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自覚スレ

169慧空:2018/11/04(日) 19:03:24
tkさん

どうしてそうやって、誰かの言葉に頼るのか。
いまは雪渓さんの言っていることなどどうでもいいのです。
(必要とあれば、雪渓のことはまた今度吟味させてもらいます)

問題なのは、tkさん、あなたの発言です。
知覚はあると仰るのに、認識はないと仰る、この発言です。

知覚を「感覚」という表現に変えると言われてますが、
私が散々指摘してその違和感にやっと気づくという、
その理解の曖昧さが問題なのです。
余りにも吟味が足りない。
どうしてそのような不正確な言葉が出てきてしまうのか。
それは、他人の言葉を鵜呑みにいして自分でしっかりと理解できていないからです。
まあ、この点も既に散々申し上げてますから、いまさらいいでしょう。

本当の問題は、ここからです。

「知覚」を「感覚」に置き換える、ここです。
心理学者や脳科学者、そして、その辺の一般的な覚者ならそれで納得するでしょう。
しかし、そう置き換えたところで、やはりまだ中途半端なのです。

上の言葉の置き換えをすると、tkさんは、
「感覚」はあるが、「認識」はない、ということを仰っている訳です。

しかし本当に、音等に対する「感覚」はあるが、その音等に関する「認識」が無いような状態というものが
あり得るでしょうか。
本当に、「感覚」と「認識」はそのように切り離せるものなのでしょうか。
よくよく吟味してみて頂きたいと思います。

私が言っている「認識」とは、一貫して究極的かつ本質的な意味でそう言っています。
私が「認識」や「意識」、あるいは「識」と言うときは、常にそのような意味で用いています。

五感に意を含めた六根という言葉があります(仏教用語は使いたくないのですが、しょうがないでしょう、笑)。
まずは五感について、
例えば聴覚が起こるとき、音に関する感覚が起こるとき、その感覚がどのように起こっているのかについて
徹底的に追求、吟味してもらいたいのです。

徹底的に追求、吟味すると、
五感の各感覚が起こるとき、否応なくその感覚は、その感覚の「認識」そのものとしてして起こってきていることが分かります。
意についても、どうようです。意が起こるとき、否応なくその意はそのその意の「認識」として起こってきていることが分かります。

こうして突き詰めていくと、
この世界は、六根の動きの連鎖として捉えることができることが分かってきます。
そして、その六根の各連鎖がすべてその「認識」そのものととして起こってきていることが分かってきます。
また、「認識」が無ければ六根からの起こりも無い、あるいは無いも同然とということが分かってきます。
つまり、「認識」が無い状態とは、何も起こらないし、何も無い状態となってしまうのです。

これは、自分で追求してみるしかありません。


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