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実相哲学を論じる部屋

1トキ:2013/12/18(水) 18:58:49 ID:0/huqta2
 実相哲学を論じる部屋を作りました。

2うのはな:2013/12/19(木) 16:10:40 ID:buTH5B6I

岡本さんは練成中に講話をききながらも、どうも割切れない気がするのです。
「俺は正しいことをして、こんなに苦労している。そして自分は銀行から金を借りたり、親戚で無理を言って
金を借りたりして品物の代金を支払っている、それなのに、俺に“屁”をかました奴は、のうのうとして、“晩酌でもやろうか”と
言っている。こっちは、そんな所の騒ぎではない。八方金策をして、夜行の電車に乗って集金に往ってふらふらに草臥れて帰ってくる。
やられた者が苦労して、やった奴がのうのうと楽をしている。こんな割切れん問題はない」と思って、その考えが頭の中に一杯充満しているものですから、
折角の練成中の講話も、最初の五日間は自分の胸にピッタリ来なかった。

 青白い痩せた顔を骨ばらせて、眉を釣り上らせ、鬼のような顔をして、相手を呪いながら講話を機械的に聴いていた。
ところが六日目になって徳久講師や喜村講師の講話を聴いているときに何かパッと悟るというか、心にコツンと来たものがあったのです。
(原文は旧漢字)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 このあとを読まれたい方は、『秘められたる神示』君民同治の神示講義 谷口雅春先生著を読まれるか、
自殺を考えた俺からすると甘ったれるなと女性信徒に絡んでくる自称「谷口雅春の弟子」である
訊け管理人さんの謹写をお待ちください。

3うのはな:2013/12/19(木) 16:14:36 ID:buTH5B6I

○ 環境を通して實相を語っている現教団は、ダメなんですかね。

  環境を通して實相哲学書を絶版にしている教団ではダメですね。
  これは訊け先生に頼るしかありません(笑)

4復興G:2013/12/21(土) 03:31:19 ID:AB6RqYXc

< 本流対策室/5 >5021のつづきです。>

>5019 :身分いやしきもの様

>> 実相世界はどうなっているのかと問うのはすべてナンセンスだということですね。わかりました。わかるはずのない実相世界でみんな仲良く暮らしているだとか、健やかに暮らしているだとかというのももちろんナンセンスですよね。実相世界について復興Gさまが語っておられることもすべてナンセンスということですね。「実相世界にはパースペクティヴがある」だとか「無限の素晴らしいアイデアがある」だとかといっておられたのもナンセンスであったということですね。「善のみ」というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね。<<

上の前半(わかるはずのない実相世界でみんな仲良く暮らしているだとか、健やかに暮らしているだとかというのももちろんナンセンス)は、「その通りです」 と言えるでしょう。

しかし、あらゆるもの(の霊的原型)が備わっているのだから、「無限の素晴らしいアイデアがある」 というのは、そう言って間違いではないでしょう。

また、
>> 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね <<

というのは――「善・悪 相対の善」 に限定されるということはない。対立を一切の対立を包み超えているんですから。

では、実相世界に 「悪」 も存在するのか、と言えば、「悪」 という 「善に対立するもの」 は存在しない。現象界に於いても、「悪」 はない。「悪」 と見えるものは 「善」 が現れようとしている過程である、と見るのが光明思想なのですね。

また、「わかるはずのない実相世界」 のことを、わかったかのごとく、ナンセンスなことを語ってしまいましたね……。

まあ、本当は何もわかっていない私ですが、以上のようなことを考えながら、ただ生かされていることに感謝あるのみです。ありがとうございます。

5身分いやしきもの:2013/12/21(土) 09:15:23 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>まあ、本当は何もわかっていない私ですが、以上のようなことを考えながら、ただ生かされていることに感謝あるのみです。ありがとうございます。

どうしてこのようなきれいごとで締めくくられるのですか。ここは哲学を論議する
場所でありますので、ご自分をかえりみられるのは、まだまだ先であってよいので
はないですか。

>特定の構造に限定されていないものを、「どのような構造をしているのか」 と問うのは意味が無いというか、答えられません、ということなのですが、「ナンセンス」 と言ったのは失礼だったかと思います。それはお詫びいたします。

実相世界に支配的な構造は存在しない。こういうことをいっておられるのですね。
構造を持たず、無限定であり、それでいて秩序だけはあるというのが実相世界で
あるようですね。もしそうなら、秩序はいったいなにによってもたらされているの
でしょう。「なにによって」というよりも、無限定でありながら、秩序はどのようにして
維持されているのでしょう。

実相世界についてはなにも語れないのであれば、秩序があるかどうかもいえない
ということになるのでしょうか。

ここで構造について私見を述べさせていただきます。すべての物事が縁によって
起こるとすれば、これをひとつの構造ととらえることができます。これを構造と
とらえるならば、こうした構造はどこにあるのかが問題になります。

わたしの考えは、構造は実相世界にある、というものです。実相世界にこうした
構造があるがゆえに、現象世界にもその写しとしての構造があらわれている。この
ように考えればすっきりとした解釈が成り立つものと考えます。

しかもこうした構造は、現象世界においては支配的な構造となっております。こ
のことから考えるなら、この構造は実相世界においても支配的な構造なのでは
ないか、との推測が成り立つはずです。

いずれにしても、復興Gさまは、このような推測に意味はないと考えておられるの
でありますね。であるならば、復興Gさまは、縁起の構造はどこにあるとお考えに
なっておられるのでありましょうか。

6身分いやしきもの:2013/12/21(土) 09:27:32 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>「時空連続体」 の意味がよくわかりません。

詳しいことは存じませんが、相対性理論によると時間と空間はおなじもので
あるようですね。つまり時間と空間は連続している。こういうことになるようです。

復興Gさまは、時間と空間は認識の形式であるいっておられますが、時間と空間の
関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね。認識の形式は
固定されておらず、認識者の立ち位置によってうまく調整されるようです。

7身分いやしきもの:2013/12/21(土) 10:05:24 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

「宇宙は無から生じた」。これが今回のやりとりの発端であったとおもいます。
復興Gさまは、宇宙がはじまるまえに「実相があった」といっておられますが、
それが実相であるという確証はいまたどこにも見いだせてはおりません。

実相ではないべつのなにか、である可能性もあります。しかもこの「べつのなにか」
は時空間上にもあらわれていない可能性があります。もしもそれが時空間上に
あらわれていない「べつのなにか」であったとしても、それは実相ではないという
意味で「ない」といわなければなりません。

それを「ない」というとき、どのような根拠をもって「ない」といえるのでありましょうか。

「唯神実相哲学」は、神とわたしたちが住む4次元時空連続体との関係からはじ
まったと考えます。4次元時空連続体の悲惨なありさまを雅春先生がご覧に
なられて「ない」と看破され、「実相だけがある」と語られたのであります。

論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空
連続体が非在であるがゆえに「神のみあり」との結論がくだされたのであります。

たしかにこうした2項間の関係において、一方が非在であれば、他の一方のみが
「ある」ということになります。しかしこれは、2項間の関係にしぼれば、の話で
あります。第3の項があるのではないか。こうした疑問はとうぜんのごとく出て
まいります。

第3の項については、いかがでありましょう。雅春先生が「実相だけがある」と
悟られたときの論理の進みゆきからは、第3の項の非在を決定することはでき
ません。第3の項の非在の決定はどのようにしてなされたのでありましょうか。

8復興G:2013/12/21(土) 10:57:08 ID:AB6RqYXc

身分いやしきもの様

 まず、>>4の追補として書いたものをアップさせていただきます。

<本流対策室/5 >5019 身分いやしきもの様>
>> (実相世界は) 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね <<

 のお答えについて、追補です。

 屁理屈なら、そういうことも出来ます。

 しかし、私には体験があります。「ただ善のみ」 を全心身全霊で感得した体験です。

 それは、高校2年生を終え、3年生になる前の春休み、ある病気でもう死ぬと覚悟したあと、回復して静養していた或る日のことです。それは、前にも書いたことがあると思いますが……。

 突然、魂の底から、
 「お前は生きているのだ! 生かされているのだ! すべては善のみだ! 人生のどんな困難と見えることも、魂にとって向上の機会とならないものはない。このことを忘れなければ、人生は、ただ喜びばかりだ! ただ前進あるのみだ!」

 というような思いが、湧き上がってきたのです。それで、私の生き方が一変しました。劣等感と罪の意識、自己嫌悪で死にたいとすら思っていた人生が、希望と光明に輝く人生に。

 後に、一年以上経ってから、『生命の實相』 を真剣に読むようになった時、
 「これだ! 高校三年になる前の春休みに湧き上がってきた強烈な思いと、まさに一致して、自分の人生を導いてくださるものは、これだ!」

 と魂が踊りました。

 そうして、今の私があります。

 だから、「(実相世界は) 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね」 なんて、屁理屈ではそう言えるかも知れないけれども、私は、「善一元」 が真理であると、固く信じています。

 悪いものは一つもない。ただ善が現れようとしている過程なのだ! と思います。

 教団と “本流” の方たちがきびしく対立して争っているように見えるのも、本当は善一元の、もっともっと素晴らしいすがたが現れようとしている課程なのだと思います。

 激しい対立の後に、どんな素晴らしい世界が待っているか、ワクワクする思いです。

9復興G:2013/12/21(土) 11:05:02 ID:AENtSm/U

>>5 :身分いやしきもの様

>> ここで構造について私見を述べさせていただきます。すべての物事が縁によって起こるとすれば、これをひとつの構造ととらえることができます。これを構造ととらえるならば、こうした構造はどこにあるのかが問題になります。
わたしの考えは、構造は実相世界にある、というものです。実相世界にこうした構造があるがゆえに、現象世界にもその写しとしての構造があらわれている。このように考えればすっきりとした解釈が成り立つものと考えます。
しかもこうした構造は、現象世界においては支配的な構造となっております。このことから考えるなら、この構造は実相世界においても支配的な構造なのではないか、との推測が成り立つはずです。<<

――そのお考えには、納得できます。

10復興G:2013/12/21(土) 11:12:54 ID:AB6RqYXc

>>6 :身分いやしきもの様

>>「時空連続体」 の意味
>>詳しいことは存じませんが、相対性理論によると時間と空間はおなじものであるようですね。つまり時間と空間は連続している。こういうことになるようです。<<

――それは、その通りだと思います。納得しました。

>>復興Gさまは、時間と空間は認識の形式であるいっておられますが、時間と空間の関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね。認識の形式は固定されておらず、認識者の立ち位置によってうまく調整されるようです。<<

――ちょっと意味がよくわかりませんが……

>>時間と空間の関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね<<

 そんなことはないと思います。

11復興G:2013/12/21(土) 12:17:25 ID:AB6RqYXc

>>7 :身分いやしきもの様

>>復興Gさまは、宇宙がはじまるまえに「実相があった」といっておられますが、それが実相であるという確証はいまたどこにも見いだせてはおりません。実相ではないべつのなにか、である可能性もあります。<<

 ――何かが始まるという時には、必ずその計画者が存在する。宇宙が始まったという時にも、その計画者といいますか、第一原因者があったはずです。

 その 「第一原因者」 を、「実相」 と名づけたのです。

 それは、キリスト教では 「太初にコトバあり」 と言われる 「コトバ」 であり、「仏」 と言ってもよし、「サムシング・グレート」 と言ってもよい、その意味するものはいずれにしても宇宙の 「第一原因者」 をさしているのであって、別の名前をつけたから別のものであるということにはならないと思います。

 「第一原因者」 は因縁所生のものではなく、すべてのすべてであって、対立する別のものはない、根源なるものでありますから、「実相ではない別のなにか」 はあり得ない。そういうものを 「実相」 というのだと思います。

>>「唯神実相哲学」は、神とわたしたちが住む4次元時空連続体との関係からはじまったと考えます。4次元時空連続体の悲惨なありさまを雅春先生がご覧になられて「ない」と看破され、「実相だけがある」と語られたのであります。<<

 ――ちょっと違うのではないでしょうか。

 谷口雅春先生は、自伝篇に書かれていますように、現象界の悲惨なありさまをご覧になって、『神を審判く』 という小説を書かれたりし、思索を続けられたけれども、思索によって答えを見出すことはできなかった。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<『生命の實相』 第20巻 自伝篇 p.134〜 より>

 わたしは思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地には達しなかった。

 ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の 「色即是空」 という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

 「物質はない!」 とその声は言った。で、わたしは 「空即是色」 という言葉を思い浮かべた。

 と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有(う)よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城(けじょう)にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」

 では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

 「心もなければ何も無いのか」 とわたしは再びその声の主にたずねた。

 「実相がある!」 とその声はハッキリ答えた。

<つづきます>

12復興G:2013/12/21(土) 12:18:36 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 「では、実相とはなんであるか」 とわたしは訊いた。

 「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」 ここに神というのはむろん 「仏」 という意味も含んでいた。

 「心も無いのが本当ではないか。」

 「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別(しん、ぶつ、しゅじょう さんむしゃべつ)と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺(まっさつ)したときに、実相の神、久遠実成(くおんじつじょう)の仏が出て来るのだ。」

 「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」

 「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前(さき)から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」

 わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛(さんらん)と満ち漲(みなぎ)った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――先生は、このようにして、思索によってではなく、天界からの啓示によって 「実相」 を悟られたのではありませんか。

 だから、生長の家は 「唯神実相哲学」 であるとも言われるけれども、単なる哲学ではない。『叡智の断片』 に

     ○

 私を哲学者だと思っている人があるが、私は哲学者ではない。私は神の啓示を、取りついだものである。そして神の啓示にしたがって生きんことを希い、また努力しつつある者である。

     ○

 哲学的の思索は間違うことがある。唯物論の次には唯心論が現れる。思索というものはより多く頭脳的なものであり、論理的なものである。それだけ人間には合理的に見えるけれども、哲学というものは、時代を超えることが出来ない。合理は時代に即して合理だと思われるのである。時代に即しない合理は人から不合理だと思われる。或る時代に合理的だと思われたものは、次の時代には不合理だと思われる。人間の作った合理などは決して当てにならないものである。

     ○

 と書かれています。ですから、身分いやしきもの様が

>> 論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空連続体が非在であるがゆえに 「神のみあり」 との結論がくだされたのであります。<<

 とおっしゃるのは、ちょっと違うのではないかと、私は思います。谷口雅春先生は、ご自分で思索なさった結果として、論理の進みゆきとして「神のみあり」 との結論がくだされたのではなく、神の啓示によってそれを悟られたのではありませんか。

13身分いやしきもの:2013/12/21(土) 13:18:26 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>ちょっと意味がよくわかりませんが……

>>時間と空間の関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね<<

 >そんなことはないと思います。

縦軸をt、横軸をxとした直交座標を考えてみてください。tは時間でxは移動距離
です。移動距離は空間とおなじものだと考えてよいでしょう。

この直交座標の第1象限にわたしたちが住む宇宙があります。物体が移動をはじめ
ると、もちろんx軸の方向に進みますが、時間も経過するのでt軸の方向にも進み
ます。グラフ上では、物体の移動は斜めの直線として表示されることになります。

通常の物体の速度は遅いので、斜めの直線はt軸に近いところにあります。時間
は経てども進まずといったところです。

物体の速度が光速に近づいたとします。斜めの直線はt軸から次第に離れていきま
す。このときおどろくべきことがおきるといわれれています。t軸とx軸がたがいに
近づきはじめるのです。直交座標ですから、はじめは90度あった角度が、80度、
70度と角度をかえていきます。

こうなると、どんなに速度をあげようとも、x軸方向にもt軸方向にも進めなく
なります。これが、物体が光速に近づけば近づくほど時間の進みが遅くなると
いう現象であるとわたしは考えます。

t軸とx軸の角度が変わるということは、、時間、空間という認識の形式のあり方が
変化していっているということです。変化しなければ、物体はついに光速を追い越
し、因果律が逆転して世界を正しく認識できなくなる可能性があります。時間、空間
の認識の形式はとてもよくできていると、わたしにはおもえます。

ただしわたしはド素人ですので、間違った解釈をしている可能性もあります。トキ様
にたずねれば、より正確な知識を伝達していただけるものと考えます。

14復興G:2013/12/21(土) 13:29:17 ID:AB6RqYXc

>>13 :身分いやしきもの様

私は数学が苦手なので、「わかりました」 とは言えませんが、多分その通りなのでしょう。

ご教示ありがとうございました。

15身分いやしきもの:2013/12/21(土) 14:03:45 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>> 論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空連続体が非在であるがゆえに 「神のみあり」 との結論がくだされたのであります。<<

 >とおっしゃるのは、ちょっと違うのではないかと、私は思います。谷口雅春先生は、ご自分で思索なさった結果として、論理の進みゆきとして「神のみあり」 との結論がくだされたのではなく、神の啓示によってそれを悟られたのではありませんか。

ここでいう「論理の進みゆき」とは、雅春先生が「論理的に考えられた」というので
はなく(もちろん論理的にも考えておられたでありましょうけども)、まず実相独在
がありきで、それを根拠に「現象なし」とされたのではなく、順番としては、「現象
なし」から実相独在へと進まれたと、論理的にはこういう順番になるだろうという
意味です。

問題は、「現象なし」から実相独在への飛躍があったのか、「現象なし」を根拠に
実相独在を悟られたのかということです。雅春先生のご文章を拝読するかぎり、
飛躍があったと考えられますが、雅春先生は、4次元時空連続体と霊界での体験は
おありでありましたでしょうけども、それ以外の世界についてはいっさい体験して
おられたはずがありません。なのに、そういう未体験の世界の存在をいっさい考慮
にいれられることもなく「実相のみがある」とされたのであれば、いかにそれが
天啓であろうとも、説得力には欠けるのではないかということをもうしあげております。

ただし、復興Gさまは、「第一原因を実相と名づけた」と述べておられますので、
「それ以外の世界」についても、それが第一原因の結果としてあらわれた世界で
あれば、その世界を現象と分類することで「実相独在」と述べることはできます。

しかし、第一原因がひとつだけというのは、なぜいえるのでしょう。第一原因が
複数ということもありえますね。第一原因が100個あれば、100個の実相が存在
することになります。その100個の実相はそれぞれに性質のちがったものである
やもしれず、そうであれば、「実相世界とはこういうものだ」といってのけること
は、ますますできなくなってしまいます。「実相独在」という言い方もおかしなもの
に感じられてまいります。

復興Gさまはおそらく「宇宙の計画者」はひとりしかいないといっておられると
おもいますが、無限の数の宇宙が存在するかもしれないとされる現代にあっても、
計画者はただひとりであるとお考えなのでしょうか。

16身分いやしきもの:2013/12/21(土) 14:10:41 ID:tDxKbxFM
いかに大閑人のわたしといえども、このペースはさすがにしんどいです。
もすこしゆるりとまいりたいとおもいます。

17復興G:2013/12/21(土) 15:53:25 ID:AB6RqYXc

>>16 :身分いやしきもの様

 どうぞ、ゆるりとご返答くださいませ。

>>15 :身分いやしきもの様

>>まず実相独在がありきで、それを根拠に「現象なし」とされたのではなく、順番としては、「現象なし」から実相独在へと進まれたと、論理的にはこういう順番になるだろうという意味です。<<

――順番として 「現象なし」 から 「実相独在」 へと進まれたというよりは、「現象なし」 と 「実相独在」 とは一枚のコインの表裏のように一体であって、同時に悟られたと考えてよいのではないかと私は思います。自伝篇では、まず 「色即是空」 という言葉が浮かび、次に 「空即是色」 という言葉が浮かんだとありますが、それは 「同時」 と考えてよいのではないかと思っています。

>>雅春先生は、4次元時空連続体と霊界での体験はおありでありましたでしょうけども、それ以外の世界についてはいっさい体験しておられたはずがありません。<<

 ――とおっしゃる根拠は、何なのでしょう。

>> 第一原因がひとつだけというのは、なぜいえるのでしょう。第一原因が複数ということもありえますね。<<

 ――私は、「宇宙」 という言葉を、「すべてのすべて」 という意味で使っています。複数の宇宙というものがあるとすれば、それらすべてを包摂、包括したすべての第一原因者が、究極の第一原因者ということになりますね。

 「すべてのすべて」 なるものが、分裂したバラバラのものから成り立っているのではなく、根源的に統一されたひとつの原理から成り立っているはずだと思うわけです。その根源的な 「宇宙の計画者」 はひとりしかいないはずです。

 どうぞお答え、ご反論などがあれば、ごゆるりと、レスをお願いします。私も、ゆっくりとさせていただきます。

18身分いやしきもの:2013/12/21(土) 17:06:28 ID:tDxKbxFM
腹腔Gさま

>>雅春先生は、4次元時空連続体と霊界での体験はおありでありましたでしょうけども、それ以外の世界についてはいっさい体験しておられたはずがありません。<<

 ――とおっしゃる根拠は、何なのでしょう。

これはむしろ、体験されたとする証拠が必要となりましょう。証拠がなければ、
体験されてはいなかったとみなしたところで、これを批判されるいわれはありません。

>――私は、「宇宙」 という言葉を、「すべてのすべて」 という意味で使っています。複数の宇宙というものがあるとすれば、それらすべてを包摂、包括したすべての第一原因者が、究極の第一原因者ということになりますね。
 「すべてのすべて」 なるものが、分裂したバラバラのものから成り立っているのではなく、根源的に統一されたひとつの原理から成り立っているはずだと思うわけです。その根源的な 「宇宙の計画者」 はひとりしかいないはずです。

宇宙という言葉を「すべてのすべて」といっておられるわけですね。であれば、
宇宙とは似ても似つかない、したがって宇宙とはいえない未知なるX世界が存在
した場合はどうなるのでしょう。これもすべてのすべてのなかに都合よく入れる
ことができると考えておられるのでありましょうか。それとも、未知なるX世界は、
反証不可能な超越項であり、したがってその存在が証明されないかぎりは存在
しないものとみなす、ということなのでしょうか。

また、「第一原因者は3者いて、3者は完全に独立していて、3者が存在する原因を
それいじょう先へとさかのぼることはできない」と主張するものがいた場合、
復興Gさまは、「宇宙はすべてのすべてだから、第一原因者はひとりだけである」、
あるいは「それがなんであれ、たとえ未知なるX世界であれ、すべてのものは根源
的に統一されたひとつの原理にさかのぼれるというのは真理だから、3者を総括す
る第一原因がかならず存在する」といって反論なさるのでありましょうか。

19身分いやしきもの:2013/12/21(土) 18:56:05 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

復興Gさまは「時空間上にあらわれる」ということをいっておられましたが、
じつはこれがどのような事態を意味するのかが、いまだにわからずにおります。

それでまずは「時間とはなにか」と質問したわけですが、これにたいする復興G
さまの答えは心的な時間であり、それはどう考えても実存に関係する時間概念
でしかないようにおもえました。

真理を語るからには、答えとして提示される時間概念は少なくともその本質を言い
当てたものでなければならないとおもいます。ましてやそれが認識の正式を形づ
くるものであるなら、それにふさわしい説明でなければならないとも考えます。

空間にしてもおなじです。はたして空間とはなんなのでしょう。タテ、ヨコ、厚みを
もったものというのはわかりますが、たとえば空間は重力で曲げられたり、ブラック
ホールに吸い込まれたりするものでもあるようです。

重力やブラックホールとは認識の形式上にあらわれた現象であるはずであります
から、そのような現象に認識の形式である空間が曲げられたり吸いこまれたりする
ことなどあるはずもありません。

いったい時間、空間の本質とはなんなのでしょう。そのなかになにかがあらわれる
とは、どういうことなのでしょう。なにかがあらわれた結果として時間、空間があら
れたというのであればわかるような気がいたします。時間、空間がさきであとから
なにかがあらわれるとはどういう事態をいっているのでありましょうか。

復興Gさまは、時間、空間は画布のようなものだといわれましたが、画布が変化
したり、曲げられたり、吸いこまれたりするのはいったいなぜなのでしょう。へた
をすると巨大ブラックホールによって宇宙の空間、時間のすべてが吸い込まれると
いう事態もないわけではないでありましょう。画布が絵に吸い込まれるとは、いっ
たいどういうことなのでありましょうか。

20復興G:2013/12/21(土) 20:24:19 ID:AB6RqYXc

私の信仰は、単純なものです。

自分は、生きている。というか、生かされている。生命である。その生命表現の場が、時間・空間である。

時間・空間は、自分が誕生する前に、自分の外に、確固とした枠組みとして存在したものというのではない。時間・空間は、本来存在しない。自分の本体は、時間・空間以前からあり、時間・空間をつくりだした本源者である。自分は神の生命の表現体である。宇宙の主人公といってもよい。

一切の生命体には、一つの中心があって、バランスを保ちながら生長している。宇宙も生命体で、一つの中心があり、調和を保って生長している。

いろいろな宗教の開祖といわれるような人は、その宇宙の全体像――本来のすがたと、それが地上に(時間空間上に)展開する法則を直観把握し、人間が幸福に生きる道を示された。例えば、釈迦は宇宙の本質は蓮華蔵世界即ち、蓮華の花びらが中心に帰一しているように、一切の生命体が(無機物も広義の生命体である)、生かし合って調和しているすがたであると喝破された。イエスも、「みこころの天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈るように説いた。すなわち天とは実相世界であり、そこは中心帰一して万物が調和し生かし合っている世界である。

すべてのよき宗教は、この宇宙の実相を説き、その中で人は大生命に生かされている存在であるから、その存在目的は他のため全体のためにわが生命を与えること、愛を行ずる事にある、愛を行ずる事が人間の最高の幸福への道であることを説いている。

生長の家は、谷口雅春先生が宇宙大生命の啓示を受けられて、あらゆる宗教の神髄はみな一つの大生命の救いの放射光線であり宗派争いをする必要はなく、本来の教えの神髄は一つであるとして、すべてを生かす道を示された。これぞ究極の世界平和をもたらす、人類最後の最高の道である。

その生長の家出現の目的を達成するために、「今」 を生かして、わが使命と感ずるところを、日々生命をかけて実行するところに、最高の生き甲斐がある。

以上です。

21身分いやしきもの:2013/12/21(土) 21:06:05 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

最後はやはりきれいごとでしめくくられましたね。誰もが感動するきれいごとを
いったものが、議論の進みゆきに関係なく最後に勝利する。おみごとです。

「わたしは勝利など望んでいない」といわれますか。しかしそれでも、あなたは勝利
したのです。

ありがとうございました。

22うのはな:2013/12/23(月) 17:36:49 ID:Fy/t63v.

神癒の一般公式 http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24668015.html

23神の子さん:2014/01/09(木) 21:34:34 ID:e8TziFZQ
本流対策室/5

>>5494

うのはな様

 本流対策室/5での投稿ですが、こちらで返事を書きます。

 「がんと闘った科学者の記録」という本を読み直しています。
これは、ノーベル賞に一番近かったと言われながらガンで亡くなった戸塚洋二博士と立花隆さんの
共著なんです。その中に、立花隆さんが、こういう意味の事を書いています。

 「量子力学には、吾々素人には理解が困難な部分がいろいろある。量子力学の世界は、
吾々の日常的な感覚世界とは相当ちがった部分がある。不確定性原理とか、光の波動性
と粒子性の重なりとか、二重スリットの問題とか、シュレディンガーの猫の問題とか、常人
の常識では理解しがたい話がいろいろ出て来る。そういう問題点について、教科書的な
解説書を読めば、それなりにわかったような気にさせられることもあるが、やはり我々常識
人には、どうにも訳が分からない部分が残る。ストンと腑に落ちてこないというか、実感的
納得が得られない部分がある。その辺、プロの物理学者の頭の中はどうなっているのだろうと
思って、理論の教科書的な解説ではなく、実感のほうを尋ねてみたのである。すると、驚いた
ことには、

 「あー、その辺のところはね、我々にしても、完全に納得できていない部分があるのです。
実感としてはわからないが、理論の筋道を追って行くと、それはそういうものとして受け入れ
ざるを得ないということで、実感と切り離して受け入れている部分というものがあるのです。」
(トキ注:これが、戸谷博士の返答です。)

と率直に語ってくれた。(中略)

 そうか、専門家ですら、実感的には理解できなくても、丸呑みしなければならないと思って
丸呑みしている部分があるんだったら、実感的理解にこだわる必要はないのだと思ったので
ある。

 「つまりね、実験で明らかにされた事実は受け入れざるを得ないということです。(後略)」

(同書 43ページ)

(つづく)

24神の子さん:2014/01/09(木) 21:35:44 ID:e8TziFZQ
>>23 はトキです。失礼をしました。

25トキ:2014/01/09(木) 22:01:17 ID:e8TziFZQ
 例えば、宇宙が膨張しているとか、素粒子の問題と言っても、素人から見たら実感としては何も分からない
です。信仰で言えば、「心の法則」はまだ実感として理解しやすいですが、人間=神の子の話は、なかなか実感
になるまで時間がかかる人が多いです。つまり、実感としては分からないけど、そうなんだろう、と信じる部分
は人間である以上は当然あると思います。

 つまり、人間である以上は、教えられた事を全て実感として分かるというのは無理であって、ある程度、丸呑み
をせざるを得ないというのは仕方がないと思います。ただ、そこで、丸呑みした内容が適切か、どうかというのを
判断する基準は、自分のリアルの生活にその理屈を応用してみて、それが上手く行けば、その理屈を信じるしかな
いと思います。

 そこで、瀬戸内寂聴さんの発言に話を帰ると、彼女がどういう意味で発言をしたのかは私はわからないです。
 般若心経を根拠にそこまで解釈ができるか、できたとしてもそれを実感として納得しているかはわかりません。
ただ、おそらく、理論というよりも、彼女はそう解釈して、それで多くの人を納得させられたので、そう信じてい
るような気がします。

 人間の精神をそこまで至上のものとする事で、救われる人がいるかもしれない。例えば、発言をした彼女
は、「愛」を宇宙意思という意味で解釈したかもしれないが、聞いた人は、それを人間の感情としての愛情と
解釈する可能性はあります。それでも、それで、救われた人がいたら、彼女の発言は価値があったと思います。

 そう考えると、私は、彼女の発言を物理的にではなくて、宗教的な観点で考えるべきかと思っています。

26トキ:2014/01/09(木) 22:36:12 ID:e8TziFZQ
>>23

お詫びと訂正です。

x (トキ注:これが、戸谷博士の返答です。)
○ (トキ注:これが、戸塚博士の返答です。)

27志恩:2014/01/10(金) 01:03:12 ID:.QY5jUA6
昨日から今日の日付になりましたが、
義春様の過去文をお懐かしく拝見していました。
いくつか、再掲させて頂きます。

28志恩:2014/01/10(金) 01:04:18 ID:.QY5jUA6
今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
235 :義春:2011/11/04(金) 18:37:21 ID:iu5Ar./Q
 七つの燈台の誓願について
元青年会様のお勧めにより、七つの燈台の誓願と、その意味するところを、
拙いながらも考えを述べて参りたいと存じます。
至らぬ点は多々あろうかと存じますが、皆様のご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
まず七つの燈台についてですが、長崎県西海市西彼町に在る生長の家総本山にあります。
wikiには、1978年に建立され、毎年数万人の参拝者が訪れる。総本山練成道場、温故資料館、
生長の家創始者である谷口雅春の家を復元した「藤棚の家」、谷口雅春ならびに妻で白鳩会初代総裁の谷口輝子の墓(「谷口家奥津城」)、
「龍宮住吉霊宮」とその周囲を囲む形で作られた、教義の神髄を込め建立されたとされる「七つの燈台」などがある。
総面積は約100万坪と言われ、海を望むことができる。また、総本山とは別に京都府宇治市に生長の家宇治別格本山がある。

そして七つの燈台の誓願は以下の通りです。
・天孫降臨皇御国成就燈
・伊邪那岐文化成就燈
・伊邪那美文明成就燈
・三界万霊悉皆実相開顕成仏燈
・万物一元万教帰一成就燈
・地上天国世界連邦成就燈
・君民一体地上天国成就燈

七つの燈台の誓願について1つ1つ意味するところを述べていきたく存じます。

29志恩:2014/01/10(金) 01:05:11 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
236 :義春:2011/11/04(金) 18:37:52 ID:iu5Ar./Q
先ず、天孫降臨皇御国成就燈は天孫つまり天皇陛下を中心とした日本の国が成就する事への誓願です。
そしてこの天孫降臨については天照大御神の天壌無窮の神勅が根底にあります。

【天孫降臨皇御国成就燈について】
天孫降臨皇御国成就燈について記していきます。
以下の項目では、このような事を記していきます。
●天壌無窮の神勅について:天照大御神が下された神勅
●葦原千五百秋瑞穂の国について:日本の原始の姿
●葦について:環境浄化に大変重要な植物
●千五百秋の瑞穂の国について:米は日本の在り様を示している

【天壌無窮の神勅について】
天壌無窮の神勅 とは、『日本書紀』の天孫降臨の段で天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した神勅を指します。
神勅は以下の通りです。
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。
爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。

一般的な解釈では、高天原の主神である天照大御神より日本の治めさせるというものであります。
以下でその意味するところを述べてまいりたく存じます。

【葦原千五百秋瑞穂の国について】
此のうち、葦原千五百秋瑞穂の国についてですが…
豊葦原 ( とよあしはら ) とは豊かに葦 ( あし )の生い茂る原のことで、日本国の美称です。
千五百秋の瑞穂の国 ( ちいほ、あきの、みずほのくに )とは、豊かに稲などの穀物が実る同じく日本国の美称です。
となります。豊かに葦の生い茂る原…それは日本の自然の姿かと存じます。そのうち葦について調べてまいりました。

【葦について】
葦についてwikiより引用させて頂きます。
葦とは(関西では)ヨシと読み、主として河川の下流域から汽水域上部、
あるいは干潟の陸側に広大な茂み(ヨシ原)を作り、場合によってはそれは最高100ヘクタールに及ぶ。
根本は水につかるが、水から出ることもあり、特に干潟では干潮時には干上がる。
水流の少ないところに育ち、多数の茎が水中に並び立つことから、その根本には泥が溜まりやすい。
ヨーロッパとアジアでは特に、ヒゲガラ、ヨシキリ、サンカノゴイといった鳥類と関わりが深い。
泥の表面には巻き貝やカニなどが多数生息する。アシハラガニはこの環境からその名をもらっている。
このように、多くの分解が行われ、多くの水生動物のよりどころとなる芦原は、
自然の浄化作用の上で重要な場所であり、野生動物と環境保護に重要な植物群落であると言える。

このように多くの泥が集まり、蓄積する区域は、その分解が多く行われる場所でもある。
他方で、その茎は多くの動物の住みかや隠れ場としても利用される。
このように、多くの分解が行われ、多くの水生動物のよりどころとなる芦原は、
自然の浄化作用の上で重要な場所であり、野生動物と環境保護に重要な植物群落であると言える。

以上、引用です。実際、私が学んでおりました、
バイオテクノロジーに於いても環境保全に重要な役割を果たす植物と習いました。
近年では大阪の淀川で、葦の再生に取り組み、劇的に水質が改善し、ウナギが戻ってきたと聴きます。
それなので、葦と云う植物は自然と人間の調和

30志恩:2014/01/10(金) 01:05:44 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
237 :義春:2011/11/04(金) 18:38:27 ID:iu5Ar./Q
【千五百秋の瑞穂の国について】
瑞穂、つまり瑞々しい稲…そこから生み出される米とは日本人が有史以来慣れ親しんだ植物であります。
それだから米は氣という様に、氣の根本とも見なしてもいます。
それはひいては日本の在り様、精神を重んじる根源的な食物ともいえます。
又、米と云うものは織田四天王の丹羽長秀の別称である「米五郎左」というように、どんな物とも合うというもので、
日本人が漢字を崩してかな文字を作ったり、明治維新後に西洋文明を取り入れたように、
日本人の柔軟性をも表すものでもあります。


【天壌無窮の神勅の意味するところ】
それなので、天壌無窮の神勅とは、単に日本の統治権についての文言に留まるのではなく、
日本の在り様をも表したものではないかと存じます。
植物も伊勢神宮・外宮に祀られている豊受大神が生み出したる物、その植物の1つ1つに神の心が表れているとも、
私は感じているのです。
それだから、以上のところより、【日本は神の子孫である天皇が霊的に治める地である。その日本とは、自然と人間が調和し、
天壌無窮に…つまり永遠に平和に栄える国である】でなろうかと存じます。

【天皇について】
以上のことから、天皇陛下が何故、常に自然と共にあろうかとされるかのかという所に思いを致す時に、
この天壌無窮の神勅が根底にあるのではないかと感じています。この天壌無窮の神勅は、霊的に治めるという願いがあるのではないかと、
勝手ながら感じております。それなので、例えば、昭和天皇様が『雑草と云う草は無い』と仰られて草木を真に大事にされたのも、
これによるのではないかと存じます。
それだから、御皇室の本廟である伊勢神宮に於いても、参道に大木があっても、そのままにし、神宮の作りに於いても、
自然そのままの姿で建物をお作りになっていると私は感じております。
その様な天皇陛下の在り方と云うものは、この環境の破壊が叫ばれる中で、大事になってくると感じております。
それ故に、その天皇陛下が真に霊的な中心者とし、刃に血を塗らずして…つまり、動植物を含めた犠牲の元で成り立つ、
社会の在り方ではない日本の姿への誓願ではなかろうかと私は勝手ながら感じております。

31志恩:2014/01/10(金) 01:06:23 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
256 :義春:2011/11/05(土) 12:00:02 ID:iu5Ar./Q
この投稿では此の2つの誓願について記したく存じます。
・伊邪那岐文化成就燈
・伊邪那美文明成就燈
この伊邪那岐・伊邪那美、2柱で1つの事柄を表す…古事記に於いては国産みの神話に出て参りますが、
この国産みの神話というものは、世界の在り様をも示していると私は感じております。

項目は以下の通りです。
●国産みの神話について:霊的文化と物質文明の関係について記しました
 霊的文化が主とならないと生命を蔑ろにした社会になってしまう。
●天津罪と国津罪について:天津罪は生命に関すること、国津罪は社会的な決まり事をしるしています。
●文化と文明について:文化と文明というものの言葉の定義についてしました。

※とりあえず長いです。

32志恩:2014/01/10(金) 01:07:13 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
257 :義春:2011/11/05(土) 12:00:58 ID:iu5Ar./Q
【国産みの神話について】
長くなりますが引用元をしつつ述べていきたく存じます。
引用元は此処です(http://www.ffortune.net/calen/izumo/sinwa/sinwa02.htm)

--------------------------------------------------------------------------
イザナギ神・イザナミ神は天の神様たちの命を受けて、国作りを始めました。

まずは天の浮橋に立って、まだ混沌としていた地球の表面に棒を入れてかき
回すと、そのしずくが落ちて重なり淤能碁呂島(おのごろしま)という島に
なります。そこで二人はその島に降りて結婚しました。

この時まずイザナギ神がイザナミ神に「そなたの体はどうなっているか?」
と聞くと「私の体には成り成りて成り合わぬ所があります」と言います。そ
してイザナギは「私の体には成り成りて成り余る所がある。私の成り余る所
をそなたの成り合わぬ所にさし塞いで国を生みましょう」と言いました。

そこで、島に柱を一本立て、その回りを回って出会ったところでまずイザナ
ミ神が「まぁなんて素敵な男性でしょう」と言い、次にイザナギ神が「ああ、
なんて素敵な娘だろう」と言いました。そして交わって産まれた子は水蛭子
であったため、葦船に乗せて流しました。次に出来た子は淡島。これも子の
数には入りません。

二人の神は何かおかしいと思い、いったん天にもどって神々に相談します。
神々は太占(ふとまに)をして占った結果、柱を回って女が先にプロポーズ
したのがいけなかったのではなかろうか。今度は男が先にプロポーズしてみ
なさい、とアドバイスします。

そこで二人は再び島に降り、結婚式をやり直して今度はイザナギ神が先に
「ああなんて素晴らしい娘だろう」と言ってから、イザナミ神が「まぁなん
て素敵な男性でしょう」と言いました。そして生もれたのが順に、淡路島、
伊予之二名島(四国)、隠岐の三つ子島、筑紫の島(九州)、壱岐の島、
対馬、佐渡の島、大倭豊秋津島(本州)で、これを大八島国といいます。

更に生み続けたのが吉備の児島(児島半島〜昔は島だった)、小豆島、大島
(山口県の?)、女島(大分県の?)、知訶島(??五島説あり)、両児島(??
男女群島説あり)です。

そして国を生み終ると次に神様を生みます。これが大事忍男神、石土毘古神、
石巣比売神、大戸日別神、天之吹男神、大家毘古神、風木津別之忍男神、海
の神である大綿津見神、水戸の神である速秋津日子神・速秋津比売神(ここ
まで10神)、風の神である志那都比古神、木の神である久久能智神、山の
神である大山津見神、野の神である鹿屋野比売神(ここまで4神)、鳥野石
楠船神(天鳥船)、大宜都比売神、火の神である火之迦具土神(ここまで3
神)です。

この最後の火之迦具土神を産んだ時、イザナミ神は陰部を火傷してしまい、
亡くなってしまいます。この時、イザナミ神が苦しみながら成した神様が、
金山毘古神・金山毘売神、波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神、弥都波能売神、
和久産巣日神、といったところです。

イザナギ神は妻の死を泣き悲しみ、出雲と伯耆の国境の比婆山に妻の遺骸を
葬りました。(日本書紀の一書では熊野の有馬村)そして剣を取って、妻の
死因となった火之迦具土神を殺してしまいます。この火之迦具土神の血や死
骸からはまた多くの神様が成っています。これは石拆神、根拆神、石筒之男
神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神、闇淤加美神、闇御津羽神、正鹿山
津見神、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神、志芸山津見神、羽山津見
神、原山津見神、戸山津見神、といったところです。

ここまでが古事記が伝える日本創成の物語です。

------------------------------------------------------------------------

33志恩:2014/01/10(金) 01:09:28 ID:.QY5jUA6

258 :義春:2011/11/05(土) 12:01:46 ID:iu5Ar./Q
この国産みによって、日本は産み出されました。
まず、天の神様という天神が2神に国産みの命令を出したと書かれています。
又、高天原と混沌としてドロドロだった大地との間に天浮橋という中間地点的な場所があったのが分かります。
高天原が古事記に於いて実相世界を表すのなら、その実相世界と現象世界の間の地点から、
淤能碁呂島を産み出した…とあります。
そして、最初は伊邪那美から伊邪那岐に声をかけて、水子が生まれて、国産みが失敗した…
これは、伊邪那岐…つまり氣・霊的よりも、伊邪那美…実・物質が先んじてしまったというもので、
物質文明が精神文化に先んじてしまうと、物事は上手くいかないと言うものを示しています。
それだから、先ず、霊的文化の象徴である伊邪那岐が、主導していく事で、物質文明の象徴である伊邪那美を
導いていく事で、物質的な文明の暴走を防ぐという事かと存じます。

そしてこれは、現代社会への警鐘ではなかろうかと私は感じております。
なぜなら、現代社会は物質文明が先ず先になって、霊的なものに対しては、全く蔑ろにされています。
その証拠に例えば、肉食の傾向が著しく、キチンと計算したわけではありませんが、同じカロリーを摂取するにしても、
肉食の方が安くなっていると感じています。しかし、肉食と云うものは他者の生命を奪って食する行為にあたります。
古来の日本では肉食自体は仏教伝来までありました。しかし、動物の神への供犠をする事で、盛んになり過ぎないようにしていたようです。

以下はhttp://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-59.htmよりの引用です。
------------------------------------------------------------------------------------
また、祝詞には天津罪国津罪というのがある。天津罪には、畦放ち(あはなち)、
溝埋め、樋放ち、といった水田を荒らす行為と並んで、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎがあげられ、
国津罪には、生膚断、死膚断、畜仆し(けものたおし)、などがある。
これから類推すると、肉食は農耕に悪害をもたらすと考えられたようである。
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34志恩:2014/01/10(金) 01:10:19 ID:.QY5jUA6

259 :義春:2011/11/05(土) 12:02:46 ID:iu5Ar./Q
【天津罪と国津罪について】
それから天津罪・国津罪について書かせて頂きます。以下はwikiよりの引用です。

●天津罪
・畔放(あはなち) - 田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害することとされ、『古事記』・『日本書紀』にスサノオ命が高天原において天照大神の田に対してこれを行ったと記している
・溝埋(みぞうめ) - 田に水を引くために設けた溝を埋めることで水を引けないようにする灌漑妨害で、これも『古事記』・『日本書紀』に記述がある
・樋放(ひはなち) - 田に水を引くために設けた管を壊すことで水を引けないようにする灌漑妨害で、『日本書紀』に記述がある
・頻播(しきまき) - 他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること(種を蒔く事で耕作権を奪うこととする説もある)で、『日本書紀』に記される
・串刺(くしさし) - 『日本書紀』には、その起源をスサノオ命が高天原において天照大神の田を妬んでこれを行ったと記しているが、
           その目的は収穫時に他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てて横領すること、
           とする他に、他人の田畑に呪いを込めた串を刺すことでその所有者に害を及ぼす(または近寄れないようにした上で横領する)という呪詛説、
           田の中に多くの串を隠し立てて所有者の足を傷つける傷害説、家畜に串を刺して殺す家畜殺傷説の3説がある
・生剥(いきはぎ) - 馬の皮を生きながら剥ぐこととされ、『日本書紀』にスサノオ命が天照大神が神に献上する服を織っている殿内に天斑駒(あまのふちこま)を生剥にして投げ入れたとその起源を記していることから、
          神事(ないしはその準備)の神聖性を侵犯するものとされるが、本来は単に家畜の皮を剥いで殺傷することとの説もある
・逆剥(さかはぎ) - 馬の皮を尻の方から剥ぐこととされ、『古事記』『日本書紀』に生剥と同じ起源を記していることから、これも神事の神聖性を侵犯するものとされるが、
          本来は単に家畜を殺傷することとの説があるのも同様である
・糞戸(くそへ) - 『古事記』『日本書紀』にはスサノオ命が高天原において天照大神が大嘗祭(または新嘗祭)を斎行する神殿に脱糞したのが起源であると記していることから、
         これも神事に際して祭場を糞などの汚物で汚すこととされるが、また「くそと」と読み、「と」は祝詞(のりと)の「と」と同じく呪的行為を指すとして、
         本来は肥料としての糞尿に呪いをかけて作物に害を与える行為であるとの説もある

天津罪は農耕及び神事、それから動物の殺生等、生命についての禁忌を記していると私は感じております。
それを天津罪として、真っ先に持って来る所が、日本が霊的文化、生命尊重の国と私が感じる所以であります。

35志恩:2014/01/10(金) 01:11:32 ID:.QY5jUA6

261 :義春:2011/11/05(土) 12:06:25 ID:iu5Ar./Q
又、食事について、せい様から、雅春先生の御文章からこの様な投稿をして頂きました。
大事な事なので、私も引用させて頂きます。せい様、真に有り難う御座います!

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ところでこの食事をいただくというのは、単に肉体にカロリーを補給し、ビタミンを補給し、蛋白質を補給するというだけの意味で、
食物をたべていますと、その物質によって補給せられ、その物質がかためられて人体というものになっている気がして来ますから、どうしても物質的に人間を見て来ることになります。
食物で養われる人間も、摂取される食物も、それはただの物質である、というだけのことになります。
「物質」が物質を食べて「人間」というものになっている。そう思って食べても毒にはならんけれども、其処には物質を超えた霊的な価値というものは出て来ない。
物質は物質としてただそれだけの値打ちしかない訳であります。
ところが、私たちがいただくところの食物を、そういう風な、単なる物質的カロリーの補給だとか、物質的栄養素の補給だとかだけに思わないで、
その奥にある霊的生命を観て、それに感謝して食物をいただくとき、
内在価値が展開してくるのであります。
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この霊的生命に感謝する、そういった霊的文化が主とならないと、食事もまた崩れていきます。
何故、食に関して執拗に記すかと申しますと、食と云うものほど、人の考え方の根幹を成しているからであります。
それですので、食が崩れると言う事から、食で生命への敬意がなくなれば、社会そのものにも、
生命が主ではなく物質が主となってしまいます。そして結局は社会そのものも、今現在の様々な問題が表しています様に、
社会そのものの重圧により自壊してしまうという様になってしまうのではないかと感じております。
また、文化というものは一般的には【質】を重視し、文明は【量】を重視します。
ですので、日本の江戸時代は正に文化の時代で、1つ1つの物を大事にするものでありました。
これは何度も触れておりますが、循環型社会を形成していきます。
又、文明は現代文明が象徴的でありまして、大量生産・大量消費が社会の根本的なシステムの要因であるので、
使い捨てという現象が往々に起こります。現代文明は過労死・うつ病など人間の使い捨てすら起すシステムと言えます。
ただ、霊的文化・物質文明の両方がないといけません。
例えば、肉食は仏教伝来後、平安時代になっていくと、貴族の間では罪を犯す事を極度に恐れる事で全く肉を食べなくなりましたが、
その結果、貴族が日記等から観れば栄養失調としか言いようのない症状で亡くなる等本末転倒な現象が起きてしまいました。
それだから両方が成就する事でバランスの取れた社会の在り方を誓願されたと私は感じております。

36志恩:2014/01/10(金) 01:33:40 ID:.QY5jUA6
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

「トキ様掲示板が、立ち上げられたばかりのころの¨義春様¨の発言集」

34 :義春:2011/06/07(火) 16:48:21

掲示板、開設おめでとうございます!
トキさんは私(29歳)と同年代の様で、共通の人を存じ上げてて真に嬉しく想います。たぶん、何処かでお会いしてるかもしれませんね。

昔は武道館の前で円陣組んで歌って楽しかったですね(泣)あれを無くす事はないのになぁ…と寂しく想う事があります。

色々考えの相違もあるかもしれませんが、より良い生長の家の為に 宜しくお願い申しあげます。

35 :義春:2011/06/07(火) 16:53:31
>>33
現職員妻さん、こんにちは。
向こうでは有り難うございました。

私も同様の話を聴いて、驚くより 怖くなった事があります。内容は書けませんが、

生長の家の姿から おおよそ外れた姿に 変わってる…と感じました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1307277048/?q=%B5%C1%BD%D5

37志恩:2014/01/10(金) 06:37:41 ID:.QY5jUA6
 「トーキングスティクボード」での、¨義春様¨ 発言集
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/?q=%B5%C1%BD%D5

38トキ:2014/01/10(金) 21:24:18 ID:ffgjVbP6
>>37

 義春さんの発言をまとめて下さり、ありがとうございます。
故人も喜んでいると思います。感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

39志恩:2014/01/11(土) 06:53:53 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生は、以下のごとく、「実相は、無相にして有相なる 微妙な存在」と、説かれておられます。
身分いやしきもの様が、生長の家では、実相は有相と、 仏教では、実相は無相と説法している。

自分は、仏教の「実相無相」の考え方と同じである、と言われましたが、
生長の家では、実相は有相であるとは説いていない。実相は「無相にして有相である」と説いている。
…………………………………………………………………………..
今昔物語より
『實相研鑽』第一集
 普賢菩薩なる自己を観る(昭和36年7月19日)

谷口雅春先生の結語:

♣御仏を自分の全身に重ねて

ありがとうございます。上西先生はなかなか記憶がいいですね。高野山で私が言ったということをとく覚えていらっしゃる。
高野山時代におられなかった講師の方も大分おられると思うのですが、重現無礎(じゅうげんむげ)というのは、
大きな箱があって、それをあけてみたらもうちょっと小さい箱がある。その箱を開けたらまたもうちょっと小さい箱がある
…….いくらでも次々と小さい箱があって、中から同じものが出て来るというように、人間の實相は無限に大きくして無限に小さい。

ただ宇宙に充ち満ちているというと、ボーッと空気みたいに広々とあるだけで、
もっとも微小なところまでもある組織をもって存在するものである、という感じが出て来ないので、
“人間の生命”はただ漠然と広いだけじゃなくて、どんな小さいものの中にも充ちているところの“神の智慧”である、というわけなんです。

その“神の智慧”が“普く充ち満ちている普賢”すなわち“無限の智慧”であるというわけであります。
ここに五尺何寸の人間が生きておっても、そう見えているだけであって、自分自身は無限大の存在で、百千万億阿僧祇劫前から
悟りを開いている仏身である。

それが“宇宙にみちみちていると同時に、その智慧はどんなに微細な電子、素粒子の中にも充満しているところの智慧である、
それが自分である”ということを自覚するための神想観が観普賢菩薩行法であります。

それで「身量無辺、色像無辺、音声(おんじょう)無辺であって、虚空に満つる無極(むごく)の身(しん)である」というふうに
(広いことを)念ずる。

同時に、自分の全身の細胞(四百兆とか千二百兆といわれる全身の細胞)の一つ一つの中に、普賢菩薩の智慧がみちみちているのである。
そのまた微粒子の中にもまた普賢菩薩の智慧があって、無限大であり無限小である。“それが自分である”というのです。

たんに智慧と言いますと漠然としたもので、形がないようでありますが、これは一つの“秩序性”であり、やはり形がある。
その形の真似をして出て来るのが、“肉眼に見える形の秩序”であって、智慧そのものにもやはり形があるわけです。
神想観は単に「無」になり切るだけの手段ではない。

  無相にして有相なる微妙な存在なる實相を念ずる  

というので、瞼(まぶた)の裡(うら)に六牙(りくげ)の白象に乗っている有様をじっと描いて観ずるわけなんです。

林先生の言われたのは微細な細胞の中に又々三千の御仏坐し給う、という細かいところを観じようと思っても観じられない。
そこに疑問というか修行のむつかしさがあるというので、そこ(重現無礎)をうまく観ずるようにしたいという質問ですね。

林さんはあまり小さいものを観じようと思うから、小さくなって観じられなくなるんですよ。
小さいものが無限の数あるもんだから、無限の数の一つ一つに六本の牙ある白象にそれぞれ普賢菩薩が坐っているのを
一辺に思い浮かべよう思うから、むつかしくなって観じられないのです。

「一々の如意宝珠の中に三千の御仏坐し給う」と念じながら、その三千の御仏の一つ一つの小さいのを心に描こうとしないで、
 一々の細胞の三千の御仏の姿を自分自身の全身に重ねて見つめてゆくんです。

そして六本の牙(きば)ある象にまたがった普賢菩薩なる自分を具体的に何べんでも思い浮かべて観ずるとよいのです。
そのときは、小さい細胞の中は思い浮かべない方がよいんです。

一ぺんに小さい細胞の中に坐し給う三千の御仏の姿を一々細かく思い浮かべようとするから思い浮ばんようになるわけです。
“一つ”だけ見つめて、それを自分自身に重ねて観ずるようにしたらよいのです。

それをくり返しているうちに、本当に全身が普賢菩薩である自覚が得られてくるということになるわけです。

  平成25年10月20日発信

40トキ:2014/01/11(土) 10:13:22 ID:4XvuVX0A
本流対策室/5の「身分いやしきもの様」へのお返事をこちらで書かせて戴きます。
よろしくお願いします。

 最初にお断りしておきますが、私は今の時点でも実相無相と実相有相の議論について、正確な理解
をしていないと思います。ですから、あくまでも第三者的な感想を申しあげます。

 実相無相か実相有相について、何かネタはないかと「聖道へ」と「生命の実相」の自伝編を読み直し
たのですが、これについての記述はなかったみたいです。(ざっと見ただけなので、見落とした可能性
はありますが)

 ただ、この議論が、例えば宇宙論などに関連するものではなく、思想的な範疇に入るものだとしたら
大正時代や昭和初期の時代でも十分に議論は可能だったと思います。それについて谷口雅春先生が言及
されていない、あるいはほとんど言及されていない事は、根拠があるものだと思うのです。

 一つの推論は、人間レベルの感覚では、そこまで高度な論争をする必要がなかったと言えるという点
です。もう一つは、思想としては、実相無相という考え方は成り立つかもしれないが、現実に説明をす
る場合には、実相有相という立場のほうがはるかに有益だと言えるかと思います。

 さらには実相論自体を論じる時、ほとんどが実相有相論を前提にした議論だと感じます。実相論自体
はギリシャ時代から存在する発想です。(が、あくまでも哲学の範疇に留まっていたものでした。それが
現実の信仰にここまではっきりと明示されたのは、谷口雅春先生の偉大なご功績だと思います。)最近
では、立花隆さんの「臨死体験」の中に、瞑想中の科学者に「ガーディアン・エンジェル」が出現して
「この世界は非実在であり、見えているだけである。本当に実在するのは神のみである」と説明をする
下りがあります。それらを見ると、だいたいが実相有相論の立場に立つと思っています。(これも見落とし
があったら、お詫びします。)

(つづく)

41トキ:2014/01/11(土) 10:32:52 ID:4XvuVX0A
 実相無相と実相有相の議論を拝見して関連して思いだしたのが、ビッグバンでの
素粒子と原子の誕生です。ビッグバンで数秒後に素粒子が誕生したのですが、素粒子
だけの状態は長く続かず、わずか数秒後(だったと記憶しています)には原子が誕生し
その後、すぐに分子が誕生します。私の頭の中にあるイメージは、実相無相論という
のは、このわずか数秒の間だけ存在した素粒子だけの世界に近いものがあります。

 ある時点では実相無相の状態が存在したか、存在するのかもしれないが、結局は
実相有相になるのが必然かと考えています。

 なお、曳馬野様が言及された件について、実相無相だと争いがなくて、実相有相だと
「私」が出来て争いになる、という議論は、(これはたいへん失礼な表現でお詫びしま
すが)、論理の飛躍があると感じています。

 釈尊が実相無相を論じたか、どうか、私は知識がありません。曳馬野様がそう言われ
るのなら、そうなんでしょう。

 この初期仏教時代の釈迦の教団については、岩波文庫から中村元博士が多数の著書を
出版されています。それらを読むと、やはり当時もいろいろなトラブルがあった事が
推測できます。と、言う事は、人間の本質はいまも昔もそれほど変化がない、という
事がわかります。実相無相を教えられていた人達もそうなら、今の組織をめぐる問題
も、原因はそこではない、と言えるかと考えます。

(つづく)

42トキ:2014/01/11(土) 10:53:49 ID:4XvuVX0A
 たぶん、身分いやしき者様の発想の後ろにあるのは、一神教的な発想が少数意見や異端者の
排除につながるという歴史的な事実かと想像します。(違ったらごめんなさい。)

 その点、多神教的な発想に立てば、異端者の排除という事態は起こりにくくなります。しか
し、生長の家の信仰から考えると、多神教的な神様は、いわゆる第二義、第三義の神様で最終
的には、第一義の神様への信仰が基本になります。そこで、第一義の神様である実相を無相に
することで、多様な意見の存在を許容する信仰にしたいとお考えかと拝察します。

 言い換えると、本流復活派が教団や総裁を攻撃する時につかう発想の一つに、谷口雅春先生
という一つのモデルがあり、そのモデルから逸脱する事が信仰への冒涜である、というパターン
があります。そこで、「悟り」というものは、形がないものであるから、「悟り」自体は同じで
も、それが外形に現れる時には、その人や環境によって変わるのが当たり前である。今の総裁
と谷口雅春先生では、「悟り」は同じだが、人も形も変わるのだから、違って当然である、と
いうのが教団側の反論です。この論理を進めると、実相にはモデルがないものであるから、あく
までも無相である、という発想になるかと感じています。(これも違ったらごめんなさい。)

*次の投稿は用事を澄ませてからになるので、遅れます。ごめんなさい。

(つづく)


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