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浄土真宗掲示板

64名無しさん:2015/12/10(木) 15:55:02
よく称名報恩と言いますが、正確ではないのかなと思います
称名とは、まあこの場合口唱ですが、口唱は場所的にはたらくことにのみ意義があるのかなと思っています
口唱とは覚悟の表明でなければならないと思います
つまり、他者との関わりを方向づけるものだということです
他者を敬うことのできる根拠であり、人間を信ず自覚だと思っています

法然の生き様、これこそ人間を信ずる自覚の意義を明確にしておると言えるのかなと思います
法然は当時救われる存在ではないとされた女人や五逆の悪人、謗法の人まで自分のもとに受け入れています

普通こんなことはできはしない
世間をみれば、凶悪な犯罪者は更生の余地なんかないということで死刑になっています
ルールに従わない奴は、人に迷惑をかけた奴は人とも思われない扱いを受けています
世間では何度言ってもわからん奴はもう知らんわとなっているのかなと思います

本来切り離せない関係を切り、悪人というレッテルで責任をなすりつけていく
まあ我々は規範を利用しますから、こんなことをしてしまうのかなと思います
親鸞も叡山を降りとるのでその辺はわかっていただろうなと思っています
だから、法然にあったときはああこれが仏道なんだなと思ったのかなと思います
これが正しいあり方なんだと思っただろうなと思います

どんな人間も分け隔てなく、ともに救われていく存在であると信じ接する法然、もっと言えば自分の曇った眼からはどんなに酷い人間に見えても、仏性を持った存在であると、仏を見て感動する存在であると、仏のようになりたいと心の底から願っている存在であると信じて、決して諦めずに訴えかけ続ける法然、そういう法然の姿を見てここに仏道があると、いや例えこれが仏道で無くても、この道を行くと思ったのかなと思います
勿論、親鸞は百日かけて法然を吟味していますから、法然の願いが届かない場面も見ていますでしょう
法然も叡山におった僧侶となんら変わらん
他者を見捨てていくところを見たかもしれません
でも、それでも、法然は諦めなかったでしょう
法然が諦めてもなお南無阿弥陀仏は諦めなかった

これはさぞ衝撃だっただろうなと思います
だって普通は百万遍やって百万遍無理なら諦めますよ
腕を振っても空は飛べません
飛べないのに飛ぼうとするのはこれは道理に反している
百人が、千人が、万人、全世界がNOだという道理に対して、いやそもそも自分でさえNOだと思ってしまう道理に対して、YESだと言う
こんなことは正気の沙汰ではないのかなと思います

しかし、いくら我々が我々の迷妄した物差しで正気の沙汰ではないとしても、事実としておこっているものを否定することはできないのかなと思います
腕を振って飛べないということがいくら道理であると思っていても、腕を振って飛ぶという事実がおこってしまえばその道理は道理ではなかったことになる
私がどれだけ自分自身を蔑んでも、私の心の上に事実として湧き上がる願いは否定することができない
私が何度間違いだといい、諦めようと、いや事実として諦めたとしても、希望が止むことはない

法然も、五逆謗法も、みな同じかなと思います
救われざる私の発見と、それをしてなお願わしめるものの発見
このふたつに依って、はじめて人を信ずることができるのかなと思います
ここまでいってはじめて、口唱は称名の意義を全うできるのだろうと思います
仏道は、特に大乗ですが、これは他者との同一性を証明することにのみ成り立ちうるのかなと思っています
虫も、虫を殺す人も、家畜も、家畜を殺す人も、戦争屋も、差別者も、悪魔と呼ばれる人たちも、同じく私なのだと、同じく願うものなのだと、教えられています

殺し願う私は、それでも人間です
そして、残念ながらあなたも、同じく人間なのです


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