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自覚スレ

227:2018/11/29(木) 02:31:55
これからの足掛かりになるためにもここに来て私の感じた所見、
情報を置いていこうと思います。

私の悟りの変容を果たした意識では、
「状態」と言う二元の産物の捉え方が無いので、
全く違和感なくこれが日常の当たり前ですが、しかし、
悟る前の人たちは反対に「状態」以外の物を知りません。

その結果として、
認識する者と認識される対象のような言葉をしきりに投げて来たりが
起こりますが、次元を異にするとはそう言う事だと思います。

私が表現する所の悟りに至っていない人の眼に、
私がどうみてもかなりの覚者と思える方が
低い水準の人に見えてしまう理由も分かりました。

全てこの辺りから来ています。

「状態」の次元、すなわち認識する者と認識される対象の
二元の次元の人たちは、「状態」に縛り付けられていますから、
表現やしぐさ等の「状態」を見ることで、
その方の意識状態が見抜けてしまいます。

例えば、悟りの通過点を超えてない人たちは、
「認識」とか「理解」とかこの手の用語を多発するので一目で分かります。

しかし、悟りの通過点である「状態」を超えた人たちと言うのは、
「状態」を超えているが故に、カルマを発生させる事も無く、
表現などの「状態」を自在に操れます。

ここで、「理解」と言う言葉が出てきましたが、
悟った我々にはパラドキシカル虚無があることにについてお話したと同様に、
実はパラドキシカル「分からない」と言う感覚も常にあります。

まともに誰かと受け答えの対話をしていても、
このパラドキシカルな「分からない」の感覚が同居しています。

カルマとは行為を意味する言葉ですが、分かるとか、理解するとか、
これも立派な意志行為(カルマ)に分類されるものです。

意業と言う言葉がありますが、白黒は別にして、
カルマを発生させているものの一つだと思います。

ですので、こう言ったものは我々悟った者にはありません。

表現は難しいですが、結論(行為)は行為者なく自動的に立ち現れます。

「掴む」と言う行為(カルマ)が全て無くなります。

「見える」は行為ではありませんが、「見る」はまともに行為(カルマ)であり、
視界の中のある一部分を「掴む」と言う行為ですし、
分かるとか理解するという行為(カルマ)も物事を「掴む」と言う
行為(カルマ)の一つです。

慧解脱を果たした者の意識では、意志脱落により、その「掴む」が出来ません。

分かりやすいように漠然、呆然(ぼうぜん)が、
意識は明晰なままで常時同居していると表現しておきます。

反対に、「掴む」行為を超えた地点にいるので、
今度はいかようにも「掴む」行為を「掴む」ことなく自在に操れます。

私も、この慧解脱を達成するにはかなりアブノーマルな修行を
やってきています。

真似をする人が出るといけませんので、一部分しか話せませんが、
うかつに真似はしないで下さい。

例えば慧解脱に至る前は常に紙と筆記具を携行していて、
何か憶えておくことは常に筆記してそれを見るようにして、
頭には何も憶えない訓練をしていました。

(続きます)


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