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自覚スレ
220
:
武
:2018/11/22(木) 03:43:57
つよしさん
>EOさんのHPでも「意識の焦点」という表現をされていましたね。
>自覚では「考え」と言ってますが、認識のことですね。
つよしさんは自覚をしてますか。
否定とか見下しはやらないのですか。
> 意識の焦点は自分の意思で動かせますが、しかしよく観察した時、
>「動かそう」という意思もそこに勝手に焦点が当たったから起こったとも言えます。
>それを観察すると、行為を為す者は元々無く、
>ただ意識の焦点だけが現れては消えと生滅しているだけとわかります。
意識の焦点では、「見えている」では無く「見ている」なので、
最初から意志が関与しています。
> 考えの連鎖、クリシュナムルティは「あるのは思考の過程のみ」と
>言ってたかと思いますが、そのような様子を伝えているのかと思います。
思考そのものは、そもそも必要な時だけ発生する単なる
感覚でしかありませんから、全く注目に値しないものです。
一般の人の言う思考は、思考+思いで、それを思考と呼んでますから、
我々のゴミの付着していない感覚としてのただの思考とは別物です。
>その様子を観察すると身動きが取れなくなり、
>tkさんの「行為を為すものを殺す」という表現になるのかな?と、
>私の経験に照らし合わせて推測してみました。
>もしかしたら全然違うのかも知れませんが…。
その捉え方であってます。
> 悟りは自我が求めてなれるものではないと聞きますが、
>自我が求めなければその道を歩まないわけですし、
>そのような予定だったのか予定というものがあるのか、
>私自身この辺はまだよくわかりません。
私は悟りは全く目指していませんでした。
自らの内面を道徳的な規範に沿って、道徳的なものに整えようとし、
原始仏典は単にそのテキストとして読みました。
私にとって、原始仏典は道徳書としての価値でした。
しかし、1年少しで予想外の結果が出て終了となりました。
EO氏の悟った時の第一声が「あ」だったわけですが、私もその時は、
「あれ?」でした。
意志が無くなってしまったので、
意志が空振りして想いが起動できないのです。
その頃は余分な知識を一切入れないようにしてましたので、
それが悟りなのか何なのか全く分からず、
とにかく「終わったんだ」という事だけが分かりました。
(続きです)
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