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自覚スレ

229:2018/11/29(木) 02:33:17
(続きです)

表現以外の違う所で判定しています。

なぜなら、表現だけを取ったら囚われの人そのものですから。

我々の次元に至った者でなければ分からない内容について、
違和感なくその人の言葉として語りおおせているか否かで
判定するしか手がありません。

反対に、意志脱落してない人には、
意志脱落した人の行為無き行為が分からないので、この判定は出来ません。

このあたりは、スマナサーラ氏が話したように、
至った者どうしの間でしか判定できません。

あえて囚われの人に向けた話なので、
自らも自在に囚われの人と同じ表現を使って通じの良さを図っているだけです。

本当に悟った人にだけは、そうだと言うことが分かります。

「状態」から解脱した者、悟りを達成した者の意志脱落による行為、
仏教ではカルマを発生させない「唯作心」、
バーナーデッド・ロバーツはこれを独自に「純粋行」と名付けていました。

バーナーデッド・ロバーツは意志のことを自己の力と表現しています。

バーナーデッド・ロバーツ 自己喪失の体験
>新しい生き方への鍵となるのは純粋行とも呼ぶべきものです。
>それは反省と努力によって意識的に維持される行為ではなく、
>自己の力が無くなったときに自動的に起こるもので、
>たとえ汗を流す労働を伴うとしても、
>自己の活力はまったく関与していないのです。
(中略)
>ここでは、行為者も行為の対象も不可知であって、
>行為そのものだけが知られるので「純粋行」と呼ぶのです。

行為とはカルマの意味ですから、意志脱落で行為者が不可知で居なければ、
どのような行為でもカルマは発生しません。

ここで慧解脱を果たしている者の立場からはっきり言えることは
「行為」はその意味の通りのカルマの発生で、
「行為者」は「意志(自己の力)」の事です。

思考も我々の思いの付随しない純粋思考以外は、みな行為(意業)の一つです。

「分かる」や「理解」もこの行為(カルマ)の一つです。

悟った我々のゴミの付着の無い純粋思考感覚は、他の方の思考とは異質です。

私にとっても決死の覚悟で、
バカを極める手段を通して手に入れられたものです。

見抜く精度が高ければ高いほど、
慧解脱に至るための修行は地獄の様相となります。

楽しい事など何一つ無い状況となりますから、
美味しいものを食べても美味しいと思ってはならないとか、
美味しいと思った瞬間に味覚を「掴んだ」ことになりますし、
綺麗だなと思った瞬間に、視覚を「掴んだ」ことになりますから、
この精度まで「掴まない」修行でなければ慧解脱は起きませんし、
私は人に真似する事は絶対に勧めません。

私のような予めの飛び抜けて鋭敏な自己洞察能力の特殊性が起因した
場合等を除いて、原始仏典など開いただけでは通常は全く悟れません。

結果として独自のTK式ヴィパッサナというものが編み出されましたが、
これは危険極まりなく常識の範囲を超えてますので、
気安く誰にでも公開できません。

通常のヴィパッサナ(マインドフルネス)は、
出家環境とセットで効果を上げる受身的な内容ですので、
あれだけ日常生活に取って来ても危険も無ければ効果も上がらず
悟りなど達成できるものではありません。


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