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「まじめな話」の板
1
:
トキ
:2012/08/26(日) 17:28:59
本島で真面目な話を書きたいが、IDが出るので書きにくい、という方のための板です。
IDが出ないので、より身元の秘匿性が高まります。絶対に身元が知られたくない人には最適です。
なお、本島へ転載希望の方はその旨も書いて下さい。誰かが、本板へ転載をしてくれるかも!?
(管理人が気がついたら、転載します。)
8127
:
トンチンカン信徒
:2018/12/26(水) 16:42:25
〜ヴーガン不健康〜
ベジタリアンは不健康で不健全 心臓発作,がん,アレルギー,うつ病などが多い
2015-01-30
食べ物・飲み物
「ベジタリアンは不健康?」というタイトルの記事がありました。内容はベジタリアンの歴史を振り返っているところが多いです。
19世紀初め、菜食主義の急先鋒だったのがグラハムクラッカー(全粒粉で作ったクラッカー)の考案者、シルベスター・グラハムだ。(中略)
グラハムを信奉した人々の中にブロンソン・オルコットがいた。『若草物語』の著者、ルイーザ・メイ・オルコットの父である。彼がマサチューセッツ州ハーバードに作った実験的なコミュニティでは、肉類、コーヒー、アルコール、乳製品の食用や温浴を禁止し、動物を屠殺して得る皮革製品を身につけることも禁じた。人工の光を利用せず、飲むのは水だけ、食べるのは「向上心ある野菜」、つまり、ニンジンやジャガイモのような地中深く下に向かって育つ植物ではなく、上に向かって伸びる植物だけ。この共同生活はわずか7カ月で頓挫した。
「向上心ある野菜」ってすごいですね。そういえば、24時間テレビドラマはなちゃんのみそ汁、がんの食事療法を宣伝でも以下のような話がありました。何か通じるものを感じます。
白米は土に入れると腐るけど玄米からは芽が出てくる → だから玄米の方が生きる力が強い → だから玄米を食べた方が健康
記事では、「ベジタリアンは不健康?」というタイトルに反して、不健康さに関する記述はあまりありませんでした。
ベジタリアンは不健康?:日経ビジネスオンライン文=Rebecca Rupp/訳=小野智子 2014年8月11日
さまざまな研究によると、ベジタリアンは肉を食べる人に比べて痩せていて、長生きであり、循環器系の疾患やII型糖尿病、ガンにもかかりにくいという。
一方、肉はタンパク質や鉄の優れた摂取源であり、ベジタリアンはビタミンB12が欠乏しがちなために貧血になる恐れがあると指摘する研究もある(ビタミンB12は肉、魚、卵、乳製品に含まれる)。オーストリア社会医学疫学研究所が発表した最新の研究(激しい論争を呼んでいる)によると、ベジタリアンは肉を食べる人たちよりも不健康であるという。ガンの発生率が高く、アレルギーや不安障害、鬱病になりやすく、生活の質も低いのだそうだ。
私はベジタリアニズム(菜食主義)をオススメしませんけど、かと言ってこの手の研究を無条件に信頼するわけでもありません。懐疑的に見ておいた方が無難でしょう。
〜〜〜〜〜つづき〜〜
8128
:
トンチンカン信徒
:2018/12/26(水) 16:43:15
>>8127
〜ヴーガン不健康〜
上記の話だけではどういった研究かはわかりませんでしたので、とりあえず検索してみました。研究組織の名称が異なりますが、同じオーストリアでしたので、以下の研究が同じものではないかと思います。
ベジタリアンは肉食者よりも不健康で不幸であるという衝撃的な研究報告 | BUZZAP!(バザップ!) 2014年4月11日12:05 by 深海
Nutrition and Health The Association between Eating Behavior and Various Health Parameters: A Matched Sample Study(pdf)
オーストリアのグラーツ医科大学が1320人の被験者を対象にした研究によると、肉を食べない食生活を送るベジタリアンは肉食者よりもアレルギーを発症する可能性が2倍高く、心臓発作と癌のリスクが50%高いとのこと。
また、肉体的な不健康さのみならず、うつ病や不安障害にかかる可能性も肉食者より高い数値が出ています。
ただ、研究全般の信頼度に疑問があります。これは他の人が指摘しているわけではなく、グラーツ医科大学の研究者自身が言っているのですが、"赤身肉を食べることが腸癌と関連があるとした以前の研究結果とも整合性が取れない"など、不自然な点が見られるのです。
そのため、研究者自身は"今後継続的に研究が必要で、今回の報告のみで結論付けることはできないと強調"していたとのことでした。
また、ベジタリアンの結果が悪かったことに関しては、反論があります。"ベジタリアンに比較的多く存在するワクチン忌避者や予防的ケアを受けたがらない人の存在がこれらの数字を押し上げている可能性もある"というものです。
しかし、これは別の点で問題ですね。スティーブ・ジョブズさんがそうでしたが、食事療法のようなものに凝る人は、医学的に主流な治療を嫌って結果的に寿命を縮めることがあります。
(スティーブ・ジョブズ、すい臓がん、スピリチュアル、マクロバイオティック)
それから、この調査においても、ベジタリアンの利点を見つけることができました。"酒やタバコの消費が少なく、肥満度も低いため、飲酒喫煙や肥満から引き起こされる疾患に関してはよりリスクが少ない"という点です。
とはいえ、酒やタバコ、特にタバコが悪いというのはもともと明らかでした。ベジタリアンにならないと避けることができないものでもありません。これは肥満についても同様のことが言えます。
肥満に関しては、特定の食べ物を食べる・食べないより、肥満になる・ならないの方がずっと大切という考え方もあり、私もこちらの説に説得力を感じています。
最初の記事では、"理想の食習慣の決め手になるのは栄養のバランスと多様性、節度、そして健全な常識だというのが、ほとんどの栄養学者の共通認識だ"としていました。このバランスの問題についても、私も以前からしつこく書いています。
食生活ではありませんけど、これに加えて適度な運動を行うことが望ましいです。現代人の生活で問題なのは、食事よりも運動の少なさという説もあります。
運動量の少なさというのは、運動時のカロリー消費量だけでなく、普段の基礎代謝量に関わってきて重要ですので、ありえない話でもないと思います。興味あるところですので、ここらへんについてはもう少し情報を集めてみたいです。
とりあえず、好きなものばっかり偏って食べてダラダラ生活していれば、そりゃ健康に良いわけがないですよね。ベジタリアンになるよりもそういった生活を改善をする方が、健康への道としては常道だと思われます。
8129
:
蒼天の實相
:2018/12/26(水) 18:15:05
〜百尺の竿頭〜
『百尺竿頭進一歩』(無門関)百尺竿灯に一歩を進む
この語の百尺は数値としての長さのことではなく、それほどの高い竿の先と
いう意味で、長い修行で至った悟りの極地の喩え。しかし、如何ほど高い境地
にあっても、そこに留まって安住していたら何のはたらきも出来ない。
その悟りより、「さらに一歩、歩を進めよ」と言うことは、百尺の竿の先きから
踏み出すほどに不惜身命、命をも投げ出して、衆生救済へ向かってこそ、悟りの
意義があると言う意味。
いったん掴んだ安らいの境地、悟りの世界は大変居心地が
いいものらしい。しかし、その居心地のよさで終わって
いたら、悟らぬも同じで、何の悟りかというわけである。
晴れた山の頂上は見晴らしもよく、気分もいいものだ。
しかし、そんなところで満足していてはなんの意義がない。
その素晴らしさを、さらに味わい深め、人に伝えひろめて
こそ禅者の働きとなる。
百尺の竿灯から一歩踏み出せば、命を失うこと必定である。
しかし、ここで清水の舞台から飛びおりる、その勇気が
なければ真の禅者とはいえない。
だから禅門では「大死一番、絶後に蘇る」という言葉を尊ぶ。
同義語として「青霄裡に住まらず」という語がある。霄裡とは雲ひとつ無い晴れ
渡った大空。そのが広がって清々し尊い世界だが、いかに尊い境地であっても、
悟りの本当の働きはその青霄裡に留まっていては出来ないのである。
いかに大安心の悟りを得ようとも、そこに腰をすえておったならば、禅者と
しての悟りの意味は無くなってしまう。なぜなら、それは自ら一人の安心、
満足であっては、大乗仏教として、多くの人々の救済、済度という禅者の使命を
果たすことができないからである。
8130
:
トンチンカン信徒
:2018/12/27(木) 14:14:19
〜九州王朝一般説日野ボンの同じ説です〜
磐井は武烈天皇[編集]
「磐井の乱」は継体が、武烈朝を武力討伐した記事と考えられる。
上記のように磐井が天皇であったとするなら、磐井も武烈天皇も継体に倒された天皇ということになる。
「日本書紀」には、「大化の改新」のように万世一系の思想に都合の悪い記事の時代や背景を変えて2度記し、事実を隠匿・改ざんした箇所が数多くある。
磐井は「倭わい」ではないかと考えられる。
8131
:
トンチンカン信徒
:2018/12/27(木) 14:18:03
>>8130
九州王朝一般説に対して、言い訳をする、日野ボンくん
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
NAME
日野智貴
SUB
違います
MES
Wikipediaの内容は九州王朝説の一般的な内容ではありません。
多くの九州王朝説論者は、近畿天皇家の存在を認めています。
投稿日時
2018年12月27日 (木) 12時57分
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
南朝熊澤天皇に復活してもらいたいんでしょね、そう思う人もいますね
8132
:
シャンソン
:2018/12/27(木) 17:01:42
日時:2018年12月24日 (月) 15時34分
名前:本音の時代
雅宣さんと賛同者たちは、自分たちの好きなことをすれば良いと思います。
ただ、そこに「生長の家」の看板を使う必然性があるのでしょうか?<
この傍流掲示板でも、志恩さんや訊けさんやトキ管理人から
さんざんケチをつけられてきた「生長の家の恥」と
いわれたシャンソンが書き込みしています。
ご覧のように早くから「生長の家」の看板をはずしています。
私の場合は無能男の評価なんてどうでもいいので
必然性もないから、看板をなしにすることに同意していますが、
総裁の場合は、資格があるかないかではなく
使用する権利があるから使用しているのでしょう。
これは人間性の問題でもなく、資格の問題でもなく「権利」の問題だと思います。
8133
:
蒼天の實相
:2018/12/27(木) 22:16:17
〜幻の宇治天皇様〜
菟道稚郎子
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1.概要
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。
8134
:
蒼天の實相
:2018/12/27(木) 22:17:14
>>8133
〜幻の宇治天皇様〜
菟道稚郎子
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2.名称
表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。
宇遅能和紀郎子 - 『古事記』[原 1]
菟道稚郎子皇子 - 『日本書紀』[3]
宇治若郎子 - 『山城国風土記』逸文[原 3]
宇治稚郎 - 『日本後紀』[原 4]
菟道稚郎子 - 『日本後紀』逸文[原 5]
宇治稚彦皇子 - 『続日本後紀』[原 6]
兎道稚郎皇子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
兎遅稚郎子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
菟道稚郎皇子 - 『延喜式』諸陵寮[原 8]
これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]。
8135
:
蒼天の實相
:2018/12/27(木) 22:18:19
〜幻の宇治天皇様〜
菟道稚郎子
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2.名称
2.1.「ウジ」について
名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[12]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。
地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[14][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[16]。
8136
:
蒼天の實相
:2018/12/27(木) 22:19:21
>>8135
〜幻の宇治天皇様〜
2.名称
2.2.「イラツコ」について
「イラツコ(郎子)」は、名前に付される敬称である。史書に「郎女(いらつめ/いらつひめ)」は頻出するが(『古事記』で43名[7])、「郎子」が使われたのは『古事記』では莵道稚郎子含め4名のみで[7][18]、一般に使われる「命(みこと)」や「王(おう/みこ/おおきみ)」のいずれでもない特異性が指摘される[7][19]。「郎子」の用法の性格には、愛称とする説と「郎女」の対とする説がある[7]。「郎女」の多くが皇女に用いられていることから「郎子」も皇子を指したものという見方が強いが、菟道稚郎子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている[7]。
なお、「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛とされる[7]。
8137
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 01:48:48
>>8135
シャンソンさん
どんとこぎ出す、磐井=祝い船♪
日野ボンくん♪
Facebookセンターで、世間荒波に揉まれてすね♪
(笑)♪
生長の家、カルト扱い♪
良い薬ですね(笑)♪
シオン観測隊なんか、新橋、品川で、志恩さん
良い傾向です、素晴らしいですね!
8138
:
シャンソン
:2018/12/28(金) 02:40:33
日野氏のフェイスブックって何の話なのかわかりません。
しかし、百万運動時代から人から嫌われていた男が
清掃日時などいまだにはっきり決められないまま
新したらばでの削除だけは速攻でできたのはよかったですね。
毎年恒例の暇老人による妨害工作もなかったし
今年はけっこういい年だったのではないかと思います。
日野君も、何を書いてるのか知らないけど
フェイスブックなどでがんばって、トキ掲示板で傷つけられることのないように
元気でがんばってください。
8139
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 04:59:23
>>8138
何の話か、わかりませんが?
興味が、無いと言うよりも、日野ボンがカルト扱いされてる為に、関わりたく無いことが、本音ですね、シャンソンさん。
==========
8138:シャンソン
18/12/28(金) 02:40:33
日野氏のフェイスブックって何の話なのかわかりません。
しかし、百万運動時代から人から嫌われていた男が
清掃日時などいまだにはっきり決められないまま
新したらばでの削除だけは速攻でできたのはよかったですね。
毎年恒例の暇老人による妨害工作もなかったし
今年はけっこういい年だったのではないかと思います。
日野君も、何を書いてるのか知らないけど
フェイスブックなどでがんばって、トキ掲示板で傷つけられることのないように
元気でがんばってください。
==========
8140
:
蒼天の實相
:2018/12/28(金) 07:05:27
〜光仁天皇〜
1.生涯
8歳で父が死亡して後ろ盾を失くしたためか、初叙(天平9年(737年)従四位下)が29歳と当時の皇族としては非常に遅かった。
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位し皇太子・阿倍内親王が受禅、孝謙天皇として即位した。これにより、同じく聖武天皇の皇女で孝謙天皇の異母姉妹である井上内親王・不破内親王の腹から、女性皇太子の地位を脅かしかねない男子後継者が生まれる可能性を警戒されることは無くなった。そして井上内親王・不破内親王姉妹も伴侶を求める機会が与えられることになり、天平勝宝4年(752年)頃までに、すでに斎宮を退任していた井上内親王は権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王と結婚した。天平勝宝6年(754年)の白壁王45歳、井上内親王38歳の時に酒人女王が誕生。それから俄然として昇進を速め、天平宝字3年(759年)には50歳にして従三位に叙せられる。天平宝字5年(761年)井上内親王45歳の時、他戸王(第四皇子)が誕生。天平宝字6年(762年)に中納言に任ぜられる。
天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信任を得て、天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。
神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御する。生涯独身の称徳天皇に後継者はなく、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族が少なくなっていた。しかし妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の一人であった。このことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった[1]。元号は宝亀と改められた。
称徳天皇崩御の際に左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備、参議の藤原宿奈麻呂、藤原縄麻呂、石上宅嗣、近衛大将・藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたと『続日本紀』は伝えている。「百川伝」を引用する『日本紀略』などの記述は、この協議で天武天皇系の長親王の子である文室浄三、次いでその弟・大市を推した真備と、白壁王を推す藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている[2]。
即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、宝亀3年(772年)3月2日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、5月27日、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。翌 宝亀4年(773年)高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる[3][4]。
さらに、翌宝亀4年(773年)10月14日、天皇の同母姉・難波内親王が薨去すると、10月19日、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死した。この同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。
この事件後、光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂が急死すると[5]、宝亀7年(776年)、祟りを恐れた光仁天皇より秋篠寺建立の勅願が発せられる。開基は善珠僧正。
その後も、天変地異が続き、宝亀8年(777年)11月1日には光仁天皇が不豫(病)となり、12月、山部親王も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたと『水鏡』は記している。これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。
宝亀12年(781年)1月1日、伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により天応に改元する。元日の改元は現在のところ日本史上唯一の事例である。
天皇は70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月に第一皇女・能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、光仁天皇は崩御した。
直後の天応2年(782年)閏正月頃、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)。川継の父は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で戦死した塩焼王、母は井上内親王の同母妹不破内親王であった。
同年6月14日、人臣の最頂点である左大臣・藤原魚名が氷上川継の乱に加担していたとして罷免され、その子の鷹取、末茂、真鷲もそれぞれ左遷された。藤原魚名は翌延暦2年(783年)7月25日頓死。光仁天皇の崩御後も政情が落ち着くことは決して無かった。
8141
:
蒼天の實相
:2018/12/28(金) 20:11:23
〜阿新丸(くまわかまる)〜南朝日野家=日野邦光〜
日野邦光
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1.経歴
元亨4年(1324年)後醍醐天皇の倒幕計画に参画した父・資朝が北条氏に捕らわれ、佐渡国に配流された(正中の変)。その直後から一家は仁和寺の近辺に隠棲していたが、元弘2年/正慶2年(1332年)、阿新丸(邦光)は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代・本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎(入道の甥という)を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという。
建武政権下では後醍醐天皇に仕え、延元元年/建武3年(1336年)3月に派遣された石清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権佐邦光」と見える。延元4年/暦応2年(1339年)石見国国司として新田義氏と共に同国へ下向。翌興国元年/暦応3年(1340年)8月豊田城で守護・上野頼兼率いる北軍を一旦退けたが、10月その反撃に遭って敗れ、次いで稲積城に立て籠ったものの、興国2年/暦応4年(1341年)2月再び頼兼に攻められて落城した。
その後は石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奉者となったが、正平5年/観応元年(1350年)10月宇治惟時の帰参を促すべく、勅使として九州へ下向。正平7年/文和元年(1352年)肥後国に在国し、惟時に対する帰参の条件として、征西将軍・懐良親王の吹挙と菊池武光の請文を約束した。正平9年/文和3年(1354年)6月までに権中納言に任じられ[1]、正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊・細川清氏らと京都に乱入し、2代将軍・足利義詮を近江国へ一時駆逐したが、以後は史料上の所見がない。『南朝公卿補任』によれば、正平18年/貞治2年(1363年)薨去した。
明治時代の修身教育においては、忠孝二つながら全うした人物として大いに喧伝され、大正4年(1915年)11月10日に正三位を追贈されている。
8142
:
シャンソン
:2018/12/28(金) 20:20:39
>>8139
今でもそうですが不出来な研修生時代、白鳩講師がよく
「他人の精神分析は不調和のもと」だといっていました。
トンチンカン信徒さんの話は精神分析は、
アキメクラと憎悪されている元本部職員の妄想分析と同様
たいへん、まとはずれです。
日野君には失礼かもしれませんが、わたしはあちこちの掲示板や
ブログなど見ている余裕がないので、話の全容がわからないのです。
8143
:
蒼天の實相
:2018/12/28(金) 20:21:07
>>8141
〜正統・後南朝最後天皇〜
概要
西陣南帝(にしじん なんてい/にしじん の なんてい、享徳3年(1454年)? - 没年不詳)は、後南朝最後の天皇。小倉宮を称していた。諱は不明であり、この南朝皇胤がどのような系譜をたどるのかも定かではない。
第二次大戦後に現れた自称天皇の熊沢寛道は、この西陣南帝の子孫を自称している。熊沢によると、西陣南帝は「熊野宮信雅王」を名乗ったとされるが、これは定かではない。
西陣南帝
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1.生涯
文明元年(1469年)11月、応仁の乱のさなか、奥吉野と熊野で南朝皇胤を称する兄弟の蜂起があり、年号を明応元年と制定していた[1][2]。森茂暁はその実態は不明であるが、年号を使っていたという情報がある以上、実質を備えた蜂起であった可能性が高い、と述べている[1]。
『大乗院寺社雑事記』によると、「西方新主は小倉宮御息、十八歳に成り給ふ」「小倉宮御末、岡崎前門主御息かと云々、法躰の御事なりと云々」と記されていることから、この南朝皇胤は小倉宮の末裔だと考えられている[3][2]。また、この南朝の後胤は当時の記録から逆算すると、享徳3年(1454年)の生まれであるとされる[4]。
文明2年(1470年)2月末、南朝皇胤は紀伊国有田郡の宇恵左衛門のもとで旗上した[2]。さらに3月8日には同国海草郡藤白に移ると、郡のものがほとんど味方したとされる[2]。同月月下旬には大和国に入り、南方の旗が越智郷を上って、橘寺の辺りを通過していた[3][2]。
同年5月、山名宗全をはじめとする西軍の大名たちがこの南朝皇胤を擁立し、禁裏に迎え入れようとしているとの噂が立っている[5][2]。これは当時、東軍が後土御門天皇・後花園上皇を擁しており、それに対抗するためであった。このとき、西軍の大名の中で畠山義就だけは自身の所領が南朝皇胤の所領と重なるので難色を示したが、翌6月に義就は諸大名や足利義視に説得されて了承した[5][2]。
文明3年(1471年)8月26日、西軍諸将の要請をうけた南朝皇胤が入洛し、北野松梅院に入った[2]。この南朝後胤は「新主」として扱われていたが、足利義視は畠山義就を説得していたにもかかわらず、「新主」の擁立に同心していなかったとされる[4]。
文明5年(1473年)3月18日、西軍大将の山名宗全が死に、東軍と西軍が和議に向かっていったこともあって、南朝皇胤は西軍から放擲されてしまった[6][2]。これは足利義視が「新主」の擁立を快く思っておらず、非協力的であったことも理由と考えられる[6]。
その後、南朝皇胤は各地を放浪したようであり、文明11年(1479年)7月19日に越後から越前に到達したことを最後に史料から姿を消した[7][8]。同時に後南朝に関する記録もなくなり、歴史からは姿を消した。
8144
:
シャンソン
:2018/12/28(金) 20:30:30
蒼天の實相さん
生長の家の名称をはずし、「生長の家信徒のわたくし」存じます未亡人から
他の人から総攻撃を受けている「傍流掲示板」で、
必死で「正統」の話なんかして、あほとちがうの?
もっと気楽にいきましょう。
8145
:
転載
:2018/12/28(金) 20:34:41
決してくだらない質問とは思いません、いい質問ですね。
「アホ」という表現は関西では別に大した意味ではなく、関東ではすごくバカにされた言葉としてとらえられていますので、この落差は大きいようです。
むしろ「バカだね〜」と言われたほうが気にならないのです。
でも関西で「バカ」と言うと、相当ひどいけなし言葉になるようですね。
なぜ関東で「アホ」が厭われるのかというと、多分、頭ごなしにきつく言われるよりも、揶揄の気持が混じっている感じがするからではないかと思います。軽く小バカにされ、軽蔑に笑いが混じる、といった、しっかり向き合わない、からかわれたようなバカにされ方を感じるのではないでしょうか。関東人、けなされるより、からかわれる方が頭に来るのです。
関西で「バカ」と言われて気を悪くするのは、これの逆で、面と向かってどこにも逃げ場なく否定される感じが不愉快なのでしょう。
「は?アホちゃう?」については、「アホ」だけでなく全体的に、音程などまでも、いかにも、からかい半分にバカにされたニュアンスが発されていたのではないかと思います。その音程などは関西関東の差であって、悪気はない、ということが、相手に伝わらなかったのでしょうね。まことに言葉とは難しいですね。
でも大丈夫ですよ、最初は誤解も生じるでしょうが、いつの間にか双方共になじんでいくと思います。
そんなこともわからないでいつまでも怒っている人は、そうでなくともどこかで衝突しているでしょう、善意をもって接していけば、やがてすべてうまくいきます。
自分の大事なお国言葉です、委縮してはお国に申し訳ない、堂々と自然体でいけばいいです。きっと心が通じていきますよ。
言葉だけで嫌われるなんて、人間そんなに「アホ」じゃありません(^.^)
8146
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 21:54:10
>>8144
帝国憲法復活が、フザケ理論を吐いてるから?
帝国憲法の君主=天皇陛下の正統は南朝正統だから?南朝を復元させるのが、正統だろ理論。
==========
8144:シャンソン
18/12/28(金) 20:30:30
蒼天の實相さん
生長の家の名称をはずし、「生長の家信徒のわたくし」存じます未亡人から
他の人から総攻撃を受けている「傍流掲示板」で、
必死で「正統」の話なんかして、あほとちがうの?
もっと気楽にいきましょう。
===========
結局、都合悪いから、奴等、病気とか、言うわけよ。
8147
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 22:04:01
>>8146
国民の総意に基ずき=北朝天皇陛下を象徴天皇陛下した、現在日本国憲法は、正しい、天皇国日本の奴等より、正しい味方をしてるわけよ。
そこが、分からないから、日野ボンは、頭にボンが付くわけ。
シャンソンさん。
8148
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 22:07:54
>>8147
関西人見栄パリ根性が、天皇国日本なんて、言わせてるんだよ。
だから、熊澤天皇様のお爺様でも、西日本で京都御所に迎えたらどうなんだね(笑)
8149
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 22:12:15
南朝と北朝の歴史をちゃんと確り、日本人は、勉強しないといけないね。
明治天皇様は、北朝天皇天皇ですよ。天皇国日本と帝国憲法復活派の皆さん?南朝正統が、我が国君主と、帝国憲法は言ってます。
8150
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 23:10:01
何、嫌がってるんすか。==========
18/12/28(金) 22:12:15
南朝と北朝の歴史をちゃんと確り、日本人は、勉強しないといけないね。
明治天皇様は、北朝天皇天皇ですよ。天皇国日本と帝国憲法復活派の皆さん?南朝正統が、我が国君主と、帝国憲法は言ってます。
===========
帝国憲法復活=南朝正統天皇家小松宮家ですよ
8151
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 23:13:22
>>8150
日野家とは、南朝方と北朝方とあって、南朝方なら、日野ボンのように、天皇国日本や帝国憲法復活を唱えるは、先祖供養の一環だから、わかるよう気がしますよ。
8152
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 23:28:34
>>8141
やっぱ、嫌がってるな。
===========
8141:蒼天の實相
18/12/28(金) 20:11:23
〜阿新丸(くまわかまる)〜南朝日野家=日野邦光〜
日野邦光
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1.経歴
元亨4年(1324年)後醍醐天皇の倒幕計画に参画した父・資朝が北条氏に捕らわれ、佐渡国に配流された(正中の変)。その直後から一家は仁和寺の近辺に隠棲していたが、元弘2年/正慶2年(1332年)、阿新丸(邦光)は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代・本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎(入道の甥という)を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという。
建武政権下では後醍醐天皇に仕え、延元元年/建武3年(1336年)3月に派遣された石清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権佐邦光」と見える。延元4年/暦応2年(1339年)石見国国司として新田義氏と共に同国へ下向。翌興国元年/暦応3年(1340年)8月豊田城で守護・上野頼兼率いる北軍を一旦退けたが、10月その反撃に遭って敗れ、次いで稲積城に立て籠ったものの、興国2年/暦応4年(1341年)2月再び頼兼に攻められて落城した。
その後は石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奉者となったが、正平5年/観応元年(1350年)10月宇治惟時の帰参を促すべく、勅使として九州へ下向。正平7年/文和元年(1352年)肥後国に在国し、惟時に対する帰参の条件として、征西将軍・懐良親王の吹挙と菊池武光の請文を約束した。正平9年/文和3年(1354年)6月までに権中納言に任じられ[1]、正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊・細川清氏らと京都に乱入し、2代将軍・足利義詮を近江国へ一時駆逐したが、以後は史料上の所見がない。『南朝公卿補任』によれば、正平18年/貞治2年(1363年)薨去した。
明治時代の修身教育においては、忠孝二つながら全うした人物として大いに喧伝され、大正4年(1915年)11月10日に正三位を追贈されている。
8153
:
トンチンカン信徒
:2018/12/28(金) 23:29:35
>>8152
〜阿新丸(くまわかまる)〜南朝日野家=日野邦光〜
日野邦光
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1.経歴
元亨4年(1324年)後醍醐天皇の倒幕計画に参画した父・資朝が北条氏に捕らわれ、佐渡国に配流された(正中の変)。その直後から一家は仁和寺の近辺に隠棲していたが、元弘2年/正慶2年(1332年)、阿新丸(邦光)は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代・本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎(入道の甥という)を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという。
建武政権下では後醍醐天皇に仕え、延元元年/建武3年(1336年)3月に派遣された石清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権佐邦光」と見える。延元4年/暦応2年(1339年)石見国国司として新田義氏と共に同国へ下向。翌興国元年/暦応3年(1340年)8月豊田城で守護・上野頼兼率いる北軍を一旦退けたが、10月その反撃に遭って敗れ、次いで稲積城に立て籠ったものの、興国2年/暦応4年(1341年)2月再び頼兼に攻められて落城した。
その後は石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奉者となったが、正平5年/観応元年(1350年)10月宇治惟時の帰参を促すべく、勅使として九州へ下向。正平7年/文和元年(1352年)肥後国に在国し、惟時に対する帰参の条件として、征西将軍・懐良親王の吹挙と菊池武光の請文を約束した。正平9年/文和3年(1354年)6月までに権中納言に任じられ[1]、正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊・細川清氏らと京都に乱入し、2代将軍・足利義詮を近江国へ一時駆逐したが、以後は史料上の所見がない。『南朝公卿補任』によれば、正平18年/貞治2年(1363年)薨去した。
明治時代の修身教育においては、忠孝二つながら全うした人物として大いに喧伝され、大正4年(1915年)11月10日に正三位を追贈されている。
8154
:
蒼天の實相
:2018/12/29(土) 05:26:44
〜明徳の盟約〜
概要
明徳の和約(めいとくのわやく)は、明徳3年/元中9年(1392年)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について結ばれた協定。明徳の和談、元中一統とも。
この和約に従って同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。
8155
:
蒼天の實相
:2018/12/29(土) 05:47:16
>>8154
象徴天皇制
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1.日本国憲法における天皇
日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。
なお、帝国憲法においても、元首たる天皇は、明文規定がなくとも、当然に国家の象徴であった。現行憲法においては、実質的な(=内閣総理大臣が行使する行政上の)権限がない点で帝国憲法と異なる。これを強調し、「象徴天皇制」という。
熊沢寛道
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▼目次
概要
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日[1])は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[2]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
※明治天皇以来、昭和天皇のも、伏見宮家北朝系の天皇陛下である。
日本国憲法に基ずくなら、南朝系熊澤天皇は、北朝系昭和天皇より、当時の国民の総意基ずかなたのである。日本国憲法の象徴天皇は正しいと言わざるえない。
もし、大日本帝国憲法に復活するなら、明徳の盟約に基ずき、南朝系の天皇と現在の北朝系の天皇を交代しなければならないのである。
8156
:
トンチンカン信徒
:2018/12/29(土) 09:34:04
>>8155
やはり、嫌がってるね、関西人シャンソンさん(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8155:蒼天の實相
18/12/29(土) 05:47:16
>>8154
象徴天皇制
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1.日本国憲法における天皇
日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。
なお、帝国憲法においても、元首たる天皇は、明文規定がなくとも、当然に国家の象徴であった。現行憲法においては、実質的な(=内閣総理大臣が行使する行政上の)権限がない点で帝国憲法と異なる。これを強調し、「象徴天皇制」という。
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概要
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日[1])は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[2]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
※明治天皇以来、昭和天皇のも、伏見宮家北朝系の天皇陛下である。
日本国憲法に基ずくなら、南朝系熊澤天皇は、北朝系昭和天皇より、当時の国民の総意基ずかなたのである。日本国憲法の象徴天皇は正しいと言わざるえない。
もし、大日本帝国憲法に復活するなら、明徳の盟約に基ずき、南朝系の天皇と現在の北朝系の天皇を交代しなければならないのである。
8157
:
蒼天の實相
:2018/12/29(土) 15:24:37
〜正中の変〜
(南朝・北朝の戦いの始め)
正中の変
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概要
正中の変(しょうちゅうの へん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。この年は12月9日に改元あって正中元年となったため、日本史の上ではこの改元後の元号をとって「正中の変」と呼んでいる。
概要[編集]
後醍醐天皇は父・後宇多法皇に代り元亨元年(1321年)から親政を開始し、記録所の再興などの政治を始める。後宇多法皇は死の間際まで皇太子の邦良親王を大覚寺統の嫡流として、後醍醐天皇にゆくゆくは邦良親王への譲位を行うように命じていた。元亨4年6月に法皇が崩じると、邦良親王はさっそく後醍醐天皇に譲位を行わせるべく鎌倉へ伺いを立てる。また持明院統も邦良親王の即位後に量仁親王を皇太子にすることを条件にこれを支持したため(文保の和談)、鎌倉幕府もこの線で皇位継承を早晩行うことを決めた。
しかしいよいよ自身の思いの通りの政治をすることを期待していた後醍醐天皇は、自分の立場が中継ぎの天皇にすぎないことを知ると、邦良親王や持明院統はもとより、幕府に対しても激しく反発した。そこで後醍醐天皇は、六波羅探題南方・大仏維貞が鎌倉へ赴いている隙に討幕を行うことを企て、これをうけて側近の日野資朝や日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけるに至った。当時は畿内をはじめ各地で悪党の動きが活発になっており、また奥州では安藤氏の乱が燃え上がって得宗家を震撼させていた背景もあり、こうした政情不安に乗じて後醍醐天皇は倒幕という承久の乱以後絶えてなかった具体的な行動を模索したものと考えられている。
しかし9月19日には六波羅探題の察知するところとなる。密かに上洛していた土岐氏の当主の土岐頼貞と頼兼父子と一族の多治見国長と足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)のにもとへただちに討手が差し向けられ、四条付近で激しい戦闘が行われた末に両将を自害に追い込んだ。六波羅の追及は朝廷にも及んだが、資朝・俊基らは自ら罪をかぶって鎌倉へ連行された。資朝は佐渡島へ流刑となり、俊基は赦免されて帰京したが以後は蟄居謹慎の日々を送った。一方、後醍醐天皇は側近の万里小路宣房に釈明書を持たせて鎌倉へ下向させ、その甲斐あってか今次の変とは無関係ということで咎めはなかった。
軍記物語『太平記』では巻一に正中の変の顛末が記されており、無礼講の名目のもとに行われた倒幕の密議や、計画に加担していた土岐一族の頼員(舟木頼春)がある夜妻に計画を漏らしてしまったことから事件が露見したこと(頼員の妻の父斎藤利行は六波羅探題の奉行だった)などが記されているほか、西大寺系の律僧も参加していたことが記されている。
後に建武の新政において役職を務める伊賀兼光や律僧の文観の関与も指摘されている。
『太平記』に記述される正中の変に関しては、研究者に疑問視されており(後述書)、その一つとして、時系列の問題が挙げられる。『太平記』では、中宮御産祈祷後に正中の変が起こったと記されるが、実際には、変後に祈祷が行われており(後述書)、『太平記』の記述の信頼性が疑われている(呉座勇一 『陰謀の日本中世史』 角川新書 2018年 p.134)。無礼講が行われた事自体は、『花園天皇日記』からも確認されているが、花園上皇は後醍醐天皇と政治的に対立しており、日記には無礼講の時に陰謀の会議があったことは記述されておらず、無礼講を把握していたにもかかわらず、陰謀を知らなかった点や上皇方にも知られるほど広く認識された無礼講で陰謀の相談をするのは不自然さがある(同書 p.134)。また、展開が『平家物語』の鹿ヶ谷事件と酷似している点が指摘されており(同書 p.134)、鹿ヶ谷説話を参考に創作された疑いがある(同書)。この時期、天皇家は持明院統と大覚寺統(後醍醐天皇)に別れ、天皇の地位を巡り対立し、皇位決定権の方は幕府にあったことから、呉座勇一は、持明院統が後醍醐の父である後宇多法皇が崩御したことをきっかけとして、仕掛けたのが、正中の変ではないかと考察している(同書 p.136)。河内祥佑は、日野資朝が流罪にされたのは、後醍醐が無罪を主張し、幕府にこれが受け入れられたため、このままだと後醍醐を陥れた犯人捜しが始まってしまい、朝廷が大混乱する恐れが出てきたため、そうなる前に処罰されたとする(同書 pp.135 - 136)。
8158
:
シャンソン
:2018/12/29(土) 15:44:55
>関西人見栄パリ根性が、天皇国日本なんて、言わせてるんだよ。
そういえば、日野君はみえ大学だわさ。
メトロ線でいえば品川駅ですかね?
8159
:
蒼天の實相
:2018/12/29(土) 16:29:14
〜明徳の盟約(明徳の和約)〜
1.内容
内容は次の4つである。
南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。
皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など南朝系皇族の立太子)
国衙領を大覚寺統の領地とする。
長講堂領を持明院統の領地とする
明徳の和約
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2.経緯
50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍・足利義満の時代の1392年には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。
義満は1391年(明徳2年/元中8年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。そして3か条(前述)を条件に和睦が成立。1392年(明徳3年/元中9年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落したと考えられる。
そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[1]。元号についても北朝の「明徳」を継続し、2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現した。さらに国衙領についても、建武の新政以来知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとしてきた南朝と、知行国として皇族や公家たちに与えて国衙領の実質私有化を認めてきた北朝とが対立し、南朝方が北朝側の領主権力を排除して実際に保有出来た国衙領はわずかであったと見られている[2]。
なおも北朝方は、1412年(応永19年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、1428年(正長元年)の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。
8160
:
蒼天の實相
:2018/12/29(土) 22:30:15
〜譲位の儀〜
(退位について)
概要
退位(たいい、英語: abdication)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。退位と譲位が混同されているが、退位と譲位の意味は全く違うものである。
退位
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3.日本
3.1.天皇
「譲位」も参照
日本では皇極天皇が弟の孝徳天皇に皇位を譲った例を最古とする(なお、後小松天皇は南北朝合一によって2度譲位を受けている[6])。譲位した天皇には太上天皇(上皇)の尊号が奉られることが通例である。
平安時代以後の慣例として、譲位する天皇が譲位の宣命を宣布する儀式(譲国の儀)とその後に行われる継承者への剣璽を引き渡す儀式(剣璽渡御の儀)の2つを中心として儀式体系が組まれてきた。院政期に皇室の長たる地位が天皇から治天の君に移ると、天皇は早くに譲位し、制度・慣習により身動きのとれない天皇に比べて自由な立場の上皇(院)として政治に参与することが常態となった。また同時に何人もの上皇が存在することも多く、通常は即位および譲位時期の最も早い上皇(本院)が治天として朝廷を支配した。
大日本帝国憲法下では、1889年(明治22年)に制定された旧皇室典範と登極令で、皇位継承は天皇の崩御を前提としているため、存命中の退位はできないと解釈されていた。
現在の日本国憲法・皇室典範下においても、皇位継承は天皇の崩御を前提としており、その他に退位について書かれた規定は無い。国事行為の遂行が困難となった場合は、摂政もしくは国事行為臨時代行が置かれて国事行為が代行されることになる。現皇室典範で天皇の退位が認められていないのは、
必ずしも天皇の自由意思に基づかないで退位の強制ということがあり得る可能性があること
天皇が恣意的に退位をすることができるということ
というものがあり、それらの懸念から退位を認めていないとされている[7]。
8161
:
トンチンカン信徒
:2018/12/29(土) 22:49:33
>>8158
シャンソンさんも、面白事を、いいますね(笑)
品川にメトロ線駅ですか(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8158:シャンソン
18/12/29(土) 15:44:55
>関西人見栄パリ根性が、天皇国日本なんて、言わせてるんだよ。
そういえば、日野君はみえ大学だわさ。
メトロ線でいえば品川駅ですかね?
8162
:
トンチンカン信徒
:2018/12/29(土) 22:53:23
>>8161
見栄に地下鉄なんてないでしょ(笑)
シャンソンさん。
田舎の人学生さん、地下鉄なんかより、古墳穴に篭るニート生活
8163
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 09:55:50
>田舎の人学生さん、地下鉄なんかより、古墳穴に篭るニート生活
古代史研究すると、古墳穴に籠るのですか?
いろんな世界がありますね。
8164
:
つれづれ草
:2018/12/30(日) 10:38:24
https://www.facebook.com/Seichonoie.Sosai/photos/a.280873911923351/2303313756346013/?type=3&eid=ARD7vy37DAM3NEif-2FV865lYXRLkjibg56a9Xc9WiUtiLBXdE57knigGMz9c-3gTa7gUQu4SEHF2Mvn&__xts__%5B0%5D=68.ARAG2poNVv_Xm9dqsV_QgvPQkGnpSEDX620ZTcDKkCWixa8xs9ehm9cMOsOsF_3Zznx5P8eETgV--3u16ETkvUzcDYR2Yk5DyovknfalwUgEKaswhBS-bIrfEuxE4S9Vf5OR72x6ohpobE3_YjFhdp6wGOgFdrEINIb0vbhDNwJux_0OA_hxnm_TO0o-Y49ta9-hL9Ef4Dwi9Y36v7UBAL3yBTKk_ePs1TxBlYgr0pcOyP37FGMP3zD33aONWNm2C5Ec__Mv8uBzq4Xpa6UmBIMOzkhATs2Fpm84zyLJRGLCVfCub9BwOqwXgjx25R7GXJiieBI4oxeRXOLkQeZNuqSh3Q&__tn__=EHH-R
8165
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 14:04:52
シャンソンさんも、面白事を、いいますね(笑)
品川にメトロ線駅ですか(笑)<
関西おばはんギャグですね。
東京人に笑われるとは思っていなかった(笑)
8166
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 14:11:00
>>8164
フェイスブックはじめてみました。
こんなありふれたクリスマス写真を見て
母の日に娘と息子から「野菜苗」のプレゼントされた
貧乏くさい存じます未亡人が、ああだこうだっていってるのが
見苦しいですね。
総裁もはちまきみたいなものして何を考えているのでしょう?
地球環境と川の流れを見て考えさせられた写真です。
8167
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 16:13:25
本も映画も観ていないけど、昔テレビで「ホームレス中学生」という
実話ものを少し観た。
どこかの団地みたいなところから、お父さんが家財道具を一生懸命に
外に出していて、学校から帰ってきた姉と弟画像それをみて「どうしたの?」と
尋ねる。
そうするとお父さんは、破産したから、今日で家族は解散だ、とだけいって
去っていくのである。観光ガイドじゃあるまいし、なにが「解散だ」なんだって
思ったが、その後中学生の男の子はホームレスになってあちこちを彷徨う、と
いった感じのドラマだった。
それはあるタレントさんの実体験で、「ホームレス中学生」はベストセラーになり
印税が2億円入ってきたという。
それを父親に6000万円の家をプレゼントし、お年玉に150万円づつ使い、
なんだかんだで税金を払って、あっというまに2億円は使い果たしたという。
もうあんたに聞いたって仕方がない理数系の掲示板では
年末になって「財産処分のお知らせ」
いろんな人がいます......
8168
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 16:15:02
姉と弟画像それをみて → 姉と弟が、それを見て
8169
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 16:24:47
ばあさんからやいやいいわれてなにもまとめられず寝込んでいた男が
「財産処分のお知らせ」なんてのんきに客観的に書いて、
井戸端会議のネタを放り投げているのは、
要するに、それが生長の家のもので、個人の生活と関係ないからである。
生長の家の今後を憂う抒情詩にも、いろんな種類があるようだ。
8170
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 19:05:31
>>8164
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2018/12/post-a00c.html
なんか久しぶりに☝のブログを読んだら、
ちゃんと主義に乗ったオリジナルのクリスマスを
やっているじゃないですか。
なんでこんなことにプレゼントは誰が贈ったとか
建設会社の裏情報とかが出て世間話がはじまるのでしょう?
なんか醜悪ですね。
8171
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 19:09:00
〜磐余(いわれ)〜
磐余(読み)いわれ
.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
磐余
いわれ
奈良県桜井市阿部付近の古地名。履中,清寧,継体,用明天皇らの皇居のあった地域で,5〜6世紀頃の要地。
.
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉の解説
いわれ〔いはれ〕【磐余】
奈良県桜井市南部の古地名。5、6世紀ごろの大和国家の政治の中心地。[歌枕]
「つのさはふ―も過ぎず泊瀬山(はつせやま)何時(いつ)かも越えむ夜はふけにつつ」〈万・二八二〉
.
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
磐余【いわれ】
《日本書紀》《万葉集》に見える地名。石村とも。奈良県桜井市の南西部から橿原(かしはら)市の南東部にかけての地域。《日本書紀》のいわゆる神武東征神話の中に磐余邑の地名起源説話がある。神武天皇の和風諡号(しごう)はカムヤマトイワレビコ。同書には履中天皇磐余稚桜(わかさくら)宮,清寧(せいねい)天皇磐余甕栗(みかぐり)宮,継体天皇磐余玉穂宮,用明天皇磐余池辺双槻(いけべなみつき)宮などがみえる。《万葉集》の大津皇子の歌に磐余池が詠まれる。磐余野と共にのちに歌枕になる。
.
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版の解説
いわれ【磐余】
奈良県桜井市南西部の池の内,橋本,阿倍から橿原市東池尻町を含む同市南東部にかけての地名。石村,石寸とも表す。《日本書紀》には,神武東征神話の中に磐余邑の起源説話がみえるほか,5〜6世紀の天皇の宮号として磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや),磐余甕栗宮(みかくりのみや),磐余玉穂宮(たまほのみや),磐余池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)がみられる。《万葉集》の大津皇子の歌などにも詠まれた磐余池は,いまもその痕跡をとどめるが,用明天皇の磐余池辺双槻宮や磐余池上陵(いけのえのみささぎ)はこの池の近くに営まれた。
.
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
いわれ【磐余】
奈良県桜井市、天香久山の北東麓ろくの地域の古地名。神武天皇が八十梟帥やそたけるを討ったという地。・歌枕・ 〔多く「言われ」とかけて歌われた〕
.
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
磐余
いわれ
奈良県中部、桜井市阿部地区付近の古地名。天香久山(あめのかぐやま)北東麓(ほくとうろく)にあたり、大和(やまと)朝廷の政治的要地であった。『日本書紀』によれば、履中(りちゅう)天皇の磐余稚桜宮(わかさくらのみや)のほか、清寧(せいねい)天皇、継体(けいたい)天皇などの皇居があったといわれる。大津皇子(おおつのみこ)の「百(もも)伝ふ磐余の池に鳴く鴨(かも)を今日(きょう)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」(『万葉集』巻3)や『日本書紀』に記された磐余池は、桜井市大字池之内から橿原(かしはら)市東池尻町付近にあったと推定される。[菊地一郎]
.
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典内の磐余の言及
【大和国】より
…ヤマトの範囲は初瀬川の流域で,三輪山と香具山を結んでできるデルタ地帯(第一次ヤマト)である。シキ(磯城)やイハレ(磐余(いわれ))地域が第一次ヤマトに相当する。香久山は代々の大王の国見儀礼の舞台であるとともに,その土が呪力あるものとされ,神聖視されていた。…
.
※「磐余」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
8172
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:03:46
〜宇治天皇〜
菟道稚郎子
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▼目次
概要
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年[1])は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。
1.概要
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。
2.名称
表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。
宇遅能和紀郎子 - 『古事記』[原 1]
菟道稚郎子皇子 - 『日本書紀』[3]
宇治若郎子 - 『山城国風土記』逸文[原 3]
宇治稚郎 - 『日本後紀』[原 4]
菟道稚郎子 - 『日本後紀』逸文[原 5]
宇治稚彦皇子 - 『続日本後紀』[原 6]
兎道稚郎皇子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
兎遅稚郎子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
菟道稚郎皇子 - 『延喜式』諸陵寮[原 8]
これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]。
2.名称
2.1.「ウジ」について
名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[12]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。
地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[14][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[16]。
8173
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:09:54
>>8172
〜宇治天皇〜
3.系譜
3.1.古事記・日本書紀
(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[20]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。
応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小?媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。
なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
関係略系図
系図は左から右。実線は実子、点線は婚姻関係、数字は天皇即位順を表す。表記は『日本書紀』に基づく。
[4]前ページ
(2.2.「イラツコ」について) [6]次ページ
(3.2.先代旧事本紀)
20. 『古事記』応神天皇記、『日本書紀』応神天皇2年3月条。
3.系譜
3.2.先代旧事本紀
『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖)九世孫の物部多遅麻連(もののべのたじまのむらじ)の女の山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女と雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]。
この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代の部との関係がうかがわれる宇治部氏や宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[21]。
4.記録
4.1.日本書紀
『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された[22]。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている[23]。応神天皇40年1月に皇太子となった[24]。
翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという[25]。
この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという[26]。
4.記録
4.2.古事記
『古事記』では、叙述を宮主矢河枝比売(宮主宅媛)から始めており、応神天皇が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まう比売と出会い、郎子が生まれるまでが描写される[原 1]。
その後は『日本書紀』と概ね同様の所伝を記す。大山守皇子の遺骸に向けて詠まれた歌も、ほぼ同じものが収録されている[27]。一方皇位継承については、単に宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)が早世したため、大雀命(仁徳天皇)が即位したと記している[原 1]。
4.記録
4.3.風土記
『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子が住んだ宮は「桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)」と記載される。また「宇治」の地名の由来はこの宮が営まれたためとし、それ以前の当地は「許乃国(このくに)」と言ったとする[原 3]。
『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載があり[原 9]、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚郎子を指すと見られている[1]。
8174
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:18:22
>>8173
〜宇治天皇〜
4.記録
4.5.その他
菟道稚郎子について言及したその他の史書は、以下の通り。
『日本後紀』弘仁6年(815年)6月27条[原 4]
仁徳天皇と郎子の話に感動して埋葬を望んだ賀陽豊年という人物に関する記載(後述)。
『日本後紀』逸文天長3年(826年)3月1日条(『類聚国史』所収「渤海使」)[原 5]
嵯峨天皇から淳和天皇への譲位の言及にあたって、仁徳天皇と郎子の譲りあいを引き合いに出した記載。
『続日本後紀』承和7年(840年)5月6日条[原 6]
淳和天皇の散骨の議論に際して、郎子の散骨の伝承を引き合いに出した記載(後述)。
『先代旧事本紀』天孫本紀[原 7]
郎子の出自に関する記載(前述)。
『延喜式』諸陵寮[原 8]
宇治墓(郎子の墓)に関する記載(後述)。
5.宮
菟道稚郎子は菟道宮(うじのみや:『日本書紀』)または桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや:『山城国風土記』逸文)に住んだといい、その地は京都府宇治市の宇治上神社(位置)または宇治神社(位置)に比定されている[30]。両社は合わせて『延喜式』神名帳に「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記されている式内社で、明治に分かれるまでは一社として「宇治離宮明神」と称していた[12]。
また『山城国風土記』逸文によると、この郎子の宮が営まれたことが「宇治」の地名の由来という。しかしながら前述のように、この記述には疑問が呈されている。
なお『万葉集』には「兎道乃宮子(宇治のみやこ)」という記載が見られるが[32]、これはこの歌を詠んだ額田王が近江に行幸する際に泊まった仮宮を指したものである[33]。
6.墓
墓は、宮内庁により京都府宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか、位置)に治定されている[34][15][36]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「丸山古墳」。
6.墓
4.記録
菟道稚郎子の葬送に関する記載として、まず『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている[15]。
また『続日本後紀』承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる[原 6]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では「宇治墓」の名称で記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東西12町・南北12町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する[原 8][15]。この12町(約1.3キロメートル)四方という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町(約870メートル)四方を大きく上回るものになる。
6.墓
6.2.後世の治定
上記の記録があるものの、江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18年(1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた(位置)[17][38]。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22年(1889年)で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた[15]。
また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物を埋葬した陪塚と定められている[15]。賀陽豊年は、『日本後紀』弘仁6年(815年)の記事にその死に関する記載がある人物である。その中で、豊年は宇治に居た時に仁徳天皇と菟道稚郎子の話を聞いて感動して「地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬が許可されたと記されている[原 4]。陪塚の治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが[15]、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある[39](通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。
郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見えるものの、それ以外の史書には記載がなく真偽は明らかではない[20][41]。記事中では、郎子が自身の散骨を命じて「後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられた通りにした」と解する見方[42]と「郎子を流例として散骨が広まった」と解する見方[20]がある。
なお、持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[23]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[23]。
8175
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:21:05
>>8174
〜宇治天皇〜
7.考証
史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている[44]。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される[7]。
これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという意見がある[45]。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが[7][46]、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている[47]。
このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、再評価する動きもある。その中で、『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから[48]、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「別の古代」の存在が指摘される[7]。似た事例としては「飯豊天皇」と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる[7]。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化(右図参照)が合理的に実現されているとも指摘される[28]。
記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載からも皇位に就いていたとする指摘がある[29][51]
8.宇治部
菟道稚郎子の御名代の部、すなわち菟道稚郎子の名を冠した朝廷直轄の部としては、宇治部(うじべ、宇遅部)が指摘される[31]。この宇治部の伴造氏族としては、宇治部氏(宇遅部氏、姓は連)が史書上に見える[31]。『新撰姓氏録』には河内国神別と和泉国神別に記載があり、饒速日命の六世孫・伊香我色乎命(伊香我色雄命)の後裔と伝えている[53]。これら2氏一族の人名は他の史書上には見えないが[31]、直(あたい)姓・無姓の者は、武蔵国・常陸国[54]・下野国・近江国・越前国・備前国・讃岐国・筑前国といった全国に及んでいる[31]。なお『先代旧事本紀』では、饒速日尊七世孫の多弁宿禰命が宇治部氏の祖と伝えている[原 7]。
なお、宇治部自体は菟道稚郎子の御名代部としての確証には至っておらず、『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げられていない[55]。また、他の「宇治」を冠する氏族として宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があり、宇治部の管掌氏族とする説がある[33]。
8176
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 05:10:15
8175:蒼天の實相
18/12/30(日) 23:21:05
>>8174
〜宇治天皇〜
7.考証
史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている[44]。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される[7]。
これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという意見がある[45]。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが[7][46]、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている[47]。
このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、再評価する動きもある。その中で、『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから[48]、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「別の古代」の存在が指摘される[7]。似た事例としては「飯豊天皇」と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる[7]。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化(右図参照)が合理的に実現されているとも指摘される[28]。
記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載からも皇位に就いていたとする指摘がある[29][51]
8.宇治部
菟道稚郎子の御名代の部、すなわち菟道稚郎子の名を冠した朝廷直轄の部としては、宇治部(うじべ、宇遅部)が指摘される[31]。この宇治部の伴造氏族としては、宇治部氏(宇遅部氏、姓は連)が史書上に見える[31]。『新撰姓氏録』には河内国神別と和泉国神別に記載があり、饒速日命の六世孫・伊香我色乎命(伊香我色雄命)の後裔と伝えている[53]。これら2氏一族の人名は他の史書上には見えないが[31]、直(あたい)姓・無姓の者は、武蔵国・常陸国[54]・下野国・近江国・越前国・備前国・讃岐国・筑前国といった全国に及んでいる[31]。なお『先代旧事本紀』では、饒速日尊七世孫の多弁宿禰命が宇治部氏の祖と伝えている[原 7]。
なお、宇治部自体は菟道稚郎子の御名代部としての確証には至っておらず、『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げられていない[55]。また、他の「宇治」を冠する氏族として宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があり、宇治部の管掌氏族とする説がある[33]。
8177
:
トンチンカン信徒
:2018/12/31(月) 05:11:54
嫌ってる、シャンソンさんの、不思議
8178
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 10:42:15
〜海人族〜
海人族
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▼目次
概要
海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族は縄文時代から弥生時代以降にかけて海上において活動し、のちには海上輸送で力をつけることとなった集団である。しかし、学術的な研究としてはまだ進んでいない分野である。
1.系統と分布
海人族には、1.インド・チャイニーズ系と2.インドネシア系の2系統がある[1]。
1は安曇系やその傍系の集団で、中国南部(江南地方)から東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西海岸、玄界灘、九州北部に達した集団と推定され[2]、日本列島に水稲栽培がもたらされたルートと一致しており、中国大陸を起源として九州に渡った弥生人(倭人)とほぼ同義であろうと考えられる。
兵庫県の淡路島には海人族に関わる逸話が古くからあり、北部九州から瀬戸内海を小舟で渡り淡路島に至るルート、または紀伊水道より上がるルートがあったとする説があり、青銅や鉄などが大陸からもたらされた。海人族研究で知られる甲元真之氏や系譜学者、宝賀寿男氏は瀬戸内海は岩礁や島々が多く外洋の船では航行できないとし、九州東岸から小舟に乗り換えたとする。淡路島は海人族の営みの地として「日本遺産」に認定されている。
2は黒潮に乗って縄文時代に日本列島にやってきた南島系の種族(隼人)の可能性がある[3]。
日本列島では沖縄県、鹿児島県、宮崎県、和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などの県に2の末裔が数多く住んでいるとされる。
2.氏族
海人族に属す氏族には安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが有名である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏も元は海人族であったとする説がある。
「ワタツミ」も参照
8179
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 10:45:13
>>8178
〜海人族〜
海人族
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▼目次
概要
海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族は縄文時代から弥生時代以降にかけて海上において活動し、のちには海上輸送で力をつけることとなった集団である。しかし、学術的な研究としてはまだ進んでいない分野である。
1.系統と分布
海人族には、1.インド・チャイニーズ系と2.インドネシア系の2系統がある[1]。
1は安曇系やその傍系の集団で、中国南部(江南地方)から東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西海岸、玄界灘、九州北部に達した集団と推定され[2]、日本列島に水稲栽培がもたらされたルートと一致しており、中国大陸を起源として九州に渡った弥生人(倭人)とほぼ同義であろうと考えられる。
兵庫県の淡路島には海人族に関わる逸話が古くからあり、北部九州から瀬戸内海を小舟で渡り淡路島に至るルート、または紀伊水道より上がるルートがあったとする説があり、青銅や鉄などが大陸からもたらされた。海人族研究で知られる甲元真之氏や系譜学者、宝賀寿男氏は瀬戸内海は岩礁や島々が多く外洋の船では航行できないとし、九州東岸から小舟に乗り換えたとする。淡路島は海人族の営みの地として「日本遺産」に認定されている。
2は黒潮に乗って縄文時代に日本列島にやってきた南島系の種族(隼人)の可能性がある[3]。
日本列島では沖縄県、鹿児島県、宮崎県、和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などの県に2の末裔が数多く住んでいるとされる。
2.氏族
海人族に属す氏族には安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが有名である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏も元は海人族であったとする説がある。
「ワタツミ」も参照
8180
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 14:56:46
〜八色の姓〜
(新羅人には無い)
八色の姓
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3.氏姓制から令制官僚制へ
680年(天武10)飛鳥浄御原令の選定を開始したことに見られるように、また、八色の姓の詔にも見られるように、旧来の氏族制度を改革し、新しい国家体制に即応出来る官僚制創造の政策の一環であった。
奈良時代から平安時代に至って、源・平・藤・橘の四姓が隆盛になると、その末裔の姓はほとんどが朝臣になってしまい、姓そのものの意味がなくなっていった。ただし、実質的な意味がなくなった後にも「朝臣」の称は残り続け、八色の姓が制定されてから900年以上が過ぎて新設された豊臣氏についても「豊臣朝臣」とされている。
8181
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 08:59:06
〜新年の挨拶〜
「あけまして‐おめでとう〔‐おめでたう〕【明けましておめでとう】」の意味
[連語]正月のあいさつ語。年明けを無事に迎えられたことを祝う言葉。丁寧に言う場合には「ございます」を付けて「明けましておめでとうございます」と言う。
[補説]「おめでとう」は「御目出度う」「御芽出度う」と書くこともある。
8182
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 12:01:17
〜活目入彦命〜
2.名
活目天皇(いくめのすめらみこと) - 『日本書紀』
活目尊(いくめのみこと) - 『日本書紀』
8183
:
トンチンカン信徒
:2019/01/02(水) 12:06:05
正月から、ワザと嫌がる、シャンソンさん。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
325:シャンソン
19/01/02(水) 11:02:37
>>324
しかし、トキ管理人とともに、さんざん傍流や人を傷つけてきた人が
傍流掲示板をもふくめて閲覧者全員を祝福するようなことを書いています。
だから正月早々嫌な気分になりました。
今は講習会などに成果をあげている関係者の人が家族の人たちとともに
わが家に来ておせちなど食べていますが、掲示板では嫌な人の話題が出ています
だから当分新掲示板をみないようにしようと思いました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
自分の気持ちに、聞きしょ。晴れのち曇りの、シャンソンさん
8184
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 12:53:10
〜豊城入彦命〜
豊城入彦命
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1.系譜
第10代崇神天皇皇子。母は荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。垂仁天皇(第11代)の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄である。
2.記録
『日本書紀』[3]によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。
3.墓
墓の所在は不明。
群馬県前橋市の総社二子山古墳では、1870年(明治3年)まで豊城入彦命の墓として墓丁が置かれたという。しかし調査により古墳は6世紀末の築造とされ誤りと判断された。また、同じく前橋市に所在する大室古墳群にあてる説もある。茨城県石岡市には市内の丸山古墳が命の墓であるとの伝承が残っている。
8185
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:19:56
>>8184
〜下毛野氏〜
下毛野氏
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▼目次
概要
下毛野氏(しもつけのうじ、しもつけぬうじ[1])は、「下毛野」を氏の名とする氏族。
第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の後裔を称する皇別氏族で、「下毛野君(公)」のち「下毛野朝臣」姓を称した。
下毛野氏
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1.概要
大化以後に中級貴族、10世紀以後は公家の下級武官として活躍した氏族である。国史には当初より朝廷に仕えた氏族として記載されており、大化以前の動向は明らかでない[1]。名称の「下毛野」に見えるように、元々は下毛野地域(現・栃木県南西部)における豪族であったと推測されているが、記載が少なく定かでない。
名称にある「毛野」とは古代の群馬県・栃木県南西部を指す地域名称で[2]、都に近い側を「上毛野」(のち上野国(現・群馬県))、遠い側を「下毛野」(のち那須を加えて下野国(現・栃木県))としたのが基となっている。
2.出自
2.1.文献上の記載
『日本書紀』には第10代崇神天皇が皇子の豊城命(豊城入彦命/豊木入日子命)に東国統治を命じたと記載するが、その豊城命について「上毛野君・下毛野君の祖」であると付記している[4]。なお豊城入彦命がそれらの祖である旨は、『古事記』にも記されている[5]。
平安時代初期の弘仁6年(815年)『新撰姓氏録』には下毛野朝臣について「崇神天皇皇子の豊城入彦命の後」と記載されており[6]、豊城入彦命の後裔であることが公称されていた。なお『新撰姓氏録』に見られるように豊城入彦命の後裔を称する氏族は他にも多くあるが、中でも下毛野朝臣のほか上毛野朝臣、大野朝臣、池田朝臣、佐味朝臣、車持朝臣の6氏族は「東国六腹朝臣」[8]と総称され、ともに毛野地域(群馬県・栃木県南西部)出身で出自を同じくするという。
『続日本紀』には慶雲4年(707年)に下毛野石代が姓を「下毛野朝臣」から「下毛野川内朝臣」に変えたという記載があり[9]、下野国河内郡との関係が指摘されている[4]。
また疑いも多いが、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、仁徳天皇の御世に豊城命四世孫の奈良別が初めて下毛野国造に任じられたと記されている[11]。奈良別については「六世孫の下毛君奈良」と記載する文献もあり[12]、下毛野氏一族とも推定されている。
8186
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:25:30
>>8185
〜下毛野氏〜
2.出自
2.2.考古資料による考証
毛野地域(群馬県・栃木県南西部)には古墳時代に多くの古墳が築かれたが、下毛野地域においては5世紀末から6世紀に小山市北部において最大規模の摩利支天塚古墳(墳丘長121メートル)と琵琶塚古墳(123メートル)が築かれた[5]。
代わってやや北方の壬生町南部に、両古墳とは性格の異なる「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた[15][5]。これら下野型古墳が下毛野氏一族の墓と解されている[16]。また、古墳群は山王塚古墳(6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち、円墳に変化することから、この頃にヤマト王権の東国支配が完了し下毛野氏一族は中央に居を移したと指摘される[5]。
古墳群北東の下野薬師寺は下毛野古麻呂による氏寺としての建立と伝わることからも[17]、当地と下毛野氏の関係の深さがうかがわれる。また、古墳群付近には下野国庁や下野国分寺・国分尼寺も建立されており、一帯はのちの下野国においても中心地であった。
3.歴史
史実としての国史の初見は天武天皇13年(684年)11月で、八色の姓において他の52氏とともに「下毛野君」に朝臣の姓が授けられたという記事である[18]。
一族としては下毛野古麻呂が特に名高く、『大宝律令』撰定に従事したことが知られる。また、大学助教であった下毛野虫麻呂が『懐風藻』に漢詩を残しているように、学問的活躍が目立っている[1]。
しかしながら以後は中央の中・下級貴族にとどまり[9]、10世紀以降は近衛府の舎人や院・摂関家の随身としての活躍が見られる[10]。摂関家とは藤原道長の頃から結びつきを強め、家人として供奉・警固の任にあたった[10]。その関係で馬術・鷹飼・舞楽・調理に優れ、厩所・随身所・雑色所の長を務め、荘園の管理も行なっていた[10]。
その後も山城国乙訓郡の調子荘を本領として任にあたっていたが、室町時代中期以降衰退したという[10]。
4.主な下毛野氏
4.1.人物
下毛野石代 - 従五位下。下毛野川内朝臣に改姓。また征夷副将軍に任じられる。
下毛野虫麻呂 - 大学助教。『懐風藻』に漢詩が残る。
下毛野多具比 - 従五位上、遠江守。
下毛野稻麻呂 - 従四位下。
下毛野公時 - 近衛舎人、番長、藤原道長の随身。童話「金太郎」のモデルとなったとされる[11]。
他氏出身
8187
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:29:18
〜下毛野公時(金太郎のモデル)〜
概要
下毛野 公時(しもつけの の きんとき)は、平安時代の官人。童話「金太郎」のモデルとなったとされる[1]。
1.略歴
下毛野氏は、10世紀以降、代々下級武官を務めた氏族であった[2]。公時は近衛府の下級官人であった下毛野公友を父、尾張兼時の娘を母として長保2年(1000年)に出生した[1]。
寛弘6年(1009年)には、近衛舎人となっており、18歳で死去するまでには番長となり、その間三条天皇の行幸に際しての歌舞(東遊)や、騎射(真手結)、相撲使を務め、併行して藤原道長の随身ともなっていた。
寛仁元年(1017年)8月24日以前に相撲使としてスカウトに赴いた筑紫にて死去。享年18。
2.伝説化
詳細は「金太郎」を参照
存命中、近衛府官人「第一の者」と言われ、死後もその評判は衰えなかった[1]。『今昔物語集』では既に源頼光の郎党としての「公時」が見られており、伝説化の始まりと言える[1]。その後鎌倉時代から中世末期にかけ、「頼光四天王」伝説の定着により、次第に「金太郎」伝説となっていったと考えられている[1]。
8188
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:36:34
>>8186
〜下毛野氏〜
4.主な下毛野氏
4.2.氏族・家
左右近衛府地下官人の調子家・富家が下毛野姓を称し、江戸時代を通じて存続した。
また、宇都宮氏など下野地域の社家・武家に後裔と推測される氏族がある。
8189
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:47:54
>>8188
〜下野宇都宮氏〜
下野宇都宮氏
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概要
下野宇都宮氏(しもつけうつのみやし)は藤原北家道兼流の名族・宇都宮氏の嫡流である。代々下野国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身。奥州を見据える要衝の地・宇都宮及び日光の地を治める社務職(宇都宮検校等)を務め、京都との繋がりが強かった。
下野国は宇都宮氏の発祥地であり、当地の宇都宮氏が嫡流。庶流として豊前宇都宮氏(城井氏)があり、さらに伊予宇都宮氏、筑後宇都宮氏(蒲池氏)などがある。それらと区別するため本貫の下野の地名を付けて下野宇都宮氏と呼ばれる。
8190
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:51:16
>>8189
荒川とは、毛野川とは、鬼怒川のことらしい。
荒御霊の川
8191
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 00:25:56
〜宇都宮氏〜
概要
宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。
1.出自
藤原氏一族の藤原北家の藤原道兼の曾孫を称する[1]藤原宗円が、源頼義、義家の奥州安倍氏討伐(前九年の役)での功により宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)別当職に任じられ、宗円の孫の宇都宮朝綱から苗字(名字)として宇都宮氏を名のる。しかし『宇都宮市史』や『姓氏家系大辞典』では、宗円を藤原道兼の子孫とするのは後世の仮冒で、宇都宮氏は中原氏の出、あるいは古代の毛野氏の後裔とされているなど、諸説ある。
2.宇都宮氏嫡流(下野)
宇都宮氏は下野国が本貫であったため、各地の庶流に対してしばしば下野宇都宮氏といわれることもある。下野国一之宮名神大社であった宇都宮二荒山神社座主および日光山別当職等を務め、紀清両党を率い22代・500年に亘って下野国、さらには日本国土の治安維持を司った名家。国司や守護も歴任し、現在では戦国大名とも評されている。
8192
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 00:39:11
>>8191
〜八田宗綱〜
八田宗綱
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概要
八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。
生涯
八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる。藤原兼房の子兼仲の子[2]で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085年)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。
応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。
娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。
脚注
宇都宮系図別本
「明応古縁起」「輪王寺 常行堂大過去帳」など
関連項目
宇都宮氏
八田氏
小田氏
結城氏
2. 「明応古縁起」「輪王寺 常行堂大過去帳」など
8193
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 00:40:09
>>8192
〜八田知家〜
八田知家
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概要
八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある[1]。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
1.生涯
保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に早くから参加しており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵された。寿永2年(1183年)野木宮合戦に参加。元暦元年(1184年)8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。
建久4年(1193年)、曾我兄弟の仇討ちをきっかけに、従兄弟である常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収し、自分の本拠地を下野から常陸に移し守護に補任された。
建久7年(1196年)には降伏して捕らえられた平景清を自邸に預かっている。
建久10年(1199年)、頼朝が没し、後を継いだ2代将軍源頼家の専制を抑えるために結成された十三人の合議制の一人となる。建仁3年(1203年)には頼朝の弟で頼家の叔父にあたる阿野全成が北条氏とともに反頼家派を形成したことから、先手を打って北条氏に対抗した頼家の下知により、全成を誅殺した。
建保6年(1218年)に死去した。
[6]次ページ
8194
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 07:32:39
〜和氏〜
和氏
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1.概要
百済系の渡来氏族で、百済の第25代王・武寧王の子孫と称した[1][2][2]。和(やまと)の名称は、大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来する[4]。
もともと和史姓を名乗っていたが、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘・新笠が入侍していた白壁王(光仁天皇)が即位したため、宝亀年間(770年代)に乙継・新笠親子には高野朝臣姓を賜与された[5]。また、乙継の子・国守らその他の一族も延暦2年(783年)に史姓から朝臣姓に改姓している[6]。
光仁天皇と新笠の皇子である桓武天皇は、延暦9年12月30日(791年2月11日)、生母の一周忌に際して、母系の祖父・和乙継と祖母・土師真妹(はじのまいも)に正一位を追贈した。朝臣姓和氏からは、桓武朝で天皇の外戚として中納言にまで昇進し、渡来系氏族として初めて公卿となった和家麻呂(乙継の孫)がいる[7]が、以降は振るわなかったとみられる。朝臣姓「高野」は乙継と新笠の父娘にのみ賜姓されたとみられ、こちらも文献に現れない。
8195
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 07:36:44
>>8194
〜武寧王〜
武寧王
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▼目次
概要
武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない[1]」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。
8196
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 08:52:03
〜八田知家公〜
八田知家
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▼目次
概要
八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある[1]。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
8197
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 08:54:46
>>8196
※鎌倉幕府は、源義朝公の子孫により、立脚した、政権である。
8198
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 09:43:23
〜征東大将軍〜
征東大将軍
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1.日本の征東将軍
1.1.倭王武
日本最初の征東大将軍は倭の五王の一人、倭王武である。梁王朝が開かれた天監元年(502年)の4月に、前王朝(斉)で鎮東大将軍に任命されていた百済王余大と倭王武の号が征東大将軍に進められた。中国の制度にもとづくもので、現地日本においては中国から与えられた称号・格付け以上のものではない。
8199
:
トンチンカン信徒
:2019/01/04(金) 09:53:06
次期天皇陛下の御学友の小山さんの本を、読みました。
皇太子殿下、五歳のとき幼稚園のとき、同じクラスに、三島のオジサンが、皇后陛下の斜め後ろに、恥ずかしそうに、写し出されてました。
あの、市ヶ谷事件の五年前くらいですかね?
バパ三島先生て、どんな感じなんだろ?
三島先生の娘さんNさんと書いてありましたから、同じクラスのお友達だたようですね。
学習院とはいえ、幼稚園ですから、お子さま言葉満載です。
8200
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 16:58:59
〜新皇〜
新皇
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▼目次
概要
新皇(しんのう)は、天慶2年(939年)12月に平将門が「新しい天皇」の意で自称した称号。以後、将門は平氏出身であることから「平新皇」と呼ばれたとされる。後世の書物等では訛って「平親王」とも呼ばれるが、これは誤称である。
1.経緯
平将門は、源護や伯父の平国香・平良兼ら一族との私闘を繰り返し、その延長とも言える闘いで常陸国府を蹂躙し公権を犯したため、図らずも朝廷に対する叛乱者となってしまう。将門は、側近の興世王の進言等もあって東国制覇に動き出し、下野国府や上野国府を占領し、上野国府にて四方の門の警備を固めて諸国の除目を発令した。その時、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れ、「朕[1]の位を蔭子[2]平将門にお授けいたす。その位記[3]は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が捧げるところである。右の八幡大菩薩は、八万[4]の軍を催して朕の位をお授けするであろう。今ただちに、三十二相楽を奏でて、早くこれをお迎え申し上げよ。」と告げる。将門は位記を頭上にうやうやしく捧持って拝礼し、ここにおいて興世王と藤原玄茂らは贈り名を奏上、将門を名付けて「新皇」と称した。この将門の新皇僭称に際して、舎弟の平将平や小姓伊和員経らは諫言するも聞き入れられなかった。
この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく「分国の王」程度のつもりであったと思われる。
2.新皇将門による諸国の除目と素性
上野守 - 多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介 - 藤原玄茂(常陸掾)
上総介 - 興世王 (武蔵権守)
安房守 - 文屋好立(上兵)
相模守 - 平将文 (将門舎弟)
伊豆守 - 平将武 (将門舎弟)
下総守 - 平将為 (将門舎弟)
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の3か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸介および上総介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない[5]。
8201
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 19:16:12
〜紀の氏〜
1.概要
1.1.名前の由来
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
1.概要
1.1.名前の由来
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
1.概要
1.2.紀清両党の誕生〜鎌倉時代
文治5年(1189年)の時点で芳賀・益子氏は宇都宮氏の郎従として合戦に従っていることが確認されているが、紀清両党がいつ組織されたかは明らかになっていない。
文治5年7月から9月にかけて起こった奥州合戦では、益子正重、芳賀高親が宇都宮朝綱に従い戦功をあげており、源頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られた。このことが後世まで芳賀・益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。
以後も紀清両党は宇都宮氏の筆頭武士団として武を支えた。
1.概要
1.3.鎌倉時代後期〜室町時代
宇都宮氏は鎌倉時代に鎌倉幕府から強大な軍事力を持つ存在とみなされ、度々重用されるほどにまでになっていた。
元弘の乱でも当主宇都宮公綱に従い戦う。益子貞正や芳賀高名(禅可)などが活躍しており、楠木正成は「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりであるとして、その両翼たる 益子氏、芳賀氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評し、宇都宮氏及び紀清両党の武勇を恐れ、兵を退いた話は有名である。その他にも天王寺の戦い・千早城の戦いなどで奮戦し、活躍している。
公綱の嫡男宇都宮氏綱が北朝に従った際には、芳賀禅可、益子貞正ら紀清両党も氏綱に従い活躍。前当主の宇都宮公綱とは敵対関係となった。
観応の擾乱で春日顕時に隙を突かれ紀党益子氏の居城である西明寺城や清党の八木岡城を落とされたりしたが、薩?峠の戦いなどで活躍し、足利尊氏の勝利に貢献した。清党の芳賀氏は薩?山体制下で上野国、越後国の事実上の守護代を任されるほどにまでなった。
『太平記』によれば芳賀禅可は清党のことを「東国に名ある武士は多しといえども、弓矢の道において指をさされぬは、ただ我が一党なり」と言い放っている。
しかし体制崩壊後、越後・上野守護代職を奪われたことで激怒した芳賀禅可が上杉憲顕に対してクーデターを起こすが敗北。家臣を多く失い弱体化してしまった。さらに宇都宮氏も徐々に没落し、不遇の時代を迎えることとなる。
8202
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 19:18:56
>>8201
板東一流 天下一統
8203
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 22:39:01
〜新羅語〜
概要
新羅語(しらぎご)は、朝鮮半島の新羅(紀元前57年‐紀元後935年)で話されていた言語である。朝鮮語の直系の祖先であると推測される。
高句麗語や百済語に似ていたという見方もあるが、[1]数詞などが明らかに異なるため、別系統の言語と考えられる。高句麗語や百済語に比べ、記録がよく残っている。古代朝鮮語と同一とみなされる場合もあるが、古代朝鮮語は百済語、高句麗語を含む呼称とされることが多い。
詳細[編集]
「古代朝鮮語」を参照
8204
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 02:32:50
〜禁閥の変〜
(南朝日野氏の三種神器事件)
1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
[6]次ページ
(2.脚注)
1. 後花園天皇の実父である後崇光院が著した『看聞日記』をはじめとする同時代の日記類による。
2. 禁闕の変
3. 『十津河之記』
4. 渡邊大門『赤松氏五代』P264
8205
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 03:49:42
〜邪馬台国・徳島説〜
8.邪馬台国四国説
1970年代後半より注目され始めた新しい説。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる古代中国魏志倭人伝の(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い。
近年では数多くの書籍・メディアなどで紹介されているが当初は郷土史家の郡昇が四国説を唱え著書を自費出版で行った[44]。その後、古代阿波研究会なども四国説を主張し、[45]『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』には多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓らが編集委員として名を連ねている。日本テレビの番組[46]で、番組プロデューサーの山中康男はその後『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。1980年代にはNHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=土佐(四国山頂)説を主張する土佐文雄が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版。他にも浜田秀雄や大杉博、林博章などが四国説を主張する著書を出版[47]、2009年にはテレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』で四国徳島説が放送された。(尚、朝廷は四国地方から始まり近畿地方へ移行されたと四国説・近畿説を共に主張する説もある。)
8206
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 09:52:11
〜征西大将軍〜
(征西将軍宮=日本国王)
概要
懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう[1]、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
2.日本国王良懐
1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている[3]。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
しかし、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している[3]。
8207
:
トンチンカン信徒
:2019/01/08(火) 11:53:19
いちいち、嫌がてんじゃないのじね〜よ(単なる、ギャク)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
300:新掲示板
19/01/08(火) 09:54:20
宗教を名乗る者が、人に苦痛を与えて良いのでしょうか
宗教を名乗る者が、人に苦痛を与えて良いのでしょうか
宗教を名乗る者が、人に苦痛を与えて良いのでしょうか
笑
8208
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 06:47:59
〜鎌倉公方〜
概要
鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。
鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。
なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は“鎌倉御所”ないし“鎌倉殿”と呼ばれていた。
8209
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 15:42:08
>>8208
〜足利将軍家〜
概要
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。
8210
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:40:27
>>8209
〜関東管領〜
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。
1.概要
鎌倉府は観応の擾乱の直前の正平4年/貞和5年(1349年)室町幕府の初代将軍・足利尊氏が嫡男の義詮を鎌倉から京都へ呼び戻し、代わりに次男の亀若丸(基氏)を関東統治のために派遣したのがはじまりで、幼い基氏を補佐するために執事という補佐を置いた。京都にも将軍を補佐する執事(後の管領)がいたため、これと区別するために「関東執事」と言った。当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清らが任じられる。関東執事は初期においては斯波氏、畠山氏が就任していたが次第に上杉氏に独占されていき、最終的には上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は上野、伊豆の守護も担っていた。
直義方であった憲顕は失脚して越後で引退するが、正平17年/貞治元年(1362年)に基氏が願って復職した後、もしくは正平22年/貞治6年(1367年)に足利基氏が急死して、幼少の足利氏満が鎌倉公方を継いで憲顕が後見についた後、関東管領と呼ばれるようになる[1]。
憲顕は当初北関東を管理していたが、基氏の急死後の正平23年/応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を鎮圧し、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めた。応永6年(1399年)に3代将軍足利義満に挑発されて大内義弘が挙兵した応永の乱では、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした3代鎌倉公方足利満兼を諫言した。以後は山内上杉家、犬懸上杉家が独占し、応永23年(1416年)に元関東管領上杉禅秀が反乱を起こし(上杉禅秀の乱)、敗れて犬懸上杉家が滅亡すると山内上杉家の世襲となる。
関東管領は主に支配地域の守護及び地頭の管理に当たっていた。武蔵守護も兼任し、関東一円の武士を掌握し次第に鎌倉府以上の力を持つようになり、鎌倉公方と対立していくことになる。
永享10年(1438年)に第4代鎌倉公方足利持氏が6代将軍足利義教と対立すると、関東管領上杉憲実は持氏を諌めるが、自身が暗殺される風説が流れると、管領職を辞して上野に逃れ、憲実追討のために持氏が兵を起すと武蔵府中に陣を構え、幕府と連合して持氏を自害させ鎌倉府を滅亡させるまでに至る(永享の乱)。永享12年(1440年)に下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて結城合戦と呼ばれる反乱を起こすと、鎮定に協力するために復職する。その後憲実は遁世、文安4年(1447年)の鎌倉府再興まで東国支配を上杉氏が受け持つことになる。
再興後も鎌倉府と関東管領の対立は続き、持氏の遺児成氏が鎌倉公方となると、享徳3年(1454年)に成氏は関東管領上杉憲忠を暗殺する。上杉氏と戦っている最中に幕府から派遣された駿河守護今川範忠に鎌倉府を追われると、成氏は古河を座所とする(享徳の乱)。古河公方と名乗った成氏と関東管領上杉顕定の間で和解が成立するのは28年後のことであった。
なお、この乱の最中に足利政知が新たに堀越公方として関東に下るが、この際に政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡が任命され、関東管領と区別するためにその旧称である「関東執事」が一時的に復活している。
だが、この間に庶流の扇谷上杉家が山内上杉家に迫る勢力を得たことから、長享元年(1487年)に顕定が扇谷上杉家討伐を開始する(長享の乱)。18年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わったが、通算して50年にわたった戦乱で関東はすっかり荒廃した上に、扇谷上杉家が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)を関東に招き入れたことによって後北条氏の台頭のきっかけを作ってしまう。
16世紀に入って後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくが、山内上杉家は2度にわたる家督争いによって自ら勢力を後退させていき、天文15年(1546年)の河越夜戦において古河公方足利晴氏、関東管領上杉憲政、扇谷上杉家当主上杉朝定の連合軍が北条氏康に敗北すると、古河公方、山内上杉家は大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死して滅亡してしまう。
その後、憲政は上野で北条氏へ抵抗するがうまくいかず、天文21年(1552年)に居城の平井城を失うと越後へ向かい、元は家臣筋であり外戚でもあった越後長尾氏を頼った。永禄4年(1561年)に憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を越後三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲った。景虎はこの時名を政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改める。
しかし、既に関東管領は実質的には機能しておらず、謙信の死をもって終焉を迎える。
8211
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:42:44
>>8210
〜関東管領〜
2.職掌
関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。むろん、幕府も権限を放棄したわけではなく、康暦の政変直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した長尾景仲ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が信濃国にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び後花園天皇の綸旨による関東管領任命が行われた(『建内記』文安4年3月24日・7月10日両条)。その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する家職となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった[2]。また、上杉憲春以降、京都で成長した上杉房顕を例外として任官の口宣案は残されておらず、朝廷からの任官ではなく、鎌倉公方が与えた官途名を用いていたとみられている[3]。
関東管領の職務については、鎌倉公方を補佐して管内における政務の統轄を行ったとみられるが、その具体的な内容については、
室町幕府からの命令を鎌倉府・管内諸国への取次
鎌倉府における所務沙汰の受理と奉行人選定
などが挙げられる(ただし、研究者によって多少の違いはある)。また、永和年間以降は鎌倉府の料国とみなされた武蔵国の守護職も兼ねた。だが、鎌倉公方と関東管領の関係が悪化していくにつれて、鎌倉府における関東管領の職務は麻痺するようになっていった[2]。
室町将軍と鎌倉公方という対立した2者が任免権を共有していた時期の関東管領の立場は非常に複雑で、上杉憲春のように両者の板挟みにあって自らの命を絶つ関東管領[4]もいた。更に上杉禅秀の乱後に越後国にも広大な所領を持つ山内上杉家による関東管領世襲が確立すると、事態はさらに複雑化する。越後の所領を安堵するのは室町幕府であり、室町将軍はその権限を利用して関東管領(山内上杉家)に従属を迫り、反対に鎌倉公方は鎌倉府の管外であっても関東管領の所領は鎌倉府が安堵するとして越後の情勢への関与を図ったからである。結果的に越後の山内上杉家領の扱いをはじめとする鎌倉府の管外への関与政策は永享の乱の一因となった[5]。なお、15世紀後期以降、上杉憲忠の綸旨による関東管領任命(先述)を先例として「関東管領」は実質上の官職と同様の社会的地位とみなされるようになり、上杉顕定・憲房・憲政については、生涯任官及び官途名を用いた事実はなかったと考えられている(系図上の官職・受領名は江戸時代の創作とみられる。また、上杉房顕・政虎(謙信)なども関東管領就任後は任官を受けず、関東管領就任前の官途名を用い続けている)[6]。
8212
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:43:34
>>8211
〜関東管領〜
3.分裂する関東管領
近年の関東地方の戦国時代史研究の進展の中で、享徳の乱以後の鎌倉府組織の分裂状況の中で関東管領またはそれと同義の職名を自称する動きがあったことが知られるようになった。
越相同盟の交渉が本格化した永禄12年(1569年)頃に北条氏康によって書かれたとされる「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)には亡父(北条氏綱)が古河公方足利晴氏の命を受けて国府台で小弓公方足利義明を討ったことにより「依勲功官領職仰付」と記されている。これは、国府台合戦の戦功によって後北条氏は古河公方より「関東管領に任命された」と主張しているもので、ここからその後の北条氏による足利義氏の古河公方擁立の正統性と関東管領上杉憲政及びその後継者である上杉輝虎の関東管領としての正統性を否認する立場を取っていたことが窺える。当然、上杉氏側から見れば足利義氏の古河公方就任は後北条氏が関東管領であることを前提にするものであって容認できず、代わりに関東管領上杉氏が擁立する古河公方が必要とされ、それが足利藤氏であったとされている(なお、後北条氏関東管領論は越相同盟によって古河公方足利義氏と関東管領上杉輝虎を相互承認したことで消滅したと考えられている)。
更に享徳の乱では上杉氏と争い、その後の戦国期には後北条氏と争った安房里見氏も関東管領を自称した形跡がある。これは里見氏が大檀那であった鶴谷八幡宮及びその別当寺であった那古寺の奉納された棟札に古河公方を「鎮守府将軍源朝臣」、里見氏当主を「副帥源○○(当主名)」と記されていることである。現在知られている同様の棟札は7通であるが、注目されるのは那古寺に納められた享禄2年(1529年)に「副帥」源(里見)義豊によって納められている事実である。里見義豊が禅僧玉隠英與と親交が深かったことが、玉隠の『玉隠和尚語録』(東京大学史料編纂所所蔵)によって知られているが、同書には同じく交流を持っていた関東管領上杉氏を「関東副元師(帥)」と記している。里見氏が名乗っていた「(関東)副帥」とは関東管領の異名である「関東副元帥」と同一のものであったと考えられ、里見氏もまた関東副帥=関東管領を自称していた可能性が強いとされている[7]。
8213
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 18:04:59
>>8212
〜足利藤氏〜
概要
足利 藤氏(あしかが ふじうじ、生没年不明)は、戦国時代の武将。足利氏の一門。足利晴氏の子。古河公方(在職:1561年 - 1562年)として擁立され、関白近衛前久にもその地位を承認されているが、現代においては歴代公方には数えない。
生涯[編集]
第4代古河公方である足利晴氏の長男として生まれる。母は簗田高助の娘。室町幕府13代将軍の足利義藤(後の義輝)から偏諱を与えられており、将来は京都の室町幕府からも認められた次代の古河公方となるはずであった。
ところが、父晴氏は後添えの正室として北条氏綱の娘・芳春院を迎えていたが、氏綱の跡を継いだ北条氏康との関係が次第に悪化。晴氏は関東管領の上杉憲政や上杉朝興らと同盟して北条氏と対抗するも、天文15年(1546年)の河越夜戦で大敗した。氏康は晴氏を隠退させ、異母妹である芳春院の息子で、北条の血を受けた足利義氏(藤氏の異母弟)を古河公方とした。
古河公方への道を絶たれた藤氏はこれに反発し、弘治3年(1557年)に挙兵して古河御所奪還を試みるが失敗。晴氏は栗橋城に幽閉され、藤氏も追放された。それでも安房の里見義堯を頼って再起の機会を窺い、これに従う簗田晴助らが越後に滞在中の上杉憲政と憲政を庇護していた長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を依頼した。永禄4年(1561年)、景虎はついに関東へ出兵。藤氏救援という名目だけでなく関東管領の上杉憲政、関白の近衛前久を擁し、大義名分を十分に得た軍勢は関東の諸豪族の応援で10万余にまで膨れ上がった。小田原城ら諸城に籠城する北条方を攻め切れなかったものの、藤氏は義氏を放逐して古河御所の奪還に成功した。
上杉憲政に代わって関東管領の本来の職務である古河公方擁立に成功した長尾景虎は、上杉憲政から上杉の家督と関東管領の地位を譲られた。上杉謙信(便宜上、以後は謙信とする)は、上杉憲政、近衛前久らと諮り、義氏の古河公方就任を完全に否定し、関白、関東管領の名において藤氏を足利晴氏(前年死去)の後継として正式に古河公方として任命することを決定した[1]。これを佐竹氏・里見氏ら反北条氏の関東諸大名も受け入れたため、数年の間、足利藤氏は正統な古河公方となったのである。
だが、謙信が藤氏を残し越後に帰国すると直ちに北条氏は反撃を開始し、その年の10月には古河を攻撃したので、藤氏は里見氏家臣の多賀信家(蔵人・高明)が治める上総池和田城(千葉県市原市)へ逃れた。以後、古河を巡って上杉と北条は争奪戦を繰り広げ、藤氏も上杉方の代表として古河に入ったり上総に脱出したりを繰り返した。だが、永禄5年(1562年)に北条軍が古河御所を攻略した際に藤氏は捕虜となって小田原に送られた。
その後藤氏の身柄は相模・伊豆といった北条領内を転々としたとされるが、永禄9年(1566年)以降はその消息が不明。北条氏康によって暗殺されたともいわれている。
足利藤氏を失ったことにより、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に北条氏との同盟締結をもって古河公方である足利義氏を謙信は正式に認めざるを得なくなる。一方で、藤氏の弟の藤政、輝氏、家国が古河公方の再興を目指し活動した形跡も確認されているが、その影響力は微々たるものであり、天正年間を境にその活動はみられなくなる。
脚注[編集]
越相同盟締結時に北条氏は国府台合戦の戦功によって古河公方から関東管領に任ぜられ、その職権で義氏を古河公方にしたと主張(伊佐早文書所収「北条氏康条書」)しているように、北条氏は上杉氏の関東管領としての権威そのものを否認する立場を取っており、上杉氏は関東管領として義氏に代わる古河公方を必要としていた。
関連項目[編集]
足利氏
1. 越相同盟締結時に北条氏は国府台合戦の戦功によって古河公方から関東管領に任ぜられ、その職権で義氏を古河公方にしたと主張(伊佐早文書所収「北条氏康条書」)しているように、北条氏は上杉氏の関東管領としての権威そのものを否認する立場を取っており、上杉氏は関東管領として義氏に代わる古河公方を必要としていた。
8214
:
トンチンカン信徒
:2019/01/11(金) 18:27:47
いま、日の丸掲示板を、良く、見ると。
裏状況として、新羅人と関係者と西日本人(関西系)とわかる。
①、大熊先生は、確かに、素晴らしい先生だが、裏状況を、話すと、『新羅人空手の分派講師』なのだ。
②、日野ボンくんは、関西系の、新羅人とツルンで、何故か?大日本帝国憲法復活と?不思議なコメントを言ってる?新羅人は大日本帝国が表向き嫌いなはずだ?
③、こうした、コメントは、宇治周辺が、新羅人地区だったこと関係があるのかは?興味深いところである。関東系のシオン観測隊には、良く理解しがたい。
8215
:
トンチンカン信徒
:2019/01/11(金) 18:32:48
新羅人空手は、関東地域では、たくさん、分裂したと、記憶してる。
本家新羅人空手は、東京池袋にあったかな?
色々と分派が、ある。
オリンピックで採用された空手とは、違う。
8216
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 05:47:40
〜志恩さんの先祖〜
※新羅の善徳女王
概要
善徳女王(ぜんとくじょおう、? - 647年2月17日(旧暦1月8日))は、新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)。新羅初の女王。
姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の娘であり、母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王配は水月葛文王朴欽飯。
3人姉妹(善徳女王は『三国史記』では長女として記録され、『三国遺事』と『花郎世記』では次女とされている。天明公主は『三国史記』で次女、『三国遺事』では娘、『花郎世記』では長女。三女の善花公主は『三国史記』と『花郎世記』では存在が伝わっていない)であり、男兄弟はいない。
先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また父母ともに王族である聖骨の男子がいなくなっていたために、徳曼がその呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。即位して後に聖祖皇姑の号を国人から奉られた。
1.生涯
百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際的に孤立した状況にあり、それを打開しようとして唐に積極的に近づき、朝貢を重ねて635年には父の真平王に与えられていた〈柱国・楽浪郡公・新羅王〉の爵号を継承することができた。
633年8月には西部国境地帯に百済の侵入を受け、636年5月には百済が独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃しようとして潜んでいたところを、角干(1等官)の閼川を派遣して殲滅させることに成功した(#3つの予知の第2を参照)。この後に閼川を大将軍に任命し、638年に高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったときには、閼川が高句麗兵を撃退した。しかし642年7月には百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取し、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまった。同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられている。その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(後の武烈王)が高句麗に赴いたが、一時、人質にされた上、高句麗からの援軍は得られなかった。
643年9月には唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた[2]。こうした唐の姿勢に対して新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、女王自らが任命した上大等の?曇らが647年正月に女王の廃位を求めて内乱を起こした。上大等に代表される中央貴族に対抗して金?信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫[3])ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月8日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られた。在位16年。その後直ちに金?信らは真徳女王を立て、正月17日になって乱を鎮圧し、?曇ら20余名を誅殺した。死後、唐からは光禄大夫の号を追贈された。
善徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九層塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。霊廟寺の建立と同時に、瞻星台(天文台)を築いたとも伝えられている。また640年には王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけとなったように、新羅の文化発展への貢献が知られている。
8217
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 18:25:49
>>8216
〜ソシモリ〜
概要
蘇志摩利(そしまり)とは、雅楽の一曲。別名長久楽(ちょうきゅうらく)・蘇尸茂利(そしもり)。
右方(高麗楽)に属する6人舞。なお新楽では4人舞。高麗双調(こまそうじょう)。
『教訓抄』高麗部に記載がある。近衛天皇の久安年間(1145年-1150年)に此樂今者絶とされる。『日本紀通證』(谷川士清)において、高麗曲に樂名蘇志摩利 又樂具蘇志麻理ありとされるという。『日韓古史斷』参照。
明治に再興されたが1905年(明治38年)に第二次日韓協約・韓国統監府設置記念で林広継に再興が命じられたとも、1911年(明治44年)に芝葛鎮による再興との説があるという。[1] 近年では2001年(平成13年)に明治神宮で舞われた。[2]
由来[編集]
『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利の記述[3]を引用した『先代旧事本紀』(日本紀講筵の際提出された偽書とされる)巻第四 地祇本紀[4]の素戔烏尊によるヤマタノオロチ退治の前段の分注記事による。
素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣
スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨に降りた(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利はその地の風俗を歌う曲である。)スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。
そしもり[編集]
曾尸茂梨については『日本書紀』 卷第一[5] 第八段 一書第四のヤマタノオロチ退治の前段に記述がある。
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇
スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨に居た。スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。
また素尸毛犁については偽書とされる『桓檀古記』所収の「檀君世紀上編」[6]の三世檀君 嘉勒の条に次の記述がある。
( 戊)申十年豆只州?邑叛命余守己 斬其酋素尸毛犁自是稱其地曰素尸毛犁今轉音爲牛首國也 其後孫有陜野奴者逃於海上據三島僭稱天王
戊申十年(161年)豆只(ずし)州の?邑(わいゆう)で謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬った。これよりその地を素尸毛犁と称す。今転音し牛首國という。その孫に陝野奴がおり、海上へ逃げ三島で、天王を潜称す
曾志茂利という名が関連する神社は、熱田神宮の末社(孫若御子神社の北に南面)に祭神は居茂利大神(スサノオ)とされる曽志茂利社がある。
諸説[編集]
『釈日本紀』(述義)にある陽成天皇による878年(元慶2年)の日本紀講筵の元慶度講書(878年(元慶2年)-881年(元慶5年))で、惟良宿禰高尚(惟良高尚)がソシモリを今の蘇之保留と解説し、その分注に「此説甚可驚云々」とされた。その後、江戸時代の国学勃興者までながらく議論らしきものはなかったが、江戸時代から戦前にかけて『日本書紀』の曽尸茂梨が現在のどこにあたるのか盛んに議論され、候補地をあげる説が次々あらわれ、その数は戦前の段階で北は咸鏡北道から南は済州島まで、朝鮮半島の各地に8ヶ所にも及んだが決着はついていない(最近の学界では、普通名詞または神話上の概念として、特定の実在の場所に当てはめない傾向がある)。
それらの中で比較的有名な説は、吉田東伍の「古代半島諸国興廃概考」(1891年(明治24年)8月号『史学会雑誌』21号p.21〜22。)で、曽尸茂梨を春川の牛頭山とし、漢の春秋戦国時代の西暦紀元前4世紀と推定した。同論文は後に、『日韓古史斷』(1911年(明治44年))[7]の34-35ページの記述[8]となり [9]、この説に準拠して朝鮮の江原道春川郡の牛頭山に江原神社がつくられた。(1918年(大正7年)に社が建てられる[10]1941年(昭和16年)10月1日、国幣小社になった。)
またソシモリの語源や語義についてはこの他にも戦前から現在まで多くの説があるが、正確なところは不明である。
二三の例をあげると、金沢庄三郎は『日鮮同祖論』(復刻版 成甲書房、1978年(昭和53年))で「曽尸茂梨の(助辞)尸を除いたソモリは、徐伐すなわちソホリと音韻上一致するもので、モとホすなわちmp音の相通である」とした。また韓国の宗教文化研究院長の崔俊植(梨花大学教授)は、ソシモリは、「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意とした。
8218
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 18:26:48
>>8217
〜ソシモリ〜
注[編集]
楽曲解説(高麗楽の部・高麗平調/高麗双調)
明治神宮 平成13年春の大祭 奉祝舞楽
早稲田大学図書館蔵音楽部第十 曲調類第四十九
先代舊事本紀卷第四 地祇本紀
日本書紀 卷第一 神代一
檀君世紀
日韓古史斷国会図書館近代デジタルライブラリ
日韓古史斷34-35
近現代韓日関係研究史 -日本人の韓国史研究を中心に―
。鶴見三千代の祖父によるという:[1]
外部リンク[編集]
装束
1. 楽曲解説(高麗楽の部・高麗平調/高麗双調)
2. 明治神宮 平成13年春の大祭 奉祝舞楽
3. 早稲田大学図書館蔵音楽部第十 曲調類第四十九
4. 先代舊事本紀卷第四 地祇本紀
5. 日本書紀 卷第一 神代一
6. 檀君世紀
7. 日韓古史斷国会図書館近代デジタルライブラリ
8. 日韓古史斷34-35
9. 近現代韓日関係研究史 -日本人の韓国史研究を中心に―
10. 。鶴見三千代の祖父によるという:[1]
8219
:
蒼天の實相
:2019/01/13(日) 03:23:50
〜蘇民将来〜
概要
蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 ? 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。
説話[編集]
古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される[2])の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。
すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。[3]
蘇民将来の起源[編集]
武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない[1]。
武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられる[4]が、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている[5]。
蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた[1]。
祭祀[編集]
蘇民将来の逸話を基に岩手県内を始め各地には蘇民祭が伝わっており、とくに奥州市水沢区の天台宗妙見山黒石寺の黒石寺蘇民祭をはじめとする岩手県内の蘇民祭は選択無形民俗文化財に選択されている。また、京都の八坂神社や伊勢・志摩地方の年中行事では、厄除け祈願として、茅の輪くぐりや「蘇民将来」と記された護符の頒布、注連飾りなどの祭祀が盛んに行われている。
京都祇園社の祇園祭は、元来は御霊を鎮めるためにおこなわれたのが最初であったが、平安時代末期には疫神を鎮め、退散させるために花笠や山車を出して市中を練り歩く「やすらい(夜須礼)」の祭祀となった。山車につけられた山鉾は空中の疫鬼を追いこむための呪具、花笠は追い立てられた厄鬼を集めてマツの呪力で封じ込めるための呪具であり、また、祭りの際の踊りは、本来、地に這う悪霊を踏み鎮める呪法であった[1]。悪霊や疫鬼は、これらによって追い立てられて八坂神社に集められるが、そこには蘇民将来がおり、また、疫鬼の総元締めであるスサノオが鎮座して、その強い霊威によって悪霊や疫鬼の鎮圧・退散が祈願されたのである[1]。
8220
:
蒼天の實相
:2019/01/13(日) 03:24:53
>>8219
〜蘇民将来(つづき)〜
護符[編集]
蘇民将来の護符は、避疫の利益があるとされ、スサノオ(牛頭天王)と縁の深い寺社で頒布されている[6]。護符は、紙札、木札、茅の輪、ちまき、角柱など、さまざまな形状・材質のものがある。また、単に「蘇民将来」といえば護符そのものを指すこともある。護符には「蘇民将来子孫也」「蘇民将来子孫之門」といった文言や晴明紋が記されていることが多く、家内安全や無病息災のお守りとして門口に吊されたり、鴨居に飾られるなどする。八坂神社や信濃国分寺八日堂で頒布されるものが特に有名である。また、金神や歳徳神同様、蘇民将来も方位神として陰陽道に取り込まれ天徳神という名で呼ばれている。
八坂神社(京都市)
祇園祭の行われる7月には社頭や各山鉾にて「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が授与される。7月31日には摂社「疫神社」において「夏越祭」が行われ「茅之輪守」が授与される。他につり下げ型の八角木守もある。
信濃国分寺八日堂(長野県上田市)
六角柱のこけし型をなす。上田市指定有形民俗文化財に指定されているほか、毎年1月7日から8日にかけての八日堂縁日での頒布習俗が「上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗」として国の選択無形民俗文化財に選択されている。
陸奥国分寺薬師堂(仙台市若林区)
八角柱で房のついたつり下げ型をなす。
岩木山神社(青森県弘前市)
紙製のお札で呪文と晴明紋が記されている。
黒石寺(岩手県奥州市水沢区〈旧水沢市〉)
当寺は黒石寺蘇民祭で有名。六角柱のつり下げ型をなす。
笹野観音(山形県米沢市)
八角柱の形状。紙製で梵字や五芒星を記したものもある。
円福寺(千葉県銚子市)
木製板状で梵字と呪文が記されている。
竹寺(埼玉県飯能市)
六角柱のこけし型。
妙楽寺(長野県佐久市)
木製板状で梵字と呪文・晴明紋が記されている。
津島神社(愛知県津島市)
六角柱のこけし型。
松下社(三重県伊勢市二見町)
注連飾り形状をしており、木札に「蘇民将来子孫家門」などと記す。伊勢志摩地方でよく見られる形式。[7]
祇園神社(神戸市兵庫区)
六角柱のこけし型。紙の一端をこより状にしたものもある。
脚注[編集]
注釈[編集]
素盞嗚神社境内に末社として疫隈国社も鎮座する。
蘇民将来符は、旧暦・新暦の正月といった特定時期に、氏子・檀家といった特定の者のみに頒布されるものも多く、下記寺社に行けばいつでも誰もが入手できるとは限らない。
8221
:
蒼天の實相
:2019/01/13(日) 05:41:07
〜現代韓国で、行われた、風俗=人尿洗顔を、していると、報告はあります。
こちら、古代の勿吉族(もきつぞく)=女真族の仲間だと、思われます。
===========
3.習俗
3.2.人尿洗顔
?婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
8222
:
トンチンカン信徒
:2019/01/14(月) 19:22:32
〜クレスタマキについて〜
半値=クレスタマキは、漢字表記すると
半値=暮巣太魔樹
→(意味)暮た巣の有る太い魔樹。→別名・閑古鳥の巣の太い魔樹→閑古鳥→魔樹鳥→フクロウ魔鳥魔女の使い→魔女リリスの鈴の音→死の音→死音→志恩ですね。
8223
:
シャンソン
:2019/01/17(木) 22:43:09
トンチンカン信徒さんへ。
▲7▼ 「活動」板 (Res:277)
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1 :トキ ◆UMw6UoGELo :2016/08/05(金) 10:10:41 ID:sZyWOnNM
谷口雅春先生の教えを伝えたい、そのための活動をしたい、という点だけに
論点を絞り、そのトピックだけを書く板です。<
読解力がなく、横やりを入れたり、誤読曲解したり
人を深く傷つけるのが使命みたいなトキ管理人の
活動版や輪読会版などにもなにか書いてあげてください。
新掲示板を作成しても、
口先だけの人間の雑談広場みたいになっていて
気の毒です。
8224
:
転載
:2019/01/17(木) 22:56:33
今やネットというものは、知識がなくても使うことが可能となりました。
その結果まったく勉強をしないまま使ってしまったりとする人も多くなりました。
それによる弊害はかなりのものになります。
まず第一に『話が自分中心』という点が挙げられます。
ただ自分中心だったら良いのですが、何を話してもすべて自分中心に物事を考えるような人はすぐに嫌われます。
ネットという世界はリアルとは違い、相手の顔や性格が文字でしか判断することができません。
よく言われるリアルは『コミュニケーション障害=コミュ障』の人たちはネットに来ると嫌われる存在になることが多いです。
リアルではあまり話さないことが多い!でもネットだと話せる!といった人達です。
相手の顔を見れないわけですから、心情を読み取ることは大変厳しいものですからね。
8225
:
蒼天の實相
:2019/01/25(金) 09:24:32
概要
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。
1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
8226
:
蒼天の實相
:2019/01/25(金) 09:26:41
南朝系日野氏
概要
日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野資教の子。官位は従一位・権大納言。
経歴[編集]
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。しかし、応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。
嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と宝剣の神器を奪い比叡山に籠った。しかし畠山持国らに攻められ、討ち死にした。子・資親は斬罪にされた。
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