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自覚スレ

53:2018/09/17(月) 00:34:38
目標や目的、意味や理由がなければいけない、という考えを最近自覚しました。
そういった考えは主に、他者との関わりの中で沸き起こるようです。

54つよし:2018/09/17(月) 23:31:12
慧空さん、皆さん、ご無沙汰しております。

スローペースですが、「観るものは観られるもの」の意味がやっと腑に落ちました笑
このキーワードには以前からかなり執着していましたが、やっとスッキリです。
最近人生が苦しいためか、自覚に拍車がかかっていたのが功を奏したようです。

何年か前に「考えの連鎖」を自覚しましたが、まだその時は中途半端な気づきだったようで、今ならわかります。

「考え」とは、本当に考えだった笑
思考(認識)だけがある。
「観るもの」は真我や本当の自分などではなく、それも考えであり「観られるもの」。

今なら2014年あたりの慧空さんのブログ記事が難なく読めます。
ついでにクリシュナムルティの講話もスラスラ入ります笑
確かに、観るものも観られるもの(考え)であることがわかると解放が起きますね。

しかし、まだスッキリしないところが多くあります。
まだまだ私は苦しみもがいているので自覚はこれからも続くと思います。

55慧空:2018/09/18(火) 09:10:01
つよしさん
お久しぶりです。

>「考え」とは、本当に考えだった笑
>思考(認識)だけがある。
>「観るもの」は真我や本当の自分などではなく、それも考えであり「観られるもの」。

どうやら、理解されたようですね。
よかったです。
ここまでの道のり、大抵ではなかったのでしょうね。
しかし、まだ先があります。
ここからは、「苦」だけが頼りです。
苦から逃げず、苦を頼りに歩んで頂きたいと思います。

56慧空:2018/09/18(火) 09:12:05
「苦を頼りに」は、表現がいまいちですね。
「苦を手掛かりに」に訂正しますね。(^^)

57つよし:2018/09/18(火) 16:22:05
>>56
慧空さん、ありがとうございます。
これより先はどうも手がかりというか、何をどのように自覚するのか、どう苦と向き合うのか、指針がはっきりしないと言うか、、、。
一時期は非常に人生が楽しく楽でしたが、今は悟りを追求すればするほど、苦しみが増しているような気がします。
はっきりしないながらも、苦と向き合わなければいけないのかなと感じています。

58:2018/09/27(木) 07:07:43
武と申します。

初めまして。

このブログ興味深く読ませていただいている最中です。

慧空さんは凄い水準の方ですね。

私がこの表現を使う方はそういません。

私などは慧空さんの足元にも及びません。

私はサマタ瞑想の方はからっきしダメなのですが、その分だけ観の方は自分で
もかなりの熟達者だと思っています。

先日マインドフルネスの講習会に出てきました。

巷でどのような事を教えているのか覗きに行っただけなのですが、
慧空さんのような指導できるだけのメンタル水準にも全く至っていない方が
教えている現状でした。

私は教える立場の者ではありませんが、
この辺は慧空さんはどのように思われますか。

私は、あのような事をやっていたら、
あの指導している方自身の観の成就も遅らせてしまう事になるだろうと
思いました。

59慧空:2018/09/27(木) 20:16:02
武さん
書き込みありがとうございます。

>この辺は慧空さんはどのように思われますか。

巷で行われているマインドフルネス等の瞑想のことは、どのようなものかよく知りませんし、
また興味もありません。
ですから、どうも思いません。

60:2018/09/28(金) 20:49:57
お返事どうも有り難うございます。

お蔭で慧空さんが少し見えたように思います。
(見ると言う表現は私のメンタルではその機能がありません、
自己紹介まで)

>巷で行われているマインドフルネス等の瞑想のことは、
>どのようなものかよく知りませんし、

簡単に説明すれば、私が参加したものは私の眼には単なる
リラクセーションの効果しか無いしろものでした。

理由は簡単です。

まず指導者自身が、精度の劣った自己洞察力でした。

ただし、やろうとしている事は内面の動きを捕まえようとしている
というものなのです。

あの場で指導者を含めそれが出来ている人は居ませんでした。

もっとも、あの場でそれを完ぺきに行えたなら、
私以外のあの場の全ての人は対話を初めとする行為がほとんど
停止してしまう事になります。

あの手のものは、プラセボ効果しか無いと思いました。

私自身は実は自己洞察系の訓練は特殊なメンタルにつき通常は
出来ないのですが、その場ではしているフリだけしていました。

ただし、私も自己洞察系行為が、状況に応じて一時的にできる事は
あります。

出来ると言うよりは、その場の状況で一時的に短い間発生して
又自動で収束すると表現した方が正しいと思います。

私は今まで色々な人を見てきた中で、多くの人は自己洞察系の訓練は、
不必要だと思っています。

私自身が生きている誰かに指導を受けて学んだわけではありませんが、
それをやらなくて正解だと思っています。

慧空さんのブログを拝見していましたが、囚われはよく無いから手放し
てと言うような内容に読み取れるものがありました。

もちろん、ある段階の人に向けたメッセージだとは思いますが。

言い換えれば囚われを手放す囚われに囚われろと言う事だと思います。

確かに正論ですが、色々な人を見る中で、
これが本当にまともにできる人が居るのかと思ったわけです。

私は囚われを手放すのでは無く、自己洞察はしなくて良いので、
まずは多くの人は、特定の囚われを尊重する方向性で
思いっきり生きる事に価値があると思います。

段階を踏まなければ、いきなり自己洞察系の訓練にかかっても無理
だろうと思っています。

私自身はどちらかと言えばメンタルを殺す方向で歩んだ者ですが、
慧空さんもおっしゃっていられる涅槃を経験してしまっている、
私もその一人ですが、
その場合は私のようになる人は多いのではないかと思います。

死んだ後にあれをやったら消えてしまうのかな。

肉体が無ければ戻りようがありません。

慧空さん自身は、慧空さんが指導や助言をして、
どなたか一人でも良いので、
悟りに近いメンタル水準まで辿り着かせた経験は
おありでしょうか。

61慧空:2018/09/28(金) 21:58:38
武さん、お返事ありがとうございます。

>私は囚われを手放すのでは無く、自己洞察はしなくて良いので、
>まずは多くの人は、特定の囚われを尊重する方向性で
>思いっきり生きる事に価値があると思います。
> 段階を踏まなければ、いきなり自己洞察系の訓練にかかっても無理
だろうと思っています。

私も、その通りだと思いますよ。

>慧空さん自身は、慧空さんが指導や助言をして、
>どなたか一人でも良いので、
>悟りに近いメンタル水準まで辿り着かせた経験は
>おありでしょうか。

悟りに近いメンタル水準と仰る意味が分かり兼ねますが、
一人もいないと言うのが正解なのでしょうね。
もう少し正確に言いますと、私とやり取りをする前に、明け渡しか、それに類似する何らかの悟り体験を既にしておられる方については、
やり取りをするうちに、悟りの行程をある程度進まれた方はおられます。
しかし、何の悟り体験もなく、また悟りの行程に入られてない方については、
私とやり取りをしている過程で、その方が何らかの悟り体験をするという例は、まだ無いです。何らかの悟り体験をされた例は未だ無いです。

62:2018/09/30(日) 09:47:12
慧空さん、私の眼でこの方は凄いと判断できた方と、
お話ししてみたいと思っていました。

科学の分野なら、学会でそこそこの人たちが集まり、
さらに発展する方向の動きが出てきますが、
ことメンタルの分野では私がこの方は凄いと思う水準の方自身が
極希少です。

慧空さんはサマタ瞑想について、相当の熟達者の方と見ました。

私はサマタ瞑想についてはそれほどでも無い分、
観(自己洞察)の方にウエイトがかかって今現在に至っていますので、
実はプロセス的に慧空さんと相異する所もあり、今の慧空さんの
分類する所の私がどのあたりに相当するのかは別にして、
共通部分があるように見出しています。

それを前提として、私は観(自己洞察)については、
やり始めて1年少しで今現在の所、
すなわちメンタルの構造が変わってしまった事により、
常時の訓練が消滅してしまう状態に至っています。

観(自己洞察)の訓練の方が消滅してしまいますので、これを持って、
成就と表現するしかないのですが、
私はこれを悟りと表現したりもしていましたが、
不要な議論をさけたいので、その表現を使わないでお話をしています。

しかし、それは短期間ですがかなり過酷なものでした。

命を落しても不思議ではないと表現出来ます。

実は今まで、お一人だけ懇願されて私がその方を指導したことが
あります。

結果として、その方と出会って数カ月後に、
その方も私と同じところまで至れたましたが、
その方からも命懸けでしたとの表現が出て来ます。

私の手順では、どうしても煮詰まった状態(切羽詰まった状態)からくる
動機が無い方には教える事が不可能です。

しかも、私の眼で相手の微細なマインドの動きを見抜いて
さらに窮地に追い込んでいくので、
大量生産の様な事も無理だと思います。

とは言っても、その方はこまめなメールの指導だけで
それを達成したのですが。

ちなみに、その方は座禅みたいなことはしたことがない人でしたし、
私が編成した、観(自己洞察系)の内容しか教えませんでしたが、
私と同じところまで達成できました。

自己洞察の正体は内面を殺す方法ですから、自己洞察をやる前に、
人間としての生き方、生き甲斐のようなものをもっと育んで
楽しんで生きる意義を感じて、
その方向で精一杯生きた人にしか教えられないものだと思っています。

ただ、私が言う観(自己洞察)の成就と言うのは、
心臓のあたりから私と言う感覚が発せられていて、
それをポイと外して自他の境界線ごと消滅させると言う、
私の経験値での表現ですが、それとは別のものです。

観の成就の方は意識がどこかに焦点を合わせようとする、
その機能が変化して無くなってしまって自他識別が無くなってしてしまう
ようなものですが、後者の方は自他の境界線そのものをポイと外して
なくなってしまうという、
私の経験値から表現するとそのような違いがあります。

ただ、私が言う観(自己洞察)の成就をしてしまうと、
メンタル構造の変化から「意志」の機能が消滅してしまいますので、
ただやっているだけ、ただ言っているだけ、
このような状況になってしまい、もう後戻りもできないわけです。

実は意志(エゴ)の機能が無くなってしまいましたので、
「ポイ」ができなくなってしまいました。

意志の無い行為、ただやっいているだけ、
これを唯(ただ)やっているだけの行為、
唯作とか唯作心と表現するようです。

http://arana-vihara.blogspot.com/2009/07/

(続きます)

63:2018/09/30(日) 09:48:09
(続きです)

慧空さんは、最初から特化したサマタ瞑想系の才能がおありの
方のように見受けましたが、その分だけ観(自己洞察系)のウエイトは
少なくて済んだのではと私は思っています。

ですので、慧空さんの本質はサマタ瞑想の得意な方向けなのかも
しれません。

その分私の方が、観(自己盗洞察系)の訓練には特化したものを
持っている可能性があるのかもしれません。

サマタ瞑想無しの、観の訓練だけで観の成就は
乾観者と言いようですが、
一人だけでも観の訓練の終点まで手ほど出来たので良かったと
思っています。

http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-61.html

その方自身もとても有難がっていましたが。

この状態になってしまうと、
唯(ただ)言っているだけの心を込めた表現は出来なくなってしまいます
が、有難かったという事です。

しかし、観(自己盗洞察系)の訓練を成就して唯作になると、
振る舞い方は本当に普通の人なので、
誰からも特殊な人と見抜かれるような事はありません。

死に物狂いの事をした結果、最終的に普通の人になるわけですから、
当の本人が一番唖然としてしまうような結果です。

やる前とやった後では、確かに何かが違うのですが、
私は命懸けで何をやってきたのだろうと、
のど元過ぎてしまうとそのような感触ですね。

仏教では解脱と言う表現では「慧解脱」と「心解脱」、
両方揃って「俱解脱」と表現してますが、
慧解脱を悟りと表現しています。

心解脱のみは、不還、有学、時解脱で、
慧解脱と俱解脱が阿羅漢、無学、不時解脱、悟りの分類に
なっているようです。

私の経験則の枠の中で重要として捉えているポイントしては、
観の成就、涅槃、心臓の感覚をポイの3点です。

観の成就は当然慧解脱ですが、
涅槃か心臓の感覚をポイのどちらかが、恐らく心解脱です。

慧空さんに特化したものは、サマタ系能力だと思います。

私の場合はサマタ系ではなく自己洞察能力の方が特化していました。

慧空さんとのプロセスの違いはここから来ているように思います。

>五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)
>
>「尊師よ、もし、これが、出離の道ならば、
> 心が解脱した者と、智慧によって解脱した者。
>その両者の違いとは、如何なるものでしょうか。」
>
> 「アーナンダよ、能力の違いと、私は解く。
> 禅定に優れた者は、心による、解脱を果たし、
> 智慧に優れた者とは、慧による、解脱を果たす。」

私の場合は、たとえ死んでも前進するレベルの「強靭的な意志力」を
手に入れている状態の方であれば、
私がその方の眼の役を務めることで私の所まで
辿り着かせられる確率はかなりあると思いますが、
さすがによほどの懇願でもされない限りは試す気にはなりません。

千載一遇的に、それに合致する方が居られたので、
その方は私の所までたどり着けたと言う事はありました。

ただ、こうやって慧空さんにお話をしているのは、
これ以外の何かがあるのかもしれないし無いのかもしれないし、
見落としがあるのかもしれないし、そう思ってお話をしています。

64慧空:2018/09/30(日) 21:59:13
武さん、お返事ありがとうございます。

武さんが私に関して興味を持っておられる事柄の一つに、
武さんの悟りと私の悟りが同じかという点があるのだろうと思います。
この点についてはっきりとしております。
武さんの悟りと私の悟りは、全く別物です。

>実は意志(エゴ)の機能が無くなってしまいましたので、
>「ポイ」ができなくなってしまいました。
>意志の無い行為、ただやっいているだけ、

上記のように、武さんは意志が無いと言っておられますが、
私には、意志も自我も、薄くはなっているもののしっかりとあります。
間違いありません。

それと、古い経典類の記載についてですが、私は経典類の記載を殆ど信用していません。
釈迦の正確な言葉は殆ど残っていないのだろうと思っています。
例えば、慧解脱、心解脱、具解脱等の概念もとても曖昧かつ不完全であると思っています。

もし私でよろしければ、スカイプでお話しさせて頂きますが、いかがでしょう。
ご希望でしたら、ブログトップの右側に記載のメールアドレスにメールをお送りください。

65:2018/10/01(月) 20:56:46
慧空さん、お返事有難うございます。

誠実そうなお人柄が見えております。

>武さんが私に関して興味を持っておられる事柄の一つに、
> 武さんの悟りと私の悟りが同じかという点があるのだろうと思います。

このような先入観念が持てないのが私の意識状態です。

ただ(唯)言っているだけなのです。

もっとも、そうとられても良いような対話内容になっているのだと思います。

>この点についてはっきりとしております。
> 武さんの悟りと私の悟りは、全く別物です。

実は私もそのように見えておりました。

私が関心を示したのは、どちらかというと慧空さんのサマタ系能力の方でした。

以前に涅槃を体験した方とお話をした事があります。

私にはエゴにまとわりつかれて苦しそうに見えましたが、しかし、
その方はそれを最終的な悟りと捉えておりました。

私は特化した自己洞察能力を持っていたので、
その時解脱で手を打つことができませんでした。

心臓の感覚をポイについては、私にとっては時解脱的でしたので、
そこでも妥協はできませんでした。

涅槃に心臓のポイのこの二つは、エゴの推進力を利用する事で突入しました。

>私の経験則の枠の中で重要として捉えているポイントしては、
> 観の成就、涅槃、心臓の感覚をポイの3点です。

慧空さんとはこの中で、観の成就とする部分に不一致があると思っておりました。

>上記のように、武さんは意志が無いと言っておられますが、
> 私には、意志も自我も、薄くはなっているもののしっかりとあります。
> 間違いありません。

慧空さんには内面がおありですね。

実は私には常時の内面そのものが消滅していてありません。

よって外と内の別が無いので、これを禅の言葉で「内外打成一片」と
呼ばれています。

私の現状は、対象となるものが何もないと表現するより仕方がありません。

ただし、これは心臓の感覚をポイとは別な物です。

私の常時の意識はフラットな状態で、特定なものに、
意識が焦点を合わせません。

(続きます)

66:2018/10/01(月) 20:57:22
(続きです)

状態としては、剣禅一致を説いた沢庵の不動智神妙録に出てくる
「葉一枚に心留めれば木全体は見えなくなる」、
あるいは剣道用語で「遠山の目付」、
これも意識の焦点機能を問題として説かれている内容ですが、
これに近いものが常時の状態です。

http://www.nihonjiten.com/data/39542.html

この私の状態については「意識の焦点機能の消滅」と言う表現で、
EOと言う方が次ページで詳しく説明していられます。

他にもこの方は正確に私の今の状態をここで説明されています。

http://www.mumyouan.com/e/eouch2.html

釈迦が説いたとされる経典では、
「意識の焦点機能の消滅」は「識別作用の消滅」と言う表現で説明されております。

スッタニパータ
>『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』
>というのが、一つの観察[法]である。
>『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、
>苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。


>それと、古い経典類の記載についてですが、私は経典類の記載を殆ど
>信用していません。
> 釈迦の正確な言葉は殆ど残っていないのだろうと思っています。

釈迦が覚者であるとの固定観念をお持ちのところ恐れ入りますが、
常識的な推論で言えば、釈迦など大昔に死んだ人であり、
今現在誰も現実に会った人などいません。

にもかかわらず、現代の覚者とされる方をも含み釈迦が覚者と認められている
のは、ひとえに釈迦が説いたとされる伝承されてきている経典類の水準が
評価に値するものだったことに他なりません。

そして、その経典類を説いたとされるのが釈迦なら、
釈迦は覚者であると言うのが本質です。

評価に値するのは経典類であって、
誰か他の方が釈迦の名をかたって説いたものであったとしても
それは問題ではありません。

話が横道にそれました。

要するに、どのくじを引いたら何が当たったか、ここが問題なのです。

結果の出ない内容なら、流行のようにすたれていくだけです。

私は慧空さんとは異なり、生きている人を師にはしませんでした。

仏教の原始経典をテキストにしました。

それで、今の結果が出たのです。

もう一人、私に手ほどきされて同じ結果を出した方もいられます。

至った今なら、原始経典の内容は私の状態に至るための方法であることが
理論的にも見えておりますが、私も最初の頃は、
くじ引き同様の感覚で原始経典をテキストとしました。

やり始める時には、誰もが見えない先を進んでいくのですから、
当たりくじを引く人もいれば、外れくじを引く人もいるだろうし、
一等賞が当たる人も2等賞が当たる人もいるのはあたりまえの事です。

とうの釈迦ですら、2人も師を変えて外れくじだった経験の持ち主
なのです。

>もし私でよろしければ、スカイプでお話しさせて頂きますが、いかがでしょう。
>ご希望でしたら、ブログトップの右側に記載のメールアドレスにメールをお送りください。

実は文字に残せるほうが意義ありと感じ掲示板を選択しました。

67慧空:2018/10/01(月) 22:06:54
武さん、お返事ありがとうございます。
これ以上、申し上げることはありません。

68:2018/10/03(水) 00:15:32
慧空さんどうも有り難うございます。

実は釈迦の経典については問題点があります。

この教えだけではほとんどの方は至れません。

そもそも原始経典は釈迦当時の出家至上で説かれた内容です。

釈迦当時の環境でしかも、出家とセットにしないと恐らく効果が出ない
はずのものです。

マインドフルネス(ヴィパッサナ)瞑想を一つ取ってみても、
受け身の訓練、つまり、その本質は積極性の無い訓練です。

釈迦当時の出家と言うのは、まず頭陀行ですね。

https://blog.goo.ne.jp/0000cdw/e/f750d1129a61233cd2eb123b9540decf

墓地や死体捨て場に住むとか、尋常ではないシチュエーションです。

刑務所のお勤めの方が何倍もましですね。

>スッタニパータ
>958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、
>山間の洞窟の中におり、
>
>959 または種々の座所のうちにいるのであるが、
>そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。
>──修行者は音のしないところに坐臥していても、
>それらを恐れて震えてはならないのだが。
>
>960 未到の地におもむく人にとっては、
>この世にどれだけの危難があることだろう。
>──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、
>それらの危難にうち克たなければならないのだが。
>
>964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、
>五種の恐怖におじけてはならない。
>すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れること
>である。
>
>965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。
>──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。
>──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
>
>966 病いにかかり、餓えに襲われても、
>また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なき人>は、
>たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、
>堅固に努力をなすべきである。

このようなシチュエーションを用意して、
マインドフルネスのような受け身の訓練が効果を出す仕組みです。

少し考えてみて下さい、
夜中に灯りも無しに熊の出そうな山の中奥深くに独りで分け入って、
観の訓練をするとどんなものでしょうか。

実は、私の場合は、
原始仏典の他に新約聖書の4つの福音書をテキストにしていました。

そのおかげで釈迦の教えのマイナス点が補完出来ておりました。

見る眼が備わっていない一般の方には、
新約聖書の福音書は釈迦の原始経典とは違うものに見えると思いますが、
本質は同じ理論の元に構成されている同じ結果が出せるものです。

例えば、マザーテレサと言う方は、
キリスト教でありますが私の眼で見て私同様の観の成就を果たして
いられる方です。

この方はイエスをイメージしながら励んでいられたようですが、
観の成就をした段階でそのイメージを使用する方法が出来なくなって
しまっています。

それと、私の意識状態では、祈りという行為がそもそもできません。

祈っている真似しかできません。

http://www.afpbb.com/articles/-/2272720


実際はこれが観の成就の状態なのです。

私の前には認識(識別)される対象がありません。

これが実現できると無我と言う事になります。

自他の識別の関係においては、他が対象として認識されるので、
その時には自も対象として認識されます。

しかし、他を対象として認識することがなくなれば、
相対に位置する自も対象として認識する事は消滅します。

69慧空:2018/10/03(水) 10:22:47
武さん
そのように未だにネット上を彷徨い、私のところへやってきて、
熱心に自らの主張を並べておられる。
このような行為は、余りに不自然であり、わざわざ感満載です。
まさに、あなたの自我の活動です。
それで自我が滅したと仰るのは、無理があります。

70:2018/10/03(水) 18:57:23
慧空さん、私から逃げようとしていらっしゃいますね。

見えてしまいますもので。

その様な私の姿勢に対する事では無くて、私の話をしている内容について、
良いとか悪いとかそれは違うとか、そのようなご意見が頂きたいのです。

その為にお話しているようなものなのですから。

妄想とは、厄介なものですね。

71慧空:2018/10/03(水) 20:19:57
武さん
ですから、あなたの自我が滅したという、その認識が間違っていると言っているのです。

72:2018/10/04(木) 00:25:45
>ですから、あなたの自我が滅したという、その認識が間違っていると言っているのです。

慧空さん、実はこの受け答えがあなた自身の現在の水準を表しています。

あなたには、私のエゴ表現から私の事をそのようにしか見えませんね。

しかし、あなたが私の表現に反応してこの言葉を発した瞬間に、
確実にあなた自身のエゴがその分増強したことを見抜けていませんね。

私のエゴ表現に対して、あなたがあなた自身のエゴを増強させて反応を示した
と言う意味です。

これがあなたの自己洞察能力の現状です。

慧空さんには、私のこの受け答えが頓珍漢に聞こえますね。

私は何度もあなたに説明していますが、
あなたがその意味を理解していないので、
あなたのここでのリアクションなのです。

>意志の無い行為、ただやっいているだけ、
>これを唯(ただ)やっているだけの行為、
> 唯作とか唯作心と表現するようです。


私と慧空さんと、もし意見の言い合いをしたとしても、
エゴ増強の苦悩を受けるのは慧空さんの方だけです。


「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。

慧空さんは、このマハラジさんの水準に居ないので、
この方の発しているこの言葉の意味が分かりませんね。

私はまだ慧空さんのような意識水準であった時には、今、
ここで慧空さんの発したリアクションはとてもできませんでした。

私とあなたの自己洞察能力の違いです。

そもそも、人のことを言う前に、
ここの掲示板では慧空さんのエゴ満載ではないですか。

気づけていませんね。

私はエゴの演出をしているだけなのですから。

あなたの見方は、あなたの水準の枠内の方に対しては確かにその通りですが、
マハラジさんを初め、あなたの水準では推し量れない人たちがいるのが
真実です。

私は、掲示板に書き込むのは本当に何年ぶりでここに書き込みをしています。

実はあなたの秀でたサマタ系能力が目に留まり、
あたなにここで立ち止まってほしくなくてお話をしていたのです。

73いつぞやの者 佐藤:2018/10/04(木) 09:39:14
>>72

おそらくtkさん

慧空さん

ご無沙汰です!

久々に覗かせていただいたら

楽しそうな対談!

74慧空:2018/10/04(木) 12:15:36
武さん

>ここの掲示板では慧空さんのエゴ満載ではないですか。

(^o^)
そんなことは、承知しているに決まっているでしょに。
ここは、私の自我が作り出した慧空ランドですから。

自分の自我の活動に気づけず、目を背けているのは、
武さん、あなたでしょ?

あなたは、私のところにわざわざやってきて、
繰り返し何度も、
自分の自我が滅したとか、
対象が無いとか、
内面が無いとか、
言ってるでしょ?

それを言っているのは、誰なのですか?
あなた自身でしょ?

自我が滅したと言うからには、自我が滅したという何らかの判断、認識が行われているはずです。
その判断、認識は、誰がしたのですか?
あなた自身でしょ?
判断、認識は、自我の活動そのものでしょ?
自我が滅したことを、自我はそう判断、認識するのは、どう考えても不合理だとは思いませんか?

それとも、自我が滅したという判断も認識もないまま、
あなたはそう言っていると仰るのでしょうか?
それは余りにも、ナンセンスであり、道理が通りません。
話にならない。

ところで、佐藤さんはおよびじゃないですよw

75慧空:2018/10/04(木) 12:24:43
訂正です。

上記の「自我が滅したことを、自我はそう判断、認識するのは、どう考えても不合理だとは思いませんか?」
は、「自我が滅したことを、自我がそう判断、認識するのは、どう考えても不合理だとは思いませんか?」
です。

76:2018/10/04(木) 20:10:32
>>ここの掲示板では慧空さんのエゴ満載ではないですか。
>
>(^o^)
>そんなことは、承知しているに決まっているでしょに。
>ここは、私の自我が作り出した慧空ランドですから。


つまり、我を尊重して思いっきり生きると言うものですね。

これはどうも失礼しました。

私はその生き方も尊重するものですから。

> 自分の自我の活動に気づけず、目を背けているのは、
> 武さん、あなたでしょ?

そのように思っていていただいた方がよろしいかもしれません。

悟りと言う表現は使用しない方が無難と思います。

なぜなら、釈迦の名前と一緒に広がったような用語です。

しかし、釈迦は無我や非我を説いた人ですから、
その用語を使い回すのは誤解を招きかねません。

慧空さんの一連の行動は理解できました。

精一杯楽しんで生きて下さい。

77慧空:2018/10/04(木) 20:40:12
やっぱり、tkさんでしたかw
ラピ。さんによろしくです^^

78いつぞやの者 佐藤:2018/10/04(木) 23:19:54


take
tk

なるほど! 今気づきました。

さすがのネーミングロジック

79:2018/10/05(金) 20:46:47
面が割れてしまいましたので、最後に感想を置いていきます。

ここのサイト読んでましたが、現代の風潮である中途半端さがここのサイト
にも見受けられます。

自我を強める事は必要ですが、それと内観まがいの事の取り合わせは、
相殺し合う関係なので得るものは無しと言う所になると思います。

自己洞察でも内観でも呼び方は何でも良いですが、
これは内面の自我の圧力を抜く為の方法、
言い方を変えれば自我を弱めるための方法です。

確かに、苦しんでいる人に内観で自我の力を抜く方法を授ければ、
その分楽になれるのかもしれません。

しかし、それで自我が強まる事はありませんから。

自我というのは端的に言えば方向性とその力ですから、
強い大型の台風ならどんな障害でも吹き飛ばしてしまう力があります。

人生を快適に生きることができます。

しかし、いくら強大な台風であったとしても、
鉄筋コンクリートの強度の強い建物まで吹き飛ばす事はほぼ困難です。

それこそ、これでもかこれでもかと力を増した所で、
困難な事は困難です。

そこで初めて、その困難を打破するための手段として、
自我の力を強める以外の方向性が必要となってきます。

とは言え、その方向性での進み方も困難に立ち向かい最大級となった
自我の力が必要です。

運悪く命が落ちてしまっても、
前進するレベルの意志(自我)が必要となります。

つまり、命より重たい意志(自我)が必要なのです。

こうやって定められた方向性で命より大切な自我(意志)を振るい続けると、
ある時に突然「何じゃこりゃ?」という、
予想外の展開が発生して全てが終了します。

もう、再び開く事は出来ません。

何が起きたのか、それは、何と、命より大切にしていたその自我(意志)が、
忽然と消えてしまったのです。

想いが起動しない、内面が発生しない、
文字通り「なんじゃこりゃ?」ですね。

これが、「何もできない」の意味する所です。

分かりやすく譬えるなら、急な先も見えない山道をひたすら登ると、
最後には頂上に到着して、もう登る事が出来ない、となるわけです。

命より大切にしていた意志(自我)が突如に忽然と消えた。

もう意志はありません。

それからはもう、ただ(唯)生きるだけ、ただ(唯)やってるだけ、
ただ(唯)言っているだけ、
このように中身の無いような事になってしまうわけです。

しかし、この結果だけを言うと、よく巷の人の中では、
結果の状態だけを取ってきて、意志を使わない事が良いのです、
とこのようなバカみたいな事を言い出す人が出現したりするのです。

しかし、それをやったら、
山の途中で頂上にも向かわずに寝そべっているのと同じ事ですから。

このようなバカな人たちが居うるのです。

そうでは無くて、ポイントは命より大切な意志(自我)が必要なのです。

この命より大切な意志(自我)をどうやって作り上げるかも、必要な要素です。

これ等を踏まえた上で、ではどうするのかという事です。

最後まで、強度の自我こそが必要であることについてお話ししました。

それでは、お元気で、口先だけで恐縮ですが、ご健闘をお祈りします。

80慧空:2018/10/05(金) 21:03:55
>最後に感想を置いていきます

自我の無いと仰る方が、感想を述べておられる。
話にならん。

81:2018/10/06(土) 04:50:42
>自我の無いと仰る方が、感想を述べておられる。
>話にならん。

あなたのこの姿勢は好感が持てますが、ひとこと解説しておきます。

根本となる無我の定義が違っています。

あなたの言う無我は、私が非我と表現しているものです。

なので、あなたの定義で私は我が有ると言うのは当たっています。

定義の違いではあるのですが、
私が非我と表現する手前のもう一つをあなたが知っていると、
それでもある程度話が通じたと思います。

あなたの無我の定義で、巷の文献を読むと、
あなたにはちんぷんかんにしか取れないものは多くあると思います。

82慧空:2018/10/06(土) 06:14:40
>なので、あなたの定義で私は我が有ると言うのは当たっています。

あなたは、本当に曖昧でハッキリしない人ですね。
最初っからずっとそうだ。
それでは、あなたのその非我というのと、その手前の一つについて、
ここで、できる限り明確に説明してみてくださいな。

83:2018/10/06(土) 08:35:07
>あなたは、本当に曖昧でハッキリしない人ですね。
>最初っからずっとそうだ。

実際は私の現状に対して、
その状態に無い人に明確な表現の方法がかなりの困難なものです。

私はどうもここでそれをするつもりが無いようです。

参考までに釈迦とは逆のプロセスを辿っていられますね。

私もここでは奇妙なものを目にしたと思っています。

釈迦のプロセスでは知覚できる対象に対して、
全て自分のものでは無いとラベリングする事になります。

視覚は自分のものでは無い、思考は自分のものでは無い、
聴覚は自分のものでは無い、味覚は自分のものでは無い、
このように全て知覚できる対象は自分のものでは無い、
このようにラベリングしていくわけです。

この世界に自分のものなど何もない。

これを有名な言葉で諸法非我と言います。

また、無所有とも言います。

しかし、ここでは、それとは真逆の、あれも自分である、これも自分である、
このようにラベリングするようですよね。

何事も全力でやってみなければ、
どのような結果が出るのか分かりませんので、
出た結果がお気に入りならそれはそれという事で本人の価値観です。

慧空さんは釈迦の定義する悟りには該当しません。

事実だけは申しあげておきます。

84:2018/10/06(土) 10:34:16
>実際は私の現状に対して、
>その状態に無い人に明確な表現の方法がかなりの困難なものです。

参考までに次の方の説明が私の状況です。

私以外の違う方の表現を持ってきましたが、
それでも本当にその状況の者にしか分からないはずです。

もっとも、私が手引きして至られたあの方も、この状況です。

「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


>沈黙した心のままで会話もできる

これと次の方の表現が同じことを指しています。

「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。

これは内面を沈黙させたままでの対話、唯(ただ)やっているだけの行為、
唯作を現しています。


>こうして私は内にも外にも何も無いという

私の状況として既にお話しした、内面が無い、外にも認識できる対象が無い、
意識の焦点機能の消失、何も無い、禅の言葉で内外打成一片、
この方は私と同じ状況です。

>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、



>これについて、言葉で表すのは難しいのですが

>実際は私の現状に対して、
>その状態に無い人に明確な表現の方法がかなりの困難なものです。

その状況に至っている者として、口を揃えてそう言うより他には有りません。

もっとも、私はこの方同様に不可抗力的にこの状況に至り、
その後は元には戻れません。

そればかりか、さらに、もう一人手引きまでしてしまいました。

釈迦の言っていた悟りです。

慧空さは慧空さんで、各々が各々の好みの道を歩まれればよろしいと思います。

85慧空:2018/10/06(土) 16:35:15
tkさんが、いろいろ勉強して物知りなのは分かりました。
そうやって、人の言葉に頼ってばかりいないで、
あなたの悟りを自身の言葉で語ったらどうですか?

釈迦がその悟りをどう定義したかは、どうでもいいですから、
あなたの悟りの定義をここで言ってみてくださいな。

86慧空:2018/10/06(土) 16:36:55
自分の言葉で話せない人は、ここでは無用です。
去りなさい!

87:2018/10/06(土) 19:06:18
>去りなさい!

お気持ちはご察しします。

慧空さんのご本心では、私にここで語ってほしくはなかったようですよね。

私の方は少し語る事で、必要な目的というものが果たせるので、
ご迷惑は承知でこちらに寄せていただいておりました。

悟りと表現しているものの内容が釈迦の悟りとするものと異なる点だけは、
この場をお借りして情報提供の必要があると思いましたが、
お蔭でその目的は果たせました。

後は知り得た情報をどう扱うか各々の問題です。

知らないでいるより、早めに知った方が良い事実というものはあります。

私がここで出来るのはここまでです。

ご迷惑だと言うのは、承知しておりましたので最後にお詫び申し上げます。

幸運をお祈りします。

88慧空:2018/10/06(土) 20:37:05
いやいや。
あなたの悟りを自分の言葉で語るのなら、どうぞ語ってくださいな。
お伺いいたしましょう。

はい、どうぞ!^^

89オクトーバー:2018/10/07(日) 00:34:20
非常に興味深いお話が続いていますね。

90慧空:2018/10/07(日) 09:27:05
あれ、tkさん何も書いてないなぁ〜
人のことではなく、自分のことを自分の言葉で書くなら歓迎なのですがねぇ。

そういうのは嫌なのかなぁ。
まさか、自信ないとか。

確かラピ。さんの掲示板に書かれたときも、人の話ばかりを書いていたもんなぁ〜。

91慧空:2018/10/07(日) 11:27:23
tkさん、ラピ。さんってだれ、と思われる方も多いと思うので、
リンクを貼っておきますね。
ラピ。さんの前のブログは、これです。
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/
いまのブログは、これです。
https://ameblo.jp/perfectrapi/
そして、tkさんが書き込みをしていたラピさんの掲示板はこれです。
https://jbbs.shitaraba.net/study/12104/

92慧空:2018/10/08(月) 10:18:48
本当は、tkさんに彼の悟りを自分の言葉で語ってもらった後で、
私の考えを書かせてもうらいと思っていたのですが、
ついうっかり、「去りなさい!」なんて言っちゃったものだから、
やりとりが途切れちゃいましたね。
まあ、しょうがいない。(^o^)

ヒマだから、tkさんが上で書いた文章の中のいくつかの概念について、
私の考えを書かせていただきます。
基本的には、私がブログ等で繰り返し言っていることをまた書くだけなのですが。

93慧空:2018/10/08(月) 10:28:32
まず、
>私は無だ。
これについてです。
悟り業界でよく言われる言葉ですが、曖昧であり、問題や誤解の多い言葉です。
本当に無になったら、認識も何も無いはずであり、その人の存在も世界も何もかも無くなってしまうはずです。
これが本当の無です。
「私は無だ」という発言があるということは、その発言が成されるまでの過程で、
何らかの認識や判断があるはずであり、それこそまさに自我の活動なのです。

悟りの過程で、「私は無だ」といいたくなる感覚や状態にになることは確かにあります。
「私は無だ」というのは、そのような感覚から出ている言葉なのです。

94慧空:2018/10/08(月) 10:41:18
次に、
>唯(ただ)やっているだけの行為、 唯作
についてです。
関連する言葉として、
「ことは起き、行為はなされていく。しかし、そこに行為者はいない」
というようなものもあります。

これも、悟りの行程の中で、確かにそう言いたくなる感覚や状態はあります。
これを経験すると、自分の意志や自我が滅した、あるいは機能を失ったかのような錯覚をしてしまいます。

しかし、これもとても曖昧で感覚的なものであり、問題や誤解がとても多いと思います。
私は強く言いたいのです。
本当に「意志」が消失してしまったのでしょうか?
そう言っているどの覚者も、意志が消失したと言いながら、結構いろいろなことをやっています。
上のtkさんだって、自分の意志が無いと言いながら、夜な夜な私のところにやってきて、
せっせと書き込みをしていました。
本当に意志がなくて、そのようなやらなくてもいい余分な行為をやれるものなのでしょうか。
意志が無いはずはないのです、それをできる程度の意志は残っているのです。
その残った意志に本人が気づけていないだけなのです。

95慧空:2018/10/08(月) 10:58:25
>内外打成一片

これについても、然りです。
曖昧すぎるのです。

どうしてそのようになるのか。
どうして、そのような曖昧な言葉しか出てこないのか。
どこに問題があるのか。

端的に言えば、彼らの悟りにまだ問題があるということなのです。
彼らの悟りには、まだそれを表現したくなる形(状態や感覚と言ってもいいです)があるのです。
彼は自らの悟りの形を言葉で表現しようとしているのです。
彼らは、その悟りの形に拘っている、囚われていると言ってもいいです。

悟りとは、そもそも言葉で表現することはできないものなのです。
それを、未だ途中である中途半端(失礼、笑)な悟りを
吟味の足りない「無だ」、「唯作だ」等の言葉で無理に表現しようとするから
おかしくなるのです。
まあ、それもしょうがいないことなのですが。
かく言う私自身にもそういう時期はありましたし。

最終的な悟りには、形がありません。
そこでは、「無だ」、「唯作だ」等の中途半端な概念が出てくることは決してないのです。

あら、仕事に行かなくちゃ。
時間がなくなり、ちょっと尻切れですが、アップしちゃいますね。(^o^)

96:2018/10/12(金) 18:14:32
すいくうさん

自分に起こってきた考えや感情を、自分が起こしたものであると引き受けて受け止める覚悟が必要でしたね。

また、どんな教えも

97:2018/10/12(金) 18:43:25
間違えて投稿ボタン押してしまいました。続けます。

また、これまで取り入れてきたどんな教えも諦めて、そういった拠り所なしで生きる事が必要に思いました。

悟りの方面でも、大体の人は正しい方向に行きたい(表現は人それぞれかもですが)と熱望しているように思います。そして、正しい方向に歩んでいると安心するために、知識を取り入れ続けようとしたり、あれこれ取り組んでいるように思います。それぞれの取り組みは尊いものだと思いますが、起点が不安や恐怖から来るものであれば、どこまでいっても満足できないように思います。そういう状態で内心不安定なままだと、他者に過剰なお節介もしたくなるのだろうなと思います。

そうやって右往左往する自身の意識を拠り所に、自分と向き合い歩めば成るように成る気がします(笑)

98慧空:2018/10/12(金) 19:50:30
箱さん

>自分に起こってきた考えや感情を、自分が起こしたものであると引き受けて受け止める覚悟が必要でしたね

はい、全ては自己責任ですから。

>これまで取り入れてきたどんな教えも諦めて、そういった拠り所なしで生きる事が必要に思いました
>そうやって右往左往する自身の意識を拠り所に、自分と向き合い歩めば成るように成る気がします

そうですね。
でも難しく考える必要はなくて、シンプルに自分の本心からやりたいことをやればいいだけなんですけどね。

99:2018/10/12(金) 23:35:39
慧空さん

こちらに書き込むのもその一環です(笑)
月並みな言葉ですが、書いている内に考えが整理されますし、
同時に自分が何を思いこんでいるか自覚するきっかけにもなると感じています。

100:2018/10/22(月) 06:50:21
慧空さん。

かなり上から目線的な姿勢の受け答えの方ですね。

それでは、得るものも得られない事でしょう。

悟ると負のカルマの先取り現象のようなものが集中的に起きてくるようです。

私もこのような状況にあるので、
このような時の最善のスタンスは受け身的姿勢です。

よって私の現状では情報発信の姿勢を作る事がままなりません。

このような事情で、受け答えがうまく行かない点ご理解ください。

>本当に無になったら、認識も何も無いはずであり、その人の存在も世界も何もかも無くなってしまうはずです。
>これが本当の無です。

その通りです。

ただし、サマタ系の方的なベクトルで、
知覚できる対象をどこまでも追及していくベクトルだけではありません。

「ただ在るだけ」と言うベクトルが他に存在します。

釈迦が悟りと表現するのはこちらの方です。

心解脱(止)と慧解脱(観)のベクトルの違いです。

観のベクトルは知覚対象を追求するのではなく、
知覚対象を認識する「認識機能」の方を変容させます。

慧空さんからは、サマタ瞑想系の方特有の、
「認識」と言う表現が当たり前のものとして多発しています。

https://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/0de0cfda777eb487df6014efa7979fde

サマタ系的には正しいです。

しかし、慧解脱を果たした方は、
この「認識」と言う表現が使えなくなります。

その機能が、以前あったような機能とは異なってしまっているからです。

そして、釈迦が悟りや阿羅漢果と表現する段階は、
心解脱では無く慧解脱達成の事です。

時解脱の涅槃は、定から出ればまた、エゴ(煩悩)の過中です。

理由はサマタ瞑想で到達できる涅槃は、
エゴを推進力にして突入できるからです。

慧空さんはまだ釈迦の表現する阿羅漢果でもなければ、悟りでもありません。

これを告げようと、しどろもどろに書き込みをしています。

ベクトルが違うのです、釈迦のテーマは時解脱的に涅槃を達成する事では無く、
「煩悩」をどうするかの方に力点があります。

内容的には「努力、忍耐、根性、苦悩」の方に重点が置かれます。

これが慧解脱、釈迦の表現する悟りを達成する手段です。

マスターゲート氏の「自覚」は初心者向きの低い教えに見えます。

もちろん低い教えには低い教えとしての価値があり、
初心者にはこの方が多大な効果があると思われます。

しかし、この水準の教えでフィニッシュは出来ません。

聞く姿勢の無い方に語れるほどの姿勢は今の私にありません。

何かコメントを頂いても、受け答えは今の私からは出てこないと思います。

一方的な情報提供のようになってしまい恐れ入ります。

私が情報提供できるのは、
釈迦の表現による慧解脱(悟り)についてに限定しています。

ですので、聞く姿勢(関心)が無ければそれはそれです。

別にどうしても釈迦の表現する悟り(慧解脱、彼岸)に
辿り着かなければならないというものではありませんので、
お断りだけしておきます。

101慧空:2018/10/22(月) 09:38:55
武さん

また来られましたね。
そうやって、わざわざまた私のところへやって来られるのはどうしてでしょう。
あなたは私のことが相当気になっているのです。
そこにあなたの意志が無いとは言わせませんよ。

>私が情報提供できるのは、
>釈迦の表現による慧解脱(悟り)についてに限定しています。

また釈迦の悟りの話ですか。(^_^;)
だから、釈迦の悟りは信憑性が無いから話にならないと言っているでしょに。
そうやって釈迦の言葉に頼るのじゃなくl、あなたの悟りをあなたの言葉で語ってくださいな。
話にならん。

102:2018/10/25(木) 21:30:59
慧空さん

>そこにあなたの意志が無いとは言わせませんよ。

勝手に言ってて下さい。あなたの水準で私のことは逆立ちしてもわかりません。

あなたには、私がしようとしていた水準の話しは適しません。

これは私の判断です。

マスターゲート氏の「自覚」は片手落ちの教えに思えます。

「自覚」はある一点の要素を欠く事で、
エゴむき出しの人間性を増長させてしまう。

波乱万丈の人生が待つと思います。

ちなみに私の意識状態では、「認識」対象そのものがありませんので、
マスターゲート氏であろうと釈迦の諸法非我であろうと、
ラベリング行為そのものが私は既に出来ません。

これが観の成就(悟り)、終了段階に至った者の特徴です。

私の眼で至った水準の方であると判断できる方は、例えば次の方々です。

この方々の悟りとしているのは、私と同じです、
「認識機能」の変容の事です。

(当然ですが、慧空さんは全然至っていません、
認識機能という思考回路の一部分に必死にしがみついている段階の方です。)

原田雪渓氏
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95-%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AAE6%B8%93/dp/493890201X

>『悟りとは、人の分別心や認識の入らない世界を言います。
>言い換えれば"今"ということです(略)


井上貫道氏
http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm

>ところが 「認識」のまだない子どもは、
>なにも思わずにやっているだけです。そういう世界がある。
>お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。

※私の単なる自論ではないと言う裏付けとして、
他者様の引用をさせていただいております。

私の分類で初歩段階の方とは、
自らの「認識機能」を絶対的なものとして訓練する方。

そして、次の段階が私やラピ。さんの真骨頂、激流段階であり、
「認識機能」を崩壊させるプロセスになります。

この激流段階は別名、バカを極めるための訓練とも表現できます。
(私も自らがこの訓練をしている時には本当にバカになるのではと怖かったです。)

井上貫道氏
http://zazen.blog.jp/archives/1031026404.html

>修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。
>それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。
>大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。

103慧空:2018/10/26(金) 09:27:47
tkさん

「認識機能の崩壊」。
自らの認識機能が崩壊したと考えているのは、誰ですか?
あたなでしょ?

それに、「認識機能の崩壊」とは、まだそのような形や状態があるというこです。
まだ途中です。

104慧空:2018/10/26(金) 21:48:30
>ところが 「認識」のまだない子どもは、
>なにも思わずにやっているだけです。そういう世界がある。

この貫道さんの言葉も、何らかの状態のことを言っており、
形への囚われがあります。
まだ途中です。

105慧空:2018/10/26(金) 22:14:38

>「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。

一般的な覚者はよく「無」という言葉を使いたがります。
しかし、そこにはまだ「無」という表現に関連した何らかの状態に関する囚われがあります。
マハラジもそうです。
吟味が足りないのです。
「無」、「源」などの言葉が出てくるようでは、話になりません。
未だです。

106:2018/10/27(土) 12:23:34
私はこれでここを失礼しようと考えています。

ほとんど私が今できるべきコメントは残すことができました。

今の慧空さんに理解してもらおうと、ここで話をしたのではありません。

何らかの信じる方向性のある方を説得するほど骨の折れる事はありません。

ただし、後々ここで残した私のコメントが役に立つ時が来るかもしれない、
ただそれだけです。

ご健闘をお祈りします。

107慧空:2018/10/27(土) 16:59:09
そう仰らずに、またお越しくださいな。(^^)/

108慧空:2018/10/27(土) 21:02:36
ところで、tkさんは「観るものは観られるもの」をお分かりですか?

109:2018/10/28(日) 23:18:00
お別れの挨拶を申し上げた直後の質問ですね。(笑)

>tkさんは「観るものは観られるもの」をお分かりですか?

この表現、私は見かけたことがありませんので、主客の関係なら、
私の言葉で表現して認識機能において自他の境界線が私にはありません。

慧空さんは時解脱によるサマタの涅槃を基準にするので、
全て途中ですと言う判断になるようですが。

しかし、事はそう簡単にはいきません。

ある理由が存在していて、観の成就を果たさなければ、
時解脱以外では涅槃を達成できない事になります。

よって釈迦は時解脱の涅槃を悟りとはせず、慧解脱を悟りとしています。

私には幽体離脱と言マスターゲート氏の覚醒の発端となった特徴が
幼き頃より有り、探究ツールとして活用しました。

その結果である事実が判明しています。

実はこの物質世界の特徴とは、煩悩が実現し難いと言う特徴があります。

この物質世界の特徴を利用する事で、煩悩を落す事が可能となります。

さて、時解脱の涅槃ですが、
この物質世界の煩悩のままになりにくい特徴を利用し、さらに、
エゴの推進力を利用して突入するのです。

しかし、肉体から離脱後にはこの物質世界の特徴は跳躍のために
利用できません。

譬えるなら、100m走を地面を蹴ってゴールを切ることができたとしても、
地面を蹴る事も出来ない宇宙空間のような所で足をばたつかせても、
ゴールなど切れるものではありません。

実は煩悩とはアストラル体の特徴の一つですが、
そのアストラル体をそっくり消滅させる事が可能です。

それが慧解脱です。

カルマの種子も全てアストラル体に蓄積されているので、
転生は終了する事となります。

ただし肉体がある限りは、終了にはなりません。

http://mahorobanomori.web.fc2.com/spiritual-Seven-Bodies.html

>第五身体を実現した人は、アストラル体に影響されなくなる。
>つまりカルマから自由になる。
>そういう人が死ぬと、その人のアストラル体は消える。

(続きます)

110:2018/10/28(日) 23:19:04
(続きです)

慧解脱は時解脱的な涅槃とはまるでベクトルが逆です。

知覚対象を追求したら反対に遠ざかるだけです。

EO氏がこの辺りをうまく説明していられます。

EO氏 はみだしQ&A集(EO):2

>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html


>「認識機能の崩壊」。
>自らの認識機能が崩壊したと考えているのは、誰ですか?
>あたなでしょ?

このような知覚対象追求ベクトルの質問を発している内は、
あなたは永遠にたどり着けません。

この質問、「認識できません」(不可知)が私の答えです。

マハラジのコメントの無にしても、
悟っていないあなたは無の表現さえ聞けば、
知覚対象追求ベクトルでの無しか思い浮かばないようですが、
認識できる知覚対象が無いと言う意味での、
異なるベクトルでの無が存在します。

知覚対象追求ベクトルでの無は、あなたの言う通りに知覚対象です。

このベクトルでの知覚対象とならないものは時解脱的な涅槃だけですから。

ただし、この時解脱涅槃はとても曲者で、定からでれば煩悩の渦中です。

マスターゲート氏の自覚、初心者には向きますね、しかし、
これも次第説法で初心者に向くものはフィニッシュに使えません。

これは慧解脱、すなわち悟りを得るための教えではありません。

知覚対象は認識機能によって自らに取り込まれるのです。

認識機能が変容してしまえば、知覚対象は知覚対象としてただ在るだけです。

これがあるがままと表現される現象です。

慧空さん、そろっと気が付かれたらどうですか、
知覚対象とそれを認識する機能の内の、
あなたには知覚対象追求ベクトルしかありません。

悟りである認識機能変容ベクトルがあなたにはありません、これが事実です。

このような内容を貴方にお話しするには、
早すぎたのではないかと少々ためらいがありました。

しかし、あなたの現実を明らかにしてくれる方はまずいませんから、
お話をさせていただきました。

111:2018/10/28(日) 23:34:34
個人的にはお二方のやりとりによって、自分自身が掴んでいる考えやらなにやらが色々意識に浮かんできて、
とても居心地が悪いのですが(ある意味で良い事なのかもしれませんが)、
ついつい気になってこちらでのやりとりをチェックしています。

ところで、少し横槍のようでお二方には申し訳ないのですが・・・
「観るものは観られるもの」というのは、

ものを見ている時、ものへの認識だけではなく、
それを見ているという明確な感覚があり、どちらか一方だけが起こる事が
ないという感覚とはまた別の事ですか?

112:2018/10/29(月) 03:59:08
>「観るものは観られるもの」というのは、
>
>ものを見ている時、ものへの認識だけではなく、
>それを見ているという明確な感覚があり、どちらか一方だけが起こる事が
>ないという感覚とはまた別の事ですか?

横レスもOKですよ。

この言葉の中に、一つ私に当てはまらないものがあります。

>それを見ているという明確な感覚があり

私にはこの感覚がありません。

「見ている」と「見えている」僅か1文字ですがされど1文字、
この両者は全くの別物です。

この二つの違いには「意志」が関与しているか否かです。

「見ている」の方は明確な意志が関与しています。

従って指向性が発生し、見ようと思っている方向しか見えません。

しかし、「見えている」の方は意志が関与しておりません。

こちらの方は、周辺視野の情報まで飛び込んでくるわけです。

これが沢庵の不動智神妙録の中の千手千眼の真髄です。

https://www.bushidoart.jp/ohta/2012/03/14/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2%EF%BC%88%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%EF%BC%89/

私には意志が関与しませんので千手千眼の「見えている」しか出来ません。

113オクトーバー:2018/10/29(月) 15:28:55
私も横レス失礼します。
皆様方の対話を大変面白く拝見させて頂いております。

>>112
その「意志の関与なき見えているもの」が「見ている私」に他ならず、
目の前に広がる世界(あっち)は私(こっち)とイコールであると。
そのような、あっちもこっちもない境地(生き方)が、
「観るものは観られるもの」と表現されております。

114オクトーバー:2018/10/29(月) 15:44:42
訂正および補足です。

見えているもの、聞こえているものが、私やで。
こっちに私がおって向こうを見て
向こうに見えてる対象が私と離れて存在する
ということではなくて
見えているもの、聞こえているものが、私やで。

ということです。
しどろもどろです。

115慧空:2018/10/29(月) 16:54:54
tkさん

>主客の関係なら、
>私の言葉で表現して認識機能において自他の境界線が私にはありません。

実は最初から分かっていたのですが、やはりtkさんは「見るものは見られるもの」をご存知ないようですね。
主客に関係することではあるのですが、「自他の境界線」は関係ないのです。

tkさんはこれをご存知ないが、ひょっとすると、ラピ。さんは分かっておられるかもしれない。
また、マハラジを含むアドバイタ系の覚者は知らないが、バーナーデット・ロバーツは知っているかもしれない。
tkさんやマハラジと、バーナーデット・ロバーツとの間には、微妙ではあるが、これを知っているか否かの違いがあるのですが、
tkさんにはそれがお分かりにならないでしょう。

116慧空:2018/10/29(月) 16:59:46
オクトーバーさん

>見えているもの、聞こえているものが、私やで。
>こっちに私がおって向こうを見て
>向こうに見えてる対象が私と離れて存在する
>ということではなくて
>見えているもの、聞こえているものが、私やで。

上のこの記載は、何に対する補足説明なのでしょう?
この記載は、大分しどろものろではありますが(笑)、
まさに「見るものは見られるもの」について表現しているものです。

117慧空:2018/10/29(月) 17:07:23
箱さん

>ものを見ている時、ものへの認識だけではなく、
>それを見ているという明確な感覚があり、どちらか一方だけが起こる事が
>ないという感覚とはまた別の事ですか?

せっかく書いて頂いたのに、仰りたい内容が上手く読み取れないのでハッキリとは申し上げにくいですが、
箱さんが考えておられる内容とは、別のことです。
「見るものは見られるもの」は、日常的な感覚からのギャップが大きく、体験しないと理解するのは不可能です。
あまりに気にしないでください。

118:2018/10/29(月) 19:27:13
「自覚」の説明のようなものですね。

>tkさんはこれをご存知ないが、ひょっとすると、
>ラピ。さんは分かっておられるかもしれない。

確かに悟る前のラピ。さんが似たような事を言ってました。

「あなたは私」とかね。

しかし、その手のものは全て捨ててもらいました。

自他境界線を超えるには、その手のものでは不可能だからです。

119:2018/10/29(月) 19:52:21
慧空さん
オクトーバーさん

オクトーバーさんの説明が、自分が本来表現しようとしていた事が近いかなと個人的には思います....が、実際のところ腑に落ちた感覚はないので、昔聞いた他人の話を、頭でこねくりまわしているだけのため、コメントが不明瞭になっているようです。
「観るものは〜」の事は気にしないことにします。

120慧空:2018/10/29(月) 19:54:29
>「あなたは私」とかね

違うって言ってるのに。
それはおそらく、ワンネスってやつでしょう。
まったく別ものですよ。

121:2018/10/29(月) 20:21:13
>違うって言ってるのに。
>それはおそらく、ワンネスってやつでしょう。

たぶんそうです。

「観るものは観られるもの」かなり私の意識に照らせば違和感のある言葉ですね。

観るものも観られるものも、私の意識では、
そのようなものはどちらもいないのですから。

122いつぞやの者 佐藤:2018/10/29(月) 20:23:32
tkさんのようにその世界?次元?を完璧につきつめてるのもある意味すごいなと思いました。

ただ引用が多すぎて、ご自身の言葉がもう少し欲しいですね。
前からの事なので、そうなのかもしれませんが。。

あと慧空さんの断定口調も人格というか、そういうよなーと読ませていただきました。

失礼します!

123:2018/10/29(月) 21:02:14
武さん

コメントありがとうございます。
あらためて自分の状態を確認してみましたが、武さんの仰る感覚は自分にはないようですね。

思考が静かになっている時に物を見ている感覚を、「見ている」ではない「見えている」感覚と
誤解する事はありましたが、どれだけ意識が朦朧としていても、観ているという意思がはっきりあります。

124慧空:2018/10/29(月) 21:25:41
佐藤さん

>完璧につきつめてる

って、どういう意味ですか?

125:2018/10/29(月) 21:27:40
箱さん

>思考が静かになっている時に物を見ている感覚を、「見ている」ではない「見えている」感覚と
>誤解する事はありましたが、どれだけ意識が朦朧としていても、観ているという意思がはっきりあります。

それでいいのですよ。

このようなものは私も狙ってなったわけではなく、
不可抗力的になったものでしかありません。

これが達成するその瞬間までは地獄のような中にいました。

その地獄に終わりがあるとはその瞬間まで思ってもいませんでした。

(もっと驚きなのは、まさか、その後に、
この地獄に他者をも落す事になろうとは思いもよりませんでしたが。)

「見ている」を初めとする意志行為を精一杯した者が、
その結果としてこのような方向に進まざる得なくなるものです。

「見ている」で良いんです。

126慧空:2018/10/29(月) 21:29:24
もう一つ。

>ある意味すごいなと

ということは、別の意味ですごくないという意味ですか?

127慧空:2018/10/29(月) 21:38:53
tkさん

もう一つお伺いしてもよろしいでしょうか?
観照意識はご存知ですよね?

128:2018/10/29(月) 21:55:25
>観照意識はご存知ですよね?

聞いた事はあります。

しかし私にはありません。

129:2018/10/30(火) 03:19:59
>しかし私にはありません。

遭遇する出来事に応じ、一瞬胸に感覚が発生し、
その時一瞬観照が発生しています。

発生してすぐ消えます。

胸の感覚とセットで、その時だけ観照が発生しています。

130慧空:2018/10/30(火) 17:04:16
tkさん
ご回答頂きありがとうございます。

>遭遇する出来事に応じ、一瞬胸に感覚が発生し、
>その時一瞬観照が発生しています。
>発生してすぐ消えます。

観照意識は、胸というより頭なんです。
一瞬だけ発生するというのも違っていて、
それを体験するようになると、もっともっと時間的に長く継続するものなのです。
人によってはずっとその状態で過ごしている人もいるのだろうと思います。

131:2018/10/30(火) 19:50:02
>観照意識は、胸というより頭なんです。

胸の感覚は観照ではありません。

実は観照と言う言葉は一度も使ったことがないので、
不要な議論を招かないよう違う言葉で表現します。

私は自己洞察瞑想の完成者ですので、自己洞察と言う言葉で表します。

自己洞察瞑想は終了地点があります。

それが、観の成就、慧解脱です。

なぜ終了となるのか、
終了地点の特徴の一つは洞察される対象である内面がそっくり消滅してしまう
からです。

洞察したくても洞察行為そのものが消えてしまいます。

このようにして、自己洞察行為は終了を迎えます。

しかし、悟った後の釈迦も悪魔相応と言う経典で、
自らの内面と対話している記述がありますが、
遭遇する状況によっては胸のあたりに情動の根源となる感覚が
発生する事があります。

その感覚がそれまで消えていた内面となり、
それとは別に自動発生的に自己洞察機能も自動起動し、
そのすぐ後には再び内面ごと自動発生した自己洞察現象も
洞察対象である胸の感覚と一緒に消滅します。

内面が瞬間起きて瞬間消えてしまう、オートマチック自己洞察現象です。

この間に、思考と言う種類の感覚は連動しません。

つまり、悟る前の人のような思考化は起こりません。

このような事で、観の成就者は、もう学ぶ必要のない人、
無学と呼ばれるものと思います。

通常は内面はありませんし、もはや意識と呼べる肉厚感覚のものでは無く、
認識する者のいない知覚です。

132慧空:2018/10/30(火) 21:02:04
tkさん

tkさんがアストラル体なんて言い出すものだから、もしかしてと思って観賞意識のことを聞いてみたのですが、
あなたは、「観照」というものをご存知ない。
だから、語れば語るほどトンチンカンなことになってしまうのです。

観照は自己洞察とはまったく異なるものです。

133:2018/10/30(火) 22:41:11
>観照は自己洞察とはまったく異なるものです。

この言葉は目にしたことがある程度で、一度も使った事がありませので
良く知りませんでした。

おいおい機会が有ったら、知識を得ようと思います。

私は、今ここで知識の収集をするつもりがありません。

ここのニーズと合わないようなので、この辺で失礼します。

134:2018/10/31(水) 03:52:11
知識を吸収する事と、悟りは別ベクトルですから、
悟りは反対にバカを極めること、
知識は捨てなければ辿りつけない特徴のものです。

今の慧空さんはその時期では無いと判断できます。

少なくとも「自覚」は逆ベクトルです。

私は後々役に立つかもしれない事のためにここに話を置きに来ただけですので、
これで失礼します。

135:2018/10/31(水) 07:13:00
それと私がアストラル体(幽体)の用語を使うのは、理論値ではありません。

意図的に何度も離脱を繰り返し、実証に基づき使用しています。

その結果、肉体にいながらアストラルの動きを感覚的につかむ事が
私には出来ます。

では、ご検討をお祈りします。

失礼します。

136つよし:2018/10/31(水) 13:59:00
>>131
お二人のやり取り、私も興味深く読んでいました。

tkさんに質問させて頂きたいのですが、

>その感覚がそれまで消えていた内面となり、
それとは別に自動発生的に自己洞察機能も自動起動し、
そのすぐ後には再び内面ごと自動発生した自己洞察現象も
洞察対象である胸の感覚と一緒に消滅します。
内面が瞬間起きて瞬間消えてしまう、オートマチック自己洞察現象です。

これは視覚だけがそこにあり、それを観る者はいない状態のことを仰っているのでしょうか?
(正確には、他の五感も起こりますが、その所有者がいない状態のことです)
そして、これが慧解脱の最終地点という認識でよろしいでしょうか。

137慧空:2018/10/31(水) 19:41:25
tkさん
kさんのニーズはもの凄くあると思いますよ。
みんなとても興味を持って、tkさんの書き込みを読んでると思います。
書き込み歓迎ですので、気が向かれたらいつでも書き込みなさってくださいな。

138:2018/11/01(木) 03:54:33
質問が来てました。

実は悟りを得るには、最低限の知識以外は障害となるもので、
最近ぼちぼち精神世界知識というものを、
たまに吸収して読書などしているところでした。

今よんでいる書籍でアーチャン・チャー、私の眼で見て、本物の阿羅漢です。

古来から言われている表現で、名称と形態(色)、ナーマとルーパと言います。

名称と言う表現が、識別作用、私の言葉で認識機能の変容、
慧解脱を指します。

釈迦の経典は私の師ですので、引用させていただきますが。

次は有学と無学の説明で、慧解脱で初めて無学(阿羅漢)となります。

阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
>「第四の段は、見をして到る、見到である。
> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
>
> 「第五の段は、身をして現す、身証である。
> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
>
> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>
> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」

私が説明してきた2方向からの名と色(身)のベクトルでの訓練は、
古来から存在しています。

名を解脱する者、名を越える慧解脱と説明がありますが、
識別作用すなわち認識機能の変容を指します。

>これは視覚だけがそこにあり、それを観る者はいない状態のことを仰っているのでしょうか?
>(正確には、他の五感も起こりますが、その所有者がいない状態のことです)
>そして、これが慧解脱の最終地点という認識でよろしいでしょうか。

そうです。

今までの私の説明にありましたが、
「意志」の関与がなくなる事が大きな特徴の一つです。

そうすると、説明しました通りで「見えている」と言う意志の
関与しない事となり、EO氏の言う不可知、つまり知る(認識する)以前で、
自己も含めて認識対象が全て無くななり名を解脱した者、慧解脱となります。

アーチャン・チャー「手放す生き方」より
>もし、心が自由なら、現象を区別することはない。
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。

139慧空:2018/11/01(木) 10:17:32
tkさん

チャーの言葉を引用されてますが、
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。
この我も無我もないというところの意味を、
tkさんはどう理解されてますか?

140つよし:2018/11/01(木) 22:52:26
>>138
tkさん、
ご説明ありがとうございます。

私は解脱をしていないので、チャーさんと無明庵EOさん(ヤバいイメージでしたがリンクを読んで見方が変わりました笑)、そしてtkさんのお話でイメージとして慧解脱を伺い知ることができませんが…、

例えばリンゴを見た時、
瞬時に「リンゴだ」と認識します。
これは思考が起こる前にすでに認識しており、認識の後にその説明として「リンゴだなー」と思考が出てきます。
認識とは何だろう?と細かく観察して行くと、それは瞬時によぎる過去からのイメージであるなと実感します。
レッテルと言われるものです。

このレッテル付け機能が消滅してしまった状態が慧解脱と仰るものなのかなと想像しました。
そうであるから、そのような世界に対し「あるがまま」という言葉を用いられているのかなと思いました。

しかしやはり疑問が残ります。
あるがままの世界を「これがあるがままの世界だ」とレッテル付けを誰がしているのだろうか?
「あるがまま」という過去からのイメージがそこにはあるではないか?ということです。
こればっかりは慧解脱してみないとわからないものだよ、と言われればそう納得するしかないのですが…。

私にはそのような認識、イメージ、考え、が瞬時にポコポコと現れては消えて行き、そしてそれを観察している者も認識のひとつであり、「ここには認識しかない」という境地止まりですが、その認識、考えを完全に掴まなくなる境地があるのだとしたら、早く行ってみたいものです。

まとまらない感じですみません。
ご丁寧なレス、感謝致します。

141:2018/11/02(金) 02:39:20
慧空さん

>もし、心が自由なら、現象を区別することはない。
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。


>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?



>現象を区別することはない。

このことの説明として語っています。

「現象を区別」は原始経典用語で「識別作用」、
私の言葉で認識機能のことを指します。

「究極的」の表現は慧解脱のことを指しています。

身で体現する者、
身証者(定で涅槃に飛び込んだ経験のある人)にしてみれば、
究極的という表現は、悟りを達成していないので、
時解脱涅槃がそれと思うしかありませんが、この場合は違います。

アーチャン・チャーはサマタ瞑想を、補助的手段としか考えていません。

アーチャン・チャー「手放す生き方」より
>サマーディはヴィパッサナーの土台としてのみ用いられる。
>ゆえに、そんなに強いサマーディは必要ないのじゃ。


>心を直接観察することが、智慧である。おまえさんが心を観察し、
>それを理解するとき、経典を読む事や、
>サマーディ(定)の力の限界を知るだろう。



>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?

不可知、
すなわち我も無我もその他「一切の」知覚対象がありません
と言う意味です。

EO氏 はみだしQ&A集(EO):2

>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html

私は今回は稀にしか見ない身証者の方がおられたので、
その先の情報提供にここを訪れました。

悟りに向かうベクトルは「自覚」では無く「自滅」ですが、
その前段として「自覚」は有効な特徴の教えだと思います。

142:2018/11/02(金) 03:07:39
つよしさん

>あるがままの世界を「これがあるがままの世界だ」とレッテル付けを誰がしているのだろうか?

中々良い質問です。

悟った人でも普通人同様に生きているのに、変だろう、
と言う種類の質問ですね。

実は、悟った人である慧解脱者はパラドキシカルな世界で生きています。

心が沈黙したまま、言葉が発せられ、行為が現れ、しかし、
言葉を発している者や行為者はいない。

以前ご紹介したバーナーデッド・ロバーツのおどろおどろしい表現が、
実はあの方の慧解脱したての頃の表現です。


「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
>最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


これは、慧解脱達成したての時に、
その事をそのまま無理して表しています。

表現としては、なりたての人の表現なので生々しいです。

「認識」と言う言葉を普通に使い回す慧解脱(悟り)前の人には、
これは理解できる代物ではありません。

(続きます)

143:2018/11/02(金) 03:08:32
(続きです)


>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。

これは私が解説した通りで、「見る」意志行為は出来なくなり、
意志の関与しない「見える」しかできなくなった事を表したいわけです。


>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。


他の人から見たら、この方の前にはしっかりと景色も物体もあるのに、
この方自身は何も無いと表現するわけです。

普通の人が見たら「目の前に物があるのに、何も無いって、
あなた頭が変なんじゃないですか、ロバーツさん」と言う状況です。

この方は目をつむっているわけでも何でもありません。

このパラドキシカルが、慧解脱(悟り)の特徴です。

知覚は在るが、認識できる知覚対象が無いと言う、
悟りの完成形の内容がここに表されています。

>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。

心が沈黙しているのに会話ができる、パラドキシカルです。

他の人から見たら行為をしているのに、行為していないと表現したり、
このような世界です。

私の場合はアストラル体の動きを殺す事が目的の一つでしたので、
慧解脱のパラドキシカルれが到来しなければ、
身動きもままならないで、
永遠にスローモーションでもがく事になっていました。

>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。

心が沈黙での会話は慣れれば快適です。

>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。

この虚無は、前にもお話しした認識機能を駆使しての
知覚対象追求ベクトルの状態としての無(虚無)ではなく、
我も無我も無い無我同様に、我も無我も虚無も実在も、
認識できる知覚対象が一切無いとする虚無です。

認識機能を有したまま知覚対象を追求する、
知覚対象追求ベクトルに対して、
認識機能が無くなって知覚対象を追求以前になってしまった者。

私も達成したての頃は随分とこれが珍しかったのですが、
慣れとは恐ろしいもので今では当たり前です。

144:2018/11/02(金) 07:01:53
悟った者のパラドキシカルについて、
「認識」と言う言葉を当たり前に使い回す人には
到底理解できないものである事を、実例で説明しました。

>あるがままの世界を「これがあるがままの世界だ」とレッテル付けを誰がしているのだろうか?

私は何もしていません、
そのようにみられる行為がただそこにあるだけです、
これが私の回答です。


「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。

「マハラジさん、あなたそこにいて会話したり行動しているのに、
何もできないって、あなた頭が変なんじゃないんですか」、
このように「認識」と言う言葉を当たり前に振り回す人たちには、
悟りを得た人の世界は全く理解できないものですので、
そういう「認識」機能の変容してしまった悟りを得た人たちの不可解な
世界があると、そのように思っていていただくより
仕方ないのかもしれません。

145慧空:2018/11/02(金) 08:02:52
tkさん

上の、
>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?
という私の質問は、質問の内容が悪かったようです。
すみません。

しかし、私も何度も言いますが(笑)、
認識機能が無いという人が、自分に認識機能が無いと言うのは、
余りに馬鹿げています。
存在がまだあるのですから、認識機能が薄くなることはあっても、
認識機能が無くなることはありません。
と言っても、無駄か(笑)。

この私の文章を読まれたら、あなたの右指を自分の鼻の穴に突っ込んでみてください。
そして、誰がその手を動かしたのかを改めて考えて頂きたいと思います。
と言っても、無駄か(笑)。

146:2018/11/02(金) 19:48:44
慧空さん

>認識機能が無いという人が、自分に認識機能が無いと言うのは、
> 余りに馬鹿げています。

慧空さんにとってはそうなのでしょうね。

何度も申し上げますが、
「自分」と認識できるものはありません(不可知)。

これも、沈黙の言葉です。

このように言葉に表すと、異次元のオンパレードです。


> 存在がまだあるのですから、認識機能が薄くなることはあっても、
> 認識機能が無くなることはありません。
>と言っても、無駄か(笑)。

言うのは勝手です。

>この私の文章を読まれたら、あなたの右指を自分の鼻の穴に突っ込んでみてください。
>そして、誰がその手を動かしたのかを改めて考えて頂きたいと思います。
>と言っても、無駄か(笑)。

「誰が(不可知)」、最初からこの説明に終始してますので、
もう諦められた方がよろしいです。

この質問も知覚対象追求ベクトルです。

慧空さんはそれで良いと思います。

「認識」と言う言葉を当たり前に使い回す段階の方に対し、
理解してもらおうとかで、
興味に答えるだけしか意味をなさない質問に答えたわけではありません。

分からない事を述べている人物の印象を残すために答えました。

これで、ひととおり答えたので、そろっと失礼しましょうか。

147慧空:2018/11/02(金) 20:26:40
tkさん

「不可知」と仰る割には、自分の自我は滅しているとか、認識機能が無いとか、
えらく断定的なことを仰る。
そのあたりの矛盾に目を向けられたらどうでしょう。

悟りについて、無我だ、認識機能が無いだのと、特定の概念を主張するところが、
まだまだなのです。
吟味が足りてないのです。
と言っても、無駄か(笑)

tkさんは、きっとまたここに来られますよ。
私や私の言うことが気になってしょうがないはずです。
いつでも歓迎ですから、どうぞお越しください。

148:2018/11/02(金) 22:10:08
慧空さん素晴らしい。

つい、出てきてしまいました。

>tkさんは、きっとまたここに来られますよ。
>私や私の言うことが気になってしょうがないはずです。

ここの部分です、この視点。

さすが身証。

かなり見直しました。

頑張って下さい。

では失礼します。

149つよし:2018/11/02(金) 23:37:33
tkさん、
再度詳しいご説明頂きありがとうございます。

いろいろと質問や意見をしてみたい点もありますが、まず自分自身が終結した感がないのでやめておきます笑
すみません。
でも、tkさんやバーナデッドロバーツさんが仰る境地は、とある別の覚者が仰っている境地と同じだなと思いました。
認識を超えた先。

自覚でいう「考え」それなしにモノを観る。
そのモノがあるとわかってるんだから自我はあるでしょうに、というのが慧空さんの言い分?かと勝手に思っていますが、ここは自身で虚無に突入し確かめて、この目で観なければ(目はありませんが)何も言えないなと思いました。
実践あるのみです。
ありがとうございました。

150:2018/11/03(土) 04:27:34
ちょっと尻切れトンボになりましたので、最後の最後のコメントです。

私はずっと慧空さんには、あなたは知覚対象追及ベクトルしかありませんと
突きつけてきましたが、
最後の最後にもう一つの欠落していたベクトルが出てきたので、
これを評価しました。

>tkさんは、きっとまたここに来られますよ。
>私や私の言うことが気になってしょうがないはずです。

「気になってしょうがないはず」、
自らのこれ(内面と言う胸のあたりの感覚)を見抜いていく視点が
もう一つの別ベクトル。

これを続けていくと、内面そのものが最後に消滅します。

やがて結果として、私のような意識でもなく、
ミクロンレベルの薄っぺらな知覚だけみたいなことになってしまいます。

マハラジではありませんが、知覚が在ること以外には「私は何もできない」、
消滅した内面ではそれ以上何も起こせません。

そうすると内面も「認識」も無いのに、行為だけが繰り出されていく。

「認識」は「内面」に関係しています。

私のこれもただ(唯)言っているだけです。

良かったですね、訪れたかいがありました。

本当にこれで、失礼しますので、ではさようなら。

151慧空:2018/11/03(土) 07:47:47
tkさん

>知覚が在ること以外には「私は何もできない」

また馬鹿なことを仰いましたね。
吟味が足りないから、発する言葉が矛盾だらけになるのです。
「知覚はある」と仰るのに、「認識はない」と仰る。
あなたは、知覚と認識の区別ができているのか!!
区別できているのなら、去る前に、ここでそれを説明してみてくださいな。

152:2018/11/04(日) 00:30:12
知覚はあるのに、認識はない、というのはロボットのようでもありますね。


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