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実相哲学を論じる部屋
114
:
a hope
:2014/03/12(水) 08:14:37 ID:cEpBaIdo
(つづき)
ただ影だから全てバラバラであると言う訳ではないと僕は感じております。
この「物の見え方」、赤と云う色が赤で表現される、それが共通であることが、そもそも人間が物質であれば有得ない事なのです。
それは、例えば、菌を培養すると菌は数代でも継代培養する事で、新たな性質を獲得し、
まるで違う遺伝情報を次の代に渡していく事が往々にあります。
もし我々がバラバラであるなら、菌と同じように、我々の眼で見る色は全ての人で違ってきて、
或る人には赤く見え、或る人には青く見えるでしょう。
このように遺伝子情報を継代していくと言う事は、現代の生命科学の主流から言えば、
生物は新しいスキルを獲得して進化していくのであるから、常に遺伝情報が書き変わる可能性があります。
しかし、それにあっても、人間は赤いものは赤く見えると物の見え方は共通しています。
これは眼という臓器の遺伝情報が固定されていると言うのでは、生命科学の考え方とパラドックスを起こしありえないのです。
だから、それよりも人類の共通した意識の表れであるともいえるのです。
だから、このバラバラに見える影の世界にあっても人は部分的に自他の境を超えて共有しているというところがあります。
また、生長の家では、このバラバラという現象は本来ない、【無】というものであるからこそ、
中心であると言うのが天皇の実相であると説かれています。
【無】というのは光そのままであるから、本来は自と他という区別が無いから、全てが中心であるということ。
だからこそ、天皇陛下は常に無私の愛を日本国民だけでなく、世界のあらゆる人や人だけでなく一切のものに深い愛を持っていられる、
それだから天皇を通じて無の関門を越えるとなろうかと僕は感じます。
(つづく)
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