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浄土真宗掲示板

68名無しさん:2016/09/04(日) 05:14:17
仏とは自覚覚他覚行窮満の存在だ。
書き下せば、自ら覚り、他を覚らしめ、それらの覚行が窮まり満ちている、ということにでもなるだろう。
要は、自ら仏となり、あらゆる他者を仏となし、それが遍くところで同時に行われ、最後まで尽くされる、そういう存在のみを仏ということができるということだ。

覚行が窮満であるということは、あらゆる条件が超越されるということだ。
それは、怒りや憎しみ、世俗的な価値観は勿論、仏教理解の浅深、仏教的な行の有無、仏教に触れることや時空間すら超越する。
どのような存在も、概念すらも、もはや存在しないものでさえ、仏からは逃れられない。
仏は何ものをも条件とせず一切のものを救い、必ず仏となる覚りに導くからだ。

仏とはどのような存在をも選ばない。
仏とはどのような価値観をも嫌わない。
仏とはどのような悪人をも見捨てない。
仏とはあらゆるものが忌み嫌う死をも捨てないのだ。

何故なら、仏は知っておられる。
あらゆる存在が選び捨てられ、泣くことを。
あらゆる価値観が嫌われ、泣くことを。
あらゆる悪人が見捨てられ、泣くことを。
苦が泣くことを。死が泣くことを。

みな迷い、煩悩の荒波に溺れ、痛ましいあり方を痛ましいと知りながらどうすることもできないことを。

だからこそ、仏はあらゆるものに仏の心を与えになられるのだ。

迷い惑い、怒りにのまれ、憎しみにまみれながらも、それでも他者のために生きたいと願う心を。
誰も、どのような自分をも選ばず嫌わず見捨てず救いたいと願う心を。
殺し傷つけあう現実に負け、絶望し希望を見失ってなお、立ち上がる心を。

その心に気づく必要すらない。
何故なら、初めから我々はその心が自らの本当の願いであると知っていたからだ。

その心を止めおく必要もない。
何故なら、最初から途切れたことなど一度もなかったからだ。

何故なら、それを実現するもののみを仏と呼ぶからだ。

我々のなすべきことは、給わった心のままに仏となる道を行くことである。
つまり、我々が給わった選ばず嫌わず見捨てずを願う仏の心こそ我々の本心であり、本心のままに生きようと、何ものをも選ばず嫌わず見捨てず伝え続けることだ。

何度、失敗してもいい。
その度に我々がなお願う事実は確信へと変わるからだ。


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