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実相哲学を論じる部屋

150志恩:2014/03/21(金) 06:13:49 ID:.QY5jUA6
生長の家の教えが最高であるという主張は、間違っているとは言えないと思います。
すぐれていると主張するのも理由があるからです。

生長の家の宗教も、また、他の新しい宗教のことを考えてみましても、
新しい宗教というのは、創始者が、それまでの宗教では救われない、あるいは飽き足らない中で、
道を求め続けた結果、神と出会ったり、神からの啓示を享けて、安心立命を得ることによって、
出現してるわけです。

当然、本人にとっては、それが最高の教えと実践ということになります。
そこで、信徒になって、救いや安心を得た人々にとっても同様です。

そもそも信仰をするということは、たいていの場合、現実的な価値観を超えた価値を
見いだしたからこそ、するものです。また、信仰には、従来の価値観を否定して、
生長の家でいうならば「実相独在」「人間神の子」の『唯神実相論』という信仰対象に
絶対的に帰依するのでなければ、意味がないともいえます。

その人たちにとっては、自分たちの宗教が間違いなく唯一絶対であり、あるいは、最高
かつ完全であるのです。

(他人を害するような犯罪カルト宗教は、論外)

私が、この年まで生きて来て、様々な宗教を信仰する人や無宗教の人を見て来て思うのは、

あくまで、「その人たちにとって」唯一絶対であり、最高で完全だということで、
あらゆる人にとって、というのではないように思います。

真理そのものは、唯一なのですが、それに至る道程は、個々人において、個性があるので、
千差万別でありますし、
真理は唯一絶対であっても、信仰は、真理に至るための手がかりだからです。

よく、「人を見て、法を説け」と言いますものね。
同じ法を説かれてもピンと来る人、来ない人がいるのも当然です。

結局、信仰には相性があって、相性が合わなければ、どんな優れた宗教でも、
合わない人にとっては、なんの値打ちも感じられないのです。

ですが、自分がなにも得るものが無いというのは、その人の適性の問題ですから、
自分が合わなかった宗教を非難したり、本流をばかにしたりする権利等、
全くないのです。
他人が熱心に信仰しているものに、ケチをつけることなど、もってのほかなのです。

自分が、そこから去れば いいだけのことなんです。

しかも、ケチをつけている教えの「看板」と「遺産」だけは、ちゃっかり手中に握り、

自分に合っている、または、人間には、これが最善だとその人が思う、新しい教えである
環境問題オンリーを、平然と 説いているなんて、
そういう人間のことを、盗人(ぬすっと)甚だしい人というのです。


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