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自覚スレ
210
:
武
:2018/11/15(木) 03:21:08
慧空さん
阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
>「第四の段は、見をして到る、見到である。
> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
>
> 「第五の段は、身をして現す、身証である。
> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
>
> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>
> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
この経典の第五の段の「身で体現する者」とは、
サマタ瞑想で解脱の境地に突入し離脱する者で、
身証ともいいますが、慧解脱のような常住の境地では無い点から、
時解脱と表現され心解脱とも表現されています。
この段階の方は不還であるとも言われています。
この第五の段では滅定からの出定後煩悩の影響下にあるので、
さらに煩悩を落すと、次は第六の段の「名を解脱する者」
慧解脱者となり、この段では智慧(観)で煩悩が滅尽するので、
もはや不放逸が説かれる必要は無くなります(無学)。
煩悩と表現していますが、
私の経験値でアストラル体行為と理解してよろしいです。
慧解脱(観の成就)はアストラル体行為の封鎖、滅尽の完成です。
第七の段は止観(第五と第六)の両方の達成者で
俱解脱と表現されています。
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201205/article_3.html
釈迦の教えでは第五の段がなくても、第六の慧解脱さえ得ていれば、
乾観行者と言い悟った者、阿羅漢であるとされていますので、
重要な点は経験値として滅定を知らなくとも、
煩悩の滅尽の有無が決め手になります。
とは言え、究極の滅定を自らでそこに赴いて、
知っているか否かは大きな点なので、阿羅漢果の中にも、
慧解脱と俱解脱の二種類に分けているのではないかと思います。
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