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浄土真宗掲示板

1名無しさん:2013/10/18(金) 04:57:26
親鸞の言葉や仏教の言葉に対して日頃考えていることや疑問などを共有し話し合いましょう。
一応、浄土真宗掲示板という名前ですが何も専門的な知識は必要ありません。
匿名なので人に言えない愚痴を書くだけでも、宗教って糞気持ち悪いよねという宗教批判だけでも、何のために生きているのか分からないといった問いを共有するだけでも、なんにでも使ってもらえれば幸いです。
よかったらゆっくり話し合いともに学びましょう。

2名無しさん:2014/07/21(月) 17:20:01
宗教ってクソ気持ち悪いよね

3名無しさん:2014/08/04(月) 19:09:33
ここ10年ほど、本で読んだりお寺へ通ったりして浄土真宗の教えに触れています。最初は理解し難いところも多かったですが、最近はしみじみと良い教えだなあと感じています。

4名無しさん:2014/08/08(金) 01:14:35
なんか知らんけど浄土真宗の信者ってみんなエラそう。浄土真宗ってのはさぞ、立派な人間になれる教えなんだろうなあ。

5名無しさん:2014/08/19(火) 01:54:20
>>2
世間一般に宗教ってことで語られるものは=盲信の宗教だからね
気持ち悪くみえちゃうよね
まあ盲信以外に何があるのか僕は知らないんだけど

>>3
人の話を聞くということは本当に貴重なことだと思うよ
だけど本当に大切なのはそれを聞いて自分自身がどう考えるかかなとは思うよ僕は
良い教えだなあと思ったならそれを自分の言葉で表現してあげることが大切だと思う


>>4
ごめんね
偉そうなのは良くないね
ただ僕は謙虚な人間なんて一人もいないと思ってるよ
謙虚に見える人間はいるだろうけどね
勿論それを言い訳にして偉そうにしても良いんだってことにはならない
ムカついたら偉そうにするなって怒ってあげればいいと思うよ

6名無しさん:2014/08/26(火) 19:38:35
色々な味わいがありますが、私が一番惹かれるのは、自分は、弱くて、だらしがなくて、飽きっぽく、色々なことが至らない仕方ない者で、他人をほんとうに助けることもできないが、それでも阿弥陀仏が願いを掛けて後押ししてくださっており、それに従ってできる範囲で人の役に立つよう人生を歩んでいこう、と思わせて頂けるところかなと思います。

7名無しさん:2014/08/27(水) 03:21:54
そうですね。いいお言葉を頂けて嬉しく思います。
その表白こそ何ものにもかえ難い報恩であると思います。

8名無しさん:2014/09/06(土) 01:35:29
>>6
阿弥陀の「願い」は「全ての人を救いたい」という阿弥陀自身の願いであり誓いであって、
あなたに何かをお願いしてるわけではないと思う。
阿弥陀の救いは無条件だからあなたには何も命令しない。要求しない。何も後押ししない。
それどころかあなたの「人の役に立ちたい」っていう努力を根っこからぶっ壊していくものじゃない?
いかなる人間の努力も役に立たないんだからね。阿弥陀的に言うと。
そうやって努力を全部、無意味にされた人生で、一方的に無条件に救われた人生で、
あなた自身がどうやって生きるべきだと感じるのか、考えるのか、じゃないかな?
「阿弥陀の願いに従う」は語弊ありかと。何も命令されてない。「人の役に立ちたい」はあなた自身の欲求。

9名無しさん:2014/09/08(月) 20:35:16
その様にも表現できるかと思います。
確かに「選ばす、嫌わず、見捨てず」ということをその根本とする阿弥陀の本願は、その対象になんらかの条件を求めるものではないかと思われます。
また同様に、人間のいかなる努力も役に立つものではない、ということも他者の為と偽り自利のみを求める僕自身の現実を顧みるならば疑いようのないものかと思います。
しかし、そのような自身の現実に立つならば、真に人の役に立ちたいと思うことは自身の力では成り立たち得ないのではないでしょうか。
また、救いとは一体何であるのでしょうか。
僕は救うと言われても救いを実感することができません。
情けない話ですが無条件に救うと言われても、ああそうなんだというところで終わってしまいます。
僕個人において救いとは自分自身の為にしか生きられない現実においてなおそれでも人の為に生きたいと願うことができることであると言えるかと思います。
阿弥陀の願いとは法蔵の願いであるかと思います。
それは、一切の人々が心の奥底で願わざるを得ない願いでもあるかと思います。

10名無しさん:2014/09/09(火) 15:36:14
返答ありがとう。うん、全くその通りだと思う。
「真に人の役に立つ」という、不可能なことについて、
不可能であるにも関わらず、そのために生きたいと思う心、
不可能なことについて無限に努力し、無限に失敗し続ける人生を、
「賜っている」のだ、と言えると思う(「命令されている」「後押しされている」、ではない)。
そしてそれは「無条件」でないと、叶わないよな。
「人の役に立たないと救わないぞ」というものだったら、無限に努力することはできない。
人に役に立てません。それじゃあ、地獄行きです。はい、さようなら。で終わってしまう。
人間のいかなる努力も、全て完全な無駄、無意味、役立たず、で、あるからこそ、
頑張れるんであるよな。
「〜ができなければならない」という脅迫から、開放されること、
つまり「無条件であること」「人間のいかなる努力も無駄であること」それ自体が、救いなんじゃないかと、
俺はそう思ってる。上手く言えんくて、すまん。

11名無しさん:2014/09/12(金) 14:42:46
そうですね。その通りでもあるかと思います。
僕も上手く語ることができません。しかし、上手く語ることができなくてもなお語られるものこそ重要であるかと考えています。
僕は阿弥陀の本願は人それぞれにおいて展開し表現されるものであると考えています。
それは僕の狭い価値観では全く違うかたちに見えるものや、僕の表現とは真っ向から対立するものにもあてはまります。
なぜなら、そのようなかたちをとらずして「選ばす、嫌わず、見捨てず」という阿弥陀の本願はその本質を満たすことができないからです。
遇縁存在であり、さるべき業縁がもよおすならば如何なるふるまいをも喜んでしてしまう僕自身が救いとられる救いとは「いつでも、どこでも、だれでも」に成り立つものでなくてはならないかと思います。
親鸞は自信教人信に立ち、一切の弟子を持ちませんでした。
そこには、自分自身が他者の信を聞くことを縁としてなにを信じざるを得ないのかということがはっきりしていったという事実があったからではないでしょうか。
他者の信は、本質的に疑でしかあり得ません。
しかし、その疑によってこそ信はかたちどららるのであると考えています。
疑いとは無自覚の信であると考えています。

12名無しさん:2014/09/13(土) 01:06:39
すまん、下5行、何言ってるのかさっぱり分からん。頭悪くてごめん。
なんか分かんないけど、確かに、同じ法を聞いてるはずなのに、受け取り方は色々あるよな。
それは、浄土真宗っていうひとつの教えを、
それぞれがそれぞれの狭い了見で切り取って、解釈してるからであると。
そう考えたら、全員が、正しく浄土真宗を語っているとも言えるし、
全員が、浄土真宗の一部分しか語りえないってことも言えるわけなんだな。
だから、違って見える解釈でも、違って見えるのは自分の了見だから、
それを裁くってのは、自分勝手だよな。
だから、人が「こう信じてる」と告白したところに、
「阿弥陀の願いに従う」とか言うな、なんてツッコんだ俺は、アホだっていう、
そういうことだと、理解した。
言われてみたらそうだわ。アホでした。すみません。
長々相手してくれてありがとう。

13名無しさん:2014/09/13(土) 01:47:12
ありがたいお話です。南無阿弥陀仏。
伺いながら、色んなお言葉を思い出します。
歎異抄の「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものを憫み悲み育むなり。然れども、思ふが如く助け遂ぐること極めてありがたし。・・・今生いかに愛し不便と思ふとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候ふべき」というお言葉ですとか
ご和讃の「浄土の大菩提心は願作仏心をすすめしむ すなわち願作仏心を度衆生心となづけたり」「度衆生心ということは彌陀智願の回向なり・・・」のお言葉ですとか。
まさに自力無効、疑い迷うことしか出来ない私であるからこそ、本願を頼りとしお念仏申し上げるのだと、聞かせていただいております。
還相、のお言葉もありますがそれによって自ずと、駄目なままの私でありながらもまた、本願の働きにより、時には人のお役に立たせていただくことも授けていただけるのであろうと思われます。

もちろん、本願はいかなる味わいをも排除されるものではないと思います。「佛の本願力を観ずるに、まうあうて空しくすぐる人なし、よくすみやかに功徳の大寶海を満足せしむ」のお言葉ですとか、「爾れば称名は・・・能く衆生の一切の志願を満てたまふ」のお言葉が思い出されます。
それぞれの方からそれぞれの大切なお味わいを聞かせていただけるほどありがたく嬉しいことは他にありません。

14名無しさん:2014/09/13(土) 15:48:00
浄土真宗って、こうやって教えについていろいろ語り合えるのはいい所なんだと思うけどさ、
同時に、語り合ってるうちに敷居がすげーエスカレートしていくのは欠点なんだと思うよな…。

初心者な俺、完全についていけんくなってきた…(^ω^;)←

15名無しさん:2014/09/15(月) 14:37:14
>>12
僕もそうです。アホです。
僕の語ることは徹底して間違っています。
しかし、その間違いに立つということこそとても重要なことだと思っています。

>>13
そうですね。そう思います。
僕は還相ということは常に他者の上に仰がれるものであると考えています。

>>14
そうだよね。ごめんね。
なんでも一から説明するから分かりにくいところを教えてくれたら嬉しいよ。

16名無しさん:2014/09/17(水) 12:37:17
はじめまして。
>14に賛同。
100人が集まるいいスレになるといいなぁ
>2
宗教ってくそ気持ち悪いっていう意見は、気持ち分かるけど言えないなぁ。どんだけ自分に自信があるのかとも思う。若いんだろうね。僕もこないだまでそうだった。年食っただけで偉くなったわけじゃないのに知ったふうに言うつもりはないけど、自分に自信があると宗教は要らないと思っちゃう。弱い人間がつるむためのものだ、とか。行く末は宗教戦争のようなイメージ(笑。「宗教キモい」はこのスレの核心に近いんじゃないかな

17名無しさん:2014/09/18(木) 11:24:27
宗教は必要だけど坊主は要らないっていう意見は時々見る気がする。
教義と教団を分けて考えるんなら、キモいって思われるのはたいがい教団の方じゃねえの?って思うんだよな。
俺も親鸞のことについてちょっと興味持った程度の初心者で、今までは宗教と全然無縁で育った20代なんだけど、
親鸞に興味持ったからって、寺へ行くかっていうと、別にその必要感じないんだよな。
必要無いっていうか、敷居高そうっていうか、仲良いじじばばに疎外されそうな恐怖があって、
宗教キモいって思う気持ちは分かるかもしれん(笑)。
純粋に疑問なんだけど、そこんとこどうなんだ。寺って要るか? 本当に、たとえば本願寺教団とかって、キモくないのか?

18名無しさん:2014/09/20(土) 01:07:12
教団がキモいっていうのは浄土真宗の教団のこと?
じじばばに疎外されそうってことは地域のお寺っぽいね。やっぱり浄土真宗なのかな。
「教義」「教え」はキモくないし、「お釈迦様」とか「親鸞」とか「キリスト」とか、「仏像」「お寺」「教会」はキモくないけど、「教団」「宗教活動」「儀式全般」がどこかキモいってことかな。少なくともその活動の中心はお坊さんとじじばばだもんね。その人たちとの関係がどうしても必要になるしキモいのか。
でも、だからキモい部分を排除しよう、っていうのはなかなかむずかしいんじゃないかな。たしかに本を読むだけで済めば教団や寺院なんか必要ないし、キモくない。しがらみもないし、本で共感を得た人と意見交換していけばいい。
でも、実際それで済んだ人っていなくないかな。これから出てくるのかな。

宗教活動の中身を変えるべきなのかもしれない。もっとスマートに、しがらみをなくす方向。体験したことないしイメージだけど、鎌倉の禅寺で瞑想するのと似てるかな。寺の数を減らしていい環境を準備して年に1〜2回の宗教のたしかめで済むようにする。僕もこのあいだまで宗教全般がどこかキモいっていう感じがするほうだった。そういうキモい部分を完全にカットしてスマートに体験だけさせてくれるような方向こそ、これからの寺院が向かう方向なのかなと思っていた。今でもまだ少し思うけど。
でも、中にはじじばばが真摯に守ってきた一番大事な宗教活動が残っている真宗寺院もあって、そういうものに触れるとキモいとか言えなくなってしまうんだ。寺が必要かどうかはわからないけど、そうしたじじばばからも仏法が聞けると思うと、宗教活動をするには寺って案外機能的だって思うよ。まあこのコメントもキモいって思われそうだけど。本当にそう思うんだ。だから変えちゃダメだと思う部分も出てきた。難しいね。でもどっちもなんだと思う。
とにかくせっかく興味を持ったなら、まずはいっぱい本を読んで欲しいな。

19名無しさん:2014/09/20(土) 10:25:17
連投失礼。
「教義」とか、「お釈迦様」「親鸞」「キリスト」「仏像」「お寺」「教会」もキモいっていう場合もあるよねたぶん。「教団」「宗教活動」もキモいけど、宗教のすべてがキモい場合。食わず嫌いとか見た目がすべて、に近い場合。
そっちのほうが多い気がする。
浄土真宗がどうとか以前になってしまいそうだけど、宗教が「ない」ってことはとても怖いことだと思う。そういうことがないように浄土真宗はある気がするんだ。他の宗派のこともよく知らないで大きな声で言うべきじゃないけども。

20名無しさん:2014/09/20(土) 18:37:59
まず宗教ってなんなの?

21名無しさん:2014/09/20(土) 19:11:48
ttp://v.youku.com/v_show/id_XNTYwNjQ0MjU2.html?x

22名無しさん:2014/09/21(日) 22:49:15
個人的な体験ですが、私は何年間か本ばかり読んだあと、引っ越した先が大きな街だったのを幸い、そこの別院へ聞法へ行ってみました。
初回はこわごわでしたが、お話も良かったでしたし、その後も聴き続けて、これもご縁ですがとても良かったと思っています。
一般のお寺はわかりませんが、別院でご法話下さる方は、しっかり教義を踏まえながらも、ごく普通の身近なお話に引き寄せたり、手がかりにしてお話してくださることが多く、総じて皆レベルが高いと感じます。
おあつめと、恩徳讃は最初びっくりしましたがすぐ慣れました。
やはり一人で本ばかり読んで考えているのと、色々な方々とともに、目の前でご法話を聞くのとでは、体験としてかなり違うように思いますし、頭で考えるだけではわからなかったことが、腑に落ちるようなことも多いように思います。お寺やお念仏もずっと身近になります。
別院では、特にお寺へ入ることを強制されたり行事や活動への参加を強いられたりすることもありませんでしたので、自分の関心に応じて、関わりを深めたり緩めたりしてゆけば良いのかなと思っています。
熱心にいらしているのは、やはりお年寄りの方が多いようには見えますけれども。

23名無しさん:2014/10/03(金) 23:02:18
おあつめと恩徳讃 > わかる。歌はハードル高い。念仏についての話しがあれば歌はいらないと思う。お経とか正信偈は非日常を作ってるから馴染むし話を聞く空気が作られる。歌は中途半端で抵抗がある。儀式に参加することが必要なら、念仏をしっかり教えてほしい。

24名無しさん:2014/10/04(土) 10:33:33
「宗教」は「教えを聞く」ことだろう。道徳とか倫理とか社会とかの前に何が必要かを考えることで、一人一人が聞くしかないってこと。自己責任とかじゃなくて。

25名無しさん:2014/10/05(日) 13:25:03
日本で活躍する韓国系キリスト教会

統一教会:霊感商法、合同結婚式で有名。合同結婚式では日本女性と
     韓国男性の結婚を積極的に推進する。合同結婚式で韓国
     に渡った日本女性のうち約六千人が音信不通であるとして
     日本弁護士会が人権救済を申し立てする。

摂理:セックス教団として有名。韓国人教祖である鄭は日本人女子大生
   約百名を強姦したとして国際手配中。中国に潜伏中も日本から
   女子大生信者を呼び寄せ、和服を着せて接待させていた。中国の
   警察に捕まった模様。

聖神中央協会:韓国人教祖である金保は日本人女子小学生十数人を強姦
       した容疑で逮捕された。金保は聖神中央教会を設立する
       以前にも日本で牧師をしており、そのときも信者の女性
       を多数強姦して、信者からつるし上げをくらい、ほとぼ
       りをさますつもりか、韓国に数年ほど逃げていた。

小牧者訓練会:代表である韓国人卞在昌(ビュンジェージャン) は女性
       信者を自宅に下宿させるなどし、多数の日本人女性信徒か
       ら性的暴行被害を訴えられている。

26名無しさん:2014/10/11(土) 17:55:45
疑問に思ったのだけど、「宗教」って必要だと思う?
社会の道徳規範のためとかじゃなくて、ある個人にとって、宗教が必要だってことが、全員に言えるか?ってことなんだけど、
いやその本人が「不必要」と感じていても、無意識に宗教のお世話になってることはあるよってことじゃなくて、
その個人が、自分から意識的に信仰を持つ必要があるかってことなんだけど、

やっぱりその、本人の意識的に特定宗教の信仰に関わる必要って、必ずしも無いんじゃないかって思うんだけど、どう思う?
そういう意味で「宗教は私には必要ない」っていう人について、やっぱりそれは駄目なことだと思う?
そう話す人がいたら、どういうふうに対応する?

27名無しさん:2014/10/12(日) 22:44:53
>「宗教」って必要だと思う?

同じようなことを考えたことがあります。

色々な考え方はあると思いますが、ただそれに対する回答が既にその人の宗教観を反映したものになるのかなあ、とは思います。
必要かどうか、って、宗教を自由に選んだり捨てたりできることが前提になっているように聞こえますけれども、
でもある程度宗教に(伝統のためであれ、自分で選んだ場合であれ、)入り込んでいる人にとっては、
既にその宗教との社会的な関係ができていたり、その宗教の発想が心に染み込んでいたりして、
もう自由にならないことも多いと思います。
逆に最初に無宗教である人にとっては、宗教を持つようなことは特別なことに見えることも多いので、
宗教という言葉だけで身構えてしまったり、おかしな宗教でないかとか、変に気にされる方もいます。
宗教が必要かどうか適切に判断できる、中立的な立場ってなかなかないんじゃないかなあという気がします。

私の両親は、初詣や法事やお葬式でだけ宗教に触れていましたけれども、教義を深く学んだり実践していたわけでもなく、
本人たちの心持ちでは多分無宗教でしたし、今もそうだと思います。
祖父母はある宗派のお寺さんの熱心な檀家でした。お寺に沢山寄付をしたりもしていましたし、日常のお勤めのお経とかはそらで唱えられたと思います。
私自身は浄土真宗が大好きで折にふれてお念仏申し上げています。
みんなそれぞれの考えや感じ方があるのだろうと思っています。

宗教や宗派によっては、自分のところの教えこそが真実であって、その教えに従わないものは救われないとか無理にでも改宗させるべきとする
極端なところも場合によってはあるのかもしれませんが、個人的にはそれは正しいこととは思えないです。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と歎異抄にもありますが、
人の日常生活は思いのままにならない力に引き回されているのですし、人の心や振る舞いを自由に変えることは誰にもできません。
自らが教えに導かれたのならば、それを喜んでゆけば良いのではないでしょうか。
宗教を持たない人や異なる宗教を持つ人々のことは、自分のはからいでどうこうするものではなく、究極的には仏の他力の仕事です。

また、社会常識的に、宗教観などはとてもセンシティブな話題なので、
どのような宗教を持つべきなど意見したり大っぴらに討論するのは、あまり好ましくはないということもあります。

ただ、勿論自分が従っている宗教(特に創唱宗教であれば)の教えには一定の普遍性があるのが普通ですし、
自身がそれに深く納得して実践しているのであれば、特に宗教観云々を言わなくても自ずと、生活の中から伝わっていくようなこともあると思います。
ある教えに導かれている人の生き方や姿が、他の人々に自然に影響を与えていくようなこともあるのだろうと思います。

28名無しさん:2014/11/03(月) 16:56:24
回答ありがとう。
ある浄土真宗本願寺派のお寺の住職に同じ話題をふってみると、
「真実の教えを聞こうとしない人は、またずっと虚しい生死を繰り返すだけですよ。放っておきなさい。ハハッ」
みたいなことを言われて、なんだかなあって思ってたんだよね。ハハッて。
強制してる訳じゃないんだけど、やっぱ「浄土真宗が正しくて、それを信じない人は間違ってる」っていう考え方から、
そうじゃない人を見下してるような態度があるように感じたんだよね。
浄土真宗は他宗教、無宗教者に対してそういう態度なのかなって思ってたんだけど、この場で冷静な回答をもらえて少し安心した。
その人にとって宗教が必要かどうかなんて、誰も中立に判断することができないっていうことは、大事なことだね。
そのことを忘れなかったら、強制することも、見下すような態度も出てこないと思う。

29名無しさん:2014/11/29(土) 23:01:41
どうして本願のことを語るのは難しいのだろう?
本を読んで勉強したり、教学を学ぶのは大事だけれども、
ただマニアックに知識を語り合ったり正しさを主張し合うのは
信仰から離れていると感じる。
かと言って日常生活や行いが全て、
お念仏やご聴聞が全て、
あとは心に秘めていれば良い、というのも
信仰の喜びとして物足りない感じがする。
折に触れて感慨を語る人の話を聞く、例えば自分はこんなに足りない、情けない、そして気づかされたと、
それをふと耳にして頷く、喜ぶ、
またはそうしたことをブログなどに書いている人がいて、それを読む
そうしたことはとても嬉しい。
でもいざ自分自身のことを語ろうとすると、
見栄や、取り繕いや、賢く、信心ぶった様子や、
そういう感じがするんじゃないかと思われて
口が重たくなってしまう。
皆さん信仰のことを語りあってますか?語り合えますか?
できるとしたら、どういう心持ちでしていますか?

30名無しさん:2014/12/03(水) 23:26:44
別に何も気にせず、思ったこと感じたこと、言ったらいいと思いますけどね。
同じ信仰の喜びを味わっている人なら、そういう話をされて嫌に思う人はいないと思いますから。
恥ずかしいような、むずかゆいような感じもあるかもしれませんけど、そこは慣れかなあ…。

無理に背伸びしたことを言わず、けれど無理に謙遜もしないで。
感じたことはこう感じたと。分からないことはここが分からないと。
素直な気持ちで語りたいことを語ったらいいと思います。
信仰の味わい方に「正解」はないですから。「正しいことを言わなきゃいけない」ということもないのですから。
まあ、私の経験上、素直になって言ったことが、後から思い返すとすごく恥ずかしい!黒歴史!となることはしょっちゅうですが。
そうやって恥をかくということも大事な経験だと思ってます。

やっぱり一番いいのは、心やすく信仰のことを話せる親しい友達がいるということかな、と思います。
私も始めはたったひとりの友達に信仰のことを話し始めて、
少しずつご縁が広がっていって、少しずつ信仰を語るのにも慣れていって、
今はブログで発信していますw
たったひとりだけにでも、ぽつりぽつりでも、話してみてはどうでしょうか。
あてがなければこの掲示板をぜひ有効活用していただいたらいいと思いますよ。

31名無しさん:2014/12/25(木) 23:41:40
真宗のご本を読むと、いいなあ、そうだなあと思わされるのですが、
自分で毎日を過ごしていると、どうしてこうなってしまうのだろう?というような時が沢山あります。
本願を信じ念仏申し上げているはずなのに、
あれこれ小さなことに心動かされ、腹を立てては、
小さな自分だなあと呆れることもあります。
もっともらしい理屈を立てて心の中で人を批評していますが、
実際は自分の思うようにならないことが気に入らないだけなのかもしれないなと思うことがあります。
周りの人に幸せになって欲しいと思っているはずなのですが、
本当はそうじゃないのかもしれません。
こういう自分を鑑みると、全ての衆生を救う、全ての者を幸福にしようという法蔵菩薩の誓願というのは
本当に計り知れない大きなものなのだなあと驚いてしまいます。
無量とか、阿弥陀とか、人の秤で簡単に言ってはいけないような気もしてしまいます。

32名無しさん:2014/12/28(日) 07:13:32
仏教は慈悲の宗教であります
ですから、おおよそあらゆるものに慈しみを持ちなさいと説きます
まあ平易な言葉でいえば愛ですね
しかしながら、それが真面目であればあるほど、あらゆるものに対して慈しみを持つことができないという問題に突き当たるわけです
それは、高々痒い程度のことで殺す蚊に対して慈しみを持てないということのみならず、蚊に対して慈しみを持つふりをして、自分や他人に自分が立派な人間であると見せつけようとすること、つまり、宗教的価値空間において自己肯定を得ようとすることなどによります
人間はどうでもいいものには慈しみを持てない
また、その慈しみを持とうとすること自体が優越感を得るためのものでしかなく、仏教という道具を使ったファッションに過ぎない
持てないし、持ったとしてもそれは打算的な偽物でしかない
だから、まあ人間のやることは全部慈悲()にしかならない訳です
まあこんな当たり前のことは人間10年も生きていたら分かるわけです
ですから、大体みんな自分さえ良ければいいということに落ち着いて行きます
別にどうでもいいものを殺したって全然悲しくないし、慈悲とか持てるもんじゃないし、持てとかいってる奴はみんな偽善者ですよとか捻くれに捻くれて言い出すわけです
正しさに立って自分を肯定したいわけです
こういうどうしようもない状態に陥るともうね慈しみなんか知らん知らんとなるわけです
自分さえ良ければいい
そうなるとですねこれはもうニヒリズム陥りますよ
なんの為に生きているのか、生まれたのか分からなくなる
そこで一生懸命人生の意味を考えるわけです
しかしながら、自分一人で人生の意味を決めることはできない
自分一人ではニヒリズムから脱却することはできない
そうなったときにですねもうこれは死のうとなるわけです
自分の人生ですし、自分の肉体ですしどうしたっていいんだとなるわけです
生きてる意味もないわけですから、死んでないだけ、そのどっちかになるわけです
そういって自分で自分の首を絞めていくわけです
そういうものに対してですね、仏教はあなたは慈しみたいと思っているのだと教えるのです
教えても聞きませんから、慈しみたいという思いにまでなって慈しまさせるのです
慈しむ心が主体となるとき、自分の人生であり、自分の肉体であると思っていたものが公のものになるわけです
死んだら無意味だと言い続ける自分が主体ではなくなるわけです
慈しむということを打算的な偽物であると考える態度が打ち破られてしまう
いや打算的な偽物でしかないんですよ実際
でも、そんなことは関係なくなるわけです
正しさなんてどうでもいいわけです
間違いに立ち間違いを無限に越えていこうとする心に生かされるわけです
そうなるともうこれは勝手に死ぬわけにはいかない
絶対不可能だ、と自分がいっても主体は無限に慈しむ心ですから、やろうとするわけです
慈しむ思いにまでなって慈しまさせる心、そこに人間の同一性が成り立つわけです
あいつは慈しむ心がない、と狭く歪んだ自分の価値空間で判断しても、それは狭く歪んだ自分の価値空間の中での判断でしかありません
誰にでも慈しむ心はあります
それは、正に慈しむ心の欠片すらない自身に慈しむ心が起こるからであると言えます

33名無しさん:2014/12/28(日) 07:14:55
と思いました!

34名無しさん:2014/12/28(日) 08:07:35
おおよそ真宗を総括するならば、無上殊勝の願を建立し仮令身止諸苦毒中我行精進忍終不悔ということになるかと思います
つまり、法蔵菩薩ならばどうするかということに尽きる
真宗は約めれば摂取不捨の教えであり、願心回向の教えであります
ですので、真宗はよくそのままでいいということに理解されますが、そのままとはどのままであるのかが重要であります
そのままでいいならいいんですよ全然
別にどうあったって全然いい
問題はそう言われたときに自分がどう思うかであります
悪人のままでいいんじゃあとよくなりますがその悪人とはどのような存在であるのかということです
凡夫とはどのような存在であるのか
悪人と自覚するものが悪人か
悪人でありながら善人と迷妄する極悪人が悪人か
凡夫であると自覚するものが凡夫か
凡夫でありながら菩薩と迷妄するものが凡夫か
こんなもんは論を待たない
大体、人間は悪人や凡夫という価値空間を使って優越感を得るわけですから、これはもうどっちに転んだって同んなじことです
摂取不捨の眼目は願心を発起せしめることにあります
間違いに立ち、間違いを無限に超えて行こうとする如来の願心を発起せしめることにあります
如来とは如より来す願心であり、如に来す衆生心です
阿弥陀とはその内実を指します
願生浄土とは如より来し如に来させしめたまう心を指します
この実践が往生浄土です
自我妄念に降り立ち自我妄念を否定し自我妄念を打ち破り自我妄念そのものとなる法蔵の名告りが願生浄土であり、自我妄念に降り立ち自我妄念を否定し自我妄念を打ち破り自我妄念そのものとなる法蔵の名告りとして自我の妄念を歩むことが往生浄土です
願という報いることのできない恩に報いようとすることが往生浄土です
地獄一定の歩みこそが往生浄土であり、願力自然の仏道であります
唯除の道であり、除其本願の道です
人生の意味とは四十八願の建立であり、仮令身止諸苦毒中我行精進忍終不悔という自身が本当に願う自心の建立であります
摂取不捨とはこの事実の普遍成就を指し、その内実の方向性を端的に指すものです
ここで述べたことは全て徹底して間違っています
仏教は端的に言えば教権の否定と内的意欲の名告りです
無能力の白表であり、自覚自得、他のこれを代覚代得するにはあらず、です
これを信心海といい、摂取不捨といい、南無阿弥陀仏というのです
教権の否定が内的意欲の性質であり、内的意欲の具体性が教権の否定です
これが法蔵の本願を生み出す阿弥陀の本願であり、阿弥陀の本願となる法蔵の本願であります
本願はそれが正に真実の本願である故に本願を破壊します
それが法蔵の名告りであり、除其本願の意味であり、唯除の意味であります

35名無しさん:2014/12/28(日) 08:09:51
こうも思いました!

36名無しさん:2014/12/29(月) 12:01:38
僕は結構最近まで凡夫であると自覚することなんていうのは不可能であって、宗教的価値空間において優越感を得る方法か自分のエゴを通すための言い訳でしかないと考えていましたが、どうやらそう名告ることは菩薩道であると言えるなと考えるようになってきました
凡夫の名告りとはこれは法蔵菩薩の自覚ですね
まあ菩薩道、仏道の具体相としての凡夫の名告りです
法蔵菩薩の自覚とは一切衆生を一人に担わしめるということであり、遇縁存在という大地に立たしめるということです
遇縁存在という大地に立つということは、どんなにダメな奴がいても、ただ遇う縁が違うだけで自分自身も同じ縁に遇えば同じ事をするのであるということであり、南無阿弥陀仏、つまり、あらゆるもの(動物や植物、物を含む)に対して同苦の思いやりを持ちたいと願う心を回向された存在であるということです
この具体相として端的に表現されるのが凡夫の自覚ということです
これは決して菩薩の自覚ではありませんが、言葉を変えれば真の菩薩の自覚であると言えます
勿論、私はそのように自覚することは不可能であるので、如来回向の願心によって自覚せしめたまうものであります
あんまり上手く表現できていませんが、重層的なんで難しいところです
凡夫であると名告ることは、所属をはっきりさせることであって、生き方をはっきりさせることであり、自身の願いをはっきりさせることであると言えます
どのような人間とも共に歩もうという力強い自覚であり、どのようなものにも如来回向の願心を見出す自覚です
それは正に法蔵菩薩が四十八願を建立し、例えそれが無意味に終わり、後悔の中に没しても、それでも精進を続け悔いることはないと誓う自覚であると言えます
後悔の中に没して、精進が無意味に終わり、やはり自分では何も変えることができなかったとなったところから、もう一度それでもと立ち上がる自覚です
お前なんて全然ダメなやつだといい、差別することなんて仕方がないことだといい、殺し傷付けたところから、口が裂けてももう一度なんて言えない状況からもう一度立ち上がる自覚です
どうにもならない現実を認め、どうにもならない現実を担い、どうにもならない現実をどうにもならないと知りながらそれでも超えて行こうとする自覚です
これを仏道といい、菩薩道といい、凡夫道といい、往生浄土というのであると感じます

37名無しさん:2014/12/29(月) 19:37:01
素晴らしいです・・・南無阿弥陀仏。

38名無しさん:2014/12/29(月) 20:13:39
子供の頃、ある時「幽霊なんていない、神様なんていない、仏様なんていない」ということを発見して、得意になったことがありました。
少し大きくなって本を読み出すと、哲学者ニーチェが「神は死んだ」なんて言っていて、してやったり、と。
哲学者サルトルも、人間は無であって、自由であるという罪に処されているとか言っていて、
決まった自分の本質や価値なんてないんだ、
全て気のままに自由なんだ、自由であるべきなんだ、とか思っていました。
意気がって言えば全ての価値の価値転換ですが、要するにニヒリズム。
方向性を見失って、放り出されて、何のために生きているのかわからなくなりました。

でも、人と繋がっていたいとは思ったのですよね。
友達でも恋人でもいい、人と触れ合いたい、人の優しさと繋がりが欲しい。
一方で人をやり込めたいとも思っていたのですが、
思うようにならないと直ぐに不貞腐れたり怒りを爆発させたりしていました。

考えてみると、結局それ全てが自分も人も傷つけてたんですよね。
人は自分の気ままを満たすための所有物じゃない。
人が思い通りにならないのに腹を立てるのは、
本当は自分自身を腐らせているのだし駄目にして、心をささくれ立たせているのだ。

仏教をいくら勉強してもわからない。
ブッダの言葉を読んでも法華経を読んでも般若心経を暗唱しても座禅を組んでも念仏唱えてもわからない。
断片的には分かるのだけど、本当は納得してないし、腑に落ちない。
本を読んで解説を読んで、いい気になっていっぱしの説明を人に語っても、
内心本当は、大乗仏典は妄想的な光景を描いた絵空事でないかと、そうとしか思えない。
だって賢くなろうと思ってやっていたから。
人と違う、人生を深く考えているんだということを見せようと思ってやっていたから。
救われたい、救われたいって自分のこと、自分の心の苦しさばかり考えていたから。

でもある時、とても優しい人達にあって、とても親切にされたんですよね。
無償で、無条件で、大らかで。
とても朗らかで、生き生きしてて。
人をやり込めることなんて考えないし、賢さを見せびらかそうともしない。
親切さを誇るためにやっているのでもなく、
ただ朗らかな人格から自然に親切な行為が溢れでているような、
そういう人たちに出会って
びっくりしてしまったんですよね。
信じられない、って。
そんな人いるわけない、って。

言ってみれば、自分の心がどれだけささくれだっていたか
その時阿弥陀様が教えて下さったのだと思う。
無条件の優しさ、親切さ、
人への信頼。
自分に囚われている時には決して見えないけれども、
そういうものは本当に、ある、って。

その時から、
何だか他のもの何も要らなくなって、
南無阿弥陀仏、と
徐々に唱えられるようになった気がするのです。

39名無しさん:2015/01/03(土) 09:28:28
南無阿弥陀仏ってなんでしょうか
法蔵は阿弥陀仏になったのではなく、南無阿弥陀仏になりました
南無は帰命ということであると誰かが言っています
今私を生きる命に帰る、または阿弥陀という無限への方向性を持った命令に帰るということでしょうか
勿論、このように表現しても人間は聞きませんから、そのものの本当の思いとなって心の内側から湧き上がろうとします
例えば、人と繋がりを持ちたいという気持ちになってです
しかし、私たちはこの思いを、ある時は所有化して、そのような心を持っていないかのように見える人を蔑み、ある時は対象化して人と繋がりたいにも関わらず、人との繋がりを切っていく自分自身の現状を肯定するために偽物であると決定付けていきます
しかし、本当に残念ながらいくらそのように考えようとしても、最も強い思いは人と繋がりを持ちたいという気持ちとなって湧き上がる南無阿弥陀仏です
南無阿弥陀仏とは仏の願いであり、私たちの願いであると感じます
勿論、これは徹底して間違っており、僕という一個人においてのみ言えることでしょう
つまり、どのような理解も南無阿弥陀仏は許容するということです
人間が違えば考え方や感じ方も異なります
大切なのは自分にとって納得のいく応えを見付け出すことかと思います
そのように僕は考えています

40名無しさん:2015/01/04(日) 22:40:05
「如来の誓願を信ずる心の定まると申すは、摂取不捨の利益にあづかる故に不退の位に定まると御心得候べし」
と親鸞聖人も仰っています。
本願を信じ申し上げるということは、
往生が定まるということであって、
不退の位に入るということであるのだから、
それをごくごく日常的な側面で言えば、
自然に人のためにできる、ということだと思うんですよね。
そしてまた、それが苦しいもの、救いのための条件になるものなのでなくて、
喜びであり、救いそのものなのだということを
教えていただけること。
至心信楽ということ。
一方で、人のためにということは、
人のためになんかしたくない、あれこれ自分を正当化する、
常に自己利益に帰っていく自分のエゴイズム、
自分の小ささ愚かさが照らし出されることでもあって、
言ってみれば自分は何度でも浄土から逃げ続けようとしている。
阿弥陀仏の本願はそのために掛けられているのであって、
「唯除五逆誹謗正法。」
その小ささ愚かさで何度も躓きながらも
それでも南無阿弥陀仏をお唱え申し上げて
何度も教えていただいて
何度も歩き出していけるということでもあると思います。

41名無しさん:2015/01/16(金) 09:18:14
>宗教って必要だと思う?

必要です。
必要なんだけど宗教に触れて必要であることが分からないと必要さが伝わりにくいものかなと思います。つまり、宗教に触れていない人がこの疑問を持ったときに、必要性を説ききれない。でもこう思います。
いのちが大事だと言う、そのいのちってどうやって大事にします?他人を殺さないように、死なせないように、自分が死なないように、そうすることが大事にするってことでしょう。でもそれをどうやったら実行できるか、あるいは実行していると言えるのか。殺したいほど憎いと思ったときに相手を思いやり、逆の立場に立って自分が殺されることを想像することは容易ではないけど、出来ているかもしれません。でもせいぜいその程度のことです。宗教は、その気持ちに実感を与えて、殺したいと思うほど憎いと思うことがどういうことかを考えさせてくれます。人間社会のルールや、まっとうな生き方という道徳性からこれを考えることは大事なことです。でも、ルールや道徳を完全に理解しても、いのちを大事にしていることに実はなっていないんです。なぜならいのちが何であるかを考えることが抜けているのです。気付きにくいことですけど、これはルールや道徳を大事にしているにすぎません。相手を思いやるというのも方法です。いのちを大事にするということはいのちが何であるか考えることです。細胞分裂して生まれるとか死んだら灰になるというだけではいのちについて何も知らないのと同じです。死んだら終わりというルールを知ることにたどり着くだけです。
宗教は、いのちが何であるか考えることです。答えは明確にありますが、一言で言葉になりません。それは如来とか南無阿弥陀仏とか、そういうところから聴き始めなければ到底考えられないことです。ですから最初に言った通り、宗教に触れていない人にその重要性を伝えるのは難しい。いのちの重要性というか本質というか、いのちについてを考える手立てなんだと思います。お葬式でお経を読み念仏する意味はそういうことでしょう。本当は出産の瞬間や結婚式でも念仏することなんだろうと思います。

42名無しさん:2015/01/16(金) 09:58:06
>続
宗教っていうと宗教対立やカルト宗教といったネガティブな印象が先に立ちます。端的に言い表しにくいが故に、教えを守ることと既得権が同居したりしていて、現代社会の尺度からするとモヤっとした部分が多いことが分かります。今のフランスでのイスラム移民との問題や、国内で言えばカルトがまだまだ元気であることを見ると、身が引き締まる思いもします。
何かの記事で読みましたが、キリスト教が心情的信仰(信じる者は救われる)、イスラム教は規範的信仰(行動規範を示す。礼拝や豚食禁止など)で、信仰と一括りに言っては違いがわかりにくい点があり、不理解から対立が生まれるというようなことでした。仏教はその両方があり、浄土真宗は心情的信仰に近いと思いますが、規範的な面がないわけでもありません。対立しないという点に立つことを目指しているとも言えるのではないでしょうか。

43名無しさん:2015/01/16(金) 12:32:20
入信する前はピンピンしていて、入信後は、信じろ実践しろ、頼れ依存しろ、と言われ。
その結果、元々元気だったのに、守られてるから辞めたら破滅する〜と本気で信じるようになるwww もちろん、
実際に、破滅しますよ〜とは言わない。 発行物とか集会とか、細切れにして恐怖は植え付けられる。
稀に、ハッキリとした脅しが、発行物に載っちゃうけどね。ww
また、上記煽りの、「実践」という部分が、じつは効いてるんだよね〜。w 
とにかく、勧誘させる、集会参加させる。読ませる。カルトベッタリにさせる。 それが、支配には、凄く大事なとこなんだ。
勧誘親としては、下の者に対して、威張りたい、指示したい、とかのミニ教祖になりたい欲を
満たしている感じかもしれないけど、
また、子信者孫信者が活躍しないと自分のポイントが上がらないから発破を掛けているだけかもしれないが、
教団としては、そうやって芋づる式に、何でもいいからやらせることが、
支配する焦点なわけで、逆に言えば、
カルトの手口を跳ね返すには、カルトの指示に従わず、教義とか体制とかを、ジ〜っと観察してやればいい。
カルト側はそれに、耐えられませんよ。w 冷静に観察されたら、手口がバレますからね。
だからカルトは、まず参加しましょう、勧誘しましょう、奉仕活動しましょう、
とか言って、正体をハッキリさせないままに、感化して行こうとするんだよ。ww

h ttp://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/arucult3.html

44名無しさん:2015/02/03(火) 08:10:15
先日高田の専修寺でお伺いしたお話ですが、
命には2つの命があるそうです。
一つは私達が普通に思い浮かべる「命」で、色々と計らったり計算したりしている。
毎日の生活のために齷齪している。
合理的に物事を割り切ろうとしている。
色々な計画を立て、それをこなして、上手く行けば満足を感じ、失敗すれば悲嘆や怒りを感じる。
もう一つの命は、普段私達が忘れているもので、漢字で書けば「寿」なのだという。
それは計らいのない命であって、例えて言えば生まれたばかりの赤ん坊のような命なのだという。
ただそのままで良い命。
私達の根本であって、ただ与えられている「無量寿」なのだという。

この話を聞いて私が思ったのは、
赤ん坊や子供が思い通りにならなくてイライラしたりするのは、
普段私達がいる世界が「命」の世界であって「寿」でないからなのかもしれない。
それを毎日「命」の世界に押し込もうとして、齷齪して、
自分の「寿」も他人の「寿」も忘れていって、
自分も他人も、欲や怒りや、愚かさの世界の中で生きるようにしてしまっているのかもしれない。

「命」を捨てて「寿」だけになることなんて出来ないけれども、
事あるごとに「寿」を振り返って、その無量寿から教えていただいて、
お育てしていただくことは、きっと出来るのだと思う。
そのためにお念仏が説き続けられているのだと聞きました。

45名無しさん:2015/02/04(水) 13:30:11
私も高田専修寺でお聴聞しました。
ふたつのいのちについては、ふたつのいのちというよりは、ひとつのいのちの両側面なのかなあと思いました。
なんというか、上手く言えませんが、命を生きるなかでしか寿には出遇っていけないというか。

46名無しさん:2015/02/18(水) 08:05:41
>44
分かりやすい!これを読むと日本人のほとんどは仏教徒なんじゃないかと。すでにどこかで聞いたことがある感じ。それを思い出したり忘れないためにお寺があるんだろうな。

47名無しさん:2015/03/02(月) 22:51:55
最近「在家仏教」という雑誌を購読しているのですが、
真宗の記事も沢山載っていてとてもためになります。
先日届いた4月号には「悲僧非俗の仏道の選択ー親鸞聖人にとっての聖徳太子ー」という記事があり、
親鸞聖人が聖徳太子をとても尊敬しておられたことは知っていましたが、
その意味や在家にとっての仏教ということが詳しく説明されていて
とても興味深く読みました。
ご和讃五百数十首のうち二百首が聖徳太子を詠われたものなのだとか…吃驚しました。

皆さんもお気に入りの(というとあれですが…)仏教雑誌や本などありますか?

48名無しさん:2015/03/09(月) 22:08:38
浄土真宗の門信徒が、あの坊さんはいい、あの坊さんはダメ、坊さんはこうでないとダメ、と裁いている姿に疑問を感じることがあります。
そう言ってる人自身はどこにいるんでしょう。

法話が上手いとか下手とか、言ってることが正しいとか間違ってるとか、そんなことじゃないと思う。
聞いている1人1人が、自分のこととして聞いていけるかどうかだと思う。
あの人の話はありがたかったとか、分かりやすかったとか、
あの人は熱心だとか、あの人はやる気がないだとか、
あれこれいうけど、結局計っているのは自分。自分の好き嫌いで人を評価してるだけ。

「御同行」なんて言って集まって、ひとの陰口叩いてる。
気持ち悪い。気持ち悪いなあ。
浄土真宗の教えのもとに集う人達なら、少しは一般人より自省的だと思ってたけど、余計に人を裁こうとする人ばっかりだ。
この僧伽へ来て、そういう形で人間のどうしようもない醜さに気付けたような気はする。
気持ち悪くなるのは、僕も同じものを持っているからなんだろうし。

愚痴でした。南無阿弥陀仏。

49名無しさん:2015/03/18(水) 05:52:41
>48
うわさ話と人の不幸は蜜の味で、そういうお話が好きな方っていらっしゃいますよね。
人の性ですから、止められないのでしょうし、なるべく耳を傾けないようにするしかないのではないでしょうか。
一方で、ご聴聞して特に口にせずとも有り難く心に留めておられる方もいるわけで、
皆が皆陰口叩いているわけでもないと思いますよ。

>浄土真宗の教えのもとに集う人達なら、少しは一般人より自省的だと思ってたけど
念仏する方と念仏しない方で人として違いがあるわけでなく、皆同じだと思います。
善人になるための教えではないと聞いています。

50名無しさん:2015/04/06(月) 11:45:27
>48、49
お二人のおっしゃってることがここで読めて良かったです。本当にそう思います。ありがとうございます。
言葉は発した人の意に介さず聞き手や読み手を選びます。だから聖教があるんだとあらためて思います。念仏は私一人のためにあるということを確かめるためですら、誤解ばかり産み憎しみや苦しみの元になっている「言葉」という泥まみれのツールに頼るしかない。その泥の中に手を突っ込まないと確かめられない。聖教があるからといって私と書物だけでもいただけない凡愚なんだなってことを確かめながら、本願という泥にまみれないものに触れるんですね。
そうと分かっていてもなるべく泥に飲まれないように意識しています。このなるべくっていう心も何を基準にするかで変わってしまう。お二人の言っていることもまた私の物差しになっていきます。

51名無しさん:2015/04/20(月) 23:06:52
浄土とは何でしょうか。
何度も考えて、お話も聞き、その都度少し分かるような気もするのですが、
少し経つと、いつも良く分からなくなってしまいます。

本願、というとよく分かるような気がします。
全ての衆生を救い取るという仏のお誓いという、
けれども浄土とは?
本願があるから浄土がある。
浄土には報土とか化土とかがあるといいます。
浄土は無量光明土だという。
往生はこの身このままでするのだとも聞きます。
段々頭がぐるぐるして、分からないような気がしてきます。

きっと、本願と別に浄土があるのでないのでしょう。
浄土とは本願海の別の名前ではないのでしょうか。
念仏の衆生は、本願を信じ、本願にすくい上げられて、共に本願の海の中にはいっていく。
浄土とは目的や行き先ではないのです。
本願に真に到達することは決して出来ないけれども、それでも本願に後押しされたり助けられながら、
本願を頼りに、行ったり来たりしながら、なんとか共に生きていく
次第次第に深く本願の中に生まれていく、
それが浄土ということではないのでしょうか。

私は念仏申しているから救われた、幸せです。あなたも早く気づきなさい、と
そう仰る方がいらっしゃったけれども
なんだか少し違うような気がしてしまいます。
本願は無限の願いなのだから、「救われた」なんて、終わってしまうことはないはず。
本願は全ての衆生を救う願いなのだから、あなたが気づく前に、私だけが「救われた」なんて、
そんなことはないはずです。
浄土は共に生まれる場所であって、次第に深くなっていく、本願の海であるはずです。
私だけが、一人で個人的に行く浄土は、限りある幸せで、本願に叶わないのではないでしょうか。

・・・あなたにとって浄土とは、どんな場所ですか?

52名無しさん:2015/05/06(水) 13:19:34
本願と浄土は因と果で示されたものだと思います。因である四十八願について聞くと、一切衆生をすくうとか三途の苦難を味わうものがいないようにとか、なぜ浄土が浄土であるかという因になっているものであることは分かります。分かるといっても理屈が分かってなるほどとなるだけですけども。それが成立している世界なんてあり得ないけど理想的だなと理解するだけです。お釈迦さまはその世界があると力強く語っておられるわけです。どんな世界だと語られる阿弥陀経の世界について初めて聞いたのは私がまだ子どもの頃でしたが、まったく私が思い浮かべる極楽浄土と違う印象でした。大人になって、理屈ばかり達者になる自分にとって、浄土を見ろと言われるほうが有難いと感じます。現実に浄土が立ちあらわれるとして、それを感じている自分が実は自分にとらわれている瞬間である可能性もあります。まず浄土を見ることで念仏させていただく。私はそのように今は感じています

53名無しさん:2015/05/24(日) 03:00:38
全ての生き物が共通に救われていく場所が浄土であって、
それは個々別々の各自の努力によって成し遂げられていく成仏とは異なっている。

他者を慈しみながらも思うように救うことのできない、
または慈しみ続けることすらもできない、
この娑婆での私達の限られた小慈悲に対して、
それは決して消えることのない、また成仏させて止まない無限の大慈悲である。

それはこの娑婆世界よりも圧倒的に大きくて、優れている。
それは無限であって、この世界をも日月をも超えている。
そしてこの世界を照らし続けてている。

それはあまりにも眩しいから、私達の限られた目には見えない。
常に与えられている南無阿弥陀仏という言葉、
そしてご縁と、私達が時折しか気づくことのできないお導きを別にしては、私達がそれに気づくことはできない。

私達の人生が向かうべき先があるとすれば、浄土より他はない。

そう思い切ることすらも出来ないけれども、本願がそう常に私達を引き寄せ続けている。
本願は、個々人としての私達ですらない、この世界そのものを引き寄せ続けている。

個々人の限られた救いは自力である。
全ての生き物の、この世界そのものの救いは他力である。
この世界そのものを救われるために、法蔵は、数限りないあらゆる世界の隅々までを荘厳された。
私はその信を取らなければならない。
本願を聞き広げてその信を深めていかなければならない。

54名無しさん:2015/05/25(月) 10:13:39
誠にこの世は不浄である。

ではなぜ、この世は不浄であるのか。
それを乗り越えるためである。

ではなぜ、不浄を乗り越えることができないのか。
結果を越えるためである。

人間は自分を肯定するために、自分にさえ嘘をつく。
仕方がないと、都合良く諦め、言い訳を重ね、損得勘定を超えることがない。
自らの責任を誤魔化し、弱肉強食が自然であると思い込む。
他者のためという言葉で着飾っては、自らのエゴの拡大に努め、優劣に浸る。
他者のために生きようとする姿が他者を否定していく事実に人間は絶望する。
諦め、考えることをやめ、痛ましいあり方に身を委ねる。
泣きながら、他者を傷つけていく現実を前に心を殺す技術を覚えるのである。

しかし、残念ながら真実の絶望とは明るい。

どのような事実を前にしても、人間が絶望することはない。
絶望の中にあってなお人間は願わざるを得ないのである。
いっそ諦められるのであればどれほど楽であろうか。
ただなんの迷いもなく自らの間違った行いを省みることなく生きられるならば、どれほど楽であろうか。
決して逃れることのできない呪い。
これ以上の絶望があるのであろうか。

またどれほど有難いか。
不可能であると知りながらそれでも前に進む、理を越えた道理。徹底した間違い。
これ以上、力強いものはなく、これに勝る事実は無い。
人間は何度、現実に打ち負かされ、諦めたつもりになっても、
何度、机上の空論だと否定し、現実を見ろと言い聞かせても、
なお他者のために生きることを真に望むのである。

人間とは何か。
人間とは殺すものである。
そして、なお願うものである。

故言く、
汝、諦かに聞き、諦かに聞け。
願うところの願、汝自ら当に知るべし。
また曰く、
絶対の無意味を前にしてなお進み、無意味を越えることこそ、無意味の意味であると知れ。
例え、苦毒のうちに沈むとも、他者のために生きよ。
それを真実に望むのであれば、となり。已上

過去久遠よりの歩み。
皆そのように生きてきたのである。
あなただけではない。
大海ですら、杓子によってすくい取ることができる。

55名無しさん:2015/06/04(木) 16:39:24
>54
なるほど、それではつまらないですね。つまらないのに有り難い。本当に有り難いお話です。
すくわれたくて生きているとかすくいたくて生きているっていう前提じゃないんです。だからそれができない絶望すら起きません。そうだったのかと知らされるそのときを待ち続けています。すでにそうだったのかと見ておられる人もいますが私はその人を疑ってしまいます。そうだったのかと見ておられる人が少なからずいるから私も待ち続けているのかもしれません。だからつまらないけど有り難い。そんな前提はウソっぽいしそんな高尚な絶望じゃないと蹴飛ばしながらも目を背けることもすでにできないのです。

56名無しさん:2015/06/09(火) 00:07:20
仕事を終え、家事を終え、子供が眠り、祖母が眠り、明日の支度を整え、片付けをして、寝床につく。
テレビを見る暇も、運動する時間も、本を読む時もないが、合間合間に、お念仏申し上げる時間はある。
今日も1日、誰かの為に、阿弥陀仏が自分を働かせてくれた気がする。
大した仕事でもない、慈悲でもない、あっという間に押し流されてしまうような些細な働きだけれども。しかし私には、永遠にも等しいような、意味が感じられる、大切な
ひと時で、その事を感謝申し上げたい。
南無阿弥陀仏。

57名無しさん:2015/06/20(土) 15:25:24
真宗合同布教大会をUSTREAMで見ています。
直接足を運べればよかったのですが、映像ででも見られるのはありがたいことです。
南無阿弥陀仏。

58名無しさん:2015/07/09(木) 14:45:37
真宗における救いとは摂め取って捨ずという言葉であらわされます。
それは信心の発起、つまり願往生心の発起があらゆる人間の上に起こることを示すものです。
この願往生心とは法蔵菩薩に象徴される生き方を志向せしめるものであり、あらゆる人間、動物、植物、ものを選ばず、あらゆる痛ましいあり方を嫌わず、何度言っても理解できないものを信じ見捨てずに寄り添い本当の願いを訴え続けせしめるものです。
結果を超え、無意味を超えてそれでもと一歩を踏み出さしめる力を指すものです。

南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏(選ばず嫌わず見捨てず)に南無(良いよねと思う)するということです。
まあ勿論私たちは自分さえよければそれでいい訳ですから、阿弥陀仏良いよねとか思いません。
だから、阿弥陀仏はそんな私たちが阿弥陀仏良いよねと思えるように南無阿弥陀仏という心、本当の願いとなって私たちの心の中までわざわざやってくる訳です。
このやって来ることを大行と呼びます。
で、このやって来た大行がせしめたまうことすべてを称名と呼び、念仏と呼びます。
そしてこの心と行動が一つになることにおいて必ず阿弥陀仏と成る身(現生正定聚)におさまるのです。
なぜ、必ず阿弥陀仏と成る身であると言い切れるかと言うと阿弥陀仏に成りたいという心がなくなってしまうことがないからです。
なぜなら、できるとかできないとかの結果を超え、意味があるとかないとかを超えているからです。
こういうかたちをとって、摂め取って捨ずということが実現する訳です。

と思う訳です(笑

59名無しさん:2015/07/15(水) 02:25:26
>57
動画が公開されています。
ttp://sinshugodo.net/archives/602

南無阿弥陀仏

60名無しさん:2015/08/04(火) 01:19:03
日々過ごせば過ごすほど、真宗の教えは素晴らしいと思いますし、また真実であると思います。
近頃私がつくづく感じさせられるのは、人の思いと優しさの有り難さ素晴らしさ、
またそれと同時に、私の思いと優しさの限られてあること、エゴの深さということです。

歎異抄の4条の言葉を度々思い返しています。
聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ、育むなり。
しかれども、思うが如く助け遂とぐること、極めて有り難し。

人が折に触れて感じる哀れみ、悲しみ、慈しみ、優しさ。そこに嘘はないと思います。
けれどもその思いは末通らない。
自分の思いに相手が思うように答えない。答えないことが怒りを生む。優しさはあっという間に優しい怒りに転換してしまう。限りないエゴの深さ。人の思いの有限さだけが残る。

本当の思いは彌陀の誓願の中にしかない。大慈大悲心はお念仏の中にしかない。

どこまでも深いエゴとどこまでも開かれていく誓願の二つをひたすらに抱えて生きていく。それにしがみついて生きていく。
合理的な解決を謳う現代人や、経済人や、知識人なら、どちらかを批判したり、片付けると言い切ってしまうことができるのでしょう。
でもそれは決して真実ではない。
私達は常に既に法に掴まれている。
エゴからも、本願からも。

決して、それを片付けたり、無視したり、消し去ったりすることはできない。、
どこまでもどこまでも、そこに引き寄せられて聴き続けて行くしかない。

61名無しさん:2015/08/31(月) 12:32:53
仏様は目に見えないが
仏様は呟けばここに居て
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
呟く前から光を注いでいらっしゃる

仏様の教えは
因縁の力ある教えで
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
呟いてゆけば私に与えて下さる

それは勇気、優しさ、
忍耐強さ、恥じる心、感じる心
人がどこまでも我執であること
世界がどこまでも美しいこと

仏様は求めても来られず
助けを求めても何も答えられない
けれども南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
いつも呟く私の背中を押して歩かせて下さる

62名無しさん:2015/09/04(金) 00:07:46
南無阿弥陀仏は
沢山のものを運んで来て下さる
温かいものごと
ささやかなこと
気付かせること

何処へ行っても 同じものが売っていて
浅い言葉だけの付き合いの人々に会い
愛も怒りもがお金やインターネットで満たされる
そうしたさもしい世の中で

私達がどれだけ苦しんでいたか
それがおかしなことと言えないでいた
穢土が
浄土の御光で
ある日変わる

仏様は 私達に運んで下さる
素直な心 感じる心
痛み 悲しみ 慈しみ
そして耐える心 本願に向かって生きる 希望

苦しみを 苦しみと言って良かったのだと
南無阿弥陀仏は 認めて下さる
世界は 決して殺伐としてはいない
優しさを ご縁を
広めよ 広まれ
無碍光 無辺光
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

63名無しさん:2015/09/10(木) 02:11:56
無碍光 無量光
南無阿弥陀仏は
無限の可能性を開く
南無は一人ではない
無量無数の同行と共にある

赤ん坊が
遊んでいたら
顔を上げる度に
父母のことを呼ぶ
抱っこ抱っこと
請い願う
生き物は孤独だ
小さな赤ん坊の頃から
心は孤独を知っている
普段はただ
忘れたふりをしているだけ

無碍光 無辺光
南無阿弥陀仏は
限りない孤独を解かす
私の孤独を
孤独を創るエゴを照らす
信心は 忘れさせない
仏は常に在しまして
同じ孤独を知る無量の同行と
一味に私を救い上げる
南無阿弥陀仏
帰命尽十方無碍光如来

64名無しさん:2015/12/10(木) 15:55:02
よく称名報恩と言いますが、正確ではないのかなと思います
称名とは、まあこの場合口唱ですが、口唱は場所的にはたらくことにのみ意義があるのかなと思っています
口唱とは覚悟の表明でなければならないと思います
つまり、他者との関わりを方向づけるものだということです
他者を敬うことのできる根拠であり、人間を信ず自覚だと思っています

法然の生き様、これこそ人間を信ずる自覚の意義を明確にしておると言えるのかなと思います
法然は当時救われる存在ではないとされた女人や五逆の悪人、謗法の人まで自分のもとに受け入れています

普通こんなことはできはしない
世間をみれば、凶悪な犯罪者は更生の余地なんかないということで死刑になっています
ルールに従わない奴は、人に迷惑をかけた奴は人とも思われない扱いを受けています
世間では何度言ってもわからん奴はもう知らんわとなっているのかなと思います

本来切り離せない関係を切り、悪人というレッテルで責任をなすりつけていく
まあ我々は規範を利用しますから、こんなことをしてしまうのかなと思います
親鸞も叡山を降りとるのでその辺はわかっていただろうなと思っています
だから、法然にあったときはああこれが仏道なんだなと思ったのかなと思います
これが正しいあり方なんだと思っただろうなと思います

どんな人間も分け隔てなく、ともに救われていく存在であると信じ接する法然、もっと言えば自分の曇った眼からはどんなに酷い人間に見えても、仏性を持った存在であると、仏を見て感動する存在であると、仏のようになりたいと心の底から願っている存在であると信じて、決して諦めずに訴えかけ続ける法然、そういう法然の姿を見てここに仏道があると、いや例えこれが仏道で無くても、この道を行くと思ったのかなと思います
勿論、親鸞は百日かけて法然を吟味していますから、法然の願いが届かない場面も見ていますでしょう
法然も叡山におった僧侶となんら変わらん
他者を見捨てていくところを見たかもしれません
でも、それでも、法然は諦めなかったでしょう
法然が諦めてもなお南無阿弥陀仏は諦めなかった

これはさぞ衝撃だっただろうなと思います
だって普通は百万遍やって百万遍無理なら諦めますよ
腕を振っても空は飛べません
飛べないのに飛ぼうとするのはこれは道理に反している
百人が、千人が、万人、全世界がNOだという道理に対して、いやそもそも自分でさえNOだと思ってしまう道理に対して、YESだと言う
こんなことは正気の沙汰ではないのかなと思います

しかし、いくら我々が我々の迷妄した物差しで正気の沙汰ではないとしても、事実としておこっているものを否定することはできないのかなと思います
腕を振って飛べないということがいくら道理であると思っていても、腕を振って飛ぶという事実がおこってしまえばその道理は道理ではなかったことになる
私がどれだけ自分自身を蔑んでも、私の心の上に事実として湧き上がる願いは否定することができない
私が何度間違いだといい、諦めようと、いや事実として諦めたとしても、希望が止むことはない

法然も、五逆謗法も、みな同じかなと思います
救われざる私の発見と、それをしてなお願わしめるものの発見
このふたつに依って、はじめて人を信ずることができるのかなと思います
ここまでいってはじめて、口唱は称名の意義を全うできるのだろうと思います
仏道は、特に大乗ですが、これは他者との同一性を証明することにのみ成り立ちうるのかなと思っています
虫も、虫を殺す人も、家畜も、家畜を殺す人も、戦争屋も、差別者も、悪魔と呼ばれる人たちも、同じく私なのだと、同じく願うものなのだと、教えられています

殺し願う私は、それでも人間です
そして、残念ながらあなたも、同じく人間なのです

65名無しさん:2016/01/01(金) 21:13:22
年末のクッソつまらん番組に辟易している層を狙って、NHKがピタゴラスイッチの特番、ピタゴラ装置大解説スペシャルをやっていた
この番組では、ピタゴラスイッチの基本的な機構を解説するなかで、機構の意味が変容するということを解説していた
この機構の意味が変容するということは、例えば、上りの階段という意味を持った機構がその役目を終えたのち、下りの階段へとその意味を変えることや、ドミノという意味を持った機構が倒れ終えたのち、球が転がる道という意味を持った機構に変わるというようなものだった

これと同じに人生にも意味の変容は起こる
例えば、苦や死、何かしらの妨げなどがそれに挙げられるだろう

普通一般において苦・死・妨げは避けるべきもの、忌み嫌われるべきものという意味を持っている

だが、ことに仏道において、避けるべきこれらは、仏道の成就の為に乗り越えられるべきもの(全うされるべきもの、それをしてなお願われるべきものごと)という意味に変容される

苦しみが大きければ大きいほど、反作用のように人間の尊厳はその尊厳足る意味を成就するのだ

中国の高僧、曇鸞はこれを喩えて、

高原の陸地には、蓮華を生せず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。
これは凡夫煩悩の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う

と解説している

思い通りに行く中で思い通りにすることには何の尊厳もない
ホームランを打つことが確実にできるものがホームランを打ったとしても、そこに感動は起こり得ない
願いすら持つことのできない中でなお願いを持つ、そこにこそ奇跡が起きていると言えるだろう

人間は人生のある一点にしか焦点があたらない
だから、自らの物差しで目の前の物事を短絡的に苦であると認定してしまうのだ
だが、人生の全体をみるならば、その苦にこそ意味があるものである

仏教では、人を動かしめる意欲、人生全体の意味保管するものを仏法と呼ぶ

人は自らの人生を他者のため、苦を乗り越えるために生まれてきたのだ

乗り越えないままに乗り越えるのである

最後に曇鸞の言葉を引いて締めくくることとする

もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。ーー正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

66名無しさん:2016/04/04(月) 05:58:52
人生は無意味だ
そのように考える人がいます

結果が全てである
そのように考える人もいます

ただ、僕はそうは考えていません
そう考えることができないからです

いや、厳密に言うならば、そう考えることはできます
むしろ、まさにそのように考えているといっても過言ではない

しかし、それと同時に、そう考えながらもその考えに心から納得ができない事実があるのです
どうせ全ては無意味なのだ!と考えてみても、人間は無意味には耐えられない
考えれば考えるほどそういう弱さというものに直面せざるを得ないのです

人は死ぬとどうなるのか
死ねば終わり
そういう風に考える人がいるかと思います

実際がどうか、それは死ぬまで分かりません
しかし、その様な考え方ができるのは余裕のある人ではあるのかなと思います

本当に追い詰められればその様な考え方をすることはできないでしょう

人間は情を捨てることができず、自分の都合の悪いことを信じ続けられるほど強くないからです
合理的に非合理であるもの、それこそが人間だからです

ただ、このような人間観を受け入れられる人は少ないかと思います
殆どの人間は、強い人間を装い、自分自身にも嘘をつき続けて生きてきたからです

しかし、言うまでもありませんが、強いふりをした人間は強い人間ではありません

弱いそのままの自分を受け入れることこそ強さであるからです

弱いそのままの自分を受け入れられず、強い自分像を追い求め、本当の自分を偽ってしまうものこそ弱い人間の具体相です

この世には強いふりを強いられた弱い人間しかいない
だからこそ、心の奥底に隠された人間の弱さを顕かに示し、心と心をつなぐ、そのような人間が求められているのです

67名無しさん:2016/08/23(火) 17:28:57
正覚の内容
縁起の理法
涅槃ー一切の執着を棄て去ること

縁起の理法をもって
迷妄、流転からの解脱を明確に認識する
解脱知見

縁起
縁って生起することー先に存在する原因との関係において、結果として事物の生起があること

此縁性果
果はかならず何かを縁として成り立つ
全ての物事にはかならず因(原因)と縁(条件)とがある
だからおかげさま
だから彼は悪くない
だからこの心の因縁は阿弥陀にあり

全ての物事はからなずその他の物事の原因と条件になる
たがら頑張ろう
だからここで乗り越えよう

迷妄流転の原因
愛憎違順ー自らに順ずるものを愛し、違うものを憎む=選び嫌い捨てる
愛憎違順→迷妄流転
愛憎違順を超えるー摂取不捨

愛憎違順を超える智慧=正覚の智慧

阿弥陀=選ばず嫌わず見捨てず
選び嫌い捨てる=凡夫
南無阿弥陀仏=選ばず嫌わず見捨てずにに帰り依らしめる

帰依
本質に帰り依る
本質=選ばず嫌わず見捨てずであることを志向する
本質故、不退転に住せざるを得ない

回向成就前
神話的にのみ語られ得るが、現実的には回向成就前は存在しない
本質=自己中心
自分さえよければそれでいい

回向成就後
現実的には生の前段階として回向成就がある。それ故本来的には前後の区別はない。
本質=回向成就の南無阿弥陀仏
他のためになりたい

阿弥陀は阿弥陀である故に南無阿弥陀仏を凡夫に成就し、その選び嫌い捨てる性質をそのまま変えることなく、選ばず嫌わず見捨てず以外を選び嫌い捨てるようにせしめる

転倒
選ばず嫌わず見捨てず以外を選び嫌い捨てるものこそが凡夫であるにも関わらず、選ばず嫌わず見捨てずを選び嫌い見捨てること

68名無しさん:2016/09/04(日) 05:14:17
仏とは自覚覚他覚行窮満の存在だ。
書き下せば、自ら覚り、他を覚らしめ、それらの覚行が窮まり満ちている、ということにでもなるだろう。
要は、自ら仏となり、あらゆる他者を仏となし、それが遍くところで同時に行われ、最後まで尽くされる、そういう存在のみを仏ということができるということだ。

覚行が窮満であるということは、あらゆる条件が超越されるということだ。
それは、怒りや憎しみ、世俗的な価値観は勿論、仏教理解の浅深、仏教的な行の有無、仏教に触れることや時空間すら超越する。
どのような存在も、概念すらも、もはや存在しないものでさえ、仏からは逃れられない。
仏は何ものをも条件とせず一切のものを救い、必ず仏となる覚りに導くからだ。

仏とはどのような存在をも選ばない。
仏とはどのような価値観をも嫌わない。
仏とはどのような悪人をも見捨てない。
仏とはあらゆるものが忌み嫌う死をも捨てないのだ。

何故なら、仏は知っておられる。
あらゆる存在が選び捨てられ、泣くことを。
あらゆる価値観が嫌われ、泣くことを。
あらゆる悪人が見捨てられ、泣くことを。
苦が泣くことを。死が泣くことを。

みな迷い、煩悩の荒波に溺れ、痛ましいあり方を痛ましいと知りながらどうすることもできないことを。

だからこそ、仏はあらゆるものに仏の心を与えになられるのだ。

迷い惑い、怒りにのまれ、憎しみにまみれながらも、それでも他者のために生きたいと願う心を。
誰も、どのような自分をも選ばず嫌わず見捨てず救いたいと願う心を。
殺し傷つけあう現実に負け、絶望し希望を見失ってなお、立ち上がる心を。

その心に気づく必要すらない。
何故なら、初めから我々はその心が自らの本当の願いであると知っていたからだ。

その心を止めおく必要もない。
何故なら、最初から途切れたことなど一度もなかったからだ。

何故なら、それを実現するもののみを仏と呼ぶからだ。

我々のなすべきことは、給わった心のままに仏となる道を行くことである。
つまり、我々が給わった選ばず嫌わず見捨てずを願う仏の心こそ我々の本心であり、本心のままに生きようと、何ものをも選ばず嫌わず見捨てず伝え続けることだ。

何度、失敗してもいい。
その度に我々がなお願う事実は確信へと変わるからだ。

69名無しさん:2016/09/05(月) 01:44:07
南無阿弥陀仏

私達は本願から来て浄土へ還る
その道を仏様と歩む
私より前に仏様が私を捕まえている
仏様は何時でも私のご縁を準備している

思うようにならない苦
仏様の救いは常に私達の思いの外にある
私達には既に本願の内にあることが見えない
念仏申しご聴聞する中からしか見えてこない

仏様は関係の中にしかない
私をいくら見ても私は空っぽだ
関係の中から私はご縁を見ていく
関係の中からご本願とまた出会っていく

南無阿弥陀仏

70名無しさん:2016/12/31(土) 01:37:13
信心

単純なことを理解するのに
随分随分回り道させられることはある
簡単だ、基本だと世間から言われて
全く簡単でも基本でもなく
そういう世間が間違っていただなんて
ざらにある
それで人は20年ほどを簡単に失う

単純なことを理解するのに
随分随分回り道させられることは良くあって
例えば僕が初めて仏教って何?と聞いた時には
無常感とか空とか説明されたけれども
それは全然仏教の本質じゃなくて
見てくれや最大公約数を掠っているようなもので
実際は「本願」だった
そういう入り口に立つのに
人は20年なんて簡単に失う

無常とか縁起とか
空とか無我とか
一生懸命言う人がいるんだ、ある界隈では
一生懸命読むとそういうのが頭に入ってくる
お話で頭が一杯になる
心が空っぽになる
心が空っぽになれば、何か良いことがあるのか?
まああるんだろう
そこに「慈悲」が入って来れば
でもそんな慈悲って
本願以外の一体どこから入って来るんだ
仏が本願じゃなかったら
一体何なんだ

理屈と慣習で人の心を擦り減らさせるために
力を注いでしまうのが人なら
そんな惰性は捨ててしまいなさい
自分も人も殻を壊してしまうようなものが
宗教でないのなら
失った空っぽの20年はどこへ行って
見つけたような宝は
あと20年もすれば
高値づかみさせられた空虚な箱のようになってしまうだろう

71名無しさん:2017/03/14(火) 00:16:35
我ら仏のましますごとくせん

結局これに尽きるかなと思う

無理だけども

それでも、どうしようもなくそう願っている

だから、人を信じられるんだと思う

72名無しさん:2017/05/19(金) 03:20:17
腹が立つとは自分の考えのみを正しいとする心であり、瞋恚の心である
めんどくさいとは自分さえよければいいということであり、貪欲の心である
これらの心は正しいことを見失った愚痴の心より生じ、これを総じて無明とする
世の問題の全てはここより起こる

人間に無明を打ち払うことはできない
何故なら、何が正しいか分からないからだ
それゆえ阿弥陀は座より立たれ、人に正しい道を示される
我が道をゆけと
人に彼が道をゆきたいと願わしめる
これが真宗の肝要である

73名無しさん:2017/05/29(月) 21:52:18
人は満たされていなければ、他者を気遣うことができない
つまり、他者を気遣うことができず、誰かを傷つけてしまうということは、何かしらによって苦しんでいるということに他ならない
横暴に見える他者でも、その背景を知れば必ず理解し合うことができる

しかし、自らのみの力で他者の背景を推し量ることはとても難しいことだ
何故なら、私たちは自分自身から見える範囲でしか物事を考えることができず、怒りや怠慢に簡単に絡め取られてしまい安直な答えをとろうとしてしまうからだ

だからこそ、常に自らを律し、相手の語る内容に耳を傾ける必要があると考えている

ただ、例え他者の語る内容に耳を傾けたとしても、それで万事物事が解決する訳ではない
何故なら、他者に対して自らの背景を語るということは他者の背景を推し量るということ以上に難しいことであるからだ

私たちは自分自身を理解しているつもりであっても、自らの本当の背景に気付いていないことが往々にしてある
自らの背景を語っているつもりであっても、それが実際の本心に即していなければ、問題の解決には至らないのは当然であろう

自らの背景を語るためには、まず自分自身の本心に即した背景を包み隠さずに知るということが重要になる
しかし、自分自身の本心に即した背景を包み隠さずに知るということは、自らが思い描く自己像を破壊することに等しく、また、自らを縛る心の傷と向き合うことと等しい
故に自分自身の本心に即した背景を包み隠さずに知るということは、他者の背景を推し量るということ以上に難しい難中の難であり、また、それを語ることは至難であるといえる

しかし、この難中の難を紐解き、至難を乗り越えなければ、他者と理解し合うことはできない
何故なら、通常、人は心に傷を持っているとは考えておらず、持っていると自認していたとしても、それが自らの行動に強く影響する背景となっているとは理解していないからだ
しかし、心に傷を持っていない人間などこの世には存在しないし、些細なことでバチバチに傷つくのが人間である

つまり、自らの本心を知ることができず、他者に背景を語ることができない根底には、弱い自分を切り捨て、自らの抱く強い自己像のみを演じ続けようとすることがある
この自己の心に対する解釈の乖離こそ、自らの背景を包み隠さずに知るということを妨げる要素であり、自縄自縛するその縄であるといえる

勿論、他者が真に心の傷を持っていないと語るのであれば、それは尊重すべき内容ではあるだろう
しかし、実際に何かしらの問題が起こっているのならば、必ずそこには原因があるといえる

それは問題を構成する何某の人間のみに還元することのできることではない
何故なら、完全に自らの成すべきことを事を成しているならば、問題など起こりようがないからだ

「傷ついた」というその一言を言えないがために、人は理解し合うことができず、傷つけ合いの螺旋から逃れることができないでいる

本心から語り合うならば理解し合えないことなどありえないにもかかわらず、自らの縄によって苦しみの海に沈み続けているものこそ、我々の現実の姿だろう

自らの前に立ちはだかるその人はそのような苦しみの海より救われたいがために、自らの前に立ちはだかっているのだ

他者の責任を担い立ち上がることのできるものは、心の傷を顕かに知り、顕かに示すことのできる者だ

踏み出せないその一歩を踏み出すことで、私には知ることができないとしても、間違いなく救われる人がいる

その事実こそ、絶望の只中でなお、無意味を越えて歩み出す力となるのだと強く感じている

74名無しさん:2018/02/25(日) 20:33:23
宗教の事はみんな長文になりがちだね。
語りたいけど語る場は中々ないし、教えに出会えた感動を表現しようとするとスパっと一言では言えず...って感じかな。
論争もおきがちだし、こうした場は貴重だけど運営も難しそうだね。

75名無しさん:2019/05/16(木) 20:32:51
蜂屋という方の「四十八願講話」という本に「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という無量寿経の四十一願について「これは信心を得たものについての願。信心決定すると、諸根が具足する」と書かれてあって、それはおかしいんじゃないか、だったら身体障碍の方は救われないんじゃないかと思い、四十八願について書かれてある本を読み漁りました。
すると
金子大栄師は「他方国土の諸菩薩衆というのは哲学者や聖道門の修行者のこと」としており
阿満利麿さんは「佛のもとにいて修行しているもの」としており
香月院深励師は「十住以上の浄土嫌いの菩薩を18願に引き入れるための願」としておりました
41願の「他方国土の諸菩薩衆」が誰なのかについては本を読んでも様々な説があり、どれをとっていいのか分かりません
浄土真宗の公式見解?のようなものはどうなっているのでしょう
もし蜂屋賢喜代さんの言うように、信心のあるものは身体障碍を負わない、という願だったとしたら、私も体が弱いので、後生が不安です


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