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浄土真宗掲示板
32
:
名無しさん
:2014/12/28(日) 07:13:32
仏教は慈悲の宗教であります
ですから、おおよそあらゆるものに慈しみを持ちなさいと説きます
まあ平易な言葉でいえば愛ですね
しかしながら、それが真面目であればあるほど、あらゆるものに対して慈しみを持つことができないという問題に突き当たるわけです
それは、高々痒い程度のことで殺す蚊に対して慈しみを持てないということのみならず、蚊に対して慈しみを持つふりをして、自分や他人に自分が立派な人間であると見せつけようとすること、つまり、宗教的価値空間において自己肯定を得ようとすることなどによります
人間はどうでもいいものには慈しみを持てない
また、その慈しみを持とうとすること自体が優越感を得るためのものでしかなく、仏教という道具を使ったファッションに過ぎない
持てないし、持ったとしてもそれは打算的な偽物でしかない
だから、まあ人間のやることは全部慈悲()にしかならない訳です
まあこんな当たり前のことは人間10年も生きていたら分かるわけです
ですから、大体みんな自分さえ良ければいいということに落ち着いて行きます
別にどうでもいいものを殺したって全然悲しくないし、慈悲とか持てるもんじゃないし、持てとかいってる奴はみんな偽善者ですよとか捻くれに捻くれて言い出すわけです
正しさに立って自分を肯定したいわけです
こういうどうしようもない状態に陥るともうね慈しみなんか知らん知らんとなるわけです
自分さえ良ければいい
そうなるとですねこれはもうニヒリズム陥りますよ
なんの為に生きているのか、生まれたのか分からなくなる
そこで一生懸命人生の意味を考えるわけです
しかしながら、自分一人で人生の意味を決めることはできない
自分一人ではニヒリズムから脱却することはできない
そうなったときにですねもうこれは死のうとなるわけです
自分の人生ですし、自分の肉体ですしどうしたっていいんだとなるわけです
生きてる意味もないわけですから、死んでないだけ、そのどっちかになるわけです
そういって自分で自分の首を絞めていくわけです
そういうものに対してですね、仏教はあなたは慈しみたいと思っているのだと教えるのです
教えても聞きませんから、慈しみたいという思いにまでなって慈しまさせるのです
慈しむ心が主体となるとき、自分の人生であり、自分の肉体であると思っていたものが公のものになるわけです
死んだら無意味だと言い続ける自分が主体ではなくなるわけです
慈しむということを打算的な偽物であると考える態度が打ち破られてしまう
いや打算的な偽物でしかないんですよ実際
でも、そんなことは関係なくなるわけです
正しさなんてどうでもいいわけです
間違いに立ち間違いを無限に越えていこうとする心に生かされるわけです
そうなるともうこれは勝手に死ぬわけにはいかない
絶対不可能だ、と自分がいっても主体は無限に慈しむ心ですから、やろうとするわけです
慈しむ思いにまでなって慈しまさせる心、そこに人間の同一性が成り立つわけです
あいつは慈しむ心がない、と狭く歪んだ自分の価値空間で判断しても、それは狭く歪んだ自分の価値空間の中での判断でしかありません
誰にでも慈しむ心はあります
それは、正に慈しむ心の欠片すらない自身に慈しむ心が起こるからであると言えます
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