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Japanese Medieval History and Literature
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佐理
小太郎さん
東洋の国の不可思議な情況がよくわかる名訳ですね。
とりわけ、ユーダ皇帝という訳が背教者のようで、いいですね。
kariさま
金剛理と金剛性の御説明、興味深く拝見しました。
阿哈馬江さま
密子が esoteric なら正体はわからぬ訳ですから、この場合は、 exoteric な密子ですね。
NAO4@吟遊詩人さま
全然関係ないのですが、金閣寺とほぼ同時期に創建された李王朝のナンデムンが全焼しま
したね。国宝1号とのことですが、これで、1号は永久欠番になりますね。
『宮廷のみやび』で、藤原佐理(944〜998)の三通の書状を、興味深く思いました。
国宝の離洛帖(991年)は、文頭と文末に、佐理の草名がある(文中にも佐理の草名が
あるが、これはさしあたって、考えない)。恩命帖(982年)は、文頭と文末に、佐理の
草名がある。女車帖(982年)は、文末だけに、佐理の草名がある。
10世紀末は、文頭と文末に草名のあるものと文末だけに草名のあるものと、様式上、
過渡期にある、と思われました。
予楽院(近衛家熙)が小野道風(894〜968)の書状を臨書したものは、文頭と文末に
道風の草名があり、佐理以前の道風の時代は、この様式がまだ安定していたのかもしれ
ない。11世紀前半の書状が複数あれば、文末だけに草名を記す様式の定着時期が大凡
わかるはずだ、と思いました。
もしかすると、いわゆる袖判という奴は、文頭の草名の名残りであって、草名をわずかに
ドラッグしただけのことなのかもしれない。
文中の佐理の草名は、「・・・幸甚々々、抑佐理今月十六日、来到長門赤間泊(・・・よ
かった、よかった、さて、ぼくはね、今月の十六日、長門国の赤間泊に着きました)
という形であらわれ、ちょっとお茶目な一人称単数、という感じですね。
『大鏡』では「如泥人」と佐理を評してますが、三通の書状をみるかぎり、佐理の書は
ひどく傾きもの風で、とても能筆とは思えませぬ。ただ、書風は時代に属するから、こ
のような書に美を感ずる時代もあった、とはいえる・・・とはなんと身の程知らずの言
であることか。
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