言う。紙面を指で触ってみると、硬い鉱物性の粉末がある。多分
死者の残した灰であろう。その荼毘紙に経文を書写し供養することによりて、最後の
最後の一物までも、仏陀に供養したと言う至信のしるしにしたものであった。(956頁〜)
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125802.html
後宇多の髪繍が絹本でなく紙本になされたとするならば、それは遊義門院の遺灰を漉き
込んだ荼毘紙だったかもしれず、ヴァジュラのパウダーのような透明な異質物が、ざら
ざらと漉紙にあって、法皇の肌を刺したのである。
これは、百箇日法要が果てた後の、徳治二年霜月の或る日の夕暮れのことで、美しく繊い
初花が、女の灰の如き初花が、はらはらと嵯峨に舞うかのようであったのは、金剛界
曼荼羅の思わせぶりなトロンプ・ルイユ(騙し絵)であったのかもしれない。
ゆくすゑのふかき契もよしやただ かかる別れの今なくもがな 女院
しろたへの色より外の色もなし とほき野山の雪のあさあけ 法皇
NAO4@吟遊詩人さま
横井清『東山文化』(平凡社ライブラリー)を読み返すと、次のようなくだりがありま
した。
「嘉吉元年(1441)のころ幕府が統制下においていた京都の酒屋は計327軒であったか
ら、これまた相当な軒数だし、酒屋役として幕府が徴収する税も巨額にのぼったと推察さ
れる。数ある酒屋の中でもとくに名を馳せた柳酒屋の中興などは、文正元年(1466)ご
ろ、毎月将軍に60貫文、一か年で720貫文もの税を納入していたという。大変な力量とい
わねばならない」(57頁)
中興家は、我国金融資本主義中興の祖(?)の如き存在だったのですね。
「大聖武」という古経切
東博『宮廷のみやびー近衛家1000年の名宝』に行きましたら、ちょうど、陽明文庫所蔵
の国宝「賢愚経断簡(大聖武)」が展示されていて、ギクリとしました。
紙の変色が一様ではなく、四か所、灰色の帯になっていて、これが、荼毘紙における、
死者の灰の濃度勾配の差の現われなのであろうか。
「紙面を指で触ってみると、硬い鉱物性の粉末がある」
直勝先生が触ったのは、この灰色の帯の部分であろうか。
灰色の帯のところにある文字を、一部、読むと、こうである。
身投於大坑天地大動虚空
諸天同時号哭涙如盛雨
賢愚経という経を、私は知らぬけれども、この文言は、「最後の最後の一物までも仏陀
に供養した」という荼毘紙信仰を、ただの偶然にすぎぬであろうが、雄弁に物語ってい
るように思われました。
ほかに、色々と面白い発見がありましたが、また、あとで書きます。
「次男坊たちの江戸時代」
>筆綾丸さま、>鈴木小太郎さま
>荼毘紙
「骨灰を資料に混入させて漉いた紙」というのも、すごい発想ですね。
仏教が生活から離れてしまった現代では、なかなか考えにくいです。
ただ、元々香木を入れているのですから、ゴツゴツはしているような気がしますが。
http://www.fudemojiya.com/syo/kami.htm
>esoteric
コメントいただき、ありがとうございました。やはり、英語としては新しいようですね。
トマス・スタンレーの哲学の歴史は、知りませんが、よく初出が分かるなあと思いました。
>はぎつきみたえさま
>それは、雪降ったらやらなきゃだめでしょう!必須ですよ!マストですよ!
どうもありがとうございます。
最近雪があまり降りませんし、降っても積もりませんから、降ったときくらい遊ばないとね。それにしても、次の日には殆ど消えてしまうのは、喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。
>阿哈馬江さま
大分、間を空けてしまいましたが、「次男坊たちの江戸時代 公家社会の厄介者(松田敬之著 吉川弘文館)」読み終わりました。面白くなくて、時間がかかったわけでなく、色々他の本に浮気しながら読んでおりましたので、遅くなりました。
堂上公家・地下官人の家格が良く分かり、子にも「子、実子、養子、密子、猶子」など、いろいろな種類があったというのは勉強になりました。江戸時代の身分社会ならではの現象なのでしょうね。
引用されている公家の子供たちもユニークで興味深かったです。こういう分野の研究は、なかなか目にしないので、一般書で紹介していただいて、ありがたかったです。
慶光院の記載は、収穫でした。実は、今だに「慶光院」「保安寺」を調べておりまして、このサイトの「調べ方案内」を参考に、図書館のレファレンスを利用して、データを収集しております。ある程度まとまりましたら、ご紹介いたします。
保安寺
みなさま
ご無沙汰いたしております。採点・成績評価は終わりましたが、月内締切の原稿が2本...
NAO4@吟遊詩人さま
> 「慶光院」「保安寺」
弊帳でも、邦家親王の「密子」、慶光院盈子の項目を立てる予定ですので、いろいろと御教示くださりますよう、お願いいたします。
> 「保安寺」
元日の書込で、保安寺法皇の保安寺を「西郊の保安寺のことと思われます」と書きましたが、甚だ不安に思いまして『園太暦』を再確認いたしましたところ、この保安寺は伏見にあったと考えざるを得ないようです(kari さま、スミマセンでした)。
そこで、二次ないし三次文献ですが、
田中親之『皇家と因縁ある伏見山 桃山沿遷』
私家版(京都府紀伊郡堀内村字桃山、田中敏子 発行)
大正三年(一九一四)三月
なる古書の一部を引用いたします(原文は句読点ナシ)。
一六頁:
即成就院村は、橘俊綱山荘畔に建立したる寺名と同じければ、其古地を表出すると爲さば、敢て不可なき如きも、果して橘俊綱建立の寺は即成就院なりや。伏見寺と唱へしは後世の事なるべし。法安寺村は、源有仁(花園左大臣)の妹守子女王、伏見齋宮として居れたる歴史あるを以て、或は其所在地乎。延文の頃、法安寺上皇(光明)も居られ、新葉和歌集に後醍醐皇女祥子内親王も居られ、其寺の長老隱れ侍りければ云々ありて、皇女の常に居られたる如く、後土御門皇女法安寺も亦た居られたる乎。今は法安寺影なく泉涌寺中に同名を見るのみ。其沿遷知る能はざると同時に伏見法安寺所在地も明かならず。
六四〜六五頁:
有仁【源】の妹に守子女王あり。保安四年(或は六年九月九日)伊勢齋に卜定し伏見に居る故に伏見齋宮と稱す。保安女王とは之を謂ふ乎。有仁同母なり。然れども有仁と同住したるや、又た同地別所なるや、明ならず。伏見九郷と稱する圖中に即成就院村及び法安寺村あり。果して別寺を存したる乎。此圖未だ信ぜられざれども、南北朝時代、法安寺上皇光明あり。此は北朝時代に讓り詳説する所あらむと欲す。蓋し伏見山に法安寺と稱する梵刹はありたるものゝ如し。然れども花園左大臣源有仁山荘は俊綱【橘】山荘跡を假用したる乎、或は然らずして保安寺又は其附近に山荘を別に設け居住したる乎、將た即成就院一名保安寺と謂ふたる乎、甚だ明亮ならず。
一三五〜一三七頁:
保安寺は、花園左大臣源有仁同母妹の守子女王(輔仁親王女即ち白河【ママ】皇孫)、保安六年九月九月【衍】伏見齋宮と稱し(皇胤紹運録・齋宮記)此に居たる乎。保安女王と呼ぶ其頃よりありたりと爲さば、後醍醐帝皇女前齋宮祥子内親王(【割注】母准后新待賢門院廉子)も此に居られたるも知らる。新葉集に世を遁れて後ち、保安寺に住ける頃、其寺の長老かくれ侍りける「殘り居て思ふも悲し法の道尋ねし時は遲れやはせし」祥子内親王とあり。皇室系譜に後醍醐第二皇女に載すれば、或は保安寺上皇御同住にもや。大日本史、祥子母藤原皇后(廉子。新待賢門院(【割注】洞院公賢養女。實阿野公廉女))生む所なり。元弘三年伊勢齋と爲り(【割注】歴代皇紀)後に保安寺に入り尼と爲るとあり。則ち異腹姉懽子内親王に代り伊勢齋と爲りたる乎。懽子は母藤原中宮禧子後京極院(西園寺實兼女)にして、懽子、元應元年内親王一品、元二年伊勢齋、元弘元年准三宮、尋て【で】伊勢齋を罷め、其三年光嚴院に逼られて之に納る(【割注】歴代皇紀、女院小傳、増鏡、後宮略傳)、とある所の宣政門院、是なり。果して妹祥子内親王に其職を讓りたる乎否は知らざれども、祥子内親王の此地保安寺に在りたるは明なる如し。而して光嚴は、光明同腹兄、廣儀【ママ】門院寧子の生む所なり。而して兄の逼りて納れたる后の妹に弟の光明院同棲し居るとは奇なり。祥子亦た其姉懽子の伊勢齋宮を嗣ぎたる乎。混淆誤傳は古來史上尠なからず。光明院御製詩曰く、「桃花流水洞中天。不記雲霞多少年。滿目風光塵世外。等閑逢見是仙。」とあり。此は何時何地に於て御製なりたるや。只々山家春望と題したれども尋常ならざるを覺う。保安寺は其後長く存在し、後土御門皇女保安寺あり。後柏原帝御一腹尼宮として茲に居られたるにや。此尼宮同胞の不遠院宮尊敦は般舟三昧院の所にて詳説すべし。然れども伏見の地に保安寺の所在は猶を未だ詳かならず。既に其跡は五郎太町と謂ふものあれども徴すべき史證あるにあらず。但々五郎太町は地名、長束大藏(正家乎)北にして川五郎太麿(松平)義直邸地を徴するも、其所今は凉庵ありて相應院阿龜(八幡正法寺志水宗女。義直母)の胎中佛あるに過ぎず、法安寺の古名なし。深草北泉涌寺塔中保安寺あり。其寺歴明かならずと雖ども、或は此伏見より移りたるにあらざる乎。皇室由縁の追薦所として後世此に併合したるやも知る可からず。
−−−−−−−−−−−
この著者には、後土御門院の女子の入室した保安寺が和泉国にあるということが知られていなかったようです。
ちなみに、光明院は、光嚴院の子として踐祚しておりますので、光明院の外祖父は後醍醐天皇となるわけであります。
光嚴院
├──【猶子】光明院(保安寺法皇)
┌懽子内親王(宣政門院)
├祥子内親王
後醍醐天皇
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
灰屋
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080211-00000007-yom-soci&kz=soci
これは、色々な意味で、面白いですね。
NAO4@吟遊詩人さま
灰で豪商となった灰屋紹益は、身請けした吉野太夫に先立たれ、荼毘に付した遺骨を
細かく砕き、一年かけて晩酌と一緒に飲みほした、という有名な話がありますね。
紹益は、荼毘紙の故事を知っていたのでしょうね。
baptism
皆様
今日は英語の勉強をしていたため、申し訳ありませんが、お返事が少し遅れます。
お許しください。
ところで、今、僕は George W. Perkins 氏の"The Clear Mirror" (Stanford University Press,1998)という本を読んでいます。
その157ページには次のような文章があり、試しに訳してみました。
--------------------
In the spring of the following year(1308), the retired emperor stopped at the Toji Temple on his way back from the Iwashimizu Hachiman Shrine, and there, during a 21-day retreat, he performded pious exercises to prepare himself for baptism. Perhaps in remembrance of the precedent set by Emperor Uda, he also studied esoteric doctrines under the guidance of Archbishop Zenjo of the Ninnaji. And in the sixth month, at the Kameyama Mansion, he copied a sutra in prescribed form.
翌1308年の春、引退した皇帝はアイワシミズ・ハチマン聖堂訪問の帰途、トージ寺院に止まり、そこに21日間籠って、自らの洗礼の準備のために敬虔な儀式を遂行した。多分、ユーダ皇帝の先例を思い出してのことであろうが、彼はニンナジの大司教ゼンジョの指導の下、秘密の理論をも勉強した。そして6月には、カメヤマ屋敷で、所定の形式に従い聖典を複写した。
--------------------
どうも東洋の小さな国の物語のようなのですが、14世紀初頭に皇帝が baptism(洗礼)を受けていたというのが不思議です。
そんなに早くキリスト教が布教されていたのでしょうか。
即位灌頂。
随分と前の話題になりますが、「金剛理」「金剛性」という法名は何なのだろうと思っていました。
「金剛理」の方は、「維摩経略疏」卷第八に「至心本際金剛理也」とあり、「絶対真実」みたいな意味のようです。「金剛性」はおそらく、「理趣経」に言う平等性・調伏性・法性・金剛性という四種性のことでしょうね。「實相般若波羅蜜經」に「一切衆生金剛性。是瞋金剛性。何以故一切衆生調伏性」というくだりがあります。或いは、「金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經」卷上に「大有金剛性光明遍照王、清淨妙蓮染無爲而作業」という使い方もされています。絶対真実に衆生を導く仏の性質をあらわすもののようです。
で、密教辞典などをパラパラめくっていたら、「金剛〇菩薩」という名称の菩薩が多いのですね。「金剛笑菩薩」とか「金剛蔵菩薩」とか。ひょっとしたら、天皇・上皇の法名は、自らを菩薩になぞらえようとしたものかも知れません。鎌倉中期以降の即位灌頂儀礼とも関係するのでしょう。まあ、「洗礼」ですね。
そういえば、南朝の長慶天皇も「金剛理」を名乗ったそうですね。
阿哈馬江さま。
ご紹介の著作によると、伏見の「保安寺」というのは、伏見山田の法安寺のことですか。
それでしたら、『看聞日記』などにもよく出てきますね。
ところで、『臥雲日件録』坤、長禄四年五月七日条に「修山梅室曰、真乗寺開山梅渓、乃後醍醐天王之女、始為光厳院皇后、後自剪髪為尼」とありますが、『続史愚抄』廿一では、これは後醍醐の娘で光厳院妃となった懽子内親王(宣政門院)=保安寺宮とよばれた人物ですね。前者の史料では、真乗寺(比丘尼御所)に入ったように記されていますが、何やら混同があるのでしょうか。
調べもの
>阿哈馬江さま
レスどうもありがとうございました。
「保安寺」ですが、ネットに載ってないと、俄然調べる意欲が出てまいりまして、最初は、山中智恵子氏の「続斎宮志」に期待していたのですが、収穫がなく、三重県の斎宮歴史博物館の歴代斎王の解説パネルを繰ってみました。そして、祥子内親王を見つけまして、「伏見の保安寺」の記載を見つけ、保安寺の位置を伏見と確定しました。
そこで、和泉の方は置いといて、京都府立図書館のレファレンスを利用しまして、「新修京都叢書(臨川書店)」所収の「山城名勝志」等を紹介されました。
現在コピーを取り寄せていますが、阿哈馬江さまご紹介の文献と、ほぼ同じようなことが書かれているようです。
また、角川日本地名大辞典には、保安寺の旧地は現在の伏見区「清涼院」と書かれているようです。
「清涼院」は尼寺であり、保安寺を継承しているのではないかと思ったのですが、伏見城内にあったことがあるとか、徳川尾張家の義直の生誕地(そのため、この辺を「五郎太(義直の幼名)」町と言うとのこと)だとかで、「保安寺」との間には隔絶があるように思えました。
一度、伏見に踏査に出かけようかと思いましたが、どうも伏見という街は豊臣秀吉が大改造を加えたために、それ以前の歴史の痕跡を探すのが大変そうで、もう少し情報を集めてからにしようと考えておりました。
>弊帳でも、邦家親王の「密子」、慶光院盈子の項目を立てる予定ですので、いろいろと御教示くださりますよう、お願いいたします。
「御教示」なんて、恐れ多くとんでもないことですが、未だ調査を続けており、面白い話がありましたら、ご紹介いたします。
>筆綾丸さま
>灰屋紹益
不勉強で、知りませんでした。ありがとうございました。
http://www.ikedakai.com/jinmeijitenha.html
>鈴木小太郎さま、>kariさま
>baptism
どうも付いていけません。中国に伝わっていたのは、ネストリウス派キリスト教(唐代)でしょうか?
とボケてみました。
佐理
小太郎さん
東洋の国の不可思議な情況がよくわかる名訳ですね。
とりわけ、ユーダ皇帝という訳が背教者のようで、いいですね。
kariさま
金剛理と金剛性の御説明、興味深く拝見しました。
阿哈馬江さま
密子が esoteric なら正体はわからぬ訳ですから、この場合は、 exoteric な密子ですね。
NAO4@吟遊詩人さま
全然関係ないのですが、金閣寺とほぼ同時期に創建された李王朝のナンデムンが全焼しま
したね。国宝1号とのことですが、これで、1号は永久欠番になりますね。
『宮廷のみやび』で、藤原佐理(944〜998)の三通の書状を、興味深く思いました。
国宝の離洛帖(991年)は、文頭と文末に、佐理の草名がある(文中にも佐理の草名が
あるが、これはさしあたって、考えない)。恩命帖(982年)は、文頭と文末に、佐理の
草名がある。女車帖(982年)は、文末だけに、佐理の草名がある。
10世紀末は、文頭と文末に草名のあるものと文末だけに草名のあるものと、様式上、
過渡期にある、と思われました。
予楽院(近衛家熙)が小野道風(894〜968)の書状を臨書したものは、文頭と文末に
道風の草名があり、佐理以前の道風の時代は、この様式がまだ安定していたのかもしれ
ない。11世紀前半の書状が複数あれば、文末だけに草名を記す様式の定着時期が大凡
わかるはずだ、と思いました。
もしかすると、いわゆる袖判という奴は、文頭の草名の名残りであって、草名をわずかに
ドラッグしただけのことなのかもしれない。
文中の佐理の草名は、「・・・幸甚々々、抑佐理今月十六日、来到長門赤間泊(・・・よ
かった、よかった、さて、ぼくはね、今月の十六日、長門国の赤間泊に着きました)
という形であらわれ、ちょっとお茶目な一人称単数、という感じですね。
『大鏡』では「如泥人」と佐理を評してますが、三通の書状をみるかぎり、佐理の書は
ひどく傾きもの風で、とても能筆とは思えませぬ。ただ、書風は時代に属するから、こ
のような書に美を感ずる時代もあった、とはいえる・・・とはなんと身の程知らずの言
であることか。
南大門(崇礼門)
>筆綾丸さま
>南大門(崇礼門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A4%BC%E9%96%80
こんな事件が起きないと、韓国の文化財になかなか目が向かないのですが、金閣寺も放火で焼失し、再建されても再び国宝にはなりませんでしたから、南大門もそうなのでしょうね。
ただ、南大門の「宝物」指定が、日本統治時代に行われたことから、国宝第一号にするのは疑問があったとか。
南大門も詳しい図面があるので再建は可能で、金閣寺もそうだったとかで、図面データの保存は大切なのでしょうね。
↓韓国の国宝一覧も調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%AE%9D
ところで、国宝の警備なのですが、塀に囲まれた中にあるのでしたら、良からぬ考えを持った者が接近するのに障害になって、ちょっとした防御になるのですが、日本の国宝建築物で、建物が剥き出しになっていて、一般道から直行できるものがありますね。なんかとっても不安なのですが。某地蔵堂
>「如泥人」
「だらしがない」ということですよね。一つのことに夢中になって、身形とか構わなかったのでしょうか。佐理ってこの表現があるので、興味を惹かれるんですよね。
>鈴木小太郎さま、>kariさま
>baptism、>即位灌頂
「灌頂」の意味が分かると、昨日のお話しが分かりますね。(こんなことも知らないなんで、お恥ずかしい限りです。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E9%A0%82
第4回「実隆公記」を読む会
下記のとおり会のご案内をいたしますので、ご参加の程お願いいたします。
なお、資料準備の関係上、参加希望の方は、あらかじめ担当者(下記HP上の連絡先)までご連絡いただけると幸いです。
会場が前回までと違っていますので、ご注意ください。
記
日 時:2008年3月22日(土) 14:00〜
場 所:美作大学 地域生活科学研究所(津山市北園町50)
津山駅から中鉄バス「スポーツセンター」行き、もしくは「東一宮車庫」行きに乗車、「美作大学前」下車、徒歩3分。
※ 教室などは、詳細が決定次第、更新してお知らせします。
※※ 翌23日(日)には古文書の見学会を予定しています。これも詳細は追ってお知らせします。
その他:終了後は、懇親会を予定しています。
※「『実隆公記』を読む会」は、専門の研究者だけが学ぶ場ではありません。
「中世の古文書や古記録を、自分で読んでみたい」という一般の方への手ほどきも提供しています。
参加費は無料、古文書・古記録の訓読を行なうためのテキストも無料配布いたします。
講読会では、担当者に何でもお尋ねください。
お気軽にご参加のほど、よろしくお願いいたします。
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/kibi/index.html
定家
「宮廷のみやび」の定家詠草について
泊瀬山
をはつせや みねのときは木
ふきしをりあらしにくもる
ゆきのやまもと
この歌は、承元元年(1207)、後鳥羽の命による「最勝四天王院名所障子歌」のひとつ
で、定家にふりあてられた泊瀬山の歌である。
初句の「は」の右に、細い線が引いてある。この「は」は、くずし字辞典をみると、
「者」のくずしで、細い線は「は」の一部ではなく、合点のようである。合点者は後鳥羽
であろう。ところが、この初句の「を」の上にもうひとつ太い線が引かれ、これも合点
のようにみえる。そして、この線の太さが、初句の「や」と同じなのである。したが
って、この「や」は墨継ではあるまい。両者を同一人の筆とすれば、これもまた、後鳥
羽と考えるべきだろう。とすると、「を」の上の線は添削を施したという意味の合点
で、「や」は添削後の文字である、と考えられるのではないか。添削前の文字は、ただ
の勘にすぎぬが、「の」ではあるまいか。つまり、もとの歌は、こうなる。
?????? 泊瀬山
をはつせの みねのときは木
ふきしをりあらしにくもる
ゆきのやまもと
一字の相違であるが、後者の歌はいかにも定家風であり、前者の歌は後鳥羽好みの初句切
の歌のようにみえてくる。「の」を「や」にしたら、属目の景は全く別になる、そし
て、心象風景も一変してしまう・・・プライドの高い定家の腸は煮えくりかえったので
はないか。しかし、相手は帝王である。こればかりは、どうすることもできない。歌才
の問題ではなく、ヒエラルヒーの問題である。
定家の流麗な歌は、首を斬られて、初句切の歌となってしまった。「や」は、後鳥羽に
斬りつけられた傷跡、吉良上野介の額の傷跡のようなものかもしれない。
表具の天と地は、渡来の明繍で、予楽院好みらしい。「を」の上の点と「や」が、この
詠草を伝来した近衛家の誰かの書き込み・・・などということはないのだろうな。
http://item.rakuten.co.jp/book/1741499/
今日は、『中世花押の謎を解く』を読んでいましたが、足利氏の花押について、従来の
定説を覆す論攷があって、僭越ながら、非常に素晴らしい著書だと思いました。
NAO4@吟遊詩人さま
模倣犯が出ないといいのですけれども。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=32015015
輝元は、曇華院や入江殿なども訪問していて、すべては政治絡みとはいえ、なるほどな、
と思いました。とても面白い本ですよ。
くわんぢやう
先に紹介した"The Clear Mirror" の後宇多院灌頂の場面、原文はこちらです。
-------------------------
あくる年の春、八幡の御幸の御帰りざまに、東寺(とうじ)に三七日おはしまして、御灌頂(くわんぢやう)の御加行(けぎやう)とぞ聞ゆる。仁和寺(にんわじ)の禅助僧正を御師範にて、かの寛平の昔をや思(おぼ)すらん、密宗をぞ学(がく)せさせ給ひける。六月には亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-kanjo.htm
-------------------------
きびきびした良い文章ですが、英訳すると、正確に説明するためにどうしても冗長になってしまいますね。
>NAO4@吟遊詩人さん
>灌頂
英語でbaptism(洗礼)と訳されているのは若干奇妙な感じがしますが、ま、外形的には似てますよね。
ちなみに後宇多院の灌頂の様子については、側近の吉田隆長(定房の弟)が詳細な記録を残しています。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hayami-tasuku-mikkyokanjo.htm
伏見については瀬田勝哉氏が「看聞日記ゼミ」の参考文献目録を公開されているので、参考になるのでは、と思います。
同氏の「「伏見古図」の呪縛」(『武蔵大学人文学会雑誌』第31巻3号)、「伏見即成院の中世」(『武蔵大学人文学会雑誌』第36巻3号)は特に面白いですね。
院殿大居士の鯨様
>筆綾丸さん
愛媛県明浜町の寄鯨は天保八年(1837)の大飢饉の際に登場して、我が身をもって住民を救い、報恩として「鱗王院殿法界全果大居士」の戒名をもらったそうですね。
「全果」の二字に、すみずみまでおいしくいただきました、という感謝の気持ちが込められているのかも。
http://www.asahi-net.or.jp/~RN2H-DIMR/ohaka2/10gyogyo/17sikoku/akehama.html
後宇多院の歌はいかにも帝王風ですが、遊義門院の歌は内省的な印象を受けますね。
私は遊義門院を活動的で華やかな女性と想像していたのですが、彼女の歌との間にはかなり隔たりがあるので、少し悩んでおります。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gouda.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuugimon.html
>阿哈馬江さん
詳しい引用、ありがとうございます。
個人的には「即成就院」の四文字にやたら惹かれます。
>kariさん
関東であれば参加したいのですが、さすがに津山市は遠いですね。
感謝いたします。
>筆綾丸さま
>「秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く」(二木謙一著、学研)
どうもありがとうございます。この本が出版されていることは知っていたのですが、「秀吉の接待」とは何のことだろうと思いながら、普段学研新書に手を出さないこともあり、手にとって見たりはしておりませんでした。ちょっとチェックしてみます。
このところ、なかなか面白そうな新書が出ており、1冊あたりは、高くなくても、3〜4冊まとめて買うと、高い感じがしますね。
>鈴木小太郎さま
>英語でbaptism(洗礼)と訳されているのは若干奇妙な感じがしますが、ま、外形的には似てますよね。
私は、外形的に似ているので、あっさり納得してしまったのですが、英米人が聞いて、キリスト教を連想してしまっては、訳としては失敗なのでしょうね。Kanjyoとそのまま使って、「洗礼のように頭頂に水をつける密教儀式」とか注をつけたほうがよかったかも。(素人考えで申し訳ありません。)
>伏見については瀬田勝哉氏が「看聞日記ゼミ」の参考文献目録を公開されているので、参考になるのでは、と思います。
>同氏の「「伏見古図」の呪縛」(『武蔵大学人文学会雑誌』第31巻3号)、「伏見即成院の中世」(『武蔵大学人文学会雑誌』第36巻3号)は特に面白いですね。
なんと、とても良さそうな文献ご紹介ありがとうございます。
ご好意本当に感謝いたします。
>寄鯨
「身を捨てて、飢える民を救う」仏教説話的なお話だったのですね。ようやく理解しました。塚まで建てて供養する信心深い昔の人は偉いです。「食」を当たり前だと思っちゃいけないのですね。日々感謝です。
鯨
小太郎さん
George W. Perkinsさんは、遊義門院の御髪にて梵字ぬはせ給へり、のところをどのよう
に訳していますか。
立派な戒名ですが、鯨様のクリダシがどのようなものか、見てみたいですね。
NAO4@吟遊詩人さま
http://en.wikipedia.org/wiki/Baptism
蝙蝠のような天使が剽軽です。
『秀吉の接待』によりますと、将軍義輝の『三好邸御成記』所載の豪奢な献立に鯨が出て
くるようですが(286頁)、珍味だったのでしょうね。
毎日歴史のこと考えてるの?
と、最近親しくさせていただいているOさん(ありがとうございます!)にたずねられて、そういわれればそうかなあ、と思っています。
仕事に行くのに、駅まで歩いて、と、駅から歩いて、が長いので、そのときなんか、やっぱり歴史のことなどぼんやり考えてるみたいです。
最近つらつら思っているのが、義経なんぞに代表される「実は生きていた伝説」のこと。
たくさんあるような気がしたのですが、数え上げてみると、そうでもない?
大友皇子、源為朝、源義経、源範頼、安徳天皇、以仁王、護良親王、明智光秀、豊臣秀頼、西郷隆盛、ぐっとマイナーになって、頼朝さんの息子の千鶴丸くん。
三浦光村や平知盛(←いやこの人は壇ノ浦で死んでいてくれないと返って悲しいです)にもあるようですね。
この伝説ばっかり集めた本があったら面白いのにと思うのですが、さて、どうやって探したものか。
ほかに面白い「実は生きていた伝説」のある人物をご存知でしたら、教えてくださいませ。
で、この「実は生きていた伝説」というのは、日本人が特別好きなものなのか、それとも国や民族が違ってもやはりあるものなのかしら、と考えたりもします。
カタカナ名前が苦手なので、世界史は疎いのですが、あてはまるのはアナスタシアくらいしか思い浮かびません。
ヒトラーにもあったかな?中途半端に。
あとは青森のイエス・キリストですか??これはでも日本人の作った日本の伝説ですよね〜。
この逆で、「実は死んでいた伝説」となるとまたレアになりますね。
晩年は影武者だった!的な話のある徳川家康くらいでしょうか(笑)?!
(皆さんの高尚な話をさえぎって申し訳ありません。箸休めみたいなものだと思っていただければ…)
ごぶさたです
最近こういうタイトルしか書いていないような気がします(苦笑)。
>はぎつきさん
とっさに思いついたのが、ロシアの女帝エカテリーナの夫・ピョートル三世。
妻によって退位させられ獄死したのですが、のちにプガチョーフの乱が起きた時、
首謀者のプガチョーフはピョートル三世を称したときいています。
それと・・・忘れてはいけないのが、平将門!
(好きなのです)。
今林のLotus Hall
>筆綾丸さん
それでは続きをば。
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The former sovereign seldom made use of ladies-in-waiting after becoming a monk: male attendants, whichever ones happened to be on duty, brought his meals and saw to all his other needs. He never failed to observe the rule of abstinence. The late imperial lady had performed a splendid service by inspiring him to lead such a life. He never neglected to hold daily services in her memory at the Imabayashi Mansion in Saga. (The mansion was the place where the Kitayama Honorary Empress had lived.) He used to strands of her hair to sew Sanskrit letteres; also, for dedication at the Sesshu-in, he copied passages from the Lotus Sutra??onto the backs of sheets of paper containing her handwriting, performing a triple obeisance after inscribing each character. Archbishop Kakushu acted as his spiritual guide. In further demonstration of his deep affection, he built a Lotus Hall in the Imabayashi grounds to house her remains, and went there faithfully on the 24th day of each month.
御髪(ぐし)おろして後は、大方(おほかた)女房は仕うまつらず、男、番(ばん)にをりて御台なども参らせ、よろづに仕うまつる。いつも御持斎(ぢさい)にておはします。いとありがたき善知識にてぞ、故女院はおはしける。嵯峨の今林殿(いまばやしどの)にて御法事ども日々に怠らずせさせ給ふ。この今林殿は北山の准后のおはせし跡なり。遊義門院の御髪(ぐし)にて梵字ぬはせ給へり。かの御手のうらに、法華経一字三礼(らい)に書かせ給ひて、摂取院にて供養せらる。覚守僧正御導師。故女院の御骨も、今林に法華堂たてられて、置き奉らせ給へれば、月ごとに廿四日には必ず御幸あり。思(おぼ)し入(い)りたる程、いみじかりき。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-kanjo.htm
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今林陵には私も一度だけ行ったことがありますが、かなり広くて立派なつくりですね。
http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/kyoto/ukyo/021.htm
>NAO4@吟遊詩人さん
瀬田勝哉氏は独特の存在感のある方ですね。
「「伏見古図」の呪縛」はネットで読めます。
http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/Elib/H31-3/007/001.html
>はぎつきさん
>毎日歴史のこと考えてるの?
とーぜんですね。
>むらじさん
こちらではおひさしぶりです。
ま、先週会ってますけど。
はなはだ簡単ですが
>筆綾丸さま
>「秀吉の接待」
こういう当時の人が見聞きした記録を、一般書で出していただけるのは、ありがたいですね。
>はぎつきみたえさま、>むらじさま
>「実は生きていた伝説」
ちょっと参加させてくださいな。
「ルイ17世(ルイ・シャルル)」
マリー・アントワネットとルイ16世の末子で、獄死したとされる少年。
でも、確か残っていた心臓が本人のものと特定されたんですよね。
>毎日歴史のこと考えてるの?
平日の占有率は、仕事→歴史→家族→その他
休日の占有率は、歴史→家族→その他
これでは、家族が離反しそうです・・・・
>鈴木小太郎さま
>「「伏見古図」の呪縛」はネットで読めます。
ご紹介、どうもありがとうございます。
面白いお話ですね。歴史研究者は楽しそうと言うか、すばらしいというか。
古典を英語ですか、面白い
小太郎さんお久しぶり
元、お山登り仲間のもんです。 久々にのぞいたら、古典の英語表現があったので面白いとおもいました。 英語だけでは、日本の。わび、さび、もののあはれはなかなかつたわらないでしょうね。 ネットサービスの翻訳機にかけたらとってもおばかな翻訳しかしてくれませんでした。
でも普通の欧米人が読んでも、私の訳くらいにしか思ってもらえないかもしれないですね。
原文
The former sovereign seldom made use of ladies-in-waiting after becoming a monk: male attendants, whichever ones happened to be on duty, brought his meals and saw to all his other needs. He never failed to observe the rule of abstinence. The late imperial lady had performed a splendid service by inspiring him to lead such a life. He never neglected to hold daily services in her memory at the Imabayashi Mansion in Saga.
翻訳ソフトの翻訳
めったに使用する前に、元の主権を待っている女性たちの後になりつつあるモンク:男性参加者は、いずれにして義務に起こったものは、自分の食事をもたらしたと彼の他のすべてのニーズを見た。彼は絶対に失敗し、禁断のルールを順守する。インペリアルレディが行われ、後半の豪華なサービスを奮起させるような彼の人生をリードしています。彼は日々のサービスを開くことは決しておろそかには彼女の記憶では、佐賀imabayashi邸宅です。 (大邸宅だった場所に住んでいたの皇后kitayama名誉です。 )本使用して、
私の翻訳
以前の統治者は、出家した後はめったに侍女をつかわなかった。男性参加者は、その人がたまたま職務中であっても、彼の食事とその他全ての物を運んだ。彼は決して禁欲のルールを見守ることを怠らなかった。最近の皇女様は、彼をそのような生活に導くことによって豪華なサービスを成し遂げた。彼女の記憶しているとこでは、彼は嵯峨の今林邸宅で日々の務めを守ることを決しておろそかにはしなかった。
(だめだこりゃ)
以下GIVE UP
日本語原文
御髪(ぐし)おろして後は、大方(おほかた)女房は仕うまつらず、男、番(ばん)にをりて御台なども参らせ、よろづに仕うまつる。いつも御持斎(ぢさい)にておはします。いとありがたき善知識にてぞ、故女院はおはしける。嵯峨の今林殿(いまばやしどの)にて御法事ども日々に怠らずせさせ給ふ。この今林殿は北山の准后のおはせし跡なり。
原文はなんと、リズミカルで美しい日本語じゃないですか。
鯨と密教
小太郎さま
上川通夫「中世の即位儀礼と仏教」(『日本中世仏教形成史論』校倉書房、2007、初出1987)で、日本中世の天皇の即位灌頂とヨーロッパの塗油儀礼を比較した部分があります。大きな違いは、日本の場合、皇帝権と教皇権が一致するところだということのようです。
筆綾丸さま。
同じく上川氏の「如意宝珠法の成立」(『日本中世仏教史料論』吉川弘文館、2008、初出2004)では、肥前国神崎荘に打ち寄せられた鯨の腹から出た「珠」が、白河院によって「如意宝珠」とされ、如意宝珠法という密教修法に使用される過程が活写されています。
矢継ぎ早に書を上梓された上川氏ですが、内容の手堅さと密度の濃さは保障できます。
神の怒り
以下は、願の怪の話です。
起願事
水無瀬殿
右有伉儷之女當誕弥之期
産生無恙之術身躰安全籌偏
仰神道之擁護専凝心府之精誠
速表維態之瑞得如闥之休者
寄進一所之菜地須備万代之
神田者也願事之趣大概如件
貞和三年五月廿五日左兵衛督源朝臣直義
(花押)
伉儷の女が正室か側室か、わからぬけれど、神道の御加護により、無事出産できたら、
所領を神田として寄進する、と直義は願文を水無瀬殿に奉納する。なぜ、水無瀬殿なの
か。北条一門を殲滅し、院の辱を雪いだのは、源氏の我等、故に、御加護を請い願う、
ということか。後鳥羽が北条氏追討の官宣旨を下したのは、百数十年前の承久三年五月
十五日で、このとき、直義の祖の義氏は鎌倉軍の中枢を占めていたのだから、これでは
符節が合うまい。直義の心理がわからぬ。後鳥羽にしてみれば、恩着せがましい余計な
ことである。水無瀬殿に祈願したために、かえって、直義は子供に恵まれなかったので
はないか。すみやかに維態の瑞を表し、如闥の休を得ん、てえれば・・・とは巫山戯た
言草である。身勝手もほどほどにせよ。直義の敬虔な Kirie は後鳥羽のおどろの Irae
に蹴飛ばされ、左兵衛督は滅亡の道をひたひたと歩みはじめるのである、たぶん。
小太郎さん
He used to strands of her hair to sew Sanskrit letteres.
髪繍にともなう信仰やら未練やらの複雑な感情がなくなって、ニュートラルな感じがし
ますが、西洋人ならば、IHSの三文字を連想するのかもしれませんね。
kariさま
非常に興味深い論攷のようで、すぐ読みたいのですが、高価な本ですね。
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=32018911
新刊の小島毅『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)は、李王朝の南大門では
なく、金閣炎上から話が始まります。
「・・・(金閣の)焼失が朝鮮戦争勃発の数日後であったのは、偶然なのではあろうが、
あまりにできすぎた話である。なぜなら、初代「朝鮮国王」李成桂と同時期に、足利
義満は「日本国王」だったからだ」(20頁〜)
domingoさん
「彼は絶対に失敗し、禁断のルールを順守する」
密教的な匂いのぷんぷんする、ある種の名訳ですね、サド侯爵しか理解できないような。
死んでいたり生きていたり
>むらじさま
>平将門!
ありましたね平将門。
でもこの方の場合、死んでからのほうがグレードアップしているような気がするんですけど。「実は生きていた伝説」より「実は死んでない伝説」ですよ。
雷落として死者を出す菅原道真ばりのレベルアップです。日本はおろか、アメリカ軍もひれ伏すその威力っ(笑)!!
公卿に詳しいむらじ様が「好きなのです」といってしまう平将門の魅力をオンでもオフでもよいので聞かせてくださいませ。
>NAO4@吟遊詩人さま
>ちょっと参加させてくださいな。
いえいえ、ちょっとと言わずいくらでも乗ってきてください。
>ルイ・シャルル
>確か残っていた心臓が本人のものと特定されたんですよね。
DNA鑑定されたと聞いております。科学ってすごいな。
>家族が離反
家族が離散、じゃなくて「離反」というのがなんとも(笑)。
>鈴木小太郎さま
>毎日歴史のこと考えてるの?
>とーぜんですね。
さすがです。
はじめまして
皆様、初めて書き込みさせて頂きます。
Oさんこと、うえんつでございます。ヨロシクです。
はぎつきさま
こちらこそ、仲良くして頂きありがとうございます!
生存伝説!!ありますよ〜
真田幸村九州生存伝説。
大友皇子の妃、千葉へ漂流生存伝説。
それから、やはり何と言っても“アナスタシア”でございますね!
マーク・スタインバーグ/ヴラジーミル・フルスターリョフ編『ロマーノフ王朝滅亡』という本の中に皇帝一家を処刑した兵士の回想が載っています。
「ナガンの銃弾が何かにはねかえされ、跳弾となって部屋中に雨あられと飛び散ったのも不思議なことだった。娘の一人に銃剣でとどめを刺そうとしたが、銃剣はコルセットを貫通できなかった。」
コルセットにダイヤモンドを縫いつけてたんですね。。。凄い!
「彼らの断末魔の苦しみは、自業自得」とも。
アナスタシアが、12歳頃に鏡に映った自分の姿を撮った写真とアンナ・アンダーソンが、1926年3月にルガーノのホテルで撮った鏡に映った自分の姿の写真は、どう見ても同一人物としか思えません。
皇帝一家の趣味が、カメラだったおかげで私たちは、たくさんの写真を見ることができます。
http://www.alexanderpalace.org/palace/mainpage.html
また、ニキータ・ミハルコフ監督の『シベリアの理髪師』
アレクサンドル・ソクーロフ監督の『エルミタージュ幻想』は、帝政ロシアの雰囲気を美しく表現しています。お奨めです♪
話しが、それました。アナスタシアの事を考えるとエンドレスです。
生存してたと思いたい!
むらじさま
『兵範記』貧乏OLには、ちと高うござります。
余りに不遜なので
昨日の書き込み、プロの方には非常に不遜に映るのではないかと思いまして、↓のように訂正させていただきます。
>毎日歴史のこと考えてるの?
平日の占有率は、仕事→?歴史サイトの掲示板のこと→家族→?以外の歴史→その他
休日の占有率は、?歴史サイトの掲示板のこと→家族→?以外の歴史→その他
>はぎつきみたえさま、
>「実は生きていた伝説」
どうもです。この方忘れてはいけません(実は内容知らないのですが)。北条時輔
あとナポレオンもあったような。セントヘレナで死んだのは身代わりとの説。
>うえんつさま
このサイトでは、はじめまして。先日はどうもです。アナスタシアお詳しいのですね。
>筆綾丸さま
>新刊の小島毅『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)
新刊ちゃんと抑えてますね。↑は、アマゾンから数日前からEメールが入っていて、知っておりました。小島毅さんって、朱子学や東アジアとの関係史の著作がある方ですよね。
>domingoさま
はじめまして(ですよね。) ご投稿ありがとうございました。
近々小太郎さまからレスがあると思います。
>kariさま
どうもです。ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝ということですね。
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