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自覚の方法に関すること
261
:
高山
:2015/01/06(火) 21:43:04
慧空さん
私はここ数年、大悟を目標に公案禅に参じてきたのですが、何故か解脱が目標ではありませんでした。
いま思えば私の老師が、慧空さん言うところの大悟の悟りの方だったからなのかもしれません。
開祖の釈迦は解脱したとされているのだから、よく考えるとおかしなことですね。
その境涯に触れないというのは。
また私の感覚では、坐禅は釈迦由来のインド仏教よりも、中国の道教、老荘思想の要素の方が強い気がしています。
仏教の「空」と老荘の「道(タオ)」が混ざり、あるいはすり替わったような。
タオを感得し、無為自然に生きられれば、それはそれで苦しみも減るとも思いますが…。
龍樹の提唱した縁起という概念は、禅定と並行して行なう座学では大いに役に立っていると私は思っています。
見性以降の世界の見えかたを言語で他人に説明(あるいは自分自身で整理整頓)する際、とても便利だと思います。
まあでもそれは学問であり、言語、思考、観念の世界のものですね。
龍樹の悟りの程度がどのくらいだったのか、まだ私にはわかりませんが…。
推薦されていたバーナデットロバーツとアーチャンチャーの本も読んでみました。
私の印象では、前者の方が「行くとこまで行った感」がありました。
「唯識の「識」すら消えるのか? 消えるのだな…」のようなことを思いました。
後者は本人の言葉が少なく、編纂者の弟子の見解(通りいっぺんな)が多すぎたせいもあって、
あまり読んでいてピンと来ませんでした。まあそれは釈迦のことばもそうですが。
悟り臭さが完全に抜け切っているせいかもしれませんね。
慧空さんは解脱の悟りを得たのは釈迦だけと言っていますね。
それはたとえば岩波文庫で「ブッダのことば」として出ているスッタニパータや、
ダンマパダ、阿含経など、釈迦の言葉とされている初期仏教の経典から感じられたことですか?
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