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『web「生命の實相」輪読会』 板

1トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:09:09 ID:lgv9ASqI
 このスレッドは、生長の家信徒の人達の『web「生命の實相」輪読会』のために作成したスレッドです。『web「生命の實相」輪読会』についての話題は、このスレッドでお願いします。

(注意点)

 基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。

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では、このスレッドを利用して、生命の実相の勉強をお楽しみ下さい! よろしくお願いします。

175a hope:2016/07/16(土) 08:34:46 ID:9YJfssAE

>>174 a hope所感)

日常生活に追われていると、つい「神想観」を怠りがちになってしまうことがあります。
そんなときは、自分の心が「迷いの心」で満たされているな〜と感じることが多いです。

先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。(自分の存在が無くなったような不思議な感覚)

今まで、坐禅をしても、ヨガの瞑想をしてもそういう気持ちになったことはありませんでした。

生長の家の「神想観」は自分一人が行ずるのではなくて、「生長の家の大神さま」のお導きとお守りがあって行ずるわけですから、
神さまと波長さえ合えば「神さまを感じる」ことができるのだと思いました。

176るん吉:2016/07/17(日) 12:59:44 ID:TWYtDbA.

>>先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。


すんごい体験ですね!
Congratulations on your mysterious experience!(*^▽^*)

177a hope:2016/07/18(月) 08:48:03 ID:xVBwxesw
八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

【第八条 説明文の抜粋】 副題 「神と偕(とも)に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ」

われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。

他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さであります。

また次なる重大なる事件が起こってくるとともに、その明朗さは破壊せられずにはいないのであります。

どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであるとの自覚さえありさえすれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐れるべきは「重大なる事件」そのものではなく、重大なる事件に驚愕し周章(しゅうしょう)狼狽して「神吾と偕(とも)に在り」との自覚を失ってしまうことであります。

この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光(しょこう)が見えはじめます。

しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。


ですから、われわれは何事が起ろうとも事件そのものは恐ろしくない。

どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。

しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲観し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのでありあす。

ヘンリー・フォードは言っています。

「自分はいまだかつて事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共に科学の実験としては成果を収めているのである」と。

まったく常住「楽観病」と評されるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。

この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。

取越し苦労患者は、常住楽観者の反対であります。

常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労患者は成功の中でも失敗を見るのであります。

こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったいない」とか、「幸福が続けば必ず不幸がくるのだ」とか。「悪」を心に描いて恐怖します。

そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施すところをしらないのであります。


およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネルギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労もせずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに必要なる縦横(じゅうおう)な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。


取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦(とりで)は神であるから恐るるところのものはない」と断々乎(だんだんこ)として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつけるがよい。

またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、どんな体験も次なる成功に達する一段階であると喜び勇んで、その現在の地点を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。

178a hope:2016/07/18(月) 08:49:33 ID:vdNCBnG6

>>177 a hope所感)

わたしは「現象は無いんだ、すべて影なんだ」って思うと、反対に「この現象世界で思いきり生きてみよう!」という力が湧いてきます。

なぜなら、この現象が影だったら、必ずその影を映し出す元の光があるわけで、
それは、とてつもなく大きくて明るい一つの光 …… つまり「神」なんですよね。

そして、現象でどんな悲惨なことが起っているように見えても、わたしたちは常に「神の光」の中にいるんですから、そう思うと、わたしはとてつもない安心感と幸福感につつまれます。

179a hope:2016/07/18(月) 08:55:02 ID:xVBwxesw

>>176 るん吉さま ありがとうございます(#^^#)

You will have the same experience as me if you do ' sinsoukan ' every day.

Let's enjoy our spiritual life!


わたしも英文で、がんばってみました💦

180誌友会ファン 一読者です。:2016/07/20(水) 12:21:04 ID:j41BUutM
トキさんへ
ユタカですけど?

181トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 12:29:11 ID:mh4XEL12
>>180

『web「生命の實相」輪読会』へのご参加を心から歓迎申しあげます。
また、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。

今後とも宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

182a hope:2016/07/20(水) 15:15:23 ID:xVBwxesw
>>180 ユタカさま

お久しぶりです\(^o^)/

183a hope:2016/07/20(水) 15:15:57 ID:xVBwxesw
九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

【第九条 説明文】副題 躓く刹那に光明に転向せよ
「生命の實相」第28巻 p34 9行目〜

人生にはいろいろのことが起こってきます。それは無限創造の世界であるからであります。

われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしきと祈っても、事件は自分の欲するとおりに展開しないことがあります。

しかしそれは神が諾(き)き給わないのだろうか。

否々否(いないないな)、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。


あまり裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの苦労なくしていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面においてはまことに不幸な人たちであります。

なぜなら、そういう人たちは、すべての善き物はことごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。

他から与えられた幸福は他(ひと)が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さでないのです。

自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自分自身に力がつくほかに自分の強くなる道はないのです。


かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを引き出してくれる冶金の坩堝(やきんのるつぼ)なのです。

冶金の中に投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金(めっき)か本物かがわかるのです。

われわれは好んで逆境を招(よ)ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれを捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内より奮迅(ふんじん)の力を奮い起こすものはついに大成して逆境を脚下に蹂躪(ふみにじ)ることができるのであります。


されば逆境の来たるごとに※莞爾(かんじ)として感謝せよ。これが「生長の家」の生活であります。

微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易からしめ、失われたる希望を喚(よ)びおこし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。

キリストは「死にし者は死にし者に葬らせよ」と言っています。

すでに来れる逆境を嘆いたとてなんになりましょう。すでに来たり終われるものは「すでに死せる者」なのです。

「すでに死せる者」について歎いてみたとてなんになりましょう。すでに来たり終れるものを嘆き悲しむ暇(いとま)あらば、莞爾として新しい幸福に突進すべきであります。

光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来たるごとに、莞爾として微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難関をも征服して自己自身の力で幸福になる運命を建設することができるのであります。

※莞爾… にっこり。 (頭注より)7

184a hope:2016/07/20(水) 15:19:54 ID:xVBwxesw

>>183 a hope所感)

「生長の家」の伝道とは、もちろん、個人指導をして現実的な悩みを解決してあげることも含まれると思いますが、
それよりも重要なことのは「真理」を自分自身で追究し、悟り、すべての悩みを自分の力で解決できるように
人々を導いていくことなのではないかとと思っています。

いつまでも人の力に頼っていては、その人の魂の生長はないと思うのです。


次の第十条には、どうして隣人救済(個人救済)が重要なのか、どんな風に助けていったらよいかが詳しく説明されています。

素晴らしい内容なので、みなさんも第28巻をお持ちでしたらぜひ拝読してみてください!

186トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 21:00:48 ID:mh4XEL12
>>184

 そうですね、基本的に生長の家というのは、生命の実相を読んで感激した
人達が自発的に集まって、この喜びをみんなに広げよう、という運動を始め
たのです。それが、いつの間にか、変な方向へと曲がりましたが、本当は
一人一人が神の子の自覚を持つことなんですね。

 以前、復興G 様が、一人一人が法灯継承をする、ということを言われまし
たが、そういう発想が大事なのかもしれません。

187a hope:2016/07/23(土) 22:10:50 ID:xVBwxesw
十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

【第十条 説明文の抜粋】 副題 隣人を光明生活に生かせ
生命の實相第28巻 p36 後から6行目〜

人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。

われわれは肉体的には周囲の人とはなんの関係もない孤立した存在のように見えますけれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福にならない限りは、自分一個人も本当には幸福になれないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合はザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に対して『生命の實相』を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転したりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体としては離ればなれのように見えましても、心の世界では一つでありますから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげなければならないのであります。
(つづく)

188a hope:2016/07/23(土) 22:14:46 ID:xVBwxesw

>>187 a hope所感)

ここの部分を拝読すると、なぜ、隣人救済をすることが自分の本当の幸せに繋がるのかががよくわかります。

これは「情けは人のためならず」という日本のことわざの意味とも通じると思います。


※情けは人の為ならず (故事ことわざ辞典より)

【読み】 なさけはひとのためならず
【意味】 情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。人には親切にせよという教え。

http://kotowaza-allguide.com/na/nasakewahitono.html 


それでは、いったいどういう「情け」をかければ本当に隣人が救われて、自分自身も本当の幸せを感じることができるのでしょう・・・。

189a hope:2016/07/24(日) 07:16:41 ID:vdNCBnG6
(>>187 つづき)
p37 8行目〜
ある場合には物質で扶(たす)けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても永遠の救いとはならないことが多いです。

物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであります。

といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありません。「物質」で人を扶けてよい場合は、……

(略)
p38 後から6行目〜
いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消化剤を与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。そんなことをすれば本人自身の自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。

本当に助けることは本人の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、神の子そのままの自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

(略)
p39 8行目〜
「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。

温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。

明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。

かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。

これは外のものに頼るところの依頼心ではありません。われわれの愛が、相手の内に埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。

これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互いに兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他(ひと)を批評するようなのは本当ではありません。

本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。

好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(たすけ)よりも、大きなる助けになるのです。

悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。

悟りとは広く大いなる明るい人物になることです。

悟りとは山に籠って行いを澄ましていることではありません。

市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で相手を包んでしまう人のことです。
(つづく)

190a hope:2016/07/24(日) 07:17:55 ID:vdNCBnG6

>>189 a hope所感)

本当にここの第十条の説明文には、まさに、わたしたち「生長の家」の家族がどういう態度、
どういう心持で隣人扶助をなすべきかが述べられているとても重要な箇所であるとわたしは感じていますが、
みなさんはどう思われますか?

省略した部分にもとても大切なことが書かれているので、本当は全文を謹写したいのですが、
それではすごい長文になってしまうので涙を呑んで割愛しています。

「生長の家」のみなさん、ぜひ、聖典「生命の實相」第28巻のp36「隣人を光明生活に生かせ」を全文を拝読してみてください。

<<「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。
明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。
かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。>>

特にこの部分を拝読している時、わたしは、宇治別格本山で受けた練成会での数々の素晴らしい出会いを思い出していました。


ところで、いつだったか、純子先生がブログで、月1回「子供食堂」をはじめられたと発表されていましたが、
あれは現在も継続されておられるのでしょうか?

子供食堂で無料、もしくは格安の金額で食事を提供するのは、物質的援助に当たると思われますが、
「生長の家」の白鳩会総裁であられる純子先生はすでに物質的援助は終了されて、生長の家のお山のオフィスから市井に下られて、
生活難や病気で苦しんでおられるたくさんの市井の方々を生長の家の「温かい愛」で救済されてくださっておられるのでしょうか?

191a hope:2016/07/28(木) 14:02:17 ID:xVBwxesw
>>189 つづき)

「生命の實相」第28巻 p40 8行目〜

われわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。

宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。

誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。

その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。

皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂鬱な、窮屈な感じを受ける人がありましょう。

またある人の側に坐ると春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)のような感じがして、なんでも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがすることがありましょう。

これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じがする人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じのする人は何ごとをやっても発達する人であります。

192a hope:2016/07/28(木) 14:04:10 ID:vdNCBnG6

>>191 a hope 所感)

<<宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。
誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。>>

「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

193神の子さん:2016/07/28(木) 14:21:32 ID:IN5M8yuw
>>「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

他人のことはどうでもいいでしょう。自分の見ている世界は自分の心で翻訳した世界ですから。
目を瞑っている時だけ実相世界に住んでいて、目を開いている時には違う世界が見えるのであれば、あなたが違う世界に住んでいるというだけのことです。

194a hope:2016/07/28(木) 14:48:36 ID:vdNCBnG6

>>193

そうですね、ここは「生命の實相」を拝読して、自分の所感を述べる輪読会板でした。

それでは、a hopeの>>191の所感を述べますね。

わたしは、現在の「生長の家」教団も本流関係のどこの団体もまことの「生長の家」を信仰されていないと思っています。

理由は、和解されていないからです。

でもだからと言って、今のわたしにはそれを批判するつもりはまったくありません。

これからも、どこの団体にも属さず「生長の家」を信仰して行きたいと思っています。

195神の子さん:2016/07/28(木) 15:13:02 ID:IN5M8yuw
>でもだからと言って、今のわたしにはそれを批判するつもりはまったくありません。

気持ちは分かりますが

>これからも、どこの団体にも属さず「生長の家」を信仰して行きたいと思っています。

となりますとほかの団体に所属している人達から見れば、この人は『私たちの生き方は可笑しいと思っているのだ』と考えるでしょうね。
本流を自認する人たちが教団の中で、自分たちの生き方により、教の理解の正しさを証明したらよかったけれど、五官で環境を見てしまった結果今の状態になったのでしょう。

大調和の神示の実践は難しいものですね、自分がある人にとっては、虚説とは和解してはならないというけれど、虚説を信じている人とどのようにして現実に和解するのでしょうか。

196a hope:2016/07/28(木) 15:57:30 ID:vdNCBnG6
>>195

<<となりますとほかの団体に所属している人達から見れば、この人は『私たちの生き方は可笑しいと思っているのだ』と考えるでしょうね。>>

はい、そう思っています。

<<本流を自認する人たちが教団の中で、自分たちの生き方により、教の理解の正しさを証明したらよかったけれど、五官で環境を見てしまった結果今の状態になったのでしょう。>>

いえ、それは、組織の中にいたらとても難しいことだと思います。


本流を自任する人たちの生き方に原因があるのではなくて、
「生長の家」の総裁・副総裁が「生命の實相」の教えを実践していないということが、
今の生長の家騒動の、一番の原因になっているのだと拝察しています。

197a hope:2016/07/28(木) 16:30:41 ID:vdNCBnG6
「生命の實相」第28巻 p42 7行目〜

生長の家とはわたしの家でもなければ、また「生長の家」という表札を出してある大きな建築物をいうのではないのです。

心の法則に従って宇宙生々の雰囲気を漂わせている皆様自身の家庭が生長の家なのです。

そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、全世界がそういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。

まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝心です。

顧みて自分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、順序を誤ったからどうだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがいがあるからどうだとか、形にあらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いているようなことでは、あなたの事業は生長の家ではなくて伸びるべきものも伸びなくなるのですから、この点大いに御注意ありたいのであります。

198a hope:2016/07/28(木) 16:32:26 ID:xVBwxesw

>>197 a hope所感)

正直にいえば、わたしの現象の家庭は<<心の法則に従って宇宙生々の雰囲気を漂わせている家庭>>とはいいがたい状態です。

だから、わたしはどなたのことも批判はできないのです。

ただ、自分の思っていることを、ここで素直に述べさせていただいています。

そして、一人でも多くの人に聖典「生命の實相」の素晴らしさを再確認していただいて、まことの「生長の家」の信仰を取り戻していただきたいと思っています。

わたし自身も、一日もはやく常に和顔愛語の「生長の人」となれるように「生長の家」を信仰しつづけます。

199a hope:2016/07/30(土) 19:07:39 ID:vdNCBnG6
十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

【第十一条 説明文の抜粋】  副題「まず自分に深切であれ」
「生命の實相」第28巻 p43 

この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出てくるのであります。

自分の好まないところを他人(ひと)に施さず自分の好む所を他人に施す、これは実践道徳上の最も根本となる指導方針であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。

世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず「自分に深切であれ」というのであります。

キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」というような言葉がありますが、この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているのであります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、また本当に隣人を愛することもできないのであります。

それで、われわれの道徳の根本原因になるのは、いかに自分を愛することができるか、という程度にあるのであります。

それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相(すがた)を本当に知って尊敬することであります。

自分の実の相が神の子である、あるいは仏の子であるということを根本的に知ることこそ、自分を本当に愛するということになるのであります。

普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは地位や名誉を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」ことだと思っていますけれども、それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。

この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、はじめて他の人をも愛することができるのであります。

自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。

人間なんてつまらないものだと考えて自分を軽蔑している人は、その同じ人間であるところの他人をも軽蔑する人であります。

200a hope:2016/07/30(土) 19:09:50 ID:xVBwxesw

>>199 a hope所感)

以前「わたしかわいい」を連発してひんしゅくを買っているアイドルがいましたが、
「生長の家」の「自分を愛する」とはそういうことでもありませんね(笑)

ここでいう「自分を愛する」というのは、現象の自分に自己陶酔(ナルシシズム)することではなくて、
「神の子」である自分の実相を自覚することなのですね。

だから、どんなにかわいい子でも、「神の子」らしからぬ行動をしたら、ピシッと叱ってあげ、
「本当のあなたはそんなことはしないはずよ」と教えてあげるのが、本当にその子を愛するということになるのだと思います。

それは、相手が大人であっても同じですよね?

「あなたのしていることは間違ってますよ」と教えることこそ、本当に深切な、本当にその人を愛することなのだと思いました。

201a hope:2016/07/31(日) 19:52:51 ID:vdNCBnG6

みなさん こんばんは。

今日で7月も終わりますが、第8巻が終わらないので第3回「生命の實相」輪読会をこのまま継続させていただきます。

「われらの祈願および修養」は、生長の家の信徒の「神の子」としてとしての心構えや、なすべきことが確認できる素晴らしい内容です。
みなさまのご参加を心からお待ちしています\(^o^)/

202a hope:2016/07/31(日) 19:53:24 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜8月31日まで
テキスト 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   8月1日〜「われらの祈願および修養」p43〜
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

203a hopea:2016/08/04(木) 18:09:38 ID:vdNCBnG6
十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

【第十二条 説明文の抜粋】 副題 「真理を伝えるのは愛の道」
生命の實相第28巻 p53 10行目〜

さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的利益を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の高き導師(どうしであるという名誉心を満足せしめるために弘めるのではない。ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も同じく仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような相(すがた)の現われているのを見た時に気の毒になってたまらない、自分は仏である、あの人も仏であるのに、あんなに仏でないと思って、あんなに貧しい相(すがた)をし、あんなに病める相(すがた)をしている、あんなに悲しい相(すがた)をしている、とどうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人が仏であるという実相を知らせてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。

これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出てくる衝動であって、自分が仏であるということがわかったら相手に対しても仏であるということを知らせずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してもまた神であるということを知らさずにはおられない――これが自他一体の愛――仏の愛であり、神の愛である。

そしてそれを実行するのは菩薩の行であるわけであります。
(つづく)

204a hopea:2016/08/04(木) 18:10:45 ID:vdNCBnG6

>>203 a hope 所感)

ここに、真理を大悟された谷口雅春先生が、人類の苦悩を見て大慈悲心をおこされ、
「生長の家」の火をかざさして人類の前に起たれた時の心境が述べられています。

「気の毒でならない… 実相を知らせてあげなくてはならない… 衝動に駆られる…」と、
心の内側から湧き起こってくる感情(慈悲心)に突き動かされた様子がとてもよく伝わってきます。

まことに「自他一体」を悟ると、自分の利益や名誉などどうでもよくなり、人類救済のために起たずにはいられなくなってしまうようですね。

206a hopea:2016/08/08(月) 12:55:30 ID:xVBwxesw
(>>203つづき)
「生命の實相」第28巻 p54 7行目〜

ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというようにお考えになる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのではない、「仏」を弘めるのである、「神の子」をひろめるのである。

すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。日蓮は辻説法した。

これは何も自分自身のためにするところの運動ではない。

辻で説法するのは下品だとか何だとかいっておれないのは人類を愛するからなのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずにはいられないので、世間から見たら格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。

自分自身が「神の子」であり「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくてはいられない。

ですから今までいろいろ宗教が現れてきておりますが、すべての教祖はその已(や)み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたのであります。
(つづく)

207a hopea:2016/08/08(月) 12:56:54 ID:xVBwxesw

>>206 a hope所感)

本当は「仏」「神の子」を人類に伝えるのが、「生長の家」の人類光明化運動なんですよね…。

ですが、

<<すべての教祖はその已(や)み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたのであります。>>

とありますから、悟り切れていないわたしたち信徒には、その<<已(や)み難き衝動>>が足りないのかもしれませんね。

谷口雅春先生が起こされた「生長の家」も、谷口雅春先生が天界に昇天された今はこのように混乱してしまっています。

つづけて謹写していきます。

208a hopea:2016/08/08(月) 17:03:17 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p55

しかしそれぞれの時代、その環境に応じて、その教えを伝え広める形式は変わってきたのであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、おおむね直接説法によらなければならないから、説法のコトバの力で「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって「仏」をヒビキ伝えるという不思議な、現代応現の用(はたらき)というものが出てきたのであります。

現代のようにこんなに人口が殖え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、今までのような姑息な、単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの建物の中で牧師や坊さんが喋っているというだけでは、なかなか人類全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力というものを以て、また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた大量生産的に救われるということになったのであります。


そんなわけで、この「生長の家」からでる出版物は、活字を組んで列(なら)べてあるだけでありますけれども、その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、解脱して自由自在になった生命のヒビキでありますから、『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよくなったとか、あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、「生長の家」の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのこのではない、そこに文字に「仏」の自在無礙の響きがあり、言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、それを受け取りそれを読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに共鳴して、発現されて、そうしてみなみな自分が仏であるということを自覚することができる。

こうなれば「仏陀(ほとけ)」の大量生産が成就するのであります。

209a hopea:2016/08/08(月) 17:04:24 ID:xVBwxesw
>>208 a hope所感)

そうなんですよ。
たとえ、谷口雅春先生がもうこの現象界にいらっしゃらなくても、わたしたちには「生命の實相」を始めとするたくさんの聖典があるのです。

たくさんの聖典を残して下さった雅春先生に心から感謝します。
ほんとにわたしたちは幸せですね!

210a hopea:2016/08/09(火) 19:10:17 ID:xVBwxesw
十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

【第十三条 説明文の抜粋】副題 「皇室および一家の祖先を礼拝せよ」
「生命の實相」第28巻 p65 後から3行目〜

このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝(ようはい)し」ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈(こうりゅうふちん)はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとくドッシリとして、その中心がどんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。

恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠(まこと)を捧げるのであります。

211a hopea:2016/08/09(火) 19:11:16 ID:xVBwxesw

>>210 a hope所感)

天皇陛下が生前退位に関するお気持ちを表明された映像を拝見しました。

一つ一つのお言葉に気持ちをこめられて、丁寧に文章を読みあげられている天皇陛下を拝見していて、
たいへん不遜ではありますが、わたしの心に肉身のお父さんの言葉を聞いているような不思議な感情が湧き上がってきました。

天皇陛下は、全国民のことを、自分の肉身の子供のようにお感じになっておられるのではないか・・・?

お言葉の中に、「とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」という件がありましたが、
天皇陛下におかれましては、わたしたち全国民が家族であるとお感じになって、
その家族の心からの安寧を思っての今回のお気持ちの表明だったのではないかと感じました。

わたしは、天皇国日本に日本人として生まれたことを誇りに思っています。

そして、天皇陛下、皇后陛下を心から敬愛しています。

212a hope:2016/08/13(土) 11:26:20 ID:xVBwxesw
>>211 訂正

肉身→肉親と置き換えて読んでください。大変失礼しましたm(__)m

213a hope:2016/08/13(土) 11:26:55 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p68 6行目〜

「実相の生命」には来世ということはない、生まれ更(か)わるということはないのでありますが、仮存在としての生命は生まれ更わるのであります。そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。業というのは何であるかというと、「念波」であります。「念波」の集積が業であります。

そこでわれわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体(たい)で、物質の体とは何であるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊(かたまり)である。そのエーテルも本来無いというような最近の説もありますが、結局「何もないもの」無の一種の波であることになっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、肉体として現われている波と、霊魂として現われている波とがあるのです。眼に見える波動(すなわち肉体)だけを存在すると思ってはなりません。眼には見えない、われわれの五官に触れない無数の波動が存在することを知らねばなりません。赤外線でも紫外線でも眼に見えませんが、眼に見える可視的光線よりもかえって強い働きを現わすのであります。

われわれはこの地上の生活においては肉体という眼に見える波動的体を現わして、この物質界という波に触れることによって、この波の世界ならでは体験するできない経験を得て、だんだん修行しつつ、この地上の生活によって「有」の第一段階を終えると、今度は肉体という粗雑な波動の体を脱いで、そうしていっそう精妙な霊体の波だけになるのであります。これがいわゆる日蓮上人のいわれた「魂魄(こんぱく)」であり、霊体の波だけになってそうしていろいろまた霊界において活動するということになるのであります。

われわれの祖先も肉体を滅しても霊体の波はやはり存在しておりますので、その霊体の波たるや、その人の悟りの程度にしたがって千差万別の状態を現わしているのであります。それは現世においてもこの肉体という波動的存在がその人の悟りの程度にしたがっていろいろの波を現わして、健康であったり病気を顕わしたりしているのと同じことであります。

(略)

p70 後から6行目〜
ですから、われわれが自身が霊界に行きましても、この世で生活が下手な人は霊界でも生活が下手である。霊界で病気している霊魂もあれば、悩んでいる霊魂もある。それはちょうど、下手な画家であれば板の上に描いても布カンバスに描いても依然として下手であるというのと同じであります。ですからわれわれ自身がまたは他(ひと)の霊界における生活状態というものを良くしようと思うと、やはりどんなカンバス――現世とか来世とかいうカンバスがどんなに変わっても――どんな画布(カンバス)の上に描いてもいい絵がかけるようにしておかなくちゃならない。

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンバスに何でも絵を描くかというと、念波で絵を描くのであります。念波といる絵具をもって絵を描くのでありますから、その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波なのであります。この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施というものでありまして、最も尊い施しであります。われわれは人に物を施すのは、物施といって物を施すのと、それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、真理(さとり)の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。
(つづく)

214a hope:2016/08/13(土) 11:28:49 ID:vdNCBnG6

>>213 a hope所感)

本当に不思議に感じるのですが、ここで聖典「生命の實相」を学んでいると、その時の状況にピッタリの内容を学ぶように導かれていきます。

わたしは、この輪読会板(web誌友会板)では、ただひたすら第1巻から順番に何の作為もなく聖典「生命の實相」を学ばさせていただいています。

ですが先日、ちょうど天皇陛下が生前退位のお気持ちを表明された映像を拝見した直後に開いたページには、
日本において皇室がどれほど大切なものであるかが述べられていて驚きました。

そしてお盆の入りの今日、謹写した部分には、まさに先祖供養の重要性が書かれています。

本当にわたしは、何かに導かれてここでお勉強をさせていただいているとしか考えられません。

心をこめて、聖典「生命の實相」のお言葉を謹写させていただくことも、とてもよい先祖供養になると思われます。

謹写をつづけさせていただきます。 合掌。

215a hope:2016/08/13(土) 13:02:32 ID:vdNCBnG6
>>213つづき)p71 9行目〜

むろん、われわれは霊界へ行きましても、しばらくの間はこの地上における薫習(くんじゅう)が脱げないのでありまして、地上において御飯を食べておったような霊魂たちは、霊界へ行っても「御飯を食べたいな」というふうな感じがするのであります。

そういう霊魂たちに対して食物をお供えしてあげるということは必要であります。

「食物をお供えしても、お下がりを見ると何も食っておらん。何も食っておらんからあんなことはただ形式的である」とこうお考えになる人もあります。

けれども本当はそうじゃない。

霊魂は何を食べるかというとわれわれがこれをお供え申したいという「念波」を食べるのであります。

それでリンゴならリンゴをわれわれが持って行って「リンゴをお供え致します」と、本当にその念を切実に念ずると、われわれの心にリンゴというものが念によって描かれ、そうして念に描かれたリンゴと、あの人にあげたいというすなわち念送の原動力が結合する。

すなわちリンゴを祖先の霊(みたま)に送ろうという念波の放送により、供える人の念によって造られたリンゴというものが霊魂の世界へ念波の放送に乗って行くということになるのであります。

すると霊界には念によって仮作されたリンゴが出来上がる、そうすると「あれはわたしに供えて下さったのだからいただこう」という気が起こると、すっと自分の口へ入ってしまって、そうして「おいしい、ああ満足した」という気持ちが起こるのであります。

その状態は「無量寿経」に書かれている極楽浄土の状態のようなものであります。

霊界は念波で作られた世界であって、われわれは供養の念を供えて、食べていただくということになるのであります。

むろんもっと向上した霊魂――肉体は無い、何も食べなくてもわれわれは神の生命によって生かされているのであるという自覚を得た霊魂たちは決して何も食べたいとは思わないのでありますけれども、しかし、自分に対する愛念をもって供えて下さったという愛の念(こころ)はやはり喜びとなり、その人を生長させることになるのであります。

霊界は念の世界であって霊魂たちというものは何を食物として生きているかというと、念を食物として生きているのです。

善念は最も生長せしめる滋養物となるし、悪念は霊魂を低下せしむる害物となるわけであります。
(つづく)

216a hope:2016/08/13(土) 13:03:19 ID:vdNCBnG6
>>215つづき)p72 後から1行目〜

ですから、われわれは近親者が旅行でもするという時に、陰膳(かげぜん)というのを据える人がある。

あれもまたはなはだよいことであって、迷信ではないのであります。

その人を目当てに陰膳を据えて、「どうぞおあがり下さい。どうそ健康でいらっしゃいますように……」と念ずると、必ずその念波がその人に通じて、その人が食物に不自由しない、あるいは不自由するようなことがあってもあまり腹が減らないで、念波の食物を吸収しているから腹が減らないで、不思議に元気で働けるということになるのであります。

そういうふうに霊魂の食物というものは、われわれから与えられる善念をもって最も滋養物とするのであります。

ことに、われわれが真理(さとり)の念波を放送して、真理の念波を相手方の霊魂に吸収させてあげるということは霊魂には絶大な供養になる。

それですから、この『甘露の法雨』のようなお経でも、『生命の實相』でも、また真理が書いてあるものならキリスト教の聖書でも、仏教のお経でもよろしいのです。

それを先祖の霊魂に、意味がわかって読んで誦(あ)げるということは大変よろしい。

ただ意味の分からぬ漢文の棒読みを、何が何やら分からないで誦(あ)げているのでは、供養の愛念の放送としてはいくぶん効果があっても、それはサトリの念波ではないから最高の救いにはならないのであります。

最高の救いは、やはり真理のお経を意味が本当に分かって読むに限るのです。

そうしますとそのお経を捧げられる相手方の霊魂は非常に心が富み、心が満腹し、生命が生長するということになるのであります。

ですからわれわれは暇があれば朝晩は必ず「祖先の霊魂の悟りのための供養として……」といって生長の家の聖経『甘露の法雨』を誦(よ)むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を読むということにされることが祖先に対する子孫の務めなのであります。
(つづく)

217a hope:2016/08/13(土) 13:04:22 ID:xVBwxesw
>>216つづき)p74 4行目〜

よく病気の方で、あんたは祖先の障(さわり)りがあるからこれを誦んであげなさいと申しますと、治ったら読まなくてよいかというようなことを考えておられる利己主義者の人もありますけれども、これは自分が病気でなくても、病気が治っても、治らなくともわれわれは祖先というものがあって今ここに生きている機縁を与えられているのでありますから、その祖先に対してわれわれが供養する、お経をよんで真理の念波を供養する、実相のサトリを供養するということは実に大切な子孫の務めであります。

この子孫の務めを行うことそのことが善事であって、その結果自然とわれわれに幸福が恵まれてくるということは、これは副作用とでもいいますか、随伴的な功徳であって、その功徳そのものを目指すのではないのであります。

しかし実際上祖先に対してよく真理を施しておられる人々は、祖先の守護も多く、また自分の善念の具象化として不幸というものがないのであります。

218a hope:2016/08/13(土) 13:05:42 ID:vdNCBnG6
>>215>>217 a hope 所感)

生長の家の信徒の方だったら、当然先祖供養には「甘露の法雨」を読誦されておられると思いますが、
わたしは聖典「生命の實相」をじっくり拝読することもまた、最高の先祖供養になるのではないかと感じています。

祖先は木の根っこ、そして両親は幹、わたしたちは枝であると教わりました。

わたしたちの生命はいつも祖先と繋がっている・・・本当にありがたいですね!

合掌。

219浄円月:2016/08/19(金) 19:57:57 ID:USIpXU9o
私も生命の實相や、真理の吟唱を拝読することも、ご先祖供養に繋がると思います。
この板は、素晴らしいですね。
以前投稿したことがありましたが、久々の投稿です。

220a hope:2016/08/20(土) 11:02:05 ID:xVBwxesw
十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

【第十四条説明文の抜粋】副題 「ものの内在生命の尊さに目覚めよ」

「生命の實相」第28巻p79 後から3行目〜

生長の家でよく「肉体はない」「物質はない」などと申しますと、何もないかのようにお考えになり、何物も無いと思って、「物質なんて粗末にしてもいいんだ、物質は無いのだから」というような人があります。

これは空思想に捉われた断見であります。

何も無いのではないのであって、そこに実相があるのであります。

物質は無い。物質は無い代わりに実相があるのであります。

「物」を見て「物質」だと思うからいけないのです。

神の生命だと見るのであります。

(略)

p81 5行目〜

……物質と見えるものの観方にも、それを単に「物質」と見る観方と、生命の表現として見る観方と二つあります。

生長の家の教育は物質を物質と観ないで生きた生命の表現として観、そこから生命を引き出すという芸術的観方であります。

(略)

p82 2行目〜

すべてのものは物質を見ていると善さが分からない。ジッと実相を見るとそのよさがわかってくるのであります。

芸術家は表現の上に生命の善さを現わし、教育家は生活の上に生命の善さを引き出すのであります。

すべての人々の実相を見るという立場になった時に、すべての人間がすなわち生命である――神の子であるということが感得されるのであります。

そういう立場において、はじめてすべてのものが、なるほど美しいものである、善なるものである、調和したものであると感じられるのであります。

こう感じるように生命を引き出すのが本当の教育であり本当の宗教であり、本当の芸術であります。

生長の家の生き方はすべての事物に対してその奥底にある善さを見出して、それを生かす生活であります。

221a hope:2016/08/20(土) 11:03:18 ID:vdNCBnG6
(a hope 所感)

「物質なし」の教えを「何もない」って解釈すると、虚無感だけが増してたいへんなことになってしまいます。

つまり、わたしたちが物質だと思っているものは「影」に過ぎないけれども、その影を映しだしている実相は確実に実在している、
だから、「物質を物質と見ずにその奥にある実相を見よ」というわけなんですね!

222a hope:2016/08/20(土) 11:12:05 ID:vdNCBnG6
>>219 浄円月さま

輪読会ご参加、そしてあたたかいお言葉をありがとうございます。
とてもマイペースですが、ここでお勉強を続けさせてただくことが生活の励みになっています。

浄円月さま、またいつでもご参加くださいね!

223浄円月:2016/08/20(土) 13:31:46 ID:pWbnGXMw
a hope様

ありがとうございます。また参加させてください。
物は物ではなくて、神の生命の現れなのですね。
生長の家の生き方は、すべての事物に対してその奥底にある神を見出してそれを生かす生活であるとのこと。。家庭も会社もすべてに通じますね。
目の前に自動車がありますが、この車をどう観て使用していくか。。
何に対してでも言えますよね。
午後もすべてに神を観て生活していきます。

224a hope:2016/08/20(土) 21:15:24 ID:xVBwxesw

>> 233 浄円月さま

<<物は物ではなくて、神の生命の現れなのですね。
生長の家の生き方は、すべての事物に対してその奥底にある神を見出してそれを生かす生活であるとのこと。。家庭も会社もすべてに通じますね。
目の前に自動車がありますが、この車をどう観て使用していくか。。
何に対してでも言えますよね。
午後もすべてに神を観て生活していきます。>>

素晴らしいご指導をありがとうございます。合掌。

お恥ずかしいのですが、わたしは「実相」や「神」のことは頭では理解できているんですが、、
なかなか実践できないのが現状なんです(/ω\)

それに、最近はちょっと新しい事をはじめたりして、生活(心境?)に余裕がなくなってきてしまっています。

でも、こんなときこそ、もっともっと聖典を拝読して神想観を実修したいと思います。

浄円月さまの<<午後もすべてに神を観て生活していきます。>>のお言葉で目が冷めました!

またのご参加を心からお待ちしています!

225るん吉:2016/08/21(日) 12:53:26 ID:Bu2jtqiM

ちょっと忙しかったので久々に来させていただきました。(*ノωノ)ohisa
沢山の心にグッとくる文章、有難うございます。
来てよかったー。

>>最近はちょっと新しい事をはじめたりして、生活(心境?)に余裕がなくなってきてしまっています。

そうなんですか?具体的なことは解らないけど、頑張ってくださいね。
人生、色々ありますね。自分も(ここに書きませんが)色々ありまして「しんどいなぁ」って思うことがあるんですけど
それが人生なんですね。
>>午後もすべてに神を観て生活していきます

それ、すごいですねぇ。(*^。^*)物を神の生命だと見るんですね。

えっと、私がいま、しっくり来るのは「、たかが現象ぽっち。(こんなの無いのだから)無いものに、とらわれないよーだ!」
ですね。アハうまく書けないけど。実相には存在しない状況が現象に表れてる時ね。

うまく書けないや。ごめんなさいね、とりとめのない書き方で・・。

毎日、お忙しいのに、本当に有難うございますね。
お身体ご自愛くださりませね。

226a hope:2016/08/21(日) 15:10:12 ID:vdNCBnG6

>>225るん吉さま

ご参加ありがとうございます。

わたしが始めている新しいことって、具体的には書けど、すっごくインターナショナルなことです。
だから、英語ももちろん使ってるし、世界各国のいろんな人とお話する機会があって、
特に、途上国の人たちと話ていると、自分がいかに恵まれた環境で生活をしているかに気づかされます。

「たがが現象ぽっち」ほんとにそうですね!
たかが現象、だから現象は本物ではないから決してとらわれないけど、
でも、自分がこの現象で生かされていることにも大切な意味があるような気がします。

つまり神さまからの課題は、この「現象で何を学んでどう生長しますか?」なんだと思うんです。

もしかしたら、神さまは、生長する能力のある人間には特に大きな試練を与えるのかもしれませんね。
だから、わたしはどんなに現象が悲惨でも、神さまの愛を信じたいです。
そして、この与えられた現象の中で思いっ切り神の子を表現して生きていきたいです。

るん吉さまのご参加にはいつも励まされています。
あー、わたし一人じゃなかったって・・・(#^^#)。

 これからも、ご参加どうぞよろしくお願いいたします!

227a hope:2016/08/25(木) 19:01:08 ID:vdNCBnG6
十五、吾らは今日一日出来る限り強く明るく正しく充分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らん事を期す。

【第十五条 説明文抜粋】副題 『「久遠の今」の生命を発掘せよ』
「生命の實相」p82 後から1行目〜

 この「今日一日をできるかぎり強く明るく正しく」生きるという――生きるというのは「生命を引き出す」ということであります。

「今日一日」ということが大切でありまして、明日からやろうというようなことでは駄目なのであります。

われわれが今、ここに生命を享けて生きているということは、今生きているのであって、この「今」を看過したらわれわれは永久に生命を引き出す機会というものを失ってしまうのであります。

「今生きる、」――「今、生命を引き出す」――この「今」が大切であります。

(略)

本当の教育の仕方、生長の家式の教育の仕方といいますと、この今を生かすということなんです。

228a hope:2016/08/25(木) 19:03:01 ID:vdNCBnG6
>>227 a hope 所感)

第十五条の説明文は、このあと「生命の教育」に関して述べられています。

日本で「教育」というと、親や教師が子供や生徒を指導するというイメージがありますが、本当の教育とは相手の「生命を引き出す」ことなのですね。

でも、相手を「良くしよう、良くしよう」と思っても駄目ですね。
まずは自分の生命を引き出して自分が良くならないことには、相手の生命も引き出せない・・・。

今ふっとそんなことを思いました。

229a hope:2016/08/28(日) 07:35:35 ID:xVBwxesw
十六、吾らは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、常につとめて善に還(かえ)り、愛を行い、真理の書を読み、全人格の雰囲気と心の習慣とを神の如く完全なるものたらしめんことを期す。

【第十六条 説明文抜粋】 副題「善と愛と智慧と光明とを生かせ」
「生命の實相」第25巻 p110 後から3行目〜

これを要するに、人間は本来善であって悪人というものはない。物を破壊するというようなことでも、それが自然に出て来たときにはけっしてそれは悪ではないのであぅて、それが大人の立場、経済的の立場から考えたら、悪に見えるために、「お前こんないたずらをして悪人である」こう言葉で宣言するために悪というものが出現して悪童、悪い子供というものが出来上がるのであって、それまでは「わるい子供」というものはないのである、こう申しましたが、赤ん坊がだんだん生長して、乳児期から少年期に移るというふうな時代になりますと、だんだんものを愛撫するというふうな心持が起ってくるのであります。

ものを愛撫する心持ちが起ってきて、たとえばここに百合の花があるとしますと、その百合の花を見るとそれをなんとなしに摑(つか)んでみたいというような心持が起ってくる。

ところがこの百合の花を摑んでみるということは子供にとっては百合の花を愛撫するということなのです。

しかし大人にとっては美しい花を引っ掴まれてたまるものか、摑んだら毀してしまうというふうなことを考える、「そんなことをしてはいかぬ、お前はまたわるい子である」とこういうふうにともすれば言おうとするのです。

これは子供の内に動いている愛というものを押し消している教育になっているのです。

最初は愛撫するつもりでも、どのくらいに摑んだら毀れるものであるかということがわからないのであって、ただかわいいから摑みたいというふうな気持ちが起ってくる。

摑んでみて毀れたら、その時はじめて、「ああ、この花は毀れてかわいそうだ」という感じが子供にも起こる。

この時「ああ、かわいそうに!百合さん」と言って、お母さんが残った百合の花を毀さないように軽く撫でる格好をする。

するとその程度の愛撫では花は傷つかないことが子供にもわかる。

そこで子供は真似をして、「かわいそうに、百合さん」と言って愛撫の真似をする。

こうすると愛撫の心は押し消されないで、かえって愛撫の心が養われながら、物の大切な扱い方というものが解ってくる。

230a hope:2016/08/28(日) 07:37:21 ID:vdNCBnG6


>>229 a hope所感)

最近、日本では少年や大学生、芸能人にまでおよんでリンチ殺人や強姦致傷等の痛ましい犯罪が横行しているようで、
いったい日本はどうなってしまっているのだろう・・・と不安が募ります。

この、幼児期における「ものを正しく愛撫する心持ち」が犯罪を起こしてしまった青少年たちにきちんと育っていれば、生身の人間を暴行したり、
強姦したりするような気持ちは決しておこらなかったのではないかと感じてしまいます。

また、「友だちが大切」というも一考する機会なのではないかと思います。

日本で「引きこもり」が多いのは、しかるべくして起こっている社会現象なのではないでしょうか?
こころの優しい青少年が社会にでれば、その優しさに付け込んで利用しようとする悪の手があちこちにあります。
ですから、彼らは引きこもることによって自分自身を守っているのかもしれません。


今の日本にこそ、「生長の家」の「生命の教育」が必要なのだと感じてしまいます。

でも、でも、でも、、、「生命の教育」は「生命の尊さ」「和解の重要性」を体得した覚者にしか施せない・・・。

まずは、谷口雅春先生の弟子であるわたしたち「生長の家」の信徒が和解をして、
手本をしめさなければ誰も感化することはできないと感じています。

231tapir:2016/08/28(日) 21:36:01 ID:Cw7YWKn2
>>230

a hope様

初めまして。

先日、知人の年配の女性信徒が、「なぜ15,6才の少年がリンチ殺人など起こすのだろう」
と嘆いていたのですが、以下のa hope様のコメントに、その答えがあるように思いました。
今度、その女性に会ったときに、このような話をしようと思います。
ありがとうございました。

>最近、日本では少年や大学生、芸能人にまでおよんでリンチ殺人や強姦致傷等の痛ましい犯罪が横行しているようで、
いったい日本はどうなってしまっているのだろう・・・と不安が募ります。

この、幼児期における「ものを正しく愛撫する心持ち」が犯罪を起こしてしまった青少年たちにきちんと育っていれば、生身の人間を暴行したり、
強姦したりするような気持ちは決しておこらなかったのではないかと感じてしまいます。

232a hope:2016/08/29(月) 10:56:21 ID:xVBwxesw
 >>229つづき

「生命の實相」第28巻』p112 3行目〜

ところが、「この子は百合の花でもなんでも毀す悪い子供だ、子供というものはどうも乱暴なもので、美しいものでも何でも毀すもので、悪い者だ」こういう言葉を持ってゆくと、そこにせっかく愛撫の気持ちをもって行動した、そのことが悪いことだった、と子供にとっては実に変な矛盾した感じになって、子供の内部生命の愛が芽を吹こうとしているのが迷ってしまうことになるのであります。

だから人間は本来悪人はない、いわんや子供に本来悪人はないと知って、実相を見るようにし子供が花を愛撫するために花を摑んでもこれは愛撫する心でしたのであるから決してわるい心でない、どの程度に摑んだらいいのかわからないために失敗したのだ。

傷ついたら、傷ついたのを機会に本当の愛撫の仕方へ誘導する。

子供の頬っぺたを軽くつつきながら「可愛い坊ちゃんだね、可愛い可愛い」と言葉で言うと、「お母さんは可愛いね」と言って子供もお母さんの頬ぺたをつついて撫でる。

そこで愛というものが本当にどんな気持のものであるかということがわかってくる。

お母さんにそうしてあげると、お母さんがまたうれしそうな顔をする。

こうして、その子供は、自分の喜びは母親の喜びである、あるいは自分の喜びは百合の花の喜びである――百合の花に触れれば百合の花も喜んでいるものであるということがわかってくることになるのであります。

こういうようにして、この自と他と、自分と外界とのすべてが一つの生命に支配され、愛の世界に融け込んでおって、自分の喜びはすべてのものの喜びであるということが幼児の時から自然と感ぜられるように仕向けるということによって子供の愛の本能を本当に大きく生長さしてゆくということができるのであります。

大きな大人になってから「本来自他一体である」なんて言っても、理屈みたいで、かえって素直に這入らないのだけれども、赤ん坊の小さな芽生えの時には、自他一体ということが実によく理屈なしにわかっているのであります。

「ああ、可愛い」と言って自然と花でもなんでも撫でる、そうするとまた、母親から撫で返してもらって「ああ可愛い」という愛撫の善さがわかる。

この乳児の体験が成長してからのすべての愛の基(もとい)となってくるのであります。

そういうふうにして子供を教育して行きますと、自然と内部に宿っている神なるもの、神性、仏性というものが現れてきて、悪とか、冷酷とか、憎悪とかいうようなことを自然考えないなってしまい、この世からすべての悪というものが形を消してしまうのであります。

こうして言葉の力というものが実に偉大な感化を及ぼすものだということがわかってきましたならば、善き言葉の書籍にまとめたものを読ませるということの大切さも、類推されるのであります。

子供が十歳か十二、三歳にもなると聖賢の書物を読ませる、偉人の書物を読ませるということは尊い感化をその子供に及ぼすことになるのであります。

お伽噺の選択を誤ってはなりません。

悲惨なもの、憂鬱なもの、恐怖を感ぜしめるものはいけません。

聖賢の話を読ませると、自分のうちにもやはりこういう偉い人と同じ素質があるものである、自分もこうなれるという心持が内部から勃然と湧き起こってくる。

どんな聖賢の偉人も皆自分と同じものである。

みんな神の子である、自分のもできないことはないのである、という自覚が子供を高め上げて、ついにそれらの子供が聖賢偉人の足跡を辿(たど)るようになるのであります。

この生長の家式の新しい教育法については『生命の實相』第七巻、第十三巻および第十五巻(頭注版では第十三・十四・二十五・二十六・二十九・三十巻)に詳しく書いてありますから、ご併読下さるよう希望します。

久遠佛性篇 「常楽宗教の提唱〈下〉」終わり

234a hope:2016/08/29(月) 11:00:00 ID:xVBwxesw
(a hope所感)

<<「ああ、可愛い」と言って自然と花でもなんでも撫でる、そうするとまた、母親から撫で返してもらって「ああ可愛い」という愛撫の善さがわかる。
この乳児の体験が成長してからのすべての愛の基(もとい)となってくるのであります。>>

「乳児期の母子間の愛着形成(attachment)はその後の発達に大きく影響する」、とかつて大学の心理学で学んだ記憶があります。
まさに、ここではそのことが述べられていますね!

谷口雅春先生は、宗教的天才だっただけではなく、心理学、教育学、芸術、科学・・・ありとあらゆる知識を幅広く学ばれるという努力もされています。

だからこそ、雅春先生のお残しになった聖典はどんな人をも感動させるし、感化する力があるのだと思います。

あ〜本当にありがたいな〜 聖典読めて幸せだな〜、わたしは谷口雅春先生が大好きです!

236a hope:2016/08/29(月) 11:07:15 ID:xVBwxesw

>>231 tapir さま

輪読会ご参加ありがとうございます!

俳優の息子が捕まった女優さんの会見なんかを拝見していますと、同じ母親として胸がつぶれそうになります。
どんな親だって自分の子どもは可愛いですから、「よく育てよう」と努力しているんだと思うんです。

でも、それがうまくいかない・・・ なぜ?

これは、わたしにとっても永遠の課題なんですが、不思議なことに子育てに躓くたびに、聖典に回答があります。

たとえ、子供が成長してしまっていても、犯罪を犯してしまったとしても遅すぎるということはないと思います。

だって「生長の家」の教えのすごい所はそういう人たちをも、「人間神の子」に目覚めさせて救済できるところですものね!

大切なのは「正しい教え」の伝道…ですね・・・やっぱり。

237どっちもどっち:2016/08/30(火) 06:06:37 ID:OyLgcxCA
<だって「生長の家」の教えのすごい所はそういう人たちをも、「人間神の子」に目覚めさせて救済できるところですものね!>


a hope さんから見ると雅宣総裁は救われていないのでしょう。
誰も救ってやることが出来ない教えということを証明しているのではありませんか?

まして教えをよくわかっているという本流派の人達には。辞めろ辞めろの合唱しかできないのですから。

238トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/08/30(火) 09:09:00 ID:/A76/nJM
>>237

 誌友会の内容に不適当な内容だと思います。
誌友会リーダーの指示があった場合、削除または移転をします。

合掌 ありがとうございます

管理人

239tapir:2016/08/30(火) 20:49:37 ID:Cw7YWKn2
>>230

a hope様

素晴らしい輪読会のリーダーをつとめていただき、ありがとうございます。

『生命の實相』の真理の言葉と、a hope様のやさしさあふれるコメントを
読ませていただき、心が清まる思いです。

「継続は力なり」ですね。良い言葉を積み重ねていくことがきっとよい実を
結ぶと思います。

これからも時々参加させていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

240a hope:2016/09/01(木) 13:54:40 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第4回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年9月1日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第28巻 真理體験篇
内容   近眼・色盲等は治るか p117〜
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

241a hope:2016/09/01(木) 13:55:53 ID:vdNCBnG6

みなさま こんにちは。

9月に入りましたので、第4回 web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

242a hope:2016/09/01(木) 14:04:17 ID:vdNCBnG6

この「近眼・色盲等は治るか」という体験篇は、聖典の真理の身体への影響が特によく実感できるところではないかと思います。

実はわたしはもう老眼になってきても全然おかしくない年齢なんですが、
なぜか先日の健診では「近眼」が進行していると言われてしまいました・・・(;´∀`)

でも、わたしは焦りませんよ。
だって、わたしには聖典がありますから・・・\(^o^)/

また、丁度よいタイミングで、この「近眼・色盲等は治るか」の体験篇が勉強できます。
わたしにはこの篇を読み終わる頃には、自身の視力がグーンとupするという確信があります。

でも聖典を肉眼の視力upを目的に読んだのでは効果は期待できません。
「心の生長」あっての「視力up」ですから、まっさらな素直な心で拝読することが大切だと思います。

素晴らしい体験談がたくさん紹介されています。
みなさんもぜひ拝読してみてください、心の扉が開いて目の前が明るくなりますよ!

243a hope:2016/09/05(月) 08:15:49 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第28巻 p120 4行目〜

谷口―― 私は眼の治った人であり、また治した人であるわけであります。

この、五官における障害――目が見えないとか、耳が聞こえないとか、臭いが嗅げないとか、あるいは皮膚の感覚の麻痺、食物の味覚の麻痺とかいう、すべての感覚器官の障害は、要するに自分に与えられたる恵みをありがたく受け取らない人が、肉体を投じ出した姿でありますから、まずありがたく受け取る気持ちが起こりさえすれば、そうした障害は自然と消え去ってしまうのであります。

美しいというものは何か、といいますと、そこに生命が顕われていることであります。

生命が顕われているというのは神の光、神の恵み、神の愛をありがたく受け取らないで、半分くらい受け取って、不平ばかり言っているような心を持っていると、それが目に現われれば目が見えなくなったり、色盲になったりするのであります。

また目の先の現象だけを見て、現象の奥底を流れる神の愛、神の恵みが分からないと、その人は近視眼になるというぐあいになるわけなので、こういう私も以前には近眼であったのでありました。

244a hope:2016/09/05(月) 08:17:30 ID:vdNCBnG6

>>243 a hope所感)

わたしは今、この雅春先生のご文章を謹写しているだけで聖典やパソコンの文字がハッキリ見えはじめましたよ!

大切なのは信じること・・・。

あ〜、今日も聖典謹写できて幸せだな!
今日も家族が健康でいてくれて幸せだな!
今日は仕事がお休みで、掃除やお料理がたくさんできて幸せだな!
午後にはママ友とお茶できて幸せだな!

神さま、ありがとうございます\(^o^)/

245a hope:2016/09/11(日) 05:21:34 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p131 3行目〜

四 色盲たちまち癒(い)ゆ

柳沢―― 僕は色盲でした。

僕は谷口雅春先生に「色盲は、あれは嫌い、こらは気に入らんと撥ねつける心の現われだ」ということを教えていただいて、とても心をうたれました。

僕は子供の時から非常にわがままで少しも母のいうことをきかなかったものですから、いつも母と喧嘩ばかりしていました。

それでみんなから「お代官様」って呼ばれていました。

まるで強情の凝り固まりみたいな人間だったんです。

家では母が「生長の家」に入る前から叔母が入っていて、始終僕や母に「生長の家」の話をきかせてくれていました。

けれど「肉体は無い」なんてだいたい馬鹿にしていると思って叔母の言うことをちっとも聞かないですっぽかしていました。

そしてそのまま月が経って今度は母がとても「生長の家」に熱心になってきました。

それで僕に熱心にすすめるのです。

僕もそれなら行ってみようかという気になって、実は最初はひやかし半分にお山に来たのでした。

そしたら先生が僕のことをきいてこういわれたのです、「要するに目は心の窓であって、あれは気に入る、あれは気にいらんという片よった心の現われで色盲になっているんです。目上の人の言うことをよくきいて、選り好みをしないで、満遍なく受け入れる心になりなさい」と言われたんです。

それを伺って僕は、「ああそうか」ととても心をうたれて帰りました。

それは四月の二十六日だったと思います。

その翌日のことです。

ちょっとしたことから僕は叔母と、妹と三人で大喧嘩をしていました。

その時母は二階にいました。

僕たちは下で喧嘩をしていました。

そしたら、僕たちの怒鳴り声をききつけた母は、二階から降りて来て何とも言わずに僕たち三人の険悪な空気の真只中に坐りこんで、やがてのほどに大声で『甘露の法雨』を読み出したのです。

僕は黙ってそれを聞いているうちに、どうしても仏壇に向かって手をあわせなければならない気持ちになってきました。

それで仏壇の前にいって合掌しました。

そしたら涙が出て涙が出て、どうにも止まらないんです。

「昨日(きのう)先生にあんなにいっていただいたばかりじゃなかったか、それにまた頑固な心を起こして喧嘩してしまったか」と思うと、本当にすまない気がしてくるのでした。

僕は合掌したまま悪かったと謝りました。

それから二階の自分の書斎に上がって行って、窓を開けて外を見ると庭に咲いている夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花がとても美しく見えるんです。

おやっと思って自分の机に帰って、色盲の検査本を開けて見ました。

そしたら一等むずかしいところが出て来たのです。

だけどちゃんと見えるんですね。

緑色に赤色のアの字がちゃんと浮き出して見えるんですね。

それから夢中になって色盲検査の本を一枚一枚めくって見ました。

どれも完全に見えます。

それっきり僕の色盲は治ってしまいました。

その時のありがたい気持、どのくらい嬉しかったか分かりません。


立仙――大変いいお話でございました。

色盲は医学上からはとうてい治らないものとされているのに、実にすばらしい御体験ですね。

世間には色盲で悩んでいる方は大勢おありでしょうに、その方たちにこのお話を知らせてあげることができたらと本当に思いますねえ。

246a hope:2016/09/11(日) 05:23:05 ID:vdNCBnG6

>>245 a hope所感)

ほんとうに、色盲が治ってしまったのですね・・・。

先日マザーテレサがカトリック教会の聖人認定をされましたが、その条件のひとつに自身の死後に二つの奇跡をおこしたこととありました。
マザーテレサに祈ったことでインドの女性が自身の腫瘍を消し、ブラジルの男性が脳腫瘍を回復させたそうです。
http://okutta.blog.jp/archives/6197438.html

わたしたち生長の家の信徒が天界の谷口雅春先生に「病気を治して下さい」と祈るということは在り得ませんね。

「生長の家」の教えからすると、病気が治るというような奇蹟が起こるのは「唯心所現」「現象は心の影」という真理の悟り、つまり自分自身の心の変化によるものですから、
このマザーテレサの例のように他者に依存心を起こしているような信仰は本物ではないと感じてしまいます。

ですがもし、患者がマザーテレサを思うことでマザーテレサの深い信仰心に自身の魂が共鳴し、
心が洗われて奇跡が起きたのだとすれば、それは「唯心所現」の真理の悟りであったのかもしれません。

上に謹写した青年の場合を考えみても、 色盲が治るという奇蹟が起きる前日に谷口雅春先生に直接ご指導を受けられています。

そして谷口雅春先生の深い信仰心と悟りのオーラに彼自身の心が影響を受けたのだと考えられます。


いずれにしても、奇跡が起きるのは「真理」を知ったことにより心に、懺悔、感動、感謝・・・という大きな感情の変化が起こるからなのだと思います。

その「真理」に満たされているのが聖典ですから、聖典を拝読することが奇跡を起こす一番の近道なのだと思います。

247a hope:2016/09/17(土) 07:37:12 ID:xVBwxesw

「生命の実相」第28巻p152 7行目〜

鈴木――じゃ私がよし子に代わりまして話させていただきましょうか。

この子の母親が二度の近眼なんでございまして、この子も幼稚園に通っております時から目が悪く、小学校に入ります時には、もう眼鏡をかけておりました、今度双葉女学校の二年ですから、八年間眼鏡をかけていたことになりますね。

それがまた追々度が進んでまいりまして、昨年は大変不自由になりましてね、春日町の明々堂で四日がかりで検眼していただいて眼鏡を変え、やっと見えるようになっておりました。

そんなふうでございますから、始終陰気な子でございました。

それがね。

このお休みになりまして、私の家へ泊りに来たのでございますが、私が毎晩お山にお伺いいたしますのを、ある夜女中と一緒に迎えにまいりまして「伯母さま、毎晩お通いになるけど、何していらっしゃるの」って聞きましたのでございます。

それで私、いろいろと「生長の家」のことを話してやりました。

そうしましたら、「伯母様の話伺って、自分と肉体というものは全然別であることがはじめてわかって、それを大変感じた」と申しました。

それで私が「あなた肉体無しということが、そんなによく解ったのだったらこれを読んでごごらん」と申して『甘露の法雨』を読ませたのでございます。

半分ほど自分で読んでおりましたが、眠そうにしていますので、よし子を寝さしまして残りは私が読んでやりました。

それで翌日六時半頃でございましたが、目を醒ましましてね。

眼鏡なしで廊下に出まして庭を眺めておりましたが、急に「伯母様、伯母様」って私を呼びますんで、びっくりして何事かと行ってみますと、「伯母様、私、眼鏡をかけてないのにお庭の百合に花がちゃんと見える」って申しますの。

「いくらなんだって昨日までのひどい近眼が、そんなことがあるものか」って申しましてね。

はじめは私たちでさえも信じなかったんですの。

けれども白い百合の花が一輪と、つぼみが二つちゃんと見えるって申しました。

それから部屋に入りまして、掛額の字が見えると言っておりました。

次に柱時計の長針と短針が見えました。

ちょうど七時半でございましたが、その次に時計の小針がみえて……十時頃でございましたね、それは、本当にびっくりいたしました。

よし子もびっくりしておりました。

前夜私の話を聞いた時も別にどこも治りたいなどと思わなかったそうでございます。

それに近眼が治ってしまいまして、その時つくづく、肉体は心の影ということが解ってハッと思ったと申しますから、「それなら あなた ここを読んでごらんなさい」と申しまして、『生命の實相』の一部を示してやりましたら、夢中になって読んでおりました。

そしてしばらくしましたら、とても臭いハナがたくさん出てまいりました。

ところがそれで蓄膿症が綺麗に治ってしまったのでございます。

それからその翌日、ひどい咳をしきりといたします。

痰を吐きます。

どうしたんでしょうと話しておりましたら、間もなく止まりました。

それで気がついてみますと、長年痼疾(こしつ)の左右の扁桃腺がすっかり治っておりました。

滝内――よし子さん、えらいですね。

谷口――そうだ、本当に自分の悟りで治したから偉いのだ……・

248a hope:2016/09/17(土) 07:38:31 ID:vdNCBnG6

>>247 a hope 所感)

よし子さんは、伯母さんの話を聞いて「自分と肉体が別物である」と悟った後に『甘露の法雨』を読んで近眼が治ってしまって、
その後『生命の實相』を拝読して、蓄膿症も、扁桃腺も治ってしまいました。

雅春先生もおっしゃっていますが、よし子さんは「近眼や病気を治すこと」が目的ではなく、
伯母さんの導きはあったにせよ自分の力で真理を悟られた、だから偉いのですね。

249a hope:2016/09/18(日) 05:32:41 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p159 9行目〜


十七 近視や、斜視や、乱視の起るわけ


立花――時間がずいぶん延びましたが、最後に先生に少しお話を願いとうございます。


谷口――今日おいでの方の中に、遠視が治ったという方が大分おありのようでしたが、こうしてみると、遠視はなかなか多いらしいですね。

私がよく近視は、この現象界のことばかり見て実相を見ないチカメだということを申しますと、それでは遠視は何か、とお問いになる方がありますが、老人の遠視というのは、日暮れて道遠しという感じで、先のものを先のものをと焦る心の現われです。

年を取ると、老後のことばかりを考えて、取越し苦労をして「今」を完全に生ききらないことが多いのであります。

「今」を完全に把握して生きることができたら、それはすぐに治ってしまうのであります。

私の申しました「今」というのは、現象の目の先の今のことではないので、この「今」の中にはいっさいのものが含まれている――永遠生きとおしとしての実相の「今」であります。

もう一つは遠視が老衰から起こってくることがありますが、人間が老衰するというのは、永遠生きとおしの今にわれわれは生きていて、永遠の若さを持つものであるということの分からないためであって、老衰して血管が硬化するのは、すなわち心が頑なになる――人のいうことをきき入れないとか、心の融通がきかないとかいうようなことから起こってくる。

人間の目はどっちかというと遠視であることが普通だそうです。

それがわれわれの目に直接機能があるためにうまく調節されて、ちょうどよく見えているのですが、老衰して心が頑なになってしまうと、直接機能も固定してしまって、その働きを失ってします。

それで調節を失った目がもとの遠視に戻ってしまうのです。

また、見たくないものがある場合に起こることもあります。


また、斜視、乱視というものがあります。

これはものを見るのにまともに正しく見ないで、斜めの方からひねくれて見る心の現われであり、乱視もやはりまん丸いものを丸く見ないで楕円形に見るというような心の現われたのでありますから、よく人を見て、その点を指摘してさしあげて、まるいものは円いと、正しく、真正面から見る心に調節してゆかれれば、すぐに治ってしまうのであります。

結局私が今話しましたようなことをよく摑んで、人を見て機に応じて上手に相手にそれを話してあげるようにすれば、近視でも、遠視でも、また斜視でも、乱視でも、完全に治してあげることができるわけですね。


服部――私も人の目を治したという話をたくさん持っておりますが、それも目を治すのが目的で、直接目に向かって呼びかけて治したという経験は一度もないので、ただ私の宅に集まりになる方々の実相を観て、その方たちが本当に実相をお現わしになることができるように、谷口先生のお言葉をお伝えしているだけなのであります。

そしていつも皆様の心に向かって呼びかけていますうちに、この間も一晩に五人も近視が治られた、というようなことがございました。

先生のお話を伺っているうちに、眼鏡がいらなくなってしまったというようなことがこれまででもあまりに頻繁にあったものですから、私は目の治ることは枝葉の、ごくあたりまえのことのように思って、別に何とも思っておりませんでした。

人様にお話するという場合でも、目のことなんか、ちっとも気にかけていなかったようなわけです。

しかし先生の先ほどおっしゃっていました「今」を完全に摑んで生きるということ、その「今」ということは本当に解れば、体の病であろうと目であろうと、また病気であろうと、すべてがよくなってゆくのでございます。


谷口――そうですよ。

ここに来られる方でも目を治したいと言って来られる方はほとんどありませんよ。

それで私の話を聞いたり『生命の實相』を読んだりしていられるうちに心の目が開いて、その結果として自然に現象のこの目もよくなってくるのですね。


立仙――先生、お忙しい時間をお割(さ)き下さいましてありがとうございました。

みなさまありがとうございました。

これで閉会にいたします。

250a hope:2016/09/18(日) 05:34:45 ID:vdNCBnG6

>>249 a hope所感)

【近視、遠視、斜視、乱視の原因まとめ】

・近視――この現象界のことばかり見て実相を見ないからおこる。

・遠視――取越し苦労をして「今」を完全に生ききらないからおこる。

・斜視――斜めの方からひねくれて見る心の顕われ。

・乱視――まん丸いものを丸く見ないで楕円形に見るというような心の現われ。


医学の試験で上の回答をしたら、完全に不合格ですね(笑)。
でも、この真理を悟り、心(実相)の目を開いたことで、本当に目が治ってしまったという実例がたくさんあるわけで、
その事実は、わたしたちが眼科に行って治療を受けたり、眼鏡やコンタクトレンズを毎日つけて生活したりという煩わしい手間を完全になくしてくれます。

信じるも勝手、信じないも勝手、わたしたち日本人には「信仰の自由」が認められていますからね(*^▽^*)

251a hope:2016/09/24(土) 07:56:29 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第28巻 p168 後から1行目〜

三 色盲癒ゆ、前途洋々

僕は東京府立四中の五年生です。

木枯らしの風の吹きすさぶ去年の冬休みのある日、僕は多摩川近くの鵜ノ木の高台にある叔母の家を訪れたのでした。

その時にはちょうど八月の海軍兵学校の体格検査に色盲の故をもって、はねられて、父の後を継いで海軍の人となることにほとんど定めていた僕の前途は、突然、大暗礁にのりあげた船のようで、いったい僕はどの方向に進路をとろうかしら、と考えては前途の暗雲にただ拱手(きょうしゅ)してすっかり悲観していたのでした。

その日の午後のこと、叔母が「この本を読んでごらん」と言って、出してくれたのが、聖典『生命の實相』でした。

ただなんとなく心に惹かれるものを感じて、披(ひら)いてみたのです。

するとその本には従来のわれわれの思想と、あまりにも懸隔(かんかく)のあること――すなわち、「肉体は本来無い。病気も本来無い。」というようなことが書いてあったのです。

ですから病気のうちでも遺伝で不治だとされていた色盲でもって、目的に勇往邁進(ゆうおうまいしん)できず、前途を悲観していた僕としては、どうしても反駁(はんばく)せずにはいられませんでしたし、もちろん信ずる気にはなれなかったのです。

ことにその頃の僕は、わがままいっぱいの少年だったので、今考えてみれば、実に下らない反駁ですが、その時は大真面目で『生命の實相』に書かれてある事々が、本当に荒唐無稽(こうとうむけい)のように考えられて、『生命の實相』を持ち前の強情から投げ出して、放りっぱなししておいたきり、それきりになってしまっていたのでした。

それから四カ月後、機縁が熟したというのでしょうか、母が再び「生長の家」の話を、僕に伝えてくれました。

その時はまだ突っぱっていてちょっと行ってみてきてやれ、というような気持ちで、四月二十八日に母と共に家をでたのです。
本部へついてから、母が谷口先生に色盲について質問させていたただいたのに対して、先生は次のようにお答え下さったのです。

「要するに目というのは、心の窓のようなものであって、それに色盲が表われて色が見えないというのは、君にはすべての色を万遍なく受け容れる心が無いからだ。あれは気に入らん、これも気に入らん、という心が、窓である目に表われて、色盲が形を現わしているのだから、すべての物と和解して、何でも受け入れるような心になりなさい。親には孝行をし、目上の方々の言われることをよく聞き入れ、世の中のあらゆる物に、ありがたいという気持ちをおこすようにしなさい。そうすればなおりますよ」

ということでした。

そこで考えてみると、先生のお言葉とおりの僕であることが、ひしひしと感じられて、先生のおっしゃられたとおりの心になれるよう、聖典をもっと何回も拝読しようと、自分に言い聞かせたのでした。

一日おいて二十九日には、本部の神想観に自分から行くようにまで、突っ張りが和らいだのでした。

しかし何としたことか、翌三十日の午後に、叔母と妹とが有名な映画、「未完成交響曲」と「ながれ」を観に行くと言っているのを聞いて、どこからともなくわがままが飛び出して、三人で大喧嘩をしてしまったのでした。

その時でした。

母が静かに二階から下りてきて、僕たちの険悪な空気の中で、仏壇に向かって聖経『甘露の法雨』を読みだしたのです。

「或る日天の使い生長の家に来たりて歌い給う――」と。

するとどうしたことか、僕はどうしても仏壇に向かい、合掌せずにはおられなくなったのです。

ただ、涙――。

ありがたいような、温かいものが僕の全身を包んでくれたような気でいっぱいでした。

やがて、母の朗読は終わりました。
(つづく)

252a hope:2016/09/24(土) 07:57:37 ID:vdNCBnG6
>>251 つづき)

先刻の喧嘩こそ、僕にとって、また皆にとって、自壊作用だったに違いありません。

すると、僕の唇をついてでたのは、ただありがたいという一語だったのです。

喧嘩の相手だったとてその喧嘩の結果、僕の気持が和らいでくれたとすればなんとありがあたいことではありませんか。

これだったのです。

谷口先生のおっしゃられた「ありがたいと思いなさい」とは。

そして、その時は三時頃だったのでしょうか。

僕は二階の勉強部屋へ行って、何の気なしに色盲検査票を披いてみると今までもやもやして分からなかった字が浮き上がって鮮やかに見え、と同時に庭の夾竹桃(きょうちくとう)の花が、実に美しく見えるようになっていたのです。

ああ僕の色盲は消えたのです。

本来の無に戻ったのです。

これがありがたくなくてどうしましょう。

ただ、ありがたいあるのみです。

僕の前途は輝いてきました。

僕は前途に対して叫ぶのです。

「ああわが進む前途よ。お前はすでにわたしにとって実相の前途なのだ。私はこの輝きに満ち、光明に満ちた前途を、ただ神に我身をお任せして進むのだ。ああ我が前途は洋々たり」と。
(東京、○○、○○町○○ 柳沢○○)

253a hope:2016/09/24(土) 08:17:53 ID:vdNCBnG6

>>251 252 a hope所感)

この体験談は>>245に謹写した体験談と同じものですが、体験者の柳沢さんがあらためてその時の体験した内容を詳しく文章にされたもののようです。

<<喧嘩の相手だったとてその喧嘩の結果、僕の気持が和らいでくれたとすればなんとありがあたいことではありませんか。これだったのです。谷口先生のおっしゃられた「ありがたいと思いなさい」とは。>>

かつての「生長の家」では、未成年の青年ですら「生長の家」の『感謝』が何であるかを自ら悟り、家族と和解をして色盲を治してしまっていたのですね。

今、わたしは柳沢くんを見習わってすべてに感謝しなくては・・・と感じています。

ですが一方では、わたしにも「感情」がありますから、喧嘩の相手にすら感謝するなんてとても難しいことのようにも感てもいます。

でも、「ありがとう(有難う)」とは、『難しいが有る』とも読めますね。

わたし「生長の家」の信徒だもの、がんばろうっと・・・。

254a hope:2016/11/01(火) 07:43:04 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第5回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年11月1日〜11月30日まで
テキスト 「生命の實相」第29巻 女性教育篇
内容   母、妻、娘の聖書 
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

みなさま、おはようございます。
11月になりましたので、第5回 web「生命の實相」輪読会を開会したいと思います。
10月は事情があり輪読会を継続できませんでしたが、今月からまた開会させていただきます。
これからも「生命の實相」の素晴らしさを、一人でも多くの方と共感させていただけたら幸いです。
それでは、いつものように祈りの言葉を掲載させていただきます。

255a hope:2016/11/01(火) 07:44:02 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆

256a hope:2016/11/01(火) 07:45:43 ID:xVBwxesw

はしがき

生命の在るところ必ず道がある。

生命とは道であるからである。

それは一切所(いっさいしょ)に充ち満ちているからコレだといって凝縮して見せうるような形はない。

しかし生命をわれわれが宿しているとき、おのおのの生命の顕現の位置に従って、その道の現われ方は異なる。

亭々(ていてい)たる松の樹の伸び方には松の木にあらわれたる生命の道がある。

聱牙(ごうが)として磐屈(ばんくつ)する梅の古木には梅の古木としての道がある。

あるいは絢爛なる桜の花、あるいは純潔なる百合の花、あるいは触れれば散らんばかりの罌粟(けし)の花、あるいは濃艶情趣(のうえんじょうしゅ)を滴(したた)らす牡丹の花、皆それぞれに道がある。

道は形なく一つなれども、その顕れは無限である。

男性には男性の道があり、女性には女性の道がある。

ひっくるめて人の道を守ればそのままで人生は幸福だということはできないのである。

人のみちも一つにして同時に多く岐(わか)れているからである。

わたしは既刊の『生命の實相』において、男性にも女性にも子供にも大人にも老人にも当て嵌(は)まる総括的な人の道を説いてきた。

男性にも女性にも子供にも読まれるべき人生光明化の一般的教えにおいては特に女性のみに関する特殊の道を説くことができなかった。

それを補うために出たのが本書二十九巻である。……

(略)

……男性の専制に対して立ち上がっても、女性は真に幸福にはならないのである。

われらの使命は女性がより多く女性であるがゆえに、男性が専制になろうとしても専制になりえないような大調和の世界の創造にある。

昭和四十年五月十日  

著者しるす

257a hope:2016/11/02(水) 07:36:50 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第29巻 p4 8行目〜

男性にとっての第一の幸福は、自分が女性の心を純粋に摑んでいるという自覚です。

妻である女性が、経済的な功利的観念から、生活手段として自分に愛情を示しているかもしれぬという疑いのあるほど、男性にとって不安な不愉快な家庭生活なないのであります。

家庭生活の長い期間には、時たま、夫婦喧嘩をした時などには、「もしわたしの経済生活が独立しているならば、こんな良人に世話にならないで、家を飛び出してしまうのに」とお考えになる奥様もおありでしょう。

飛び出したくなっているのに、経済生活が独立していないために、やむをえずに良人に隷属(れいぞく)している奥様をもっている良人ほど不幸な者はありません。

258a hope:2016/11/02(水) 07:43:20 ID:xVBwxesw

>>257 a hope所感)

最近は「離婚」はあたりまえになってしまいましたが、昔は世間体などの問題も関係して、愛情が冷めても仮面の夫婦を演じている方は多かったのでしょうね。
ですが現代でもまだ、こういう打算的な考えで結婚生活をされている女性は意外に多いのかもしれません。

以前のわたしはたった一度の人生だから困難はできるだけさけて楽に生きたいと思っていました。
ですが、「生命の実相」を知った今は、”すべての環境は自分の心の影”であることがわかりましたから、
自分が変わることで環境を変えられると信じられるようになりました。

「生命の實相」拝読し続けます!

259神の子さん:2016/11/03(木) 12:20:04 ID:CxVXlSJM

>>256 
>>257  a hope 様


『生命の實相』輪読会、再開していただき、ありがとうございます。

真理の言葉は、何度も読むことで、新しく生まれ変わらせていただくことができます。


>>われらの使命は女性がより多く女性であるがゆえに、男性が専制になろうとしても専制になりえないような大調和の世界の創造にある。<<


以前は「男性に伍する」とか、感じ方や意見を男性に合わせる女性の活躍がもてはやされた時代だったと思います。


最近は、男性に優るとも劣らない才能を持ちながら、女性的な感性を持ち合わせている女性の活躍が目立つようになりました。

ファッションも女性的で美しくなり、より自然のままになっていることは、とてもよい事だと思います。

「より多く女性的である」ことを、この機会に、考えていきたいと思います。



>>男性にとっての第一の幸福は、自分が女性の心を純粋に摑んでいるという自覚です。<<

何よりも夫婦の間で、このことを知っていることは、真の幸福をもたらすのにとても重要ですね。

これが実行できた時、夫婦の間の問題は、根本から解決できますね。


素晴らしい御文章を書写していただき、ありがとうございます。

260トキ:2016/11/03(木) 12:36:08 ID:I6WXgJAI
>>259

素晴らしいご投稿、ありがとうございます。

厚かましいのですが、ハンドルネームをご利用いただけると助かります。
宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

261tapir:2016/11/03(木) 14:25:54 ID:CxVXlSJM

トキ様、a hope様


>>259でハンドルネームを入れ忘れたのはtapirです。失礼いたしました(^^;)。

他の板では自動でハンドルネームが入っていたので油断しました。

ご迷惑をおかけしてすみませんでした。以後、気を付けます。

262a hope:2016/11/03(木) 20:53:02 ID:xVBwxesw

Tapirさま

輪読会ご参加ありがとうございます。
実はこの1か月、いろんなことがありまして、わたし自身の夫婦関係についてもちょっと悩んだりしていたのです。

ですから、今回の輪読会のテキストが「女性教育篇」であることも、神さまのお導きのような気がしています。

---------------------------------------------------------
>>259
>>われらの使命は女性がより多く女性であるがゆえに、男性が専制になろうとしても専制になりえないような大調和の世界の創造にある。<<

以前は「男性に伍する」とか、感じ方や意見を男性に合わせる女性の活躍がもてはやされた時代だったと思います。
最近は、男性に優るとも劣らない才能を持ちながら、女性的な感性を持ち合わせている女性の活躍が目立つようになりました。
ファッションも女性的で美しくなり、より自然のままになっていることは、とてもよい事だと思います。
「より多く女性的である」ことを、この機会に、考えていきたいと思います。

-----------------------------------------------------------------------

ほんとですね!

最近は、女性が女性らしくありながらも男性とおなじように社会で認められるようになってきているような気がします。

“自然のままに生きる” ということが大切なのかもしれません……。


とてもマイペースになってしまますが、これからも輪読会を続けさせていただきます。
よろしかったらTapirさまも、お気に入りの聖典の箇所などご紹介くださるとうれしいです。

そしてもちろん、a hopeはこちらをご覧のみなさまのご参加も心よりお待ちしていますよ!

263tapir:2016/11/04(金) 09:11:36 ID:CxVXlSJM

>>262 :a hope様


お気に入りの聖典の箇所をというお言葉に甘えて、ご紹介させていただきます。

私は『生命の實相』29巻8頁〜9頁の以下の御文章が好きです。


『女性が男性に凭(よ)りかかる心を捨てたとき、女性的ななよなよしい魅力がなくなるとあなたはお考えになるかもしれません。しかし凭(よ)りかかる中風患者や猫背の美は本当の美ではないのです。それは病的な美であって、本当の女性美ではありません。女性は一人で街路を闊歩(かっぽ)しても、女性そのものの美を失うわけではありません。「美」そのものの本質は永遠的の存在ではありますが、時代の推移に従って顕われとしての女性美も進歩するのです。元禄娘のなよなよとした姿態の美よりも、近代の男性は、もっと知的な美を愛します。教養が明眸(めいぼう)に輝いているような美を愛するのです。内から生気が輝いているような女性美を愛するのです。どんなに目鼻立ちがすぐれていても無知な表情の女性はしだいに男性を魅する力はなくなりつつあります。』


特に「女性は一人で街路を闊歩しても、女性そのものの美を失うわけではありません。」の個所が好きでした。

『アナと雪の女王』など、勇気ある女性が活躍するアニメがたくさんありますね。
オリンピックの、レスリングや柔道でも活躍する女性たちをとてもたのもしく思います。
強いけれども、試合の後に見せる笑顔は若い女性らしくて、とても愛らしく思えます。


「近代の男性は、もっと知的な美を愛します。教養が明眸(めいぼう)に輝いているような美を愛するのです。内から生気が輝いているような女性美を愛するのです。」

ここも素敵ですね!


本当に自信のある男性は、女性が教養を身につけることや知的に進歩することを、心から応援してくれます。

そういう男性と女性の支え合いによって、日本がますますよくなっていくとよいなと思います。

264tapir:2016/11/05(土) 13:02:27 ID:CxVXlSJM

>>262  a hope 様


コメントの順番が前後しますが、私のコメントに共鳴していただきありがとうございました。

>>“自然のままに生きる” ということが大切なのかもしれません……。<<

“自然のままに生きる”ことがそのまま神さまの御心にかなっていたら素晴らしいです。
 特に家庭の中は“自然のままに生きる”安らぎの場でありたいですね。


ちょっと話がさかのぼりますが以下の言葉について、谷口雅春先生が書いていらっしゃることに関連して、感動した話をいたします。


>>男性にとっての第一の幸福は、自分が女性の心を純粋に摑んでいるという自覚です。<<


生長の家の行事で、奥様が心の底から旦那様を愛していることを表現することについて、奥様が心をこめて「うちのお父さんは世界一」とか「うちの旦那様は世界一の旦那様」とか「世界で一番あなたが大好き!」と言うとよいですよ、という話を聞きました。

「世界一!」って素晴らしいですよね。

70億人の人類の中からたった一人、縁があって結ばれた伴侶なのですから、「世界一」と遠慮なくいってよいのだと思いました。


言われた旦那様は照れて黙ってしまうこともあるようですが、気難しい方が一日でやさしい旦那様に変わる話もたくさんありますね。

もちろん旦那様が先に御教えを知ったら。「君はいつもきれいだね。美人の妻を持ってうれしいよ!」とか「料理上手だね!」とか「良くできた妻だ!」とかほめれば、奥様がとてもやさしくなられるという話もあります。


生長の家で、「効き目抜群」の言葉を教えられて幸せです(^^)

265神の子さん:2016/11/06(日) 01:02:38 ID:WEtcG5fg
a hopeさま

266るん吉:2016/11/06(日) 01:09:59 ID:WEtcG5fg
上、送信してしまいました。

a hopeさま

おかえりなさい。良かった。体の具合・・悪いのかなって・・違う違う,えんぎでもない。って

とにかくよかった。お身体やお心しんどくない?大丈夫でしょうか?無理しないでね。しんどい時は。

それにしても>>インターナショナルな活動、英語も勿論使います。 か・・イイナ!(*^-^*)

私は・・私は・It is not going so well these days.とほっ。でも頑張りますね!

267a hope:2016/11/11(金) 19:38:26 ID:vdNCBnG6

>>263 >>264 tapir さま

お気に入りのご文章の紹介と、素晴らしいご文章をありがとうございます。
返信が遅くなり大変失礼しました。

夫婦の調和がすべての基本なんだということを、今実感しています。
特に、夫婦の中が険悪だと子供にすぐに影響してしまいますね(;´∀`)

<<「君はいつもきれいだね。美人の妻を持ってうれしいよ!」とか「料理上手だね!」とか「良くできた妻だ!」とかほめれば、奥様がとてもやさしくなられるという話もあります。>>

こんな言葉を主人にかけられたら、わたしの人生バラ色に変わるんですが・・・(笑)、主人に心からそう言ってもらえるように自分磨きを続けたいです。

268a hope:2016/11/11(金) 19:40:48 ID:vdNCBnG6

>>266るん吉さま

お久しぶりです。
ご心配をおかけしましたm(__)m
わたしは元気なのですが、家族に色々変化がありまして忙しくしてました。

英語の勉強は続けていらっしゃいますか?
英会話力は語学力も勿論ですが、コミュニケーション能力が低いとなかなか上達しません。
わたしはコミュニケーション能力の高い人はみな、他者に対する好奇心がとても強いと感じています。

「生長の家」の「人間神の子」の教えはこのコミュニケーション能力も高めてくれる素晴らしい教えだと思います。

これからも一緒に学んでいきましょうね!

269トキ:2016/11/11(金) 20:06:35 ID:NZvgqq5Q
 皆様、輪読会ご参加ありがとうございます。

 ネットの良いところは、好きなときに投稿できる点ですね。
お仕事やご家庭など、いろいろと変化がありますが、無理をせず、マイペース
で続けて参りましょう。

 宜しくお願いします。

270a hope:2016/11/18(金) 05:25:00 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」 第29巻 p40 後から6行目〜

谷口――わたしが「物質は無い」というのは、「物質」と見えていても、物質そのものはそこにないので、そこに神の恵みの投影したものがあるというのです。

大根一本抜くのでも「拝んで抜け」と言われた金光教祖の心持ちがそれです。

大根一本を物質であると見れば「拝んで抜く」必要はありません。

拝んで抜く気になるのは、その大根一本を物質は見ないで「神徳」のあらわれとして見るからです。

石炭も神徳の現われであり、机も神徳の現われであるというのに、その石炭を生かすように智慧と愛とで燃やさないで、石炭を殺し、机を殺し、人間の能率を殺すように燃やしている――わたしはそれを見ただけでも、失礼でございますが、あなたのお店の営業成績がこの半期に落ちると判断しました。

それではまったく生長の家の経営法とちがいます。

出せば出すほど殖えるというのは、生かすように、智慧と愛とを出した時に限ります。

271a hope:2016/11/18(金) 05:26:03 ID:vdNCBnG6

>>270 a hope所感)

第四章は「無限供給の経済の立て方」というタイトルがついていて伊田氏という経営者が、
生長の家の「出せば出すほど殖えるという“無限供給”」の教えに従って経営をしてきたが、
実際にはうまくいかない、と雅春先生に反論されています。

それに雅春先生が伊田氏の心持ちの問題点を指摘して、厳しくもとても親切にお答え下さっています。

この章は経営者の方には必読の章だと思いますが、わたしはこの章が第29巻の女性教育篇に収録されているのか最初はよくわかりませんでした。

ですが最後まで拝読してその訳がわかりました。

272a hope:2016/11/18(金) 05:27:34 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第29巻 p45 3行目〜

谷口――(略)―――「空」に執えられ、「物質無」に捉えられ、「無限供給」に執えられ、「空執」によって「神の細心の智慧」をことさらに男子の豪快事とし、無駄をはぶくことをもってケチと称し、泥川へ金銭を捨てるようなやり方を生長の家の経営法だと誤認しているやり方を見ていると、危なかしくて見ていられないのです。

干渉がましところがあったらごめんなさい。

生長の家の「空」の真理は、執えたと思うとき逃げてゆくのですから、ひとかどあなたほどの人でも「空」にとらえられて、事業に処する自由自在の智慧を失ってしまうのです。

伊田――なるほど、これから気をつけましょう。


谷口――これはお店の経済だけではありません。

一家の経済の立て方でも同じことなんですよ。月給取りなどの家庭で「出せば出すほど殖える」と言って生長の家の経済の立て方を生半可に理解して浪費している細君に、「それじゃから生長の家は困る」といって争われる良人が往々にありますが、それはみんなこういう奥さんの「空執」から来るのですよ。

273a hope:2016/11/18(金) 05:29:04 ID:vdNCBnG6

>>272 a hope所感)

この章には、生長の家の「無限供給」の教えを生半可に理解して実行してしまうことへの警鐘があると思います。

それは事業経営を悪化させるだけではなく、家庭の経済をも悪化させてしまうのですね。

「天地一切のものへの感謝の気持ち」これが自然に出て来たとき、初めて生長の家の「無限供給」が実現するのだと思いました。

274a hope:2016/11/20(日) 05:23:59 ID:vdNCBnG6
「生命の實相」第29巻 

p47 9行目〜
不幸な女性を奥様に持った良人ほど気の毒な良人はありません。男性が本当に幸福であるためには、女性が本当に幸福でなければなりません。

   (略)

p47 後から3行目〜
幸福な心の人のそばにいれば、その人はなんとなく幸福な感じがするのです。それは精神波動の感応です。妻のそばにおってもなんとなく幸福な感じがしないのは、家が本当に幸福でないからです。妻たる女性が心に奏でる音楽が幸福なメロディーを韻(ひび)かせることがぜひ必要です。

   (略)

p48 後から6行目〜
多くの男性は女性が幸福の表情をしたら自分の生命でも投げ出すのです。家庭に良人を引き付けておこうとするには、奥様自身が幸福になり、奥様自身が幸福の表情をしなければなりません。


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