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実相哲学を論じる部屋

127ジャリンコチエ:2014/03/20(木) 20:50:04 ID:???
690 初心者[] 2014/03/20(木) 20:12:13

トキさんの掲示板で、HONNEさんという人から以下のような問いかけがなされているようです。

>【享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方】とは具体的にどうのようなものですか?
私は、雅宣さんは享楽も肯定しているし、禁欲的ではないと思っていますが・・・

わたしは総裁がどのような生き方をしておられるのか、正確には存じておりません。ただ、断片的に入ってくる情報から想像的に組み立てたのが「享楽を否定する生き方」というものでした。HONNEさんは総裁のことをよく存じておられるようなので、むしろこちらのほうが、総裁がどのように享楽を肯定しておられるのかを教えてもらいたいくらいです。総裁ははたして、いかなる意味で享楽を肯定しておられるのか、具体的に教えていただければこちらとしても返答のしようがあるとおもいます。

ちなみに、享楽の意味について、わたしは「挑発」ということをキーワードにこれを定義したいとおもいます。美的人生を追求しようと欲しておられた若き日の雅春先生は「そこにあるはずの美」を挑発し、そうすることで逆に「そこにあったはずの美」によって挑発されていたと、このように考えております。挑発し挑発されることで生じる快楽の連鎖。これをわたしは享楽と定義いたしたいとおもいます。

肉体はない。生長の家ではこのように説かれています。肉体がないのであれば病気などあるはずがない。したがって「病気はない」となる。ならば健康はあるのかといえば、肉体がないのに健康などあるはずがない。しかし「健康はない」とは誰もいわない。なぜなのか。

病気は悪であり現象であるから「ない」のであるが、健康は善であり実相であるから「ないとはいわない」と説明されても合点がいくものではない。たとえ実相を持ち出されたところで、肉体はないのであるから健康な肉体もないにきまっている。なのに、なぜ「健康はない」とは誰もいわないのか。

生長の家の人々は病気によって挑発されている。それゆえ「病気はない」とことさらにいわねばならないのであるが、健康によっては挑発されていないので「ない」という必要はとくにない。これが「健康はない」とはいわない理由であると考えられる。

生長の家の人々は、あるはずのない病気があるようにみえていることによって挑発され、「病気はない」ということで逆にあるはずのない病気を挑発する。挑発し挑発されるという関係がここにあるとするなら、これを享楽というしかない。生長の家の人々は病気でさえも享楽の対象にしようと欲する人々ではないのか。たぶんそうなのだろう。

はたして総裁は享楽する人なのか。ローストチキンを食べたかどうかで騒がれるような人物が「享楽する人」であるとは、わたしにはとてもおもうことができない。ここでいう享楽とは、「生物資源や地下資源の収奪」という形で自然界を挑発し、そうすることで自然界からのさらなる誘いを受けるという形で自然界によって挑発される状態をいう。はたして総裁はいかなる意味で「享楽する人」といえるのだろうか。

本流が総裁によって挑発され、逆に総裁を挑発することで「享楽する人々」となっているのはまずまちがいない。総裁がどのように享楽を肯定しておられるのか、教えていただければ助かります。女性スキャンダルはないと聞いております。事実かどうかはわかりません。

どなたかこれをトキさんの掲示板に貼り付けてくださいますでしょうか。


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