[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
実相哲学を論じる部屋
71
:
トキ
:2014/01/13(月) 18:46:47 ID:5JgYOXqc
身分いやしき者様が突然退場されたのですが、書きかけの文章のみ投稿をさせて
いただきます。
つまり、宗教法人の場合、社会的な存在はきわめて大きいのに
その統制手段は限られたものしか存在しないのです。仮に教団が
ある日突然方針を変えたりしても、それを法的に阻止する方法は
存在しないのです。また刑事事件に抵触はしないが、社会通念上
問題のある行為をしても、それを阻止する手段はありません。
すると、信徒など利害関係者に残されているのは、あとは
ネットなどで教団指導部へ抗議をするぐらいしか手段は残されて
いないわけです。
最高裁が、宗教法人に関する限り、かなり批判に寛大な姿勢を
とるのは、こういう背景があるからだと思われます。
(つづく)
72
:
トキ
:2014/01/13(月) 19:22:36 ID:5JgYOXqc
つまり法律の不備という問題があり、それをカバーする手段として
広範な教団や教団指導部への批判の認容という関係があるみたいです。
そこで、2つの事が言えると思います。
教団批判が正当化されるのは、教団が社会通念上、当然とされる組織
運営もしていない場合です。逆に言えば、宗教法人が民主的な手続を規約
で定め、情報を公開し、少数意見も尊重する姿勢を見せたら、外部での
批判は、法的にも道義的にも正当化するのは難しくなります。
ここで、生長の家について言えば、過去の生長の家は政治的な立場は
「右」でしたが、組織運営はかなり民主的なものでした。例えば、第1
回の青年会全国大会では、参加者の間で大激論が交わされたと、参加し
た人から直接聞いています。代表者会議も昔は三日間開催され、運動
方針について教区の代表者が発言をする機会を与えられていました。
しかし、今日の生長の家では、少数意見は無視され、組織に批判的な
意見を出すと、有形無形の不利益を受けます。これに疑問を感じる人は
光明掲示板に投稿をしてみたらいいです。おそらく、山ほど実例をあげ
てくれると思います。
こういう状況では、ネット上で教団批判をすることは、有る意味
正当化されると思います。教団側が行うべき事は、ネット上の言動を
批判するだけではなく、組織運営をより民主化し、広く信徒の正当な
権利を保障する事だと思います。
もう一つ、言える事は、ネット上での教団批判が正当化されるのは
法律の不備を補うという公益的な利益があるからです。ですから、
教団指導部の決定が独善的であるとか、不都合な面を指摘するのは
重要です。が、それを超えて、例えば、執行部や指導部にいる個人の
人格の否定までするのは、明らかに行き過ぎだと思います。
(つづく)
73
:
トキ
:2014/01/13(月) 19:27:47 ID:5JgYOXqc
確かに、現在の指導部の言動には私個人も批判的に感じる
部分はあります。しかし、そういう人達にもご家族があり、
プライバシーもあります。それを細大漏らさず暴露したり
根拠もなしに批判をするのも、こういう経過に照らすと
不適切だと感じます。
この点は、本流復活派の方々に特に目立つ投稿がある
ので、失礼とは感じますが、申しあげます。
以上は自省も含めて書きました。
74
:
”あんふらまんす”に触れるもの
:2014/01/13(月) 20:21:35 ID:5M8CrOnI
「万法すすみて…」
信仰観を確認できありがとうございました。
私の経験では、仕事や他への想いに没頭し、”思わずして”自我が失われた時、
自我一体(他がまるで私の中にいる)、万象が連関して全くの無駄がない、という気づきを得ることがありますが、
その時、現象の私は確かに何か行動はしているように見えるのですが、実際には”私”は「何もしていない」のです。
生長の家では、「我がなすにあらず…」という言葉がありますね。
その時、(何かを”為す”ためではない)「祈りは最大の行動」になり、
ただ、「何もしないことに全力を尽くす」といはそういう意味で、書いたのです。
(…少なくても、トキ様が危惧するような、宗教指導者の言うことや書いてあることを考えなしに信じるということとは、真逆の心境ではないでしょうか?…)
雅春先生は、
生長の家は簡単なのですよ、
「人間神の子、ありがとう」
この10文字に集約される。
と仰いましたが、
私の信仰はひたすら単純なもので、
それが生長の家で学んだことであり、
そのことへの畏敬と感謝の念のみといえるかもしれません。
また、「実相有相」論、「実相無相」論においては、根を同じくする宗教姿勢への違和感が払拭できました。
お互いが事前に共感し合っていたり、出来合い浅いの理解の範囲などはともかく、
深い真理を学ぶには、個人の心と実際対面し、響き合いの中でしか学べないと考えておりますので、
これで失礼しますが、
学びをありがとうございました。
75
:
志恩
:2014/01/14(火) 05:45:28 ID:.QY5jUA6
60 :身分いやしきもの:2014/01/13(月) 11:07:33 ID:iei0MD3c
身分いやしきもの様
コメントをありがとうございます。
お返事を差し上げてないうちに、さよなら されましたけれど、もしかしたら、
ご覧になられておられるかもしれませんので、遅れましたけれど、お返事させて頂きます。
身分いやしきもの様ー
>>道元の悟りの神髄は「透脱」であるという人がいます。
「透脱」とは「なにも考えない」ということだそうです。なにも考えないとはどういうことか、おわかりでしょうか。
たとえば物理学の問題を解いているとします。このときになにも考えずにいられるかということなのです。
なにも考えずに、物理学の問題が解けるかということなのですよ。
かつてのわたしは、なにも考えずに問題を解くことができていました。
なにも考えずにいると、問題の解き方が自然と思い浮かんでくるのですよ。
しかし、問題を説いていながらなにも考えずにいるというのは、おもうほどに簡単なことではありません。
それができるためのポジションに自分をおく必要がわたしにはありました。<<
志恩ー
私は、仏教のことは、とんと不勉強で わからないことだらけなんです。
清超先生著「「正法眼蔵」を読む」も未読な 未熟者でして、購読しようかと思いまして、アマゾンコムを
見ましたら、上巻だけでもお高いので、躊躇して まだ買っておりません。
身分いやしきもの様が 横浜に住んでおられるのなら、借りに行きたいところです…….。
道元禅師は、曹洞宗(そうどうしゅう、じゃなくて、そうとうしゅう と、読む)の祖。
永平寺(福井県)、総持寺(横浜市鶴見区)、それから青森県山内の「いたこ」も
曹洞宗の管轄だそうですね。
専ら「座禅」をさせるそうですよ。ちょっと、初心者様のイメージと、ちゃうなぁ。
初心者様は、「座禅」というより、「ドリーミング」というイメージですからね。
あっ、訂正。最近のHNは、初心者様じゃなくて、身分いやしきもの様でした。
8文字なので、キーボード打つとき、いちいち長いんだよね、この名。
(もう一人の、アンパン フランスパンの人よりは、まだ まし だったけれど。
こんど、つぶあん、か、こしあん にしてもらえるとうれしいです、 名を打つ時、短いから)
身分いやしきもの様ー
>>「あるポジションに自分をおく」とはどういうことでしょう。
万法すすみてくるところに自分をおいて、あとはなにもせずにそのまま万法にまかせておけばすべてがととのうということです。
しかしこれをやりすぎたために、わたしはときおり、自分でものぞまぬ無我の境地へとおちいることになります。<<
志恩ー自分で答えられる能力がないもんで、web 丸写しですみません。
♣【自己をはこびて万法を修証するを迷ひとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。】(現成公案)
まず、「現成公案」とは何かと言うと、
「現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等である」という意味です。
やはり、華厳的な意味合いを含んでますね。そして、自分から悟るのではなく、
修行をするうちに法界から自分に働きかけてきて悟るのだ、と言ってます。
このあたりは、一見親鸞の他力論に似ていますが、仏性の解釈が 人間には仏性がもともとあるんだ、という認識を
道元禅師は持っていないので、このような言葉になるのだと思います。
♠【佛道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。】(現成公案)
同じ現成公案からの言葉からですが、ここに有名な「身心脱落」という言葉が出てきます。
仏道をならうという事は、結局自分というものをお捨てなさい、と言ってます。
私のようについ最近まで自己中心主義にどっぷりつかっていた者は、非常に難しいのですが、最近やっと少しずつ利他というものが出来るようになってきました。
76
:
志恩
:2014/01/14(火) 05:54:20 ID:.QY5jUA6
身分いやしきもの様
74番のお方が、「なにもしないとは」について、goodなお答えを出されていました。
74番様ー
>>「万法すすみて…」
信仰観を確認できありがとうございました。
私の経験では、仕事や他への想いに没頭し、”思わずして”自我が失われた時、
自我一体(他がまるで私の中にいる)、万象が連関して全くの無駄がない、という気づきを得ることがありますが、
その時、現象の私は確かに何か行動はしているように見えるのですが、実際には”私”は「何もしていない」のです。
生長の家では、「我がなすにあらず…」という言葉がありますね。
その時、(何かを”為す”ためではない)「祈りは最大の行動」になり、
ただ、「何もしないことに全力を尽くす」といはそういう意味で、書いたのです。<<
77
:
志恩
:2014/01/14(火) 06:17:20 ID:.QY5jUA6
身分いやしきもの様
もう1つ、お答えしていないのがありました。
>>64
:身分いやしきもの:2014/01/13(月) 13:25:
志恩ー「奥底の一念が、お国のため、社会のため、人のためで働いているか、
はたまた、自分中心で、働いているか、
この一念の差で、前進か 後退かが 決まる」と思います。
身分いやしきもの様ー
>>万法が、「お国のため、社会のため、人のため、はたまた自分中心」に働いていると考えておられるのですね。
国も社会も人も自分も箱のなかの幻想ではないのですか。万法がこのような幻想のためにすすみでてくると本気で考えておられるのですか。
実相有相論に立つ人は、「なにかのため」ということをしきりにいうようになりますね。
実相有相論に立つ人は、有相のなかに究極の価値をみいだしてしまうのです。
「私」が立てた究極の価値を実現することこそが使命である思い込むようになるのです。
そしてついには「日本国実相顕現」などという考えにとりつかれてしまうのです。
「私」が立てた究極の価値を実現することこそがわが使命である、というがごとき考え方をすることじたいが
危険なこととはおもわれないのですか。実相無相論は究極の価値を立てるようなことはいたしません。
究極の価値を立てるのは、実相有相論に立つ人々なのです。
実相無相が心におさまっている人々からは、「究極の価値実現」というような危険な考え方がでてくるはずがないのですがね。
実相を無相と考える人々は、「国のため、社会のため、人のため」というような実現すべき価値をまえもって
立てるようなことはいたさないのです。万法がすすみでてくるままに 実現すべきことを実現していくだけです。
それが結果的に国や社会のためになるのであれば、それを否定する理由はありません。>>
志恩ー
(「万法」= 仏法用語。①あらゆる事物、全ての存在。②全ての教え )
万法が、自分から でてくる。とは、言っていません。
「出せ!!」って、おのれにも、あんたにも言ってるんです。
「日本国実相顕現」も、ひっこめるんじゃねぇ。出せ!!
末端信徒の七十路婆の一念、果たして、通じるであろうか?????
78
:
志恩
:2014/01/14(火) 06:26:12 ID:.QY5jUA6
一念だと、ダメでしたかしら………我の力みがありますからね、
一念は、智慧の樹の実…。それでは、諸仏様の大威神力におまかせしましょう。
79
:
トキ
:2014/01/14(火) 14:08:44 ID:kWabKlGw
身分いやしきもの様
掲示板から去られるとの事で寂しく感じております。
実相の無相と有相については異なる意見ですが、いろいろと勉強になりました。
心から感謝申し上げます。
また、適当な時期に再登場される事を心からお待ち申しあげます。
合掌 ありがとうございます
80
:
志恩
:2014/01/15(水) 18:15:32 ID:.QY5jUA6
曵馬野様が語っておられた「曹洞宗」に関する
著書「恐山」(新潮新書)についてを、
トキ様が、別板に
書かれておられましたので、転載させて頂きます。
読書紹介板(別板)
6 :トキ:2014/01/08(水) 20:23:42
曳馬野さんが、本板で曹洞宗の禅についていろいろと書かれています。
あちらでは、本流復活派の人達に向かって話しているので、
安易に書くと妨害になるので、こちらに書きます。
恐山というところは、面白い事に 曹洞宗なんです。
昔は天台宗だったのですが、いろいろな経過があり、禅宗になったそうです。
ご承知の通り、恐山は「イタコ」で有名です。
しかし、曹洞宗は、死後の世界については「無記」つまり議論をしない、という教義になっています。
現在の恐山の住職代理の南直哉さんは、永平寺で20年間も修行をした人です。
ところが、恐山の住職のお嬢様と結婚した事で、福井県のお寺の住職をしながら、
恐山の住職代理も勤める事になったのです。
新潮新書の「恐山」には そのあたりの事が書かれています。
恐山という場所は、伝統的な曹洞宗の教えとは かけ離れた場所みたいです。
しかし、現実にイタコが多数集まり、死者の霊の呼び出しをしているのですから、その
姿を見て、「無記」という事はできないのです。
例えば、イタコの「口寄せ」の順番を待っている人達の光景を見たカナダ人の観光客が、
ふざけ半分でその行列に加わった事があったみたいです。
そこで、笑い乍ら イタコの家に入って行ったのですが、出て来る時には号泣していたと言います。
出て来た彼が、泣き乍ら言うには、「イタコに 母親の霊を 呼び出してもらった。
イタコは 家の間取りも知っていたし、自分と母親しか知らない 事実も 知っていた。
あれは間違いなく母親の霊だ。」と。
東日本大震災など、愛する人を喪った人達が 恐山を訪問して癒されているという現実
を見ると、その意味を 感じざるを得ないと言います。
つまり、伝統的な永平寺の教学と 恐山の存在は 表面的には矛盾します。
が、それを肯定することは、より広い意味での 仏教の趣旨にあう、というのが著者の主張です。
81
:
閲覧者99
:2014/01/15(水) 18:38:56 ID:FXz1MWRA
>8文字なので、キーボード打つとき、いちいち長いんだよね、この名。
(もう一人の、アンパン フランスパンの人よりは、まだ まし だったけれど。
こんど、つぶあん、か、こしあん にしてもらえるとうれしいです、 名を打つ時、短いから)
こういうのって、基本的に人の自由でしょう。
ここはこういう書き方がわかりやすいとか、勝手に添削したり、
妃殿下とよぶなという投稿をしても執拗にそうよぶひとがいたり、
何が聖典を論拠になんだって気分になりますね。
82
:
うのはな
:2014/01/15(水) 18:41:17 ID:FXz1MWRA
身分いやしきもの様へ
そのうち、うのさんと一緒に「生長の家・脱流掲示板」でも
つくってスカイプ入れちゃいましょうか(笑)?
またのお越しをお待ちしています。
83
:
志恩
:2014/01/15(水) 19:43:23 ID:.QY5jUA6
うのはな姐さん
んとに、身分いやしきもの様に、甘いんだから。
しょうもない人ですね。姐さんは。
思い出しましたよ、姐さんは、
たしか、初心者様の隠れフアンでしたものね。
あれじゃないですか? こっそり、前に
江戸前の握り寿司でも、おごってもらったんじゃないの?彼に。
とにかく、姐さんは、彼に甘過ぎます。
あっちこっちから、ブーイングの靴やスリッパが飛んで来そうです。
それにしても、うのはな姐さんの、「✨」(星)ですか?彼は。
またのお越しを お待ちしていますなんて。(* 'ー^)b
聞き捨てなりませ〜ん。
結構、彼は、ねばるタイプなので、今度は、「ネバリスター」という名は、どうかしら?
「ネバリ星」です。
うのはな姐さんの「星」である「星」を入れて、「ネバリスター」っていう名は、如何でしょう。
「こしあん」「つぶあん」よりは、知的なイメージで、かっこいい名だと思いません….
しかし、「ネバリスター」では、納豆の糸を連想するかもしれませんから、たぶん、この名は ボツでしょう。
私の場合は、ホシは、ホシでも、「ウメボシ」には、改名したくありません。
名前負けして、急に老けそうです。
84
:
再掲
:2014/01/23(木) 16:26:22 ID:Mhi/7ABA
1162 :志恩:2013/03/04(月) 10:49:06 ID:.QY5jUA6さくらさん
私は、しばらく お休みを頂くつもりでしたが、さくらさんの投稿文を拝見して、ひと言申し上げたく出させていただくことにしました。
さくらさんの過去の発言を再掲させて頂きます。
⑴ さくらさんの投稿文より一部抜粋
さくらさんの言葉
〈どちらかで拝見しました。
過去の代表者会議(実際は研修会)で、榎本恵吾先生が鬼気せまるご様子で、
雅春先生のご文章の一部を引用されながら、雅宣総裁に対し訂正を求められました。
【そのような場でのご発言では、井上先生も、決然と生長の家の運動に対してのご自分の意見を提言していたのが、印象的でした。】〉
とありました。
このご文章を読みますと、さくらさんは、
どちらかで拝見したといいながら、まるで、恵吾先生と雅宣先生のやりとりの現場にいらしたような書き方をされているのが、
私は、印象に残りました。
⑵ また、さくらさんは、
「信徒が教団を去るのは、やはり今のやり方に問題がある、谷口雅宣総裁の方針が間違っているからだと知らしめる以外に道はないと思うのですね。」
(他掲示板からの引用で失礼いたしました。)
という結論になるのは、私には…とても理解ができないことなのです。>>ともおっしゃっておられます。
これにつきましても、信徒が教団を去るのは、雅宣総裁の方針が,間違っているからと皆さんが、結論を出し、知らしめるのは、理解出来ない。
と、はっきりとした雅宣総裁擁護 発言をされているのです。
====================================================================================================
>>今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板
143:一観覧者A(さくらさんの旧名) 2011/07/30(土) 00:26:30
(前略)
榎本先生とは、この知人のお祝いの席で初めてお話させて頂き、その知人を通して「弟子像」など送って頂きましたが、
またどちらかで拝見しました、公の場での雅宣総裁と榎本先生とのやりとりがありましたのは、いつかの代表者会議でのこと記憶力しております。
言葉の詳細は、明らかでないのですが、
雅宣総裁の、人類光明化運動の本部はどこにあるか…に関する発言に対し、
榎本先生が鬼気迫るご様子で、雅春先生のご文章の一部を引用されながら、雅宣総裁に対し訂正を求められました。
幹部は皆ヒヤヒヤして見ていたのではないでしょうか。会場の雰囲気が凍りついているように感じられました。
榎本先生がどのような想いであられたかは、私などは知る由もございません…が、
勝手に、先生の人類光明化運動への姿勢の一端が感じられる気がしておりました。
【そのような場でのご発言では、井上先生も、決然と生長の家の運動に対してのご自分の意見を提言していたのが、印象的でした。】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(略)
ただ、榎本先生の信仰には、それら現象を超越したものがあり、
お言葉を拝読するにつけ、ポロポロと…目からと言わず、心身から鱗が落ちるような気がします。
今の生長の家の組織の中では、とても勉強できないことなので…すごく残念です。
しかし、かと言って、
「つまり、教団を去る人を増やすしかない、ということです!」
「それによって、こんなにも信徒が教団を去るのは、やはり今のやり方に問題がある、谷口雅宣総裁の方針が間違っているからだと知らしめる以外に道はないと思うのですね。」
(他掲示板からの引用で失礼いたしました。)
という結論になるのは、私には…とても理解ができないことなのです。>>
85
:
あさひ
:2014/01/24(金) 17:46:59 ID:u9w/1zYY
志恩様
ホシはホシでも梅ボシ なんてユーモアのある表現でしょう。
志恩様の向学心にはいつも啓発されています。
86
:
志恩
:2014/01/25(土) 20:30:10 ID:.QY5jUA6
あさひ様
お久しぶりですね。
今日まで あさひ様のコメント、気がつきませんでしたので、
返信が、遅くなりまして、すみませんでした。
人間、一生が学びですものね。まだ梅ボシじゃないですけれど、
たとえ梅ボシになっても、ムスビの神様に使われるように精進したいです。
お互いに元気でいましょうね。🍙
87
:
トキ
:2014/01/27(月) 14:33:29 ID:E9/1bU26
以前、この欄で、実相無相論と実相有相論について議論をしましたが、
その件に関連して、以下のようなご指摘を受けました。
「昭和44年の詳密講習会で、谷口雅春先生は、”実相というと、形がない
ようなものと言う考え方があります。初期仏教ではこういう考え方をしてい
たみたいですが、これは間違いであります。
実相には具体的に、姿形がありありとあります。」
とご指導されたとの事です。
御教示に深く感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
88
:
うのはな
:2014/02/08(土) 18:39:26 ID:nY40kS3Y
理数系の宇宙 マター理論
http://www.astroarts.co.jp/news/2013/01/30darkmatter/index-j.shtml
89
:
風笠
:2014/02/13(木) 17:14:50 ID:7lmpQUSY
トキ様
お久しぶりです。
本日少し時間がありましたので、このスレッドを見直していると結構深い話をされていましたね。
因みに
>>87
で雅春先生の御文章を引用されていた通り、実相には質感があると思います。
それは単なる瞑想やその他に精神が高揚して感じるようなものでなく、初めからそこに『ある』も
のですから、通常の感覚よりも存在感(この言い方も変ですが)あるものだと思います。
一切の現象というのは無いのですから、そこにあるものは実相なのです。
少し前に流行った、精神世界系で根本的な世界は観念だけあってそれを感じる為に相対的な世界を
自ら作ったとかの説がありますが(確か「神との対話」とかニューエージ―系の説など)生長の家
で説く実相とはまるで違います。
90
:
風笠
:2014/02/13(木) 17:15:34 ID:7lmpQUSY
「そこにあるものは実相です。」といいましても病やその他も「そのまま実相」という事ではありま
せん。 それでは現象ありになってしまいますので。一応要らない補足をしておきます。
91
:
風笠
:2014/02/13(木) 18:14:22 ID:7lmpQUSY
実相哲学を論じる部屋との事で、ちょっとだけ時間あるついでに流れを読まずに書き込みをさせて頂き
ます。(普段、なかなか時間が取れないもので読んでおられる方には申し訳ないです。)
実相とは通常の心の状態に関係なく在り自ら顕れるものです。そこには「感謝」すら必要としない
ものです。
現象の心(三界唯心)に関係がないのでそれ自ら顕れるのに遮るものなく、顕れ済のものですので
実相の心そのものがあるので、すべてが『感謝』になるのです。
「感謝する」のではなく自ら世界が『感謝そのもの』であった事に気づくのですね。
それは自分の存在も『感謝そのもの』だったのです。
「天地一切のものと和解せよ。」とは現象の心の調律の後、神が顕れるのではく、現象(の心)を一
切取り払った時に神が顕れているのです。
「天地一切のものと和解せよ。」とは「心の不完全な部分を見つめてそれを修正せよ。」ではなく、
実相から見れば、「一切の現象を捨て、そこにある完全さを見よ。」との事です。
そこには一切の悪霊や黴菌もなく、感謝が出来ていないものもいない。すべが『感謝そのもの』であ
るから「天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」・・・この神示を読む人そのもの
の命となって”其処に”顕れるのです。
92
:
風笠
:2014/02/13(木) 18:21:04 ID:7lmpQUSY
神示というのは、読む人の心によって取り方が変わります。(「聖道へ」参照)
三界唯心の心が実在であるとの観点から読みますと、本来”無い心”は感謝し切る出来ませんので”無い
もの”を”ある”と思っている以上、その妄想は続きます。聖経の「現象は不完全なるが故に実在となる
事得ず。」なのです。
現象の不完全さを感じるというのは、その造り主の心の不調和の部分を責めたりなかった、もしくは努力
が足りなかったのではなく、もし原因があるとすれば、実相の円満完全さそのものを喜ばなかった・・そ
こにあるのだと思います。
大調和の神示とは『実相の完全さを照らす神示』であって読めば読むほどそこに完全さ、神の命がここに
あるとしみじみと感じるものだと思います。『天照す神示』なのです。大生命、神の温かさの極みの神示
なのです。
93
:
風笠
:2014/02/13(木) 18:31:09 ID:7lmpQUSY
補足で少し言ってしまえば、生長の家で初めに感謝しきれなかったのは、雅春先生なのです。
自伝編に書かれている事を昔の私は見落としてました。それでかなり苦しんだ覚えがあります。(笑)
”心もない”ならいま此処に、いま此処ですにですね何があるか、唯心の「心」も”無い”ならその展開
もない。いま自分どこにいるのか。その問いかけが大事かと思います。
ここの掲示板には復興G様や志恩様と言った他、恐ろしい程の諸先輩方の前に文面を出していいのかとい
う心配がございますが、時間が出来た勢いで書き込みを致しました。
ロム専門になるつもりはございませんが、なにぶん書き込みをゆっくりする時間が取りにくいもので、ご
意見があっても少しの回答しか出来ないか、以後書き逃げ状態になるかもしれませんがお許し下さい。
94
:
トキ
:2014/02/13(木) 20:11:18 ID:SSPkD/OA
風笠様
素晴らしいご投稿、ありがとうございました。心から感謝申し上げます。
実に素晴らしいご文章ですね。感激しました。
実相論という議論は一見、現在の生活や信仰には関係ないように見える
部分があります。しかし、多くの信徒さんに身近な教え、例えば、先祖供養
にしろ、心の法則にしろ、根底には、「実相」とは何か、という話からはじ
まります。
ですから、例えば教義で分からない事があり、それを聖典などで調べると
きに、「実相」とはなにか、という議論がないと、わからないことになりま
す。ですから、この議論は本当に大切だと感じます。
生命の実相の自伝編もとても大切なくだりですね。自分が真理を学ぶ時の
大いに教科書になります。
ご多忙とは思いますが、今後とも、ご投稿のほど、お願いいたします。
合掌 ありがとうございます
95
:
トキ
:2014/02/13(木) 20:43:20 ID:SSPkD/OA
「神は『無』の世界から如何にしてこの世界を造ったであろうか。如何にして星雲を造り如何
にして電子等々の微粒子を造ったであろうか。そこにはまだ電子の如き微粒子すらも存在しない
のであるから、物質は存在しないのだということができるのである。そこには単に「真空」が
充満している。真空が充満しているという言葉は変であるが、「真空」のみがあるのである。
しかし、「真空」のみであったならば、「無」よりして「有」が生ずるはずがないのである
から、そこから一切のものが生まれて来る以上は、その「真空」は同時に「妙有」でなければ
ならないのである。即ち、その「真空」は無一物中無尽蔵の真空であり、その真空よりして
一切のものが生み出されてくるのである。「真空」は物質ではない。しかしそこから生み出された
所の天体、分子の構造、その物理化学的微妙な数学的秩序というようなものはそれを生み出した
所の力が驚くべき精妙な「智慧」でることを示していることは既に述べた通りである。即ち物質
ならざる「真空」の世界から、物質の最微小単位である所の電子その他の微粒子を造りだした
所の力は「智慧」であるということができるのである。「智慧」は心の働きであるから、結局、
宇宙の創造は「心の働き」-想念によって造られたものであるということができるのである。真空
を物質に改造し今も宇宙に於いて創造を続ける力は想念であるのである。そして人間においては
その宇宙の創造者の「想念」の力がもっとも完全に意識的に発言しているのであって人間に到る
までの動植物の創造は自動機械的に、或は本能的に行われてきたのみであったが、神は人間と
現れて意識的にその創造力の方向を指導することができるようになったのである。だから、吾々
の魂の奥底なる意識的な願いは神が人間に於いて願う所であるから、大宇宙的な力がそれを
バックしていて必ず成就させてくれるに違いないのである
吾々はこれを信じなければならないのである。」
(新選 谷口雅春選集 「祈りの科学」 日本教文社 19P~20P)
96
:
風笠
:2014/02/14(金) 20:06:02 ID:xnsaGHfs
トキ様
お返事ありがとうございます。
一切の教えは実相に根付いているというのは、その通りです。
それでいうのも何なのですが、「実相」なんて分かっても分からなくてもいいと思います。
どこかの先生の生前の評判で「分かったような分からないような話」というのがあるのは御存じだと思います。
分かる、分からないより「実相」を『信頼出来るか』の方が日々の生活の上で大事かと。
他の話も書こうとは思うのですが、「思う」のですが書き込む間と文章に思考を纏める時間がないので・・・
「現象はないのだから頑張ったら書けるだろう。」という声が聞こえそうです。(笑)
恐らく暫く消えます。”恐らく”です。
>>96
で「無」「有」に関して雅春先生の御文章の紹介をされているので、ちょっと私見を書きます。
97
:
風笠
:2014/02/14(金) 20:08:41 ID:xnsaGHfs
「無」というものを思考するためには、どこか心の片隅に「有」という概念を心に浮かべる。
「有」というものがなく「無」という概念もなく、そこに初めからあるものの場合、対比するものがないから
絶対です。
総てであるからそれを外から観察する主体そのものがないので「無」であり、総てであってそのものである為
「有」という事が言えると思います。
「無」であり「有」であり、また「無」でなく「有」でない存在。『在りて在るもの』が絶対です。
などと言ってみます。
※『在りて在るもの』の単語を通常の生長の家の解釈と違う内容で使用しています。
98
:
トキ
:2014/02/14(金) 20:59:24 ID:2n7KYkN.
>>97
風笠 様
ご丁寧なお返事、ありがとうございました。深い感銘を受けました。
今日昼休に文芸春秋を立ち読みしていたら、宇宙論についての記事がありました。
この中に、物理学者が、数学的な無と物理学的な無とは全く違うもので、
物理学的な無とは、かなり具体的なものである、という文章があり、面白く感じ
ました。既に違う宇宙を観測するという試みも始まっているとかで、ここで展開
していた議論が絵空事ではない時代がくるかもしれないと感じました。
閑話休題。
私が若い頃に、谷口雅春先生の直弟子の先生が亡くなる前に
「やっと、最近になって、谷口雅春先生のおっしゃりたかった事が分かった」
と言われていたのを思いだします。ただ、最近は、谷口雅春先生の教えについて
いろいろな考えがある時代ですから、お読みになる方の中には困惑される
方もあると拝察します。そういう時には、じっくりと聖典を拝読し、その上で
祈る事が大事かと感じます。
ただ、これは私の考えで、私の縁者で、不思議な啓示が降りる人がいて、そういう
人は理屈ではなく、「信」として神を語ります。いろいろな道があるみたいです。
とりとめもない発言で失礼をしました。今後ともご投稿をお待ち申し上げます。
合掌 ありがとうございます
99
:
風笠
:2014/02/17(月) 20:17:57 ID:dLtTiUXY
トキ様
お返事ありがとうございます。
ここに書き込みをさせ頂いているのは、私の考えが絶対正しいというつもりは毛頭なく、
心の法則で引っ掛かている人にブレイクスールするヒントになればとの思いで書いています。
>ただ、これは私の考えで、私の縁者で、不思議な啓示が降りる人がいて、そういう
>人は理屈ではなく、「信」として神を語ります。いろいろな道があるみたいです。
真理は直接 神に教えて頂くものだと思います。
縁者の方と比べて雲泥の差(私が泥ですが)がありますが、短いヒントはたまにあります。
100
:
トキ
:2014/02/17(月) 20:46:22 ID:qvIK8UMY
風笠 様
素晴らしいご文章にはいつも深い感銘を受けております。
ありがとうございます。たいへん深い真理をご教示下さり
感激しております。
私こそ、泥も泥ですが、真面目にやっていると何か違うと思って
おります。
電池の材料に酸化亜鉛という物質があります。学者が研究しても
なかな上手く行かないので諦めた時に、無学な島津源蔵という職人
さんが、とにかくやってみようと桶に鉛の粒を沢山いれて何日も棒
でグルグルとかき回したそうです。世人は笑ったのですが、島津源蔵
は頑固にそれを続けると、亜鉛の表面に粉がふいているのを見つけました。
調べてみると、これが酸化亜鉛だったので、そこから研究して、ついに
島津源蔵は酸化亜鉛の製造に成功したと大学時代に聞きました。
続ける事が大事だと思います。
今後ともよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
101
:
風笠
:2014/02/19(水) 20:54:04 ID:PExqCBzY
トキ 様
お返事ありがとうございます。
『生命の實相』を祈りながら読むといろいろヒントが出てきます。
ただの文章を読むのでなく、直接 神様から話を聞いていると思って読めば雰囲気が
違ってきます。
別の書き込みをしていると時間がなくなったので、短い書き込みになりますが、
お許しを。
合掌 ありがとうございます 。
102
:
トキ
:2014/02/19(水) 21:01:13 ID:O.IEvtbM
風笠様
いつも素晴らしいご文章、ありがとうございます。
生命の実相は、それ自体、神殿とも言うべき存在かと観じます。
おっしゃる通り、神様からのご指導と思って拝読するべきですね。
本当に感謝しております。
合掌 ありがとうございます
104
:
風笠
:2014/02/26(水) 19:13:47 ID:Pe/sCGU6
トキ 様
お返事ありがとうございます。
昔は、(今もですが)分からない事だらけでしたので、『訊く』しかないのです。
トキさまの縁者の方とは違うかと思いますが、ある白鳩の方がおられまして、その方も「あま
り言えないが、入信した当初は夢の中で聖典の解説を受けていた。」と話をされていました。
霊感有無でなく、祈っていたり行動している内に浮かんでくるのは多々あるのかなと思います。
書いていいものか、どう分かりませんが。
私的な一例を言えば、実は先に書いた大調和の神示の解釈も、ある時心境が変わった時があり
ましたが「しかし、心が完全に整わない限り神の救いが来ない。多くの人はそこに引っかかる
と思う。どうしたらいいのか何か救いはないのか、教えて欲しい。」と思って宝蔵神社横の参
道を歩いていた時にふと『もう一度、”大調和の神示”を唯神実相の見地から見よ。』と浮か
んだのがヒントになっています。
大した事ではございませんが、このような感じです。
105
:
トキ
:2014/02/26(水) 19:30:15 ID:6n.to5HU
風笠 様
すばらしいご文章を拝見し、深い感銘を受けました。
聞法因縁五百生と言いまして、こういう正しい真理を拝聴するには何回も生まれ変わる
必要があると仏教では言うらしいです。真理を学ぶ場にいるという事は、自分の意思だけ
ではなくて、何か霊的な導きがあるような気がします。
>>『訊く』しかないのです。
それで思いだしたのですが、谷口雅春先生の直弟子の先生が、
「悟ったふりをするな」
とご指導をされたのを憶えております。自分もわからない事だらけですから、ご指導の
ほど、お願い申し上げます。
106
:
トキ
:2014/02/27(木) 20:31:53 ID:tiTS303E
「あなたは宇宙神霊と一体である」
「あなたは偉大なる存在である! あなたは最も祝福されたる存在である、不滅なる存在
である。あなたは光輝燦然たる至福の存在の神性である。あなたは至上の真理である。真理
とは如何なるものか、それは言詮不及、不立文字の存在である。それを書きあらわすことは
どんなペンにもできない。それを言い現すことのできる人は此世にひとりもない。それはた
だ存在する全てのものー物質に至るまでの全てのものを含むすべてのものだ。それを表現せん
とする凡ゆる努力は却ってその偉大さを限定する試みとなるに過ぎない。」
これは印度現代の聖者シヴァナンダの言葉である。これは誠に真理をよく表現している。
諸君はこの語に表現されているような実に偉大な存在であるのである。彼は又言う。
「人生の根本的目的は、宇宙神霊と永遠に一体となるところの自己の実現を自覚せんが
ためである」と。(デヴァイン・ライフ誌1960年10月号) まことに其の通りである。
新版 生活の智慧 365章 谷口雅春先生著、168p より謹写
107
:
トキ
:2014/03/01(土) 20:51:04 ID:6CyRZRMQ
「創造の衝動」
宇宙大生命は、”真空”と見えながらカラッポではなくして虚空を埋め、それ自身が想念を
起こすことによって万象を展開してあらわれて来るのである。
「元始にコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。よろずの物これにより
て成り、成りたるもの之によりて成ざるもの無し」
とヨハネ伝に録されているのは、このような意味なのである。
”真空”の中にこのような創造力があるのである。”真空妙有”が即ち”創造の霊”であるので
ある。既に”真空”の中に伏在せる”妙有”が内部から押し出して来るはたらきが”創造の衝動”
としてあらわれて来るのである。”宇宙の霊”の中にこの衝動があり、それが”真空”と見える
実質を、みずからの”内部の智慧”によって、形ある相に設計し、その”内部の力”によって、
その形を維持しているのである。その”内部の智慧”を混乱に導かず、その”内部の力”を流動
しやすいように維持するとき、その形は崩れない。即ち、肉体に於ては健康を保ち得る
ことになるのである。
新版 「生活の智慧365章」 谷口雅春先生著、100pより謹写
108
:
a hope
:2014/03/09(日) 08:53:59 ID:cEpBaIdo
みなさま おはようございます。
義春さんが現象界から姿を消されて1年以上がたち、わたしは先日、初めて彼のお墓参りに行きました。
そして、そこで素晴らしい霊的体験をし、そのご報告は、先日「霊界光明部」板でさせていただきました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322651238/657
そこにも書きましたが、義春さんは生前、ご自身のブログをされていて、素晴らしいご文章を公開されていました。
ところが、残念なことに、おそらく病状が思わしくなかったからでしょうか、突然そのブログを閉鎖されてしまったのです。
わたしは、その彼の文章で特に魂に響いたものを、いくつかプリントアウトして保管していました。
「光そのもの(1)」 「光そのもの(2)」 「光そのもの(3)」そして、 「全てと一体である事」です。
その内容は、まさに「実相哲学(科学)」といえるのではないかと思うので、順を追って、
この「実相哲学を論じる部屋」に心をこめて謹写させていただきたいと思います。
感謝 合掌。
110
:
a hope
:2014/03/09(日) 12:05:05 ID:cEpBaIdo
「光そのもの(1)」 (義春さんのブログより)
色(しき・いろ)があるということは、光そのものだと感じた。
雑感みたいなものですが、感動したから忘れないように書き記したい。
きのう、神想観をしていて、ふと感じた。
例えば、赤という色が見えるということは、その物質に赤があるのではなく、
光の中の赤と云う色素を吸収できないからだってこと。
およそ見えている色は全て光の影であり、我々は影を見ているに過ぎない。
赤はあるように見えるけど、実際にあるのは赤があるのではなく、赤が無いからだってこと。
現象が影であると生長の家で言われるけど、本当にそうだなぁ・・・と感じた。
そうであれば、我々が実際に在るのは、この影ではなく、その奥にある光そのものである。
そうじゃないと、色そのものが発生しない。
だって、我々が現れている(正確には現れているように見えるというところだろうけど)のは、
その光の元があるからであり、その光の影が発生しているから、こう現れている。
だから現象は迷いという仏教のいうものも、極めて科学的であり、すんなり得心できる。
昨日・今日と迷ってみたけど、全てが光輝いているとより、実感した。
そんなことを感じました。
111
:
a hope
:2014/03/09(日) 12:13:39 ID:cEpBaIdo
「光そのもの(2)」 (義春さんのブログより)
お風呂に入りながら気がついたこと。
雑感であるのですが絶対に忘れたくないことだから記そうと思います。
我々は本来、光そのもの。
そう、お風呂に入りながら思っていたら、ふと、こう思った。
この身体は影、元は光そのものなんだ...あぁ、そうか死ぬってのは影がなくなって光そのものになるんだ...。
だったら、●●さんも、○○さんも亡くなって離れたんじゃない、ずっーと一緒にいたんだ。
寂しさなんかなかったんだ、再会する必要もなかったんだ、ずっと側にいてくれたんだ。
そう思っていると、父や母が浮かんできて、涙が込み上げてきた。
泣きながら有り難うございますと呟いていた。
全ての人はずっと一緒にいるんだって、光の中に一緒にいるんだって感じた。
文字にすると何でも無くなってしまうけど、このことは忘れたくない、ずっと会いたかった人達と、やっと会えたのだから...。
112
:
a hope
:2014/03/10(月) 10:04:20 ID:cEpBaIdo
「光そのもの(3)」 (義春さんのブログより)
色というのは、『赤』なら『赤』という波長がその物質にないから、光のうち、『赤』だけが反射して『赤』く見える。
そうであるから、『赤』はないと言える。
...個としては、それで説明がつくのだけど、ココで一つ面白いことが起こる。
通常、『赤』という色は『赤』く見える。
それはだいたいの人がそう見えている...ということ。
何故か皆、同じ色を同じに見ている。
コレは何故なんだろうって。
ココに人類は意識がつながっていると感じる。
もし眼という臓器の構成が固定されていたとしても、現代の生命工学では継代することで、
その遺伝情報は新しいスキルを獲得していくというのが主流である。
(※例としては大腸失陥後、小腸で大腸でしか吸収されない水分を吸収するようになる等)
それに立って考えれば、普通に古代の人と今の人では違って見える筈だし、
また、先祖からの遺伝子情報の引き継ぎ過程で、全く違う進化があってもおかしくはない。
それならば、そこに眼というものの見え方が変わらないという決定がされているのは遺伝子ではなく、
共有意識ではないのだろうか? ...ということも考えられる。
少なくとも、僕自身はそれの方がシックリくる。
だから、この物の見え方からも皆、一緒にいるんだって感じています。
113
:
a hope
:2014/03/11(火) 08:15:57 ID:cEpBaIdo
「全てと一体である事」 (義春さんのブログより)
「科学とは結果を決める事からはじまるのでなく、表れていることをそのまま観察することからはじまる」
by 某大御所的な教授
光と言う所から感じた事を感じた事から観えてきたことをまとめてみます。
「現象無し」
生長の家ではこの現世をこう説かれていますが、これは物の見え方からも言える事なのです。
前にも書きましたが、例えば『赤』という色は、その物質が『赤』という色素が無いから、反射として観えるのであって、
実際のその【物そのもの】は『赤以外』が表れていて、我々の眼はその『影』を観ているのに過ぎないのです。
それは音もそうです。
音も音の波が鼓膜に当たった反射を感じて聞こえていると感じているのであって、
【音そのもの】を聞いている訳ではありません。
この現象の全てはおよそ影でしかないという生長の家で説かれている教えは、科学から観てもそうだと思います。
これを昇華していえば、人がこう表れて生きているというのは、無いものが表れているとも言え、
その無いものをあらわすには、その内部に【光】がなければ表れないとも言えます。
それだから、肉体は実相から観れば【無い】のであり、【無い】のであるから表れている、
これは仏教で言えば、現象は迷いから現れているとなると思うが、
【迷い】は実相から観れば【無い】のであるから、現象も無いと僕は感じています。
この迷いの奥にある【光】、それこそが人間の姿であるから、死んで肉体が無くなる、
それがそのまま消滅ではなく、影が消滅したに過ぎない。
それだから、実相から観れば亡くなった人と離れ離れになる事は決してなく、
むしろ現象の眼では離れ離れになっていると錯覚していたものから、霊は迷っていないとも言えます。
また、それだから、万物の実相は光そのものであるから、全てとは一体であり、離れ離れではありません。
だから自他の境というのは、本来在り得ない、離れ離れに見えるのは、影であり、
影だから現象に現れているかと僕は感じております。
(つづく)
114
:
a hope
:2014/03/12(水) 08:14:37 ID:cEpBaIdo
(つづき)
ただ影だから全てバラバラであると言う訳ではないと僕は感じております。
この「物の見え方」、赤と云う色が赤で表現される、それが共通であることが、そもそも人間が物質であれば有得ない事なのです。
それは、例えば、菌を培養すると菌は数代でも継代培養する事で、新たな性質を獲得し、
まるで違う遺伝情報を次の代に渡していく事が往々にあります。
もし我々がバラバラであるなら、菌と同じように、我々の眼で見る色は全ての人で違ってきて、
或る人には赤く見え、或る人には青く見えるでしょう。
このように遺伝子情報を継代していくと言う事は、現代の生命科学の主流から言えば、
生物は新しいスキルを獲得して進化していくのであるから、常に遺伝情報が書き変わる可能性があります。
しかし、それにあっても、人間は赤いものは赤く見えると物の見え方は共通しています。
これは眼という臓器の遺伝情報が固定されていると言うのでは、生命科学の考え方とパラドックスを起こしありえないのです。
だから、それよりも人類の共通した意識の表れであるともいえるのです。
だから、このバラバラに見える影の世界にあっても人は部分的に自他の境を超えて共有しているというところがあります。
また、生長の家では、このバラバラという現象は本来ない、【無】というものであるからこそ、
中心であると言うのが天皇の実相であると説かれています。
【無】というのは光そのままであるから、本来は自と他という区別が無いから、全てが中心であるということ。
だからこそ、天皇陛下は常に無私の愛を日本国民だけでなく、世界のあらゆる人や人だけでなく一切のものに深い愛を持っていられる、
それだから天皇を通じて無の関門を越えるとなろうかと僕は感じます。
(つづく)
117
:
a hope
:2014/03/13(木) 09:42:52 ID:brQxC10.
(つづき)
さて、この私が無いというのは、人間の身体でも同じであって、
例えば、心臓の細胞は常に他の細胞と同調して一定のリズムを奏でています。
これは赤ん坊として細胞分裂の繰返しで生まれついてのリズムであるからというのではありません、
細胞を培養して臓器となる過程に於いても同じ事が起こります。
昔、僕が生命科学を学んでいた頃、とある先輩のラボで観たのは、最初はバラバラに脈動していた心筋細胞が、
ある時を境にして、全ての心筋細胞が同じリズムで脈動する動画でした。
これは、細胞一つ一つの奥深いところにあっても、無私であり、
全てを以て、一つであるというのを表している事になろうかと思います。
そして、これを周りの環境に於いて述べると、全ての動植物・空気や水のようなものと人間とは密接に関わりあっています。
人間は人間だけで脈動しているのではありません。
その観点から述べると、現代の物質文化は現象はある、人間だけが全てである、
全てはバラバラであるというものから成り立っています。
これは影であり本来の人間の姿ではないと言わざるを得ません。
それだからこそ天皇陛下の大御心を心としてと言うのは、現象は無いという観点に立って現象での個々の違いを認め合って、
その違いにあるところに使命があるとお互いを礼拝して、
全てと一体になり全てを霊的に活かすということではなかろうかと感じています。
(つづく)
119
:
a hope
:2014/03/14(金) 09:24:17 ID:cEpBaIdo
(つづき)
だからよくある愛国運動の様にどこそこの誰々を排斥してと言うのは、
天皇陛下の大御心に決して叶わないどころか、大御心に叛旗を翻すものと言わざるをえません。
また、それは生命それ自身の本来の姿、光とも決して相馴染まないものであります。
そして、話は元に戻りますが、人は基本的な遺伝情報は、先祖からそのまま引き継いできています。
例えば、赤という色は赤く見えるのは、フランスにある最古の壁画にあっても同じであることから、
同じ色を認識していたと言える事になろうかと感じております。
つまり、その変わらないものを通じて、我々は先祖とも繋がっているのであります。
これは科学的には、安定した遺伝子情報を得たとも言えると思いますが、
宗教的に言えば、人という種に使命が神から天下ったといえるかと思います。
この【今】というものをこの我々の代まで引き継いでくだったのも、全て神・先祖あってのもの、
それだから神及び先祖に感謝しつつ、また光であり一体である我々の本当の姿に感謝する、
そのままが素晴らしいと思えてならないのであります。
以上、謹写 終わり。
義春さま、ありがとうございます。 合掌。
121
:
トキ
:2014/03/14(金) 10:03:03 ID:iC1ZwruQ
a hope 様、義春さんのご文章を紹介して下さりありがとうございました。
故人も喜んでいると思います。
122
:
神の子さん
:2014/03/20(木) 14:31:51 ID:96xMIlmE
:初心者:2014/03/20(木) 14:08:52 総裁のかかげる環境運動が、「悪化した地球環境をよくしようとする運動」と考えていたのでは事実を見誤るでしょう。真理や資源を人間中心の考え方で都合よく利用するのはそろそろやめにしましょう。こうした思想が総裁のかかげる環境運動の背景にあるということを考える必要があるということです。
雅春先生と現総裁は、その考え方や生き方において対極にあるといわざるをえません。雅春先生の考え方というのは、どちらかというと享楽志向なのですね。健康問題であれ、経済問題であれ、人間関係の問題であれ、それが人生を存分に享楽できる状態にあることをもって「善」といっておられるように感じます。
うらやましいことに、若き日の雅春先生は幾人かの女性と深くかかわっておられたようです。いくつかの罪悪感をおぼえながらも、享楽する生き方を、若き日の雅春先生は肯定的に選択しておられたのです。そうした享楽志向が教えにまったく影響していないと考えることはできません。国家の繁栄とともに人々が享楽へと向かうのは、ローマ帝国の盛衰をみればあきらかでしょう。人々を享楽へと駆り立てないではおかない国家の繁栄を、雅春先生が教えの根本に立てておられることに、若き日の享楽的な生き方の影響をみてとるのはそれほどむつかしいことではないような気がいたします。
雅春先生の教えから、「享楽」ということをわたしはどうしても連想してしまいます。現総裁は、意識的にではなくおそらく無意識的に、雅春先生の教えに「享楽」の二文字を感じとっておられるのでしょう。そうした無意識からの知らせにまるで反発するかのように、現総裁はあまりにもストイックで禁欲的な生き方をつらぬいておられるように感じます。総裁がらみのスキャンダルといえば、イヴの夜にローストチキンを食べたかもしれないといったことぐらいでしょう。こういうことをスキャンダラスに取り上げなければならないほどに現総裁は享楽的な生き方を否定しておられるということです。
どちらかといえば享楽することを肯定的にとらえておられたともいえる雅春先生と、享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方をつらぬいておられる現総裁とでは、その考え方に大きな食い違いが生じるのはむしろ当然のことといえます。雅春先生は人間を中心におくことで、真理であれ資源であれ、それを人間のために利用するという方向で教えを説いておられたにちがいありません。現総裁は、真理を否定しているのではなく、そういう方向性を、つまりは人間を中心におくという方向性を、享楽志向につながるものとしてたんに否定しておられるのではないか、ということです。
古代ギリシャの人々は、世界をひとつのものとして捉えていたといいます。プラトンはそのひとつのものであった世界をイデア界と物質界のふたつの世界に分離しました。こうすることでプラトンは、それまでは世界から真理を受けとる立場にあった人間を、世界に真理をあらわしだす立場の人間に置き換えたということがいえるでありましょう。
世界から真理を受け取るだけの端役的立場から、世界に真理をあらわしだす主役的立場へと、プラトンは人類を押し上げたのです。世界をふたつに分かつことで人間中心主義がいよいよはじまった。これを古今東西の真理とするなら、生長の家は世界をふたつに分かつことで、まさしくこうした人間中心主義の流れのなかを突き進んでいるということがいえます。
雅春先生の教えが人間中心主義の教えであるということは、それが世界をふたつに分けるプラトンの教説に近いということからあきらかにいえるとおもいますが、これにたいして現総裁の思想は、人間中心主義が開始される以前の、世界をあたえられたひとつの自然とみなす古代ギリシャのそれに近いのではないか、ということをわたしは感じます。現総裁の思い。それは生長の家がかかげる享楽的ともいえる人間中心主義にたいする懐疑であり反発ではないかとわたしが考える理由がここにあります。
総裁のかかげる環境運動とは、それが悪を認める二元論であるから虚説であると否定してことがすむ問題ではなく、真理や資源を自分中心に利用しようとする人間中心主義への疑義であり、そうした人間中心主義をもたらしたふたつの世界への疑義であるとの観点から理解する必要があるのではないかと考えます。
123
:
HONNE
:2014/03/20(木) 16:09:53 ID:jtmmmlXY
>>122
>享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方をつらぬいておられる現総裁
【享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方】とは具体的にどうのようなものですか?
私は、雅宣さんは享楽も肯定しているし、禁欲的ではないと思っていますが・・・
124
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 18:53:59 ID:???
>>123
上の
>>122
は誰かが、こちらに貼ったコピペですよ。
元の書き込みは↓にありますよ。
「脱力ネタ」板
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/
125
:
志恩
:2014/03/20(木) 19:57:28 ID:.QY5jUA6
(私、まだ、卒業していないんですけれど…)
HONNE様、
初心者様に 言ってやって、言ってやって。
「雅宣総裁は、
なんで、禁欲的な生き方してるのに、3人も、子供が、出来たんですか??!」って。
昔はですね、禁欲的な生き方をするために、お坊さんは、妻帯しなかったんです。
雅宣総裁は、妻帯されてるじゃないですか!
「禁欲」の = 類似語は、「我慢」である。
宗教的にいう「禁欲」とは、性欲を押さえて、セックスを、しないことをいう。Wiki引用
初心者様、
そんなことをおっしゃると、また「言行不一致だ」と本流の皆様に騒がれますわよ。
お気をつけあそばせ。
初心者さまー
>>現総裁はあまりにもストイックで禁欲的な生き方をつらぬいておられるように感じます。
現総裁は享楽的な生き方を否定しておられるということです。
どちらかといえば享楽することを肯定享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方を
つらぬいておられる現総裁….、<<
126
:
志恩
:2014/03/20(木) 20:37:51 ID:.QY5jUA6
(つづき)
初心者様ー
>>うらやましいことに、若き日の雅春先生は幾人かの女性と深くかかわっておられたようです。
いくつかの罪悪感をおぼえながらも、享楽する生き方を、
若き日の雅春先生は肯定的に選択しておられたのです。<<
志恩ー
これは、雅春先生が、輝子奥様とご結婚される前の、若き日の若気の至りの話ですよね。
自伝を読ませて頂きましたから、私も、存じております。
生長の家をはじめられるずっと以前の、
雅春先生が、若い時、数人の異性と、深い仲になられたことがおありになったというお話。
「うらやましいことに」と、前置きされてますから、「ただ、うらやましいんでしょ?」
雅宣総裁は、若い頃、もてなかったんで、
異性と深い仲になれなかった。
おかわいそうに💦💦💦💦
(雅春先生のこと、あの人は、ねたんでいる。)
私も、実は、そうなんです。娘時代に、もてなかったもんですから
雅宣総裁と同様に、異性と 深い仲になれなかったんです。
この件につきましては、同状 相哀れむで、私は、雅宣総裁とハグして泣けますよ。
あれですね、この件は、もてもての訊けさんから、爪のあか でも 戴かれて
飲まれてみたら、いかがでしょうか?
そのあと、ごちゃごちゃ、長たらしく書かれたご文章は、
雅春先生が個人救済がお出来になられて、雅宣総裁は、お出来になれないという
長たらしい言い訳にしか、聞こえません。
「真理」とは、絶対的宇宙の法則であり、働きですから、
それを、信じて実行することを「信仰」するといい、
それによって、方便として病が癒されることがあったり、
人生の生きる目的を知り、悩みが解消し、
生き甲斐のある生き方ができるようになることを
「個人救済」というのではないでしょうか?
真理や教えを「利用する」という言い方より、
「信じて実践する」 という言い方のほうが、私はいいと思います。
個人救済というのは、教えの「方便の部分」でしょ?
縹様もおっしゃっておられましたけれど、肉体の病気を治しても、肉体は寿命が尽きたら
無くなるものでありますから、生長の家の教えは、物質を超えたところの教えですので、
肉体の病気を治したり、物質を保護したりするのが、目的では、ありません。
生長の家の目的は、久遠不滅の生命を自覚する事だと思います。
先にいいましたように、個人救救済は、方便の部分ですので、
谷口雅春先生は、本当の趣旨を是非分かって欲しいと
それにつきましては、懇々とお書き下さってました。
127
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 20:50:04 ID:???
690 初心者[] 2014/03/20(木) 20:12:13
トキさんの掲示板で、HONNEさんという人から以下のような問いかけがなされているようです。
>【享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方】とは具体的にどうのようなものですか?
私は、雅宣さんは享楽も肯定しているし、禁欲的ではないと思っていますが・・・
わたしは総裁がどのような生き方をしておられるのか、正確には存じておりません。ただ、断片的に入ってくる情報から想像的に組み立てたのが「享楽を否定する生き方」というものでした。HONNEさんは総裁のことをよく存じておられるようなので、むしろこちらのほうが、総裁がどのように享楽を肯定しておられるのかを教えてもらいたいくらいです。総裁ははたして、いかなる意味で享楽を肯定しておられるのか、具体的に教えていただければこちらとしても返答のしようがあるとおもいます。
ちなみに、享楽の意味について、わたしは「挑発」ということをキーワードにこれを定義したいとおもいます。美的人生を追求しようと欲しておられた若き日の雅春先生は「そこにあるはずの美」を挑発し、そうすることで逆に「そこにあったはずの美」によって挑発されていたと、このように考えております。挑発し挑発されることで生じる快楽の連鎖。これをわたしは享楽と定義いたしたいとおもいます。
肉体はない。生長の家ではこのように説かれています。肉体がないのであれば病気などあるはずがない。したがって「病気はない」となる。ならば健康はあるのかといえば、肉体がないのに健康などあるはずがない。しかし「健康はない」とは誰もいわない。なぜなのか。
病気は悪であり現象であるから「ない」のであるが、健康は善であり実相であるから「ないとはいわない」と説明されても合点がいくものではない。たとえ実相を持ち出されたところで、肉体はないのであるから健康な肉体もないにきまっている。なのに、なぜ「健康はない」とは誰もいわないのか。
生長の家の人々は病気によって挑発されている。それゆえ「病気はない」とことさらにいわねばならないのであるが、健康によっては挑発されていないので「ない」という必要はとくにない。これが「健康はない」とはいわない理由であると考えられる。
生長の家の人々は、あるはずのない病気があるようにみえていることによって挑発され、「病気はない」ということで逆にあるはずのない病気を挑発する。挑発し挑発されるという関係がここにあるとするなら、これを享楽というしかない。生長の家の人々は病気でさえも享楽の対象にしようと欲する人々ではないのか。たぶんそうなのだろう。
はたして総裁は享楽する人なのか。ローストチキンを食べたかどうかで騒がれるような人物が「享楽する人」であるとは、わたしにはとてもおもうことができない。ここでいう享楽とは、「生物資源や地下資源の収奪」という形で自然界を挑発し、そうすることで自然界からのさらなる誘いを受けるという形で自然界によって挑発される状態をいう。はたして総裁はいかなる意味で「享楽する人」といえるのだろうか。
本流が総裁によって挑発され、逆に総裁を挑発することで「享楽する人々」となっているのはまずまちがいない。総裁がどのように享楽を肯定しておられるのか、教えていただければ助かります。女性スキャンダルはないと聞いております。事実かどうかはわかりません。
どなたかこれをトキさんの掲示板に貼り付けてくださいますでしょうか。
128
:
志恩
:2014/03/20(木) 20:53:43 ID:.QY5jUA6
「真理」について、初心者様と仲良しでいらした役行者様が、過去に熱く語っておられました。
ところで、役行者様は、最近、全然、いらしてませんけれど、お元気でいらっしゃるのでしょうか。
……………...
1986 :役行者:2012/04/01(日) 04:25:34
八咫烏さま
また、
皆様
真理について、語らせてください。
>真理を探求するとは、前にも言いましたように、生長の家の信徒は教えを知識ではなく、
魂全体で感得したい、全人的に体得したいと願うも のなのです。
しかも、悟りといっても無限に続くものであり、一 段登ったら、次の段階があり、
それは果てしないともいえます。
実相は完全ですが、実相は完全であり無限であるからこそ、
この現象世界は 無限に実相をあらわし続けるものだと思います。 だから欲求も無限にならざるを得ません。<
同意します。
真理は汝を自由ならしめん!とのイエスの言葉があります。
無限に生成発展してゆくのが、実相世界と存じています。
完全の中に無限も含まれていると存じるのです。
ですから、私も、たとえ真理探究と云えども、救済・信仰と切り離すべきではないと存じます。
>組織は、信仰者(賛同者)の集合ですから、それが 有機体的に機能するには、
やはり中心帰一というものが必要で、そうでないと 単なる集合に過ぎません。
しかし、信仰者個人にとっては、組織は信仰というものに付随する救済や個人の悟りの深化とか
そうしたものの達成のためにあるのであって、 組織がそうした個人の欲求とずれてくると、
個人に とって、組織は意味がなくなります。
信仰者にとっては、トップヘの忠誠心は、実は神へ の忠誠心の代理であり 、
信仰者はトップが神の委託(神意)に答えていないとみなすと、求心力はなくなるでしょう 。
個人としては、そういう組織を改善しようとする か、個人の信仰の質を変えるかしかないと思いま す。
それによって、求心力と遠心力のバランスは保たれると考えます <
まさしくそのとおりと存じます。
生長の家では、信仰とは実相の中に、入ることだと云っています。
ですから、究極的には組織とは関係がなく、個人の悟りの深化の問題だと思います。
ただ、組織はその深化に支援、協力、手助けをする役目もあるのではないかと存じます。
reiさまも云われていますよう、信徒も真剣だと思います。
自分の魂が救済されたいのです。自分の信じている教団が間違った方向にいっていたら憂うべき問題ですよ。
たとえば、信仰が自らの内に向かうか、外に向かうか、でも違ってきます。
自分のなかに神が存在し、内奥の世界に入ることが信仰だと教え諭すだけでも、
個人にとりまして大いに救済となることでしょう。
ベクトルが神の道に向いているか、いないかで、組織としての人類に果たす役割がまったく違ってくるでしょう。
ですから、宗教家、特に教団トップの発言は、本当に大切なのです。
129
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 20:59:05 ID:???
>>123
>>127
初心者さま依頼による貼り付け
130
:
志恩
:2014/03/20(木) 21:18:45 ID:.QY5jUA6
ジャリンコチエ様
結婚後に、雅宣総裁に女性問題があるかないかは、わからないことですが、
そういう場合は「禁欲」とはいいません。「浮気」は、していないといいます。
それで、
雅春先生がご結婚前に、異性に深い仲にあったからということで、
なんか、そんなチンケなことでしか、
雅春先生を見下せないんですか?情けないと思われませんか?
こんなこといったら、
ここをご覧の皆様方は、どう思われるとか申しますと
そうだったか、そうだったか、雅春先生は、若い頃、もてたんだな?
それにひきかえ、雅宣様は、若い頃、もてなかったんだな。
それで、おわりです。
現象はない、肉体は無い、物質は無いという意味は、
「永遠には、存在するものでは 無い」という意味です。
永遠には、存在しないものですから、「無い」というのです。
実相、生命、魂は、「永遠に存在するものである」
だから、「実相はある」というのです。
だいたいですね、現象である肉体人間は、完全無欠な人はいないと思いますよ。
雅春先生だって、ご自分のことを、自分は一生求道者であると言われて、
日々、聖経甘露の法雨を読誦され、神に祈り、生長の家の教えを一番に
実行しようとされておられたと伺っております。
そして、総本山に移られたから、練成会の浄心行の折りには、いっぱい紙にかかれたものを
お出しになられて、信徒の皆様とともに、浄心行に加わられておられたということも
伺っております。
とても謙虚な信徒のお一人でもいらしたと、私は、そのお話を涙を溢れながら拝聴しました。
131
:
志恩
:2014/03/20(木) 22:07:46 ID:.QY5jUA6
不思議に思うのです。
「法燈継承者」の「法」とは、「真理」という意味ですから、
その教えの「法」を、そのまま、継承する人ゆえに、
「法燈継承者」といいますのに、
雅宣様は、生長の家の「法」が説かれている神殿である
「生命の實相」や聖経「甘露の法雨」を
継承されないで、
「生長の家」という看板と
ご祖父様と父上様が遺された遺産だけを、もらって、
好き放題の、ご自分の教えを作って、
新たな教え説いて、なぜ、平然としていられるのでしょう。
恩恵を戴いていながら、ご先祖様の悪口は言い放題、見下げ放題というのは、
これでは、雅宣様は、
ひどい孫だと、皆様に酷評されても、当然だと思います。
132
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 22:13:00 ID:???
>>130
志恩さま
私、ただ貼り付けただけなんですよ。
時間待ちの合間に、たまたま覗いたら掲示板超えで会話されていたのでお節介したんです。
それでよく中身を読んでいないのですが、雅宣さんが禁欲というイメージは私には無いですね。
私が今、心配しているのは八ヶ岳に家族連れで転勤させられた若い職員さんの事です。
幼い子供さんも一緒です。ヤマギシ会を思い出しませんか?
以前、親がヤマギシ会で人生ボロボロにされた人の話を読んだことがあります。
原宿にあれば、子供達に自由はあります。でも八ヶ岳で子供達の自由は限られると思います。
雅宣さんが、どこに住もうが知った事じゃありませんが子供を巻き込むのはおかしいです。
禁欲とは次元の違う話ですみません。
志恩さまが書いて下さったお話は改めて拝読させて下さい。時間が無くてごめんなさい。
133
:
曳馬野
:2014/03/20(木) 22:18:24 ID:MXRELVZA
現象はない、肉体は無い、物質は無いという意味は、
「永遠には、存在するものでは 無い」という意味です。
永遠には、存在しないものですから、「無い」というのです。
実相、生命、魂は、「永遠に存在するものである」
だから、「実相はある」というのです。
------------------------------------------------------------------------
「不生を信得して、四大分散の後、又生るる物か、生れざるか」
答云、「不生の場には、生るるか生れざるかの沙汰はなき也」
魂は、「永遠に存在するものである」・・・・志恩の妄想です、または信じていますと書くべき
134
:
志恩
:2014/03/20(木) 22:22:36 ID:.QY5jUA6
宗教的解釈での「真理」とは、一般言語で言えば、宇宙という存在を
支える働きの根源とメカニズムであり、宇宙に存在する生命の原理のことだと
言われています。
生長の家の信徒である吾々が「生命の實相」を神殿と呼んでおりますのに、
初心者様にとっては、知りたい事が、何も書かれていないとおっしゃる。
これは、相性が合う、合わないという問題ではないでしょうか?
生長の家ではないという人が、なんで、こんなに、雅宣様の
代弁をされるのでしょうか?大変疑問に思う所です。
(⬇初心者様の過去文です)
トーキングスティックボード
660 :初心者:2011/11/08(火) 08:59:48 ID:hogyfr1M
トキ様
わたくしは、みなさまがなぜ、『生命の實相』を重要視なさるのか、正直いって
その理由が理解できずにおりました。わたくしにとって、『生命の實相』は、それほど
重要ではないのですよね。なぜかといえば、『生命の實相』には、わたくしの知りたい
ことが、ほとんど何も書かれていないからであります。
けっきょく、みなさまとわたくしとでは、求めているものが違っているのですよね。
わたくしが求めているのは真理です。真理に救済を求めてはならない。これも
正しいことだと考えています。
みなさまが求めていられるのは、救済ですね。そして真理に救済を求めようとして
おられるのでありますね。このあたりに、根本的な考え方の違いがあるような気が
いたします。
『生命の實相』には、救済の言葉がちりばめられているのでありましょうね。ですが、
わたくしの求める真理は何も書かれていない。それはたしかなことであります。
わたくしが求める真理とは、物質世界の成り立ち、人の世の成り立ち、言葉の
成り立ち、人の心の成り立ち、こうした成り立ちを知るということが、わたくしにとっての
真理を知る、ということになるのだろうという気がしています。
わたくしは、神想観はいたしません。神想観を実習することで、たしかに救済は得られ
るかもしれませんが、物質世界や言葉の成り立ちについての説明は、おそらく得られ
ないと考えるからであります(もし得られるというのであれば、わたくしが納得できる
形で、それぞれの成り立ちを説明していただきますことをお願いいたします。ただし、相当に深く、詳しく説明していただかなければ、とうてい納得できるものではありません。生長の家で語られている程度の説明は、まったく意味がありません)。
神想観よりも重要であるのは、ドリーミングですね。それとフロンティア。以前、
わたくしは、神想観意識状態という言葉を使いましたが、これは右脳意識状態と
言い換えたほうがよさそうです。ドリーミングは、世界の成り立ちを実感できる、
という意味では、神想観よりもすぐれた方法であると、わたくしは考えております。
以上のように、わたくしにとって、『生命の實相』は、重要な書籍ということには
なり得ません。このあたりが、みなさま方とは、根本的に考え方が異なっている
ところだろうという気がいたしております。ですから、教団から『生命の實相』が
消えたとしても、それはそれで、少なくともわたくしにとりましては、なんの問題に
もならない、ということになってくるのでありますね。
まずは、真理と救済の混同をやめること。これが重要であります。救済を求めて
おられる方々は、救済を求めていかれればよろしいのであります。ただ、それを
真理と混同することはやめていただきたい。真理と救済を結びつけることが、
問題を大きくしてしまうのでありますよ。
総裁先生が、『生命の實相』は必要ないと判断されたとすれば、それは、現教団が、
救済活動から離脱するということを表明されたものと考えます。求めるのは真理。
そういうことであるのかもしれませんね。
それと、救済を求めているかぎり、真理にとどくことはないと、ひと言、このように
いっておきたいとおもいます。それが真理であるとおもえていても、真理でない
可能性が高いとおもいます。
135
:
志恩
:2014/03/20(木) 22:27:51 ID:.QY5jUA6
魂は、永遠に存在すると信じる。
これでいい?おじいちゃん。
初心者様に言ってるのに、なんで、曵馬野おじいちゃんが、出て来るのかしら?
136
:
曳馬野
:2014/03/20(木) 22:37:51 ID:MXRELVZA
「神仏にむかい、富貴をねがう。ねがう心やむれば富貴なることをしらず」
「身によき事をこのまんより、身を思わねばやすし」
「ある人問う、悟りとは如何なるものか。予いわく、本心なり。問う、如何なるかこれ本心。予いわく、無一物」
「悟りは念を滅却するを言う。念を以て身をなす。悟れば生きながら身なし」
「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」
----------------------------------------------------------------------------------------------------------
これから見るに志恩閣下は畜生なるべし
137
:
志恩
:2014/03/20(木) 22:38:51 ID:kwDJceLI
もしかして、おじいちゃんて、初心者様だったりして。
138
:
曳馬野
:2014/03/20(木) 22:44:29 ID:MXRELVZA
>>136
は、訊け氏への答弁でもあります
139
:
志恩
:2014/03/20(木) 22:46:19 ID:.QY5jUA6
畜生だって、基地外婆だって、虫だって、シロアリだってぇ、
みんな みんな
いきているんだ
ともだち なんだぁ〜🎵
(どこかで 聴いたことある 歌だな)
もう、寝よっと。
140
:
曳馬野
:2014/03/20(木) 22:48:37 ID:MXRELVZA
>>137
書かれている今の現実は何も理解できず、妄想のみの列挙、志恩閣下
141
:
HONNE
:2014/03/20(木) 22:50:02 ID:jtmmmlXY
初心者さんの考えていることは難しい言葉を使い、言葉の独自な定義もあり、凡人の私には、興味が褪せてしまいます。
私は雅宣さんの具体的な日常生活を知りません。
ただ、一般的に禁欲的な生き方とは、日常生活も節制されたものであると思います。金銭面についても考えます。
どれだけの年収があるのか、どれだけの財産があるのか、収入や財産をどのように使おうとしているのか、私は知りません。
雅宣さんは、森の中で生活していますが、諸々の人造物の中で、文明の恩恵を受け生活しています。
それだけで、じゅうぶんに禁欲的ではないと言えます。
142
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 22:57:54 ID:???
今、帰宅したのでお節介再開します。
次に初心者さまからの投稿を貼ります
143
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 23:00:21 ID:???
692 初心者[] 2014/03/20(木) 22:18:25
わたしはここで、総裁がなぜ環境運動に向かったのか、その理由をあきらかにしたいと考えておるのですけども、雅春先生をけなそうとしているとか、そういう方向へ話がむかっているようですね。
雅春先生と現総裁との考え方のちがいをあきらかにせぬかぎり、しかもなぜそうなったのかをそれぞれの志向性にまで踏み込んであきらかにせぬかぎり、問題はなにも解決せんでしょう。微力ではあってもそれをやろうとすると「雅春先生をけなすのか」とくる。つける薬がないとはこのことですな。
イデア界と物質界、実相世界と現象世界というように、世界をふたつに分ける行為が人間中心主義を生みだしたとする問題提起への反応はないのでしょうか。総裁はこうした人間中心主義に反発を感じているのではないかとするわたしの予想への反論はないのでしょうか。あるいは病気治しに真理を利用せんとすることの是非。人間中心主義におちいった人々は真理を私的に利用することを当然のことと考え、利用にあたってはなんの躊躇も示さなくなる。もちろんこうした利用的態度は生物資源や天然資源にたいしてもあてはまる。こうしたことを問題にしておるのですが、なにか言いたいことはないのですか。
144
:
ジャリンコチエ
:2014/03/20(木) 23:10:27 ID:???
ちゃんと貼れているか自信がありません。
できれば訊けさん掲示板で確認を↓
「脱力ネタ」板
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/
145
:
曳馬野
:2014/03/20(木) 23:13:27 ID:0V38cPwo
>>141
HONNEさん
求める心の無い人にとって「生命の実相」に説かれるものは不必要と云うのは解ります。
実相に於いてすべて満たされている、として現象と対比することに問題があります。
実相のみ実在と云いつつ現象を持ち出すところが?なんです。
全部持っていると云う観念のある所には足りないと云う観念は存在できないです。
現象に不完全を見る人は、足りないものがあると云う心の人です。ですからあらかたの生長の家人は、救済を求め、
「生命の実相」がそれに答えてくれると思う人は、言葉に酔っているのでしょう。
146
:
トキ
:2014/03/20(木) 23:35:36 ID:yDDmlM22
ジャリンコチエ 様、ありがとうございました。
私は初心者様=総裁という考えはしていませんが、ともかくも
教団を援護する人から、現在の教団の方針を理論的に説明する
ご文章を頂戴したのは心から歓迎します。
ともかく、最後まで初心者様の説明を拝聴し、その上で、同意
にしろ、反論にしろ、すべきだと考えています。
147
:
レンゲソウ
:2014/03/21(金) 02:03:18 ID:ZFhAQA9.
曳馬野さんには、吉田國太郎先生の言葉を送ろう。
「悟るということは、難しいといえば難しいことです。佛の言葉を澤山憶えて、それをうまい
具合にふりまはせることと、悟りが深まったことは、一寸見た目には同じ様に見えても、全く別
の事です。どれだけの相違があるかと云ふと、我の上へ佛の言葉をのせて走っているか、我が消
えて佛の生命が生きているかの相違です。動いている姿は同じ様でも、結局、我が動いているか
佛が動いているかの相違ですから、天と地程の相違です。此処のところを、自分がしっかり、
しっかりみつめて行きませんと、大変なことになります。」
常楽への道 吉田國太郎先生著、p26より
148
:
曳馬野
:2014/03/21(金) 05:02:05 ID:MXRELVZA
レンゲソウさん
往相精進の境を超えて、より前のものを下さってもね
この言葉で私を指摘するならば、本流派は生命の実相の言葉を振り回しているが、
そのようには生きてはいない。
149
:
志恩
:2014/03/21(金) 05:20:02 ID:.QY5jUA6
初心者様
トキ様が上記のように仰っておられますので、
現在の教団の方針を理論的に説明する
ご文章をお続け下さいませ。
トキ様がお答え下さると存じます。
150
:
志恩
:2014/03/21(金) 06:13:49 ID:.QY5jUA6
生長の家の教えが最高であるという主張は、間違っているとは言えないと思います。
すぐれていると主張するのも理由があるからです。
生長の家の宗教も、また、他の新しい宗教のことを考えてみましても、
新しい宗教というのは、創始者が、それまでの宗教では救われない、あるいは飽き足らない中で、
道を求め続けた結果、神と出会ったり、神からの啓示を享けて、安心立命を得ることによって、
出現してるわけです。
当然、本人にとっては、それが最高の教えと実践ということになります。
そこで、信徒になって、救いや安心を得た人々にとっても同様です。
そもそも信仰をするということは、たいていの場合、現実的な価値観を超えた価値を
見いだしたからこそ、するものです。また、信仰には、従来の価値観を否定して、
生長の家でいうならば「実相独在」「人間神の子」の『唯神実相論』という信仰対象に
絶対的に帰依するのでなければ、意味がないともいえます。
その人たちにとっては、自分たちの宗教が間違いなく唯一絶対であり、あるいは、最高
かつ完全であるのです。
(他人を害するような犯罪カルト宗教は、論外)
私が、この年まで生きて来て、様々な宗教を信仰する人や無宗教の人を見て来て思うのは、
あくまで、「その人たちにとって」唯一絶対であり、最高で完全だということで、
あらゆる人にとって、というのではないように思います。
真理そのものは、唯一なのですが、それに至る道程は、個々人において、個性があるので、
千差万別でありますし、
真理は唯一絶対であっても、信仰は、真理に至るための手がかりだからです。
よく、「人を見て、法を説け」と言いますものね。
同じ法を説かれてもピンと来る人、来ない人がいるのも当然です。
結局、信仰には相性があって、相性が合わなければ、どんな優れた宗教でも、
合わない人にとっては、なんの値打ちも感じられないのです。
ですが、自分がなにも得るものが無いというのは、その人の適性の問題ですから、
自分が合わなかった宗教を非難したり、本流をばかにしたりする権利等、
全くないのです。
他人が熱心に信仰しているものに、ケチをつけることなど、もってのほかなのです。
自分が、そこから去れば いいだけのことなんです。
しかも、ケチをつけている教えの「看板」と「遺産」だけは、ちゃっかり手中に握り、
自分に合っている、または、人間には、これが最善だとその人が思う、新しい教えである
環境問題オンリーを、平然と 説いているなんて、
そういう人間のことを、盗人(ぬすっと)甚だしい人というのです。
151
:
志恩
:2014/03/21(金) 07:27:53 ID:.QY5jUA6
生長の家を信仰している人たちのことですが、
自分に合った信仰、喜んでやりたいと思える信仰が、その人にとりましては、一番よい信仰だと思います。
そして、一歩でも二歩でも成長することが、自分のためにもなり、また、
神様の御心にも適うことだと思っております。
「生命の實相」で救済を利用するとか、求めるといわれますが、
この世に生きている以上、やはり、「現世利益」は重視すべきだと考えます。
大昔から人類は、五穀豊穣を神々に祈ったり、身内に病があれば、治癒を
願い、祈祷師やシャーマンに頼って来た事でも、分かります。
現実が、健康であり、商売も繁栄し、経済も安定し、
よりよい結果がでるように祈ることは信仰であり、
人間が持って生まれた自然の感情だからです。
自分の心に安心立命があってこそ、家族のことだけでなく、地域のこと
大自然のこと地球のこと宇宙のことまで、心が広がるのではないでしょうか。
ですから、信仰の基本は、やはり、個人救済だと思っています。
話が変わりますが、
初心者様が、神想観が合わなくて、シャーマニズムのドリーミングという
瞑想の方が合うというのは、
それは、その方が、初心者様の肌に合うからでしょう。
私は、初心者様が、雅宣総裁であるかどうかは、全く分からないです。
そのことを前提にしてお話させて頂きますが、
かって、うのはなさんが、自分の前世の1つは、アメリカインディアンだったと
いわれたことがあると書かれた時、
初心者様は、それに、非常に反応を示されました。
トーキングスティクボードは、アメリカインディアン関係のものであり、
初心者様の発案で、義春様が、たちあげられた掲示板ですよね。
その時、私は、初心者様の前世の1つも、アメリカインディアンでは、
なかったのかな、と思っていました。
あとから知りましたが、彼らは、 シャーマン 一族だからです。
彼らは、山岳信仰といいまして、山が、神であり、大自然を神として崇拝していた民族なのです。
そして、
常に、山岳に住んでおり、街には、住んでおりませんから、山岳に行くと、落ちつくようです。
彼らは、皆で 焚き火をして、ヤッホーヤッホーと、竹槍を担いで、焚き火の周囲で踊っていました。
ですから、もしも、初心者様も、焚き火がすきで、火を燃やすと快感を感じるとしたら、
前世の血が騒ぐのかもしれないな、とも思えます。
以前、初心者様は、自分がアメリカインディアンだったら、「狩人」(狩猟)の役目をしていたと思うと
言われました。人に説教するのも好き、気に入らない人のクビをヤリでさしたり(⬅これは冗談ですが)
本流を狩るのも、多分ですが、お好きそうですから。
初心者様が愛用されているという「フラワーエッセンス」も、アメリカインディアン
というシャーマン達が、考えて、彼らが愛用していたのです。
それに、インディアンというのは、アメリカの原住民ですが、もとはといえば、インドから渡って来たそうなんです。
インド人て、 ガンジーみたいに哲学や瞑想が好きな人が多いですよね。
ですから、初心者様の、元々の、魂は「日本人」の魂ではなく『アメリカ人」の魂を、持っているんじゃないのかな、
と、私は、密かに思っていました。
ここを、もうすぐ、卒業させて頂く予定でおりますので、打ち明けますけれど。
単なる妄想です。
もう1つの妄想は、
初心者様は、元々が、アメリカ人の魂を持っているので、古来からの日本人が馴染んで来た日本の形式は、
古いと感じて封印し、西洋式の方がいいというお考えで、西洋式に変換しているのではないのかなとも
思った事です。
以前、初心者様は、自分は一生を シャーマンとして生きると仰ってましたが、
今後も、初心者様は、アメリカインディアンみたいな、シャーマンとして、現世も生き続けられるのでしょうか?
あるシャーマンの人からのコンタクトもまだ受けていらっしゃるのでしょうか?
152
:
志恩
:2014/03/21(金) 07:45:37 ID:.QY5jUA6
初心者様
よろしかったら、トキ様掲示板の方へお越し下さいませんか。
その方が、トキ様も お返事し易いと存じますが。
153
:
初心者
:2014/03/21(金) 09:10:09 ID:k.9Qtig6
志恩様
>当然、本人にとっては、それが最高の教えと実践ということになります。
そこで、信徒になって、救いや安心を得た人々にとっても同様です。
なにを信じようと、それは各人の自由でしょう。しかし、あなた方はそうした自由を踏みはずしたところで発言しておられる。「お前は迷っている」、「おまえの言っていることは浅はかな人間知だ」、「おまえのいってることはすべて虚説だ」と、異なった意見をいうものをこのような言葉で否定してきたのは、あなた方ではないですか(いまだに「虚説」と言いつづけている人がいるのではありませんか?)。
「生長の家でもないのにおまえはなぜここにいるのか?」。それはあなた方がわたしを挑発したからですよ。だからわたしはあなた方を挑発する。これは享楽?そうかもしれませんね。
154
:
トキ
:2014/03/21(金) 10:04:06 ID:OkZqAh9E
私見ですが、初心者様が「だはは掲示板」に登場されたのは、
邪魔をされたくない、というご希望があったと推察しています。
この掲示板は、発言は自由ですが、反論も自由なので、なか
なか落ち着いて発言ができない部分もあります。
皆様、ともかく、初心者様の発言を聞いて、それから、反論や
賛成意見を展開して下さりませんか。
155
:
志恩
:2014/03/21(金) 10:34:28 ID:.QY5jUA6
初心者様
トキ様が仰る通り、雅宣総裁の代弁者として、なぜ、雅宣総裁が、環境問題1本に
しぼったのか等につきましても、続けて、お書きになられて下さい。
私は、本流派で ありますけれど、トキ様掲示板の者なんです。
初心者様の過去文を拝見しますと、はっきりと、自分は、アンチ生長の家だと
発言しておられる数々の文があります。
これでは、追求されて、当たり前のように思いますが。
なぜ、初心者様が、虚説を言ってると、
本流の皆様に、言われなきゃならないかという事は、
私でなく、組織内のこともお詳しいトキ様がお答え下さると思います。
私は、組織内の出来事には、疎いのです。
どうぞ、ここで、続きを ご発言ください。
………………………………………
トキ様
初心者様へのお返事をお願いします。
私ごとですが、私は、只今、「おはぎ」をこしらえている最中で、いそがしいのです。
「おはぎ」は、小豆アン、きなこ、ごま、の三種類を、いつも作っています。
私の作る「おはぎ」は、甘みをおさえていて、とても美味しいと、昔から、家族に好評なんです。
今日は、子供も、孫も来ます。
トキ様が、近かったら、おすそわけを持って行って さしげるところなんですが(笑)
ハッサクもいいけれど、たまには、おはぎ もいいですよ。
156
:
ユタカ
:2014/03/21(金) 11:00:20 ID:N20ePDNw
>> 皆様、ともかく、初心者様の発言を聞いて、それから、反論や
賛成意見を展開して下さりませんか。
初心者には沢山の部下がいるようで、書き手が変わるので不誠実で大嫌い。
157
:
ユタカ
:2014/03/21(金) 11:45:23 ID:N20ePDNw
だはは板の初心者って訊けサン本人だと 思っている。
それぞれ書き方が違う気がする。。
158
:
トキ
:2014/03/21(金) 12:16:39 ID:OkZqAh9E
まあまあ、先ずは話を聞きましょうぜ。
159
:
「訊け」
:2014/03/21(金) 12:22:47 ID:???
>>>だはは板の初心者って訊けサン本人だと 思っている。<<<
・・・・・。
灰
追伸
初心者 = 訊け = 総裁(!)
・・・・オレ様ついに、「総裁にまで昇りつめまし」た。(いままではせいぜい、「総裁の手下」くらいですたが)
160
:
「訊け」
:2014/03/21(金) 12:33:14 ID:???
>>>私見ですが、初心者様が「だはは掲示板」に登場されたのは、
邪魔をされたくない、というご希望があったと推察しています。<<<
そうだと、思います(笑)。
ちなみに現在、〝総裁疑惑のアル〟初心者さまが、以下で語られておられます。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/l50
「総裁を論破!」な目的で結集されたという、そんな「本流派」な方のご登場をお待ちしております。世間に本流派の底力ですが、「見せるチャンス」ですよ(笑)。まあ、ボロ負けだけは避けてみてください。
また私は、積極的に介入します(笑)。ただし、介入するのは「正々堂々の議論」です。これを阻害するような投稿には、注意をします。私は総裁派でもなく本流派でもありません。「正々堂々の議論派」です。
正々堂々の議論で、〝仮想総裁〟の初心者さまを論破、くださいませ。
拝
161
:
ユタカ
:2014/03/21(金) 12:38:20 ID:N20ePDNw
>153なにを信じようと、それは各人の自由でしょう。
生命の実相を神殿と信じ、甘露の法雨は観世音菩薩が雅春先生を通して世に出たと信じている。
総裁のようなマサノブさんの駄本は¥1で価値がない、災害を呼び寄せる名人、今まで発想はいいとこついているが実行となると、大失敗の人と信じている。
162
:
ユタカ
:2014/03/21(金) 12:53:46 ID:N20ePDNw
>奇跡が起こらなくとも、あなたは雅春先生の教えを「真」とみなすのか。病気が治るからこそ、奇跡が起こるからこそ、「真」とみなすのではないのか。「病気が治ったからこれは真理だ」というのは、こういうことをいっているのですよ。「ちがう」というのであれば、自分の意見を堂々と書きたまえ。
これだけ読めば、こいつのほうがご利益信仰だろう・・。 大自然災害は自然の恵みだと勝手に思っておけばいい。。
163
:
ユタカ
:2014/03/21(金) 13:07:17 ID:N20ePDNw
>奇跡が起こらなくとも、あなたは雅春先生の教えを「真」とみなすのか。病気が治るからこそ、奇跡が起こるからこそ、「真」とみなすのではないのか。「病気が治ったからこれは真理だ」というのは、こういうことをいっているのですよ。「ちがう」というのであれば、自分の意見を堂々と書きたまえ。
幹部の女房の話を鵜呑みにし過ぎだ、幹部の女房が誌友会で亭主の給料がいかに多額か、自慢の生活ぶりを嬉々として講話している。
ご利益信仰以外は信仰ではないようだ。 金だけはあるが、子孫に不良がいる。
164
:
「訊け」
:2014/03/21(金) 13:13:19 ID:???
>>ユタカさん・・・
そんな話を、してんじゃナイんだ。
拝
165
:
ユタカ
:2014/03/21(金) 14:19:08 ID:N20ePDNw
分かっている・・・
君のとこに参加していない、一人でホザイテイル。
166
:
神の子さん
:2014/03/21(金) 15:26:22 ID:usA6h23w
1 名前:トキ 投稿日: 2013/12/18(水) 18:58:49 ID:0/huqta2 実相哲学を論じる部屋を作りました。
167
:
うのはな
:2014/03/21(金) 15:31:37 ID:usA6h23w
ユタカ氏へ。
ここでの初心者さんの話題について話しているんだから、あなたの投稿は
間違っていないと思います。
すくなくとも、ここは俺が〇〇か、何者かを論じ合う場ではないと思うので。
168
:
トキ
:2014/03/21(金) 15:48:23 ID:OkZqAh9E
私見ですが・・・・。
今まで、教団あるいは教団を支持する人達から、谷口雅宣総裁の急激な路線変更
について、内容のある説明はなかったと感じています。今回、教団を支持する人の
一人から、ようやく説明が行われようとされています。まず、そのことを歓迎する
と共に、説明を聞きたいと思います。
169
:
志恩
:2014/03/21(金) 19:29:48 ID:.QY5jUA6
トキ様、ユタカ様
初心者様の過去文です。
「自然への回帰」という「環境問題」をやる理由を述べておられる投稿文がございました。
最近は、人間中心主義をやめて、自然中心主義に変えるためだと、
後からつけたような、へ理屈を言ってますが、結局、生長の家とは、全く関係ない
シャーマニズムを、面白いからという理由で、個人で勝手にやってみようと思うと、語っているのでした。
………………………………………………….
信仰板
1866 :初心者:2012/03/27(火) 16:42:58 ID:ixiWFYoQ
さくら様
組織が変わらないのであれば個人でやるしかない。
そういうことだろうとおもいます。
わたくしは、生長の家が嫌いになりましたから、
首を突っ込むつもりはありませんが、「個人の立場で」巻き込まれる可能性があります。
仮にそういうことになれば、私家版の「ボロメオの輪」を実践する
つもりでおります。
いうまでもないことですが、
巻き込まれるということになれば、教義を否定するがごとき乱暴な話を いたしたりはいたしません。
できれば、アーノルド・ミンデル(志恩注:シャーマニズム)を救済に役立てたいと考えております。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
♠[ 初心者様が考えておられる
「真理」・「救済」・「信仰」とはを、彼が、明記されておられる投稿文です。]
♠[初心者様は、私の「真理」は、生長の家とは、無関係である。
アーノルドミンデル(シャーマニズム)を応用して、個人で勝手に、やってみようと思う。]
♠[「自然への回帰」を、面白いから、やってみようと思う。]
と、明言されてます。
…………………………………………………………………………………..
1868 :初心者:2012/03/27(火) 18:53:48 ID:ixiWFYoQ
訊け様
お答えいたします。
>1) ここで云う「真理」とはなにを指すのでありましょうか。これは「真理の追究」を指す、
という理解でよいのでありましょうか。
わたくしのいう「真理」とは、生長の家とは無関係です。
現代思想と現代科学から何を学ぶかということです。
じつはわたくしのなかでは、このふたつはつながってきています。
現代科学の成果にたいして、生長の家の教義では説明できないことがらが、
現代思想では説明できてしまう気がするのですね。
その昔、仏教中観派もおなじようなことを言っていたと理解しております。
このあたり、面白いので追究していきます。
もちろん、たいしたことはできませんけども。
面白いからやるだけです。
>2)同じく「救済」とはどういった規模のものでありましょうか。
また、たとえば現在の教団方針(CO2削減等)はここに含まれるという理解で宜しいのでありましょうか。
「救済」は、なすとすれば、個人で勝手にやってみようということです。極小規模です。
アーノルド・ミンデルを応用できれば、これはよいですね。
「組織」としての「救済」は、もちろん「環境問題」ですね。
>3) 最後に「信仰」に関してでありますが、これはどんな意味になりましょうか。
「聖典を機軸とした」方針で行きつつも、「真理探究の結果知りえた」ことがらを随時反映させて行く、
そういったイメージでありましょうか。
イメージしている信仰は、個人的には素朴なものですね。
宗教とはおそらく無関係です。
『自然状態への回帰』。
これができればよいですが、以前にもこちらで書き込み
いたしましたように、ヘタにこれをやると、日常生活への適応が困難になります。
組織としては、『生命の實相』中心ということになるでありましょうね。
>この箇所での補足説明を賜れませんでしょうか。「現実界=真理」を「取り除く」のイメージが
俄かには湧いて参りません。
そしてそれが可能ならば、
和解も可能とのことですが、少々思考に混乱を来たしている現在でありま
す。返信ご掲載の労を賜りましたら幸いであります。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板