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自覚スレ

241:2018/12/02(日) 07:49:06
(続きです)

相依性縁起は釈迦の教えでは無いとした学者先生は、
善悪の教えは単なる道徳論にしか見えなかったと思いますが、
大変な解釈上の過ちを犯していたのです。

過去に教えに対してああだこうだ言える経典学会とも言える結集は
悟った人のみに参加資格がある、ごもっともの実例した。

悟った視点さえあれば、
釈迦当時に時系列の縁起のみがクローズアップされてしまった理由は
すぐに見当がつきます。

相依性縁起は善悪等の人と人との関係性における実践内容であり、
釈迦当時は出家至上、
独居推奨のシチュエーションであったため出番が少なかっただけです。

龍樹の時代では出家至上、独居推奨シチュエーションでは無いので、
縁起の時系列では無いもう一つの側面の相依性縁起の必要性の方が
高くなった事によるはずです。

至る前には道徳のテキストのように見える内容が、
至った後には全て理論で見えます。

想いというものは、
ただ消滅させようと思っても消滅させられるものではありませんが、
ある一定の方向性で想いを起動させていくことで、
最終的に想いは崩壊します。

それが善を為し悪を為さないと言う方法論でした。

善と悪が自らの概念で相互依存により成立しているので、
善を為し悪を為さない、このアンバランスを作り出す事で、
やがて想いを構成している要素が崩壊します。

私は完ぺきな善人を目指しましたが、結果として善だけで存在し得ないので、
全マインドが消滅しました。

徹底してやればわかりますが、善と言う概念行為を為す時には、
その時に概念の根底に必ず悪の概念の存在が認められます。

これが龍樹の時代でようやく、
時系列では無い相依性縁起としてクローズアップされています。

利他(人のため)と自利(自分のため)も、
これと同様の相互依存関係で成立している概念で、
人のための利他の行いも、同様にマインド崩壊の原理で説かれたものです。

私が縁起の表現を使う時には、
悟りを実現するマインド消滅のための釈迦の根本理論を指し、
時系列の縁起ではなく龍樹同様に相依性縁起のことです。

とりあえず、理想実現の基本は、自分なりの「善」を実行するという事です。

この場合は、実際に肉体を利用して、行動に移すという事です。

自分なりにどんな「善」に基づく行動が出来るのか、
それを考えて行動に移してみて下さい。

このように生きる指針や目的を持つだけで、生き方は変わってきますから。

大パリニッバーナ経
>わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

釈迦もそうしたように、まずは善を追求する。

そうすれば、もしも悟りのトリガーの袋小路になった折にも、
悟りを完成するまで一貫してその方向で行けます。

スッタニパータ
>965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。
>──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。
>──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

>969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
>奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。


下の経典の内容は「超越」の表現が出てきてますが、
「悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する」善を行なった釈迦の縁起の結果です。

スッタニパータ
>520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、
>生と死とを超越した人、
>──このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。

>526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、
>清らかな知慧あり、
>黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

>715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
>なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、
>かれは煩悶が存在しない。


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