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Japanese Medieval History and Literature

595筆綾丸:2008/02/08(金) 20:19:45
荼毘紙
小太郎さん
大槻清準『鯨史稿』(恒和出版)という本に、鯨は梵言では摩竭あるいは摩伽羅と云い、
華厳経に出てくる、とありました。
『とはずがたり』が華厳経の梵言を踏まえていたかどうか、わかりませぬが、あまり
類例がなく、とても気になる表現ですね。

中村直勝『日本古文書学 下』に、次のような箇所がありました。
『三代実録』仁和二年(886)十月廿九日のところに、この日逝去した藤原多美子の美
しい物語をのせておる。多美子は清和天皇女御の一人であったが、天皇崩御の後、御生
前に賜った御消息文を改めて新紙に漉き直し、それに『法華経』を謹写して、故帝のた
めに、大斎会を設けて、この経巻を恭敬供養した。これは世上に流伝する「大聖武」と
いう古経切が荼毘紙と言われておるが、その故智を換骨したのであろう。荼毘紙という
のは仏法篤信者が、自分のものすべてを仏に供養せんとする熱意から、火葬にせられて
残った最後の骨灰をも、仏に供養すべく、それを紙漉の資料の中に混入してもらって、
漉き上げた紙であると言う。紙面を指で触ってみると、硬い鉱物性の粉末がある。多分
死者の残した灰であろう。その荼毘紙に経文を書写し供養することによりて、最後の
最後の一物までも、仏陀に供養したと言う至信のしるしにしたものであった。(956頁〜)
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125802.html

後宇多の髪繍が絹本でなく紙本になされたとするならば、それは遊義門院の遺灰を漉き
込んだ荼毘紙だったかもしれず、ヴァジュラのパウダーのような透明な異質物が、ざら
ざらと漉紙にあって、法皇の肌を刺したのである。
これは、百箇日法要が果てた後の、徳治二年霜月の或る日の夕暮れのことで、美しく繊い
初花が、女の灰の如き初花が、はらはらと嵯峨に舞うかのようであったのは、金剛界
曼荼羅の思わせぶりなトロンプ・ルイユ(騙し絵)であったのかもしれない。

 ゆくすゑのふかき契もよしやただ かかる別れの今なくもがな      女院
 しろたへの色より外の色もなし とほき野山の雪のあさあけ       法皇


NAO4@吟遊詩人さま
横井清『東山文化』(平凡社ライブラリー)を読み返すと、次のようなくだりがありま
した。
「嘉吉元年(1441)のころ幕府が統制下においていた京都の酒屋は計327軒であったか
ら、これまた相当な軒数だし、酒屋役として幕府が徴収する税も巨額にのぼったと推察さ
れる。数ある酒屋の中でもとくに名を馳せた柳酒屋の中興などは、文正元年(1466)ご
ろ、毎月将軍に60貫文、一か年で720貫文もの税を納入していたという。大変な力量とい
わねばならない」(57頁)
中興家は、我国金融資本主義中興の祖(?)の如き存在だったのですね。




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