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浄土真宗掲示板
11
:
名無しさん
:2014/09/12(金) 14:42:46
そうですね。その通りでもあるかと思います。
僕も上手く語ることができません。しかし、上手く語ることができなくてもなお語られるものこそ重要であるかと考えています。
僕は阿弥陀の本願は人それぞれにおいて展開し表現されるものであると考えています。
それは僕の狭い価値観では全く違うかたちに見えるものや、僕の表現とは真っ向から対立するものにもあてはまります。
なぜなら、そのようなかたちをとらずして「選ばす、嫌わず、見捨てず」という阿弥陀の本願はその本質を満たすことができないからです。
遇縁存在であり、さるべき業縁がもよおすならば如何なるふるまいをも喜んでしてしまう僕自身が救いとられる救いとは「いつでも、どこでも、だれでも」に成り立つものでなくてはならないかと思います。
親鸞は自信教人信に立ち、一切の弟子を持ちませんでした。
そこには、自分自身が他者の信を聞くことを縁としてなにを信じざるを得ないのかということがはっきりしていったという事実があったからではないでしょうか。
他者の信は、本質的に疑でしかあり得ません。
しかし、その疑によってこそ信はかたちどららるのであると考えています。
疑いとは無自覚の信であると考えています。
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