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自覚スレ

153:2018/11/04(日) 03:29:52
>また馬鹿なことを仰いましたね。

いくら呼ばれても、悟っていない方にこれ以上説明する意義を感じません。

この捉え方で結構です。

既に説明しましたが、理解されるためでは無く、
訳の分からない事を話する者がいる印象ずけのために来ただけで、
充分にその目的は果たせました。

私も至る前はこの状況が来ることは、その瞬間まで一切わかりませんでした。

つまり、分からなくても「悟り」には辿りつけます。

「自覚」は知覚対象に対する「認識機能」を駆使する教えと見ております。

私はあなたにとって、馬鹿な事を話する人物で良いです。

あなたにとって将来役に立つかもしれない、情報を置きに来ただけですから。

今の自信のあるあなたをひっくり返すために来たわけではありません。

私は今は言語化がスムースでは無い時期です。

既に述べましたが、私がお勧めする両者が「認識機能」について
うまい説明しているではありませんか。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12486/1424167539/102


>原田雪渓氏
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95-%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AAE6%B8%93/dp/493890201X

>『悟りとは、人の分別心や認識の入らない世界を言います。
>言い換えれば"今"ということです(略)


>井上貫道氏
http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm

>>ところが 「認識」のまだない子どもは、
>>なにも思わずにやっているだけです。そういう世界がある。
>>お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。

>※私の単なる自論ではないと言う裏付けとして、
> 他者様の引用をさせていただいております。

あなたにしてみたら、まともに生活しているのに
「知覚」があって「認識」が無いって、あなた馬鹿なんじゃないんですか、
と言う訳ですね。

それで良いと思います。

このような、悟った者達にとってのあたりまえでも、
それ以前の人にとってはパラドキシカルな不可解以外の何物でもない事を、
これ以上説明する意義を感じません。

原田雪渓氏

>原田:  いや、聞くものと教えとの間に、
>自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。
>直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。
>いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、
>そういう意識がなければね。
>しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、
>〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というような
>ことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、
>それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのは
>あるわけです。それを「今」とこう言っています。
>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、
>ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-567.htm

この方は説明がうまいですね。

失礼します。

154:2018/11/04(日) 03:44:28
箱さん

>知覚はあるのに、認識はない、というのはロボットのようでもありますね。

その通りです。

着眼点が凄くいいですね。

普通の人が持っている機能を手放して、
ロボットのそれに近くなったとする捉え方は、当たりです。

ロボットとの共通点は、
「内面(と捉えられている思考と連動する胸のあたりの感覚)」が
無い点です。

155:2018/11/04(日) 04:09:50
慧空さんの質問は知覚対象追求ベクトルでの質問に終始していて、
それ一本に縛り付けられています。

こちらは、その追求機能の方がありませんから、その質問、
何度も繰り返しますが悟りとベクトルが異なります。

「認識機能」に縛り付けられているあなたは、
このベクトルの違いに気が付けません。

でも、それで良いと思います。

もっと言えば、サマタ瞑想も悟った後には変化します。

こちらには「集中」と言う機能が無い訳ですから。

余談でしたね、では失礼。

156慧空:2018/11/04(日) 07:34:35
また人の引用ですか。
いい加減にしなさい。
雪渓さんや貫道さんの言葉なんてどうでもいい。

人の引用ばかりをごちゃごちゃと書いてないで、
あなたの言葉で、知覚と認識の違いをここで説明してみなさいな。
さあ!

157:2018/11/04(日) 07:42:41
>吟味が足りないから、発する言葉が矛盾だらけになるのです。

あなたにとって矛盾だらけは、私だけでは無いでしょう。

バーナーデッド・ロバーツもニサルガダッタ・マハラジも、
あなたにとっては全て矛盾だらけです。

あなたにわからないものがある事を理解したらどうですか。

はっきり言います、悟ってない事を理解したらどうですか、慧空さん。

あなたは、我々と次元が違います。

これが答えです。

158慧空:2018/11/04(日) 07:48:27
そんなことより、
知覚と認識の違いをどうぞ。

159ジョン:2018/11/04(日) 09:13:42
知覚は「今」、認識は「過去」

武さん、何度も戻ってくるんだから、これで最後とか言わないでくださいな
やりとりを楽しんでる人もいるんだから

160:2018/11/04(日) 11:10:59
慧空さん

>そんなことより、
>知覚と認識の違いをどうぞ。

すみません、知覚が紛らわしい表現だったかもしれません。

感覚と表現を替えれば意味が通じますか。

それでも意味が通じませんか。

161:2018/11/04(日) 11:24:08
>そんなことより、
>知覚と認識の違いをどうぞ。

この違いは次のページに説明されています。

第12講 「感覚」「知覚」「認識」 – Study Support
http://hi-5kaku.net/moriyama/2013/08/18/%E7%AC%AC11%E8%AC%9B%E3%80%80%E3%80%8C%E6%84%9F%E8%A6%9A%E3%80%8D%E3%80%8C%E7%9F%A5%E8%A6%9A%E3%80%8D%E3%80%8C%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%80%8D/

162:2018/11/04(日) 11:30:10
この定義によると、私の表現は知覚ではなく感覚でした。

失礼しました。

163:2018/11/04(日) 11:54:33
この定義づけで行くと、慧空さんは知覚を認識の表現で使い回していられる
ように思われます。

https://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/0de0cfda777eb487df6014efa7979fde

定義をはっきりさせておかなければなりませんでした。

164:2018/11/04(日) 12:18:10
この定義に基づいて、慧空さんは感覚を知覚している者は誰ですかが
問いたい内容だと思います。

この定義にしても、答えは「知覚できません(不可知)」という事になります。

165中田:2018/11/04(日) 12:27:16
武さんにお尋ねします。

内面(とされるもの)の不眠不休の観察によって、内面が消滅する。
といった理解でよろしいでしょうか?

見ることを尽くして「見る」が消えて「見える」だけになる。

最初で最後の努力によって、やがて努力不要(より正確には努力ができなくなる)という在り方になる。

このように理解しておりますが、如何でしょうか?

166:2018/11/04(日) 12:46:12
答えが全てあの定義づけのページにかかれているように思います。

つまり、感覚に意志が作用しなければ、ただの(ありのままの)感覚です。

意志が作用して、初めて知覚行為になります。

そして、知覚行為が無い事がイコール無我(我の不可知)です。

私も普段使いなれない定義づけですが、
あのページのおかげで説明が容易です。

167:2018/11/04(日) 13:14:39
原田雪渓氏

>原田:  いや、聞くものと教えとの間に、
>自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。
>直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。
>いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、
>そういう意識がなければね。
>しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、
>〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というような
>ことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、
>それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのは
>あるわけです。それを「今」とこう言っています。
>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、
>ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-567.htm

この方も、知覚を認識と表現していられますが、
科学的にプロセスを示す場合は感覚、知覚、
認識と定義づけした方が良いのでしょう。

原田雪渓氏も私と同じ事を述べていられます。

>原田:  いや、聞くものと教えとの間に、
>自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。
>直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。
>いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、
>そういう意識がなければね。

この方の表現をある特徴に気をつけながら良く見て下さい。

「耳に入る」「見える」と「聞く」「見る」

「意志の関与」の有無が、悟りの特徴であるとお話していられるのです。

私が今まで述べてきた事をそのまま語っておられます。

今私は、言語化がスムースにいかない時期です。

168名無しさん:2018/11/04(日) 17:48:12
宝鏡三昧にある「木人まさに歌い、石女たって舞う」でしょうかね

169慧空:2018/11/04(日) 19:03:24
tkさん

どうしてそうやって、誰かの言葉に頼るのか。
いまは雪渓さんの言っていることなどどうでもいいのです。
(必要とあれば、雪渓のことはまた今度吟味させてもらいます)

問題なのは、tkさん、あなたの発言です。
知覚はあると仰るのに、認識はないと仰る、この発言です。

知覚を「感覚」という表現に変えると言われてますが、
私が散々指摘してその違和感にやっと気づくという、
その理解の曖昧さが問題なのです。
余りにも吟味が足りない。
どうしてそのような不正確な言葉が出てきてしまうのか。
それは、他人の言葉を鵜呑みにいして自分でしっかりと理解できていないからです。
まあ、この点も既に散々申し上げてますから、いまさらいいでしょう。

本当の問題は、ここからです。

「知覚」を「感覚」に置き換える、ここです。
心理学者や脳科学者、そして、その辺の一般的な覚者ならそれで納得するでしょう。
しかし、そう置き換えたところで、やはりまだ中途半端なのです。

上の言葉の置き換えをすると、tkさんは、
「感覚」はあるが、「認識」はない、ということを仰っている訳です。

しかし本当に、音等に対する「感覚」はあるが、その音等に関する「認識」が無いような状態というものが
あり得るでしょうか。
本当に、「感覚」と「認識」はそのように切り離せるものなのでしょうか。
よくよく吟味してみて頂きたいと思います。

私が言っている「認識」とは、一貫して究極的かつ本質的な意味でそう言っています。
私が「認識」や「意識」、あるいは「識」と言うときは、常にそのような意味で用いています。

五感に意を含めた六根という言葉があります(仏教用語は使いたくないのですが、しょうがないでしょう、笑)。
まずは五感について、
例えば聴覚が起こるとき、音に関する感覚が起こるとき、その感覚がどのように起こっているのかについて
徹底的に追求、吟味してもらいたいのです。

徹底的に追求、吟味すると、
五感の各感覚が起こるとき、否応なくその感覚は、その感覚の「認識」そのものとしてして起こってきていることが分かります。
意についても、どうようです。意が起こるとき、否応なくその意はそのその意の「認識」として起こってきていることが分かります。

こうして突き詰めていくと、
この世界は、六根の動きの連鎖として捉えることができることが分かってきます。
そして、その六根の各連鎖がすべてその「認識」そのものととして起こってきていることが分かってきます。
また、「認識」が無ければ六根からの起こりも無い、あるいは無いも同然とということが分かってきます。
つまり、「認識」が無い状態とは、何も起こらないし、何も無い状態となってしまうのです。

これは、自分で追求してみるしかありません。

170:2018/11/04(日) 20:19:58
中田さん

>武さんにお尋ねします。

今は言語化があまりスムースではありませんが
その点はお許しいただいて。

>内面(とされるもの)の不眠不休の観察によって、内面が消滅する。
>といった理解でよろしいでしょうか?

慧解脱前の普通の方の思考と内面は通常セットで
思いを構成しています。

思考にも言葉にも行為にも内面の動きが付随します。

意識のある限り内面の動きを殺してしまうのが、
ヴィパッサナの本質です。

これは、この物質世界環境でしか可能では無い訓練方法です。

そのためには思考、言葉、行為に制限をかけることで、
それに付随する内面の動きを殺してしまう方法となります。

しかし、何も思わない様にしようと思って殺せるほど、
思いは簡単に死んでくれません。

そこでとられるのが、ある一定の方向に意図的に思いを
起動させる事を利用して、思いを殺す方法が
釈迦やイエスの教えの本質です。

ある一定の方向性に意図的に思いを起動させるのです。

よって達成した時には、意図的に思いを起動させるための意志が
欠落するので、これが出来なくなることで、
終了成就を確認することになります。

意志の空振り感覚とでも言うのでしょうか、
とにかく瞬間的にその場だけで消える思考があっても、
それに付随していた内面が無い、
今まで思いとしていたものが解体していて、
意図的に起動させる事が不能である事を知る事となります。

私にとっては狙ってなったものでは無く、予期せぬ出来事でした。

しかし、やめた方が良いですよ。

「自覚」のような逆ベクトルの訓練で、しっかりとエゴを強化して、
まずは幸せな生活を歩んだ方が良いと思います。

マハラジにしても、異なる実践法ではありますが、
3年で悟ったとされていて、命がけの水準のものとなります。

https://ameblo.jp/kenkoudoujou-20100119/entry-11772900363.html
>「師の教えを実現しなければ、死ぬしかないと思った」と言っていた。


私は1年少しで達成しましたが、
命と引き換えの水準になるよう工夫したものでやらなければ
達成できません。


EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
> 『即効性』のある体系とは、すなわち、
> どれだけ速く、その体系が人を
> 『生き地獄に送り込めるか』という一点に尽きる。
>
> 「仏道は、そんな無慈悲なものではない、
> そんなのは嘘だ」とまだ言い張るのならば、
>
> 一体、今までに何度、
> 地獄こそが、探求者たちを救って来たかを、
> じっくりと見てみることである。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html


アーチャン・チャー 手放す生き方より
>悲しいかな、真に仏道修行を志す人は、ほとんどいません。
>私は多くの人に修行をするように熱心に説いてきましたが、
>中には論理的な方法でしか学ばない人もいます。
>死を辞さず、そして再び自由となってよみがえるような人は稀です。
>私は残りの人たちを気の毒に思います。



>最初で最後の努力によって、
>やがて努力不要(より正確には努力ができなくなる)という
>在り方になる。

ただ(唯)やっているだけの唯作心と呼ばれていますが、
努力はありませんし、行為が在っても、行為ですらもありません。

さて、これでそろそろ失礼したいと思います。

171:2018/11/04(日) 20:23:04
慧空さん。

原田雪渓氏の引用をされると、
あなたは説明が付けられないのでまずいのだと思いますよ。

何度も申しあげましたが、私はあなたに信じてもらう必要はありません。

あなたのお気に入りの表現方法を使う必要もありません。

感覚を知覚と表現したところで、
そのような定義づけも存在しているので
どの定義を使うか私の自由です。

あなたの定義ではないからと言って、
間違い呼ばわりさせるものではありません。

感覚 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E8%A6%9A
>1.生理学としては、分類された知覚にあたる。

あなたの真実は次の一言で、
全て丸裸にあなたの水準が見抜けてしまうのです。

>これは、自分で追求してみるしかありません。

あなたの最後のこの一言だけ見れば、
悟っていない人だと分かります。

あなたは、最初から最後まで私に知覚対象追求ベクトルと
表現されてきました。

分からないのですよね、悟っていないあなたにはその事の意味が。

追及や認識を捨て続けるベクトルで辿りつけるものが他にあることを。

あなたの嫌いな引用をしますが、EO氏も同じ事をお話してますよ。
(私の単なる自論では無いと言う意味です)


EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ところが、「なろう」「見付けよう」「在ろう」、このいずれもが、
>その行為に着手したその瞬間に、悟りの性質とは相入れないものなのだ。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html


今のあなたにお話ししても無駄のようです。

今度、私の引用した部分の原田雪渓氏の解説とか、
バーナーデッド・ロバーツの解説でもしてみて下さい。

その次元にいないあなたには、まともに解説出来ないはずです。

信じている方向のある、今のあなたに説明しても無駄ですね。

なのでこれで本当にこの件に関しては、終わりにしたいと考えます。

172慧空:2018/11/04(日) 20:48:22
tkさん

では、早速、雪渓の言っていることを見てみましょうか。

>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、

この方の悟りの到達度が、この言葉に表れています。
おそらく小悟か、それ以下の階層です。
思考が減り、観照意識が立ち上がると、「今」というような表現をしたくなる
意識状態となります。
思考が減り、自我感覚も薄くなっているため、超越した感覚が生じます。
しかし、思考が無くなってはいません(本人が気づけないだけです)。
多くの覚者は、自らの思考に気づけず、そこで留まります。
もちろん悟りもまだ途中であり、複数の囚われがあります。
この悟り特有の囚われや特徴は、自分の悟りや意識状態について、「今」とか、「気づき」等の特定の言葉を使って表して
しまうところにあります。

173慧空:2018/11/04(日) 20:59:15
続きです。

バーナーデット・ロバーツは、彼女の代表的な本を読んだことがあるので、
それなりに知っています。
もう大分忘れてしまいましたし、その本はいま手元にないので、
ハッキリとしたことは言えないのですが、彼女の悟りはある程度分かります。

彼女が表現している沈黙という言葉から、思考が相当減っていることがうかがえます。
しかし、思考が完全に無くなることはありませんので、減っただけで無くなってはいません。
また、記載や表現の仕方は忘れましたが、「見るものは見られるもの」を体験している可能性があると
思います。
もし「見るものは見られるもの」を体験しているのなら、それなりの悟り階層に到達していることになります。
その場合、思考も相当減っているはずです。
観照意識はほぼ常に立ち上がっているかもしれません。

そういう彼女もまだ悟りの途中です。
彼女には、悟りの進展を阻む強い囚われ(執着と言ってもいいです)があるのです。
それは何か。
それは、神なのです。
彼女はまだ神を信じ、それを手放せないのです。
それと、彼女には、存在が消滅するとこへの激しい恐れがあります。
つまり、彼女は存在を続けたいのです。
存在することへの強い執着があるのです。
そのあたりが、彼女の悟りの進展を阻んでいるように思われます。

174中田:2018/11/04(日) 22:14:50
>>170
武さん

命懸け……となりましょうね。
ウム……。
終了成就の確認等々も含め
大変参考になりました。
ご丁寧にありがとうございました。

175:2018/11/04(日) 22:25:11
慧空さん

全く外れています。

原田雪渓氏の話しする「今」があなたには分かりません。

そう、私にも分かりません。

ご本人にも分かりません。

しかし、この意味が知覚対象追求ベクトルしかないあなたには
分かりません。

それと、あなたの使い回す思考と、この方々の語る思考は、
同じ思考と言う表現でも既に違うものです。

全く的外れの答えです。

バーナーデッド・ロバーツの私の引用した部分の解説はいかがですか。

やめましょう。

>彼女はまだ神を信じ、それを手放せないのです。

バーナーデッド・ロバーツは神など信じていませんよ。

信じたいようなそぶりはしているかもしれませんが、
「信じる」と言う行為、これがどういうものかあなたには
分かっていません。

このあなたのコメントを見ただけで、
あなたは悟っていない人丸裸ですね。

あなたにしてみれば訳の分からない、勘違い人種の我々ですが、
我々にしてみれば、あなたは悟りを得ていない異次元の方です。

その異次元の方に、我々の事をこれ以上お話しする必要はありません。

しょせん、あなた自らの分かる範囲でむりやりこじつけて
自らを納得させるだけです。

そもそも、あなたの信じている「自覚」の教えと、
あなたの知覚対象追求ベクトルは同一方向のものです。

ですので、私はこれ以上信じているものがある方を
理解させようなどと思ってません。

176:2018/11/04(日) 22:45:04
慧空さんは自信家ですね。

あなたから見たら我々は勘違い人種ですが、それでかまいません。

むしろその方が良いと思います。

今あなたの信じている教えが、順調に言っている事の証しですから。

「自覚」の教えは、欲を言えばもう一工夫欲しいですが、
まずくはないと思います。

頑張って下さい。

私はここで充分にパフォーマンスして勘違い人種としてでも良いので、
印象に残る事で目的は果たせました。

ご健闘をお祈りします。

177:2018/11/05(月) 03:41:40
ヒントだけ置いていきます。

知覚対象追求ベクトルとは、常に状態として捉えようとしているのです。

しかし、悟りのベクトルは、これをしたら永遠に辿りつけません。

釈迦が悟れなくて七転八倒したトラップがこれだったのですから。

EO氏も口すっぱくこの点について、忠告しています。


EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。しかし『悟りは、絶対に知り得ない』、
>というその結論は、それを全身全霊で知ろうとした、
>彼らの苦しい地獄のような葛藤こそが割り出した結論なのである。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html


ちなみに原田雪渓氏はEO氏お墨付きの覚者です。

EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>私が日本で唯一ただ一人、敬意を払っていた老師がいる。彼の名は原田雪渓(福井県の
>発心寺の住職)。ただし私と老師の間には、直接の面識はない。さて、老師は言う
>『今は認識できない。(今には、時間も距離も、場所もないからであります) 
>認識できるのは、過去と未来のことだけです。』
>
>『坐禅が、明瞭でなくてもよろしいから、
> ただひたすら座布を「坐」で温めて「坐忘」をすることです』
>
>この二言だけで、彼が「どこにいるか」の、そのすべてを語っている。
>私は彼の事を日本のクリシュナムルティーと呼んでいた。
>私が、会ってみることを他人に勧める、ただ一人の日本の導師だ。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html

178慧空:2018/11/05(月) 08:31:38
>>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、

馬鹿な(^o^)
しっかりと何度も何度も、彼らは「今」と主張してるでしょうに。
そこにその認識がないとは言わせません。
その辺の覚者どもは、まったく勘違い野郎ばかりで困ったものだ。(^o^)

179慧空:2018/11/05(月) 10:02:10
いい機会なので、ここに来られる方へのヒントとしてもう少し書いておきます。
tkさんはもういいです。
ワンパターンなので、もうすっかり飽きてきました。(^o^)

悟りには階層があり、順番があります。
どうしても順番にやっていくしかありません。

そして、各階層ごとに特徴があります。
その特徴とは、各階層ごとに意識の表面に現れてきやすい囚われや感覚があり、それによるものなのです。

覚者たちは、その自分が属する階層に応じた囚われや感覚を言葉にして表現します。
最初の階層では、愛や幸福、光、ワンネスなどそういう言葉が出てきやすいです。
中には、神という言葉を発する人もいるでしょう。

この階層は、まだ悟りには到達しておらず、未悟です。
まだまだ囚われも多く、思考も多いです。
しかし、本人は自分の思考に気づかず、自分の自我が消滅したなどと言いだします。

180慧空:2018/11/05(月) 10:11:12
続きです。

さらに囚われが減ると、それに伴って思考も減ってきます。
そうすると、雑念の雲が晴れるようにして、観照意識が表面に出てくるようになります。
その観照意識がしっかりと確立すると、小悟となります。

この階層は、観照意識が立ち上がることにより生じる感覚が特徴です。
この階層にいる覚者たちは、その感覚や状態を「今」とか、「ただ観ている」とか、
「気づき」とか、そのような言葉で表現しようとします。
「真我」という言葉を使う人も多いです。
この階層にいる有名な覚者としては、ラマナ、プンジャン等がいます。
他ににもいるでしょうが、私は悟り業界のことを余り知らないので、分かりません。

181慧空:2018/11/05(月) 10:21:02
小悟は囚われが減ったとは言え、まだまだ多くの囚われが残っています。
彼らには、まだ自分が「これだ」と掴んでいる囚われがあるのです。
そして、その掴んでいるものが言葉になって出てきます。
「これだ」と言って主張となる訳です。

上に挙げた、「今」、「だた観ている」、「気づき」等の言葉が、まさに彼らの囚われなのです。
彼らの囚われは、それだけではありません。
彼らには「こうあるべき」等の種々の囚われがまだまだあり、彼らの言動が注意深く観ていると、
囚われに関連した言葉や概念が必ず出てきます。
「こうだ」という強い口調とともに。

彼らには、まだ自分が握りしめている囚われに関連した、何らかの具体的な概念の主張があるのです。
その主張は、彼ら自身も気づかないし、ましてや普通の人は気づきません。

182慧空:2018/11/05(月) 10:38:16
どうして自らの囚われや主張に気づけないのか。

それは、彼らが余りにも当たり前のこととしてしまっているため、
それが盲点となり、気づけないのです。
囚われとは、そういうものなのです。
盲点となるのです。

別の言い方をすると、彼らは「今だ」などと認識し、主張しているその主張に対する吟味が足りないのです。
本当にそうなのかという吟味が足りないのです。

自らの主張に気づき、それに対して徹底的に検証し、吟味していくと、
一切のことがらに根拠がなく、また何も知り得ないという分かってきます。
また、一切のこと、この世界そのものである私という存在が意識(識と言ってもいいです)の連鎖的な展開である
ことが分かってきます。
これが大悟となります。

大悟まで来ると、私という存在を含めて一切に「これだ」ということが何も無いことが分かっていますから、
何か具体的な概念を主張することも無くなります。
軽はずみ「今」などと言うことも無くなります。

上で紹介した「観るものは観られるもの」は、小悟階層から大悟階層に到達する途中で体験するものなのです。
囚われがさらに減り、それに伴って思考が相当減ってくると、より深い観照意識が表面化するとともに、
「観ている」という視点の欠落(正確には、欠落感)や、自我感覚の欠落(正確には欠落感)が生じ、
主体が落ちて観ている対象だけになる意識状態が生じます。
それを「観るものは観られるもの」と言います。

183慧空:2018/11/05(月) 10:47:50
「観るものは観られるもの」を体験するところまで来ると、
自我感覚の喪失感が激しく、またその体験の日常感覚とのギャップの激しさもあり、
殆どの人は、自分の自我は消滅したと思ってしまうのだろうと思います。

ましてや、その先の大悟に至ると、自我感覚はさらに希薄になりますから、
自分の自我は完全に滅したと思ってしまうものだと思います。

それでも自我は残っています。
希薄になりながらも、残っているのです。

最後の悟りである解脱へ至るには、希薄になった私という自我をもう一度捉え直し、
「苦」に直面する必要があります。

そろそろ仕事に行く時間なので、取りあえず、このあたりで止めておきます。

184:2018/11/05(月) 14:54:37
慧空さん

ところで疑問なのですが、覚者といわれる方々がそのように考えを掴んでしまうのは何故なのでしょうか?

自分が考えを掴んでいるという違和感は、どう足掻いても消せないように思うので不思議に感じます。

185七条:2018/11/05(月) 18:08:14
彗空さん、武さん、また皆様にお伺いします。
生きることはズバリ、あなた方にとって
苦ですか?楽ですか?

186慧空:2018/11/05(月) 22:01:31
箱さん

自分が何かの考えを掴んでしまっていることは、普通の人同様、
覚者であっても、なかなか気づけないものなのですよ。
掴んでいる考えは、思考や感情が起こるときの前提部分として
言わば表層意識の水面下に隠れてしまっているのです。

187慧空:2018/11/05(月) 22:03:43
七条さん

お答えすることは簡単ですが、
人からそんなことを聞いても、どうなるものでもないですよ。
大切なのは、人がどうかより、自分がどうなのかというところです。

188七条:2018/11/05(月) 23:39:42
彗空さん

そう言われると身も蓋もないです( ´∀`)

189:2018/11/06(火) 02:55:40
七条さん

私の名を呼んでくださる方を無視するわけにいきませんので、
出てまいりました。

>彗空さん、武さん、また皆様にお伺いします。
>生きることはズバリ、あなた方にとって
>苦ですか?楽ですか?

私は答えさせていただきますが、何も感じない事を楽とするなら、
苦と言うものも、そう言う種類の感覚でしかありません。

ただし苦と言う感覚は、生きている甲斐の要素があります。

私自身は感覚ではありませんので、苦ではありませんし、
そもそも生きてもおりません。

このパラドキシカルが悟りの特徴です。

慧空さんの悟りの説明には、
これを初めとする悟りの要素が一切現れていませんが、
それは、ご本人が悟りにいないからです。

しっかりと屁理屈を掴んでいられます。

そして私が覚者としている方々は、実は何も掴んでおりません。

悟っていない人の眼に何か掴んでいるように、見えるだけです。

分かろうとしないエゴイズムの方に何度言っても仕方ありませんが、
唯作心と言う特殊な意識で話しが出て来ているだけです。

これは悟った者にしかわからない事実です。

もうお呼びはかからないでしょうから失礼しますね。

190七条:2018/11/06(火) 04:31:54
>>189
武さん

> ただし苦と言う感覚は、生きている甲斐の要素があります。

なるほど。わかります。

> 私自身は感覚ではありませんので、苦ではありませんし、
> そもそも生きてもおりません。

盤珪禅師の説く不生の仏心を想起しました。

191慧空:2018/11/06(火) 08:52:52
こら、タケちゃん!!(^o^)
七条さんへの回答するのに、どうして私の悪口を書いてるの。
私に何か言いたいのなら、真っ直ぐに来なさいよ。
そういう屈折したところに、タケちゃんの囚われが潜でるんだよ。

192:2018/11/06(火) 19:37:36
慧空さん

返信ありがとうございます。

193:2018/11/07(水) 03:59:15
>私に何か言いたいのなら、真っ直ぐに来なさいよ。
>そういう屈折したところに、タケちゃんの囚われが潜でるんだよ。

折角出てきたので、そのついでに真実を述べさせていただきました。

折角のお声かけですので、
それではEO氏お墨付きの原田雪渓氏の慧空さんの解説について
お話し申し上げましょう。

>「気づき(サティ)」と「今」が一緒にされるのは、悟っていない方々の
>特徴の一つです。

この様な方々がおられるのは事実ですが、
原田雪渓氏はこのような方々と異なります。

このような方々の特徴は「今を生きる」とか、
この手の表現を多用されるのが特徴です。

http://chino-sommelier.jp/wp/2016/08/24/nikon/

原田雪渓氏は同じ「今」の表現を使っていても異なります。

原田雪渓氏
>生きてもいないし、死んでもいない。"今"というのはそういう状態です。
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95-%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AA%E6%B8%93/dp/493890201X

実際にこの方は生きているのに、にもかかわらず、
「生きてもいない」とこのようなパラドキシカルな表現が出てくる方は
相当の水準の方です。

慧空さんは「今」と言う言葉さえ使えば皆同じ水準の方だと
思ってしまわれていますが、
「今」と言う表現を使う方々でもこのように2種類おられますから、
慧空さんは前者の、「今を生きる」の表現を使い回す方々の事を
指しています。

確かに、原田雪渓氏の「今」に近いものを慧空さんが経験しているのは
真実ですが、それは慧空さんの考えているものではありません。

ずばり、時解脱涅槃がそれに一番近いものです。

それは、状態では無く、知覚できるものでもありません(不可知)、
この点が共通しており、異なる点は感覚の有無だけです。

知覚対象追求での終点が時解脱涅槃で唯一「状態」では無いものですが、
もう一つの終点の慧解脱も「状態」ではありません。

名称と形態、ナーマルーパ、この二つの異なるベクトルは
古来より存在していました。

(続きます)

194:2018/11/07(水) 04:00:01
(続きです)

そして、慧解脱が悟りと表現されている所以は、
時解脱涅槃に対して不時解脱だからと思います。

ちなみに、自覚のような初心者に効果のあると思われる教えに捕まっている
内は、もう一つの終点の方の「状態」ではないものには辿りつけません。

この二つの終点の共通点は「状態」では無い点です。

自我は状態ですので慧空さん自身が「状態」である事は分かりますが、
我々は「状態」ではありません。

ですので、我々の事を「状態」として捉えようとしても
全て的外れとなります。

状態では無い者は、反対に唯作を利用し、
いかような囚われの状態も表せます。

慧空さんは「状態の者」であり、我々は「状態では無い者」で
異なる次元にいます。

慧空さんの前には私がいたとしても、
私には前が無いので慧空さんもおりません。

異次元に思えますでしょうが、これが我々にとっての当たり前です。

私が慧空さんに屁理屈を掴まえていると表現するのは、
私のここで発している理屈も理屈は全て私にとっては屁理屈です。

私は、唯作心を達成していますが、
唯作心とはバーナーデッド・ロバーツの私が引用した部分にありました
「沈黙の言葉」のことで、
屁理屈を掴まえずに屁理屈を表現できると言う意味です。

ですので、原田雪渓氏の語る屁理屈、慧空さんの語る屁理屈、
他の方の語る屁理屈、私の語る屁理屈、我々はそれを掴まえずに語ります。

慧空さんは、この技が出来ません。

慧解脱を得ていないからです。

しかし、私にしても、
これを実現するためには言葉に並々ならぬ厳重な制限をかけ、
その訓練の結果で言葉から思いをそげ落す、沈黙の言葉を可能としました。

言葉だけでは無く、思考にも、
行動にもこの厳重な制限をかけた訓練をほどこし、
その結果で初めて可能としているものです。

ですので、我々の思考は慧空さんの語る思考とは別物です。

思考から思いと言うものがそげ落された、
単なる必要なその瞬間だけ発生する感覚です。

これは、獲得した者にしかわかりません。

私にしても、これをする事が目的ではありませんでしたが、
結果としてこのような特徴を得る事となりました。

これが名称と形態の二つのベクトルの内の、名称の方の終点です。

釈迦の表現では慧解脱と心解脱ですが、折角古来より、
二つの異なるベクトルがあるのですから、
どちらも終点を経験してみる事には得がたい価値があります。

195慧空:2018/11/07(水) 09:18:11
tkさん

あなたは本当にごちゃごちゃと言葉が多すぎる。
言葉の多さは囚われの多さと関係しています。

それに、
何が「我々」ですか!
人に頼らず、一人で立ちなさいよ。
見苦しい。

人のことはどうでもいい、
あなたの体験をあなたの言葉で話しなさいと言ってるでしょに。

まあ、一人で立てない人に言ってもしょうがいないか。(^o^)

196慧空:2018/11/07(水) 09:26:02
「今」と、「今を生きる」は少し違います。
しかし、「今を生きる」にしたところで、特定の状態や形を表現した概念であることには
変わりはありません。
特定の概念ですから、そこには制限があるのです。
「生きる」ではなく、「今を生きる」とするところに制限あるのです。
「こうだ」という主張があるのです。

「沈黙の言葉」だってそうです。
特定の形や状態を表現していることに変わりはありません。
「言葉」ではなく、わざわざ「沈黙の言葉」と表現することろに、
まだ形があり、制限があり、そこに主張があります。

それに気づきなさい、私は言っています。

197:2018/11/07(水) 22:16:26
慧空さん

私の内容では無く、
]論法にしか主に追及できない人の逃げの姿勢が見えますね。

必至に私から逃げてますね。

私には、よく分かります。

そんなに、ご自身が守りたいですか。

動物の時からの習性ですから致し方ないものなのでしょうが。

逃げか、保身か、人間というものはそういうものなのでしょうね。

あなたをみると、否定的な姿勢でその背後に、
「恐れ」の一文字だけが浮き上がって見えます。

これがあなたの事実です。

守りたいのですよね、ご自身を。

198:2018/11/07(水) 22:23:12
保身が過度に働く人の特徴は、「否定語」が多くなります。

人間の特徴の一つですから、
別に私はその姿勢を慧空さんにやめるようにとは言いません。

私は慧空さんのように過度なエゴイズムのまねは、
私の場合は全て演出ですがする気がしませんね。

199:2018/11/07(水) 22:31:08
慧空さん、あなたの信じている道を歩んでください。

あなたほどのエゴイズムなら、必ず素晴らしい結果が出ると思います。

私がここでした話は、その時のお楽しみです。

では、これで失礼します。

もう、きりが無いので質問もらっても返しませんので、ご容赦ください。

それでは、お達者で。

200つよし:2018/11/07(水) 22:55:16
tkさんに質問してみようと思います。

認識についてですが、
具体的には物を見ても記憶からその物に関する情報が起きないのでしょうか?
ただ色がそこにある、みたいな。
しかしそうだとすると、「色」も認識のひとつかと思いますがどうなのでしょう?
色を色と認識しないのならば、何が目の前にあるのでしょうか?
「目の前」という表現は正しくないのかもしれません。
自我があるからこそ距離が生まれる。
もし自我が完全に無くなったのならば、現象創造の最前線を見ているのかと思います。
しかし認識されるものそのものになってしまった場合、何も無くなってしまうのでは?と未悟の私は思うのです。
それこそ、気絶状態になってしまうのでは?と想像します。

もしくは、思考が空回りするという記述がありましたが、認識が起きたとしても自我の歯車に噛み合わず、空回りしたまますぐに流れてしまうということでしょうか?

201慧空:2018/11/08(木) 08:25:58
tkさん

まあまあ、そう仰らず、気が向いたら書き込みしてくださいな。
tkさんの書き込みを興味深く読んでいる人や、
tkさんに質問したいと思っている人が複数おられるだろうと思います。

tkさんに質問したい方は、私(慧空)に遠慮せず、どうぞ質問してくださいね。
皆さんとtkさんのやり取りには、私は基本的に介入しませんので。


tkさんが私の否定好きを逃げだと仰るので、その返答を書きましょうかね。

仰る通り、私は否定魔なのです。
私は一切のものを否定します。
もちろん、自分自身もです。

どうしてそうなるのかと言いますと、
最終的な悟りに至る過程では、すべてのことがらを否定していくことになるからなのです。
だから、私は何も主張しません。
私には、「これだ」というものが無いのです。
ですから、最終的な悟りについても、「これがそれだ」ということもありません。

202:2018/11/13(火) 23:57:33
つよしさん

少し間合いを置いたので、質問に答えましょうか。

私の論法のクセで、学校の先生のようにテキストを指示しながら
説明をすると言う特徴がありますので、
決して受け売りではありませんのでその辺はご容赦ください。

自らの理解できる範囲の事柄を引用しています。

ちなみに、バーナーデッド・ロバーツは私と同水準の方ですので
とても引用しやすいのですが、しかし、
あの方の場合は、20年かかってますが、
私は1年少しで達成しています。

私の場合は、自己洞察力が鋭敏だったことにより、
かなり強引(エゴイズム)な手法を使った事によります。

観るものは観られるもの、
これもどういった事かがだいたい分かりました。

バーナーデッド・ロバーツも途上で時解脱的に、
それを経験してましたね。

そして、私もそれに近いものを時解脱的に経験しておりました。

>認識についてですが、
>具体的には物を見ても記憶からその物に関する情報が起きないのでしょうか?
>ただ色がそこにある、みたいな。
>しかしそうだとすると、「色」も認識のひとつかと思いますがどうなのでしょう?


>ただ色がそこにある、みたいな。

このような捉え方もありません。

常に視覚と虚無が同居していると表現すると、
これが我々の日常の当たり前です。

日常よくある表現でお話しすれば、
どこにも焦点を合わせずに、
ただぼうぜんとして想念も無しに立ち尽くしている状態、
認識機能の部分に限ってだけこの状態に近いものになっています。

物を対象化してとらえた時には、対象化としての自己も発生します。

これは相対性の関係でそのようになります。

よって対象化した自己を捉えなければ、
物を対象化して捉える事も無くなります。

この両者は相対の関係性にあるものです。

はっきり言えば、
認識面においては茫然としたままにしておくようなものです。

悟りの達成で、意志が機能させられないので、
私達の場合はこうするしか手がありません。

ラマナ・マハルシ
>自己が現われると、すべてが立ち現われ
>自己が静まれば、すべては静まる。
C:\Users\Toshiba User\Desktop\覚悟\「私は誰か?」 〜 ラマナ・マハルシの教えの精髄が説かれている対話集 大空からのメッセージ ∞ ハートがすべて.mht


つまり、何か見ていると言う、意志行為が無いので、
視覚があっても対象としてあると言う捉え方が発生していません。

つまり、視覚とは別に何も見ていないと言う、虚無が常時あります。

この世界の虚無のお蔭で、私の意識は平安の境地です。

さすがに、釈迦当時から彼岸と呼ばれてきただけのことはある
境地です。

ラマナ・マハルシ
>世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき
>心は幸福を体験するのである。
>
>世界が現われると、不幸を味わうのである。。
C:\Users\Toshiba User\Desktop\覚悟\「私は誰か?」 〜 ラマナ・マハルシの教えの精髄が説かれている対話集 大空からのメッセージ ∞ ハートがすべて.mht

ちなみに、ラマナ・マハルシは、
慧解脱のパラドキシカルな虚無の境地のことを
「真我(アートマン)」と表現しています。

ラマナ・マハルシ
>真我の中から心が外に出るとき、
>世界が現われる。
>
>それゆえ
>世界が(実在として)現われているとき
>真我は現われない。
C:\Users\Toshiba User\Desktop\覚悟\「私は誰か?」 〜 ラマナ・マハルシの教えの精髄が説かれている対話集 大空からのメッセージ ∞ ハートがすべて.mht

203:2018/11/14(水) 00:40:15
慧空さん

>仰る通り、私は否定魔なのです。
> 私は一切のものを否定します。
>もちろん、自分自身もです。

懐疑論者のサンジャとは違うのかもしれませんが、
その様な方は他所でも見かけました。

エゴをめちゃくちゃ強める行為です。

色々とやってみる事は良い事ですし、
私はそのような行為も「否定しません」し「肯定もしません」が、
否定や肯定をしていると取られる表現を使うことはあります。

>最終的な悟りに至る過程では、
>すべてのことがらを否定していくことになるからなのです。

時解脱涅槃基準ですね。

ただし、慧解脱(釈迦の表現した悟り)を果たしてない人ならではの
スタンスですね。

>ですから、最終的な悟りについても、「これがそれだ」ということもありません。

これは良いスタンスで同感です。

私が悟りと表現している水準は、ピンキリある中の一つ、
私にとっても一通過点でしか無いと思います。

204:2018/11/14(水) 03:07:36
参考までに釈迦は、自らを否定しますが、
他者を否定しないスタンスを取りました。

私も同様のスタンスで慧解脱を達成しています。

http://www2.synapse.ne.jp/syouhukuji/bukkyou/012.htm

もちろん、どうするもその方の勝手ですが
一応に情報提供だけしておきます。

205:2018/11/14(水) 03:16:13
上のラマナ・マハルシのリンクのアドレス間違ってました。

私の保存した、ローカルアドレスを入れてしまいました。

ラマナ・マハルシの教えから - 1 道 (way)・アドオンスポット
http://way.add-spot.com/wordpress/ramana-lectures-1

206:2018/11/14(水) 03:23:22
次のアドレスでしたね。

「私は誰か?」 〜 ラマナ・マハルシの教えの精
髄が説かれている対話集 大空からのメッセージ ∞ ハートがすべて
https://ameblo.jp/ooinarukuu/entry-11627084400.html

207:2018/11/14(水) 06:41:04
一応情報提供だけはしておきますね。

>参考までに釈迦は、自らを否定しますが、
>他者を否定しないスタンスを取りました。
>
>私も同様のスタンスで慧解脱を達成しています。

釈迦が至るためのプロセスとして否定したのは自己のみです。

他者を否定しなかった点については、
否定の行為を行わなかったのではなく、
他者を否定しようとする自己の思いが
釈迦の否定のターゲットであったため、
他者は肯定の対象だったのです。

実はイエスの教えも、この点に関しまるで同じです。

アーチャン・チャーも言ってますが、
釈迦とイエスの教えは本質同じです。

208慧空:2018/11/14(水) 18:11:36
武さん

そうだ、私も武さんに質問があったのですよ。

時解脱、慧解脱、心解脱という用語を使っておれれますが、
これらの違いを簡単に説明してもらえませんか。
それと、具解脱というのもどこかで見たことがあるのですが、
それも一緒にどういうものか説明してもらえませんか。

209つよし:2018/11/14(水) 23:05:05
>>202
tkさん、またまた詳しいご説明ありがとうございます。
色々となるほどと思うところがありました。

・「意識の焦点」が当たったところに認識が起きる。

・「意識の焦点」を動かしコントロールしていると思っている自我(通常の意味での私)さえも意識の焦点上に起こるものであると理解する。

・その結果、「意識の焦点」は自我の意思でコントロールしているというのは勘違いであり、自我とそれに付随する意思も「意識の焦点」内でただ起こっているものであると理解する。

・自我は正体を見抜かれたことにより「意識の焦点」から認識を連鎖しなくなる。
連鎖してもそれを掴む自我がないため言わば茫然。
「視覚とは別に何も見ていない」という状況になる。

・「意識の焦点」を自我に絞れば、「私があれを見ている」という相対的な状況が生まれる。

バーナデッドロバーツさんの「立体鏡」という表現からも、大体以上のような感覚なのかなと。
今の私の理解ではここが限界ですね。
分析みたいでお気に障ったらすみません。

しかしこの辺り、慧空さんもブログにて説明されていたかと思います。
私のそもそも間違っている可能性もありますが、、、。

210:2018/11/15(木) 03:21:08
慧空さん

阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
>「第四の段は、見をして到る、見到である。
> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
>
> 「第五の段は、身をして現す、身証である。
> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
>
> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>
> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」


この経典の第五の段の「身で体現する者」とは、
サマタ瞑想で解脱の境地に突入し離脱する者で、
身証ともいいますが、慧解脱のような常住の境地では無い点から、
時解脱と表現され心解脱とも表現されています。
この段階の方は不還であるとも言われています。

この第五の段では滅定からの出定後煩悩の影響下にあるので、
さらに煩悩を落すと、次は第六の段の「名を解脱する者」
慧解脱者となり、この段では智慧(観)で煩悩が滅尽するので、
もはや不放逸が説かれる必要は無くなります(無学)。

煩悩と表現していますが、
私の経験値でアストラル体行為と理解してよろしいです。

慧解脱(観の成就)はアストラル体行為の封鎖、滅尽の完成です。

第七の段は止観(第五と第六)の両方の達成者で
俱解脱と表現されています。

https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201205/article_3.html

釈迦の教えでは第五の段がなくても、第六の慧解脱さえ得ていれば、
乾観行者と言い悟った者、阿羅漢であるとされていますので、
重要な点は経験値として滅定を知らなくとも、
煩悩の滅尽の有無が決め手になります。

とは言え、究極の滅定を自らでそこに赴いて、
知っているか否かは大きな点なので、阿羅漢果の中にも、
慧解脱と俱解脱の二種類に分けているのではないかと思います。

211:2018/11/15(木) 07:03:15
つよしさん

>・「意識の焦点」が当たったところに認識が起きる。

原始経典用語で識別作用、EO氏の表現で意識の焦点機能、
私の表現する認識は同じものを別表現で表しています。


>・「意識の焦点」を動かしコントロールしていると思っている自我(通常の意味での私)さえも意識の焦点上に起こるものであると理解する。

大きな決め手は「意志」が関与しているかどうかです。

バーナーデッド・ロバーツ(自己喪失の体験)
>私の今度の旅は、個人としての活力の源泉をなす意志の働きが
>止まったことに始まり、
>この働き無しに生きるのに慣れる過程だったと見ることができます。

>・自我は正体を見抜かれたことにより「意識の焦点」から認識を連鎖しなくなる。
> 連鎖してもそれを掴む自我がないため言わば茫然。
> 「視覚とは別に何も見ていない」という状況になる。


何も見ていないと言うのは、通常の人の場合は、見ると言う行為に、
アストラル体の行為も付随して視覚情報を見ており、
これを一括りにして当たり前の違和感ない見るの感覚としていますが、
悟った我々はアストラル体で行為していません。

アストラル体の行為は滅尽しました。

慧解脱を果たす前には無かった、パラドキシカルな2重感覚の正体は、
この辺りから来ています。

バーナーデッド・ロバーツが達成した後に
「こうして私は下りて来た丘をまたのぽっていったのですが、
実は何ものかが丘を下りて行ったまま、
ついに帰ってこなかったのです。」
「自己喪失の過程での変化がどうして起こるのかわかりませんが、
あの丘では、何か新しいものが現れたか、
古いものが消えたかどちからであることはすぐに分かりました。」


悟りを果たす前まで当たり前のようにしていた、
行為を為す者が居なくなったのですね。

私が悟る前からターゲットとして捉えていたのが、
この行為を為す者でしたので、これが同居していた時には、
これを殺すことが最優先で、身動きが取れませんでした。

その時には、このような悟りと言うパラドキシカルな、
行為を為す者からの解放された自由な状況が来ることは、
夢にも思いませんでしたので、
死ぬまで一生行為に不自由と言う制限をかけて生きていく覚悟でした。

このように悟りとは、狙って得られるものではありません。

212慧空:2018/11/15(木) 17:01:46
tkさん

時解脱等の件、詳しいご回答ありがとうございます。
しかし、私は前々からこの方面の悟り階層の捉え方は、間違っていると考えています。
その理由は、階層の区切り方が細かい割には余りに不明確かつ曖昧であり、意味不明なこと。
悟っていな人が無理矢理階層を考えて作ったものだろうと考えています。
もう一つの理由は、滅尽定の体験を過大に取り上げすぎていることです。
滅尽定の体験は、悟りとは関係ありません。
実際に、私は三十過ぎの頃に既に滅尽定を何度も経験していますが、
当時の私は悟りとはまったく縁がありませんでした。

213慧空:2018/11/15(木) 17:16:49
続きです。

tkさんがまた智慧の足りない書き込みをしておられるので、
コメントしますね。

>>ですから、最終的な悟りについても、「これがそれだ」ということもありません。
>これは良いスタンスで同感です。

何が良いスタンスで同感ですですか!
あなたは、自分の悟りについて「無我」だの、「認識機能が無い」だの、「唯昨」だのと言って、
ああだこうだと散々表現、主張しているじゃないですか!
馬鹿も休み休み言いなさい。

それにです。

>他者を否定しなかった点については、
>否定の行為を行わなかったのではなく、
>他者を否定しようとする自己の思いが
>釈迦の否定のターゲットであったため、
>他者は肯定の対象だったのです。

私の言葉に対して、これは余りにも的外れな理解です。
私が「すべてを否定する」と言っているのは、そんな浅はかなことではありません。
否定するとはもっと根本的な意味です。

否定するのは、思考や感覚、感情を含めた考えのことです。
より具体的には、自分自身を含む人々が確からしいと考えていたり、
当たり前だと思い込んでいたりする感覚や考えを、
あれでも無いこれでも無いと一つ一つすべて否定していくことです。

214:2018/11/15(木) 19:00:36
慧空さん

>何が良いスタンスで同感ですですか!
>あなたは、自分の悟りについて「無我」だの、「認識機能が無い」だの、「唯昨」だのと言って、
>ああだこうだと散々表現、主張しているじゃないですか!
> 馬鹿も休み休み言いなさい

私はあなたのこの姿勢にとても好感が持てます。

何度も言いますが、今、私を信じてもらうつもりは全くありません。

私はあなたが質問をしたから答えただけです。

これだけの姿勢で、私を真っ向から否定できるのですから、
それで行かれる事をお勧めします。

ですので、何度も繰り返しますが私はこれで目的は果たせたので
失礼しようと考えているところなのですが、
あなたももろともに私に質問を発してこられるのでお答えしただけです。

私はあなたから、頓珍漢な事をお話しする人物と言う捉え方で
結構です。

むしろその方が良いと考えています。

私もこれ以上あなたにたいして解説するつもりがありません。

何度も繰り返しましたが、これで失礼しようと考えます。

という事で、頑張って下さい、失礼します。

215:2018/11/15(木) 19:36:40
最後に言い残しました。

今後私にもし質問が来たら、私はお答えしませんので、慧空さん、
是非あなたが私の代わりに答えて差し上げて下さい。

あのような寝ぼけたことを言う人物の事は一切忘れなさい、
の一言でも良いと思います。

あなたが否定しまくる頓珍漢な事を言う私に、そのまま、
あなたが回答を促すこと自身不自然です。

回答権もあなたに委ねましたので、これで今度こそ心置きなく失礼します。

私は慧空さんのような強大なエゴイズムの方の、
お相手をするつもりがありません。

しかし、本当に素晴らしいですね。

決して嫌味ではありませんが、先が楽しみです。

お達者で。

216慧空:2018/11/15(木) 19:42:49
tkさん

まあ、そう仰らずに気が向いたらまたお越し下さいな。(^^)/

皆さんも、遠慮せずにtkさんに質問してくださいね。
おそらくきっと、答えてくれるでしょうから(^^)

217慧空:2018/11/16(金) 09:55:44
ヒマなので、上でtkさんがリンクを貼り付けたラマナの言葉について、
コメントでも書きましょうかね。

以下は、ラマナの言葉です。

>真実、存在するのは真我だけである。
> 世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、
>真我の内に現われるものである。

>これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。

> 「私」という想念が絶対にないところ、
>それが真我である
>それは沈黙と呼ばれる。
> 真我そのものが世界であり、
>真我そのものが「私」であり
>真我そのものが神である。
>すべてはシヴァ、真我である。

これを見て、私は正直がっかりしました。
彼はアドバイタですから、真我に対する囚われがあり、
それを握りしめているのは分かるのですが、
神やシバなんで言葉も入っているからです。
これでは話になりません。
これがアドバイタの現実なのかも知れないなぁと思ったりもしました。

218つよし:2018/11/16(金) 14:08:57
>>211
EOさんのHPでも「意識の焦点」という表現をされていましたね。自覚では「考え」と言ってますが、認識のことですね。

意識の焦点は自分の意思で動かせますが、しかしよく観察した時、「動かそう」という意思もそこに勝手に焦点が当たったから起こったとも言えます。
それを観察すると、行為を為す者は元々無く、ただ意識の焦点だけが現れては消えと生滅しているだけとわかります。
考えの連鎖、クリシュナムルティは「あるのは思考の過程のみ」と言ってたかと思いますが、そのような様子を伝えているのかと思います。
その様子を観察すると身動きが取れなくなり、tkさんの「行為を為すものを殺す」という表現になるのかな?と、私の経験に照らし合わせて推測してみました。
もしかしたら全然違うのかも知れませんが…。

アストラル体については名前は知っていますが詳しいことは知りませんでした。
調べてみると感情に関わるものなんですね。
アストラル体滅尽とは、記憶への参照滅尽、阿頼耶識の滅尽??
興味があるのでもう少し調べてみようと思います。

悟りは自我が求めてなれるものではないと聞きますが、自我が求めなければその道を歩まないわけですし、そのような予定だったのか予定というものがあるのか、私自身この辺はまだよくわかりません。
認識の種子が薫燻されて〜等、阿頼耶識を用いた説明もできますけど、仰るようにパラドキシカルな面なのかもしれませんね。

tkさんと慧空さんのやり取りは今の私には大変参考になりました。
バチバチな状況ですが(汗)レス続けて頂けたらなと思います。
ありがとうございます。

219:2018/11/22(木) 03:31:34
慧空さん

>皆さんも、遠慮せずにtkさんに質問してくださいね。
>おそらくきっと、答えてくれるでしょうから(^^)

ご期待に沿うつもりもありませんが、来てみました。

>これを見て、私は正直がっかりしました。
> 彼はアドバイタですから、真我に対する囚われがあり、
>それを握りしめているのは分かるのですが、
> 神やシバなんで言葉も入っているからです。
>これでは話になりません。
>これがアドバイタの現実なのかも知れないなぁと思ったりもしました。

あなたのこの捉え方はとても良いですね。

否定、上から目線、見下し、攻撃口調、慧空さんは最強ですね。

先を楽しみにしています。

今のあなたに具体的にお話する事はありません。

エゴ増強のプロセスです。

220:2018/11/22(木) 03:43:57
つよしさん

>EOさんのHPでも「意識の焦点」という表現をされていましたね。
>自覚では「考え」と言ってますが、認識のことですね。

つよしさんは自覚をしてますか。

否定とか見下しはやらないのですか。

> 意識の焦点は自分の意思で動かせますが、しかしよく観察した時、
>「動かそう」という意思もそこに勝手に焦点が当たったから起こったとも言えます。

>それを観察すると、行為を為す者は元々無く、
>ただ意識の焦点だけが現れては消えと生滅しているだけとわかります。

意識の焦点では、「見えている」では無く「見ている」なので、
最初から意志が関与しています。

> 考えの連鎖、クリシュナムルティは「あるのは思考の過程のみ」と
>言ってたかと思いますが、そのような様子を伝えているのかと思います。

思考そのものは、そもそも必要な時だけ発生する単なる
感覚でしかありませんから、全く注目に値しないものです。

一般の人の言う思考は、思考+思いで、それを思考と呼んでますから、
我々のゴミの付着していない感覚としてのただの思考とは別物です。

>その様子を観察すると身動きが取れなくなり、
>tkさんの「行為を為すものを殺す」という表現になるのかな?と、
>私の経験に照らし合わせて推測してみました。
>もしかしたら全然違うのかも知れませんが…。

その捉え方であってます。

> 悟りは自我が求めてなれるものではないと聞きますが、
>自我が求めなければその道を歩まないわけですし、
>そのような予定だったのか予定というものがあるのか、
>私自身この辺はまだよくわかりません。

私は悟りは全く目指していませんでした。

自らの内面を道徳的な規範に沿って、道徳的なものに整えようとし、
原始仏典は単にそのテキストとして読みました。

私にとって、原始仏典は道徳書としての価値でした。

しかし、1年少しで予想外の結果が出て終了となりました。

EO氏の悟った時の第一声が「あ」だったわけですが、私もその時は、
「あれ?」でした。

意志が無くなってしまったので、
意志が空振りして想いが起動できないのです。

その頃は余分な知識を一切入れないようにしてましたので、
それが悟りなのか何なのか全く分からず、
とにかく「終わったんだ」という事だけが分かりました。

(続きです)

221:2018/11/22(木) 03:45:13
(続きます)

善も悪も何もへったくれも、全て一切無くなってしまい、
兎にも角にも想いも内面も無いただ居るだけなので、
もはや善行とかそういうものは何も無く、ただシンプルに居るだけです。

その時を境に私は、ただ意味無く生きることになりました。

その後に、自分がやっていたことはヴィパッサナとか観の実践というもので、
これを私は成就したのだと位置づけがはっきりしてきました。

このように原始仏典も誰が信じているとか信じていないとかそういう
ものは一切関係なく、
私に結果が出ていなければ誰にも引用しませんが、
私はそれで結果を出せましたから、私はそれを時に引っ張り出します。

反対に、結果も出せてない人のお話は、単なる受け売りで、
聞く価値はありません。

>tkさんと慧空さんのやり取りは今の私には大変参考になりました。
>バチバチな状況ですが(汗)レス続けて頂けたらなと思います。

議論をするつもりはありません。

私は最初から否定される予定できています。

予想通りに進んだので、出て来た甲斐がありました。

私は今の私のような話をする者や精神世界に一切の価値を認めない
プロセスを持ちますから、
エゴを増強したり現実こそ価値みたいな人は素晴らしいと思います。

私も今度マスターゲート氏の本とか読んでみたいですね。

原始仏典で慧解脱や悟りと呼ばれているものの主だった特徴は、
「意志」が欠落する点です。

もはや自分を顧みる意志操作もできませんので、自己欠落です。

バーナーデッド・ロバーツ(自己喪失の体験)
>内省の機能が止まったとき、
>肉体の活力は無くなるわけではないのですが、
>以前のように自分のものと感ずることができません。

私が表現する無我とは、無我と言う状態があるわけでは無く、
私と言う捉え方の意志の機能が無くなった事によります。

状態を捉える意志の機能が無くなって、
いわばいつも意識は漠然としているだけですから、
「その状態を誰が捉えているのですか?」とかその手の質問を
されても、その手の異次元の方にしか通じない種類の質問は
ただ通り過ぎていくだけで、何の効果も発生しません。

ただ分かる事は、その質問を発している人が私とは異次元にいるので、
その手の質問が当たり前の事のようにその方から発せられている
のだと言う事実です。

自覚と言いますが、私にとっては自覚も他覚も、
どちらも同じでどちらもありません。

そう言う意志行為が、そもそも私にはできません。

いつも意識は漠然としていて、
それを状態として捉える意志機能は私にはありません。

原始仏典上の悟りとは、このようなものです。

222慧空:2018/11/22(木) 13:23:03
tkさん

>ご期待に沿うつもりもありませんが、来てみました。

どうぞ、どうぞ(^^)

223つよし:2018/11/23(金) 00:20:38
>>221
tkさん、
レスありがとうございます。
またまた色々と聞いてみたいのですが、レスを吟味し、自分の中で質問をちゃんと整理してからにしようと思います。


>つよしさんは自覚をしてますか。
>否定とか見下しはやらないのですか。

これはすぐに答えられます。
否定もしますし見下しもします笑
一時期はまったくそのようなこともなく平安だったんですけどね。
否定や見下しの考えが起きても、考えが捉えられると空回りして消えて行ってたんです。
それがtkさんの仰る「空振り」と同じかどうかわかりませんが、戻ってしまったのは世間的なことに欲を出し、継続していた観察をサボってしまったからか?と思っていますが…よくわかりません笑

224:2018/11/23(金) 04:07:38
つよしさん

>否定や見下しの考えが起きても、
>考えが捉えられると空回りして消えて行ってたんです。
>それがtkさんの仰る「空振り」と同じかどうかわかりませんが、

これはマインドフルネスです。

これは自己を知覚対象に負かす方法で、エゴ増強のプロセスなら、
否定や見下しは空回りさせてはなら無いことになります。

意志の空振り現象は通常の方ではまず不可能な特徴で、
この場合であれば消えた後に意図的に何らかの想いを
起動しようとすればできてしまうはずですから、意志の空振り現象は、
この意図的な想いの起動が空振りして出来なくなるものです。

「否定や見下し」は認知行動療法で「自動思考」に分類されるもので、
意志の空振り現象は自動思考では無く「意図的意志行為」に
まつわるものです。

>それがtkさんの仰る「空振り」と同じかどうかわかりませんが、
>戻ってしまったのは世間的なことに欲を出し、
>継続していた観察をサボってしまったからか?
>と思っていますが…よくわかりません笑

マインドフルネスは、
在家環境であまり効果の挙げられない方法の一つだと思います。

私も特殊な環境設定がある場合を除いて、
エゴ増強プロセスの有効性を認めます。

知覚対象に対し、自己を増強することで、
その分だけ世の中を快適に渡っていけるはずです。

私の場合なら「理想の追求」と言う手段で、
このプロセスの話をするところです。

225:2018/11/25(日) 00:48:47
多少の補足説明です。

>いつも意識は漠然としていて、
>それを状態として捉える意志機能は私にはありません。

あえて「漠然」と言う、
誰にも比較的身近に通じそうな泥臭い表現を使いましたが、
EO氏は体裁よく「意識の拡散」と表現しています。

沢庵は不動智神妙録で「千手千眼」と表現しています。

しかし、このような日常を発想できない整った用語では、
特殊感が強く一般に通じません。

EO氏
>実際問題として、光明を得た者の特徴を思い出してみるとよい。
> 彼らには、あきらかに、意識の集中機能の低下が見られる。
>それは、低下というよりも、意識の「拡散」あるいは「拡大」とも言えるだろう。
>だが、共通することは、彼らはどうしても特定のものには集中できないという事だ。
>その意識の焦点は平均的な基準から言えば、「度が過ぎているほど散開している」と言
>ってもよいだろう。
http://www.mumyouan.com/e/eouch2.html

EO 地球が消える時の座禅
>それは、もう、ただの
>呆然自失だ。
>なぜならば、
>呆然そのものこそ
>我々の本当の
>主人公だったのだから。


ちなみにラマナ・マハルシの引用をしたのは次の点です。

ラマナ・マハルシ
>真我の中から心が外に出るとき、
>世界が現われる。
>
>それゆえ
>世界が(実在として)現われているとき
>真我は現われない。
https://ameblo.jp/ooinarukuu/entry-11627084400.html

この方の場合は表現が紛らわしく、
真我(アートマン)と言う状態があるものと勘違いされるような表現を
取ってますが、真我(アートマン)と言う状態はありません。

実際は「意識が全ての把握機能を放棄したこと」を
真我(アートマン)と表しています。

バーナーデッド・ロバーツにしてもしかりです。

聞く人になんらかの状態を連想させてしまいますが、
言いたいことは違います。

バーナーデッド・ロバーツ 自己喪失の体験
>相対的な心で「それ」を対象化できないことが分かるとともに、
>それをいつも見る秘訣が分りました。それは注目しようとしないことです。

この点で七転八倒した釈迦のように、
最初から「非我(アナートマン)」とだけ表現していれば紛らわしくありません。

苦労した方の教えは良いもので、そのお蔭で、
私はトラップにはまること無く通過しました。

実は釈迦のアナートマンはアートマンの事ですが、
常に意識は何かを捉えようとする習性があるため、
意識の把握機能の放棄のことで何らかの状態を連想させないために
アナートマンの表現です。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism52.html

(続きます)

226:2018/11/25(日) 00:49:30
(続きです)

探求者のベクトルとはまるで反対なので、だから探したら、
探究者のベクトル(探求する者と探求される対象の世界観)では
永遠に辿り着けないループにはまると言われています。

状態と意識の把握機能は相対を為す関係ですが、
意識の把握機能の放棄は状態の放棄でもあります。

先の次元へは、ここが入口で、ここから別次元に突入します。

ですので、認識行為を掴んでいていては入れないと、
何度かお話ししてきましたが、
認識する者と認識される対象の世界を離脱するためには
認識機能を精一杯使ってからでないと 時期尚早となります。

つまり、先の次元は状態(認識する者と認識される対象の次元)ではありません。

アートマン - Wikipedia
>初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』
>では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。
>その属性を「…である」と定義することはできないという。
>したがって、「…である」ものではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

この世界の表現というものはどうしても、「状態」を表す感が強くあり、
不可知と言うと、そういう状態があるのかなと思われてしまいますが、
「見るな」「分かるな」「馬鹿になれ」意識が何も掴まなければ、
それが真我とさも何らかの状態のように名前を付けて呼ばれているものである、
と言うのが真実です。

ですので、私のように実際にここまで来ていなければ、
当然ですがこの次元の事は語れません。

この次元の全ての仕組みは「意志」と言う根幹機能が取り外されたことで
引き起こされます。

「見る」と言う行為がすべて消えて「見える」一辺倒になってみたり、
「認識」などの意志行為は見る姿もありません。

漠然、呆然(ぼうぜん)が常時に同居してますが、
慣れたせいで珍しくはありません。

そして、これが善悪識別を超えるための仕組みでもありました。

バーナーデッド・ロバーツ 自己喪失の体験
>徳の遂行が無くなったのです。徳でも悪徳でも、
>それを行う意志そのものがもう無いからです。

前の次元にいる方々はその範囲の世界の中で右往左往するのみで、
その段階から離脱する術を持ちませんが、これが真実です。

釈迦は七転八倒した末であったとしても自らで進めたのですから、
だから凄い覚者です。

私もこの方の残した経典の手掛かりが無ければトラップにはまり、
いまだ狭い次元の世界の中を右往左往していたと思います。

このように私でさえ先達の残した経典なしに独力だけで達成する事が
不可能であったと断言できますので、
いまだ有難がって経典を引用したりしてますが、
中には誰の手助けも不要で自分一人で達成することができると
豪語する酔っ払いもおり、釈迦もEO氏も真っ青です。

それは酔っ払いの話しですので、
先の次元に進むために先にいる方の手掛かりは必ず必要です。

今の私にとって時解脱涅槃は日常の師です。

この価値はとても大きいです。

どんな悟りの境地も、残り物に過ぎません。

おかげで今も変化し続けられます。

阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
> 上からは下は見えても、下からは上は見えない。」

誰しもが他の何倍も価値のあると言われている折角の希少な物質世界に
身を置いてますので、一刻一刻寿命を消費しながら、
悔いの残らぬよう1秒たりとも無駄にしないようにしましょう。

如是語経
>「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、
>と言われるものである。

227:2018/11/29(木) 02:31:55
これからの足掛かりになるためにもここに来て私の感じた所見、
情報を置いていこうと思います。

私の悟りの変容を果たした意識では、
「状態」と言う二元の産物の捉え方が無いので、
全く違和感なくこれが日常の当たり前ですが、しかし、
悟る前の人たちは反対に「状態」以外の物を知りません。

その結果として、
認識する者と認識される対象のような言葉をしきりに投げて来たりが
起こりますが、次元を異にするとはそう言う事だと思います。

私が表現する所の悟りに至っていない人の眼に、
私がどうみてもかなりの覚者と思える方が
低い水準の人に見えてしまう理由も分かりました。

全てこの辺りから来ています。

「状態」の次元、すなわち認識する者と認識される対象の
二元の次元の人たちは、「状態」に縛り付けられていますから、
表現やしぐさ等の「状態」を見ることで、
その方の意識状態が見抜けてしまいます。

例えば、悟りの通過点を超えてない人たちは、
「認識」とか「理解」とかこの手の用語を多発するので一目で分かります。

しかし、悟りの通過点である「状態」を超えた人たちと言うのは、
「状態」を超えているが故に、カルマを発生させる事も無く、
表現などの「状態」を自在に操れます。

ここで、「理解」と言う言葉が出てきましたが、
悟った我々にはパラドキシカル虚無があることにについてお話したと同様に、
実はパラドキシカル「分からない」と言う感覚も常にあります。

まともに誰かと受け答えの対話をしていても、
このパラドキシカルな「分からない」の感覚が同居しています。

カルマとは行為を意味する言葉ですが、分かるとか、理解するとか、
これも立派な意志行為(カルマ)に分類されるものです。

意業と言う言葉がありますが、白黒は別にして、
カルマを発生させているものの一つだと思います。

ですので、こう言ったものは我々悟った者にはありません。

表現は難しいですが、結論(行為)は行為者なく自動的に立ち現れます。

「掴む」と言う行為(カルマ)が全て無くなります。

「見える」は行為ではありませんが、「見る」はまともに行為(カルマ)であり、
視界の中のある一部分を「掴む」と言う行為ですし、
分かるとか理解するという行為(カルマ)も物事を「掴む」と言う
行為(カルマ)の一つです。

慧解脱を果たした者の意識では、意志脱落により、その「掴む」が出来ません。

分かりやすいように漠然、呆然(ぼうぜん)が、
意識は明晰なままで常時同居していると表現しておきます。

反対に、「掴む」行為を超えた地点にいるので、
今度はいかようにも「掴む」行為を「掴む」ことなく自在に操れます。

私も、この慧解脱を達成するにはかなりアブノーマルな修行を
やってきています。

真似をする人が出るといけませんので、一部分しか話せませんが、
うかつに真似はしないで下さい。

例えば慧解脱に至る前は常に紙と筆記具を携行していて、
何か憶えておくことは常に筆記してそれを見るようにして、
頭には何も憶えない訓練をしていました。

(続きます)

228:2018/11/29(木) 02:32:41
(続きです)

一歩間違えば記憶障害者になってしまいかねないものです。

つまり、悟るまでの過程では憶えると言う行為は、
「掴む」と言う行為なので私には一切禁止事項でした。

利口になる訓練なら分かりますが、
これを初めとして他にもバカを極めるとしか言いようのない訓練を
私はしてきました。

時々「ばか」になる恐怖に襲われていました。

掴むか掴まないかに拘るのは良いですが、
この精度の水準まで徹底しなければ意志脱落、すなわち慧解脱は得られません。

悟ろうとする目的やそれ以外の目的というものも、
掴む行為なので禁止事項です。

私は死ぬまで一生これらをやり続けて行く構えでしたが、
初めて1年少しで悟り(意志脱落)が達成となり終了となりました。

我々は表現を含む行為において、囚われの次元の人たちにお話をするので、
自らも囚われの表現を多発した方が通じが良いので、
囚われている人の表現仕草をしながらそれを示します。

「状態」の中にいる人にとって、「状態」が全てなので、
私などもたまに他所でも指摘されますが、
あなたは「私」と言う表現を多発するので我が強そうですねとか、
あなたは囚われていますねとか、
我々から現れている表現「状態」を捕まえて、言われる事があります。

確かにやっている表現だけは囚われの人、その通りですが、しかしこれは、
単なる我々の表現で本質は違います。

屁理屈の次元にいる人には我々も屁理屈を使う事で話しが通じるので
そうしています。

我々も「分かる」や「理解する」と言う言葉も使う事もありますが、
それは言葉が通じやすくなるので使っているだけで、
我々自身はその行為が出来ませんのであくまで便宜上の表現です。

意志の脱落で、行為者なくこのような芸当がカルマを発生させる事も無く
自在にできるので、そのようにしてます。

さらに言えば、悟る前には今ここでとっているような明らかな囚われ行為は、
禁止事項で全てできませんでした。

慧解脱の「状態」を超えた地点に居れば、
「状態」に縛られる事無く自由に「状態」を操れます。

ですので、テーラーワーダのスマナサーラ氏が、
悟った人は悟った人同志でしか見抜けません、
悟る前の人には誰が悟った人かは見抜けませんと話してましたが、
まぐれ当たりを除いてその通りです。

阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
>上からは下は見えても、下からは上は見えない。

私などもこの場で私から表されている行為を取り上げて、
ああだこうだ言われても、それは、
あえて囚われの人に向けた話をするのに囚われ表現が通じるので
そうしているだけですから、これで、
私の判定をされてもまるでデタラメ判定ですし、
慧解脱を果たしていない人(状態に縛られている人)の
悟った人判定と言うのもまぐれ当たりを除いてほとんどが
誤判定であるとお伝えしておきます。

我々悟った者にしてみても、
悟る前の人は「認識」とか「理解」とかこの手の表現を多発するので、
表現で見抜けますが、悟った人に対しては、表現では見抜いていません。

(続きます)

229:2018/11/29(木) 02:33:17
(続きです)

表現以外の違う所で判定しています。

なぜなら、表現だけを取ったら囚われの人そのものですから。

我々の次元に至った者でなければ分からない内容について、
違和感なくその人の言葉として語りおおせているか否かで
判定するしか手がありません。

反対に、意志脱落してない人には、
意志脱落した人の行為無き行為が分からないので、この判定は出来ません。

このあたりは、スマナサーラ氏が話したように、
至った者どうしの間でしか判定できません。

あえて囚われの人に向けた話なので、
自らも自在に囚われの人と同じ表現を使って通じの良さを図っているだけです。

本当に悟った人にだけは、そうだと言うことが分かります。

「状態」から解脱した者、悟りを達成した者の意志脱落による行為、
仏教ではカルマを発生させない「唯作心」、
バーナーデッド・ロバーツはこれを独自に「純粋行」と名付けていました。

バーナーデッド・ロバーツは意志のことを自己の力と表現しています。

バーナーデッド・ロバーツ 自己喪失の体験
>新しい生き方への鍵となるのは純粋行とも呼ぶべきものです。
>それは反省と努力によって意識的に維持される行為ではなく、
>自己の力が無くなったときに自動的に起こるもので、
>たとえ汗を流す労働を伴うとしても、
>自己の活力はまったく関与していないのです。
(中略)
>ここでは、行為者も行為の対象も不可知であって、
>行為そのものだけが知られるので「純粋行」と呼ぶのです。

行為とはカルマの意味ですから、意志脱落で行為者が不可知で居なければ、
どのような行為でもカルマは発生しません。

ここで慧解脱を果たしている者の立場からはっきり言えることは
「行為」はその意味の通りのカルマの発生で、
「行為者」は「意志(自己の力)」の事です。

思考も我々の思いの付随しない純粋思考以外は、みな行為(意業)の一つです。

「分かる」や「理解」もこの行為(カルマ)の一つです。

悟った我々のゴミの付着の無い純粋思考感覚は、他の方の思考とは異質です。

私にとっても決死の覚悟で、
バカを極める手段を通して手に入れられたものです。

見抜く精度が高ければ高いほど、
慧解脱に至るための修行は地獄の様相となります。

楽しい事など何一つ無い状況となりますから、
美味しいものを食べても美味しいと思ってはならないとか、
美味しいと思った瞬間に味覚を「掴んだ」ことになりますし、
綺麗だなと思った瞬間に、視覚を「掴んだ」ことになりますから、
この精度まで「掴まない」修行でなければ慧解脱は起きませんし、
私は人に真似する事は絶対に勧めません。

私のような予めの飛び抜けて鋭敏な自己洞察能力の特殊性が起因した
場合等を除いて、原始仏典など開いただけでは通常は全く悟れません。

結果として独自のTK式ヴィパッサナというものが編み出されましたが、
これは危険極まりなく常識の範囲を超えてますので、
気安く誰にでも公開できません。

通常のヴィパッサナ(マインドフルネス)は、
出家環境とセットで効果を上げる受身的な内容ですので、
あれだけ日常生活に取って来ても危険も無ければ効果も上がらず
悟りなど達成できるものではありません。

230スリン:2018/11/29(木) 05:22:11
横からすいません。
この場を借りて、TKさんにお尋ねしたいのですが、
和井恵さんとは連絡とっていないかとおもうのですが、
和井恵さんのその後について何かご存知ですか?
サイトも更新されなくなってしばらくたってしまって
寂しいです。何かご存知であれば、なんでもいいので、教えてください!

231:2018/11/29(木) 23:10:00
スリンさん

和井恵さん、懐かしい名前ですね。

しかし、私もあの方の消息は分かりません。

和井恵さんとの最初の出会いは、
今は無き印仏掲示板で和井恵さんを見かけて、
私がatomと言うハンドルで声をかけたのが最初でした。

確かガンと言う御病気を持っていられた方だったと思います。

借金で追われていたこともあったようですし。

あの方も最初、自称覚者さんのようでした。

しかし、まだ上があると言うお話をしなければならないと思い、
今は無き印仏掲示板で私が話しかけたのでしたね。

折角のこの希少価値の高い物質世界で修行してきている方に対し、
さらに上がある事をお知らせするのは、
上を達成しているものの役目だと思っています。

ただ、私はこのころ自らの事を「私は途上の者です。」と言う表現を
好んで使ってました。

しかし、方々で書き込みをして、
「途上の者」と表現をする私を超える方に出会えなくて、
さらにこの表現を取る事に文句まで言われたので使わなくなりましたが。

和井恵さんが賢者なのは、
私が先にいる者であることに気が付かれた点でした。

あの方もその後に経験値で本当の悟り(慧解脱)をお話しできる所まで
行かれた方でした。

私もお話しした甲斐がありました。

ダンマパダ115
>最上の真理を見ないで百年生きるよりも、
>最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。


理念と方法論を備えた経済活動を駆使して、理想世界を創造する!!@和井恵流
https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/c1c72e634fbae1412336b0d9878573e3


私も和井恵さんのサイトでは、知識を収集させていただきました。

ここで私がお話しした、
釈迦の説いた非我(アナートマン)は真我(アートマン)のことである
というのは、和井恵さんが先にお話しされていました。

232スリン:2018/11/30(金) 10:32:49
TKさん
ありがとうございます。

233スリン:2018/11/30(金) 18:23:07
TKさん
もうひとつ伺ってもよろしいでしょうか

ここでは、相応しくない話なのかもわからないですが、
お許しください

あと勝手な引用もお許しください

『Re:質問 atom 2007/01/17 02:59
>たしかにエゴでエゴは殺せるのかもしれませんが、エゴを生み出している心は殺せてい
>ません。

どんな初歩的な質問してもして良いですよ。
実は心とは動きであり、エゴの事何なんですね。

だから、信じられないかもしれませんが、解脱した人は心が無いんです。
心が無い、つまり無心が日常の解脱した人の基本です。

君が言っているのは、恐らくサンスカーラといって、潜在意識の下で働いている心の動きの形成力の事ですね。

自分の遭遇する現象に応じて、動き回る心の中で悪玉エゴに属する心の動きとの同化を絶つんです。
つまり、何か理不尽な事が起きて、修行とかしていない人ならそのまま恨んだり憤ったり、否定(悪玉エゴ)してしまうじゃないですか。
そこを常に無意識にならずに、否定(悪玉エゴ)せずに、その相対の反対に位置する肯定(善玉エゴ)で切り抜けるわけです。
これが、相対関係(縁起)を利用した手段になります。

このように、つねにこの心を形成する作用、サンスカーラとの同化を絶って、妄想を駆使してでも善玉エゴで切り抜ける、これが釈迦の説く実践法になります。
このように同化を絶ち絶ちしていると、やがて潜在意識の下で働いている心の形成力は力尽きて無くなりますから、心の動きはなくなります。

私のようなどこの馬の骨かわからない者が言っても、信じられないかもしれませんので、権威ある東西の聖者、釈迦とイエスの説いた内容を次に示します、参考にしてください。

この実践例は次に示す仏弟子プンナと言う人の例になりますね。
今のあなたなら、下の例とは逆に当然なりますよね。
実践者はそこを意識して変える。
起きた否定的な心(悪玉エゴ)をただ止めようと思っても、止められるものじゃない、それで、妄想を駆使して肯定(善玉エゴ)にするんです。



ブッダ
「スナーパランタには未開で野蛮な種族が住んでいる。彼らはよこしまで、獰猛(どうもう)で、乱暴で、残酷だ。また他人をののしり困らせる。もし、ののしられたり困らされたりしたら、君はどう思うか。」

プンナ
「スナーパランタの人びとは善良で、紳士的な人びとだと思います。少なくとも私をなぐったり、泥を投げたりしませんから。」

ブッダ
「しかし、もし君をなぐったり、泥を投げたりしたら、どうか。」

プンナ
「善良で紳士的な人びとだと思います。少なくとも、私を棍棒(こんぼう)や刀で襲ったりしないからです。」

ブッダ
「しかし、もし君を棍棒や刀で襲ったら、どうか。」

プンナ
「それでも善良で、紳士的な人びとだと思います。少なくとも、私の命を奪おうとしないからです。」

ブッダ
「しかし、プンナ、もし殺されたらどう思うか。」

プンナ
「それでも善良で、紳士的な人びとだと思います。というのは、この腐った屍(しかばね)のような肉体から私を解き放してくれるからです。私にしてくれたことに、感謝しなければなりません。」

234スリン:2018/11/30(金) 18:23:57
イエスの教えも教えとは詰まる所ベースが縁起ですから、当然同じ教えがあります。
東西の世界の二大聖者はそろって縁起を説いてますから、これが名だたる聖者の説くエゴを殺す実践法である事の証明です。
なお、縁起とは基本的に瞑想等以外の、日常生活での実践法の事を指します。
私も気巧や、ヨーガ、タパスや瞑想さまざま取り入れましたが、サンスカーラを撃退するには、日常生活の縁起の実践を無視したら、他の実践だけでは成就は無理です。

次のイエスの教えも修行中とかではない人なら否定(悪玉エゴ)する所を、肯定(善玉エゴ)して切り抜ける方法を説いているのです。

ルカの福音書6-27〜28
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。


釈迦もイエスも教えと言うものは、つまる所は縁起以外の何者でも無いですから、他にも、裁くなとか、他者の過失を見るなとか、サンスカーラとの同化を絶つ内容については色々な形で説かれています。


マタイの福音書7―1〜5
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向って、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

ダンマパダ50
他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。』

このサンスカーラと、アストラル行為って同じものとして見てよいですか?

235スリン:2018/11/30(金) 18:25:54
あと、ワクワクの実践のときに、エゴ殺しの実践は同時にできないですよね。
ワクワクの実践が『第一の実践』として、エゴ殺しの実践が『第二の実践』でよろしかったでしょうか?

ー抜粋ー
『本当にエゴ殺しをやるのかどうか、まずその点は不明ですが、味覚を楽しまない事。視覚を楽しまないこと。感覚を楽しまない事。
すなわち、娯楽は生活の中から一切排除です。
1日24時間1年365日、何にも楽しまないで生きていくんです。
あなたに、出来ますか。
断言しておきますがマインドのレベルの楽しみに心引かれたら、エゴ殺しの修行など成就など絶対にしません。
つまり、楽しみは一切放棄です。
こんな修行を続ける人間を私はこの精神世界と言う、まがい者たちの道楽の場で見たことがない。
残念ながら人と語らうことを楽しんで、話したいことを話して、こんな事をしている者たちに成就など転生を何度繰り返しても起きはしないのですよ。楽しそうに彼らが語らっている、そのような者達に、このようなまともな実践法を明かして邪魔しちゃ悪いですね。

1年365日いつも、遊び娯楽を一切放棄して、感覚に対する楽しみを捨て去って、人になずむ事無くいつも一人孤独に身をおいて、マインドにとっては灰色しか無い世界を生きていく。
これが本当の実践内容の一旦ですがね、出来るんですか?
やめた方が良いんじゃないですか。
まだまだこれより先の奥は深いですよ。』

昔TKさんが実践していらっしゃった
周囲の人に対して神のように接する実践(名付けて、いと低き者としての実践)
と、先ほどTKさんが話していらっしゃった『バカになる実践』は頭陀行と同様に『エゴ殺しの実践』に分類されるのですか?

これらのものは(エゴ殺しの実践)、ワクワクの実践で自信やエゴが最高潮に達したときに、どん底に突き落とすためにあるのですか?

それと、『いと低き者としての実践』はサンスカーラとの同化を断つといった効果もありますか?

236:2018/11/30(金) 21:23:23
>このサンスカーラと、アストラル行為って同じものとして見てよいですか?

イコールではありません。

サンスカーラとは自らの中のカルマの繰り返しを行なう作用の事です。

そのカルマはアストラル体に蓄積されているものです。

しかし、アストラル体の行為は、
意志の力でサンスカーラに逆らうことができます。

>あと、ワクワクの実践のときに、
>エゴ殺しの実践は同時にできないですよね。
>ワクワクの実践が『第一の実践』として、
>エゴ殺しの実践が『第二の実践』でよろしかったでしょうか?

まず第一は、自己として対象(現実世界)に取り組む事。

第二が対象(現実世界)に対して自己を殺す方法です。

そうすると次に、
唯作と言うエゴ(意志)の無い特殊な行為が出てきます。

分かりやすく例えるなら、乳歯と永久歯の関係です。

まず、乳歯で一生懸命に物を食べます。

そのうちに乳歯は駄目になって、抜かなければならなくなります。

その後には永久歯が出てきます。

まず、乳歯を精一杯に使いもしないで抜くのは無しです。

乳歯であってもおいしいおやつも食べられれば、
身体を健やかに成長させる力も持っているのですから。

>これらのものは(エゴ殺しの実践)、
>ワクワクの実践で自信やエゴが最高潮に達したときに、
>どん底に突き落とすためにあるのですか?

この世界は対象と自己との関係で成り立っています。

対象に対して自らのエゴが弱いので、対象に負けてしまうのです。

自己に対象を変えるくらいの釣り合うエゴの力があれば、
人生は快適に生きていけます。

まずは「正しい方向性」で対象を変えるくらいのエゴの力を身に付ける
ことで幸せを掴めます。

幸せの一歩はここからです。

私に言わせれば、
このようなエゴを「正しい方向性」で育むための
真っ当なプロセスを飛び越して、
いきなりエゴ殺しと言うのは出来ないと思います。

私なんかも本当にエゴの力を大切に育んで、
幸せな気持ち一杯で生きてましたから。

何らかの障害が起こっても、創意工夫(エゴの力)で乗り切って、
どこまででも行ける、
自分には不可能を可能に替えることができるんだと
絶対的に信じていました。

このようにして、
私は寝る間も惜しんで自らのエゴの力で対象を変えていき
自らの理想を実現していける、とても有意義な生き方をしていました。

それで死ぬまで行ければ、それはそれで幸せな人生でしたが、しかし、
どんなに取り組んでも超えられない巨大な問題(対象)というものが
現れるものなのです。

袋小路にはまって、何かがまだ自分には足りない、
現状を打開するために、この何かを掴むためにどうしたらいいのか。

私もここまでやって、ようやく、次のエゴ殺しの道が開けたわけです。

それまでのエゴを育むプロセスも、私が光の存在と表現するものから、
そのような生き方をするように促されたのがスタートで、
もともとが私の考えで進んだものではありませんでした。

まず、エゴで手に入れられる幸せな世界を満喫して、
それで私は良いと思います。

>それと、
>『いと低き者としての実践』はサンスカーラとの同化を断つといった
>効果もありますか?

その為の方法の一つですが、しかし、
多くの人にこのプロセスは必要の無いものに思います。

特殊な段階にいる人以外は必要ありません。

237:2018/12/01(土) 09:01:22
スリンさん

和井恵さんが賢者なのは、
理想に向けて「意志を使って」精一杯生きようと発想したところです。

充分にこれで幸せ感を味わえます。

そのままで行けたなら、それはそれで幸せな人生だと思います。

これはそれを実際にやってみた者でなければ語る資格はありません。

悟りと言う点に関して言えば、実際は「袋小路」こそがトリガーとなります。

ただし、それにしても、「意志を使って」精一杯生きる過程を経なければ、
この悟りに必要な「袋小路」は現れません。

私を例にしても、
まず「意志を使って」理想に向けて精一杯生きることをしないで、
この世界の苦悩のみが感じられて、第一の「袋小路」が現れました。

そこで出てきた回答が、
正しい方向で「意志を精一杯使って」生きる事でした。

意志とはエゴの事でもありますが、
正しいエゴの使い方で幸せ感を手に入れられます。

そうした結果として、
さらに進むとエゴで掴める幸せの限界を迎え
二度目の「袋小路」にぶつかります。

実質的には、意志を精一杯使って生きて迎えた、
この第二の「袋小路」が悟りのためのトリガーとなります。

釈迦にしてもそうですね。

第一の「袋小路」は出家の動機ともなった四門出遊。

快適な王子の生活では、
意志を使って精一杯生きることもしてないでしょうし、
この世界の苦悩のみが感じられると言う訳です。

釈迦の場合の第二の袋小路は、
「意志を使って」精一杯苦行した結果の「袋小路」でしたから。

釈迦も、これが実質的には悟りのトリガーとなりました。

釈迦の時代は死に際する臨終時に悟った方も沢山いたようです。

臨終時の断末魔の苦悩は、死ぬ以外には逃れることのできない袋小路ですから、
悟りのトリガーとして十分に機能し得ます。

悟りまでは至れない場合でもメンタルは向上できますので、
誰にでも与えられている人生最後のラストチャンスです。

このあたりは私の、ろくでもない前世記憶の経験値で話をしています。

もっとも現代では、
麻薬取締法のモルヒネ使ったりで苦悩の感覚を麻痺させるので、
断末魔効果は半減してしまっていると思います。

もちろん、これは悟る前の人の話しですので、悟った人には関係ありません。

悟りだ何だと言っている人たちは、
もう一度この辺りを振り返ってみていただきたいと思います。

EO氏 地球が消える時の座禅より
>歴史には残っていないであろうが、それでもたくさんの人達が大悟した。
>そして、それはどういう環境だったかというと、悲惨極まりない、
>死がいつもそこにあるような環境だった。
>どういうわけか、自然に悟り、自然に死んでいった無名の仏たちは、
>いつでも、戦乱や飢餓の時代だった。

238スリン:2018/12/01(土) 11:29:56
TKさん

意志を使って精一杯生きる
わかりました。ありがとうございます

239:2018/12/01(土) 20:56:07
聖なる運気に導くミラクルストーンプレミアム

240:2018/12/02(日) 07:48:26
スリンさん

>意志を使って精一杯生きる
>わかりました。ありがとうございます

この場合のポイントです。

生きるための一つの指針が必要です。

イエスの教えなら、「隣人を愛せよ」とかになるのでしょうけれど、
釈迦の場合は「善悪」を使います。

悟ってしまえば最終的に善悪は超越されますが、
それは理屈で考えて善悪は主観の問題で本質的にありませんとか言う
屁理屈の次元の問題では無くて、
善にしろ悪にしろ想いが存在しなければその捉え方は存在できないものです。

意志脱落により想いが起動させられないので、
善悪を含むいかなる理屈もありません、と言うレベルでの超越が悟りです。

その為の方法が、善を為し悪を為さないと言う方法の正体です。

ダンマパダ
>183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、
>──これが諸の仏の教えである。


釈迦の根本を為す教えですが、
龍樹の時代にようやく「相依性縁起」と名づけられました。

私は分かりやすいように「相対性の原理」と表現していました。


無宗ださん 縁起は因果関係ではない!
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha262.html
>縁起を「相依関係」としてとらえれば、
> >悪い行いがなければ、善い行ないもない。悪い行いを滅すれば、
> >善い行いも滅するというのは正しい。そしてこれは、
> >「悪い行いはせずに、善い行いをしましょう」
> >というスローガンと全く矛盾しない。


佐倉哲エッセイ集 第三章 縁起と因果
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
>ナーガールジュナは、「めでたい縁起のことわりを説きたもうブッダを、
>もろもろの説法者のうちでもっともすぐれた人として敬礼する
>(『中論』礼拝の言葉)」、
>とブッダを「縁起の説法者」として賛美しますが、つねによく気をつけ、
>自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
>そうすれば死をのりこえることができるであろう。
>(スッタニパータ 1119)
>というようなブッダの言葉を考えていたのかもしれません。
>ナーガールジュナにしてみれば、
>縁起を「徹底的に拡張解釈した」のではなく、
>あやまった部派仏教の縁起解釈(時間的生起関係)を批判して、
>ブッダの説いた縁起(無我・無自性・空)に帰れ、
>と主張したに過ぎないのでしょう。


悟って初めて分かる、龍樹の言うように、
善悪の相依性縁起は釈迦の最も根幹とする教えですし、
当然ですがこの視点は悟った者の視点であり龍樹は偉大な覚者です。

禅宗でも14祖に上げられています。
http://www.geocities.jp/myoukoji/zen/07B01/index.html

空の思想 6.龍樹(ナーガールジュナ)(3)空と言葉
http://www.obpen.com/essay/20160705_02.html

(続きます)

241:2018/12/02(日) 07:49:06
(続きです)

相依性縁起は釈迦の教えでは無いとした学者先生は、
善悪の教えは単なる道徳論にしか見えなかったと思いますが、
大変な解釈上の過ちを犯していたのです。

過去に教えに対してああだこうだ言える経典学会とも言える結集は
悟った人のみに参加資格がある、ごもっともの実例した。

悟った視点さえあれば、
釈迦当時に時系列の縁起のみがクローズアップされてしまった理由は
すぐに見当がつきます。

相依性縁起は善悪等の人と人との関係性における実践内容であり、
釈迦当時は出家至上、
独居推奨のシチュエーションであったため出番が少なかっただけです。

龍樹の時代では出家至上、独居推奨シチュエーションでは無いので、
縁起の時系列では無いもう一つの側面の相依性縁起の必要性の方が
高くなった事によるはずです。

至る前には道徳のテキストのように見える内容が、
至った後には全て理論で見えます。

想いというものは、
ただ消滅させようと思っても消滅させられるものではありませんが、
ある一定の方向性で想いを起動させていくことで、
最終的に想いは崩壊します。

それが善を為し悪を為さないと言う方法論でした。

善と悪が自らの概念で相互依存により成立しているので、
善を為し悪を為さない、このアンバランスを作り出す事で、
やがて想いを構成している要素が崩壊します。

私は完ぺきな善人を目指しましたが、結果として善だけで存在し得ないので、
全マインドが消滅しました。

徹底してやればわかりますが、善と言う概念行為を為す時には、
その時に概念の根底に必ず悪の概念の存在が認められます。

これが龍樹の時代でようやく、
時系列では無い相依性縁起としてクローズアップされています。

利他(人のため)と自利(自分のため)も、
これと同様の相互依存関係で成立している概念で、
人のための利他の行いも、同様にマインド崩壊の原理で説かれたものです。

私が縁起の表現を使う時には、
悟りを実現するマインド消滅のための釈迦の根本理論を指し、
時系列の縁起ではなく龍樹同様に相依性縁起のことです。

とりあえず、理想実現の基本は、自分なりの「善」を実行するという事です。

この場合は、実際に肉体を利用して、行動に移すという事です。

自分なりにどんな「善」に基づく行動が出来るのか、
それを考えて行動に移してみて下さい。

このように生きる指針や目的を持つだけで、生き方は変わってきますから。

大パリニッバーナ経
>わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

釈迦もそうしたように、まずは善を追求する。

そうすれば、もしも悟りのトリガーの袋小路になった折にも、
悟りを完成するまで一貫してその方向で行けます。

スッタニパータ
>965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。
>──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。
>──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

>969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
>奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。


下の経典の内容は「超越」の表現が出てきてますが、
「悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する」善を行なった釈迦の縁起の結果です。

スッタニパータ
>520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、
>生と死とを超越した人、
>──このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。

>526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、
>清らかな知慧あり、
>黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

>715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
>なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、
>かれは煩悶が存在しない。

242スリン:2018/12/02(日) 20:57:05
TKさん

善悪の相対性の原理の教えありがとうございます

243名無しさん:2018/12/03(月) 03:49:54
スリンさん

>善悪の相対性の原理の教えありがとうございます

すみません。

そこまで説明しなくて良かったのですが、
情報提供ついでにお話をさせていただきました。

理想段階は、自分にはどんな良いことができるだろうか、
善が出来るだろうか、人のために、
仲間のために、
このような方向性で頭で考えて実際に行動に起こすということです。

折角生まれて生きているのですから、自由に精一杯夢を追って、
生き甲斐を感じて、楽しんで生きて下さい。

人と喧嘩してもいいんですよ。

私のようになってしまうと、もう何もありませんから、出来るうちは、
存分に楽しむ。

私はそれ逆立ちしてもできません。

私にとってもその頃は楽しい記憶しかありません。

人はそう言う次元から、私のように卒業しなければならない時期が来ます。

244:2018/12/03(月) 07:01:31
上のはTKです。

245スリン:2018/12/03(月) 16:25:38
TKさん

人のために考え行動を起こす
自由に精一杯夢を追って、生きがいを感じて楽しく生きる


承知しました
ありがとうございます

246:2018/12/04(火) 04:09:43
>人のために考え行動を起こす
>自由に精一杯夢を追って、生きがいを感じて楽しく生きる

意志の行動を妨げる難しい縛りは一切ありません。

とにかく善及び人のために行動する、縛りはこれしかありません。

これだけを外さないようにして、精一杯頭を使って、行動して、
人と取っ組み合いしてもかまいませんから、やってみて下さい。

この世界は、知覚対象と自己の関係ですから、意志さえ強めれば、
快適に生きられます。

そもそもがこれが人間世界の快適な生き方だと思います。

悟りと言うのは人間卒業ですから、それまでに培った意志の強さを、
目一杯使って、
その時の卒業課題がクリアーできれば「意志」が落ちて卒業です。

そもそも、
最初から悟りの課題を達成できるだけの意志の強さがあれば、
世の中快適に生きていけますから、
言い方を変えれば、意志も使わずに苦悩だと、
そのような貧弱な意志の人が
悟りと言う、意志の強弱こそが問われる、卒業課題に挑むなどと、
バカも休み休みの話しです。

意志を強めて快適に生きて行けば、状況が熟してきたころに、
悟りの卒業課題の方からやってきますから、
その時まで人間として精一杯意志を育んで快適に生きて下さい。

最後には過酷な卒業課題が用意されています。

247スリン:2018/12/04(火) 12:42:01
TKさん

善及び人のために行動する。この縛りだけを外さないようにして精一杯頭を使って行動する。
取っ組み合いになってしまってもやってみる

承知しました
ありがとうございます

248:2018/12/05(水) 02:42:59
スリンさん

エゴが無ければ人間の楽しみは得られません。

そして、人間としてのエゴを育むためには
自由は尊重されなければなりません。

ですので、縛りが多く無いのはそのためです。

善、人のため、この最小の指針だけで十分です。

この中で熟してくるのが理想を追求する「意志」です。

理想実現のために、命がけでも貫いていこうとする「意志」です。

そうするだんだんと、人間卒業が近くなってきます。

最終課題では自由を全て奪われる中で、
「意志」のみを貫いていくにふさわしい形が出て来ると思います。

それは、周りの出来事がそろわなければ、
そのようなシチュエーションは出てきませんので、
それまでは有意義な生き方ができます。

幸せになって下さいね。

249:2018/12/05(水) 03:30:03
マスターゲート氏の「人生と悟り」と言う書籍を読み始めています。

この方の書籍は初めて読みます。

とりあえず50ページ読みましたが、当たり前かもしれませんが、
この方はエセではありません。

私は、悟った者は、状態を超えているので、
もうそれまでの人のように状態に縛り付けられていませんから、
状態をいくらでもカルマを発生させずに囚われの人の振る舞い方が出来るので、
あえて囚われの世界の人にお話ししているので、
通じが良いようにそうしているのですとお話ししました。

ゲート氏も、
夢から覚めた人のパラドキシカルな特徴をズバリお話しされてました。

「人生と悟り」より
>普通の人たちは考えと感情に陥っているが、彼は考えと感情を使用する。
>普通の人たちは怒りを露わにし、興奮し、悩むが、
>彼は怒らずにいながらも怒ることができ、
>興奮せずにいながらも興奮することができて、
>悩まずにいながらも悩むことができる。彼は考えと感情の主人である。
>こうした人を夢から覚めた人という。

悟った者は振る舞い方や状態で判定は出来ません。

テーラワーダのスマナサーラ氏がおっしゃる通りで、
悟った人は悟った人にしか見抜けないと言われている通りです。

自覚はまだよく分かりませんが、
自他の関係も縁起(相依性)ですから、自、
あるいは他のどちらか片方だけで残る事はありませんので、
最終的には私のように自も消えて、他(知覚対象)も消えます。

これが悟りです。

恐らく自覚は全てが自と言うアプローチで、これを達成するものですね。

全ては相互依存の関係で構成されています。

自己喪失の体験 バーナーデッド・ロバーツ
>内に目を向けて自己を対象として観察できなければ、
>外界の事物を観察することもできません。

250:2018/12/08(土) 07:36:11
それでは質問も無いようですし、これで失礼をさせていただこうと思います。

質問をお寄せいただいた方のおかげで、そこそこに情報提供もできました。

原始仏典で悟りと表現されるものは確かにあります。

そして、私もその地点までは達成し道案内もできます。

しかし、私に言わせれば、
それはほんの通過点に過ぎないものだと実感しています。

釈迦の時代でも、乾観者の阿羅漢から倶解脱の阿羅漢、
悟りの通過点後もピンからキリまでいるわけです。

ただし、ほとんどの人達は、
その悟りの通過点すらも達成するに不可能に近いものとしか言いようの無い
のが現代の有様です。

私が当初なぜ自らを途上の者と表現していたのか、おかげで、
通過点後も辿り着いた境地に胡坐をかく事も無く、
着実に深度を深めていて、今さらに新たな感触が出てきています。

私も含めて折角物質まとって生きているこのチャンスですから、
この希少な機会を有効に活かさなければなりません。

大ジャンプの出来る可能性があるこの世界に、
次に再びこのチャンスが得られるかわからないのに、
欠片も無駄にしたらもったいないですよ。

頑張って下さい。

251慧空:2018/12/08(土) 11:36:22
あら、tkさん。
そんなこと言わずに、続けて何でも書いてくださいな。
マスターゲートの書籍の感想とかも書いてくれるのかと思って、
楽しみに待っていたのに。
マスターゲットの書籍はどうでしたか?
最後まで読みました?

皆さんも、tkさんに質問でもなんてもしてくださいな。

252名無しさん:2018/12/08(土) 13:56:07
すみません、無料スカイプセッションの希望メールをセッションに関する
記事に記載されているアドレスに送ったのですがエラーとなり、送れませんでした。

サイト内の別の箇所に記載のヤフーのアドレスには送れたのですが、気づいてくださるか定かでないので、
こちらの方で「ヤフーのアドレス宛てに送った」ということを慧空さんに知っていただきたく
文を書かせてもらいました。

返信いただけると幸いです。


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