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自覚の方法に関すること
221
:
ユウ
:2014/12/11(木) 13:40:08
ひとやすみさん、こんにちは。
>自分に正直大事ですよね(^^)v
私ずっとそう思ってました。でも私はやり過ぎてしまうところがあるんです…。
「私、間違ってないよ。」って、喧嘩になってしまうので…。
もう少し自分を見つめたいと思います。
222
:
ユウ
:2014/12/11(木) 14:10:44
めがねさん、こんにちは。
2か月ほど前のやりとり思い出しました。
あの頃にくらべて私に変化があったので、随分気持ちが軽くなっています。
私のかたよりにもっと気付けば、もっと軽くなるでしょうか?
自覚は続けたいと思います。
223
:
名無しさん
:2014/12/11(木) 14:13:31
>この人の本心はどこにあるのか疑うようになりました。
愛されているかどうか という事ですよね?
私の場合は、その時その時で変わります。その状況になってみないと分からないです。怒り狂ってる時は愛してないと感じるし、穏やかな時は愛していると感じます^_^
224
:
佐藤
:2014/12/11(木) 14:29:50
上記、佐藤です
一度そのように正直に言ったら、怒り狂われました。なので、今は肯定的な事をなるべく言うようにしてます。(^○^)
225
:
ユウ
:2014/12/11(木) 14:48:02
私、上の文章読んで佐藤さんだと分かりました。
ほんと主人と同じような事を同じ口調で言うんですよねぇ…。
決して間違った事言ってないんですけど、どうしてか冷たく聞こえるんですよねぇ…。
226
:
佐藤
:2014/12/11(木) 14:55:30
ずっと愛していないといけないのを手放すと楽なんです。^_^;
だからといって離れ離れになるわけではないです。
>冷たく
逆に変な味付けがなく、とてもピュアで美しいとも言えると思いますよ。
227
:
ユウ
:2014/12/11(木) 15:09:12
>逆に変な味付けがなく、とてもピュアで美しいとも言えると思いますよ。
この開き直った感じが、さらに怒りをかうんですよねぇ…。
228
:
めがね
:2014/12/11(木) 15:38:00
ユウさん
>>随分気持ちが軽くなっています。
進んでみえるんですね(^^)
>>私のかたよりにもっと気付けば、もっと軽くなるでしょうか?
その通りです軽くなります。
イラッとする感情や不安に思う感情、調子に乗る感情は自分じゃないと気付くのではないでしょうか、
そして感情を出してくれたかたよりのある考えに気付かせてくれた相手に感謝できるようになります。
例えば
>>227
私はこの開き直った感じで怒りが出るんだな〜〜と自覚するんです。
(自分だと思っている感情を客観的に観察するんです)
229
:
ユウ
:2014/12/11(木) 16:26:44
めがねさん、こんにちは。
>私はこの開き直った感じで怒りが出るんだな〜〜と自覚するんです。
ごめんなさい。これはめがねさんと佐藤さんのダブル攻撃なんですね。
私にはめがねさんと佐藤さんは別モードでした…。(佐藤さんごめんなさい)
もっと自覚したいと思います…。
230
:
めがね
:2014/12/11(木) 16:40:23
ユウさん
ごめんなさい、ちょうどいいところに題材が転がっていたので
使ってしまいました。^_^;
私も自我ってなんや!!(怒)って、ず〜〜〜と思ってましたし今でも何処にあるか
探しています。もしかしたら気付いてないのかなと思いまして。
人のことは良くわかるんです、私の自我ちゃんを見付けたら教えてくださいね(^○^)
231
:
佐藤
:2014/12/11(木) 17:00:18
怒りを外に出すと爽快というのもありますからね。笑
ただ、爽快な時というのは自覚ともなってる場合ですかね。我を忘れて怒るのは爽快は伴わない気がします。真剣に怒って混乱そのものという感じになりますから、終わった後すごい疲れるのではないかと思います。^_^;
232
:
慧空
:2014/12/13(土) 21:57:32
自覚について思うこと、気になること、ご質問等、その他なんでも、待ってまーす(^^)/
233
:
高山
:2014/12/17(水) 09:02:27
慧空さんに質問です。
解脱の悟りを得た後も苦が続いているとのこと。
それはこの先、肉体が活動を停止した後に、二度と誕生しない、輪廻を抜ける準備が出来たということですか?
生きてるうちは、肉体が感じているうちは必然的に苦しいと。
しかし生前に解脱の悟りを得ることができていれば、肉体が活動を停止した後は、
釈迦のように二度と生まれ変わらず、生の苦から金輪際解放されると?
釈迦の解脱後の長き伝導の日々は、残りカルマの解消だったのだろうと推測できますが、
残りカルマ=肉体エネルギーということですか? 両者の質量は等しいと思いますか?
解脱の悟りを得れば、肉体の活動停止と同時に、残りカルマも消えるということですか?
(カルマの質量が肉体エネルギーのそれより大きい場合は、肉体が止まってもカルマは残って、
また生まれ変わらないといけない、輪廻を続けなければならない、ということになりますよね?)
最後にもうひとつ。
慧空さんにこの先、「これこそが解脱の悟りだったのだ」という悟りが開ける可能性はないですか?
本当に今ので最後ですか?
感覚的なものだと思うので、言葉での証明は難しいと思いますが。
以上、質問でした。ご返答よろしくお願いします。
234
:
慧空
:2014/12/17(水) 20:04:36
高山さんへ
私は、解脱の悟り後もいろいろな苦しみが続いています。
私に続いている苦は、二つの苦です。
一つは、残りカルマが起こす展開の中で感じる苦であり、普通の苦です。
私の残りカルマは少々複雑なようで、いまでも普通の方が感じるのと同じようなやっかいな出来事が起きてきて、それを経験しています。
しんどい出来事は、普通にしんどくて苦しいのです。
もう一つの苦は、存在の根底から湧き起こるよような根本的な苦です。
正直なところ、存在していること自体、あるいは、考えや現象が起きてきてそれにわずらわされるのが、
わずらわしくて仕方ないのです。そして、苦しいのです。
これら二つの苦が相まって、いまも私はそれなりの苦しみを感じています。
このようにまだなお苦しんでいる私ですが、自分が解脱の悟りに至っていることに対する確信は揺らぎません。
ただ、正直なところを申しますと、解脱の悟りを得た当時(今年の2月11日です)から時間が経過するにつれ、
解脱の悟り、特に肉体が滅んだときに生じるであろう解脱に対する確信というか、感触は徐々に変化してきています。
どういうことかと申しますと、解脱の悟りを得た直後は、解脱の悟りや、解脱に対するそれなりの確信というか、感触があったのです。
自分は、残りカルマが尽き、それに伴って肉体が滅んだとき、この私という存在である意識の連鎖も停止し、解脱するのだという、それなりの確信というか、感触があったのです。
でも、時間が経過していくに伴い、うまく表現できませんが、その確信や感触が薄れていくというか、どうでもよくなっていくというか、そのよな変化が生じてきたのです。
それで、正直なところとしましては、いまとなっては、この肉体が滅んだときに、私という存在がどうなるのかは、
解脱して消滅するような気もするけど、よく分からないというか、どうでもいいという感じなのです。
心境としては、解脱して消滅してくれたらそれが一番有り難いけど、もし消滅せずに続いていくことになったとしても、正直なところちょっと面倒だけど、別にそれでもいいや、
何回でも輪廻をやってもいいよ、という感じなのです。
すみません、解脱の悟りを得たと言っている本人がこんなちゃらんぽらんな感じで。(^o^)
都合のいい説明といか、言い訳に聞こえるかも知れませんが、私はもはや解脱にも拘っていないのだと思います。
続きます。
235
:
慧空
:2014/12/17(水) 20:28:08
高山さんへ(続きです)
>生きてるうちは、肉体が感じているうちは必然的に苦しいと。
これについては、イエスです。
解脱の悟りを得た人は、感じる苦しみの大小の差はあるでしょうが、肉体があって生きてる限り、苦しみを感じ続けるのだろうと思っています(ほぼ確信しています)。
その一番の理由は、解脱の悟りを得た人なら、私がいま感じているこの苦しみと同じような苦しみを感じないはずがないという確信です(これはとても感覚的なことなので、説明できません)。
>残りカルマ=肉体エネルギーということですか?
この捉え方は大分ずれていると思います。
ですから、「両者の質量は等しいと思いますか?」という考え方も、ナンセンスです。
カルマとは、その存在(自我)が過去において握りしめた考えであり、執着なのです。
そして、カルマが種となって、私という自我である意識の連鎖を引き起こしているんです。
それで、残りカルマとは、解脱の悟りを得た時点で、その存在に残っているカルマのことです。
なお、肉体等の物質も、エネルギーも考えです。
私もできれば、カルマや考えについてもっと具体的な捉え方や説明の仕方がないかと思って模索したりもしていますが、
どうやら、これ以上の具体的な説明は無理のようです。
無理に具体的な説明をしようとすると、どうしても本質からずれていくというか、欠落していく部分があり、いまく行かないのです。
>解脱の悟りを得れば、肉体の活動停止と同時に、残りカルマも消えるということですか?
この辺りは、私も完璧に理解している訳ではないのです。
私の推論を書きますと、解脱の悟りを得た人は、その残りカルマが尽きたときに、それに同期して、肉体の活動が停止するのだろうと思っています。
おそらく、これで当たっていると思います。
残りカルマが尽きるのですから、その存在に関連したすべての活動や存在も停止するんです。
続きます。
236
:
慧空
:2014/12/17(水) 20:44:17
高山さんへ(さらに続きです)
>慧空さんにこの先、「これこそが解脱の悟りだったのだ」という悟りが開ける可能性はないですか?
その可能性はまず無いと確信しています。
とは言っても感覚的な確信ですので、当てにならないと言えばそうなのですが。(^o^)
いくら説明しても当てにならないものは当てにならないのですが、少し説明してみたいと思います。
解脱の悟りを言葉や概念でこういうものだと説明することは不可能なのです。
解脱の悟りの手前の大悟や、そのさらに手前の天界の悟り(小悟)なら、まだ言葉でそれなりに表現することができるのですが、
解脱や、解脱の悟りについては、それを言葉で表現することは無理なんです。
なぜなら、解脱や解脱の悟りには、一切の考え(規定と言ってもいいです)が無いからなのです。
ですから、私は敢えてそれらを言葉で表現するとしたら、解脱とは、一切の考えが無いことだと表現することにしていますし、
解脱の悟りとは、一切の考えを掴まなくなることだと表現することにしているんです。
この「一切の考えを掴まなくなる」という心境は、究極なのです(「究極」という言葉(考え)を使わざるを得ないことがもどかしいですが、笑)。
これ以上、先はあり得ないのです。
だってそうでしょ、何も掴んでないんですから、それ以上、どうしようもないじゃないですか?(笑)
本当にここまで来れば、ここが終点であり、行き止まりだということが分かるんです。(^^)
237
:
まきりん
:2014/12/19(金) 00:06:02
マイペースでハートを壊していっています(笑)
ハートを破壊したら、今のように愛を(愛も幻ですけど)感じなくなってしまうのは、嫌だな〜と思っていたのですが、
掲示板で佐藤さんが、奥様を愛していらっしゃるというお話もしていらして、安心しました。
鋭利なもので、刺して割っていくというアドバイスもありがとうございます。
ハートを抑えてうずくまって声を出さないで叫んでいる状態になるので、家族にその姿は見せられません(笑)
238
:
慧空
:2014/12/19(金) 10:17:56
まきりんさん、おはようございます。
>ハートを抑えてうずくまって声を出さないで叫んでいる状態になるので、家族にその姿は見せられません(笑)
なるほどです。
そういえば、私もハートを焼き尽くす最終段階は激しくやっていたなあ、と思い出しました。
激しく集中する余り、背中を丸めて、ハート押しつぶつすといか、握りつぶすような感じでやっていました。
でも、佐藤さん、奥さんを本当に愛してるのかなあ?
ちょっと疑問を感じないでもないです(^o^)
239
:
まきりん
:2014/12/19(金) 10:34:47
慧空さん
また、夢も希望もないこと仰って〜(笑)
今の私の理解だと、愛も、苦からの逃避で作った概念です。
そうだとしても、人が人を思う気持ちは失いたくないです。
家族で映画ベイマックス観に行くので、感動する気持ちは保持していたいです^ ^
240
:
佐藤
:2014/12/19(金) 11:25:47
>佐藤さん、奥さんを本当に愛してるのかなあ?
その日その日でお天気のように変わります。^_^;
>ハートを抑えてうずくまって声を出さないで叫んでいる状態になる
良い手応えあれば、いいのですが。
刺す前は、恐れとか出るかもですが振り返らずイケイケどんどんです。
241
:
慧空
:2014/12/19(金) 19:25:07
まきりんさん
大丈夫です、感動する気持ちは残ります。
私、感動して結構ボロボロと泣いてますよ。(^o^)
佐藤さん
>その日その日でお天気のように変わります
なるほど、それよく分かります。
ところで、佐藤さんは大悟の直前でハートを破壊するとき、恐れがあったのですか?
ちなみに、私の場合はそういう後ろ向きな感情はまったくなく、始終イケイケどんどんでした。
242
:
まきりん
:2014/12/19(金) 20:29:43
>大丈夫です、感動する気持ちは残ります。
私、感動して結構ボロボロと泣いてますよ。(^o^)
そうなんですね〜良かったです〜**
イケイケドンドン(笑)だったんですね〜
慧空さんと佐藤さんのお陰で、
大悟しても、大丈夫だな〜と思えてきたので、ひとりになれる時間がある時は、ハートを刺してうめいていようと思います(笑)
243
:
佐藤
:2014/12/19(金) 20:46:21
>佐藤さんは大悟の直前でハートを破壊するとき、恐れがあったのですか?
はい、膜を捉えて破る直前は。^^;
>大悟しても、大丈夫だな〜と思えてきた
私の場合は、天界の悟り(大悟の前)が一番幸せだったです。
発心あったし、生活もエネルギッシュでしたし、優しい感じもあったので。
なので、生活を考えると大悟しなくて良いと思いますよ。笑
244
:
高山
:2014/12/19(金) 21:31:40
慧空さん
ご丁寧な回答ありがとうございます。
>>なお、肉体等の物質も、エネルギーも考えです。
ここが私にとって一番大きく引っかかっているようです。
「物質=エネルギー」という相対論的な観念が、金科玉条のように私にはあって、
物質もエネルギーも実体と思っているのかな?と。
「物質=エネルギー=考え」という等式がまだ成り立たない。
吟味してみて、また聞きたいことや確認したいことが出てきたら、書き込むことにします。
取り急ぎお礼まで。ありがとうございました。
245
:
まきりん
:2014/12/20(土) 08:54:11
佐藤さん
>天界の悟り(大悟の前)が一番幸せだったです。
発心あったし、生活もエネルギッシュでしたし、優しい感じもあったので。
なので、生活を考えると大悟しなくて良いと思いますよ。笑
アドバイスありがとうございます。
そうですねー。ワクワク感も感じられるので、今までの人生で今の状態が一番快適なんです。
なので、暫くこのままでいてもいいかな〜
外への興味が薄れてきて、興味があるのは、大悟なんですが、大悟したら恐れも薄れる分、ワクワク感もなくなるんだろーなと思います。
今もエネルギッシュではないですが、これ以上ノラリクラリの状態になると自他共に困るかもですね〜。
能動的にハートを破壊していかなくても、破壊される時は来るかもしれないので、確信犯的にワクワク感を感じるのもいいかもしれないと思いました(笑)
246
:
児玉
:2014/12/20(土) 10:49:00
ならば天界の悟りに留まれば良かったようですね!お金や仕事のカルマにもわずらわされず。
247
:
まきりん
:2014/12/20(土) 13:45:52
ハートに意識を向けなくても、自然とハートからの呼吸が始まってしまいます〜
少しずつ溶けているのかな〜
児玉さん
私も、佐藤さんに天界にとどまっていれば良かったのに、何で進んだんだろ?と思ったんですが、たぶん、ハートを感じた時点でもうとどまれません(笑)
248
:
児玉
:2014/12/28(日) 00:13:13
その日、その日でお天気のように変わる?
249
:
空ちゃん
:2014/12/28(日) 08:02:55
変わらないよ。
250
:
空我
:2014/12/29(月) 11:24:37
変わるのは心が揺れているから。
251
:
高山
:2015/01/03(土) 20:48:01
慧空さん
以前質問した者です。その節はありがとうございました。
いただいたレスを吟味してみて、聞きたいことが出てきたのでお聞きします。
全てが「考え」であるとして、そもそも「考え」とは何なのでしょうか?
「考えとは考えであり、それ以上でもそれ以下でもない」としか言えないものなのか?
あるいは言葉を尽くせば、
「どこから出てきて、何で出来ていて」というようにある程度説明のできるものなのか?
私は「考え」とは「全ては意識である」とする唯識の「識」的なものとして類推してはいるのですが、
あくまで観念的な知識であって、確信できていません。
「考え」とは何なのでしょう?
252
:
慧空
:2015/01/03(土) 21:22:40
高山さん
「考えとは何か」、ここをぜひご自分で追求して頂きたいところですが、
私のブログを読まれるとその答えは書いてますので、ここでも書いてしまいますね。(^^)
私に起こってきている考え(認識と言ってもいいですが)に意識を集中して、徹底的に観察していくと、
考えが、カメラの連写のように、パッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に起こってきていることが分かるんです。
そのとき、そこには連鎖的に起こってくる考えだけがあり、それ以外のものは何も存在しないのだということが実感として分かるんです。
そこには、私という存在(自我)もありません。
敢えて言えば、その連鎖的に起こってくる考えそのものが私であるという理解が得られるのです。
結論として、考えとは私(自我と言ってもいいです)そのものであるということになります。
そしてここが、、考えや私という存在に対する理解の限界点になります。
考えや私という存在について、それ以上追求することは不可能なのです。
例えば、考えはどこから起きてくるのだろうとか、
考えは何によって構成されているのかとか、
どうして私という存在が生成されたのか等の追求に対する解答を得るのは、
永久に不可能なのです。
考えについて推測を使って精一杯の追求をして、
考えはどうやら何も無い完全な無(この「無」も既に考えですが、笑)、
もっと言えば、考えの一切無いところから生じてきているようだという推測をするのが精一杯なのです。
なお、この私の理解は唯識派の理解と類似してますが、彼ら唯識派は肝心要のところで、
私という絶対的なものが有ると言ってしまっていますので、私の理解とは根本的に異なります。
こんな感じでお答えになりましたでしょうか。
253
:
なか
:2015/01/04(日) 13:59:46
慈悲の瞑想なしのビパサナ、自覚ワークは、禅でいう魔境に墜ちやすく危険ではないですか?
254
:
新田
:2015/01/04(日) 15:29:13
同感です。集中力だけが高まり慈悲心が醸成されないと、思考パワーの現実化能力を自我欲求のままに使っていくことになりますから。仏道とは異なる世界。
255
:
ベリアル
:2015/01/04(日) 15:47:51
幸せになりたい人は、それでいいんじゃない。悟りによって幸せになれると勘違いしてる人がほとんどだから。
精神世界ビジネスや投資で金儲けして安心に生活したいという本音が言葉のはしばしから感じられるが、それが自然。
256
:
児玉
:2015/01/04(日) 16:07:47
自覚に『本当に』迎えること自体カルマ、縁ではないでしょうか?
異性に恵まれず結婚できない寂しさ、仕事や人間関係が上手くいかない、経済的生活基盤が確立できないため無意識にお金をもとめている。まず在家修行なら、自覚ができる環境、ワークライフバランスのカルマが、暇な主婦の方のように必要なのでしょうか?
257
:
リアル
:2015/01/04(日) 20:14:38
一理あるかもしれませんね。
258
:
高山
:2015/01/05(月) 22:45:09
>>252
慧空さん
回答いただき、ありがとうございます。
助かります。
>>考えとは私(自我と言ってもいいです)そのものであるということになります。
そしてここが、、考えや私という存在に対する理解の限界点になります。
考えや私という存在について、それ以上追求することは不可能なのです。
なるほど。
たしかに「考え」について「考え」で答えることはできないですね。
「考え」を「考え(言語の分節機能?)」で分解しようとしても、分かちようがないというか。
>>彼ら唯識派は肝心要のところで、
私という絶対的なものが有ると言ってしまっていますので、私の理解とは根本的に異なります。
この認識がありませんでした。
唯識とは「全てが意識」で、「私」もその中に溶けて一体化するのだと認識していた。
でもそれだと「私」が「全てが意識」になっただけで、いぜん「全てが意識な私」として残っているのか?
ヴェーダの「梵我一如」のように、「小さな自分」が「大きな自分」になっただけで…。
理屈で考えすぎかもしれない。
考えを手放す時間を増やしてみます。
ありがとうございました。
259
:
慧空
:2015/01/06(火) 12:17:56
高山さん
唯識派の中枢部にいた方々が、基本的には唯識(認識しかない)を言っているのにかかわらず、
「私」は絶対的な存在として有ると言うことになってしまうのか、
私にも謎なんです。
一つの可能性として、当時の唯識派の方々は、大悟に至るほどの悟りを得ておらず、
悟りを得ていたとしても小悟程度だった可能性はあるのだろうと思っています。
そして、悟りを実践として追求するのではなく、思考で学問(哲学)として追求していた可能性があるとは思っています。
何しろ、あの龍樹も大悟は得ていなかったのですから、唯識派の方々についても、十分にあり得ることだと思っています。
260
:
空我
:2015/01/06(火) 21:26:24
なるほど。
261
:
高山
:2015/01/06(火) 21:43:04
慧空さん
私はここ数年、大悟を目標に公案禅に参じてきたのですが、何故か解脱が目標ではありませんでした。
いま思えば私の老師が、慧空さん言うところの大悟の悟りの方だったからなのかもしれません。
開祖の釈迦は解脱したとされているのだから、よく考えるとおかしなことですね。
その境涯に触れないというのは。
また私の感覚では、坐禅は釈迦由来のインド仏教よりも、中国の道教、老荘思想の要素の方が強い気がしています。
仏教の「空」と老荘の「道(タオ)」が混ざり、あるいはすり替わったような。
タオを感得し、無為自然に生きられれば、それはそれで苦しみも減るとも思いますが…。
龍樹の提唱した縁起という概念は、禅定と並行して行なう座学では大いに役に立っていると私は思っています。
見性以降の世界の見えかたを言語で他人に説明(あるいは自分自身で整理整頓)する際、とても便利だと思います。
まあでもそれは学問であり、言語、思考、観念の世界のものですね。
龍樹の悟りの程度がどのくらいだったのか、まだ私にはわかりませんが…。
推薦されていたバーナデットロバーツとアーチャンチャーの本も読んでみました。
私の印象では、前者の方が「行くとこまで行った感」がありました。
「唯識の「識」すら消えるのか? 消えるのだな…」のようなことを思いました。
後者は本人の言葉が少なく、編纂者の弟子の見解(通りいっぺんな)が多すぎたせいもあって、
あまり読んでいてピンと来ませんでした。まあそれは釈迦のことばもそうですが。
悟り臭さが完全に抜け切っているせいかもしれませんね。
慧空さんは解脱の悟りを得たのは釈迦だけと言っていますね。
それはたとえば岩波文庫で「ブッダのことば」として出ているスッタニパータや、
ダンマパダ、阿含経など、釈迦の言葉とされている初期仏教の経典から感じられたことですか?
262
:
慧空
:2015/01/06(火) 22:24:27
高山さん
座禅を殆ど知らない私が言うのは問題があるのかも知れませんが、
仰る通り、お釈迦様の教えと禅は、かなりかけ離れていると思います。
唯一共通しているだろうと思うところは、
修行の中に、呼吸に集中して瞑想する数息観を取り入れているところだけだと思っています。
お釈迦さまは、基本的に、数息観で集中力を養った後は、
自分に意識を向けて、自分の意識の迷いに気づきなさいとしか言わなかったのだろうと思います。
縁起は、龍樹が提唱したものではなく、お釈迦さまが提唱したものですよ。
龍樹が主にフォーカスしたのは、「空」です。
>「唯識の「識」すら消えるのか? 消えるのだな…」
これが、禅定の最深部である完全な無我、涅槃です。
彼女は独りでに涅槃に落ちてしまう方のようです。
でも、禅定と悟りとは基本的に全く別のものですから、この点、誤解なさらないように。
現に彼女は、「在り続けたい」という強い執着を持ち、迷いの中にいます。
>それはたとえば岩波文庫で「ブッダのことば」として出ているスッタニパータや、
>ダンマパダ、阿含経など、釈迦の言葉とされている初期仏教の経典から感じられたことですか?
どうしてお釈迦さまが解脱した思うのか、実は私自身にもよく分からないのです。
まず第一に、なぜだか、感じるようにしてそう思ってしまうのです。
その直感の一つとして、例えば「無明」という言葉があります。
私にはこの「無明」という言葉が、言葉にできはいほど深く響くのです。
それとこんな点も、共感を感じています。
お釈迦さまの言葉がどこまで正確に伝わっているか大いに疑問ではありますが、
お釈迦さまが解脱の悟りを得られたとき、それはとてもシンプルな気づきだったとのことでした。
その気づきが余りにも簡単なものであったため、その気づきを誰かに話しても、それを真面目に聞く人はいないだろうと思ったとのことでした。
解脱の悟りは、まさにその通りでして、本当にとても簡単であまりにも有り触れた気づきなのです。
第二の理由としては、お釈迦さまが縁起をご存知だったことです。
縁起には、解脱の悟りへの深いヒントが秘められているのです。
その視点には、どうして私たちが迷ってしまうのかについてのヒントが秘められているのです。
そんな感じなのですが、何か気になられることがありましたら、遠慮なく仰ってくださいな。
263
:
高山
:2015/01/12(月) 23:04:32
慧空さん
>>
どうしてお釈迦さまが解脱した思うのか、実は私自身にもよく分からないのです。
まず第一に、なぜだか、感じるようにしてそう思ってしまうのです。
その直感の一つとして、例えば「無明」という言葉があります。
私にはこの「無明」という言葉が、言葉にできはいほど深く響くのです。
>>
お釈迦さまが解脱の悟りを得られたとき、それはとてもシンプルな気づきだったとのことでした。
解脱の悟りは、まさにその通りでして、本当にとても簡単であまりにも有り触れた気づきなのです。
こういうことが起きているのですね。
体験をされて、そのことに確信がある方から出て来ている言葉なのだな、と思います。
釈迦の悟りにしても、私含め、多くの人が快楽の絶頂のような至高体験を想像していますが、
それだけに慧空さんの所感には真実味を感じます。
やはり体験することですね。本を読んであれこれ推測してもどんどん遠のくばかりで…。
慧空さん推奨の自覚法を、去年3ヶ月ほど試してみたのですが、胸に「私」をどうしても感じられず、中断しました。3年くらい前までは、胸の中心部にはっきりと感じていたのですが、一昨年、去年と、「私」の位置がみぞおち、そして下腹部へと降りていき、胸は空き家のような感覚に(対人関係で大きな緊張に遭遇する時は、今も胸で衝撃を感じるので、「私」は残っていると思うが、内観では頑張っても見つけられない。また大金を損した時などは、私の場合はお腹に力が入らなくなり、気力が失せていくのがよくわかるので、腹にも「私」はいると思っています。こちらは内観でも確かな感覚として感じられる。坐禅中は下腹部で「私」を感じています)。
これまで参じてきた坐禅には少なからず失望していますが(先輩方を見ているとむしろエゴの強い、鼻持ちならない奴になってる方が圧倒的に多く、「こうはなりたくないな」と)、乗りかかった船、行ける所まで行こうと思ってます。いずれ船を降りる時が来るかもですが、その時まで。
坐禅の体系には或いは、安全装置のようなものが取り付けられている気もします。
行き過ぎてしまわないように。
皆が一気に解脱してまとめて勤労意欲を失ったら、社会生活が成り立たなくなるでしょうから。
まあそれでも人間は生きていくだろうし、真剣に発心している人には、「安全装置」などありがた迷惑だと思いますが。
ともあれ、これからもブログと掲示板、修行の参考にさせていただきます。
この度はありがとうございました。
264
:
慧空
:2015/01/18(日) 20:48:48
>>263
高山さん
すみません、高山さんの上の書き込みに気づいていませんでした。(^_^;)
長文のお返事、ありがとうございます。
>対人関係で大きな緊張に遭遇する時は、今も胸で衝撃を感じるので、「私」は残っていると思うが、内観では頑張っても見つけられない。
不安や恐れを感じるうちは、まだハートがある(あるいは、ハートに「私」がある)証拠です。
ハートが消失すれば、不安や恐れは殆ど起こらなくなるのです(でも、面白いことに、感動や共鳴は起こり、涙も流れます,笑)。
なお、不安や恐れが無くなっても、必ずしもハートが消失したことにはなりませんので、ここはご留意ください。
>腹にも「私」はいると思っています。
そのようなことを仰る方は、他にもおられますので、どうやら腹(特に丹田)にも「私」の要素はあるようですね。
私の場合は、自覚を始めたとき既に、腹の「私」は消失していましたので、よく分からないのですが。
>これまで参じてきた坐禅には少なからず失望していますが(先輩方を見ているとむしろエゴの強い、鼻持ちならない奴になってる方が圧倒的に多く、「こうはなりたくないな」と)、乗りかかった船、行ける所まで行こうと思ってます。いずれ船を降りる時が来るかもですが、その時まで。
はい、高山さんのお好きなようにされてください。
265
:
dogs
:2015/01/20(火) 00:55:38
こんばんは。自覚ワークを通勤時や湯船につかりながら、寝起きなどで行っています。
はじめてから五感がクリアーになり、視界も啓けたようで人の表情を見るのが楽になりました。少し前までは表情を観るのが嫌でしたね。
また、年少時の些細な記憶が割とよみがえります。自覚は内観ではないと
思っているのでそれらの過去の記憶を深追いせずに、そんなこともあったなぁーーと
いう按配で流しています。
自覚についてこんな感じでぽつりぽつりと行っています。
266
:
慧空
:2015/01/20(火) 08:08:02
dogsさん
自覚と内観の関係について、少し書かせていただきますね。
自覚と内観は結構似ている部分というか、共通する部分もあるのです。
内観は、ただ観る、観照する点にウエイトがあるのだろうと思うのですが、
自覚は、観ること(観察すること)よりも、むしろ「私」にウエイトがあるんです。
自覚の場合、「私」に意識を向けるだけで自覚になるんです。
「私」に意識を向けていさえすれば、観ることは自ずと伴ってくるんです。
意識のウエイトが「私」に維持されていれば、自ずと、起こってきた現象や感情や思考に巻き込まれることなく、
それらをただ観察するようになるのです。
こう書くと、やっぱり自覚はすごいなあと思ってしまいました。(^o^)
267
:
dogs
:2015/01/20(火) 08:56:55
>自覚は、観ること(観察すること)よりも、むしろ「私」にウエイトがあるんです。
>自覚の場合、「私」に意識を向けるだけで自覚になるんです。
ご指摘、ありがとうございます!
視覚的イメージが強くなっているので、そちらに捕らわれていました。
268
:
空我
:2015/01/25(日) 16:48:09
自覚は、私を強く身体的に感じる
部分から順番に行う場合、頭と腹が同じ程度で、日によっては胸で感じる場合どうすればよいのですか?
269
:
慧空
:2015/01/25(日) 18:36:44
空我さん
私に意識を向けるときの要領について、空我さんは誤解されているのかも知れません。
念のために申し上げますと、自覚は「私」に意識を向けるのあって、身体のどこかの部分に意識を向けることではありません。
できるだけ、身体のことは気にしないで、シンプルに「私」に意識を向けてみてください。
と言いましても、実際には、「私」を捉えられていない方は、どこにどう意識を向けたらいいのかよく分からないと思います。
そういう方は、例えば、自分の身体を貫く中心軸をイメージして、その中心軸に意識を向けてみて頂きたいと思います。
それでもよく分からない方は、縦方向における中心軸のどの部分(頭か、ハートか、腹か、それとも全部か)に意識を向けたらいいのか分からないと思われるかも知れません。
そういう方は、中心軸の自分が意識を向けやすい部分に意識を向けられたらいいと思います。
あるいは、よく分からない方は、シンプルに身体を貫く中心軸をイメージされ、その中心軸に意識を向けられたらいいと思います。
こんな感じで一度試してみて頂きたいと思います。
ご質問等、遠慮なく仰ってくださいな。
270
:
ベルゼバブの息子
:2015/01/30(金) 08:53:09
自称大悟者って、やはり多いですね(笑)
271
:
たかし
:2015/08/23(日) 21:52:52
観察ではなく「わたし」にひたすら意識を向ける、なぜか凄く腑に落ちました!ありがとうございます。
272
:
慧空
:2015/08/23(日) 22:43:32
へー、こんな掲示板、しかもかなり昔のスレッドを読んで下さる方がいるのですね。
たかしさん、書き込みありがとうございます。(^^)
273
:
たかし
:2015/08/25(火) 09:02:25
意識が私に集中できる時は、頭がなくなった感じがしますが、そうならない時は状況に判断が生じてしまいます。
274
:
慧空
:2015/08/25(火) 20:03:13
たかしさんて、もしかして、名前を変えてここに何度も書き込みをされている方じゃないですか?
もし間違っていたら、すみませんですけど。
275
:
関西40歳独身
:2015/08/26(水) 19:14:34
皆様 宜しくお願いします。今日の気づきを一つ。以前からお金に関する執着、なにか握りしめているものがあるな、と分かってはいたのですがハッキリわからないのです。もう買いたいものは何もないですし、預金通帳に大金が記帳されたイメージを想像してもちっともハート、その他が反応しません。もしかしたら「俺は無能じゃないんだ!大金を稼ぐ能力があるんだ!」という事を実感・納得、又は人に認めさせたいのかな?と推理してみるのですがやっぱりしっくりきません。そんな状態で何ヶ月も過ごしていた今日この頃だったのですが、本日はハートのコアをそろそろ結晶化させてみようと思い、通勤中、仕事中、休憩中ととにかく 私、私、私、とやっておりました。....パッと出てまいりました。「実際にあなたの収入は少ないでしょう!」と言われた過去の記憶が。もう忘れたつもりになっていたのですが、その時の怒りとか血圧が一気に上がった感覚などが蘇ると同時に、ハートがギュンギュン反応するのがわかりました。ここからが本題なのですが、正義や道徳、常識などボワっとした概念への囚われについて気づきが起こりすぐに手放しが起こる場合もあるとは思うのですが、少しヘビーな囚われ、思い出したくない、なかったことにしたいような具体的なエピソードがヒントになる場合もあるのだなと実感した次第です。そんなの当たり前ですって?すみません、私は自覚で初めて自分のことが少しわかるようになりました。
276
:
関西40歳独身
:2015/08/26(水) 21:08:30
連続書き込み申し訳ありません。
今日は自覚の調子(?)が良いようなので、気づきがもう一つありました。
275の投稿は帰りの電車の中で自覚をしながら投稿したのですでが、
最近は帰ってすぐに部屋を暗くして結跏趺坐で背筋を伸ばして1時間程度、
また寝る前に1時間程度自覚瞑想をするようになっております。座った瞬間に、
母に認められ、褒められたかったんだなという理解が生じました。
というのは慧空先輩、自覚と出会って以来、自分の行動や思考に意識を向ける
ようになって、自分の他人に対する態度といいますか、そういうものに
少し違和感を感じるようになっておりました。何故、相手を楽しませるように、
気に入られるように、ミステリアスに見えるように、自分を大きく見せるように、
褒められるように、大げさに振る舞ってしまうのでろうかと。
証拠は?と言われると証明しようがないのですが、恐らく母に褒められた実感がほとんどないことから、
恐らく他人を代替手段として実感しようとしているのだと理解しました。
(モテたいってうのもあるかも(汗))
このままでは私の日記になってしまいますので....。
・まず、違和感、自分でしっくりこない感覚を見つけて意識する。
・しっくりこない理由を無駄でも一応理性で考えてみる。
・集中力が持続しそうな瞬間、または比較的思考が穏やかなタイミングで自覚
を実践してみる。
・上手くできなくても今のところ、大金をむしり取られたり暴力を振るわれたり
実害があるわけではないのだからとりあえず「信じてみる」
・理性で「解る」のとは違った「あっ....」っという理解がきっと起こる。
・「あっ....」が増えるにしたがってコツがわかって自覚が身についてくる。
・囚われが少なくなるにつれて思考が更に穏やかになって「落ち着く」。
・素直な方は「覚醒」「大悟」「目覚め」の概念がどうでもよくなり、「自分を知る」
ことに没頭する。
・自己嫌悪や納得できない!というエネルギー、パワーが、最後まで尽きなければ
最後は....。
以上、自覚初心者の活動報告でした。
277
:
慧空
:2015/08/26(水) 21:15:04
関西独身さん、こんばんは。
連続書き込みも、日記にように使ってしまうのも、ぜんぜん大丈夫ですから、
遠慮なくなんでも書いてくださいな。
ただちょっと気になったことがありますので、書かせていただきますね。
「うまく自覚できた」というその感覚や、そのときの実感にあまりこだわられない方がいいです。
「うまく自覚できた」というものも考えですから。
「今日はうまく自覚できた」とか、「今日はうまく自覚できなかった」とか
考えているのは誰ですか?、というやつです。
278
:
関西40歳独身
:2015/08/26(水) 21:24:22
こんばんは、慧空先輩。そうなんですよね....。私は活動の初めから「悟り」が
欲望としてあるのでどうしてもそこがネックですし、「ネック」だと考えてしまう
思考もあります。実際には色々な気づきもすぐに忘れてしまうので昔ほど「あれか、これか」
という思考は減っているとは思いたいのですが。アドバイスありがとうございます。
279
:
名無しさん
:2015/08/30(日) 18:35:38
感覚を観ることも私を観ることとは?
280
:
慧空
:2015/08/31(月) 10:35:23
自覚の基本は、「私」に意識を向けることです。
それを基本として、意識のウエイト(軸足)を「私」に保ちながら、
「私」に起こってきた考えや、「私」がつくりだした考えについて、
「これは私に起こってきた考えなんだ」
あるいは、「これは私がつくった考えなんだ」と
ひとつひとつ丁寧に徹底的に自覚するんです。
これが自覚の基本的なやり方です。
感覚を観ることも私を観ることと言えば、それは確かにそうなのです。
すべては、「私」の考え(認識等)であり、「私」なのですから。
しかし、感覚を観ることにウエイトを置かないで頂きたいのです。
意識のウエイトは、あくまでも、「私」に置いておいて頂きたいのです。
その上で、起こってきた考えについてそれを自覚して頂きたいのです。
281
:
めがね
:2015/08/31(月) 10:36:27
書き込みに気付かれてない様なので私が
感覚にもいろいろあると思いますが
怖い時に起こる体の反応(感覚)ゾクゾク、
何処かに体が当たって(当たらなくても)痛い(感覚)
性的な体の反応などなど色々ありますが結論から言いますと
「感覚+考え」こんな感じでセットになってくるので
例えば私が解り易かったのが怖いテレビ番組を見ます(わざと見て考えを作るのを何度も観察するのが解りやすいですよ(笑)
そうしますと怪奇現象などおこるとゾクゾクして(感覚)+怖い(考え)を作り
掴んでしまいますのでその感覚が来た時に気付いていられるようになると
その怖いとゆう考えに翻弄されにくくなります。(^^)
282
:
めがね
:2015/08/31(月) 10:37:55
1ぷんおそかったですね〜
283
:
慧空
:2015/08/31(月) 10:41:44
めがねさん、どうもです^^
284
:
佐藤
:2015/08/31(月) 19:37:04
今日 本心から出た言葉は、こんちくしょう
です。マインドが全く役に立たなく笑
285
:
めがね
:2015/08/31(月) 20:53:55
佐藤さん
お疲れ様です。(^^)
めんどくさい?!大変なこち?!が
あったんですね(^^)
いつか直接お会いして語り合いたいと感じました。
286
:
佐藤
:2015/09/01(火) 07:27:14
ありがとうございます。
おそらく存在苦に絡むようなものだと思います。笑
お話したいですね〜
287
:
名無しさん
:2015/09/11(金) 09:05:04
一切皆苦、肉体にある限り自覚が深まると逃げ場がなくなりますね!
288
:
関西40歳独身
:2015/09/17(木) 13:02:25
中間報告です。
ハートのコアをハッキリさせようと
思い立って、発心の気持ちが高まった瞬間に、どうにかなってしまうんじゃないかというくらい自覚をやってみたところ、以前よりもハッキリコアを感じるようになりました。と同時に頭部や眉間の圧迫感や胸の焼けるような熱感は忘れてしまうくらいなくなってきております。関係があるかはわかりませんが、内臓が異常にポコポコと活発に動くようになったり頭頂の内部で時計と逆回転で何かがグルグルと回る感覚があったりと、もう何がなにやら^^; それらも収まった頃ですが、困ったことに肝心の自覚が非常にやりにくくなっております。眠気のある時に勉強するような感覚で、気づいたら全く進んでいない感 満載です。その時の自分を自覚すればよいのでしょうがそれもやっぱりやりにくい。ここ数日は「自分の自尊心」と心の中で自分に問いかけて感謝を述べると共に、もう頑張らなくてもいいよ、と説得してみたり妄想が浮かんだ瞬間に「妄想はマイナスだ」と一瞬よぎる感覚を感じてそれを掴んでいる自分を自覚してみたりしています。面白いと思ったのが「自分の自尊心」という言葉でハート反応するのに「自分のプライド」と
289
:
関西40歳独身
:2015/09/17(木) 13:05:21
途中書き込みすみません。「自分のプライド」ではハートがあまり反応しなかったことです。うーん よくわからん^^;という感じです。
290
:
慧空
:2015/09/17(木) 18:36:41
関西独身さん
経過報告、ありがとうございました。
関西独身さんが熾烈なほどに自覚に取り組まれていることがよく分かりますし、
興味深くもあり、また、なんと言えばいいのでしょうか(決して軽んじてる訳ではないのですが)、
私としてはとても面白く読ませて頂きました。
例えば、「内蔵が異常にポコポコ」というのは、私自身もその感覚はもの凄くあり、
「そうそう」などと思いながら、読ませて頂きました。
ちなみに、そのポコポコは主に丹田が活性化しているというか変化(徐々に丹田が消失していっているのかも)
と関係があるのだろうと思っています。
また、「妄想はマイナス」等の囚われは、私にも根強くありました(笑)。
妄想や分別を無理ヤリ止めようとして、意識的な面でも肉体的な面でも窒息しそうになったこともありました(知らないうちに、思考だけでなく、息も止めてしまっていたのです、笑)。
また、「自分の自尊心」は反応があるのに、「自分のプライド」では反応がないというのも、
よく分かるような気がします。
囚われには、そういう微妙なところが確かにあるんです。
応援しておりますので、引き続き、頑張って頂きたいと思います。(^^)/
291
:
関西40歳独身
:2015/09/18(金) 00:11:27
慧空先輩こんばんは。楽しく読んでいただけて嬉しく感じています。正直言いまして
自分は偉い!という自尊心のせいなのか、恩返しできなかったら...という不安なのか、
猜疑心のせいなのか、わからないのですが、報告するのも少し勇気がいります。
少し前から過去に体験した「見るものは見られるもの」の感覚をもう一度!!という囚われ
が自分で分かりすぎる程出てきていましたので、今日から「私の欲望」「私の思惑」
「私の魂胆」など色々言葉を変えながら試しております。また進展(後退?)がありましたら
報告させて頂きます。励みになります!有難うございました。
292
:
自覚初心者
:2015/10/23(金) 14:43:26
慧空そん初めまして!
最近自覚を始めた者です。
ハートに意識を向けると、ハートに集中出来ていないほんの瞬間に思考がやって来ますが、その一瞬の、思考が飛び出した瞬間に気付く「あっ!」と言うのは自覚になるのでしょうか?
それとも、思考に気付いたと言うただの思考であり、(思考で思考を捉えてる)、自覚による気付きではないのでしょうか?
基本中の基本である質問で申し訳ありません。
また、過去にこれに似ました質問があれば、重ねてお詫び申し上げます。
293
:
自覚初心者
:2015/10/23(金) 14:44:40
すみません、慧空さんと打ちたかった所を、大変失礼しました!
294
:
慧空
:2015/10/23(金) 17:30:25
自覚初心者さんへ
書き込みありがとうございます。
この掲示板で自覚についての話題が出るのは久し振りで、うれしかったです。
何でも気軽に質問してくださいね。
過去の記事のことなんか気にされないで結構です。
気になられることを気軽に質問くださいな。
>ハートに意識を向けると、ハートに集中出来ていないほんの瞬間に思考がやって来ますが、その一瞬の、思考が飛び出した瞬間に気付く「あっ!」と言うのは自覚になるのでしょうか?
その「あっ!」という気づきは、まさに自覚によるものであり、自覚になってますよ。
初心者さんは、思考をほぼ完全に停止させられるのですね。
自覚に取り組まれるのに十分な集中力を既に持っておられるのだろうと思います。
その調子を集中力を「私」に向けて頂きたいと思います。
>それとも、思考に気付いたと言うただの思考であり、(思考で思考を捉えてる)、自覚による気付きではないのでしょうか?
この「思考で思考を捉える」という表現は、自覚に関する本質的な部分を含んでいて、確かに、自覚は考えで考えを捉えるという側面があるんです。
少し書きますと、一切のことがらは思考であり、考えですから、
自覚という概念も、「私」も、そして「私に意識を向ける」ということも、すべて思考であり考えなんです。
しかし、「私」や「私に意識を向ける」という考えは、考えの中で最いものなのです。
自覚の最初の行程は、まずは「私」以外の考えについて、「この考えは私の考えなんだ」と自覚していくことで、
私以外のすべての考えが「私」の考えであるということを腑に落としていく行程ということができるんです。
この行程など、まさに、より深い「私」という考えで、それ以外の考え(囚われ)を削ぎ落としていくようなものなのです。
295
:
慧空
:2015/10/23(金) 17:32:53
誤字訂正です
しかし、「私」や「私に意識を向ける」という考えは、考えの中で最いものなのです。
→しかし、「私」や「私に意識を向ける」という考えは、考えの中で最も「深い」ものなのです。
296
:
自覚初心者
:2015/10/23(金) 21:45:09
慧空さん、お忙しい中、ご丁寧かつ温かいお声がけをありがとうございます。
本当なら、全ての書き込みをきちんと読んで確認してから質問をするべきなのですが、
私は全くの初心者で、仏教や精神世界の知識がなく、また自身の体験もないために、こちらに書き込まれている皆さんの内容が、自分のものとして理解出来ず、イメージとなって頭に取り込まれてしまうため、一部目を通さず飛ばさせて頂いています。
これからも質問等させて頂きたいのですが、他の方と重複する内容があれば、どうかお許し下さい。
>思考をほぼ完全に停止させられるのですね。
いいえ、とんでもないです!絶えず頭の中はお喋りしています(笑)
私に集中しても、すぐに「それで良い!」とか「そうそう!」とか「もっと深く!」と、絶えず喋っています。
私への集中と思考との間を秒単位で行ったり来たりとしている状態で、継続しての集中は全くと言っていい程出来ていません。
あまりにも瞬間の事で、私に集中出来ている感覚と言うのがまだ曖昧で、思考に気づいた時の「あっ!」によって初めて、それ以前の瞬間は私に意識が行っていたのだなと分かる程度です。(思考が出た事によって、思考していなかった瞬間に初めて気付く)
私に集中すると、自然と吐く息がゆーっくりとなり、吐く息に合わせて、ぐぐーーっと、胸の中心にある私をえぐる様にツボ押しする感覚なのですが、これをすると息を吸う瞬間に集中が切れてしまいます。
やり方がまずいのでしょうか?
また息を吐きながら、深く押し入っていく感覚を実感するのですが、実感と言うのは思考している事になるのでしょうか?
感覚に集中しているので、思考を捉えられてはいないのですが、実感=「深く入っていってるなぁ〜」と自覚出来ていないだけで、本当は頭の中で喋っているのでは?と疑問に思いました。
この声を自覚しようと試してみたのですが、それをすると今度は私に集中出来ず、深く入っていく感覚が実感出来ないので、この声を捉えられていません。
私の中で自覚とは、思考が走る瞬間と、それ以外の私に集中出来ている瞬間のこの2通りしかないと思ってるのですが、あっていますでしょうか?
頭でっかちな質問で申し訳ありません。感覚が曖昧なため、きちんとお伝え出来ているかも不安です。
お忙しい中何度もすみませんが、私の道が自覚から外れていないかどうか、ご指導頂けたら幸いです。
この「知りたい、分かりたい」と言う衝動も自覚しなくてはいけませんが、質問だけと甘えさせて頂きました。
297
:
慧空
:2015/10/24(土) 18:08:59
自覚初心者さんへ
>私に集中すると、自然と吐く息がゆーっくりとなり、吐く息に合わせて、ぐぐーーっと、胸の中心にある私をえぐる様にツボ押しする感覚なのですが、これをすると息を吸う瞬間に集中が切れてしまいます。
やり方がまずいのでしょうか?
「私」に対しそれなりに集中できておられるようには思うのですが、少し微妙にずれているというか、
ちょっとした違和感を感じてしまいます。
どうお伝えしたらいいのか難しいのですが、ひとつ言えることは、おそらく呼吸を意識し過ぎておられるのだろうと思います。
呼吸など気にする必要はないんです。
呼吸など放っておいて、ただただ「私」に意識を集中されたらいいんです。
本当に「私」に、もっと言えば「私」だけに意識が集中すれば、呼吸のことなど殆ど気にならないし、
忘れてしまっているはずなんです。
強烈なまでに「私」に意識を集中すれば呼吸は自ずと止まっていたりするのですが、
それは集中の結果、そうなるのであって、あくまで本筋は「私」に意識を集中することなんです。
続きます。
私の中で自覚とは、思考が走る瞬間と、それ以外の私に集中出来ている瞬間のこの2通りしかないと思ってるのですが、あっていますでしょうか?
298
:
慧空
:2015/10/24(土) 18:14:14
>私の中で自覚とは、思考が走る瞬間と、それ以外の私に集中出来ている瞬間のこの2通りしかないと思ってるのですが、あっていますでしょうか?
この感覚というか理解は、当たっている部分があると思います。
しかし、ここが肝心なのですが、その「私に集中できている瞬間」も、「私」の考えなのです。
なぜなら、その「私に集中できている瞬間」と言っているのも、それを認識しているのも「私」ですから。
ですから、思考がほとばしっているときも、思考が殆どゼロに抑制されているときも、ただ淡々と、「私」の考えなんだと、
自覚して頂きたいのです。
さらに何かありましたら、遠慮なくどうぞ(^^)/
299
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 01:21:17
慧空さん、お返事頂いていたのに、遅くなってしまいすみません。貴重なアドバイスをありがとうございます。
>「私」だけに意識が集中すれば、呼吸のことなど殆ど気にならないし、忘れてしまっているはずなんです。
確かに呼吸にも意識が行っていました!
悲しい思いをして胸が傷んで
いる時などは、始めから「私」を感じるため集中しやすく、今思うと呼吸の事など全く気にならなかったのに、普段の生活の、感情の起伏が薄い時に行うと、私が捉え辛く、呼吸を深く吐きながら徐々に私を捉えると言う、手探りな方法で行っていた様に思います。自覚を続けていくと、感情の起伏がない時でも簡単に「私」を捉える事が出来る様になるのでしょうか?
>「私に集中できている瞬間」も、「私」の考えなのです。
なぜなら、その「私に集中できている瞬間」と言っているのも、それを認識しているのも「私」ですから。
前回の私の質問と重複してしまうのですが、やはり「実感=私の考え」と、とらえて良いのでしょうか?
何度も同じ様な事を聞いてしまい申し訳ありません!
またその場合、どこまでが私の考えとして自覚対象になるのかについてですが、
自覚開始→私に集中→集中出来た瞬間→集中出来てると思った私を自覚(あ!今、出来てると思った)、と、ここまででこの思考を断つと言う事でしょうか?
また私生活の作業の中で、自覚を取り入れたいのですが、例えば皿洗いをしながら自覚をすると言うのは、私に意識を向けつつ、手を動かすと言う事で合っていますでしょうか?
私は、私に意識を集中すると全ての動作が止まってしまうのですが、本来なら、意識は「私」から離れず、皿洗いの動作は完全な無意識状態で行うと言う事でしょうか?
立て続けに、ちんぷんかんぷんな質問ばかりすみません。自覚を続けるにあたり、基本的な所でつまずいております。
またお時間のある時にご返答頂ければ幸いです。
300
:
慧空
:2015/10/26(月) 07:02:12
自覚初心者さんへ
>自覚を続けていくと、感情の起伏がない時でも簡単に「私」を捉える事が出来る様になるのでしょうか?
はい、そうです。
>前回の私の質問と重複してしまうのですが、やはり「実感=私の考え」と、とらえて良いのでしょうか?
初心者さんがどのような「実感」を感じられているのかは分かり兼ねますが、
「実感」にも余り拘らない方がいいです。
実感などなくても、一切のことは「私」の考えなんです。
>またその場合、どこまでが私の考えとして自覚対象になるのかについてですが、
ですから、一切のことが私の考えな訳ですから、
すべてのことが自覚の対象なんです。
>自覚開始→私に集中→集中出来た瞬間→集中出来てると思った私を自覚(あ!今、出来てると思った)、と、ここまででこの思考を断つと言う事でしょうか?
一切のことがらが自覚の対象である訳ですから、
ここまででよいとか、ここで区切り等の境目は無い訳なんです。
一日24時間、起きてる間はもちろん、寝てる間も自覚を続ける気持ちで、ずーーっとやって頂きたいんです。
>また私生活の作業の中で、自覚を取り入れたいのですが、例えば皿洗いをしながら自覚をすると言うのは、私に意識を向けつつ、手を動かすと言う事で合っていますでしょうか?
>私は、私に意識を集中すると全ての動作が止まってしまうのですが、本来なら、意識は「私」から離れず、皿洗いの動作は完全な無意識状態で行うと言う事でしょうか?
多くの方は、「私」に集中しながら何か他の動作をするということは困難だろうと思います。
そのようなことは私(慧空)も難しかったです(悟りの行程の終わり頃になって、やっとときどきできるときがあったという感じです)。
「私」に強く意識を集中すると、多くの場合、動作が止まってしまうのです(呼吸さえも止まってしまいます)。
ですから、「私」に強く集中するワークは、何もやっていないときにやられたらいいと思います。
何か動作や作業をするときは、「私」に普通に意識を向けながら、「その動作や作業は「私」がやっているんだ」と
自覚して頂きたいと思います。
それで十分です。
さらに何かありましたら、遠慮なくどうぞです。
301
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 10:51:58
慧空さん、おはようございます。
朝早くからご返答頂き、感謝申し上げます。
>「実感」にも余り拘らない方がいいです。
実感などなくても、一切のことは「私」の考えなんです。
一切のことが私の考えな訳ですから、すべてのことが自覚の対象なんです。
一日24時間、起きてる間はもちろん、寝てる間も自覚を続ける気持ちで、ずーーっとやって頂きたいんです。
私は頭でっかちになっていた様です。分からないと言う思いから、気が付けば頭での理解を欲しがっていました。
あれこれ拘らず、とにかく実践あるのみ!で精進したいと思います。
慧空さん、ありがとうございました。
>ですから、「私」に強く集中するワークは、何もやっていないときにやられたらいいと思います。
何か動作や作業をするときは、「私」に普通に意識を向けながら、「その動作や作業は「私」がやっているんだ」
自覚して頂きたいと思います。
了解しました。これからは、じっと身を静めて行う強い集中と、日常の作業中に行う集中と、両方で自覚を行って行きたいと思います。
私の周りに、自覚を行っている方が誰もおらず、本当に手探りな状態で始めたため、やり方や進む方向が間違っているのではと不安になる事が多々あります。
この様に、慧空さんにアドバイス頂ける事は、大変励みとなり心から感謝しております。
またこちらで質問させて頂く事もあるかと思いますが、どうかよろしくお願い致します。
302
:
佐藤
:2015/10/26(月) 11:14:40
久しぶりにコメントします
起こるときは、一瞬でパッと起こるのですが、
そのためにも時間軸をできるだけ細かく自覚されると良いと思います。
あまり動作を早くしないで感覚的な時間軸を伸ばした上で細かくというのも、良いかと思います。
303
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 13:15:33
佐藤さん
佐藤さん、アドバイス、ご指導ありがとうございます。
折角コメントを頂いたのに、大変心苦しいのですが、自覚に関する感覚がまだまだ私では、その貴重な内容をまだ把握しきれず、歯痒い思いでいます。
お忙しい所大変恐れ入りますが、
「時間軸をできるだけ細かく自覚する」の部分と、「感覚的な時間軸を伸ばした上で細かく」と言う部分について、もう少し詳しくお教え頂けませんでしょうか?
304
:
佐藤
:2015/10/26(月) 15:20:15
せっかちだと、無自覚なままですよね
街中で見かけるよく慌てふためいた人とか顕著な例かと思います。
>私の中で自覚とは、思考が走る瞬間と、それ以外の私に集中出来ている瞬間のこの2通りしかないと思ってるのですが、あっていますでしょうか?
せっかちだと思考の瞬間は、捉えられないですけど、ゆっくりしてた捉えやすいですし、せっかちになる(衝動の動く)瞬間なども見えてきて、囚われに気づくようになっていくかと思います。
話の流れが変わりますが、
私に集中している私に攻め込んでいくと良いと思います。
305
:
佐藤
:2015/10/26(月) 15:38:11
補足しますと
慣れてきますと
せっかちでも
呼吸が荒かったりしても
自覚できるようになってきます
306
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 17:03:21
佐藤さん、詳しいご説明をありがとうございます!
とっても分かりやすかったです!
>せっかちだと、無自覚なままですよね
街中で見かけるよく慌てふためいた人とか顕著な例かと思います。
本当にこれは自覚を始める前の私そのものです(笑)
常に焦燥感と強迫観念に駆られて、頭の中はパニック状態、心ここに在らずでした。
自覚が出来ているのかは分かりませんが、始めてからはかなり頭の声も治まり、心が落ち着く様になりました。
ただ少し最近は、起伏のない感情に虚しさを感じでしまう事もあります。私は間違った方向に進んでいるのでしょうか…?
>せっかちだと思考の瞬間は、捉えられないですけど、ゆっくりしてた捉えやすいですし、せっかちになる(衝動の動く)瞬間なども見えてきて、囚われに気づくようになっていくかと思います。
試しにさっそく意図的に動作をゆっくりしてみましたが、これは凄くやりやすいです!自分の意志で行動、思考を起こしていると自覚しやすいです。ありがとうございます!
>話の流れが変わりますが、
私に集中している私に攻め込んでいくと良いと思います。
私に深く集中しようとすると、呼吸がぐぐーーっと、えぐる様に入っていく感じになるのですが、前回の質問で慧空さんにご指摘頂きました様に、少し呼吸を意識し過ぎていたみたいです。
ハートに踏み込もうとして、「しよう!しよう!」としてしまうみたいで、只ただハートを強く感じていくと言う事に徹すると、呼吸も気にならずやりやすかったです。
ハートに強く踏み込んで意識する事と、ハートを只強く感じていくと言う事は同じでしょうか?
慧空さんに、うるさい頭の中の疑問は脇に置いて実践に徹します!と宣言しておいて、本当にすみません(汗)
またお時間の許す時に、アドバイス頂けると幸いです。
307
:
佐藤
:2015/10/26(月) 17:58:35
>起伏のない感情に虚しさを感じでしまう事もあります。
私は間違った方向に進んでいるのでしょうか…?
いえ、出てきたという事でとても良い方向だと思いましたよ。
虚しさも自覚されたら良いと思いますよ。
虚しさに囚われている私の姿が滑稽に感じられると思います。
>只ただハートを強く感じていく
普通は、ハートを感じる場合は、愛とかそういう感じで幸せ感が出てくるかと思います。
大悟前はグーっと奥まで入っていきますが、
まだ慣れないようでしたらソフトに感じていくのも良いと思いますよ。
308
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 18:22:21
佐藤さん、ありがとうございます!
>いえ、出てきたという事でとても良い方向だと思いましたよ。
虚しさを感じると言う事は、自覚を進めていく過程で、多くの方が体験されるという事でしょうか?
>虚しさも自覚されたら良いと思いますよ。
虚しさに囚われている私の姿が滑稽に感じられると思います。
虚しさを感じる私を自覚してみるものの、その気付きによって虚しさが消える事はなく、虚しさの中に漂っている感じです。
自覚によって手放しが起こる時は、一瞬でその虚しさの外に出る(滑稽に感じる)と言う事でしょうか。
>普通は、ハートを感じる場合は、愛とかそういう感じで幸せ感が出てくるかと思います。
ハートを感じる時に愛や幸福感を味わう体験はまだありません。ハートに集中するために心の中で、「繋がっていない」と繰り返すと、ハートがグッと反応するので、その痛んだハートの感覚に飛び込んで、苦しいながらも集中していると、だんだんとその感覚から「辛い、苦しい」が抜けて、ただそういう感覚であると言うだけになっていく感じです。
こうして改めて振り返ってみると、私の自覚は少し皆さんがされているものと外れてしまっている様に感じます…。
309
:
佐藤
:2015/10/26(月) 18:44:41
>虚しさを感じる私を自覚してみるものの、その気付きによって虚しさが消える事はなく、虚しさの中に漂っている感じです。
自覚によって手放しが起こる時は、一瞬でその虚しさの外に出る(滑稽に感じる)と言う事でしょうか。
虚しさが消えないと思っている私を自覚するなど
重ねて何度も自覚されると良いと思います。
手放しが起きた時は、一瞬で起こります。
その虚しさが消えるかどうかは分かりませんが、
虚しさがあっても淡々としている状態になる、虚しさが気にならなくなるといってもよいかも知れません。
ただそう考えてるんだなという感じになると思います。
>ハートを感じる時に愛や幸福感を味わう体験はまだありません。
ハートに集中するために心の中で、「繋がっていない」と繰り返すと、ハートがグッと反応するので、その痛んだハートの感覚に飛び込んで、苦しいながらも集中していると、だんだんとその感覚から「辛い、苦しい」が抜けて、ただそういう感覚であると言うだけになっていく感じです。
ただそうなっていくという感覚が幸福感と言えるかと思います。
>こうして改めて振り返ってみると、私の自覚は少し皆さんがされているものと外れてしまっている様に感じます…。
いえ、そんなご自身が思っているほど外れていないと思います。
私もそうですが、その時はうまくいってないと思っていましたが、
振り返るとなかなかやれてたなと思っています。
310
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 20:31:15
佐藤さん、何度も本当にありがとうございます。
>手放しが起きた時は、一瞬で起こります。
その虚しさが消えるかどうかは分かりませんが、
虚しさがあっても淡々としている状態になる、虚しさが気にならなくなるといってもよいかも知れません。
ただそう考えてるんだなという感じになると思います。
「私は今虚しいと感じているんだな」や「私は今イライラを感じているんだな」などの自覚を行うと、私の場合、気付きではなく、思考が思考を監視し分析している状態なのだと思います。分かっちゃいるけど〜、虚しいし腹が立つという状態で…(汗)
ただ自覚する事で、その後に続く余計な思考のグルグルを抑えられるので、以前に比べたら格段にイライラしている時間は短くなってきたのですが、やはり自覚による気付きは一瞬で起こるのですね。
>ただそうなっていくという感覚が幸福感と言えるかと思います。
こちらのアドバイスにはハッとさせられました。愛や幸福感を、勝手にいても経ってもいられない程の高揚感が溢れ出すんではないかと想像していました。
ハートの痛みに集中し続けた後は、気が付けば何とも言えないスッキリ感があったりします。ほんの暫くは、無敵というか(笑)、思い返すとこれも1つの幸福感なんでしょうか。
>いえ、そんなご自身が思っているほど外れていないと思います。
右も左も分からない私に、色々と道を照らして下さり、本当にありがとうございます。励みになります。
この少しホッとしている私も自覚したいと思います。
311
:
佐藤
:2015/10/26(月) 22:04:16
>「私は今虚しいと感じているんだな」や「私は今イライラを感じているんだな」などの自覚を行うと、
私の場合、気付きではなく、思考が思考を監視し分析している状態なのだと思います。
分かっちゃいるけど〜、虚しいし腹が立つという状態で…(汗)
すいません。何かあるかなと思いましたが、特に出てきませんでした。笑
自覚されているので、そういう状態でも良いのではないでしょうか?
そういった感情が囚われによって起こっていれば消えるかもですが、
自然現象(例えば生理中だったり)という場合もあるので、その辺りは自覚で探ってみて下さい。
うっとおしかったら、妄想とラベルしてバチッと切っちゃうのも手です。笑
312
:
自覚初心者
:2015/10/26(月) 22:32:11
>そういった感情が囚われによって起こっていれば消えるかもですが、
イライラする相手は情けない事に、いつも4歳の息子になんです(笑)
イライラの感情がグッと上がって来る前から、ハートには常に不安感の様なものがスタンバイしていて、そこに思考が飛んで来る事によって、息子へのイライラに変換されているだけの様な気もするのですが…。
息子を思い通りにしたい!息子はこうあるべきだ!などの囚われに気づいても、それは表面上の観念で根っ子は違う様な気がしてならないんです。これも自覚を続ける事にによって浮き彫りになってくるのでしょうか…。
>うっとおしかったら、妄想とラベルしてバチッと切っちゃうのも手です。笑
佐藤さん本当にすみません、私の理解が悪すぎるのですが、この部分が良く分かりませんでしたm(__)m
313
:
佐藤
:2015/10/27(火) 07:19:18
私は男性なので、理解しにくいところもあるのですが、
女性の場合、子供を手放すのは容易ではないと聞いたことがあります。
常に心配で
一瞬も目を離せないと言いますよね。
デパートとかで前を歩いている息子が見えなくなるまで放っておく実験をした事ありました
314
:
名無しさん
:2015/10/27(火) 23:16:22
佐藤さん、返信ありがとうございます。
佐藤さんの書き込みを見て、私もさっそく試してみました。
スーパーで走り周り去って行く息子を追いかけなかったんです。
見えなくなっても我慢していると、頭の中がガヤガヤと喋る喋る…で。
自覚していると、それは息子に対する心配の様で、自分の心配ばかり。
息子に何かあったら、責められるのは私…とそんな事ばかりでした。
母性本能も幻なんですね。
自覚をしていて、恐ろしい自分に出会った時、それを只自覚するのは中々手強いものです。
315
:
自覚初心者
:2015/10/27(火) 23:17:15
すみません、上のは私です。
316
:
慧空
:2015/10/28(水) 06:25:41
自覚初心者さん
>自覚していると、それは息子に対する心配の様で、自分の心配ばかり。
そうなんです。
どんなにすばらしい人も、結局のところは、自分の都合ばかりを追いかけ、
ただ自分のやりたいことをやっているだけなんです。
みな、究極の自己中なんです。(^o^)
317
:
佐藤
:2015/10/28(水) 07:41:10
お疲れさまでした笑
割と大変なシチュエーションなのでやらないかと思っていました。
母親の息子さんへの縛りというか枠が外れて攻めなくなっていきますので、
息子さんにも良い影響が出てくると思いますよ。
慧空さん
そうですね笑
318
:
自覚初心者
:2015/10/28(水) 09:18:42
慧空さん、佐藤さん、おはようございます!
>みな、究極の自己中なんです。(^o^)
はい、自覚をしていると痛感させられます。
どこまでいっても自分が大事。この自分に出会う度に、自覚を踏ん張らないと、あっという間に正当化と言い訳のオンパレードに巻き込まれます。
>母親の息子さんへの縛りというか枠が外れて攻めなくなっていきますので、
息子さんにも良い影響が出てくると思いますよ。
スーパーで自覚をしている中、自覚を続ける事への恐怖と抵抗が凄かったです。
家に帰ってからも、全ての観念が外れてしまったら?と、少し考えてしまいました。
子供の身を守るためには最低限の観念は残しておかないと、と選別していたり笑
そこで質問なのですが、慧空さんや佐藤さんの様に囚われのない方は、自分の子供が危険にさらされた時はどの様な心境でどの様な行動を取られるのでしょうか?
危機的な場面に対して、精神的に余計な問題意識を与えず、頭の中のガヤガヤがないために、只シンプルに危ない→助けると言う感じになられるのでしょうか?
よく子供が道路に飛び出してとっさに親がかばうと言う行動があったりしますが、これは思考が働く前に勝手に身体が動いていますよね。
これも言わば人間の本能的なものなんでしょうか?
囚われがなくなっても、この様な本能は残るのでしょうか?
319
:
慧空
:2015/10/28(水) 09:42:42
自覚初心者さんへ
>そこで質問なのですが、慧空さんや佐藤さんの様に囚われのない方は、自分の子供が危険にさらされた時はどの様な心境でどの様な行動を取られるのでしょうか?
私の場合は、その場になってみて、自分の意識や身体がどう反応するか、そのときになってみないと分かりません。
私の場合は、自分の子供に対してもどうでもよくなっていますので、
子供が危険にさらされていても、何もせず、放っておくかもしれません。(^o^)
320
:
自覚初心者
:2015/10/28(水) 10:07:38
慧空さん
えっっっΣ(゚Д゚)Σ(゚Д゚)
…とビックリしている自分を自覚しているのですが、疑問が止まりません笑。
では、少し質問が変わりますが、慧空さんは貯金などはされるのでしょうか?
私の単純な疑問として、囚われが全てなくなってしまって、この社会で生きていけるのか…と不安になっております。ここがきっと、昨日スーパーで自覚に徹しきれなかった所(手放したくない観念がある)だと思います。
※慧空さんの先程の回答で湧いてきた疑問ではありません。誤解させてしまったらすみません。
囚われがなくなった方も、この人間社会で生活していく中で、適応すると言う意味で(恐怖や義務感からではなく)、貯金やお金を稼ぐと言う事が必要になってくるとは思うのですが、いかがでしょうか?
私自身、何故それらが必要だと思っているのかを、今一度、真摯に私に問いかけ自覚したいと思います。
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