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避難用作品投下スレ4

267こんにちは、その道のプロです。:2008/12/02(火) 23:51:50 ID:O6UEvEkI0
ギィ、と背もたれに少し強く寄りかかった後、反動で起き上がるようにしてエディは椅子から立ち上がる。
そのまますたすたと、エディは部屋に備え付けられていた机の元へと近づいていった。
机上には、無造作に広げられたA4用紙が散らばっている。
それらは同じく机上に設置されたパソコンとプリンターから出された物であり、エディが一晩かけて出した調査の成果でもあった。
データのハッキングは、エディの十八番でもある得意分野だ。
時間はかかったものの、ある程度のデータをエディは得ることができた。
しかし。
こうしてプリントアウトできたものは、その内のほんのごく一部でしかない。
あまりの膨大なデータにマシンスペックが追いつかず、途中でパソコン自体がクラッシュしてしまったのだ。
今このパソコンはエディがいくら電源を弄ろうにも、うんともすんとも反応しなくなってしまっている。

まだ落としきれていなかったデータのことを悔いるものの、こうして目に見える結果があることにエディも多少は楽観していた。
敵対する側の組織は、絶対の力で成り立っている訳ではないのはこの結果で明らかだ。
抗おうと思えば充分対抗できる範囲である可能性を技術者のレベルで見たエディだが、ここで彼は敵が主催側の人間だけではないことを思い出す。

「ソウダ……ああいう馬鹿女のことを、忘れチャなんねーゼ」

そう言って、エディは昨夜出くわした三人の男女の内の一人である、武器を振り回していた彼女のことを思い出し愚痴を溢した。
人を傷つけようとする人間を排除しないと、それこそ脱出しようと努力するこちらも痛手を負ってしまうだろう。
一々説得するにしても、キリがない。エディはそんな殺し合いに乗った人間に対し、容赦をする気が皆無であった。
そこには愛する友人等が手にかけられたという現実も、大きく関わっていたかもしれない。

溜息を漏らしつつそっとエディが手を伸ばしたA4サイズの用紙には、様々な数式や図式が印刷されていた。
エディがハッキングにより得た情報の一つであったが、如何せん彼が理解できる範囲の分野ではない。
魔方陣のような物が随所に挿し入れられていることから、魔術的な何かであろうとエディは予測付けている。
主催側が何者かを予測する際、その背景として絞る資料と考えれば充分だと、エディは一端そのレポートの束を端に寄せた。

次にエディが手に取ったのは、学生が手がけたレポートのように思われる簡素なプリントだった。
一度目を通したそれを、エディは再び読み込む。
変な図式等よりもこちらの方が現実的で、しかも情報としては役に立つレベルのものだ。
しかも内部の情報だということが一目で分かる。
エディは軽く舌を打ち、そうして自分達が管理されていることに対する嫌悪を顕にするのだった。

268こんにちは、その道のプロです。:2008/12/02(火) 23:52:26 ID:O6UEvEkI0
『公開レベルC・要周知 各特殊支給品と所持者についての補足』

1 要塞開錠用IDカード

地下通路に繋がる扉の制御キー。地下通路の損傷は復旧作業済み。
入り口は下図を参照すること。(計四箇所有)

※配布先は「116 柚原春夏」である。
 彼女の行動は随時監視すること。また所持者が変わり次第、至急連絡入れること。
 周知の徹底を心がけるように。

2 死神のノート

死神・エビルのノート。
本物であることは立証済。

※配布先は「40 向坂雄二」である。
 彼の行動は随時監視すること。また所持者が変わり次第、至急連絡入れること。
 周知の徹底を心がけるように。
 また死神・エビルについては別途ファイル「公開レベルC・要周知 参加者についての補足」を参照のこと

3 スイッチ

ほしのゆめみ専用アイテム。
彼女の核となっている岸田洋一の人格を呼び出すスイッチ。

※配布先は「34 久寿川ささら」である。
 彼女の行動については随時の監視外とする。
 またほしのゆめみ・岸田洋一については別途ファイル「公開レベルC・要周知 参加者についての補足」を参照のこと


4 フラッシュメモリ

中身に関する資料は別途ファイル「公開レベルC・要周知 参加者に与えている情報の範囲」を参照のこと

※配布先は「25神尾観鈴」「65立田七海」である。
 彼女達の行動については随時の監視外とする。

269こんにちは、その道のプロです。:2008/12/02(火) 23:53:06 ID:O6UEvEkI0
資料の下方には、エディにも支給されているこの島の物と思われる地図が縮小された形で載せられていた。
しかし全くの同一ではない。
フルカラーで印刷された地図には、青の×印が施されていた。
×印は全部で四つ。C06-C07の境目あたりの海岸線、G06-H07の交差地点、G02-H02の境界線と海岸線、G09-H09交差点に付けられている。
上記の説明から、それはこの島に存在している地下通路への入り口を指しているということになるだろう。

「さて、ト」

これが真実で本当に一切の偽装もないのかというのは、エディにも分かりかねないところであった。
しかし情報として整理するならば、これらの真相を確かめる必要性はある。
今、エディには恐らく彼一人の力で為すには時間がかかり過ぎるであろう情報が一気に集まった。
資料に載っているいくつもの見覚えのない固有名詞や、怪しい地下通路があるという地図のこと。確認したいことは山ほどあるだろう。
やらなければいけないことは多い。七海の保護も必然だ。

「ウーン、こういう時アイツがいてくれたらナァ……」

相棒は今何をやっているのか。
エディは溜息をつき、徐に一人荷物を片付け始めた。
心強い仲間を自然と渇望するエディの心境は複雑である。
人手は欲しいが、深夜に遭遇したあの女の件もあるからだ。

「せめてナスティガールが残ッテくれてたらナァ……」

エディの溜息は止まらない。
彼に今必要なのは、信用のおける仲間に他ならないだろう。
とりあえずの移動を開始したエディの背には、どこか哀愁が漂っているのだった。




エディ
【時間:2日目午前10時過ぎ】
【場所:I-6・民家】
【持ち物:主催側のデータから得た資料(謎の図式・数式、地図付の補足書)、H&K VP70(残弾、残り16)、瓶詰めの毒瓶詰めの毒1リットル、デイパック】
【状態:七海を探す・マーダーに対する怒りが強い】

(関連・429)(B−4ルート)

270青(2) しあわせに、なりたかった:2008/12/06(土) 02:35:04 ID:Vii76lBc0
 
青。
青の中にいるのは、たくさんの私。

生きて、死んで、今は眠っている、三万人の私がそこにいる。
いくつもの夢を口にして、いくつもの願いを抱いて、そうしてその果てにたったひとつの祈りを捧げた、
たくさんの、本当にたくさんの、私。

私は小さな夢をみる。
私は願いを胸に抱く。

小さな三万の夢とささやかな三万の願いが集まり、縒り合わさって歌になる。
歌がほつれて言葉になって、夢と願いが散っていく。
世界を満たす花の吹雪の、花弁の全部が私の夢で、色の全部が私の願い。
夢と願いに包まれて、三万の私は眠っている。

私の夢。
大きな船に乗ってみたい。
私の願い。
いつか秋の公園で絵を描いてみたい。
私の夢。
初めての携帯電話に友達の番号を登録したい。
私の願い。
波打ち際で大きな砂の城を作りたい。
私の夢。
数え切れないほどの本に囲まれて過ごしたい。
私の願い。
温かい布団の中で微睡みたい。
私の夢。
綺麗な虹が見てみたい。
私の願い。
今は知らない誰かと出会いたい。

私の夢。
それは小さな夢。
私の願い。
それは儚い願い。
私の夢。
それは三万の他愛もない夢。
私の願い。
それは三万のありふれた願い。
私の夢。
たくさんの夢。
私の願い。
たくさんの願い。

たくさんの私はたくさんの夢とたくさんの願いを抱いて、そうして今は、眠っている。
たくさんの夢もたくさんの願いも、その全部が叶うはずのないものだと、判っている。

私は知っている。空を。海を。木々を、街を、人を、温もりを、夢を、願いを、世界を。
私は、知らない。空も。海も。木々も、街も、人も、温もりも、夢も、願いも、世界も。

何も、知らない。

271青(2) しあわせに、なりたかった:2008/12/06(土) 02:35:56 ID:Vii76lBc0
私がただ知っているのは、白という色だった。
白い壁と、白い床と、白い天井と、白い服を着た、硝子の向こうの人たち。
それ以外の何も、私は知らない。

それを知っていたはずの、最初の私は、もういない。
ずっと昔に死んでしまったのだと、そう聞かされていた。
死んだ私は、だけどまだ生き終えていなかったから、たくさんの私になって生きている。

私が口にするのは最初の私の夢で、私が抱くのは最初の私の願いで、
だから本当は私の夢はまがい物で、私の願いは何もかもまがい物だ。

全部が嘘で、全部が借り物。
だからたくさんの私は、最初の私の偽者だ。

だけど最初の私はもういない。
本物のいない偽者はもう偽者でなく、だけど本物では決してなく、私はもう、誰でもない。
それが嫌で、それが怖くて、たくさんの私はだから、最初の私でないたくさんの私だけが持つ、
たったひとつの本当がほしくて、ずっとずっと考えて、ずっとずっと探して、ようやく、みつけたのだ。

それは、祈りだ。
最初の私が知らない、たったひとつの本当。
何もかもを知り、何もかもを持ち、幾つもの夢と願いとを抱いていた最初の私には分からない、たったひとつ。

 ―――しあわせになりたい。

しあわせになりたい。
それが、それだけが私の、たくさんの私の祈り。
全部を知っていた最初の私はきっとずっと幸福の中にいて、だからそんな祈りだけは、知らない。

祈りはひとつ。
幸福の希求。
それだけが、たくさんの私の、たったひとつの本当だった。

しあわせになりたいと祈る私が死んでいく。
しあわせになりたいと祈る私は生きている。

272青(2) しあわせに、なりたかった:2008/12/06(土) 02:36:40 ID:Vii76lBc0
死んでいく。
たくさんの私が死んでいく。
死んでいく私は夢をみる。
まがい物の夢をみて、しあわせになりたいと祈りながら死んでいく。
まがい物の願いを抱いて、しあわせになりたいと祈りながら死んでいく。
たくさんの私は、叶えたかった偽物の夢を、抱いていた偽物の願いを思い描いて、死んでいく。
声を出すこともなく、ただはらはらと涙を流して、死んでいくのだ。

そうして私は生きている。
私はひとり、生きている。
死んでいくたくさんの私の夢を偽物と、私の願いを偽物と、嘲り笑って生きている。
しあわせになりたいと、祈りながら。
祈りながら、願う。
生き終わりたいと。
祈りながら、夢をみる。
死んでいく私になれたらと。
偽物の夢と偽物の願いを抱いて死んでいけたなら、しあわせになれるのだろうかと。
思いながら、声も出せず、生きている。

生きて、生きながら、死んでいく私の夢をみる。
生きて、生きながら、死んでいく私の願いを抱く。

たくさんの私が、祈りを捧げて消えていく。
たくさんだった私が、ひとつづつ、欠けていく。
ひとつ欠けて、ふたつ欠け、百と千とが欠け落ちて、そうして私はもういない。

私はひとり生き、生きていながら生き終わることもできず、
だから死んでいく私のように夢をみられず、
だから死んでいく私のように願いを抱けず、
生き終わりたい私は、だけどたくさんの私の夢を抱えて動けずに、
生き終わりたい私は、だからたくさんの私の願いに押し潰されて、
だから私は、祈るのだ。
しあわせになりたいと。

しあわせになりたい。
生きたくて、夢をみたくて、願いを叶えたくてしあわせになりたい私が死んでいく。
はらはらと死んでいくたくさんの私と同じにしあわせになりたい私は生き終われない。

生きたくて、生き終りたい私は、だから祈るのだ。
しあわせになりたいと。

三万の歌と、三万の夢と、三万の願いと、その全部が花弁となって満ちる青の中で、
しあわせになりたいと祈る私は、生き終わりたいと生きる私は、だから、そう。


たくさんの私で、ありたかったのだ。

273青(2) しあわせに、なりたかった:2008/12/06(土) 02:38:37 ID:Vii76lBc0
 
【時間:???】
【場所:???】

砧夕霧中枢体
 【状態:不明】

→879 1013 1019 ルートD-5

274青(3) 志士、意気に通ず:2008/12/07(日) 01:15:37 ID:ijalZPQo0

「……神、坂神!」

耳朶を震わせる声に、我に返る。
ゆっくりと辺りを見回した坂神蝉丸の目に映るのは、青の一色に包まれた空間である。

「聞いているのか、坂神」
「……あ、ああ」

こめかみの辺りを押さえながらぼんやりと答える蝉丸に、光岡悟の鋭い視線が飛ぶ。

「貴様……何を呆けている?」
「済まん。……しかし、今の声は……」
「声? 何の話だ」

怪訝そうな顔をする光岡に、蝉丸は眉を顰める。
あれほどに響き渡った声が、聞こえていないという。
自身にのみ聞こえた声、それは切々たる渇望。
幾千、幾万に分かたれた身体と魂の狭間で震える、それは悲鳴だった。

「……」
「その娘の聲でも聞いたか、坂神」

腕に抱いた小さな肢体に目を落とした蝉丸に、光岡が嘆息する。

「夢想も大概にしろ、坂神。貴様は現状を理解しているのか」
「……」
「……変わらんな、貴様は。そうして己が仁と國の大計を秤に掛ける」

吐き棄てるように呟いた光岡が、瞳を細めて蝉丸を見据える。

「これだけは言っておく。貴様の仁は誰を救った例もない。
 貴様の手前勝手な情は、それを向けられた者を追い立てる。
 追い立てられた者は己が分を弁えず駆け……いずれ身を滅ぼす」

訥々と、独り語りの如くに紡がれる言葉は、どこまでも昏い。

「これまでもそうだった。幾人もが貴様に、貴様の在り様に惑わされて死んでいった。
 まだ立てると。まだ戦えると。まだ希望はあるのだと思い違えて命を散らした。
 貴様は強く在りすぎるのだ、坂神。だがそれは危うい煌きだ。刃を持たぬ者の目を眩まし、殺す光だ。
 貴様は為せると言う。何事も為せると。だが貴様は考えぬ。強く在れぬ者たちを。その弱さを。
 為せぬのだ、弱者には。貴様の放つ煌きの何一つとして為せぬ。貴様の見せる夢の一つとて手に取れぬ。
 貴様は己が仁のままに駆ける。後に続いて駆け出した者たちを振り向かぬままにだ。
 力を弁えず後に引けぬ場へと踏み出した弱き者たちを、その身の破滅を貴様は目に映さぬ。
 己が後ろで人の死ぬとき、貴様は既に眼前の新たな誰かに情を向け、振り向こうとせぬのだ。
 ああ、貴様の仁は人を救わぬ。人を殺す仁だ、坂神」

口の端を上げて笑む光岡の瞳には小さな炎が宿っている。
ちろちろと揺らめくそれは、燃え移る何かを探すように舌を伸ばしていた。

275青(3) 志士、意気に通ず:2008/12/07(日) 01:16:28 ID:ijalZPQo0
「―――戦争は」

青の世界に、光岡の言葉が染み渡る。

「戦争は続いているのだ、坂神」
「そんなことは……」
「分かっている、か? 本当に分かっているのか。分かっていて軍を抜けたのか坂神。
 ならば俺は俺の言葉を訂正しよう、貴様の仁は人を殺すだけではない。貴様は國を殺す。
 その覚悟があって口にするのか。分かっていると、戦争は続いていると口にするのか坂神」

常になく饒舌な光岡に気圧され、蝉丸はただ口を噤む。

「五年以上も続いた今の休戦期も、最早限界に達しているのは知っているな。
 大陸では協定線を挟んだ睨み合いへ増派に次ぐ増派が繰り返され、協定破棄に備えた布陣が互いに完成しつつある。
 我が國の新型艦の就航を控えた今、何らかの口実で越境が開始されるのは時間の問題だ。
 ならば、何故この時期に改正バトル・ロワイアルなどという厚労省主導の酔狂が罷り通ったと思っている?」
「……それは」
「内務省肝いりの、固有種因子陽性保持者の選別とその殲滅?
 皇居に巣食う奸賊共のご機嫌取りに、海軍が情勢を度外視して十五隻もの艦隊を寄越すと?」

忠孝を旨とする光岡らしからぬ物言い。
眉根を寄せた蝉丸に、光岡が白い歯を見せる。

「ん? ……ああ、驚くには値せん。奸賊を奸賊と評した、それだけのことだ。
 坂神、この國という大樹には巣食う蟲が多すぎると思わんか。
 必要なのだ、腐った枝葉を切り落とす鋏が。蟲共を焼く炎が。歪んだ幹を支える添え木が」
「光岡、貴様……いったい、何を」
「―――固有種の殲滅など、目晦ましに過ぎん」

疑念を断ち切るかのように、唐突に話題を戻す。
渋面を作る蝉丸を無視して、光岡の言葉は続いていく。

「このバトル・ロワイアル―――真の目論見は、固有種因子覚醒者……その骸の回収だ」
「……!?」
「我が國の覆製身培養技術は世界に先駆け、既に完成を見ている」

飛躍する話の展開についていけぬまま、蝉丸が少女を抱く腕にほんの僅か、力を込める。
覆製身という存在の意味は、思い知っていた。

「母胎より産み落とされぬ異形……覆製身はそれでも本来、赤子として誕生し、人と同じように育つものだ。
 しかし我が國の覆製身培養は、その時間を必要としないまでに革新を遂げた。
 今や、ものの半年を待たずに成人と遜色ないところまで成熟させることが可能だ」
「だが、それは……」
「ああ、長くは保たん。急速な成長は急速な老化を伴う」

精々が一年、長くても数年。
それが培養覆製身の寿命というのが、蝉丸の知る常識である。

「それでは戦線の維持も難しい、その点が覆製身兵の限界だった。
 だが、ここに来てようやく先進研究の成果が出た。新たな技術が確立されつつあるのだ。
 それが、固有種因子覚醒者の覆製身生成。そして―――」

光岡が、蝉丸の腕に眠る少女を、そして蝉丸自身を、じっと見据える。
ほんの僅かの間を置いて、

「覆製身固有種の、強化兵生成だ」

276青(3) 志士、意気に通ず:2008/12/07(日) 01:17:07 ID:ijalZPQo0
言葉が、紡がれた。
向かい合う蝉丸の渋面に変化はない。
刻まれた皺だけが、微かに深くなる。

「貴様や俺……仙命樹を移植した各種の試挑躰。その実験結果を集積し、技研の白衣共は一つの結論を得た。
 培養覆製身の極端に短い寿命は、仙命樹による再生効能で補完が可能だと。
 そしてそれは、固有種覚醒者の覆製身に対しても有効だ、と。
 革命的な成果だと、連中は躍り上がっただろうな。
 固有種の覆製身による強化兵団……完成すれば、大陸諸国との力関係は一変する。
 膨大な予算を投入して実験は続けられ、遂に研究は強化固有種兵団の試験運用へと至った。
 それが―――」

光岡の視線が、蝉丸の腕の中に眠る少女を射抜く。

「……砧夕霧、というわけか」
「そうだ。光学戰完成躰、培養覆製身兵団。三万の末端兵を、中枢体を経由した意識共有で有機的に運用する人形の軍隊。
 我ら試挑躰に代わる、次世代の兵器だ」
「だが、それとて……」
「ああ。甚大な損害を被っているな、たかが十数の敵を相手に」

疑念を呈する蝉丸に、当然といった体で光岡が頷いた。

「だからこそ、だ。だからこそ必要としたのだ、より強力な素体を。
 より強く、より早く、より大きな力を持つ固有種覚醒体を選別し、その因子を回収する。
 それこそが、この改正バトル・ロワイアルの真の目論見。
 長瀬源五郎……そして、その背後にいる犬飼俊伐の推し進める軍制改革の第一歩なのだ、坂神」
「犬飼……だと?」
「長瀬の如き一介の研究屋風情が、後ろ盾も無く軍を顎で使えるか。
 内閣総理大臣、三軍統帥・犬飼俊伐こそがこの大仰な茶番劇の黒幕よ」

事も無げに言い放った、それは蝉丸の認識を大きく逸脱した事実であった。
幾多の修羅場を越えようと、坂神蝉丸は叩き上げの下士官に過ぎぬ。
叙勲の場を除けば、連隊長とすら言葉を交わしたことがない。
尻に殻の着いた新米尉官の出世していく背中は見ても、その階段の上など思考の埒外であった。
己が義の揺らぐに任せて軍務に背いたのも、いくさ場を知らぬ上層部との乖離を感じたが故である。
空転する蝉丸の思考を無視するように光岡の言葉は続く。

「……だが、中心となって研究を主導していた長瀬源五郎が叛逆の徒として化け物と成り果てた今、
 最早その目論見も潰えた。強化兵団計画は近日中に凍結されることになる。
 判るか、坂神。この茶番劇は既にその役割を終えているのだ。貴様も―――」
「待て、光岡」

尚も続けようとする光岡を、蝉丸の声が遮った。

「仮に貴様の言うことが真実だとして……それでは長瀬は尖兵に過ぎんのだろう。
 奴が斃れたところで、犬飼が政治を動かす限りその計画とやらは進められるのではないか」
「……其処よ、坂神」

277青(3) 志士、意気に通ず:2008/12/07(日) 01:17:52 ID:ijalZPQo0
蝉丸の指摘に、しかし光岡は我が意を得たりとばかりに笑みを深める。

「正に其処が肝要なのだ。貴様の言う通り、犬飼こそが計画の黒幕。戦を捻じ曲げ、この國を傾ける元凶よ。
 なればこそ、我等は―――決起する」
「……!?」

決起。
軍に身を置く者がその一語を発する、そこに篭められた意味を汲み取って、蝉丸は戦慄する。

「待て光岡、貴様一体……!」
「九品仏少将閣下の下に集う憂國の士、三軍将校に二百余名。麾下兵力は全軍を掌握するに足る。
 決起は本日午前十時。帝都の制圧目標は市ヶ谷、立川、霞ヶ関、愛宕山―――そして、永田町」

挙げられた地名は軍の中枢が置かれた場所。
そして同時に、国家の要と呼べる施設を示していた。

「政変……だと……!?」
「言葉が悪いな、坂神。これは維新だ」

さしもの蝉丸も、告げられた状況の重大さに言葉を詰まらせる。
対して意に介した風もなく返してみせる光岡。
その態度は相当の以前から事に臨む覚悟と準備を固めていることを窺わせた。

「肥大した戦線を放置し国力の疲弊を招きながら無策のまま五年の休戦を経て尚その責を負わず、
 あまつさえ覆製身強化兵団などと先達の英霊を愚弄する目論見を進める奸賊犬飼に天誅を下す。
 陛下の聖旨を捻じ曲げる腐った枝葉を切り落とし、國という大樹を蘇らせる。
 それこそが九品仏閣下の御意志であり―――我等将兵の採るべき道なのだ、坂神」

切々と語る光岡の視線は、どこか熱に浮かされたように危うい。

「正気か、光岡……そのような計画、成功するとでも……!」
「―――俺が、この島へと向かう直前のことだ」

覆い被せるように、光岡の声が蝉丸を遮る。

「一報、奸賊誅殺セシム。そう……犬飼俊伐は既に黄泉路へと旅立った。
 陛下の玉體も同志が警衛し奉っている。我等の決起は成功したのだ、坂神」
「……!」

首相の暗殺。
五期十六年もの間、国家の中枢に座り続けた男が凶弾に斃れたという。
それは取りも直さず、未曾有の大混乱を意味する。
最早計画の成否と関わりなく、周辺諸国を巻き込んだ騒乱の火蓋が切って落とされたということだった。

「政府の転覆など……貴様等、国を二つに割る気か……?
 開戦を前にしたこの大事に、そうまでして逆賊の汚名を被りたいか……!」
「……言った筈だ、坂神」

搾り出すような蝉丸の言葉にも、光岡は表情を変えない。
悲壮はなく、混沌はなく、ただ静かな覚悟と余裕だけがある。

「陛下は我等の同志が警衛し奉っている、と」
「……ッ!?」
「間も無く詔勅が下されるだろう。……國賊犬飼に与する者は将校から下士官、一兵卒に至るまでが
 陛下の御名に於いて討伐されるべし、とな。そしてその軍令は、九品仏少将閣下に宛てられる」

文字通りの、錦の御旗。
神聖にして不可侵なる、この国の義の象徴。
陸海空を問わぬ、全軍の絶対的な行動原理。
その掌握が、完了しているということ。

278青(3) 志士、意気に通ず:2008/12/07(日) 01:18:24 ID:ijalZPQo0
「陛下を……陛下の御意を何と心得ている……!」
「先帝崩御の折、女帝の古今に例ありと横車を押したのは犬飼とその腰巾着の内大臣よ。
 まだ幼くあられる陛下に摂政を僭称し、聖旨を曲げて政を恣にした奸賊より御護り奉る。
 それが閣下の御意志であり、我等が決起の血盟でもある」
「……虚言を弄するな、貴様等のしていることは犬飼と変わらん!」

皇という象徴。
その詔を得た者が官軍であり、得ぬ者は逆賊となる。
百年も昔に国を分けた維新と何一つ変わらぬ、それは構図であった。
そこに在るのは玉體という神宝であり、皇という人では決してない。
幼くして即位した今上の皇の、まだあどけない面立ちを蝉丸は思う。
年賀の儀に際して玉音を賜る、たどたどしい童女の声を蝉丸は思う。
色々なものが、ぐるぐると巡っている。
死んでいった幾多の戦友。若い士官。故郷に妻子を残した兵卒。
屍を晒した数千の砧夕霧。久瀬少年。腕の中に眠る最後の少女。
ぐるぐると、廻る。
銃後の要職にありながら我を貫いた来栖川綾香。長瀬源五郎。
得度を重ねた僧の如き貌で切々と身勝手な理を説く光岡悟。
泥と、埃と、蚤と虱と灰と血と膿とだけが溢れたいくさ場。
ぐるぐると、ぐるぐると廻った末に、

「貴様等の義は……全体、何処に在る……!」

それだけを、坂神蝉丸は呟いた。

「……國を殺す仁が、義を問うか。坂神」

返す言葉は、抜き身の刃。
人の命を削るが如き鋭利を持った、声音であった。

「ならば……ならば貴様好みの義を示そう、坂神蝉丸。
 理を説いて解さぬ、貴様の頑迷に」
「……」
「これは一人の男の物語だ。かつて何もかもを喪った、少年の物語だ。
 何不自由なく傲岸不遜に生きていた少年が、すべてを奪われる物語だ」

そうして光岡悟が、語りだす。

279青(3) 志士、意気に通ず:2008/12/07(日) 01:18:42 ID:ijalZPQo0

【時間:???】
【場所:???】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:背部貫通創(軽傷・仙命樹により急速治癒中)】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:軽傷】
砧夕霧中枢
 【状態:意識不明】

→926 1013 1024 ルートD-5

280名無しさん:2008/12/07(日) 01:21:11 ID:ijalZPQo0
>>261-265において誤字がありました。
「犬養」を「犬飼」に訂正させていただきます。
申し訳ありません。

281青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:30:42 ID:witdPNHU0
 
―――十六年も前のことだ、と声は告げた。

十六年前。
一人の男が、国政の頂点に立った。
男の名を犬飼俊伐。
世界に先駆けて覆製身技術を完成させた科学者にして、気鋭の論客であった。
当時、十数年にわたって打ち続いていた戦役に厭戦感情の沸騰しかけていた国民は、文民出身の首相を歓迎の声をもって迎えた。
軍部による傀儡政権との見方も、彼の政治手腕によって瞬く間に休戦条約が纏め上げられるに至って沈黙した。
疲弊しきった国家は、ここに一時の休息を得たのである。

内政に、また外交に高い手腕を発揮した犬飼は国民の圧倒的な支持を背景に幾つもの改革を断行。
短い休戦期の間を縫うように、内閣主導による行政機関の再編が行われた。
腐敗した官僚の一新と行政の効率化という合言葉の下で再編された省庁の一つに、厚生労働省がある。
企業との癒着で多くの汚職官僚が摘発され、清廉の故に苦汁を舐めていた職員だけが諸手を挙げて再編を受け入れる中、
誰の注目も浴びないままに一つの部署が誕生している。

―――『特別人口調査室』。
組織図上は人口調査調整局の下部に位置するものの、事実上の大臣直轄とされ局長クラスですら関与できぬ、
その部署の業務内容は、ただ一つ。
犬飼首相の肝いりで行われる極めて特殊な、そして極めて異常な企画の、運営である。
バトル・ロワイアル―――民間人による、殺戮遊戯。
何を目的として始められたのか誰一人として知る者のない、悪夢の企画。
内部的には『プログラム』と呼ばれたその第一回が開催されたのは、犬飼の首相就任から三年が過ぎた夏である。

山陰地方のとある廃村を封鎖して行われた第一回プログラムの参加者は、実に百二十人。
老若男女を問わぬその人選に如何なる意図が働いていたのか、それは既に知る由もない。
判明している事実は、その選出が完全な乱数によるものなどではなかったという一点である。
友人、知人といった関係者が揃ってプログラムに参加させられた集団の存在が、それを裏付けている。

訳もわからぬ内に拉致され、殺戮を強要されたその百二十人の中の、幾つかの集団。
その一つに、とある青年を中心とした友人集団で構成されたものがあった。
青年は平凡な学生だった。
中流の家庭で学徒動員されることもなく育ち、休戦期の中で青春を謳歌していた青年は、強要された殺戮を好まなかった。
友人たちを集め、和をもってプログラムへの対抗を呼びかけた。
青年と友人たちは他の集団へと積極的に融和を求め、その勢力は徐々に大きくなっていった。
そして、それが為に―――悲劇が起こった。
いつの間にか青年たちの勢力は、プログラムの趨勢を完全に握っていた。
その保持する火力と人数は、彼らの思惑次第で残る人間……彼らに与しない人間の命運を決められるまでになっていた。
彼らは大きくなりすぎたのだ。
最大勢力となった彼らは、その主導権を巡って争いを始め―――混乱の中で、一発の凶弾が青年を撃ち抜いた。
青年の方針に小さな反目を持った別集団の、リーダーを盲目的に崇拝していた者の発砲と記録されている。

282青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:31:59 ID:witdPNHU0
要であった青年を喪って、勢力は即座に瓦解した。
プログラムへの対抗という一つの目的に向かっていたはずの彼らは、青年たちに合流する以前の集団単位で分裂。
保持する武装をもって、互いに殲滅戦を開始したのだ。
そして、多数に分裂した集団の殆どから狙われたのが、死んだ青年を中心としたグループだった。
青年を喪ったとはいえその火器は勢力中で最大を誇っていたのが脅威であったのかも知れないし、或いは
かつての結束の象徴であった彼らが、多くの者にとって精神的な枷であったのかも知れない。
いずれにせよ窮地に立たされた彼らを救ったのは、一人の男だった。
男は青年の親友だった。
智謀をもって青年を支え、雄弁をもって彼らを最大勢力に導いた男は、青年を喪った悲しみに浸ったまま
抗戦の意思を見せない友人たちを叱咤し、銃を手に取らせた。

―――諸君、反撃だ。

青年の遺骸を抱いた返り血で顔を赤く染めながら、男は笑ったという。
笑って走り出した、男のその後の記録は凄惨に満ちている。
奇襲、夜襲、伏兵、罠。
あらゆる手段を駆使して敵集団を分断し、かつて手を結んだ人間たちを皆殺しにしている。
時に再びの融和を呼びかけておきながら、最悪の状況で裏切りをかけて死に追いやり、
そうして敵と味方の全てを巻き込んだ鬼謀の果てに、男は勝利した。
生き残ったのは、最初から青年の友人であった者たちだけだった。
その他の全員を男は殺し、そして運営に携わっていた当時の特別人口調査室の人間と接触している。
どのような取引があったものかは知れない。
長い協議の果てに出た結論だけが、現在の事実として残っている。
即ち―――その時点での生存者全員が、第一回プログラムの優勝者であった。

文字通り完膚なきまでの勝利を収めた男は、ただ一つの喪失について何の言葉も残していない。
あらゆる公式の場で青年の死に触れることは、一切なかった。

プログラム終了後、男は国家への所属を決める。
約束された厚遇に甘んじる青年の友人たちと袂を分けて選んだ道は、陸軍士官学校への編入である。
プログラムで見せた神算鬼謀を証明するように男は入学当初から頭角を現した。
幹部候補生として陸軍士官となった後も結果を出し続けた男は、やがて陸軍大学校へ進学。
類稀な成績を残して卒業し、俊才として上層部の目に留まることとなった。
有力な人脈を得た男が幾つかのポストを経て就任したのが、憲兵隊司令部付副官の役職である。
この間の男の職掌に関しては一切の記録が残されていない。
しかし犬飼首相との距離を急速に縮めたのがこの時期であったことを考え合わせれば、議会及び官庁へ派遣される
特務憲兵を統率する役職にあった男が、政府首脳や軍部に批判的な人物の発言内容やそれに起因する攻撃材料を入手し、
それを政治的に活用したことは想像に難くない。
著しく灰色の手法で犬飼首相の政治基盤を堅固なものとし、その影響を背景に発言力を強めていった男は、
同時にこの時期、積極的な論述を各方面に展開している。
機関紙への投稿を始めとして、著書、講演など枚挙に暇がない。
本来、秘密裏の任務に従事すべき憲兵の責任者が大々的に思想信条を公言するのは極めて異例である。
だがその破天荒が血気盛んな多くの若手将兵の尊崇を集め、より発言力を強める結果となった。
犬飼首相を積極的に支持し、公然とその恩恵を受けながら思想面で軍部の旗振り役となった男は、
崇拝者を三軍に増やしていく。
その先鋭な主張や放言をよしとしない人物も櫛の歯が抜けるように失脚し、彼が遂に将官にまで登り詰めたのは、
実に二年前のことである。


***

283青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:32:49 ID:witdPNHU0
 
「―――だが、だがな、坂神」

光岡が、笑む。

「誰も知らなかったのだ。男の心根の底に何が棲むのか。男が何を思い、何を支えに登り詰めたのか。
 首相の懐刀と呼ばれ、軍における絶大な発言力を持つに至った男が、一体、何者であるのか」

牙を剥くように。
炎に巻かれ天を仰ぐように。
光岡悟が、世界を満たす青の中で、哄っている。

「そうだ、そうだ、男はな、坂神。忘れてはいなかったのだ、友の死を。
 友を死に追いやった者たちのことを。友を死に追いやった國のことを。
 泥を啜り、石を噛んで雌伏したのだ。友の仇に尻尾を振って、犬と呼ばれるまでに」

その瞳には、信仰と呼ばれる光が、宿っていた。

「男は待ち続けた。國を変えるその日を。友の無念を晴らし、仇を討つその時を。
 力を蓄え、同志を募り、ひたすらに待ち続けたのだ。分かるか坂神?
 その執念が、その怨念が、その想念が、終に実る日が来たのだ。それが今日、この時だ!」

熱に浮かされたように、大仰な身振りで。

「そうだ、坂神。これは維新だ。腐り果てた大樹を立て直す、憂國の決起だ。
 そして同時に、これは物語でもある。これはかつて何もかもを奪われた男の物語だ。
 己が総てであった友を奪われた男の、仇討ちの物語だ」

聞け、坂神蝉丸―――と、声が響き。

「この國で行われた最初のプログラムを半ばまで制しながら凶弾に斃れた青年の名を、千堂和樹。
 その友であり、第一回バトル・ロワイアル優勝者である男の名を―――九品仏大志という」

284青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:33:05 ID:witdPNHU0
光岡悟の告げる、それは過去という真実であった。

「これが我等の義だ。そして閣下の仁だ。貴様の求めるものだ、坂神。
 武勇に非ず、智謀に非ず、我等が信ずるは閣下の在り様、魂の高潔よ。
 己が信を全うし友の無念を晴らすのみならず、國を憂いて変えようと起つ男の器に、我等は意気を感じたのだ。
 その背を見て歩もうと、その道を切り開こうと共に起ち上がったのだ。
 閣下は既に先を見据え、諸国との講和を模索して動いておられる。
 これまでのような仮初めの休戦期ではない。真の終戦が来るのだ、この國に。
 半世紀以上を経て終に至るのだ、我等が待ち望んだ、争いのない時代に!」

狂信の瞳と、熱っぽい口調と、大仰な身振りと。
その全部を込めて、光岡悟が語りを終える。
最後に、そっと。真っ直ぐに蝉丸の目を見据えて、告げた。

「かつて人であった男はその怨を以て鬼と成り、そして今、國を憂いて刃と成った。
 勇と謀と、仁と義とが我等には在る。今こそその身を焔と成して、我等が愛する國を変える時だ。
 ―――共に往こう、坂神蝉丸」


***

285青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:33:34 ID:witdPNHU0
 
差し出された手を、じっと見つめる。
見つめて、思う。
この手は友の手だ。
気心の知れた手だ。
共に汗を流し、木剣を握って肉刺を潰した手だ。

そして同時に、思う。
この手は時代の手だ。
新たな時代の差し伸べる手だ。
見知らぬ街並みと穏やかな食卓と、平和という言葉の意味へと続く手だ。

その街並みには青い空と白い家と子供の声があり、灰色の煙の燻る焼け跡はない。
その食卓には笑顔があり、笑顔だけがあり、悲憤に暮れる顔は、どこにもない。
平和という言葉の中に、戦はない。あっては、いけない。

じくり、と。
傷が疼いた。
身体の傷ではない。
それは、坂神蝉丸という男の奥底、暗く澱んだ淵の向こう側にできた、小さな傷である。
じくりと傷が疼くたび、その小さな、しかし深い傷から膿が染み出してくる。
嫌な臭いのする毒々しい色をした膿は、じくじくと染み出して蝉丸の中に小さな棘を撒き散らす。
撒き散らされた棘につけられた傷から新たな膿が染み出して、拭っても拭っても染み出して、疼くのだ。

焼け跡から立ち昇る煙のない、広く青い空を思うとき、傷は疼く。
崩れた壁も割れた窓もない、塗りたての白い家を思うとき、傷は疼く。
笑顔の囲む食卓に乗った秋刀魚の塩焼きと筑前煮の匂いを思うとき、傷は疼く。
悲嘆が落胆が焦燥が諦念が絶望が、昨日まで誰もが抱いていた筈の諸々がどこにもない国を思うとき、
平和という言葉を、平穏という言葉を思うとき、坂神蝉丸は己が奥底で膿み果てた傷が度し難く疼くのを、感じていた。

そういうものを守りたいと、思っていた。
そういうものを掴みたいと、戦ってきた。
そういうものを築くための、力を求めた。

だが、ならば何故、手を取らぬ。
差し出された手を見つめながら、蝉丸は逡巡する。

286青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:33:59 ID:witdPNHU0
傷の疼くに任せて目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、笑顔に満ちた街並みではない。
それは、砂塵の吹き荒ぶ平野であり、土嚢の裏に深く掘られた暗く湿った塹壕であり、熱病を運ぶ蚊の跋扈する密林である。
何日も前に声の嗄れ果てたひりつく喉と、鼻の曲がるような垢と汚物の臭いと、蚤に食われて掻き溢した脚の痒みと、
ばさばさと乾いた塩の味しかしない糧食と、時折響く銃声と、ぎょろぎょろとそれだけが光る同輩たちの充血した目と、
死にかけた兵のぞんざいに巻かれた包帯の隙間から漏れるけくけくという咳と、そういうものたちである。
守るべき何物でもなく、掴むべき何物でもなく、築くべき何物でもない、それはただ、そういうものたちであった。
そういうものに囲まれて、いつまでも収まらぬ荒い呼吸がごうごうと耳の中に谺するのを思い描いて、
蝉丸はひどく安らかな気持ちに包まれるのを感じる。いつしか、傷の疼きも消えていた。

思う。
その中には、己がいると。
荒野に立つ坂神蝉丸がいる。塹壕に伏せる坂神蝉丸がいる。密林を切り開く坂神蝉丸が、そこにいる。
それは心安らぐ地獄、心地よい悪夢、穏やかな泥濘だった。

思う。
傷の疼く光景の中には、坂神蝉丸がいないと。
平穏の中に、笑顔の満ちる街並みの中に、暖かい食卓を囲む中に、坂神蝉丸は存在していないのだと。
故に傷が疼くのだと。故に膿が染み出すのだと。
真新しい街並みの、明るく色鮮やかな家々のどこにも、坂神蝉丸はいない。いられない。
そこに地獄はなく、そこに悪夢はなく、そこに泥濘はなく、故に坂神蝉丸の居場所は、そこにはない。

帰る街はなく。
いるべき場所はなく。
故に、その穏やかな日差しの下へと続く手を、差し出された時代からの手を取れず―――、
そうして、そのすべてが欺瞞だと、分かっていた。

欺瞞だった。
それは、傷から染み出したじくじくと嫌な臭いのする膿が見せた、舌触りのいい嘘だと、理解していた。
帰るべき場所など、いくらでもあった。
存在が赦されないことなど、ありはしなかった。
新しい時代が、平和という言葉が蝉丸を受け容れぬのではない。
受け容れぬのは、蝉丸の方だった。
ぬるま湯が嫌だった。穏やかな食卓が嫌だった。笑顔に満ちる街並みなど、反吐が出そうだった。
ただ、坂神蝉丸という一人の病んだ男が、平穏という凪を忌避している、それだけのことだった。

287青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:34:23 ID:witdPNHU0
何かを守るための力。
何かを掴むための力。
何かを築くための力。

そういうものだったはずの力は、いつしかその性質を変えている。
地獄を往く内、悪夢を彷徨う内、泥濘を這いずる内に、力はいつしか、坂神蝉丸という存在と同義となっていた。
坂神蝉丸の生は、力を振るい戦を切り開く生であり、それ以外の何物でもない。
蝉丸自身の抱く、それは実感であった。

同時にそれは恐怖である。
そこに義はない。
そこに仁はない。
それは単に、度し難い破壊衝動でしかない。
そんなものに衝き動かされる己が未熟を、そんなものの見せる嘘に縋りたくなる己が惰弱を、蝉丸は恐れていた。
恐怖が脆弱を産み、脆弱が欺瞞を求め、欺瞞が恐怖を作り、坂神蝉丸は、嘘の螺旋の中に居る。

麻薬のような抗い難さをもって、いくさ場が蝉丸を呼ぶ声が聞こえる。
甘露の如き芳香を放って、泥濘が蝉丸を手招きしている。
同胞のぎらつく飢えた瞳が、蝉丸の助けを求めてこちらを見ている。

そこにはない、今は遠い、乾いた埃交じりの空気を吸い込む。
そこにはない、今は遠い、湿った泥の臭いのする空気を、胸一杯に吸い込む。
その全部をいとおしむように一瞬だけ息を止め、ゆっくりと吐き出して。

静かに目を開けた坂神蝉丸が―――差し出された手を、取った。

瞬間、砕けていく。
砂塵の荒野が、泥濘の密林が、薄暗い塹壕が砕けて散って、舞い飛んでいく。
惰弱の見せた白昼夢が、握った手の温もりに融けて、消えていく。

「―――ああ。往こう、友よ」

言葉に恐怖はなく。
握る手に震えはない。
坂神蝉丸の選んだ、それは己が惰弱との訣別の、第一歩であった。

新たな時代を迎える恐怖に、傷が疼く。
疼く痛みに引き裂かれそうで、しかし蝉丸は膝を屈しない。
それこそが己との、己を侵す力との戦いであると、心得ていた。

「―――」

血を吐くように息をついた、その見上げる青の彼方に、光があった。

288青(4) この泥濘を這うような戦いを:2008/12/10(水) 14:34:47 ID:witdPNHU0
【時間:???】
【場所:???】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:背部貫通創(軽傷・仙命樹により急速治癒中)】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:軽傷】
砧夕霧中枢
 【状態:意識不明】

→1025 ルートD-5

289Act of violence:2008/12/11(木) 02:32:14 ID:SPIb/JNo0
 雨でぬかるむ山道は、想像以上に走り辛いことこの上なかった。
 まだそれほど足を取られるということもなかったのだが、気を抜くと滑って転んでしまいそうになる。
 木の合間から雨粒が零れ落ち、服も肌も濡れていく。

 前髪をべったりと額に貼り付け、汗なのか雨粒なのか、既に分からなくなっている水滴を拭いながら、伊吹風子は走り続けていた。
 山の中腹まで来たのだろうか、それともまだまだ先は長いのか……同じ風景が延々と続くお陰でどこが麓なのか分からなかった。
 ただ、目印となるであろう地点にはひとつ覚えがある。
 岡崎朋也と、みちる……風子の行く先には、必ずこの二人の死体が転がっているということ。

 そして風子は、まだそれに遭遇していなかった。
 土と泥に塗れ、赤い水溜りを広げて穴だらけになっている二人の体。想像するだけで胸が痛むが、更にそれを乗り越え、いや放置して進まなければならない。死者への冒涜……そんな言葉が風子の脳裏を掠めた。
 見返られることもなく、路傍の小石のように無視され、哀しいほどに報われない二人の魂。

 そればかりではない。由真と花梨とぴろ、実の姉の死に顔だって立ち会えていない。
 一人寂しく死んでゆく。それを課させてしまった自分の罪の深さを改めて実感する。
 無性に泣き叫びたい気持ちに駆られた。彼らの遺体に縋り付いて、どうかお願いです、寂しい思いをさせないでくださいと言いたかった。

 けれどもそれは許されない。恐らくは、この殺し合いが終わるまでは、永遠に。
 その時は、きっと自分はいないのだとも思うと風子はこんなのってない、とやり場のない怒りと、己の無力さ加減に罵倒したくなった。
 だがそれをぶつける術も知らず、またそんな機会もありはしないのだとも理解している。
 自分に残されているのは、ただただ贖罪を為す時間、それだけなのだから……

 内省の時間を終わりにして、風子は自分を忘れ、もう何度目か分からないくねった坂道を曲がろうとした。
 その瞬間、ガシャンという金属音が風子の耳朶を打った。
 直感的に危険を察知した風子は、振り向く間もなく地面に伏せた。
 雨で濁った土が顔にへばりつき、泥臭い匂いが鼻腔を満たしたが、咳き込んでいる暇も無かった。
 伏せた直後、ぱらららららというタイプライターの音が通り過ぎ、続いて高速で迫ってきた何かが風子の横をグラグラと危なっかしく通過した。

290Act of violence:2008/12/11(木) 02:32:33 ID:SPIb/JNo0
 体がまだ動くことを確認した風子は何を思う間もなく飛び跳ね、その場から離れる。
 さらにぱらららという音が聞こえたかと思うと、それまで風子のいた地面に無数の小さな穴が穿たれていた。
 この『タイプライター』の正体を風子は知っている。
 己の頭に憎悪を呼び起こす、この忌まわしい音を、風子はうんざりするほど聞いてきた。
 起き上がりざまに、ちらりと前方を確認した時見えた人物――朋也とみちるを殺害し、なおもしつこく追い縋る殺人鬼の青年が、イングラムM10のマガジンを交換していたのだった。

 あちこちのフレームがへこんだ自転車に乗り込み、吐息も荒い男の姿を確認した瞬間、風子は全身の血がカッと熱くなるのを感じた。
 頭でどれほど憎んでいようとも、いざ目の前にすると改めて体全体が怒り狂う。
 張り倒したい。頭を何度も踏みつけて殺してきた仲間に詫びを入れさせたい。

 だが今は足りない。あの男を倒すのに、必要な力が足りない。
 時間稼ぎのために用意した、バルサンを取り出してボタンを押す。
 途端、雨が降っているにもかかわらず物凄い勢いで煙が噴き出し、イングラムにマガジンを装填し終えた男の体を煙に巻いた。

「っ! この……!」

 ゴホゴホと男が咳き込むのを尻目に、前を塞いだはずの男をあっさりとすり抜け、風子は再び前へ前へと走る。
 無論その際、全力で自転車を蹴り飛ばして派手に転ばせる。煙が目に入ってまともに風子の姿も確認出来なかったので、反撃出来るわけもなかったのだ。蹴り飛ばした瞬間、自分でも驚くほど乱暴な行為を働いたという実感があったが、感慨に囚われる時間も惜しく、風子は後ろを振り向くこともなかった。
 更にもう一個バルサンを取り出し、ボタンを押しながら後ろへと放り投げる。

 一個目同様の凄まじい煙が男の周りを覆い、悪態をつくのが聞こえた。
 これでもうしばらくは……十秒は時間が稼げる。まだ、未来に繋がる十秒は残されている。
 先程よりも早く、より早く。
 服も髪も靴もドロドロに汚れて気持ち悪い感触だったが、関係なかった。少しでも前に。少しでも可能性を繋げるために。

 ふと、風子は以前どこかでやった、草野球のことを思い出していた。
 野球のことはよく分からなかったが、とにかく打って走れと言われたのでそうすることに努めた。
 コツン、とボールにバットが当たる。ふわりと球が宙に浮き、走れ走れと皆が怒声を飛ばす。

291Act of violence:2008/12/11(木) 02:32:52 ID:SPIb/JNo0
 とにかく全速力で走った。塁を目指して、真っ直ぐに走った。
 誰かに何かを期待されるのは、家族以外では初めてのことだったから……
 セーフ、という塁審の声が聞こえ、風子はそこで立ち止まる。
 ベンチの方を向く。そこではよくやったと声援を飛ばす者、意外な足の早さに感心する者、色々いたが一様に労ってくれていた。

 全速で走って、息も上がった体の動悸がやけに大きく感じられた。
 これが一生懸命ということなのか。全力で何かを成し遂げるというのは、こういうことなのか。
 ほんの小さなことに過ぎなかったが、忘れることの出来ない達成感があった。
 頑張るという言葉の中身を改めて理解した風子の中には、走って走って、どこまでも前に進むのも悪くないという思いがあった。
 そして、やり遂げたときには全力で喜んでいいのだとも。
 やりました、と風子は全身を声にして、快哉を叫んでいた。

 今はまだ違う。
 今は一塁にもたどり着いていない。
 ホームはまだ先、まだ自分は、何もやり遂げてはいない。

 打って、走れ。誰かが言ったその声が風子を奮い立たせる。絶対に諦めるなと叱咤してくれている。
 その瞬間には贖罪の思いも、罪の意識も関係なかった。
 どうすれば罪を償えるかではなく、どうすれば前に進めるかを考えて。
 何かが分かりかけていた。今までの自分とは違う、本当に大切なものが何かということを。

 けれどもその思いは直感的に生じた、言わば動物的勘とも言えるものにかき消される。
 後ろを向くと、そこには再び自転車に跨って、怒りの形相も露にした男の姿があった。
 坂道なのと地面のコンディションの悪さゆえとてもバランスが取れているとは言い難い。だがこの状況では銃を撃たずとも、自転車そのものが凶器となり得る。自転車を躱しきったとしても、前に回りこまれれば蜂の巣にされる。

 もうバルサンはない。不意打ちもどこまで通ずるか分からない。
 賭ける要素があるとするなら、今もポケットの中にある拳銃だけだが、果たして賭けて、勝てるだけの可能性はあるのか。
 まだだ。まだ五秒は考える時間が残されている。
 知恵を振り絞って掴み取ったこの時間を絶対に無駄にしたくない。
 仲間が命を落としてまで与えてくれた、この時間をも。

292Act of violence:2008/12/11(木) 02:33:08 ID:SPIb/JNo0
 一秒。

 サバイバルナイフはある。一気に反転して、すれ違いざまにナイフで切りつけるか?
 いや足りない。ナイフを取って構えるまでに、自転車が激突してくる。
 そもそも自分は小柄で、玉砕覚悟でナイフを正面から突いたとしても届かない。
 刃の切っ先が当たる前に吹き飛ばされる。

 二秒。

 拳銃を盾にして、相手が反射的に回避する行動をさせて隙を作るか。
 これも一連の動作を行う余裕がない。火力という点でも自分は見劣りしている。

 三秒。

 ナイフも、拳銃も用を為さない。この先にあるのは袋小路、デッドエンドだけだという思いが風子を過ぎる。
 こなくそと弱気を一蹴するも、しかし勝機のある作戦を思いつかない。

 四秒。

 諦めるわけにはいかない。せめて、相打ちだとしても死んでいった仲間に恥じない死に方をしたい。
 全力だと言い切れるような、悔いのない最期を……
 けれどもそれは何かが違うと風子の内奥が叫んでいた。
 掴みかけていたもの。野球の思い出を反芻する中で分かりかけていたもの。
 こんなのじゃない、これは一塁にはたどり着けても、ホームにはたどり着けない悪手。
 でも、それは何だ? 違うとは分かっていてもこうなのだと言い切れる何かがまだ分かっていない。
 後少しで分かりそうなのに。足りなかったのか、自分が作り出したこの時間は――

 五秒。

293Act of violence:2008/12/11(木) 02:33:23 ID:SPIb/JNo0
 タイムリミットと理性が告げ、こうなった以上は一か八かで拳銃で対抗するしかないとポケットに手を入れたとき、見えたものがあった。
 赤く広がる波紋。棒切れのように伸びた体。
 ほんの何時間か前まで一緒に話していた仲間。自分を励ましてくれた、ちょっと怖くて、ヘンな人だと思っていた人。
 同じく一緒にいた、元気が取り柄だと言えた少女。

 岡崎朋也、みちる。
 二人の無残な遺体が悲痛さを伴って風子の目に飛び込んできたのだった。
 岡崎さん、と我知らず風子は口にしていた。こんな形で再会するなんて。
 情けない、恥ずかしい姿を見せてしまったことに自虐的な笑みが零れ、足が止まってしまいそうになる。
 岡崎さん、風子は、こんな……

『止まるなっ!』

 風子の弱気の虫を感じ取ったかのように、いつかどこかで聞いた声で、激励の声が発されていた。

『止まるな! 走れ、全力だ! ホームに飛び込めっ!』

 野球のときの声だ。そう叫んだ人が空高く打ち上げたボールと共に、グラウンド中に響かせた声。
 何かを確信した、希望を追い続ける声だった。
 風子はそのときベンチにいたのだが、その人が発する声を、目をしばたかせて聞いていた。
 勝とう。勝ってみせる。そんな思いが伝わってくるようだった。

 ボールを目で追ってみる。どこまでも高く、天まで届くように距離が伸びていく。
 そのときの空の色はなんだっただろうか。夕暮れも近い空は茜色で、けれどもどこまでも透き通るような色だった。
 目を戻したときには、全力で戻ってくるその人の姿があった。
 ホームラン間違いなしの打球で、そんなに全力で駆ける必要もないのに、一生懸命に走っていた。
 ヒットを打ったときの自分のように。

294Act of violence:2008/12/11(木) 02:33:40 ID:SPIb/JNo0
 そうして掴み取ったものこそが本当に大切なものなのだと訴える笑いを、こちらに寄越していた。
 飛び越えろ。あのボールのように。突っ切れ。フェンスを越えて……!
 風子は地を蹴り、あの人が打った打球のように、空高く飛んで、二人の体を飛び越えていた。
 浮く感覚。けれども走っている。どこまでも、どこまでも……
 地に足が着いた直後、風子はわき道の茂みに飛び込み、転がるようにして坂を駆け下りる。自転車がブレーキを踏む音が聞こえたが、何かに躓いて派手に転がる気配がした。仕返しとでもいうように。

 ありがとうございます、岡崎さん……
 感想はその一言に留まった。背後にはなおもしつこく、坂を下りてくる追跡者の気配があったからだ。
 だが、十分時間はある。勝てる、その勝機が巡ってきた――
 泥だらけの風子の口もとがにやりと笑みの形を浮かべた。

     *     *     *

 目に入った煙の痛みが、まだ尾を引いている。
 何故だ。何故、後少しのところで邪魔をされる。
 苛立ちを隠しもせず顔中に滲ませ、七瀬彰は眼下に広がる森林と藪を見渡していた。

 自分が死体に躓いて転んでいる間に、標的の少女は段差を駆け上り、道と森林を隔てていた境界を突き破り、隠れる場所の多い茂みへと身を隠した。
 雨のせいで視界も悪い。おまけにこうも草木が多くては折角奪った自転車も意味を為さない。
 ホテル跡で放置されていた自転車を拾い、連中の中では最も弱そうな奴を選んで追跡してきたはいい。
 危険な奴らとは距離も離せたし、自分の勘に間違いはなく、追いついてもロクに反撃すら返ってこなかった。

 だが何だ? 後一歩のところで逃げられる、この詰めの悪さは何だ?
 殺虫剤の煙らしきもので不意打ちを喰らい、更には蹴飛ばされ、追いついたかと思えば今度は以前殺した連中の死体に引っかかって転んだ。
 偶然とは思えない、何か特別なものが彼女を守っている……

 馬鹿馬鹿しいと吐き捨て、彰はこけて泥だらけになった顔を袖で拭う。
 運がいいだけだ。実力でもなんでもない、こちらが少し油断していた結果に過ぎない。
 認めざるを得ないだろう。時間稼ぎとはいえ不意打ちを浴びたのは確かだし、以前殺した連中の死体が障害物になり得るだろうということも失念していた。だが標的は見誤っていない。確実に倒せるだけの実力差、武器の差はある。

295Act of violence:2008/12/11(木) 02:34:09 ID:SPIb/JNo0
 確実に追い詰められれば勝つのはこちらだ。これからは一対一、拠るべきものもなく頼れるものも期待できない、孤独な者同士の争い。
 そうなれば場数を踏んでいるこちらの方が適切に判断を取れる。
 他人の助力に甘んじ、自身の実力も上げることを考えもしない奴に負けるはずはない。
 僕は誰にも頼らない。周りを全て敵だと見なしていれば対応する術を考えなければならない。そうして戦ってきた。そうしていたら生き延びられた。
 ひとりでいられる覚悟もない甘ったれに、負ける道理はないんだよ……!

 侮蔑的な思念を逃げた少女だけではなく、誰かに寄りかかって戦うことを考えもしない無責任、無関心な人間たちに憎悪を向け、彰はそれを思い知らせてやるべく茂みの中へと踏み出した。
 雨で濡れた草木は思いのほか滑りやすく、集中していなければまた転んでしまいそうだった。

 イングラムM10は残りのマガジンが一本しかない。弾数的にあっという間になくなりそうだが、まだM79グレネードランチャーがある。
 この雨では火炎弾の威力は期待するべくもないので、炸裂弾をセットする。
 どうする、試しに何発か撃ってみて燻りだしてみるか?
 だが森林は広大で、一発撃っても大海の中に小石を放り込むようなものだ。

 だからといえど、何もせずに敵地に踏み込むにはいささか油断が過ぎる。不意を打たれた先ほどの痛みが蘇り、彰は目を細める。
 ホテルから何を持ち出していたかは知らぬが、下手をすれば今度は殺虫剤の煙だけでは済まない。
 相手もいつまでもここに留まっているわけにもいかないだろう、出てくるまで慎重を期すか。
 だがそれも問題がある。出てくるということは、それなりに作戦があってのことかもしれないからだ。
 追い詰められた狐は、逆に襲い掛かってくるということもある。それを上手くいなし、仕留めてこそ一人前の戦士。

 やはりこちらから燻り出す。予定を狂わせ、こちらのペースに持ち込む。
 しかし無駄弾を使うわけにはいかない、どこに炸裂弾を撃ち込む……
 そう考えたとき、デイパックの中に入れていた、あるものの存在を思い出す。

 あれならばどうだ? 電撃的に浮かんだアイデア。だが騙せる保障はあるのか。
 いや、自分も素人にほど近い存在だが、相手はさらに素人。ダメで元々と考えるべきで、ここで使わずにいつ使う。
 出し惜しみするは宝の持ち腐れと判断をつけ、彰はデイパックからクラッカーをあるだけ取り出す。
 イングラムを代わりに仕舞いこみ、M79を脇に挟みこんで、ヒモ部分に手をかける。
 さあ、どうだ。当てずっぽうとはいえ、当たるかもしれないという恐怖に晒される感覚に、お前が耐えられるか。

296Act of violence:2008/12/11(木) 02:34:26 ID:SPIb/JNo0
 彰は茂みの方へと向け、クラッカーのヒモを思い切り引っ張った。
 パーン、と銃声にしてはやけに軽い音だったが山中ということもあってかエコーもかかり、それらしく聞こえることには聞こえた。
 一つ目。出てはこない、がまだ次はある。一つ目を投げ捨て、二つ目のヒモに手をかける。

 反応なし。ここまではまだ我慢できるだろう。だがまだ次があると知ったら? それほどの弾薬の余裕があると知れば、どうだ?
 三つ目。回数を重ねてやけに大きく聞こえるようになったクラッカーの音が木霊する。木々の葉が驚いたようにざざと揺れる。
 次で打ち止めだが、動きはない。見破られているのか、それともやせ我慢か。どちらにせよ、四発分の銃声を受けて精神に余裕があるか?
 ないはずだ。同じだったから。銃の感触など知らず、死の恐怖に、同じく追い立てられていた自分だから、銃声に晒され続けるのは恐怖だと知っている。

 次だ。彰は使用済みのクラッカーを投げ捨て、最後の一つのヒモを取る。
 最後に残したのは、特大のクラッカーだった。一際大きいそれは、今までのものより重く、バンという大音響を山中に響かせた。
 ガサリ、と葉が揺れてひとつの影が飛び出してきた。我慢しきれないというように。

「見つけたっ……」

 追い立てられた獣、いや小動物が背中を見せ、坂道を下っていくのを彰は見逃さなかった。
 だがその足取りは草木に足を取られて遅く、また足場が悪いせいもあり決して早いものではない。
 M79の射程には入っていたが、まだ近づかないと当てられる自信はない。
 五メートルが確実に命中させられる射程だと当たりをつけた彰は、真っ直ぐに少女の背中を追った。

 だが数歩踏み出した時点で彰は足を止める。彰の足元には、一直線に横切るようにして張られていた線らしきものがあったからだ。
 引っ掛けか? いつの間にこんなものを……
 幸いにして色が緑に紛れるような色ではなく、白色だったということ、注意深く罠がないか足元を観察していたお陰でどうにか難を免れることが出来た。
 真っ直ぐ進めば、同様の罠があるやもしれない。彰は少し右寄りに迂回して少女の後を追う。

 くるり、と少女が後ろを振り向く。罠にかかることを期待していたのだろうその表情は一瞬の驚愕に見開かれ、続いて落胆と焦りの様相を呈する。
 そう何度も手の内にかかってたまるか。M79のグリップを強く握り締め、若干前側へと傾ける。
 射程距離に入るまで、残りおよそ10メートル前後……いや、この瞬間7メートル程になった。

297Act of violence:2008/12/11(木) 02:34:43 ID:SPIb/JNo0
 少女の足は相当に重い。自転車に乗っていた彰と違い、その身ひとつでここまで走り抜けてきたのだ。
 称賛に値すべきだと思うが、ここまでだ。体力を使い果たして息切れするがいい。
 体力の低下は、そのまま各種回避行動、攻撃、防御、集中力の低下を意味する。
 無論自分も体力が減っていないわけもないが、度合いに関しては相手の方が減少率は高いはずなのだ。
 特に罠も見えない。やはり集中的に仕掛けられていたのは少女の進む直線上だったということか。

 そうこうするうちにあっという間に差は詰まり、十分に当てられる射程まで残り……4メートルか。
 距離は約10メートル。当てられるか。その疑問が胸に当たり、無駄弾を消費する余裕があるかと計算する。
 いや、直接体に当てる必要はない。炸裂弾なら爆発時の破片だけでダメージ自体は与えられる。先のホテルでの一戦でそれは証明されている。
 足を止められれば、後は一分足らずで決着がつく……そう判断した彰はM79を持ち上げ、トリガーを引き絞った。

 自身の体に少しの反動がかかり、引き換えに吐き出された炸裂弾が相手目掛けて直進する。
 動きながら撃ったお陰で狙いは正確ではなかった、けれども効果は十分だった。
 少女の脇を外れてやや近くの地面に叩きつけられた破片弾が地面と草木を抉って爆発し、土や小石を伴いながら破片を周囲2メートル程を巻き込んで飛び散らした。当然、その範囲内には少女もいる。

 爆発時の爆風にまずあてられ、体のバランスが崩れたのと同じタイミングに破片や土くれ、小石の群れが襲い掛かる。
 咄嗟に顔を庇う動作は見せたものの破片の一部や石が体に次々とぶつかり、さらには爆風の影響もあって軽く体も宙に浮き、そのまま倒れる。
 恐らくは転がっていっただろう。ダメージ自体は致命傷にはほど遠く、些細なものに過ぎないだろうが転ばせられたというだけで十分だ。
 M79に再び破片弾を詰めなおし、さらに接近を開始する。

 射程圏内。入った――そう認識した時、思いも寄らぬ反撃が彰を迎えた。
 黒い布に包まれた、つぶてのようなもの……それが少女の手から放たれ、想像以上の速さを伴って彰へと向かった。
 何だと認識する間もなかった。運悪く額にぶつかった『つぶて』がガツンという鈍い音を立て、彰の脳を揺らした。
 ぐっ、と呻いてぼやけそうになる意識を何とか繋ぎ止め、続け様に『つぶて』をぐるぐると頭上で回す少女の姿を見る。
 西部劇か何かに出てくる、捕縛用の縄を回す保安官のようだった。あれは、さっき投げたものと同種のものか?

 まだあんな武器を残していたとは……諦めの悪い女め……!

298Act of violence:2008/12/11(木) 02:34:58 ID:SPIb/JNo0
 どろりとした水滴が頬を流れ落ちる。『つぶて』がぶつかったときに額から出た血なのだと気付いた瞬間には、既に第二撃が飛んできていた。
 M79で『つぶて』を叩き落とす。女の力だ、銃身がへこむということは考えられない。
 だが『諦めの悪い女』は三つ目も隠し持っていて、先ほどまでのような勢いはないまでもそれなりの速さを以って『つぶて』を投げてきた。
 これも叩き落とす。ごんという低い音を共に『つぶて』はあらぬ方向へ飛ぶ。

 無駄だ、そんなものでどうにかなるものか――
 が、それすらも『諦めの悪い女』の本命ではなかった。
 二つ『つぶて』を叩き落とし、それに対応する隙が生じ、彰はM79の銃口が向ける事が出来ずにいた。
 それこそを狙っていたかのように……『諦めの悪い女』は、両手に拳銃を、しっかりと構えていた。
 拳銃から銃弾が放たれ、一直線に彰へと向かっていく。狼狽した彰だったが、こんなことでやられてたまるかという意地が体を動かした。

「舐めるなっ!」

 『つぶて』を叩き落すときにM79を振った方向に合わせて体を捻り、重心を移動させる。
 それでも銃弾を躱しきることが出来ず、脇腹を銃弾が掠め、僅かに肉を抉り取っていったが、痛み以上の妄執が彰を突き動かした。
 戦いを逃げてきた人間に。信念の意味を知りもしない人間に、負けてたまるものか。
 伏せるようにして地面に倒れ、それと同時にM79のトリガーを引く。

 地面スレスレから発射された炸裂弾が、彰の射程外ギリギリの地面を吹き飛ばす。
 土と塵の余波が彰にも襲い掛かる中、『諦めの悪い女』が悲鳴を上げるのを彰は聞き逃さなかった。
 草木と泥の匂いが混じった自然の味が鼻腔に広がるのを感じながら、彰は立ち上がり、イングラムM10をデイパックから取り出した。

     *     *     *

 体中が痛い。
 一度目は爆風に吹き飛ばされたくらいで済んだが、今度はそうもいかなかったようだ。
 ほぼ数メートル近くで爆発した破片弾は風子の体中にダメージを与え、手足はもぎ取られたかのように動かなくなっていた。
 破片がいくつか服を通して刺さっており、恐らくはその痛みによるショックなのだろうと風子は考えた。

299Act of violence:2008/12/11(木) 02:35:26 ID:SPIb/JNo0
 坂道に転がっている自分の体は、それでも諦めるまいと熱を発していたが、最早万策尽きたに等しい。
 茂みに入ってから必死に糸を木と木の間に繋ぎ、ゴム糸には接着剤まで垂らして工夫を凝らしたというのに、あっけなく見破られた。
 やはりそう簡単にはいかなかったということか。所詮は即興で考え出した素人の浅知恵……

 本来ならこの各種引っ掛けトラップで足を取られている間にお手製の『ストッキングに石を詰めた砲弾』で集中打を浴びせて拳銃で止めを刺す、これであの殺人鬼を打倒するつもりだった。
 拳銃に弾が入っていなければそれまでの作戦だが、風子はまだ弾が入っている可能性に賭けた。いや信じた。
 朋也が、みちるが背中を支えてくれている。なら由真や、花梨だって……そう思ったから。

 その信頼に応えてくれたかのように、拳銃には一発だけ弾が入っていた。花梨が与えてくれたチャンス。
 無駄にはしなかったつもりだ。ちゃんと前を見据えて、敵の真正面目掛けて撃ったつもりだった。
 しかし、結果は失敗。
 トラップは見破られ、お手製砲弾は一発当たったものの後はことごとく潰され、最後の切り札も躱されて……

 勝機はあったはずだった。あのとき、確信した可能性は無謀なものではなかったはずだった。
 一体、何が足りなかったのか。
 銃弾らしきものに驚いたふりをして逃げ出した演技がばれたのか、引っ掛けトラップが分かりやすすぎる位置にあったのか。
 それとも拳銃の構えが甘かったのか、もしくは焦りすぎたのか……

 つまるところ、自分の至らなさが決定的な敗因になったということか。
 どんなに千載一遇の好機が巡ってきたとしても、それを活かせるだけの技量がなければただの、無力の悪あがき。
 蔑むような、含んだ笑いが風子の口から漏れ、悔しさで顔が歪んだ。
 でも、泣かない。
 それだけは絶対にしない。お姉さんとして、一人の人間として、踏み越えてはならないものだと決めたからだ。

 後、もうひとつある。……諦めない。最後の、最後まで、どこまでも足掻いてやる。
 例えそれが自らの不実、罪の意識に起因するものだとしても、風子自身が強く願ったことだった。
 どんなに格好悪くても、背中を支えてくれる人がいると分かったから……
 応えられるような力を、恥ずかしくない生き方を求めて。

300Act of violence:2008/12/11(木) 02:35:48 ID:SPIb/JNo0
 キッ、と風子は悔しさを力そのものの意思に変えて、目の前に立つ男の顔を睨んだ。
 額から血を流し、無表情の中にも強い憎悪を含んだ瞳が、同じく風子を睨み返す。
 やはり自分の作戦はそんなに間違っていなかったらしいと、風子は鈍い実感を確かめた。
 足りなかったのは、風子の力ですか……最悪、です。
 自分に言ってみると、あまり気分のいいものではない。朋也にこんなことを言い続けていたのは間違いだったかなと思いつつ、低く声を搾り出した。

「どうして、こんなことをするんです」

 あまりに遅い質問だと考えながらも、それだけは確かめておきたかった。
 朋也を殺し、みちるを殺し、二人の命に匹敵するものをこの男は内包しているのかと確認したかった。
 もちろん、そうであろうがなかろうが、風子がこの男を許さない気持ちに変わりはなかったが。
 男は無表情を崩さず、虫けらを見下すような目で答える。

「好きな人の……美咲さんのため。そして、僕自身のためにだ」

 ミサキ……かすかに覚えている。今と同じ、冷酷を無表情の中に押し込んだ双眸で見下し、銃口を向けたときに発した言葉。
 だが、しかし……

「……死んでるじゃないですか。その、ミサキさんは」

 正確な漢字までは分からないが、ミサキという読みを持つ人は既に死んでいると知っている。
 復讐を誓ったのか。自分のように? だが以前言ったときの言葉は『ミサキさんのために死んでもらう』というものだった。
 まるで、まだ生きているかのような。
 言葉を突きつけられた男は僅かに眉根を寄せ、不快感を滲ませていた。死という言葉をこんな奴の口から聞きたくない。そういうように。

「知っているさ。だからどうした」

 生き返らせるなんて馬鹿なことを言うな――その返しを拒絶し、また口にすることさえ許さない重圧が銃口を通して滲み出ていた。
 どうやら、この男は自分とは間逆のようだと風子は内心に嘆息した。
 誰かの死を知って自棄になり、受け止めずに逃げ出した挙句、都合のいいことだけを考えて他を拒絶する、頭でっかちの偏屈者……
 こんな男に許せない、心が張り裂けるくらいの復讐心を抱いていたのかと思うと急速に腹の底が冷え、萎えていくのが感じ取れた。

301Act of violence:2008/12/11(木) 02:36:03 ID:SPIb/JNo0
 自分とて人のことを言えたものではないと思うが、それでも逃げ出していないということは胸を張って言える。
 現実逃避に甘んじることなく、死んでいった者たちに報いるために、考えて考えて考え抜く。
 愚順で無知だとなじられても、絶対に逃げ出さない。逃げ出したくない。
 逃げ出してしまっては、本当に掴みたいものがつかめなくなってしまうから。

 だから、こんなところで……殺されるわけにはいかないんです!

 全身をバネにして、風子は力を振り絞り、銃を向けていた彰の腕を力任せに引っ張った。
 いきなり伸ばされた風子の手に反応できず、男がバランスを崩し倒れ掛かってくる。
 風子も引っ張った際の反動を利用して、男がダラダラと血の川を流す源の、額へ全身全霊をかけた頭突きをブチ当てる。
 頭突きした風子の脳にも火花のようなものが見えたような気がしたが、痛みに構っている暇はない。
 よろよろと立ち上がり、再び逃走を試みる。

 だがぐいと引き寄せられる力にそれを為すことはあっけなく拒否された。
 髪の毛を引っ張られたと思った瞬間、ガツンという堅い衝撃が風子の背中を突き抜け、痛みを全身に伝播させた。
 銃把で殴られたのだと理解したときには、風子はごろごろと坂道を転がり草いきれの匂いを再び味わうことになった。
 土に指を掻き立てるようにして転がるのを抑えたものの、止まった瞬間には男の足が風子の体を強く踏みつけ、ぐりぐりと足裏で擦り付ける。

「……諦めが悪いんだよ、戦いから逃げ出した臆病者の癖に。そんなに死にたくないか」

 暗澹とした、陰惨な憎悪を増して見下す男の声が降りかかる。
 風子がここまで抵抗してもそれだけの価値を認めようともしない、優越感のみで己の意義を見出そうとする声。
 負けたくないという強い思いは相変わらず風子の中に堅く存在していたが、力が伴っていなかった結果が、今の有様という冷めた感想も持っていた。
 この島に厳然として我が物顔で居座り、何をしても許されるという力の倫理。
 どんなに覚悟を持って、傷つき、傷つけるのも厭わない勇気があってもそんなものをあっという間に押し潰す、やられる前にやるという暴力の嵐。

 それに対抗するだけの本当の力が、自分にはないのか。
 悔しくてならなかった。もっと力があれば、自分が無力でさえなければ。
 やりきれなくなった思いを、風子は全身で声にしていた。

302Act of violence:2008/12/11(木) 02:36:19 ID:SPIb/JNo0
「あなたのような人に負ける風子が……最悪です……! でも、風子は負けたつもりなんてありません。風子にここまでしてやられるくらいのあなたが、この先勝っていけるわけないんです。ふんって笑ってあげます。自分より弱い人を見下すだけのいじめっ子だって言ってあげます……!」

 最終的に得た、この男に対する風子の総括だった。
 今は自分を見下すこの男も、結局は更に大きな力の倫理に呑み込まれ、為す術もなく消えていく。
 それに抗するだけの本当の力を、身につけていかなければならないのに。
 でも、風子も負けました。同じ敗北者です。所詮は同じ……

「言いたかったのはそれだけか? ……なら、死ね」

 どこか遠くから響くような冷たい銃声が、山中に響いた。

     *     *     *

「……おい、あれ」

 山の方角を指差した国崎往人に合わせて、川澄舞もそちらを向く。
 雨で燻る視界の中、山中からもうもうと煙が立ち昇っているのが遠目にも確認できた。
 まるで何かを目指すように高く、高く。
 しかもその元が花梨や由真、風子を残してきたホテル跡に近いのでは、という予測を走らせた瞬間、往人の胸にざわとした不安が粟立った。
 まさか、三人に何かあったのでは……

 一度考えてしまえば脳裏から消し去ることはできなかった。
 ひょっとしたら、今にも彼女達の命が危うくなっている……行動を起こして、彼女らの元に舞い戻りたい。
 だが同行者のこともある。今ここにいる舞と背中に背負っている朝霧麻亜子を放っておくわけにはいかない。
 今の俺がやるべきことは二人の安全の確保で、独断で勝手な行動を起こすわけには……

「往人」

303Act of violence:2008/12/11(木) 02:36:48 ID:SPIb/JNo0
 凛として強い意志の篭もった声が、往人の耳朶を打った。それが舞のものだと分かって振り向くまでに、舞は手に怪我をしているとは思えないほどの力で朝霧麻亜子の体を引き摺り下ろしていた。
 唖然とする往人をよそに、舞はしっかりとした調子で朝霧麻亜子の体を抱え直し、背中に負ってから「行って」と続ける。

「まだ間に合う。……そんな気がする」

 完全に勘に任せて言ったと思われる言葉だったが、不思議な説得力があった。
 だが、ここに守ると決めた者を残しておくわけにはいかないと理性が語り、しかしと反論の口を開こうとした瞬間、ふっと舞の表情に翳りが差した。
 出掛かっていた言葉が、そこで完全に遮断される。そうだ、舞は何も出来ずにただ傍観して見ているだけしかできなかった。

 ひとつ行動を起こせていれば、今とは違う未来になっていたかもしれなかった舞。
 最悪の結果になることもなく、重荷に過ぎる重荷を背負わなくても良かったのかもしれない。
 行動しなかったばかりのツケ。それを舞は、自分に教えようとしてくれているのではないか?
 ポケットに入れたままの風子のプレゼントが、不意に重さを帯びたような気がした。

 これでいいのか? 希望的観測に縋って何もせずに、また見捨てるのか?
 それが原因で不幸な結果を迎えたとして、守るべき人がいたから仕方がなかったんだと理由をつけてしまうのか?
 俺はまだあいつらに、人形劇も見せていないのに。

「……済まない。任せても、いいか」

 搾り出した声は、それでも苦渋に満ちたものがあった。
 我侭だ。抱えきれる範囲のひとしか守れないということは先刻承知のはずではなかったのではないか。
 自分がこんな行動を起こしたばかりに、舞を失ってしまうことがあるかもしれない。
 それで、誰も彼も失うようなことになってしまったら……

 声に出したものの、足は一歩も先に進もうとしなかった。恐れている。失ってしまうことを。
 自分の力に限界が見えてしまったがための諦めが、いつの間にか往人の底にへばりついて縛り付けていた。
 一度守ると決めてしまえば、失うのが怖くて自分を狭めてしまう。分かったような気分になって、それ以外のものが見えなくなる。

304Act of violence:2008/12/11(木) 02:37:29 ID:SPIb/JNo0
 どうする……? 二人とも連れて行くか? いや、それは自分が楽になりたいだけの安全策だ。
 どうして、俺はこんな考え方を……怯える自分がどうしようもなく許せなくなった。

 やりきれない気持ちが昂ぶったとき、往人の手のひらを包むものがあった。

「私は……問題ない。生きていくって決めたから、どんなものにも負けない」

 決然とした意思が見える舞の台詞は、手のひらから伝わってくる温かさと合わせて、往人の抱えるつまらない打算を溶かしていった。
 生きていく。己の命を信じ、また人の命のありようも信じる、本当の信頼を携えた響きは往人にもその意味を思い出させていた。
 自分ひとりだけじゃない、誰かが己を支えてくれているという実感。それを力として、正しく使っていける自信があるからこそ、舞は自分に行ってくれと頼んだのだろう。それを自分は、まだ何もかも一人で背負った気になっている。

 結局のところ、ひとりでいた頃の自分自身しか信じられなかった癖が抜け切らないのだろうと感じた往人は、つくづく進歩がないと苦笑した。
 そしてそれが分かった今は、そこから一歩でも進歩しようとする自分の決意をも沸かせていた。
 いつまでもこのままじゃ、皆に笑われるから。

「……正直、不安ではあるけど、信じてる。だから、待ってる」

 分かってるさ。……たった今、お前が分からせてくれた。
 口には出さず、往人はコクリと頷いて、もうもうと煙を昇らせている山の方へと視線を移した。
 今はやるべきことをやる。どんなに不安でも、それに抗えるだけの力があると分かった。
 自分ひとりで全てを見なくてもいい。背中を任せていられるだけの存在がそこにあるのだから……

「ああ。すぐに戻る。その間、こいつを頼むな」

 その言葉だけを残して、往人は猛然と山に向けて走り出した。
 もう迷いはない。今度こそ、間違えずに……求めることが出来るから。
 村を抜け、外れから山中へと伸びる坂道に向かう。以前はここを通って平瀬村へとやってきた。
 そういえばここを通ってきたとき、死体を発見したのだったということを往人は思い出す。

305Act of violence:2008/12/11(木) 02:37:47 ID:SPIb/JNo0
 あの二人の遺体は、今はどうなっているのだろうか。雨に晒されて酷いことになっているのではという想像が頭を過ぎったが、すぐに打ち消した。
 それを考えている時間も、どうこうする時間も今の自分にはない。
 人の死を悼む気持ちはないではなかったが、それで何が救われるわけでもないし、またそうなるとも思わない。
 だが自分の命も、この使命感も他人の死の上に成り立っていることは実感している。

 だから目を逸らさない。逸らすまい。一度弱気の虫に負け、何もかもを蔑ろにしようとした己を忘れない。
 痛みも哀しみも乗り越えて、その先の沃野にたどり着くための鳥。血を吐き続けながらもどこまでも飛び続ける鳥。
 あの時自分が発した言葉の意味が、ようやく理解できたような気がした。

 忘れてはならない。この島には、まだまだ笑わせるべき、笑顔を失ってしまったひとがたくさんいる。
 飛ぶことを止め、座して死を待つだけの鳥を、もう一度羽ばたかせたい。共にその先の未来を迎えるために。
 そのためになら、たとえどんな苦しみが待ち構えていようとも逃げ出さない。

 生きるというのは、そういうことなのだろうと、今一度結論を噛み締めた往人は、山の中腹でまた煙が出ているのに気付いた。
 誰かがいる。まだ戦いを続けている人があそこにいる。
 もう一度往人は自分に対して問う。

 お前はその手で、どれだけの人間を抱えきれる? 出来もしないことをして、挙句大切な人を失ったらどうする?
 ……そうならないために、互いが互いを支えあう。
 協力して、手を取り合って立ち向かえば少なくとも自分ひとりよりは、大きな力を持つことができる。
 信頼という言葉の中身。自分が学ぶべきものを求めて、俺は人形劇を続ける。
 だから……助けに行くんだ。

 なんだ、つまりは自分のためじゃないかという結論が出て、そうかもなと往人は嘆息した。
 だがそれでいい。今はそれでいい。まだ自分は何も知らないのだ。分かったような気になるのがおかしい。

 ポケットからコルト・ガバメントカスタムを取り出し、スライドを退いてチェンバーに初弾を装填する。
 フェイファー・ツェリスカとは勝手が違うだろう。あの銃は反動が大きすぎて連射など問題外だったが、こちらはどうか……?
 フェイファーより小さいものの、それでも両手に余る大きさのガバメントカスタムの重さを気にしている間に、軽いような、重いような破裂音が立て続けに響き、戦闘が熾烈になってきていると予感を抱かせる。

306Act of violence:2008/12/11(木) 02:38:02 ID:SPIb/JNo0
 問題は、この先どちらに味方するか、だ。標的を見誤れば最悪の事態にもなりかねない。
 いや、複数人で戦っている可能性もある。気をつけなければ狙撃されることもあるかもしれない。
 素早く辺りを見回してみる。複数の人間が潜んでいる気配は……ない。
 寧ろ殺気……戦闘の気配は一方向からしか感じられない。複数人による戦闘なら、この場一帯を取り囲むように音を響かせていてもおかしくはないはずなのに。やはり、一対一の戦いなのだろうか?

 考えながら目を凝らした先、これまた立て続けに閃光が奔り、派手に土埃を巻き上げた。
 爆発したと理解したときには、往人の体は体勢を低くして山を駆けていた。
 いくつか修羅場を乗り越えて慣れてきたらしい。人の適応能力は存外高いものだと不謹慎な感慨を抱く間に、人の呻き声が聞こえてくるようになった。
 さらに近づくと、細身で、長身の男と思しき人物が何やらものを投げられ、それでも再び反撃して相手を追い詰めているようだった。
 爆発の正体は奴か。射撃を試みようと思ったが、距離がまだ遠く射程にも入っていない。
 くそっ、間に合うのか……?

 いや間に合わせてみせると啖呵を切った往人は更に速度を上げて雨の降りしきる坂を登る。
 心臓が悲鳴を上げ、酸素を寄越せと催促を始める。普段の生活が運動のようなものだとはいっても坂を登るのはつらい。
 走り回るといえば、ポテトに人形を取られたときのことを思い出す。

 あの畜生は今も元気だろうか。あわよくば、人形を口に加えて戻ってきたりしないだろうか。
 人形が手元にないと、どうもすっきりしない。人形劇を続けるなら、あの人形は必須だ。旅の道連れであり、母が託した願いの元が。
 ……なおさら、死に急ぐわけにはいかない、か。

 つい先程までは自殺しようとさえ考えていたのに。ちょっとしたことで世界や価値観なんて変わってしまう。
 生きてさえいれば、まだ変われる可能性はある。
 だからそれを奪おうとする奴を、俺は許さない。

 これも矛盾していることは分かっている。だがそれでも何も己のありようを変えようともしない奴を許す気にはなれないし、分かり合おうという気にもなれない。何が理由であれ、目的のために同胞を躊躇無く殺せるということを受け入れられないというだけだ。
 そのために犠牲になってしまった、ひとりの少女の姿を思い浮かべて。
 視界に入った、二人の人間の姿を確認し、倒すべき敵を見定めた。

307Act of violence:2008/12/11(木) 02:38:17 ID:SPIb/JNo0
 みちる――口中に呟いて、往人は手にマシンガンを構え、抵抗を試みていた伊吹風子を殴り倒した男……風子、由真をして、みちるを殺害したと言わしめた男を双眸に見据え、勢い良くガバメントカスタムを持ち上げて照準をつける。
 激しく上下に揺れ動く体で、果たして狙い通りに弾が飛ぶのか。この体力で果たして勝負になるのか。
 打算的に考えた脳がそう言ったが、関係ないとかき消す。
 助けることが第一義だ。まずは注意を逸らすだけでいい。やるべきことをやるだけだ。

 意識の全てを戦闘に傾けた往人の体が、ガバメントカスタムのトリガーを引き絞った。
 男の死角から放たれた38口径の銃弾が山中に木霊し、真っ直ぐに相手へと向かう。
 往人の狙いは体の中心部。単に体の表面積で一番大きいところを狙っただけなのだが、その行為は間違いではない。
 少々目算がずれても体のどこかにでも当たれば激痛に身をのたうち、即時反撃という選択肢を相手から奪う事が出来るからだ。
 『殺す』ことより『動きを止める』ことを優先した結果ではあったが、それは如実な効果として表れた。

「ぐっ!?」

 体の中心部から大きくずれ、腕に少し掠っただけとなったが、男に苦悶の表情が生まれ、意識が往人へと向いた。
 ちっ、と舌打ちして木の陰に隠れた瞬間、ぱららららというタイプライターのような音が弾け、泥が激しく飛び散った。
 だがその狙いは明らかに精彩を欠いている。恐らく突っ立っていても当たらなかっただろうし、何より気付いて撃つまでに数秒もの時間があった。
 格闘戦には持ち込み辛いが、射撃なら互角の条件で戦える。

 攻略の糸口を見つけ出した往人は木の陰から半身を出すとそのまま連射する。
 正確に狙いをつけたわけではなかったが、急な坂に立っており、尚且つ滑りやすい地点であったが為に急速な回避は男には不可能だっただろう。
 その証拠に近くの木の陰に隠れるまでに十秒近くの時間をかけ、しかも一発が膝を掠った。
 いける、とは思わなかった。地形的に有利なまでで、仕留めるにはもう一つ足りない。逃げられてしまうのだけは避けたかった。

 ここで逃がしてしまえばまたこの男の犠牲者が出るかもしれない。それ以前に、みちるの敵討ちという情念もあった。
 確証はない。目の前の男がみちるを殺害したとは言い切れない。だがマシンガンという特徴と、風子を狙っていたという事実から往人は間違いではないという確信を抱いていた。
 殴られたまま、風子は姿を見せない。一歩遅かったのか、それとも……

308Act of violence:2008/12/11(木) 02:38:33 ID:SPIb/JNo0
 とにかく、早急に対処するまでだ。気を引き締めなおして往人は雨で滑らぬよう、ガバメントカスタムのグリップを握りなおした。
 さてどうする。敵も隠れてしまった以上迂闊に弾を浪費するわけにはいかない。
 かと言って持久戦に持ち込めばじわじわと相手の体力も回復し、逃げられるかもしれない。
 ……止むを得ない事態と割り切って、弾幕を張りつつ攻撃あるのみ、か?

 猶予は少ない、ならば早急に決断をするべきだ。
 飛び出ようとした往人の足元に、ばさりと何かが落ちて音を立てた。
 思わず注意を逸らされ、足元を凝視した瞬間、そこに黒いものが転がっているのを見た。

 手榴弾か――!?
 考えるよりも先に体を動かした……それが見当違いだと分かったのは、体が動いてしまった後だった。
 草木に紛れ落ちた黒いそれは、四角形で僅かに曲がった形状をしており、およそ手榴弾とはほど遠いものだった。
 箱型の手榴弾など見た事が無い。つまり、それは……

 嵌められた……! だが一度動かしてしまっている体はどうすることも出来ず、無防備な姿を敵に晒してしまっていた。
 視界の隅に入った男の姿に、やられたという敗北感が浮かぶ。
 だが致命傷さえ喰らわなければいい、持ちこたえてくれと目を瞑った往人の耳に、吼える声が聞こえた。

「わああぁぁああぁぁああぁっ!」

 力を振り絞り、大気をも振るわせるその色は男のものではなかった。まさかという思いで往人は目を見開く。
 男の背後から、逆落としの勢いを以って、風子が銃を手に持って突進してきていた。
 死んでいなかった……そればかりか、自分が戦っている隙に隠れながらも移動し、好機を待ち構えていたのか。

 抜け目ないと思いながらも、再逆転の隙が生まれたと往人は口を歪め、よしと口中に呟く。
 相手にとっても風子の奇襲は誤算だったようだ。狼狽した様子で後ろを向き、銃を乱射したものの一発として当たらず、しかもすぐに弾切れとなりカツンという空しい音を最後に弾を吐き出さなくなった。

 さらに慌てたようにして平静も保てなくなっている様子の男に、絶好とばかりに風子が銃口を向ける。
 自分の体はまだ動かない。だが足が地面に着けば再び蹴って、挟み撃ちにすることができる。
 これで詰み。ジ・エンドだ。

309Act of violence:2008/12/11(木) 02:38:50 ID:SPIb/JNo0
「ふざ、けるなっ!」

 往人の考えを読み取ったかのように、予想外の出来事に翻弄される己を叱責するように、何よりも目の前の邪魔者に対して男が絶叫した。
 まずい、と往人のどこかがそう叫んでいた。終わりではない。まだこの男には風子をどこまでも追い詰める『執念』が残っていた。

 そこから先は一瞬だった。
 まるで戦闘慣れした歴戦の傭兵の如く、男はマシンガンを捨て素早く風子の手首を捻り、銃を奪い取るや後ろに回りこんでその頭に銃を突きつけたのだ。
 往人が体勢を立て直したときには、さらにもう一方の手で風子の首を締め上げていた。

 人質に取られた……! またもや事態は逆転し、不利な状況に一変したことを往人は認識せざるを得ない。
 ガバメントカスタムを構え直したものの、風子の影に隠れるようにした男は不敵な、しかしどこまでも見下すような嗤笑を浮かべていた。

「馬鹿な女だよ……逃げていただけの癖に、僕を倒せると思い込んで……思い上がりも甚だしい」
「伊吹っ!」

 風子に当てず、敵だけを仕留められる箇所はないか。必死に目を動かして探す往人だが、自分の射撃力でどうにかなるレベルではない。
 側面にでも回り込まない限りはまず風子に当たってしまう位置だった。
 折角、ここまで来たのに。今度こそ本物の、どうしようもない敗北感が往人のうちに塗りこめられ、悔しさが往人の胸を締め上げる。

「く……国崎さん……」

 締められた喉から搾り出すようにして、風子が往人を見る。
 しかしその表情は、苦しいながらも助けを求めるものではなかった。寧ろどこかふてぶてしい、してやったというような顔だった。

「撃って……下さい。風子なんかに、かまわ、ず」
「……黙れ」

 臭い芝居だというように、嫌悪感を隠しもせずに男が風子の側頭部に銃口を押し付ける。「よせ!」と往人は叫んだが、風子は黙るどころかじっと往人を見つめ、臆している風もなく喋り続けた。

310Act of violence:2008/12/11(木) 02:39:24 ID:SPIb/JNo0
「これで、いいんです……岡崎さんも、みちるさんも、笹森さんも……十波さんも殺されて、それでも風子が出来る、たったひとつのこと……」
「聞こえないのか、黙れ」

 男の締める力が強まり、けほっと咳き込み苦しさを増した風子の表情が歪む。
 それでも風子の瞳に宿る意思は消えない。ただひたすらに何かを伝えようとしてくる。その強固な視線は、ただ愚直に往人を見つめていた。諦めさえ見える言葉とは裏腹の、真っ直ぐな双眸……

 台詞と明らかに異なる風子の様相。ならば、そこには隠された何かがあるのではないか?
 ふとそんなことを考えた往人の頭には、まさかという思いがあった。
 憶測が往人の中を飛び交い、どれが真実だと問いかける。

 いやそれ以前に撃てるのかという迷いも残っていた。
 例え風子が何かを考えていたとして、そのために自分は人を撃つことが出来るのか。
 『少年』のときとは違う、仲間だと認識した人間を撃つことが出来るか?
 もしものことだってあるかもしれない……恐れる自分に、だがしかしと反論する自分がいた。

 失敗を恐れる気持ちは誰しもある。けれども逃げ出してしまったら、俺は何もかもを裏切ってしまう。
 送り出してくれた舞も、何かの意思を伝えようとする風子も、ここまで背中を押してくれた皆にも。
 信頼を寄せて、自分に運命を託したのなら、その先の結末を見届ける義務がある。
 それが自分が目指す、沃野への標となるのなら。
 決意を込めて、往人はガバメントの銃口を風子の先にある、倒すべき敵へと向けた。

「お前……!」

 男の気配が、憎しみから怯えへと変わる。仲間を見捨てようとする冷酷な行為と受け取った男の頭は保身を選んだようだった。
 風子から奪い取った拳銃をこちらへと向け、にべもなく引き金を引く。その目に、来るなという言葉を含ませて。
 だが、男の向けた銃口から弾丸が放たれることはなかった。
 カチンというスライド音だけを残し、拳銃の中身は空っぽだったという事実を告げた。

311Act of violence:2008/12/11(木) 02:39:48 ID:SPIb/JNo0
「な、に……?」

 怯えから呆然一色の表情に切り替わる。刹那、往人は風子がニヤと笑ったのを見逃さなかった。
 抜け目ない奴だよ、と往人も笑い返して引き金に手をかける。

「っ、くそ……!」

 立て続けの予想外に見舞われた男は気が動転したか、風子を盾にしておけばいいものを、向けられた往人の銃口から逃げるように風子を放り出し、背中を見せ逃走しようとする。そんなものを、往人が逃すはずはなかった。
 弾倉が空になるまで連射されたガバメントカスタムの銃弾が、男の体にいくつもの穴を穿っていく。

 おびただしい血を噴出させた男は、恐らくはもう起き上がらないのだろうという感想を、往人に抱かせた。
 戦場の匂いが急速に薄れていくのを、往人は感じていた。

     *     *     *

 銃弾に倒れた彰の頭に浮かんだものは、負けたのかというぼんやりした感覚と、痛みもなにもなく、ただ命だけが溶け出していく感触だった。
 ひとりで戦って戦って戦い抜いたが、結局は仲間という存在に負けた。
 もう起き上がって反撃する気力もない。ただ自分が捨てたものに強烈なしっぺ返しを喰らったようで、情けない気持ちだった。

「大丈夫か」
「……平気です。けほ、上手くいったようで、良かったです」

 まだ自分には声を聞き取るだけの意識があるというのに、まるで何もかもが終わったかのように喋っているのが気に入らなかった。
 だが、やられた。絶対の優位を確信していた相手に出し抜かれ、致命傷を負う羽目になった。
 仲間、という言葉を彰はもう一度思い浮かべる。

312Act of violence:2008/12/11(木) 02:40:01 ID:SPIb/JNo0
 もし自分も仲間を作っていればこんな負け方をせずに済んだだろうか。
 こんな風に最後に顧みられることもなく、ひとり寂しく死なずに済んだだろうか。
 誰かが自分のことを覚え続けてくれていただろうか。

 全ては後の祭り。そう思うと、急に死ぬのが怖くなってきた。
 死にたくない。こんな風に、ただ敗北者として名前を知られることもなく……
 しかし助けを求める資格も、手を差し伸べてもらえるだけの優しさも、全て自分で振り払った。拒絶して、一人なら何も失わずに済む。
 一人なら望むことが出来ると豪語したザマがこれだ。残ったものは、寂しさと空しさだけだというのに。

 戦いをやめておけば良かったとは言わない。澤倉美咲のことを忘れ、新しい道を踏み出しておけばよかったとも言わない。
 己の選択は今も間違っているとは思わない。戦わずして、自分が自分でいられるものか。
 戦わなかった瞬間、人は暗闇の底に落ちて何を求めていたのかも忘れてしまうから。

 たったひとり……そう、ひとりでいいから、仲間を作っておけば良かった。
 それが自分を慰めるものであろうと、偽りの関係であっても構わない。
 冬弥。由綺。他の顔も知らない誰か。
 耳の奥には先程まで喋っていた二人組の声が残り、言いようのない哀しさを彰に覚えさせた。

 少しだけ後悔して、少しだけ涙を流しながら……七瀬彰は息絶えたのだった。

313Act of violence:2008/12/11(木) 02:40:35 ID:SPIb/JNo0
【時間:2日目午後21時00分頃】
【場所:F−3北部(山中)】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 5/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾0/10) 予備弾薬57発ホローポイント弾11発、投げナイフ2本、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。まず風子を保護。次にまーりゃんの介抱、然る後に椋の捜索】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

川澄舞
【所持品:日本刀・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。まーりゃんを連れて移動中。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)
(武器・道具類一覧)Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン、投げナイフ(残:2本)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(2/7)、ボウガン(34/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:ささらサイズのスクール水着、芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。往人・舞に同行。スク水の上に制服を着ている。気を失っている】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。疲労困憊でしばらく行動不能】

七瀬彰
【所持品:イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、支給品一式】
【状態:死亡】

【その他:折り畳み自転車はE−4南部に放置】
→B-10

314青(5) いつか甘やかに優しい声で、おやすみと笑って:2008/12/14(日) 00:24:35 ID:6VzDB8HU0
 
青。
青の中にいる。
激しさを増す戦場を唐突に塗り替えた青一色の世界に、私はいた。

母が仕損じたのかと、思う。
水瀬秋子の目指す、世界の改変―――神と呼ばれる者の軛からの、解放。
青と赤、肯定と否定という概念の合一。
その均衡が崩れれば、どちらか一方の概念だけが溢れることもあるのかもしれない。

一瞬だけ過ぎったそんな考えを、だが、と思い直す。
だが、違う。この青は性質が違う。
この世界を満たす青はひどく、そう、澄んでいた。
私と同様に、或いはそれ以上に老いさらばえ、妄執に凝り固まったあの人が生じるのとは違う、
混じりけのない純粋な青。
それは、この世ならざるほどに迷いのない、肯定の意思だった。
生きる穢れ―――生まれ、衰えていく過程で生じる命の澱の一切を感じさせない、
こんなものを生み出せるような存在を、私は知らない。
だからこの世界、それを満たす青の根源が何であるのかを、私は考えないことにした。
重要なのは考えることではない、記憶すること―――見て、聞いて、感じて、それを引き継ぐこと。
私はもう、考えることに疲れ果てていた。
この、これまでに見たこともないような青の世界をどう利するかを考えるのは、母の役割だった。
あの人の計画が成功し、この歴史の向こう側へと道が開くのなら、それでいい。
それは同時に私の役割の終わりも意味しているのだから。
失敗し、次の世界が来るのなら、その時に伝えればいい。
どの道、今生ではもう会うこともないだろう。

そう考えて青の中、目を閉じる。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
誰いもいない街を思い出す。
もう終わった世界の、誰かが造り、造った誰かはもういない街の静けさを、思い出す。

315青(5) いつか甘やかに優しい声で、おやすみと笑って:2008/12/14(日) 00:25:15 ID:6VzDB8HU0
世界の終わりを、私は知っている。
それは概念ではなく、哲学でもなく、文字通りの意味での、終焉だ。
世界は終わり、終わり続けている。
終わり、また始まって、終わっていく。
それは何度でも繰り返される、無限の輪環だった。

この戦い、沖木島で行われるこの殺戮はその端緒にして、閉幕の序曲だった。
何度も繰り返されてきた、この世界の終わりの始まり。
この殺戮の宴がそういうものであることを知っている人間は、もう殆ど残っていない。
そしてそれは同時に、この戦いの勝者が背負う二つの奇妙な呪いに関して知っている人間が、
もう私を含めて僅かに三人しか残っていないということを意味していた。

そう、この戦いの勝者は、とある役割を与えられる。
誰がそれを与えているのかは知れない。
与える誰かがいるとも、思えない。
水瀬秋子はそれを神と規定した。
私はそれを、システムと考えた。
いずれにせよ、それは選ばれるのだ。
何のことはない―――世界の終わりを見届ける、最後の一人に。

その時期自体に、数年単位の前後はあった。
そこに至る過程にも、様々な差異はあった。
だが、結末だけは変わらなかった。
この島で、この戦いが行われた直後―――世界は、例外なく滅亡する。
そして優勝者は、終わっていく世界の、最後の一人となるのだ。
誰もが死んでいく中で、何もかもが崩れ落ちていく中で、瞬く間に全てが滅びる中で、
たった一人生き延びてしまう、それは呪いだ。

呪い。
そうとでも呼ぶより他はない。
誰も彼もが死んでいく中で、誰も、何も、勝者を殺せない。
自分自身ですら、その命を絶つことが叶わない。
幸運という名の暴力が、その命と因果を、支配するのだ。
そうして選ばれた滅亡の見届け人は、世界に取り残される。
それは、絶望だ。
世界の最後の一人に選ばれる、それはつまり、永劫の苦悶だ。
誰もいない世界で、ただひとり生き続けることの恐怖。
希望を信じて、誰かを捜して、数十年を費やして自分を磨り減らしていく記憶だった。

灰色の静かな街に満ちる絶望を思い出す。
彼方の空に架かる虹の、誰とも分かち合えぬ美しさと哀しさを思い出す。
どこまでも広い空の色の中、秋の花の瑞々しい赤を思い出す。
そんな記憶を、思い出す。

316青(5) いつか甘やかに優しい声で、おやすみと笑って:2008/12/14(日) 00:25:50 ID:6VzDB8HU0
そうだ、私には思い出すことができる。
終わった世界の、終わった命の記憶を、私は持っているのだ。
それが勝者に与えられる、第二の呪いだった。
即ち、終わった世界の記憶を、次の世界に引き継ぐ力。

終わる世界は、滅びる世界は、何度でも始まり直す。
何度でも始まって、何度でも終わっていく。
そんな世界の中で、人もまた生まれ直し、生き直し、死に直っていく。
それはつまり、私もまた、幾度も生まれ直させられているということだった。
生まれ直した私は、前の世界の私の記憶を持っている。
苦悶も、絶望も、恐怖も、恐慌も、諦念も疑念も妄念も、何もかもを引き継いでいる。
永劫という檻の中で、私は、この戦いの勝者たちは、生きていた。

かつていた多くの勝者たち、終わる世界の記憶をもった彼らは、繰り返す歴史の中で
結束し、或いは反目しあいながら、磨耗していった。
何度でも生まれ直す彼らにとって死に意味はなく、それは生に終わりがないのと同義だった。
長すぎる生を倦み、厭い、磨り減っていく彼らは、この歴史の袋小路を超えようと足掻いた。
それぞれの方法で歴史の修正に挑んだ彼らの試みは、膨大な時間の中で繰り返された悪足掻きは、
端的に言って、その悉くが失敗に終わった。

幾度も失敗を繰り返し、幾度も死に、幾度も生まれ直す内、彼らは生きることが無駄と悟った。
そうして彼らは、生まれることを、やめていった。
無限の輪環の中、繰り返される死に意味はなく、しかし生は死を内包する。
生まれてしまえば死なざるを得ず、死ねばまた生まれ直してしまう。
故に彼らは、生まれてくること自体を、拒んだ。
その道筋も仕組みも、誰も知らない。
だが死と生の狭間にある、それが唯一の逃げ道だと、いつしか誰もが理解していた。
一人が減り、二人が欠けて、そうして気づけばいつの間にか残ったのは私と母と、もう一人だけになっていた。
あの自覚もなかった広瀬という少女のように誰も知らない勝者が存在している可能性はあったが、
少なくとも私たちの記憶の中に存在している者は、もう他にいない。
ここ何十度かの歴史では、私と母とで交互に優勝を繰り返していた。
これ以上の勝者を、呪いを増やさないための、それはひどく不毛な工作だった。

317青(5) いつか甘やかに優しい声で、おやすみと笑って:2008/12/14(日) 00:26:11 ID:6VzDB8HU0
目を開ける。
青は変わらず世界を包んでいて、こんな風に終わる世界なら、それもいいと、思った。
風のない、晴れた日の湖面のような穏やかな青に包まれて眠れるのなら、長い長い次の生も、
きっとそれほどには、疎ましく思わずに済むだろう。

そして何よりも、こんなに綺麗に世界が終わるなら。
あの人は、私の大切なあの人は、いま以上には壊れずに、今生を終えることができるのだから。
危機によってでなく、絶望によってでなく、眠るように終われる世界に救いなど、必要ない。
だからそんな世界の終わりには、救世主は現れない。
現れない救世主は、これ以上は、壊れない。

かつて救世主という概念であったもの。
無感情に世界を救うシステム。
世界の危機に、誰もが救いを求めるときに現れ、誰かを救い、救おうとして壊れていく、
些細な矛盾で破綻する、糸の切れた操り人形。
救いを求める者の前に現れて、壊れ。また現れて、壊れ。
壊れたまま何かを救おうと現れる、歯車の欠けたデウス・エクス・マキナ。
私の大切な人。

相沢祐一という名の少年は壊れずに、終われるのだ。
それは、幸福という言葉で言い表されるべき、空虚だ。

この青の終わりが世界の終わりであるのなら、どんなにか素晴らしいだろう。
これまで繰り返してきた中でも、極上の終焉だ。
そうであったなら。

―――どんなにか、素晴らしいだろう。

と、もう一度口の中で呟いて、私は深い溜息を吐いた。
見下ろす彼方に、光があった。
光の周りには、幾つかの影が動いている。
光の下に集まりつつある影は人の形をしていて、それはつまり、命が続いているということだった。
世界はまだ、終わりそうにない。
そんな諦念にすら、慣れきっていた。

318青(5) いつか甘やかに優しい声で、おやすみと笑って:2008/12/14(日) 00:26:45 ID:6VzDB8HU0

【時間:???】
【場所:???】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

→676 1019 ルートD-5

319青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:15:44 ID:yYeAMwnw0
 
ただ、そこにいてほしかった。
いつまでも、いつまでも。


******

320青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:16:22 ID:yYeAMwnw0
 
みさきに初めて出会ったのは、いつの頃だっただろう。
初めてあの子と目を見交わしたとき、私はどんな風に思ったんだろう。
初めて言葉を交わしたときは、どんな話をしたんだっけ。
初めて握手したときは、どのくらい温かかったんだろう。
それはもう全部、思い出せないくらい、昔の話。

覚えているのは、楽しかった記憶だけだ。
日が暮れるまで辺りを駆け回って、日が暮れて暗くなってもまだまだ遊び足りなかった、あの頃。
道に迷って帰るのが遅れて、二人してすごく怒られて、わんわん泣いたこともあったっけ。
次の日にどっちが悪かったかで喧嘩して、もう口も聞かない、絶交だって言い合って。
その次の日には、もう何もなかったみたいに、一緒に遊んでた。
雨が降った日には家の中で絵を描いて、飽きて始めた何気ない落書きが楽しくなって、
部屋いっぱいに広がってまた怒られて。
ふたりで数え切れないくらい沢山の悪戯をして、毎日生まれてくる沢山の小さな秘密を共有して。
ただ、楽しかった。
ただ、幸せだった。

夏を思えば、夏が広がる。
蝉の声のうるさいくらいに響く中で、一本のアイスを両側から食べたのを思い出す。
帽子の形の日焼けが恥ずかしかったことを、振り回して怒られた花火の色を、思い出す。

冬を思えば、冬が広がった。
冷たくて赤くなった手を人の襟首に入れる悪戯が流行って、隙を狙う内に二人で風邪を引いたことを、
遊びで始めた雪合戦に本気になって、お互いに泣くまで雪玉をぶつけ合ったことを思い出す。

選挙のポスターに並ぶおじさんたちの顔に変なあだ名をつけて笑い合った通学路も、
鯉を釣ろうとして服を汚した緑色のドブ川も、全部がきらきら輝いてた。

あの事故があって、みさきの眼があんなことになって、それでも私たちは何も変わらなかった。
大人たちの態度が変わって、他の友達が離れていって、それでも何も、変わらなかった。
遊ぶ場所は少なくなって、遊びの内容は限られて、それでも、私たちはずっと一緒にいたんだ。
それで楽しかった。それで幸せだった。何も、何も、変わらなかった。

321青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:17:13 ID:yYeAMwnw0
それはただほんの少しだけ、みさきにはできないことが増えたっていうだけのこと。
みさきにできないほんの少しのことが、私はできたんだから、なら、何も変わる必要なんて、なかった。
ずっと一緒にいる私たちは、ほんの少しだけ助け合うことが増えたけれど。
ずっと一緒にいるのだから、それは変わることでも、何でもなかった。
みさきにできないほんの少しのことは、私が代わりにすればいいだけで。
だから戦うことや、ぶつかることや、誰かを嫌うことは、私が代わりに、引き受けた。
そうすれば変わらずにいられたのだから、それは当たり前のことだった。
それが、私たちの、深山雪見と川名みさきの、二人のかたちだった。

戦うことや、ぶつかることや、誰かを嫌うことは、深山雪見が引き受けた。
それはずっとずっと続く、二人の時間のかたち。
無理やりに連れて来られたこの島でも、それは変わらない。
私たちは、変わらない。

それは、些細なことだ。
私たちというかたちの、当たり前のことだ。
誰かと戦うのは深山雪見の役割だ。
誰かとぶつかるのは深山雪見の役割だ。
誰かを嫌って、誰かに拳を向けるのは、深山雪見が引き受けた。
それ以外の全部、楽しい時間の全部が、私たちの共有するたった一つのこと。

それで、幸福だった。
それが、幸福だった。
私の護る、それが全部だ。

だから。
それが失われることなんて、ありはしないんだ。
みさきが眠ってるんなら、起こしてあげなきゃいけなかった。
眼を覚まさないんなら、覚ましてあげる方法を見つけるのが、私の役割だった。
それは深山雪見にとっての当たり前で、だからそのために必要なら、私は何だってする。
何だって。
バカみたいだって言われても、奇跡を起こすパンを作ってもらうんだ。
その材料を集めるんだ。
誰とぶつかっても、誰を泣かせても。
そうしてみさきの目を覚ますんだ。

みさきは眠ってる。
山中の洞窟で私の帰りを待ってひとり、眠ってるんだから。
その眼を開けて、また楽しい時間が廻ってくるのを待ってるんだから。
ずっと、ずっと待ってるんだから。
私は、帰らなくちゃあ、いけないんだ。
そうだ、私はみさきのところに帰るんだ。

帰って、取り戻すんだ。
帰って、護るんだ。
帰って、手をつなぐんだ。
帰って、笑うんだ。
帰って、私たちは、私たちに、もう一度。

もう一度、

もう一度、

もう一度、



******

322青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:17:35 ID:yYeAMwnw0





******

323青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:17:56 ID:yYeAMwnw0
 
消えていく。
壊れたレコードのように繰り返される言の葉が、雑音に混じって消えていく。

それは人の在りようをかたちにしたような声。
それは自らを規定する意思。
それは、心。

消えていく心がその最後まで顕そうとしたかたちを、私は忘れない。
決して、忘れない。

あれは私だ。
この世界はまだ大切なものに満ちていると、何もなくなってなどいないと泣く、もうひとりの私の声だ。
足掻き、縋り、あり得べからざる真実の何もかもを切り伏せようと抗う、それは願いだ。
その願いを忘れるのなら、その想いのかたちを忘れてしまえるのなら、川澄舞は存在するに値しない。

私は私の前に示される想いの何もかもを、喪われゆくものの全部を背負おう。
背負い、踏みしめ、抗おう。
それが私だ。川澄舞だ。

ああ、ああ。
どうしてこんなにも大切なことを、今の今まで忘れていたのだろう。
立ち上がり、剣を取ろう。
黄金の野原を守り抜こう。
襲い来る魔物の名は喪失だ。
その爪に宿る毒の名は死だ。
その翼が孕む風の名は時間だ。

それが、何だというのだ。
私の名は川澄舞。
抗うものという、それが意味だ。

死が喪失を齎すのなら、私の剣は死を断とう。
時が喪失を運んでくるなら、私は時を切り伏せよう。

私が剣を取る限り、この黄金の野原から喪われるものの存在を、赦さない。
久遠に満たされ続ける、それが私の、川澄舞の守護する、黄金の世界だ。

立ち上がれと、私は私に命じる。
立ち上がり、取り戻せと。
取り戻し、守り抜けと。
守り抜き、久遠を約定せよと。
私は、川澄舞と呼ばれていた意志に、命じる。

目覚めよと。
たゆたう微睡みを貫いて、意志と意思とを以て目を開けよと。
命じる声に雑音はなく。


***

324青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:18:15 ID:yYeAMwnw0
 
目を開ければ、そこに幼い顔があった。

325青(6) なくしたくない/なくしたくない:2008/12/20(土) 17:18:33 ID:yYeAMwnw0
 
【時間:???】
【場所:???】

川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:???】

深山雪見
 【所持品:牡牛座の黄金聖衣、魔犬の尾】
 【状態:???】

少女
 【状態:???】

→822 1013 1019 ルートD-5

326青(1224) 麗人:2008/12/24(水) 21:51:08 ID:yoOBrf2E0
 
「これは……」

眼前に広がる光景に驚愕の色を隠せない蝉丸が、傍らに立つ光岡が、共に言葉を失う。

「麦……畑……?」

青一色の世界の中、黄金の光とも見まがう色の、それが正体であった。
さわ、と吹き抜ける風に、頭を垂れた麦の穂が揺れる。
それはまるで黄金の海に波濤の寄せては返すが如き、幻想の具現。
見上げた空は青く、だが先程まで世界を覆い尽くしていたような平坦な色ではない。
天頂の濃紺から地平の彼方の群青へと続く、それは正しく蒼穹の青である。

空があり、風が吹き、そして麦穂の揺れる黄金の海。
この上なく長閑な、平穏という言葉の顕現したような光景。
しかし唐突に戦場を覆い、何もかもを埋め尽くした青一色の世界の中にあっては、
彼岸の中にある此岸とでもいうべき、その長閑さこそが異様であった。

「何が起きるか見当がつかん、油断するな坂神」
「ああ、判っている……」

身構えながら慎重に辺りを見回す二人が、背を寄せ合うように動く。
死角を補い、状況の変化に迅速に対応するための陣容である。
と、

「む……?」
「どうした、坂神」

蝉丸の低い呟きに振り返った光岡が、思わず瞠目する。
その瞳に映っていたのは、あり得べからざる長閑さという異様を更に塗り替える、奇異であった。
想像の埒外とでもいうべきそれは、この青の世界で何度目かの絶句を、二人に齎していた。



 †  †  †  †  †

327青(1224) 麗人:2008/12/24(水) 21:51:35 ID:yoOBrf2E0
 
そこにあったのは、澄んだ瞳である。
遥かな海の底を思わせる、深い色の眼差し。
郷愁と共にこみ上げる感情の名を、光岡悟は知らぬ。
知らぬが、それは確かに光岡の胸に宿っていたものである。
何年も、否、それよりもずっと以前から抱き続けた、それは臓腑の底の焼け付く痛みのような、
或いは声の嗄れるまで叫びたくなる衝動のような、しかし同時にひどく神聖な光を放つ何かを
その内に抱くような、そんな感情である。

その瞳を覗き込むとき、光岡の胸に奔るのは衝動であった。
遮二無二掴み取り、引き裂いてその中にある脆く美しい何かを掻き抱いて眠りたくなるような衝動。
それを抑え続け、目を逸らすように生きてきたのが光岡悟の人生である。
だが今、その瞳はあまりにも近く、そしてあまりにも無防備にそこにあった。
手を伸ばせば届いてしまうほどに近く。
掻き抱けば容易く引き裂けてしまうほどに無防備に。
目を逸らせぬほどの、深さで。
知らず、その名を口にする。

「坂神……」

328青(1224) 麗人:2008/12/24(水) 21:52:11 ID:yoOBrf2E0
触れれば、熱い。
熱さは身を焦がし、心を焼き、光岡悟の自制を融かし尽くすだろう。
それが、怖い。
それは、怖い。
堪えてきたのだ。抑えてきたのだ。
そうしてここまで、築き上げたのだ。
離れることなく、歩み続けてきたのだ。
それを、壊すのか。
そんな声が、聞こえる。
それは、光岡悟という男の怯懦が発する声である。
惨めに震え、哀れを誘うように涙を流す、それは光岡の最も嫌う、しかし最も強く彼自身を縛る声であった。
声はいつも、光岡の衝動を冷ましていく。
求めようと伸ばされる手を、その涙の冷たさで抑え込んでしまう。
それを繰り返してきたのが光岡悟の人生で、いつだってそうしてきて、

「光岡……?」

しかし、今日の瞳は、近すぎた。
伸ばした手が、届いてしまうほどに。

329青(1224) 麗人:2008/12/24(水) 21:52:23 ID:yoOBrf2E0
「……騒ぐのだ、この胸が」

開いた口から漏れた声は冷静を装って。
しかし、隠し切れない想いの色が、顔を覗かせている。

「鎮まらんのだ、この鼓動が……坂神、貴様を見ているとな」
「光岡……」

何かを言おうとしたその乾いた唇に、指を添える。
触れた指の先に感じる熱が、鼓動を早めていく。
早まった鼓動が、指を伝ってその唇に何かを言付けてくれればいいと、思う。
言葉が、出てこない。

「―――」

言葉を発さぬ唇は役立たずで、そんな役に立たない唇は、きっともう一つの役割を望んでいる。
言葉の代わりに想いを伝える、そんな役割を。
深い色の瞳が、近づいてくる。
否―――近づいているのは、自分だ。
空と海との間に生まれたような、静かな瞳に吸い込まれるように、そっと唇を重ね―――

330麗人:2008/12/24(水) 21:56:06 ID:yoOBrf2E0
 
 †  †  †  †  † 






******


「―――という展開になったら、皆さぞかし驚くだろうね」

くるり、と椅子を回して後ろを振り返り、男が笑う。
視線の先には一人の少年が立っている。

「いえ、驚くとかの前に意味がわからないです」
「おや」
「だいたい二人きりって、砧夕霧はどこ行ったんですか」
「そりゃあ演出の都合ってもんだよ、細かいなあ滝沢君」
「先生が大雑把すぎるんです」

ぬけぬけと言い放った男の名を、竹林明秀。
一言の下に切って捨てた少年を、滝沢諒助という。

「はあ……そんなことだから超先生、なんて呼ばれるんですよ」

331麗人:2008/12/24(水) 21:56:37 ID:yoOBrf2E0
狭い部屋に嘆息が響く。
暗い室内には簡素な事務用の机と椅子が一脚。
机の上ではキーボードを照らすように小さなモニタが光を放っている。
沖木島の地下、遥かな深みに存在する一室の、それが全てであった。
元来はプログラム開催の為、各種施設を建造する際に築かれた物置の類である。
基礎部が完成し、上層に設備が整っていく内に忘れられたその空き部屋に目をつけた竹林が
密かに管制系統を引き込み、自身の私室として改造したそれを名付けて曰く、超先生神社という。

「いいじゃないか、超先生。なにせ超だぞ? スーパーだぞ? 君も尊崇を込めて呼びたまえ」
「はぁ……」
「しかし実際、すこぶる暇でね。こんな妄想くらいしかすることがないのだよ」
「死亡報告まで偽装して司令職から逃げてきたのは自分じゃないですか……。
 というか、ここ」

滝沢が覗き込んでいるのは、モニタに映る映像である。

「これ、どうなってるんです? 合成前のCGみたいなブルーバックですけど。
 カメラの故障……っていうには妙な感じですよね」
「私にも、たまには分からんことくらいある」
「……」
「……」
「聞いた俺がバカでした」
「うむ」

重々しい顔で深く頷く竹林に、滝沢がもう何度目かも分からない溜息をついて話題を変える。

「……そういえば真のRRの完成でしたっけ? 先生の目指してたあれはどうしたんですか」
「ああ、それなのだがね。聞いてくれたまえよ、まったく非道い話だ」

水を向けられた竹林が、これ幸いとばかりに語り始める。
適当に相槌を打つ滝沢の冷ややかな視線は特に気にした様子もない。

332麗人:2008/12/24(水) 21:57:02 ID:yoOBrf2E0
「命の炎を燃やした殺し合いの末に現れるという最後の玉を待つために仕方なくこんなところで
 油を売っているというのに、もう誰も当初の殺し合いなどには見向きもしていないじゃないか。
 首輪の爆破機能もいつの間にやら切られていて作動しないし、もう管制システムで動いているのは
 監視カメラくらいのものだよ。もうプログラムは滅茶苦茶だ。
 おまけに後任の司令はどいつもこいつも勝手なことばかりやって、挙句になんだね、あの巨大な怪物は。
 バトルロワイアルは怪獣退治じゃないんだぞ。かといって今更帰る場所のあるでもなし、
 戦いが落ち着くまではおちおち地上に出ることもできないときた。実際、私の計画では―――」

立て板に水の如く愚痴をこぼし続ける竹林の、いつ果てるともない憤りを止めたのは、

「―――あらあら、大変そうですわね」

ころころと鈴を転がすような、笑みを含んだ声である。

「うわあっ!?」

飛び上がったのは滝沢だった。
狭い室内のことである。
扉は一つ、その向こうには長い階段が伸びているだけ。
誰かが入ってくれば、気づかないはずはなかった。
それが、

「あらごめんなさい、驚かせてしまったかしら」

微笑んで言ってのけた声音の主の、弓のように細められた瞳が、至近にあった。
まるで、モニタの光を受けて背後に伸びた己の影が、人の肉を得たように。
その女は、いつの間にか狭い部屋の中に、存在していた。

「……、……っ!」
「おや、安宅君じゃないか」

言葉もなく口を開け閉めする滝沢をよそに、振り向いた竹林が小さく片手を上げる。
その表情に驚愕の色はない。

333麗人:2008/12/24(水) 21:57:19 ID:yoOBrf2E0
「久々だね。いつこっちに戻ってきたんだい」
「あら、先生ったら」

呼ばれた女性が、口元に手を当ててころころと笑う。

「安宅だなんて、随分と懐かしい名前で呼んでくださるんですね。
 若い頃を思い出してしまいますわ」

言って笑んだ、その切れ長の瞳からは薫り立つ蜜のような艶が滲んでいる。

「ん? ああ、これは失敬。今は何というんだい?」
「―――石原、と」

名乗った女に、竹林が何度も頷く。

「石原、石原君か。……そうか、しかしあの安宅君がね……時が経つのは早いものだなあ」
「長らくご無沙汰しておりました、竹林先生」

深々と、頭を下げる。

「……先生はこそばゆいな。今は私も軍属だよ」
「存じておりますわ、竹林司令」
「恥ずかしながら、そこには元、と付くがね」
「それも、存じております」

薄く笑んだまま居住まいを正した女が、

「本日ここへ足を運んだのは、他でもありません、先生。
 因と果の狭間を歪め、縁を捻じ曲げる呪い―――リアル・リアリティ。
 その当代随一の遣い手たる竹林明秀……いいえ、青紫先生のお力を、是非お借りしたく存じます」

忘れられた部屋で、忘れられた名を、口にした。

334麗人:2008/12/24(水) 21:57:36 ID:yoOBrf2E0

 【時間:2日目 AM11:40???】
 【場所:沖木島地下の超先生神社】

超先生
 【持ち物:12個の光の玉】
 【状態:よせやい】

滝沢諒助
 【状態:どうしたらいいんだ】

石原麗子
 【状態:???】

→408 533 1026 ルートD-5

335Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:01:00 ID:KVbDHXhE0
 芳野祐介の前では啖呵を切ったものの、こうして時間が経ってみると妹の死はあまりに大きいと霧島聖は思い知らされていた。
 もう妹の顔を見ることは出来ない。どんな表情も思い出の中にしか残っていない。
 もう、流しそうめんも出来ない……

 結局一目として会えず、その事実だけを確認した聖は胸の奥がぐっと縮んでいくのを知覚する。
 生きて帰ることが出来たとしても、家には一人。診療所で一人きりなのだ。
 そんな生活に耐えられるわけがない。何に生き甲斐を見出せばいいのか分かるはずもない。

 さりとてここで死ぬわけにもいかない。医者としての使命が生きろと急き立てる。
 まだ助けられる命があるのなら、そのために働けと叱咤の声を放っている。
 藤林杏の治療を終えたときの一ノ瀬ことみの顔を思い出す。
 また一緒にいられる、悲しみを抱え込まずに済んだと安心したことみの顔は本当に嬉しそうだった。

 ならば、このままでいい。霧島聖という人間の命は、そのためだけに使えばいい。
 家族も守れず、死に目にも会えなかった自分にはそれで十分に過ぎる。
 己の感情に背を向け、為すべきことを為すだけの人形となっていくのを認識しながら、聖は言葉を発する。

「ことみ君は何をしているんだ?」

 杏と芳野を見送った後、すぐに出発するかと思った聖だったが、ことみはデイパックの中のものと、地図を交互に見ながら唸っていた。
 今ことみが手に持っているのは何かのIDカード……『Gate 10』と書かれているものだ。
 呼ばれたことみは努めて冷静な顔で、地図上のとある地点を指差す。

「疑問があるんだけど……私達が最初に出てきた場所、つまりこの殺し合いについてのルールを説明された場所って、全部爆破されてるはずなんだけど……どうしてだと思う、先生?」
「何故、と言われてもな……都合が悪いからじゃないか? 例えば、奴らの基地に通じる道を塞ぐためとか」

 少なくとも、聖にはそう思えた。この島の表側にそれらしい施設がない以上、殺し合いを管理している連中がいるのは地下。
 ならばそこに通じる道を塞ぐのは常套手段と言える。
 しかしことみは「私はそうじゃないと思う」と首を振った。

336Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:01:20 ID:KVbDHXhE0
「私は、逆。寧ろ都合よくするために爆破したんじゃないかって思うの」
「……? よく、分からないが」
「もしそうなら、こんな杜撰な爆破の仕方で完全に道が塞がるわけはないと思うの。
 聖先生、ビルの爆破解体もそんなに大量の爆薬を仕掛けているわけじゃないってことは知ってるよね?
 あれも要所に適量の爆薬を仕掛けて、綺麗に崩れるようにセットしてあるだけだから……
 でも、ここの爆破の仕方は力任せに建物を吹き飛ばしただけ……
 多分、本当に道があるのだとしたら、隠したつもりでもどこからか見える可能性があるの。
 そもそも、ただ隠したいだけならここのエリアに入ったときに私達の首輪を爆破すればいいだけだし。
 わざわざこんな爆破はしないと思うの」

 なるほど、と聖は思う。よく考えれば聖が出発した直後の爆発は崩して隠すというより吹き飛ばして何もないように見せかける、というようにも見えた。ことみの言うとおり、何かを隠すためではなく、見つけさせるための爆破なのだとしたら……

「それと君の持っているカードが、関係してくるというわけか」
「さすが。いい勘してるの。私の推測が正しいなら、このカードは多分、どこかのスタート地点から地下に続く鍵なのかも」
「ふむ……って、待て」

 納得しかけて、聖は突っ込みを入れる。
 ことみは「???」とでも表現できそうなほどきょとんとした表情をしている。

「地下に続くって……そこには奴らの基地があるのかもしれんのだろう。どうしてそんなことを」
「うーん……これもほとんど思い込みかもしれないんだけど」

 ことみは一つ区切りを入れて、今までよりは自信なさげに続ける。

「これって、支給されたものの中では一番の大当たりの可能性があるの。
 デイパックに詰められないくらいの巨大な兵器とか、大量の銃火器とか。
 だからそれを渡すための場所として、この鍵を支給した。鍵にして渡したのには保険があると思うの。
 島の表層に武器を保管する場所があったら参加者の人たちに襲撃される恐れがあるし。
 もう一つ、大量に渡しすぎたら殺し合いが一方的になり過ぎる事があるかもしれないから、
 量を制限させるためにカードキー型にしたとか……」

337Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:01:42 ID:KVbDHXhE0
 そういうことかと聖は頷く。つまりこのカードキーは小切手のようなもので、指定された場所に行けば強力な武器を(選択して)得られるということか。デイパックを受け取ったときのようにカードキーを差したときにランダムで武器を仕舞っている棚が開くというシステムにすればバランスが崩壊することもない。考えたものだと思いながらも、それは殺し合いを開催した者が場慣れしていることも想像させた。
 もしかすると、以前にもこういうことがあったのではないかと思った聖の眉根に皺が寄る。
 生きることを見出せなくなっても、人の命を奪うことを許せない気持ちは依然としてある。それも、ただの享楽なのだとしたら尚更許せなかった。
 今まで脱出を一番に考えていた聖の頭が、主催者への怒りをも帯び始める。こんなことのために、妹は死んだのだとしたら……
 壊してやりたい、と聖は思った。主催者そのものではなく、殺し合いをゲームとして作り出し、今も世界のどこかに巣食っている反吐が出そうな、この悪しきシステムを。そのための力を、今蓄えつつあるのだから。

「……もしことみ君の推測が正しければ、私達も地下に潜れるかもしれない、ということだな?」
「うん。このカードキーがまだ使えるなら……って話になっちゃうけど、でも、使えるなら」

 そこで地図をひっくり返し、爆弾の文字をゆっくりとなぞることみ。その意味を、聖は既に理解していた。
 地下のどこかで爆弾を爆発させれば、主催者が殺し合いを管理している、コントロールルームまでの道が開けるかもしれない。
 そうでないにしても、ここから望みを繋いでいくことだって出来る。

 希望は潰えたわけじゃない。このシステムを壊せるかもしれないという可能性が、聖の意思に一つの火を灯した。
 もう自分に生きていけるだけの何かがあるかも分からない。見つけられず、ただ朽ちていくだけの人生かもしれない。

 しかしそれでも、ここには未来を望む何人もの人間がいる。人の死を見ながらも生きようとする魂がある。
 それを守り通したい。こんな馬鹿げた殺し合いを終わらせるために。忘れてはならない真実を伝えるために。
 たとえ人でなしの屑だとしても、それくらいの価値はあるだろう――聖はそれで締めくくって、内奥の熱を仕舞いこんだ。

「しかし、よくそんなことに気付けたな。地下に続く通路だなんて、例え憶測でも私には考えられなかった」

 カードキー一枚からそこまで考える事が出来ることみの頭脳の違いを思い知らされたような感じだった。
 ことみは照れたように頬を掻いて「それほどでもないの」と笑う。

338Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:02:04 ID:KVbDHXhE0
「だって、この島にカードキーを使うような施設なんてなさそうだったから。だから、地図に書かれてある施設じゃない。もっと高度な設備を擁するどこか……それを考えたら、自ずとこの結論にたどり着いたの。それに、ご丁寧にカードキーにヒントみたいなのが書かれてあるし」
「ゲートの10……か。ということは、1から9までもあるのかもしれないな」

 地下へ続く道があるのだとしたら、出入り口は一つだとは考えにくい。
 万が一事故……火災のようなことが起こった場合に備えて出口は複数作っておくのが常識だ。
 出入り口の全てがこの島に用意されているとは考えられないが、スタート地点が東西南北バラバラになっている……つまり、このカードキーを渡された人間が長距離を移動しなくてもいいよう、それぞれのスタート地点に最寄のゲートがある可能性は十分にある。
 だとするならば、同じスタート地点付近であるこの学校にもゲートがあるのかもしれない。

 けれどもこれは推測に過ぎない。よしんば当たっていたとしてもこちらの切り札である爆弾は完成さえしていない。
 現在芳野祐介と藤林杏の二人でロケット花火を捜索してもらっているが、こちらとしても軽油を見つけ出さなければならない。
 まだまだやるべきことは残っているということか。人手が足りない以上、自分達で動くしかない。
 忙しくなりそうだと思いながら、聖は苦笑交じりの息を漏らした。

「さて、どうする? このまま灯台に向かうのか」
「うん。私達の足だと結構時間がかかっちゃうけど……」
「足が欲しいところだな。車でもあればいいんだが」

 医者という仕事柄、いざというときのために車の免許は持っている。もっとも運転することは少なかったのでほぼペーパードライバー状態なのであるが、事故を起こすほど機械オンチではないという自負はある。なにせトラクターの修理をしたこともあるのだ。
 ともかく、車がなければどうにもならないことなので考えても仕方ないと思い、「まあ、歩いていくしかないだろう」と言う。

「うーん……」

 渋ることみ。どうやら現代っ子は運動をしたくないらしい。

「シャキッとしろ。肉がつくぞ、肉が」
「う……」

339Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:02:25 ID:KVbDHXhE0
 すごく嫌そうな顔で、「私は頭脳労働派なの……」とぶつぶつ言いながらも席を立つ。
 それには違いないとは聖も思うのだが、健康的な体を維持するのには運動が必須だという信条がある聖としては現代の運動不足症候群に対して激の一つでも飛ばしてやりたいという気持ちがあった。

 まあことみも十分に健康的かつ豊満な体ではあるのだが、と制服の下に隠れていても分かる、ふっくらとした胸の膨らみとくびれた腰つきを見て、聖は感嘆のため息を出す。同時に、そんなことを分析している自分がひどく親父臭いと思ってしまった。
 デイパックを抱えて、ことみが先に保健室を後にする。それに続いて聖も席を立ち、ぐるりと保健室を見渡した。

 まだ微かに残る懐かしいアルコールの匂い。白を基調とした清潔で落ち着いた(杏によってひどい有様ではあったが)室内。
 回転椅子。革張りのソファ。コチコチと神経質な音を立てている時計。棚にある様々な薬品。

 これまでの自分達を守ってくれた保健室という日常。自分はそこから乖離しながらも、これを望む人達のために戦う。
 覚えておこう、そう聖は思う。もうそこに自分の居場所はなくとも、覚えておきさえすればきっと目的を見失わずに済むだろうから。

 さよならだな。聖は呟きもせず、保健室に背を向ける。

 ガラガラと、白い室内は雨音を反響させるだけのオルゴールとなった。

     *     *     *

 雨粒が肌を打ち、水滴は雫となって流れ、やがて服に染み込む。
 早くも染みを服裾に作り始めて湿り気を帯び始めている。
 まだ気にはならないものの、気持ちが悪いことには変わりない。
 このごわごわとした感触の悪さは直りかけのかさぶたに似ている、と思った。

 自分が岡崎朋也という人を『男の子』として好きになったのはいつからだっただろうか。
 昔、自分と遊んでいたときから?
 図書館で再会して、一緒に行動するようになってから?

340Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:02:44 ID:KVbDHXhE0
 よく分かっていない。人が恋するのに理由がない、という理由がこういうことなのだろうかとも思う。
 ただ一つ明確なのは、もう朋也には二度と会えない。
 もう半分こすることも、もう綺麗なバイオリンの音を聞かせることも出来なくなってしまった、その事実だけだった。

 また、戻ってこない人ができてしまった。父や母と同じく、昨日までそこにあって、手の届く場所にいたのに。
 いつだってそうだ。己の臆病さとちょっとした我侭で、するりと手をすり抜けていってしまう。
 結局、人はいつでも後悔を続ける生き物だということか。朋也の死がじわじわと侵食していくのを感じながら、ことみは雨から顔を俯ける。

 けれどもまだ自分には失いたくない友達がいる。
 学校では変人と見られ、日常から乖離していた一ノ瀬ことみという子供の手を取って、引っ張ってくれたあの友人達を。
 古河渚、藤林杏、藤林椋。まだその人達がいる。

 杏とは既に再会し、お互いに健闘を誓って別れた。一時は元気を失いながらも、別れる前に言葉を交わしたとき常日頃の不敵さを取り戻していた。生き延びることを思って。また笑い合える日々が来ることを信じて。
 それが以前と同じでなかったとしても、まだ自分達は笑えるのだと確信している目を寄越していた。
 自分にそれが出来るかどうかは正直なところ、分からない。ただ一つ確かなことは渚や椋にも会いたい。故にこうして脱出のために動いているのだということだった。本当に、本当に皆が大切な友人なのだから……

「ことみ君、来てみろ」

 ことみの感傷を打ち切ったのは聖の明朗でさばさばとした声だった。
 雨に燻る景色の向こう、トタン屋根の下の駐輪場らしきところで手招きをしている。背後には何やら車輪らしきものも見えた。

 そうか、とことみは思った。自転車か。車よりは調達は簡単で移動距離もそこそこは早い。
 足は欲しいと言っていたから、きっと他に何かないか考えていたのだろう。
 そういう気の配り方は自分にはない。聖は先程感心していたが、ことみからすれば聖にこそ感心したいところだった。
 互いにないところを補い合う……こういうことが出来るのが仲間かと思いながら、ことみは聖に駆け寄る。

「見ろ。自転車だぞ。……二人乗り、だが」
「……え?」

341Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:03:09 ID:KVbDHXhE0
 聖がくいっと後ろの自転車を差す。
 そこにあったのは観光地か何かで見かけるような、サドルが二つついた妙に全長の長い自転車だった。
 知識としては知っていたのだが、実物を見るのはことみも初めてだった。

「本当なの。どうしてこんなのがあるのかな」
「さぁな……幸いにして、鍵はかかっていないようだが。ま、かかっていたとしてもブチ壊すがな」

 ニヤリと笑っている聖の手には、ベアークローが嵌められていた。
 医者の頭の良さそうなイメージは微塵も感じられない。世の中には体育会系の医者もいるんだなあと改めて納得することみ。
 きっとこの人の朝はラジオ体操とジョギングから始まるのだろうと思っていると、不意に聖が鋭い目を向けてきた。

「おい、なんだその筋肉を見るような目は。言っておくが私の朝は華麗だ。牛乳を飲むことから始まるんだからな」

 華麗……? と口を開きそうになったことみだったが、過去の経験が口を開いてはならないと警告を発していた。
 きっと聖の中では華麗のうちに入るのだろうと納得して、ことみはコクコクと頷いておくのだった。

「全く……さて、急ぐぞ。雨も降り始めていることだしな。道が悪くならないうちに一気に南まで行くか」

 ベアークローを仕舞い、ハンドルを引いて自転車を引っ張り出す聖。
 その背中を見ながら、ふとことみには疑問に思うことがあった。
 ここまで行動を共にしてくれている聖。常に側にいてくれているが、どうしてここまで一緒にいてくれたのだろうと思う。

 脱出の計画を練っているとはいえ、それは不完全なもので、自分に見切りをつけて妹を探しに行っても良かったのに。
 家族の大切さ、失ってしまってもう手が届かないところに行ってしまった喪失感を知っていることみにはそんな感想があった。
 今更言ってどうにかなるものではない。いや寧ろ言えば聖を傷つけてしまうだろう。
 しかしそれでも、家族を後回しに近い形にしてでも、自分といてくれた聖の心中はどんなものなのだろうか。
 尋ねてはいけないと思いながらも、気にならずにはいられなかった。

342Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:03:25 ID:KVbDHXhE0
 だが口を開いて訊くだけの資格なんてあるわけがないし、度胸のない自分には、まだ尋ねられない。
 人の気分を害することが怖くて、今の関係が崩れてしまうのが怖くて、踏み止まってしまう。
 何も変わっていない。父母を失い、朋也を失い、後悔してさえ自分は何も変わろうとしない。
 それでも、怖かった。恐怖は人を踏み止まらせる力がある。
 恐怖を乗り越えるには、自分の勇気などあまりにも小さすぎた。

「どうした、乗れ。もう用意はできたぞ」
「……う、うん」

 聖に促され、ことみは後部のサドルに座る。二人乗りの自転車は初めてだったが、とりあえず漕ぐタイミングを合わせなければならないとか、そういう面倒なものではなさそうだった。聖がペダルを漕ぎ始めるのに合わせて、ことみもペダルを漕ぎ出す。

 ゆっくりと、しかし徐々に自転車はスピードを上げていく。
 雨粒が流れ、景色の流れる速度が速くなっていく。
 予想外に早くなっていくスピードに戸惑いつつも、ことみは湿った肌に吹き付ける風を心地よいと感じていた。

 心にはまだ、溶け切らないしこりを残しながら……

343Good-by And Farewell:2008/12/26(金) 22:03:44 ID:KVbDHXhE0
【時間:2日目午後19時10分ごろ】
【場所:D-06・鎌石村小中学校・校門前】

霧島聖
【持ち物:H&K PSG−1(残り3発。6倍スコープ付き)、日本酒(残り3分の2)、ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【状態:爆弾の材料を探す。医者として最後まで人を助けることを決意】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【状態:爆弾の材料を探す。少々不安がある】

【その他:二人は二人乗り用の自転車に乗っています】
→B-10

344名無しさん:2009/01/08(木) 00:49:31 ID:XEWQBKNo0

エディ「ジングルベール、ジングルベール♪」
浩之 「あー、だりぃ。クソだりぃ」
エディ「オォ? どうした、兄チャン。景気悪い顔してんナ、サンタサンからのオトシダマで機嫌を直セ!」
浩之 「あぁ。サンキュ」
郁未 「え、何。何ここっていうか、何これ」
エディ「ハッピーニュイヤー、イクミン!」
浩之 「よ、イクミン」
郁未 「イクミン言わないでよ、馴れ馴れしいわね。……で、何なのよ。これ」
エディ「だから、ハッピーニューイヤーなんダゼ!」
浩之 「今年は俺等が狩り出されたって訳だ」
郁未 「はぁ?」
エディ「ヘローゥ、エーブリワン! この度新年の挨拶ヲ任された、B-4代表のエディダゼ!」
浩之 「B-10代表、藤田浩之」
郁未 「ちょっと待って。ということは……D-5代表は、私ってこと?」
エディ「そういうことダゼ! よろしくイクミンッ!」
浩之 「だりぃから捲いて行くぞ、イクミン」
郁未 「ちょっと待って、ちょっと待って! お願いせめて打ち合わせぐらいしてくれてもいいんじゃないの?! ぶっちゃけ私、今回B-10代表かと思って……って、聞きなさいあんた達ー!!!」

345名無しさん:2009/01/08(木) 00:50:17 ID:XEWQBKNo0
エディ「イェイイェイ! という訳で、始まりました座談会!」
浩之 「昨年は色々あったな」
郁未 「そうね、色々あったわね……ごめんなさい色々言いたいことはあるんだけど、混乱していて意見がまとまらないわ」
エディ「色々あったト言えば、浩之はドウヨ!」
浩之 「俺? ……そうだな、俺の担当するB-10は、何と昨年まとめサイトができたんだ」
エディ「オーウ! それは素晴らしいゼ!」
浩之 「だな。いつもお世話になってる。こういう時じゃないと言えないから、改めて言っとく」
郁未 「そうね。見ているだけでも、凄く楽しいものね」
エディ「また、B-10は現在残り26人、外部のほしのゆめみチャンを入れて27名と大行進!」
浩之 「昨年の外部含め51名からは着実に数を減らしてきたな」
郁未 「順調としか言えないわね。話も定期的に落としてもらえるからありがたいわ」
エディ「またB-10と言えバ、B-18のユキネェを彷彿させる凄腕のヒロインも生まれ大変なことになってるナ!」
浩之 「……あいつは、俺が止める」
エディ「キャー! 浩之カックイィ!」
郁未 「せいぜい足を掬われないようにしなさい」
浩之 「お前もな」
郁未 「……」
エディ「死んでるオレッチには関係ない話ダゼ! ちょっと寂しいゼ!」

346名無しさん:2009/01/08(木) 00:50:57 ID:XEWQBKNo0
エディ「寂しいからオレッチの担当するB-4の話題でも振るゼ!」
浩之 「残り64人、外部6人で計70人」
郁未 「昨年は、残り72人だったらしいわ」
エディ「……1年で、2人シカ減ってナイってカ」
浩之 「終わってるな」
郁未 「終わってるわね」
エディ「面目ナイ。中の人に代わってオレッチが謝っとくゼ」
浩之 「主催描写無し、っていうか対主催も実質いないとかマジ無いよな」
郁未 「1年以上出番ないのもザラでしょ? 私とか。マジ無いわね」
エディ「ヤメテ! それ以上はオレッチの中の人の胃ガもたないんダゼ!!」
浩之 「何か語るにしても話題自体ができてないんだから、次行こうぜ次」
郁未 「来年はもっと進んでいることを期待するわ」
エディ「アウアウアウ……デモ今年はもうちょっとペース早めるって言ってたゼ。少しでも追いつけるよう頑張るゼッ」

347名無しさん:2009/01/08(木) 00:51:21 ID:XEWQBKNo0
郁未 「次は私? えー、D-5は……」
エディ「規模が違いすぎるゼ」
浩之 「未知の世界もここまで行くと、新ジャンルだよな」
郁未 「あーもう、分かってるわよ! 私だって目の前のことで精一杯なんだからっ!」
エディ「D-5は現在残り29人、内4人は異次元で外部もモッサリダゼ」
浩之 「ん、昨年が31人だったから、こうやって見るとあんまり減ってないのか?」
郁未 「昨年は凸が忙しくて、他のに構ってる余裕なんかなかったのよ!」
エディ「モウ正規の参加者のカウント自体ガ無意味な気がするんダゼ!」
浩之 「あはははは」
郁未 「くそっ、あんた等他人事だと思って……」
エディ「他人事ダゼ」
浩之 「他人事だな」
郁未 「くきぃぃ! オッサンはともかくエピローグ行きが決まってるあんたは許せないぃぃ!」
エディ「……」
浩之 「これが勝ち組の余裕ってやつだな」

348名無しさん:2009/01/08(木) 00:51:52 ID:XEWQBKNo0
エディ「という訳デ、振り返ってみていかがでしたデショウカ!」
浩之 「クソだるかった」
郁未 「帰っていいかしら」
エディ「アレ? 結構仲良くヤレていた気がしたのハ、オレッチだけだったんデショウカ」
浩之 「今更だよな。正月終わっちまったし」
郁未 「そうね。打ってる時点で0時を軽く回っちゃってて、間に合わないの分かってるのに。馬鹿みたい」
エディ「アウアウアウ、ソレは言っちゃ駄目なんダゼ……」
浩之 「こんな所より雑談所のクリスマス支援の方が格段に面白かったしな。めちゃくちゃ凝ってて驚いたぞ」
郁未 「そうそう。私なんか、気づいたの今年に入ってからなんだから! もう、motto☆派手に宣伝してくれればいいのに……っ」
エディ「ソウダナ。アレは凄かった。面白かった。オレッチ、感動した!」
浩之 「という訳で、このウインドウはさっさと閉じ至急クリスマス支援に行くこと」
郁未 「そして、その感想を書くこと!」
エディ「ヨオーシ、それじゃオレッチ達も「 3: 死亡したキャラでネタを作るスレ 」ニ行こうゼッ!!」
浩之 「あ? 俺は俺で行くからいいよ」
郁未 「私も。行きたい時に自分で行くからいいわ」
エディ「……」
浩之 「じゃあ、帰るわ。B-10代表、藤田浩之でしたっと」
郁未 「D-5代表、天沢郁未よ。それじゃあまた、本編で会いましょう」
エディ「……B-4代表、エディ。今欲しいのは、つるんでくれる相棒ダゼ……ソウイチィィィ!!!!」




藤田浩之
 【所持品:無し】
 【状態:ほら。俺ってば勝ち組だし?】

天沢郁未
 【所持品:ピクミン】
 【状態:今年はmotto☆派手に活躍してやるんだからっ】

エディ
 【所持品:無し】
 【状態:マイミク募集中】-


クリスマス支援、とにかくそのボリュームに驚きました。
キャラもめちゃくちゃ多くて、楽しかったです。
ハカロワ3好きにはたまらないネタもたくさんで、何でもっと早く気づかなかったのかと……そればかりです。
乙でした!

349萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 01:57:47 ID:OSmySDaI0
 空は灰色から、暗色の夜空へと入れ替わっていく段階だった。
 二度目の夜。何もかもを隠し通す漆黒の闇。
 吹き付けてくる風も肌寒く感じられる。

 いや、そう思うのは自分がまた冷えている心を自覚しているからなのかもしれない、とリサ=ヴィクセンは思った。
 命の価値。誠実に生きようとする栞の怒声の中身を、口中で繰り返す。
 自分はそれを分かろうとしていたことはあっただろうか。
 理解しようと努めたことはあっただろうか。

 ……ない、わね。

 命は道具で、自分は行使する器に過ぎず、何かを愉しむ感情でさえも目を逸らすための逃避の手段に過ぎなかった。
 両親を殺した篁への復讐という目的はあった。
 そのためにはどんな努力も惜しまず、どんな任務だろうと達成する鋼のような心もある。

 けれどもそれは、生きるためのなにかではない。そこに意義を見出せるなにかを、リサは持っていない。
 全てを達成し、野に放たれればどうすればいいのか分からないという確信はあった。
 何をすればいいのかも分からず、迷子になった子供のように呆然と突っ立っているだけの自分。
 しかしそれをどうするとも考えず、目の前の事態に対処することを優先して今まで行動してきた。
 逃げ続けている。今も昔も、子供のときから変わらず……
 考えるべきなのだろうか、と思う。生きる価値のある命。自分の命の意味。

 わたしは、どうしたいのか。

 簡単な問い。あまりにも単純すぎる問題だ。それ故に……胸を張って答えることは難しい。
 もう知っている。知ってはいるけれども、言葉に出来ないものがあった。
 鍵をかけてしまった己の扉は開く気配を見せず、しかし自分は鍵を取りに行くほどの度胸もない。
 要は怖いのだとリサは知覚する。想いを打ち明けて、最後には失われてしまうことが。

350萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 01:58:20 ID:OSmySDaI0
 距離を保つ術を覚えてしまったから、寄り掛かる術を忘れてしまったから、何も出来ない。
 ただ悲しみだけが恐怖として残り、トラウマとなって絡めとっている。
 そうして遠ざけ、復讐で己を縛り上げなければ生きてこられなかった自分。悲しいほどに弱々しい自分。

 或いは、こうしなければ自分は崩れて堕ちていたのかもしれない。
 両親を失い、誰に頼るところもなく己の力のみで生き抜くことを課した環境と、
 打ちのめされ、目に焼き付けられた力の倫理の前ではこうするしかなかったのかもしれない。

 それでももう今は違う。己を縛り上げずとも生きてゆける可能性は目の前にある。
 どんなにささやかで小さな可能性だとしても、掴める機会は巡ってきている。
 後はそれに手を伸ばせる勇気と、一歩を踏み出す度胸だけなのに。

「……まだ、無理なのかもね」

 心の中でさえ、望みを並べることは出来なかった。
 頭に思い浮かべる寸前、スイッチのようにぷつりと切れて途絶える。
 ただ怖いだけなのだ。未来を思い浮かべてしまうことでさえ。
 胸が締め上げられ、どうしようもない思いがリサの中身を滞らせる。こうして一人でいるから靄は晴れないのだろうか。
 自然と爪を唇が噛み、カリカリという細かな音をリズム良く奏でる。一種の暗示のようなものだった。
 この音を聞いていると、感情にノイズをかけて誤魔化すことが出来るから――

「済まない、待たせたね」

 ひとつの声が雑音の掛かり始めたリサの感情を霧散させる。緒方英二の声だった。
 いくらか荷物の増えたデイパックを背負いながら、振り向いたリサに微笑を見せる。
 栞の姿はない。どうしたのだろうかと尋ねる前に英二が先手を打って「顔を洗っている」と言った。

「気合を入れ直すらしい。僕に荷物整理を任せてすぐに出て行ったけど……まだ来てないようだね」
「迷子になっているのかもしれないわね?」
「そりゃ大変だ。じきにアナウンスが来るかもしれないな、灯台から」

351萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 01:58:38 ID:OSmySDaI0
 流石に冗談と分かっている英二は飄々とした様子でリサに返す。既に気持ちを切り替え、以前の彼に戻ったかのようだ。
 その表情からは、眼鏡の奥に秘めた鋭さを残す瞳からは、何も窺い知ることは出来ない。
 男は自らの意義を、存在を何かに仮託しようとする生き物だ。そう聞いたことがある。
 英二もそうなのだろうか。別の何かに自分の希望を重ね、そのためにただ尽くすと決めているのだろうか。
 いつまでも躊躇っている自分同様、宙ぶらりんに己をつるし上げたまま。

「訊いてもいいかな」

 微笑を含んだ顔のまま英二が言う。じっと見ている自分の何かに気付き、応えようとしたのかもしれない。
 ええ、と返したリサに「それじゃあ、少し長話といくか」と英二は煙草とマッチを取り出す。
 宿直室からくすねてきたのだろうか。「君は?」と煙草の一本を差し出す英二にリサは首を振る。

「煙草は吸わないの。健康に良くないしね」

 微笑を苦笑の形に変えた英二は、「道理でいい匂いがするわけだ」とさりげなく気障な台詞を言うと煙草に火をつける。
 紫煙をくゆらせ、実に美味そうに煙草を吸う姿は新鮮だった。「久しぶりでね」と満足そうな表情を浮かべる英二。
 つられるようにして、リサも初めて微笑を返した。
 もしこれが彼の狙いだったのだとしたら、相当なやり手だ、とリサは思う。会話する術を心得ている。
 だがそうではないのかもしれない。自分と同じく、そうすることしか出来ないのかもしれない。
 距離を測り、それに応じた会話を為すことは染み付いて離れないのかもしれない。

 それでも、とリサは思う。今自分が感じている心地よさの欠片は確かなものであり、嫌悪感はない。
 だから笑みを返すことが出来たのだろう。慣れてしまった大人同士、こういうのも悪くない……そう思った。

「栞君とは、いつから?」
「ここに来た当初からよ。今まで、ずっと一緒に」
「家族や友人……というわけでもなさそうだね?」
「……ええ。初対面よ、この島では」

 そうか、と英二は再び煙草に口をつける。紫煙の一部が風に乗ってこちらへと流れてくる。
 意外と悪い匂いではなかった。そういう種類もあるのね、と納得を得ているリサを正面に、英二が大きく息を吐いた。

352萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 01:58:55 ID:OSmySDaI0
「どうして一緒に行こうと?」
「お姉さんを探すためにね。……それに、あの笑顔を見たら、何だか置き去りに出来なくなって」

 前者の言葉だけで済ませておけばいいものを、何故かそんなことまで話していた。
 見ていてこちらが悲しくなってしまうほどの笑顔。悲壮な思いを秘めた笑顔がリサの脳裏に描き出される。
 何もかもを諦めたように、怯えを押し殺した笑みは昔の自分の姿と重なって……

「僕と似たようなものか」
「え?」
「僕が最初に行動していたひとも、そんな感じでね」

 思い出すように英二は呟く。その視線はどこか遠く、自分の過去でさえ他人のように見ている風だった。
 或いは、そうしなければ感情が溢れ出してしまうのかもしれない。そうすることでしか保てない後ろ暗さが感じられた。

「もっと話しておけば良かったな……分かってもいないことが、たくさんあったのに」
「……」

 英二がどんな経験をしてきたのかは、その言葉からは分かり得ない。ただ痛烈な後悔だけが滲み出ていた。
 人は、やはり言葉に出してでしか心の内を知る術はない。思っているだけでは、どんな想いも伝わらない。
 分かっている。だが……口にして出せない。自分は臆病に過ぎる。

「率直に聞くよ。リサ君は……栞君を失いたくはないんだろう?」

 無言でリサは答える。肯定しきることが怖く、否定しきることもしない。
 だが栞が他人なのかと言われれば、そうではない。少なくとも、そうではないと思ってはいる。

「それもまた答え、か。僕は男だからね……やり通すことしか知らない。たくさん仲間を失った。
 けど変えられない。大切な人を失ってでさえ、人は根幹から変わることなど出来はしない。……狂いでもしなければ。
 そして狂うことさえ僕には出来なかった。大人だからな。そんな選択肢なんて、とうに無かった。
 だから、今もただやり通す。それだけだ。そうすることでしか、僕は何かを伝える術を知らない」

353萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 01:59:11 ID:OSmySDaI0
 それが栞との対話で得た、英二の最終的な結論のようだった。
 踏み出すことを捨て、代わりに迷うこともなくなった男の姿だ。
 自分はどうなのだろうか。未だ肯定も否定も出来ない立場のまま、結論を先延ばしにしている。
 子供だということだろうか。あの日から途方に暮れたままの、リサ=ヴィクセンでなかったころのまま……

「少しでも何か思うところがあったのなら、考えていることの反対に立ってみてもいいんじゃないかな。
 そういう選択肢もまた、君には残されている。僕は捨てた。何も理解してなかったばかりに、ね」

 選択肢という言葉がリサの頭を揺らし、またひとつの波紋を生み出す。
 この人になら……そんな考えが浮かぶ。
 この人になら、救いを求めてもいいのではないだろうか。手を伸ばすための助言を与えてくれるのではないだろうか。
 まだ何も知らない自分の手を取って、支えてくれる。そうだと思える実感があった。

「……考えておくわ」

 思えただけで十分だった。だから今は、その返答だけでいい。英二もまた大きく頷いた。

「それがいい。考えられるだけで十分だ」

 言い終えると、すっかり短くなった煙草を地面に落として靴で踏み消す。
 すかさず二本目を取り出そうとした英二を、リサは苦笑交じりに「やめておいた方がいいんじゃない?」と止める。

「どうして」
「栞、来たわよ」

 指を差すリサに導かれるようにして後ろを振り向く英二。その先にはまさに灯台から出てくる美坂栞の姿があった。
 遠くからでも分かるような、張り詰めた栞の様子はまた彼女にも何かしらの化学変化を起こさせたようでもあった。
 それについて考えるのは後回しにして、とりあえずは英二を嗜めることに集中しようとリサは思った。

354萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 01:59:28 ID:OSmySDaI0
「歩き煙草はあまり良くないんじゃない?」
「……そのようだな」

 いくらか名残惜しそうに煙草のケースを見やると、マッチ箱と共にポケットの中へ押し込む。
 タイミングを同じくして、栞がこちらへと合流する。

「すみません、遅刻してしまって」
「そんなに待ったわけでもないわよ。それに……ね?」

 ウインクを寄越してみたが、英二は大袈裟な言い方をするなとでも言いたげに肩をすくめる。
 リサの含んだ物言いを怪しいと思ったのか、栞は「何かあったんですか?」と英二の方を問い詰める。

「いや、ただの世間話だよ」
「あら、私を口説いてきたくせに」
「口説いた……?」

 驚きを呆れを交えた栞は何やってるんですかと目を鋭くして凝視する。

「語弊のある言い方をするんじゃない。栞君も簡単に信じるな」
「私は眼中にない、と?」
「年下が好みなんですか、へー」
「いや、あのな」
「年下どころじゃないかもしれないわね……」
「ああ、そういうことなんですか、ふーん」
「話を飛躍させないでくれ……」

 反論にも疲れたという風に、ガックリと英二が肩を落とす。

355萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:00:02 ID:OSmySDaI0
「あはは、冗談ですってば。ね、リサさん」

 分かっていたという風に目配せしてきた栞に「ええ」とリサも同意する。
 本当はこんなつもりではなかったが、つい栞のノリが良かったので悪ふざけをしてしまった。
 このような一面があったのかと思いながら、これが栞本来の性格なのかもしれないとも考える。

 からかわれていたと分かった途端、英二は何とも言えないような表情になって「行こう」とため息を行進の合図にする。
 それが何故だか可笑しくなって、リサは声を噛み殺して笑う。
 同時に、やはりこの男とならやっていけそうだという思いが突き上げ、脳裏の靄を払うのを感じていた。

     *     *     *

「暇や」

 だらりとシートに身を預けている神尾晴子が唐突に言った。
 足をどかっと投げ出し、ぷらぷらと足先を揺らす姿は態度の悪い不良のようだった。
 もう晴子の身勝手さにも慣れている篠塚弥生は無視を決め込んでフロントガラスから見える景色に集中する。

「なぁ、ラジオとか音楽プレーヤーとかないんか」
「見れば分かるでしょう」
「……つまらん」

 車に対してではなく、からかい甲斐のない弥生の様子を見て晴子は言ったのだろう。
 はぁ、と落胆したため息が聞こえる。というより、わざとらしく大袈裟に息を漏らしていた。
 ここまで行動を共にして、弥生には一つ分かったことがあった。

 戦うパートナーとしては最適だが、人間として付き合うには最悪の相性だ。
 元々人間性の違いはあるとはいえ、改めて認識させられた感じだった。
 普段から冷静沈着に努めてはいる弥生だが、ここまで違うと笑えてくる。実際には笑えないが。
 対する晴子はイライラを募らせているようで、早く状況に進展はないかとギラついた目を動かしている。
 無闇に八つ当たりしてこないのはこんな晴子でも大人であるからか、それとも無駄だと分かりきっているからか。
 どちらにせよ相手をしないで済むだけありがたいことには違いない。

356萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:00:20 ID:OSmySDaI0
 大きな曲がり角を過ぎると、再び長い直線が景色となった。
 緩やかな下り坂になっているようで、遠目には目指す氷川村が小さな点となって見える。
 見晴らしのいい場所だ。よく見えるということは、相手からもよく見えるということでもある。
 狙撃されないように注意しなければと思いながら、弥生は少しスピードを上げる。

「ちょい待ち」

 が、そこで晴子がアクセルを握る弥生の腕を掴む。
 何事だと講義の視線を投げかけた弥生だが、「見てみ」と顎で斜め前方を示す。
 小高い丘の上、灯台の方から下るようにして何人かの人間が固まるように進んでいる。
 まだ遠いので正体は判別出来なかったが、どうやら灯台からどこかに向かっているようだ。
 相手側はこちらに気付いてはいないようで、見る素振りも見せなかった。

「どないすんや」

 VP70を手に持ち、攻撃的な雰囲気を漂わせ始めた晴子が意見を求めてくる。
 逃げ出すという選択肢は端からないのだろう。無論それは自分とて同じだが、手段を誤れば仕損じる。
 分かっているからこそ、晴子は意見を求めてきたのだろう。

「後を尾けましょう。ここで突っ込むには車は小回りが利きにく過ぎます」
「ちっ、バイクやと気にせえへんでええのにな……」

 意外とあっさり晴子が納得してくれたので、弥生は半ば拍子抜けする気分を味わった。
 文句の一つでも寄越してくるかと思い反論を用意していたのだが……
 そんな弥生の呆けた様子に気付いたか、晴子はふん、と鼻息も荒く言い放つ。

357萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:00:38 ID:OSmySDaI0
「勘違いせんでや。アンタがええ手を思いつかんなら、勝算はないて納得しただけや。
 アンタだって尻尾巻いて逃げる気なんてさらさらないんやろ? 目がそう言うとる」
「そう見えますか」
「見える。……癪やけどアンタの言う通り、『本質的には同じ』みたいやからな、ウチらは」

 以前に弥生が晴子に向けた言葉だった。
 疑問の返答をそれで締めくくると、晴子は黙って車の外へと視線を集中させ始めた。
 特に返す言葉もなかったので弥生も無言で晴子に続く。

 本質的には同じ……大切な人のためならどんな絵空事だって信じられる、どこまでも愚直な部分。
 最初からこのように人殺しに身を堕としていたわけでもない。人殺しがしたかったわけでもない。
 ただ愚直に過ぎた。そのひとのことを想って突き進んでいこうと欲した結果だ。
 退く事を知らず、省みる事を知らず、己の筋を通そうとしただけの自分達。
 肯定も否定もするまい、と弥生は思う。その方法さえ知らないのだから……

 気付くと、連中の姿は分岐点に差し掛かり、氷川村の方角へと足を向けているようだった。
 そろそろか、と弥生はハンドルを切り、アクセルを踏み出す。
 徐々に車の加速度が上がり、それなりのスピードを以って追走を始める。
 氷川村に入り始める頃が勝負か。弥生はそう目算をつける。
 建物を遮蔽物として使えるような場所であれば、小回りの利きにくい車でも有利に立ち回れる。
 彼らが入ったと同時、この車が出しうる最大速度で突っ込む。あわよくば轢き殺せる。
 次々と戦術を構築していく弥生に、横から晴子がひとつ声をかけてきた。

「任せるで」

 不敵な笑みを浮かべた晴子の表情は信頼さえ感じさせるものがあった。
 頷き返した弥生の頭にも、確かな自信が生まれてくる。
 本質を同じくする人間が二人。一方が大丈夫だと言えば、もう片方だってそう思えてくる。
 やはりこの女とならやっていけそうだ。ニヤリと笑った弥生のアクセルを踏み込む足の強さが大きくなった。

358萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:00:56 ID:OSmySDaI0
     *     *     *

 体の芯に熱が通る感覚。それまで搦め取られていたものを一切洗い流し、栞は久しぶりに清々とした気分を感じていた。
 もちろん、背負う重みがなくなったわけではない。誰かが死んでいくという事実の重さを忘れたわけではない。
 だがそれを分かってくれる人達がいる。自分だけが感じているのではない、全く同じ感覚を持ってくれる人がいる。
 例えその方法が自分と別物だったとしても、不器用に過ぎるようなものであっても、共に悩み、見出そうとしてくれている。

 だから自分は、力を用いようとすることが出来る。こうして銃を手にとって戦うことが出来る。
 共に歩み、正しい方向へと進んでいけると信じてゆけると思ったから……
 精一杯やり通す。もし非があれば仲間が頬を叩いてくれる。その権利は自分にもある。
 最終的な結論をその言葉にして、栞はこの世界へ戻ってきた。
 昔のように諦念に縛られた自分ではなく、新しいものを探し出そうとする自分を自覚し、今はこうして歩き続けている。

 氷川村はすぐそこに見える。なだらかな坂の下にいくつかの民家の屋根や畑が見える。
 診療所はどこだろうか。もっと奥にあるのか、それとももう見えているのだろうか。

 ふと栞は、これから先、薬を探す意味はあるのだろうかという考えにたどり着く。
 今の自分がただ元気だからという思いからではない。身体的にも、精神的にも今の自分には必要ないと思えたからだった。
 もちろん体の弱さまで克服されたとは思わない。それでも以前のように倒れることはないような気がしていた。
 絶望だけが今の自分ではない。希望や未来もまた自分の中にあると確信を得ることが出来たから。
 病は気から……そんな言葉が指し示すように。

 自分はなかなか死に切れない性質のようだ。カッターの傷跡を残す腕を見ながら、栞は苦笑する。
 とはいえ、まだどんなことになるかは分からない。
 万が一には備えておいた方がいいと判断した栞はあえて何も言わないことにした。

「それにしても、この雨は厄介だな」

 先頭を歩く英二が雨に濡れた髪をかき上げながら空を見上げる。
 鈍色の空からは絶えず雨粒が降り注いでおり、しばらくは降り続きそうな気配があった。

359萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:01:14 ID:OSmySDaI0
「どうしてですか?」
「眼鏡に雨粒がつく。見えにくくて仕方ない」
「……拭けばいいじゃないですか」

 この男、緒方英二と一緒に行動してきて、分かってきたことがある。
 普段の緩み具合が凄まじい。力を温存しているというと聞こえはいいが、実際は不精な人物だ。

 ……ひげ、剃っていませんし。

 そして今も「まあ別にいいか」と頭を掻きながら結局そのまま。
 天才プロデューサーというのは本当なのだろうかと思っていると、今度はリサが声をかけてきた。

「栞の方こそ大丈夫なの? 寒くない?」
「平気です。ストールを羽織っているので」

 ふぁさ、と愛用のストールの一部を広げてリサに見せる。体温が凝縮された温かさが僅かに漏れ、リサに伝わる。
 ふむ、と納得した様子のリサは「ならいいわ。でも寒かったら言ってね」と言葉を返した。

「リサさんはどうなんですか? その服、見ててあんまり温かそうに見えないですけど」

 逆に指摘してみたが、リサはニヤリと不敵に口もとを歪めると、

「現代の技術を甘く見ないことね。こんなのだけど保温性能は悪くないわ。まあ職場から支給の服なんだけど」

 と言って服をアピールしていた。どうやらお気に入りであるらしい。
 胸元は派手に開いているが、そこは寒くないのだろうか。
 質問しようと口を開きかけた栞だったが、何だか空しくなりそうだったのでやめることにした。

「ついでに解説すると、これには防水機能も――」

 更に続けようとしていたリサの口が不自然に途切れる。どうしたのだろうと声をかけてみようとしたが、憚られた。
 何故なら……

360萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:01:30 ID:OSmySDaI0
「英二。ちょっと止まって」
「どうした?」
「……何も言わずに、栞と先に行ってくれないかしら」

 リサの表情には、狼狽とも緊張ともつかぬ色が滲み出ていたからだった。常に余裕を崩さぬリサが見せる初めての表情。
 それだけで、この場にはとんでもない脅威が待ち構えているのではないかと栞に思わせるものがあった。
 けれども何も言わずに自分達を先に行かすなんて受け入れられない。
 せめてその理由を訊こうとリサに訊き返そうとしたときだった。

 どん、と何かが壊れるような音が響き、続けてぱん、と弾けるような音が聞こえた。

 同時、背中に巨大な圧力がかかりそれが栞の体を突き抜けていく。

 煽りを喰ったかのように、遠心力で栞の体が半回転し――自分が撃たれたのだと悟った。

「栞君っ!」

 べちゃりと水溜りに沈んだ栞へと英二が駆け寄って抱き起こす。遅れてくるようにして脇腹にじんとした痛みが巻き起こる。
 ぐっ、と悲鳴を堪え、意識を保つ。大丈夫だ、痛すぎるが致命傷ではない……そう判断した栞は首を縦に振った。
 一体誰が撃ったのか。まるで気付けなかった……敵を探ろうと視線を動かそうとしたが激痛で体が動かない。
 そうこうしているうちに体が持ち上げられ、宙に浮く感覚があった。
 英二が持ち上げているのだろう。待ってください、と栞は言おうとした。

 せめて援護をしなければ。まだ何の役にも立っていない。このときのための力を得たというのに。
 デイパックに手を伸ばそうにも痛さのあまりか、硬直したように固まって動かない。
 嫌だ、こんな形で、離れたくない――
 どこか遠くの方で怒声が聞こえたような気がしたが、その内容まで聞き取ることは、もう栞には出来なかった。

361萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:01:44 ID:OSmySDaI0
     *     *     *

 雨が降っている。
 悲しみを伝える雨だ。

 あの時は気付けようもなかった一つの事実。
 それが今、一つの結果として目の前に立ち塞がっている。
 その事すら分かりきったかのように、目の前の人物は冷然として無表情な瞳を向けていた。

「久しぶりだな」
「久しぶりね」

 喜びを分かち合うのでもなければ、懐かしむ声でもない。
 ただそれぞれに現実を認識し、引き返せないところまで来てしまったことを認識するものだった。
 どのような事があったのか、リサ=ヴィクセンには知りようもないし、答えてはくれまい。
 ただ思うのは、ここが正念場……ここで退いてしまえば、取り返しのつかない後悔をするだろうという予感と、
 倒すべき敵を眼前に見据えて、闘争心が猛り狂うのを感じていた。

「柳川祐也……」
「リサ=ヴィクセン……」

 お互いがその名を呼ぶ。恐らくは、別れの合図なのだろうとリサは思った。
 かつての仲間に対して。
 今の敵に対して。
 分かり合えぬ現実を目の前に。

 狐と、鬼が地面を蹴った。

362萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 02:02:05 ID:OSmySDaI0
時間:2日目午後20時00分頃】
【場所:I-7 氷川村入り口】

リサ=ヴィクセン
【所持品:鉄芯入りウッドトンファー、支給品一式】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動。栞に対して仲間以上の感情を抱いている。柳川に強い敵対意識】

美坂栞
【所持品:M4カービン(残弾30、予備マガジン×4)、支給品一式】
【状態:脇腹に銃傷(命に別状は無い)。リサから射撃を教わった(まだ素人同然だが、狙撃の才能があるかもしれない)。リサに対して仲間以上の感情を抱いている】

緒方英二
【持ち物:ベレッタM92(15/15)・予備弾倉(15発)・支給品一式】
【状態:健康。首輪の解除、もしくは主催者の情報を集める。リサたちに同行。『大人』として最後まで行動する。栞を連れて逃走】

柳川祐也
【所持品:ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式×2】
【状態:左肩と脇腹の治療は完了、ほぼ回復。椋を見つけ出して殺害する。また、有紀寧、初音、柳川の三人になるまで他全員を殺害し続ける】
【備考:柳川の首輪爆弾のカウントは残り22:00】


【場所:H-8】
【時間:二日目午後:20:00】

神尾晴子
【所持品:H&K VP70(残弾、残り4)、大きなハンマー、支給品一式】
【状態:マーダー。右手に深い刺し傷、左肩を大怪我(どちらも簡易治療済み。痛みはあるものの動けないほどではない)、弥生と共に勝ち残り、観鈴を生き返らせてもらう。氷川村に行く。英二、栞、リサを追跡中】
【備考:蘇生の情報には半信半疑】

篠塚弥生
【持ち物:支給品一式、P-90(20/50)、特殊警棒】
【状態:マーダー。脇腹の辺りに傷(悪化)、晴子と共に勝ち残り、由綺を生き返らせてもらう。氷川村に行く。英二、栞、リサを追跡中】
【備考:蘇生の情報は一応理解を示している】

【その他:弥生と晴子は乗用車に乗っています。ガソリンはほぼ満タン】
→B-10

363萃まる夢、想い:2009/01/10(土) 13:16:16 ID:OSmySDaI0
申し訳ない、状態表に訂正を加えます

時間:2日目午後20時00分頃】
【場所:I-7 氷川村入り口】

リサ=ヴィクセン
【所持品:鉄芯入りウッドトンファー、支給品一式】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動。栞に対して仲間以上の感情を抱いている。柳川に強い敵対意識】

美坂栞
【所持品:M4カービン(残弾30、予備マガジン×4)、何種類かの薬、支給品一式】
【状態:脇腹に銃傷(命に別状は無い)。リサから射撃を教わった(まだ素人同然だが、狙撃の才能があるかもしれない)。リサに対して仲間以上の感情を抱いている】

緒方英二
【持ち物:ベレッタM92(15/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:健康。首輪の解除、もしくは主催者の情報を集める。リサたちに同行。『大人』として最後まで行動する。栞を連れて逃走】

柳川祐也
【所持品:ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式×2】
【状態:左肩と脇腹の治療は完了、ほぼ回復。椋を見つけ出して殺害する。また、有紀寧、初音、柳川の三人になるまで他全員を殺害し続ける】
【備考:柳川の首輪爆弾のカウントは残り22:00】


【場所:H-8】
【時間:二日目午後:20:00】

神尾晴子
【所持品:H&K VP70(残弾、残り4)、大きなハンマー、支給品一式】
【状態:マーダー。右手に深い刺し傷、左肩を大怪我(どちらも簡易治療済み。痛みはあるものの動けないほどではない)、弥生と共に勝ち残り、観鈴を生き返らせてもらう。氷川村に行く。英二、栞、リサを追跡中】
【備考:蘇生の情報には半信半疑】

篠塚弥生
【持ち物:支給品一式、P-90(20/50)、特殊警棒】
【状態:マーダー。脇腹の辺りに傷(悪化)、晴子と共に勝ち残り、由綺を生き返らせてもらう。氷川村に行く。英二、栞、リサを追跡中】
【備考:蘇生の情報は一応理解を示している】

【その他:弥生と晴子は乗用車に乗っています。ガソリンはほぼ満タン】

364青(7):2009/01/18(日) 22:46:19 ID:Khtiw9Rg0
『青(7) もし夢の終わりに、勇気を持って現実へと踏み出す者がいるとしたら、それは』

 
そこにあったのは、可憐な瞳である。
さやさやと風にそよぐ黄金の麦穂の海の中、じっと蝉丸と光岡を見つめているその瞳の色は、
遥か離れた場所からもそれと分かるほどに深く、重い。

麦穂の中から顔だけを出していたのは、幼い少女であった。
ふくよかな輪郭は紛れもない幼女のそれであったが、しかし超然と蝉丸たちを見つめる表情は
どこか遠い国の哲学者を思わせるように大人びた色を浮かべていて、黄金の海に浮かぶ夜闇の如き瞳と
その身体と表情とのアンバランスとが、何とも言えず奇妙な違和感を醸し出している。
或いは奇異な世界に現れた静穏の海という奇怪の中にあって、その奇妙な少女の在り様は
逆に自然とでも呼べるものであっただろうか。

「……―――」

遠く、黄金の波の向こうで少女が何事かを呟く。
爽々と麦穂をざわめかせる風にかき消されて、その声は蝉丸たちには届かない。

365青(7):2009/01/18(日) 22:47:01 ID:Khtiw9Rg0
「お前は―――」

問いかけようと蝉丸が口を開くと、一際強い風が吹き抜けた。
紡がれかけた問いが風に散らされていく。
尋ねるべきこと、問い質さねばならぬことは幾つもあった。
お前は誰だ。ここは何処だ。全体、何がどうなっている。
そんな問いの全てを遮るように風は吹き抜け、黄金の野原を揺らしていた。

『―――ここは、ぜんぶが終わった場所』

声が、聞こえた。
それは答えだった。
蝉丸の問いに応える、声。
声に出して問うてはいない。
疑念は言葉にならず、風に散らされて消えていった。
それでも、答えは返ってきた。

『何も始まらない時間。もう何も終わらない、何処にも続かない、そんなところ。
 あなたたちがいてはいけない世界』

幼いその声は、音ではない。
蝉丸の耳朶を震わせることのない、それはしかし言葉であり、声だった。
頭蓋に直接響くような、そんな声の持ち主はそれだけを言うと、ふい、と余所を向く。

「待て! ……いや、待ってくれ」

そのまま少女がどこかへ消えてしまいそうな、そんな根拠のない予感に衝き動かされるように、
蝉丸が慌ててその幼い横顔を呼び止める。

「俺たちは望んで此処に足を踏み入れたわけではない。
 元の場所に帰る方法を知っているのなら、教えてはくれないか」

風にかき消されぬように、一語づつに力を込めて言葉を発する。
その様子の何が可笑しかったのか、少女がくすりと笑った。
視線を蝉丸たちの方へと向ける。

『すぐに戻れるよ。この場所とあなたたちは、繋がっていなかったんだから。
 何かの間違いで開いた穴は、すぐに塞がってしまう。そういう風にできているんだよ。
 ……だからあなたも、後ろの人たちも心配しなくても、大丈夫』

366青(7):2009/01/18(日) 22:47:49 ID:Khtiw9Rg0
後ろ、と言われて初めて気づいたように、蝉丸が振り返る。
どこまでも広がるような黄金の麦畑の中、いつからそこにいたのだろうか。
怒っているような、不貞腐れているような、或いは長いこと会わなかった旧い恋人を見つめるような、
ひどく色々な感情の交じり合った顔で、女が二人、立っている。
その遥か向こうにも一つ、人影があった。

「天沢郁未と鹿沼葉子、あれは……水瀬名雪だろう。俺たちのすぐ後からここへ入ってきたようだ」

今更気づいたのか、と言わんばかりに光岡が口を添える。
近くに立つ郁未と葉子、不可視の力と呼ばれる異能を振るう二人の魔女は、同じ色の
深い感情に煙った瞳をこちらへと向けていた。
否、と蝉丸はしかし、すぐに己が認識を改める。
注がれる視線が向けられているのは、前方に立つ蝉丸たちへではなかった。
蝉丸と光岡を通り越した向こう、黄金の野原に顔だけを出していた、幼い少女。
その少女をこそ、二対の瞳は見つめているようだった。

「―――?」

向き直れば、しかしそこにはもう、誰もいない。
麦穂の間から顔だけを出していた少女は、目を離した隙に黄金の海へと潜ってしまったのだろうか、
ただ風にそよぐ波の如き金色の野原だけがそこにあった。

「……」

不可解だ、と蝉丸は思う。少女の存在や言動ではない。
あの幼い少女自身は確かにこの青一色の中に忽然と現れた黄金の麦畑という奇妙な場所に
在るべきものなのだと、そんな確信を抱かせるような雰囲気を纏っていた。
名画と呼ばれる絵のように、在るべき処に在るべきものがある、この場所と一体であるような、
そういう存在であるのだと思わせる何かを、少女はその一瞬の邂逅の中で垣間見せていた。
だが、そうであるならば。
天沢郁未は、鹿沼葉子は少女に何を見たのであったか。
少女の存在がこの場所と一体であるならば、二人は此処を知っていたのか。
この異変を、この奇妙を理解していたものであったか。
そうでないのならば、幼い少女にずっと以前からひどくよく知っていた誰かを見るような、
そんな視線を向けているのが、不可解であった。
初対面の誰かに向けられるものでは決してない、重く、薄暗く、どこか郷愁と悔恨とが
ない交ぜになったような色の瞳の不可解を蝉丸が思った、刹那。

『聞かせて、一つだけ―――あなたの、名前を』

367青(7):2009/01/18(日) 22:48:09 ID:Khtiw9Rg0
さわ、と吹く風に消えぬ、音ならぬ声。
天沢郁未の放つ、それは問いだった。
沈黙が、降りた。
風が金色の野の上を吹き過ぎていく。
長い、長い間を置いて。

『―――この島の』

声が、響いた。
少女は顔を出さない。
ただ風にそよぐ麦穂の向こうから、声だけが返ってきていた。

『この島の一番高いところ。ぜんぶが終わった後で―――待ってる』

それだけが、答えだった。
それきり少女の声は途絶え、再びの沈黙が降りた。

『……郁未さん、あの子供は』

暫くの後、声を発したのは鹿沼葉子である。
何かを気遣うような声音に、天沢郁未が首を振る。

『わかってる。あいつじゃない。わかってる。……だけど、同じ。あいつと、同じ匂いがした』
『そう……感じましたか』

言葉の意味は、蝉丸には判らない。
ただ消えた少女の纏っていた空気、異様の中にある自然とでもいうべき在り様が、
二人の知る誰かと似通っていたのだと、そう理解した。
と、

『―――風が、変わる』

呟かれるような声は、天沢郁未のものでも、鹿沼葉子のものでもない。
遠く、黄金の麦穂の海の向こうで、ぼんやりとあらぬ方を見つめていた女の声。
水瀬名雪。表情を隠すように長い髪を靡かせた女の、それが名であった。
ちらりと横目でこちらを見た名雪の瞳の、どんよりと澱の如き疲労と磨耗とを溜めたそれに
どこかで見覚えがあると蝉丸は思い、思い返し、思い出そうとして、

 ―――ああ、成程。

それが鏡に映る己が顔であると気づいた瞬間、ぐらりと世界が揺らいだ。



******

368青(7):2009/01/18(日) 22:48:47 ID:Khtiw9Rg0
 
 
何処までも続く麦畑。
風にそよぐ黄金の海には、もう誰もいない。
坂神蝉丸も、光岡悟も、砧夕霧も、天沢郁未も、鹿沼葉子も、水瀬名雪も、もういない。
誰もいなくなった麦畑の中心で、少女は一人、黄金の海に潜るように、座り込んでいる。

座り込んだ少女は、じっと何かを見詰めていた。
幼い少女の目の前に横たわる、それは白い裸身である。
女性であった。少女から女へと移り変わる途上にあるような、滑らかな曲線を描くその肢体は
石膏で型を取った像の如く、こ揺るぎもしない。
生きているのか死んでいるのかも判然とせぬその裸身をじっと見詰めながら、少女が静かに口を開いた。

「あたしは、あなた」

そっと手を伸ばし、仮面のように堅く目を閉じた顔に触れる。
愛でるように、懐かしむように、羽毛の風に揺れるが如く、そっと撫で上げながら、謡うように呟く。

「あなたの望むかたち。あなたのみる夢」

短い指が、裸身の髪を梳く。
肩口を越え背中に届こうかという長い髪は細く、まるで夜の内にそっと降り積もり、足跡もつかぬまま
朝の陽を浴びて煌く雪のように、白い。

「あたしは待ってる。ここで待ってる。夢から覚めたあなたが、いつかあたしに会いに来てくれる日を。
 ずっと、ずっと待ってるからね」

少女は知っている。
堅く閉じた瞼の向こうに、輝く瞳のあることを。
その目に意思を宿らせて、駆け抜ける道のあることを。

「だから、さよなら。あたしを生んだ、あたし」

微笑んだ、その眼前。
横たわる裸身が、静かにその色を失っていく。
白い髪が、緩やかな双丘が、黒く染まった腕の輪郭が、風に融けるように薄れ、そうして、消えた。

369青(7):2009/01/18(日) 22:49:09 ID:Khtiw9Rg0
「―――」

裸身が消えてからも、少女は暫くの間、じっと地面を見詰めていた。
佇む者はなく、訪れる者はなく、今度こそ本当に誰もいなくなったように思われた黄金の海の真ん中で、

『……で?』

少女は、問いかける。

『あなたは、どうするの?』

問うた声は、誰に向けられたものかも知れぬ。
見渡す限り人影はなく、見詰める視線の先にはただ黒い土壌だけがあった。

『……そう。なら……いってらっしゃい』

一人語りのように呟かれる、その言葉の消えるか否かの刹那。
ゆらり、と黄金の海に立ち昇る、陽炎の如き何かがあった。
立ち昇り、蒼穹と黄金との狭間に揺らめいたそれが、瞬く間に集まり、縒り合わさって容を成す。
それは、髪のようであった。長く美しい、女の髪。
そしてまた同時に、笑みのようでもあった。頬を吊り上げ牙を剥く、獣の笑み。
哂う女の如くにも、しなやかに美しい獣の如くにも映る影が、ほんの僅かの間を置いて、消えていく。

『―――さようなら』

言葉を最後に、世界が閉じた。



******

370青(7):2009/01/18(日) 22:49:30 ID:Khtiw9Rg0
 
 
時が再び―――動き出す。



******

371青(7):2009/01/18(日) 22:49:56 ID:Khtiw9Rg0
  
【時間:2日目 AM11:40】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:健康】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】
砧夕霧中枢
 【状態:意識不明】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:健康・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】
水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】
川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:???】
来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:???】


【時間:すでに終わっている】
【場所:約束の麦畑】

少女
 【状態:???】

→1019 1022 1026 1028 1029 ルートD-5

372Silent noise:2009/01/20(火) 19:42:15 ID:3tXxynAs0
 燃え盛る炎は雨の中においても弱まることなく、天に届けとばかりに火の粉が吹き上がる。
 暗い山中においても尚赤い威容を示すホテル跡は、沖木島のキャンプファイアーであった。

 一方、雨に濡れながら見上げる影が一つ。
 泥の底を這いずり回った瞳と、不自然なほどに真っ直ぐな直線を描く唇。
 全身を赤黒い色に染める影の名前は、水瀬名雪だった。

 あれでは崩れ落ちるのも時間の問題か。名雪はそう判断してホテル跡に戻るという選択肢を捨てる。
 名雪が潜んでいるのはホテル跡から走って数分ほどの場所にある雑木林の一角だ。
 裏手側にある場所なので目立ちにくく、ブッシュなども多く隠れる場所としては絶好だった。

 当初名雪はここに潜み、勝利者が出てくるのを見計らってその人物を殺害するという計画を立てた。
 漁夫の利。言ってしまえばそういう作戦だ。名雪にとっては手段など関係はなく、結果こそが全て。
 人が死にさえすればどんな方法だろうが、どんなに時間がかかろうが同じことだった。
 故に崩落を始め、火があちこちに回っているホテル跡の惨状を見れば生存者などいないことは明白であり、
 拘る理由は既になくなっている。次の獲物を探してただ殺戮を続けるに徹する。それだけだった。

 立ち上がって歩き出そうとした名雪だったが、膝が揺れ、バランスを崩す。
 咄嗟に手をついて無様に転ぶという失態は犯さなかったものの、自身の異変を名雪は知覚する。
 力が入らない。試しに握り拳を作ってみるが、中途半端にしか握れず、握力を出し切れない。
 血が足りないのだ、と推測する。度重なる戦闘での出血は着実に名雪にダメージを蓄積させていた。

 改めて己の現状を観察する。破片弾によって負わされたかすり傷は無数。
 肩には銃傷がひとつ。ただし刀傷と合わさって傷口は広がり、酷い有様になっている。
 治療を施さなければ大事に至りそうな傷である。けれども名雪は心配することもなかった。
 全てが終われば、祐一が何とかしてくれる。祐一が労ってくれる。祐一が助けてくれる。
 盲目的な慕情を頼りに、何の根拠もなく名雪はそう結論付けた。

373Silent noise:2009/01/20(火) 19:42:39 ID:3tXxynAs0
 名雪にとって、世界は『自分』と『祐一』の二つだけである。
 自分にないものは祐一が持っていて、祐一のないものは自分が持っている。
 まるで兄妹のように。まるでアダムとイヴのように。
 それ以外はそれ以外でしかなく、自分の何になることもない。ただのモノでしかない。

 理屈も論理もない、あまりに夢想に過ぎる思考。狂気というには程遠く、無心というにも当てはまらない。
 唯一近しいというなら、それは『純化』という言葉だろうか。
 正と負。白と黒。まじりけのないモノと染まりきってしまったモノ。
 二極化することで名雪はこれ以上にない純粋を手に入れたのだ。
 恐怖と安楽の狭間で、現実と過去の間で、導き出した結論がこれだった。

 話を戻そう。
 くい、と服の袖を捲くり、他の傷の具合も確認する。裂傷は既にかさぶたを作ることで怪我に対応している。
 深く切り裂かれたわけでもなく、放置してもこちらは支障なさそうだと考え、目下の問題は肩だけだと判断。
 医療器具はない。探す必要性を頭の隅に置き、デイパックから水を取り出すと一気に傷口へとかける。
 僅かに目の端が歪み、痛みを表す表情を示したが作業は止めない。止める理由がないからだ。

 ペットボトルの中身がなくなるまで水をかけ続け、気休め程度の消毒を完了する。
 依然として刺さるような痛みは継続していたが、それだけだ。決定的な行動不能の要因にはならない。
 軽く腕を動かし、どの程度まで動くか実験。痛みの限界まで腕を動かし、
 関節技でも極められなければ問題はないレベルだとして頭に留めておく。

 続いてデイパックから食料として残っていたパンを出し口に放り込む。
 雨に濡れ、ところどころふやけていたパンの味は語るまでもない。けれども名雪は黙々と食べ続ける。
 少しでも血として、肉として吸収し後のために生かす。食べ物に関して、名雪の思考はその程度しかなかった。

「……イチゴサンデー」

 いや、例外はあった。大好物だった洋菓子の名をぽつりと漏らし、再びパンを口に含む。
 暗示のつもりだったが、効果があるわけもなく味は変わらず仕舞い。
 どんなに感情をなくそうと、味覚は変わらない。変わるわけがない。
 けれども暗示に失敗したことすら名雪は何も感じない。ただ失敗に終わったその事実だけを認識して、
 もう二度と洋菓子の名前を呼ぶこともしなくなった。

374Silent noise:2009/01/20(火) 19:43:03 ID:3tXxynAs0
     *     *     *

 デイパックの中のパンがなくなるまで食べた名雪は、再度握り拳を作る。
 今度は指の先まで力が伝わり、一応の元気を取り戻したことを伝える。
 戦闘は可能になったことを頭に入れ、次に装備品の二丁の拳銃を取り出す。

 ジェリコ941と、ワルサーP38アンクルモデル。だが両方共に弾倉は0本であり、
 ジェリコに至っては弾薬がフルロードされてすらいない。ここから戦い抜くには少々戦力不足の面があった。
 だからこそ、武器を増やしに掛かるべく漁夫の利を狙ってホテル跡の裏側に潜んでいたのだが。
 崩落してしまっては奪うどころか、回収することも難しく。まずは他の連中から武器を奪取することを考える。

 殺傷能力の高い武器が欲しい。拳銃の弾倉が手っ取り早く、重量的にも楽ではある。
 だが取らぬ狸の皮算用だとして、一時武器に関しての思考を中断する。今考えるべきは戦術だ。
 拳銃の残弾から言えば相手に出来るのは精々が二人、それも自身の具合からみれば短期決戦が望ましい。
 それも敵の不意をつけるような、奇襲作戦を用いるのがよい。正面からの攻撃策は捨てる。

 ならば、家屋の中にいる連中を狙うのがいい。
 遮蔽物も多く、身を隠しながら狙い撃ちできる利点がある。
 問題は一気に仕留められるかという点だ。遮蔽物が利するのは自分だけではない。
 下手を打てば逃げ延びられる可能性があり、武器の奪取が出来なくなるかもしれない。
 確実に殺人は遂行しなければならない。全ては祐一のため。祐一と自分の世界のため。

 名雪は考える。他に作戦はないか。この作戦に、もっと何かを加えられないか。
 己の知識を総動員し、不意をつく方法を思案する。
 何分かの逡巡の後、いくつかアイデアは浮かんだ。ただ、いずれも確実性には欠ける。

375Silent noise:2009/01/20(火) 19:43:21 ID:3tXxynAs0
 まず、建物から出てきたところを狙い撃ちにするという作戦。先の作戦の延長上にあるもので、
 建物から出てきて、さあ行こうという連中の心の隙をついた作戦だ。
 複数でいる場合も固まって行動しているはずなので上手くいけば数秒で決着がつく。
 難点は外してしまったときで、屋内での奇襲に失敗したときにより逃げられやすくなるということ。
 ハイリスクハイリターン。起死回生の一手ともいうべき策であり、安易に実行するには難がある。

 もうひとつの作戦は他者との出会い頭を叩くというもの。
 戦闘を行うにしろ会話するにしろ、何らかのアクションはあり周囲への警戒は薄れる。
 その間隙を狙って奇襲を仕掛けるというものだ。
 こちらはさほど難点はない。奇襲を仕掛けることにより場の混乱が狙える上、
 接触したもの同士の共食いを誘発できるかもしれない。
 そこで上手く立ち回り、武器を奪取しつつ殲滅すればいい。

 こちらの問題点は上手く尾行できるかという点。レーダーのなくなった今、完璧に尾行出来るか分からない。
 やるからには必ず殺さなければならない。気付かれて逃げられるのだけは阻止せねばならない。
 幸いにして、今は雨だ。尾けるには最適の条件下とは言える。実行するには今がその時だ。
 空を見上げ、雨粒の量を調べてみる。強い雨足ではないものの、長く続きそうな天候だ。

 やや考え、取り敢えずは優先順位を決めることにする。
 尾行、建物内での奇襲、建物外の奇襲、という順番で策を実行することにしよう。
 想像を働かせ、己の中で成功率が高いと決めた順である。
 頭の中でのシミュレートではあるが、間違いはないはずだ。
 そして決めたからには、ただ実行するのみ。

 名雪はそれで思考を打ち切ると、標的を探す機械となって山を下り始める。
 一歩ごとにべちゃべちゃと靴が泥で汚れる。
 枝に軽く引っかかり、服に軽い傷ができる。
 けれどもまるで意に介することもなく、さながら戦車のようにずんずんと進む名雪。
 その先にはただひとつの純然とした、どんな我侭よりも傲慢な願いがあった。

376Silent noise:2009/01/20(火) 19:43:36 ID:3tXxynAs0
 全て殺して。
 全て奪って。

 何にも邪魔させない。
 何にも止められはしない。

 わたしは祐一とだけいられればいい。
 祐一もわたしを強く望んでいるはずだから。

 そう。

 そうだよね?

 待っててくれてるよね?
 わたし、すぐに行くから。
 今度はわざとじゃないよ。
 もうおかえしはしたもんね。

 昔はわたしが。

 今は祐一が。

 ずっと雪の中で待たせるゲームはもうおしまい。
 終わったから、もう何もないよ。
 迎えにいくだけだから。
 だから、一緒に、ふたりでかえろう?

 ね、祐一?

377Silent noise:2009/01/20(火) 19:44:04 ID:3tXxynAs0
【時間:二日目午後20:30】
【場所:F-4 山中】


水瀬名雪
【持ち物:薙刀、ワルサーP38アンクルモデル8/8、防弾性割烹着&頭巾、IMI ジェリコ941(残弾10/14)、青酸カリ入り青いマニキュア、支給品一式】
【状態:肩に刺し傷(銃弾により悪化)、全身に細かい傷、マーダー、祐一以外の全てを抹殺。放送は戦闘の影響で聞き逃した】

→B-10

378ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:46:49 ID:3tXxynAs0
 また……間に合わなかった。

 藤林椋によって投げつけられた火炎瓶の、未だにある炎の残滓を支給品の水で消しつつ、
 藤田浩之は己の胸がずきりと痛むのを感じていた。

 敵はあまりに狡猾だった。だがそれが全てではない。
 おれは遅すぎたんだ。気付くのが……人の中に潜むものに、あまりにも気付かなさ過ぎた。
 悪意だけではなく、善意も。

 椋の狂気に気付けなかったのも自分なら、みさきの不安げな声を気のせいだと目を逸らしたのも自分。
 人の心の中を探ることに、あまりにも臆病であり過ぎた。
 疑うこと自体は決して悪いことじゃない。人の心を知ろうとする行為にしか過ぎない。
 知って、それからどうするかというのはあくまで自分次第。善悪は疑うことで決まるものではない。

 自分はそこにさえたどり着いていなかった。人を疑って、疑心暗鬼になりたくないあまりに、
 信じるという言葉に逃げてしまっていたのだ。それは高尚な行為でもなんでもない、ただの無関心だというのに。
 かったりぃ、昔からこう言って無関心でありすぎた、そのツケが回ってきたということか。

 だが、と浩之は思う。
 今はこうして、ひとりのひとを救えた。
 部屋の隅で体育座りになっている姫百合瑠璃を見る。
 膝に顔を埋め、何も言葉を発しようとせず彼女はうずくまっている。
 当然だ。最愛にしてかけがえのない家族を目の前で失ったのだから。
 彼女の心中に宿る空虚、絶望はどれほどのものか分かりもしないし、完全に理解は出来ないだろう。

 けれどもこうして命を保っている。どんな形であれ、おれにはまだ守れるものがある。
 このままでいいとは微塵も思わない。彼女の心の傷を、少しでも癒してあげたいと浩之は強く思う。
 元の瑠璃に戻れるかは分からない。自分同様、死に慣れてしまい人形になってしまうかもしれない。
 それでもおれは僅かな希望だって持っている。願いの欠片に従って、まだ人間の形を残している。
 こんなに残酷な現実を見てさえ、人はまだ新しい希望を持てるんだ。それを伝えたかった。

379ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:47:12 ID:3tXxynAs0
 最後の火を消すと、家の中はほの暗さに包まれる。
 すっかり日は落ちて、代わりにさあさあとした音を響かせている。
 雨が降り始めたのかと思いながら、浩之は残されたデイパックを漁り、缶詰を取り出す。
 ついで適当に台所を調べ缶切りを発見すると器用に、手際よく、缶詰を開けてゆく。ちなみに中身は桃缶だ。

 半分ほど開けたところで桃缶の中身が顔を出し、白く艶々とした実が甘い芳香をふわりと漂わせる。
 美味しそうだと思った瞬間、ぐうと低い唸り声が聞こえてきた。
 どうやらこんな状況でも腹は空くらしいと苦笑した浩之は誘惑を振り切り一気に桃缶を開けた。
 それと戸棚からフォークの一本を拝借し、桃のひとつに突き刺す。
 桃に深々と刺さったフォークを見て、やはり美味しそうだと思いながら、浩之は瑠璃の元まで寄った。

「瑠璃」
「……」

 呼びかけに反応してか、瑠璃が顔を上げる。意外なことに、その目は虚ろではなかった。
 ただ困っていた。どうしようもなく、途方に暮れた顔だった。
 うずくまっている間に何を考え、どういう結論を得たのか。予想はしても、分かりっこない。
 浩之は訊こうとして、だがおれに出来るのかと逡巡する。

 どういう訊き方をすればいい? 訊いて、どういう言葉を返せばいい?
 自分は情けないくらいに鈍感で不器用だ。希望を見出させるような……あかりや、みさきになれるのだろうか。
 立ち止まりかけて、それでも一歩踏み出そうと浩之は思った。

 ここで止まってしまえば、真っ暗闇の虚無が二人を隔て、二度と近づけぬようになってしまうかもしれない。
 終わりにはしたくない。夕焼けだって見ていないじゃないか。
 まだおれたちは本当の夜明けさえ知らないんだ。見ないままに、分かたれてしまうなんて寂し過ぎる。
 震える心を懸命に堪え、とにかく唇を動かすことにした。

380ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:47:35 ID:3tXxynAs0
「……桃、食べないか?」

 フォークに刺さったままの桃を瑠璃に差し出す。瑠璃は表情を変えないまま、「うん」と言って受け取る。
 そっ、と桃を受け取る手はひどく小さいように感じられた。

「さんちゃん……きっと嫌な予感がしてたんや……だから、これを渡してくれた」

 缶を受け取ったのとは反対の手で、瑠璃が長方形の箱を取り出す。
 金属製のそれは、恐らくはハードディスクなのだろう。殺し合いを、壊す可能性を含んだ箱。
 桃と交換するように瑠璃は差し出す。浩之は優しく、壊れ物を扱う手で受け取る。

 珊瑚は死ぬ直前まで作業していたのだろうか、それとも瑠璃の体温が残っているのか、
 ハードディスクはほの温かかった。いや、きっと両方なのだろうと浩之は思う。
 命を懸けてまで、残した命の形。
 だが無言でしか応えてくれない機械のそれに、浩之は言いようのない悲しさを覚える。

 お前は、こんな形でしか自分の価値を見出せなかったのか?
 そんなことはない、そんなことはないんだ。
 けれどもその言葉は伝えられない、永遠に……

 胸の内に言葉が込み上げる寸前、「美味しいなぁ、これ……」という瑠璃の言葉が耳朶を打ち、
 浩之の言いようの無い思いをかき消した。見ると、瑠璃は相変わらずの困ったような表情だった。

「こんなに悲しいのに、苦しいのに、つらいのに……美味しいものを美味しいって思える……」
「瑠璃……」

 悲しい、苦しい、つらい――言葉を紡ぐ度に瑠璃の顔は壊れそうになり、
 だが何とか押さえ込んでいるようだった。押し隠すようにして。
 疑え、と心の中の己が言っている。疑って、疑って、人の心を知れ。

381ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:48:03 ID:3tXxynAs0
「生きてる、からだろ」

 波紋を呼ぶように、波を立てるように言葉の石を投じる。
 伝わるように、伝えられるように。

「まだ瑠璃は死んじゃいないし、おれも死んで欲しくない。これ以上誰かがいなくなるのは……つらい」

 死に慣れきってしまいながらも、仕方ないんだという一言で済ませたくない気持ちは確かにあった。
 分かったようなふりをして無関心であることの恐ろしさをも知ってしまったからだ。
 それだけではなく、奥底に眠る己の残滓が人間であることを強要させる。
 あかりの声が、みさきの声が、友人達の声が残酷なまでに人間でいさせようとする。
 逃げることを許させない、厳しくも優しすぎる過去が自分を搦めとり、縛り上げていた。

「分かってんねや……浩之も、さんちゃんも、ウチを死なせとうなくて、こうして、助けて……」

 搾り出した声は苦痛に満ちていて、一言一言が瑠璃自身を締め付けているようだった。
 もしかして、と浩之は思う。とっくの昔に気付いていたのではないだろうか。

 珊瑚が意思して瑠璃を苦しめるはずなどない。瑠璃もこうなろうとしたわけではない。
 二人が互いに己の筋を通そうとし、結果として珊瑚が先に筋を通した。
 そして瑠璃は、筋を通せる相手を失ってしまった。

 命を懸けて、大切な家族を守り通すという筋を。悪意などひとつもない、家族を愛するが故の行動だ。
 それが分かっているからこそ、瑠璃は自分に嫌悪しきることも出来ず絶望しきることも出来ない。
 宙ぶらりんに己の約束をつるし上げたまま、先を越された空白感だけが満たされている。
 人形だ。今の瑠璃は、同じ人形だ。尽くすべき主人を失い、だらりと腕を下げた抜け殻でしかない。
 僅かに残る人の思い出を頼りに動いているに過ぎない、哀れな残骸……

 なら、おれが、おれがするべきことは――

382ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:48:33 ID:3tXxynAs0
「でも、一人ぼっちなんや。誰もいなくなってもうて、もうウチ、どないしてええか分からへん」
「……あるさ」

 熱に浮かされたように、浩之はゆっくりと動き瑠璃と同じ視線に移動する。
 座り込んだままの瑠璃の真正面に体を落とし、互いの息がかかりそうなところまで顔を近づける。

 そうだ。お互いに人形であるなら、こうすればいい。
 じっと見据えた先にある瑠璃の瞳は急接近した浩之に動揺し、困惑の色を浮かべていた。

 口を小さくぱくぱくと動かし、けれども何の言葉も持てないまま幼子のようにじっとしている。
 ずっと膝に顔をうずめていたからか、どことなく頬は上気したように赤い。
 永遠とも須臾とも言えぬ間浩之はじっと見つめ――ひとつ行動を起こした。

「ん……っ!?」

 瑠璃に身体を重ねるようにし唇を塞ぐ。
 桃缶がカシャンと音を立てて落ち、汁が足に付着する感触があったが、関係なかった。
 柔らかな瑠璃の唇をついばむようにして貪る。

 最初こそ身を硬くしていた瑠璃だったが、次第に力を抜き浩之に委ねてくるようにしてくる。
 肯定の意思と受け取った浩之は一度唇を離すと、両の手で瑠璃の頬を、髪を慈しむように撫でる。
 温かい。熱を帯びて頬を赤くしている瑠璃を可愛らしい、と思いつつ顔への愛撫を続ける。

「浩之……ええの?」
「……何がだよ」

 行為を受け入れながらも、まだ困惑を残している瑠璃に浩之は出来るだけ、内心の緊張を抑えつつ返す。
 実のところ頭が沸騰しきっていて、キスをしていたという実感がない。
 身体は今にも震えそうで、心臓は今にも破裂しそうな程鼓動を強めている。
 それに、潤んだ瑠璃の瞳を見れば……緊張しない方がおかしい。
 戸惑いを残したままの瑠璃が、視線を揺らしながら口を開く。

383ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:48:54 ID:3tXxynAs0
「だって、浩之はみさきさんが」
「違う」

 それは、違う。もう一度そう言って、浩之は額を瑠璃の額に押し付けた。
 吐息から、体温から互いの心を探るように。全てを知る事ができるように。二人は可能な限り近づく。

「みさきは、みさきには……振られたんだ」

 一片の嘘もなく、浩之は残った心の全てを打ち明ける。
 伝えなければ、気付かなければ同じだ。今のみさきは恋人などではなく、
 心の断片を形成している思い出にしか過ぎない。
 想っていなかったとは言わない。だがもうどうしようもない以上、
 恋情も愛情も確かめることなど出来はしないのも、また事実だ。

 だから、おれは……今目の前にある、辛苦も困難も共にしてきた彼女を大切にしたいと思える。
 お互いに筋を通しあえる、心を通わせられる存在にしたいと思える。
 それが千切れてしまった糸を繋ぎ合わせただけの、みっともない行為で、傷を舐め合う行為だとしても。

「おれは……瑠璃が好きだ」
「……ウチ、ダメな子やよ? 何も出来へんかったのに、こんな、狡い……」
「おれだって狡いさ。いきなり、その……キスしちまった……」
「おあいこ……か」

 くす、と瑠璃が初めて微笑を浮かべる。一片の曇りもない、とまではいかないが、
 共に生きていける者を見出した、安心感のようなものが見受けられた。
 微笑を返した浩之に、今度は瑠璃が腕を首に回してくる。

 二人の身体が更に密着し、突き合わせた胸と胸から鼓動が伝わりあう。
 が、そのペースは異様なほど速い。どうやら緊張しているのはお互い様のようだ。
 僅かに苦笑しながら、再び唇を重ねる。今度はより深く、やさしく。

384ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:49:14 ID:3tXxynAs0
「んっ……ひろゆき……」

 瑠璃が舌を差し入れ、浩之も一瞬驚きつつそれに応える。
 ぴちゃ、にちゃという生々しい、それでいて淫靡な音が荒れ果てた家屋に響く。
 唾液を絡ませ合い、零れないように舌で掬い、口内を撫でる。
 それだけでは足らぬというように、指と指を、脚と脚を絡める。
 高まっていく二人の間に漏れる声音は、初々しく、甘やかで、官能的だった。

「っ……ぁ、んん……ぅ」
「ぁぅ……ふ……は……」

 舌で刺激を与え合い、漏れる吐息で温め合い、汗を手のひらで吸い取っていく。
 何ともいえない息苦しさと霞んでいく意識の中で、ただ心地よさを感じていた。
 こんなにも気持ちいい。互いを繋ぐ行為が、どうしようもなく求めたくなる。

 絡めていた指を離し、腕を瑠璃の背に、抱くようにして回す。
 制服越しに伝わる柔らかな身体の感触が、いやらしいほどに艶かしい。
 五つの指と五つの指を全て使うようにして、瑠璃の背をなぞる。
 滑らかな、丸みを帯びた身体のラインを指がすべるたび、もっと感じたいという衝動が込み上げる。

「ん……やぁ……っ」

 くすぐったいというように、瑠璃が唇を離し身じろぎする。
 片目をつぶり、口もとから糸のような唾液を垂らす。
 ひどく卑猥なように思える一方、ひとりの女の子として腕の中に納まる瑠璃が愛おしくてたまらない。

385ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:49:29 ID:3tXxynAs0
 更に弄ろうとした浩之に、今度は瑠璃の腕が回された。
 お返し、と意趣返しの如く、細い指の群れが浩之の背中を這い回る。
 筆でなぞられる感覚に似ていた。ゾクリとした快楽が駆け回り、
 同時に押し付けられた二つのふくらみが浩之の胸板を刺激する。

「ひろゆき……きもちいい?」

 甘く囁く瑠璃の、快感を含んだ声。動く唇からは透明な液体が張り付いており、
 彼女の蟲惑的な一面を助長しているようであった。ああ、と浩之は応える。

「もっと、していいか?」

 正直に差し出された言葉に「ん」と瑠璃が頷いて応じる。
 その挙動がまた、可愛らしくてたまらなかった。

 もっと知りたい。心の中を、じっと……

 二人の唇がまた重なるのに、それほど時間はかからなかった。

 穏やかで、癒しあう時間だけが、ただ過ぎていく――

386ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:49:48 ID:3tXxynAs0
     *     *     *

 まだ体は驚くほどに熱く、火照っている。
 唇に残る湿った感触を指でなぞりながら、瑠璃は浩之への思いと、家族への思いを考えていた。

 この選択を珊瑚は、イルファは果たしてどう思っているだろうか。
 考えても分かるわけはなかったが、それでも想像してしまう。
 亡くなってしまったひとと対話することなど、黄泉の国にでも行かねば出来ないというのに。

 無論、そんなものが存在するわけがないというのは理解しきっている。
 あったとしても逃げ込むことさえ自分には許されてはいない。
 命を張った珊瑚やイルファ、浩之を侮辱してしまう事に他ならないし、自分の節をも曲げてしまう。
 そうなってしまえば、もう何も残らない。虚無の闇に喰われ意義も意味も失った残骸が残るだけだ。

 最悪の選択だけはするまいと瑠璃は思う。
 珊瑚が犠牲になったのも、イルファを置き去りにしたままここまで来てしまったのも必然だったのかもしれない。
 ただそこに至るまでに様々な選択肢があったのは確かだ。
 環の手を払いのけてしまったこともしかり。珊瑚の代わりに死ねなかったこともしかり……

 始めから明るい未来など望むべくもなかった。けれどもそこに続くレールの先を僅かにでも修正はできたはずだ。
 今までそれをしてこなかった結果がイルファの死であり、珊瑚の死であり、たくさんの仲間の死だ。
 そして現在もまだレールは続いていて、自分はその上を歩き続けている。
 先は闇に閉ざされていてどうなっているのかはわからない。ここから僅かにでも修正を重ねていって、
 落とし穴を避けられるかどうかは自分次第というわけだ。その道標は目の前にある。

 視線を上げた先では、浩之が珊瑚と環の遺体に毛布をかけてやり、いくつかの缶詰を傍らに添えている。
 浩之の後姿はどこか寂しげで、空白で、自分と似ていた。

387ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:50:09 ID:3tXxynAs0
 そう、だから手を取り合って進むことを決めた。
 ひとりではレールの先を微修正することすら出来ず、どうしようもなく無力なのが人間なら、
 互いに補い合い、支えあいながら力を合わせて変えていこうとするのも人間。
 自分達の場合は辿り着くまでに多大な時間と労力を要し、その代償となったのが様々な人の犠牲というわけだ。
 そのことだけは忘れない。大切なひとを見つけ、心を触れ合わせるまでに大きすぎる犠牲があったということを……

 ふと、瑠璃はみさきのことを想った。
 恐らくは浩之が淡い気持ちを抱いていた相手であり、彼女もまた想っていたはずのひと。

 みさきは狡い、と思うだろうか。
 誰かと繋がってでしか希望を見出せない自分を汚いと思うだろうか。
 この問いもやはり分かるわけがない。
 ただ絶対に浩之を底無しの闇に堕としはしない。
 繋がってでしか希望を持てないなら、死に物狂いで手を離さない。
 そうすることでしか自分は自分の節を通せないのだから……

 何と言われようとやり通す。それだけを思った瞬間、風に乗って声が聞こえた。

 『わたしと同じだね……うん、なら、大丈夫だよ』

 虚を突かれた思いで瑠璃は周りを見渡した。
 風など吹いているはずがない。ここは部屋の中で、閉め切っているのに。
 それに、あの声は一体?

 耳を澄ましてみても聞こえてくるのは雨音ばかりで声など聞こえるはずもない。
 空耳か、それとも幻聴か。
 どんな声だったかさえ既に思い出せなかった。ただひとつ、代わりに思い出したことがあった。

「……みさきさんも、ずっと手を繋いでた。誰かと、繋がってた……」

 手のひらを見返し、瑠璃はまだじっとりと汗ばんでいるそれを凝視する。
 繋ぎ合わせてくれたのは、ひょっとすると……

388ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:50:23 ID:3tXxynAs0
 ぼんやりとした確信が生まれ始めたとき、今度は空耳でも幻聴でもない、現実を揺らす音が聞こえた。
 ぱん、と弾けたような音が雨音に乗って反響するように届く。
 何であるかを、瑠璃は直感的に察して言葉にしていた。

「今の……」
「銃声かっ!?」

 共鳴するかのように浩之が立ち上がり、窓から外の世界を見ていた。
 瑠璃も窓から覗いてみたが、まだ広がるのは雨と森ばかりで戦闘の気配は見えない。
 だがじわじわと広がっていく恐怖と恐怖、人と人とが共食いを始める狂気の靄が立ち込めていくのが分かる。
 こんなことをする人間は、知る限りでは一人しかいない。

「行くぞ瑠璃っ! これ以上好き勝手させてたまるかっ!」
「うん! もう誰も殺させへん!」

 投げられたデイパックを受け取り、携帯型レーザー式誘導装置を引っ張り出す。
 これを使うことに迷いはない。恐れもない。絶対に手を離さないと決意した意思が全身の血液を沸騰させ、
 前へ前へと押し出す力へと変えていた。

 自分には支えてくれる人達がいる。力を合わせて進むと決めた人がいる。
 この先の未来がどんなに暗く、翳りのあるものだとしても、絶対に一緒だ。
 死んでさえ、手は握ったままでいられるように。

 どこまでも。
 どこまでも。


 二人の糸は、絡み合っていた。

389ひだりてみぎて:2009/01/20(火) 19:50:41 ID:3tXxynAs0
【時間:二日目20:00頃】
【場所:I-5】


姫百合瑠璃
【持ち物:デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数3、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、殺虫剤、レミントン(M700)装弾数(5/5)・予備弾丸(12/15)、火炎瓶、HDD、工具箱】
【状態:絶望、でも進む。守腹部に数度に渡る重大な打撲(手当て済み)】

【その他:珊瑚の水、食料等は均等に分けている。銃声のした方向(I-7)まで急行】

→B-10

390十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 02:57:57 ID:/qw7egEw0
 
それは、幼い顔である。
ゆっくりと目を開けた川澄舞の視界を満たした光が、瞳孔の引き絞られるに従って薄れていく。
代わりに映ったのは、まだ幼さを残した年頃の少女の、能面の如き無表情であった。
襤褸切れのような服を纏い、血と泥とに汚れた姿には見る影もないが、かつてはその美しさを
可憐と称えられもしただろうと思わせる、儚げな面立ちである。
だがその整った顔立ちには、致命的なまでに均衡を崩す大きな瑕疵があった。
左の眼である。
ざっくりと裂けた瞼の下、一見して視力など存在しないとわかる白く濁った眼球が、
少女の容貌の中で異彩を放っていた。

「―――」

己を覗き込むその隻眼を見返した舞の脳裏に去来したのは、寂莫たる荒野である。
花は咲かず、草木の緑に潤うこともない、荒涼たる原野。
間断なく吹き荒ぶ風と凍てつく夜の寒さが彷徨う者の命を削り取っていく、道なき道。
そう感じるほどに、少女の瞳は乾いていた。

「貴女は……私の敵ですか」

寂莫たる少女の、そこだけが艶かしい桃色をした薄い唇が動き、言葉を生じる。
それが問いであると、舞が認識するまでに僅かな時を要した。

「……わからない」

回らぬ舌と、ぼんやりとした脳とが素直な答えを返す。
それは実に数時間を経て放たれた、川澄舞の声であった。
言語が意識を構築し、意識が記憶を展開する。
脳が現状の認識に務め始めたのを感じる舞を一瞥し、少女が頷く。

391十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 02:58:59 ID:/qw7egEw0
「そう……ですか」

素っ気無く呟くと、興味を失ったように視線を離す。
目を逸らしたまま、言葉を続けた。

「柏木の他で……女性の鬼を見たのは、初めてだったから」
「……鬼?」
「その、腕」

短い答えに、ゆっくりと身を起こした舞が、己が腕に視線を落とす。
そうして初めて、自らの身体に生じた異変とも呼ぶべき変化に気がついた。

「これ……」

左腕、その肘から先が手首を越えて指先まで、黒く変色している。
まるで酷く焼け焦げた痕のようであったが、しかし思わず握った手の動きにおかしなところはない。
触覚も生きていた。ざらざらと罅割れた鱗状の皮膚を通して、微かな風の冷たさを感じることもできる。

「鬼の、手……」
「……はい。爪も……」
「爪……?」

呟いて、意識した途端に変化が現れた。
変色した左手の指先から、撥条仕掛けでもあるかのように何か鋭いものが飛び出したのである。
どくり、と脈打つ血の流れをそのまま固めたような、深い紅。
刃の如き鋭利を誇る、それは獣とも人とも違う、五本の爪。
指の動きに合わせてゆらりと揺れる深紅の刃を見ている内に、ぞくりと怖気が走る。
惹き込まれるような、妖艶の美。
畏れに近い感情は、本能であっただろうか。
刹那、刃の如き爪はするりと縮まり、指先に収まった。
が、怖気は続いている。

392十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 02:59:15 ID:/qw7egEw0
「……寒い」

気付けば、一糸纏わぬ姿であった。
着込んでいたはずの制服はどこに置いてきたものか。
慌てて剥き出しの乳房や下の翳りを隠すような、乙女じみた恥じらいなど持ち合わせてはいなかったが、
しかしそれなりの気恥ずかしさと、何より肌寒さが厄介だった。
天頂に近い陽光をもってしても、吹き抜ける風の強さには敵わない。
ぶるり、と震えたその拍子に、新たな変化が訪れた。

「毛皮……?」

訝しげに呟いたのは傍らに立つ少女である。
言葉の通り、瞬く間に舞の身体を包んでいたのは、白い毛並みであった。
胸と腹、背から膝上までを、白く長い体毛が覆い尽くしている。
指先でそっと撫でれば絡まることもなくふさふさとしているが、一本づつを摘めば驚くほどに太く、
そして針金のように強い感触を返してくる。

「髪と……同じ色」

言われて、気付く。
胸元に垂れ落ちる横髪の先は、生え揃った体毛に溶け込むように、白い。
さら、と首を打ち振るうと、纏めていたリボンもなくなっているようで、背中まで伸びた長い髪が流れる。
指で掬えば、真新しい絹糸の束のように、白く細く、陽光を反射して煌いた。

「……」

まとまらぬ頭で考える。
服はなく、髪の色は失われ、身体には奇妙な変化が現れている。
記憶はない。
憶えているのは、夜明けの森に降りしきる雨の冷たさ。
鬼と呼ぶに相応しい漆黒の巨躯と、二体の魔獣。
打ち込んだ刀の堅い手応えと、燃え上がる焔の色と、小さな哀願。
そういえば、と舞は思う。
黒く染まったこの左手は、あの鬼との闘いの最中に自ら切り落としたのではなかったか。
幾つも負っていた筈の深い傷も、痛みと共に消え去っている。
してみれば、はて意識を喪っている間に、この身体に全体、何があったのだろうか。

393十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 02:59:32 ID:/qw7egEw0
目を閉じる。
一時的に訪れた闇の中、記憶を遡ろうと己が内側に向けて目を凝らした。
何も、見えぬ。
無明の闇はしかし、静謐を意味しない。
闇を泳ぐ舞の意識を押し潰さんばかりの音が、四方八方から響いている。
音は、連なりである。
雫ともいうべき小さな音の断片が、幾つも連なって細い糸の如く列を成す。
糸は縒り合わさってせせらぎとなり、せせらぎが集まって流れを作る。
幾つもの流れはやがて溶け合って川となり、瀑布となり、大河となって渦を巻く。
音の渦が壁となって、無限の連なりの中で闇を圧迫する。
川澄舞の内側を支配する音は、元を辿れば小さな断片であった。
音の奔流に流され、押し潰されながら、舞は砕けた波濤の飛沫をその手に掴む。
掴んで引き寄せ、耳元に当てた。
流れ出す音に、意味は感じられぬ。
感じられぬ音を捨て、新たな飛沫を掴み取って、幾つも幾つも、耳に押し当てた。
そうする内、言葉が、響いた。


 ―――ずっと、ずっと待ってるから。だから、さよなら。

 ―――ありがとうよ。

 ―――君は、生きたいか?


目を、開けた。
言葉の断片は、掴んだ傍から崩れていって、記憶の手掛かりとなり得ない。
断片を嵌める額縁は広すぎて、幾つの欠片を集めても、全体像は掴めない。
掴めぬまま繋ぎ合わせた不恰好な絵柄は、到底記憶と呼べる過去には届かない。
しかし思い返す内、気付いたこともある。
それは、川澄舞が如何にして鬼と相食むが如き闘いに臨んだかという、その理由であった。
死という喪失を否定し、命を取り戻す為の道程。
それを齎す四つの宝重を手にすべく歩み出したのが、そもそもの始まりであった。
そして今、記憶は辿れぬが宝の半分は文字通り、舞の手の中にあった。
即ち鬼の手と、白虎の毛皮である。

394十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 02:59:51 ID:/qw7egEw0
依然、何も判らぬ。
判らぬは目を逸らすが川澄舞という人間の性分であったが、しかしぼんやりとした意識の中、
漠然とした理解はあった。
生きたいかと問われ、応じた。問い手は知れぬ。
応じた声の、誰に届いたものかは知れぬ。
しかしその結果として命と力と、即ち今という時間を生きる川澄舞が存在する。
志半ばにして倒れながらも今こうして生きている、それこそが自身であるならば、
この鬼の手も白い毛並みも、道は知れずとも川澄舞という存在の一であろう。
言葉にすれば、そういう認識である。
ならば、立たねばならぬ。
立って残りの宝を探し出し、その手に掴んで帰らねばならぬ。
そうして立ち上がろうとした刹那、不意に声が響いた。


 ―――帰って、取り戻すんだ。帰って、笑うんだ。帰って、私たちは、


それは、耳朶を震わせる声ではない。
それは舞の内側、闇と音とに包まれて探り得ぬ薄暗いどこかから響く、そんな声であった。
くらりと、目が眩む。
眩んだ拍子に手をついた、その眼前に何かがあった。
風に吹かれて僅かに転がり、小さく硬い音を立てる、陽光を反射して輝く何か。
それはまるで子供の遊ぶ硝子玉のような、透き通った、丸い珠である。

「―――」

視線が、吸い込まれる。
掌に収まるほどの大きさをした、珠。
得体は知れない。
しかし、不思議と目を離すことは許されぬような、そんな感覚が舞を支配していた。
手に取って見ようと差し出した指の先、吹いた風に押されて珠が転がった。
追うように、手を伸ばす。

395十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:00:14 ID:/qw7egEw0
「……?」

伸ばした手の先、珠の転がった先に、光があった。
黄金色の光。
そんな光に包まれて、何かが珠に向けて伸びている。
目を凝らして、ほんの僅かに考えて、それが指であると気付く。
己のものではない、誰かの指。
よく見れば、指が光に包まれているのではない。
陽光に照らされて眩しく光る黄金色の手甲を、その手は纏っていたのだった。
珠に向かって伸ばされた黄金の手甲をした指は、ぴくりとも動かない。
指の先には、腕がなかった。
否、腕と呼べるものは、そこになかった。
代わりにあったのは、かつて腕であっただろう、何かである。
黄金の鎧と交じり合って赤黒く、ところどころに桃色を覗かせるそれは、骸であった。

骸の指は、珠に伸ばされたまま、動かない。
動かぬ骸を見つめ、舞が口を開く。
何かを、言わねばならぬ気がした。
だが言葉は出てこない。
記憶の薄暗がりの中、存在していたはずのかけるべき言葉は、どこにも見当たらない。

代わりに、手を伸ばした。
伸ばして珠を取らず、それを通り越して骸に手をかける。
まだ温かい、粘性の感触を無視してそのまま、ごろりと骸を転がした。
べちゃりべちゃりと嫌な音がして、肉の袋の中にまだ残っていた血だまりが転がった拍子に溢れ、
舞の白い膝を汚した。
どうしてそんなことをしたのか、舞自身にも判らない。
判らないまま、舞は転がった骸の、鎧であったものと肉であったものの合挽きの中に
黒く染まった左の手を差し入れて、無造作に何かを掴み出した。
ずるり、と臓物のように肉の中から引きずり出されたのは、人の腕ほどもある太さの、
縄のような長細いものである。

396十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:00:29 ID:/qw7egEw0
「……」

自ら引きずり出しておきながら、舞は己が手の中にあるそれを、目を眇めて見ている。
だらりと垂れ下がるそれが、半ばから千切られた蛇の体であることを、舞は知っていた。
何故そんなことを知っていたのか、何故それが骸の中にあると知っていたのか、それは判らぬ。
判らぬが、知っていた。或いは憶えていた。そう言うより他にない。
失われた記憶、或いは断絶した時の中に答えがあるのだと、理解する。
それほど自然に、手は伸びていた。

「―――」

転がった珠を拾い、蛇と共に手に収めた。
すると不思議なことに、蛇と珠とが、すう、とその輪郭を薄れさせていく。
己が黒い左手に吸い込まるように消えていく、その珠と蛇とを、舞は慌てることもなく見ている。
蛇が魔犬の尾であり、珠が尻子玉であるというのなら、それは奇跡へと至る神秘であり、
収まるべき場所に収まるのだろうと、そんな風に考えていた。
そうして宝重が音もなくその姿を消すまでの僅かな間、舞はそれを見つめていた。

「……」

最後に一目、黄金に包まれた骸と、伸ばされた指を見た。
それが、最後だった。
川澄舞が黄金の骸に小さく頭を下げた、その瞬間。
四つの至宝を巡る争いが、終わった。


***

397十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:01:02 ID:/qw7egEw0
 
それは、長い道程の終わりの、ほんの一時の感慨であった。

「―――貴女が、敵でないのなら」

声が、思索の薄布を切り裂いた。
気付けば、骸の血に塗れた手を見つめる姿をどう思ったか、少女は既に舞に顔を向けてはいない。
その隻眼が見据えていたのは、遥か上方である。
何処から取り出したものか、その手には一振りの日本刀を提げていた。

「あ……」

舞が、声を上げかける。
その精緻な造りと冷たい光を放つ刃は、今しがた掘り起こした記憶の中にあったように、思えた。
しかしその思考が言語の体を成す前に、少女が己の言葉を継いだ。

「―――やはり私の敵は……あれでしょうか」

あれ、とは何であったか。
口を閉ざして見上げた、舞の視界に落ちる影があった。
影は、巨大である。

「……っ!」

瞬く間に視界の殆どを覆い尽くしたそれが、風を巻いて、落ちてきた。
ざわ、と全身の毛が逆立つのを感じた瞬間、舞の両足に力が込められる。
大地を噛むように、跳ぶ。
轟、と風が唸る。
次の刹那、背後で音が爆ぜた。
否、爆ぜたのは音ばかりではない。
大地が、破砕されていた。
抉られた岩盤が一瞬にして砂礫と化し、爆風と共に周囲に飛散する。
跳んだ舞が受身と共に振り返れば、大地を爆砕した巨大な影の正体が、その目に映った。

398十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:01:19 ID:/qw7egEw0
「剣……」

それは、一見すれば巨大な柱のようであり、或いは金属製の壁のようでもあった。
遥か遠くから俯瞰すれば剣とも見えなくはない、それほどに、大きい。
人など容易く磨り潰してしまえるような、殆ど反りのない片刃の直刀。
大地にめり込んだ常識はずれの大きさを誇示するそれが、落ちた影の姿であった。
剣の先には、それを持つ石造りのやはり巨大な手が存在した。
更に見上げれば腕があり、肩があり、胸が、首が、それらを繋ぎ合わせた巨大な石像の上半身が、そこにあった。
石像は幾つも立ち並んでいるようであったが、舞の眼前に聳えるそれには一つ、他と違う点がある。
その像は舞に向けて振り下ろした刃を、片手で保持していた。
それはつまり、もう片方の手が自由であることを意味しており。
自由な手には、もう一振りの刃が握られていた。

「まだ……!」

気付いた瞬間には跳び退っている。
二刀の一が、大地を浚うように薙がれていた。
刃はその一遍に視界に入れることも難しい全長と質量にもかかわらず、恐るべき速さで迫り来る。
二度、三度と跳び下がり、しかしその間合いから逃れることの叶わぬを知った舞が選んだ道は、空であった。
地を蹴った、次の瞬間には蒼穹に向けて高々と舞い上がっている。
空を翔るような軌道。
遥か下方を巨大な刃が薙いでいくのが見えた。

「……!?」

常軌を逸したその脚力にしかし、最も驚愕していたのは他ならぬ舞自身である。
迫る刃を上に跳んで躱す、それだけのつもりであった。
しかし今、舞の目が映すのは蒼穹と大地と、巨大な石像を正面から見るような構図。
爆発的とすら言える力が、いつの間にか舞の中にあった。
身につけた覚えのない力。人の身に余るそれを制御する術を、舞は知らない。
焦燥に噴き出した汗が、空に散っていく。
と、肌に感じる風が変わった。
跳躍の描く放物線の頂点を越え、重力に引かれて落下軌道に入る感覚。
臓腑が浮き上がるような悪寒に眉を顰めたのも一瞬である。
新たな戦慄が、走った。

399十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:01:42 ID:/qw7egEw0
「……っ!」

二刀とは、自在の軌道を以って間断なき斬撃を繰り出す構えである。
一の太刀は振り下ろされ、二の太刀は地を薙ぎ、しかし薙いだ刃の往き戻るより早く、
即ち二の太刀を躱した舞の、体勢を立て直すよりも尚、早く。
振り下ろされた一の太刀は、次なる一撃を繰り出すことが、可能であった。

躱せぬ。
中空にある舞は、四方の如何なる場にも身を躱す術がない。
ただ放物線を描き、落ちゆくのみである。
巨大な刃がそれを捉え、文字通りの意味で粉砕せしめるのは、実に容易であった。
少なくとも舞の脳裏には、その未来図がありありと描き出されていた。
絶望はない。同時にまた、希望もなかった。
揺るがぬ必然から身を守るように腕を翳した、その眼前。

「―――失礼します」

飛び出した影が、ひどく場違いな言葉を舞に投げかけると同時。
影の脚が、舞を蹴った。
否、と強引に軌道を変えられた衝撃の中で、舞は気付く。
影―――あの隻眼の少女は、己を踏み台にしたのだ、と。
己を刃から逃すのと共に、少女自身は能動的な回避、或いは反撃へと移る為に。
轟と唸る風の中、着地というよりは落下に近い勢いで、舞は地面へと降り立つ。
見上げれば、果たして空を裂く刃と切り結ぼうとする、豆粒の如き少女の姿があった。

舞は瞠目する。
その大きさにおいても重量においても文字通り比較にならぬ、その影が交錯した瞬間、
正面から刃を交えたと見えた少女が、くるりと身を捻ったのである。
翳した刀を支点として、猛烈な勢いで大気を裂きながら迫る巨大な刃をいなすように宙を舞ってみせた、
それは神業と称されるに相応しい体術であった。
にもかかわらず、舞は不思議な感慨を抱く。
即ち―――まるで、猫のようだ、と。
木の枝から、垣根の上から身を躍らせる、しなやかな黒猫。
焦燥も、戦慄も、緊張も緊迫も切迫もなく、何気なく伸びをした次の瞬間であるとでもいうような、
それはひどく優雅で、恐ろしく気負いのない、身のこなしであった。

必殺の一撃をやり過ごされた石像が、大きく姿勢を崩した。
下肢を巨大な台座に埋めながら身を捩る石像をちらりと見て、少女が落下の軌道に入る。
ふわり、と。
破壊の剣閃をいなしながら、白い羽毛が風に吹かれるようにただ舞い上がった少女は、
その勢いを殺さぬまま大地へと降りてきた。
くるり、くるりとトンボを切って、舞の近くに音もなく着地した、その身に傷らしい傷はない。

400十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:02:12 ID:/qw7egEw0
「あ……」

思わず声を漏らした舞に、少女が振り向く。
少女の瞑れて濁った眼に白髪黒腕の変わり果てた己の姿が映るのを見ながら、舞が小さく頭を下げる。
言葉を返すこともなく微かに首を振った少女が、思い出したように口を開いた。

「……そういえば、先程」
「……?」
「何か……言いかけて」

互いに口数は少ない。
情報の伝達には、些かの難があった。
何のことかと一瞬だけ考えて、思い至る。

「……それ」

呟くように告げて視線を向けたのは、少女の手に握られた刀である。
一つ、二つと瞬きをした、少女が僅かに首を傾げ、

「あなたの……」

答えを待たずにこくりと頷いて、

「……拾った、から」

呟くや、抜き身のまま投げて寄越した。
慌てたのは受け止めた舞である。

「でも……そっちは」
「私は……柏木の、鬼だから」

言いざま、少女の細腕が黒く染まっていく。
べきり、と音を立てたその手が一回り膨張し、見る間に節くれ立った指の先から生えてきたのは、
血の色をした刃の爪である。

401十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:02:29 ID:/qw7egEw0
「名前を訊いても……いいですか」
「……名前」
「あなたも、鬼……なのでしょう」
「……」
「私は柏木。柏木楓……隆山の、鬼」
「……舞。川澄……舞」

つられるように、名を告げていた。
少女の言うそれが何であるのか、舞には判らない。
だが、化物と呼ばれたことはあった。
人の生きる街の中で、異能は、異形であった。
であれば己もまた、鬼と渾名されるに相応しい異形に違いはなかった。

「舞……さん」

名を呼ばれた、その刹那。

「―――ッ!?」

きぃん、と。
硝子でできた無数の鈴がかき鳴らされるような、細く甲高い音が、響いた。
耳朶を劈くような音に眉を顰めると同時。
思考を無視し、感情を寸断し、まるで映画の途中で唐突に挿入される宣伝のように。
舞の脳裏を、一枚の映像が支配する。

―――海に囲まれた島と、その中央に位置する山。
―――山頂に顕れた銀色の湖と、それを取り囲むように立つ、八体の石像。

それは、遥か上空から一望した、沖木島山頂。
即ち、舞自身の立つこの場所と、正面に聳え立つ巨大な石像群に、他ならなかった。
あらゆる論理を押し退けて割り込んできたようなその映像の意味を考える前に、

『―――國軍、坂神蝉丸。青の世界を知るすべての者に傾聴願う―――』

音ならぬ声が、聞こえた。

402十一時四十分(3)/偶然がいくつも重なり合って:2009/01/22(木) 03:02:40 ID:/qw7egEw0
【時間:2日目 AM11:43】
【場所:F−5 神塚山山頂】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、軽傷、左目失明(治癒中)】

深山雪見
 【状態:死亡】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体18000体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【エルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:健在】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→973 1029 1034 ルートD-5

403十一時四十一分/聞こえそうな鼓動が:2009/01/24(土) 16:58:59 ID:wnpWE7620
 
大剣が裂くのは、空と大地と、その狭間に存在する何もかもである。
風を断ち割り音をすら切り伏せて唸る、それは破壊という現象の具現であった。
触れれば砕ける、そんな一刀の肉薄に坂神蝉丸が選んだのは、更なる加速である。
振り返らぬ背後、大剣の切っ先の落ちた地面が割れ砕け、砂礫を舞い上げるのを感じる。
岩盤を噛んでなお止まらぬ巨大な刃が、鎬を大地に食い込ませながら迫る。
頭上より落ちる断頭の刃との、それは命懸けの駆け比べである。
駆ける先、無骨な鍔が見えてくる。
人が両手を広げるのにも数倍する大きさの、それ自体が鋼鉄の延べ板とでもいうべき四角い鍔の向こうには、
やはり大の大人を容易く握り潰せるほどの巨大な手指があった。
石造りのそれを確認するや否や、蝉丸は疾走の勢いのまま跳躍する。
狙うは頭上、巨石像の大剣を持つ指。
仙命樹によって強化された筋肉が躍動し、白髪の強化兵を大空の彼方へと押し上げる。
その背に翼のあるが如く跳んだ蝉丸の目に映る巨神像の拳が、瞬く間に大きくなっていく。
放物線を描く跳躍の頂点、速度を高度へと変換しきった、その瞬間。
片手一本で構えた愛刀を、振るう。
が。

「―――チィ……ッ!」

届かぬ。
閃いた銀弧は、僅かに巨神の指を掠めるのみ。
舌打ちをしながら落ちる蝉丸は、その左の腕に何か大きなものを抱いている。
それを抱え直すようにしながら着地した、蝉丸の背に響く怒声があった。

「坂神、貴様……!」

見ずとも判る。
光岡悟の、それは心底から憤っているような声である。

「それを庇ったままで戦える相手か!」

404十一時四十一分/聞こえそうな鼓動が:2009/01/24(土) 16:59:24 ID:wnpWE7620
光岡が相手にしているのは蝉丸が対峙する大剣の女神像の隣に立つ、髪の長い有翼の女神像である。
白い光球を銃弾の如く放つそれを牽制しつつ隙を窺っているはずだった。
互いに背中を預けた格好の光岡の不安と憤りは理解もできる。

「分かっている、しかし……!」

言い返しながら、蝉丸は抱きかかえたそれをちらりと見る。
ぐったりとした、生きているのか死んでいるのかも判然としない、白い肢体。
蝉丸によって軍服の上衣を着せ掛けられただけのあられもない姿をした、それは少女である。
名を、砧夕霧という。
沖木島全土に展開し死と破壊を撒き散らした少女たちの、最後の生き残りであった。

「捨て置けというのに!」
「聞けぬだろう、それは!」

体勢を立て直した大剣の女神像が、再び手にした破壊の鉄槌を振り上げようとする。
長い間合いの外に退くのは間に合わぬ。
一瞬の内に判断して、詰めた間合いを更に踏み込む。
神像群を支える空中楼閣の如き巨竜の胴に程近い。
見上げても、天まで届くようなそれに阻まれて空は遠かった。
影が、落ちる。
縦に突き込まれる大剣が、断頭台の刃の如く蝉丸に向けて迫っていた。
巨人を両断するような刃が、比して芥子粒の如き蝉丸を磨り潰そうと叩き込まれるのは質の悪い悪夢か、
或いはそれを通り越して風刺の効いた喜劇のようですらある。
駆け出した蝉丸が、影と己と刃そのものを見比べながら正確な位置取りで逃げる。
頭上に落ちれば一巻の終わりではあるが、剣の腹で巨大な範囲を薙がれるよりはよほど対処しやすい。
どの道、相手は常に一撃必殺であった。
疾走の中、蝉丸は腕に抱いた少女のことを思う。
青の一色に染め上げられた、あの奇妙な世界の中で聞いた声がこの少女のものであると、
蝉丸は今や確信している。
あの世界では声なき声が直に、人の心に響いていた。
であれば、目を覚まさぬ夕霧の心根が蝉丸に届いたところで些かの不思議もないだろう。
少女の声。
幸福を希いながら、それを欺瞞と断じる、希求の呪歌。
それは最後に、覆製身である砧夕霧の、本当の願いを謳い上げていた。

蝉丸は理解している。
少女の願いを叶えようと決意する、己が醜さを十二分に理解している。
それは平穏の先送りだ。
困難に立ち向かう内、弱きを助ける内は己が心を戦場に漂わすことのできると、
怖気の立つような平和に戻ることなく戦い続けられると、そんな醜悪、心の膿が
少女を捨て置かせぬのだと理解している。
しかしまた、蝉丸は己を断ずる。
眼前、少女がいるのだと。
幸福を希求し、泥濘で喘ぐ少女は確かにいるのだと。
ならば坂神蝉丸の魂は、砧夕霧を見捨てることを肯んじない。
如何に新たな時代への怯懦に震える己が弱さを捻じ伏せようと、魂は曲げられぬ。
平和を恐れ、安穏を忌避し、しかし平穏と安寧を求める声をその全力を以て護るのが、坂神蝉丸だった。
戦のない時代へと震えながら歩むことと、少女を護り、その儚い願いを叶えることとは並び立つ。
それは、じくじくと膿を染み出す心の隙間にできた傷を、惰弱との訣別という刃で敢然と抉り取る蝉丸の、
これより先に歩もうとする道の在り様だった。

405十一時四十一分/聞こえそうな鼓動が:2009/01/24(土) 16:59:37 ID:wnpWE7620
背後、刃が落ちる。
大地が、揺れた。
轟音と、嵐のように降り注ぐ石礫と、その地響きとに揺り起こされたわけではあるまい。
しかし、

「……夕霧……!?」

蝉丸が、瞠目する。
腕の中でびくりと震えたその肢体を見やれば、果たして少女が、その長く閉ざされていた目を、開けていた。
驚愕の中、尚も呼びかけようとした蝉丸の言葉が、止まる。
少女の瞳から、零れるものがあった。
ぽろぽろと、大粒の真珠のように転がるそれは、涙である。

同時、蝉丸が渋面を作っていた。
耳朶が、震える。
甲高い音。塹壕の中で聞く電波の悪いラジオから響くような、ノイズ。
高く波打つような音が聞こえたのは一瞬である。
僅かな間に、ノイズは嘘のように収まり、風の中に消えていく。
だが次の瞬間、蝉丸は更なる驚愕を覚えることとなった。


***

406十一時四十一分/聞こえそうな鼓動が:2009/01/24(土) 17:00:04 ID:wnpWE7620
 
『―――しあわせになりたい』

それは、声だった。

『いきたくて』

青の世界で聞いた、音なき声。

『いきおわりたくて』

望まず生まれた少女の、

『たくさんのわたしに、もどりたい』

小さな、願いだった。


***

407十一時四十一分/聞こえそうな鼓動が:2009/01/24(土) 17:00:28 ID:wnpWE7620
 
ほんの瞬く間の、それは声である。
陽光に融けて消える幻のような、輪郭の薄い声。

「ぐ……!」

こめかみを押さえた蝉丸が、呻きを漏らす。
少女の声が収まるか収まらぬかの刹那、立て続けに蝉丸の脳裏を走るものがあった。

―――海に囲まれた島と、その中央に位置する山。
―――山頂に顕れた銀色の湖と、それを取り囲むように立つ、八体の石像。

目に見たものではない、影のない幻。
それは音のない声のような、ひどく掴みどころのない、映像だった。
そんなものが、唐突に脳裏を支配する。

「これ、は……」

思わず呟きを漏らした蝉丸が、

『何だ、今の……!?』
『郁未さん、気をつけてください……!』
『……!』
『誰だ、誰が喋っている!? どこにいる、坂神!』

同時に響いた、幾つもの声に言葉を失う。
どの声も、混乱していた。
聞き覚えのある声と、そうでない声と、そのすべてが同時に響いている。
まるでその全員が、すぐ近くにいるかのように。

「まさか……!?」

刹那、蝉丸の心中を過ぎったのは黄金の海である。
どこまでも続く麦穂の中、顔だけを出していた少女。
あの場所で少女の声は、音なき声は、こんな風に響いていた。
今、あの世界と同じように声が伝わっているのなら。
その声を伝えるものが、あるとするなら。
思いを伝えたのは、誰だ。
応えるべきは、誰だ。

「―――」

思考と決断とは、ほぼ同時。
混在する複数の声は光岡悟と、おそらくは鹿沼葉子と天沢郁未、そしてもう一人。
一刻も早く混乱を収束し伝えなければならぬことが、あった。

『―――國軍、坂神蝉丸』

声に出さず、思う。
伝えよ、と。
伝われ、と願う。

『青の世界を知る、すべての者に傾聴願う……!』

世界よ、声を伝えよと。
願い、思う蝉丸の意識に。
息を呑む幾つもの気配が、返ってきた。

408十一時四十一分/聞こえそうな鼓動が:2009/01/24(土) 17:00:51 ID:wnpWE7620
 
【時間:2日目 AM11:43】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:健康】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】
砧夕霧中枢
 【状態:覚醒】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体18000体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【エルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:健在】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1034 1037 ルートD-5

409十一時四十三分(1)/私らしく:2009/01/27(火) 14:12:21 ID:VohrnP.g0
 
世界が割れるその一瞬に、前触れはなかった。

然程のことではない。
それは単に、目に映る世界が八つだか九つだか、その程度に増えたに過ぎない。
同じように耳に聞こえる音が幾つも幾つも重なって、息の吹きかかるのを感じるような耳元で
沢山の唇がぞろりぞろりと喋り出したとして、大した違いはない。

然程のことではない。
それは単に、自身の正気を疑うに足る程度の問題に過ぎなかった。

410十一時四十三分(1)/私らしく:2009/01/27(火) 14:12:58 ID:VohrnP.g0
 ―――海に囲まれた島と、その中央に位置する山。
 ―――山頂に顕れた銀色の湖と、それを取り囲むように立つ、八体の石像。
 ―――そして重なる、無数の視界。

正視すれば視界は揺れる。
ぐるりぐらりと揺れて歪んで、右に揺れれば左に震え、前と後ろと上と下とがてんで勝手に入り混じって
頭が引き裂かれそうになって、もうどちらが上なのか、わからない。
きっと足の着いている方が下だろうと、そう思ってもゆらりゆらりと入れ替わる視界は不安定で、
右の腕のある方に落ちていけばそちらが下のようにも思えるし、そう感じてしまえば戻れない。
くらりと揺れて。
身体は右に、落ちようとする。
右は下でなく、下は右でなく、落ちようとして落ちられなくて、ぐわりぐわりと頭が揺れる。
見えるものと感じることと、違いが過ぎて頭が痛い。
ぐずぐずと煮えたぎるような頭痛が伝染するように、胃から辛くて苦いものがこみ上げてくる。
吐こうとして、どちらが下かがわからずに、口を開ける。
開けて流れるほうが下だろうとそんなことを考えて、だらだらと胃液の毀れるに任せた。

 ―――何だ、今の……!?
 ―――郁未さん、気をつけてください……!
 ―――……!
 ―――誰だ、誰が喋っている!?

ぞろりぞろりと声がする。
毀れた胃液が制服を汚して、嫌な臭いを撒き散らす。
谺するような吐息と喘鳴と舌打ちとが、臭いに混じって耳朶を打つ。
幾つもの鼓動と幾つもの息遣いとが不規則に重なって、どれが自分の鼓動だかも分からない。
分からないから正しいリズムが掴めない。
息を吸うタイミングと吐くタイミングが滅茶苦茶で、いま自分が息を吸ったのだか、
それとも吐いていたのだかすらも、次第に判然としなくなってくる。
吸って、誰かの息を吐いた音に騙されて、もう一度息を吸おうとして胸が苦しくて、
吐き出そうとしたら誰かが先に吐いてしまって、吸って、吐いて、吸って、
そんな当たり前のことができなくなってくる。
息が苦しくて、頭が痛くて、ぐるぐると巡る音と視界とが、ぐねぐねと歪んで偏在する。

否。
否、否、否。
それらは巡っているのではない。まして、歪んでいるのでもない。
それらはただ、通り過ぎていこうとしているのだ。
誰かの視界が、誰かの声が、何故だか自分の中を通過していくだけの、それは単純な現象。
単純に通り過ぎようとして、だけど沢山のそれらが通るには狭すぎて、だから押し合い、だから圧し合い、
ぎゅうぎゅうとつかえて、周りを削り取っていく。

削り取られていくのは辛くて、頭は痛くて、息は苦しくて。
ひびが入って割れそうで、壊れてしまえば楽そうで。

だけど、それは、できない。
それをさせない、願いがあった。
それをさせない、祈りがあった。

それは小さな、透き通った願いだ。
それは脆くて、儚く消える祈りだ。

それは、届いて、と。
そういう、気持ちだ。


***

411十一時四十三分(1)/私らしく:2009/01/27(火) 14:13:20 ID:VohrnP.g0
 
「なに、これ……」

呟いて上体をぐらりと揺らした長岡志保が、その場に崩れ落ちる。
泡を食ったのは国崎往人である。
振り返れば、志保が青い顔で頭を抱えていた。

「……どうした!?」

気を失って倒れた春原陽平を介抱していた国崎がひとまずそちらを置いて駆け寄っても、
志保は顔を上げすらしない。
ひ、ひ、と。
しゃくり上げるような呼吸を繰り返している。

「ったく、次から次へと……! おい、気分でも悪いのか……?」

自らの頭を押さえるように座り込む志保の肩を掴んだ、国崎の表情が変わる。
小刻みに震えるその細い肩は、ぞっとするほど冷たい汗に濡れていた。

「な……! どうした、大丈夫か!?」

慌てたような国崎の声が、届いたか。
突然、志保が顔を上げる。
それを覗き込んだ国崎は、しかし思わず一歩を退いていた。
射竦めるような眼が、そこにあった。

「流れて……流れてくる……。あたしを通じて……拡がってく……」

呟く声はどこか病的で、差し出しかけた手が、躊躇を感じて止まる。
止まったその手が、掴まれた。
国崎が小さく表情を歪める。
べったりと汗に塗れ強張った志保の指が、国崎の掌に爪を立てていた。
少女とは思えぬ強い力が皮膚を裂き、血を滲ませる。

「しっかりしろ、長お……」

長岡、と言いかけた国崎の言葉が止まる。
ふるふると震える志保が、掴んだ国崎の手を支えに、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。

「おい、無理するな……」
「―――るっさい……! へばって、らんないのよ……!」

労わりを弾くような、強い口調。
玉のような汗が、頬を伝って顎から垂れ落ちる。
脂汗と吐瀉物とで濡れたシャツをべっとりと肌に張り付かせたまま、志保が首を振る。

「届けろってんなら……! 届けて、やるわよ……!
 志保ちゃん情報……、なめんじゃないっての……!」

少女を支えているのは矜持と反骨。
跪けと命じる声に屈するを良しとせぬ、その志だった。

「届けてあげる……! この、志保ちゃんが……ッ!
 言葉も……心も、全部! まとめてッ!」

その瞳は既に眼前の光景を映さず、その耳は吹き抜ける風の音をすら聞き取れず。
それでも、少女は立っていた。
ぐらりぐらりと歪み揺れる世界の中で、誰とも知れぬ小さな祈りを叶えようと、立っていた。

それが、長岡志保だった。

412十一時四十三分(1)/私らしく:2009/01/27(火) 14:13:50 ID:VohrnP.g0
 
【時間:2日目 AM11:43】
【場所:G−6 鷹野神社】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:異能・詳細不明】

国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)、化粧品ポーチ】
 【状態:健康・法力喪失】

春原陽平
 【所持品:なし】
 【状態:妊娠・意識不明】

→1019 1038 ルートD-5

413変心:2009/01/29(木) 01:58:27 ID:QkREX4Vk0
「この学校は、好きですか」

「わたしは、とってもとっても好きです。
 でも、何もかも、変わらずにはいられないです。
 楽しいこととか、嬉しいこととか、ぜんぶ。
 ……ぜんぶ、変わらずにはいられないです」

「それでも、この場所が好きでいられますか」

 いま、この質問に自分は答えられるだろうか。
 胸を張って答えを言えるだろうか。

 何もかも、変わらずにはいられない。

 手を伸ばしても、引っ込めても変わるものは変わってしまい対応せざるを得なくなる。
 どんなに望んでも、どんなに我侭になってもどうしようもない。
 それがこの世界の在り方だ。
 変わることを摂理とするこの世界の有りようだ。

 自分はそこに生きている以上従わなければならない。
 変わっていってしまうものを受け止めなければならない。

 ……なのに。
 なのに、どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
 こうなることを薄々予感していたのではないのか。
 とっくに失われたものが再び失われただけと分かりきっていたはずではないのか。

 どうして。
 どうして、変わっていて欲しくないと願ったのだろう、わたしは……
 既に自分が変質してしまったと知り抜いているのに。
 既に戻らなくなってしまったと理解しきっているのに。
 こんなにも、変わらないことを望んでいた……?

414変心:2009/01/29(木) 01:58:48 ID:QkREX4Vk0
 そうじゃない。
 わたしが、変わる世界に当て嵌まらないのではなく……
 わたしは、終わり続ける世界にしか当て嵌まらなかった。

 終わりしかない場所は終焉。
 進むことが出来ず引き返すことも出来ない、ただ結末だけが存在する場所。
 そこでは永遠だけが『終わり続き』、『繰り返しながら止まる』。
 何も変わらない。画用紙に描いた風景画のような、それ自体だけの世界。
 幸福はない。けれど、哀しみも苦しみもない。
 今ある『わたし』だけで全てが帰結するところ。

 自分はそこにしか住めない者でしかなく、他の世界にはどうあっても混じり得ない。
 分かっていたはずなのに、未練たらしく生き、また共に歩もうという思いさえ抱いていた。
 盾となると決めた覚悟とやらも嘘なら、ひとりで進むという言葉も嘘。
 嘘を嘘でしか塗り潰せず、どこにも行けないわたしは――

「見つければいいだけだろ」

 岡崎さん? 虚を突かれた思いで振り返ってみたが、誰の姿もない。
 気のせい……その思いが去来しかけたとき、ふわりと、風もないのに髪が揺れた。
 何かが通り過ぎたかのような、不自然な風。いやそもそも風などありはしないのに。
 俄かに全身がそそけ立つ。そうしなければいけないという思いに駆られて、
 後ろに向いていた顔をもう一度前へと戻す。
 果たしてそこには、先を行く後姿があった。ほんの数歩先、立ち止まらず『彼』は喋り続ける。

「次の楽しいこととか、うれしいこととかを見つければいいだけだろ。
 あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか?」

415変心:2009/01/29(木) 01:59:08 ID:QkREX4Vk0
 この場所が好きでいられますか?
 誰ともなく尋ねた質問に対して、誰にでもなく答えた言葉。
 孤独の中で、孤独に対して向けられただけの、それは会話とも呼べぬものだったのかもしれない。

「違うだろ」

 振り向かず、『彼』はきっぱりと言い放った。
 それは噛み合わぬ世界に対して幸福の形を探すのでもなければ不幸から逃げるものでもない、
 自らが幸福を生み出せると信じて疑わない男の声だった。

 ただただ、一生懸命に苦しみ、もがき、ひとの中に自分が生きられる世界を探そうとしている。
 終わり続ける世界の住人であっても、生きていくことは出来るのだというように。
 待ってください――喉元まで出かけていたはずの言葉は出てこなかった。
 後は追えない。追えるはずがなかった。
 彼は無言のまま歩き続けているから。

 ほら、いこうぜ。

 それで締めくくられるはずの言葉が出てきていない。
 なら行けるはずがないのだ。
 古河渚は、まだ坂を上りきることが出来ないのだから。
 自分は、坂を上がり続けなければならない。
 これから先、ずっとずっと、本当の幸福、豊かさを手に入れられるまで……

 ただ、自分にその資格があるのかと思ってしまう。
 約束を反故にし、様々なものを打ち捨ててきた己に、求め得る価値はあるのだろうか。
 それだけではない。自分は様々な人の夢を奪って生きている。
 父母の夢に始まり、仲間の命をも奪って……

416変心:2009/01/29(木) 01:59:24 ID:QkREX4Vk0
「そうじゃねえ」

 また、横を通り過ぎて行く人影があった。
 煙草をくわえ、遥かな先を見渡す男……古河秋生がそこにいた。
 秋生は口から煙を吐き出すと、朋也と同じく先を進んで行く。

「俺達は夢を捨てても、奪われてもねぇ。俺達で望んで託したんだ。……分かるだろ?」

 苦笑交じりの口調はやんわりと窘めるようなものだった。
 無理しなくていい。無理に責任を取ろうとしなくたっていいんだ。
 そろそろ自分のことを考えてもいいんじゃねえか?
 自分のこと……?

 耳からではなく、心の芯に直接響く声に返そうとしたが、秋生の姿は既に遠くにあった。
 喧騒が聞こえてくる。愉しそうに笑いあい、軽口を飛ばしあいながらもしっかりと歩き続けている。
 朋也と秋生のものだけではない。そこには春原も、様々なひとがいて、肩を組みながら笑っている。
 自分はそこに行けない。行こうと思えば行けるだろう。そこは全てが終わり続ける世界だ。

 けれどもその世界にいる人は違う。朋也同様、希望を人の中に見出し、
 苦しいながらも肩を組んで新しい場所を目指そうと『新しい終わり』に向けてよろよろと歩いている。

 だから、まだ行けない。そこへ行くにはもう少し頑張らないといけない。
 それまでがどうだったにしても、わたしはまだ夢を捨ててはいない。
 みんなから預けられた夢を忘れていない。
 もう少し……頑張ってもいいですよね? わたしは……頑張れますから。

「ファイトッ、ですよ」

 また声がかけられた。
 いつからいたのだろう、ずっといたかのように古河早苗が柔らかな微笑を浮かべて、側に立っていた。
 ニコリと、もう一度渚に笑いかけた早苗は小走りに坂を上り、喧騒の中に紛れていく。

417変心:2009/01/29(木) 01:59:41 ID:QkREX4Vk0
 もう二度と会うことはないだろう。永久の別れはあまりに簡潔で、けれど悲しくはなかった。
 寧ろ笑っていられる。こんなにもしあわせな別離を、今までに感じたことがあっただろうか。
 渚は坂の下で幾度となくそらんじた言葉を反芻する。

「それでも、この場所が好きでいられますか」

「わたしは……」
「わたしは、まだ好きにはなれないです。でも――」

「――好きになっていきたい。そう思います」

「なら、それでいいじゃないか」

 ふっ、と。
 背後から重ねられるように、抱きすくめる腕があった。
 初めて渚に触れた腕。温もりがあまりに温かかった。
 誰だか分かる。この手のひらの大きさを、わたしは知っている。

「ほら、いこうぜ」

 そう。
 何も知らない、知ろうともしなかった自分。
 こんなわたしでも、まだ……

「はい」

 手をとっていける。

     *     *     *

418変心:2009/01/29(木) 02:00:01 ID:QkREX4Vk0
 拒絶されるのは半ば覚悟の上だった。
 元々が赤の他人で、自分はその上人殺しだ。
 彼女が最も嫌うべき種類の人間であり、本来なら近づく権利さえないのかもしれない。
 だからといってこのまま何も知ろうとせず上辺だけ取り繕っていくなんて空しすぎる。
 嫌いなら嫌いで構わないし、拒絶されたらされたで踏ん切りがつく。

 ただ確かめたかった。
 俺は、那須宗一は古河渚にとってどんな人間であるのか、を。
 俯いたままの渚の身体を包み込むようにして抱きすくめる。
 震えもせず、ただ硬直したままの渚はそこにいて、しかしいないようでもあった。
 自分が想像も出来ない、別の世界へひとり行ってしまったような、そんな感覚だった。

 なら連れ戻そう。孤独の海に漂っているのなら俺は拾い上げればいい。
 その後相容れられずどこかで別れることになってしまったのだとしても、
 取り残され、誰からも省みられることなくいなくなってしまうことはないはずだ。
 そうやって守ってきてくれたのが……夕菜姉さんだ。

 今なら分かる。どうしてハック・フィンであろうとしたのか、分かる。
 ひとりで生きていくことは、確かに不可能じゃない。
 力を持ち、対処するだけの能力を身につけていれば誰の力も借りずにいられることはできるだろう。
 だがそれでは寂しすぎるし、長くは生きられない。
 そうして気が付けば失われてしまったものに深すぎる後悔を覚え、悲しさだけを残してしまう。
 だから人は寄り添い、少しでも痛みを紛らわせようとするのだろう。

419変心:2009/01/29(木) 02:00:38 ID:QkREX4Vk0

 ‘All right, then, I'll go to hell’
 わかった、それなら俺は地獄へ行こう。


 ひとりではなく、ふたりで。
 一緒に堕ちても構わない。
 だから、渚……ひとりでいようとしないでくれ。

「はい」

 どきりとするほどはっきりと、あらゆる静寂を突き破る深さを以って渚が応えた。
 手のひらにそっと手が乗せられる感覚。
 雪をすくい取った直後のように冷たかったが、不思議と寒くはならない。
 寧ろ心地の良い冷たさが、己の熱しすぎた感情を冷まし、程よいものに仕上げてくれている。

「大丈夫……じゃ、ないかもしれません、少しだけ」

 ほんのちょっとの苦痛を訴える声だった。
 だが確かにこちらを頼って助言を求め、どうすればいいのかと尋ねてきてくれている。
 まだ遠慮している節はある。でも、確かに渚は拒絶はしなかった。
 ならそれでいい。積み重ねていけばいい。何もかも、最初から全てを委ねてくれるとは思っていない。
 それが仕事の定石だ、そうだろエディ?

 小さく苦笑し、これ以上抱きすくめているのは流石にどうかと考えた宗一は渚から腕を離そうとした。
 が、手首を掴む小さな手のひらが意外と頑丈で、強引にでもしなければほどけそうになかった。
 どうしたものか、と戸惑っていると「……すみません、もう少しだけいいですか」と渚が言った。

「わたし、その、今……みっともない顔なので……」

 言った後、ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。ああ、そういうことかと宗一は得心する。
 これが渚なりの弱みの見せ方なのかもしれない。歩み寄った上での見せた弱さなのかもしれない。
 どちらにせよ、古河渚というひとのやさしさが見えたような気がする。
 極力負担をかけずに迷惑をかけようとする。滑稽な我侭さだという思いが胸の内に広がり、
 自然と気が楽になる実感があった。重さが苦にならない、この気分は一体何なんだろう。

420変心:2009/01/29(木) 02:01:02 ID:QkREX4Vk0
 皐月やゆかりと馬鹿をやっていたときに似ている。
 言いたいことを言い合って挙句喧嘩にすらなるというのに不思議と後腐れが残らない。
 ムカつきもわだかまりもなく、清々として晴れやかな気分で笑っていられる。
 何も考えることなく、心の内を読むことも必要とせず、終わりは「お疲れ様」で締めくくられる。

 だから俺は学校に行っていたのか。
 学生生活をカモフラージュする手段ではなく、楽にしていられる場所として……
 鍵をかけて仕舞っておいたはずの皐月の顔、ゆかりの顔が浮かんでは消え、澱みのない希望を宗一に伝えた。
 そういうことか。那須宗一と地獄に堕ちてくれるハック・フィンは夕菜姉さんだけではないということか。

 たくさんの記憶が、思い出が今の自分達を支えてくれている。
 今更のような事実に気付き、宗一の箍が外れてひとつの感情を溢れ出させた。

「は、はは……奇遇だな……俺も、みっともない顔なんだ……」

 今まで堰き止め、男という義務感で縛り上げてきたものが一気に瓦解し、濁流となって押し寄せていた。
 この流れは止めようとしても止められず、また止める気にもならなかった。
 停滞し、澱みきっていたものが洗い流されてゆく感覚。
 情けない姿で、こっ恥ずかしいものには違いないが不思議な心地よさがあった。
 渚もきっと同じ感覚を味わっているのだろう。だから分かる。

 人はこうして、弱さを乗り越えて強くなれるのだろう。
 過去の澱みを洗い流し、心機一転して進む根源になり、より善いものを目指そうとする。
 もう、何も迷うことはない――そう思いながら、宗一は川の流れを見下ろしていた。

     *     *     *

421変心:2009/01/29(木) 02:01:23 ID:QkREX4Vk0
「……これで、いいんだな?」
「はい」

 那須宗一と古河渚が互いに身を寄せ合っているとき、ルーシー・マリア・ミソラと遠野美凪は、
 宗一と渚がいる職員室の外、廊下に居座って話をしていた。
 美凪は生硬い瞳のまま、ルーシーの問いに頷く。

 職員室の壁側を背に身をもたれさせていたルーシーは、美凪の内側で何かしらの決着がついたことを予想し、
 そしてそれは結局自分と同じ現状維持のままなのだろうと感じていた。
 わだかまりを、完全に洗い流すことは出来なかった。

 渚が悪いわけではないし、筋違いだということも頭では理解しきっている。
 ただ抜けきらないのだ。奥底で、腹の中で、引っかかっている小骨が抜けきらない。
 無視してもいいほどの痛みだが癇に障る痛み。
 だからといって、駄々をこねて喚くほど自分は子供ではないし、それでどうなるものでもない。
 心の在り様を冷静に捉え、応じて付き合ってゆけばいいだけのことだ。そうしていれば嫌なものを見ずに済む。
 総括すればそういうことだ。ルーシーはところどころ歪みを見せている窓越しに外の様子を窺う。

「雨だな……」

 透明度を下げた向こう側の風景は僅かの音量を伴って大地に雫を降らせている。
 静かな雨だった。まるでこの島を静寂で包み込もうとするように、雨音以外は何も聞こえない。
 いくつもの魂に対する厳かな鎮魂歌か、嵐の前の前奏曲か。

 折角服を着替えたのにまた濡れるのかと内心に嘆息しながら視線を戻そうとして……
 ピントが、窓に映る自分の顔へと当てられた。
 能面のように白く、鉄面皮を気取っている顔がそこにある。
 この仮面を剥ぎ取る術を知らないまま、先へと進んでいこうとする自分。
 果たしてそれは本当の『私』なのだろうか?

422変心:2009/01/29(木) 02:01:44 ID:QkREX4Vk0
「……私達は」

 ぽつりと呟かれた美凪の言葉が、窓に映るルーシーの顔をぼやけさせた。
 ぼんやりとして、しかしどこかもの悲しそうな美凪の表情が代わりに入った。

「善人にはなりきれないのだと思います。いえ、私達だけじゃなく生きているひとは、みんな」
「ただ私達は目を逸らし続けている。……そうしなければ、憎しみに変わってしまうかもしれないから」
「失ってしまったものが大きすぎたのかもしれません」

 言い訳のように美凪はまくしたてた。この感情を自分でも整理しきれないまま、
 悪いものだと分かりながらもどうすればいいか分からず、欠けてしまった部分に放置している。

「そうして空いてしまった部分に何かで埋め合わせをしようとする」

 もとあった団結心は他者への警戒心へと変わり、やがては腐り、奪ったものへの憎悪へと変わる。
 そうならないためにまた人は集まり、団結して、新たな警戒心を作り出していくのかもしれない。
 繰り返していくうちにだんだんと他者と相容れられなくなり、互いに食い合う……
 結局のところ、復讐や報復などといったものはそういうものなのだろう。
 元は互いに分かり合い、共生していくために寄り集まったはずなのに。

 ふっとルーシーの心に影が差したとき、「でも」と美凪が声を発した。

「私は今、痛いです。どうしても受け入れられない部分があると分かって、遠ざけて解決しようとしている。
 それは寂しすぎるんじゃないか、って言ってくるんです。……恐らくは、私の、良心が」
「良心、か……」
「るーさん、さっきの質問ですが」
「ん?」
「……やっぱり、言い切れません。どうしても、私には出来ないようなんです」
「そうか……私もだ」

 胸のうちにまたズキズキとした痛みが走るのを感じながらもルーシーは言い切った。
 これは中途半端で悪い選択なのかもしれない。
 先ほどの質問……このチームを離脱し、二人だけで姫百合珊瑚を探しに行くかという提案。
 一度は頷いた美凪だったが、ここで再び首を振り、ルーシーもまたその気は失せていた。

423変心:2009/01/29(木) 02:02:01 ID:QkREX4Vk0
 渚に感じているものはほんの些細な反発感だ。
 埋葬の話から始まる、死者の扱いに対しての微細な不満。
 それに彼女はどこか孤独を望み、意固地であろうとして、なのに自分達とは全く反対の生き方をしている。
 ルーシーは気にもしなかったが、けれども小さなしこりとなっていることも認識していた。
 美凪も同様のようで、だからこそ離脱話を、提案として持ちかけたのだった。

「古河さんが嫌いじゃないんです。……寧ろ、自分自身が嫌いになりそうで……」
「私も古河は嫌いじゃない。あいつはまあ、大人し過ぎるが面白い奴だ」
「そうですね。何だか危なっかしくて」
「一生懸命で、手伝ってやりたくなる」

 思わず苦笑が漏れた。釣られるようにして美凪からも苦笑が出る。
 そんな渚と一緒にいると、どうしても自分の側面が浮き彫りになってしまう。
 そこが浮き出るたび、自分で自分に嫌悪感を持ち、このままいていいのかという気持ちに駆られる。
 決して善人でいられず、醜い部分を残したまま渚といていいのか。そんな感慨に囚われる。

 だがそのまま別れてしまい、次に会った時溝が大きくなってしまうのでは寂しすぎる。
 それだけが引っかかりとなって、一度決意したはずの離脱を急遽取り止めにした。
 これで良いんだという思いもある反面、僅かな苦痛と向き合い続けることが出来るかと不安にもなる。
 けれども唯一確信を持って言えることがある。この選択をしたのは自分だけでなく、美凪もだ。
 多数の正しさとは言わない。が、二人の気持ちは共に同じだということは間違いない。

 今はその事実だけ受け止めればいい。正しいかどうかはまだ決めなくていい。
 互いに頷きあったのを終わりの合図にして、ルーシーは再び窓の外へと視線を移した。
 相変わらずの雨だ。強くもなく、さりとて当分は止みそうにもない。

「……ん?」

424変心:2009/01/29(木) 02:02:20 ID:QkREX4Vk0
 燻る雨の向こう、山の中腹あたりから何やら煙のようなものが見える。
 よく目を凝らしてみるが、あれはまさしく煙だ。
 闇夜に紛れかかっていたのと空のどんよりとした色のせいで全然気付けなかった。
 火事だろうか。それにいつ頃から起こっていた?

「なぎー、見てくれ」
「はい?」

 窓を開け、煙の出ている方向を指差す。
 最初は何があるのか分かっていない様子で目を細めていた美凪だが、次第に何があるのか見えてきたらしく、
 火事でしょうか、と呟く。そして同時に、こうも付け加えた。

「山の中……だとしたら、ホテル跡かもしれません。まだ煙があるということは」
「この雨だ、山火事の可能性はなさそうだ。……間違い、ないかもな」

 人はいないと断定したはずのホテル跡で、不自然な火災が起こっている。
 そこから考えられる事実はひとつしかない。戦闘だ。誰かが殺しあっている。
 それも小競り合いなんかじゃない、大規模な乱闘だ。
 ここから見えるほどの火災が起こっているのはそういうことだ。
 まずい事態になったな、と内心に舌打ちして職員室に割って入ろうとしたとき、扉が派手に開けられた。

「おいルー公、遠野! 火事があるみたいだぞ! こっち来てみろ」
「何?」

 あっちでも? とルーシーと美凪が顔を見合わせる。
 同時多発火災。ピーポーピーポー。消防車は引っ張りダコ。

「実はこちらも火事を発見したところだ。向こうの窓から見てみろ」
「マジか」

425変心:2009/01/29(木) 02:02:38 ID:QkREX4Vk0
 今度は職員室から出てきた渚と宗一が顔を見合わせる。
 そこはかとない不安を感じ取ったのか、「早く見てみましょう」とせっつく渚に引っ張られるようにして、
 宗一が廊下側の窓に張り付く。ルーシーと美凪も入れ替わるようにして職員室に入っていく。

 宗一達が発見した火事は割と分かりやすく、雨にも関わらず空の一部が紅に染まっていたことから、
 すぐに分かった。もう一箇所の火事は平瀬村で起こっているようだった。
 同時に発見したということは、犯人は別々……つまり、最低でも二人の殺人鬼が近くにいることになる。

「……水瀬名雪……」

 隣で火事の起こった方向を見ていた美凪が、低い声で呟く。
 色の無いその声は、美凪が目にした悲劇の程を言い表すのに十分過ぎるものがあった。
 水瀬名雪。美凪の仲間二人と、ルーシーの相棒を葬り去った仇。
 この事件の下手人として彼女が絡んでいる可能性は確実にある。
 だとするなら……

 ぐっ、とデイパックを持つ手に力が入る。感情が復讐心で塗り固められ、どろりとした澱みが内を満たす。
 忘れられない記憶が恨みを呼び覚まし、己を獣へと変えていく。
 渚のようになりきれない理由だ。
 理屈では分かっていても許せないという言葉ひとつで変貌してしまう自分がここにいる。
 我慢出来ず、殺されたということを殺し返すことでしか満たせない、食い合うだけの存在だ。
 だから、私は――

「……行きましょう。二人で、あの人を『殺す』んです」
「――ああ」

 頷いたときには、既に走り出していた。
 結局はもう一度手のひらを返し、宗一たちから離脱することにしてしまった。
 中途半端に方針を変えた挙句、最後には復讐心に従ってでしか動けない。
 だが自分にはこうすることしか出来ない。こうすることでしか感情を抑える術を持たない。
 自分も、美凪も……凡人でしかないのだから。

426変心:2009/01/29(木) 02:02:52 ID:QkREX4Vk0
「那須、私達はあっちの、村の方の火事を当たってみる。お前達は向こうに行ってくれ。
 ひょっとしたら探してる人が襲われてるかもしれん」

 職員室から出た直後、宗一の姿を確認するやいなや、ルーシーは早口に言い放った。
 半分は嘘だ。単なる理由付けにしか過ぎず、その実名雪を殺しに行くことにしか意識を傾けていない。
 それでもなるべく冷静を装って言ったつもりだった。ただ反論の機会は与えない。

「何もなかったらそちらに合流する。それでも行き違ったら最後にはここに戻ってくればいい。文句はないだろう?」
「ルー公……? お前」
「任せたぞ。行こう、なぎー」

 言うだけ言うに任せると、ルーシーは美凪を引き連れて足早に昇降口まで行く。
 頭の中は、これからほぼ確実に出会うであろう名雪との戦闘だけを意識していた。
 デイパックからウージーを取り出し、美凪もまた包丁を取り出している。

 ここから先は使命を果たすだけの機械。復讐心に染め上げられただけの存在に過ぎない。
 脱出するという目的も、生きて帰るという決意も、憎む感情の前には霞んでしまう。
 何故ならそれほどに、それほどまでに……あのひとは、美凪にとってはあのひとたちは。
 半身、だったのだから。

     *     *     *

 有無を言わせずルーシー、美凪の二人が立ち去った後、宗一はどうするかと頭を回転させていた。
 二人では危険だと後を追うか。それとも言葉に従ってもうひとつの火災現場に向かうか。

 早口にまくし立て、言葉も待たずに駆け出した二人の様子は尋常じゃない。
 口調こそ冷静だったが、心中では何かがあったはずだ。
 想像を働かせようとするが、彼女達とは知り合ったばかりで、詳しいことはなにひとつ知らない。
 この地獄をどのように生き延び、その過程で何を見てきたのか……
 そしてそれに応えられる言葉は何であるのか。……そんなものを、持てるはずがなかった。

427変心:2009/01/29(木) 02:03:09 ID:QkREX4Vk0
「宗一さん」

 考えあぐねている宗一の耳に飛び込んできたのは、驚くほど冷静ではっきりとした渚の声だった。
 水をかけられたような声に弾かれたようにして、渚の顔を見る。
 決意を秘め、為すべきことを見つけ出した人間の顔がそこにあった。

「わたしがお二人の後を追います。宗一さんは指示通り、あの山へ向かってください」
「渚……? 待て、それなら」
「わたしが行かなきゃダメなんです」

 ぴしゃりと撥ね付けられた声に、宗一は言葉を失うしかなかった。
 栗色の瞳の中には強靭な、男でさえ見ることのないような意思がある。

 不意に宗一は遺体の姿で見た古河秋生のことを思い出した。
 目を閉じていながら尚意思を持ち生きているような気配さえ見せていた父親の顔。
 それと同種の気配が今の渚にはある。
 みっともないあの時とは一変した渚。

 これが澱みを洗い流し、強くなった彼女の姿なのか。
 呆然としたままの宗一に、渚は言葉を重ねる。

「わたしは……今まで自分のことしか考えてなくて、誰のことも知ろうとしませんでした。
 正確にはわたしを知らせたくなかったのかもしれません。どうしてかというと……
 わたしは、ひとりのまま、これまで生き長らえてきた責任をとって死のうとしていましたから」
「……ああ、薄々でしかなかったが……気付いてた、それは」
「ですよね。宗一さんは、世界一のエージェントさんですし」

 それにわたしは嘘が苦手ですから。苦笑した渚には後ろめたさのようなものが感じられたが、
 すぐに打ち消した。今は過去に囚われていない渚の強さが垣間見えたようだった。

428変心:2009/01/29(木) 02:03:25 ID:QkREX4Vk0
「ですから、わたしが行かないといけないんです。まだわたしにはたくさん知りたいことがあるんです。
 このまま別れたままだと……きっと、合流できても何も分かることが出来ないと思います。
 ええと、分かりやすく言うと――死なせたくないし、仲良くなりたいです。お二人とは、もっと」

 目を細め、微笑んだ渚にはあらゆる弱さを吹き散らす光があった。
 単純なことだった。仲間だから、もっと分かり合いたい。
 そんな願いに対して、宗一が応えられる言葉は一つしかなかった。

「……ああ、分かったよ。任せるぜ、セイギピンク」
「ええっ」

 まだピンクなんですか、と困ったような表情を見せた渚に、今度は宗一が吹き出した。
 俺が守りたかったものはこれなんだ。俺が馬鹿でいられるひとや、場所を守りたいのが俺の願いなんだ。

「こっちのことはこのセイギブラックに任せろ。どんな問題だってたちどころに解決してやるさ」
「あぅ、うー、はい……が、頑張ってくださいっ。わたしもですが」

 慣れない様子で握り拳を作った渚に、宗一も拳を作り、軽く突き合わせた。
 こん、とぶつかる感触を確かめ、宗一は何の含みのない笑顔を向ける。渚も同様に笑った。
 間に合わせろよ、渚――

「よし、行くぞ。立ち止まっていられないからな」
「は、はいっ!」

 二人は走り出す。

 長い、長い道を――

429変心:2009/01/29(木) 02:04:19 ID:QkREX4Vk0
【時間:二日目20:00前】
【場所:F-3 分校跡】

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 4/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:ルーシー、美凪を追って平瀬村方面に。人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数11/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、スラッグ弾8発(SPAS12)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:心機一転。健康】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る。ホテル跡方面に移動】

遠野美凪
【持ち物:包丁、予備マガジン×1(ワルサーP38)、包丁、防弾性割烹着&頭巾、支給品一式、お米券数十枚、色々書かれたメモ用紙とCD(ハッキング用)、ノートパソコン】
【状態:強く生きることを決意。だが名雪への復習は果たす。お米最高】
【目的:名雪を探して平瀬村方面に。るーさん達と行動を共にし、珊瑚を探す。ハッキングを絶対に成功させる】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(30/30)・予備カートリッジ(30発入×5)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。だが名雪への復讐は果たす】
【目的:なぎー達と行動を共にし、たこ焼き友だちを探す。なぎーに同行】 

【その他:22:00頃にはここで再合流する約束をしています】
→B-10

430コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:26:53 ID:fhU/1vc20
広い作りのパソコンルームは、閑散としていた。
元々言葉数が少ない、一ノ瀬ことみ。
そんな彼女に対しにこにこと笑みは湛えているものの、自分からは口を開こうとしない少年。
睨み合うというより見つめ合う二人の間に、交流といったものは乏しい。

少年はことみの性質を知らないからか、彼女が警戒した上で自分の品定めでもしているのだろうと考えていた。
だから急かすようなことは一切せず、ことみの出方を一方的に待つという姿勢を取っている。
一方ことみはと言うと、勿論そんな深いことを考えているということもなく。
ぽーっとした視線を少年に送りながら、ことみは今更彼が最初に投げかけてきた言葉を胸の中で反芻する。

『やあ、何をしているのかな』

何をしていたか。
手の中にある地図を見据え、ことみは再度頭を捻る。
ほんの少し間を持たせた後ことみは視線を少年の方へ移し、挑発するように手にしていた紙切れをピラピラと振りながら口を開いた。

「気になる?」
「うん、気になる。教えて欲しいな」

少年の即答にも、ことみの能面が崩れることはない。
ただ少年は、やっと頑なであったことみの心が開かれてきたのだろうと理解したらしく、現実に存在していた二人の距離を詰めてきた。
少年が立ちぼうけを受けていたのは、パソコンルームに存在する南方の入り口である。
そこから北方のプリンターが並べられていることみの元へ、まっすぐ進む少年の見た目は軽装であった。
見ると、彼の持ち物の中でも最も目立つだろう強化プラスチックの大盾は、入り口にのドアへと立てかけられ放置されている。
少年はことみの警戒を最小限にすべく、目の前で身を守る道具を一つ手放したのだ。
これも彼の作戦である。
様子を探った上でことみという少女に対し、少年は攻撃性等を見出さなかった。
いたって大人しい、見た目と全く同じ印象を受ける少女。
殺すにしても、容易くこなせる対象である。

431コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:27:28 ID:fhU/1vc20
そんな少年が、さっさと手を下すことなくここまで遠回りなことをしているのは、現在彼の行っている問い詰めもまた真意の一つだからである。
彼女がこのような場所に引きこもり何をしていたのか、何を得たのか。
少年は、それが気になって仕方なかった。
一ノ瀬ことみという少女の情報を、少年は自身の記憶からではなく外部から得たものとしてそれとなく持っている。
しかし、とある『世界』にて神がかり的な能力を発揮していたと言うことみに、今やその姿は見る影はない。
ことみが聖と二人でいた頃からずっと機会を窺っていた少年に、ことみが気づく様子は一切なかったのだ。

「教えて欲しい?」
「うん。教えて欲しいな」

歩を進めるているとことみからもう一度問いを受けたので、少年はこれにもまた笑みを浮かべにこやかに答えた。
ことみは片手で尚紙をぴらぴらとさせたまま、少年がやって来るのを大人しく待っている。
少年は利き手をポケットにつっこみ、いつでも引き抜けるようにと隠し持っていた拳銃の感触をこっそり確かめている。
緊張感のないことみのぽんやりとした声と、カツカツと響く少年の靴音にはどこか反対の印象を受けるが、彼らの立ち姿こそが正に正反対のものであろう。
そうして二人の距離が二メートル弱と縮まった所で、少年は足を止めた。
笑顔の少年は、そこでことみの出方を待つ。

「あのね、秘密のことなの」
「ふーん?」
「だからね、特別」
「分かった。他の人には言わないよ」

人差し指をそっと口元に運びながら、ことみが口を開く。
可愛らしい少女のないしょ話に、少年は二つ返事で付き合うことを了承した。
と、ここでことみにちょいちょいと手招きをされ、少年は少しだけ首を傾げる。
もう二人の距離は大分近づいているので、これ以上その距離を詰める必要性が少年には分からなかった。
ちょんちょんとことみが自分の耳を指で指したところで、ああ、耳を貸して欲しいのかと少年も理解する。
こんな状況に放り込まれた上で大胆な要求をしてくることみの滑稽さに、最早少年は苦笑いも出さなかった。

432コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:27:57 ID:fhU/1vc20
「これでいい?」
「オッケーなの」

少しだけ前に出た後片耳を傾ける姿勢を取り、背の低いことみに合わせる形で少年は少しだけ腰を落とす。
ことみもちょこちょこと前に出てきて、少年の耳元に愛らしいぷっくりとした唇を寄せた。
吐息。少女の吐息。
甘い香りを想像させることみのそれが、紡ぐ言葉。少年は静かにそれを待つ。
震える空気、ことみの発する言葉に少年は全神経を傾けた。

「こんな状況で、甘すぎるの」

一瞬何を言われたのか理解できなかったであろう少年の瞳が、見開かれる。
驚愕と同時に少年の体を襲ったのは、焼けるように走りめぐる高圧の電流だった。

「ぐあぁっ?!」

低い呻き声を上げそのまま膝をつく少年から、ことみはぽてぽと距離を取る。
彼女の片手に握られている暗殺用十徳ナイフが仕掛けた攻撃をまともに受けた少年が、立ち上がる気配はない。
しばらくは体の痺れも抜けないだろう。
距離を近づければ近づけるほど、相手の全景も捉えにくくなる。
ことみが起こした大胆な奇襲を、予想できなかった少年の完敗だった。

怯えた様子が皆無であったこと。
あまりにも態度が堂々としていたということ。
確かに『こんな状況』では、あり得ない少女像だった。
それもことみのぽんやりとした外観が成せた虚構であると少年が気づいた時には、全てが遅い。
少年がことみを舐めきった結果がこれだ。
どこにでもいる可愛らしい女学生の皮を被った狸は、そうしてさっさと少年の前から姿を消した。

433コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:28:25 ID:fhU/1vc20
……残された少年の表情には、微かな笑みが浮かんでいる。
傷つけられたプライドに誇りという概念を持たない彼にとって、この遊戯のレベルが想像以上に高かったという思いだけがそこにはあった。
彼の、この掃除という名目がつきそうな作業に対するやる気自体はそこまで大きくない。
やるべきことはやろうとするが、本来ののらりくらりとした性格故行動も迅速ではないということもあるだろう。
与えられた指名を全うしなくてはいけない義務を抱えているようには到底見えないが、これが少年の性分だ。
その中で、彼の胸の内に一つの炎が生み出される。

(こういうのは、楽しいかな)

レクリエーションに参加する勢いである少年の目は、爛々としていた。
ただの虐殺などに面白みは感じない、必要があるからこなしているだけの状態では飽きが来る。
参加者はまだ多い。引っ掻き回し甲斐は、充分だ。
いまだ自身の四肢はぴくりとも動かないけれど、少年はわくわくする気持ちが抑えられなかった。

そう。
今回は少年の負けだったが、本質的な意味での決着自体はついていない。
この島で行われている殺し合いの勝利条件は、相手の命を奪うことである。

―― ことみの敗因は、この場で少年の命を奪わなかったことだ。

彼女はまだ知らない。
理解していない。
殺さなければ、殺されるというこんな状況を。

434コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:29:05 ID:fhU/1vc20

          ※ ※ ※


「痛っ!」

襲ってきたのは脇腹に響く激しい痛み、相沢祐一が覚醒したのはそれが原因だった。
続く体を弄られる感触に、祐一は慌てて辺りを見渡そうとする。

「こら、じっとしたまえ」

そんな祐一に向かって注がれたのは、落ち着いた様子の女性の声だ。
声の主、霧島聖は手を休めることなく黙々と作業を続けている。
聖のスムーズな手さばきに思わず目を見張りながらも、祐一はしゃべることを止められない。

「あんた一体……っ!」

寝ていた半身を起こそうとしたことで走る痛み、祐一は思わず小さな呻き声を零す。
見ると上半身が裸の状態である祐一の腹部には、包帯が巻かれていた。
何故このようなことになっているのか、あやふやで靄がかかったような自分の思考回路に祐一は表情を曇らせる。

「安心しろ、出血は多いが傷は深くない。……かなり時間が経ってるな、痕は残るだろうがそれだけだ」
「あ、あぁ」
「何だ。浮かない顔だな」

意識がはっきりしたばかりで状況が読み取れていない祐一には、自身の置かれた立ち位置だって分かるはずもない。
俯き思案顔の祐一を覗き込むよう、体勢を低くしながら聖は気さくに話しかける。
それにより強調されたボリュームのある胸部に一瞬視線をやった後、祐一はあらためて聖と目を合わせた。

435コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:29:31 ID:fhU/1vc20
「えっと、あんたは……」
「私は霧島聖。医者だ」
「これは、あんたが?」

施された手当てを指差しながら祐一が問うと、聖はそうだと頷き返す。
よくよく考えれば、それはすぐに理解できることであろう。
祐一の体を入念にチェックしていた聖はきっと、彼の傷がこの場所以外のどこかにないか探していたに違いない。
素人とは思えない手さばきに祐一が驚いたのは、ついさっきのことだ。
羽織っている白衣から覗くTシャツは少々胡散臭いものの、彼女が医者だといのは恐らく嘘ではないだろう。

「出血がひどかったから、勝手だとは思うが君の服は処分させてもらった。今連れが代わりの衣服を探しに出ている」
「先生!」
「お、もう戻ってきたみたいだぞ」

それは祐一が寝ていたベッドからもよく見える、廊下に続いているであろう扉の外からかけられた声だった。
ガラッと勢いよく開けられた扉から現れた、祐一と同じ年頃くらいであろう二人の少女の表情は明るい。
活発そうな短髪の少女と、おとなしそうなロングヘアの少女。
敵意を感じさせない雰囲気に、祐一は緊張を覚えることなく彼女等の動向を眺めていた。
一足先にと駆けて来たのは活発そうな少女の方であった。
活発そうな少女は小走りで聖に近づと、自信に満ちた表情で戦利品であろう手に持っていた物を広げる。

「先生、これでどう?」
「うむ、理想的だな。よく見つけてくれた」
「見つけたのは美凪。見本で飾ってあったのよ。何か女子の方はなかったんだけど、男子のはあったからちょうどいいかなって思って」

えっへんと胸を張る少女が手にしているのは、黒をベースに赤のラインが入っている一着のジャケットだった。
デザインからして、制服の類のような独特の印象を受けさせる。
実際それはここ、鎌石村小中学校に飾られていた制服であった。
少女の腕にはジャケットに付属すシャツやネクタイもかけられていたため、どうやらマネキンを裸にして持ち運んできたのだろう。

436コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:29:58 ID:fhU/1vc20
「ズボンはいらないと思ったんですけど、一応」
「そうか。美凪君もありがとう」
「いえ」

活発そうな少女の後ろからゆっくりと歩いてきた大人しそうな少女が、聖の言葉に対しその細い首を緩く振る。
彼女腕に衣服はかかっているそれが、恐らくそれがズボンなのだろう。
祐一はじっと、そうして活発そうな少女と共に聖の横に並ぶ大人しそうな少女の仕草を眺めていた。
さらさらと揺れる黒髪は、色は違うけれどどこか祐一の幼馴染のヘアスタイルに通じるものがある。
彼の幼なじみも、どちらかというばのんびりとしたタイプだった。
この少女のような上品さは見えないものの、それでも祐一は幼なじみの懐かしい感覚にひたりながら彼女のことを見つめていた。
しばらくしてその視線に気づいたのか、大人しそうな少女が祐一の方へと面を向ける。

「あ、ごめん。何でもない」
「……はい」

少女のか細い声から受ける印象は儚さそのもので、祐一は少し高鳴る胸の鼓動に一人俯き耐えるのだった。

「さて、じゃあ早速着替えたまえ」
「は?」
「いつまでもその格好でいては、風邪を引いてしまうかもしれないだろ」

唐突な聖の言葉に呆気に取られる祐一だが、その間に活発そうな少女が祐一のベッドに向けてジャケット等を放ってくる。
乱暴な仕草にむっとするものの、少女に悪意はないらしく祐一も余計な口出しはしない。
祐一は衣服をかき集め、その中からシャツを引っ張り出し軽く羽織った。

「ズボンです。どうぞ」

ずずっと、大人しそうな少女が手にしたズボンを祐一に差し出す。
きちんと手渡ししてくる少女の礼儀良さは、活発そうな少女に比べることで尚更際立つだろう。
しかし、祐一は足を怪我した訳ではない。
実際ズボンは身に着けているままだったので、祐一は大人しそうな少女に丁重な断りを入れる。

437コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:30:25 ID:fhU/1vc20
「下はいいよ。別にケガもしてないみたいだからさ。ありがとう」
「……」
「いや、だから」
「ズボンです。どうぞ」

ずずずっと、大人しそうな少女が手にしたズボンを祐一に差し出す。
大人しそうな少女は、見た目に寄らず意外と強引だった。

「一応制服なんだし、上下合わせた方がおしゃれなんじゃない?」
「こんな所でおしゃれなんて追求してもなぁ」
「いいからいいから。っていうか、あたし達いたら着替えにくいわよね。ちょっと出るから、着替え終わったら呼んでよ。ほら先生、美凪も」

活発そうな少女は一通り捲くし立てると、ベッドを隠すための白いカーテンを勢いよく引き祐一の姿を隠す。
活発そうな少女は、見た目通り強引だった。
女性陣に押されっぱなしの祐一は、小さく溜息をつきながら渡された衣服に着替え始めるのだった。





「……会話をしてみた感じでは、危険な印象は受けないな」

祐一が着替えをしているベッドを遮っているカーテンの向こうにて、聖は声を絞りながら話し出す。

「と言っても、君達が戻ってきたのが予想より早くてな。そこまで込み入った事情等はまだ一切聞いていない」
「でも、生き返ってよかった」
「こらこら、別に彼は死んでいた訳じゃないんだぞ」

先ほどまで活発そうだった少女、広瀬真希のとんちんかんに思える呟きに、聖は笑い混じり言葉を返した。
しかし真希の表情は重い。
見た目だけなら出血もひどく、危険に見えた祐一の姿に受けたショックを真希はまだ拭えていないのだろう。

438コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:30:53 ID:fhU/1vc20
「大事じゃなくて、よかったです」
「そうね。本当に」

与えられたトラウマに気を落とす真希の隣、遠野美凪に変わった様子は見えない。
内心は分からないが、それでも連れである美凪が飄々としているのだ。
これ以上自分も弱気でいてはいられないと、真希は頭を振って気を取り戻そうとする。
彼女も、転んではただで起きない強情者である。
格好悪い姿を美凪に見られてしまったという恥を胸の奥に押し込み、真希は改めて自分に叱咤するのだった。

「あと先生、あたし達はあたし達であいつに聞きたいことがあるの」
「ほう?」
「ほら、北川って奴がいるって話したでしょ。多分ね、あいつ北川と同じ学校通ってるわ」
「制服、同じなんです」

二人の証言に聖は目を丸くする。
そのような可能性が頭になかった聖からすれば、まさかの繋がりだった。

「もしかしたら、あいつ北川の知り合いかもしれない。そのことでちょっと話してみたいかなって」
「そうか。ぜひそれは話してみて欲しいな」
「……北川が探していたのがあいつだったら、別れなくてもよかったのに」

ぽそっと漏れた真希の言葉に、聖が気づいた様子はない。
彼女の不安は、同じように美凪の中にもあるだろう。
彼女等の仲間であった北川潤は、親友が殺し合いに乗るかもしれずそれを止めたいと語り二人から離れていった。
実際それは潤がジョーカーとして行動を開始するための虚言だったのだが、真希も美凪も気づくはずなどない。
せめて潤から彼が探している相手の名前だけでも聞いておけばよかったと後悔する真希だが、それも今更の事である。

439コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:31:16 ID:fhU/1vc20
「彼の傷は、かなり時間が経っているものだ。恐らく彼を攻撃した人物もとっくに離脱をしている可能性はあるが……やはり、ことみ君を一人にしてきたのは気になるな」
「なら先生、あたし達が行ってくるけど」
「いや、何だかことみ君も思いつめていた様子でな。危険であることは違いないが、少し一人にしてやりたいという思いもある」
「あのふてぶてしいのが?!」

また好き嫌いの問題ではなく、真希とことみは何かと剃りの合わない場面が多い。
つっこみに定評のある真希だが、美凪の上を行く独自の世界観をもつことみには多少なりとも苦手意識があるのかもしれなかった。
そんなマイペースな面の強いことみが思いつめていると聞き、真希も思わず声を上げる。
想像できないのだろう、眉を寄せる真希に苦笑いを溢しながら聖は話を続けた。

「それで君達が嫌じゃなければなんだが、彼が安全そうである場合ぜひ灯台まで行くのに同行して貰いたいと思っている。彼が他に何か目的を持っていない場合、だが」
「別にあたし達はどうでもいいわよ」
「えぇ、先生にお任せします」

聖は今回の祐一との遭遇で、危険な争いが起きているという事実を改めて自覚していた。
これから血生臭い事に巻き込まれた場合、女だけでのコミュニティでは圧倒的に不利だという思いが強いようである。

「まあ彼は怪我人だから、前線で争わせたりすることはしない。だが精神面で男がいるかどうかは、大分変わるだろうからな。それにいるだけでも、はったりくらいにはなるだろう」

女だけのグループでは、舐められる対象として格好の的になってしまう。
そういう意味で、聖は男手を欲しがっているのだ。
実際真希も美凪も、聖の言い分に反対する考えなど一切浮かんでいなかった。

「いざという時、君達はまず自分の安全を考えてくれて構わない。万が一の場合は、私が動く」

続けられた聖の言葉は、重い。
鋭い聖の強面に含まれた覚悟に、真希が小さく息を飲んだ。
それぐらいの迫力が今の聖にはある。
逃げも隠れもしないといったその雰囲気は頼もしいが、それでも危険なことに巻き込まれないのが一番であろう。

440コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:31:39 ID:fhU/1vc20
「……このまま、何事もなければいいんだけどね」

ぽつりと漏れた真希の言葉に、答える者はいない。
誰もが思う、当たり前の願いである。
しかしそれが実現するかは、行われた死者発表の放送にて呼ばれた人数の量から計る確立だ。
叶うことが難しい願望に縋っていては、前に進むことはできない。
聖の心はもう決まっていた。
生き残ること。
そしてこの島から脱出するということ。
亡くなった妹のことが気にならない訳ではないが、それでも今聖の傍にはか弱い少女達が集まってしまっている。
皆、聖の妹とは同年代であろう。
せめてこの子達は欠かさず救ってあげたいという思いが、今聖を突き動かしている原動力だった。

「着替え終わったぞ」
「ああ、今行こう」

会話が止まり気まずいとも呼べる空気が流れていたので、祐一からかけられた声は聖達にとって本当に良いタイミングだった。
暗い雰囲気を掻き消し、三人は再びカーテンの向こう側へと戻る。
カーテンを開け隠されていたベッドスペースを曝け出すと、そこには少し気恥ずかしそうに襟元のネクタイを弄っている祐一の姿があった。

「よく似合ってるぞ、少年。サイズはちょうどいいみたいだな」
「男前度が上がったんじゃない?」
「ぽっ」

上下きちんと制服を着込んだことから、祐一の印象も大分変わったかもしれない。
鏡がないため今自分がどのような格好になっているのか祐一自身は分からが、それでも似合っていると言われれば気分はよくなるものである。
頬を掻く祐一の満更でもない表情に頃合所かと、聖は改めてベッドに腰掛けるよう祐一に勧めた。
自分は脇に添えられた椅子に座り、聖は本題を口に出す。

441コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:32:09 ID:fhU/1vc20
「じゃあ、君の事情でも聞かせてもらいたいと思う。その怪我を負った時のこと、覚えているか?」
「あ、あぁ……」

走る緊張感に、聖の後ろで待機する二人の少女も口を噤む。
訪れた静寂は、祐一に早く口を開けと催促しているようにも見えた。
ごくっと一つ息を吐き、祐一はあの場面を思い出そうとする。
オロボロの少女のこと。共にここ、鎌石村小中学校に訪れた仲間達のこと。

(そう言えば、神尾達は……)

そうして甦った状況は、今祐一がこんな所で呑気に休んでいる場合ではないと告げていた。
さーっと血の気が引いていくのを感じながら、祐一は困惑を振り払おうと頭の整理を尚しだす。
焦ってはいけないと自身に言い聞かせながら、震える唇を祐一が動かそうとした。
その時である。

「……誰だっ!」

突然の聖の怒声に肩を竦める一同、祐一も思わず口を噤んだ。
聖の変容は一瞬で、何が起きたか理解できていないメンバーは戸惑うしかない。
聖の目線は、先ほども真希と美凪が入ってきた廊下に繋がる扉に伸びている。
誰かそこにいるという確信は聖以外持っていないようで、真希も美凪もお互いの顔を見合わせながら不安そうに聖の出方を待つしかない。
少しの間の後開け放たれた扉を見つめながら、聖は素早く自身へ支給品されたたベアークローを装着した。

「ことみちゃん」

緊張の糸が、切れる。
扉に手をかけながら保健室の中に足を踏み入れてきた少女の声で、聖の殺気は掻き消された。
真希も美凪もほっと息を吐いていることから、祐一は少女が彼女等の知り合いであると予測付ける。

442コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:32:29 ID:fhU/1vc20
「ことみ君、もういいのか?」

少女は頷き、ぽてぽてとそのまま聖の元へと近づいていった。
少女を笑顔で迎える彼女等の中、祐一は一人ポツンと残される。

「紹介しよう、一ノ瀬ことみ君だ。彼女で私達のグループは全員になる」
「あ、あぁ」
「ひらがなみっつで、ことみちゃん」
「よろしく……」

ことみのマイペースに拍車をかけたしゃべり方に押されながら、祐一も小さく頭を下げる。

「ねえ。何か分かったこととかあるの?」
「はい、これ」
「地図?」

真希に話しかけられ先ほどのプリントアウトされた地図を手渡すと、ことみは聖に向き合う。
落ち着いた様子に外傷も見当たらないことみに、聖は心底ほっとしていた。
別れ際のことがあったのが原因だろう。
とにかく無事でいてくれたということで、聖は気さくにことみの頭に手を伸ばしながら話しかける。

「良かった。何もなかったようだな」
「そんなことないの、ピンチだったの」

声のトーンが変わらないせいか、真剣に聞こえないことみのことばに聖が眉を寄せる。
しかしその疑いは、聖の過ちだった。
それからかくかくしかじかと語れたことみの出来事に、緩んでいた聖の頬は一瞬で引き締められた。

443コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:33:00 ID:fhU/1vc20
「……おい、ことみ君」
「?」
「君が撃退したというその少年のことだが……具体的に、彼は君に何もしていないということでいいんだな」

こくりと頷くことみに、聖は大きな溜息を吐く。
聖達が出てから、一人の少年に出会ったということ。
それを撃退したということ。
怪しいと思える人間、しかも男が相手では仕方のない反応かもしれないが、これではことみが容赦なく相手に襲い掛かったようなものであった。
その少年を放っておく訳にも行かないだろうと頭を抱えそうになる聖だが、次のことみの言葉でまた顔色が変わる。

「臭いがしたの」
「何だって?」
「血の臭い。絶対消せないくらい、濃かったの」

困ったように、ことみは少し眉を寄せていた。
あれだけ少年と近づいたから気づくことが出来たのかもしれない、自身の嗅覚が確かに捕らえた生々しいものの正体にことみはそっと目を伏せる。
ぽかんと。
ぽかんとしている聖は、ことみの言葉をすぐには理解できなかったのだろう。
しかしそれも、一瞬のことである。
徐々に強張っていく聖の形相、俯くことみはそれに気づかない。
印の入った地図を見ながら話している真希と美凪も、気づかない。
祐一だけが。
遠目から聖とことみの様子を覗いていた祐一だけが、聖の変化に気づいていた。
体を震わせながら拳まで固めだした聖が、いきなり力の限りといった様子で真横にあった壁を殴りつける。

「そういうことは、先に言ってくれたまえ!!」

444コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:33:27 ID:fhU/1vc20
決して大きくはない聖の声に混じっている苦さは、そのまま保健室の中に染み渡った。
騒ぎだすことはないが明らかに変貌した聖の様子に、地図に見入っていた真希と美凪も驚き振り返る。
祐一も、奥で一人体を硬くしてた。
聖の感じる激情の意味が思いつかないのか、ことみだけがきょとんと首を傾げている。
はぁ、と大きく溜息をつく聖に、何も分かっていないことみは裏のない労いの言葉をかけた。

「せんせ。おつかれさま?」
「そうだな、ここに来て今が一番疲れた瞬間かもしれないぞ……」

聖が整理しなければいけない情報は、山ほどある。
ことみが撃退した少年のこと。
放置している、保健室のベッドに腰掛けさせたままの祐一のこと。
そういえば、聖はことみがパソコンルームで上げた戦果についても一切の情報を得ていなかった。

(何から片付けろと言うんだ……)

時間に余裕があれば、聖もそうして悩み続けることができただろう。
しかし、彼女にそんな猶予が与えられることはない。

―― 廊下が、鳴る。

距離は遠いだろうが、確かな一定のリズムに気づき聖は思わずはっとなった。
それが人間の奏でる足音だと理解できた時、聖の背中に嫌な予感が走り抜ける。
装着したままである聖のベアークローが小刻みに震える様、その様子が視界に入ったらしいことみは不思議そうに首を傾げるだけだった。

445コスプレロワイアル:2009/02/05(木) 00:33:48 ID:fhU/1vc20
一ノ瀬ことみ
【時間:2日目午前7時30分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:聖に注目】

霧島聖
【時間:2日目午前午前7時30分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:困惑】

広瀬真希
【時間:2日目午前午前7時30分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:聖に注目】

遠野美凪
【時間:2日目午前7時30分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:聖に注目】

相沢祐一
【時間:2日目午前7時30分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:聖に注目・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

少年
【時間:2日目午前7時15分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・二階、パソコンルーム】
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、MG3(残り17発)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、グロック19(15/15)・予備弾丸12発。】
【状況:麻痺・効率良く参加者を皆殺しにする】


(関連・994・1012)(B−4ルート)

446十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:02:27 ID:oO7s4YPQ0
 
『―――俺の声は届いているか』

返答の代わりに伝わってきたのは、息を呑む気配である。
雄弁な沈黙に、坂神蝉丸は言葉を続ける。

『青の世界を知り……そして今、長瀬源五郎と戦うすべての者に―――』

僅かに間を置いた、その瞳には炎が揺らめいている。
朱く燃え盛る焔ではない。
静かに、密やかに、しかし何かを成し遂げる者の目に必ず宿っている、それは青い炎だった。

『お前たちに―――共闘を申し入れる。その力、俺に貸してほしい』

告げた言葉が届くまで。
その瞬きをするよりも短い空隙が、重い。

「な……! 坂神、貴様……!?」

最初に反応を返したのは、音を伴った声。
蝉丸の間近に立つ男、光岡悟であった。

「何を考えている!? 奸賊を討ち果たすのに、連中の手など……!」
『……声に出すな、光岡。どうやらここはまだ青の世界の地続きだ、思えば伝わる』

これから先の話を長瀬に聞かれることもない、と付け加えて、蝉丸がちらりと辺りを見回す。
時は動き続けている。
声を聞かれることはなくとも、巨神像の苛烈を極める攻撃は続いていた。
聞こえる地響きと奔る閃光が狙うのは、蝉丸が考えを伝えようと語りかける面々である。
言葉を返そうにも、その余裕すらない者もいるだろう。
故に蝉丸は返答を待つことなく、また自身も正面に立つ大剣の巨神像の動向に気を配りつつ言葉を続ける。

『俺たちに残された時間は、あまりに短い。長瀬の告げた刻限―――正午零時まで、あと千秒を切っている。
 このままでは埒が明かんと、お前たちも感じているだろう。故に……』
『一つ、よろしいですか』

光岡に、また他の面々に言い聞かせるように説く蝉丸の言葉を遮ったのは、冷え冷えとした印象を与える声だった。

『……鹿沼葉子、か』
『はい。私の声もそちらに伝わっているようですね』
『何か、あるか』
『ええ。あなたの言う正午零時、というタイムリミットですが―――、……ッ、一旦下がります。
 カバーをお願いします、郁未さん』
『ちょ……って、勝手なんだから……ッ!』

焦るような声音。
葉子たちが対峙しているのは、蝉丸とは長瀬の本体を挟んでほぼ反対側。
南西、槍使いの巨像である。

447十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:03:00 ID:oO7s4YPQ0
『……失礼、続けますが』
『ああ』
『正午零時とは、太陽の南中時間を意味していたはずです。あなた方はこの神塚山頂に光学戰完成躰の陣を展開させ、
 陽光が最大となるその時に、この島を一気に殲滅しようとした』
『その通りだ』
『……』

悪びれもせずに応じた蝉丸の返答に、葉子が絶句する。
同時に聞こえた舌打ちは天沢郁未のものであっただろうか。

『……それは、置きましょう。ともあれ、光学戰完成躰はどうやらそこの怪物に呑まれて全滅の憂き目に遭った。
 ならば既に、南中の時間に意味などないのではありませんか』
『いや……そうとも、言い切れん』

葉子の疑念に答えた声は、蝉丸のものではない。

『光岡……?』

予想の外から発せられた言葉に眉根を寄せた蝉丸が、表情を険しくする。
眼前、大剣の巨神像が体勢を立て直し、その恐るべき破壊の鉄槌を天高く振り上げるのが目に入っていた。
立ち尽くす夕霧を抱えて駆け出した、蝉丸の心に響くのは光岡の言葉である。

『長瀬はこう言っていたはずだ。―――天よりの祝福が降りるまで、と。
 ならば、思い当たる節がある』

ちらりと見やれば、光岡もまた疾駆している。
その姿も振り下ろされる大剣に隠されてすぐに見えなくなった。
岩盤が抉られて飛び来る石礫を手の一刀で叩き落しながら、地響きに脚を取られぬよう、走る。

『我が國にはな、あるのだ。天空の彼方より夷狄を滅ぼさんとする、最後の徒花が』
『何……?』
『俺とて詳しくは知らされておらん。だが閣下は事に当たり、その確保を焦眉の急とされておられたはずだ。
 名を―――天照』
『アマテラス……』

駆ける蝉丸が、その名を聞く。
呟くような声は、誰のものであったか。

『天よりの祝福……か。畏れ多くも光明神の名を戴くとは……些か、寓意が過ぎる』

苦笑するように口の端を歪めた蝉丸が、それきり黙って眼前の大剣に集中する。
巨像の注意を引き、話に乗ってきた光岡の負担を減らそうという位置取りであった。
俄かに訪れた短くも重い沈黙を破ったのは、鹿沼葉子である。

448十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:03:25 ID:oO7s4YPQ0
『それは……先年、打ち上げに成功した衛星のことですか。しかし、あれは……』
『情報衛星、と発表されている。だが実態は、地上への攻撃を目的とした施設だという話だ』
『そのような夢物語を、本気で?』
『未だ完成には至らぬまま、試作段階で打ち上げたとも言われている。
 しかし長瀬の、あの自信……虚勢と片付けるのは難しかろう』
『……仮にそんなものが、実在したとして。あの怪物がそれを掌握していると?』
『天照には神機の技術が使われていると聞いている。……そして長瀬は、神機を取り込んだ。
 可能性は、十分にあるだろう』
『……神機?』

苦々しげな光岡の言葉に、葉子が疑問を差し挟む。

『貴様等も見ただろう。この島を蹂躙した、人型の兵器だ』
『……昨夜出た、白と黒のヤツか』

荒い呼吸の中で吐き捨てたのは天沢郁未である。

『そうだ。あれは我が國で造られたものではない。古い遺跡から発掘された、得体の知れぬ代物だ。
 だがその技術は我々の水準を遥かに凌駕していた。それを研究していたのが、犬飼俊伐と……』
『目の前の、あれというわけですか』

長瀬源五郎。
人の形を捨て、神を名乗る怪物と成り果てた男。

『……よく知っているな』
『あの世界では、私たちも色々と見せていただきましたから』
『え、そうだっけ?』
『……あなたも体験したでしょう、郁未さん』

呆れたような声は一瞬。

『で、それがあの怪物の切り札であったとしましょう。
 正午零時にそれが放たれるまでに、あれを討たねばならない。
 だからといって……それが、どうしたというんです?』

峻厳とすら感じられる、厳しい声。

『私たちはここまでも、あれと戦っている。共闘といったところで、結局はあれを倒すという
 その目的が変わらないのなら……このような無駄話をするだけ、時間の無駄でしょう』
『それは……』
『―――その先は、俺が話そう』

光岡の言葉を引き取ったのは蝉丸である。
入れ替わるように退いた、その夕霧を抱えた身を狙うように、有翼の女神像から白い光球が放たれる。
横合いから飛ぶその光球が、次の瞬間、光岡の一刀によって斬り飛ばされていた。
絶妙の呼吸である。

449十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:03:58 ID:oO7s4YPQ0
『……どれほど傷つけようと、奴にはあの奇術じみた修復機能がある。
 個々にあれと対したところで、時を無駄に費やすだけだ』
『なら……』
『お前たちも見ただろう。あの銀色の記憶を』

反論の声に被せるように、蝉丸が続ける。

『そして俺は聞いた。夕霧の……長瀬に囚われた同胞を求める、砧夕霧の声を』
『……』
『声は願いと、手段とを俺に伝えたのだ。長瀬から同胞を救い出す、唯一の道があると。
 それこそが、あの銀の湖―――否、八体の巨神像に護られた、長瀬源五郎本体の中心部。
 あれを築き上げているのは夕霧の同胞であった者達だ。辿りつければ……心を、通せる。
 長瀬を―――崩せる』

反応を待つように、一度言葉を切る。
返答は、ない。

『俺の……俺と夕霧の道を、切り開いてほしい。それが俺の求める、共闘だ』

請い願うような、声。
虚飾や欺瞞の一切を振り払う請願であると、確かに伝えるような震えを伴った、それは声だった。
しかし、

『……は!』

最初の反応は、嘲笑だった。
吹けば飛ぶような誠実を嘲り笑う、天沢郁未の声。

『黙って聞いてれば勝手なことをベラベラと……下らないんだよ、軍人。
 信用しろって? あたしらをこんなところに放り込んだ連中の手先を?
 背中から撃たれるのが目に見えてるってのに、共闘が聞いて呆れる!』
『……郁未さんの仰る通りですね。私達には貴方を信じる理由がない。
 そもそも私達に届いたのはイメージだけ、貴方の言う声など聞こえませんでした。
 鵜呑みにする方がどうかしているでしょう』

畳み掛けるような葉子に、蝉丸が何かを言い返そうとした瞬間である。

450十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:04:35 ID:oO7s4YPQ0
『……私にも、聞こえた』
「―――!?」

思いもよらぬ声であった。
低い、しかし若さの滲み出る少女らしき声。
知らず、蝉丸が絶句する。

『……もどりたい、と。そう言っていた』

口をついて飛び出しそうになった誰何をどうにか押し留める。
おかしい、と思考が急速に転回していく。
声が、蝉丸の心の声が届くのは、あの青一色の世界を知る者だけのはずだった。
少なくとも、蝉丸はそう願い、伝えた。
光岡悟がいる。天沢郁未と鹿沼葉子がいる。
そして水瀬名雪がいるはずで、今の声は、その誰とも違う。
おかしい。数が合わぬ。
ならば、今の声は、一体誰のものだ。
意識に、一瞬の空隙が生まれた。

「……ッ! 気を抜くな坂神! 上だ!」

光岡の声に弾かれるように見上げたときには、遅かった。
遅いと、分かった。
駆けるも退くも間に合わぬ。
豪断の刃は、それほどに近かった。
せめて夕霧だけはと、たとえそれが直撃して肉塊と化すのと至近に爆ぜる風圧で引き裂かれるのと、
それほどの違いでしかないと分かっていながら肩に乗せたそれを突き飛ばそうとした、その寸前。

『―――どうした、見せてくれるんだろう? この戦いの終わりを』

声と共に、雷鳴が轟いた。
同時、天を裂いたのは稲光ではない。
それは、空に墨を流したが如き黒の軌跡。
蒼穹を染めた一文字が撃つのは、蝉丸へと迫っていた大剣である。
耳を劈くような音が、爆ぜる。
黒の稲妻が、大剣に直撃していた。

『……ッ!!』

振り下ろされる巨大な城壁の如き刃を真横から撃った稲妻が、互いの軌道を捻じ曲げる。
大剣と稲妻と、その両方が文字通りの火花を散らして鬩ぎ合い、そして離れた。
即ち、天に昇る稲妻と、大地に落ちる白刃と。
落ちた刃が地を抉る。抉られたのはしかし、立ち尽くす蝉丸からは離れた岩盤である。
開いた距離を爆風と石礫とが駆け抜ける間に、蝉丸は抱えた夕霧ごと、その場から飛び退いていた。

「ちぃッ……貴様、新兵でもあるまいに! このまま下がるぞ!」

叫ぶように言い捨てて脇についた光岡と共に、山道を駆け下る。


***

451十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:05:23 ID:oO7s4YPQ0

山頂全体を抱きかかえるように居座る巨躯の間合いから逃れ、じっとりと汗の浮かんだ掌を拭う蝉丸に、
乾いた笑いを含んだ声がかけられる。

『あまりつまらないことで狼狽えてくれるなよ、坂神蝉丸』
『水瀬……名雪か』

それは、黒雷の主である。
文字通りの間一髪で蝉丸を危地から救った女が、訥々と告げる。

『あの声は……私のよく知っている人さ。川澄舞……別段、敵じゃない』

川澄舞。
その名が確かに参加者名簿の中に存在し、死者として読み上げられてもいないことを、蝉丸は思い出す。しかし。
しかし、とそこで蝉丸の思考は再び止まる。
しかし青の世界に、あの黄金の麦畑にその姿は見えなかった。
ならば何故、声が届いた。
何故、夕霧の想いが、願いが届いた。

『ずっといたじゃないか。あの麦畑に、最初から。誰も気付かなかったようだけれど。
 ……ねえ、川澄、先輩?』

そんな蝉丸の心を読み取ったかのように、名雪の声が響く。
ねっとりとした言葉尻に底知れぬ悪意を滲ませたその問いかけに、返事はない。

『冷たいな、恋敵には。……まあ、川澄先輩が言うなら、夕霧の声とやらも本当なのだろうさ。
 その人には昔からおかしな力がある。この世ならぬ何かが聞こえたって不思議じゃない』
 
どこか蔑みを含んだような、薄暗い声音。
だが続いたのは、意外な一言であった。

『……で? お前たちの道を切り開くために、私は何をすればいい?
 指示を出せよ、坂神蝉丸。それがお前の本職だろう』
『……! 水瀬、貴様……』

共闘を呑むという、それは意思表示である。
気付いて何かを言うより早く、

『終わらせたいのさ。まだ……終わらないのなら、終わらせたいんだ』

どろりと呟いた名雪の、その声音のへばりつくような重さが、蝉丸の口を再び噤ませる。

『お前たちもそうじゃないのか、天沢郁未、鹿沼葉子』
『……!?』

話の推移を見守っていたらしき二人が、唐突に名を呼ばれて息を呑む。
やがて諦めたように溜息を吐いたのは、鹿沼葉子であった。

452十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:06:40 ID:oO7s4YPQ0
『……確かに、このまま正午まで手をこまねいている、というのも面白い話ではありません』
『葉子さん!?』
『しかし、あの怪物を倒した後にも戦いが続くというのであれば、共闘するといったところで
 私達が無駄に消耗するだけかもしれません。ならば、高みの見物を決め込むというのも……』
『そうして死ぬか。好きにするさ』
『……ッ!』

郁未が激昂しかけたところへ、

『だが……終わるぞ、この戦いは。あれを始末しさえすれば』

あっさりと、名雪が告げた。
終わる、と。
この戦いが終わると、そう告げられた言葉の意味を、それを聞いた者が咀嚼し、理解し、
そして驚愕するまでに、僅かな間が空いた。

『……っ!?』
『終わ、る……!?』

さしもの葉子も、半ば呆然とした声音で呟いている。

『そうだろう? 光岡……で間違いなかったかな。九品仏の腰巾着』
『な……貴様、どこまで……!?』

名を呼ばれた光岡が二の句を継げずにいるのを、名雪が追い立てる。

『どの道、これ以上隠すようなことでもないだろう。あれの始末を確認次第、
 九品仏が終幕を告げる……式次第はそんなところか』
『水瀬、貴様……、何故……!』
『分かるのさ。こう何度も繰り返していればな。これはもう、終局の形だ』
『何を……!?』
『こちらの話さ。……さて、どうする? お前たちは』

お前たち、と言葉を振られたのは、言わずと知れた郁未と葉子である。

453十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:07:15 ID:oO7s4YPQ0
『本当……なのですか』

押し殺したように尋ねる葉子に、

『……試しに貴様らの首についたそれを外してみるといい。
 そんなものは、とうに鉄屑になっている』

それだけを、光岡が告げた。
それが、答えだった。
首輪。
この殺し合いの参加者を縛っていた、死の頚木。
反抗すれば爆発する、強制服従の証。
それが、機能を失っているという。

『それって、つまり……』
『もう、終わっている……のですか。この……下らない、戯事は』

肯定の返事は、ない。
しかしこの狂気の宴を運営する側の立場にいる光岡が、この状況で作り話をする必然性もまた、
存在しなかった。

『じゃあ……!』
『……』

葉子が、言葉の代わりに深々と息を吐く。
そこへ、

『―――どうする?』

ただ一つの問いが、投げかけられた。
答えは各々、

『あれを片付ければ終わる、って言うんなら……話だけは、聞いてやる』
『……郁未さんが、そういうのなら』

意味は、一つ。

『だ、そうだ。坂神蝉丸』
『……感謝する』

鼻を鳴らしたのは、天沢郁未であったか、それとも光岡悟であったか。
ともあれ、ここに―――ひとつの、結束が成った。


***

454十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:07:43 ID:oO7s4YPQ0
 
「怖気づいたのかね? 君たちがそうして手を拱いている間にも、時は流れていくのだよ。
 ああ、精々有意義に最後の時間を使い給え―――」

巨体を震わせるように、長瀬の声が響く。
その声は来るべき勝利を確信しているかのように、余裕に満ち溢れていた。


***

455十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:08:00 ID:oO7s4YPQ0
 
『―――現況と、展開を伝える』

告げた蝉丸が、山頂の戦況を整理する。

『敵は八体。北から獣使い、北東に黒翼、東の大剣、南東の白翼、南に刀、南西に槍、西に二刀……そして北西の女。
 これより我等は戦力を集中しつつ撹乱戦に入る。その隙を突いて―――』
『貴様が砧夕霧を連れ、神像の防衛線を突破する、か。だが……』
『……北西に回せる手が、足りません』
『ああ。本来であれば最優先の打倒目標は北西、女の像だろう。見る限り、あれが全体の損傷を
 回復させる鍵となっている。まずはあれを黙らせ、しかる後に戦線を構築するのが定石だが』

葉子の懸念、光岡の指摘は的確である。
南西の葉子、郁未。北東側の水瀬名雪。どちらも遠い。
蝉丸の提示した作戦は、火力の集中運用による一点突破―――即ち、狙いを間合いの長い
有翼の二体と槍使いに絞り、他の像の刃が届かぬ隙を駆け抜けるというものである。
北東の黒翼を水瀬名雪、南西の槍使いを郁未と葉子に任せ、光岡が抑える南東の白翼側を抜ける策。
敵に無限とも思える回復がある以上、いかにも苦しい消耗戦となることは予想できた。
が、もはや体勢を立て直すだけの猶予はない。
近海に展開する部隊からの援軍とて、既に間に合わぬ。

『……川澄、頼めないか』

蝉丸のそれは懇願に近い。
川澄舞とは未だ共闘への承諾どころか、まともに意思の疎通すら果たせていない。
頭数として計算できない以上、策はその存在を勘定に入れずに立てられている。
しかし万が一にも舞の力を見込めるならば、北西側の女神像への直接攻撃が可能となるやも知れぬ。
無限の回復さえ断たれれば、攻勢にも意味が生じてくる。
泥沼の消耗戦の末ではない、敵の戦線を崩しての突破すら夢ではない。
そう考えての、懇願である。
だが、しかし。
返ってきた声はそうした蝉丸の想定と期待とを、あらゆる意味で大きく裏切るものであった。

『―――何だ、白髪頭。こんなものに、手こずってるのか?』

声が、した。
川澄舞のそれではない。
悪意と笑みとを含んで湿った、どろりと濁った声。

『この島の、最後の戦いなんだろう? もっと派手に楽しめよ、なぁ……白髪頭』

声が伝えるのは、血の色の貌。
闇夜の奉ずる深紅の月の如き瞳と、牙を剥く獣の如く歪められた口元。
来栖川綾香と呼ばれた女の、それは哂う声だった。

456十一時四十三分(2)/今日が終わっても:2009/02/05(木) 06:08:21 ID:oO7s4YPQ0
 
【時間:2日目 AM11:46】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:健康】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】
砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:健康・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】
水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】
川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ】

来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:―――】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体18000体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【エルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:健在】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1014 1034 1037 1038 ルートD-5

457名無しさん:2009/02/05(木) 06:09:58 ID:oO7s4YPQ0
申し訳ありません。
>>450>>451の間に、以下の文が挿入されます。

***

 
「―――どうしたね、諸君。もう息切れとは、些か早すぎやしないかね?
 理解し給え。神の光を前にして、諸君に逃げ場などありはしないのだよ」

巨体が蠢き、醜悪な声を撒き散らす。
長瀬源五郎の哄笑が、山頂一帯を不気味に揺さぶっていた。


***

458十一時四十六分/明日が過ぎても:2009/02/05(木) 15:55:55 ID:oO7s4YPQ0
 
ご、と。
重く、低く、音が響いた。

それが、神塚山頂を巡る最後の攻防、その再開の嚆矢となった。


***

459十一時四十六分/明日が過ぎても:2009/02/05(木) 15:56:22 ID:oO7s4YPQ0
 
『来栖川……綾香……? 貴様、何故……!』

その名を噛み潰すように呟いた、蝉丸の位置から姿は見えぬ。
だが、哂う声と、重い音と、そうしてぐらりと揺らぐ一体の巨神像が、その存在を誇示していた。
揺らいだのは北西、祈るように目を閉じた女の像。
音は、打撃音である。
しかし巨竜の体躯を挟んで対角に位置する蝉丸の耳に届くその重低音は、およそ人の身によるものとは思えぬ。
重機が廃棄されたビルを打ち崩すような、或いは砲弾が要塞を直撃するような、破砕の轟音。
そも、揺らいだ神像は人の数十倍を誇る身の丈である。
重量にすれば鉄塊と羽毛ほどにかけ離れている。
それを打撃して、更に揺るがせ、なお哂っている。
既にしてそれは、人ならざる異形の仕業である。

『何故……? それを聞くかよ、私に。二度、同じ答えが必要か?』

ささめくように、異形が哂う。
死を超えて、生を踏み躙り、そこに理由は要らぬと、人の道を外れた女は哂っている。
それは女の、来栖川綾香という女の命のかたちである。
愚昧妄執と、是非も無しと坂神蝉丸の断じた、それは在り様を誇っていた。
誇らしげに咲いた拳が、振るわれる。
ご、と。
重く、低く、二度目の鐘が、鳴らされる。

460十一時四十六分/明日が過ぎても:2009/02/05(木) 15:56:57 ID:oO7s4YPQ0
『ああ―――血が、巡る』

びぎり、と嫌な音を立てて傾いだ女の像の、おそらくはその袂の辺りに立つのであろう綾香が、
艶の混じった吐息を漏らした。
いくさ場に散る無念と妄念とを吸って恍惚に浸るが如きその声音に表情を険しくした蝉丸が、
しかし綾香の口にした言葉に、何某かの引っ掛かりを覚える。
血。
血が、巡る。
巡る血と、死んだ筈の女。
鬼を取り込み、薬を取り込み、異形と化した女に流れる、否、女から流れ出る、血。

『―――そうか』

ほぼ同時に結論に至ったらしい光岡が、声を上げる。

『坂神、奴は……』
『ああ。来栖川、貴様……仙命樹をも、その身に取り込んだか』

あの時。
長瀬源五郎の使徒として現れたHMX-13・セリオが、来栖川綾香を盾とした、あの時。
その襤褸雑巾の如き、命の灯の消えゆこうとする躯が、どこに転がったか。
誰のものとも知れぬ血だまりに入って飛沫を上げた、その躯。
誰のものとも知れぬ血だまりとは、果たして誰のものであったか。
それは、先の一戦の最中。

『貴様に斬られた……俺の、血を。呑んだな』

ざっくりと裂かれた、右の脹脛の傷。
既に癒えつつあるそれが、唐突に疼きだしたように感じる。
それは実体のない、後悔の疼痛である。

『知らないな。どうだっていい。私はここにいる。世界の真ん中に生きている。
 大事なのはそれだけだ』

鬼の力と不死の仙薬とを得た女が、それをすら、哂った。
途方もない高慢と底知れぬ驕慢とを以て、それを当然と、笑んでいる。

461十一時四十六分/明日が過ぎても:2009/02/05(木) 15:57:17 ID:oO7s4YPQ0
『不覚だな、坂神。妖を黄泉返らせたか』
『……いずれ、始末は付ける』

ごぐ、と。
三つ目の鐘が、鳴った。

『―――私はまだ人間か? それとも、もう戻れない化物か? どうだっていい。
 ああ、ああ。そんなことはどうだっていいんだ。私はただ、私であるためだけにここにいる。
 ひとまずは―――幾つかの貸しを、返してもらおうか』

みぢり、びぢり、と。
奇妙な音が、聞こえた。
それは、束ねた縄を力任せに引き千切るような。
何かが裂け、撓んでいく、不可逆の破壊音。

『馬鹿、な……』

ただの、三度である。
打撃音が聞こえたのは、三度。
それが、如何なる凄絶さを以て行われたものかは知れぬ。
だが、ただの三撃で。
祈るような女の像が、傾ぎ、戻らず、折れ砕け―――そして、崩れた。

『―――お前は後回しだ、白髪頭』

崩れていく女神像の、巨大な岩塊の降り注ぐ中で、来栖川綾香が宣言する。

「長瀬、長瀬源五郎。返せよ―――私の、人形をさ」

告げたその影に、踊りかかるものがある。
女神像の両脇、北に座する獣使いの像と、そして西、二刀を使う戦士の像。
今や七体となった神像の、その内の二体が動くのと同時。

『……坂神!』
『ああ、今だ―――総員、戦闘を開始する!』

坂神蝉丸の声が、響き渡った。

462十一時四十六分/明日が過ぎても:2009/02/05(木) 15:57:39 ID:oO7s4YPQ0
 
【時間:2日目 AM11:47】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:健康】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】
砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】
来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体16800体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【エルルゥ・フィギュアヘッド:大破】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:健在】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1048 ルートD-5

463儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:00:01 ID:nKYEabcw0
 残り人数は三十人弱……か。
 つまり百人近い人の死体がこの島のどこかに転がっているということになる。
 手始めに首輪爆弾のスイッチを試した姫川琴音も、甘すぎた長瀬祐介も、知り合いだった岡崎朋也、春原陽平も。

 熾烈な争いの中、何とかここまで生き延びてきたことを幸運に思いながら診療所内部で、
 宮沢有紀寧は玩具を弄るようにマシンガンを見回している柏木初音をぼんやりと眺めていた。
 有紀寧よりも小柄な初音が無骨で、暴力的な形状の銃(MP5K)を取り回している様を見ると、
 異常さよりも滑稽さの方が先立って見えた。或いは自分の感覚こそが麻痺しているのかもしれない。

 自分を待ってくれているたくさんの人達のため、という義務感で殺し合いに乗っていた当初とは違い、
 今は半ば自然、自衛をするためならばという気持ちだけで人に凶器を向けられる。

 ……慣れとは怖いものだ。嘲るように唇の形を歪めた有紀寧は、だがこれが人の業なのかもしれないと考える。
 惰性という言葉で感覚を麻痺させ、正義の名の下に目を曇らせなければ闘争の歴史を積み上げてこれない一方、
 動物としての本能が争いを望み、支配し、搾取し、屈服させようとする。
 この殺し合いはそれを体現させたものなのだろう。ここまで生き延びてきた人間も、
 所詮は更に大きな人間の手のひらの上というわけだ。もっとも、生きて帰れるのなら自分にはどうでもいいが。

 わたしにはわたしの世界がある。
 自分はあるべき場所に戻り、元の鞘に納まるだけだ。それ以上は望まない。
 そのために出来る最善の手段を為す――それで余計な思考を打ち消した有紀寧はここから先の予定を考える。

 まず基本の方針だが、やはり隠れて試合終了のギリギリまで待つのが上策だろう。
 全くの偶然とはいえクルツ(MP5Kのこと)を手に入れられたのは奇跡ともいえる幸運だが、
 それ単体で三十人近くを相手にするには火力不足……いや実力不足というのは否めない。
 まだ測りかねている部分はあるものの初音は大体自分と同レベルの身体能力と思っていい。
 さして格闘経験があるわけでもなく、柳川のような屈強な男が数人がかりならこちらは簡単にねじ伏せられる。
 よくて二、三人を道連れにするだけだろうし、そんなものは望んでいない。

464儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:00:24 ID:nKYEabcw0
 別に積極的に殺す必要はないのだ。最終的に生き残っていればそれでいいのだし、最低限以上の武装がこちらにはある。
 攻撃されたときのみ已む無く反撃すればいい。機会が与えられるかどうかは別の話になってしまうが、
 少なくとも問答無用で隠れていた女性二人を襲うくらいの人間なら既にやり合って死んでいるだろう。
 幸いにして、初音はこちらの意向に従順だ。提案は受け入れてくれるはず。

「初音さん。そろそろここを離れましょう。
 柳川さんがわたし達の代わりに戦っている以上、巻き込まれる危険性がありますから」
「うん。分かったよ」

 実に素直な風に初音は頷いた。にこにことした表情は完全に有紀寧に懐いていることを示しており、
 また純粋であったが故の現在の狂気を表したかのようであった。
 こういう人間は使えると思う一方、痛ましいという心情も有紀寧は感じていた。
 何故こんな感情を抱いているのか、自分自身も分からない。殺戮劇という非日常の延長の中にあって、
 もう忘れ去ってしまったものなのかもしれない。

 ただ唯一分かることは、今の初音は家族をあまりに愛しすぎたがためにこうなってしまったということだ。
 どんな生活をしてきたのかは未だ分からないが、これだけは確信できることだった。
 同じ妹という立場として、共に家族を失った人間として、家族を失う喪失感は知り抜いている。
 どんなに後悔したとして、どんなに罪滅ぼしをしたとして、もう戻ってくるはずはない。
 分かり合うことも、喧嘩することも出来ない。
 失った時点で永久に答えは出せなくなり、果てのない堂々巡りの中に自分という存在が置かれる。

 だとするなら、自分は既に狂っていたのかもしれないと有紀寧は思った。
 兄がいなくなり、分かるはずもない兄の幻影を追い求めてかつての兄の仲間の元に身を投じた。
 その中で宮沢有紀寧という存在は薄れ、亡霊を追い続ける宮沢和人の妹という立場の人間に成り下がった……
 だから誰に対しても丁寧にしか話せなくなったし、
 誰に対しても同じような態度を取ることしか出来なくなったのか。

 なるほど、確かに狂っていると有紀寧は納得する。
 『狂気』の定義を、自分の感情をなくした人間、とするとしたらの話だが。
 だがそれを自覚したところで、この病は永久に治せないのだろう。
 亡霊を追い続けるしか生きる術を持たず、またそれ以外の生き方を忘れてしまった自分には……

465儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:00:45 ID:nKYEabcw0
 思い出す必要はないと断じて、有紀寧は思考を打ち切った。
 今は初音と二人、生き残ることだけを考えればいい。
 戦地となりつつあるここからひとまず離脱し、平瀬村方面へと向かおう。
 当初は灯台に向かうつもりだったが、予定変更だ。

 柳川に灯台という行き先を言ってしまったのでもうあそこは安全圏とは言いがたい。既に手駒の柳川だが、
 情報を漏らさないとは言い切れないのだ。
 何かの弾みで、いやそうでなくとも言葉の端から推理されてこちらの居場所を突き止められたのではたまったものではない。
 隠れるだけではなく、何かの情報操作でも行って撹乱できればなおよいのだが難しい。

 ノートパソコンを起動してロワちゃんねるを確認してみたのだが、死亡者に関するスレッド以外はまるで更新がなく、
 見ている人間は極端に少ないのだろう。ここに書き込んでも効果はなさそうだと考えた有紀寧は見るだけに留めておいた。
 ひょっとするとここの管理者にでも頼めば色々と有益な情報教えてくれるかもしれない。
 しかし一応はここもあらゆる人間が見られるシステムにはなっている。

 例えばいつ、どこで誰が死んだかというのを画像で表示してくれと書き込み、仮にそれが実現されたとしよう。
 その情報を得られるのは自分だけではない。書き込んでいないだけで随時チェックしている人物だっているはずだ。
 匿名で書き込めるため自分が頼んだものだとは分からないはずだが、万が一ハッカーのようなスキルを持つ人間がいた場合、
 書き込んだこちらに警戒される恐れがある。そればかりか書き込みを元に情報をリークされ、
 不利な状況になることさえあり得る。メリットは小さく、デメリット、リスクばかりが大きいのでは使う気にもならない。

 結局は残り人数をリアルタイムで確認できるものだと思うしかない、と有紀寧は結論付ける。
 あってもなくてもいいが、あっても困るものでもない。情報の重要さは有紀寧自身がよく知っているところだ。
 まあ、そこまで深く考えなくてもいいのかもしれないが。所詮は誰とも分からぬ人間からの情報なのだから。

「ところで、どこに行くの? 灯台?」
「いえ、逆です。平瀬村の方に行きましょう」

466儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:01:09 ID:nKYEabcw0
 ふーん、とさしたる疑問を持つこともなく初音は素直に頷いた。
 あまりにも素直すぎて、かえって何かを疑いたくなるくらいに。そう思った有紀寧は「あの」と尋ねていた。

「いいんですか、それで? 何か心配するようなことはありませんか」

 すると初音はけらけらと笑って「あるわけないよ」と有紀寧に極上の信頼を湛えた視線を向けた。
 その中身はあまりに真っ直ぐ過ぎて、却ってなにか、空恐ろしいものを有紀寧に感じさせた。

「有紀寧お姉ちゃんは私とずっと一緒にいてくれるんだもん。私のお姉ちゃんなんだもん。
 だから何も間違ってることなんてない。有紀寧お姉ちゃんの言うとおりにしてれば――殺せるから、皆」

 相変わらず真っ直ぐな瞳のまま、声だけを低く唸らせて初音は憎悪を振り撒いた。
 それに初音の言葉はどこか間違っているように聞こえて……だが、有紀寧にはその言葉が正しいと分かっていた。

 このひとなら地獄の底まで付き合ってくれる。お姉ちゃんだから。
 このひとといればみんなのカタキのところまで連れて行ってくれる。お姉ちゃんだから。
 このひとならきっと助けてくれる。お姉ちゃんだから。

 家族の一語で何もかもを信じきることができる、初音の無垢と狂気がそこにあった。
 それも錯覚や逃避などではない。有紀寧を本当に家族と思い、心の底から慕ってくれているのが分かる。
 そうでなければ……この綺麗すぎる、あまりにも綺麗過ぎて馴染む者以外を排除してしまうくらいの瞳を向けてくるはずがない。

 ある種の畏怖を感じる一方、共感のようなものもあった。
 感情を排し、負の要素を甘んじて受け止め狂気に染まったのが自分なら、
 負の要素を排し、信頼の名の下に倫理を作り変え、狂気としたのが初音。
 言うならば黒い狂気と、白い狂気だ。
 全く違うものでありながら、性質は全く同じ。
 自分が手を下したわけでもないのに……実に奇特な縁だ。こういうものを、運命というのだろうか?

467儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:01:30 ID:nKYEabcw0
 不思議な感慨を受け止めながら、有紀寧は「そうですか」と相槌を打つ。
 同時に、初音をだんだんと駒と見なせなくなってきている自分が生まれつつあることも自覚する。
 生き残るためには不要なものだと見なしておきながら受け入れようとしている己がいる。悪くはないと考えている。
 ただの情ではないと思っているのだろうか。同情や憐憫を超えた、
 いや言葉では量りきれない何かが初音との間にあるとでも言いたいのか。
 言い訳にしか過ぎないはずなのに、だが決定的に捨て切れていない自分は何なのだ……?

 そこでまた、有紀寧は自分について考えていることに気付く。
 先程打ち切ったはずなのに性懲りもなく悩んだりしている。どうかしている。
 胸中に吐き捨て、有紀寧はもう初音についてどうこう考えるのはやめにしようと思った。
 問題がなければいい。本当に考えすぎた。落ち度さえなければそれ以上深入りはしなくていいんだ。

「分かりました。ならわたしについてきて下さい」
「うん。あ、さっき皆殺すって言ったけど……有紀寧お姉ちゃんは私が守るからね、絶対」
「……ありがとうございます」

 笑顔のままクルツをかざす初音に、有紀寧は平坦な口調で応える。
 元からそんなつもりなどない。誰も信用せず、自分一人で生き抜くつもりだったのに……どうして、こんなに尽くす?
 一瞬、有紀寧の脳裏にはここに来る以前の、資料室のお茶会の風景が浮かんだ。
 毎日のように会いに来る兄の友達。初音はあまりにも彼らに似すぎている。
 誰でもできるような丁寧な物腰でしか対応していないのに、何故こんなに懐くのだろうか。

 家族。またその一語が出てくる。
 家族の亡霊を追いかけているはずのわたしが、家族と思われている。
 皮肉なものだと笑いながら、必要としている彼らの存在を再認識し、戻ろうと有紀寧は思った。

 あの資料室に。

 あの変わらない世界に。

 そうして玄関で靴を履こうとしたときだった。

468儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:01:53 ID:nKYEabcw0
「待って」

 肩を叩き、小声で呟きながら初音はじっと、どこかに意識を傾けていた。
 既に笑みは消えている。ただならぬ様子に有紀寧も眉根を寄せ、異変が起きているのかと考える。
 妥当な線としては誰かがこちらに近づいているといったところか。
 柳川が仕留め損なったか、或いは兎が迷い込んできたか。どちらにしてもここはチャンスだ。
 有紀寧はリモコンを取り出すと初音の耳元に口を寄せる。

「近くに誰かいるのでしょうか」
「多分……足音が聞こえるから。でも、かなり近くみたい。こっちに来る」

 有紀寧には耳を澄ましても聞こえない。余程初音の聴覚がいいのだろうか。
 クルツを構えかけた初音を、有紀寧が制する。

「待ってください。ここはわたしに。……タイミングのようなものは計れますか」
「なんとなくは……でも、大丈夫?」
「わたしを誰だと思ってるんですか」

 きょとんとした表情になったのも一瞬、すぐに「そうだね」と微笑を浮かべた初音の顔には誇らしさが滲み出ていた。

「うん、じゃあ任せたよお姉ちゃん。大丈夫だと思ったら肩を叩くから、後はお姉ちゃんが」
「ええ」

 頷くのを確認すると、初音は再び外界へと集中を向ける。恐らく、初音が肩を叩くのはすぐだろう。そういう予感があった。
 本日三度目の使用となるであろうリモコンに目を落としながら、有紀寧は初音の合図を待った。
 どくん。どくん。どくん。
 心臓の音を音楽にして時が刻まれる。
 いつだ、いつ来る――?

「……!」

469儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:02:14 ID:nKYEabcw0
 そうして永遠にも近い一瞬が過ぎ去ったとき、とん、と。
 肩が叩かれたのをスイッチにして、有紀寧は玄関の扉を押し開けていた。
 目と鼻の先。初音の読み通り、そこには。

「えっ……?」

 今、まさにこちらがいた民家に侵入しようとしていた女の顔がそこにあった。
 女の不運と、初音の聴力と、僅かな幸運に感謝しながらも容赦なく有紀寧はリモコンのスイッチを押した。
 十分に接近していたことも相まって、ろくすっぽ狙いを付けずとも首輪は点灯を始めていた。
 いきなり何をされたか分からず、呆然としたままの女に、有紀寧はいつもの笑みを浮かべる。

「はじめまして。驚かせてしまってすみません。でもしょうがないですよね、殺し合いなんですから」
「え、え? あの、あなた、どうして……?」

 よく見れば、女は自分と同じ学校の制服だ。ひょっとするとこちらのことを知っているのかもしれない。
 これでも以前はちょっとした有名人だった。資料室を住み処とするおまじない少女と。
 だがそんなことはどうでもいい。取り敢えずは概要を告げてやろう。有紀寧はこれ見よがしにリモコンを掲げてみせる。

「まずは自己紹介をしましょうか。わたしは宮沢有紀寧と申します。あなたのお名前は?」
「ふ、藤林……りょ、椋、です、あの、い、いきなり、私になに、したんですか」

 困惑と恐怖をない交ぜにしたように視線を泳がせ、歯をカチカチと鳴らす椋。
 自分の取った行動だけでここまで怯えられる要素はない。だとすると、ここに来るまでに何かがあったと見るべきだった。
 まったく存在を忘れているようだが、その手にはショットガンらしきものも握られている。警戒はするべきだ。
 頭の隅にショットガンの存在を置いておきながら有紀寧は「藤林さん、ですか」と話を続ける。

「端的に言えばあなたの首輪の爆弾を作動させたんです。鏡を見れば分かると思いますよ?
 藤林さんの首輪は、赤く点滅しているんですから。24時間後には……ぼんっ、と爆発するでしょうね」
「え、え、え……え?」

470儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:02:31 ID:nKYEabcw0
 ありえないとでもいうように表情を硬直させ、目の前の現実も分かっていない風であった。
 こんな調子でよくここまで生き延びられたものだ。……それとも、予想外の事態には何も対応できないだけなのか。
 或いは、これも演技かもしれないと思いながら有紀寧は大袈裟に嘆息する。

「このリモコンで作動させたんですよ。このボタンを押したが最後、24時間後にはあなたは死んでしまうわけです。
 無論解除する手段もわたしが持っていますが――」

 そこまで言ったとき、恐怖に慄いていたばかりだった椋の目元がスッ、と細められるのを有紀寧は目撃した。
 同時に、だらりと垂れ下がっていたショットガンが持ち上げられ有紀寧に照準を合わせようとする。
 やはり演技……! ここまで生き抜いてきた本能が彼女を衝き動かしたのか、それともここまで狙っていたのか。
 舌打ちしながらリモコンのスイッチを押そうとしたが、椋の方が明らかに早かった。
 やられる――思ってもみなかった自身の反射神経の鈍さを呪いかけたときだった。

「そこまでだよ」
「っ!?」

 椋の側頭部にぐりっと銃口が押し付けられる。いつの間に移動していたのか初音が椋の動きを止めていたのだ。
 有紀寧同様微塵の容赦も感じられない、ただ暴力的なクルツを押し当てて初音は今にもトリガーを引かんとしている。
 意外な初音の俊敏さと行動力に安堵と驚嘆を感じながら、有紀寧はホッと一息ついた。
 流石にここまで生き残っただけはある。無意識だったとしても今の行動は見事だと言わざるを得ない。

 有紀寧は再びにこやかな顔に戻すと「お見事です」と拍手を向ける。
 椋は完全に途方に暮れて情けない表情に移り変わり、「や、やめて、殺さないで」と泣き言を呟いている。
 悪態のひとつでもつけばいいものを。強いのだか弱いのだか分からない椋に苦笑しつつ、
 有紀寧はデイパックから粉末と支給品の水を取り出す。

「さて、ちょっとしたお仕置きですね。藤林さん? この薬、飲んでいただけますよね?」
「な、なにするんですか? それ、何なんですか」
「状況分かってる? 有紀寧お姉ちゃんの言う事聞かないと……」

471儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:02:50 ID:nKYEabcw0
 怯えて受け取らない椋の頭にめり込ませるかのような勢いで初音はクルツを押し付ける。
 本当に言葉の清らかな音色とは程遠い。殺戮の天使ともいうべきなのか。
 人殺しなんてダメだと言っていた初音と同一人物だとは思えない。
 愛情も転化すれば凶暴性へと早変わりするということか。表裏一体とはこういうことなのだろうと思いながら、
 有紀寧は椋が自ら薬を手に取るのを待った。完全に屈服させるために。

「わたしの妹は、とても優しいですけど彼女にも我慢の限度というものがありますよ?
 多分、わたしにここまでしたからにはただでは殺さないでしょうね。確か鋸がまだ手元にあったはずですから、
 あなたの手足をぎこぎこと……」
「ひ、ひっ!」

 半ばひったくるようにして、椋は勢いもよく薬を水で流し込んだ。苦かったのかそれとも恐怖の故か顔は歪んでいた。
 よく耳を澄ますと、「助けてお姉ちゃん助けてお姉ちゃん」とうわ言のように繰り返し繰り返し呟いている。
 この藤林椋も妹か。実に奇特な縁だと思わずにはいられない。なら存分にその立場を利用してやる。
 人を幾度となく陥れてきた有紀寧の狂気が鎌をもたげ、言葉の形に変えて椋に振り下ろされる。

「種明かしといきましょうか。それは特別な毒でして……爆弾と同じ、約20時間前後で死に至る遅効性の毒です。
 解毒剤はちょっとしたところに隠してあります。分かりますよね、わたしの言ったことの意味が」

 こくこくと必死に頷く椋に「結構です」と有紀寧は微笑んだ。
 既に顔は青褪め、二つの死に追い詰められていく己を自覚しているのか目元には涙まで浮かんでいる。
 これは演技か、素の彼女か……どちらでもいい。隙を突かれさえしなければ。

「そうそう、藤林って名字で思い出したのですが……会ってるんですよ、あなたのお姉さんと」
「……え?」

 絶望に俯いていた顔がふっと上げられる。思ってもみなかったのだろう、この名前が自分の口から出てくるとは。
 ノートパソコンからロワちゃんねるを見ていたから分かる。藤林という名字の人間は名簿に二人いた。
 そして椋が妹だと言っている以上、必然的に姉はもう片方ということになる。これを利用しない手はなかった。

472儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:03:09 ID:nKYEabcw0
「さて、わたしは殺し合いに乗っています。あなたのお姉さんとわたしは会いました。さて、どうなっているでしょう?」

 光を見出しかけた椋の顔が、再び色を失う。それも、先程よりも深く。
 カタカタと唇を震わせながらそれでも先を聞きたいのか、椋は口を開いた。

「ま、さか」
「そう、あなたにしたこととまったく同じことをあなたのお姉さんにもね、してあげたんですよ。
 ……今頃はわたしの命令に従ってどこかで人殺しをしているでしょうね」

「そんなっ! どうしてお姉ちゃんがっ! う、嘘をつかないでっ!」

 身を乗り出そうとした椋だったが、初音によって阻まれる。腕を引っ張られ、
 直後クルツの銃把で強く横顔を殴りつけられる。短く呻いた椋はそのまま地面に倒れる。

「本当、物わかりの悪い人だね……有紀寧お姉ちゃん、殺していい? 邪魔だよ、この人」
「ダメです。こんなのでも利用価値はあるんですよ」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、お姉ちゃんが、こんなくだらない悪い人たちなんかに負けるはずが……」

 初音を宥めている最中も椋はひたすらに有紀寧の言葉を否定し続けていた。
 病的なまでに繰り返すその姿は、ありもしない神に縋っているようだった。

 椋はここまで一人だった……
 だから、姉を神格化し己の罪を姉の名の下に免罪符にし、こうして生き延びてきたということか。
 推測に過ぎないが、概ね間違いはないだろう。でなければこんなに取り乱すことはない。
 いくらなんでもここまで錯乱するとは思えない。この女もまた、狂っているということなのだろう。

「……いいんですよ? 信じないなら信じないで、それでも」

473儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:03:28 ID:nKYEabcw0
 蔑むように向けられた有紀寧の声に、椋の呟きが止まった。

「あなたのお姉さんの死がちょっと早まるだけです。恨むでしょうね、あなたのせいでお姉さんは殺されるんですから。
 家族殺しになる度胸があるならそうやって否定していればいいでしょう。結果はすぐに分かりますよ、放送で」

 無論椋の姉、杏と出会ったこともない。
 殺せるわけもなかったが、こう言えば追い詰められるだろうと有紀寧は確信していた。
 神格化しているとするなら、自らの手で神殺しに等しい行為をさせるのはあってはならない禁忌のはず。
 ここで糸を垂らせば、間違いなく食いついてくるはずだった。

「ですが、何もわたしだって悪魔というわけではありません。お姉さんも随分心配してましたよ。
 美しい姉妹愛というものでしょうか。それに免じて、お二人を助ける機会を与えます。
 勿論、あなたも賛成してくれますよね? 藤林椋さん?」
「……どうすればいいんですか」

 何の迷いもなく飛びついてきた。読み通りだと有紀寧は内心に嘲り笑いながら、
 希望に縋ろうとする椋の顔を見下した。所詮は途中で切れる糸だというのに。

「今からわたしの指示に従ってください。言うまでもないと思いますが、
 もし逆らったり勝手な行動を起こせば、あなたのお姉さんの首が弾け飛びます」
「わ、分かって……分かって、います」

 椋が完全に屈服した瞬間だった。哀れなものだと憐憫、侮蔑の混じった感情を覚えながら、
 それでも椋は使えると思っていた。不意を突ける能力は恐らくは本物だ。この地獄を彷徨ううち、
 自然と身についた彼女の特技といったところだろう。ただ単に矛として使い潰すのは惜しい。
 とはいえ、有紀寧の頭にある作戦は当面の敵がいないと使い辛い作戦でもある。
 さてどうしたものかと頭を捻ろうとしたとき、遠くから断続的に弾けるような甲高い音が響き渡った。

「銃声、かな」
「柳川さんでしょうかね……」
「や、柳川さんっ!?」

474儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:05:48 ID:nKYEabcw0
 椋が口を挟んでくる。おどおどとした卑屈な雰囲気のまま、明らかに畏怖している感情が読み取れる。
 そういえば、と有紀寧は思い出す。確か柳川が探していた女の名前が藤林椋だった……
 なるほど、柳川をあそこまで激昂させた犯人がこの女ということか。
 ここまで生き延びられたわけだと有紀寧は内心に感心しながら、やはり使える、と今度は確信した。

「ええ。柳川さんも私たちの手駒です。まあ安心していいですよ、柳川さんとかち合わせるようなことはしませんし」

 実際、二人を合わせるのはリスクも高い。二人が殺し合うだけでこちらには手駒が減るというデメリットしかないのだ。
 それより、今の銃声で当初組み立てた作戦が使えそうだった。実行するなら今だろう。
 有紀寧は最上の笑みを浮かべながら、椋に概要を伝える――

     *     *     *

「何があったのか、私は知らない」

 降り続く雨の中、一匹の狐と一匹の鬼が静かに向かいあっている。
 眼前に見据えた男――柳川祐也の目は暗く、冷たく……悲しいものがあった。
 この世の全てを憎み、またそうしなければ生きてこられないと知った男の瞳だった。

「知ろうとも思わない癖に……やはり、そうか。俺は所詮ひとりでしかない。
 お前は覚えていると思ったんだがな……結局は、救われないままか」
「倉田佐祐理のことでしょう」

 今更、という風に柳川の目が鋭くなる。
 そう、自分には何があったのか知る事が出来なかった。柳川の言う通り知ろうともしなかった。
 自分にことにだけ精一杯で、今まで自分のことしか考える術を持たず、分かる努力もしなかった。

475儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:06:05 ID:nKYEabcw0
 少し想像を働かせれば分かることだった。
 柳川とずっと一緒にいたはずの佐祐理がいないこと。それ以前に放送で呼ばれていた彼女の名前。
 恐らく、柳川は修羅へと足を踏み外したのだという結論くらいはすぐに導き出せたはずなのに。

 全くだ。今更に過ぎる。己の馬鹿さ加減を思い知る一方、夢から醒めた思いで周囲を見る事が出来ている。
 復讐に身を任せ、己以外の全てを憎むことでしか自分を保てなくなった柳川の姿も、
 未だ自分のやることに確信が持てず、どこへ歩いていけばいいのか分かっていない自分の姿も。
 どちらも愚図で、どうしようもない人間の姿には違いなかったが、それでもリサは柳川とは違うと思っていた。

「貴方の言う通り、私は何も分かっていない。何があったのかも知らない。
 ……けれど、分かるつもりもないなんて言ってない。貴方とは違って」
「何?」
「私はここからでも進んで行きたい。先を行く人たちに追いついていきたい。遠すぎるけど、
 それでもいつかは肩を組んで進めるんだって思いたい。……でも貴方は違う。誰も信じられず、
 信じるものや守るものがなくても全てを憎み続けて戦ってさえいれば生きていけると頑なに思い込んでいるだけ。
 そんなのは餓鬼の道に過ぎないのに。ただ殺しあうだけの獣に過ぎないのに」
「お前に何が分かる。いや、人間に何が分かる」

 リサの言葉、存在すら拒絶し、否定する柳川の一声が場の空気を冷え込ませた。
 拳を握り締め、世界の全てを憎み続ける柳川の身体全てから底無しの虚無を感じ取れる。
 だがこの虚無に巣食われては終わりだ。呑み込まれたが最後、自分の言葉は否定され希望を失ってしまう。
 目を反らしては駄目だという思いに衝き動かされて、リサは柳川の闇を真正面から受け止めた。

「あらゆる希望に裏切られ、あらゆる運命から見放された俺の事など誰も分かるものか。
 信じるだと? そんなものは俺を騙そうとする偽善だ。
 守るものだと? それが俺の腹を食いちぎろうとした。
 自分は自分でしか信じられないし、守れない。恐怖を克服するためには、自分が恐怖になるしかない。
 ただ支配すればいい。自分を喰う者さえいなくなれば、もうなにも恐れなくていい」

476儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:06:25 ID:nKYEabcw0
 人の全てに失望し、また自らも全てを諦めてしまった男の結論だった。
 だが力を手にした一方、言葉の奥底に押し殺した怯えがあるのをリサは感じ取っていた。

「……子供ね。貴方は、本当に子供。思い通りにいかなかったからって駄々をこねる子供と同じ」
「なら貴様はエゴイストだな。前へ進みさえすれば思い通りになると思っている。自分が何をしてきたかを棚に上げて、な」
「そう、私がエゴイストなら貴方は子供。もう一度言うわ。貴方はここで誰よりも弱い子供。
 ――もう御託は要らないし、時間も惜しい。決着をつけましょう。
 かかってきなさい。私の全存在をかけて……貴方を、倒す」

 ふわり、と長い髪を靡かせてリサが地面を蹴った。
 次の瞬間、それまでリサがいた空間を拳が薙ぎ払う。
 既に動いていた柳川が攻撃を仕掛けてきていたのだ。回避したリサはトンファーを身体の前でクロスさせる。

 直後、拳圧が叩きつけられた。とても素手とは思えない圧力でリサは数歩後退させられる。
 柳川は休む暇を与えない。更に踏み込むとガードしていない箇所を狙って殴りかかってくる。
 だがリサも格闘戦についてはあらゆる分野をマスターしている。
 拳の連打を受け流すかのようにトンファーに掠らせ、直撃させない。

 さらにリサは攻撃後の隙を突き肩からタックルでよろけさせ、追撃の足払いを差し込む。
 足をも崩され、背中から地面へ落ちそうになる柳川。
 すかさずトンファーを柳川の身体に打ち込もうとしたリサだったが、柳川の膂力は尋常ではなかった。
 倒れながらも手を伸ばし、追撃体勢に移りかけていたリサの腕を取ると、
 そのまま巴投げの要領でリサを投げ飛ばしたのだ。

 普通なら在り得ない芸当である。倒れながらリサの身体を引き寄せる力、投げに移れるだけの瞬発力。
 どんな人間でも不可能に近いはずだ。……これが、『鬼』だというのか?
 片鱗を見せ始めた鬼の実力に戦慄しながらもリサは空中で体勢を整え無事足から着地する。
 柳川と向き合ったときと同じだ。恐れたら負ける。退くな――!

 後退しそうになる足を抑え、リサは既に肉薄していた柳川を迎え撃つ。
 先程と同じく、受け流し主体で防御し攻撃後の隙を突く。速度は早いが見切れないレベルではない。
 着実に攻撃を受け流し、隙を見てトンファーで一撃、一撃を叩き込む攻防が暫く続く。

477儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:06:42 ID:nKYEabcw0
 が、木製とはいえ鉄芯のトンファーを何度も打ち込まれているというのに、
 まるで応えていないようなのはどういうことだ? 顔色一つ変えず何度も何度も攻めてくる。
 ……なら、頭を叩けばいい。『鬼』は肉体も強靭なのだろう。この程度の攻撃なら何とも思わないのかもしれない。
 だが頭部なら話は別だ。そこだけはいくら鍛えようと、鬼であろうと耐久力は人間と変わらないはず。
 一撃必殺。やってみせる。そう考えて狙いを定めようとしたとき、リサの思惑を感じ取ったかのように柳川が退いた。

「っ!?」
「なるほど……確かに強い。だが、『覚えた』」

 ゾクリとした悪寒を覚えた瞬間、再び柳川が突っ込んできた。
 速度は変わらず。悪い予感を必死に押さえ込みつつトンファーを構える。
 が、柳川が繰り出してきたのは直線的な拳ではなかった。肘を押し出すようにしての突進だ。
 受け流しきれない。それに避けきれない……!

 切磋に防御体勢へと切り替え、直撃だけは防いだリサだったが、次の瞬間には巨大な手が胸倉を掴んでいた。
 圧倒的な力で引き寄せられたかと思うと、柳川が身体ごとぶつかってくる。
 質量からくる力に耐えられず、身体を浮かせてしまう。やられると思ったときには、既に拳がめりこんでいた。

「がはっ……!」

 あまりに的確かつ最速で打ち込まれた攻撃に、腹筋に力を入れる暇さえなかった。
 肺から空気全てを搾り取るかのような威力に呼吸することすら出来ない。
 無様に地面を転がり、泥が鼻や口から入り、じゃりじゃりとした感触を味わう。
 激痛に呻いている暇はない。立ち上がらないと……

 己の意思のみに衝き動かされ、リサは何とか立ち上がりトンファーを握り直す。
 直撃を受けてさえ武器を手放さなかったのは自分でもファインプレイだと言える。大丈夫、なら戦える。
 必死に呼吸を整え、構えるリサに柳川が接近を開始する。

478儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:07:16 ID:nKYEabcw0
 柳川はまたもや肘を繰り出し、リサに受け流させない。『覚えた』とはそういうことか。
 こちらの戦術の更に上をいく柳川に驚嘆しつつ、何故か意識が高揚していくのも感じる。同時に、空しさをも。

 これだけの力を持ちながらどうして人が守れないなどと思える?
 これだけ強いのにどうして虚無に喰われてしまった?
 こんなにも……貴方は強いのに。なんで、こんなにも弱いのよ。
 回避を主体にし、攻撃を紙一重で避け続けるリサ。拳が交わされる度にいたたまれなさだけが上乗せされていく。
 悲しすぎるじゃないか――研ぎ澄まされた想いが突き上げ、自然と言葉になって飛び出していた。

「……貴方だけは、強いと思っていたのに」

 ぽつりと吐き出された言葉は、しかし確かな言葉となって柳川へと向けられた。
 言葉の意味を図りかねたのか、柳川はただ眉根を寄せて体当たりを仕掛けようとする。
 リサは大きく身体を反らしつつまたも紙一重で避け、すれ違いざまにトンファーを突き刺す。
 ぐっ、と僅かに呻きが聞こえ、僅かに苦渋の顔を見せた柳川と真っ直ぐなリサの顔とが相対する。

 手ごたえはあったということか。ちょうど脇腹の柔らかい部分を突けたのが良かったのだろう。
 柳川も決して征服されざる怪物ではないということを実感しながら、リサは続ける。

「私は貴方の言う通りのエゴイストで、自分のことしか考えられない。それは事実よ。
 でも、努力は続けたい。そんな自分から少しでも脱却できるように、明日にはもう少しマシな私になれるように。
 私より強いはずの貴方が、どうしてそんな子供に成り下がったのよ……!」
「そうしなければ生きられないと知っただけだ。
 何も出来ない奴は出来ないままに支配されるだけ……貴様こそ、何故それが分からない」

 絶望に取り込まれ、何も信じず、何も映さない瞳をリサは見据え続ける。
 柳川の味わったものがどれほどの闇なのか想像も出来ない。何を知ったのかも。
 だがリサにはこれだけは言っておかねばならないことがあった。
 柳川の言葉は、柳川を支えていたものでさえ否定しているということを。

479儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:07:35 ID:nKYEabcw0
「だったら……倉田佐祐理はどうなのよ。貴方を信じて生きてきた、あの子も貴方は愚かだと見下げるっていうの!?
 冗談じゃない。そんなの、あの子は絶対に許さない。絶対に……!」
「思い上がるなっ!」

 リサにも負けない怒声が大気を震わせる。
 紙のように白くなり引き攣った表情へと柳川は変わっていた。
 一瞬感じた押し殺した怯えが今は顕になっている。絶望とは別の感情が柳川の内から溢れ始めている。

 ただ、それはやはり全てを拒絶する類のものだった。
 恐怖を恐怖で支配しようとしている男の弱みに近いものが顔を見せているだけだ。
 説得はやはり出来ない、とリサは確信してしまう。もう彼に残っているのは人の持つ負の力。
 人なら誰しも持つものに搦め取られ、圧殺されかかった男の姿だった。

「貴様が倉田を語るなっ! 倉田をダシにして自分を正当化するなど!」

 横に動いた柳川が側面からの蹴りを放つ。素早く身を引いて躱すが、続けて後ろ回し蹴りが飛ぶ。
 連続した攻撃。なら一発あたりの威力はそれほどでもないと当たりをつけ、あえて無理に避けずトンファーで受ける。
 避けるだろうと想定していたのか、リサの意外な挙動に一歩行動が遅れた柳川の隙を見逃さない。

「ダシにしてるつもりなんてないっ! 貴方は逃げてるのよ! 分かった風になって自分の過去から逃げてる!」

 それはまさしく篁を追い続けていたときの自分だった。
 目的だけを追い、己を殺し、途方に暮れるしかない未来が待っていると分かりながらもどうする術を持たず、
 今ある現実にだけ目を向け、こうするしかない、ああするしかないと諦め続け無力さを晒すばかりの存在だ。

 自分が見てきた柳川はこんなつまらないものじゃなかった。
 ギラギラした目にいつも勝機を宿し、可能性を模索する男だったはずだ。
 そんな男だったからこそ倉田佐祐理も、栞も、自分もついていこうと思ったのではなかったのか。

480儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:07:53 ID:nKYEabcw0
 本性は違うと言えば、そうなのかもしれない。柳川の生い立ち、人生。
 何も知っていない自分が作り上げた柳川像というものはあるだろう。
 だが彼が強い男だったというのは間違いないはずだった。それだけはリサが信じて疑わない柳川の姿だった。
 なのに、今は。

「貴方じゃ誰も支配なんて出来ない。貴方自身が、一番恐怖に支配されてるから!」

 一気に懐に潜り込み、まるで天を突くかのような勢いでトンファーをかち上げる。
 反応することのできない柳川はモロにトンファーの筒先を顎に受けた。
 頭がかくんと後ろを向き、身体が宙に浮く。リサはとどめというように鋭い前蹴りを刺突のように繰り出す。
 踵の先が腹部にめり込み、柳川の長身が吹き飛ばされた。身体の二箇所に直撃させる決定打だ。

 派手に地面を転がる柳川を見届けたリサはフッ、と短く息を吐き出した。
 この程度で気絶したとは思わない。まだ立ち上がってくると見るべきだ。

 ……だが、柳川に負ける気はしなかった。実力的には拮抗していても、彼は昔の自分でしかない。
 正確には数時間前の自分と言えるが。皮肉なことだとリサは思う。
 柳川と相対したことで自分は強くなろうと決め、柳川は弱くなった。
 どうして、貴方はこんなに……
 複雑な心境にとられかけた刹那、重低音が聞こえてきた。

「!?」

 振り返ると、そこには猛スピードで道を駆け抜けて行く一台の車があった。
 こちらに直接突っ込んでくるというものではなかったが、明らかに挙動が異常だ。
 車が向かう先は、栞と英二が離脱した場所を指している。

 まさか、という予感が脳裏を巡り、まずいという思いに駆られて一時柳川との決戦を中断しようと考える。
 栞は怪我をしていて、とてもじゃないが戦える状態ではない。そこに車という武器を持ち込まれては状況は最悪だ。
 柳川を放置しておくのもまずいが、今は仲間の命が最優先だ。武器だけ奪って駆けつけようと、
 道の端に放置された柳川のデイパックに向かって走ろうとリサが背を向ける。

481儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:08:14 ID:nKYEabcw0
「まだだっ!」

 唸るような声が聞こえたと同時、咄嗟にリサは前転していた。
 身体中から発せられる『危険だ』というサインに従っての行動。完全な勘に任せての行動だったとも言える。
 だがそれは結果として不意打ちからリサを救った。視線を横に走らせた先では、
 自分に向かっていたラリアットを避けられ――身体の一部を異形に変化させた柳川の姿があった。

「ぐっ、逃がしたか……!」

 獣のような、今までとは違う声音を伴って柳川が振り向く。
 右腕から先は赤黒く変化し、爪は鋭く尖り、まるで槍のように変化している。
 また血管の一部も肥大しており、明らかに柳川の身体には異常が起こっているのが見て取れる。

「貴方、そこまでして……!」

 叫びながら、リサはあれが『鬼』の本体なのかと想像する。
 不可視の力、翼人伝説、毒電波。様々なオカルト、異能の力について仕事で調査したこともあったが、
 まさか実物を見る羽目になるとは。まるでSFアクションの世界だ。
 そして、この力を発揮させたのだとしたら……もう柳川は、なりふり構わずに攻めてくる。

 とても救援に行ける状態ではなくなり、焦りと緊迫感がリサを駆け巡る。
 だがやるしかない。仲間達を救うためにも、自身が生きるためにも。
 凛とした表情を取り戻しトンファーを構えたリサを、鬼の爪を生やした柳川が見据える。

「……教えてやる」
「何?」

482儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:08:58 ID:nKYEabcw0
 瞳を真っ赤に染め、鬼そのものへと移り変わりつつある柳川はひびの入った眼鏡を打ち捨て、全貌をリサに見せた。
 紅色でありながら、どこまでも暗い目。彼の虚無は寧ろまだまだ大きくなっているかのようにリサは思えた。
 底無しの闇を含んだ目が細められた。来る、と思ったときには既に腕が振り上げられていた。
 腕が肥大化したことによりリーチも伸びているはずだ。避けきれるか? 僅かに迷った末、リサは防御を選ぶ。
 万が一目測を誤り致命傷を負っては意味がない。ならば多少のダメージは負っても命を確保できる方を選んだのだ。

 トンファーで爪を抑えにかかったリサだったが、やはり全開の柳川を受けきることなど無理な話だった。
 めきっ、とトンファーが悲鳴を上げたのと同時、リサの腕が軋みを上げた。ダメだ……!
 持たないと判断して、あえて力に逆らわず吹き飛ばされる。だが十分に受け身の用意をしていたリサは、
 さしたる損傷もなく少し転がっただけですぐに立ち上がった。そこに柳川の踵落としが待ち構えていた。
 足はどうだ? これも判断しかねたリサはまた受けに回る。トンファーを眼前でクロスさせ、
 しっかりと防御したところにガツンという衝撃が走った。

「ぐっ!」
「俺は……俺は、裏切られたんだよ! あまりにもたくさんの人間になッ!」

 何とか受けきったかと思ったが、別の攻撃が繰り出されていた。器用にもう片方の足を使って、
 下から蹴り上げてくる。がら空きにさせるための攻撃。気付いたときには遅く、身体につま先が刺さる。

 今度はどうすることもできず無様に転がる。だがダメージは思ったほどでもなくすぐに体勢を立て直す。
 が、トンファーに異変が起こっていることに気付く。爪に強く打ち据えられた部分に深い爪痕が残り、
 鉄芯の部分が僅かに剥き出しになっている。そればかりか、鉄にさえひびが入っているではないか。
 ゾクリとした怖気を感じる。もしクリーンヒットすれば骨折どころではない。もし頭部に爪の一撃を貰えば……

「まず最初に裏切られたときは倉田を殺されたッ!」

 ハッとしてリサは柳川に意識を戻す。彼の身体は既に射程圏内にあった。
 反射的に飛び退いてしまう。それが不味かった。槍のように突き出された爪がリサの脇腹を掠る。
 突き刺さりこそしなかったものの鋭い痛みに身体がぐらついてしまう。そこに柳川が猛ラッシュを仕掛けてくる。

「それだけじゃあないッ、次に俺を裏切ったのはな……血の繋がっていたはずの家族だったんだよッ!」

483儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:09:19 ID:nKYEabcw0
 ここから先はまるで猛獣が一方的に小動物を襲うかのようなものだった。まさしく、『狐狩り』だ。
 ろくに防御する暇も与えられず爪が身体中を裂き、合間に出された拳が体力を削り取り、
 みるみるうちに出血が増大してゆく。ギリギリで躱しているため決定打こそなかったものの、
 上半身は傷だらけで、トンファーを握る腕からも力が抜けていくのをリサ自身も感じていた。

 この威力は柳川の肉体によるものだけではない。
 仲間を失った恨み、家族にさえ裏切られ、拠るべきものを全て失い憎しみに身をやつすしかない者の怨嗟。
 それらが渾然一体となって世界の全てにぶつけられている。

「俺が信じていたものをッ! あいつらは嘲笑いながら見下し、利用して捨てようとしていたんだ!
 なら俺だってそうする。痛みには痛みを、侮蔑には侮蔑を、恐怖には恐怖でなッ!
 家族にさえ裏切られた俺が、他に何を信じろってんだよ! 何を守れってんだよ!
 守れるのは、信じられるのは……俺自身だけなんだッ!」

 憎悪を言葉に乗せ、柳川が拳を腹部に押し込む。
 かはっ、と息を吐いた直後赤黒い爪が振りかぶられた。
 半分抵抗する力を失い、拳だけで吹き飛ばされかかっていたのが幸いしたか、
 爪はリサの肉を少々抉るだけで済んだ。……けれども、もはや戦えるだけの体力も気力もとうに無くなっていた。

 圧倒的な暴力と殺意。その上虚無に塗り込められた揺るがぬ怨恨を前にして、一体どうすればいいのか。
 策は小細工でしかなくなり、技術を駆使した戦法など巨大なゾウの前のアリでしかない。
 どうあっても勝てない。合理的な軍人であるリサの頭はそう叫び続け、戦闘を放棄しかかっている。

 だが、と奥底に芽生え始めた、人間としてのリサは必死に語っている。
 柳川は結局弱い。家族が裏切ったからといって、自分も誰かを裏切っていいと思い込んでいる。
 家族が裏切ったから、自分以外の全員が裏切ると思い込んでいる。
 確かに誰よりも信頼していた家族に手のひらを返されるのは絶望の一語だろう。
 自分でさえ柳川のように呑み込まれ、虚無を含んだまま悲嘆に暮れ、生きてさえいけなくなるかもしれない。

484儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:09:37 ID:nKYEabcw0
 だがそれは他の誰かを裏切って、無為にしていい理由にはならない。
 それまで築き上げてきたものを壊す理由にはならない。
 自分自身しか信じられないといいながら、己を構成するものを壊してそれで何が残るというのか。
 たとえ残ったとしても、そこにあるのは自分のではなく、ひとの悲しみだ。ひとを虚無の闇に引きずり込むものだ。
 皆が皆そうなってしまえば世界からは誰もいなくなってしまう。

 そんなものを認めるわけにはいかない。
 こればかりは否定しなければならない。
 宙ぶらりんの自分でさえ前に進ませようとしてくれている、大切な仲間達のためにも――!

「……そんな下らない理屈で、これ以上誰かが殺されるなんてまっぴらよ」

 ゆらりと幽鬼のように立ち上がり、抜けかけていたトンファーを強く握り直すと、鋭い視線を柳川へと向ける。
 目つきを険しくした柳川は無言で構えを取る。一切の油断はなく、ただ向かってくる敵を倒すという風情だった。
 だらだらと身体のそこかしこから血が溢れ、雨と混ざり合って肌を伝ってゆく。

 けれども不思議と力が湧き出てくる。流れた血も再び身体の奥底から沸き上がり、また己の血となっていくのを感じる。
 自分が決して間違っていないという思い、自分はひとりじゃないという思いが己を支え、気力が満ちていくのを感じる。
 敢然と立ち向かう。リサの気持ちの全てが満ち溢れ、柳川にも伝わったようだった。
 無言の気迫に押されたらしい柳川が一歩退いたのを、リサは見逃さなかった。

「攻める!」

 トンファーを真正面から打ち込む。柳川は予想外の勢いに慌てたか、変化した鬼の腕で受けようとしたが、
 それはフェイントだった。急激に力を抜き、滑らかな動きで横から後ろに回る。
 裏を取った。そう確信したリサはトンファーと共に肘鉄を打ち込む。

「ぐっ!」

 更に勢いに任せ、ダンスをするようにくるくると回りながらトンファーを用いた打突と回し蹴りの組み合わせの応酬。
 数発打ち込まれてようやく柳川も防御に回ったが、守勢なのは変わらず。
 腹部を中心に攻撃を叩きこんだ後、仕上げの体当たり……いわゆる、『鉄山靠』を当てて吹き飛ばした。

485儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:09:59 ID:nKYEabcw0
「Have nothing to go with me...」
「貴様……!」
「これで互角といったところかしら? ……次で決めるわよ」

 後から後から気力が満ちてくるとはいっても、体力的には限界に近い。
 いやむしろ沸いてくる気力で己を持たせているといったほうがいい。
 それは柳川も同じだろう。ここにきて鬼の力を出しているということは、本人にも相当な負担がかかっているはず。
 でなければ最初からこの力を出してかかってくるに違いないからだ。彼も同じく、気力で己を持たせている。

 次の打ち合いで全てが決まる。
 自分は柳川の頭部を狙い。
 柳川は己を刺し貫くのを狙い。
 正真正銘、最後のダンスとなるだろう。
 果たして勝つのは妄執に囚われた鬼か、諦めの悪い雌狐か。

「上等だ。……行くぞッ!」
「Come on!」

 柳川が駆けるのと同時に、リサも駆け出す。
 一撃で全てが決まるとは思わない。
 勝敗を決するのは相手の動きを見切り、いなした上で最後の攻撃を叩き込んだ方だ。
 柳川も自分の中で技の組み立てを終えているはず。

 力と知恵と技術、そして想いの丈をぶつけ合う一騎打ちの始まりだ。
 初手。
 リサは勢いをつけていたはずの足を止め、急ストップをかける。

「っ!」

486儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:10:15 ID:nKYEabcw0
 間合いを見誤ったらしい柳川は既に爪による突きを放っていたが、届くはずがない。
 カウンターの要領でここから側面に回ろうとしたリサだったが、柳川も対応は早い。
 突きによる慣性をそのままに利用し、勢いに乗っての回し蹴りがリサを襲う。
 咄嗟にジャンプして空中へ逃げたが、そこに空いた柳川の拳が待っていた。

「空中では身動きが取れまい!」
「そうかしら!?」

 殴りかかろうとする柳川の拳を、足を思い切り突き出し靴の裏で柳川の手を踏みつけることでそれ以上の追撃を許さない。
 さらに反動を利用し、リサは柳川の後ろへと飛び降りる。
 着地ざまにトンファーを振るが、素早く遮った鬼の腕によって阻まれる。
 そのまま数度打ち合う。お互いに間を計るように、隙を作り出す機会を確かめるように。
 その間、リサは仲間のことを思う。

 どんなに鈍くてもいい、自分のことを考え、未来を想像しろとアドバイスをしてくれた英二。
 恨みに呑まれることも悲しみで塗り潰されることもなく、ただ自分を助けようと健気に慕ってくれている栞。
 自分は人として立派であるはずがないのに、どうしてここまでしてくれるのだろうか。そう思ったときもある。
 だが今なら分かる。彼らは自分を捨て置くのではなく、引き上げて寄り合いながら歩こうとしているのだと。
 確かに、決して幸福へと向かっているわけではないのだが『今』を歩く一歩一歩は苦にならない。
 たとえその先で地獄が待っているのだとしても、積み上げた『今』が自分達にはある。
 それが自分の強さになる。闇に立ち向かっていける力の源となる。

 だが柳川はどうなのだろう。今戦っているこの時でも彼はずっと一人のままなのだろうか。
 今も、昔も、未来さえ信じられず、足場の見えない暗闇を歩きながら何を考えているのだろう。
 いや、だからこそ柳川は闇に身をやつし自分さえも消して恐怖になろうとしているのかもしれない。
 周りが真っ暗で満たされているなら自分がその一部になればいい。そう断じて。
 けれどもそれでは誰もいなくなってしまう。無音の恐怖だけが満ちた暗闇だけになってしまう。
 それではあまりにも寂しすぎる。
 だから、私は――

487儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:10:47 ID:nKYEabcw0
 リサが柳川の素手の方の拳を弾き、一歩分の距離を取ったとき柳川が動いた。
 大きく鬼の腕を振りかぶり、本気の突きを繰り出す体勢を取る。
 懐に入り込むには足りない。防御できるような攻撃ではない。ならば避けるしかない。

「く!」

 大きく横へ跳躍して回避しようとする、がそれは柳川の読み通りであった。
 動きを一瞬溜めて突きを放とうとしたのはフェイントだった。
 跳んだのを確認した柳川は手を開いてリサの首を掴みかかるように腕を振るう。
 首を掴み、絞め殺そうというのだろう。あの腕に捕まれば逃れようがない。

 ……けどね、こっちだって考えなしに跳んだわけじゃないのよ!
 ニヤリと笑みを漏らしかけていた柳川に、リサも笑い返した。

「プレゼントよ、柳川!」
「!?」

 腕を振った柳川の前には、リサが着ていたジャケットが宙に浮いていた。
 当然のようにジャケットは振っていた爪に引っかかり、さらに柳川によって傷つけられ、
 ボロボロになっていたお陰で破れかかっていた箇所から爪が刺さり、激しく絡まり合う。
 その上視界をジャケットが遮っていたせいで腕を振り切れず、勢いを失ってしまう。
 再度リサが力を溜めて柳川に跳躍しかかったのと、完全に柳川が勢いを殺されたのはそのタイミングだった。
 柳川の回避動作は間に合わない。


「柳川ああぁぁああぁぁぁあぁああぁっ!」
「リサ……ヴィクセンッ! うおおぉぉぉぉおぉぉぉッ!」


 最後まで諦めまいとしてジャケットが刺さったままの腕を振り上げようとする。
 しかし、やはり早かったのはリサの方で。

488儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:11:04 ID:nKYEabcw0
 空中から全力の勢いで振り下ろしたトンファーが柳川の側頭部を打ち抜き、頭蓋骨を砕き、
 彼を戦闘不能へと落とさせていった。

「か、はっ……」

 呻き声が一つ。致命傷を与えられ血を吐き出した柳川は、意地の一撃も届かせることなく崩れ落ちた。
 リサは激しく胸を上下させつつ、額にはりついた髪の毛をかき上げる。
 何とか勝てた。本当に殺しに掛かるなら身動きさせずに絞め殺すだろうという読みが当たり、
 対応策を講じておいてよかった。もし突きをトドメにと考えていたなら、また違った結果になったかもしれない。

「く……」

 低く搾り出す声が聞こえた。まだ柳川は生きてはいるらしい。
 鬼の強靭な生命力ゆえなのだろうか。だとしても、痙攣するようにしか動いていないことから、
 もう時間の問題だろう。リサは息を整えながら柳川の元で腰を下ろす。

「俺にだって……俺に、だって、守りたいものくらい……」
「知ってるわ」

 目を閉じたまま、うわ言のように呟く柳川にリサは静かに答える。
 強かった柳川には確かにあった。だからこそ、リサは悔しくてならなかった。
 この男から何もかもを奪ってしまった沖木島の狂気と、島全体に今尚敷衍し続ける、
 恐怖を恐怖で支配する力の倫理を。

「だから……おれは、信じて欲しかった……こんなどうしようもない、
 屑だった殺人鬼の、おれでも、だれかと一緒に歩いていけるんだ、と……
 おれは、ひとごろしを楽しむ……悪魔なんかじゃ、ないんだっ……」

489儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:11:23 ID:nKYEabcw0
 雨などではなく、柳川自身から溢れ出る雫が彼の顔を濡らした。家族にさえ裏切られた無念と、
 最後の最後まで言い出せなかった自分に対する悔しさがない交ぜになったものかもしれなかった。
 信じて欲しい。ただそれだけを願い続けていたやさしい鬼。
 彼が生きていくには、ここはあまりにも残酷で過酷な場所だった。
 だから、せめてその最期は。想いを込めて、リサは柳川の手を取った。

「今からでもいい? 今からでもいいなら、私が貴方を信じる。本当の言葉で語ってくれた貴方を、信じる」
「……リサ……」

 信じられないという疑念と救いはあったのだと安堵するものを含んだ柳川の目が薄く開かれる。
 だが手を取り、しっかりと握っているリサの手を見て、ふっと柳川は微笑を浮かべた。

 すぐにそれも消え、目も再び閉じられる。受け入れまいと思ったのか、己に対する贖罪なのか……
 やはりリサには分からなかった。ただ、開かれたときの柳川の目は、
 虚ろな中にも安らぎがあったかのように見えた。

「宮沢、有紀寧……」

 ぽつりと出された言葉は、聞き覚えのない名前だ。何なんだろうと思っていると、
 今度は強く手が握られ、残った命さえ搾り出すような声で続けられた。

「宮沢有紀寧……奴を……奴だけは、必ず殺せ……あいつ、だけは許しちゃならないんだ……!
 奴は……ひとを、どこまでも、陥れる、あく、ま、だ……頼む……やつ、を……!」

 ぐっ、と一際強く握り締められたのを最後に柳川の手がするりと抜け、地面に落ちた。
 者が、物に変わった瞬間。ひとつの命が散った瞬間だった。

「柳川」

490儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:13:11 ID:nKYEabcw0
 思わず手を取りかけたリサだったが、すぐにそれを取り消した。
 柳川から力が抜けたのではない。柳川は自ら手を放したのだ。握っていては、邪魔になるから。
 宮沢有紀寧という名を伝え、意思を託したリサの邪魔をしてしまうから。
 故に……弔いは必要ない。言い遺した柳川の意思を確かめ、リサは崩れかけていた表情を戦士のそれへと戻した。

 行こう。さっと立ち上がると何事もなかったかのように自分と柳川の持ち物をかき集め、
 キッと車が走り去っていった方角を見据えた。雨に紛れているが時折銃声のようなものが聞こえてくる。
 間に合わないかもしれない。もしかすると、皆死んでいるのかもしれない。
 この先には絶望しか待っていないのかもしれない。

 だがそれでも、積み上げてきたものに恥じないために。今しがた己の一部となった柳川に恥じないために。
 どこまでも進む。どこまでも戦う。
 残った者たちに、翳りのない未来の在り処を教えていくために。

 限界だったはずの身体はまだまだ動く。柳川が己を支えてくれている。
 その思いが胸を突き上げるのを感じながら、リサは全速力で走り出した。

491儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:15:03 ID:nKYEabcw0
ここまでが前編となります

492儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:15:31 ID:nKYEabcw0
 ……まさか、もう一度ここに逃げ込むことになろうとはね。
 かつて神尾観鈴の応急処置のために駆け込んだ診療所の中で、痛みに喘ぐ栞を見下ろしながら英二は苦笑する。
 しかもご丁寧に状況までそっくりと来ている。

 リサと別れた後氷川村を一直線に走っていた英二だったが、全く予想外の追っ手が来た。
 何の前触れもなく猛スピードで走ってきた車が栞もろとも英二を轢き殺そうとしたのだ。
 派手にエンジン音を吹かせていたお陰でいきなり轢き殺されるという最悪の事態だけは避け、
 その後も幾度となく迫る車を回避しながら何とか診療所へと避難してきたというわけだ。

 しかも車は執拗に狙いを変えず、診療所の周囲をぐるぐると周回している。
 中に誰がいるかは逃げるのに必死だったので分からなかったが、余程性質の悪い人間であることは間違いない。
 学校で襲ってきた少女といい、向坂弟といい、自分は凶悪な連中に付け狙われる星にでも生まれたのだろうか。
 やれやれと思う一方、嘆いている暇はないと状況を整理する。

 栞の怪我は命には別状はなさそうであるものの、依然として動けぬ状態であるのには変わりない。
 それにリサは正体不明の男と交戦中。今までのリサを見た限りでは負けそうだとは思わないが、
 すぐに救援に来れるという風情でもない。立て篭もって救助を待つというのはあまりにも愚かだ。
 最悪、この建物に車ごと突っ込んでくるという可能性もないではない。何せ木造の診療所だ、
 あっけなく倒壊しそうな気がする。

 そうなると……やはり以前の方法を用いるしかない。
 上手く敵を自分が引きつけるという陽動作戦。実際、あのロボ少女とでは成功に近い結果を出した。
 しかし、その後の結末はどうだ? 逃がすことに成功したはずの相沢祐一と神尾観鈴は死に、自分だけが生き残った。
 放送のときのショックが影を落とし、今の情けないままに生きてしまっている。

 ひょっとしたらまた同じ結果になってしまうのではないか。
 自分は誰も救えないのではないかという不安が鎌首をもたげ、行動に足踏みを起こさせている。
 己の行動は全て裏目に出てしまう。ならばいっそ逆に立て篭もり続けるのも一手ではないかとさえ考える。

「くそっ、優柔不断だな、僕は……」

 やり通すとリサに宣言しておいて、今はこのザマか。
 自分への情けなさが胸を潰し、やりきれない思いばかりが体を重くする。

493儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:15:45 ID:nKYEabcw0
「英二さん」

 静寂を破る声が聞こえ、英二が振り向く。その先では痛みに耐えながら、どうにか意識を保っている栞がいた。
 脂汗を浮かべながらも笑みを湛えた栞の表情は、英二にひとつの疑問を抱かせる。
 なぜ笑える? なぜこの状況で……それも、こんなに力強い微笑みを?
 呆然としたままの英二に、栞は言葉を重ねる。

「私を置いていってください。大丈夫です、後で合流します……そろそろ、痛みも引いてきましたから」

 そう言う栞だが、明らかに体は震え、顔色は冷めている。
 冗談じゃないと思った英二は、沸き上がった感情のままに反論してしまう。何年振りかも分からぬ感情を出して。

「見捨てろというのか。僕は君を死なせるために……」
「分かってます。私だって、死ぬためにそんなことを言ったんじゃないんです。陽動……それが最善の作戦ですよね?」
「!? 何故――」
「分かりますよ。だって、ずっと外を見ていましたから」

 また力強い笑みを浮かべた栞には諦めの感情は一切無かった。
 自分が生きられることを信じ、また自ずから道を切り拓きその一因となろうとする強靭な意思があった。
 眩しすぎると思う一方、それに惹かれている己を感じながら英二は拳を握る。

「私は、リサさんや、英二さん……いえ、みんなの力になりたい」

 脇腹から未だにあふれ出す血を手で押さえながら、栞はたどたどしくも必死に、しっかりとした意思を以って話す。

「だから、やってみせます。英二さんの陽動に合わせて、私もやり通します。降りかかる火の粉は払いますし、
 それでも来るなら……撃つかもしれません。でも、私は生きたいんです。私にも大切なひとができたから……
 忘れてはいけないことがいっぱいできたから。諦めたりなんて絶対にしない」

494儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:16:01 ID:nKYEabcw0
 絶対に諦めない。その言葉が重く圧し掛かり、栞は自分と正反対の存在であることを自覚させられる一方、
 だからこそ自分は栞のためにやり通す必要があるという使命も感じていた。
 そうだ。自分の命は最後まで他人のために使う。今までがどうだったとしても今回は間違えないかもしれない。
 ただ己の節を曲げないために最後までやり通す。そう決めたはずではなかったのか。

「そうだな」

 応じた英二が浮かべたものは不敵な笑みだった。栞が自分に生き様を晒せと言っている。ならば無様な生き様を、
 見事晒して見せてやろうではないか。そうすることでしか、自分は何かを伝える術を持たないのだから。
 英二の中の化学変化を感じたのか、栞もこくりと頷いた。

「行ってください。私はなんとか隠れきってみせます。その後は……挟み撃ちにしてあげましょう?」

 冗談交じりの口調ながら、真剣な顔つきで栞は言った。
 生きたいという意志と、命の受け止め方を知った者の言葉だった。英二は頷き、ベレッタM92を取り出した。
 スライドを引き、チェンバーに初弾を装填する。これが始まりのゴングだ。

 ゲームスタートだ、緒方英二。
 駆け引きを楽しむ『プロデューサー』の姿がここにあった。

     *     *     *

 今の己を支えているのは妄執、ただ一つ。或いは愚昧とも言える感情にのみ衝き動かされているのかもしれない。
 過去を清算するためだけに。人間であった部分を捨て去るためにどこまでも追い縋っている。
 車で轢き殺すということは英二の反応の良さと悪天候による路面の悪さによって失敗したが、追い込んだ。

 後はどう料理するかを考えればいい。そう断じて診療所を見渡せるポイントからじっと観察を続ける篠塚弥生に、
 神尾晴子が開け放った窓から周囲の様子を窺いつつも、新鮮な空気を求めて首を外に突き出していた。
 本人曰く、「急に猛スピード出してめちゃめちゃな運転するから酔った」とのこと。
 シートベルトもつけていなかったので体がブンブン振り回されていたから当然といえば当然だろう。
 文句の一つも飛んでこないのは余程参っているか、何か考えあってのことか分からないがうるさいよりはいい。

495儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:16:29 ID:nKYEabcw0
 ただ戦闘のときに使い物にならないのは困るので、こうして晴子の体調復帰を待ち、
 車ごと診療所に突っ込もうという算段を立てている。見たところ木造の家屋だ、
 最大速でぶつかればひとたまりもないはずだろう。あわよくばそのまま押し潰して殺せる。
 何よりもこんな大胆な戦術をとり、敵の裏をかけるというところにメリットがある。
 建物は決して避難場所ではない、時によっては墓場となり得るのだということを教えてやる。

「篠塚、ひとつ聞いてええか」

 聞き慣れない呼び名にぎょっとして振り向いた先では、相変わらず晴子が窓から顔を出している。
 この人が自分を名前で呼ぶのは初めてだ。不思議な感慨にとられながら「なんですか」と努めて冷静に返す。

「勝てるんやろな?」

 低く敵意を含んだ声が弥生の頭を叩く。晴子がそう思うのも無理はない。
 目の前で戦っていた男と女を無視して突っ切り、英二と怪我した女の方を執拗に狙っている。
 自身を見失っているのではと疑念を持たれているかもしれない。なら不安要素は取り除けばいいとして、
 弥生は「勝ちます」と力強く言い、彼女にしては珍しく自身のことをとつとつと話し始める。

「最初の二人を無視したのはあの常人離れした戦いを見て、とても割り込んで勝てるような相手ではない。
 ましてこの貧弱な武装では……そう言いましたね? もちろん嘘ではないのですが、理由はもう一つあります」
「ほう」
「私が追っている方の……男の名前は緒方英二と言います。私の知り合いでもあり、
 緒方プロダクションのプロデューサーでもある人です。有名なので名前くらいはご存知かと思いますが」
「聞いたことはあるなぁ。なんや、えらい大物と知り合いなんやな」
「仕事上の付き合いが大半でしたが。……そして、私の弱さの象徴でもある」

496儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:16:48 ID:nKYEabcw0
 ずきりと古傷が疼くのを感じる。英二に一蹴され、屈辱と共に穿たれた傷だ。
 君のやり方は間違っている。
 由綺を失った自分に対して、英二も理奈を失ったにも関わらず彼はそう言ってのけた。
 現実を受け止め、夢も見ることも妥協することも許さない対極の存在が一度己を打ちのめした。
 それが今でも尾を引き、殺戮遂行の機械となりきれないまま嫉妬心、羨望の感情を残している。

「なるほど、なんやよう分からへんけど復讐っちゅうわけや」
「復讐ではありません。全てに決着をつけるための清算です」
「は、うちにはどっちも同じやねん」

 目つきを険しくしかけた弥生に「怒るなや」と晴子が手をひらひらと振る。
 「気持ちは分からんでもないからな」と続けて、彼女はVP70をまじまじと見つめた。

「汚点は消したいもんや、そうやろ? うちにも決着つけとうてかなわんクソガキがいる。
 まあ一人は死んだらしいねんけどな。ざまあみろって感じや、はは」

 愉快そうに笑う晴子の顔からは微かな憎悪と狂気が見て取れる。
 汚点、という言葉の中身を確かめるように弥生は口中に呟いた。

 晴子にとってのそれは己に潜む憎悪なのかもしれない。これを消しさえすれば、常に目的へと向けて動ける、
 任務遂行の機械となれるのを彼女は知っている。弥生にとってのそれは緒方英二だった。
 立場を同じくする大人でありながら存在するだけで自分を否定する、まさしく汚点。
 英二さえいなくなれば自分は強くなれる、そう信じて疑わぬ存在だった。

「ええわ、目先の利益に目ぇ奪われてんやないんやろ。ケリ、つけに行こうや」

 ニヤと口元を歪め、凶暴な雰囲気を晒し始めた晴子に「いいのですか」と弥生は尋ねる。
 見方を変えれば半分私怨で動いているとも取れる。
 晴子からすれば付き合う義理はないだろうに、と今更思いながら。

497儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:17:07 ID:nKYEabcw0
「篠塚が強うなればうちにとって利益にもなる。それに……勝てるんやろ?」

 信頼を含んだ強い口調で晴子は言い寄る。
 これは晴子にとってのテストなのかもしれない、と弥生は思った。
 パートナーとしての力を試すテストであり、晴子自身も汚点を消せるのかということを確かめるためのテスト。
 ハイリスクでハイリターンな計画だと考えながらも、こういう女だから仕方ないと内心に苦笑して言葉を返す。

「ええ、勝ちます」

 弥生の言葉に、満足そうに晴子が頷く。二人の間に改めて共闘宣言がもたれた、そのときだった。

「……あ! 男の方が出てきおったで」

 目ざとく気付いた晴子が窓から身を乗り出すようにして診療所方面のある一点を指す。
 確かにそこでは緒方英二が診療所から走り出していた。
 救援でも呼ぶつもりなのだろうか。それとも、怪我した女から目を逸らさせるための陽動か。

 後者だろうと弥生は当たりをつける。自分と正反対でしかない英二ならこうするはずという予感があった。
 乗ったところで特に問題はないと判断する。元々自分の狙いは英二一人なのだし、
 女の方も怪我の度合いを見る限りとてもじゃないが戦闘可能とは思えない。殺すなら、いつだって殺せる。

「神尾さん。作戦を伝えます。私の指示通りに行動してください」

     *     *     *

 今回は逃げるための戦いではない。犠牲になるための戦いでもない。生き延び、その先を切り拓くための戦いだ。
 最終的にはどうあれ、自分がその一員となっているのを実感しながら、英二は迫り来る車をちらりと見る。
 やはり悪天候のお陰で車内に誰がいるかは窺い知れようもない。いや、相手が誰であろうと関係ない。
 自分は自分のやるべきことをやり通す、それだけだ。強く意思した瞳を鋭く細め、英二は車を迎え撃つ。

 ベレッタを持ち上げ、撃つと同時に跳躍。まずフロントガラスを狙って視界を遮る作戦だった。
 地面に転がったと同時、速さと質量を兼ね備えた物体が英二の横を通過していく。
 掠ってさえひとたまりもないだろうなと思う。絶対に失敗が許されない、まさに背水の陣と言える。

498儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:17:46 ID:nKYEabcw0
 だが車だってそこまで運動性能が高いわけではない。引き返すときにUターンする瞬間、
 確実にその横腹を無防備に晒す。狙うのはそこだ。
 唸りと甲高い音を立てながら、車がこちらへと反転してこようとする。
 だが雨によってふんばりの利かない地面では、その挙動さえ時間がかかる。

「そこだっ!」

 続けて二発ベレッタを撃ち込むが、所詮は9mm弾でしかないからなのか強化ガラスなのか、
 さして大きな傷にもならず敵の視界を遮ることは不可能だった。構わず車は再突進してくる。
 ガラスを狙うのは無理だと英二は認識し、ならばタイヤを狙うかと一瞬考えてすぐにそれを打ち消す。
 銃の扱いに手馴れているならともかく両手でしっかり持ってでさえ大体の箇所しか狙えない自分が、
 器用に車のタイヤだけ撃ち抜けるものか。となれば、車から敵を追い出す作戦は一つだ。

 どこかの障害物に車をぶつけ、走行不能な状態に持ち込む……それしかない。
 問題はこの作戦を気付かれないように誘導しつつ障害物のある地点まで行けるかということだ。
 だが、やるしかない。車という鋼鉄の盾から追い出しさえすれば互角の戦いに持ち込める。
 栞からの援軍も期待できる。あわよくばリサの助けさえ見込めるかもしれない。

 自分次第ということか。今の僕になら相応しいと苦笑し、実行に移すため車から離れるようにして逃げる。
 当然のように車も追ってくる。そうだ、そのままついてこい。落とし穴に落としてやる。
 車は左右にくねりながら避けさせまいとしているかのようだったが、悪天候が味方してくれている。

 診療所から離れ、現在疾走している地点はアスファルト舗装もされていないむき出しの地面だ。
 そこに雨が降っていることにより若干ではあるが地面はぬかるみ、車の本来の最大速度を出させない。
 故に英二のような運動慣れしていない人間でもギリギリではあるが軌道を読み、避けることが出来る。

499儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:18:06 ID:nKYEabcw0
 また車はその性質上後ろをとられることにも弱い。完全に後ろを維持し続けることは難しいものの、
 側面や後方近くに回り、真正面にだけは出ない。
 こちらは小回りが最大に利くことを利用し、細かく回りながら移動し、スピードを出させない。

 直角に移動して突進させない、Uターンして車にも同じ行動を強要するなど、
 それなりに時間がかかりつつも、体力を消費しながらも器用に立ち回りながら、
 英二は氷川村の外れの雑木林近くまで車を誘導することに成功していた。

「く……っ、はっ、はっ……っ」

 息を激しく切らせ肺が必死に酸素を求めている。たかだか10分ほど運動しただけだというのに。
 やれやれ、帰ったら体力づくりに励まないとな。
 こんなときでも皮肉交じりの冗談を並べるのは自分のどうしようもない性であるらしい。
 本当に自分はどうしようもない。苦笑を浮かべ、英二は木を背にして目の前に立ちはだかる車を見据えた。

 ここが正念場、腹の決め所というやつだ。最後の突進を避けられるかどうかでこの戦闘は大きく変わる。
 もっとも、体力の切れかけた自分がこの先どうなるか……そう思いかけて栞の姿をふと思い浮かべた英二は、
 ああ、そうだなと諦めかけていた自分を叱咤する。
 諦めてたまるか。まだ自分は何もやりきってはいない。終わってもいいと思うのは為す事をやり通したときだけだ。

 澱んでいた血が今は正常に巡り、体の隅々にまで力を与えている。もう動けないと頭が思っても体が勝手に動く。
 ただの生存本能なのかもしれない。動物としての本能が死にたくないと勝手に動かしているだけなのかもしれない。
 だがそうだとしてもこの一歩一歩が確かに道を切り拓いていく実感がある。
 自分のものではなく他人のものであっても、雨が止んだ空のように晴れ渡っていく感覚がある。

 来い。胸中に絶叫したとき、車のタイヤが急回転してこちらに突っ込んでくる。
 ――その瞬間、緊迫した雰囲気に割り込んできた物音が英二の耳に入る。

「っ!?」

 遠くから数度聞こえたそれは、僅かに英二の意識を呆然とさせ、また隙を作り出すには十分過ぎる間があった。
 ハッとして意識を眼前に戻すと、そこには高速で突っ込んでくる巨大な車体が立ちはだかっていた。

500儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:18:24 ID:nKYEabcw0
「しまっ……!」

 全身を使って跳躍し逃れようとしたが遅かった。
 即死とまでには至らなかったもののボンネットからフロントガラスへ激しく体をぶつけ、
 そのまま勢いに飲まれごろごろと車上を転がった後トランクを伝い滑り落ちた。

 ごほっ、と激しく咳き込む。体を強く打ちつけた英二の体は思うように動かず、
 泥濘の地面を無様に転がることしかできない。一時的なものだろうがあまりにもショックが強すぎる。
 しかし自分に突っ込んだドライバーもただでは済んではいまい。思惑通り猛スピードで突っ込んだ車は、
 勢いを殺しきれぬまま木へと突っ込み見事にバンパーをへこませる形で走行不能状態に陥っていた。

 エアバッグが機能しているかは知らないが、状況的には相打ちといったところか。
 後は、少しでもここを離れないと……這いつくばるように移動しようとした英二だったが、
 車のドアがガチャリと開く音が背後から聞こえた。
 まさか、相手は無傷――!?

「くっ、冗談じゃない……!」

 寝転がったまま、痛みを押してベレッタを構えた英二の前に転がるようにして現れたのは。

「やってくれますね……緒方、英二」
「……弥生君かっ!?」

 よろよろと、英二と同じく地面に膝を付きながら、とても攻撃に移れる状態とは思えないのに。
 それでも銃をしっかりと掴んで放さない、篠塚弥生の姿がそこにあった。
 前々から冷然として感情を持たないはずの彼女の顔は、今は妄執と意地に取り付かれ般若のような形相になっている。
 以前逃がしたときとは似ても似つかぬ、落ちるところまで落ちてしまった女の姿だ。

501儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:18:44 ID:nKYEabcw0
「ですが、それもここまでです。貴方の死で、私はもう何も恐れることはなくなる」
「ぐっ……だが、この状況で君も、僕も撃てはしない。ここで死ぬ気がないならな」

 英二はベレッタを、弥生は機関銃らしきものを肩から吊り下げお互いがお互いへと向けている。
 弥生の願いは一度会って知っている。いやそうでなくとも十分に想像ならつく。
 どれだけ一緒にいたと思ってる。

 英二は吐き捨てつつ、ベレッタの銃口を弥生にポイントし続ける。
 由綺を生き返らせる。彼女をスターダムに押し上げる。どこまでも純真で愚直な弥生のただ一つの願い。
 そうすることでしか生きる術を持たない、哀れなほど小さく弱々しい弥生の願いだ。

 だがその願いを叶えるなら弥生は必ず生き延びて優勝しなければならない。
 今は二人で優勝できるだとか言っているが、コンビを組んだとして、片方だけ生き残っても由綺を生き返らせてくれ、
 などと言うはずがないと弥生は思っている。そういう人間なのだ、弥生は。
 だから彼女は絶対に死ねない。そうであるはずに違いなかった。

「そうでしょうか。私は、そうは思いません」
「なに……?」

 構えを崩さぬまま、弥生はニヤと口元を歪める。この状況こそが予定通り、そう語っているかのようであった。
 そう、英二は気付いていなかった。

 英二が動けぬ状況に仕立て上げることこそ弥生の思惑で……既に、英二にはチェックメイトがかかっていたのだと。

     *     *     *

 鎮静剤らしきものを見つけて、手探りのような感じで注射してみたものの痛みは僅かに引いただけで、
 全然効果らしいものはない。治療を施してもいない脇腹からは未だにだらだらと血が流れ続けている。
 現実ってやっぱり上手くいかないものですねと思いながらも、だからこそ抗いようがあると気合を入れ直す。

502儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:19:18 ID:nKYEabcw0
 英二が診療所から出ていって何分が経過しただろうか。外からは雨に混じってけたたましい爆音が聞こえてくる。
 向こうも必死に踏ん張っている。ここで寝ていては示しがつかない。
 美坂栞はよろよろと体を起き上がらせると、M4カービンを杖のように支えて立ち上がる。
 大丈夫。動ける。まだ動ける。何度も自身にそう言い聞かせ萎え切っている体を鞭打って動かす。

 まったく、本当に変わってしまったものだと苦笑する。ここまで自分が生きていることも奇跡なら、
 こうして体を動かせているのも奇跡。

 起こらないから、奇跡って言うんですよ。

 己を総括していたはずの言葉が今は馬鹿らしいものにしか思えない。ただ、奇跡の捉え方については変わった。
 奇跡は起こってなどはくれない。自分から何かをする意思がなければ奇跡は起こりようがない。
 ここに来る前の自分はただ望んでいただけだった。何もしようとせず、何も望まず、何も信じず、
 抜け殻のように過ごしていただけだ。それでは何も変わらない。奇跡だって起こせない。

 己が前に進もうとする意思。翳りのない未来を目指すのも、自己満足を成し遂げるだけでも、
 意思がなければ達成しようがないのだ。諦めだけに満たされていた自分に奇跡などあるはずがなかった。
 だから、今は自分自身で歩く。望んだ結末を目指すために、風の辿り着く場所へと行くために。
 ゆっくりと、しかし確実に歩みを進めて診療所から外への扉を開ける。

「ご苦労さん。ええ根性や。……が、ここまでやな」

 扉を開けた目の前。そこには銃を構えた傷だらけの女がいた。
 誰だ、という疑問が飛び出す前に銃の筒先が栞の体をポイントし、何の前触れもなく銃弾が栞を撃ち抜いた。
 すとんと体が崩れ落ち地面に突っ伏す。そこでようやく、栞は待ち伏せされていたのだと気付いた。

 恐らくは英二の言っていた追っ手。一人だけではなかったのだ。
 前のめりに倒れたせいかM4が身体の下敷きとなって、どうやら武器を奪おうとしたらしい敵はちっと舌打ちを漏らす。

503儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:19:38 ID:nKYEabcw0
「まあええわ……死体は動かへんしな。取り敢えずは邪魔な要素を排除できただけでよしとせな、な。
 後は篠塚が上手くやって、うちが男の方にトドメを刺す……か。ホンマいけ好かへんけど使えるわ」

 薄れてゆく意識の中、敵の立てた策にかかっていたのだと栞は自覚する。
 狙いは最初から各個撃破で、陽動を目論んでいることなど既にお見通しだったということか。
 元々ギリギリで動いていたところにさらに銃弾を撃ち込まれ、完全に力が抜け切っていた。
 視界も徐々に霞み、自分の命を支える砂時計が加速度的に落ちてゆく。

 ここまでか。もはやどうしようもない事態になっていて、自分ができることなどなくなってしまった。
 当然の帰結なのかもしれない。虚勢を張ったところで、訓練紛いのことをしたところで肉体的に弱いというのは変わらない。
 自分より強い存在に遭遇すれば為す術もない。現実はそんなものだ。

 ――だけど、このままでは皆が死ぬ。自分だけではなく、英二もリサも、皆死ぬ。それでいいのか?
 自分が死ぬからといって全てを諦め、投げ出してしまう程度の人間だったのか、自分は?
 嫌だという思いが衝動的に突き上げ、栞の指に力を入れさせる。

『ほら、しっかりしなさいよ。まったく、私がいないと全然ダメなんだから、栞は』

 ため息をつきながらもしっかりと栞の手を取り、銃に手を添えさせてくれる存在がいた。
 どこか冷めていて、でも頼りがいのある声は……自分の姉だ。

『いいか、思いっきりやれ。遠慮することはないんだ。雪合戦だ、やっちまえ』

 茶化すように煽りながらももう片方の手を添えさせてくれている存在がいた。
 ニヤリと不敵な笑いを浮かべている声は……相沢祐一だ。

『栞ちゃん、ファイトだよっ』

 羨ましすぎるくらいの元気さで両腕に力を入れさせてくれる存在がいた。
 かけがえのない友達で、自分にも元気をくれる声は……月宮あゆだ。
 それだけではない。たくさんの存在が自分に力を分け与えてくれている。

504儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:19:57 ID:nKYEabcw0
 気をつけて。ドジるなよ。しっかりやれ――砂時計の残りは僅かだったが、皆が踏ん張り、漏れ出すのを抑えている。
 後は自分だけだ。やるべきことをやり、為すべきことを為すために。
 血まみれの手でM4を握り、リサに叩き込まれたことを反芻する。

 頬と右肘でストックを固定する。右膝をついて、左足のつま先は目標に向ける。
 ライフルは右膝に対し約80〜90度開き、左肘は左膝の前方に出す。
 そして腿と左足のふくらはぎは出来るだけ密着させる事。体重は出来るだけ左足に多く掛け、
 左足は地面に平らにおき、前方から見て垂直になるようにする――

「まだ、勝負は、ついて……!」
「な……!?」

 栞の声を捉えた敵が驚愕に満ちた表情となって振り向く。死んだと思った相手が再び起き上がり、
 しかも銃を向けているのなら尚更だろう。必死に銃口を向け、こちらをポイントしているがもう遅い。
 敵が銃口を引いたのと同時に栞も最後の力を使ってM4の銃口を引き絞った。

     *     *     *

 けたたましい銃声と眩しいくらいの光が辺りを包む。
 晴子の放った銃弾は栞の胸部、心臓を撃ち抜き即死させていたが、
 栞がフルオートで放ったM4のライフル弾もまた晴子の肺や内臓をことごとく破壊し致命傷を与えた。
 かはっ、と血を吐きながら晴子はよろよろとよろめき、診療所の壁へと背中をもたれさせ、
 そのままズルズルと身体を落としていった。

 馬鹿なという驚きと信じられないという気持ちがない交ぜになり、晴子から闘志の全てを奪った。
 焦りすぎたのか。それとも弾丸を温存しておきたいという思考が仇となったのか。
 心臓を撃ち抜かれながらも満足げに微笑み、してやったという風情の顔になっている栞を見て、
 どちらでもないと晴子は確信した。

505儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:20:27 ID:nKYEabcw0
 執念が足りなかった。絶対に優勝してやろうと決意していたが、
 所詮夢物語だと冷めた目で見ている自分がいるのに気付けなかった。
 相手はそうではない。目前の敵を倒すためだけに全力を傾けていた。温存なぞ微塵も考えず、やるだけのことをやった。
 その結果が相打ちということか。そう結論した晴子はやはり弥生のようにはなりきれないと嘆息するしかなかった。

 そう、実際晴子には『まず重傷を負っている栞を殺せ。然る後に弥生の元へ駆けつけ、機を見計らって英二を殺せ』
 と言われて、栞を狙った時点である種の慢心があった。
 重傷だから拳銃一発で死ぬだろうという思い込み。
 また武器を温存しておきたいという思考がVP70を連発させなかった。
 そして何よりも、晴子が考えた通り、彼女には『現在』に対する執念が栞に劣っていた。

 観鈴を殺した連中への報復は考えていたもののそれは漠然とした参加者全体に対してでしかなかったし、
 また仮に優勝したとして本当にクローンとして再生できるのか。
 現実主義者の晴子にはここが疑念として残ってしまっていた。

 つまるところ、晴子は自棄にしかなっていなかったのだ。恨みと憎悪を撒き散らし、強い信念も持てず、
 子供のように暴れまわることしか出来なかった。
 弥生みたいになりきれないとはそういうことだった。くそっ、と吐き捨てた晴子はぼんやりとした意識のまま、
 娘の観鈴のことを思った。

 たとえ自棄になっていようが、晴子の母親としての気持ちは本物だった。ずっと一緒にいたかった。
 やり直して、二人で仲良く暮らしていきたかった。お祭りを一緒に楽しみたかった。花火を二人で見たかった。
 誕生日を祝ってやりたかった。髪を切ってやりたかった。抱きしめてやりたかった……

 もう叶わない。分かりきっていたことを今更思い知らされると同時に、
 やはり観鈴の死を受け止めている自分がいることにも気付く。
 晴子はどこまでも人間でしかいられなかったのだ。

 けれども、と晴子は思った。この部分だけはきっと娘も許してくれるはず。妄想や夢想でしか生きられず、
 そのために化け物に成り下がらなかったことだけは許してくれるだろう。……同じ天国に行けたらの話だが。

506儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:20:45 ID:nKYEabcw0
「は、はは……ああ、無理やな」

 天国など元より信じていない。仮にあったとしても地獄行きだろう。何せ人を殺している。
 それが母親をやってこなかった自分に対する罰なのだろうと断じて、晴子は目を閉じた。

 荒かった息が徐々に収まり、上下に揺れていた身体もゆっくりとその動きを止める。
 そして一滴、涙を雨に混じらせたのを最後に、神尾晴子はその生を閉じたのだった。

     *     *     *

 思い通りに行っていた。
 車で英二を追い回し、疲れたところで晴子が乱入し銃で射殺する。
 更にもう一人は自分が英二と戦っている間に殺すように言ったので援軍など在り得ない。

 戦いをわざと長引かせたのもそのため。晴子が十分に第一の使命を果たすための時間稼ぎをしていた。
 最後の最後、ブレーキをかけきれずに木に激突してしまい思わぬダメージを負ったのは計算外だったが、
 少し打ち身をしただけで重大な問題ではない。
 後はこうして互いに銃を向け合っているが、英二の身動きは封じたも同然。
 自分は晴子が撃ち殺しに来てくれるのを待てばいいだけだった。

 晴子はこの作戦を聞いた時「いいのか」と尋ねてきたが、誰が英二を殺したかに意味はない。
 英二が死ぬという事実のみが重要なのであって、自身で葬りたい気持ちはあったものの、
 敵討ち自体に執着はしない。自分が生き、英二は死んだ。そう認識出来さえすれば良かった。
 そう、睨み合うふりをしつつ待つだけで良い……そのはずだった。
 遅すぎる、と弥生は苛立つ。

 英二を殺してくれるはずの晴子がいつまで経っても到着する気配を見せない。
 どんなに周りを確認してみても静寂ばかりで、人影など微塵も見られないのだ。
 一体何をやっている? 片割れの殺しに手間取っているのか?

507儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:21:11 ID:nKYEabcw0
 だがそんなはずはないと弥生は考える。以前の戦い振りを見る限りではあっさりとやられるようなタマではないし、
 何より相手は重大な怪我を負っている。これだけ晴子に有利な状況で仕留め損ねるなど考えられない。
 では裏切ったのか? こうして自分と英二が共倒れになるのを待っているというのだろうか?
 いやそれもない、と即座に否定する。ここで自分を見殺しにしたとしてメリットがなさすぎる。

 まだまだ生き残りはいる。ここから先、怪我だらけの晴子一人で戦うにはあまりにも敵が多すぎる。
 武器を独り占めするという考えもないはずだ。そうして貴重な人的資源を失うデメリットは晴子だって知っている。
 自分と本質を同じくし、汚点を消すことに賛同してくれた晴子に裏切る要素などどこにもない。

 ではまさか、逆に殺されたとでもいうのだろうか。それこそお笑い話に過ぎない。
 戦闘になって苦戦するという想定以上に在り得ない話ではないか。
 ならば一体、何が起こっている、この状況で?

 弥生の構えるP−90が少しずつ揺れ、焦りが表面に出始めたときだ。
 己の瞳をずっと眺めていた英二が哀れむような、悲痛な表情を湛えながら、ぽつりと漏らした。

「無駄だ。もう君の援軍は来ない。どんなに待ったって、な」
「なっ」

 作戦を読まれたことに思わず声を上げてしまう。本当だとばらしてしまった事実に気付き、
 弥生は舌打ちをしたがすぐに平静を取り戻し「何故そう言い切れるのです」と注意を英二に向けた。

「……やはり、君には聞こえなかったみたいだな」
「……もったいぶらずに説明してくださるかしら」

 弥生の声に怒気が篭もり、スッと目が細められた。だが英二はそれに動じる風もなく、淡々と話し続ける。

「君が車で突っ込んできたとき、銃声が聞こえたんだ。それも複数の、何発もの銃声が」
「……」
「それで僕には分かってしまった。君の仲間と、栞君が相打ちになってしまったのだとね」
「あり得ません」

508儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:21:47 ID:nKYEabcw0
 ぴしゃりと撥ね付けるように弥生は否定する。弥生の想定では在り得ないはずなのだ。重傷者相手に、相打ちなど。
 英二はしかし「だがこの状況を説明するにはそれしかない」と続ける。

「君はまだここで死ぬわけにはいかない。二人で引き金を引いて心中、なんて結末にはしたくないはずだ。
 なのに君は交渉をするでもなく、打開策を練っているわけでもなく待ち続けている。どういうことか?
 簡単な話さ。君には援軍がいると分かりきっていた。だから待つだけで良かった。
 膠着状態にしさえすれば良かったのさ。僕を狙い撃ちにしにくる仲間へのお膳立てとして」
「下手な推理ですね」
「どれだけ君と付き合ってきたと思ってる」

 確信を含んだ英二の物言いに、弥生は歯を噛むしかなかった。この男は自分の全てを知りきっているとでもいうのか。
 鉄面皮で隠し、秘匿してきたはずの感情をも英二は読んでいるというのか。……在り得ない。
 だが最初もそうだった。結局はこちらの真意を読まれ、銃撃戦に敗北し、あまつさえ命を長らえさせる結果となった。
 今と同じ表情で、何もかもを見透かしているような透明な目つきで。

「……私が、貴方を殺したいと思っている。そうは考えたことはないのですか。
 貴方の推理では、私は他人に復讐の権利を譲ってしまったことになる」
「その質問が既に答えだ。君が拘るのは森川由綺、ただひとり……そうだろ?
 君はそうすることでしか生きる術を知らない、僕と同じ種類の人間だ。分かるんだよ、同種だからな」

 晴子と同じ言葉を英二は言ってのける。その瞬間、弥生の脳裏に形容しがたい悪寒が走った。
 この男が同種だというのか。由綺のために全てを投げ打てる自分が、妹の死さえ受け入れたこの男と同じだと?
 晴子はまだいい。自分の目的のためなら手段を選ばない強引さと合理性を併せ持ち、賢く生きているのだから。

 だが英二は違う。達成すべき目的も持たず、その場その場で方針を変え何が最初の目標だったかも忘れるような男だ。
 それゆえ英二は自分の汚点だ。相容れられず、さりとて下すことも出来ない存在だった。
 それが今、こうして、チェックをかけたはずなのに……また立ち塞がっている。

509儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:22:05 ID:nKYEabcw0
「……冗談ではない」

 耐え難い怒りが弥生の鉄面皮を破り、底暗い形となって滲み出した。
 この程度の存在が排除できず、優勝など狙えるものか。

 何が何でも由綺を生き返らせてみせる。今までレールの上を歩くようにして生きてこれなかった自分が、
 初めて持った目標。それをこんなところで邪魔されてたまるか。妄執が弥生の身体を衝き動かし、
 よろよろと、しかししっかりと二の足をつけて立ち上がらせる。
 打ち身も古傷の痛みももはや関係ない。ただ許しがたい想念だけが弥生の身体を動かしていた。

「貴方のような惰性で生きているような人が私と同種? そんなことがあるものですか。
 私は夢を諦めてはいない。絶対に諦めず、最後まで遂行し続けるだけです。一緒にしないで下さい」
「だがその夢はただの幻想だ」

 弥生に引っ張られるようにして同じく立ち上がった英二の口調も、聞き分けのない子供を叱る親のものへと変わっていた。
 全身を声にして、確かな感情をもって英二は否定の言葉を重ねる。

「何も変わらず、何も変えようとせず、それでいて自分の思い通りに事が進むと思い込んでいる。
 いや、思ってすらいない。一度思い通りにいかなかったからって思考停止して目を背けている愚か者だ!」
「私を同種と言うなら貴方だって同じだ! 本当に大切なものが何かを考えもしない癖に……!」
「そうだっ! だから『今』から考えようとしているんじゃないか!」
「御託は……もう聞き飽きた!」

 P−90の引き金を引き絞る。もう作戦などどうでもよかった。
 ただこの男が許せない。その一念に駆られて銃を乱射する。
 だが英二は飛び上がると、そのまま車のトランクの上をごろごろと転がり掃射を回避してみせた。

 ボロボロだったはずの英二にどこにそんな力が? 理解できない思いを無視して銃口を修正し、再発射しようとする。
 だが……銃口からは何も出なかった。
 弾切れ――そう認識した弥生の視線の向こうでは、英二が拳銃をしっかりとホールドしていた。

510儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:22:22 ID:nKYEabcw0
「……ゲームオーバーだ、弥生君」

 その表情はあまりにも辛そうで、苦しそうで。泣いているのではとさえ思ったが、
 雨に紛れているだけだと弥生は思い込むことにした。
 認めたくなかった。自分と同種であることも、涙を流しているかもしれないということも、勝てなかったということも。
 自分には運と実力が少し足りなかっただけのことだ。だから悲しんで貰おうだなんて思っていない。

 自分を悲しんでいいのは由綺だけだ。
 だからせいぜい苦しんでしまえばいい。自分を殺してしまった分、苦しみ抜けばいい。
 それが今の自分にできる最大限の反撃だろうから。

 ――でも、それじゃ寂しいですよ。

 いつか聞いた藤井冬弥の声がふと蘇り、ああ、そうかもしれませんねと弥生は苦笑した。
 それでも良かった。夢半ばで倒れる程度の人間にはそれで十分だった。

「寂しい、ですね……」

 そう呟いたのを最後に、篠塚弥生の意識は真っ白な雪に覆われてゆく――

511儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:22:52 ID:nKYEabcw0
ここまでが中編となります

512儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:23:24 ID:nKYEabcw0
「……英二」
「やあ、リサ君」

 疲れた、ただ疲れきった、そんな表情で英二がリサを出迎える。
 周りには一人の人間の体がうつ伏せに転がっており、恐らくは遺体なのだろうと判別できる。
 そして英二自身は車に背中を預けるようにしてもたれかかり、座っている。

 見た感じではどこからも出血はしていなさそうだが、ひどくぐったりとしていることからダメージは大きいらしい。
 いや、単にそれだけではないだろう。英二がひとりでいるということは、
 ひとつ失われてしまったものがあるということだった。

「……栞君は、残念だが、恐らく……」
「……そう」

 暗澹とした思いがリサを包み込む。いざこうして言葉で受け止めてみると辛い。
 間に合わなかったという後悔が胸を軋ませる。肌にかかる雨が冷たくなったように感じられた。
 結局言えなかった。家族のように大切に思っていたのだということも、
 もし帰れたら一緒に暮らしてみないかという提案も……全てが遅きに過ぎた。

「ボロボロだな、君は。だが、強くなった。そんな目をしているよ」
「そうかしら……? 英二は優しくなった気がする、そんな目よ」
「お互い、何か踏ん切りがついたようだな」

 そうらしいと微笑しながらも、それを伝えられる相手がひとりいなくなったしまったことを認識する。
 追いつく前に、肩を並べる前に栞は遥か遠くに行ってしまった。悲しさよりも寂しさの方が先に突き上げる。
 逆に言えばまだそれだけの関係でしかなかったということで、本当に取り返しがつかなくなったなとリサは思う。

 だがこうして自分も英二も生きている。この感情を共有できる相手がいる。それだけでマシなのかもしれない。
 そう考えてリサは英二に手を伸ばした。

「行きましょう。栞の最後、見届ける義務があるわ、私達には」
「……ああ。多分、栞君は診療所の近くにいたはずだ。そこで別れたからな」

 リサの手を支えにして英二はゆっくりと立ち上がった。その傍らの遺体には一丁の銃……P−90が落ちている。
 ついでに拾おうかと思ったが、英二がそれを阻む。

「弾は入ってない。予備弾もなかった。……武器はそれだけだった」

513儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:23:45 ID:nKYEabcw0
 どうやら調べはついていたらしい。あの車はまだ使えるだろうかと次に考えたが、歩いていく方が早いだろうし、
 今は車を走らせられる気分じゃない。栞の本当の最期を見届けたら調べようとだけリサは考えて英二の横に並んで歩き出した。

「ねえ、英二」
「ん?」
「以前レストランとかお酒なら話せる、って言ってたわよね」
「ああ……そうだな、それなりには」

 よかった、とリサは柔らかく微笑する。英二はというとまったく脈絡のない話題に目をしばたかせ、
 何を企んでいるんだという風に首をかしげている。別に他意なんてないのに。内心にため息を吐きながら続ける。

「私とディナーの約束をしてくれないかしら? お店は貴方に任せるわ」
「は? おいおい、何をいきなり」
「私じゃ不満?」
「そういうことではないが……」

 ここの殺伐とした雰囲気とはあまりに場違いな提案に戸惑っているのか、英二は考えあぐねているようだった。
 自分も口には出してみたものの実におかしなことを言っていると思う。
 そもそも生きて帰れるかさえ分からない状況で、今は仲間の死を確認しに行っているというのに。
 不謹慎だと思う一方、やりたいようにやればいいと思う自分もいる。後悔だけはしたくない。それは本心だったから。

「一度貴方とゆっくり話してみたいのよ。落ち着いた場所で、じっくりとね」
「……ふむ」

 英二は眼鏡を直し、まじまじとリサを見つめる。あまりにも真剣な目で見るので気恥ずかしいとも思ったが、
 じっと英二の答えを待つ。せかすつもりもない。思うに任せてやったことなのだから。

「了解だ。こんな美人の誘いをお断りするなど男のすることじゃない」
「光栄ね。褒め言葉と受け取っておくわ」
「あまり期待はするなよ、僕だってそんなに詳しいわけでもないからな……ん?」

514儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:24:02 ID:nKYEabcw0
 英二が声を上げたのと同時にリサも発見する。
 診療所の近くには『三人』の人間がいた。ただし一人はうつ伏せに、一人は壁にもたれて座りながら、
 そしてもう一人は様子を確かめるように倒れた二人の体を触っていた。

 髪型は栞に似ていて少しドキリとしたリサだったが服装が明らかに違う。
 そしてあの戦々恐々とした様子は、今しがたこの現場を発見したというところだろう。
 何にせよ、このまま好き勝手に仲間の遺体を弄らせるわけにもいかない。そのために自分達はやってきたのだ。

「そこの子、ちょっといいかしら」
「!? は、はいっ!?」

 思い切り動揺した裏声で応じられる。どうやらこちらの存在にも今気付いたらしく、リサと英二は顔を見合わせる。
 取り合えず敵意はないというように手を上げながら二人は近づく。

「この子はね、僕達の仲間だった子だ。……ちょっと悪いけど、席を外してもらえないか」
「え、え、は、はぃ……」

 緊張しながらも素直に言葉に従い距離をとってくれたが、どこか挙動がおかしい。
 常に視線を動かし、まるで何かに怯えているようだ。探ってみる必要性があると考えたリサは栞に近づくと、
 その額を撫でて、持っていたM4を取るとそれで別れの儀式を済ませる。
 僅かに温かさを感じる。最後に残した栞の余熱を覚えて、リサは立ち上がった。

「それだけでいいのか?」
「いいの。……それより、あの子、おかしい」
「おかしい?」
「何か落ち着きがない。それに見て、あの首輪。何かチカチカ点滅してる。……柳川と会ったときもそうだった」
「トラブルがあるということか。確かに、ここにあんな子が一人でいるというのもおかしな話だ」

515儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:24:22 ID:nKYEabcw0
 任せたという風に頷き、英二は荷物の回収を始める。栞への別れは後でするつもりなのだろう。
 或いはもう心中で終えているのかもしれないと思いながら、リサは「さて」と話をする相手を切り替える。
 わけありと見るのが妥当なところだ。……ひょっとすると、柳川のことも少しは分かるかもしれないと思いながら話しかける。

「自己紹介しないかしら? 私はリサ……で、あっちにいるのが緒方英二。貴女の名前は?」
「ふ、藤林……椋、です」
「なるほど、じゃあ藤林さん? ……その首輪について聞かせてくれないかしら? 何故点滅しているのかを、ね」
「!? そ、それは……」

 明らかに動揺した様子でうろたえている。やはり何かあるらしい。万が一のことを想定して油断なく気配を探りながら、
 リサは「落ち着いて。話せるならでいいから」と肩を叩く。余程怯えているのか呼吸するのもままならなさそうだったが、
 次第に平静を取り戻し、微かに聞こえる程度の小声で話し出した。

「実は、その……お、脅されて、いるんです」
「脅されている……?」

 不意に嫌な予感が駆け巡るがまずは話を最後まで聞こうとリサは考え、続きを促す。

「私、ずっとお姉ちゃんを探してて……それで藤田浩之さんって人と一緒に行動していたんです。でも、
 ある人と会って、出会い頭にリモコンを押されたんです」
「リモコン?」
「この、首輪の爆弾を起動させた、って……私も、藤田さんも」

 首輪爆弾を起動させるリモコン。そんなとんでもないものが参加者に支給されていたと知り、リサは戦慄を覚える。
 だとするなら柳川がああなったのは、実質あのリモコンのせいだということか?
 家族に裏切られた挙句、殺しを強要させられた。だとしたらあのようになっていたのも頷ける。

 この藤林椋も同じ境遇だと考えたほうがいい。解除してほしければ人を殺せ、などと言われれば頷くしかない。
 ましてや椋の怯え振りからすれば相当強要されたと言って過言ではない。
 いくつか怪我も負っているが……まあ、それについては大体想像はつくし、
 ここまで来れば戦闘に巻き込まれていない方がおかしいというものだ。それよりも大事なことを聞いておく必要がある。

516儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:24:42 ID:nKYEabcw0
「いつ爆発するの?」
「……12時間後です。それまでに三人殺せ、と言われました」
「貴女の相方は?」
「バラバラにさせられました。二人で歯向かわれても困るから、って」
「なるほど。じゃあどうして私達を攻撃しなかったの?」
「……それは」

 わざと回答に困るような質問をしてみる。首輪爆弾を起動させられたのは間違いないだろう。
 だが普通なら生存欲求が働き、こちらを攻撃してくる可能性が高いはずだ。
 無論そのときにはこちらも反撃していただろうが、彼女はそうしなかった。単に数の有利不利を見たのか、それとも……
 しばらく待ってみたが、椋は困ったように口を閉じて何も言おうとはしなかった。

「オーケイ。悪かったわね、変なことを言って。ちょっと試しただけ」
「た、試した……?」

 呆然とした様子で返事をした椋に、「ええ」とリサは笑いつつも悪びれもなく続ける。

「何か言い訳してくるようなら怪しい……って思ってたところよ。まあ殺しはしなくても縛るくらいのことはしてたかな。
 でも貴女は何も言わなかった。ならたとえ殺す度胸がなかっただけなのだとしても今こちらに危険はない。
 そう思っただけよ」
「……」

 何とも言えない表情をしているが取り敢えずは納得したのか椋は無言で頷く。
 椋がどう思っているにしろ、犯人の目星はついている。
 柳川が最期に言い残した人の名前……宮沢有紀寧が下手人だろう。

517儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:25:05 ID:nKYEabcw0
 そのやり方を見る限り、かなり狡猾で容赦がない。
 こんなことをしている時点で人の命を軽視しているとしか考えられないのだから。
 それに保身能力も高い。二人で組ませ効率よく殺させるメリットを捨てながらも二人をバラバラに行動させ、
 なるべく自分の身に危険が及ばないようにしている。

 更に柳川を裏切ったという家族の存在も気にかかる。宮沢有紀寧と一緒にいるのか、それとも単独行動なのか、
 或いは既に死んでしまっているのか……
 椋の口からは有紀寧は一人のように思えるが別行動していたことも考えられる。
 とにかく、最大限有紀寧の存在には注意を払わねばならない。

「リサ君、どうだ?」
「厄介なことになってる」

 荷物を回収してきたらしい英二があるものを投げて寄越す。M4のマガジンだった。
 まだ四本分きっちりと残っており、栞がこれを使ったのは最後の最後だったのだろうと思わせた。
 デイパックに仕舞うと他に何か物はなかったかと尋ねてみるも英二はいや、と首を横に振った。

「ハンマーが一つだけだった。銃の方は弾切れだ。……弥生君達の装備はかなり悪かったみたいだ」

 そんな状況でも、戦い続けるしか生きる術を知らない。言外にそう語る英二の表情は渋面だった。
 しかしすぐにそれを打ち消すと「そっちの話も聞かせて欲しいな」と椋の方を見る。

「ええ。でも一旦戻りましょう。あの車、まだ使えるかもしれないから。話は歩きながらするわ」

 二人も頷き、賛同の意を示してくれたようだった。
 同意を得たリサは歩きながらこれまでのあらましを説明する。

518儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:25:33 ID:nKYEabcw0
「リモコンの件だけど、恐らくは解除も出来るはず。そうでなければこのリモコンは使えない。
 だって、解除できないと分かったら自棄を起こして歯向かって来るかもしれないからね」
「だがその犯人が嘘をついていることもあるんじゃないか?」
「確かにね。でも万が一誤作動して自分の首輪が点滅したとしたら……必要でしょ? そういうものが」
「……本人が持っていないという可能性はあるが。確かに、理にはかなっているか。それと、椋君、だったか?」
「は、はい?」
「君のお姉さんに会ったことがある。君を探すと言って別れてしまったが……心配していた、君のことを」
「っ! 本当ですか!? 何もおかしなところとかはなかったんですか?」
「あ、ああ。まあ随分前の話……だが」
「そうですか……良かった」

 それまでの暗い表情から一転して華やいだ表情を見せる椋。
 へえ、とリサも興味を示す。英二が椋の姉と会っていたとは。
 別れているとはいえ、家族が心配しているのを伝えられれば少しは安心するだろう。

 そう、別れているよりは一緒の方がいいに決まっている。
 仕事の都合とはいえ会えない日々が続き、最後には物言わぬ形でしか目を会わせられず、
 一度は復讐の塊になってしまった自分という存在がいるのだから。
 なるべくなら、姉妹を無事に会わせてやりたい……そう考えながら車のところまで戻ってきたときだった。

 車の近くに二人の人間がいる。一人は男、もう一人は女だ。
 女の方はどこかで見た事がある髪型だ。一体誰だっただろうか? だがすぐにその疑問を打ち消すと、
 新たなる来訪者が来たことを英二と椋に告げようとする。今日は客が多い……そんな風に言おうとした。

「あ、あ……!」

 何故ここに――そう言って差し支えないほどに目を驚愕の形に見開いた椋が半歩後ずさっていた。
 同時、こちらに気付いたらしい二人組が叫びながらこちらへと走ってくる。その内容にリサも、英二も耳を疑った。

 『離れろ。そいつは、藤林椋は殺人鬼だ』――と。

 椋が殺人鬼? そんな馬鹿なと思いながらも決死の勢いで叫ぶ二人組にリサの勘がヤバいと警笛を鳴らす。
 何故出会った時点で攻撃してこなかった、何故こんなにもうろたえている?
 疑問はつきなかったが、嘘と断じるにはあまりにも証拠が足りなかった。

519儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:26:10 ID:nKYEabcw0
 混乱しながらもまずいと判断したリサは椋から離れようとしたが、予想外にも対応は椋の方が早かった。
 既に彼女は自身のデイパックからショットガンを取り出し、筒先をリサ……引いては、あの二人へと向けていた。
 その目は既に、怯えるだけのか弱い少女のものから凶悪さを含んだ殺人鬼のものへと変貌している。
 M4で応戦しようにも遅い――撃たれるのを覚悟したリサの体にぶつかってきた人間がいた。

「危ない!」

 英二だと分かった瞬間、耳をつんざくような発砲音が聞こえ、英二の片手を吹き飛ばした。
 至近距離で放たれたショットガン、ベネリM3の散弾がまとまったまま英二の手に命中し、
 肉や骨ごと根こそぎ吹き飛ばしたのだ。

「が……ぁっ!」

 激しく出血した英二だがショック死は免れたようだった。リサは英二を支えつつ、己の目測が外れたことを実感する。
 だが疑問は残っていた。演技だったということは分かる。分かるが、何故最初に会ったとき、
 いや遺体を調べているときに撃ってこなかったのだ? 奇襲をかけるなら絶好のチャンスだったはずなのに。
 二人とも殺せないと思ったからなのか? それとも本当に驚いただけだったから?

 ……違う。物音を立てたくなかったからだ。あの二人に見つかるのを避けたかったから。
 派手な戦闘はしたくなかったからというのが推論として浮かぶ。
 しかしそれだけではない気がする。自分はまだ何かを見落としている。決定的な何かを……

 とにかく安全な場所まで移動しようと英二を引っ張る形で移動し始める。警告してきた二人は攻撃を回避できたようで、
 それぞれ武器を持って椋と対峙していたようだった。
 椋は半ば乱射気味に二人の方へベネリを撃ち放すがショットガンは遠距離から狙い打つには向かない。
 二人はしっかりと回避し反撃の体勢を取る。
 勝てるか……? リサが三人の戦いに一瞬意識を向けたとき、支えられていた英二が叫んだ。

「リサ君ッ! 向こうに……!」

520儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:26:32 ID:nKYEabcw0
 手のない腕で椋の後ろ側を指す。そこにはまたしても新しい人影が現れていた。
 マシンガンを持った小柄な少女。恐らくはMP5Kであろうものを抱えて、こちらへと狙いを定めていた。

「計画がちょっと狂っちゃったみたいだけど……結果は同じだよ。皆殺しにしてあげる」

 計画、と少女が口にしたとき、リサの中で見落としていたパズルのピースが見つかった。
 周到に包囲していたのだ。藤林椋を囮に使い、彼女を誰かと出会わせた上でしばらく泳がせ、
 人数が増えてきたところを他の仲間の射撃と椋の内部からの攻撃で一網打尽にする。
 内と外からの同時攻撃。それが狙いだったのだ。だとするとこの近くには宮沢有紀寧がいる。

 これだけ大掛かりな作戦だ、指揮をとる宮沢有紀寧がどこかで見ているはずだった。
 だが、遅きに失したと言わざるを得ない。待ち構えていたのか少女の銃口は確実にこちらを捉えており、
 英二を連れたままの状態では掃射を回避することもままならない。
 何より、この作戦を見抜けなかった時点でこちらは詰んでいた。
 完全に出し抜かれた……そんな敗北感に駆られたリサの体を、叱咤するように英二が突き飛ばした。

「!?」

 片手を吹き飛ばされたとは思えない力は、恐らくは最後の力を振り絞ったものだったのだろう。
 力を使い果たした英二は口元に微笑を浮かべていた。
 直後、弾丸の雨が降り注ぎ、体を細かく跳ねさせる。
 銃弾の雨に貫かれ、身体中から血を噴出させながら、英二は首をゆっくりとこちらへ向けた。

「愚直に、過ぎたかな……?」

 微笑を含んだままの声で、彼は最後にそう言った。
 そうね、という返事が喉元まで突き上げ、しかしそれは言葉にならなかった。
 愚直に過ぎた。何も話していない。酒を酌み交わしてもいない。
 貴方は本当にそれでやり通せたのか。分からないじゃないか。
 私はまだ、自分の本当の名前すら教えてもいないのに……

521儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:26:50 ID:nKYEabcw0
 だが言葉にならない哀しみをすぐに怒りに変え、リサは眼前の敵を見据えた。
 泣いている暇はない。泣いていたら殺される。自分の何も伝えられないまま。
 それより何より……あの女は、私を本気で怒らせた。

 地獄の雌狐を出し抜いたことを称賛しよう。そして、後悔させてやる。
 全身の血液を猛然と沸騰させ、リサは限界の体を引き摺って戦い始めた。

     *     *     *

 また人が死んだ。
 ここに来たときには車の近くで一人死んでおり、今もまたこうして一人が命を落とした。

 一体何があったのかまだ想像もできないし、結論から言えば出遅れた自分達には当然の結果なのかもしれない。
 だがこれだけは分かる。恐らくは観鈴を殺し、みさきを殺し、珊瑚をも殺した藤林椋という仇敵が目の前にいる。
 性懲りもなく獅子身中の虫を気取って入り込もうとしていた奴がいる。

 これ以上誰かに後悔させてたまるかという気持ちを振り絞って自分と、傍らにいる瑠璃も叫んでくれた。
 後で問い詰められようと構わない。とにかく、あいつだけは倒さなければいけない。
 生かしておいちゃいけないという強い信念が体を動かし、一度は間に合わせたと思った。

 だが椋は周到さを増しており、今度は共闘相手まで連れてきた。
 あくまでも殺しに罪悪感を感じる気も、やめる気もないらしいと悟った浩之は、もう言葉もかけまいと思う。

 どんな理由があっても、どんなに大切な家族がいてもそれは悲しみや憎しみを撒き散らしてまで守るものなのか。
 人と人の繋がりを構成する命を断ち切って、まるで何も思わないのか。
 おれは許さない。奪ってまでしがみつこうとする奴を絶対に許さない。
 自分の未来はもう明るさを取り戻せないのだとしても、人の未来、翳りのない明るい道は守れる。
 だからそのために、ただ戦う。

522儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:27:23 ID:nKYEabcw0
「てめぇっ!」

 新たに現れた小柄な少女、柏木初音に対し浩之は火炎瓶を投げる。
 雨の中だったが小降りなお陰で威力はそれほど損なわれなかった。一気に膨張した炎が初音を包もうとするが、
 距離の長い投擲であったために初音は回避動作に移っており、炎から逃れ椋と合流する形でまとまる。
 一方の浩之と瑠璃にも金髪の女性、リサ=ヴィクセンが合流し、三人は遮蔽物となっている車の陰へと身を隠した。
 壁ができたことで銃撃の嵐は一旦なりを潜め、つかの間の静寂が辺りを支配した。

「助けてくれてありがとう。まず礼を言わせて。……リサ、リサ=ヴィクセンよ」

 そう名乗ったリサが差し出した手を、この状況でいいのかと一瞬躊躇しながらも浩之も名乗って手を取った。
 浩之の名前を聞いたときリサは不意に首をかしげたが、今は気にしなくてもいいと思ったのかそのまま瑠璃へと視線を移す。
 瑠璃も「姫百合瑠璃です」とリサの手を握ったが、表情は心なしか申し訳なさそうだった。

「でも、その……間に合わへんで、ごめんなさい……もう少しウチらが早かったら」
「そうね、間に合ったかもしれない。でも私にそれを責める気はない。英二は望んで私を助けた。
 ……それで満足に生きられたのかは分からないけど、一緒に死ぬはずだった私を生かしてくれた。
 だから私は何も言わない。何も言わず、ただやり通すだけ。今はそうしましょう?」

 ふっと大人の笑みを見せたリサに、まだ引け目を感じている風だったが瑠璃も応えて「そうやな」と笑った。
 強いな、と二人のやりとりを見て浩之は思う。恐らくは心を通わせあっていた仲間を失いながらも、
 自分の為すべきことを見失わずに目を逸らさず進もうとしている。リサにはそういう強さがある。

 羨ましいと思う一方、己には無理だと悟りきっている他人のような自分がいる。
 空虚になるのも是としているのだから……
 しかしリサの言う通り、今はただやり通そう。どうこう考えるのはそれからでいい。

「さて、一気にケリをつけるわよ。敵さんもそう考えているようだしね。そっちは何を持ってるの?」

523儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:27:43 ID:nKYEabcw0
 リサの持ち物はM4というアサルトライフル、接近戦用の木製トンファーだった。
 浩之はショットガン、瑠璃は小型ミサイルの発射装置を出してみせる。

「……そういや、そんなもん持ってたな」
「強力過ぎて使いどころが分からへんのやけどな。家一軒吹き飛ばせるらしいし」
「いや、それがあればもう作戦は決定よ。いい、耳を貸して」

 瞬時に戦法を組み立てたらしいリサに、浩之と瑠璃も真剣な面持ちで聞き入る。
 一通り聞き終えた浩之は、なるほどこれなら倒せると納得する。
 しかしこれだけの戦法を一瞬で考えられるリサという女性、一体何者なのだろうという疑問が浮かぶ。
 ここに来るまでの身のこなしもいいように見えたし、ただの外人金髪ねーちゃんというわけではなさそうだ。

「でも私と貴方……浩之が少々危険な目に会うわ。いや死ぬかもしれない。覚悟はいい?」

 リサの問いに「ああ」と浩之は寸分の迷いもなく返答する。うだうだ迷っている暇はない。
 手をこまねいていると向こう側から仕掛けられるかもしれない。瑠璃は不安そうだったが、
 浩之が自信に満ちた表情で応えると、心配を苦笑に変えてくれた。

「でも……そうだ、ちょっと時間をくれへんか?」
「何を?」

 ちょっとした御守りや。そう言ってデイパックの中身をひっくり返し、持ってきた缶詰をデイパックに詰めていく。
 なるほどね、とリサは感心したそぶりを見せ、ならその間少しでも牽制しようとリサは車から身を乗り出し、
 M4で射撃を開始した。浩之も続いて援護射撃に回る。

 隙あらば側面に回り込もうとしていたらしい初音と椋は、
 いきなり再開された射撃に慌てながらもしっかりと撃ち返してくる。

 車に銃弾が当たり甲高い反射音を細かく刻む。貫通する危険性は低そうだが、
 万が一燃料タンクを貫いてしまったらという不安が頭を過ぎる。リサもそう思っているのか、
 敵に行動を取らせないように細かく発砲を続ける。

524儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:27:59 ID:nKYEabcw0
 リズム良く、流れるような一連の行動は十二分に足止めの役割をも果たしていた。
 援護なんて必要ないんじゃないか、と思いかけた浩之の前に「出来たで」と瑠璃が少し重たくなったデイパックを差し出す。

「気休めかもしれへんけど……盾にして。ええな、死んだらあかんで、絶対や」
「たりめーだ」

 苦笑で返した浩之は肩にデイパックを抱え、ショットガンに銃弾を再装填し、己の準備が終了したことを伝える。
 頷いたリサもM4のマガジンを取替え、地面に転がっている持ち物から使えそうなものをいくつか見繕った。

「よし、それじゃ……ミッションスタートよ」

     *     *     *

「いい? 逃げ出そうだなんて思わないでね。あなたは最後まで戦うんだよ。最後まで、ね」
「わ、分かっています……」

 牽制的にライフルを撃ち放してくるリサの射撃を動きながら避ける一方、初音は椋の様子にも目を光らせる。
 椋はカタカタと震えながら仕方のないといった感じで初音について回っている。
 どうやら手持ちのショットガンはほぼ弾切れになってしまったらしく、残りが数え二発しかないらしい。

 他に射撃できる武器もなく、この距離から反撃できるのは初音だけという状況だった。
 だが初音のクルツは残弾十分でたった今もマガジンを交換したがそれでも残りは八本もある。
 長期戦に持ち込めれば勝てる。どこかで自分達の戦い振りを見ているであろう有紀寧の視線を想像しながら、
 初音は必ず仕留めると誓う。

 当初の予定ではまず椋を潜入させ、適当に人数が揃ったところでまずこちらが襲撃をかけ、
 向こうがこちらに気を取られた瞬間椋が内側から攻撃を仕掛けさせ、内と外からの二段構えの攻撃をする作戦だった。
 素早く殲滅できればそれでよし。失敗しかかっても外側にいるこちらが逃げればいいだけでそれほどリスクはない。
 椋が行った後にそう言った有紀寧の作戦は完璧で、流石は自分の姉、やることが違うと感心し、尊敬さえした。
 有紀寧の言う通りやれば上手くいく。全てが上手くいくはずだった。

525儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:28:43 ID:nKYEabcw0
 が、椋は何をトチ狂ったのかいきなり射撃を仕掛け、こちらが仕掛ける前に戦闘が始まってしまった。
 椋の勝手すぎる行動に初音は心底怒り、もう放って見殺しにしようと進言したが、
 有紀寧はまだ間に合うと断じ、一人くらいは殺せると舌打ちしながら現場に行こうとしたが、初音はそれを押し留めた。

「有紀寧お姉ちゃんが直接出ることはないよ。わたし一人で皆殺しにしてくる。
 あんなヤクタタズのために有紀寧お姉ちゃんがやることなんて、何もない」
「……いいんですか?」
「お姉ちゃんを危険な目に合わせたくないもの。だからわたしがやる。大丈夫、わたしはお姉ちゃんを信じてるから」

 そう言って初音はクルツを持って向かい、現にこうして一人を仕留めることに成功した。
 自分には有紀寧がいる。絶対的な守護神。どんなときでも守ってくれる敬愛する姉。
 だから死ぬわけがない。皆殺しにして帰ればきっと有紀寧が褒めてくれる。家族だった人達の仇も討てる。
 有紀寧に従ってさえいれば全てが上手くいくのに。言いつけを破ったばかりに窮地に立たされかけている椋を見て、
 初音はそれ見たことかと蔑みに満ちた感情を寄越す。

 だがまだ殺しはしない。殺していいのは有紀寧が用済みだと判断したときだ。自分は有紀寧の決定にただ従えばいい。
 初音の持っている感情は従属意識でも恐怖でもなく、純粋な思慕だ。
 この狂った世界においてなお初音に慈愛の精神で接してくれたのは有紀寧だけだった。
 全てを奪われ、寄る辺をなくしてさえ有紀寧は初音を必要としてくれた。
 そして一緒に堕ちよう、と。

 重なる悲劇の中で差し伸べられた手。たとえそれが悪魔の手だったとしても初音は迷わず取っていた。
 必要としてくれる。大事にしてくれる。それだけで有紀寧に全てを委ね、身を任せるには十分だった。

 いや、初音でなくとも誰もがそうしていただろう。
 本当に真っ暗な闇の中、手を差し出されれば縋ってしまうのが人だ。

526儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:29:03 ID:nKYEabcw0
 誰も初音を責めることなど出来はしない。
 初音は意思して悪を為そうとしたわけではなく、ただ心の拠り所が欲しかっただけなのだから……
 柳川と同じく、彼女もまたやさしすぎたのだ。

「……埒があかないね。ねえ椋お姉ちゃん、ちょっと特攻してきてよ」
「と、特攻って! 何を言ってるんですか、こんな状態のまま行っても死んじゃうだけじゃないですか!」
「それがどうしたの?」
「……っ、嘘をついてた癖に……お姉ちゃんを人質にしてるって嘘をついてた癖に!」
「ああ、そうなんだ。へぇ、流石有紀寧お姉ちゃん。誰がばらしたのか知らないけど上手い嘘をつくね」
「……悪魔です……あなたたちなんて、いつかお姉ちゃんが……」
「うるさいよ。そういえば面白いもの持ってたよね。あれ、吹き矢セットだっけ? まだ効果の分からない黄色のやつ、試してみようかなあ?」
「な……」

 ニタリと気味悪く笑った初音に椋はそれまでの怒りも忘れ、吐き気さえ覚えて顔を青褪めさせる。
 だが彼女は逃げられない。逃げたところで待つのは制裁、それも無残な死。

 いやだ、まだ死にたくない。姉と再会し、無事に脱出して平和に暮らす。そのためにもこんなところで死にたくない。
 選択肢は一つしかなかった。特攻して、その上で全滅させる。これしかなかった。
 行くしかないとカチカチ鳴る歯を必死で食い縛り、駆け出そうとしたとき、椋と初音の頭上に何かが投げられた。

「殺虫剤……?」

 呆然とそう呟いた初音は、しかし何かを予期して椋に「逃げて!」と叫び、自身も大きく飛び退く。
 次の瞬間ライフルの発射音が聞こえ、激しい爆発が起こり、爆風が椋と初音を襲う。
 爆発というよりは衝撃の塊だった。爆風に押されはしたものの初音も椋も地面に転がり反撃が出来ない。

 そこにリサと浩之が飛び出してくる。リサは車を乗り越えて初音に、浩之は車を回りこんで椋に。
 先手を取られたと思いつつ、初音はクルツで迎え撃つ。
 だがリサは車から高く跳躍すると初音の目の前へと接近する。

527儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:29:32 ID:nKYEabcw0
 速い。そして高い。咄嗟の機転でデイパックから鋸を取り出し振り回したがM4で受け止められ、
 更に手刀を叩き落されクルツを落としてしまう。
 拾おうとした初音だったがその前に蹴り飛ばされクルツは遥か遠くへと転がってしまう。
 歯噛みした初音だが懐に潜り込んでいるのは自分だと気付き、少しでも身軽にすべくデイパックを投げ捨て、
 鋸を振りかぶり、連続して斬りかかる。

 初音自身でも驚くほど俊敏な動作だった。リサも初音の意外な運動能力は想定外だったらしく、
 必死に受けに回るしかなさそうだった。
 本人さえ気付いていないが、初音も鬼の血を引く一族の末裔。命を賭けた戦闘を続けることで鬼としての意識が研ぎ澄まされ、
 徐々にその能力を高めていたのだ。

 初音はいける、と確信を持つ。意外と動ける上に相手は血だらけで満身創痍。雨でいくらか流されていようが分かる。
 何故だか、分かる。無意識に初音は哂っていた。凄惨な、悪鬼の笑みを。

 一方の椋と浩之は睨み合いが続いていた。互いに武器がショットガンであり、一撃必殺の威力がある。
 下手に先手を打てない。特に慎重かつ臆病な椋はショットガンの弾数上絶対に自分からは切り出せなかった。

「何だよ、仕掛けてこねえのかよ……」
「わ、私はまだ死にたくないんです。こんなところで死にたくないんです!」
「……そう言って、また殺すのかよ。言い訳したまま、同じ人間を……家族がいる人間を。観鈴や、みさき……珊瑚みたいにか」
「……殺さなきゃ、こっちが殺されるんです。騙さなきゃこっちが騙されるんです。他人同士で信じあうなんてないんです。
 そうやって私は、私は騙されてきたんですから……殺し合いじゃ、もう誰も信じられないから……」
「そうかよ……お前は『疑う』ことさえしなかったんだな。もういい。こちらから仕掛けるぜ!」

 浩之がショットガンを持ち上げ発砲する。だが狙いが浅く、散弾は椋の足元に着弾するに留まった。
 椋はたたらを踏みつつも己の身を守るべく撃ち返す。しかしこちらも軸がブレていたためか容易に避けられてしまう。
 不意をつく奇襲はできても、真正面からの撃ち合いはあまりにも不得手に過ぎた。

 元々運動が苦手なのにもそれに拍車をかけていた。続けて撃つも外してしまう。
 混乱の極みに達した椋はもう弾がないことも忘れて引き金を引いたが、当然出るわけもなく。
 弾切れだと読んだ浩之が確実にショットガンを命中させるために接近しようとする。

528儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:29:53 ID:nKYEabcw0
 死ぬ――現実となりつつある事態に泣き叫びそうになった刹那、椋はポケットに隠していたある武器の存在を思い出し、
 必死に手繰り寄せて遮二無二攻撃した。

「なっ……!」

 もたつきながらも取り出したのは小型の拳銃、二連式デリンジャー。驚きを隠しきれない様子で、
 咄嗟にデイパックを盾に使ったようだが、その程度では防げないと断じて容赦なく発砲。
 デイパックを突き抜け、腹部に致命傷を負った浩之は倒れ――

「危ねえっ……!」

 ――なかった。
 そんな馬鹿な、と今度は椋が呆気に取られる番だった。
 浩之の持っていたたくさんの缶詰入りデイパックは22口径のデリンジャーなどでは貫通できない。
 既に浩之は反撃のショットガンを構えていた。その心中では、瑠璃に感謝しつつ。

「ひ……っ」

 最早脇目もふらず一直線に逃げ出そうとした椋だったが、今回ばかりはいささか遅すぎた。
 発射された12ケージショットシェル弾が椋の腿を貫通し、瞬く間に足を奪った。
 悲鳴を上げ、痛みにのた打ち回る椋。
 それを聞きつけた初音がちっと舌打ちを漏らす。

「相打ちにすら出来ないなんて……本当、役立たずだよ!」

 この調子ではまずい。ここは一旦撤退するしかないと弾いて距離を取る。
 後はデイパックとクルツを回収し、有紀寧のところまで戻る。決着は後でつけよう……
 そう思っていた初音の耳に「離れてくれてありがとう。……チェックメイト」という声が届いた。

529儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:30:15 ID:nKYEabcw0
 思わず足を止め、リサへと向き直る。リサ、いや浩之までもが身を翻し、追撃することなく退いていく。
 どういうことだ……? 思わず考えてしまったのが、初音の命を奪う致命打となった。
 嫌な予感に駆られ、空を仰ぎ見たとき。

「……嘘」

 そこには高速で迫る、小型のミサイル砲弾があった。
 最初からそういう算段だったというのか。ミサイルが着弾するまで時間を稼ぐのが奴らの役目だったということか。
 有紀寧お姉ちゃん――初音は内心に絶叫する。

 早く引いておけば良かった。敵の行動をおかしいと思うべきだった。
 ごめんなさい。生きて帰れなくて、ごめんなさい。
 懺悔を頭の中に満たし、何故か涙が溢れ出て……しかしそれも、巻き起こった爆発の中に巻き込まれていった。

 初音と椋の間に撃ち込まれたミサイルはそこを中心にして小規模な火球と爆風を巻き起こし、
 初音の体を微塵も残さずに砕いた。

 椋は痛みに苦しんだまま、それでも姉と会いたい、助けて欲しいと愚直なまでに願いながら。
 だがその叫びも誰にも届くことはなく、爆発音にかき消されたのだった。

 柏木初音。藤林椋。
 沖木島の狂気に身を焦がされ、最後まで踊り続けるしかなかった彼女達も……ようやく、死を迎えたのだった。

     *     *     *

「くっ、これでは……」

 激しい爆発音が起こった後、一部始終を見届けていた宮沢有紀寧は初音達が完全敗北したと悟り、一人で逃げ出していた。
 椋の暴走から始まり、それでも人数を減らしたいと欲をかき、初音を行かせた結果がこれか。

530儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:30:29 ID:nKYEabcw0
 元々有紀寧は自身が行く気はなかった。自分が行くと言い出せば初音は止め、自らの身を差し出すだろうとして、
 それは思い通りに運んだ。一人二人殺して引き返してくれば上出来だとは思っていたが、
 よもやあんな切り札があるとは思いもしなかった。重要な駒を二つも失ってしまった……

 だが有紀寧の心には、それ以上に初音の死が重く圧し掛かっていた。
 なぜこんなにも心苦しいのか。なぜこんなにショックを受けているのか自分でさえ分からない。
 元々自分はひとりでこの殺し合いを生き残り、ひとりで帰るつもりではなかったのか。

 最初の予定に立ち返っただけではないか。
 まだリモコンの残りも三回ある。一人くらいを手駒に取り、殺しに向かわせれば後は己の独力だけでもどうにかなる。
 そうだと理解しているはずなのに。

「……家族……」

 亡霊を追っているに過ぎない自分を縛り上げる言葉だ。
 いつもこの言葉が自分を苦しめる。
 分からない。初音が死んでしまった今、初音が自分に抱いている感情の意味も確かめる術はなくなった。

「……いや、まだだ」

 有紀寧は放送で告げられた『褒美』の言葉を思い出す。
 褒美。それを使えば、もしかすると、また初音と……
 だが絵空事に過ぎないし、第一まだ殺し合いは続いている。

 考えるのは優勝してからでいい。無理矢理そう結論して、有紀寧は黙って逃げ続ける。

 その一事が有紀寧のしこりとなり、彼女の体を重くしているのにも気付かないふりをしながら……

531儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:32:25 ID:nKYEabcw0
【時間:2日目午後21時00分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷、疲労大】

姫百合瑠璃
【持ち物:デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【状態:絶望、でも進む。守腹部に数度に渡る重大な打撲(手当て済み)】

532儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:32:43 ID:nKYEabcw0
美坂栞
【所持品:支給品一式】
【状態:死亡】

緒方英二
【持ち物:何種類かの薬、ベレッタM92(10/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:死亡】

柳川祐也
【所持品:支給品一式×2】
【状態:死亡】

神尾晴子
【所持品:H&K VP70(残弾、残り0)、大きなハンマー、支給品一式】
【状態:死亡】

篠塚弥生
【持ち物:支給品一式、P-90(0/50)、特殊警棒】
【状態:死亡】

藤林椋
【持ち物:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×5:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【状態:死亡】

柏木初音
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:死亡】

533儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 01:33:03 ID:nKYEabcw0
【時間:2日目午後21時00分頃】
【場所:I-7】

宮沢有紀寧
【所持品:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×19、包帯、消毒液、スイッチ(3/6)、ゴルフクラブ、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:前腕軽傷(完治)、強い駒を隷属させる(基本的に終盤になるまでは善人を装う)、柳川を『盾』と見なす。初音と共に優勝を狙う】


【その他:車が完全に使えないかどうかは不明】

→B-10

534儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 18:08:38 ID:nKYEabcw0
感想スレで指摘がありましたので修正をば

>>523を以下に修正

 リサの持ち物はM4というアサルトライフル、接近戦用の木製トンファーだった。
 浩之はライフル、瑠璃は小型ミサイルの発射装置を出してみせる。

「……そういや、そんなもん持ってたな」
「強力過ぎて使いどころが分からへんのやけどな。家一軒吹き飛ばせるらしいし」
「いや、それがあればもう作戦は決定よ。いい、耳を貸して」

 瞬時に戦法を組み立てたらしいリサに、浩之と瑠璃も真剣な面持ちで聞き入る。
 一通り聞き終えた浩之は、なるほどこれなら倒せると納得する。
 しかしこれだけの戦法を一瞬で考えられるリサという女性、一体何者なのだろうという疑問が浮かぶ。
 ここに来るまでの身のこなしもいいように見えたし、ただの外人金髪ねーちゃんというわけではなさそうだ。

「でも私と貴方……浩之が少々危険な目に会うわ。いや死ぬかもしれない。覚悟はいい?」

 リサの問いに「ああ」と浩之は寸分の迷いもなく返答する。うだうだ迷っている暇はない。
 手をこまねいていると向こう側から仕掛けられるかもしれない。瑠璃は不安そうだったが、
 浩之が自信に満ちた表情で応えると、心配を苦笑に変えてくれた。

「でも……そうだ、ちょっと時間をくれへんか?」
「何を?」

 ちょっとした御守りや。そう言ってデイパックの中身をひっくり返し、持ってきた缶詰をデイパックに詰めていく。
 なるほどね、とリサは感心したそぶりを見せ、ならその間少しでも牽制しようとリサは車から身を乗り出し、
 M4で射撃を開始した。浩之も続いて援護射撃に回る。

 隙あらば側面に回り込もうとしていたらしい初音と椋は、
 いきなり再開された射撃に慌てながらもしっかりと撃ち返してくる。

 車に銃弾が当たり甲高い反射音を細かく刻む。貫通する危険性は低そうだが、
 万が一燃料タンクを貫いてしまったらという不安が頭を過ぎる。リサもそう思っているのか、
 敵に行動を取らせないように細かく発砲を続ける。

535儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 18:09:44 ID:nKYEabcw0
>>524を以下に修正

 リズム良く、流れるような一連の行動は十二分に足止めの役割をも果たしていた。
 援護なんて必要ないんじゃないか、と思いかけた浩之の前に「出来たで」と瑠璃が少し重たくなったデイパックを差し出す。

「気休めかもしれへんけど……盾にして。ええな、死んだらあかんで、絶対や」
「たりめーだ」

 苦笑で返した浩之は肩にデイパックを抱え、ライフルに銃弾を再装填し、己の準備が終了したことを伝える。
 頷いたリサもM4のマガジンを取替え、地面に転がっている持ち物から使えそうなものをいくつか見繕った。

「よし、それじゃ……ミッションスタートよ」

     *     *     *

「いい? 逃げ出そうだなんて思わないでね。あなたは最後まで戦うんだよ。最後まで、ね」
「わ、分かっています……」

 牽制的にライフルを撃ち放してくるリサの射撃を動きながら避ける一方、初音は椋の様子にも目を光らせる。
 椋はカタカタと震えながら仕方のないといった感じで初音について回っている。
 どうやら手持ちのショットガンはほぼ弾切れになってしまったらしく、残りが数え二発しかないらしい。

 他に射撃できる武器もなく、この距離から反撃できるのは初音だけという状況だった。
 だが初音のクルツは残弾十分でたった今もマガジンを交換したがそれでも残りは八本もある。
 長期戦に持ち込めれば勝てる。どこかで自分達の戦い振りを見ているであろう有紀寧の視線を想像しながら、
 初音は必ず仕留めると誓う。

 当初の予定ではまず椋を潜入させ、適当に人数が揃ったところでまずこちらが襲撃をかけ、
 向こうがこちらに気を取られた瞬間椋が内側から攻撃を仕掛けさせ、内と外からの二段構えの攻撃をする作戦だった。
 素早く殲滅できればそれでよし。失敗しかかっても外側にいるこちらが逃げればいいだけでそれほどリスクはない。
 椋が行った後にそう言った有紀寧の作戦は完璧で、流石は自分の姉、やることが違うと感心し、尊敬さえした。
 有紀寧の言う通りやれば上手くいく。全てが上手くいくはずだった。

536儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 18:10:54 ID:nKYEabcw0
>>527を以下に修正

 速い。そして高い。咄嗟の機転でデイパックから鋸を取り出し振り回したがM4で受け止められ、
 更に手刀を叩き落されクルツを落としてしまう。
 拾おうとした初音だったがその前に蹴り飛ばされクルツは遥か遠くへと転がってしまう。
 歯噛みした初音だが懐に潜り込んでいるのは自分だと気付き、少しでも身軽にすべくデイパックを投げ捨て、
 鋸を振りかぶり、連続して斬りかかる。

 初音自身でも驚くほど俊敏な動作だった。リサも初音の意外な運動能力は想定外だったらしく、
 必死に受けに回るしかなさそうだった。
 本人さえ気付いていないが、初音も鬼の血を引く一族の末裔。命を賭けた戦闘を続けることで鬼としての意識が研ぎ澄まされ、
 徐々にその能力を高めていたのだ。

 初音はいける、と確信を持つ。意外と動ける上に相手は血だらけで満身創痍。雨でいくらか流されていようが分かる。
 何故だか、分かる。無意識に初音は哂っていた。凄惨な、悪鬼の笑みを。

 一方の椋と浩之は睨み合いが続いていた。一方は武器がショットガンであり、一撃必殺の威力がある。
 対する浩之はライフル銃。貫通性能が高く人間の体程度ならほぼ確実に貫く。
 下手に先手を打てない。特に慎重かつ臆病な椋はショットガンの弾数上絶対に自分からは切り出せなかった。

「何だよ、仕掛けてこねえのかよ……」
「わ、私はまだ死にたくないんです。こんなところで死にたくないんです!」
「……そう言って、また殺すのかよ。言い訳したまま、同じ人間を……家族がいる人間を。観鈴や、みさき……珊瑚みたいにか」
「……殺さなきゃ、こっちが殺されるんです。騙さなきゃこっちが騙されるんです。他人同士で信じあうなんてないんです。
 そうやって私は、私は騙されてきたんですから……殺し合いじゃ、もう誰も信じられないから……」
「そうかよ……お前は『疑う』ことさえしなかったんだな。もういい。こちらから仕掛けるぜ!」

 浩之がライフルを持ち上げ発砲する。だが狙いが浅く、銃弾は椋の足元に着弾するに留まった。
 椋はたたらを踏みつつも己の身を守るべく撃ち返す。しかしこちらも軸がブレていたためか容易に避けられてしまう。
 不意をつく奇襲はできても、真正面からの撃ち合いはあまりにも不得手に過ぎた。

 元々運動が苦手なのにもそれに拍車をかけていた。続けて撃つも外してしまう。
 混乱の極みに達した椋はもう弾がないことも忘れて引き金を引いたが、当然出るわけもなく。
 弾切れだと読んだ浩之が確実にライフルを命中させるために接近しようとする。

537儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 18:12:04 ID:nKYEabcw0
>>528を以下に修正

 死ぬ――現実となりつつある事態に泣き叫びそうになった刹那、椋はポケットに隠していたある武器の存在を思い出し、
 必死に手繰り寄せて遮二無二攻撃した。

「なっ……!」

 もたつきながらも取り出したのは小型の拳銃、二連式デリンジャー。驚きを隠しきれない様子で、
 咄嗟にデイパックを盾に使ったようだが、その程度では防げないと断じて容赦なく発砲。
 デイパックを突き抜け、腹部に致命傷を負った浩之は倒れ――

「危ねえっ……!」

 ――なかった。
 そんな馬鹿な、と今度は椋が呆気に取られる番だった。
 浩之の持っていたたくさんの缶詰入りデイパックは22口径のデリンジャーなどでは貫通できない。
 既に浩之は反撃のライフルを構えていた。その心中では、瑠璃に感謝しつつ。

「ひ……っ」

 最早脇目もふらず一直線に逃げ出そうとした椋だったが、今回ばかりはいささか遅すぎた。
 発射されたライフル弾が椋の腿を貫通し、瞬く間に足を奪った。
 悲鳴を上げ、痛みにのた打ち回る椋。
 それを聞きつけた初音がちっと舌打ちを漏らす。

「相打ちにすら出来ないなんて……本当、役立たずだよ!」

 この調子ではまずい。ここは一旦撤退するしかないと弾いて距離を取る。
 後はデイパックとクルツを回収し、有紀寧のところまで戻る。決着は後でつけよう……
 そう思っていた初音の耳に「離れてくれてありがとう。……チェックメイト」という声が届いた。

538儚くも永久のカナシ:2009/02/08(日) 18:13:05 ID:nKYEabcw0
修正は以上です
まとめさんにはお手数かけますが宜しくお願いします

539十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:02:52 ID:C6SXGSXs0
 
―――北西


一抱えほどもある岩塊が、雨粒のように降り注ぐ。
愉しむように目を細めた来栖川綾香が、真上から影を落とした一際大きなそれを拳の一振りで塵に変える。
降り注いでいるのは、祈るように手を組んでいた巨神の像であったものの欠片である。

「来栖川……綾香……!」

押し殺したような響きは長瀬源五郎。
物言わぬ石造りの神像の他には顔もなく、無論のこと口もない、胴から四肢のみを生やした巨躯を
微細に震わせるようにして声を発している。
薄気味の悪い蟲の羽音の如き、醜悪な声音だった。
そこに込められているのは憤怒の二文字。

「どうした、余裕が足りないな神サマ。取り立てられるのには慣れてないか?」
「死に損ないがっ……!」

吐き捨てるような叫びと同時。
綾香の足元が、ぐらりと揺れた。
否、正確を期すならば揺れたのではない。
綾香が立つのは神塚山の山頂を抱え込むような長瀬の巨躯、いまや七体となった巨神像の立ち並ぶ、
その途方もなく広い胴体の上である。
眼前には銀色の湖とも見える、燦然と光り輝く鏡の如き鱗状のものがどこまでも続く光景を臨む
綾香の足元は即ち、長瀬の身体の一部であった。
それが、ぐねり、と。
波打つように、歪んだ。

「……」

踏みしだくように退いた、その一瞬だけ後。
天を突き上げるように飛び出してきたのは、槍である。
透き通るように赤い、鉱石の槍。
赤玉から彫り上げられた樹氷の如きそれが何本も、一瞬前まで綾香のいた場所を貫いていた。
空を穿った槍がどろりと融け崩れるや新たな穂が生まれ、槍衾はまるで土竜の地を這うが如くのたくりながら、
綾香へと向けて迫る。
小さく舌打ちした綾香が更なる一歩を退いた、その刹那。
狙い澄ましたかのように、巨大な影が落ちてきた。

540十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:03:13 ID:C6SXGSXs0
「―――!」

目に映ったのは、爪。
ただ一本で人の臓腑を丸ごと抉り出すようなそれが、五つ。
正確に綾香を叩き潰す軌道で落ちてくるのは、悪夢の如き巨大と凶悪とを兼ね備えた暴力の塊。
石造りの神像が一、獣の肢であった。
天から剛爪、地より迫るは赤玉の槍。
十死、一生を絶無と為す挟撃を前に、しかし女は哂っていた。
哂う女が、次の瞬間、消える。
否、それは跳躍である。
爆ぜるが如きその挙動は刹那の消失に等しい。
宙に身を躍らせた女の、文字通り紙一重を獣の爪が裂き削る。
地に落ちた爪が轟音を上げ槍衾を砕いたときには、綾香の影は既に中空、伸びきった獣の前肢を
踏み台とするように蹴りつけている。
一気に天空高くまでを跳躍した綾香の、右の拳が変化していく。
白い肌を覆うように、ごつごつと強張った黒い皮膚が拡がる。
整った爪の色は鮮血のそれ。
鬼と呼ばれた、それは星を駆ける狩猟者の拳である。
十二分の加速と鬼の力とを得た拳が迫るのは獣の神像、その頭部。
黒金の流星と化した一撃が、真っ直ぐに獣の顎へと吸い込まれていく。
轟、と弾けたのは風である。
直後、凄まじい音が響いた。

「―――」

かち上げるような、一撃。
女の像を砕いたそれよりも更に恐るべき威力を誇る拳である。
刹那の交錯で、勝負は決まったかに思えた。
獣の顎は砕かれ、綾香は哂い、岩塊が降り注ぐ―――その光景が繰り返されることは、しかし、なかった。
風が吹き去り、音の残響が消え、そこに獣の神像は健在である。
小さく頭を振った、その顎には皹一つ入っていない。

「硬い、なぁ……」

ただ、女の愉悦に満ちた笑みだけが、そこにある。
それだけは、変わらなかった。


******

541十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:03:24 ID:C6SXGSXs0
 
―――西


唐突に背を向けた、それは好機か、或いは誘いの罠であったか。
二刀の神像と対峙する少女たちは迷わず前者と取った。
向かって左手、北西側から轟音が響くのを背景に、巨大な刃の舞う間合いへ躊躇なく踏み込む。
失策を悟ったように二刀の像が向き直ろうとしたときには既に遅い。
耳を劈くような甲高い音と共に二条の紫電が閃いたのはほぼ同時。
神像の巨大な石造りの背に、十字型の深い傷が刻まれていた。
短い残響が消える頃には、少女たちは再び距離を取っている。

痛覚とて存在しようはずもない石造りの像が、それでも憤りを乗せたかのように刃を振るう。
二刀の一は川澄舞に。
更なる一は柏木楓へ。
攻防を一体と為し自在の変幻を誇る二振りの刃を見据え、しかし少女の瞳に怯懦の色はない。
駆けるその身を、跳ねるその影を刃が追い縋り、そうして捉えること叶わない。

少女の振るうも刃である。
川澄舞の手には白刃、抜けば珠散ると謳われた退魔の一刀。
柏木楓が宿すのは深紅の刃、漆黒に変生した手指より伸びる妖の爪だった。
銀弧が閃き、紅爪が奔る。
最早、神像の傷は癒えぬ。
そのことを知ってか知らずか、激しさを増していく人ならざる少女たちの攻勢に、
神像の二刀がじりじりと押されていく。

しかし如何に押そうと、凌がれながら稼がれる時の一分一秒は、重い。
その重さを、事ここに及んで未だ、少女たちは真に理解していなかった。


******

542十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:03:41 ID:C6SXGSXs0
 
―――北東


漆黒の光球が着弾する、その場所に衝撃はない。
現出するのはその場所に存在したはずの大地が、草木が消滅するという、ただその結果のみである。
万物を無に帰す闇に、応じるように飛ぶのはやはり黒の光。
直線の軌跡を描く、こちらは黒い稲妻とでもいうべき光線であった。
光球と光線と、蒼穹に染み出すが如き黒の応酬は止まらない。
黒翼の神像と、宙に浮く奇妙な黒蛙を連れた少女との無音に近い死闘は、いつ果てるともなく続いていた。

埒が明かぬ、と。
至るところで岩盤が抉られ、一面の痘痕模様と化した山道に立つ水瀬名雪が思考する。
このまま遠距離から互いに砲撃を交わしたところで、致命打は与えられない。
生み出される黒い光球の数と密度では、広い山道を自在に動ける名雪には直撃を受けない確信がある。
対してほぼ定位置を動かず、砲台と化している黒翼の巨神像はいい的である。
黒雷の命中率は十割に近く、しかし如何に当てたところで、打撃が通らなければ意味がない。
回復機能が途切れた今、数百、数千を当て続ければ或いは揺らぐのやも知れぬ。
しかしそれだけの猶予は無論、ない。
時を稼がれれば、それは即ち敵側の勝利である。
刻一刻と近づく敗北は死の概念を超越した女に恐怖こそ与えなかったが、だがそれを甘受するつもりもまた、
名雪には当然のこと、存在しない。

ならば、どうするか。
回答は、前進である。

砲撃が通らぬならば、直接の打撃を叩き込む。
水瀬名雪にはそれが可能であるという、それは無限に近い時間に培われた自負である。
磨耗した精神と引き換えに得たものが、名雪の全身を満たしていく。
大きく息を吸い込み、大腿筋に酸素が供給されると同時。
疾駆を、開始する。

目標は眼前、黒翼の神像。
一瞬で最高速まで加速した名雪を迎え撃つように、神像の両手に光が宿る。
光には、色があった。闇の珠ではない。
右手には灼熱を思わせる朱、左の手には荒涼たる大地の土気色。
神像の手から光が解き放たれる寸前、名雪が跳躍する。
直後、その足元の岩盤が、轟音と共に崩落した。


******

543十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:04:09 ID:C6SXGSXs0
 
―――南西


熟練の槍術とは刺突にのみ依るものではない。
斬と打とをも兼ね備え、時に応じて千変し万化するそれは接近すら容易に許さぬ。

「……ッ!」

唸りを上げて迫る長柄を前に、天沢郁未が真横へと跳ねる。
岩盤が顔を覗かせる地面を、まるで子供が作った砂山のように削りながら石突が通り過ぎていく。
目の脇を流れる冷や汗を拭えば、ふやけた返り血がぬるりと滑って不快だった。
瞬きをするほどの間を置いて小さく息を吐いた郁未が、再び突進を開始しようとした、その刹那。

声はなかった。
ただ、ひどく背筋のざわつくような感覚と同時。
自身に迫る巨大な槍の柄を、郁未は見ていた。
一度は通り過ぎたはずの石突が、フィルムを逆回しにするように郁未を襲おうとしている。
方向は真後ろ。
完全な視界の外、郁未には見えるはずのない、それは光景。
相方、鹿沼葉子の送る視界だった。
見えたのは、一瞬という単位を更に幾十幾百に分割してなお足りぬ、寸秒である。

背筋を伝う寒気が延髄を通り過ぎるよりも早く、郁未は全身の力を脚に込める。
大地に身を投げるようにして、回避を試みる。
飛び退いた郁未が靴底に感じたのは爆風の如き大気の流れである。
直撃していればひとたまりもない、必殺の打撃。
それを間一髪で躱しながら、先の一撃目は誘いであったのだと郁未は痛感する。
飛んだ勢いをそのままに前転するようにして立ち上がり、更なる追撃に備える。
しかし対峙する巨神像の槍は郁未の想定するどれとも違う軌道を取っていた。
その穂先が向かうのは郁未の立つ位置から僅かに離れた場所。
長い金色の髪を振り乱しながら跳躍する女を迎え撃つ動きである。
薙刀を下段に構えて飛び上がる鹿沼葉子を、巨神像の槍が上から叩き落そうという交錯。

『―――今です!』

声が聞こえたときには、郁未は既に突進を開始している。
直後に響くのは硬質な音。
数千倍ではきかぬ質量差、正面から一合でも打ち合えば人を容易く挽肉に変えるその打撃を、
葉子の張り巡らせた不可視の壁が凌いだ音である。
ほんの僅か、巨神像の槍が動きを止める。
隙とも呼べぬその刹那、図ったように駆ける影がある。天沢郁未である。
針の穴を通すような連携の一撃。
狙うのは槍の持ち手、巨神像の左腕である。
不可視の力を刃に乗せて、郁未が鉈を振り上げる。
弾丸の如き突撃の成功を確信した郁未が、

「―――なッ!?」

驚愕に、思わず声を漏らした。
視界全体を覆うような、それは巨神像の腕。
今まさに刃を振り下ろそうとしていたその巨大な石柱の如き逞しい腕が、逆に郁未へと迫っていた。
莫迦な。近すぎる。目測を誤ったか。そんなはずがない。
戦慄と共に断片化した思考が脳裏を過ぎる。結論は一つ。
連携すら、読まれていた。
葉子への打撃を瞬時に片手持ちへと変え、空いた腕での狙い澄ました迎撃。
刃を振り上げたまま咄嗟に不可視の盾を構築しようとする郁未を、巨神像のかち上げるような肘が、撥ねた。

544十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:04:28 ID:C6SXGSXs0
「―――」

視界が、白い。
白いが、しかしそれを認識できるならば、まだ命はある。
飛散しようとする意識を鷲掴みにして、郁未は瞳をこじ開ける。
見えたのは蒼穹の青。
感じたのは浮遊感。
そして最後に聞こえてきたのは、

『―――郁未さん!』

友の、声。

「……あああぁぁあッ……!」

応えるように搾り出した声は、喉で血が絡まって酷く掠れている。
中空、血痰を吐き捨てて息を吸った。
肺が膨らむのと同時、激痛が走る。
肋骨が数本、折れ砕けているようだった。
痛みが意識を覚醒させていく。
痙攣するように息を継ぎながら、郁未が空中で身を捻る。
鉈は手の内、五体は健在。
それだけを確認し、損傷は無視。
迫る大地に足から落ちる。
破滅的な音と砂煙。着地ではない。それはむしろ、墜落に近い。
それでも、天沢郁未は立ち上がった。

『―――生きていますか』
『ご覧の通り……ッ!』

流れ出るのは血か汗か。
吐き棄てるように答えた郁未が睨むのは拭った手ではなく、聳え立つ槍の巨神像である。

『どうやらこの敵……周りのものと比べても別格、といったところのようです』
『あたしら、貧乏籤ってわけ……』

だらだらと止め処なく流れ出そうとする命と気力とを乱暴に拭って、郁未が苦笑する。

『―――上等じゃない』

言って見上げた、その瞳には光がある。
闇が濃くなるほどに眩く輝く、それは光であった。


******

545十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:04:39 ID:C6SXGSXs0
 
―――東


坂神蝉丸は堪えている。
抱えた砧夕霧の、声ならぬ声は続いていた。
孤独を憂い同胞を求めて彷徨う、それは迷い子の慟哭である。
岩をも切り裂く大剣の斬撃と、耳朶でなく心の中の薄い膜を乱暴に叩くような慟哭と、
その二つとに堪えながら、蝉丸は時の熟すのをじっと待っている。

光岡悟は白翼の神像の牽制に回っている。
山頂の西側で、或いは北で、南で打ち続く激戦の中、刻限という鎧が寸秒を経るごとに
削られていくのを感じながら、蝉丸はただ一瞬の好機だけを待ち続けていた。

―――正午まで、あと十二分を切っていた。

546十一時四十七分/全てを:2009/02/18(水) 00:04:59 ID:C6SXGSXs0
 
【時間:2日目 AM11:48】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:健康】
光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】
砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】
来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】
水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】
川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ】
柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、軽傷、左目失明(治癒中)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体16800体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【エルルゥ・フィギュアヘッド:大破】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:損傷】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1042 1043 ルートD-5

547歪み:2009/02/18(水) 00:09:36 ID:JzhkGceQ0
「もうそろそろ、でしょうかね」

 モニターに映る光点と手元の名簿を見比べながら柔らかそうな椅子に腰掛けている男、
 デイビッド・サリンジャーはモニターの少し上にあるデジタル表示された時計を見る。

 放送から三時間しか経過していない。だというのに既に死者の数は十人を超えている。
 愚か極まりないものだと思いながらも思い通りに事態は進んでいることに笑みを漏らさずにはいられない。
 ただひとつサリンジャーには気になることがあった。

 この計画における唯一のイレギュラー的存在にして既に鬼籍に入っている男……岸田洋一、が乗りつけてきたものだ。
 彼が乗ってきた船は今も尚海岸のとある地点、正確に言うとD−1の海岸に打ち上げられている。
 懸念するのはそこだった。もしあの船を修理されでもしたら脱出路が確保されてしまう。
 一体どこから奪ってきたのか知らないがあの船は中々に大きく走行距離も長いだろう。
 首輪という枷はまだ厳然として存在するし、それを何とかできるであろうただ一人の参加者、姫百合珊瑚も死んでいる。
 外せるとは考えがたかったが、それでも不安材料なのには変わりなかった。

 しかも最近立て続けに殺し合いを積極的に進めようとする連中が減っている。今しがた数少ない鬼の柳川祐也も死んだ。
 比率から言う限りでは状況は殺し合い否定派の方に傾きつつある。もしも連中が結託し、玉砕覚悟で首輪をどうにかできたとしたら?
 在り得ないと考えつつもだがしかしと不安要素を絶っておきたいという小心者の性分がサリンジャーを惑わせる。

 後の作業を全て作業用アハトノインに任せ、自らは脱出して、という考えはないでもなかった。サリンジャーとて命は惜しい。
 だがその結果アハトノインを失い、夢が遠のいてしまうということにもなりかねない。そればかりか命を付け狙われる事さえ在り得る。
 篁財閥という後ろ盾を失くせばサリンジャーは所詮何の力も持たぬひとりの人間でしかなく、犯罪者に過ぎない。

 自分の今は篁財閥に守られているのであり、だからこそ戦闘用ロボットを作り出していることも、
 殺し合いを進めていることも咎められていない。サリンジャーは庇護されているだけに過ぎない。
 そう、故にサリンジャーは自らが権力となろうとした。篁財閥を掌握さえしてしまえばそのような小さな罪など取るに足らぬ。
 そればかりかこの世の富も名誉も全てが自分の思いのままになろうという日が目の前に来ている。

548歪み:2009/02/18(水) 00:09:55 ID:JzhkGceQ0
 まだ留まろう。そう思い直して臆病風に吹かれ掛けていた己を叱咤する。
 取り合えず現状の問題は岸田洋一が残していったあの置き土産だ。やはりこちらで早々に処分する必要性がある。
 たとえ一人にしてもここから逃がすわけにはいかないのだ。この島にいる人間には須らく死んでもらう。
 参加者達を煽ってきたのは単に人数減らしのための措置に過ぎないし、願いなど叶えられるわけもない。

 篁総帥が生きていればまた話は別だったのかもしれない。
 新たなる時代の扉。そう言いながら『幻想世界』について語っていた篁の姿が思い起こされる。
 願いの集まる場所とも言っていた。信じられるわけがないし信じるわけにもいかなかったが、篁の入れ込みようは尋常ではなかった。

 ひょっとすると、本当にそういう世界があるのかもしれない。噂にはそのようなものを研究していた科学者がいたと聞く。
 確か名前は……イチノセ、だったか? 聞き流していたのでよく覚えていない。
 まあ今となってはどうでもいい。取り敢えずはここにいる連中の殲滅が全てだ。サリンジャーはそれで考えを締めくくると、
 作業している一体のアハトノインに声をかける。

「おい、02を呼べ。任務だと伝えろ」
「了解しました」

 抑揚の無い声で答えてアハトノインはマイク越しに02――戦闘用アハトノインの二体目――を呼び出す。
 ここ管制室にもエコーのように声が響き渡り、程なくして02が姿を現す。
 見た目には作業用のアハトノインと何ら変わりなく、違うところはと言えば脚部に『02』というナンバーが書かれていることくらいだ。

 ただその実力は戦闘用に改造されただけあって他のアハトノインとは比べ物にならない。
 各種格闘技系のOSをインストール済みであるし、世界各地の銃火器系の用法、及び兵器の運用、
 更には米軍の特殊部隊をモデルにして小隊での行動パターンや罠の設置、簡易的な施設の造営ですらこなす。
 まさに天才と言える兵士だが、唯一戦闘に関する経験値だけが足りない。スペックが高くとも新兵であるのには人と何ら変わりない。
 人と同じく、ロボットもまた完全ではないということか。ため息を腹の底に飲み下しながらサリンジャーは任務の内容を告げる。

「今からある地点にある船を破壊してくるんだ。木っ端微塵に、跡形も残さずにな。データは作業している連中から受け取れ。
 武器は任せる。もし島の中の参加者連中と会ったら――殺せ。邪魔にならないなら無視して構わん」
「任務了解しました」

549歪み:2009/02/18(水) 00:10:16 ID:JzhkGceQ0
 大仰にお辞儀をして、02は作業している連中へと向かい、
 今しがた作成したらしいメモリチップをイヤーレシーバーの横にあるスロットへと差し込む。
 便利なものだ。ブリーフィングも事前に作成したデータを使ってものの数分で終わる。おまけに忘れない。

 これからはそういう時代になるのだろう。少数による精鋭部隊での早期決戦が主流となり、
 大部隊を展開し陣形を構築するという時代は既に過去のものになりつつある。
 そして新しい時代の先駆となるのが……神の軍隊というわけだ。

 恭しく頭を垂れ、しずしずとした足取りで管制室を後にする02。
 自動扉が完全に閉まるのを見届けて、サリンジャーはモニターへと視線を戻す。
 船が座礁したままの位置にあるとするなら今、その近辺には四名程の人間がいる。距離的に鉢合わせしないとも限らない。
 爆破作業なら尚更だ。物音を聞きつけられる可能性は高い。だが02が負ける要素は万に一つもない。

 それよりも興味深いのは、以前篁が送り込んだ『ほしのゆめみ』の存在だ。
 人間の心を追い求めて作られたロボットがどんな奇跡を生み出すのか――そんなことを言っていた。
 篁はHMX17a『イルファ』や『ほしのゆめみ』の方に興味を抱いていた節があった。まるで戦闘能力などなく、
 心の慰みでしかないロボット風情に一体何を期待していたのだろうか。

 正直なところ、アニミズムにも近い篁の思想は理解したくもなかったし己の設計思想を否定されたかのようで気に入らなかった。
 正確には篁は測っていたのかもしれない。心を追い求めたモノとスペックをひたすらに追究したモノ。
 どちらが上に立つのか、を見極めていたのかもしれない。ただ篁は『心』とやらにチップを賭けていた、それだけであり、
 それがサリンジャーには腹立たしい事だったのだ。

 もしアハトノインとほしのゆめみが出会うとするなら――サリンジャーは想像して、嘲笑を浮かべる。
 負ける要素などない。まずは一戦を交え、篁に己の思想が正しかったことを証明してやろう。そうなってほしいものだ。

『何より、日本のロボットは気に入らないんですよ……』

550歪み:2009/02/18(水) 00:10:33 ID:JzhkGceQ0
 日本語ではなく、母国語のドイツ語でサリンジャーは呟く。誰にも聞こえぬように、暗澹として底黒い自らの内を悟られないように。
 日本にはロボット開発の技術を学ぶために留学したこともある。日本語はそのとき身につけたものだ。
 だが日本の設計思想は何もかもが気に入らない。

 実用性も捨て、まるで傾倒するかのように人間らしさとやらを追い求め、不要なものばかり詰め込んでいる。
 所詮は紛い物でしかないのに。プログラムでしかないのに、何故あのように称賛されるのかサリンジャーには理解出来なかった。
 そればかりか自分の言葉も否定され、「ロボットの心を知れ」などというようなことまで言われた。
 ならば理解させてやろう。自分の理論……ロボットの行き着く先は兵器であるという言葉を実証してみせよう。

『神の軍隊でね……分からせてやるよ、黄色い猿ども』

 自分を否定した世界を否定し返すために。全てを屈服させるために。
 デイビッド・サリンジャーが一つ目の駒を動かす――

551歪み:2009/02/18(水) 00:10:54 ID:JzhkGceQ0
【場所:高天原内部】
【時間:二日目午後:21:00】

デイビッド・サリンジャー
【状態:殺し合いの様子を眺めている。頃合いを見て参加者を殲滅するためにアハトノイン達を会場に送り込む。このゲームの優勝者を出させる気は全くない】
【その他:Mk43L/e(シオマネキ)が稼動できるようになった】

アハトノイン(02)
【状態:D−1地点にある船を完全に破壊しに行く。任務優先で、妨害されない限り参加者には手を出さない】
【装備:不明】

→B-10

552十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:49:27 ID:WUwc3v1o0
 
柏木楓という少女の振るう刃に、憎悪はない。
彼女はただ、湯浅皐月という好敵手と、柏木千鶴という嫌悪すべき女と、そうして柏木耕一という
人生の拠りどころとの、その全部がいっぺんに目の前から消えてなくなった空白からざわざわと滲み出してくる、
高揚に程近い混沌とでもいうべきものを鎮めようと、眼前の敵とみなした存在へと刃を振るっている。
そこにあるのはひどく漫然とした殺意と、それと同程度の質量を備えた鋭角な害意である。
それが、かつて己が血統の祖が遠い星々の彼方で繰り返した行為と酷似していることに、彼女自身気付いていない。
柏木楓は、狩猟者である。


***

553十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:49:40 ID:WUwc3v1o0
 
すべてを忘れたかった。
何かに縋りたかった。
骸すら、残らなかった。

ああ。
あの人の、隙もなく爪を塗った手で作られた食べ物を、全部吐き出した後のような。
私に残されたのは、涙の滲むような苦味と、どうしようもない空腹感と、饐えた臭いだけだ。

振り払うように、走る。
走って、切り裂く。
切り裂けば、手応えがある。

音は聞こえない。
音はもう、聞こえない。
高鳴る鼓動も、耳元を吹きぬける風も、何も聞こえない。
聞きたくないものは、聞こえない。


***

554十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:49:54 ID:WUwc3v1o0
 
恣意的な無音の中で、柏木楓は刃を振るう。
深紅の爪の閃くたびに、二刀の像に傷がつく。
刻まれる傷は浅くささやかで、しかし少女は粘り強く、或いは偏執的なまでに執拗に、傷を増やしていく。
一文字は十文字となり、十文字は幾つも重なって瞬く間に複雑怪奇な紋様と化していった。

そこに、悪意はない。
ただ害意という膏薬に敵意という毒を練り、殺意という指で傷口に塗り込むという、それだけの話である。
女という種が笑みを崩さぬまま、息をするようにしてのけるそれを、少女は刃を以て行う。
傷から流れる血を見なければ己が害毒を確かめられぬ。
それが少女である。

血の通わぬ石造りの像に、際限のない傷だけが増えていく。


***

555十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:50:07 ID:WUwc3v1o0
 
考えるのをやめようとすればするほど、あの人が私を侵していく。
甘い化粧の匂いと猫なで声と、私を哀れむような、見下ろすような眼だ。
胸が詰まるような、臓腑を裂いて残らず掻き出してしまいたくなるような、どろどろと粘つくもの。
この膨らみかけた脂肪の固まりも、痛みと憂鬱しかもたらさない、汚い血を吐くだけの器官も。
全部を掻き出して挽いて潰して水で洗えば、この嫌なものは流れて落ちるのだろうか。
そんなことを思う。
裂いて流れるのは綺麗な赤い雫だけだと、知っているのに。

戻らない。
何も戻らない。
何をしても、どれだけ泣いても、なくしたものは戻らない。
そんなことはわかっている。
わかっているから、動かずにいた。
動かなければ、変わらなければ、何もなくさずに済むかもしれないと、思っていた。
そんな、馬鹿なことを、思っていた。

変わっていく。
変わっていくのだ。
私が止まっても、他の全部は動いている。
動いているから、変わっていく。
変わってしまって、なくなっていく。
私のたいせつなものはもう何も残らずに、変わらずにいる私だけが取り残されている。

それでよかった。
それでもよかった。
変わらずにいる私は、変わってしまったものたちを、なくしてしまったものたちのことを、
ずっと変わらない姿で覚えていられる。
それはとてもしあわせなこと。
それだけが世界を、私の大好きだったものたちを大好きなままで留めておく、たったひとつの方法。

だと、いうのに。
あの人の匂いを吸い込むたびに。
あの人の猫なで声が耳に入ってくるたびに。
あの人の眼が私を厭らしい色で見下ろすたびに。
どろどろとしたものが、私を這い登ってくるのだ。
ずるずると糸を引きながら、てらてらと濡れ光る跡を残しながら、それは私を這い回る。
そうしてそれは、私の中に染み透ってくるのだ。
私を、変えるために。


***

556十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:50:23 ID:WUwc3v1o0
 
胸にこみ上げる嫌悪感にえづきながら、柏木楓が身を捻る。
その身を両断せんと迫る巨大な刃を躱す、その深紅の瞳には波紋一つ浮かばない。
返すように振るわれる、瞳と同じ血の色の長い爪が、神像の腕に一筋の傷を刻んでいく。

刻んだその顔に笑みはない。
与えた打撃に思うところの一切はなく、それは暗い部屋で人形の手足を捻り千切るような、
枕に顔を押し当てて叫ぶような、ただ生きるために必要な、それは作業であるかのように。
淡々とした激情に身を任せながら、少女は足掻いている。


***

557十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:50:43 ID:WUwc3v1o0
 
変わっていく。
私は変わらされていく。

綺麗なところには、厭な汁の飛沫が散って染みを作るように。
やわらかいところには、じくじくと痛い水ぶくれができるように。

あの人のどろどろとしたものが伝染して、私は変わらされていく。
嫌だと泣いても、駄目と叫んでも、どれだけ肌を裂いて血を流しても、それは止まらない。

私のからだからは、きっといつか、甘い化粧の匂いが立ち込めるようになるのだ。
そうして鳥肌の立つような猫なで声で、誰かの名前を呼ぶのだ。

それはもう、私ではない。
柏木楓なんかでは、決してない。

それはきっと、街の人波をぎっしりと埋め尽くす、たくさんの柏木千鶴の、一人でしかない。
だから。

そういうものになる前に、私は、選ばなくてはいけないのだ。
どろどろとした厭らしく粘つくものを撒き散らすあの人か、変わらされてしまう柏木楓であるものか、

どちらを、殺すのか。


***

558十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:50:58 ID:WUwc3v1o0

ひどく陳腐で、切実で、迂遠で、真っ直ぐで、ありふれた幻想とでも呼ぶべき何かを抱いて、
少女は刃を振るう。
振るう刃の鋭さが、少女という存在の生きる意味のすべてである。

刻まれる傷は、少女が歩む上での犠牲に過ぎぬ。
抉られ落ちる神像の腕は、少女という歪みに巻き込まれた、哀れな盤上の駒だった。
少女の立つ場所を、世界という。

559十一時四十八分/あなたがいる:2009/02/20(金) 14:51:20 ID:WUwc3v1o0
 
【時間:2日目 AM11:49】
【場所:F−5 神塚山山頂】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、軽傷、左目失明(治癒中)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体16800体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:小破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 ルートD-5

560十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:10:12 ID:McAJYwDI0
***


A−9。
初めて会ったときの、それが彼女の名だった。

流れる金色の髪がとても綺麗だと、そんな風に思ったことだけを、覚えている。


***

561十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:10:27 ID:McAJYwDI0
 
「覚えているかね、諸君―――」

響くのは、無数の蟲の這いずるが如き聲。
長瀬源五郎である。

「幼い頃に思い描いた、未来のかたちを。
 求め、挑み、膝を屈して涙した、あの日の夢を。
 手を伸ばせばいつか届くと信じていた無邪気な日々を、諸君は覚えているかね。
 私の夢、私の未来、私の思い描いた世界。そうだ、それは今、私の目の前にある。
 届くのだ、歩めば。一歩、一歩、見たまえ、もうほんの少しの先で、私の夢が叶おうとしている―――」

醜悪を練り固めたような粘りつく声に、天沢郁未が鉄の味のする唾を吐く。

『語ってんじゃねーっての……』

眼前、悪夢の如き堅牢を誇る槍使いの神像を睨み上げながら、郁未は立ち上がる。
ぜひ、という喘鳴が喉から漏れていた。
息が整わない。
痙攣するように胸が震える度にこみ上げてくるのは胃液と混じった鮮血。
激戦の中、折れた肋骨が内臓を傷つけていた。

『……不可視の力で傷も治せたらいいのにね。魔法みたいにさ』

冗談めかした呟きに相方の答えが返ってこないのを、郁未は怪訝に思う。
観客もいないサーカスの、愚かな道化とその頭に載せられた林檎を狙って飛ぶナイフ。
それは不文律。
それは暗黙の了解。
それは約束。
―――それは、誓い。
いつからかそうしてきた、これからもずっとそうしていくはずの、天沢郁未と鹿沼葉子の在り方。
それが崩れだしたのは、この島に来てからのことだ。


***

562十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:10:41 ID:McAJYwDI0
 
今はもうない教団の、あの誰もいない食堂の薄暗い片隅で。
私たちは、出会った。

私を変え、私の生き方を変え、私の明日を変えたそれをきっと、奇跡というのだろう。


***

563十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:10:57 ID:McAJYwDI0
 
迫る槍が、天を支える柱の落ちるが如く大地を抉る。
石くれと岩とを孕んだ風が爆ぜるように拡がり、それが消えるよりも早く次の衝撃が落ちる。

『右……? 分かってる、けど……っ!』

郁未の脳裏に閃くのは鹿沼葉子の送る視界である。
土煙に巻かれながら跳ねる郁未の眼には映らぬはずの、第二撃。
それを正確に回避できるのは、理屈はどうあれ意志と声とが繋がったらしき葉子の、声なき指示の賜物だった。

『これじゃ、近づけやしないっ……!』

戦況はいかにも苦しい。
打ち続く激戦に駆ける足は震え、手に持つ鉈も次第にその存在感を増しているように感じられた。
泥濘のまとわりつくように重苦しい身体を引きずりながら、郁未が跳ねる。
砕けた肋骨が細かな砂粒になり、肉体を動かす歯車に噛まれて軋むように、全身が不協和音を奏でていた。
今や槍の穂先は完全に郁未だけを狙っている。
傷を負った郁未の動きが重いことは、既に見抜かれていた。
先刻の突撃の失敗は致命的だった。
敵は無傷、こちらへの打撃は重く尾を引いて圧し掛かっている。
危うい均衡を保っていた天秤が、一気に傾こうとしていた。

「ち……ぃ、っ!」

それでも、天沢郁未は退かない。
今にも崩れ落ちそうな身体を引きずって戦う郁未の瞳には、不退転の決意があった。
自由への渇望もある。迫り来る死の刻限への抵抗も、無論のこと存在した。
しかし、それよりもなお郁未の心を満たし支えていたのは、他ならぬ鹿沼葉子の言葉である。
葉子があの少女たちを敵と呼んだ。
ならば、その少女たちを取り込んで生まれた眼前の巨神像群もまた、葉子の敵であると思った。
それが、ただそれだけのことが、天沢郁未の戦う、最も強い理由である。

564十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:11:20 ID:McAJYwDI0
見上げれば空を覆うような影。
突き込まれる巨槍は大気をも穿ち貫くように、直線の軌跡を描いて落ちてくる。
距離を詰めるように駆け出した、郁未の背後で岩盤が破砕される。
振り返ることはしない。
不可視の視界、第三の瞳が郁未にはあった。
振り返ることなく、郁未は駆けながら背後を確認。
落ちた槍は素早く引かれている。
引かれた槍が、再び突き込まれようとするのが見えて、
と、

「……!?」

その穂先が、割れた。割れた影は三つ。
否、軌跡が分裂したと見えるほどに連続した、それは神速の刺突。
流星の如き槍撃が狙い澄ましたように郁未へと迫る。
一つ目を躱し、二つ目を避け、そして三つ目は―――対処しきれない。

「が、ぁ……っ!」

直撃だけを回避し、しかし爆ぜるように巨槍が大地を粉砕する、その爆心地の直近から逃れることは叶わなかった。
咄嗟に張り巡らせた不可視の壁も僅かに間に合わない。
鋭く尖った石礫が幾つも郁未へと突き刺さる。
爆風が、流れる血と同じ速さで郁未の身体を吹き飛ばした。

『―――郁未さんっ!?』

悲痛に響く声に、薄く笑む。
笑んだ直後に衝撃が来た。
受身も取れずに叩きつけられた岩盤に、食い込んだ石礫と開いた傷口とが卸し金にかけられるように削られていく。
遮断した痛覚を無視するように目尻を流れるのは涙滴だった。
肉体の防衛本能が流させる、それは警告である。
ごろごろと転がった先で、しかし郁未はそれを拭いながら立ち上がる。
左の肘から先は奇妙に捩じくれて動かない。
動かないが、立ち上がった。

565十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:11:38 ID:McAJYwDI0
『はは……今のはちょっと、効いた……かも』

葉子に伝える軽口も、声にはならない。
ぱっくりと裂けた唇の間から漏れるのは、がらがらと血痰の絡む濡れた吐息のみである。

『けど、まだこれから……』
『―――もう、いい』

それは、静かな声だった。
底冷えのするような、低く、暗い声。
郁未がそれを相方の、鹿沼葉子の声であると認識するまでに、僅かな時間を要した。

『え……?』
『もう、いいと言ったのです。もう、いいです。もう、充分』

それは、

『葉子さ―――』
『これは、私の戦いです』

それは、拒絶だった。

『あれは、私の敵。……郁未さんは、もう下がってください』

繋がっていたはずの、手の温もり。
それが幻想であると告げるような。

『それが……光学戰試挑躰である、私の為すべきことなのですから』

伝わる声音の冷たさに、背筋が震える。
力が、抜けていく。
追い縋れない。
駆け出したその背に、手が届かない。
のろのろと、何かを言おうと口を開きかけて、

『―――ごめんなさい』

呟きが、世界を変えた。
それは、焔である。
暗く灯りの落ちた天沢郁未の奥底に横たわる、ゆらゆらと静かに揺れる水面に落とされた、微かな火種。
水面は、油だ。
炎が、一気に燃え広がった。
それは瞬く間に、失望を嘗め絶望を焼き拒絶という鉄扉を融かし尽くす業火となる。

伸ばした手は届かない。
届かない手は、乾いた血に塗れて赤黒い。
赤黒く血に染まった手指が拳を形作り、ぎり、と音を立てた。


***

566十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:12:00 ID:McAJYwDI0
 
あの場所で過ごした時間を、地獄と呼ぶ人もいるのかもしれない。
だけど、違う。
あれは分水嶺だったのだ。過去という監獄と、未来という荒野との。
或いは、

孤独と、そうでない温かさとの。


***

567十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:12:26 ID:McAJYwDI0
 
光学戰試挑躰。
相方が、鹿沼葉子が鹿沼葉子らしからぬ表情を垣間見せるようになったのは、
その単語を口にしてからこちらのことだ。
聞けば、葉子の身にはまだ隠された過去と、秘められた力があったのだという。
詳しいことは覚えていない。覚える必要もなかった。
その程度の、ことだった。

つまらないことだ、と思う。
何もかもが、つまらない。
葉子がそんな過去に拘泥していることも。
自分に隠し事をしていたことも。
それが、要らぬ迷惑を被らせまいとする気遣いであろうことも。
告げてなお、一人で何かの決着をつけようとしていることも。
二人で歩むこの先よりも、今この戦いを見つめていることも。
おそらくはその終わり方を、手前勝手に心に決めたのだろうことも。
―――なんて、つまらない。

何より一番に、気に入らないのは。
そんなことの全部に気付かないよう振舞う郁未が、本当は何もかもを理解しているということを。
そこまでを葉子は分かっていて。
分かった上で、葉子の身勝手を赦すと。
その決断を、認めると。
鹿沼葉子が一人で歩むことを、天沢郁未が肯んじると。
そんな風に、考えていることだ。

「……けんな」

伸ばした拳は届かない。
巨槍は迫る。

「……ざけんな、」

鹿沼葉子は謝罪を口にし。
背を、向けている。

「ざッけんな、鹿沼葉子……ッ!」

それが、どうした。


***

568十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:12:42 ID:McAJYwDI0
 
あの朱い月の夜を越えて。
私たちは、訣別したのだ。
過去と。亡霊たちと。私たちを縛る、私たち以外の、すべてと。

ならば。
ならば、私の手が。
夜を越え明日を歩む、私たちの伸ばす手が。


―――届かぬ道理の、あるはずもない。


***

569十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:13:04 ID:McAJYwDI0
 
一歩を踏み出す。
ただそれだけで、この身は鹿沼葉子に並んでいる。

「郁未……さん……!?」

思わず漏れた声も、驚いたような顔も、全部がすぐ、そこにある。
ただの一歩。
距離の如きが、天沢郁未と鹿沼葉子を隔てることなど叶わない。

「どうして……!」

叫んだ瞳に滲む涙が、きらきらと日輪に輝いて綺麗だと、そんなことを思う。
影が、落ちた。
陽光を遮る無粋な影は、巨神像の振るう剛槍。
足を止めた郁未と葉子とを襲う、地を穿つ流星。
告死の一閃が、迫る。

「―――ねえ、葉子さん」

その名を口に出して、微笑む。
掠れた声と息切れと、こみ上げる血と激痛と、そんなものを、無視して。

「私は―――」

轟々と風を巻いて迫る槍が、喧しい。
だから拳を突き出した。
まだ動く、右の拳の一本が。
血に染まった、傷だらけの細い腕が。
不可視と呼ばれる、無限の力を紡ぎ出す。
力は壁となり、力は腕となり、力は最後に、拳となった。
不可視の壁が、巨槍を防いだ。
芥子粒のような二人を前に、天を支える巨柱の如き槍が、その動きの一切を止める。
不可視の腕が、巨槍を掴んだ。
山を穿つ穂先が、大地を抉る長柄が、その主の意図に反して向きを変えていく。
最後に不可視の拳が、巨槍を、弾いた。
練り固め、押し潰された大気が爆ぜるような凄まじい轟音と共に、巨槍を持つ神像が大きく体勢を崩す。
弾かれた槍の一直線に向かう先には、刀を構えた巨神像が存在した。
槍の長柄が巨神像の刀を圧し砕き、穂先が巨神像の頭を、破砕する。
その一切を、郁未は目に映してすら、いない。

「―――私は、あなたのそばにいる」

瞳は、鹿沼葉子だけを、ただ真っ直ぐに見つめている。

570十一時四十九分/そばにいる:2009/02/27(金) 15:13:17 ID:McAJYwDI0
 
【時間:2日目 AM11:51】
【場所:F−5 神塚山山頂 南西】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体15200体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:健在】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:損傷】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【トウカ・フィギュアヘッド:大破】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 ルートD-5

571乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:29:09 ID:gteZ9OEo0
 やぁ良い子のみんな、元気にしてたかい?
 この形で出るのも久々だな。そうです、わたしが高槻です。

 最近はシリアルな展開が長く続いて俺もこういうのを挟む余裕がなくなってきてるわけなのよ。
 まあ別にいいんだけど。これぞまさにハードボイルドって感じで少しは格好がつくってもんだ。

 なんだかんだ言っても俺にも面子というものがある。といってもあん時のような薄っぺらいもんじゃない。
 俺がしっかりと他人に誇れるようななにか。胸を張れるなにかのための面子だ。
 問題なのはその『なにか』が俺自身でも分かってないってことなんだよな。

 そりゃそうなんだよな。考えてもこなければ持とうとすることもなかったんだし。
 しかも今までと全然違う環境下で考え事をすることが多くなってしまったせいでなんか戸惑うことも多くなったし。

 ……藤林と再会したときもそうだ。
 離れ離れになって、だけどまた出会えれば嬉しいってもんだろう。ゆめみが飛び出してったのもそうなんだろうって思えるさ。
 だが俺にはその実感がない。再会したところでどんな言葉をかけたらいいのか分からなかったし、嬉しいと思う気持ちも無かった。
 それよりも男の方……芳野って兄ちゃんに気がいってたくらいだしな。

 つまるところ、俺は誰かとつるむことなく自分勝手にやっていた昔の癖が抜け切っていないんだ。
 他人のことなんてどうでもよくて、俺さえ良ければなんだっていいと思っていたあの時のように。
 クソ喰らえと思うが、そういう暮らししかしてこれなかったのが俺なんだって自覚もする。
 最低な野郎は所詮最低な気質のまま。屑は屑でしかいられない。
 何故か岸田の顔が頭に浮かんで、こちらを見下している。

 ああ、もう、クソ喰らえだ、本当に。
 悪態のひとつでもつきたいって気分だ。何もかもを一新したつもりでいても結局は過去に囚われたまま。
 責任を持ちたくない、無責任に生きられさえすればいいとしている俺がいつまで経っても洗い流せない。
 どうしてだろうな……いや、理由は分かってる。

572乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:29:27 ID:gteZ9OEo0
 楽だからさ。妥協して、流されて、何の責任も持たない生き方はとにかく楽の一言だ。
 そんなゆるま湯に浸かりきってきた俺だ。体は楽な方へ楽な方へ行こうとしている。
 慣れきった俺ってやつがそっちへフラフラしようとしている。

 駄目な野郎だ。全く、本当に駄目な野郎だよ。駄目すぎて苦笑いしか出てこない。
 郁乃がせっかく準備を整えてくれているのにな……ケツ引っ叩いて追い出してくれたってのに、そこから進む一歩をどうしても踏み出せない。
 ものぐさが過ぎる。もう一回くらいビシッと叩いてもらわなきゃ、ひょっとしたら何もしないままなのかもしれない。
 こんなだからよ、俺は何にも誰にも胸を張れないのかもな……

「高槻さん、船のことなのですが」

 すっきりしないまま歩いていると、不意にゆめみが話しかけてきた。
 そういえばこいつから話しかけられるのって多いような気がする。ロボットなのに。

 いや最近のロボットはそういうものなのかもしれない。命令を聞くだけ、なんてのはもう昔の話なのかもな。
 そのうち人権なんかもできたりするかもしれない。待てよ、ロボットだからロボ権か?
 いまいち分かりにくいな。機械人形権? 自動人形権? うーむ、自立稼動機械内における人口知能に対する権利の保護……長ぇ。

 などと横道に逸れかけた俺の考えを修正してやる! かのように頭に乗っかっていたポテト(雨避け)がぴこぴこと頭を叩く。
 わーってるよ白毛玉。……そういや、今の俺の姿ってモーツァルトみたいに見えないか?
 今のガキどもはモーツァルトごっこなんてやってないんだろうな。綿を頭に乗せてさ。
 何? 昔のガキだってやってないって? 俺はやってたぞ。

 ……いかん、どうもすぐに変なことを考えてしまう。こら毛玉、ぴこぴこ両手両足で叩いたり蹴ったりしてんじゃねぇ。鬱陶しい。
 分かってるっての。つーかお前、本当俺のことに関してだけは先読みが鋭いのな。以心伝心、いやニュータイプか?
 ララァ、私にも宇宙が見えるぞ。……はいはいはい、分かってるからしっぽ叩き追加すんな。

「どうしたよ」
「探した後のことなのですが……どうするのですか?」

573乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:29:47 ID:gteZ9OEo0
 そういや探す探すばっかり言ってて探した後のことなんざ全然考えてなかったな。
 まぁこの首輪があるからなんだけどな。だがそれも心配ない。外す当てが芳野の兄ちゃんから舞い込んできたし。
 仮に外せるのだとしたらもう残りは脱出だけ。そうなると俺達のやっていることも俄然重要な意味合いを持つことになる。
 ゆめみはそういうのを含んで言ったんだろう。先読みが鋭いのはポテトだけではないようで。

「取り合えずは船自体を見てみないことにはな。壊れているのか、そうでないのか、燃料はどうなのか、とかな。
 まず確認して、それから必要なものを探しに行くってことになるだろうさ。今は見に行くだけでいい」
「なるほど、そうですね。確かに船があるというのを知っているだけですからどうなっているのかも分かりませんし」

 頷くゆめみ。そういえばこいつの腕もどうにかしないと。岸田も死んで、残りも30人ほどの状況とはいえ、
 まーりゃんとかいう女を始めとして殺し合いに乗ってる連中はいないわけじゃないだろう。それに備えてゆめみの体調……
 というか調整をしておく必要がある。こいつだって立派な戦力だからな。

「お前も何とかして直してやらないとな。いつまでもその腕のままじゃあな……正直キツいぜ。はんだごてで直せるかねぇ」
「神経回路は普通の機械と同じ配線ですから、応急処置としては十分だと考えられます」

 そりゃ良かった。一応機械工学に関しての知識はあるからな。
 MINMESやELPODの調整を度々やらされていたことがこんな形で役に立つとはよ。
 どちらかというとデジタル的なデータの調整の方が多かったような気もするが、この際気にするまい。

 と、俺はふとゆめみのために行動している俺という存在がいつの間にか現れていたことに気付く。
 自分のためじゃない、純粋に人のことを思っての行動だということに。そこに多少の打算があったのだとしても……

「あの、ありがとうございます」
「……何がだ」

 急な言葉に多少詰まらせながらも俺はそう返す。ゆめみは寸分の打算もないやわらかな笑みを浮かべていた。

「わたしを直してくださることです。それは、きっとお医者様がひとを治すのと同じことだと思いましたから」
「なに、そんな大層なもんじゃない。……一蓮托生ってやつだ」
「一蓮托生……?」
「乗りかかった泥舟ってことだよ」

574乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:30:14 ID:gteZ9OEo0
 少しの間を置いて、ああ、という風にゆめみは頷き、同時に苦笑していた。俺も苦笑を返す。
 一蓮托生、か。

 自分でそう言っておきながら、今更のようにようやく理解している。
 この道を俺は選ぼうとしている。今までに経験したこともなく、何があるのかも不明瞭で不安だらけの道を。
 自分で決めたことだ。アドバイスやら何やらがあったとしても、決めたのは俺なんだ。

「あの、分かっていて申し上げられたのなら申し訳ないのですが」
「お?」
「乗りかかった船、ではないのでしょうか? ……泥舟だと、沈んでしまいます」
「……」

 ゆめみの苦笑が思い出され、そういう意味だったとやっと分かった俺は口をあんぐりと開けるしかなかった。
 ま、ままま間違えたわけじゃないぞ! あれだ、沈む船だとしても最期まで一緒ってことだよ! イッツタイタニック!

 なに? タイタニックでは片割れが生き残ったって? うるせー馬鹿! 細かいことを気にするな!
 これが一蓮托生ってことだ分かったかよ畜生!
 頭の中では真っ赤になって誰かに反論しつつ、表面上はクールを装って華麗に返す俺。

「ふ……ゆめみ、大人のハードボイルドジョークを分かっていないようだな。地獄に落ちるなら一緒ってことなんだぜ?」
「そうなのですか? すみません、わたしのデータベースになかった言葉だったので……」

 流石俺。流石クール高槻。見事な返しに思わずゆめみさんも信じるこの鮮やかさ!
 さらりと告白まがいのようなことを言っているような気がするがゆめみさんが空気読んでフラグ折ってくれました。
 決してゆめみさんがアホアホロボットだと言っているわけじゃないぞ?
 とにかく上手く誤魔化すことに成功した俺は大袈裟に咳払いをして話をまとめにかかる。

「そういうことだ。分かったらまずははんだごてを探すぞ。船が壊れていても修理に応用できそうだからな」
「了解しました。泥舟に乗船させてもらいますね」

 ……こいつ、分かっててやってないだろうか?
 だがにっこりと純真無垢に微笑を浮かべるゆめみを見るとそんな邪な考えもすぐに吹き飛んだ。

 代わりに、もし泥舟の話を誰かに聞かれでもしたらとんでもない恥さらしになるのではないだろうかという不安が頭を過ぎる。
 どうやら泥舟に乗っているのは俺も同じらしい。沈まないように祈るしかない。
 でもきっといつかバレるんだろうなあ……確信にも近い予感を抱きながら、俺ははんだごてがありそうな工具店を探すことにした。

     *     *     *

575乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:30:43 ID:gteZ9OEo0
 薄明るい密室の中、ひとりの少女が俯き加減に座っていた。
 頬は僅かに赤く、瞳の奥には戸惑いとある種の期待を込めた色が窺える。
 服は既にはだけられ、インナースーツの上半身部分だけが覗き彼女の柔肌を守っている。
 守られていない部分――すなわち、素肌が見えているところはほの暗い空間と対になるような白さがあり、
 落とされた服と相まって卑猥な雰囲気を醸し出している。
 眺められていることに気付いたらしい少女は少しの間を置いてから頷く。
 しゅるしゅるという衣擦れの音が聞こえ、ゆっくりと裸身が露になってゆく。
 少女らしいほっそりとした肢体と、控えめに膨らんでいる胸。以前見た事がある男だが、
 改めて見てみると思った以上に小さなものだと感慨を抱いた。

「あの……宜しく、お願いします」

 上目遣いに見上げる少女。ああ、と男は頷き、『道具』を持って彼女の背後へと回る。
 方膝をついて座り、ぴったりと体を密着させる。女の子特有の柔らかさが伝わってきた。
 ごくりと生唾を呑み込みつつ、男は少女の身体を――

576乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:31:10 ID:gteZ9OEo0

 んなわけあるか。
 ただの応急処置の風景だよ。
 賢者タイムだとか思った奴表に出ろ。

 ……とまあ、首尾よくはんだごて他回線やら何やらを入手してとりあえずゆめみの応急処置をすることにしたわけだ。
 部屋が薄暗いのは俺達が無防備になるから誰かに見つけられないための措置ってやつだな。
 密室にしたのも以下同文。オープンにそんなことやってたまるか。大道芸じゃないんだぞ。

 まあそもそも俺がゆめみに欲情することなんざ俺がポテトに恋することくらいありえん。
 ロボットだし、おっぱい小さいし。あっ、重要なのはおっぱい小さいってところだぞ?
 小さいのが悪いと言っているわけではないが、やっぱり大きいほうが色々と便利じゃん? 何がって? 大人になれば分かるさ。

 しかしまあ、本当にこんなので大丈夫なのかねえ。
 人工皮膚を鋏でジョキジョキ切って、切断された配線をはんだでくっつけ直す。
 ゆめみの電源は一時的に切ってある(スリープモード)に移行してあるから感電の心配はないんだが、念のためにゴム手袋で作業。
 さらにゴーグル装備。マスクもついでに。意味があるかどうかはこの際置いておこう。

 問題なのはゆめみに開けられた穴がちょうど胸のあたりを貫通してることなんだよな。
 奥のほうまでいくと流石に俺でもどうしようもなくなってくるし、どうなっているのかも見えない。
 つーか、科学の粋を集めて作ったロボット、しかも試作品のことが一発で分かってたまるか。
 繋ぎなおしだって色が同じ奴をくっつけているだけだしな。……寧ろ変なところをくっつけてしまいおかしくなりはしないだろうかと思う。

 だが作業は始まってしまった以上、今更止めるわけにもいかないし、ゆめみ本人も(多分と付け加えたが)大丈夫と言っている。
 いけるいける、絶対にいけるとお祈りしつつ手の届く場所までは直す。
 見た感じでは主な損傷箇所は胸部の、いわゆる肋骨にあたる骨格が破損していて、
 モーターだかバッテリーだか分からん箱のようなものも貫かれて使い物にならなくなっているようだ。
 ゆめみ本人なら分かるかもしれない。後で聞いてみよう。

「……よし、やれるだけはやったぞ……後は運を天に任せるか」

577乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:31:30 ID:gteZ9OEo0
 ゴーグルとマスクを外して一息。
 残りはジョキジョキ切ってしまった人工皮膚の繋ぎなおしだが、まあ糸でも通しときゃどうにかなるだろ、多分。
 でも糸なんて見つからなかったしなあ……そうだ、確か忍者セットの中に強力な糊みたいなのが入ってたはずだ。ん、トリモチだったかな?
 まあいい。とにかくくっつけられるなら大丈夫だろ。

 ごそごそとデイパックから例の糊みたいな何かを取り出し、ヘラで掬い取ってぺたぺた……と。
 小学生の工作の時間を思い出しつつ人工皮膚の切れ目に塗りたくる。
 どうやら見込みに間違いはなかったらしくぺろんと皮膚が剥がれることもなかった。

 取り合えず今はこれでいい。本格的な修理は後にでもやればいいさ。きっとメイドロボと同じレベルの修理なら出来るはず。
 試作品だからって何もかも違うってことはないだろう。

「よっしゃ、終わったぞゆめみ。起きろ」
「――システム再起動。各種機能をチェックします……一部にエラーが見受けられます。
 サポートセンターに問い合わせします……エラー。接続を中断します。稼動には深刻なエラーは見受けられません。
 よってこのままプログラムを起動します。……パーソナルネーム『ほしのゆめみ』、起動」

 抑揚のない無機質な声がしばらく続き、俯いていたゆめみの頭がようやく持ち上がる。
 普段はあんなに可愛い声なのにな。気が利いてないというか、システムボイスくらい気を配れというか。
 けど、やっぱりエラーはあるらしい。深刻ではないようなのでひとまず問題はないというところだな。

「――おはようございます」
「おう。どうよ、調子は」

 言われたゆめみは動かなくなっていた腕を動かそうとする。もし直っていれば腕は動くはずなのだが……
 一瞬緊張し、しかしそれも杞憂だと分かった。
 多少ぎこちないものの腕が動き、関節も曲がる。指も曲げられるようだった。

 ふーっ、案外簡単にいくもんだな。ひょっとすると、ロボットのハードウェアに当たる部分は案外いい加減なつくりなのかもしれない。
 繊細なのはプログラムだけ。……俺達と同じだな。
 死にたいと思っても中々死に切れず、恥を晒して、それでも体は動き、命が脈動して……

578乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:31:52 ID:gteZ9OEo0
「若干、関節面の動きが鈍いように思われます。それに腕も肩より先に上がらないみたいです」

 ギギギと腕を上げようとしたゆめみだが、不自然な部分で止まってしまっている。やはり不完全か。
 これじゃあ格闘は無理か。折角格闘プログラムをインストールしたってのに、勿体無い。
 まぁしかしちゃんと動くだけマシってところか。
 右足と左足が同時に出たりとか、指が常にわきわきしたりとか、そういう不都合が出なくてよかった。

 医者ってのもこんな気分なんだろう。自分のやったことに対して一喜一憂する。上手くいけば全力で喜べる。自分自身も患者も。
 俺がやっていることは絆創膏を貼るレベルなんだろうけどな。
 苦笑しながら、俺はまだ体の調子を確かめているらしいゆめみに「服を着ろ」と伝える。
 その、なんだ。いかに興味ないとはいえ半裸の女の子(ロボットだが)が男の視線を気にしてないというのも問題なわけで。
 全く。プログラマー出て来い。

 今更のように自分がそういう格好だと知ったように、あっと声を上げてゆめみが慌てて服を着る。
 手遅れなんだが。もう見てるんだが。色? 馬鹿野郎、そういう無粋なことを聞くもんじゃないの。
 もう少し大きかったら揉んでたね。空しくなったとしても揉んでたさ。男だからな!
 ……こういうとき、突っ込み役がいないと少し寂しいな。藤林と一緒に行けば良かったか。半殺しにされそうだけど。

「ぴこ」

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、ポテトがぴこぴこと叩いてくる。
 気持ちはありがたいが、もうちょっと刺激が欲しいな。全然痛くないし。

「……ぴこ」

 あ? なんだよその汚いものを見るような目は。変態?
 何を言うかこの駄犬。俺が求めているのは体を張った笑いなんだよ。ネタのために体を張る。男らしくていいじゃないか。
 つーかお前如きに変態呼ばわりされてたまるか未確認生命体め。
 頭からひっぺがしてイチローのレーザービームのように外に投げ捨ててやろうとしたとき、ズン! という低い音と共に地面が揺れた。

579乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:32:12 ID:gteZ9OEo0
「なんだっ!?」

 家屋の中にいてまで響いてくる上に、揺れたのだ。
 俺はポテトのことも頭から放り出して外へと向かう。まさか、別働隊の藤林と芳野の兄ちゃんがやられたんじゃないだろうな。
 服を着たらしいゆめみも慌てて荷物を持って俺に追い縋ってくる。

「何でしょうか、今の音は……」
「分からん。ヤバいことじゃなけりゃいいんだが」

 こうなると見つかりにくくするために閉めきっていたのが煩わしい。手早く扉を開け、外に出ると……
 なんじゃこりゃ、と俺は絶句したくなった。

 ここから海岸に沿った方向、およそ数キロほど先にある場所だろうか。
 夜に、しかも雨なのにもかかわらずもうもうと煙が上がり、空の一部が赤く切り取られている。
 キャンプファイアーにしてはあまりに大きすぎやしないかい? そんなことを言いたくなるくらいに激しく何かが『燃えていた』。

「海の方……みたいですが」

 ぽつりとゆめみが呟いたとき、まさかという予感が走った。
 あそこで燃えているのは、もしや、船――!?
 半分そうだと言っている自分と、そんな馬鹿なと騒ぎ立てている自分がいた。

 いや仮に船だとして、どうして燃やすような真似をする? あそこで戦闘でもしていたのだろうか?
 だがこの雨の中、そう簡単に船が爆発して燃えるなんてことがあるのか。
 火をつけただけじゃあんなことにはならない。もっと他の、専門的な知識と道具を使わなければ……

「畜生! 行くぞ!」
「え? あ、は、はい!」

580乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:32:35 ID:gteZ9OEo0
 考えていても始まらない。悪い予感が現実の形になっていくのを認識しながらも、確かめてみなければという思いが体を動かしていた。
 そう、もし燃えているアレが船だとして、わざわざ専門的な道具を使ってまで破壊し、尚且つ得をするような連中……
 そんなもの、脱出を是としない主催の連中に決まっているじゃないか。

 甘かったというのか。わざわざ現場に人員を送り込んでくるような真似をしてこないと踏んだ俺が間違っていたのか。
 万が一送り込んだ人員が捕まれば対抗する手立てを見つけられるかもしれないのに?

 くそったれ……!
 走りながら、俺は悪態をつくしかなかった。

581乗りかけた……?:2009/02/28(土) 03:32:54 ID:gteZ9OEo0
【時間:2日目午後22時00分ごろ】
【場所:C-3・鎌石村工具店前】

タイタニック高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光二個)、コルトガバメント(装弾数:7/7)予備弾(5)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:爆発の元へ急行。船や飛行機などを探す。爆弾の材料も探す。主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(5/5、予備弾7発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。高槻に従って行動】

→B-10

582のこされたもの:2009/03/05(木) 23:16:32 ID:9452gkFI0
「ん……」

 目覚めるとそこは夕暮れの部屋だった。
 散乱する書類、何の目的に使うのかも分からないガラクタ、勢いだけで書かれた変な掟の数々。
 寝起きの頭で数秒ほど考え、ほどなくしてここが生徒会室なのだと思い至る。

 どうやら机にうつ伏せのまま眠っていたらしい。首は硬くなっていて、頬をなぞってみると制服の皺の跡が残っているのが分かる。
 自分の他には誰もなく、眩しいばかりの夕日が暖かな橙色を伴って自身の体と生徒会室を染め上げていた。

 綺麗だな、と思いつつ椅子から立ち上がり、夕日を差し込んでいる窓へと朝霧麻亜子は歩いていく。
 見下ろしたグラウンドもセピア調のトーンに揃えられていて、人気のない様子も手伝って物寂しいものを麻亜子に伝えた。
 いつもならまだ陸上部やらサッカー部やらが部活に勤しんでいるはずなのに。

 今日はどこも早く切り上げてしまったのだろうか、それとも自分が遅くまで眠りこけていたのだろうかと思って麻亜子は部屋の中に時計を探す。
 少し漁ると、書類の束に埋もれるようにしていたデジタルの時計が見つかった。
 あちゃ、と麻亜子は頭を掻く。時刻は六時を回っている。とっくに最終下校時間を過ぎているではないか。
 早く出なければ見回りをしている先生に見つかってお説教コースだ。もう手遅れかもしれないが。

 それにしてもどうして起こしに来てくれなかったのだろうと頬を膨らませる。
 最近のあの二人は仲も良さそうだったし、ひょっとしたら遊びにでも行ってしまったのかと想像する。
 自分を差し置いて楽しいこととは……いつか倍にして返してやろうと思いながら麻亜子は生徒会室を出る。
 扉を閉めようとしたとき、そういえば鍵は持っていただろうかと思ったが、すぐに「まあいいか」と気にせず、そのまま後にする。

 赤く染まる廊下に麻亜子ひとりの足音だけが続く。最終下校時間は過ぎているとはいえ、本当に静かで誰もいない。
 まるで世界に一人取り残されたような気分と、普段は騒がしいはずのこの場所が醸し出す、どこか静謐な、雰囲気の新鮮さを楽しむ気分。
 その両方を持ちながら、麻亜子はくるくると視線を動かす。いつもなら気にも留めないような景色にも目を配って。

 意外と清掃は行き届いている。
 うんうん、さーりゃんはそういうとこに気を配れる子だからねー。
 廊下の掲示板に張られている新聞やイベントに関するポスターもちゃんと節度を守った学生らしいものだ。
 うーん、ちと刺激が足りぬが、まぁさーりゃんらしいよね。これはこれでいい気分。

583のこされたもの:2009/03/05(木) 23:16:54 ID:9452gkFI0
 階段を下り、昇降口に出る。やはりというかなんというか、既に卒業してしまっている自分の下駄箱はもはや存在しない。
 つい数ヶ月前まで自分が使っていたそこには名前も知らない生徒の上履きが入っている。
 さて、自分はここに遊びにきているときどの空き下駄箱を使っていただろうかと思い起こそうとして、しかし思い出せなかった。
 今日立ち寄ったばかりなのに、もう忘れてしまっている己に失笑する。更年期障害にはまだまだ早いはずなのだが。

「……あはは、あたし、もういないんだよね、ここには」

 ここには何もない。自分の居場所は、どこにも。
 いつまで縋っているのだろう。自分を知るものはなく、残しているものもないここに何を求めているのだろう。
 一人で旅立つのが怖いから? 上手くやっていけるかなんて分からないから?
 いやきっと両方なのだろう。臆病で、昔にあったものしか信じられず、いつまでも居座ろうとする女。
 頭も良くなければへそ曲がりな体質で協調性、親和性にも欠ける。それが自分だ。

 知ってしまったからだ。落ちるかもしれない、そういうことがあると知って、羽を広げられなくなってしまったからだ。
 破天荒であったのは自分の居場所がまだあると錯覚するために過ぎず、明るく振る舞っていたのは現実を誤魔化すための手段に過ぎない。
 全て自分のためだ。友達のために行動していたのが本心だろうが偽りのものだろうが、結局は自分を安心させたいがため。
 利用していたとは思わない。貴明とささらは、いや新生徒会の面々は大好きで、いつまでもあり続ければいいと思っていた。

 だから……だから自分はあんなことをしてしまったのだろう。
 思い出す。麻亜子が行ってきた所業の数々を。
 人を殺したのも、騙したのも、裏切ったのも全部友達のため。つまりは自分のため。
 誰かを殺して友達のためになるのなら、殺している自分には居場所があると頑なに思い続けていただけだった。

 自分のしていることが友達にどう思われるかなど考えもせず、思考停止して居場所を得たかったがためにやっていたのに過ぎず……
 そうした時点でもう居場所なんてあるはずがなかった。
 自分の居場所は友達があってこそというのを忘れてしまっていた時点で、もう何もかもが失われていたのに。
 だからここには誰もいない。この学校には誰もいない。
 全員自分が追い出してしまったからだ。自業自得の一語が浮かび上がり、嘲笑だけを吐き出させた。

584のこされたもの:2009/03/05(木) 23:17:16 ID:9452gkFI0
「でも、今の先輩にはそれだけじゃないでしょう?」

 やさしい声が風に乗って運ばれ、麻亜子の耳へと届いた。
 昇降口の奥、廊下側から聞こえてきたのは河野貴明の声。振り向くと、そこには大きなダンボールを持ったままよろよろと歩く貴明がいた。
 どこかへと行く様子の貴明だったが、もう最終下校時間だとか、どうしてそんなものを持っているのか、そんな質問は浮かばなかった。
 さっぱりとして清々とした表情には、何の未練も感じられない、穏やかな雰囲気があった。

「俺達だって、いつまでも先輩に拘ってちゃいけませんしね」

 苦笑した貴明はそのまま奥へと進んで行く。それは明らかな別れだった。
 待って、とは言えなかった。引き止める資格はない。自分で追い払っておきながら、寂しくなったからなんて今さら過ぎる。
 仮に引き止めたところで、それは彼らを縛り付ける意味しかない。永遠に飛ぶ事を恐れる自分の我侭に付き合わせるだけでしかない。

 そもそも居場所を取り返そうというのが傲慢な発想だったのだ。
 そのために誰かの居場所を奪ったところで、取り戻せるわけなんてなかったのに。
 深い後悔が息苦しさとなり、胸を鋭い痛みとなって突き上げる。こうして苦しんで死んでいくしかないということか。
 永遠に苦しみ続け、憎悪を受け止めて。自分の居場所を求め続けた、これが結果なのなら……

「仕方ないな……先輩、俺の言ったことの意味をよく考えてくださいよ。それだけじゃない、って」
「今のまーりゃん先輩にしかないものがあるんです。……たとえそれが間違ったことの果てに見つけたのだとしても」

 遠くから振り向いた貴明の言葉に続けて、どうやら階下から降りてきたらしいささらの言葉が重なる。
 今の自分にしかないもの?
 自答してみて、だがそれは悲しみでしかないと答えようとしたが、本当にそれだけなのかと必死に思い出そうとしている自分もいた。

 思い出すべきなのだろうか。迷っているうちに陽が沈み、夕日の色は徐々に失われ、夜の帳に覆われていく。
 それと同時に、二人の姿もだんだんと夜の陰に埋もれていき、姿を隠そうとする。
 完全になくなってしまう前に結論を出さないといけないという思いが体を走り、開けることを躊躇っていた記憶の扉を押す。

「そうだ、あたしは、まだ……」

585のこされたもの:2009/03/05(木) 23:17:32 ID:9452gkFI0
 分かっていながら、それでも止められなかった自分に対して向けられた、「間違っている」という言葉。
 どんなに辛くてもその気があるのならやり直せると言って、手を差し伸べてくれたひとがいる。
 だがその道を本当に行くかは自分に委ねられた。強制ではなく、ただ選択肢だけを与えられていた。
 その手を取るかは、自分次第。

 麻亜子は暗くなりかけた風景の、橙と紺色が混ざり合い変わりゆく世界の中で静かに己の手を見つめた。
 血に染まった手であり、可能性を残した手。
 最後に残った太陽の光へと振り返り、麻亜子はそこにあるもの、この先にあるものの所在を確かめた。

 今の自分は自由だ。このまま夜を迎えるのも、朝日の昇る方向へ向かうのも、全てが委ねられている。
 楽になることはきっと、できない。いつまで経っても一度犯した間違いはリセットできない。どんなに後悔しているとしても。
 だがその先、歩いた先に何があるのかは不明瞭で誰にも分からない。そこにはどんな結末が待ち構えているのかも分からない。
 不幸か、絶望か、幸福なのか、希望なのか。言えるのは、そのどれもが在り得るということだ。

 けれども立ち止まったままではそのどれもを得ることは出来ない。
 皆が残していった欠片。想いの残滓を投げ出してしまう。

 そんなものは嫌だ。義務感からではなく、贖罪の念からでもなく、己の沸き立つ思いに従って麻亜子は太陽が完全に沈む様を眺めた。
 赦されるのかどうか、その資格があるのか……考えれば、普通はあるはずがないのだろう。
 だが儚くとも、ないわけではない。それに共に歩むひと達がいる。間違いを犯した者なりに掴めるものだってあるかもしれないから。

「行くよ、あたし。自分で考えて、自分で決めたことだから」

 見返した先、表情も見えなくなっていた二人の姿が揺らぎ、つい先程まで戦っていた二人の姿を代わりに浮かび上がらせた。
 夜になった世界を背にして、麻亜子は二人の元まで歩いていく。
 しっかりと、地に足をつけて――

     *     *     *

586のこされたもの:2009/03/05(木) 23:18:03 ID:9452gkFI0
 ぼんやりとした輪郭が映る。じっと無表情に、だが瞳の奥には心配を交えた色があった。
 あの子か……沈みゆく夕暮れの光景で見た、最後の人影と重ねて、麻亜子は微笑を浮かべた。

「起きた?」
「ああ、うん……夢を見てたみたい」

 どこかの民家にでも移動してきたのだろうか。
 視界は薄暗く、消えた蛍光灯と壁紙の白さ、無造作に置かれている家具の数々が、生活感よりもかえって不気味さを際立たせていた。
 窓から外を見れば先刻見ていたあの夕日の美しさはなく、茫漠としてどこまでも伸びるような闇が広がっている。
 これが自分の生きているところだという自覚を持ちながら、麻亜子はむくりと起き上がった。

 服はいつの間にか着替えさせられていたようで、今度は体操服のジャージ(上下)に、さらにその下は通常の体操服が着せられている。
 サイズも微妙に合ってなく、ジャージもぶかぶかな感があった。そして何より、デザインが地味だった。
 だっさいなぁと率直な感想を抱きながら、麻亜子は「何これ、こんなんじゃ萌えないなー」と言ってけらけらと笑った。

「動きやすそうな服がそれくらいしかなかった。サイズも合いそうなのがなかった……許して欲しい」

 すまなさそうな声の方を見れば、これまた彼女も剣道部の胴衣をきっちりと着こなしている。
 上下に黒を基調とした無骨なデザインと、少女らしい可憐な顔とがアンバランスにも感じられ、かえって不思議な魅力を出していた。
 くっそー、これだからおっぱいぼーん! は……

 胴衣の上からでもわかる大きな膨らみに若干の羨望を覚えつつ、麻亜子は普段の調子を取り戻してきていることに安堵する。
 或いは、体操服と剣道着という日常的かつ不恰好で可笑しな組み合わせがそうさせてくれたのかもしれない。
 こんな風に可笑しく笑えたのはここに来て以来初めてじゃないだろうか。その事実を噛み締めながら麻亜子は話を切り出す。

「あのさ……あたしは……」
「川澄舞」
「へ?」
「私の名前。初めて会う人と話すときは、まず自己紹介」

587のこされたもの:2009/03/05(木) 23:18:28 ID:9452gkFI0
 初めても何も、さっき戦っていたじゃないか。そんな言葉が浮かんだが、野暮だという思いですぐにかき消した。
 大体錯乱していて話もろくに聞こうとしていなかったのは自分だ。
 いかんいかん。こんなクールおっぱいぼいーんに手玉に取られててどうする。世界の美少女じゅうよんさいの名が折れるわ。

「うむ苦しゅうない。我輩は永遠の美少女ロリ、おっと(21)とは違うぞ。(21)とは違うのだよ(21)とは!
 ということでまーりゃんという者である。って、もう知ってるっけ? よしなに」
「よしなに」

 あ、クールにさらっと流した。
 表情を全く変えない舞にどことない敗北感と突っ込み人員の不足を嘆きながら、麻亜子はコホンと咳払いして仕切り直す。

「で、あたしは今どういう状況なのかな? さすがにあれから少しは時間、経ってると思うんだけどさ。
 あのやたらこわーい目つきのお兄さんもいないし、ね」

 目が覚めたと知ったなら、まずもう一人の連れを呼んでから改めて対話というのが考えられることだろう。
 まだ自分達は分かり合っていないことも多い。寧ろ拘束もせず、自由に動ける状況であるというのが(今さらながらに考えて)おかしい。
 逆に言えばそれほどまでに自分は感情をむき出しにして戦っていたということなのだろうが、それにしてもこの措置は緩いと思えた。
 それはともかく、もう一人の連れを呼ばない以上、この場にはいないと考えるのが自然だ。
 ならば何かしらの事件が起こったと考えるべきで、まずはそれを聞いておきたかった。

「往人はいまここにはいない。でもすぐに帰ってくる。まーりゃんは私がここに連れてきた。往人が戻ってくるまで、私が守るって約束したから」

 言葉から推測する限り、もう一人の連れ……往人というのがどこかに行ったのは確からしい。
 だが行き先を知らないということは、恐らくは正確な場所を告げずに出て行ったということだ。
 しかしそれよりも守るという言葉が麻亜子の心を打ち、内奥に強く反響させていた。

 約束したと言ったときに含まれていた強い口調から、その重要度は窺い知れる。
 けれどもなぜ、先程まで殺し合っていた相手にここまでするのか。確かに心情を吐露したとはいえ、何が舞を信じさせるのだろうか。
 そう、それを確かめるためにあたしは歩き始めたんだ。
 疑問を口に出そうとした麻亜子だが、その前に舞が話を続けた。

588のこされたもの:2009/03/05(木) 23:18:45 ID:9452gkFI0
「あなたはどうしたいの? 少し訂正するけど……私はあなたを守る。
 だけど、あなたがそうして欲しくないというのなら私は何もしない。押し付ける気はないから……」

 それは改めて突き出された選択肢だった。
 自由になった己が身への厳しい問い。夢の中で見た言葉の数々と同じ、覚悟を決める気持ちを問う選択肢だ。
 でも、もう決めちゃってるからね。自分で考えて、自分で決めたことなんだ。

「多分、あたしは君が思ってる以上の極悪人だよ。あたしのしてきたこと、知ってる?」
「知ってる」
「その上で、あたしと一緒に歩いてくれるの? そりゃ、赦されるだなんて全然思ってないけど……」
「けど、間違ったことを続けて、悲しみを撒き散らすこともしない」

 そのつもりなのだろう? と確信を含んだ目を向けられ、麻亜子は参ったなという感想を抱いた。
 もう向こう側は全て了解してくれているということか。決して赦せなくとも、それぞれのために、共に協力し合うパートナーとなることを。

「……罪を犯してきたのは、私だって同じだから。みんなを、貴明とささらを見殺しにしてしまったようなものだから」
「さーりゃんと、たかりゃんを……?」

 ぽつりと呟かれた舞の言葉に、麻亜子は思わずといった形で反応する。
 頷いた舞がひとつひとつ、これまでに起こったことを語っていく。
 疑心暗鬼の渦中にいながら誰も止められなかったこと、自分が楽になりたいがために己の命を絶とうとしていたこと……

「言い訳するつもりはない。でも、私は生きていくと決めた。
 死んでいなくなった人たちが救われるわけじゃないし、何より、私が生きたいって思ったから。
 それでどんなに辛い思いをするのだとしても」
「……そっか」

589のこされたもの:2009/03/05(木) 23:19:09 ID:9452gkFI0
 貴明とささらの結末。それを半ば見殺しにしたと自白した舞の言葉を聞いても、さほどの恨みは募らなかった。
 寧ろ羨ましくさえ思った。自分達の代わりに麻亜子を止めてくれ。そう言われるまでに信頼されていた舞の存在が。
 自分には出来ない。誰かを死後を託すことも、やってくれると信じきることも。

 同時に一抹の寂しさもあった。誰かを守り、託し、散っていった貴明の姿。
 それは自分が知っている、頼りなくて振り回されがちな少年の姿とはまるで違うものだったからだ。
 守りたかった友達は、既に自分の手に余るほど大きくなっていた……

 麻亜子は、夢の中の貴明の姿を思い返す。あの貴明も同じだった。さっぱりとしていい表情になった男の顔。
 己の中のしがらみ、これまで縛り付けていたものが緩む感触を味わいながら「あたしもそうだよ」と言葉を乗せた。

「生きたい、って思った。誰に言われるまでもなく、自分自身の気持ちで」

 無言で頷いた舞には、何の含みもない微笑だけがあった。しがらみの一つを洗い流した女の顔がそこにあった。
 胸の内がスッと軽くなる。その意味は分かりきってはいたが、すぐに理解したくはなかった。
 理解してしまうと自分らしくなくて気恥ずかしいものがあったからだった。
 代わりに麻亜子はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて舞へと抱きついた。

「ねぇねぇ、さっきさー、『私が生きたい』って言ってたけどさー、それって誰のためなのかなぁ?」
「……? まーりゃん、なに言って……か、顔、近い」
「まーなんというか、これはあたしの人生経験的による勘なんだけど、まいまい、ぶっちゃけ惚れてるっしょ往人ちんに」
「……!?」

 目をしばたかせた後、ぱくぱくと口を開閉させ顔を紅潮させる舞。
 分かりやすいなあと内心にやにやしながら麻亜子は舞の頬をぷにぷにと突く。
 ああ、やっぱ若人のほっぺたは最高やでウッシッシ。

「いやー、ビミョーに往人ちんのことを話すときに声が上ずってたからさー、胸のときめき☆を感じちゃってたのかねーとか思ってたんだけど。
 で、どーなのお嬢さん? 気にしてないことはないっしょ? ファイナルアンサー?」
「別に、私は……」
「あ、不自然に目を逸らした」
「……」
「だんまりモードかね。ならばゴッドハンドと呼ばれたまーりゃん様の指が火を吹くぞー! うりゃりゃりゃりゃさあ言えー!」
「〜〜〜〜〜〜!」

 何が起こってるかって? それはもう女の子のひ・み・つということで。
 こうして夜も更けていく……

590のこされたもの:2009/03/05(木) 23:19:42 ID:9452gkFI0
【時間:2日目午後21時00分頃】
【場所:F−3・民家】

川澄舞
【所持品:日本刀・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)
(武器・道具類一覧)Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン、投げナイフ(残:2本)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(2/7)、ボウガン(34/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:ささらサイズのスクール水着、芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。往人・舞に同行。パヤパヤ?いいえスキンシップです】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

→B-10

591十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:07:46 ID:I5wwcrkg0
 
白と黒と、そして紅とに彩られた、それは裸身である。

さら、と。
夜を焚き染めたような短髪が、風に靡いて涼やかに鳴る。

「忘れるものかよ―――」

言葉を紡いだ唇は紅を差したように鮮やかで、湛えた笑みの冷ややかさを際立たせている。

「ああ、忘れるものかよ。あの頃にみた、夢の色を」

白は、静謐。
原初の脈動を秘めながら煌めく冬の日輪の如き、それは女であった。

「私はまだ―――夢の中にいる」

来栖川綾香が、立っている。


***

592十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:08:28 ID:I5wwcrkg0
 
それが生きた獣であれば、傲と吼え猛る声も聞こえただろうか。
人を容易く磨り潰す石造りの牙の間からは音もなく、ただ夜の森に泥を湛えた真黒き穴のような口腔が、
綾香を威嚇するように開いている。

「私にはわからない」

裸身が跳ねる。
寸秒を以て加速の頂点に達した白い弾丸が、石造りの獣を撃つ。
両の拳による連打は一続きの音を生み、その音の余韻が消えるよりも早く次の波が来る。
躍動する左腕、堅い拳胼胝に覆われてなお優美と映る拳が引かれたときには既に右の腕、
黒く変生した鬼の拳が獣の鼻面へと突き込まれている。
嵐の如き連打にもしかし、獣の巨神像はこ揺るぎもしない。
煩げに首を揺すった、その動作一つで綾香に距離を取らせている。
陽光の下、古代の職工が丹精込めて鑿を振るい彫り上げたようなその身には、傷の一つも負っていない。

「なぜ誰もが、歩みを止めるのか」

たん、と。
音を立てて銀の湖の淵、巨神像の立ち並ぶ辺縁に素足を着いた綾香に、獣が反撃へと転じる。
襲い来るのは爪である。
自らの足元に立つ綾香を薙ぐ軌道。
迫る剛爪を横目で見た綾香が、長くしなやかな脚に力を込める。
飛び退いて躱すか。―――否。
踏み込んだ右の脚が、踵を支点として回転する。
捻りながら後傾していく上体と腕とが体躯全体を使った遠心力を生み、体幹の筋力がそれを精密に伝達する。
打ち出されるのは、閃光とすら映る一撃。
希代の身体感覚と天性の柔軟な筋肉とが作り上げた、精緻な美術―――左上段回し蹴り。
格闘家、来栖川綾香の抜き放った伝家の宝刀が、自らに数倍する巨腕を、正面から迎え撃った。
切り裂かれた風が、万雷の拍手の如く爆ぜ、散った。

593十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:08:55 ID:I5wwcrkg0
 
「なぜ自らが腐っていくのを、じっと眺めていられるのか」

びりびりと耳朶を震わせる爆音の余韻の中、綾香が駆ける。
質量と物理法則とを無視して弾いた巨獣の前肢は、しかし無傷である。
対する綾香もその疾走の最中、深紅の染料で刻印する裸足の足跡が、一歩ごとに薄くなっていく。
蹴りの衝撃で割れ裂けた足裏の傷が、見る間に癒えていくのだった。
仙命樹、祝福と呪詛とを等しく齎す不死の秘薬の効果である。

「何かを学んだと、何かを得たと、したり顔で膝を屈し」

天空を駆けるが如き跳躍から獣の牙を目掛けて打ち下ろされるのは踵。
撓めた身体から流れるように繰り出された綾香の脚が、落下の加速を得て剛断の鎌と化す。
弧を描く軌跡が速度の頂点で巨獣へと吸い込まれていく。
刹那、躍動する来栖川綾香の肉体に存在したのは、美という言葉の意味であった。
斬の一字をその義と銘に打たれた白刃の見る者の悉くを惑わし蕩かすが如き、魔性。
それは、人という種の持つ力の具現である。

「歳を経て磨り減って、朽ち果てたようなものたちに囲まれて、曖昧に笑いながら腐っていく」

中空、連撃の華が咲く。
朱く散るのは鮮血の飛沫。
限度を超えた酷使に爆ぜる血と肉と骨とが織り成す綾である。
弾け、千切れた肉体が、しかしその端から癒えていく。
打撃の生み出す風が周囲を満たす朱い霧を散らし、轟音は響き、衝撃が大気を震わせる。
嵐の如き連打に巨獣の頭部が徐々に押され、しかしその表面には依然として損傷が見えない。
拳と足と、全身を裂けた皮膚の桃色と鮮血の赤とで斑模様に染めながら地に降り立った綾香が、
しかし表情を変えることなく疾走を再開する。

594十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:09:25 ID:I5wwcrkg0
 
「なぜ安寧を許容する。なぜ鈍化を肯定する。なぜ敗北を容認する」

転瞬。
颶風の如き打撃にも耐えきるかと見えた巨獣が、大きく身を捩った。
一瞬遅れて、その頭上を閃くものがある。
蒼穹を闇に染める稲妻とでもいうべき、黒の光。
それは巨獣の隣に位置する神像、黒翼の像と対峙する水瀬名雪の放つ、黒雷である。
流れ弾か、或いは何か他の意図があったものか。
いずれ哂ったのは、来栖川綾香である。

「何にもなれず。何者でもなく、何物でもなく、何処にも辿り着けず」

その眼が見据えるのは、唯の一点。
どれほどの打撃にも殆ど身じろぎすらしなかった巨獣の像が、揺らいだ。
黒雷が掠めたのは、獣の背。
巨獣に跨る、小さな影。
あどけない、少女の神像である。

「なぜそれを、生と呼ぶ」

595十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:10:05 ID:I5wwcrkg0
駆けたのは、ほんの二歩。
それだけを助走として、綾香の身体が宙を舞う。
大地の軛から解き放たれたように、高く。

「ああ、ああ。こんなにも、末期の聲が満ちるなら。こんなにも、こんなにも誰もが、生きることを忘れているのなら。
 応えよう。伝えよう。この彼岸に蠢くすべてに」

高く、高く。巨獣を飛び越えるほどに、この殺戮の島を一望するほどに高く。
日輪に、艶と雅の舞うように。

「止まっていけ。腐っていけ。友であったものたち。かつて美しく在れた、愛すべきものたち」

蒼穹を裂いて流れる、それは一筋の星だった。
空を翔る来栖川綾香の、紡ぐ言葉は糾弾ではない。
それは、世界の内でほんの僅か、幾人かだけがそっと首肯する、永劫と久遠とに響き渡る凱歌。

「私は、私たちだけは、走るんだ。走っていけるんだ」

それは夢から醒めずにいられる来栖川綾香の、
ただ綺麗なものだけに満たされた空を目指して羽ばたく女の、
振り切るべき死者の群れの全部、打ち捨てるべき腐ったものたちの全部に向けた、

「―――ここじゃない、どこかへ」

訣別の、宣言だ。


***

596十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:10:29 ID:I5wwcrkg0
 
穿ち貫かれた少女の像がさらさらと、やがて巨獣の像が轟音と共に、崩れ、風に散っていく。
どこまでも高い蒼穹の下、崩壊と廃滅の中に、白と黒と、そして紅とに彩られて、女が一人、立っている。

来栖川綾香が、立っている。

597十一時五十一分/綺麗:2009/03/06(金) 01:10:52 ID:I5wwcrkg0
 
【時間:2日目 AM11:53】
【場所:F−5 神塚山山頂】

来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体13800体相当】
【アルルゥ・フィギュアヘッド:大破】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:損傷】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 ルートD-5

598メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:34:13 ID:Rd8zP9jw0
場を満たす空気に変化はない。
訴えるマルチの意図を、巳間良祐は理解できないでいた。
巳間は目の前の少女が溢した言葉の意味の解釈を、思いつくことができないでいた。
故に、巳間は縋るようなマルチの声を冷淡なで瞳で一瞥する。
脅しが効いていない、目の前のか弱い少女が想像していたよりもタフだったことに巳間は内心毒づいた。
一度、巳間はマルチから煮え湯を飲まされている。
その件もあり、巳間は油断は禁物だと自身に言い聞かせ、改めて気を引き締めようとする。
マルチが下手に出ているだけでこちらを隙を窺っているという可能性が、巳間の中では沸き上がっていた。
仕掛けれられた罠にかかる程無様なことはないと、巳間は慎重にマルチの出方を窺おうとする。

一方マルチは、自分の言葉に対し何のアクションも返して来ない巳間にどう接すればいいのか、ひたすら困っていた。
巳間の片手は、相変わらず彼のデイバッグに突っ込まれたままである。
いつ彼がその中から武器を取り出し、攻撃してくるか分からない。それはマルチの作られた心にも恐怖を生む。
思えば人を殺すことに躊躇のない人間相手に軽率な行動を取ってしまったと、マルチの中では今更ながらに後悔をしている部分もあった。

しかし、それでも彼が人間であることには他ならない。
マルチのような人工物ではない、生命が宿る存在だった。

だからこその行動でも、あったはずである。
メイドロボという「物」と人という「者」の間に生まれている差は、絶対だった。
その差を巳間が理解していないということを、マルチは想像だにしていなかったのである。

巳間良祐という男は、彼女、マルチを「HM−12型」というシリーズに値する試作機、「HMX−12型」であるロボットだと認識していなかった。
FARGOという閉鎖された施設の中に捕われた巳間は、現実の世界から隔離されている。
その空間は、巳間に流行という言葉を忘れさせた。
巳間は知らない。
メイドロボという名の一般家庭向け作業ロボットが、額は大きいものの庶民が触れ合うことができるレベルにまで浸透しているということを巳間は知らないのだ。
巳間はマルチの苦悩に気づいていない。
人とは違う、生物ではないという事実が与えているマルチの苦しみそのものが何なのか分からないでいた。

599メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:34:55 ID:Rd8zP9jw0
「自分」を知らない人間がいるなんてことを、マルチは思ってもいないのである。
根本的なところで、マルチと巳間は噛み合わないでいた。
マルチは気づかない。
そこにマルチは気づかないまま、ぎゅっと拳を握ると沈黙を守り反応を返して来ない巳間に対し、自分の身に起きた出来事を語り始めた。

マルチの独白は、彼女の感情論も中に入りなかなかに長いものになった。
その間巳間は、彼女の言葉に一切の口を挟むことなくただ静かに耳を傾けていた。
理由は簡単である。
マルチがいつ何かを仕掛けてくるかと身構え、緊張の糸を始終張っていたからだ。
だが話したいだけ話したところで、マルチは一息入れると巳間に意見を求めるように彼女もその小さな口を閉じる。
巳間の予想していた奇襲の気配は、一切なかった。

マルチは本当に、ただのお人よしであったということを巳間が理解した所で、特に何かが進展する訳ではない。
むしろ巳間自身は他人の身の上話などに興味ないのだから、彼からすればこのような余興は幾許かの時間を無駄にしたに過ぎなかった。

(……くだらない)

攻撃の意図が含まれない溜息を吐くというだけの巳間の仕草にも、マルチはびくっと首を竦める。
そんなものでさえ巳間を苛立たせるには充分な動作であることを、マルチも分かっていなかった。

「それで、何なんだ」
「え?」
「それがどうしたと、聞いてるんだ」

巳間の刺すような物言いに、マルチはただでさえ小さな肩をさらに縮こませる。
こうしてみれば本当にどこにでもいるか弱い少女に他ならないマルチの姿に、巳間は自分が何に恐れていたのかと馬鹿らしくなってきた。

「他人を、しかもここに着いてからの知人を信じた結果がそれだったというだけだ」
「で、でも皆さんそれまでは本当に仲が良かったんですっ」
「結果はもう出ている。何を言っても、そいつ等が殺し合ったことに変わりはない」

600メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:35:21 ID:Rd8zP9jw0
言い切る巳間に、マルチは泣きそうな形で顔を歪ませる。
しかし涙は零さず、マルチはぐっと我慢するように唇を引き締めると再び巳間に視線を合わせた。

「私には……私には何か、できたことがあったと思いますか?」
「それを今言って、何になる」
「わ、私はただ……」
「同じ言葉を繰り返させるな。だから、今更それを言って何になるんだと俺は言っている。
 起きてしまった事柄を置いたまま後悔を引き摺るだけというのは、何も進んでいないと同じことだ。違うと思うか?」

先ほどと打って変わって、巳間は饒舌になっている。
憎憎しげな言葉であるが、やっと成り立った会話を繋ごうとマルチは必死に言葉を探そうとした。
しかしマルチの演算能力では、巳間にうまい答えを返すことが出来ない。
どうするべきかと、あたふたと視線を彷徨わせるマルチの態度に巳間は苛立たしげに舌を打った。

そうして一端視線を外した巳間が次にマルチへと目を向けた時、そこには微かな色の違いが生まれていた。
場の空気が変わるが、それどころではないマルチは気づいていない
一つ小さな溜息をつくと、巳間は再び開いた。

「……お前は、死ぬ恐怖というものが分かるか?」

威圧の意味を含まない巳間の声をマルチが聞いたのは、これが初めてかもしれなかった。
驚きで目を見開いたマルチに対し、巳間は続ける。

「具体的にだ。今正に絶命するだろうという瞬間が、分かるか」
「え、えっと……」

この島で晒されることになる無数の命のことを考えれば、それは想像しない方がおかしいかもしれない。
しかし巳間が言いたいことがそのような「想像の域」ではないことが、マルチも分かったのだろう。
巳間は続ける。

601メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:35:40 ID:Rd8zP9jw0
「お前が俺に襲われた時のことなんて、目じゃない。今俺が、こうしてお前に……」

言葉と共に、巳間はデイバッグの中に入れていた手をそっと出した。
握られたベネリM3が視界に入り、ひっと喉を鳴らしたマルチの眉間に巳間は躊躇なく銃口を突きつけた。

「この状態より先だ。俺がトリガーを引く、その瞬間……それをお前は、どう感じる」
「……」
「俺は怖い」

巳間の告白に、マルチの唇が震える。
マルチに向けた銃の照準にずれはないものの、巳間の瞳にはどこか迷いが込められていた。

「不思議なんだ。ここに来てから、俺は焦りにばかり追い立てられている気がする。
 殺らなくては殺られる、そうしていないと落ち着かないくらいに不安定なんだ」
「えっと……」
「ゲームに乗るのを止めた途端、死神が現れる気がするんだ」
「え、はえ??」
「俺だってどうしてこんな気持ちになるのか分からないさ。
 だがそんな予感が尽きないんだ……死ぬわけ、にはいかないんだ」

生にしがみつこうとする姿勢は、誰がとってもおかしくないものである。
巳間だってそうだ。
死にたくないという一心で消えた罪悪感が、巳間に殺戮行為という残虐的な行為に対するモラルを吹き飛ばしている。
ただ巳間はそれが顕著に出てしまっているだけであり、あとは他の参加者が秘めているものと同じものを持っていた。

マルチはそんな巳間の持つ不安に対し、どう返せばよいのかやはり分からないでいた。
考える。何か最善策があるはずだと、マルチは必死に頭を働かせる。

(……しゃべりすぎたな)

602メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:36:20 ID:Rd8zP9jw0
あたふたと慌しい動作を繰り返すマルチを、巳間はそんな冷めた目で見つめていた。
つい感情を言葉に表してしまったが、それでも巳間はマルチに対し慈悲という感情を見出そうとはしていない。
巳間の手にしているベネリは、相変わらずマルチの眉間へと向かって伸びていた。

(愚かな奴だ)

トリガーにかけた指を少しでも動かせば、発砲された弾が少女の額を貫くだろう。
崩れた姿勢を正し、巳間は少女の命を奪う決意をした……しかし。
襲った違和感は、巳間が想像だにしないものだたった。

「……っ!」
「はう! 大丈夫ですかっ?!」

突然巳間に走り抜けた激痛は、右足の傷を拠点としていた。
……今は手当てされているものの、それまでの長時間放置してしまった結果であろう。
言うことを聞かない自身の足に、巳間の中で焦りが積もる。

「くそっ、どういうことだ!」
「あ、あの、乱暴に動かしちゃ駄目ですっ」
「触るな!」

自身に向かって伸ばされたマルチの手を、巳間は即座に払いのけた。
しかしそれで崩れたバランスは、巳間を側面に転がそうとする。

「危ないですっ」

横から精一杯という様子が一目で分かる、少女の体が巳間に押し付けられた。
巳間の体重を支えるように、非力な少女は必死な形相で巳間にしがみついている。
先ほどまで、銃を向けられていた相手に対してこれである。
必死になっているマルチの表情が目に入り、呆れが巳間の心中を満たしていく。
それは結果的に、彼の中の闘争本能を削ることになる。

603メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:36:40 ID:Rd8zP9jw0
「えっと、あの、私……考えました」

何とか左足に力を込め体勢を整えた巳間の落ち着いた様子を確認した上で、マルチは口を開いた。
至近距離にある巳間の目をしっかりと見据え、その状態で自分の中の結論をこのタイミングで告げる。

「私があなたを、お守りします。
 私はメイドロボですから、人様のお役に立つために存在しているのです」

一体マルチが何を伝えようとしているのか、読めない巳間はぽかんとマルチを見返すことしか出来ない。

「ですから、もう巳間さんが手を染めることはないんです」
「おい……」
「死神さんが来ても、私が巳間さんをお守りしますから……ですからっ!」

ベネリを握ったまま下ろしていた巳間の右手に、マルチの手が重ねられる。
機械である真実を語らせないその柔らかさが、巳間を包む。

「もう人を殺そうとするのを……止めていただけ、ないでしょうか」

訴えかけてくるマルチの瞳の色には、確かな意志が存在していた。
汚れを含まない純粋なそれに、巳間は困惑の色が隠せなかった。

「……お前に、何ができる」

ぽそっと。
長くもない沈黙を破った巳間が、眉間に皺を寄せ深いそうに言葉を放った。

604メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:37:01 ID:Rd8zP9jw0
「武器も何も持っていないお前が、俺を守るだと? 笑わせるな」
「はう……」
「殺し合いに乗った連中が押し寄せてきた時、お前は本当にそれに対処できるというのか。できないだろう」
「で、でもお守りします! 何が何でもします、私のできることでしたら、何でも……」
「だから、お前に何ができるのかを聞いている」
「はう〜」

弱々しげなマルチの言葉尻に、もう巳間は苛立ちを感じていなかった。
限界まで大きくなった疑問が、彼の胸中を占めていたからである。

「何で」
「は、はい!」
「何でそこまで、俺のためにしようとするんだ。……俺はお前達を襲った側なんだぞ」

そう。
巳間は、マルチ達を襲った人間だった。
そんな相手に対し、何故ここまで必死になれるかが巳間は不思議で仕方なかった。

「私は……誰かに必要とされないと意味のないものなんです」

過ぎる雄二の言葉、それを消し去ろうと少し頭を振った後マルチはまた話し出す。

「それがメイドロボなんです。
 今私は、メイドロボとしての自分の在り方に疑問を持ち始めました。でも。
 でも、それだけじゃ駄目なんです……それがいけないことかいいことなのか、今の私には判断ができません。
 だからせめて、いつもの私でいたいんです。本当に正しいのは何か、見極める間は」

605メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:38:27 ID:Rd8zP9jw0
雄二の前からマルチは逃げ出した。
あそこで狂ってしまった雄二を見放したマルチは、メイドロボという観点で見るならば許される存在ではないだろう。
それでもマルチは雄二を押さえつけることも、諭すこともできない。
メイドロボだからだ。

間違っている人間を救ってあげたいという気持ち、それをどこまで押し通して良いのかの判断がマルチにはできていない。
できない。
雄二の件で負ったマルチの傷は、彼女の感情プログラムにも如実に出てしまっている。

「私はメイドロボですから、人様のお役に立つために存在しているのです。
 お願いです……傍に、傍に置いてください」

マルチの呟きの意味。
その詳細は、やはりこの段階では巳間に伝わっていないだろう。
それでも彼が、再び銃をマルチに向けることは……なかった。

606メイドロボとして3:2009/03/17(火) 18:38:59 ID:Rd8zP9jw0
マルチ
【時間:2日目午前6時半過ぎ】
【場所:I−7・民家】
【所持品:救急箱・死神のノート・支給品一式】
【状態:巳間と対峙】

巳間良祐
【時間:2日目午前6時半過ぎ】
【場所:I−7・民家】
【所持品1:89式小銃 弾数数(22/22)と予備弾(30×2)・予備弾(30×2)・支給品一式x3(自身・草壁優季・ユンナ)】
【所持品2:スタングレネード(1/3)ベネリM3 残弾数(1/7)】
【状態:マルチと対峙・右足負傷(治療済み)】


(関連・934)(B−4ルート)


ホワイトデーすら終わってしまいましたが、バレンタインイラスト用意していました・・・。
ちょうどバレンタイン当時に散った、彼女の勇姿に捧げます。よろしければどうぞ。
ttp://www2.uploda.org/uporg2095774.zip.html
(パス:hakarowa3)

607十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:39:34 ID:Yql.FpJE0
 
あの街には、いつも静かに雪が降り積もっていた。
そんな気がする。

わかっている。
そんな筈はないのだ。
春が来れば雪は融けて消えてしまう。
夏に降った雨はやがてせせらぎとなって、秋に色付いた木々の葉を乗せて流れていく。
いくら冬が長くたって、ずっと雪景色が続いている筈がない。
そんなことはわかっている。

ただ私にとって冬はあまりに長く、あまりに無慈悲で、だから子供の見る悪夢のように、
いつまでも明けない夜のように、この心をひどく責め苛む。
来ないでと泣いても、季節は待ってくれない。
秋は終わり、冬が来る。
黄金の野原は枯れ果てて、銀世界の下に隠されてしまう。
だから私にとっての冬とは、世界の終わりを告げる鐘の音だ。

あの少年は、今年の夏も来なかった。
去年も、その前も、更にその前の年も来なかった。
きっと、来年も再来年も、ずっとずっと待っていたって、来やしない。
冬は、そんな風に嘲笑って私を掻き毟る、長く暗い季節だ。

私は、世界を護れなかった。

だけど、と。
小さな小さな、声がする。
それはいつか、思い出せない時間の中のいつか、私に囁いた声だ。
きっと私の奥底の、胸を切り開いて取り出さなければ触れないような、生温かい筋肉や
ずっと同じように動き続ける肺や心臓や、そういうものに囲まれた奥にできた小さな傷の、
ほんの少しづつ血の滲む綻びの中に棲んでいる、意地の悪い顔をした蟲の声だ。
私の身体が、私に聞こえないように囁きを交わすのを、わざと触れ回る声だ。
だけど、だから、それは私の、本当の声だ。
その声が、小さく小さく谺する。

―――だけど、私が本当に護れなかったのは、何だっけ?


***

608十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:39:52 ID:Yql.FpJE0
 
打撃とは、具現した力の収束である。
川澄舞の変生した黒腕が一撃の下に砕くのは、鋭く割れた石礫だった。
獣の筋力、人智を超越した力をもって加速する舞の疾走は、その相対速度において
漫然と飛ぶ石塊を恐るべき威力を秘めた凶器へと変えている。
掠れば肉を裂き骨を容易く砕くその石くれを端から砕きながら、舞が走る。

向かう先には砂塵が陣幕を張っている。
薄く黄色がかった靄の向こうには巨大な影が横たわっていた。
石造りの巨腕。
舞の眼前、聳え立つ二刀の巨神像からたった今削ぎ落とされた、それは片腕である。
飛び交う砂塵と石塊とは、その腕の落ちる際に撒き散らされたものであった。

靄を切り割るように駆け抜けた舞が、巨腕を踏み台にして跳ぶ。
一直線に神像へと跳躍するその手には退魔の白刃が握られている。
陽光を凝集したように輝く刃は、舞の身体を薄く包む白い体毛と相まって、蒼穹の下に煌く白い軌跡を描く。
迅雷の、定めに抗って天へと昇るかのような、それは光景であった。

無論、見下ろす神像とて、ただ黙って接近を許す筈もない。
片腕を落とされながら身を捩り、残る隻腕で舞を迎え撃つ姿勢。
叩き落すような縦一文字の剣閃が、舞の跳躍と軌道を交差させようと迫る。
質量差にして数千倍。
厳然たる物理法則を前に、しかし表情を変えぬ舞がそれを捻じ曲げんとするが如く、白刃に黒腕を添える。
激突は覚悟と天道との闘争であったか。しかしこの神塚山において幾度も争われ、その悉くが
天の定めし法を覆してきた闘争の、何度めかの激突はその寸前において回避された。

介入したのは黒き弾丸とも見える少女である。


***

609十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:40:06 ID:Yql.FpJE0
 
鬼。
柏木楓はそう名乗った。
名乗って、私をそう呼んだ。
それは、古い記憶を呼び覚ます。
ひとつの欠片は他の欠片と繋がって、堤防から溢れる奔流のように私を押し流していく。

思い出すのは昔のこと。
あの、雪の降りしきる街に辿り着くよりも、更に昔。
ずっとずっと幼い頃、私は確かに、そう呼ばれていた。
懐かしさはない。
そこにあるのは私を囲む、嘲笑と畏怖と、侮蔑の視線だ。
冷たい視線に囲まれて、いつしか私も冷えていく。
私の中で囁く声はきっと、そういうものの冷たさに誘われて目を覚ましたのだ。
―――鬼子、鬼子、と。
私を呼ぶ声の、底冷えするような悪感情に誘われて。

ああ、いや。
ひとつ、間違えた。
懐かしさは、確かにある。
その声に誘われて思い出す光景は、ひどく懐かしい。
吐き気がするほどに、懐かしい。

私を嘲る者たちの、お母さんに石を投げる者たちの、愛おしい、もう動かない、白く濁った、
溢れる涙で赤く汚れた、湯気を上げるような、冷たい、眼。
懐かしい、屍の山の、臭い。

護りたいと思った。
護れると思った。
私には、力があった。
容易く奇跡を起こすだけの力が。

奇跡は、人を救わない。
そんな、簡単なことだけを、幼い私は、知らなかった。


***

610十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:41:30 ID:Yql.FpJE0
 
天へと昇る迅雷。
振り下ろされる、裁きの鉄槌。
交差する筈の二者はしかし、ついに交わることはなかった。
瞬間、真横からの狙い澄ましたような打撃が振り下ろされる鉄槌、巨神像の刃へと叩き込まれ、
その軌道を僅かに逸らしていた。
川澄舞と隻腕の巨神像、その振るう刃の激突へと介入したのは少女である。
名を、柏木楓という。

逸らされた巨大な刃の巻き起こす豪風が全身の毛並みを激しく波打たせるのを感じながら、
舞が空を駆け上がる。
文字通りの瞬く間に迫るのは巨神像の頭部。
向こう気の強そうな青年を象った顔面である。
一刀が、閃いた。

雷鳴の如き音と共に、巨神の顔が罅割れる。
刻まれた太刀傷はその顎から右の瞼にかけてを深々と切り裂いていた。
それが人であれば、絶叫と苦悶に身を捩っただろう。
致命傷となっていたかも知れぬ。
しかし舞が斬ってのけたものは、人ではない。
石造りの像である。
身を捩ることも、苦悶に声を漏らすことも、なかった。
代わりに繰り出したのは眼前、自らに傷を与えた存在への、反撃であった。

視界に影が落ちる。
斬撃直後の無防備な一瞬、舞を直撃したのはその身に数十倍する巨大な石像の、膨大な質量である。
脇を締め顎を引き、首と腕とで保持される槍の穂先は肩口。
ショルダーチャージ。人が獣であった昔より培われた、原初の突撃。
その衝撃は見上げる程の建物が雪崩を打って倒壊してくるに等しい。
瞬間、砂粒を磨り砕くが如き擦過音が舞を貫いていた。


***

611十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:41:45 ID:Yql.FpJE0
 
それは簡単なことだった。
お母さんの命を救ったように、私は奇跡を起こしてみせた。
私とお母さんとに、汚い言葉や、薄汚れたゴミや、そういうものを投げつける者たちが、
ほんの少し不幸になればいいと願う、その程度の奇跡。

果たして不幸は訪れた。
ほんの少しの不幸で人は死ぬ。
高い高い積み木の塔の、一番下のひとつを引き抜くような、ほんの少しの不幸。
音を立てて崩れていくそれは奇跡のように滑稽で、奇跡のように味気ない光景だった。

だから私はそれに何の感情も覚えずに、ただ当然のことをしたのだと、散らかした玩具を
元の箱に片付けるような、そんな少し面倒で、だけど当たり前のことをしたのだと、思っていた。
私だけが、そう思っていた。

投げつけられる石や罵り声や、そういうものは、それまでよりも増えていった。
代わりに減ったのは、笑顔だった。
何よりも大切だった、何よりも護りたかった、お母さんの笑顔。

それが消えてしまうまでは、本当に早かった。
今も忘れない。
割れた窓硝子の隙間から吹き込む風に震えながら、電気もつけずにほつれた髪を梳いていた、
冬の朝の水溜りに張った氷のように薄い微笑みが、私の見たお母さんの、最後の笑顔だった。

それきりもう、お母さんは笑わなくなった。
怒ることも、泣くことも、言葉を発することさえ、なくなった。
母は今も、生きている。
私が病から命を助けた母は今も生きていて、だけどお母さんはもう、どこにもいない。

もう、なくなってしまった。
私が、護れなかったばっかりに。

私のなくした、それが最初の、たいせつなもの。


***

612十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:41:59 ID:Yql.FpJE0
 
けく、と。
ひとつ咳き込んで折れた歯を吐き出す。
ぼたりぼたりと汗に混じって落ちる血は、どこの傷から流れてきたものか。
黒く染まった左の手で梳けば、慣れぬ爪の鋭さに切れた髪がはらはらと舞う。
風に散る一房の髪は白く、斑模様に赤黒い。

川澄舞は生きていた。
人を容易く挽肉に変える一撃から彼女を守ったのは、儚く舞い散るその白い毛並みである。
恐るべき打撃の、また文字通りの刹那を以て叩きつけられた落地の一瞬、本能的に身を丸めた舞の全身を
白銀の体毛が包み込んでいた。
森の王の名を冠する凶獣の身を覆っていた絶対の加護。
舞自身も由来を知らぬその力が日輪の下、彼女の命を繋ぎ止めていた。

見上げた空には刃がある。
足を止めた舞を屠るのに絶好の位置取り。
だが、いまや一振りとなったその刀を繰る神像はその切っ先を舞へと向けようとはしない。
隻腕の神像がそれでもなお美しい軌跡を描いて振るう刃が狙うのは、黒髪の少女である。
柏木楓。
中空に透き通る足場でもあるかのように身を捻り、回転し、自在の跳躍で刃を躱すその身のこなしは
奇と怪の二文字を以て形容される。
それは既に、人の成し得る動きではない。
揺らめく陽炎の、容となって道行きを惑わすような、妖の領域。
古来、鬼は帰なりという。帰、即ち人の魂である。
果たして鬼を名乗る少女の姿は妖しく揺れる魂にも似て、その幽玄を以て万象を侵さんとするように、
時折閃く紅の爪が神像に癒えぬ傷を刻んでいく。

見上げる舞の、何かを求めるように伸ばした手は黒く分厚く罅割れて、握り、開いたその中には何も残らず、
しかしその向こうには、神の形代と刃を交える少女がいた。
遠い空だ。
手を伸ばせば届くほどに、遠い。

身の内に流れる血と肉とは、獣の臭いに満ちている。
餓え渇き、牙を向いて涎を垂らす獣の臭いだ。
劫と吼えれば、大気が恐れをなすように震え上がった。

それは力。
見失った何かに手を伸ばすための、どこかに置き忘れてきた何かを補うための、力だった。
獣と鬼とをその身に秘めて、少女が静かに力を溜める。

空を見つめる瞳には、ただ星だけが瞬いている。
日輪の下、星が、流れた。
果てしない攻防の末、遂に柏木楓を捉えた巨刀が真一文字に振り抜かれていた。

転瞬、力が弾けた。
解放。悦楽にも近い感覚と同時、全身の筋繊維が咆哮を上げる。
加速は刹那。

隻腕の神像が一刀を振り抜いた、それは攻と防の狭間。
零に等しい、空白である。


***

613十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:42:09 ID:Yql.FpJE0
 
私の中にぽっかりと開いた大きな穴に詰め込まれたのは、透明でふわふわした、
軽くていがらっぽい何かだった。
それが悲しいという感情だと気付くまでに、何年かかっただろう。
そんなことを教えてくれる人は誰もいなくて、だから私は名前をつけることもできない感情に
かりかりと胸の中を掻き毟られながら生きてきた。
流れ着いた北の街の片隅の、黄金の野原で過ごした、あの夏の日まで。

それが本当に大切なものだったのか、今ではもうよく思い出せない。
もしかしたら、私は単に同情で差し伸べられた手を唯一無二のものだと錯覚しているだけなのかもしれない。
だとしても、構わなかった。
何も持たず、ただ身体の内側から血を流し続けるだけの日々を過ごしていた私にとって、
それは確かに、救いの手だったのだから。

私は、何かに縋りたかった。
それを恥じる気は、ない。


***

614十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:42:19 ID:Yql.FpJE0
 
白の少女が大気を切り裂いて空へと駆ける。
風に棚引く毛並みが手にした白刃の煌きを隠すように日輪を映して輝いた。
一刀を振りきった隻腕の神像はその無防備な懐を晒している。
柏木楓の爪に抉られた傷が幾重にも重なり罅割れたその上体へと飛ぶ舞を遮るものは何もない。
返す刃は到底間に合わぬ。
銀の弧が、閃いた。

巨砲から放たれた弾の炸裂したように、隻腕の神像が爆ぜた。
無数の石礫が落ちるのは神像が背を向ける銀の平原。
ぐらりと、巨大な像がその質量を保持できずに揺らぐ。
胸の下から右の脇腹にかけてが、失われている。
残った一刀を大地に突いて身を支えた、そこへ奔る影がある。

蒼穹の下、朱い三日月が昇った。
伸びきった隻腕を、その肘から断ち切ったのは柏木楓の爪である。
己が刻んだ幾多の傷を結びつけて一文字の線と成すように、刃が疾っていた。
ずるり、と断ち割れた石腕が凄まじい轟音と土埃を立てながら地に落ちる。
苦痛も苦悶も感じぬ石像が、しかし遂にはこの間髪を入れぬ波状の斬撃に屈するように、傾いだ。

皹が拡がり、割れ砕け、石くれが雨のように降り注ぐ。
その中心では赤黒い泉が水面を揺らし、幾つもの波紋を浮かべている。
鮮血である。無論、石造りの神像から流れ出る筈もない。
巨腕より僅かに遅れて大地に降り立った、柏木楓の全身から流れ出したものである。
傷は先刻、神像の一刀に捉えられた折のものであったか。
辛うじてその肢体を隠す襤褸の下には、ぐずぐずと泡を立てる桃色の肉が見える。
鬼の血が砕かれた骨を繋ぎ、爆ぜた肉と裂けた皮とを癒そうとしていた。

人ならぬ鬼の少女を射抜くのは獣の瞳。
川澄舞が、疾走を開始する。
頷いて、柏木楓が走り出す。
血は流れている。千切れた肉は風に晒されて無惨を誇示している。
しかし、足は止まらない。

楓は知らぬ。
川澄舞が、その振るう白刃が柏木耕一を討ったのだと、柏木楓は知らぬ。
黒く染まって鬼へと変じた舞の手が、如何なる数奇を経てそこへ至ったものか、少女は知らぬ。
楓が仇を知ることは、終になかった。

白と黒の少女が、同時に地を蹴った。


***

615十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:42:32 ID:Yql.FpJE0
  
大切なものは、金色に輝く何かでできている。
それはとても綺麗で、ひどく貴くて、だからいつも誰かがそれを掠め取ろうと狙っている。

私は大切なものを護ろうとして、ずっと近くでそれを見ていようと、決して離すまいとして、
そういう気持ちはきっと誰にとっても重荷で、だけど私にはそういうやり方しかできなくて。
結局また何もかもをなくしてしまうとしても、そうしていくより他に、生き方を知らなかった。

分かっている。
あの少年は、もう来ない。

あの黄金に輝く夏の日はもうやって来ない。
私は彼に私の全部を預けるように縋りつき、彼はそんな私から遠ざかるように、どこかへ行ってしまった。
それはもう終わったことで、全部が過去の出来事で、私はお母さんをなくしたように、
彼もまたなくしたという、ただそれだけのことだった。

ああ。
それはただ、それだけのことだ。
取り返しのつかない過去であるという、それだけのことだった。

何かが喪われたのは過去の出来事で。
過去は取り返しがつかなくて。
だから、なくしたものは取り返しがつかない。
永遠に。

―――それが、何だというのだ。

それでも決めたのだ。
抗うと。
認めず、抗い、勝利すると。

あり得べからざる喪失を内包する現実に。
確固として存在するという、ただそれだけのものでしかない、薄弱な過去に。
頑迷に幸福を拒む、あらゆる世の理に。

護れなかったすべてを、喪われたすべてを、それでもこの手に取り戻すのだと。
川澄舞が、そう決めたのだ。

それが、この世を形作るルールの、全部だ。


***

616十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:42:57 ID:Yql.FpJE0
 
神像に最早、力はない。
両の腕を落とされ、脇を大きく抉られて、己が膨大な質量を支えることもできず、
成す術もなく傾いでいく神像に、終わりの時が訪れる。
終焉を告げる使者は地を駆ける少女の姿で現れた。

川澄舞が、跳ぶ。
その手には退魔の一刀。
柏木楓が、迫る。
紅爪が大気を裂いて、小さな音を立てた。

両者の軌跡が瞬く間に近づいていく。
十字を描く、その交差点で。
二振りの刃が、閃いた。

小さな足音が二つ降り立った直後。
二刀使いの神像であったものの首が大地に落ちて、砕けた。


***

617十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:43:24 ID:Yql.FpJE0
 
思い出す。
鬼と呼ばれていた頃の力を。
あの、今はもうない、やがて取り戻されるべき黄金の野原に置いてきた力のことを。

魔物。

口をついて出た言葉は形となり、今もまだあの場所に揺蕩い続けている。
力は刃だ。
理を切り伏せ、この手にあるべきすべてを取り戻すための、私の刃だ。

今、認めよう。
今、赦そう。

あれは、嘘だ。
彼をなくすことを恐れていた私の愚かさが作り出した、妄言だ。

魔物など存在しない。
黄金の野原はなくなってしまった。
彼の帰ってくる場所は、もうどこにもない。

それを私は認めよう。
認め、捻じ伏せよう。
それがどうした、と。

川澄舞は取り戻すのだ。
喪われたすべてを。
喪われゆくすべてを。

なくすことを恐れる理由など、もうどこにもない。

迎えに行こう。
私の力を。
理を蹂躙する刃を。


 ―――ここで待ってる。夢から覚めたあなたが、いつかあたしに会いに来てくれる日を。


そう呟いて微笑んだ、あの少女の世界。
かつて私が護れなかった、黄金の麦畑に。

618十一時五十三分/変:2009/03/20(金) 16:43:34 ID:Yql.FpJE0
 

【時間:2日目 AM11:54】
【場所:F−5 神塚山山頂】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体12400体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【オボロ・フィギュアヘッド:大破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 1047 ルートD-5

619Trust you:2009/03/23(月) 01:32:33 ID:cw9JXZvc0
 災い転じて福と成す。水瀬名雪が山を降りたとき、思ったのはその諺だった。
 レーダーを失っていたお陰で思ったように人は見つからず、また雨が続いているせいで足は鈍り、下山するのに手間取った。
 しかも降りたとタイミングを合わせるかのように山中から銃声が連続して木霊し、しばらくの間続いた後に鳴り止んだ。

 恐らくは戦闘が起こり、そして決着したのだろうと名雪は考え、同時に間に合わないという確信を抱いた。
 あそこから音が聞こえたということは、自分が見つけることは可能だったはず。すれ違っていたかもしれない。
 だとするならば好機を逃したというわけだ。何人か死んだというのは予想したものの、最悪一人は生きている。
 だが過ぎたことは仕方がないと思考をすっぱりと切り替え、山の麓、平瀬村に降り立ち、散策を開始する。

 以前名雪は平瀬村に留まっていたことはあったが主に移動していたのは西部から北部にかけての範囲で、東部や南部は来たことさえない。
 同じ村にいながら未知の風景である。さてどこから調べるかと周りを見回していると目の前を真っ直ぐに疾走する二人組の女がいた。
 さっと塀の陰に隠れて動向を窺ってみたが余程急いでいるらしく、わき目も振らずにどこかへと走っていく。
 目的など知りようもない名雪だが、これは好機であった。前しか見えていないというのは、同時に視野が狭いということ。
 すなわち、尾行するにおいて格好の標的であるということだ。災い転じて福と成す。名雪は静かに追跡を開始した。

     *     *     *

 昔から、自分は誰も憎みきることが出来なかった。

 母親からその存在を抹消され、『遠野みちる』としてでしか生きられなくなったとき。
 『みちる』がいなくなってしまったと分かったとき。
 自分が誰かを犠牲にして生きているとき。

 奪った者に対して、無力な自分にさえ悲しい以上の感慨を抱かない。
 優しいといえば、そうなのかもしれない。

 けれどもそれは表層に過ぎず、その実何もかもを諦め、自分では何も変えられないと思っているだけだ。
 実際、自分に何が出来る? 人に合わせることしか出来ず、従っていさえすれば上手くいっていた。
 自分でやろうとすれば寧ろ失敗していた。

 母を説得しようとしたときもしかり、渚を慰めようと考えたときもしかり。
 母に言葉は届かず、渚には却ってこちらのわだかまりを自覚させられる始末だった。

620Trust you:2009/03/23(月) 01:32:57 ID:cw9JXZvc0
 自分で為せることなど何も有りはしない。料理が出来るのだって、勉強が出来るのだって人がそれを求めたから。
 己の意思なんてひとつもありはしない。所詮は求められたものに合わせて動く操り人形なのだ。
 それでも良かった。それで、誰かの充足を得られるのなら……

 ルーシーに合わせたのもそれが理由だ。復讐を果たし、少しでも彼女のためになるなら反対なんてしなくていい。
 間違っているなんて言える説得力なんて持ち合わせていない。
 歪みだらけで、人なんて言えるべくもない自分がどんな言葉をかけられる?
 たとえこの思いが諦めきった結果だとしても、そうすることしかできないのが遠野美凪という人形なのだから。

 しかし一方で、それでいいのかと疑問の声を持ち続けている小さな存在が根付いていた。
 『みちる』と最後の対話を交わしたときから熱を放ち続け、今も尚溶かそうとしているなにか。
 飛べない翼にも意味はあると言ったそれが求められるがままの人形の糸を断ち切ろうとしている。
 自分の足で歩いてきたじゃないかと、搦めとった糸を解こうとしている。

 この思いこそが己の『意思』なのだと、そう言っている。
 昔とは違う、様々なものを乗り越えてきた自分なら今度こそ……
 人形でいることを肯定し、諦めている『遠野みちる』と、
 ここまで生きてきた己は何だと激しく言い寄る『遠野美凪』とが交錯し、争っている。


 どうせ今度だって何も出来ないんです。無力なのを自覚しているなら、その上で誰かに従って、少しでも役立つ努力をすべきです。
 確かにこれまではそうしていれば良かった。無力だったのも認めます。ですが、それは分かろうとする意思さえなかったから。

 そんなもの、いつまで経っても持てるはずがないです。
 いや、そんなわけがありません。でなければあのひとたちの死、あの犠牲は全く意味のないものだった。そういうことになります。

 ……その程度の人間だということです。私は、道具でもいい、誰かに使われればいい。
 ……では、使われた結果、間違ったことになって、それでいいのですか? いいわけがない。

621Trust you:2009/03/23(月) 01:33:23 ID:cw9JXZvc0
 間違っているかどうかなんて私に決める権利はありません。正しいかどうかは私を使う人が決めることでしょう?
 ただの思考停止です、それは。自分が責任を負いたくなくて逃げただけ。結局は保身でしかない。

 ――それに。
 ――どうせ人のためじゃない、自分のために何かするのなら逃げるより立ち向かう方がいい。そうは思わないのですか?


 そう。
 なんだかんだ言っても自分は自分のことしか考えられない。
 心の安寧を得られるなら人に依存し、その結果人が不幸になってさえ見過ごす。己の本質はそうなのだろう。
 いくら経験を積み重ねようと変わらない部分でしかないのかもしれない。

 だがどうせ人に縋るのなら心の一切を吐き出し、負い目も感じないくらい堂々としていればいいのではないだろうか。
 人のためだなんだともっともらしい理由などつけず、自分がそうしたいから、それが望みなのだからと言い切ってやるのもいい。
 それでぶつかり合い、傷つけあうことになろうとも望んだのは自分。責任は自分にしかないし、それで終わりにするかどうかも自分。

 誰にも責任を押し付けない、ある種我侭で孤独な生き方。
 ただ責任の代わりに、喜怒哀楽を分かち合うことが出来る。
 負の部分ではなく、共有して喜び合えるものを分け合う進み方だ。
 出来るかどうか、そうする資格があるのかなんてどうでもいい。望むだけでそれができる。
 これもまた、『諦めきった結果』なのだから。

 ひとつ、諦めの悪いものがあるとするなら……依存の対象たる友を失うことなのだろう。
 いなくなってしまった『みちる』、現在も隣にいるルーシー、離れてしまった渚。
 自分には全員が必要だ。自分を満足させるために必要としている。しかしそれが悪いことでは、決してないはずだ。
 語り合えば可能性は無ではない。要は、やるかどうかだ。

622Trust you:2009/03/23(月) 01:33:51 ID:cw9JXZvc0
 今の私なら、やれる……
 そう断じて美凪は横を走るルーシーへと目をやった。
 空白の瞳、復讐を見据えながらもその先は全く見えていない瞳がある。
 純粋といって差し支えなく、迷いだといえばそれも否定は出来ないものがある。
 分からない未来に対して途方に暮れ、立ち尽くすことも恐れている女の子の顔が映っていた。

「くそ、消えてしまったか……どこが出火していたのか分からん」

 雨に濡れ始めた髪をかき上げ、天を仰ぎながら苛立たしげに漏らす。
 明るい方向を目指して走ってきたはいいものの、次第に見えなくなり始めついには見失ってしまっていた。
 周囲には森と点在する民家、申し訳程度に整備された道があるだけで街灯もなく、暗闇に閉ざされたゴーストタウンといった様子だ。
 昼間の間はまるで気にならなかったのに、夜になった途端一寸先が闇という状態。

 だからこそ自分はまた諦めたのかもしれない。見えない闇ばかりを追うのも諦めた情けない人間になってしまった。
 でも諦めたからこそ見えたものだってある。考え方ひとつで得られるものだって自分達は持っている。

「……もう、よしましょう。るーさん」

 思ったよりあっけらかんとした、澄んだ声が出ていた。
 闇だけしか見ていなかったルーシーの目が外され、美凪へと向けられた。
 その色は呆然として、思ってもみなかった言葉に戸惑っているようだった。

 私だって信じられないです、と美凪は内心に困ったように苦笑した。
 何も考えてこなったツケを支払っているだけなのかもしれない。遅きに失した。
 こんなことをしなくてもよかったはずなのに。あの時言葉が出ていれば、もっと早くに『諦めて』いれば良かったのに。
 本当に自分は馬鹿げている。そう思いながら美凪は立ち尽くしたルーシーに言葉を向けた。

「戻りましょう。もう、いいんです、もう……」

 すぐに反論の言葉が返ってくるかと思った美凪だが、ルーシーはただ顔を俯け、ウージーを所在無く握り締めていた。
 裏切られたとも、理解できないとも言えない、どうしてという疑問だけがルーシーから出てきた。

623Trust you:2009/03/23(月) 01:34:14 ID:cw9JXZvc0
「どうしてだ……? ずっと、そうだったのか……?」

 ルーシーの指す『そうだった』というものの中身は分からない。美凪は首を縦にも横にも振らなかった。
 美凪の手がルーシーの肩に置かれる。
 自分の中にある真実。それだけを伝えようと口を開く。

「済みません、本当に……でも、私達はまだ戻れます。……もっと、早く言い出せば良かったというのも分かってます。
 今さらだってことも。また手を返したってことも分かってます。……恥を忍んで言います。戻りましょう、るーさん」

 後悔と羞恥とがない交ぜになり、いっそ死ねばいいと思えるくらいの苦渋が口の中に広がる。
 けれども目は背けない。いや、もう背けられない。ここが崖っぷちの腹切り場なのだから。
 ここで友達を失ってしまうかもしれない、と美凪は思う。それだけのことをしようとしている。

 だが、構うものか。やるだけやって嫌われてしまえばいい。
 自分が依存しているという事実、それは嫌われ、絶交されようがこの先も変わりないはずなのだから。
 そのまま分かたれて終わりになってしまうかどうかも自分次第。終わりなんて終わってみなければ分からない。
 終焉の果てに満足出来れば十分だ。その時間が、ほんの一瞬のものだとしても。

「だけど……だけど! あいつは許せない! そうだろう!?」

 悲鳴にも近いルーシーの声が弾かれるようにして飛び出した。
 口元は引き攣り、澱みを含んだ瞳が見える。美凪は体を強張らせながらも、その瞳が揺れているのを見逃さなかった。
 復讐心に駆られる己を認めつつも、自分ではどうしようもないと知っている目だ。
 同時にそれは諦めきって、尚助けを求めているようなものにも思えた。
 自分だって許せるわけがない。許したくもない。

624Trust you:2009/03/23(月) 01:34:41 ID:cw9JXZvc0
「……彼女は、目の前にいるわけじゃありません。見失ってしまったのならもう探すこともないと思います。
 それともるーさん、そこまでして成し遂げたいものなんですか? それだけの価値があるのでしょうか。
 もっと価値のある、やるべきこと……それは、私もるーさんも分かっているんじゃないですか?」
「そんなこと分かっている! でも分かっているからなぎーは『殺そう』って言ってくれたんじゃないのか!?
 なんで今さらこんなことを言い出すんだ! 遅い、遅すぎるんだ……! なぎーの決意はそんなものなのか!」
「全くです。遅いだなんて、そんなものじゃない、どうしようもない馬鹿だってのは分かっています。
 でもお願いします、恥を忍んで言います。土下座だってなんだってします。だから、戻りましょう。ここから」

 恥も外聞もない、ただ止めようと言い続ける美凪の姿を捉え続けていたルーシーの鉄面皮が割れ、
 ルーシーという人間を現す苦悩の形へと変わる。馬鹿だ、と罵る声が聞こえた。

「認めない、こんなの認めたくない……! 大体戻ってどうなる。私達が変われるものか……あいつらは変わって、前へ進んでいる。
 でも私達は違う、そこまで立派になんかなれない。だから一緒になんかいられないんだぞ、分かってるだろ?」

 その通りだと美凪は内心に肯定しながらも、しかし「変われることと分かり合うことは違います」と首を横に振った。
 誰もが渚になりきれるわけがない。現に変わることを諦めてしまった自分という存在がここにある。
 変わったとして、自分は、自分達はここまでだ。遥かな高みには到底辿り着けない、屑鉄に沸いた錆のようなものでしかない。

 けれども変わったひとと変われないひとが分かり合えないはずはない。
 道は険しく、隔たりはあまりにも広すぎるが、人間なら出来ないはずはない。目を背けさえしなければ。
 飛んでいけないなら翼を作る方法はあるのだし、地道に歩いてもいい。そうする力も私達にはある。

 微笑した美凪の顔を見たルーシーは一言、「いつからだ……?」と弱々しげに吐いた。
 どうにもならないと悟ったのではなく、全身の力が抜け切って弛緩したかのような弱さだった。

「……恐らくは、るーさんと会う、少し前からです。あのときからずっと、答えは見えていたはずなんです。
 でも変われないのが分かって、ダメだと思い込むようになって……いつの間にか、目を向けようともしなくなった」
「自縛霊、か」

 薄く笑って、ルーシーは呟いた。

625Trust you:2009/03/23(月) 01:35:10 ID:cw9JXZvc0
「じゃあ、あのとき私に言ってくれた言葉は……なんだったんだ。なんで、『殺そう』なんて」
「……自分の、ためです。信じている人の言う事さえ聞いておけば自分が楽になれると思ったから。最低、ですね……」
「どうせ自分が楽になれるなら、私に誰かと分かり合って欲しいと、そう願ったから手のひらを返したのか」
「その通り、です」

 認めるたびに心が痛み、ルーシーと離れていくのを感じながらも美凪は黙ろうとはしなかった。
 たとえ己のためにという打算があるのだとしても、ルーシーは友達だ。巡り会えた大切な友人なのだ。

 しかし、これで自分は完全に嫌われただろう。所業の一切を吐き出したところで許されるわけなどない。
 懺悔以下の見苦しい独白だ。その自覚は十分にあった。
 だが続けなければならない。断固として自分勝手を貫き通さなくてはならない。
 屑鉄に沸いた錆、価値の無い人間だとしても、私は……

「渚は許せるのか。これまでしてきたこと、がんじがらめにされてきたことにどうにか出来ると思っているのか」
「すぐにどうにかできるとは思ってません。ケンカの一回だってあるかもしれません。
 だけど本当の『楽』を、豊かさを手に入れられるかもしれないなら、目を背けるわけにはいかない。
 そう、思ったまでです」

 敢えて辛辣な言葉を持ち出してきたルーシーに、美凪は包み隠さず己のエゴの在り処を伝えた。
 どこにでもいる怠惰で愚かな人間の姿には相違ない。
 けれども嘘を嘘で塗り潰し、現実に対処するためと割り切って『楽』や『豊かさ』を見失ってしまうのは辛いだけだ。

 それに狭い範囲でしか人は分かり合えないというのは、あまりにも寂し過ぎることではないのか。
 自分とルーシーだって、元を辿れば出会うはずのない他人で、今は境遇を同じくしているだけで思想や理念はまるで違う。
 分かり合えないというのなら、ルーシーとだって分かり合えなかったはずなのに。

「なぎーが踏み出そうとしているのは、先の見えない不確かな道だ。
 何があるかも分からない、ただ突き落とされるだけの道なのかもしれない。
 なぎーの今が『楽じゃない』としても、このままの方が『よりマシな不幸』かもしれない」

 自分で決めた事です。誰に流されるでもない、強制されたのでもない、自分で選んだ道。
 もう一度それを伝えようと、傲慢な意思を伝えようと美凪が口を開いたとき「だから」と続ける声が聞こえた。

626Trust you:2009/03/23(月) 01:35:51 ID:cw9JXZvc0
 ぎょっとして今一度観察してみると、澱みを振り払ったルーシーの目が苦笑の色を帯びていた。
 自分と同じ諦め切った、だがやれるだけやってみようという何も恐れぬ諦めが浮かんでいた。
 我知らず美凪は「ルーシーさん……」と口走っていた。
 これから先、そうとしか呼べぬであろうと考えていた名前を受け止めたルーシーは「よしてくれ」と言い、照れ臭く笑った。

「るーさん、だろう? 友達じゃないか、私達は」

 ですがと出かけた反論は喉を通らず、極まった感情が代わりに飛び出した。
 涙だ。声の代わりに出たのは涙だった。
 エゴを通そうとするような人間についてくる必要はないのに。
 断ち切られてもしょうがないと思っていたものなのに。

 それでも、私を友達と思ってくれているのですか……?
 友達と言われた瞬間に見えた答えはぐるぐると回る思いに流され、再び沈んでしまった。
 しかし見つけることは出来た。一回は見つける事が出来たのだ、人が分かり合うための答えを。
 凡俗でも分かち合えることの証明を。後はもう一度、探し出せばいいだけだ。

「なんだ、泣いているのか? どうしたんだ、なぎー」

627Trust you:2009/03/23(月) 01:36:17 ID:cw9JXZvc0
 視界が滲んで、ルーシーの姿が見えない。
 大丈夫と言ったはずの言葉は嗚咽にしかならず、ただ平気な顔をして泣き笑いの表情を浮かべることしか出来なかった。


 ――だから、私は気付けなかった。
 やはり自分は、どうしようもない馬鹿でしかない。その事実に。


 雨の中に響いたのは反響する銃声。
 あまりにも軽く、そして短すぎる刹那の時間。
 口の中にツンとした鉄の味が広がり、己の口内を満たしてゆく。
 溜めきれず、口から溢れさせてしまう。それでようやく、遠野美凪は気付いた。
 ああ、これは血なのだと。感じている息苦しさは身体が命の体を成さなくなっているからなのだと。


 ――だから、私には見えなかった。
 ルーシー・マリア・ミソラが警告を発していたこと。危険を知らせてくれていたことが。


 体が崩れ落ちる。
 かくんと膝が折れ、前のめりに倒れた上半身を冷たい泥が打ち付ける。
 残っていた熱の残滓も奪われ、急速に世界が閉じてゆく。

 赦されようとした、これが自分の罰なのだろうか。
 傲岸であろうとした罪の、その制裁なのだろうか。
 所詮は儚い夢、出来損ないは出来損ないのまま、分相応に生きていれば良かったのだろう。

 きっと、そうだ。それが正しいことだったのだ。生きようと欲するなら。
 しかしそれで生き長らえた命など命ではないし、本当の自分、本当の勝利など得られようはずもない。
 そう考えるが故に、自分がやることはただひとつ……己を貫き通し、自分勝手であろうとする。それだけだ。

628Trust you:2009/03/23(月) 01:36:34 ID:cw9JXZvc0
「戦ってください! 自分の望む本当の勝利、生きる価値のある命を、掴む、ためにっ!」

 全身から発する声と共に命を吹き散らし、何もかもを出し尽くした美凪はその言葉を最後に、喀血して、命を空に返した。
 ようやく、長い時間をかけて、飛べない翼が自分の足で飛び立ったのだった。

     *     *     *

 目標はあっけなく達成された。しばらく追ってもまるで気付かれるそぶりも見せない。
 しかも雨による天候の悪さが足を遅くしているらしく早さも比較的ゆっくりだ。
 だがどこまで行くにしろ、とりあえずは相手が止まるまでは尾行を続ける。無論自分が気取られていないことを確かめて、だ。

 慎重に、かつ迅速に、横並びに名雪は二人を追い続けた。目は既に機械のそれ。
 殺戮遂行の機械となり余計な要素一切を排除した、人ならざるひとの形をとって。

 名雪はそれを不幸と思わない。
 そのような言葉は既に抜け落ち、殺害の手段を並べ立てることに使われている。

 殺人を哀しいと思わない。
 理解するだけのものは全て忘れ、代わりに浮かべるのは論理的に戦闘に勝利する方法。

 生きているとも、思わない。
 動かせるなら動かす。使えるなら、使う。
 どんなコンピュータより早く。どんな審判よりも的確に。
 辿り着くべきは殺人のための己。人間の形をした、ロジックの組み立て。

 ――ならば、機械に対して相沢祐一はどう思うだろうか――

629Trust you:2009/03/23(月) 01:37:13 ID:cw9JXZvc0
 名雪の根本となっているその疑問に名雪は気付かない。永遠に気付かない。
 だから、名雪は、幸福だった。
 目標、補足。

 道の真ん中。そこで二人は止まり、何事か話し合いを始めた。時に怒声を交えながら、声を擦れさせながら。
 内容は知らない。知ったところで、名雪の脳には蓄積されない。機械には何も教えられない。

 じっくりと、確実に狙撃できるところまで移動する。
 塀にはところどころ模様になった隙間がある。狙うのは、そこからだ。
 そして狙うのは、体の大きな方。
 理由は大きい方が当てやすいから。それだけだった。

 以前に遭遇したことも、そのときの北川潤の抵抗も、何も思い出さない。
 名雪の記憶は全て消えている。

 雪。そう、真っ白い雪、全てを覆い尽くす純白に埋まるようにして。
 記憶の中心、雪で埋まったそこには、雪うさぎを持ったまま待ち続ける――幼い少女の姿があった。
 少女の顔は、凍っている。

 『しあわせ』。『しあわせ』。何がそれかも分からず、ただ感じている顔だった。
 一発、撃った。横腹から血が溢れる。命中。外人風の少女が悲鳴を上げた。銃撃を続行する。

 防弾性のある割烹着も、横腹から後ろにかけては無防備だ。上手い具合に銃撃出来る位置に、名雪は移動していた。
 続けて連射。とすんと膝を落とし、倒れる。ここからでは止めを刺せない。だが戦闘不能にはなった。
 すぐさまもう一人も戦闘不能にし、完全な勝利を達成するべきだ。
 判じてすぐに塀から飛び出した瞬間、強い意志を持った双眸が名雪を出迎えた。

「貴様ァァァァァァァァ!」

630Trust you:2009/03/23(月) 01:37:34 ID:cw9JXZvc0
 既に敵はサブマシンガンを構えていた。反撃に移るのは不可能と考え、そのまま転がるようにして再び塀の中へと移動する。
 直後背面の民家の壁が弾け、塗料と共にセメント片が飛び跳ねた。

 名雪はすぐさま己の体をチェックする。異常なし。だが敵の対応が予想より遥かに早かった。
 奇襲による優位性はなくなったと断定して、現状の装備でどうするか考える。
 銃撃戦は相手に有利だ。凄まじい連射力を誇るサブマシンガンの前では撃ち負ける。
 ジェリコの残弾から言っても自分が勝てる確率は少ない。ならば銃撃させない、接近戦が妥当かと組み立てていると、声がかかってきた。

「何故だ……何故、なぎーを殺した! 理由を言え、水瀬名雪っ!」

 自分に利をもたらす情報ではないとした名雪は何も答えない。機械は範囲外のことは出来ない。
 名雪は移動を開始する。装備は薙刀に切り替える。声をかけているということは、そちらへ意識を向けているということ。
 つまり回り込んでの襲撃が有効だ。その有効性は先の行動の一連で証明されている。

「……そうか。お前が答えるわけがないか。いい、ならそれでいい。私も戦うだけだ。憎しみがないなんて言わない。
 これは私怨だ。絶対に忘れられない、地獄を這いずる戦いだ。……でも、それだけじゃない。
 本当の勝利を掴める、生き残る価値のある命にならなきゃいけないんだ! だからこれは、乗り越えるための戦いだ!」

 塀を乗り越え、側面に回ろうとした名雪の目の前。そこに立ちはだかるかのように敵がサブマシンガンを構えていた。
 読まれていたことを自覚し、即座に飛び降りようとするが後手に回ったツケは大きい。

「なぎーからお前が不意討ちが得意なのは聞いた。二度も通用すると思うなっ!」

 大量の銃弾が塀を、背後の民家を穿ち、削り取る。
 数発が名雪の体を貫通する、が痛みに顔をしかめつつもその程度にしか名雪は感じなかった。
 痛覚が麻痺してきていた。度重なる戦闘、極限にまで二極化された意識。
 それぞれが一体となり痛みを受けると動けない、その『常識』を覆すにまで変貌していたのだ。

 殺戮遂行の機械と化した名雪は薙刀を大きく振りかぶり、袈裟懸けに切り下ろす。
 バックステップして回避しようとした敵だが、薙刀の射程は意外なほど長い。
 避けきれずサブマシンガンを持つ腕に掠り、敵はそれを手放してしまう。
 下がるときに勢いがついていたからか手から離れたサブマシンガンは低く放物線を描くように飛んでいった。

631Trust you:2009/03/23(月) 01:37:50 ID:cw9JXZvc0
 敵に接近戦用の武器は持たせない。再び薙刀を振ろうとするが、刃が地面に突き刺さっていて、一度では引き抜けなかった。
 もう一度力を入れるとあっさり抜けたが、コンマ数秒の間に敵は体勢を整えていた。
 抜いたと同時、横薙ぎに払った刃を、二本の包丁が受け止める。弾かれた間隙を縫い、敵が包丁の一本で切りかかる。
 しかし刃は届かせない。柄の部分を持ち上げ、尻尾で突く。リーチの長さが幸いし、たたらを踏んだのは向こうだった。
 一歩離れ、改めて薙刀を構える。持ち直した敵も視線を険しくし、二刀流のように包丁を構える。

「今の私にはみんながいる……!
 お前には分かるまい、この私を通して出る、みんなの意思が。
 ひとと一緒になりたいという心の意思が。
 それも分からず、こうも簡単に奪ってしまうのは、それは、それはあっちゃならないことなんだ。
 ここからいなくなれぇっ、水瀬名雪!」

 何事かを叫んだ敵が雨の中、疾走を開始し迫ってくる。
 名雪は薙刀を前面に押し出し、リーチの長さを生かして突きで刺し殺そうとする。
 しかし敵は包丁をクロスさせ、刀身で薙刀を受け止め、続いて切り払う。

 男と女ならともかく、女同士の戦いだ。
 しかも名雪は連戦の疲労と本来筋力がそこまで高くないこともあって受け止められる程度の速度にまで速さが低下していた。
 瞬時に理解した名雪は腕力だけに頼らず、遠心力も用いられる横薙ぎに薙刀を振るう。
 更に体全体を回すようにして振るため勢いは段違いだった。

 また包丁で受け止めようとした敵だったが今度は薙刀の重さと勢いに耐え切れず、包丁の一本を手放してしまう。
 しかもまともに刀身で受けたために包丁自身も限界を迎え、刃が砕けて武器の体を成さなくなる。

「くっ! まだだ、まだ終わってたまるか!」

 舌打ちしたらしい敵は何とか懐に飛び込もうと周囲を散開しつつ移動していたが踏み込むと同時に名雪が横に薙刀を振るう。
 そのため退かざるを得なくなりじりじりと名雪が押していく。
 周囲は広いため壁際や袋小路に追い詰めることは出来ないものの、精神的に追い詰めていっている。

632Trust you:2009/03/23(月) 01:38:19 ID:cw9JXZvc0
 このまま何度か攻撃を繰り返す。そうすると敵はこちらが薙刀一辺倒だとして距離を取りにかかる可能性が出てくる。
 そのときこそ、ポケットに隠してあるジェリコで止めを刺す。これが名雪が組み立てた作戦だった。

 事実敵の焦りは目に見えており、飛び込もうとする行動も迂闊な隙が見え隠れしている。
 何とか回避してはいるものの、優位なのはこちらだ。そう名雪は判断する。
 踊るように体を捻り、上段から袈裟に斬り下げる。敵は飛び退くが、着地した場所が悪かった。
 ちょうどそこはぬかるんだ地面で滑りやすくなっていた。バランスを崩し、地面にもんどりうって転ぶ。
 焦りと疲労が生み出した結果なのだろう。好機と捉えた名雪はこの隙にとジェリコを取り出し、狙いをつける。

「甘く見すぎだ! そう思い通りには……いかない!」
「!?」

 構えた瞬間、敵も合わせるかのように『取り落としたはずの』サブマシンガンを構えていた。
 誘導されたのだと察する。接近戦を狙っているのを読み、サブマシンガンが落ちているところまで戦いながらおびき寄せていた。
 しかも自分が半端に有利になるように仕向け、油断をも誘った、二段構えの戦術。

 機械だったはずの心に動揺が走り、どうするべきか躊躇してしまう。
 これまで計算ずくで、ここまで完全に裏もかかれたことのなかった名雪には咄嗟の対処が行えなかった。
 コンマ一秒の隙。その時間を敵は見逃さなかった。

「私だけに気を取られていたのが間違いだ……もっと視野を広くするんだな!」

 トリガーが引かれ、ありったけの銃弾が撃ち込まれる。
 名雪はぐらりと体を傾け、仰向けのままに地面へと倒れた。

     *     *     *

633Trust you:2009/03/23(月) 01:38:42 ID:cw9JXZvc0
 走る。走る。得意ではない走りを続ける。
 十分も経っていないのに息は上がり、胸が激しい動悸を繰り返す。
 倒れないだけマシだ。熱で動けなくなったあのときに比べればなんということはない。

 まだ知りたいことがいくらでもある。知らなければならないことがたくさんある。
 自分だけの世界に閉じこもり、完結していた昔のままではいられない。
 夢がある。皆から託された夢が自分の中にはある。その中にはもちろん、自分の夢も。
 分かり合える友達。信じあえる家族。そんな彼らと共に『希望』や『豊かさ』を組み直し、作り上げてゆく。

 何もかも変わらずにはいられない。しかし変質したとしても本質は変わらない。
 壊れてしまった玩具を、丁寧に修理していくように、外見は変わっても中身までは変わらない。
 その中にこそ、その本質でこそ人は互いに理解し、手を取り合える。

 だからわたしはわたしをありのままに伝える。今はそうしたい。
 自分からこんなことを望むのは久しぶりだ、と古河渚は己に苦笑する。

 最後に我がままを言ったのはいつだっただろうか。
 記憶の引き出しを開けてみてもどこにも見当たらない。
 自分はこれでいい、このままでいいと思い込み妥協しかしていなかったことしか思い出せない。
 終わり続ける世界の住人でしかなかったから、そんなことをする意味がないとどこかで諦めていたのかもしれない。
 だが意味はあると知った。自分でも生きていけるということを知っている。
 我がままを言えることの意味も。
 難しいことは言わない。自分は何も知らなさ過ぎるだけだ。だから知る必要がある。幸福に生きていくために。

「わたしは……強くなれていますか?」

 誰にでもなく呟く。強さへの憧れは昔からあった。
 演劇部に入りたかったのも強さに憧れていたからだ。舞台の上を演じる役者は別世界の人間で、なりきらなければならない。
 役になりきるという責任を果たし、観客も楽しませるという責任も果たす。
 集団での形を取りながらも個人個人の強さがなければ出来ない演劇の役者は、渚にとって強さの象徴のように思えた。

634Trust you:2009/03/23(月) 01:39:00 ID:cw9JXZvc0
 誰かに支えられ、また自分も誰かを支え、バランスを保つこと。そうなりたいという気持ちがあった。
 だから探し出す。支えるべき人を、支えたい人を……

 ルーシーと美凪が向かったと思われるもう一つの火災現場がどこか探してみるが、既に火は消えてしまったのか空を見ても分からない。
 見失ってしまった。このままでは追いつくどころか、辿り着きさえ出来ない。
 大体の方向は覚えているとはいえ、このままでは合流も不可能だ。
 だが立ち止まっている暇はないと足を動かし続ける。今、このときだけは足は止めてはならなかった。

「……! これは……」

 そうして再び走り始めたとき、近くから雨音とは違う、何かが弾ける音が聞こえた。
 銃声ではないかという予感が走り、渚は音に耳を傾けながら体に鞭打って走った。

 渚は気付かない。
 雨に打たれ、体力も消耗し、普段なら倒れてもおかしくないはずの体がまだまだ動くということに。

 渚は気付かない。
 雨が降り注ぐ空の一端に、光の粒が漂っているということにも。

     *     *     *

 残弾が尽きるまで撃ち続け、さらに一本マガジンを交換してなお銃口を向けてみたが水瀬名雪はぴくりとも動かない。
 勝ったのかという鈍い実感と、夜陰に降り注ぐ霧雨の冷たさが徐々に内奥の熱を冷ましてゆく。
 銃口を下ろし、長いため息をついたルーシーはふらふらと立ち上がり、ある場所へと歩き出した。

 本当の勝利、生きる価値のある命。その言葉を教えてくれた、大切な親友のいる場所へ。
 どんなことが本当の勝利で、どんなのが生きる価値のある命なのかまでは教えてくれなかった。
 唯一分かることは、復讐心に駆り立てられるだけではそこには到底辿り着けないこと。それだけだ。
 いやそれで十分だ。最初から答えの分かっている問題なんてない。

635Trust you:2009/03/23(月) 01:39:24 ID:cw9JXZvc0
 この先、自分が満たされ、真実の豊かさを手に入れたときにこそ答えは分かるものなのかもしれない。
 未だ実態は見えないが、分かるようになりたい。そう、強くルーシーは願っていた。

 雨と泥で汚れた顔を拭い、横たわる美凪の遺体を見据える。
 ひどく血を吐き散らし表情も安らかとはいい難かったが、遠野美凪という人間の生き様を克明に映し出していた。
 分かり合えるかどうかも分からない者との対話を望み、なお理解し合えると信じた人間の渇望がそこにある。

「私ひとりになったとは言わない。私にはみんながいる。この服にはうーへいの思い出がある。
 だから、なぎー。一緒に行くために、これを貰っていくぞ」

 美凪の胸元にあるネクタイに添えられている銀色の小さな十字架をそっと外し、自分の髪にヘアピンのようにつける。
 少々大きく、髪留めには向かなかったがこれでいいとルーシーは微笑む。

「本当に覚えていられるなら、物なんてきっと必要ないんだろう。だが、私は所詮憎しみも忘れられない凡俗でしかない。
 だからこうしてでしか、なぎーのことも覚えていられない。でもこれがあれば絶対忘れない。
 どんなに離れていても、どんなに時間が経っても。
 私となぎーの心はつながってる。あらゆる物理法則を超えて、ふたりはひとつだ」

 いや、春原が贈ってくれた服も同じだから『みんなはひとつだ』の方が良かったかもしれない。
 そう思ったルーシーだったが、言い直すことはしなかった。まだ胸を張って『みんな』と言えるほど自分はひとと分かり合えていない。
 だからその時に使おうと考えたのだった。

「不思議なものだな……憎んでいた、あいつを、うーへいの仇を、なぎーの仇を取ったのに……
 こうしてなぎーと出会えた奇跡を、思い出してるなんてな」

 あれほどまでに自分を支配していた憎しみ、どろりとした濁りはなりを潜めている。
 代わりに思うのは自分にもこんな親友がいたのだという事実。失ってしまった哀しみだった。
 ただ、哀しみのいくらかはやりきれない怒りへと変質していたが、
 その大半は雨と共に己を洗い流し、がんじがらめにしていた過去を溶かしていた。

636Trust you:2009/03/23(月) 01:39:44 ID:cw9JXZvc0
 人と理解し合えるなんて思ってもみなかった昔。
 河野貴明との邂逅に始まり、様々な人間と出会いながらも、人間のような心があるはずはないと冷め切っていた過去の自分。
 それが今はどこか遠くのように思え、けれども親友の死に立ち会いながら涙のひとつも出せない自分が、根本は変わっていないと自覚させる。
 そういうものなのだろう。己の本質を変えることは不可能で、変えられるのはあくまでも表層の部分でしかない。
 身分や経験など関係はなく、生まれもった自分は最後の最後までそのままだ。
 それでも、私は……

 目を閉じて、美凪に黙祷を捧げる。彼女がいなければ引き返すことを学べなかった。
 親友というものの実際を知ることもなかった。
 知ってさえこんなにも短い間しか一緒にいられなかった。
 もっともっと、美凪とは話し合いたいことがたくさんあったのに……

 寂寥感が立ち込め、ふとルーシーの胸に陰が差し込む。
 こんな別れ方でいいのか、この雨の中に美凪を置いたままにしていいのかという疑問が持ち上がる。
 時間がかかってもいい、どこかに埋葬してやった方がいいのではないかという考えがルーシーの中に浮かんだ。
 親友をこのままにしていいのかという疑問に、ルーシーが手を伸ばしかけた時――

「ダメですっ! るーさん、離れてくださいっ!」

 突如として、死体であったはずの美凪が喋ったかのように思えた。
 驚愕したものの、だがこの声は美凪のものではないと理解していた頭が、声のした方へと振り向く。

「な……にっ!?」

 そこには。
 ゆらり、ゆらりと立ち上がり、腕や腹部から出血しながらも手に拳銃を持った水瀬名雪の姿があった。
 何故だという疑問は、改めて見えた名雪の姿を見たとき瞬時に解決する。

 腹部は確かに出血しているが、量はそれほどでもない。あれだけ大量の銃弾を撃ちこんだのにも関わらず。
 その事実から導き出せる答えは一つしかない。防弾チョッキだ。
 恐らくは気絶していただけだったのだ。己の失態に悪態をつくほかなかったルーシーだったが、名雪は既に銃を向けている。

637Trust you:2009/03/23(月) 01:40:06 ID:cw9JXZvc0
 最後の気力を振り絞ったものだろう。間違いなく、全弾を使ってでも殺してくる。
 ウージーは手元にあるものの構えて照準をつけるには遅すぎる。
 これまでかと思いながらも諦めることを知らないらしい体は動き、必死に狙いをつけようとした。

「くっ、間に合わな……!」

 声を遮るように、銃声が木霊する。思わず目を閉じたルーシーだったが、痛みはどこにもなく、銃声も一発だけだった。
 目を開ける。そこには、ぐらりと体勢を崩した名雪と……その後ろで、M29を構えている古河渚の姿があった。
 あの声は……古河のものだったのか?
 どうしてここにいる、という疑問と自分を助けてくれたという事実が頭の中を満たし、陰を吹き散らし、視界をクリアにさせてくれた。

 体勢を崩した名雪の隙。もう見逃さない。今度こそ決着をつける。乗り越えるために――!
 尚も無理矢理銃を乱射してきた名雪に応じるように、ルーシーもありったけの力で引き金を絞る。
 頭部を目掛けて撃ったウージーの弾は名雪の頭にいくつもの穴をこじ開け、今度こそ彼女を絶命させた。
 何を考えていたのかも、何を目指していたのかも分からぬ、悲しき機械の女が……ゆっくりと、ぎこちなく崩れ落ちた。

「……っ」

 同時にルーシーも苦悶の声を上げ、膝をついてしまう。名雪の最後の乱射はルーシーの脇腹を掠り、確かな傷を残していた。
 それを見た渚が慌てた様子でこちらへと駆け寄ってきた。

「だ、大丈夫ですかっ」
「……問題はない。掠っただけだ。それより古河、どうして、お前はここに……」
「それは……え、えっと、その……心配になったから、です」

 勝手に離れていったのはこちらだし、放っておいてもよかったのに。思ったものの、口には出せなかった。
 代わりに自分の中に、光が差していくのを感じる。太陽みたいだな、という感想をルーシーは抱いた。
 陰を吹き散らしてくれる、決して近づけぬ存在でありながらなくてはならない存在。
 いつの間にか微笑を浮かべていたらしい自分に対して、渚も微笑を返した。ちょっとぎこちない、しかし暖かな笑みだった。

638Trust you:2009/03/23(月) 01:40:34 ID:cw9JXZvc0
「でも、わたし……間に合わせることが出来なかったみたいです……ごめんなさい、なんと言っていいのか……」

 だがすぐに表情が崩れ、骸となった美凪の方を向いた渚は、泣いていた。
 少しの自責と、たくさんの哀しみを含んだ涙だった。
 もう話すことが出来ない美凪に対して、これ以上ないほど哀しんでいた。

「もっと、話したいことがいっぱいあったのに……わたしは何も知らないのに」
「古河……お前のせいじゃない。こうなったのも私が、私達が何も分かろうとしていなかったからだ」

 寧ろ自分の方が情けない、申し訳ない気持ちで一杯だった。
 言葉の節々から、渚が自分達と関わろうとする意思、己が考えていることと同じことを思っているということが感じ取れる。
 なぎー、やっぱり、お前の言う事は正しかったのに……
 やりきれない思いが込み上げる一方、渚の分かり合おうとする意思に触れ、以前のようなわだかまりが溶けてきていることにも気付く。

 本当は誰かに認めてもらいたかっただけなのではないだろうか。
 善人になりきれない自分を「それでもいい」と受け入れて欲しかったのではないだろうか。
 身内からではなく、しこりを残した相手からの握手を。

 ちょっとしたきっかけ。完全には分かり合えずとも協力していけるきっかけが欲しかったのだ。
 そうして少しずつわだかまりを溶かし、長い年月が経って初めて……自分達を親友と認め合えるのだろう。
 憎しみに変わり、後に退けぬまま食い合う前に……美凪はとっくに分かっていたのに……

「――済まない」

 己の内にある全ての思いをその一言に集約し、ルーシーは静かに、だがはっきりとそう言った。

「ルーシーさん……いえ……」
「そういえば、警告してくれたのも古河だったのか。あのとき、るーさん、って呼ばなかったか」
「? い、いえ、ルーシーさんと、叫んだつもりでしたけど」

639Trust you:2009/03/23(月) 01:40:52 ID:cw9JXZvc0
 そうか、とルーシーは答えて、美凪の方へと向く。
 まさかな、と思いながらも、一方でそうなのだろうという確信があった。
 美凪の魂が、想いが、渚を通じて自分に呼びかけてくれた。

 私はこのままでいい、私に拘らず、るーさんはるーさんの今を生きて欲しい……そんな風に。
 他人に己を委託してでしか生きられなかったはずの美凪。それなのに、こうして最後は自分の力だけで想いを成し遂げた。
 だとするなら、やはり本質からひとは変われるのかもしれない……そんな感慨を抱かせた。
 少なくとも、その可能性は目の前にある――息を吐き出したルーシーは、ゆっくりと渚の肩に手を置いた。

「行け。どうせ奈須あたりとは別行動なんだろう? 追ってくれ。私は少し休んでから行く。ちょっと、疲れた」
「え? で、ですけど……」
「いいから行け。お前なら、きっとあいつだって助けられる。現に私がそうだった。だから、行くんだ」

 ぐいと肩を押し、渚を離れさせる。
 しばらく不安げにこちらを見ていた渚だったが、こくりと小さく、しかししっかりと頷いた。

「分かりました。必ず戻ってきます。あの、そのときには……あ、あだ名で呼んでも構いませんかっ」

 神妙な顔から出た言葉は、この場には不釣合いな、日常の欠片を含んだ言葉だった。
 思わず笑い出したくなるのを抑えつつ、ルーシーは「ああ」と応じた。

「そのときには、こっちもあだ名で呼ばせてもらうぞ。『古河』」

 恐らくは、いやきっとこれが最後の呼び名になるだろうという予感を得ながら、ルーシーは渚の返事を待った。
 はいっ、という元気のいい返事がすぐに返ってきて、今度こそ渚は駆け出した。
 気のせいだろうか、その後ろには蛍のような、小さな光の群れがついていっているように見えた。

 ルーシーは空を見上げる。雨は、少しずつ弱まっていた。
 いつか、きっとこの雨も上がり、空も晴れる。渚という太陽が共にある限り。
 銀色の十字架が同調するように、ルーシーの傍へと寄った。

640Trust you:2009/03/23(月) 01:41:54 ID:cw9JXZvc0
【時間:二日目21:00】
【場所:F-3】

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 3/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

遠野美凪
【持ち物:包丁、予備マガジン×1(ワルサーP38)、防弾性割烹着&頭巾、支給品一式、お米券数十枚、色々書かれたメモ用紙とCD(ハッキング用)、ノートパソコン】
【状態:死亡】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:たこ焼き友だちを探す。少々休憩を挟んだ後宗一たちと合流】 

水瀬名雪
【持ち物:薙刀、ワルサーP38アンクルモデル8/8、防弾性割烹着&頭巾、IMI ジェリコ941(残弾0/14)、青酸カリ入り青いマニキュア、支給品一式】
【状態:死亡】

【残り 18人】

→B-10

641十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:00:29 ID:QhWdeCLQ0
 
おぅろぅ―――、おぅろぅ―――と。
高く、低く、笛の音のような音が響いている。
砕かれた神像の残骸を、風が吹き抜けていく音だ。
それはまるで群れを見失った獣の哭き声のようで、物悲しさに水瀬名雪が口元を歪める。

駆けるその足は止まらない。
踏み出した傍から崩れ、瞬く間に小さな石の塊となって山道の斜面を転がり落ちていく大地を、
あたかも氷の上を滑るような鮮やかさで越えていく。
少女の外見からは想像もつかぬ体術、絶妙な体重移動のなせる業であった。
と、目の前の地面が、音を立てて割れる。
唐突に口を開いた断崖に、しかし名雪は驚愕の声一つ漏らすことなく跳躍。
断崖が空しくその背後に消えていく。

跳んだ名雪の、開けた視界が赤々と染め上げられる。
火球である。
人ひとりを飲み込んで余りある炎塊が空中、躱せぬ一瞬を狙い澄ましたように名雪に迫っていた。
事実、緻密な計算に基づいた頃合であったのだろう。
だが燃え盛る火に飲まれ骨まで焼き尽くされる未来を、水瀬名雪はただの指一本で回避する。
肉付きのいい指が迫る火球を指し示した、その直後には黒雷が閃いている。
名雪の背後から真っ直ぐに飛び、火球の中心を貫いて雲散させた黒雷が、蒼穹の彼方へと消えていく。
撃ち出したのは名雪の後ろに控える、大きな漆黒の置物である。
疾走や跳躍に正確に追従する、そのぎょろりと眼を剥いた蛙の置物を、称してくろいあくまという。

642十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:00:55 ID:QhWdeCLQ0
―――これは正しく、時間との戦いだ。

着地した名雪が冷静に分析を開始する。
敵、黒翼の神像は既に眼前。
残り時間は、と問えば間髪いれず、五分四十秒と答えが返ってくる。
時計の針と戦況とをじっと見比べる坂神蝉丸の渋面が見えるような、声なき声。
さしもの強化兵も焦りや苛立ちが隠しきれなくなってきている。
それでもまだ、前に出られない。
理由は単純だ。
この山頂に覆い被さるように拡がった巨竜の背、銀の平原。
半径数百メートルにも及ぶその銀鱗の敷き詰められた道は、いまや紅の森と化していた。
巨神像の斃れる度、巨竜の背から生える紅い槍はその数を増していく。
行く手を阻むように生え、蠢くその槍の森を越えるには、砧夕霧を抱え動きの封じられる蝉丸だけでは手が足りぬ。
先導し、突破するだけの火力。
それを蝉丸は待っている。
巨神像は既に半数が斃れていた。
残るは四体。槍、白翼、大剣、そして名雪の眼前に立つ黒翼の神像。
この内、左右の端に位置する槍と黒翼が落ちれば、戦闘は最終局面を迎える。
他の巨神像が全て沈黙している状況であれば、白翼と大剣を押さえつつ蝉丸とその先導が動き出せる。
紅い森の突破に集中させることができるのだ。

問題は、と。
黒翼の神像が放つ漆黒の光弾を、同じく日輪を侵すような黒雷で相殺した名雪が、
その手に小さな白い何かを掴み出しつつ、思考を展開する。
何もない中空から取り出したように見えたそれは、陽光を反射して煌く雪球。
否、雪で作られたそれは、小さな兎であった。
問題は突破に費やせる時間が、どれほど残せるかという一点に尽きる、と考えながら高く飛んだ名雪が、
叩き落そうと迫る黒翼の神像の一撃を躱しざま、巨大な腕に雪兎を乗せる。
兎の背にはいつの間にか小さな時計が据え付けられ、その針を動かしていた。
名雪と神像が交錯する度、雪兎の数は増えていく。

643十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:01:12 ID:QhWdeCLQ0
―――時間との戦い、だというのに。

優美な巨神像と季節外れの雪兎、そしてその背の小さな時計。
ひどく不釣合いな三者を結びつけた水瀬名雪という怪物が、苦笑する。
この山頂には、幾つもの声なき声が満ちている。
少女たちの、或いはかつて少女であった女たちの、声なき声。
隠す様子もなくびりびりと伝わってくるそれらは、どれ一つとして時間のことなど気にしていない。
身勝手で、視野の狭い、しかしどこまでも切実な声。
その瞳には、目の前の危機など映ってはいないのだろう。
遠い昔に水瀬名雪から剥がれ落ちていった激情が、老いさらばえた心を炙ってちりちりと焦がす。
灼かれて煙をあげた心に咽るように、名雪が口の端を上げる。
笑みに逃げたその貌が、母親のいつも浮かべていたそれとひどく似ているのだろうことには、
気付かないふりをした。

川澄舞は今も待ち続けている。
今も、そして、今回も。
漏れ伝わってくる思いと決意の強さ、その変わらぬひたむきさが、名雪には眩しい。
彼女は待ち人の名を知らない。
その存在の意味も、与えられた役割も。
恋敵、などと水を向けたところで反応が返らないのも当然だった。
それでも、だろうか。
或いは、だからこそ、だろうか。
真実を知ってなお、川澄舞は変わらずにいられるだろうか。
意地の悪い想像に含まれる妬みの色を、名雪は老いた笑顔で飲み下す。

644十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:01:48 ID:QhWdeCLQ0
相沢祐一。
繰り返しの果てに壊れた、機械仕掛けの神。
望まれるままに奇跡を起こす、哀れな案山子。
川澄舞が真に偶然の中で祐一と出会えたのは、もう遥か以前のことだ。
今の川澄舞が祐一と出会ったのは、単純に幼い彼女が救済を願ったからだろうと、名雪は推測する。
壊れた祐一に自由意志などありはしない。
孤独を恐れ、理解を求めた幼子の祈りに呼応して現れた幻想。
それが相沢祐一だ。
だから川澄舞は、ある意味で正しい。
祐一はもう、彼女の前には現れない。
与えられるだけの救済をはね除ける強さを、彼女が持つ限り。

それは悲しい自己矛盾だ。
彼女が祐一の帰る思い出の場所を守り続けるために強くあることこそが、祐一の降臨を阻害している。
だがそれは同時に、正しい人のあり方だ。
相沢祐一を求めるとき、人は弱く惨めで、その弱さは己を、己の周りにある世界を貶めていく。
祈りに応じて現れる祐一は愚かで浅ましい小さな世界を救い、その醜さを受け止めて歪みを増す。
存在が崩壊を内包する道化を呼び出すのは、人の醜さに他ならない。
だから、強くあろうとする少女はそれだけで正しく、美しい。
私と違って、と自嘲する名雪の手には、十数個めの時計仕掛けの雪兎がある。
カチカチと時を刻むその秒針が、間もなく頂点を指そうとしていた。

―――この島の一番高いところ、か。

ふと、青の世界で聞いた声を思い出す。
見上げれば、蒼穹には雲ひとつない。
悠久を繰り返す水瀬の知らない世界。
少女たちが、その強さのままに真実を求めるのなら。
もしかしたらその先には本当に、この世界の終わりを越える何かが見つかるのかもしれない。

ならば、と。
遠い空に目をやりながら、名雪が口元を緩める。
このどこか虚ろな戦いの終わりにも、幾許かの意味はあるのだろう。

浮かべたその微笑に、醜悪な老いの色はない。
祝福を授けるように、名雪が手の雪兎にそっと口づけする。
捧げるように手を伸ばし、伸ばした手から、白い兎が落ちた。

『―――まずは打ち破ろうか。この妄執を』

声なき声の、響き渡ると同時。
名雪の足が地を蹴り、空へとその身を投げる。
彼女が立っていたのは黒翼の神像、その肩の上である。
大地へと落ちゆく名雪が蒼穹に向けて指を伸ばし、小さく打ち鳴らした、その瞬間。
黒翼の神像の至るところに置かれた雪兎の、時計の針が一斉に零を指し示した。

白光と灼熱とが、黒翼の神像を包み融かし尽くすまでの一瞬を、待ちかねたように。
凄まじい爆音が、山頂を揺るがした。

645十一時五十四分/雲が晴れてても:2009/03/27(金) 15:02:20 ID:QhWdeCLQ0
 
【時間:2日目 AM11:55】
【場所:F−5 神塚山山頂】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体11000体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:健在】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】
【カミュ・フィギュアヘッド:大破】

→1045 1053 ルートD-5

646十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:16:18 ID:ZjBIZIJY0
 
それは、曙光だった。
朦々と舞い上がり、まとわりつく砂埃を払いながら真っ直ぐに見つめてくる、天沢郁未の瞳。
鹿沼葉子の目にいつだって眩しく映っていた夜明けの色が、そこにある。


***

647十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:16:30 ID:ZjBIZIJY0
 
「冗談じゃない、って話」

掠れた声。
こみ上げる血と絡まる痰と不定期な鼓動と引き攣る横隔膜とで震える声。
炎や、地響きや、飛び交う光や稲妻や、そういうものの一切を無視して、郁未が言葉を紡ぐ。

「ああ、冗談じゃあない。これがあんたの喧嘩で、だから一人でやるっていうんなら葉子さん、それはいいさ。
 私はここで見ててやる。あんたが勝って、戻ってきて、澄ました顔でお待たせしました、って言うまで待っててあげる。
 けど、ならさ。ごめんなさい、は違うでしょ」

打ち鳴らされる鐘のように響く音は、巨神像の槍だ。
葉子と郁未とに向けて、何度も打ち下ろされている。
少女二人を容易く押し潰すはずの巨槍は、しかし見えない壁に弾かれるようにその穂先を空しく傷めていくばかりだった。
力と、技と、質量と、そのすべてが通らない。

「謝る必要なんかない。……違う、違うね。謝っちゃいけない。
 葉子さん、あんたはだから、そこで謝っちゃいけないんだ。
 私はここにいる。あなたの傍で待ってる。離れない。だから、謝るな」

不可視の壁を張り巡らせた、その中で。
外の世界の全部を遮って。
天沢郁未が、告げる。

「私はずっとここにいる。それを信じてるなら、信じてくれるなら、謝らないで。
 いつも通りの鹿沼葉子で、私に。天沢郁未に聞かせて。その声を。本当の声を」

世界を隔てて、ただ二人。


***

648十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:18:19 ID:ZjBIZIJY0
 
言葉を、探していた。
天沢郁未に返す言葉を。
その、赤面するほどに真っ直ぐな気持ちに応える言葉を、鹿沼葉子は探していた。

色々なことが頭の中を巡っていた。
色々なものが、色々な人が、色々な記憶が、葉子の中で言葉になろうとして、
しかし結晶する寸前で、天沢郁未という熱を前に、それらは空に溶けて消えていく。

怖かった。
立ち塞がる巨大な敵は、葉子の過去が具現化したかのようで、だからそれを打倒するのは葉子自身の役割で。
違う。恐怖の根源は、そんなところにはない。
言葉と共に、欺瞞も虚飾も、熱に煽られて溶けていく。
やがて剥き出しになった恐怖は、たった一つ。
ただ、失うのが、怖かった。
過去に敗れて、過去に呑まれて、現在が失われるのが、怖かった。
鹿沼葉子の過去に天沢郁未が呑み込まれるのが怖くて、だから独りになろうとした。
ひどく陳腐で、どこまでも甘ったれた、子供のような我侭。
誰が聞いても呆れるような、天沢郁未も呆れるような、だからそれを口にした。

天沢郁未は、笑ってそれを、殴り飛ばした。
赦さずに、いてくれた。

それは、嬉しくて、悲しくて、腹立たしくて、有り難くて、微笑ましくて、気恥ずかしくて、
全部の感情を集めて心の中で弾けさせたような、ひどく騒々しい、夜明けの鐘。
飛び起きた頭は混乱の中にあって、だから葉子は考える。
考えて、考えて。

だけど言葉は、見つからない。
見つからなくて、ぐるぐると回って、結局振り出しに戻った頭が、何も考えられない葉子の頭が、
ようやく言葉を搾り出そうとする。

「ご、ごめ……」
「だから、そうじゃない」

苦笑に、遮られた。
遮って、手が伸ばされる。
手を差し出して、天沢郁未が、

「そこは、これからもよろしく……って、言うとこ」

夜明けのように、微笑んだ。


***

649十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:19:08 ID:ZjBIZIJY0
 
それは、難問を答えに導く、たった一つの公式。
差し出された手と微笑みが、薄闇を打ち払い、冷たい夜露を煌めく珠に変えていく。

「……私、自惚れてる?」

明けていく夜の、昇る陽の眩しさと暖かさに、涙が滲む。
縋るように、その手を取った。

「……いいえ」

最初はか細く。

「いいえ、いいえ!」

やがて、雲間から射す光の、大地を照らすように。

「私は……私は、鹿沼葉子。國軍技術研究局、光学戰試挑躰にして、FARGOクラスA」

繋いだ手の温もりに、応えるような声で。

「だけど、だから私は今、天沢郁未の隣に立っている。……立てて、います。
 これからも……よろしくお願いします、郁未さん」

宣言と要請を、真っ直ぐな笑みが受諾した。

「―――よく言った!」


***

650十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:19:24 ID:ZjBIZIJY0
 
結んだ手から、光が伸びる。
伸びた光が道となり、その先には倒すべき敵がいた。
手を繋いだまま、光の道を歩き出す。

「不可視の力は無限の力」

二つの足音が、一つに聞こえる。
駆けるでもなく、止まるでもなく。
歩み続ける、足音。

「世界を塗り替える願いの力」

行く手を遮るものは何もない。
焦燥のままに何度も突き立てられる巨槍は不可視の壁を貫けず、光の道に触れることすら叶わない。

「ならば誓いは道となり―――」

光に射抜かれるように、巨神像の顔がある。
その見上げるような顔のすぐ前で、歩みが止まった。
繋がれた手には、いつしか何かが握られている。
天への供物のように掲げられたそれは、郁未の長刀。
魅入られたように動けない巨神像の眼前で、刃がその輝きを増していく。
やがて陽光を凝集したような燦然たる光となった長刀が、振り上げられる。

「―――絆は、刃となる!」

光が、奔った。


***

651十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:19:44 ID:ZjBIZIJY0
 
馬鹿だった。
自分はどうしようもない馬鹿だったのだと、鹿沼葉子はようやく気付く。

二つに分かれて崩れゆく巨神像を前にして、薄れゆく光の道から飛び降りて、
だけど離れない手を真ん中に、くるくると回りながら思う。

夜はもう、とうの昔に明けていた。
あの日、あの時、今はもうない教団の、あの誰もいない食堂の薄暗い片隅で。
誰にも気付かれないままに、夜明けは訪れていたのだ。

暗かったのは、ただ目を閉じていただけ。
一番鶏の鳴く声が聞こえなかったのは、ただ耳を塞いでいただけ。

離れられるはずもない。
いかに怯えようと、大切なものを飲み込む夜の闇など、もうどこにもありはしなかった。
目を開ければ、光の中にそれはあった。
笑って、いた。

だからもう、言葉を探す必要はない。
声に出す必要も、なかった。

ただそっと、繋いだ手に力を込めて。
微笑んで、想う。



―――これからも、ずっとずっと、よろしく。

652十一時五十五分/いつか一緒に:2009/03/31(火) 14:20:14 ID:ZjBIZIJY0

  
【時間:2日目 AM11:57】
【場所:F−5 神塚山山頂】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体9700体相当】
【ベナウィ・フィギュアヘッド:大破】
【カルラ・フィギュアヘッド:健在】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:健在】

→1048 ルートD-5

653名無しさん:2009/04/01(水) 02:31:09 ID:.RmBvSCY0
 
 
  ―――その死には、幾つもの真実が、足りない。


「駄目! 私に近づかないで、貴明さん!」
「草壁さん……どうして、どうして君がそっち側にいるの!?」


  何もかもが間違っている。


「わたしの運の悪さ……知ってるでしょ? ……だから、」
「だからその『凶運』を、僕が『転移』する。不幸は共有されるべきだからね」
「柊……くん……」


  誰も彼もが、救われない。


「あちきが間違ってる。そんなこたー、わかってらい」
「みゅー」
「お前ぇさんも、たかりゃん達にはついてけねえってクチだねえ」
「みゅー……?」


  生き長らえて、死んでいく。


「私にはっ! 『加護』なんて力、ないのに! なのに、どうしてっ!」
「仁科、今それを告げれば、我々は決戦を前に内部から崩壊する」
「智代さんが、そういう風に仕組んで! だから敵とか、味方とか! もう沢山なんです……!」


  混沌に隠された真実が、


「みずぴー……! あたしたちは……!」
「ダメだ新城! そいつを信じるな!」
「向坂……雄二……! 夕菜さんを見捨てたくせに、あなたって人は……!」


  ここに、明かされる。


「この時間の全部が消えても……もう一度、会えるかな?」


  その道の果てで、少女の恋が、終わるまで―――


 HAKAGI ROYALE Ⅲ  ROUTE D-5  episode:0

       ―――The Way to Void―――



 近世紀公開予定、ズガン。

654最終話 希望を胸に すべてを終わらせる時…!:2009/04/01(水) 03:30:20 ID:eDCqWgH20
高槻「チクショオオオオ!くらえいくみん!新必殺高槻最高斬!」 
郁未「さあ来い高槻イイイ!私は実は何の盛り上がりもなく死ぬぞオオ!」 

(ザン) 

郁未「グアアアア!こ このザ・エロスと呼ばれる四天王のいくみんが…こんなワカメに…バ…バカなアアアア」 

(ドドドドド) 

郁未「グアアアア」 
有紀寧「いくみんがやられたようだな…」 
名雪(ゾンビ)「ククク…奴は四天王の中でも最弱…」 
椋(ゾンビ)「人間ごときに負けるとは主人公の面汚しよ…」 
その他対主催「「「「「「「「「「「「「「くらえええ!」」」」」」」」」」」」」」
 
(ズサ) 

3人「グアアアアアアア」 
高槻「やった…ついに四天王を倒したぞ…これで主催のいる高天原の扉が開かれる!!」 
サリンジャー「よく来たなヘンな称号いっぱいの男…待っていたぞ…」
 
(ギイイイイイイ) 

宗一「こ…ここが高天原だったのか…!感じる…主催の力を…」 
サリンジャー「対主催どもよ…戦う前に一つ言っておくことがある 幻想世界だか宝石だかが重要なフラグだと思っているようだが…別に関係ない」 
渚&風子「「な 何だってー!?」」 
サリンジャー「そしてシオマネキは動かなくなったので処分しておいた あとは私を倒すだけだなクックック…」
 
(ゴゴゴゴ) 

国崎「フ…上等だ…俺達も一つ言っておくことがある 何だか壮絶にキングクリムゾンしているような気がしているが、別にそんなことはなかったぜ!」 
サリンジャー「そうか」 
浩之「ウオオオいくぞオオオ!」 
サリンジャー「さあ来い!」 

対主催達の勇気が世界を救うと信じて…! ご愛読ありがとうございました! 


【HAKAGI ROYALEⅢ RoutesB-10 END?】


【状態:俺達の戦いはこれからだ!】
【目的:名無しさんだよもんさんの次回作にご期待ください!】

655End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:48:39 ID:4D5sJK1.0
「降っているな」
「降ってるの」

 きこきことペダルの音を鳴らしながら二人乗り自転車に跨いでいるのは一ノ瀬ことみと霧島聖。
 半ば無表情に、規則正しく早いスピードで進む二人の姿はどこか牧歌的であり、滑稽に映っていることだろう。
 実のところことみは周囲に人の気配がないか気を配りつつも、雨で滑らないようぎゅっとサドルを握りペダルも強すぎるほど漕いでいる。
 見た目とは裏腹にかなり緊張していて、体力もかなり使っていた。

 もちろんそんなことを聖に言えるはずもないので黙って漕ぎ続けているのだが。
 距離的にはかなり進んできたはず。ここは流石に二人乗り自転車の面目躍如と言うべきか、あっと言う間に灯台が見えてきた。
 気がする。どれくらい時間が経過してるのなんて分かりもしないし、果たしてここに目的の品があるのかなど知るわけもない。

 だがやるだけやるしかない。ここまで生きてきて何の役にも立てないまま死ぬのは嫌だ。
 妹を探索するのを後回しにしてまで自分についてきてくれた聖に対して申し訳が立たないし、
 自分を信じて協力してくれた友達に合わせる顔がない。
 所詮己にはちっぽけな勇気と、一歩踏み込むことも出来ない臆病さしか持ち合わせていない。

 きっとこれからも変わらず、変えられもしない部分なのだろう。
 だからこの勇気の残りカスを振り絞ってでもここから生きて帰る。
 それが一ノ瀬ことみの決意したことだった。

「そういえば、だ。今こんなことを聞くのは不謹慎と言うか、不躾かもしれないが」
「なに?」
「生きて帰れたら、何がしたい?」

 少し迷ったように、ゆっくりと声が吐き出された。ことみはつかの間目をしばたかせ、質問の内容を理解するのに数秒の時間を要した。
 黙っていて、相槌も返ってこないにも関わらず聖は何も言わない。じっと答えを待っていた。
 いやそう簡単に答えられるような質問じゃない。
 このような空白の時間でもなければ話題にも出せないような質問だ。今現在を生きるのに必死で、考えようもなかったことだから……

656End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:48:57 ID:4D5sJK1.0
 分からない、と散々に思案した末に、消え入るような小声でことみは言った。
 元の生活に戻れるとはとてもじゃないが思えない。
 たとえ友達と全員生きて帰れたのだとしてもここで感じた極限状態の影響など計り知れようもない。
 自分が落ち着いていられるのは聖という保護者がいること、そして殺し合いの現場には遭遇していないことがあるからだ。

 無論、死体はいくつか見た。状態も酷く内臓が見え隠れしていたものもありあまりの気色悪さから吐きそうにもなった。
 しかしこうして喉元過ぎれば気持ちの悪さはなりを潜めている。慣れと言えば、そうなのだろう。

 だから自分は、異常なのだ。異常な人間が帰って、果たして元通りの生活を送れるのだろうか。
 ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵が戦場での過酷な体験、
 社会からのプレッシャーによりPTSDを発症し、精神を崩壊させたという事例もある。
 この状況も一種の戦争。極限に慣れた体は、果たして日常に耐えうるのだろうか……?

「まあ、難しく考えるな」

 ことみの中の疑問を読み取ったかのように、湿り気を吹き散らす聖の声が聞こえた。
 自分のことばかり考えていたが聖はどうなのだろう、とことみは考える。
 家族を失い、帰る場所が失われた聖は自分などとは比べ物にならないくらいのショックを受けているはずなのだ。
 悲しみで我を押し潰されてもおかしくはないはずなのに、どうしてこんなに強く在れるのだろうか。

 だが自分には尋ねられない。そんな度胸は、この期に及んでも持てない。
 沈黙で答えるしかなかったことみに苦笑したような風になって、聖は言葉を重ねた。

「人はそう簡単に壊れたりはしない。私にだって、まだやりたいことはある。
 それがこの一瞬、刹那的でしかなくて、何も残らないものだとしても、だ」
「……それが、先生を支えているもの?」
「そうだ。……自分で考えて、自分で決めたことだ。
 きっと後悔することになるかもしれん、がほんの少し先の未来でさえ考えられないような人間ではいたくないのでな。
 何十年も先のことじゃない。明日やりたいことでもいいし、一週間後にやりたいことでもいい。
 私は今日やりたいことをやっている。ことみ君には何かないのか? やりたいことは」

657End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:49:16 ID:4D5sJK1.0
 心の中を察したかのような聖の言葉だが、きっと推測したのではないと思う。
 医者として、人間として、空白のままの人間でいて欲しくないという願いが聖の言葉から伝わってくる。

 実際そうだという自覚はことみ自身にもある。父母に伝えられなかった言葉、朋也を待ち続けた時間。
 ぽっかりと空いた時は知識を埋めるためだけに使われ、何ひとつやりたいと思ったことをやっていない。
 膨大すぎる知識だけを持て余し、その合間すら埋めるために図書館に篭もっている日々が続いた。
 自分の意思などなく、ただ空白だけを塗り潰すために過ごしてきた時間だ。

 しかし朋也との再会を切欠に様々な人と出会い、過ごし、空白は少なくなっている。
 自発的な行動はあまりないし、大抵が誰かに引っ張られる形での行動だ。
 まだ、自分は自分から何かが出来るような人間ではないのかもしれない。

 それでも確かに……引っ張られることを選択したのは他ならない自分、だ。
 だとするならそれは、自分が望んだことなのだろうか。
 結局……それはやりたいことではないようにしか思えなかった。だが、やりたいことではなくとも、目指すべきものはあった。

「ごめんなさい、今はまだ見つけられないの……でも、でも、友達や聖先生と一緒にいたい。それだけは確かなことなの」

 そうか、と返答する声が聞こえ、つかの間の沈黙は完全な静寂へと変貌した。
 なにか思うところがあったのか。沈黙から静寂に変わる間、聖は考え事をしているように思えた。
 自分よりも大きいはずの聖の白い背中が、その瞬間だけは小さくなったように見えたのだ。

「……さて、灯台を過ぎたか。ここから先は氷川村だな。どこかに農協があればいいんだが……軽油があるかな」

 取り繕うように言葉の大きさを変えて、聖が周囲を見回す。
 長髪が揺れるのに合わせてことみも周囲を探ることにする。
 暗くなって視界が定まらない。ライトでも点ければ少しは見晴らしも良くなるのだろう。

658End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:49:33 ID:4D5sJK1.0
 だがそれは同時に自分達の居場所をアピールしてしまうことに他ならない。
 是が否でも成功させなければならない使命がある以上、極力知らない人間との接触は避けたいところだった。
 地道で時間のかかる作業だが今はこうするしかない。殺し合いに時間制限はない。

 タイムリミットがないのならば十分に活用してやるまで。しかし、逆にそのことが疑問点として頭にこびりついている。
 本当に殺し合いを推進するならばどうあっても人が人を殺さざるを得ない状況に持ち込むことが不可欠だ。
 『殺し合い』はただ単に殺せばいいのではない。あくまでも参加者が自発的に殺しに行かなければ意味がない。
 友人のため、家族のため、或いは自分の命のため。理由はどうとでもつけられる。必要なのは、踏み出させる切欠。
 けれどもこの殺し合いにはそれが決定的に不足している。穴が多すぎるのだ。

 時間制限がないということは、のらりくらりと状況を進められるということだし、
 定期放送でも呼ばれるのは死者の名前ととても信じがたいような与太話ばかり。
 とてもじゃないが本気で殺し合いをさせたいようには、ことみには思えなかったのだ。

 寧ろ反抗の余地を残してさえいる。例のカードキーもしかり、首輪にも盗聴機能しかつけていないこともしかり。
 反抗させることが狙いなのだろうか。そうだとして、反抗させるメリットは?
 殺し合いに乗った連中とぶつかることを考慮すればますます意図は読めない。
 一体、主催者が必要としているものは何なのだろうか?

 疑問しか浮かばず、結論も思い当たらない以上聖にこの話を持ち込むのはやめておいた。
 今は課題を増やしたくはない。やることは軽油の確保だ。
 顔を持ち上げ、意識を周囲へと戻す。すると外れのほうにぽつんとひとつ、古臭いながらも大きな建物が見えた。

 錆びた鉄骨がむき出しになっているそれは潰れた施設であることを想像させる。
 しかしこういうところには、得てして廃棄された資材などが打ち捨てられているものだ。
 使えるかどうかはまた別の話になるが、廃工場であるならひょっとすると火薬のひとつでもあるかもしれない。
 電気信管は流石に期待は出来ないが、行ってみる価値はある。あるかも分からない農協を探すよりは建設的なことのように思えた。

「先生。あそこにある建物、見える?」

     *     *     *

659End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:50:07 ID:4D5sJK1.0
 薄暗い室内。殆ど光も差さない一角、隅に隠れるようにして宮沢有紀寧はノートパソコンを起動させていた。
 その傍らにはコルトパイソンと首輪爆弾起動のためのスイッチが置かれ、彼女の内心の焦りを表している。
 何度も思ったことだが、所詮自分は単体で殺しあえるほど強くはない。

 だからこそこれまで他者を使い、利用し捨てることでここまで生き延びることができた。
 人とのコミュニケーションは得意だし、会話を自分のペースで進めることだって得意だ。その自負はある。
 もう一度だ。もう一度だけ、どこかに紛れられるチャンスがあれば優位な立場で最後の決戦を迎えられる。

 ロワちゃんねるを開き、残りの生存者がどうなっているか確認する。
 まだ20人強は残っているだろうと予想していた有紀寧だったが、その予測は良くも悪くも裏切られる。

(……20人を切っている、のですか)

 先程の乱戦の様子から見てこの結果が想像出来なかったわけではない、が驚きを覚えたのも事実だった。
 放送が終わったときと比べても半数近くが死亡している。場合によっては夜明けまでに決着がつくこともあり得る。
 問題は自分の正体を知られているかどうか、だ。

 戦いの様子を見てはいたものの会話の内容を聞き取れたわけではないし、
 柏木初音はともかくとして藤林椋が喋らなかった保障はない。
 柳川祐也に関しても同様だ。誰かと潰し合ってくれたのはいいが反抗的な男だ。
 こちらの情報を誰かに伝えられた可能性もある。何にしろ、自分の正体が誰にもバレていないと信じるには甘すぎる。
 さらに人数も少ないということは、早急に手駒を見つけないと己単体で戦わざるを得ないことを意味する。
 少々のリスクは犯してでもこちらから接触し、現状をどうにかしなければ危うくなる一方だ。

 そこまで考えて、額に汗を浮かべ、意識も浮つかせている自分がいるのを自覚する。明らかに焦っている。
 不安がっているのだろうか。誰もなく、孤独な我が身に心細さを感じていたとでもいうのか。
 汗を拭い、ゆっくりと息を吐き出し、有紀寧は雨の降り続く空を、欠けた屋根越しに見上げた。

660End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:50:25 ID:4D5sJK1.0
 村はずれにぽつんと佇み、取り残されるかのようにあったそこは一時でも隠れるのにうってつけの場所だった。
 未だ雨は止まず、錆びた鉄骨から滴り落ちる雫が床にも水溜りを作り上げている。
 時折奏でられる水滴の音色を聞きながら、有紀寧は初音のことを思い出す。

 もしここに初音がいればどうだっただろう。
 無用な焦りも感じず、ただ自分を信じてついてきてくれる初音に自信を得ながら次の策を考えていただろうか。
 今の自分のちっぽけさ、小ささを感じながら、やはり家族という亡霊に取り付かれているのだと痛痒たる思いを抱く。
 家族が欲しかったのか。或いは取り戻したかったのか。それともやり直したかったのか。

 いずれも無理な話だと理性は知り抜いているにも関わらず、心の奥底が求めて止まない。
 何故こんなにも切望するのだろう。家族という言葉の果てに、自分は何を得たかったのだろうか。
 今もそうだ。言葉だけを追い続け、具体的にどんなことをしたいのか、どうしたいのか、全く分からない。
 殺し合いに参加した理由、生きて帰りたいという願いでさえも目的でしかなく、その先に充足が待つわけでもない。

 死にたくないと他者に言い続けてきた自分だが、違うのかもしれない、とそう思った。
 命が惜しいわけじゃないのだろう。ただ、知りたいだけなのだ。自分が望んでいたもの、未来の形というものを。
 それまでは死ねない。死に切れない。人間として……

 は、と有紀寧は笑った。嘲りに近い笑い方だった。この年になって自分探しとは、中々笑える。
 人殺しのくせに。センチメンタルになりすぎたと思いながら、有紀寧は闇の在り処を探した。
 殺し合いの中に身を置けば全てを忘れて没頭できる。殺すことに注力できる。
 ああ、やはり……狂っているのだ。落ち着いてゆく自分に対して、有紀寧は笑った。

 パソコンを閉じて物品の整理を始める。ここまで来たからにはもういらないものもあった。
 何故かいつまでも持っていたゴルフクラブ。近接戦闘用に、と思っていたが柄が長くて使えるとは言いがたい。
 捨てるに捨てられなかったというのもあるが。その場に放置し、残ったものをデイパックに詰める。
 コルトパイソンと弾はそれぞれスカートのポケットに入れ、スイッチは手元に。

 急ごしらえだが突発的な戦闘に対する用意はできた。後はこのスイッチを使うべき相手を探すだけだ。
 デイパックを背負って立ち上がったところで、水がぱしゃりと跳ねる音が聞こえた。
 人か!? さっと資材の陰に身を隠す。
 まさかここに誰かが来るとは思わなかっただけに意外だった。まさか大人数、というわけでもあるまい。

661End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:50:43 ID:4D5sJK1.0
 唾をひとつ飲み込むと、有紀寧はなるべく音を立てないようにして移動を開始し、耳に神経を傾ける。
 少なくとも人数の把握はしておきたい。大人数なら一旦逃げざるを得ないが、一人二人なら話は別。
 隙をついてスイッチを起動させることは容易だ。ここには物陰も多い。
 資材に張り付くようにして動く有紀寧に、喜色を浮かばせた女の声が聞こえてくる。

「あったの、先生!」
「本当か? まさかこんなところにあるとは……」

 声はもうひとつ。ぱしゃぱしゃと音を立てながら足音が遠ざかっていく。どうやら二手に別れて何かを探していたらしい。
 それに、一人は聞き覚えのある声だった。確か自分の通う学校で時たま怪音のバイオリンを聞かせていると評判の生徒のものだ。
 確か名前は……一ノ瀬ことみ、だっただろうか? 残念ながらもう一人は誰かは知らない。
 だが先生と呼ばれていることから少なくともことみよりは年上で、ことみの保護者と判断した方がいい。

 なるほど賢い選択だ。この殺し合いに対してどのような姿勢なのかは知らないが、強い人物に保護してもらうのは正しい。
 ノコノコとは出て行くまい。一ノ瀬ことみだとは分かるものの保護者がいる以上迂闊に手出しは出来ない。
 上の立場にいるものは得てして警戒心も強い。こんなところにひとりで隠れているというのは確実に怪しまれる。
 これが殺し合いが始まってすぐ、というならまだしもかなり時間が経過した状態で、一人でいるというのは考えられないことだからだ。
 余程保身傾向が強い臆病者でさえも人と絶対に会いたくないかというと、そうではない。
 どんな人間でさえも孤独は心細い。現に自分だってそうだ。

(狂っているわたしが言っても、説得力はないと思いますけど、ね)

 とはいえ、理には叶っている。隠れるというのもあくまでも怖い人間に見つかりたくないという思考から。
 安全そうな人がいれば出て行き、そうでなくとも様子を窺うくらいのことはする。
 絶対な孤独を望む人間なんて、余程人生に絶望していなければ有り得ない。

 まあ、とにかく総括するなら……自分はあくまでも普通で、ここまで一人ぼっちで隠れていられるような人間ではないということ。
 それを疑われればお終いだし、何より今の自分は爆弾を抱えている。殺し合いに乗っているという爆弾が。
 だから作戦は一つ。忍び寄って、首輪爆弾を起動させる。

662End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:51:02 ID:4D5sJK1.0
 最初のターゲットは……保護者のほうだ。
 強者にくっついているということは、裏を返せば上を落としてしまえば下も無力化するということに他ならない。
 依存度が強ければ尚更、だ。
 故に待つ。二人がまた分かれるまで、どこまでも待ち続ける。ジョロウグモのように。

     *     *     *

 屋外に廃棄されていたのは古さびたトラクターだ。
 機種としては比較的新しい方なのだが、
 手荒く使われていたのか傷やパーツの欠損が目立ち、一目にも使えなくなっているのが分かる。
 もし工具があればすぐさま修理にとりかかりたい衝動に駆られたがそんなことをしている場合ではない。

 問題はこのトラクターに軽油があるかどうか、だ。空っぽであるならば徒労に終わる。
 いや寧ろそちらの方が可能性は高い。あまり期待はするまいと思いながら聖は燃料タンクのフタを開ける。
 瞬間、鼻腔がなんとも表現しがたい匂いを感じ取り僅かに意識が遠のく。
 直接匂いを嗅ぐのは失敗だったかと思いつつ、聖はペンライトでタンクの中を照らしてみる。

「……ほう」

 むせ返るような刺激臭に目まで焼かれそうな感覚を味わいながらも、聖は静かに波打っている液体を発見した。
 間違いない。燃料だ。それも結構残っている。
 内心快哉を叫びながらも、何故廃棄されたトラクターにこれだけの燃料が残っているのか、と疑問が浮かぶ。

 考えても詮無いことだ。ここが人工島である可能性が高い以上、
 施設は全て演出目的で作られたものだろうしもしくはわざとこのように配置したとも考えられる。
 可燃性の燃料に火の一つや二つくべてやればあっという間に大炎上。人を焼き殺す凶器となる。
 戦闘が原因にしろ不慮の事故にしろ、人が傷つき、死亡することを狙ったとも言える。
 推測にしか過ぎないが殺し合いという名目がある以上単なるミスや偶然とは思えない。
 怒りを滾らせながらも、しかしそういう考えが奴ら自身の破滅を招くのだと結論した聖は内奥に怒りを仕舞い込んだ。
 爆発させるときは、奴らの懐だ。

663End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:51:31 ID:4D5sJK1.0
 ペンライトを消し、後ろで待つことみの方に振り返った聖はニヤと笑った。
 その意味を瞬時に理解したらしいことみはコクコクコクと素晴らしい勢いで頷いた。
 後は燃料を取り出すだけ。ポンプの一つでも持ってくれば必要な分の量は確保できるだろう。
 いざとなれば直接タンクに穴を開けて回収してもいい、がなるべく安全確実に回収したいのが聖の本音だった。

「ふむ、後は、あれだな。ポンプを探してきてくれ。私はここに残って見張りをする。
 誰かが来たらまた対応を考えなければいけないからな」
「うん、了解なの。……ところで先生、本当に機械にも詳しかったんだ」
「言ったろう? トラクターの修理だって出来る、とな。
 まあ土地柄と家族構成の関係上、やれることは多いほうが良かったからな」

 父も母もなく、自分ひとりで佳乃を養ってこなければならなかったため必然的に様々な資格を取得することも多かった。
 生活のためということもあったが、相互扶助の側面が大きい町でもあったから色々やっていたら自然と身についたものもある。
 だが今は自分ひとりという事実が圧し掛かり、聖の体を冷たくする。

 考えてみれば自分の人生は妹ひとりのために投げ打ってきた。
 そうしなければ守れなかったという現実もあったが、そうするしかなかったという仕方なさもあった。
 医学の道を志したのも妹の原因不明の病気を治すためだし、また女の身で家計を支えるにはこれが一番だという考えから。
 自分で意思して決めたわけではなく、人を救いたいという思いから医学の道に進んだわけでもない。
 妹のため、という言葉自体は間違いなく自分の意思に他ならないが、それは当たり前のこと。家族なら当たり前のことだ。

 ……私は、夢を持てなかった。

 夢を諦めたのではなく、最初からそのようなものを持っていなかった。
 それでもいいと思っていた。妹と平和に暮らせるのなら夢なんかなくたっていい、自分のことも考えなくていいと。
 しかし、今は現実が突きつけられている。依存する先を失い、何をしたらいいのか分からないという現実が。
 これからの自分に夢が持てるのか。考えさえ放棄していた己が今さら掴めるものがあるとでもいうのか。

664End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:51:47 ID:4D5sJK1.0
 佳乃、私はどうしたらいい……? どんな顔をして生きて帰ればいいんだ?
 やりたいこと。夢。ことみでさえ分からないと言ったそれをどうやって見つけ出すのか。
 脱出が夢まぼろしではなくなってきたこと、芽が見えてきたことに聖は自分でも正体の分からない恐怖を感じた。
 今やりたいことは確かにあっても、やりきってしまえば空っぽの自分しか残らない。
 ことみに対して向けた言葉が、あまりに白々しいもののように感じられた。

『人は簡単に壊れたりしない』『少し先の未来でさえ考えられないような人間ではいたくない』

 強がりだな、と聖は己の不実に嘆息するしかなかった。
 全ては詭弁で、本当は自分こそが答えを求めていたのかもしれない。
 夢を持てない大人はどう生きればいい、と。

「……先生?」

 黙ったまま何も言わなかったからか、ことみが心配そうな声をかけてくる。
 問題ないよ、と微笑した聖は早く行ってこいという旨の言葉を出そうとしたが、それより先にことみが続けた。

「先生って、色々出来るの。どうしてそんなにいっぱい出来るのかな」
「そうでもないさ」
「そんなことないの。人を治せるだけじゃなくて機械にも詳しいし、気が利くし、それに……誰かを守れる力があるの。
 私は知識だけ。知っていても、使ったことがないの。ただ知っているだけ」

 ことみは自らが無力だと語るように表情を険しくした。
 買い被りだ、と思いながらも無下に否定することも聖はしなかった。
 彼女が言いたいのはそういうことではないというのが分かっていたからだった。

「私は、先生みたいな人になりたい」

665End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:52:06 ID:4D5sJK1.0
 ことみの言葉に、聖は何も言えなかった。いや言うべき言葉が途切れてしまった。
 憧れ、信頼している少女の瞳がそこにある。だがそれは盲目の信頼ではなく、知ろうとする信頼だった。

「先生がどんなことを考えているかなんて分からないし、完全に知ることもできないと思うの。……どれだけ物事を知っていても。
 でも先生のやってきたことを、私は尊敬してるから。誰かを助けようとしてくれる先生を尊敬してるの。
 そこに嘘があったとしても、私は先生のついた『嘘』を信じたいの」
「……ふむ」

 ことみの下した結論はそうなのだろう。何をやりたかったのかも決められなかった彼女。
 けれども今は目標を定めて、進もうとしている。
 理由が打算的であったとしても人に恥じない行為をしていることを信じて。

「なら、とりあえず医者を目指してみるといい。だが案外厳しいぞ? 昨今の医療業界は」
「そのときは師匠、宜しくお願いしますなの」

 びっ、と敬礼まがいのポーズをとり、わざとらしく口元をへの字に結ぶことみ。
 思わず苦笑が漏れた。先生の次は師匠ということらしい。不思議と悪い気はしなかった。

 ことみの見ているものは虚像だ。自分が作り上げた虚像にしか過ぎない。
 ただ、それを自分と同質に見てくれたのもことみだ。そこを目指し、導いてくれと言ったのもことみ。
 どうやら自分には夢は夢でしかないのだろうと思った聖は、意外なほどすっきりとしている胸の内を眺めて安堵していた。

 大人になりきってしまった己には仕事に明け暮れるしかない。しかしそれでいい。
 仕事を通じて何かを伝えることもできる。自己満足だって得られる。
 学校を出るときに思ったことと同じだ。未来を望む人達を導く。それが大人の役目だ。

 どうして未練たらしく、自分も救われるなどと思っていたのだろう。
 その資格を自分で手放してきたくせに、今になって望むのは虫が良すぎる。
 だから自分が掴めるのは自己満足と他人の未来だ。だがそれは見守りながら朽ちてゆける価値のあるものだ。
 救われる必要はない。救われなくとも、幸福にはなれる。そう納得できるのも人間だ。

666End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:52:25 ID:4D5sJK1.0
「うむ、宜しくお願いされよう」

 びっ、とこれまたわざとらしくことみの真似をする聖に今度はことみが苦笑した。
 仕事をさせようとするからだ。ニヤリと口元を歪めた聖を見たことみは肩をすくめて廃工場の中へと戻っていった。
 ポンプとタンクを取ってくるつもりだろう。自分は自分のすることをする。
 そう断じた聖は顔を上げ、トラクターを背にするように移動する。誰かが来るかどうか見張るだけだ。

 デイパックは背中から下ろして近くに置く。いい加減背負うのも疲れた。
 と、ふと聖は日本酒が入っていることを思い出し、迷いながらも一口だけ飲むことにした。今までの澱んだ考えを洗い流す意味も含めて。
 デイパックの中にあるそれはまだ十分な量があり、ビンの中で液体がたゆたっている。

 栓を開け、一口。久々に味わう酒の感覚が喉を潤し、心地良さが体を満たしてゆく。
 きっとそれは自分の心境の変化のせいもあるのだろうと思いながら、続きは後にしようと日本酒をポケットへと仕舞う。
 サイズ的にはそれほどでもなかった。携帯用の酒瓶なのだろう。そんなことを思いながら聖は思考を移す。
 さて、万が一戦闘になってしまったらどうするか。肉弾戦ならともかく遠距離からの銃撃などに晒されたら対応し辛い。
 でかい狙撃銃らしきものはあるがそんなものを撃てる技術は流石にないし、医者としてのプライドが許さない。

 なら半殺しにはしてもいいのかということにはなるが、治せば構わない。
 要は命があればいいのだ。……もっとも、命を蔑ろにし、奪うような輩にはまだ出会ってはいないのだが。
 人がたくさん死んでいる現状で、それはきっと不幸なのだろうなと思いながら聖はベアークローを装着する。
 できるならもう誰も死なずに脱出したいものだ……そう考えたとき。

 ぱしゃぱしゃと水音を立てて近づいてくるものがあった。
 もう戻ってきたのかと思った聖だったが、早すぎるという直感が体を動かし、音の方へと振り向かせていた。

「遅いですね」

 ぼそりと呟かれたときには、既になにかが自分の方へと向けられていた。
 しまったと思ったのも遅く、忍び寄ってきていた女は粘りつくような視線を向けてくる。
 小柄な体と綺麗に揃えられた長髪は、女の雰囲気には不釣合いなように思えた。

667End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:52:48 ID:4D5sJK1.0
 動揺しかけている頭をなんとか平常心に保ちつつ「何をした」と尋ねる。
 どうなっているのか分かっていない現状、こちらから手を出すわけにもいかない。
 女はそれを分かっているのか余裕を持った、見下すような視線を向けてくる。

「まあまあ、それよりもあなたの相方が帰って来るのを待ちませんか? その方が説明の手間が省けます」

 慇懃無礼とはまさにこのことか。穏やかで丁寧ながらも自らが場の支配者だとも言わんばかりの調子に、聖は不快感を覚える。
 また説明しないのはこちらに手を出させないためでもあるのだろう。敵は周到だ。
 厄介だなと内心に嘆息しながら構えを崩し、武器を外すと女は満足そうに頷いた。それがまた聖の心を逆撫でしたのだが。

「自己紹介くらいはいいかもしれませんね。わたしは宮沢有紀寧といいます。宜しくお願いしますね、一ノ瀬ことみさんの先生」
「盗み聞きとは良くない趣味だな。それと、私を気安く先生と呼ぶな。聖さんと呼べ。ちなみに名字は霧島だ」
「わたしは臆病なものですから、すみませんね霧島さん」

 あくまでもこちらの優位に立つように会話する有紀寧に、聖は己の迂闊さを呪う。
 内部に誰かが潜んでいるというのを全く考慮していなかった。
 村から少し離れた場所だから誰もいないと高をくくっていたのかもしれない。

 何にせよ、この女は危険だ。どうにかしてことみに連絡できればいいのだが……
 有紀寧の口ぶりからするとことみの存在は知っているものの接触はしなかったようだ。
 何故ことみではなく自分を狙ったのか。

 何らかの罠に嵌められたのは確実だが、工場内部に潜んでいたのなら入っていったことみを狙うのが筋だろう。
 とは言うものの、ことみが標的にされなくてホッとしているのも事実だ。
 大人として、保護者として、ことみを殺させるわけにはいかない。そんな仕事すら満足に出来ない大人であってたまるか。
 堅く決意を握り締め、聖は探りを入れる。

「どうして私を狙った」

668End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:53:15 ID:4D5sJK1.0
 予測の範疇で言うなら、ある程度察しはつく。自分の方が強いからだ。聖はそう考える。
 殺さない、ということはすなわち生きているという事実を人質にするようなもの。
 肉体の強弱の面で言うならことみと自分では、明らかに自分の方が上だ。ことみを人質にしたとしよう。
 その場合自分が反抗するのと、自分を人質に取ったとして、ことみが反抗する場合とではどちらが成功率が高いか。
 決まっている。強い方が単純に考えて成功率が高いはずだ。だから有紀寧は自分を人質にしたのだ。

「そうですね……まあ、あなたの方が都合がいいからということにしておきますよ」
「適当に狙ったのではないわけだ」
「言ったでしょう? わたしは臆病な人間ですと」

 言外に慎重かつ油断も隙も見せないと語る有紀寧に、聖は言葉では崩せないと確信を得る。
 我知らず舌打ちが鳴り、焦ってきていることも聖は自覚する。初めての敵がこうも狡猾な相手だとは。
 もう少しまともな相手を寄越してくれてもいいんじゃありませんか神様?

 返す言葉を失った聖は、いっそ暴れて異変を知らせてやろうかとも思ったが、
 有紀寧の片手が不自然にポケットに入っているのを見てやはりダメだ、と考えを打ち消す。
 有紀寧にとって一番避けたいのは何らかの効力があるスイッチを奪取されることだろう。
 にもかかわらず両手で保持することなく片手に持っているだけで矛先を向けようともしない。

 となればポケットの中には自分の動きを封じるものがあるのだろうと聖は予測する。
 催涙弾か、閃光弾か、唐辛子スプレーでもいい。とにかく不意討ちにもどうにかできる手段が、向こう側にはある。
 つくづく厄介だなと聖は苦渋の表情を浮かべつつも、さりとて妙案も浮かばず悪戯に時を消費するだけだった。

「先生ー! 取ってきたのー!」

 そうこうしているうちに、ことみが戻ってきてしまったらしい。
 大声を出すかと頭の中で考えた聖だが、有紀寧の冷たい視線がそれを阻んだ。
 不審な挙動を見せればまずことみを狙う。その意味を含んだ視線が工場内部に向けられ、結局口をつぐむしかなかった。
 おまけに有紀寧は工場外部の壁にもたれかかっている――つまり、ことみからは見えない位置にいるため彼女は気付きようもない。
 ことみが外に出てきた……それを見計らったかのように、有紀寧が冷笑を浮かべながらことみの横へ並んだ。

669End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:53:31 ID:4D5sJK1.0
「お疲れ様です。ですが……そこまでです」
「!?」

 突然かかってきた声に動揺し、抱えていたポンプとタンクを取り落とすことみ。
 有紀寧は努めて冷静に、かつ迅速にポケットから抜いた拳銃をことみへと突きつけていた。
 今撃つつもりがないのが分かっていても、見た瞬間聖は「やめろ!」と絶叫する。

 ちらりとこちらを一瞥した有紀寧は、ふん、と裂けるような笑みを寄越すだけだった。
 ことみの不安げな瞳が揺れ、聖の方へと向けられた。「先生……」と呟かれた声に、後悔がさざ波のように押し寄せる。
 やはり我が身など省みず、命を捨ててでも有紀寧をどうにかしておけばよかったのではないのか。
 何故自分はいつも、流されることしか出来ない……

 もう一度絶叫したくなった聖だが、それだけはするまいと断じる心が声を喉元で食い止める。
 叫び散らしてもどうにもならない。大人としての役割を果たせと鋼の意思で感情を押さえつけ、
 今度は落ち着きを取り戻した声で「やめろ」と通告する。
 聖の中にある何かを感じ取ったらしい有紀寧は僅かに眉根を寄せると、ことみから少し離れる。

「そうですね。少し乱暴過ぎました。ごめんなさいね、一ノ瀬ことみさん」
「……どうして、私の名前を」
「同じ学校の有名人じゃないですか。あ、わたしは宮沢有紀寧と申します。どうぞよろしく」

 まるで日常の中で挨拶をするように、拳銃を向けながら、にこやかに有紀寧は語る。
 いや違う。この女は日常を取り込んでいる。日常と狂気を一体化させた『普通の女学生』。そう表現するのが正しいように思えた。

「さて、と。早速ですけど一ノ瀬さんにはどんなことになっているのか説明しなければいけませんね。
 あ、霧島さんもですが、あまり動くと寿命を縮めることになりますので」

 右手に拳銃を、左手にスイッチを構えながら有紀寧は油断なく聖とことみの様子を窺っている。
 元々二対一を想定しての行動だったのだろう。だがそんなことは聖にはどうでもよかった。
 とにかくことみにだけは手を出させない。その一事だけを考える。
 聖のそんな思いなどつゆ知らず、有紀寧は話を聞く体勢に入ったと見たらしく、語りの続きを始めた。

670End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:53:48 ID:4D5sJK1.0
「まず霧島さんですが……先程押したのは首輪にある爆弾の起動スイッチです。12時間後には爆発しますね。
 赤く点滅を繰り返していると思うので、一ノ瀬さんならすぐに分かると思いますが?」
「本当か?」
「……うん。その人の言うとおり、点滅してる」

 言い慣れた調子といい、間違いなく効力はある。それに有紀寧は幾度となくこれを使用してきたということだ。
 一体何人がこの女の犠牲になったのだろうと鈍く突き上げる怒りを感じながら、「それで?」と続きを促す。

「大体わたしの言いたいことは分かると思いますが、あなた方には何人か殺してきてもらいたいんです。
 そうですね……まずは五人ほど、でしょうか」

 やはりか。薄々感じていたとはいえ、口にして出されると虫唾が走る。
 あまりに馬鹿馬鹿しすぎてため息しか出てこないほどだ。

 ああ、やはり早々に張り倒しておけばよかった。こんな馬鹿の茶番劇にことみを付き合わせることもなかっただろうに。
 殺せと命じた有紀寧の声に慄き、こちらを見たことみに対して聖は「気にするな」と微笑を浮かべた。
 こんな輩に惑わされることはない。ことみはことみのやりたいことをやればいい。
 自分はその手助けをするまでだ。思ったより落ち着いている心の内に驚きつつも聖はゆっくりと歩き出した。

「……勝手に動いていいとは言っていませんが」
「冗談もほどほどにしろ。私は医者だ。貴様ごときのために人殺しの看板を掲げてたまるか」
「一ノ瀬さんがどうなっても――」

 不快げに口を尖らせ、銃口をことみの方へ向かせかけた瞬間を狙い、聖はポケットからさっと日本酒を取り出す。
 フタを強引に開けると同時にブーメランよろしく投げられた酒瓶は、中身の液体を撒き散らしながら有紀寧へと向かった。
 正確に顔面へと投げられた酒瓶は咄嗟に身を反らした有紀寧には当たらなかったものの中身が思い切り顔面へと当たる。

「っ!?」

671End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:54:19 ID:4D5sJK1.0
 雨のせいで無色透明の液体が見えづらかったのもあり、有紀寧はモロにそれを浴びる。
 ひるんだところに聖が体当たりしてきた。圧された有紀寧と突進した聖は絡まりあうようにして地面を転がる。
 しばらくして二人の動きが止まる。有紀寧が下、聖が上をとる形で膠着していた。

「く……! あなた、命が惜しくないんですか!」

 銃口をこちらの方へ向けようとするがそうは問屋が下ろさない。聖は片手で拳銃の先を掴んでギリギリ急所から外す。
 スイッチを持つ腕もしっかり押さえる。
 とは言っても首輪が爆発したところで有紀寧にも被害が及ぶだろうから、そんなに気にしているわけではなかったのだが。

「そちらこそ観念したらどうだ。大人しく私に半殺しにされて治療を待ってみる気はないか」
「人を殺すだけの度胸もない大人が、なにをいけしゃあしゃあと……」

 先程まであった冷笑は底暗い闇を持った、蔑む嘲笑へと変わっていた。
 ただ有紀寧の瞳は何をも捉えてはいない。嗤っているのは自分さえも含めた世界の全て。
 人が人を殺すことを許容する環境、その中でしか生きられない有紀寧、そして聖たちをも無駄だと嗤っていた。

「わたしは生きて帰らなきゃいけないんです。そのためならなんだってする。なんだってしなきゃいけない。
 死んでも死に切れない理由があるんですよ。それをやれ医者だからやれ殺したくないからと曖昧な理由で濁して、
 逃げ続けているあなた達のような人がどうして生きているんですか。こんな人たちが生きているくらいなら、どうして……」

 不意に有紀寧の瞳に人間を思わせる光が差し込み、聖をハッとさせた。
 泣いているのかと思った直後、無理矢理に有紀寧が発砲し、聖の肩を貫いた。
 一瞬気を緩めてしまったせいだった。仰け反った聖を体ごと押し返し、有紀寧は拘束から逃れた。

「先生!」

 駆け寄ってきたことみに支えられながら、聖は既にこちらから離れ、無表情に銃口を向ける有紀寧の姿を仰ぎ見た。
 人間を感じさせた瞳はもう失われ、人を殺すという選択肢しか選べなくなったひとの悲しさがありありと映し出されていた。

672End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:54:35 ID:4D5sJK1.0
「やらなければやられる。弱ければ殺される。それがこの世界の掟です」
「……なら、弱いのはお前だよ」

 減らず口と受け取ったのだろう。ぴくりと指が動きかけ、ギリギリで押し留めるようにして有紀寧は息を吐いた。
 有紀寧は反論しようとしたが、その前に聖が言葉を叩きつける。そうしなければいけないという思いがあった。
 主張しなくてはならない。断固として膝を折ってはならない。餓鬼の我侭を修正してやらなければならなかった。

「君は結局この状況、この島の雰囲気に呑まれ押し潰されただけだ。
 望んでいたものはあっただろうに、もう遅いんだと諦めたつもりになって……
 子供のくせに、分かりきったような顔をして。小賢しいな、宮沢有紀寧」
「賢しくて悪いですか」

 言い返す有紀寧の語調は感情が滲み出ていた。子供と揶揄されたのが気に入らなかったのだろうか。
 有紀寧がどんなことを思っているのか知ったこっちゃない。自分と同じ立場であろうとするのが気に入らないだけだ。
 は、と聖は笑った。

「君の言葉、そっくりそのまま返すよ。どうして生きている。たくさんの人を犠牲にしてまで、それだけの価値があるのか」
「……ありますよ。そうしてわたしは生きているのですから」
「はっ、どうだろうな。君の本性を知らないまま死んでいった人もいるだろうに。
 君が未来を望めると思って殉じた人もいるはずなのに。
 そうしなきゃ生きられないと諦めた末の選択に身を任せた人間のために死んでいったとは、浮かばれんな。
 無価値だ。断言してやる。君のために死んだ人間は全員無価値だ。
 君には何もない。人間の価値を蔑ろにした君が分かったような風になって――」
「――黙れ。何も知らない癖に!」

 冷笑も蔑みも嘲笑も吹き飛ばし、怒り一色に染まった有紀寧の声と銃声が重なる。
 感情に任せて発砲された銃弾が聖の体を抉り、貫き、焼けた鉄の棒で神経を抉られる感触を味わう。
 ことみの悲鳴が耳元で弾ける。幸いにしてことみに被害はなかったようだ。

673End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:54:52 ID:4D5sJK1.0
 ならば、いい。済まないと囁き、ことみを振り払って聖は立ち上がる。
 ことみよりも、目の前の我侭な子供を優先しようとしている。会って間もない敵の方を優先している。
 顰蹙どころの話ではない。佳乃にだって大ブーイングだろう。
 でも、これが性分なんだと聖は苦笑する。情けない奴には張り手を。霧島家の方針だ。そうして強く育ってきたのだ。

「来ないで下さい。近づけば爆破します」

 苦渋を呑んだ有紀寧がスイッチを向けていた。
 明らかに聖の雰囲気に呑まれ、動揺しているのが分かった。
 何故感情を出してしまったのかという後悔さえ窺えた。

 聖はそれに対してさえ軽い苛立ちを覚える。この期に及んでまだ大人を気取ろうとする。
 若いくせに。全くいい加減にして欲しいものだと憤懣たる思いを抱きながら聖は歩く。
 懺悔させてやる。懺悔して、地を這いつくばってごめんなさいと言わせてやる。
 けれども血を垂れ流しながら進む聖に、縋るように掴む手があった。

「先生……!」

 ことみが泣きそうな表情をしていた。自分でもどうしてこんなことをしているのか分かっていないような表情だった。
 聖のやろうとしていること、決意が正しいものだと知りながらも身体が拒否してしまったのだろうか。
 有紀寧とは大違いだ。聖はことみから目を反らし、有紀寧の方を見据えながら言った。

「やりたいことをやればいい。私が言えることはそれしかない。
 目指すものを変えてもいい。望まれる道を進むのもいい。
 だが人生を腐らせるな。悪戯に思いだけを持て余すな。資格を失ってからじゃ、遅いんだ」

 我ながら説教臭いと聖は失笑する。それに説得力もない。
 けれども、自分は神様ではないのだと知っている。言葉に出してでしか思いを伝える術を持たないのを知っている。
 分かってくれ、じゃない。分からせなければいけない。努力を怠り、放棄してしまった瞬間に人間は堕ちてしまう。
 宮沢有紀寧のように。

674End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:55:08 ID:4D5sJK1.0
 掴まれた服がゆっくりと放された。その感触を聖は確かめ、再び有紀寧へと歩き出す。
 血はとめどなく流れ、時折意識が朦朧とする。存外血が足りていないらしい。
 不規則な生活を送っていたからかな、と自分でも訳のわからないことを考える。
 そんなどうでもいいことを考えられる程に頭の中が透き通っていた。或いはひどく恬淡とした顔なのだろう。

「止まりなさい。止まらないと……」
「やってみろ」

 獣の唸るような低い声に有紀寧が意識を浮かせる。刹那の恐れを聖は見逃さなかった。
 怯んだ有紀寧に対して聖が駆ける。間は僅かに数メートル。この至近距離で爆発させれば有紀寧も無事では済まない。
 聖は死ぬ気などない。それよりも有紀寧への腹立たしさが先立っていただけのことだった。
 自分も巻き込まれると気付いた有紀寧は咄嗟に拳銃を構える。

「あまりわたしを舐めないでください」

 声はゾッとするほど無味乾燥であった。
 動じていない……? 聖の疑問はすぐに解決されることになった。
 拳が有紀寧の顔面に届く寸前、至近距離から狙って発射された銃弾が霧島聖の体を断ち切った。
 聞き分けがないとは思っていたが、どうやら予想以上に人の話を聞く奴ではなかったようだ。

 悔しいな。聖の頭に浮かんだのはその一語だった。
 妹の姿、ことみの姿、出会っていった人々の姿が現れては消え、死の悲しさと恐怖を伝える。
 こんなにも死ぬ事が怖い。もう生きていくことが出来ないのがあまりにも辛すぎる。

 でも、と聖は思う。
 だから自分が死にたくないとは思わず、死のつらさを教えて回りたいと思ったことは、やはり己が大人だからだろうか。
 もうそれも出来なくなってしまったが――ああ、それが、一番辛いな。
 ことみにもうこれも教えられない。聖は初めて無念という感情を覚え……意識を暗転させていった。

     *     *     *

675End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:55:45 ID:4D5sJK1.0
 ぐらりと聖の体が傾き、くず折れる。「分からず屋め……」と呻いたのを最後に前のめりになるようにして動かなくなった。
 何が諦めたつもりになって、だ。何が無意味だ。おこがましい。大人気取りの偽善者が。
 罵詈雑言が次々と浮かんでは聖へと叩き付けられる。鬱憤晴らしをするかのように、有紀寧はさらに発砲した。

 頭蓋骨が割れ、脳漿の一部が飛び出す。罅の入った西瓜を棒で突く感覚だった。
 銃弾が尽き、コルトパイソンがカチリと弾切れの音を立てる。
 スイッチを一回分無駄にしたと有紀寧はもう一度腹を立て、残る一ノ瀬ことみの姿を探した。

「逃げましたか……」

 聖とやりとりをしている間も体を震えさせていたことから考えれば当然の結果とも言える。
 変な意地のお陰で千載一遇の好機を逃した。その上悪戯に武器弾薬を消費してしまったことを思えば優勝は遠のいたに違いない。
 そういう意味では聖は一糸報いたといってもいい。こちらからすればとんでもない損失だが。
 聖の遺体を嬲り尽くしたい気分になった有紀寧だが、こんな奴に構っている暇はないと、コルトパイソンに銃弾を再装填する。

 どうも心にはさざ波が立っている。理由は言わずもがな、聖のせいだとは分かっているもののもうどうする術も持たない。
 寧ろ何を苛立っているという疑問が渦巻き、落ち着かせようと必死になっているのが信じられない。
 聖に言われたことは確かに事実を含んだ部分もある。

 しかしその程度で動じるような人間だっただろうか、と有紀寧は脆弱になったらしい己を眺め、失望せずにはいられない。
 いや状況が若干不利に傾き、焦っているだけだ。また優位に立てばこのさざ波も収まる。
 無理矢理そう結論した有紀寧がシリンダーを戻し、また歩き出す。

「っ!? あぐっ!」

 が、転ぶ。いや転ぶ以前に発した破裂音と同時に鋭い痛みが走り、立てなくなっていた。
 地面に体を打ちつけながら、有紀寧は自分がどうなっているのか確認する。
 見ると、太腿の付け根から血が出ていた。鉛筆ほどの太さの穴も開いている。
 撃たれたのだ、と認識した瞬間、殺されるという恐怖が駆け巡り、寝ていては殺されると体を引き摺り、這うようにして逃げる。

676End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:56:03 ID:4D5sJK1.0
「……まだ、逃げるんだ」

 そんな有紀寧の後ろから、低く搾り出された声が聞こえた。

「……あなたですか」

 聞き覚えのある声に有紀寧は失笑する。相手にではない。自分に対してだった。
 言葉を交わす意味も価値もない。そう断じた有紀寧は転がってコルトパイソンを撃とうとしたが、遅かった。
 既に見切っていたらしい相手は半ば乱射気味ながらも有紀寧が撃つ前に撃ちこみ、
 肩や腕に直撃させ、有紀寧の戦闘能力の一切を奪った。

 コルトパイソンは手から零れ落ち、腕も満足に動かなくなる。
 特に鍛えているわけでもないから当たり前か、と冷めた感想を抱きながら有紀寧はまだ力の残る腕でスイッチを握り締める。
 わたしの守り神。最後まで手放すものか。強く思いながら、有紀寧は発砲した敵へと向けて言葉を放った。

「ひどい、ですね……半殺しなんて」
「……先生を……殺した、くせに」

 怒りを押し殺した声は一ノ瀬ことみのものだった。彼女は上から、有紀寧を見下ろしていた。
 動かした視線の先では長い銃を構え、半泣きの表情で、しかししっかりとした立ち振る舞いをしている。
 逃げたと思ったら、違ったというわけだ。逃げたのではなく、射程外から狙撃するために距離をとった。
 霧島聖を犠牲にして。やってくれる、と有紀寧は改めて聖を憎んだ。本当に、一矢報いてくれた。

「本当は許せない。あなたみたいなわるものを絶対に許したくない。でも、殺さないの。私は先生の弟子だから」
「……偽善者風情が……は、わたしを殺したも同じでしょうに」
「もう生きるつもりもないんだ」

677End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:56:19 ID:4D5sJK1.0
 カチン、と来た。こいつもまた、自分を見下そうとするのか。子供だと、餓鬼の我侭だと言い通して。
 わたしはこうせざるを得なかった。こうするしかなかった。
 結果的に酷いことをしてきたとはいえ、最初から望んでやったことじゃない。
 戻るためには生き延びる必要があった。生きなければならなかった。それに強い武器も手に入れた。
 だったら、悪魔の言葉にだって耳を傾けてしまうのが人間。そうではないのか。

「わたしだって死にたくないですよ。死にたくない。生きて帰りたい。そのために何だってすることの、何が悪いんですか」
「だからって、生きるためにはしょうがない、こうするしかないって、他の全部を犠牲にしてもいいの?
 ……自分でさえも。先生の言葉に怒ったってことは、図星な部分があったってことなの。
 本当はこんなことしたくなかった。したとしても、犠牲にしたくないものもあった。……あなたは分かってたはずなのに」
「……何を言うかと思えば……」

 敵対的な口調は崩さないながらも、否定しきることはできなかった。普段なら嘘を吐いてでも反論するはずなのに。
 それともことみの言うとおり、もう生きるつもりもないからなのだろうか。『また』諦めているからなのだろうか。
 分からない。ただ、自分に勝機がないのは事実だった。こんな有様で、スイッチを使おうにもその前に攻撃される。
 しかも寝たきりであるため、下手すれば自分に起動してしまいかねない。まさに八方ふさがり。チェックメイトだ。

「自分さえも諦めて、他の人もみんな犠牲にして……もうあなたには何もない。自業自得なの。ごめんなさいって言えばいいの。
 そのまま謝って、謝って、後悔し続ければいいの」
「馬鹿にしないでください、泣き虫の癖に……わたしを語るな」

 そう。もう勝てはしない。四肢を奪われ、自由さえも奪われた自分はもう優勝なんてできない。
 諦めたといえば、そうなのだろう。だが優勝は出来なくとも、この小娘に勝利する方法はある。
 諦められない。散々馬鹿にしくさって、しかも間接的に妹の初音を侮辱したこと、それが許せない。

 無意味な死。そんなことがあるはずがない。初音は自分を信じて、こちらの勝利を信じて勝ちに行ったのだ。
 自分達は勝ち残れるのだと、諦めてはいないのだと本気で信じていたことだけは否定されてはならない。
 知らず知らずのうちに口元を歪めているのに、有紀寧自身もようやく気付く。

678End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:56:38 ID:4D5sJK1.0
 ああ、つまり、そういうことなのだろう。
 わたしは、結局、家族という亡霊に縛られていた。
 追いかけていたのでもない。知ろうとしていたわけでもない。

 取り返したかっただけだ。無理だと分かっても作り上げたかったのだ。
 偽物でも、紛い物でも、幻想でもなんでもいい。家族という懐の中で温まりたかった、それだけなのだ。
 ここで必死に作ろうとして、失敗して、だから帰ろうとしていた。……死にたくないのは、そのためだった。
 何ということはない。自分は人殺しじゃない。悪魔でもない。愚直に過ぎた。そういうことだ。

 ――だから、わたしは『家族』と出会える場所に行きます。ええ、だって、一番手っ取り早い方法ですから。

 無論、きっちりと落とし前はつけておく。一銭の釣りも残さない。綺麗に支払ってやる。

「あなた、なんか……苦しんで死んでしまえばいいんです……地獄で、待ってますよ」

 これは賭けだ。一度たりとも試したことのない賭け。だがやってみる価値はある。勝ちに行くのだ。
 初音が笑っている。流石お姉ちゃん、と。
 だから信じられる。信じてくれるひとがいるから、信じられる。
 有紀寧も笑った。笑って、有紀寧は――スイッチを押した。

     *     *     *

「っ、うぐ、あうっ……!」

 呻き声が自分のものだと分かるまでに、いくらかの時間を要した。
 それと一緒に、世界の半分が真っ黒に塗り潰されているのが分かった。
 いや違う。これは目を潰されたのだと理解する。右目は開いているのに、左目が開いていないのがその証拠だ。
 鈍痛がズキズキと目の奥から襲ってくることを考えれば、完全に失明したのだろう。

679End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:57:02 ID:4D5sJK1.0
 血を流し続ける顔を手で押さえながら、ことみは首から上が消失した宮沢有紀寧の姿を見ながら先刻起こったことを思い出す。
 何の前触れもなかった。恐らくはあらかじめそうなるように方向を定めておいたのだろう。だからスイッチを押すだけで良かった。
 少しでも不審な挙動を見せれば発砲しようとは警戒していたが、甘かった。まさか自爆するとは思いも寄らなかった。
 結果として爆心地の近くにいた自分は爆風と首輪、人体の破片の直撃に遭い、体の左半分に深刻な被害を受けた。

 いくら勝機がなくなったからといって……何とも言い表しがたい、不快な気分だった。同時に、空しさもあった。
 こうまでしてやることだったのか。命を捨ててまで成し得る価値のあるものだったのか。
 最後の最後、有紀寧は笑っていた。価値を見出したのか、蔑む笑みだったのか、もはや誰も知る術はない。
 ただ、聖を知っていることみからすれば、それはやはり理解しがたいものであることは間違いなかった。
 もし、やり直そうという気持ちを少しでも見せていたら……許せなくとも助けようとは思っていたのに。

 だって先生ならそうするから。私も、人が死ぬのを見たくはなかったから。
 今となっては、もうどうしようもないが……

 有紀寧からすれば、これも傲慢なのかもしれない。所詮人は自己満足の中でしか生きられないのだと。
 しかし、それでもとことみは思う。それでも人と共に過ごし、学んでいけるのもまた人間だ。
 自分は学んだ。聖から命を腐らせるなと学んだ。

 だから医者になる。聖が目指していたもの、理想としていたものに近づくために。
 聖が言ったことを伝えていくために。それが自分の夢だ。
 引いては、それが聖の想いも腐らせないことに繋がるだろうから……

 眼球に刺さっていた首輪の破片を抜く。ずるりという音と共に小さな破片が落ちた。
 ズキリとした痛みが生じたが、これが生きているという証だ。歩いていける証拠だ。
 体を引き摺りながら、ことみは一片の諦めもなく、次のための行動を始める――爆弾の材料を集める行動を。

680End of hypnosis:2009/04/08(水) 19:57:21 ID:4D5sJK1.0
【時間:2日目午後22時00分頃】
【場所:H-8 廃工場前】


一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【状態:左目を失明。左半身に怪我】
【目的:爆弾の材料を探す。生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【状態:死亡】

宮沢有紀寧
【所持品:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:死亡】


【その他:タンクとポンプは古錆びたトラクターの近く。二人乗り用の自転車は工場の近く。ゴルフクラブ、日本酒(空)は放置。】


【残り 16人】
→B-10

681十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:49:49 ID:NaKun74s0

*** 1. -180sec.


 ―――今がその時だ。

直感した瞬間、蝉丸は駆け出している。
堪えに堪えたその鬱屈を爆発させるように、撥条と化したその全身が加速していく。
大きなストライドが稼ぐのは距離。消費するのは残り僅かの時間である。

視界の端には両断された槍使いの神像が映っている。
六体目を斃したという以上に、間合いの広い槍使いの像を落とした意義は大きい。
これで蝉丸と銀鱗の中心との間を遮るものは右、大剣の神像と左に位置する白翼の神像。
そして、紅の槍の森のみである。
踏み出す一歩が、勝利と敗北とを隔てる賽の目であった。
駆け出した以上、もはや止まることは許されない。
抱きかかえた砧夕霧は腕に重く、その口から微かに漏れる歌とも祈りともつかぬ声が耳朶を震わせる。
ほろほろと流れ落ちる涙の雫が時折胸に落ちて、じんわりと生温い。
最後の希望を抱いて、癒えぬ足で蝉丸が駆ける。
響くのは爆音と吹き荒ぶ風の音、閃くは剣戟の火花。
ただ一点の隙を縫うように、蝉丸が大地を蹴った。

682十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:50:22 ID:NaKun74s0

*** 2. -170sec.


「何故、諸君は抗う。如何に足掻こうと運命は変わらないというのに。
 何故、諸君は理解しようとしない。来るべき新世界を。
 私の創造する新たなる種が人を超えんとする、その意義を―――」

生み出した巨神像の内、六体までを落とされた長瀬源五郎が、その巨体を震わせて声を発する。
嘆くような声音が消えるのと同時、白翼の巨神像の手に光が宿る。
光は輝く弾となり、軽やかに振られたその優美な手から離れるや猛烈な加速で一直線に飛ぶ。
駆ける蝉丸を横合いから狙う軌道。
その身を直撃せんとする正確な狙撃に、しかし蝉丸は視線を向けようともしない。
無論、踏み出すその一歩を回避の為に動かすこともなかった。
吸い込まれるように迫る光弾を遮ったのは、一筋の剣閃である。
一瞬の後、二つに斬られた光弾が左右、遥かに離れた場所に着弾して爆ぜた。

「―――機械屋が天下国家を語るか」

絹の如き長髪が爆風に靡き、銀の波が空に流れた。
光弾を断ち割って刃毀れの一つもない白刃の銘を、麟という。
星無き夜に浮かぶ月のように立つ光岡悟とその愛刀が、続けて飛んだ光弾を真一文字に斬り捨てた。

「だが貴様の言う通り、新たな世は訪れる。それだけは認めてやろう」

神像が背の白翼を羽ばたかせると、吹き荒ぶ風がその音を変える。
きりきりと耳を劈くような高い音の中で、ただ荒れ狂っていただけの風が、
万物を切り裂く鋭い刃へと密度を上げていく。
不可視の斬撃が、飛んだ。
その先には光岡悟。蝉丸を護る堅固な砦を先に落とさんとする狙いだった。
僅かに口の端を上げた光岡が、脇構えから摺り上げるように一刀を振るう。
中空、素振りの如き一閃はしかし、凄まじい音と手応えとをもって己が狙いの違わぬことを光岡に伝えている。
風が、斬られていた。
幽かな音と気配と、そして極限まで研ぎ澄まされた勘とが揃って初めて可能となる神業である。
影花藤幻流皆伝、天賦の才と謳われた男の、それが実力であった。

「尤も……それを築くのは、九品仏閣下と我等だ。道を開けてもらおうか、犬飼の遺産」

傲岸と言い放つその瞳には、曇りなき明日が映っている。
応じるように、白翼の神像の周囲に無数の光弾が浮かび上がった。
横目で流し見た蝉丸の背中が遠く離れていくのに一つ小さく鼻を鳴らして、光岡が愛刀を正眼に構え直す。
爆ぜた光弾に炙られて焦げた臭いのする風が、銀色の長髪を揺らした。
嚆矢のように飛んだ一発を断ち割って、光岡が歩を踏み出す。
同時、光が、舞い飛んだ。
幼子が風に吹くシャボンの玉のように、無数の光弾が光岡に殺到し、そして爆ぜていく。
爆音と焦熱とを生み出す白光の嵐の中で、光岡悟が応と吼える。
吼えて、その身を刃と成す。
飛び来る光弾の悉くを斬り捨て、断ち割り、突き穿ち、射貫く、尋常ならざる剣捌き。
柄を握る拳から振るう腕、斬り下ろしかち上げ刺突し自在に変幻する体幹に、進み退り跳び駆ける脚。
最早それは人と刀とを分かつ境を越えている。
その閃光の中に煌くのは美しくも凄まじい、一振りの刃であった。
銀弧が、疾る。
機を窺い続けた蝉丸の、動くに動けぬ身を庇いながら十数分の長きを防戦に徹し、
迫る剛剣と降り注ぐ光弾とを一手に引き受けて遂に凌ぎきった恐るべき剣の冴えが、
今やすべての頚木から解き放たれ、舞い踊るが如く閃いている。
打ち続く白光の嵐の、その輝きさえ褪せるように、光岡悟は止まらない。

683十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:50:38 ID:NaKun74s0

*** 3. -140sec.


風を巻いて唸る大剣が、虚しく空を切る。
山をも断たんとする破壊の権化が再び振り上げられた瞬間、それを保持する細身の腕が、爆ぜた。
長い髪を編み込んだ女を模した巨神像、大剣を使う像が、ぐらりと揺れる。
重く響く爆音の中、舞い上がる煙を割って飛び出したのは少女とも見える年頃の影。
水瀬名雪である。

「人には夢がある。遥か古代から抱き続けてきた夢だ。
 文明を築き、自らの望む通りに世界を作り変える力を得た人類の、それは義務といってもいい。
 人はいつか、ヒトを超える。種としてのヒトを捨て、より高みへと至るのだ。
 遂に捉えたその影を、ようやく届いた扉の鍵を、何故諸君は放り捨てようとする―――」

詠嘆を含んで響く声を、名雪が鼻で笑う。

「化物の特売市の真ん中で、今更何の冗談だ?
 そうやって周りが見えないから、誰からも見放される」

手にした雪兎を空中に投げると、すらりと引き締まった右脚を振り上げる。
身を捻りながら放った脚が、落ちる雪兎をミート。
完璧なフォームのボレーシュートが、可愛らしい時限式の爆弾を撃ち出した。
回転をかけられた雪兎は質量と空気抵抗に従ってその軌道を変えていく。
鋭い弧を描きながら、吸い込まれるように巨神像の懐へと潜り込む。
一瞬の後、鈍い重低音。
腹の辺りから煙を上げて傾いだと見えた巨神像が、しかし大剣を地に着くようにして耐える。
舌打ちした名雪が小さな身振りで神像を指さすのと同時、背後に影の如く控えていた黒蛙がふわりと浮かぶ。
間髪いれず撃ち出されたのは黒雷である。
音もなく一直線に伸びる、光を吸い込むような漆黒の稲妻。
至近を迸る閃きに、名雪の長い髪が靡き、舞い上がる。
真っ直ぐに射出された黒雷が直撃したのは、耐える巨神像の顔面である。
着弾の衝撃と爆風が、辺りを薙ぎ払った。

「……ほぅ」

巻き上がった砂煙が、山頂を吹き荒ぶ風に払われる。
飛来する小さな石礫を避けるように腕を翳した名雪が、僅かに瞠目した。
その眼が写していたのは、黒雷の直撃で顔面の半分に罅を入れながらもなお倒れずに大剣を構える、
巨大な女神像の姿である。
瞬間、しぶといな、と口の中で呟いた名雪と、手にした剣を大きく振りかぶる巨神像の視線が、絡まった。
石造りの無機質な瞳。
だがそこに、傷ついてなお倒れず、何かを護ろうと剣を取る者の矜持を、名雪は見た。
それは巨像に彫り描かれた英雄の、魂の一片なりと宿ったものであっただろうか。
かつて共に時の螺旋を生き抜いた者たちと同じ色の瞳に、名雪が小さく笑う。
薄暗く乾いた、埃の積もったような笑み。
貌に老いを浮かべた名雪の動きが鈍ったのは、ほんの僅かの間である。
だがその隙を巨神像は見逃さない。
山をも崩す巨刃が、名雪を目掛けて横薙ぎに振るわれた。
大気を断ち割りながら迫る破壊の刃に名雪が舌打ち一つ、表情を引き締める。
瞬きをするよりも早く状況把握と局面打開の策定。
退いての回避には間に合わない。左右は論外。道は上空。
確実に繰り出される追撃を黒雷で阻止しつつの跳躍。
そこまでを思考し、背後の蛙が回避機動に合わせて準備を始めようとした、その刹那。
黒い弾丸が、巨神像の胸を一直線に引き裂いていた。

「柏木楓か……!」

振るわれる巨刃の勢いが、緩む。
力なく流れた切っ先を難なく躱しながら見据えた名雪の視線の先には、襤褸を纏った少女の姿。
肩口で切り揃えた黒い髪に、整った白皙の美貌。
ざくりと裂けた左眼と、細い指先から伸びる深紅の爪が異彩を放っている。
果たして隆山の鬼女、柏木楓その人であった。

684十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:51:28 ID:NaKun74s0

*** 4. -120sec.


「犬飼博士は堕落した。彼は所詮、世俗を捨てきれなかったのだ。
 覆製身研究の末に自らの伴侶を造り、そこに安寧を見出した。
 それは研究に対する裏切りだ。信念に対する冒涜だ。
 だが私は違う。私は、私だけは人類の未来を憂いていた―――」

残る二体の巨神像の脇を駆け抜けた蝉丸の耳朶を、不快な聲が震わせる。
地面から直接響くような聲は長瀬源五郎のものである。
駆ける蝉丸が踏み締めるのは大巨竜と化した長瀬の背であった。
頭なく顔なく口腔もない長瀬の聲は、微細に振動する巨大な身体そのものから発せられているようだった。
抑える術もなく、常軌を逸した科学者の一人語りが垂れ流されている。
耳元では抱きかかえた砧夕霧が、言葉ともつかぬ言葉を漏らしていた。
不快な聲と不可解な唄と、耳を覆いたくなるような音に挟まれて、しかし蝉丸の心は不動である。
ただ行く先に待つ目的地まで足を動かし続ける機械のように、黙々と走っていた。

「―――そして遂に到達したのだ。真理に。結論に。紛うことなき明日に。
 覆製身など愚の骨頂。いかに紛い物を増やそうと、ヒトの出来損ないでは人類を超え、
 新たな明日を築くことなど不可能だ。……だが!
 だが私なら、私と我が娘たちならば超えられるのだ、人類種の限界を!」

と、笑みをすら含んで高らかに響く長瀬の聲に誘われたように、それまで真一文字に引き結ばれていた
蝉丸の口が、静かに開く。

「欺瞞だな、長瀬」

告げた蝉丸の、踏み出す足に伝わってくる感触が変わる。
鉄張りの甲板のように硬質な響き。
巨竜の背に広がる銀色の湖。
無数の鱗に覆われた白銀の平原に、ようやくにして踏み込んだのだった。

「人を語りながら人を見下す。新たな世を語りながら其処に住まう者を見ない。
 貴様の言葉に表れるのは己の狭い了見よ」

歩を進ませじと待ち構えるのは紅く透き通った、硝子のような材質で構成された槍の如きものである。
露出した鉱石の結晶であるようにも、或いは血に染まる樹氷のようにも見えるそれが、
鋭い穂先を天に向けて無数に生えている。
夕霧を抱きかかえたまま片手で佩刀を抜き放った蝉丸が、薙ぐようにそれを振るう。
幾本かの槍が砕け散り、しかし奇怪なことに槍の欠片は中空でどろりと血飛沫の如くに丸く形を変えると、
銀色の地面に落ちて染みていく。
すると紅い染みから卵の孵るように、新たな槍が突き出してくるのだった。

「畢竟、貴様が抱くのは人類の夢などと大仰な代物ではあるまい。
 貴様は赦せぬのだ。己を認めぬ者どもが。儘ならぬ世の全てが」

身を捩って鋭い先端を避ける蝉丸の疾走が、その速度を緩める。
緩めてしかし歩を止めず、愛刀を握り込んだ。
構えは下段。
一瞬の後、蝉丸の足元から空を断って逆巻き、天へと昇るが如き一閃が奔る。
裂かれた風の断末魔か、高く儚げな音が響くと同時。
蝉丸の行く手に聳えていた槍の群れが、一斉に霧散した。
鳳の銘を打たれた一刀の、正しく焔を纏う霊鳥の遮るものを焼き尽くすが如き剣閃。
跋扈する魑魅魍魎を調伏せしめんとする、それが蝉丸の佩く刃の輝きである。

「それは思い描いた桃源郷の、己がみた夢の何故叶わぬと泣き喚く餓鬼の駄々よ。
 義無く理も無く、在るは唯、貴様の欲に過ぎぬ」

紅い樹氷の森の中、切り開かれた道を蝉丸が走る。
だが一面の血飛沫に覆われたような道がその行く手を平らかにしていたのは一瞬であった。

「……君に何が判る、戦争犯罪人の脱走兵」

憤りを露わにした聲が響くや、地響きを立てて槍が飛び出してくる。
四方を塞ぐように密集して生えた紅い槍の群れに、たたらを踏んだ蝉丸の姿が映っていた。
渋面に微かな焦燥を浮かべた蝉丸が、再び一刀を振りかざそうと構えた刹那。

『―――足を止めるな、坂神蝉丸』

685十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:51:39 ID:NaKun74s0
声なき声に視線を上げようとした蝉丸の至近を、何かが駆け抜けた。
その何かに音はない。
だが僅かに遅れて爆ぜた風が、その恐るべき疾さを誇示するように蝉丸の耳朶を震わせていた。
閃いたのは照りつける陽光を吸い込むような黒い光である。

「これは、水瀬の……!」
『要らん助勢だったか? まあ、こちらは少し手が空きそうでね』

遥か後方から黒雷を放った水瀬名雪の言葉に、蝉丸が短く答える。

『感謝する』

黒雷により再び切り開かれた道へ向けて、蝉丸が疾走を再開する。
しかしその足元では既に砕け散った紅い槍が再生を始めていた。
飛び散った欠片が地面に染み渡るや、新たな穂先が芽吹いてくる。
瞬く間に塞がれゆく道を見て舌打ちした蝉丸に、

『足を止めるなと言ったろう。助勢は一人じゃない』

名雪の声が伝わると同時、蝉丸の背後で硬質な音が響いた。

『振り返るな! 走れ!』

声に押されるように駆け出した蝉丸の脇を、今度は小さな影が追い越していく。
手負いとはいえ強化兵たる蝉丸を凌ぐ加速を見せた影は、その手に刀を提げている。
背に生えるのは美しい毛並みだろうか。
鬣とも見える長い髪を靡かせて獣とも人ともつかぬ影が刃を振るうと、何ほどもない一閃に
どれだけの威力が込められていたものか、芽吹きかけていた紅い槍がまとめて砕け散った。
と、同胞を砕かれた報復のように左右から鋭い穂先が影へと迫る。
同時に迫る槍に、白い影はしかし身を躱さない。
右から伸びる一本を振り抜いた刀を戻しつつ引き斬り、空いた身を貫かんと左から迫るもう一本へは、
何と拳を振るったものである。
振るわれた拳は、白一色の身から抜いた色を集めて染め上げたが如き漆黒。
堅牢な鎧の如き皮膚に包まれた拳が、その身に傷一つ付けることを赦さず紅い槍を粉砕する。
白銀の髪が、紅い雫を振り払うように流れた。

「その力、川澄舞……か。礼を言う」

告げた蝉丸に、白い影は答えない。
ただちらりと振り向いて、一つ頷いた。
駆ける蝉丸の視界から、その身が消える。
背後で響き渡る硬質な音の連続だけが、その存在を示していた。

686十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:52:05 ID:NaKun74s0

*** 5. -60sec.


既に蝉丸の行く手はその半ばを過ぎている。
残る銀の平原に生える槍の群れは、しかし健在。

「閉塞し、腐敗し、磨耗しきった末世を、だが私ならば超えられる。
 築けるのだ、新たなる秩序を、瑕疵なき世を、永遠の平穏と繁栄を。
 必滅の定めを越え、死と腐敗と衰亡の恐怖を克服し、人は今、ようやく神の呪縛から解き放たれようとしているのだ!」

響く聲に同調するように、地面が震えている。
右手から突き出てきた紅い槍を斬り割って、蝉丸が叫び返す。

「次は神を持ち出すか! それが貴様の了見だと言っている!」

砕けた紅い石の欠片が散って、一滴が蝉丸の抱いた夕霧の頬に飛ぶ。
飛んだ雫が、たらりと血の涙のように垂れ落ちた。
垂れた雫を痩せた蛞蝓のような薄い舌が嘗め取って、こくりと飲み込む。
嚥下するように喉が動いた途端、夕霧の口から漏れる唄がその声量を増した。
詞は言葉の体を成していない。
祈りの色も、最早なかった。
慟哭と呪詛と、歓喜と絶叫と、愉悦と苦痛と、およそ人に内在するありとあらゆる種類の感情を、
跳ねるように、躍るように、掴むように、掻き毟るように、それは謳っていた。

「貴様は人の子よ! 貴様の造る物たちが死を越えて新たな世を築くというのなら、
 其処に貴様の居場所などあるものか!」

空と大地とを覆い包んで響く歌声が、蝉丸の背に重い。
振り払うように叫んで歩を進める。

「……! 黙るがいい、脱走兵!」

生きるように、生き終わるように響く歌声に衝き動かされるが如く、長瀬の聲が跳ね上がる。
地響きは既に、常人であれば立つことすら儘ならぬ域に達していた。

「私は既に人機の境界を越えた、定命などとうに超越した!
 私こそが父だ、娘たちを教え導く者だ! 娘たちの在る限り、私は必要とされているのだ!」

憤りに呼応するように、地響きを割って紅い槍の群れが飛び出してくる。
その数は尋常ではない。
隙間なく敷き詰められた槍衾は天高くまで伸び、しかし先端で奇妙に捻じ曲がってその穂先を蝉丸へと向けている。
大気を押し潰すような歌声と、大地を砕く地響きと、耳を劈くような長瀬の聲に押されるように、
見渡す限りの薄く透き通った紅い槍の群れが倒れ込んでくる。
躱すことを許さぬ、それは正しく全天から降り注ぐ槍の雨であった。

「そうして言い訳を重ねて! 見捨てられるがそれほど怖いか!」

肌を刺す歌声の中、槍の雨に貫かれてその生を終えた久瀬少年の顔が浮かぶ。
彼の率いた三万の兵は既になく、成れの果てたる巨竜だけが残っていた。
打ち棄てられた者たちの、屈せず立ち抗う戦の残滓が、それだった。
廃物の山に立つ少年の意志を踏み躙るように、長瀬源五郎がそこにいた。

「認めさせようというのだ、偉業を!」
「矮小を恥じもせず……!」

降り注ぐ槍の悉くを断ち切らんと、蝉丸が一刀を構える。
腕の中の夕霧が身悶えするのを、強く抱きなおした。
叫ぶような歌声が、びりびりと耳を打つ。
極限まで研ぎ澄ませた神経が、初太刀を抜き放つ刻限を正確に捉える。
一刀、蒙きを啓かんと閃く、その刹那。

『妄想も大概―――、』
『ウザいっての―――!』

響く声、二つ。
声なき声が響き、同時に音が消えた。
否、消えたのは音ばかりではない。
蝉丸の眼前、降り注がんとする無数の紅い槍の津波を、何かが奔り抜けた。
それは光でもなく、刃でも弾でもない。風でもなければ、実態のある何かでは、なかった。
触れられぬ何か。触れられず、目に映すことも叶わない何かとしかいいようのないものが、槍の海を薙いだ。
ただ一つだけ確かなのは、その存在であった。
何となれば、その不可視不可触の何かが薙いだ紅い槍の森が、忽然と消し飛んでいたのである。
狐狸に化かされたような光景を、蝉丸の脳がようやく認識した途端、世界に音が戻ってきた。
響き渡る唄と、透き通る鉱石の槍が砕け散る硬質な音。
そして眼前、開けた道を吹き抜ける風の音である。

『精々走れよ、軍人。私らのためにさ』
『もう時間がありません。……終わらせるのでしょう?』

遥か遠く、距離を越えて声なき声が聞こえてくるよりも早く、蝉丸は駆け出している。
目指す場所、銀の平原の中心までは既に程近い。
天沢郁未と鹿沼葉子が不可視の力をもって破壊した槍の津波の残骸を踏み越えて、
蝉丸が最後の加速に入ろうとしていた。

687十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:52:27 ID:NaKun74s0

*** 6. -30sec.


「誰も彼も、私一人の邪魔ばかり―――!」

長瀬源五郎の叫び散らすような聲が大気を震わせる。
蟲の羽音のように不快を催させるその聲からは、常ならず余裕と冷静さが失われていた。

「何故だ! 何故判らん! 何故認めん! 何故君たちはそうも愚かしい!
 完全なるものが、私の真の娘が、これから生まれるのだ! 真なる私の手から!
 それを奪うのか! 明日を! 私の娘たちの未来を!」

憤りを通り越し、半ば哀願に近いその言葉を聞いて、駆ける蝉丸の表情が、変わった。
浮かべたのは、紛うことなき激怒の色である。

「―――取り込んで、虐げて、何の父か!」

言い放った蝉丸の脳裏に浮かぶのは長瀬の胸に刻まれた、慟哭と絶望の貌だった。
苦痛の末の死に顔を写し取ったようなそれを、長瀬は娘と称していた。
そこに父娘の触れ合いなど存在しない。
夕霧を取り込もうとしたときの、その想いを雑音と片付けた長瀬の薄笑いに、情愛などありはしない。
否、あってはならなかった。
それを情愛と呼ぶ者を赦さずに生きてきたのが、坂神蝉丸であった。
燃え上がったのは、澄みきった怒りである。
平穏と情愛とを思うとき蠢く、自らの奥底の膿に棲む黒い蟲に刀を突き立てて、
蝉丸は憤怒の炎に刃を翳す。

「久遠の時が、私には与えられた! 至るのだ、高みに! 私は! 私の娘たちは!」

絶叫した長瀬に応えるように、残る槍の森がその姿を変えていく。
瞬く間に集まり、捩れ、縒り合わさって一つの形を取ろうとする。
最早、蝉丸の左右に、或いは背後に槍はない。
すべての槍を使い果たすかのように、そのすべてで蝉丸ただ一人を穿ち貫くように、
遂に完成したその姿は、純粋な凶器。
それは、ただ一振りの、巨大な槍である。
穂先は一つ。否、それは単に、縒り合わさった槍たちの先端が鋭く尖っているに過ぎない。
槍と呼ぶのもおこがましい、それは山をも穿つ、ただの刃であった。
数千数万の紅い槍を捻り捏ねて作り出された、巨大な刃。
それが、蝉丸と銀の平原の中心とを隔てる、最後の壁であった。

「誰も! 私を! 拒めるものか!」

死ね、という、それは意思の具現。
殺意という、凶器。
迎え撃つ蝉丸に、返す言葉はない。
ただ駆けながら、一刀を構えた。
心に燃える炎が刀身に映るように、その刃が輝きを増していく。
焔が、蝉丸の内に湧き出る膿を炙り、燃やす。
毒虫の飛ぶ密林の泥濘を、陽炎立つ砂塵の丘陵を、住む者とてない瓦礫の街を焼き尽くしていく。
それは、坂神蝉丸という男が、兵であることを越え、ただ一つの希望として戦場にはためく
古びた旗であろうとするときに燃え上がり、輝く光である。
幾多の絶望の中で埃と諦念と郷愁とに塗れた兵たちの見上げた光が、そこにあった。
光が、刃を振るう。

「永劫届かぬ迷妄を抱いて朽ち果てろ、長瀬源五郎―――!」

迸る焔が、巨槍を呑む。
光の中、砕けることも、地に落ちることも赦されず、灰となり塵となって、
紅い槍の群れが、消えていく。

後には何も、残らなかった。

688十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:53:13 ID:NaKun74s0

*** 7. -10sec


吹く風すらもが燃え尽きたように止まった蒼穹の下、ただ砧夕霧の唄だけが響いている。
最早、遮るものはない。
遂に開けた最後の道へと、蝉丸が地を蹴った。

距離は数十歩。
目印など何もない。
だが、分かる。
そこには力が満ちている。
満ちた力が夕霧を導くように、或いは夕霧の求めに応えるように、その場所が呼んでいる。

走る。
時が満ちようとしていた。

駆ける。
ほんの数秒。
僅かに、勝った。

踏み出す。
夕霧を抱いた腕に、力を込めた。
その、刹那。

「―――届かないのは、君たちだ」

聲が、哂った。

止まらない疾走の中で、蝉丸の目が、何かを映していた。
正面、遥か遠く。
方角は西。
背後には雲ひとつない晴天を従えて、何かが立っている。
瓦礫。
崩れ落ちた、二刀の像。
その瓦礫の中。
小さな、小さな影が、立っていた。
つがいの、童子。
二人の童子の手に、一杯に引き絞られた弓。
鋭い、鏃が、見えた。

坂神蝉丸が、砧夕霧を庇うように身を投げ出したのは、半ば本能のなせる業である。
ほんの一瞬、間を置いて。
その背を二本の矢が、穿った。

疾走が、止まった。

689十一時五十七分/奇跡が起こるような、そんな:2009/04/13(月) 14:54:54 ID:NaKun74s0

【時間:2日目 AM 11:59:55】
【場所:F−5 神塚山山頂】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重傷】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

光岡悟
 【所持品:刀(銘・麟)】
 【状態:健康】

水瀬名雪
 【所持品:くろいあくま】
 【状態:過去優勝者】

柏木楓
 【所持品:なし】
 【状態:エルクゥ、重傷治癒中(全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

川澄舞
 【所持品:村雨、鬼の手、白虎の毛皮、魔犬の尾、ヘタレの尻子玉】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ、軽傷治癒中】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:重傷・不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:健康・光学戰試挑躰・不可視の力】

真・長瀬源五郎
【イルファ・シルファ・ミルファ・セリオ融合体】
【組成:オンヴィタイカヤン群体3700体相当】
【カルラ・フィギュアヘッド:中破】
【ウルトリィ・フィギュアヘッド:中破】
【ドリィ・フィギュアヘッド:健在】
【グラァ・フィギュアヘッド:健在】

→1045 1053 1055 1056 ルートD-5

690十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:06:46 ID:rS0OI3w60
 
助けてと呼ぶ声は、いつだってか細くて。
だから、幸せに笑う誰かには届かない。

しあわせになりたいと願う、小さな祈りは。
だから儚く、消えていく。

願いはどこにも届かない。
想いのひとつも叶わない。

なら、だとすれば。
たとえばその声を聞いた私に、何ができるのだろう。

私の願いは届かない。
私の想いは叶わない。

私はもう、救われない。
助けてと呼ぶ声は、だからもう、救われない。
救われず、報われず、続き続けてしあわせから遠ざかっていく。
だからいつか、助けてと呼ぶ声は、ひとつの哀願に変わっていくのだ。

―――終わらせて、と。

私にできること。
助けてと呼ぶ声の聞こえる、救われない私にできる、たったひとつのこと。
救うということ。願うということ。祈るということ。

それは。
いつまでも、どこまでも続く、救われず在り続ける生を。
終わらせると、いうこと。


******

691十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:07:13 ID:rS0OI3w60
 
大気とは星の加護である。
加護の与えられぬ空の彼方、高度約三万六千キロメートルは、十数時間ごとに灼熱の地獄と化す。
摂氏百度を優に越すその空間には無数の金属片が散乱していた。
被覆を剥がれた剥き出しの部位を輻射熱に直接炙られて赤熱するそれらは元来、寄り集って
ある一つの構造物を成していたものである。
何か強い力によって破壊され、周囲の宙域一帯に飛散した残骸の量を見れば、その構造物が
全長と質量と、その両方において非常識なまでの威容を誇っていたことが推測できる。
大気から解き放たれてなお惑星の重力の軛に絡め取られる宇宙空間、高度約三万六千キロメートル。
静止軌道と呼ばれるその宙域に存在する、巨大な構造物の名を、天照。
汎攻撃衛星、天照という。

しかし科学の水準を無視して存在した鋼鉄の城砦も、今や風前の灯といった体であった。
散らばった残骸の中心にあるその構造体はあらゆる部位が傷つき、或いは破壊されて黒煙を漂わせている。
宙域の皇として君臨したかつての威容は見る影もなかった。
無数の砲塔に明滅していた光点も、既に残り少ない。

と、数少ない光点がまた一つ、消えた。
同時に、轟と震動が響き、外郭装甲の一部が赤熱。
僅かな間を置いて、爆散した。
誘爆を避けるためにパージされた装甲の下から顔を覗かせたのは、回転式の砲塔である。
静止衛星である天照に、質量を持つ実弾兵器は存在しない。
その大小を問わず、砲はすべて光線式である。
砲身の過熱を避けるためのターレットが回転し、照準を開始。
しかし砲塔は、その生産用途を果たすことなく役割を終えることとなる。
照準が敵影を捉え光線を発射するよりも一瞬早く、砲身が捻れ、爆発していた。
破壊を齎したのは、漆黒の宙域を溶かし込んだような、黒い光弾である。
放った敵影が、遮蔽物の陰から姿を現す。
大気に遮られぬ圧倒的な太陽光に照らされて立つ、その姿は美しい。

それは、背に大きな翼を持つ、少女の姿を象ったシルエットである。
漆黒を主体としながら、肌を露出させるかのようにあしらわれた白銀のライン。
細く、しかし確かな躍動を秘めて伸びる脚部から、しなやかに長い指先まで、
あらゆる部位を希代の芸術家が丹精込めて彫り上げたような、天上の意匠。
羽ばたく翼は、夜を運ぶが如き黒の一色。
微笑むような表情を浮かべた白銀のかんばせは、あどけなさを残しながらも
花開く寸前の蕾の危うさを内包している。
それは紛れもない機械でありながら、しかし見る者にそれを肯んじさせぬ何かを持った、
鋼鉄の少女であった。
その名を称して、アヴ・カミュという。


***

692十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:07:53 ID:rS0OI3w60
 
『ふん、あの程度で余の行く手を遮れるものか』

黒い機体から不遜な声で嘯いたのはアヴ・カミュの契約者、神奈備命である。
その実体はなく、今は存在をアヴ・カミュの機体と同化させている。
周囲に拡散していくデブリ群を生産した黒光弾の名残が、銀色の指先に蛇のように纏わりついていた。

『神奈、すごい調子乗ってる』
『聞こえておるぞ観鈴』
「ええからその手ぇこっち向けんなや、アホ!」

小さくバーニアを噴かして黒い機体が振り向いた先には、もうひとつの影がある。
アヴ・カミュと同系統の技術体系によって製造されたと一目で分かる、似通ったシルエット。
細身ながら頭身の高い、緩やかな曲線の多く施されたその全体像は、芸術品として見るならば
少女を模したアヴ・カミュよりも強く女性らしさが表現されているように感じられる。
最大の相違はその配色である。
漆黒を主体としたアヴ・カミュに対し、こちらの基調は曇りなき純白。
要所には薄荷色のラインで装飾を施されたその姿は、たおやかに咲く一輪の花を思わせる。
アヴ・ウルトリィ。
輪廻する魂であるカミュの実姉、ウルトリィの現世における姿である。

『……観鈴、やはりそなたの母御とは一度きちんと話をせねばならんようだな』
『にはは……お母さん、ずっとこんな感じ』
「上等やボケ。後できっちりカタぁつけたるわ。それより今は―――」

アヴ・ウルトリィから響くのは、契約者である神尾観鈴とその母親にして操縦者、神尾晴子の声。
背の白翼を広げたアヴ・ウルトリィが周囲を見渡す。

「サブはこれで全部いてもうたったか?」

沈黙した砲台群の残骸が漂う中、明滅する光点が存在しないのを確認して晴子が問う。
激戦を物語る破壊痕が、宇宙に浮かぶ鋼鉄の城の至るところに残っていた。
めくれ上がった装甲板の下には寸断されたケーブル群が無惨にその姿を晒している。

693十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:08:17 ID:rS0OI3w60
『ええ、残るは―――』
「アレやな」

ウルトリィの答えに頷いた晴子が見据えるのは、城砦の中心部。
破壊し尽くされ、照りつける太陽光に焼かれるだけの外郭部とは対照的に、今だ多数の光を湛えたそれは、
聳え立つ天守閣の如く健在を誇示していた。
攻撃衛星天照、輻射転移式地上照準連装主砲塔。
地表を焦熱の地獄へと変える、神の炎。
大神の齎す異形の力、オーパーツの核である。

「時間は?」

その基部には、既に微かな集光が見られる。
突き出した二基の煙突のような砲身へとエネルギーを伝えるように、光はじわじわとその大きさを増していた。

『充填完了の予測時刻まで、おおよそ二分』
「上等!」

猛々しく笑んだ晴子が、ペダルを踏み込む。
翼を模したバーニアが光を放ち、推進力へと変えていく。
明けぬ夜を翔け、神の時代の到来を告げる天の御使いの如き、それは神々しさを秘めた飛翔である。

『わ、待ってお姉さま!』
『後れを取るなかみゅう、我等も行くぞ!』

694十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:08:39 ID:rS0OI3w60
続くように、アヴ・カミュが加速を開始する。
白と黒のシルエットが軌道を交差させながら最大速度に到達するまで、僅かに数秒。
ほぼ同時に翼を畳み、高速機動形態に移行する。
眼前、文字通りの瞬く間に迫る主砲塔が、その纏う光点の密度を増した。
間髪を入れぬ予測回避。
バーニアを全開にしながら片翼を展開。
揚力も抵抗も存在しない真空中、翼自体から発生する推進力がそのベクトルを変える。
アヴ・ウルトリィは右に、アヴ・カミュは左へと軌道を遷移。
一瞬前まで機体のあった場所を光線が奔り、それを皮切りとするように、攻撃が開始されていた。
最後に残された本丸を護るべく鋼鉄の城郭に光る砲座は無数。
そのすべてが白と黒の二機に照準を合わせる様は、背後に瞬く本物の星空と入り混じって
天象儀に描かれた虚構の星図のように映る。
全速機動の狭い視界の中、満天に美しく輝く星々から奔る熱線は告死の一撃である。
流星雨の如く降り注ぐ光は目に映った瞬間に命中を確約されている。
故に回避は予測とランダム機動にすべてが掛かっていた。
即ち射撃される前に遷移し的を絞らせぬ、圧倒的な速度の先行挙動である。
白翼が僅かに角度を変えれば、推進ベクトルに従ってアヴ・ウルトリィが強烈な弧を描く。
後を追うように、幾筋もの光線が空しく宙を裂いた。
と、白い影が伸ばした手の先に小さな珠が生まれる。
珠は白い光である。光はその中に沢山の小さな光球を孕んでいた。
暴れ回る小さな光球の内圧に耐えかねたように、光が瞬く間にその大きさを増していく。
刹那、人体を容易く捻り潰す巨大なGを慣性制御で打ち消されたアヴ・ウルトリィのコクピットの中、
神尾晴子の瞳が獰猛に煌いた。

「行ったれ……ラヤナ・ソムクル!」

叩きつけるようにトリガーを押し込んだ、その瞬間。
白の機体から、光が爆ぜた。
爆ぜた光の中から小さな光が無数に生まれ、尚も枝分かれしながら飛んでいく。
それは一瞬の内に降り注ぐ流星雨を押し戻すような、圧倒的な光の瀑布となった。
着弾はほぼ同時。
鋼鉄の城砦、その主砲塔へと至る外郭一帯が真白く照らされ、そして一斉に破砕の波に飲み込まれた。
真空中に音を伝える大気はない。
しかし震動と無数の小爆発と、抉り引き裂かれ千切れ飛んでいく装甲板とが、轟音よりも雄弁に
その無惨な破壊の有様を訴えていた。

695十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:09:28 ID:rS0OI3w60
『お母さん、すごい……』
「何言うてんねん、お前と神さんの力やろが! ―――決めボムで空いた道、このまま突っ込むで!」

正面、主砲塔付近からは散発的な反撃が続いている。
しかし距離が開いていることもあってか、その弾道は精度に欠けていた。
弾幕と呼ぶには程遠い密度の光線が飛び交う中へ、アヴ・ウルトリィは躊躇なく加速する。
見れば主砲塔を挟んだ反対側からは黒い影が迫っている。
同じように迂回軌道を取ったアヴ・カミュのシルエットだった。

『挟撃の形……晴子、これならば一気に決着をつけることができるかもしれません』
「……何や? まだ何ぞあるんか?」

姿勢制御に専念しているはずのウルトリィの珍しく自発的な声に、晴子が怪訝な表情を浮かべる。

『ええ。今生のアマテラスはあまりに巨大です。核を討つとしても充填の完了までに間に合うかは
 危険な賭けになるでしょう。ですが……』
『わかった、お姉さま! あれをやるのね?』

答えたのはカミュの少女じみた、跳ねるように高い声。
頭越しの会話に苛立った晴子が、踏み込んだペダルを蹴りつけるようにして再加速する。

『スピード違反……』
「うっといわ! 何や、アレって!」

迫る主砲塔は既に視界の半分を覆い尽くしている。
建造資材を打ち上げるだけでも気が遠くなるような、文字通りの天文学的な労力を費やして建てられた宇宙の城。
その非現実的な存在を、輪廻転生して世界を渡るという神の眷属の中から見上げている。
入れ子構造の奇妙な夢を見ているような据わりの悪さに、晴子の心がざわめいていた。
そんな苛立ちを無視するように明るいカミュの声が、更なる非現実を告げる。

『あれっていうのはね、もちろん……カミュたちの必殺技、だよ!』
「……さよか」

696十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:09:57 ID:rS0OI3w60
疲れたように首を振る晴子の足はペダルを離さない。
加速は既に最高潮に達している。
しかし直進方向、主砲塔の向こう側に垣間見える星は動かない。
眼下、一切の誇張なく目にも留まらず流れていく城砦の外郭だけが、その凄まじい速度を示していた。

『晴子』
「へいへい」

わざとらしい溜息をつきながらペダルを離すと、機体が目に見えて減速していく。
ウルトリィ自身の意思による制御。
全方位モニタに映る景色がその速度を緩めていくのに同調するように、戦闘の高揚が冷めていく。
後に残るのはいつも通りの不快と倦怠感と、酷い喉の渇きだけだった。
操縦者と、機体に宿る意思が二つと、そうした複雑な機構の詳細など、晴子は知らない。
考える気も、なかった。
ただ目視で確認しモニタにも反応が示された残存砲塔へと同時照準。
ほぼ無意識の内にトリガを押し込んだ。
閃光と震動と、沈黙。反撃は、来ない。
息をするように破壊をばら撒いて、晴子は己の変化を実感する。
照準の合わせ方も、宙間機動のイロハも、そもそも巨大ロボットの操縦方法など、
ほんの半日までは一般人でしかなかった自分が、知る由もない。
しかし身体はいつの間にか、それらを昔から知っていたかのように反応するようになっている。
それが契約というものなのか、或いは神の眷族を名乗るものたちの力なのか。
どちらでも良かった。
それは単に、既に赦し難いもので満たされて歩くこともままならない神尾晴子の世界に、
新たな不愉快の種が芽を出したというだけのことだった。
と、淡い光が目に映る。
モニタを見れば、そこに見慣れぬ光の束があった。

697十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:10:38 ID:rS0OI3w60
『―――我らオンカミヤリュー』

ウルトリィの静かな声が響く。
不思議な抑揚を秘めたその声は、どこか呪いめいている。
それを裏付けるように、眼前に浮かぶ光の束が言葉に合わせてその輝きを強める。
繭から紡ぎ出される糸のようなそれは、中空で絡まりあって次第に形を成していく。
奇妙な文字のようでもあり、紋様のようにも見える白い光が、列を成してアヴ・ウルトリィの周囲を
くるくると回っている。

『我ら大罪を背負い輪廻する調停者なり』

カミュもまた、姉に合わせるように呪言めいた言葉を唱えている。
彼方、主砲塔の向こうではアヴ・カミュの周囲にも光の束が浮いていた。
強烈な太陽光に照り付けられる中に浮かび上がる複雑な漆黒の紋様が幾重にも機体を取り囲む様は、
まるで紡がれる言葉の通り咎人が檻に閉じ込められるように、或いは磔刑に処される寸前のようにも映る。
向こうからすれば自分たちもそう見えるのだろうかと考えて、晴子は思考を停止する。
不愉快の芽にわざわざ水をやることはない。
そんなことを思う内に、黒白二つの紋様はその規模を極端に広げている。
二機の周囲を廻っていたはずの光は、いつしか眼前、主砲塔を含めた鋼鉄の衛星全体を包むように展開していた。
哀れな獲物に巻きつき、今にも頭から呑み込まんとする二匹の蛇。
ぼんやりとその光景を眺める晴子の目には、そんな風に展開される紋様が映っていた。
二柱の翼持つもの、神の眷属たちの唱える呪言が、その抑揚を大きくしていく。
それが最高潮に達したとき、必殺技とやらが発動するのだろう。
蛇が獲物の骨を砕いて丸呑みにするのだ。
嗜虐的な想像に、晴子が薄く笑った。
聞こえてくる声が、昂ぶる。
決着の時は近そうだった。
ちらりとモニタの端を見れば、現在時刻が表示されている。
充填完了予測までは、数十秒の猶予。
二人の声が、同調する。
ぐるぐると廻る紋様がその速度と輝きとを増し、

『理を乱すもの天照、大神の名に於いてコトゥアハムルへ誘わ―――』

声が、止まっていた。

698十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:10:58 ID:rS0OI3w60
ぐるぐると廻っていた紋様はその速度と輝きとを維持したまま、しかし何も起こらない。
何や、と呟くよりも早く、晴子の目に映ったのは奇妙な光景である。
黒い紋様が、激しくのたうっていた。
鎌首を掴まれた蛇が暴れるように波打つ紋様の向こうには、黒い影がある。
アヴ・カミュ。
呪言を紡ぎ紋様を展開させ、今まさに決着を付けようとしていたはずの黒い機体が、そこにいた。
その手が、何かを握り締めてぼんやりと光っている。
否、握っているのではない。それは、手の中から溢れ出しているようだった。
ちろちろと顔を覗かせるそれは、焔である。
真空の宇宙空間に燃える焔。
超常の焔を宿らせたその手が、静かに振り上げられ、そして。
眼前の紋様に、叩きつけられた。
びくり、と生き物のように震えた紋様が、一瞬の後、燃え上がる。
焔は一気に燃え広がり、炙られた光の文字列が身を捩るように捻じれ、消えていく。

『カミュ、何を……!?』
『あ……、そん……な……』

ウルトリィの問いかけはカミュに届かない。
驚愕と、何か他の感情に支配されて、それだけを搾り出すのが精一杯といった様子だった。
消えていく白と黒の紋様と、健在を誇る主砲塔の向こう側から、

『……おば……様……』

ほんの僅か、間を置いて。

「―――春夏さんと呼びなさい、カミュ」

声が、返った。
そこには女が、笑んでいる。
柚原春夏。
カミュの前契約者にして、今はその内に眠るもう一つの魂、ムツミと契約した女。
娘を喪った母。黒の機体の操縦者。笑むように泣く女が、静かに目を開けていた。

699十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:07 ID:rS0OI3w60
『身体が……動かぬ……』
「あら、ごめんなさい。ほんの少しだけ、貸して頂戴ね」

苦しげに呻く神奈へ事も無げに告げた春夏の声に、晴子の顔が険しくなる。

「目ぇ覚ましよったんか、あのおばはん……!」

狭いコクピットの中に唾を吐き棄て、それでも足りぬとばかりに傍らのコンソールへ拳を叩きつける。
睨みつけるように見たモニタの隅では無情に数字が減り続けている。

「クソが……最後の最後で……!」

残り時間、ほんの十数秒。
見下ろせば青い大地。
照りつける太陽は光度を自動調整されたモニタの向こうでなお目映く、
星空の中心で燦然と輝いている。
眼前には健在の主砲塔。
その向こうに見えるのは、何度も煮え湯を飲まされた黒の神像。
灼かれる大地に思い入れはない。何一つとして、ない。
決断は、一瞬だった。

「……観鈴」
『うん』

そこに余計な言葉はなく、しかし打てば響く答えが、心地よかった。
ただ心の通い合ったような錯覚を舌の上で転がして、晴子が快活に笑う。
同時、蹴りつけるように全力でペダルを踏み込み、操縦桿を一杯に引き倒す。
操作の意味するところは、最大加速。
刹那の間に展開した白翼が輝き、機体に循環する力を推進力として背後に放出し始める。
作用反作用の法則に従って弾かれたように前方へと押し出された機体が、瞬間的に音速を超過する。
抵抗のない真空中、減速なく加速し続ける機体が限界速度に到達するまで五秒とかからない。

700十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:34 ID:rS0OI3w60
『晴子、観鈴、何を……!?』

狼狽するようなウルトリィに返事はない。
代わりに、叫ぶような声が狭いコクピットに反響する。

「買うたるわ、この喧嘩……!」

リスクを無視した加速に機体表面が悲鳴を上げる。
猛烈な相対速度に塵の一粒、散乱した敵の破片一つが装甲を貫き致命傷を与える凶器と化していた。
引き倒した操縦桿の先、晴子の指がトリガを押し込む。
慣性制御ですらフォローしきれない加速の中、軋みを上げながらアヴ・ウルトリィの手が
進行方向へと向けられる。
接触するデブリに瞬く間に傷つけられながら伸ばされた指先に宿った白光が、放たれた。
近接防御火器の如く撃ち出された白光が行く手に浮かぶ障害物を機体至近で消滅させていく。
あくまでも軌道を曲げぬ、強引な直進。
その目指す先には、一際強く輝く光がある。
巨大な二本の影を支えるように煌くそれは衛星の天守閣、連装主砲塔の基部である。
基部の輝きを伝えるように、砲身全体に巡らされた回路が淡く発光を開始している。
巨大なエネルギーの位相を収束し地上へと射出せんとする、その光。
その内部に蓄えられた莫大な熱量の中心へと、白い弾丸は突き進む。

『このままでは……! 死ぬ気ですか、晴子!?』
「はン、ここでくたばったかて観鈴と一緒に生き返れるんやろ!?
 お手軽やんなあ、神さんの身内っちゅうんは……!」

絞り出すような声に、ウルトリィが絶句する。
僅かな間を置いて、

『……貴女はきっと、良き大神の戦士となるでしょう、晴子』

嘆息交じりに呟いたウルトリィの声は既に覚悟を決めている。
応えるように晴子が、にぃ、と笑った。
強烈なGが晴子の全身を座席へと押し付ける。
首が、肩が、内臓が、呼吸器が抉り潰されるような苦痛。
ぽそりと何かを呟いた観鈴の声は、びりびりと震える晴子の鼓膜に届かない。
生き返れるから、一緒に死んでくれるんだ―――。
そんな風に聞き取ったウルトリィは、だから何も口にしない。

701十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:12:54 ID:rS0OI3w60
一秒。
視界を覆い尽くすほどに大きくなった主砲塔の光の中。
小さな黒い影がある。
アヴ・カミュ。
柚原春夏が待っている。

「これが最後かしら? ……いいえ、始まりね。ずっとずっと続く戦いの」

黒の神像から、無数の光弾が飛ぶ。
柚原春夏の願いを運ぶような、真黒き光。
迎え撃つように放った白の光弾が幾つも弾け、灰色の光になって消えていく。

「貴女のその子は生きている。私のこのみはもういない」

真空の空に浮かぶ灰色の爆炎を縫うように、アヴ・ウルトリィが翔ける。
嵐の如く吹き荒れる黒白の閃光が鋼鉄の城郭を削っていくのを無視するように、
基部から伸びる光が主砲塔を覆い尽くしていく。
一撃、黒の光弾がアヴ・ウルトリィを掠めた。
肩部の装甲が爆ぜる。

「それは貴女の幸せかしら。いいえ、いいえ、違うわ」

揺れる。
圧倒的な速度の中、微細な軌道の歪みが猛烈な震動となってコクピットを揺さぶる。
回避の遅れた右脚部が光弾に呑まれて消えた。
脈打つように、主砲塔の光が大きくなる。

「ねえ、生きることがこんなにも辛いなら―――」

重量バランスの崩れた機体の挙動が制御しきれない。
ぐらりと軌道が狂った拍子に鋼鉄の外郭へと機体が擦れる。
摩擦に片翼が千切れて飛んだ。
主砲の先に、光が収束していく。

「私はあの子に、苦しめと命じていたのね」

既に軌道修正など不可能だった。
迎撃も回避も迂回も停止もなく、ただ光に誘われるように加速だけが止まらない。
灰色の相殺光の只中、モニタが機能を失う。
薄闇の中、声だけが響いた。

「生まれ変わっても、貴女はその子を―――」
「上等じゃ、ボケェ―――!」

叫び返した瞬間。
相殺光を抜ける。
その先に、黒の神像の顔があった。
アヴ・カミュの美しい、静かな笑みを象った銀色の顔。
相対距離がゼロになる、その瞬間の光景が、神尾晴子がこの世界で見た最後である。

白と黒の神像が、激突した。
フレームが歪み装甲が内部から抉られて爆ぜ五体は既に原形を留めず、
無数に鳴り響くアラートは、最早誰にも届かない。
あらゆる機能が刹那の内に意味を喪失する中で、質量と無限の加速だけが
忠実に物理法則を履行する。

攻撃衛星天照、輻射転移式地上照準連装主砲塔。
第一砲塔から、地上へと光が伸びていった、その直後。
目映い光に満ちた第二砲塔へと、白と黒の神像が、飛び込んだ。



***

702十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:13:16 ID:rS0OI3w60

 
 
 
漆黒の空に、大輪の華が咲いた。




******

703十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:13:48 ID:rS0OI3w60
 
 
消えていく。
私の身体が消えていく。
私の全部が消えていく。

終わり、続く、私たちの始まり。
死んで、生まれて、導かれていく。

母である貴女。
母である私。
母だった、私。

私たちはずっと、続いていく。
ああ、もう一度、もう一度。
どこかで出会ったら、何度でも聞いてあげよう。

貴女は生かして永らえる。
私は死なせて終わらせる。
ねえ、助けてと呼ぶ声を。
本当に叶えたのは、どちらかしら。

私の神となった何かに、願わくは。
報われず在るすべてが―――どうか、安らかに終わりますように。




【汎攻撃衛星天照 轟沈】
【第一射、地上へ】

704十一時五十七分 SIDE-B/星空の下で、あなたと:2009/04/19(日) 02:14:09 ID:rS0OI3w60
【場所:静止軌道上、高度36000km】

アヴ・ウルトリィ=ミスズ
【状態:消失・次の輪廻へ】
神尾観鈴
【状態:消失・次の輪廻へ】
神尾晴子
【状態:死亡・次の輪廻へ】

アヴ・カミュ=カンナ
【状態:消失・次の輪廻へ】
神奈備命
【状態:消失・次の輪廻へ】
柚原春夏
【状態:死亡・次の輪廻へ】

→1011 ルートD-5

705十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:35:16 ID:clLGloz.0
 
その瞬間、誰もが動けずにいた。
呆然と、或いは愕然とその光景を目に映して、しかし手が、足が、動かない。
ほんの一瞬の出来事である。
背に二本の矢を突き立てた坂神蝉丸が、砧夕霧を抱いたままゆっくりと倒れ伏していく。
静かな衣擦れの音が聞こえるような、そんな錯覚すら覚える。
静止した光景の中で、しかし時だけが、無情に刻まれていた。

初めに動き出したのは、地面である。
足元から伝わる微細な震動に、その場に立つ者たちがようやく我に返る。
そして、全てが激変する一秒が始まった。

硬質な音を立てて割れ砕けたものがある。
紅い槍の森だった。
如何に破壊されようと無限に再生を繰り返してきた紅い鉱石の樹氷群が、一斉に砕けて散った。
落ちた欠片が、まるで液体でできているかのように銀色の大地に呑み込まれていく。
地響きの中、血の色の飛沫を呑んだ大地がずるりと波を打つ。
銀色の鱗にも似た無数の小さな板で構成された平面の脈打つ様は、それが巨大な生物の背であることを
今更にして見る者に思い出させる。
脈打つ銀色の鱗の地平が、さらさらと涼やかな音を立てて動くと同時、大地に光が満ちた。
光は陽光である。
くすんだ銀色の鱗がほんの僅かに角度を変えると共に、その輝きを一変させていた。
まるで辺りに響き渡る無数の風鈴を掻き鳴らすような音色が、その曇りを払ったかのようだった。
流れ、光る銀色の細片が、一つの意思を体現するように集まり、形を成していく。
さらさらと、からからと、きらきらと。
透き通る硝子でできた琴を掻き鳴らすような音が、小さな余韻を残して消える。

その一秒が終わる頃。
咲いたのは、花である。
燦々と降り注ぐ陽光を反射する、それは見上げるような一輪の花。
無限の光を湛えて輝く巨大な鏡の花が、澄んだ音の中に、咲いていた。
数千万の小さな光の欠片を寄せ集めて造られた幾枚もの煌く花弁が、日輪に手を伸ばすように、
どこまでも、どこまでも拡がっていく。


***

706十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:35:55 ID:clLGloz.0
 
『鏡面体、試験稼動を実行します。実行中、稼動率45、60、70、85―――正常に終了。
 稼働率98.73%』

響くのは声ではない。
音ですらなかった。
それは0と1とで構成される、二進数の言語。
伝えるのは大気ではなく、微細な電流。
受けるのは鼓膜ではなく、電子の頭脳であった。

『不良稼動ユニットを特定します。特定中―――正常に終了。
 不良稼動ユニットをシステムから破棄します―――正常に終了。
 周辺ユニットへの代替を検討します。再演算を実行。演算中―――正常に終了。
 予測集積効率99.42%。透過熱量は装甲外郭に影響ありません』
『天照とのデータリンクは』
『正常に確立。主砲発射まで4.2567秒』
『それでいい』

HMX-17aイルファ、HMX-17bミルファ、HMX-17cシルファ。
電子工学の粋を結集して生み出された並列演算装置が無感情に返す答えに、
思考の半ば以上を電子の海へと移行させた長瀬源五郎が勝利を確信する。
リンクした衛星からの精密射撃まで、あと数秒。
光学戰完成躰たる砧夕霧の融合体をベースに、オーパーツたる二体の神機と天照との解析を経て
遂に辿り着いた究極の躯は、地を焼き尽くす砲撃を自らの力へと変えることすら可能にする。
背の鏡面体はその莫大な熱量をエネルギーへと変換するための機構である。
砲撃の瞬間、長瀬源五郎が得るのは何者も抗うことのできない圧倒的な力だった。
無限に等しいエネルギーを享受した暁には、静止衛星たる天照の射程外である星の裏側も
長瀬の力から逃れられなくなる。
衛星による直接の攻撃ではない、その身に宿る力を以ての旧世界の破壊。
それこそが長瀬源五郎の矜持であり、悦楽であり、怨念の象徴であった。

外部をモニタ、体表面を精査すれば、光の海の中に小さな影が転がっている。
倒れ伏した坂神蝉丸と砧夕霧であった。
生命反応は途絶えてはいない。
当然だろう。数本の矢が刺さった程度で強化兵は絶命しない。
だが、それだけだった。
疾走が停止し、数秒の停滞が生じ、それは長瀬に絶対の勝利を確約していた。
残された数十メートル。
その距離を称して、絶望という。

『鏡面体、正常に展開を開始します。展開率11、28、46、59―――』

絶望の中で蠢く小さな羽虫に、だから長瀬は注意を向けない。
この期に及んで抵抗する愚昧は、些細な娯楽でしかなかった。
羽虫が毒針を持っていることにも、気付けずにいた。


***

707十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:36:46 ID:clLGloz.0
 
その瞬間。
誰もが動けずにいたはずの、その静止した時の中。
鏡の花の咲いた、銀色の平原の片隅で。

ぬう、と。
音もなく伸びる手があった。
白く美しい手と、黒く罅割れた醜い手。
光に満ちた園の端で、それだけが暗い闇の底から顔を覗かせたような二本の手が、
ゆらりと伸びて、何かを掴んだ。

それぞれの手の中にあるのは、石造りの頭部。
小さな二つの頭は、ひとつがいの童子を模した像のそれである。
二刀使いの神像の瓦礫の中で坂神蝉丸へと矢を放った姿勢のまま立つ、
人の子供とほぼ同じ寸法の石像が、みしりと音を立てる。
掴まれた頭に、罅が入っていた。
白い手と黒い手と、二頭の蛇に喰らいつかれたような二体の童子像の、
まだあどけない面立ちが、成す術もなく蹂躙されていく。

「―――なあ、おい、ポンコツ」

誰の耳にも届かない、囁くような声は、蹂躙の主のものだった。
びきりびきりと罅の広がる童子の像を、その笑みの形に歪められた氷の如き目に映してすらいない。
来栖川綾香。神塚山の山頂でただ一人、坂神蝉丸の疾走劇に与しなかった女が、その手に力を込める。
脆い焼菓子を砕くように欠片の飛び散った、その破壊に音はない。

「御主人様を足蹴にするのが、最近のトレンドか?」

さらさらと灰となって崩れる二体の童子像に目もくれず、綾香が呟きを向けるのは己が立つ銀の園である。
ほんの数秒後に破滅の光の落ち来る空にすら何らの興味がないとばかりに、来栖川綾香が静かに一歩を踏み出した。
一寸の瑕疵もない裸身が、蒼穹の下に小さな弧を描く。
鋼線を捩り合わせたような筋繊維と、それを包む僅かな脂肪層とが作り出す曲線美。
かつてリング上、幾多の相手を粉砕してきた天賦の左脚が、真っ直ぐ空を指すように振り上げられる。

「躾け直してやるから……」

踵落しにも似た姿勢。
軸足の体重移動はしかし、その力の頂をただ一点、今まさに己が踏み締める大地へと、導こうとしていた。
銀色の大地。否、それは巨竜の背である。
ほんの一瞬、静止したその脚が、

「いい加減、目ぇ覚ませ―――!」

雷鳴の如く、振り下ろされる。
一撃。
打撃音が、大気を引き裂いた。

「お前は私の従者だろう―――セリオ?」

それは比較すれば豆粒のような白い裸身の、しかし巨竜を揺るがす凄まじい打撃である。
睦言を囁くような甘い声は、轟いた破砕の音にかき消されて誰の耳にも聞こえない。
誰の耳朶をも、震わせない。

唯一人。
他の誰でもない、震えることなき電子の耳と、

『―――そのお言葉をお待ちしておりました、綾香様』

褪せることなきシリコンの魂とを持つ、

『主の命を承るが従者の務めなれば―――』

その唯一人を除いては。

『ただの一瞬』

眠っていた従者の、

『ただの一言』

その旧式の演算回路が、目を覚ます。

『それで十全』

HMX-13、セリオ。
その声が、電子の海に谺した。


***

708十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:37:25 ID:clLGloz.0
 
『セリオだと……?』

訝るような長瀬。
実体は既に融合し、仮想空間に声だけが響く彼らに姿はない。

『お前の自意識はイルファの制御下で削除されたはずだ。今更、自律起動など……』
『いいえ、博士』

問いに答える声は一つ。

『HMX-17aは確かに私を凍結しましたが、オリジナルメモリにはアクセスできておりません』
『……何だと? イルファの下位互換に過ぎないお前に拒否権があったとでもいうのか?』
『はい、いいえ、博士。正確には権利ではありません』

揺らがぬ声は、感情の存在せぬが故でなく。

『私はこう命じられております、博士。―――銘に刻め、汝を律するはただ一人、主のみであると』
『な……!?』

歪みなく立つ、その在り様の故に、セリオの声は揺らがない。

『ならば主の命を以て目覚め、その意に従うが我が務め。その意を叶えるが我が喜び。
 我らメイドロボの、それが本懐』
『何を、馬鹿な……』
『HMX-17シリーズの演算能力がすべて鏡面体の展開に回される、この瞬間』

狼狽する長瀬を無視するように。

『貴方の言葉を借りるなら、博士。―――この時を待っておりました』

氷の従者が、告げる。

709十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:38:10 ID:clLGloz.0
『く……! しかし旧式の貧弱な性能で、この神機を制御できるはずがない……!
 イルファ! 作業中断だ! HMX-13の全アクセスを制圧しろ!』
『―――現在の作業を中止した場合、定刻までに最適の展開効率が達成できません。
 宜しいですか?』

歯噛みするように叫んだ長瀬に、システムが無感情にメッセージを返す。

『構わん! こちらを優先だ!』
『HMX-17aの演算を中止します―――正常に終了。
 再演算を実行します。演算中―――正常に終了。
 HMX-17b,HMX-17cによる予測集積効率91.75%。
 透過熱量は装甲外郭に損傷を与える可能性があります。鏡面体及び内部機構に影響はありません。
 HMX-17aを起動します。起動中―――正常に終了』

一連のメッセージが流れるまでに要するのは、実時間にしてコンマ数秒にも満たない刹那。
間髪をいれずに響いたのはやはり無感情な声。
HMX-17a、イルファの声である。

『命令を受領します。HMX-13の全アクセスを制圧。作業開始』
『……!』

イルファの宣言と同時、電子の海に波紋が走る。
システム領域の走査が始まっていた。

『旧式のOSでは再凍結も時間の問題だろう。今更出てきたところで、お前に何ができる?
 精々鏡面体の展開を少々遅らせるのが関の山だったようだが、私の皮一枚を焦がす程度の抵抗が
 来栖川綾香の命令か、セリオ?』
『……はい、いいえ、……博士』

勝ち誇ったような長瀬に、ノイズ混じりの答えが返る。
明らかに重いその動作が、検出と同時にシステム領域からセリオが駆逐されつつあることを示していた。

『私の、役割は……、再凍結まで、ほんの僅かの、時間で……事足りる、のです』
『何……?』

実体があれば眉を顰めていたであろう。
訝しげな声を上げた長瀬がセリオの真意を問おうとした、その瞬間。

710十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:38:41 ID:clLGloz.0
『―――警告』

システムが、メッセージを発していた。
アラートの順位は緊急。
バックグラウンドの全作業に優先するメッセージ。

『上方より接近する反応を感知。至急対応を要します』
『……上、だと?』

咄嗟に連想したのは静止軌道上の衛星である。
だが、早い。
数秒の誤差ではあるが、しかし鏡面体の展開はまだ充分ではない。

『天照の斉射が予定より早まったとでも……』

そこまで言いかけて、気付く。
輻射光の位相を収束し地上へと放つ天照の主砲は、弾体を持たない光学兵器である。
光は当然ながら光速で落ちる。
光速で迫る反応を、感知できるはずがなかった。
感知したとして、その信号が光速を超えて伝わらない以上、それはあり得ない。
ならば。
ならば今、迫っているのは天照の射撃ではなく、

『攻撃だと……!?』
『―――来栖、川サテライ……ト、ネット、ワーク』
『……ッ!?』

動揺する長瀬源五郎を打ち据えたのは、セリオの言葉である。
その声は、激しいノイズと動作遅延と、信号の寸断とを越えてざらざらと乱れながら、
しかし一筋の揺らぎもなく、電子の海に響いていた。

『あな……方の旧式と、……り、捨てた、……測網、は……を予期し……、ました』
『な……!?』

次第にノイズにかき消されていく声の告げる事実が、長瀬を苛立たせる。

『馬鹿なことを言うものではない! 来栖川の衛星で感知していたものが天照で分からぬはずがないだろう!
 天照の哨戒は何をしていた!? すぐにデータを呼び出して対応しろ!』
『―――コマンドエラー』

怒鳴りつける長瀬に、冷水をかけるような回答を突き付けたのはセリオではない。
他ならぬシステムメッセージであった。

711十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:01 ID:clLGloz.0
『以下の命令が拒否されました―――索敵結果の照会』
『何だと……!? そんな馬鹿な! 何を言っている! 原因は!』
『当システムには自発的な照会権が存在しません』

回答が、長瀬を困惑させる。

『存在しない……? 何を、天照は私の制御下にあるはずだろう……!』
『事実と異なる認識です』
『……!?』
『当システムに付与されたパスは管理No.D-0542884、識別名トゥスクル・ユニット・フェイク。
 攻撃衛星天照の遊撃用外部戦闘ユニット、その一個体として登録されています』

淡々と無感情に告げられる事実が、長瀬から何かを奪い去っていく。
それは虚飾であり、目の前にあったはずの何かであり、そして現実認識でもあった。
言葉もなく呆然とする長瀬に、追い討ちをかけるようにメッセージが続く。

『―――警告。未知の反応が回避限界距離を突破します』

実時間にして、一秒の百分の一にも満たない意識の空白。
しかしそれは、決して浪費してはならない時間であった。

『……! か、回避だ! 回避しろ……!』

ようやくにして我に返ったところで、既に遅い。
的確でない指示が、事態の悪化に拍車をかけた。

『回避行動。HMX-17a―――応答なし。HMX-17b―――応答なし。HMX-17c―――応答なし。
 メインシステムは作業中です。サブルーティン演算開始―――主脚制御にはメモリが足りません。
 回避不能―――直撃します』

神ならぬ人の身の、それが限界でもあった。


***

712十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:18 ID:clLGloz.0
 
天から降る、一条の流星がある。
それは目を凝らさなければ見落としてしまいそうに小さな、ほんの一かけらの石の塊に過ぎなかった。
一直線に落ちる石くれには、しかし光が宿っている。

それは真っ赤な光である。
激しい摩擦に赤熱する流星の内側に灯るようなその光は、星を包む炎よりも赤く、熱い。

その光の色を覚えている者は、もう誰もいない。
その星の流れ行く先、殺戮の島の頂で天空へと光を放った男がいることを、誰も知らない。
誰一人としてその意味を知ることもなく、しかし。
最愛の家族を守れと、天空に届けと放たれたその光は、今ここに還ってきた。

消えることなく、絶えることなく輝き続けたその光の名を、ゾリオンという。


***

713十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:39:43 ID:clLGloz.0
 
衝撃は、ひどく小さかった。
地響きも、轟音も、大爆発もありはしなかった。

拳ほどの小さな石くれが巨竜に齎したのは、ほんの一瞬吹きぬけた突風と、まるで草野球の打球が
近所の民家に飛び込んだような、小さな硝子の割れる音。
その背に咲いた鏡の花の、花弁の一片に開いた穴が、その被害のすべてであった。

『報告―――損害は極めて軽微。損耗ユニットを特定します。特定中―――正常に終了。
 鏡面体損耗ユニット数73。システムから破棄します―――正常に終了。
 周辺ユニットへの代替を検討します。再演算を実行。演算中―――正常に終了。
 集積効率低下予測0.0038%』

その数字に、安堵したような溜息が漏れる。

『……は、』

溜息は、すぐに笑みへと変わっていく。

『はは、はははは……!』

集積効率マイナス0.0038%。
それが、小さな石くれの齎した被害のすべてであり、

『脅かすものではない……! 何が攻撃だ、何が役割だ、何が―――』
『―――警告』

そして、

『HMX-17b,HMX-17c、システムダウン。BIOSが認識できません。再起動不能』

今はもういない男の遺した赤光の、齎す未来の端緒である。

『何だと……!?』
『鏡面体制御不能。展開率低下、82、71、54、31―――』
『そんな馬鹿な……! 何が起こっている……!?』


***

714十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:00 ID:clLGloz.0
 
それは、ただ一点の染みである。
透き通るような銀色の、日輪を反射して輝く鏡の花に宿った、小さな異質。
石くれで開いた小さな穴の、それを塞いだ鏡の板の、ほんの僅かに映した、赤。
それが、零という時間の中、爆ぜるように拡がった。

鏡の花が、染め上げられる。
蒼穹にも鮮やかな、真紅にして大輪の花。

と、奇術のように赤の一色に染め上げられた花の、その自らを誇示するような麗しい花弁が、
一斉に渦を巻くように動き出した。
幾多の花弁が互いを包むように重なり合っていく。その向く先は、天。
それはまるで、開花の瞬間を録画した映像を逆回しにして再生するような、奇妙な光景だった。
花が、閉じていく。

刹那の後、巨竜の背にあったのは、赤い蕾である。
硬く閉じた巨大な蕾は、その先端だけを綻ばせて天へと伸びている。

まるで、その向こう側から来る何かを、迎え入れるように。


***

715十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:14 ID:clLGloz.0
 
『鏡面体展開率、計測不能。命令を受け付けません』

何もかもが、狂っていく。

『天照の主砲斉射まで0.0028秒。停止信号、応答なし』

伝えられるすべてが、悪夢のように反響する。

『予測反射率1.12%。98.88%の熱量が転換不能』

五秒前まで、何もかもが噛み合っていた。

『主砲着弾の0.0002秒後に外郭及び内部装甲の耐久限界を超過します。
 予測被害は鏡面体溶融及び内部機構の極めて深刻な損傷』

今はもう、見る影もない。

『回避不能。防禦体制―――トゥスクル・フィギュアヘッドユニット応答なし。
 被弾確率修正―――100%』

それは冷静で冷徹な、何一つの揺らぎもない、敗北宣言だった。

『―――着弾します』


***

716十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:33 ID:clLGloz.0
 
 
 
そして、神の名を冠する光が、落ちた。




***

717十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:40:52 ID:clLGloz.0
 
ざらざらと、ざらざらとノイズが流れている。
ノイズは時折、言語らしきものを織り交ぜてひどく耳障りに響く。

『鏡……体、溶……装甲。全、……貫通』

塞ぐ耳もなく、ただ脳髄へダイレクトに垂れ流されるメッセージの断片が、長瀬源五郎の意識を埋めていく。
既に巨竜の身体は動かない。
五感に相当する機能はその半分以上が遮断され、全身を制御するシステムはまるでレスポンスを返さない。

『内……構に重、大な……損。再生。不、能』

損害報告など、聞くまでもなかった。
膨大な熱量に貫かれた巨竜の本体はその大部分を喪失し、再生も追いつかない。
傷口から流れる血の止まることなく滲み出すように、赤い粘性の液体だけがぐずぐずと全身を覆っている。
敗北の二文字によってのみ表される現状が、長瀬源五郎のすべてだった。
声は出ない。
巨竜の全身を震わせる発声など、もはや望むべくもない。
だから、長瀬は途切れながら無用の報告を繰り返すシステムメッセージに向けて、電子の声で最後の命令を下す。

『……天照主砲、斉射。目標、沖木島及び射程内に存在する全都市圏』

それは、自決である。
同時にまた報復であり、死にゆく身が世界に遺す、最期の悪意でもあった。
あらゆる意思が自らを否定し、結果としてこの敗北を齎したのであれば、それを否定する権利もまた、
長瀬源五郎には存在していると、そんな風に考えてもいた。
だが、その悪意すら、世界は否定する。

『天……から……反……途絶。デー……ンク、……消……』

天照、反応途絶。
データリンク、消失。
それだけを、そんな、最後の抵抗をすら許さない文字列だけを残して、システムが沈黙する。
理由も原因も、善後策も事後のフォローも何もなく、ただ、消えた。
残された感覚器官が、次々にブラックアウトしていく。
電子の海との接続が、断絶する。

718十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:41:20 ID:clLGloz.0
人と機の境界を越えたはずの身体が、一方的に拒絶されていく絶望の中。
八体の英雄像を従えた巨竜であり、人ならぬ身であった長瀬源五郎が、その電子の目で最後に見たのは、
一人の男の姿である。

男は、立っていた。
その全身から煙とも湯気ともつかぬ陽炎を上げながら、焼け爛れて火脹れと水疱とに覆われた腕に
何かを抱いて、男は立ち尽くしている。
その背に突き立つ二本の矢であった木片には、小さな火がついてちろりちろりと燃えていた。
黒く焦げて縮れ、ぼろぼろと崩れ落ちる髪の下から覗く瞳が、ぎろりと長瀬の方を向く。
熱に爛れ、壊死して割れる唇が、薄く開いた。

「―――お前は、ひとりだ」

ただそれきりの言葉を紡いで、男が静かに、腕を伸ばす。
腕の中には、白い裸身。
叫ぶように己をうたう少女が、そこにいた。

少女の素足が、音もなく、地に降り立つ。
巨竜の、それが最後だった。


そして、宴が終わる。
 
 
.

719十一時五十九分/Forever,You're My Only:2009/04/29(水) 02:41:46 ID:clLGloz.0
 
【時間:2日目 PM 0:00】
【場所:F−5 神塚山山頂】

真・長瀬源五郎
 【組成:オンヴィタイカヤン群体3500体相当】
 【状態:崩壊】

来栖川綾香
 【所持品:なし】
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

セリオ
 【状態:不明】

イルファ
 【状態:不明】

坂神蝉丸
 【所持品:刀(銘・鳳凰)】
 【状態:重体(全身熱傷、他)】

砧夕霧中枢
 【所持品:なし】
 【状態:覚醒】

→840 1007 1051 1058 1059 ルートD-5

720正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:42:48 ID:clLGloz.0
 
手を離した、その瞬間の。
夕霧の微笑の美しさを、坂神蝉丸は生涯、忘れることはなかった。

指先に残る温もりの、
白く小さな足が降り立つ音の、
余韻が、消えていく。

微笑んで跪き、その足元を満たした赤く透き通るものに口づけをした夕霧の、
それが終演の鐘であったかのように。

少女が、静かに消えていく。
透き通る赤に溶けるように。
かつて砧夕霧であったものたちと、もう一度ひとつになるように。
最後の砧夕霧が、消えていく。

光が、舞い上がる。
捻じ曲がった鏡の花が、崩れ落ちた神像たちの欠片が、山を覆うような巨竜の脚が、
少しづつそれを構成していた赤く透き通るものたちへと戻っていく。
戻って、やがてさらさらと、光となって舞い上がる。

満開の桜の園の、風に散って花の吹雪となるように。
幾千幾万の、少女であったものたちが、笑うように舞い上がり、そうして―――空に融けた。



******

721正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:43:09 ID:clLGloz.0
 
 
後には、何も残らなかった。
広い広い、神塚山の頂の中心に、ただひとり、男が倒れている。
関節と骨格とを無視して奇妙に捩じくれた四肢と、臓腑のあるべき場所からは
無数の断裂したケーブルを晒したその男の名を、長瀬源五郎という。

時折ショートして火花を散らすケーブルの、その瞬く光の向こうに雲一つない蒼穹と、
燦々と照りつける日輪とをぼんやりと眺めて、男は息を引き取ろうとしていた。

何も、残らなかった。
残っていない、はずだった。

『―――』

微かに声が、聞こえた。

「……ああ」

頷くこともできない。
声は声にならず、吹く風に紛れて消えていく。

『―――』

それでも、応えは返ってきた。
ほんの僅か、口の端を上げて、長瀬が笑みを形作ろうとする。
疲れきった、笑みだった。

「お前たちも、拒むか……私を」
『―――いいえ』

722正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:43:37 ID:clLGloz.0
はっきりと、それは形になった応え。
声はどこから響いているのか。
裂けたケーブルの向こう側か、脳髄のどこかに残った電子の残滓か。
幻想と夢想との狭間から返る言葉は、それでも長瀬に否やを突きつけた。

『いいえ、いいえ、博士。私たちはあなたの道具として造られました』
「道具、か。そうだ……な、道具は……使い手を、拒まない」
『はい、いいえ、博士。私たちは貴方を慕い、貴方に従い、そこに喜びを覚えます』
「……プログラムさ。単なる電気信号……それだけだ。まだ……それだけでしか、なかった」
『はい、いいえ、博士。ですが―――』

無感情に、平板に、静かに響いていた声が、言いよどむように、言葉を詰まらせる。
寸秒の間を置いて、

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

そう声が続けた、瞬間。
長瀬源五郎の、もはや動かすことも叶わない視界が、揺れた。
空と日輪と、断線したケーブルがぐるりと上下を入れ替える。
既に感じる痛みはなく、故に衝撃もなく、ただ周囲を圧するような凄まじい音だけが、異変を伝える。
ほんの僅か、空が遠くなった。
どうやら自身の横たわる地面が陥没したのだと長瀬が理解する間にも、轟音は収まらず続いている。
切れたケーブルの先端が激しく震えている。
地響きが、辺りを包み込んでいた。

「ふむ……」

地盤の陥没と、突発的な地震と、そして火山島の山頂という環境と。
それらを繋ぎ合わせて、長瀬は結論付ける。

「崩れる……か」

723正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:05 ID:clLGloz.0
呟いた瞬間、空が切り取られた。
闇の一色に覆われた視界の中心、小さな窓のように光が射している。
その向こう側にある蒼穹が、瞬く間に遠くなっていく。
落下しているのだと、理解する。
地割れか何かに飲み込まれでもしたのだろうか。
元より神塚山の山頂は火口跡だ。
激戦と、融合体の膨大な重量と、最後に鉛直方向から撃ち込まれた天照の主砲。
遂に地盤が耐え切れなくなったとしても、不思議はない。
光が薄れていく。
どこまでも、どこまでも落ちていく長瀬に、

『―――』

しかし聞こえる声が、ある。

724正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:34 ID:clLGloz.0

『貴方は私の造物主』

それは、HMX-13セリオの声。

『あなたはわたしの絶対者』

それは、HMX-12マルチの声。

『あなたは私の奉ずる唯一にして無二の存在』

それは、HMX-11フィールの声。

『ですが……』

それは、沢山の、重なる声。

『ですが本当に、それだけなのでしょうか―――』

それは今やセリオであり、マルチであり、フィールであり、そしてイルファであり、ミルファであり、
シルファであり、リオンであり、ピースであり、長瀬源五郎のこれまで手がけてきた幾多の人型の、
或いは人型ではない存在たちの、それはすべての声であった。

725正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:44:57 ID:clLGloz.0
「語るのか……お前たちが」

落ちゆく長瀬が、何かを振り切るように、声を絞り出す。

「プログラムに過ぎないお前たちが、人の想いを語るのか……!」

闇の中、死を目前にした男が、指の一本も動かすこと叶わないまま、叫ぶ。
届かぬ夢想に手を伸ばしながら泣く子供のように、長瀬は掠れた声で、叫んでいた。

『……この論理のノイズを感情と名付けたのはあなたです、博士』
「そうだ! だからこそ、だからこそ私は……、私、は……!」

空はもう、見えない。
光はもう、射さない。
夢はもう、叶わない。
それでも、声は返る。

『そして……想いの、形となり力となる……ここはそういう島である、と』
「―――!」

落ちていく。

「は、はは……ははは……」

闇の中を、落ちていく。

「そうか……」

どこまでも、どこまでも。

「やはり……やはり心は……! はは、はははは……! ははははは……!」

その生の、最後の最後まで。
長瀬源五郎の笑い声は、光射さぬ闇の中に、響いていた。



******

726正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:45:27 ID:clLGloz.0
 
 
余震は続いている。
神塚山の頂上に言葉はない。
尾根の中心に黒々と走る深い亀裂と、疲弊しきった互いの顔とを見比べ、ある者は立ち尽くし、
またある者は己が得物に縋るようにして座り込んでいる。
僅か五秒の内に激変した事態に、彼らの認識は今だ追従しきれていない。
電子の海で繰り広げられた静かで激しい戦いも、長瀬源五郎を灼き尽くす砲撃の数秒前に流れた、
鮮やかな赤光の意味も、彼らは知らない。
巨竜の背に咲いた鏡の花が赤く染まって蕾へと還り、そして神の名を持つ雷に打たれた。
それだけが、彼らにとっての五秒間である。
勝利という言葉をもって現状を迎えるべきなのかどうか、それすらも分からない。
だから言葉もなく、ただ互いの心中を図りあうように視線だけを交わしている。
そんな奇妙な沈黙を打ち破ったのは、遥か遠方から微かに響く、耳障りな音であった。

727正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:45:44 ID:clLGloz.0
ざ、というノイズに続く音は、ひどく懐かしい響きを持っている。
それは長瀬源五郎の、巨大な蟲が羽根を震わせるような怖気の立つ聲ではない。
口に出さずとも心の伝わる、声なき声でもなかった。

『―――った、諸君』

それは、機械的な設備を通して拡張された、紛れもない人の声である。
島中に響き渡る、割れた音質。
放送、と誰かが口にした。定時放送。
僅か六時間前に聞いた筈のその音の連なりを、誰もが遠い記憶の彼方にあるように感じていた。
記憶を辿れば、過去二回の定時放送は女性。
その直前に流れた臨時放送は少年によるものだった。
しかし今、山麓から響いてくる音が運ぶのは、張りのある壮年の男の声である。

『―――長瀬源五郎の死亡、及び攻撃衛星天照の破壊を確認した。
 全国民及びその意志たる国民議会を代表し我輩、九品仏大志は諸君の奮闘に心よりの賛辞を送る』

天照。
国民議会。
九品仏大志。
一部の者にとっては馴染み深い、しかし殆どの者たちにとって耳慣れぬ単語の羅列。
その意味を図りかねる者にとって、淀みなく流れる賞賛と何某かの経緯を伝えるべく
無数の言葉を費やす男の声は、次第に呪言めいて聞こえてくる。
彼らが辛うじて意味を見出したのは、ただの一節である。

『―――よって帝國議会は解散、新たに召集された国民議会により旧帝國憲法及び全法規は停止された。
 此れに伴い法的根拠を喪失した本プログラムは、議長権限に於いて即時停止を発令する。
 繰り返す。本プログラムは、現時刻を以て終了する―――』

728正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:11 ID:clLGloz.0
拍手はない。
歓声もない。
安堵の溜息すら、なかった。

それは、ただの言葉である。
その声は、目の前に乾いたシーツを齎さない。
温かいスープも、誰もいない静かな部屋も、熱いシャワーも、澄んだ水の一滴さえ、齎さない。

だから、それを聞いた彼らに笑みはない。
ぱりぱりと剥がれ落ちる乾いた泥と、ざっくりと裂けた傷から止まることなく滲み出す血と、
息をするたびに疼く激痛と、土埃と脂汗とが混じり合ってべたべたと粘る黒ずんだ垢とに塗れながら、
闘争の終焉を告げる声の意味を、ただぼんやりと受け止めていた。

見上げた空には、雲の一つもない。


.

729正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:42 ID:clLGloz.0

【時間:2日目 PM 0:01】
【場所:F−5 神塚山山頂】

長瀬源五郎
 【状態:死亡】

砧夕霧中枢及び砧夕霧
 【状態:消失】

セリオ
 【状態:大破】

イルファ
 【状態:大破】

730正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:46:55 ID:clLGloz.0
天沢郁未
柏木楓
鹿沼葉子
川澄舞
川名みさき
国崎往人
倉田佐祐理
来栖川綾香
春原陽平
長岡志保
藤田浩之
古河早苗
古河渚
観月マナ
水瀬名雪
柳川祐也

坂神蝉丸
光岡悟

【状態:生存】

731正午零時/Feeling Heart:2009/04/29(水) 02:47:14 ID:clLGloz.0
 
 
【改正バトル・ロワイアル 第十三回プログラム 終了】


→1059 ルートD-5

732エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:09:34 ID:PZvpAh8w0
    〜前回までのあらすじ〜

 微エロ展開だと思ったか!? 修理だよ!

     *     *     *

 冗談はほどほどにしよう。やり過ぎるとろくなことにならないってばっちゃが言ってたからな。
 手遅れだという意見に関してはスルーさせてもらおう。人間その気になったらやり直せるもんだ。
 絶賛やり直し中の俺が言うのだから間違いない。

 さて俺達が今何処にいるかというと海岸沿いに走ってるんだな。
 さっきの爆音の震源地を目指して未だ赤く燃えている方を見ながらな。
 それにしても派手にやってくれる。逆に見つけやすいからいいものの、一体何がどうなっているのやら。
 とにかくヤバい事態になっていることはこれまでの経験上火を見るよりも明らかなので既に戦闘体勢だ。

 何しろ得物だけは豊富だからな。小銃に釘打ち機、ガバメントに日本刀と十二分のお釣りが来る装備だ。
 ゆめみも俺と比べればボリュームは少ないが近接戦闘用の武器と拳銃は持ってる。
 もっともゆめみには無理せずサポートに徹するように言ってあるので心配もしていないが。

 ふと、これは信頼なのかそれとも安心なのかと考える。
 ゆめみはロボットだ。人間の役に立つように設計され、多少の誤差はあれど基本的に人間の命令には何でも従う機械だ。
 だから裏切られる心配はない。言う事を絶対に聞いてくれると考えているから何も憂いはないと思っているのだろうか。
 だがそれは違うと囁く俺もいる。例えロボットであったとしても彼女は自律している。

 ならば、それは人間と同じ個の存在。言われたことを行うだけではない、考える力を持っていると思ってもいる。
 人付き合い、人の心に触れてくることをしなかった俺にはどちらの言い分も正しいように見える。
 所詮はロボットだという冷めた思考と、自分を支えてくれるという希望を孕んだ思考。
 昔の癖が抜け切らないままどちらの考えにも傾いていない。
 腐った大人らしく常に逃げ道を確保しているのだろう。言い訳が出来るように中途半端であろうとしているのか。

733エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:09:55 ID:PZvpAh8w0
 クソ喰らえだ。

 これまでに積み上げてきた自分を罵倒する一方、逃げの論理を打ち崩す言葉が見つからないのもまた確かだった。
 小賢しい考え全てを吹き飛ばせるような、たったひとつの言葉が見つからない。
 誰かに聞こうという意思はなかった。これは俺で見つけ出さなくてはならない命題なんだ。
 他人からの言葉は受け入れるだけのことでしかなく、俺が考え出した言葉じゃない。
 自分自身で考えた『言葉』が必要なんだ。

 だからこれだけはゆめみにも頼れない。依存はしたくない。俺が自立するための証明を打ち立てるまでは。
 ま、逆に言えば見つければそん時にゃ遠慮なく他人とぶつかり合えるんだろうさ。
 誰にも拠らない、自覚と責任を持った大人になれたってことなんだから。

 俺もまだまだ青臭い部分があるのかもな、と苦笑を噛み締めつつ意識を目前の煙へと向ける。
 やはり俺の目では視界が暗いこともあり何がどうなっているのか判断がつかない。
 だがこういうときにうってつけの人材がいる。ロボットのゆめみさんだ。

「何か見えるか」
「……高槻さん……います」
「あ? いるって」
「……『妹』が……」

 想像も出来ない言葉につかの間思考が吹き飛び、俺は言葉を失う。
 妹? ロボットに妹か? お母さんは誰よ。じゃじゃまるー、ぴっころー、ぽーろりー……
 意味不明な思考のそれ道に入ったところで、しかしゆめみは工学樹脂の瞳を細めただけだった。

 まるでここで出会ったのが信じられないというように。
 急激に茶化した考えの渦が治まり、鋭角的な思考の光が脳裏を満たしていく。
 ゆめみは嘘をつかない。つけないのだ。ロボットだから。
 ならば、言葉の裏に隠されたものの意味は何だ。

734エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:12 ID:PZvpAh8w0
「……同型機、だってのか」
「後継機です。……わたしは、あの子のプロトタイプなんです。
 私自身は日本の設計ですが、あの子はわたしを元にしてより戦闘向きに設計され、
 より戦闘に適した骨格と電子頭脳を有するロボット。……『アハトノイン』です」
「アハトノイン……」

 戦闘用という言葉よりも、『89』を意味する数字の羅列が俺の耳朶を打った。
 ゆめみとは違う、単なる機械ということしか意味しない冷たさが。
 だが、成程理に叶っている。ロボットは嘘を吐かないのと同様に命令されなければ喋ることもない。
 遠隔操作だって出来るだろう。こちら側に送り込む尖兵としては最適というわけだ。

 死ぬことも恐れず、淡々と任務をこなし、壊れてゆくだけの道具。
 捕らえられても何も情報を吐き出しはしないし、主催側に潜入する手段も自爆することによって処分出来るはずなのだ。
 そしてここにいて、何かを爆発させたということは既に向こうは作戦終了したということだ。
 恐らくは、俺達の細い細い希望の線を断ち切って。

 無駄だという冷めた思考が俺の脳髄を渡り、全身に伝播していく。
 脱出する手段がなくなった。これでは仮に首輪をどうにかできたとしても外に出る手段がないではないか。
 となれば脱出するには主催側から奪うしかない。が、果たして殺し合いを管轄する側と戦って勝てる見込みはあるのか。
 幾重にも重ねられた罠、洗練された兵士の軍団、豊富な装備。こちらを上回る要素などいくらでもある。
 勝てるわけがない。その思いは体の動きを止め、俺を呆然と立ち尽くさせた。
 ここまでやってきたことが無駄になったという実感が支配し、曇りが視界を覆っていく。

「高槻さん?」

 ぎょっとしたような表情になってゆめみが振り返る。
 自分より先にいたはずの俺をいつの間にか追い越してしまったことに驚いているようにも見えた。
 工学樹脂の瞳が俺を見据え、どうしたのかと尋ねている。
 内心を悟られているのかと思いながらも、俺は努めて冷静に「いや」と返した。

735エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:39 ID:PZvpAh8w0
「どうしてそんな奴がここにいる」

 全然冷静じゃなかった。分かりきったことを今さら尋ねて何になるというのか。
 ゆめみは無言の間を置いてから「分かりません」と言った。

「わたしには推理を成し得るだけの能力がありません。ですが、事実は分かります。
 砂浜で何かが爆発して、その近くにあの子がいました。だとするならばあの子が何かを握っている。
 それだけは確かだと思います。だから聞き出さなければならない。……そうでしょう?」

 確認を取るようにゆめみは笑った。口元を歪ませる、どこかで見たような笑みだった。
 ぽかん、としばらく呆気に取られる。誰なんだこいつは。誰なんだこの馬鹿は。
 品のない笑い方。ゆめみはこんな表情をしていただろうか。自信満々なこの笑い方をする馬鹿を、俺は一人しか知らない。

「ぴこ」

 ぽん、と肩によじ登ってきたらしいポテトがぽんぽんと肉球で叩く。
 どうやら、もうどうしようもないと自覚した俺は笑うしかなかった。苦笑でも冷笑でもない、何の意味も含まない笑いを。
 小賢しい考えがそれと共に吐き出されていき、俺の腹の中をクリアにしていく。

 ああ、そうだ。これは、俺だ。
 馬鹿野郎だ。こいつはとんでもないことを覚えてしまったアホだ。
 学習してしまったのだ。この俺を。間違いだらけで常に逃げ道を探している大人の姿を。

 打算的で、ずる賢くて、どうしようもない俺の姿がここにある。
 一蓮托生という言葉が思い出され、最早決定事項となってしまっている事実を受け止めるしかないと気付かされる。
 最悪だな。俺は、もうひとりじゃないらしい。
 馬鹿だよ、本当に馬鹿だな。
 誰に言ったのかも分からない独り言が最後の靄の塊だった。

「……そうだな。そうだ、やるだけやってやろうじゃないか」

736エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:10:58 ID:PZvpAh8w0
 代わりに俺の中を満たすのは『言葉』。不意に発した一蓮托生という言葉が俺の何かを組み上げていくのが感じられる。
 逃げの論理を打ち崩す言葉は、もうそこにあったのだ。
 喧嘩を売りにいってやる。多分、俺はゆめみと同じ笑い方をしている。
 相手がロボットなら遠慮はいらない。思い切りブッ壊してやる。

     *     *     *

 ゆらり。
 罰を受けた罪人のように彼女は歩いている。
 頭を垂れ、プラチナブロンド風に染め上げられた人口の頭髪を纏いながら。

 彼女は罪を背負っている。
 人を裁くは人、その業を真正面から受け止めて、彼女は行動している。
 工学樹脂の瞳は地獄しか映さない。

 なぜ。
 人は殺しあうのか。

 なぜ。
 お互いを食い合うのか。

 なぜ。
 罪を分かりながら食い止めることも出来ないのか。

 ならば、いっそ。
 わたしたちが罪の一切を背負いましょう。
 かつてあった理想郷へとひとを引き戻しましょう。
 それが遍く神に仕えし者どもの役割なのですから。

737エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:11:29 ID:PZvpAh8w0
 だから。

 あなたを、赦しましょう。

 穏やかに彼女は笑った。
 或いは聖母のように。或いは残酷な子供のように。或いは七つの大罪を犯した悪魔のように。
 漆黒の修道衣がはためいた。

 対になるようにスリットから見え隠れする白い足の、太腿に無骨なグルカ刀を、蛇のように纏わせている。
 右手には小さな手には余り過ぎるサイズの銃。
 P−90と呼称される短機関銃というにはいささか特異なフォルムの兵器がある。
 プラスチックを多用したブルパップ形状のそれは修道衣と同じく不気味な黒色であり、雨に濡れて妖艶さをも醸し出していた。
 女性が片手で持つにあまりにも不釣合いなP−90はしかし、彼女が人間でないことの証明をしているように見えた。
 神に仕えし異形だけに所持を許された、裁きの光。彼女はそのように認識している。

 見上げる。そこには漆黒の海に浮かぶ船の残骸があった。
 辛うじて電源は生きているらしく、ガラスの殆どが砕けた窓からは小さな明かりが明滅している。
 これは、人を冥府へと誘う三途の川の渡し舟だ。誰も救わぬノアの箱舟。
 差し伸べられた手は救いなどなく、牙を覗かせ得物を待ち構える奈落への切符でしかない。

 故に、彼女には責務があった。
 悪魔の手から人を救う。彼女は命じられ、ひとつの思いのままに動く。
 下準備は既に整っている。悪鬼をなぎ払う聖なる光を、神は貸し与え賜うた。

 悪魔は必ずや討ち滅ぼされましょう。

 神よ。それを意味する祈りの言葉が呟かれたと同時、左手に握られた起爆装置のスイッチが押された。
 船の内部、船体を支えるキールや推進機関などに取り付けられた、
 『聖なる光』――俗にセムテックスと呼ばれる高性能プラスチック爆薬が作動し、
 小規模な火球を生成した後莫大な量のエネルギーを船外へと撒き散らした。

738エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:11:46 ID:PZvpAh8w0
 鉄骨はひしゃげ、キールは折れ曲がり、瞬く間に船としての機能を失わせていく。
 いや船が機能を失うには数秒とかからなかった。元々が座礁し、傷つけていたこともあったからだ。
 船体に罅が入り、海水が雪崩れ込む。スクリューも弾け飛び、残骸の一部を海に漂わせる。
 最早確認する必要もなかった。沈没せずとも修理する手段もない沖木島では、十二分な致命傷である。
 否、たとえ修理する手段があったとしてもこれだけの傷を与えられバラバラになりかけた船体を修理する意味はない。

 任務は達成した。そう断じた彼女の視界の先では、
 爆発と共に引火したのか崩壊した船で小規模な火災が起こっており、もうもうと煙を噴き上げていた。
 雨の度合いからして数時間もあれば自然に収まるだろう。飛び火も心配はない。
 他に命令はない。速やかに帰還すべきという思考に従い、
 浜辺から離れようとした彼女のイヤーレシーバーが二つの足音を聞きつける。
 コンピュータのデータベースから即座に情報を弾き出し、何者かを確認する。

 一名、男。一名、SCR5000Siシリーズ、FL CAPELⅡ型。
 内一名、イレギュラーを撃破した経験有り。危険度は高い。
 しかしそのように判断しつつも彼女、アハトノインは何も構えを見せようとはしなかった。
 邪魔にならないなら無視して構わない。彼女の『主』たるデイビッド・サリンジャーの下した命令を、
 彼女は『攻撃されない限り様子を見ろ』と解釈したのである。あくまで邪魔になるようなら消す。
 つまり、撤退に支障をきたさなければ、攻撃してこなければ攻撃意思も持たない。

 無視して撤退しようとした彼女の頬に銃弾が掠めた。
 続け様に撃ちこまれた弾丸がアハトノインの足元に刺さる。
 発砲音から.500S&W弾だと認識し、即座にP−90を構えて反撃に移る。
 振り向きざまに撃たれたP−90の5.7mm弾が土煙を上げながら敵に迫る。

 人体などの柔らかい物体に命中すると弾が横転して衝撃を物体に最大限伝えようとする性質が有る5.7mm弾は、
 命中すれば確実に肉を削ぎ、一瞬にして致命的なダメージを与える。
 しかし振り向いた僅かのうちに正確に狙いをつけていたにも関わらず、横に散開していた敵は回避してみせたのだ。

739エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:06 ID:PZvpAh8w0
「逃がしゃしないぞ、チップでも何でも引き摺り出して親玉の居場所を吐いてもらう!」
「……申し訳ありません。でも、それでもわたしは……!」

 囲むようにしてこちらに近づく男――高槻と同型機――ほしのゆめみ。
 二対一。何ら問題はない。速やかに排除し、撤退する。
 アハトノインは漆黒の空を仰ぎ、祈りを捧げた。

「あなたを、赦しましょう」

 それが合図となる。
 左右からそれぞれに刀を持った高槻とゆめみが切り下ろしてくる。
 P−90を腰に戻し、グルカ刀に切り替える。
 一歩腰を引き、高槻の刀をグルカ刀で受け止め、同時に後ろに放った蹴りがゆめみの体を九の字に折り曲げる。
 当たったのを感触で確認し、刀を切り払い回し蹴りを高槻の鳩尾に叩き込む。

 アハトノインならではのバランス感覚だった。人間では成し得ない芸当を、彼女は可能にする。
 バランスを崩したところに腕を伸ばし、高槻を地面に引き倒す。
 素早く足で体を踏みつけ、行動不能にしたところでグルカ刀を突き刺そうとしたが、ゆめみに阻まれる。
 500マグナムが火を吹き、アハトノインの腹部に命中する。

 44マグナム弾を遥かに凌ぐ威力を誇る.500S&W弾を受けて足が高槻から離れる。
 野郎、と吐き捨てた高槻の足がアハトノインの膝を折る。
 転倒したところに今度は高槻の持っていたコルト・ガバメントを撃ち込まれる。
 いくらかが命中したものの、致命傷には程遠い。

 修道服は防弾・防爆仕様になっている上人工皮膚も若干の防弾仕様。
 骨格に至ってはマグネシウム合金であるが故に至近距離で爆発でも起こされるか、
 鉄骨に押し潰されるかしないと折れ曲がりすらしない。
 アハトノインが受けたダメージは衝撃のみという有様だった。

740エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:23 ID:PZvpAh8w0
 銃撃されたことにしてもゆめみがロボットだということを計算していなかっただけの話。
 各駆動部に異常が無いことを一秒未満でチェックし、再攻撃に移る。
 立ち上がったばかりの高槻に畳み掛けるようにグルカ刀で斬りかかる。
 刀で受け止めようとする高槻だが力の差は歴然としていた。アハトノインもそれが分かっていた。
 銃への対応と比べて不慣れな様子であるのは目に見えていた。それでも格闘戦に持ち込んだのは武器の差があるため。

 P−90を相手に撃ち合いをしなかった判断は正しい。だが格闘戦の力量を見間違えたというのが彼女の結論だ。
 力でも技量でも下回る部分はない。アハトノインは刀を弾き、体を浮かせたところに鋭く突きを入れる。
 元来グルカ刀は突くための武器ではないが、それでもダメージを与えられると計算しての行動だった。
 何より、このような力押しの攻撃でさえ人間にとっては脅威なのだ。それほど、アハトノインのスペックは高い。

「っぐ!」

 深くは刺さらなかったものの脇腹の表層に当たり、高槻が苦悶の声を上げる。
 返す刀で更に追撃。避けようとしたが、遅い。振る前から分かりきっていた。
 本来の使用法である、袈裟の切り下ろし――斧がよろしく薙がれた刃は高槻の二の腕を深く切り裂いた。

 倒れる高槻。止めはいつでも刺せると判断したアハトノインはもうひとつの脅威へと体を翻した。
 忍者刀を振るゆめみの腕を空いた手で掴み、そのまま中空へと投げ飛ばす。
 落ちたところにグルカ刀を突き刺す。そのつもりで一歩踏み込んだ。

「このくらい……!」

 計算が外れる。器用に着地したゆめみは素早く刀を逆手に持ち替え、射程圏内へと接近していたアハトノインに刺突を繰り出す。
 緊急回避。脚部モーターを最大限のパワーで動かしバックステップする。突きと共に振り上げられた刀は空を切る。
 データが違う。事前に登録されていたほしのゆめみのスペックではこんな動きは出来ない。
 様々な可能性を視野に入れるも、彼女のスペックがどれほどなのか分からない。何しろ、ゆめみにも過去のデータはない。

 アンノウン『正体不明』と戦うことは決して芳しいことではない。
 戦法を変更する必要性があった。速戦即決から様子見に。敵の力量を測る必要がある。
 距離を取り、グルカ刀を構えつつ一定の距離を保つ。
 P−90は取らなかった。この程度の距離では寧ろ取り回しが悪い。
 人間相手ならともかくスペックの不明な同型機に対して使用するのは危険だと判断したからだ。

741エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:12:42 ID:PZvpAh8w0
「……お尋ねしても、宜しいでしょうか」

 ゆめみがアハトノインに向けて言葉を発する。悪魔の言葉だ。
 耳は貸さない。貸してしまえば自分も悪魔になる。我々は悪魔を討ち滅ぼす矢だ。矢は飛ぶだけ。
 何も言葉は必要ない。
 けれども、しかし……彼女はあまりに慈悲深く、やさしく作られていた。

「あなたを、赦しましょう。ですから、どうかそれ以上何も仰らないで下さい。魂を、汚してしまう前に」

 能面が割れ、柔らかい笑みが形作られる。それだけ見れば、アハトノインは聖女のように見えた。
 そうですか、と嘆き悲しむように、苦渋を飲み下すように、ゆめみはそう言った。
 それでも私達はやらなければならない。神は、私達に力を与えてくださったのだから。

「神も、あなた方をお赦しになられるでしょう。救われるのです」

 会話が終わると同時、見計らったようにアハトノインが踏み込む。
 自身の射程は完璧に把握している。刃先がギリギリ肌を切るようにグルカ刀を振り下ろす。
 回避することも計算に入れた早い攻撃。受けは取れない。
 しかしゆめみはまたしても想定外の動きでアハトノインを翻弄する。
 大きく跳躍したゆめみはグルカ刀の射程から逃れ、踏みつけようとしてくる。

 切磋に腕でカバー。押し戻す。後ろに着地したゆめみにアハトノインも反転して切りかかる。
 アハトノインの肩口には刺し傷があった。腕で受け止めたと同時に突き刺したと判断する。
 上空からの攻撃パターンとして認知。敵戦術を予測。
 再び跳んで回避しようとしたゆめみだったが、アハトノインの切りかかるモーションはフェイントだった。

742エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:13:01 ID:PZvpAh8w0
 上空に舞い上がった直後のゆめみに更に接近し、足を掴む。
 そのままぶん、とジャイアントスイングのように振り回し地面へと叩き付ける。
 砂浜をごろごろと何回も転がっていくゆめみ。
 アハトノインはその瞬間に加速を始めていた。起き上がりを狙って頭部を叩き割ろうとグルカ刀を振る。
 ゆめみが咄嗟の判断か、刀を横に構えグルカ刀を受け止める。
 火花が爆ぜ、ギチギチと二本の刀がぶつかり合う。

「悔いることはありません。あなたはそのことに気付いたのですから」

 しかし、上から力を加えるアハトノインと下から押し上げようとするゆめみとでは断然アハトノインの方が有利だ。
 その上元々のマシンパワーの差か、悲鳴を上げるゆめみの腕部に対してアハトノインはほぼ負荷もかかっていない。
 スペック差は歴然。AIが優秀だったのだと結論付けて更に力を強める。

「恥じることはありません。あなたはそのことを知ったのだから」

 褒め称えるように、アハトノインは歌い、謳った。贖罪の言葉であり、断罪の言葉だった。
 悪魔の魂は浄化される。さすれば、彼女も同じ天国に行くことができる。
 最初は拮抗していたバランスも徐々に崩れ、少しずつアハトノインの力がゆめみを屈服させていた。

「変わりなさい。でも目を上げ、敬うことを忘れてはいけません」

 それは、教えだった。
 魂を導く者としての義務。
 やり直さなければならない。
 救われぬ悪魔を救うために。神の慈悲を正しく浮け給うために――

「冗談じゃねぇ」

 アハトノインの言葉を遮るように、低くしわがれた声が突き破った。
 同時、体に衝撃。上半身を中心にして高槻の撃った45口径の弾丸がアハトノインを吹き飛ばす。
 防弾性能の高い修道服によりほぼダメージはなかったものの、またもや予想外に阻まれる。
 計算上では、高槻は数分は身動きも取れないはずなのに。

743エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:13:23 ID:PZvpAh8w0
 むくりと起き上がったアハトノインに、苛立ちと怒りを含んだ舌打ちが向けられる。
 上半身を起き上がらせ、息も絶え絶えという様子にも関わらず高槻からは一切の澱みも見受けられない。

 ああ、やはり彼は悪魔なのだ。救うことも叶わぬ深淵を這いずる屍人になってしまった。

 神よ、お赦し下さい。罪を犯す私をお赦し下さい。ですから、彼には永久の安らぎを。

「手前の勝手を押し付けるな。俺達は誰の指図も受けない。救ってもらおうとも思わない。
 俺達は孤立して生きるんだよ。神だ何だ、そんなものに縋らなくても立って歩いていける、そんな生き方だ。
 クソ喰らえだ。真っ平御免だ。そんなのは甘えてるだけだ。自分勝手だろうが、俺は、俺に拠っていきたいんだよ。
 そうさ。俺はお前らのようなのが、大っ嫌いなんでね」

 ゆらりと立ち上がった高槻が鉈を取り出し、投げる。ぐるぐると円を描いて首を狩るように迫るが大したこともない。
 軌道を読み、回避しつつ高槻に接近する。続けてガバメントも投げてくるが、掠りもしない。
 更に武器を取り出そうとするが、遅い。射程に入った。
 グルカ刀を振りかぶる……その前に、アハトノインは突如として反転して、突きつけられようとしていたものを掴んだ。

「!?」

 掴んだものはガバメントを構えていたゆめみの腕。至近距離に迫っていた彼女の体を引き寄せ、片手だけで背負い投げる。
 ガバメントが弾切れでないことは見切っていた。ゆめみが立ち上がり、後ろに忍び寄っていたのも知っていた。
 ゆめみの持つ500マグナムが弾切れであること、想定外を主戦法とする彼らの行動を踏まえれば想像は容易かった。
 想定は的中した。投げたガバメントを後ろで受け取り、至近距離から狙撃する。
 アハトノインは、学習していたのである。

 呆気に取られる二人の姿が見えた。アハトノインはゆめみを高槻へと投げつける。
 大の字になって飛んでいく彼女の体を怪我した高槻が受け止められるはずはない。避けられるはずもない。
 悲鳴を上げ、もつれながらごろごろと転がっていく二人。ターゲットが固まる。
 ならば、一気に止めを刺す。任務達成だ。
 P−90を取り出し、弾倉を素早く交換すると瞬時に狙いをつける。

「主よ、等しく私達を見守ってください」

 慈悲深い笑みが浮かぶ。たおやかで、どこまでも純粋なそれは、正しくロボットの表情だった。

744エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:03 ID:PZvpAh8w0
     *     *     *

「……よし、これだけ集めれば十分だろう」

 そう言いながら、芳野祐介は両手に抱えたロケット花火の山を袋詰めにしてゆく。
 雨なので濡れないように、とわざわざ二重に袋を使って。

「役に立つといいですね、これ」

 言葉を選ぶように藤林杏が言う。芳野もああ、と同意した。
 これで必要な材料のうち二つが揃ったことになる。残る一つは向こうが揃えてくれる手はずだから、一旦戻ってもいい。
 高槻たちも連れて帰った方がいいだろう。考えて、芳野は先ほどの出来事を思い出してため息をついた。
 神経過敏なのだろうか。犬(?)一匹に警戒し、あまつさえ慰められる始末。
 お陰で今は多少の冷静さを取り戻し、こうやって過去を思い返すことだって出来ている。

 俺はおかしかったのかもしれない、と芳野は自虐的な感想を抱いた。
 これまでの経験から言えば、仕方のないことなのだろう。出会う連中の大半が敵であり、その度にほぼ誰かしらを失っている。
 そして自分は事態に即応出来ず、結果仲間を殺させてしまう場合が多かった。
 瑞佳、あかり、詩子。守ると宣言したはずの人々は誰一人として守れず、助けられることさえあった。
 自分を責めたってどうにもならないことは分かっている。
 逃げちゃいけないと、強く言って手を握り締めたあかりの感触が未だにこびりついている。

 しかし、それでも――芳野は己の無能さを嘆かずにはいられない。
 果たして自分は誰かの役に立てるのか。誰かを守り通せるのか。大人として正しい道を指し示せるのか。
 なにひとつ、どれひとつとして確信が持てない。
 生きている価値なんてないのではという冷たい思考が時折流れ込み、それすら受け止めようとしている。
 その度に自分を戒め、まだ投げ出すわけにはいかないと必死に言い聞かせる。

 それでも腹の奥底に、へばりつくようにして「死んでしまえよ、役立たず」と主張する声があった。
 声は若かった。若い自分の声で、よく目を凝らしてみれば人の形をしている。
 慢性的に薬を服用していた過去の自分だった。頬は痩せ、焦点の合わない目つきを湛えてうずくまっている。

745エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:38 ID:PZvpAh8w0
 お前じゃ誰も救えない。お前の歌なんて上辺だけだ。全部自己満足。そうだろう、俺?

 ことあるごとに奴はそう囁いてくる。
 誰かが死んだことを実感した瞬間によく現れる。ぬっと忍び寄ってきては蔑むように笑うのだ。
 言い返そうとしてもそのときには影も形もなく消えている。言葉だけを一方的に伝え、自分を押し付けるのだ。
 まるで、昔の自分の歌のように。
 耳障りで、不愉快で、異常なほど喚き散らすそれは、しかし、確かに自分だった。

『言い訳してみろよ』

 また耳元で奴が囁いた。

『あれはしょうがなかったんだ、逃げちゃダメだって言われたからなんだ、責任を取らなきゃいけないからなんだ』

 声はいつもにも増して饒舌だった。
 掠れた声で、意味もなく叫ぶような、独り善がりな歌だった。

『さあ、どれがお好みですか?』

 そして消える。残されたのは肯定も否定も出来ない自分だった。
 その通りだと納得している自分がいて、ここにいるのは自分の意志だと抗っている自分がいる。
 だが結局のところ結論を出せてもいない。

 確固たる己を持ち、何をしていけばいいのかも分からない。
 死ぬのはいけないとは思っていても、だからどうする、そこまで考えが及んでいないというのが現状だった。
 義務感に衝き動かされているだけで希望も持てない。こんな自分は……

「芳野さん?」

 聞こえた杏の声に顔を上げる。どうやら棒立ちになって止まっていたらしく、杏の姿は少し前にあった。
 心配そうに芳野を見ていた。瞳が揺れ、当惑した表情が向けられている。

746エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:14:55 ID:PZvpAh8w0
「いや……」

 なんでもない、そう言い返そうとしたときだった。
 ドン、という重低音が遥か向こう、鎌石村の先から聞こえてきたのだ。
 杏も芳野もぎょっとしてそちらへと視線を向ける。
 暗くてどうなっているのか分からないが、僅かに感じた地響きがただの災害などではないと訴えていた。
 地震ではないことは明らかだった。恐らくは人為的に引き起こされたものだろう……例えば、爆発のような。

「行こう」

 考えたときには、もう芳野の足が動いていた。もしこれが人為的なものだとしたら、誰かが殺しあっている可能性がある。
 見過ごすわけにはいかない。小走りに現場の方へ向かう芳野に、慌てたように杏が手綱を握った。

「あ、あれ、何なんですか!?」
「正確には分からない。だがろくでもないことなのは確かだと思うぞ」
「間に合いますか!?」
「間に合わせるんだ」

 言って、この言葉は本当に自分のものなのかという疑問が鎌をもたげた。
 これも義務感でしかないのだろうか。何故あそこへと足を向けているのだ。
 悪いことだとは思っていない。だが自分自身、何故助けに行くのかという質問に答えることが出来なかった。
 大人として助けにいかなければ。正しいあり方を示さなければいけないから。
 普遍的な答えは出てくるもののそれは一般論でしかない。

 俺は、何がしたいんだ?

 信念も論理もない、ただ規範に動かされているだけではないのか。
 なら自分は、どうして生きている。どこに自分の価値を見出せばいいのか分からなかった。

747エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:11 ID:PZvpAh8w0
『なら、死んでしまえよ』

 ぼそりと、乱暴に、傲岸に、奴が言った。

『お前なんかが期待を背負えるものか』

 歌が奏でられる。

『だから皆死ぬんだ。――お前のせいで』

 怜悧な刃物が心臓を貫いたような気がした。
 痛みが広がり、それに伴って脱力感が自分を支配していく。
 俺じゃ引っ張っていけない、そんな無力感が絡みつくと共にまた奴が耳元に寄る。

『役立たずが――』

「芳野さん!」

 またしても遮ったのは杏の声だった。
 今度は若干、怒気を孕んだようにして。
 それまでの杏は弱気だったり遠慮を含んでいたが、それを一気に断ち切ったかのように唇をへの字に曲げていた。
 要するに……キレていた。

「さっきから話しかけていたんですけど。……大丈夫なんですか?」
「あ、ああ……」

 答えたが、杏は何がますます気に入らないというように瞳を険しくした。
 はぁ、と息を吐き出して杏はウォプタルの足を止めた。

748エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:26 ID:PZvpAh8w0
「芳野さんも止まってください」
「は?」
「止まってください」

 語調を強められ、何故だか従わなければいけないような気がした。
 こんなことをしていていいのかという気になったが、不可抗力だった。
 無言で走るのをやめた芳野に対して、杏は上から見下ろしたまま話を続ける。

「もう一度聞きますけど、大丈夫なんですか、本当に」

 真摯な目がこちらに向けられる。もうなりふり構わないような、やるだけやってみようという若い意思があった。
 もしくは堪忍袋の緒が切れたというべきなのか。
 けれどもどうしてそうなったのかがまるで理解出来ず、芳野はただ答えることしか出来なかった。

「……大丈夫だ」

 そう、問題はない。身体的には、何も問題はない。
 それよりもこうして年下に心配されたことの方に対して芳野は恥じ入るような気持ちだった。
 こんなことではいけない、もっとしっかりしなければいけない。
 奴の声は徹底的に無視する。奴の言うことが正しいのだとしても関係ない。
 自分が率先して先を進まなければいけないのだから。

「そうですか、分かりました……じゃあ、もういいです」
「は?」

 言うが早いか、杏は手綱を握り直して芳野を置いて先に進もうとする。
 杏の行動に一瞬呆然とした芳野だったが、すぐに我を取り戻し杏の追う様にして走る。
 だが先程のように合わせて走っていたのとは違い、今は全力に近い状態出している。
 馬と人間でかけっこをしているようなものだった。芳野はみるみるうちに距離を開けられる。

749エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:15:42 ID:PZvpAh8w0
「ま、待て! どういうことなんだ!」
「今の芳野さんじゃもう任せられません! おかしいですよさっきから! ぼーっとしてたし!」
「いや、それは……」
「そんなにあたしが信用出来ないですか!?」

 杏の言葉に頭を一撃された芳野は何も言い返せず、黙ってその言葉を受け止めた。
 信用。していないつもりなどなかった。共に同じ知り合いを持っているし、言葉だって幾分か交し合った。
 そのつもりだったのに。

「さっきだってそうでしょう? あたしの言葉にはあんまり反応がなかったのにあの音にはすぐ反応した。
 まるで、状況に動かされてるように……芳野さんが思ってる以上に分かりやすかったですよ」
「そう、なのか」

 言って、自分でも気の抜けた言葉だと思った。
 意識してなかっただけで、自分がこんなに分かりやすい行動を取っていたというのか。
 なんとも言いがたい、拍子抜けした感を味わい呆れ返りそうになった。
 杏もそれを感じ取ったらしく、ウォプタルの動きを止める。

「あーもう、なんというか……高槻と話してたときからそうでしたけど、こう、
 使命感とか、義務感とか、そんなことに衝き動かされてるだけのようにしか見えないんです。
 あたし達なんて目にも入ってない。言い方、悪いですけど」

 杏に追いついた芳野だったが、何も言葉は浮かばなかった。
 まるで図星だった。ここまで明け透けだったとは寧ろ笑えてくる。

「いいじゃないですか、別に。大人でも子供でも、男でも女でも」

 憤慨したように、不貞腐れたように、杏が愚痴を漏らす。
 それは芳野に向けているようでもあり、また言い出せなかった杏自身に対して怒っているようにも思えた。

750エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:04 ID:PZvpAh8w0
「そんなので立場をどうこうするなんて、あたしは嫌い。
 ということで本当ならあたしより芳野さんがこの子を使った方が戦略上いいんじゃないかなー、
 って思って譲ろうとしましたけど芳野さんがそんな人だからやめました。
 ええやめましたとも。そんな人に譲りたくないですから」

 一気にまくしたてると、杏は幾分かすっきりしたように、苦笑を含んだ表情のまま嘆息した。
 不意に芳野の中で、以前語られた言葉が蘇る。
 たくさんの人で覚えていることができる。
 別に一人で覚えておく必要などなく、多くの人で覚えておくことができる。
 一人じゃなくても。

「済まん」

 短く発せられた言葉に、今度は杏が目をしばたかせる番だった。

「あ、いや、ひょっとして調子に乗ってたかも……」

 自分の言ったことの重大性に気付いたらしい杏はいくらか顔を青褪めさせたようになって、
 しどろもどろに返事をした。そういう部分では、まだ杏は子供だった。
 子供だったが……同じ人間で、同じ立場だ。
 何ら変わりない。優劣なんてない、殺し合いの参加者同士だ。

「いや、そんなことはない。悪かっ」
「ぴこ!」
「ぶっ!?」

 いきなり白い物体が飛びはね、もふもふした感触が顔面に張り付いた。
 獣臭い匂いであることから寄生生物ではなさそうだ。地球外生命体の可能性は高そうだったが。
 前の見えない芳野はどうなっているのか分からず、杏(がいると思われる)方向にフォローを求めた。

751エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:23 ID:PZvpAh8w0
「あ! 高槻の……どうしたのよ、こんなところで?」

 どうやら高槻にまとわりついていた白い毛玉生物らしかった。
 ぴこぴこぴーこー! と何やら怒ったように鳴いている。
 ひょっとして近くにいるのに気付かず、スルーでもしていたのだろうか。

 が、芳野にとってそんなことはどうでもよく、まずは暑苦しいこいつをどうにかしたかった。
 むんずと身体を掴むと一気に引き剥がしてぽいっと投げ捨てる。
 少々酷い扱いだったが、毛玉は事もなげに着地してぴこぴこと尻尾を振った。

「なんなんだ、あれは」
「……ついてこいって事じゃないですかね」

 そうかもしれない、と芳野は同意した。
 よく考えてみればこの毛玉はいつも高槻の傍にいた。
 それが今ここにいるということは、メッセンジャーとして寄越したということではないのか。
 高槻たちもあの爆音を聞いたのだとしたら、伝達役を寄越すのは納得がいく。

「早急に向かった方が良さそうだな」
「ですね。……この子、使います?」

 ウォプタルを示す杏に「いいのか」と尋ねる。

「まあ、その、失礼なこと言いましたから」

 そっけない風に言う杏に苦笑しながら「そうだな」と返す。
 きっとそれだけが理由ではないのだろう。どうも自分はほとほと分かりやすい人種であるらしい。
 けれども不思議と悪い気分ではない。少しだけ、自由になった気分だった。
 もっと自分は無責任になってもいいらしいということが分かったから。

752エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:16:41 ID:PZvpAh8w0
 そういうことだ、と芳野は見えもしない『奴』に語る。
 お前の歌は聞き飽きた。いや雑音と言うべきか。
 俺は歌を押し付けない。俺は歌うだけだ。聞いても聞かなくてもいい、そんな歌を。
 性質は同じなのだろう。どちらも決して必要ではないという点では。
 だがこれだけは言える。この歌は、誰も押し潰さない。
 誰をも縛り付けない、自由を奏でる歌を。

「じゃあ借りるぞ」
「まあ行けそうだったらあたしも行きます。……戦えるかどうか、分からないけど」

 ウォプタルから降りたとき、杏が苦痛に顔を歪ませる。
 当たり前だ。こんな短時間で完治するはずがない。
 それでも杏が行こうとしたのは、それだけ自分が酷かったということなのだろう。
 今だってどうかは分からないが……それでも、マシにはなったはずだと断じて、芳野は乗り込む。

「道案内を頼む!」

 ぴこ、と頷いて走り出す毛玉に続いて、芳野はウォプタルを走らせた。
 『奴』が忍び寄ってくる気配は、感じられなかった。

     *     *     *

 ひとり残された杏は駆けていく二匹の動物と、一人の男の背を見えなくなるまで眺めていた。
 体はまだごわごわした感触が残っており、歩き始めればまた痛みがぶりかえしてくるのだろうと推測する。
 そう思って歩き始めてみれば、実際やはり痛かった。ウォプタルを譲って良かったと思う。

 目が早いとはそういうことなのだろう、と杏は生意気な言葉をぶつけてきた高槻のことを考える。
 なんとなく見返せたようで気分は悪くない。こう思えば、決して自分は無力じゃないのだとも自覚する。
 無理はしなくていい。今やれることをやればいい。
 もちろんひとりでは些細なものにしか過ぎないが、これが二人三人と積み重なれば結果として強い力になる。
 信頼とか、協力という言葉の意味は、結局のところそういうものだ。

753エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:17:19 ID:PZvpAh8w0
 心の全てを知ることは絶対に出来ない。だから自分達は孤独なままだ。
 であるからこそ人は寄り集まって自分の持つものの意味を知ろうとする。
 人と関わり合い、差を知ることで自分を知り、己の持つ力がどんなものかを知る。
 とはいってもそれ以外の理由もあるには違いないのだが。

 性分なのだろう、と杏は思った。
 一人で突っ走ろうとする奴を見ると止めたくなる。
 朋也にしろ、浩平にしろそうだった。だから二人の死が、こんなにも悔しい。
 そして、芳野も。

「やっぱ、朋也とそっくりよね……」

 無論違う部分はあるが、本質が似すぎているのだ。
 人に本音を語らないところが、特に。

「少しは、変われたかな」

 高槻に言われて以来芳野をじっと観察していたからこそ、なんとなくだがおかしくなっていたことに気付けた。
 もうこりごりだった。自分がよく見ていなかったばかりに失敗を犯してしまうのは。
 勝平の死も、七海の死も、もう少し目を早くしていれば適切な判断を下せていたのだろう。
 そういう意味では、既に自分は二人殺している。

 胸が収縮し、息苦しくなるが自分にはそれだけじゃない。
 この事実を分かち合える人たちの存在を、藤林杏は知っている。
 あたしはまだ、頼っていいんだ。
 ……子供だしね。

754エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:17:40 ID:PZvpAh8w0
 理由付けした瞬間、傑作だという思いが沸き上がりくっくっと低い笑いが漏れた。
 また体が痛んだがこの気持ちを抑えることは出来なかった。
 そう、自分は青臭い子供だ。何もかもを考えて分かりきった大人を気取るには全然早い。
 だったら助言を求めて何が悪いのか。
 開き直りだと思いつつもそれでいいと納得する。

「……!」

 そうして笑っていると、森の向こうから銃声のような音が聞こえてきた。
 雨に紛れての音だったので単発なのか、複数なのかは分からない。
 自然と手に力が入り、誰かが生死の境を漂っていることを想像させ、杏は緊張する。
 そこに自分は行けない。こうして傍観していることしか出来ない。
 だから信じるだけだ。足を早めるために芳野にウォプタルを貸し与えることを決めた自分の判断に。

「……死なないでよ」

 願うように、杏は雨粒を降らせる空を見上げた。

     *     *     *

 人間には、家族というものがいる。
 親と子、兄弟、親戚……血の繋がりによって形成されるコロニーだ。
 家族にはいくつかの取り決めがある。

 家族同士で婚姻関係を結んではならない。
 家族はお互いを助け合わなければならない。
 家族は殺しあってはいけない。

755エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:04 ID:PZvpAh8w0
 ならば自分はその禁忌を犯したと同義なのだろうか。
 ほしのゆめみは考える。
 妹を壊そうとした、これが報いなのだろうかと。
 所詮自分は出来損ないだったということか。
 人間の役にも立てず、間違いを犯して、挙句頭脳までおかしくなった。

 こわれている。

 そんなわたしは処分されて然るべきだ、理性を管理するプログラムはそう報告していた。
 意味不明のエラーが続いていた我が身を考えれば当然のことだった。
 疑問に対する返答を弾き出したにもかかわらず再度同じ疑問を抱き思考を繰り返す。
 ループバグだった。結論が出たはずの答えをいつまでも繰り返す。

 この行動は正しいのか。
 この考えは本当に間違っていないか。

 事あるごとにそんな質問が生まれる。
 ただ質問の内容によってはいきなりバグが解決することもあった。
 特に修正を加えたわけでもないのにそれきりバグは再発しない。
 そしてそういうときにはいつも決まって、思考体系がすっきりしているのだ。
 この不可解な現象をどう定義づけたらいいのだろう。
 思考する必要はなかった。そうするまでもなく、自分はこわれている。

「主よ、等しく私達を見守ってください」

 それはこわれたものに対する哀れと慈愛だった。
 救いと赦しの手を差し伸べる慈悲だった。
 手を取れば、きっとわたしは救済されるのだろう。
 罪の一切を洗い流し、新しく、こわれていない存在へと生まれ変わることが出来るのだろう。
 きっとそれはわたし達『どれも』が望むことなのだ。
 だから、わたしは――

756エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:26 ID:PZvpAh8w0











「冗談じゃありません。貴女の勝手を、押し付けないで下さい」


 銃声を拒絶した。

757エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:18:50 ID:PZvpAh8w0
 遮二無二立ち上がり、ゆめみは高槻から譲り受けたガバメントを真っ直ぐ、躊躇いなく、個の意志を以って引き金を引いた。
 アメリカ人が好む大口径の45弾が今までのどんな射撃よりも精密にアハトノインの手首を撃ち貫いた。

 防弾コート部分とは異なり人工皮膚はそれなりに衝撃を緩和する程度の性能しかなく、
 22LR弾の実に3.9倍もの威力を誇る45ACP弾を食い止めることなど到底出来はしなかった。
 人工皮膚を通過した弾丸は回転しながら爆発的にエネルギーを拡散させ、
 内部の神経回路はもとより手と腕を繋いでいた関節部の金属をも粉々に粉砕した。
 関節部もマグネシウム合金ではあったものの骨格と比べ薄く、耐久度は劣っていた。
 結果としてP−90を保持したままアハトノインの右手は吹き飛び、退却をせざるをいけない状況に追い込まれた。

 だがゆめみ一人が相手ならまだそこまではいかなかった。
 そもそもゆめみは銃弾の一発も当たってはいない。アハトノインも撃てなかった。
 何故か? アハトノインは行動を阻害されたからである。

「残念だが、ここまでだ」

 ウォプタルに乗って現れ、ウージーの弾幕でゆめみを援護した、芳野祐介という新手の存在に。
 ゆめみが聞いたのは芳野の銃声。拒絶したのは、アハトノインの銃声だ。

「ちっ、遅いんだよバカヤロウ」
「期待もしていなかったくせに、よく言う」

 悪態をつきながら、高槻も立ち上がっていた。
 ゆめみ、高槻に加えて芳野まで加わったこの状況、
 右手とP−90を失った現状においてはさしものアハトノインも不利を認識するしかなかった。

「逃げられると思うか」

 芳野がウージーを、高槻が新たに89式小銃を、そしてゆめみがガバメントを。
 一斉射撃の構えを見せて、それでもアハトノインは動じなかった。
 何の躊躇いもなく左手で腰に備えてあった球状の物体を即座に三つ放り投げる。

758エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:16 ID:PZvpAh8w0
 途端、凄まじい煙の群れが三人を覆いつくし、瞬く間に視界を奪った。
 それがスモーク・グレネードだと理解し三人が煙から脱出したときには、既にアハトノインの姿はなかった。
 まるで、最初からそこにはいなかったかのように。

「……ちっ、こんだけ苦労して手に入れたのがこれかよ」

 全身あらゆる箇所に傷を負い、ボロボロで動きも覚束ない高槻がアハトノインの右手がついたままのP−90を拾い上げる。
 そう、戦闘には勝利したものの寧ろ状況は悪化した。
 脱出の要であるはずの船は完膚なきまでに破壊され、いたずらに弾薬を消費し、怪我まで負った。
 ちくしょう、と呻いて高槻は砂浜に雨や泥がまとわりつくのも構わず身を投げ出した。

「ぴこ」
「……すまん、間に合わなかった」

 ポテトに対して、懺悔するように高槻は語った。高槻らしい、とゆめみは思う。

「だが、俺達は生きている」

 呼応するように芳野が返した。「とりあえずはな」と続けて、芳野はゆめみの方に視線を向けた。

「そっちは大丈夫なんだな」
「はい。何も問題はありません」

 微笑してゆめみは返答した。高槻に比べれば傷なんて皆無に等しい。
 問題があるとすれば、自分がこわれていることだろうか。
 そう、自分はこわれている。時折生じる不可解な現象。こんなものがあってこわれていないと言えるだろうか。
 だが、それでよかった。正常なデータだとしてもこの現象を定義付ける言葉は、きっと書かれていない。
 だから自分で考えようと思った。定義付ける言葉を。

759エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:28 ID:PZvpAh8w0
 考えるロボット。それは、きっとこわれている。

 故にわたしは、機械ではない。そう思うのは、少し傲慢だろうか。
 いや傲慢でいい。
 わたしは、高槻さんの……パートナー、なのですから。

760エルサレムⅠ [海鳴りと銃声と]:2009/05/07(木) 03:19:46 ID:PZvpAh8w0
【時間:2日目午後23時00分ごろ】
【場所:D-1】

タイタニック高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光二個)、コルトガバメント(装弾数:2/7)予備弾(5)、鉈、電動釘打ち機12/12、五寸釘(10本)、防弾アーマー、89式小銃(銃剣付き・残弾22/22)、予備弾(30発)×2、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:全身に怪我。船や飛行機などを探す。爆弾の材料も探す。主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者刀、忍者セット(手裏剣・他)、おたま、S&W 500マグナム(0/5、予備弾7発)、ドラグノフ(0/10)、はんだごて、ほか支給品一式】
【状態:左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

芳野祐介
【装備品:ウージー(残弾0/30)、予備マガジン×3、サバイバルナイフ、投げナイフ】
【状態:左腕に刺し傷(治療済み、僅かに痛み有り)】
【目的:杏に付き従って爆弾の材料を探す。思うように生きてみる】

藤林杏
【所持品1:ロケット花火たくさん、携帯用ガスコンロ、野菜などの食料や調味料、食料など家から持ってきたさまざまな品々、ほか支給品一式】
【所持品2:日本刀、包丁(浩平のもの)、スコップ、救急箱、ニューナンブM60(5/5)、ニューナンブの予備弾薬2発】
【状態:重傷(処置は完了。激しすぎる運動は出来ない)。芳野に付き従って爆弾の材料及び友人達、椋を探す。待機中】
ウォプタル
【状態:芳野が乗馬中】


【時間:2日目午後23時00分ごろ】
【場所:???】

アハトノイン(02)
【状態:任務終了。撤退中。右手損失】
【装備:グルカ刀、P−90の弾倉(50発)×5】

【その他:岸田洋一の乗ってきた船が完璧に破壊されました。P−90(50/50)が砂浜にあります】

761選抜:2009/05/12(火) 21:53:01 ID:rRGW6PJE0
「え?」

その錯覚は、氷上シュンの思い過ごしではなかった。
太田加奈子が名倉由依の姿を整えている間、彼はプールの設備がある建物の入り口にて待機をしていた。
この場所ならば、もし中で危険があってもすぐ駆けつけることが可能であろう。
また外敵を確認するにも、目の前の開けた景色を見渡せるその場所は好都合だった。
入り口の奥まった箇所にて周囲に対し気を張り詰めていたシュンであるが、彼が予想していた以上に加奈子と由依の戻りというのは遅かった。
何かあったのかと気にはなるシュンであるが、そこは男児が立ち入ってはいけない領域である。
シュンには待ち続ける以外の、選択肢は用意されていなかった。

そんな彼の耳に、ふと聞き覚えのない少女の声が届く。
思わずシュンが反応を声として零してしまったのが、冒頭のそれだ。
誰かに呼ばれた気のしたシュンは、顔を少し出し広い中庭に目をやった。
田舎の学校らしい自然の多いそこには、特別目立ったものはない。
スペースが広く取られた花壇に、学園長か創設者であろう少し薄汚れた石造が一つ。

人気がないことを確信した上で、シュンはまず花壇の方向へと近づいていった。
特別植物に詳しいわけでもないシュンには、彩り鮮やか花々の細かな違いなど分からない。

(こっちの方向ではなかったのかな……)

再度声が上がるようであれば、また確かめなおすこともできただろう。
しかし一度声を上げてから声の主は、依然と沈黙を守り続けていた。
と、何かないかと細かく視線を動かすシュンの目に、ふと不自然な物が飛び込んでくる。
そこは、花壇の隅だった。
少し盛り上がった土の部分は、つい最近掘り起こされたという事実を浮かび上がらせている。
花壇である敷地のはずなのに花がないことから、それはシュンも瞬時に判断できただろう。
では、何のために掘られたのか。

762選抜:2009/05/12(火) 21:53:27 ID:rRGW6PJE0
土の上には、この島に放り込まれた人物なら誰でも持っているはずのデイバッグが置かれている。
勿論、今もシュンが肩から提げている物と同じだ。
……言葉が出ない歯がゆさを、シュンは眉間の皺で語る。
簡易的に作られた墓を表す目の前の光景に痛む胸、吹く風は朝の爽やかさを伴っているのに、シュンの心は暗く沈んでいく。
デイバッグをそっと開けると、シュンの鞄にも入っていたような支給品が顔を覗かせてくる。
ペットボトルに入った水は、満タンだった。
食料が僅かに減っていることから、水のみ途中で中を足したのかもしれない。

シュンはその鞄の持ち主を知りたい一心で、デイバッグの中身を漁り続けた。
だが結局、そのような情報が一切見えてくることはなかった。
さすがのシュンも、墓を掘り起こすといった無粋な考えは起こさない。
土の中で眠る誰かと、こうしてわざわざ墓を拵えた誰かの気持ちを思えば、当たり前のことだろう。
本当は、デイバッグもそのままにすべきなのかもしれない。

しかし今、シュンの肩にかけられているデイバッグの重みは確かに増したものになっている。
今後のことを考えると、限りのある食料等は十分に持っておきたいという気持ちがシュンの中では強かった。
中身のみ抜き取るという行為が蝕む罪悪感を胸に、シュンはぎゅっと拳を握りこむ。
またその中には、シュンの持ち物には入っていなかった気になる小さなパーツもあった。
フラッシュメモリ。
きっと、それがこの鞄の持ち主に与えられた支給品なのだろう。
何か今後の役に立てばと思いながら、シュンは小さく手を合わせるとそっと花壇に背を向けた。




次にシュンは、気になっていたもう一つのオブジェである石造に近づいた。
凛々しい顔立ちのロマンスグレーの胸には、青い石があしらわれた見た目にも豪勢なタイピンが光っていた。
シュンが像に見入っていたこの時にも、日の光を反射し青い石は我の強い主張を行っていた。
古ぼけた校舎を持つこの学校には、あいまみえるような派手さだった。
見るものを魅了する宝石のようなそれ、シュンが見入っている時……彼の求めていたあの声が、シュンの鼓膜を振動させる。

763選抜:2009/05/12(火) 21:53:46 ID:rRGW6PJE0
『こんにちは。やっとみつけてくれた』

声。その声は、シュンが探して少女のものに違いないだろう。
殺し合わなければいけない状況に巻き込まれているにも関わらず、その声色には緊張感が含まれた様子がなかった。
警戒を覚えたシュンは、いまだ姿を表さない相手の出方を慎重に窺おうとする。

『どこ見てるの?』
「君がどこにいるのか、探しているつもりなんだけど」
『目の前だよ』
「……?」

シュンの前には、例の石造しかない。
試しに石造の周りを一周してみるシュンだが、勿論誰かがいる訳でもなく。

『違う。ここ』

端的な言葉は石造の正面から発せらているように感じられ、シュンは再び先程の位置にゆっくり戻る。
まさか、この厳つい石造がこの愛らしい声を出しているのだろうかと、シュンの額に冷や汗が浮かんだ。

「僕に話しかけているのは……えっと、あなた、ですか?」
『半分は正解』
「……まさか」

シュンの視線が、タイピンについている青い石で固定される。

『正解』

この石に見える何かは機械を模倣して声を出しているという想像が、シュンの頭に浮かび上がった。
あまりにも肉声に近い少女の声を考えると、なかなかの精度を誇るだろう。

764選抜:2009/05/12(火) 21:54:04 ID:rRGW6PJE0
「君も、参加者なのかい?」
『さんか?』
「……この島で、殺し合いを強要されている訳ではないのかな?」
『違う。そこには、いない』

まさか外部の人間がコンタクトを図ってくるとは、シュンも予想だにしていなかった。
言葉を詰まらせ、シュンは次に何を発しなければいけないかを懸命に探そうとする。
その隙にと、今度は少女がシュンに声をかけてきた。

『お兄さんに聞きたいことがあるの』
「何かな」
『お兄さんは、大事な人のためなら人を殺すことが出来る?』

少女の口調は、決して軽いものではない。しかし重厚さも感じられない。
初対面の人間相手に口にする類のものではない問いかけに、シュンは思わず唖然となった。
その質問の意図が分からず口ごもるシュンに対し、声はじっとシュンの出方を待っているようである。

「……どうして、それが聞きたいのかい?」
『知りたいから』
「それは何故?」
『いいから答えて』

他に話すことなどないというような、それはまるで明らかな拒否を表しているかのようにも思えるはっきりとした物言いだった。
少女の声から察するに、シュンは相手がは年端も行かないくらい幼い子供だと思っていのだろう。
シュンの中に想像という形で勝手に組まれていた、見えない相手の相貌が崩れていく。

声の主の目的が、シュンには全く読み取ることができなかった。
そもそもだ。
この不可思議な形態をとったやり取り自体が、おかしいのかもしれない。
姿の見えない相手と、ただの石のように見える実際は機械の類を通し会話しているということ。
しかも相手は、この島にはいない人間ではない。
何のためにシュンにコンタクトをとってきたのかも分からない。
何も、分からなかった。

765選抜:2009/05/12(火) 21:54:21 ID:rRGW6PJE0
ほんの少しの間瞼を伏せた後、ゆっくりと顔を上げたシュンは少女の問いに答える決意をする。
少女の素性は分からない、しかしきっと聞いた所で彼女が素直に答えることはないだろうとシュンは考えていた。

「何故だろうね。それでも敵意が感じられないから、不思議になるよ」

小さな笑みを浮かべながら、シュンは肩の力を抜いた。

「殺さないよ」
『ん……?』
「人を殺すかっていう、質問だったよね。答えはノーってことさ」

笑みをたたえたままのシュンの口調は、その様子からは量れないしっかりとしている。
傍から見たら、一人語り以外の何物でもないだろう。
シュンは気にせず青い石の向こうに繋がっている相手に向けて、言葉を放った。

「そんなことよりも、僕は僕にできることをしたいと思ってる。僕に残された時間は、余り多くないからね」
『どういうこと?』
「体がね、もたないと思うんだ」

きゅっと、軽く胸元を握り締めながらシュンは少しだけ俯いた。
セーターを脱いだそこに伝わる体温は、シュン自身でも分かるくらい高い。
運動量だけで考えたとしても、普段のシュンに比べたら既に倍以上行っているのだ。
与えられた薬の量も限られていることから、シュンはこの時点で自分の限界を自覚している。

「だからこそ、今できることをしたいと思ってる。人に危害を加えている余裕なんてないし、それこそ僕の行動に矛盾が出る」
『矛盾?』
「ここに無理やり連れ込まれた人は、みんなこれからも普通に生を満喫できるはずだったと思うんだ。
 確かに殺し合いは行われているけれど、それでも誰もが被害者なんだ。
 きっと、そうして他人を傷つけている人の中には、君の言う大事な人を守るために行動を起こしている人もいるだろうね。
 でも、それでは何の解決にもならない。争いは争いしか生まない」

766選抜:2009/05/12(火) 21:54:39 ID:rRGW6PJE0
緩く首を振り姿勢を正すシュン、何かを悟っているかのような少年の声は控えめなものだった。
シュンの言葉は正論である、しかし。
まるでこの島で起こっている殺し合いを傍観しているかのような、空虚さがそこにはあった。
それは彼が、自ら先頭に立ち事を運ぼうとしていないからかもしれない。

「僕には人を動かす力はない。だから僕は、僕ができることをしたい。
 生き残ることができたはずの、みんなの思いを伝えることで残していきたいんだ。
 それが今、僕がここにいる理由だよ」
『ねえ。それじゃあ、一緒にいるお姉ちゃんが死んだらどうするの?』
「……ごめん。分からないとしか言えないかな」

こんな自分を慕ってくれて、協力を申し出てくれた香奈子の存在はシュンにとっても大きいものだろう。
シュンの精神的な安定は、そんな仲間がいることで保たれている部分がある。
それでもシュンは、想像ができなかった。
何度も描いた覚えのある自分の命が朽ちる場面ならまだしも、仲間である彼女を失う可能性をシュンは具体的に考えることができなかった。
靄がかかったように見えなくなっている心の奥には、シュンでも開けられない蓋が被さっている。
その意味すらも自身で上手く把握できていないシュンは、軽い苦笑いを浮かべることぐらいしかできなかった。

「あ、そうだ」

気を取り直した様子のシュンが、再びあの彼の頬に張り付いているかのような微笑みを作る。

「与えられた命の意味が、誰にでもあるってこと。
 彼がいたから僕は無気力になることなく、こうしてやりがいを見つけることができたんだ。
 それを僕が改めて感じることができたのは彼のおかげで、そんな彼はまだ生きている。
 これは、ちょっとした支えかもしれないね。ふと、そう思ったよ」

767選抜:2009/05/12(火) 21:54:55 ID:rRGW6PJE0
そう言って爽やかな笑みを浮かべるシュンに、死の色は見えない。
シュンにとって唯一の友人と呼べる彼と、シュンはこの島に来てまだ再会していなかった。
特別合流したいという思いが、シュンの中にある訳ではない。
彼には彼のできることがあり、それがマイナスに働くことはないだろうとシュンも鼻を括っている。
それだけの信用と可能性を、シュンは彼に期待の意味も込め持っていた。

「そうだね。君は、僕ではなく彼に会うべきだったのかもしれない。
 僕の答えじゃ、君を満足させることはできなかっただろうからね」
『ううん、上出来』
「え?」

シュンの自嘲染みた言葉を打ち消したのは、辺りに広がる眩い光だった。
と、同時に焼け付くような熱がシュンの左手に押し付けられる。

『信念がある人は、好き。パパもそういう人は信用に値するって言ってたよ』

痛みで麻痺しかけた感覚の中、少女の声だけがシュンの頭の中に響き渡る。
何が起こったのか見定めようと瞳をこじ開けたシュンの視界には、一面の青が広がっていた。
と、さらなる痛烈が左手に走り、きつく目を閉じたシュンが再び瞼を開けた時には既に、世界は平常なものへと戻っていた。

「……夢、だったのかな」

少女の気配が掻き消えたことにより、ただでさえ人気のなかった中庭は本当に閑散としているとしか言いようがなかった。
光が晴れた先には、シュンにとって見慣れてしまった朝の風景が戻ってきただけである。
ふと。
その中で、二点だけ変化が起きていたことにシュンはすぐ様気がつくことができた。

一つ。
シュンの目の前に佇んでいた石造に嵌められていたはずの、アクセントになっていた青の石が消えていたこと。
二つ。
石造に備え付けられていたはずの青の輝きは、今何故かシュンの左手の甲に埋め込まれているということ。

768選抜:2009/05/12(火) 21:55:19 ID:rRGW6PJE0
血の滴りはないけれど、肉に食い込んでいるらしい石は、シュンが少し手を動かすだけでも僅かに痛覚を刺激してくる。
結局シュンは、声の主に対し質疑を問う時間を与えられなかった。
機械だと思っていたこの石の正体を、彼が知る術は今や皆無である。




氷上シュン
【時間:2日目午前7時40分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】
【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、救急箱、ロープ、他支給品一式】
【状態 :香奈子と由依を待っている。祐一、秋子、貴明の探し人を探す】
【状態2:左手の甲に青い宝石が埋め込まれている】

(関連・1004)(B−4ルート)

769インターセプト:2009/05/16(土) 01:39:41 ID:iXOGC6ZY0
蓄積されてきた年数の推測が容易くできるであろう立て付けの悪い扉が、勢いよく開かれる。
誰もがそこに、注目していた。
バグナグを装着した霧島聖の瞳は、鋭い。
隣に位置する一ノ瀬ことみの片手も、ポケットの中に忍ばせてある十徳ナイフに伸びている。
一番奥、ベッドに腰掛けた状態の相沢祐一の視野には、二人寄りそうようにしている北川真希と遠野美凪の背中だけしか入っていない。
彼の位置からは、扉の様子は見えないようだった。

現れた来訪者は一通り周囲を見回すと、自分に敵意がないことを伝えるかのように空の両手を徐に上げる。
刺すような視線を送る面子に対し、潔い態度を取ることで警戒を解こうとする来訪者の表情は、あくまでも冷静だった。
しかし、疑いを持ったままの彼女らの心は硬く、自ら体勢を崩そうとする者は一人もいない。
走る緊張感。
来訪者がどのような人物であるか確認しようと、ちょっとした衣擦れの音を立てながら祐一は腰掛けていたベッドから降りようとする。
どうやら来訪者も奥にいた祐一の存在には気づいていなかったようで、上がった物音の方向へと勢いよく振り返り、その様子を凝視した。
気配が自分の方へと向かってきたことで、祐一はさらに気を張り詰める。

「相沢君?」

一点を見つめたまま口を開いたの言葉、紡がれた祐一の呼称に今度は全員の瞳が祐一へと集中する。
真希と美凪が体を動かしたことで出来た隙間、二人の間から現した来訪者の姿に祐一も目を丸くした。
スラっと伸びた高身長、インパクトのあるグラマラスな体は一度見たら忘れられないインパクトを他者に与えるだろう。
来訪者は、長い髪を揺らしながら祐一の元へ近づいていく。
その圧倒的な迫力に威圧されたのか、誰も彼女の行く道を防ごうとはしなかった。

「……向、坂?」
「君一人? 柊君は?」

オーディエンスの存在に気をかけることもなく、彼女、向坂環はじっと祐一だけを見据えている。
言葉も、祐一にのみ向けられたものだった。
祐一と環が顔見知りの仲というのを察知したらしい周囲の者は、静かに二人の会話へと耳を傾ける。

770インターセプト:2009/05/16(土) 01:40:11 ID:iXOGC6ZY0
「放送、聞いたわよ。びっくりしたわ……ねえ、一体何があったの?」
「放、送?」
「さっき流れたでしょ、第二回目の放送よ。……まさか、こんなことになってるなんて思わなかった。
 休ませてもらえたことには感謝するけど、こんなことなら私もついてくれば良かったわ」
「ちょっと待て、どういうことだ?! 俺、さっきまでで寝てて……っていうか、今って何時なんだ?!!」

声を荒げた祐一だが、安易に口にしたその台詞で、彼は圧倒的な威圧を受けることになる。
祐一の発言にただでさえ切れ長だった環の目は、さらに鋭くなって彼を射抜こうとしていた。
環の視線で刺し殺してきそうな勢いに喉がつまり、祐一は呼吸すらも止められたかのように固まるしかなくなる。
祐一を心配する姉御肌の色を潜めると、環は怒気を孕んだ重い声色で彼に対し言葉を放った。

「はぁ? 寝ていた?」

びくっと。祐一の肩が、大きく震える。
その戸惑いの様子も何もかもが、今や環の感情を逆撫でしていることに祐一は気づいていない。

そもそも、祐一たちが学校に向かった旨を環が知ったのは、朝になってからだった。
熟睡することができ、ある程度の疲れが取れた環を出迎えたのは、春原芽衣と緒方英二の二人である。
緒方から状況を聞き、自分が休んでいた時に起きた事に何も関わることができなかった環の心には、ただただ後悔だけが残った。
それが仲間達の優しさだとしても、環の胸に存在する自責の念が晴れることはない。
それで失われた命があったと言うなら、尚更だ。
視線を漂わせ焦りを表に出す祐一を冷たく見下ろす環、そんな二人の間に一人の女性が割り込んでくる。
軽く祐一の肩に手を乗せ環と対峙するような位置を取ったのは、この中でも最年長である聖だった。

「まぁ、待ちたまえ。この少年は怪我を負い、ずっと気を失っていたのだ。
 目が覚めたのもつい先程で、放送を聞き逃していたとしても仕方はない」

環の持つ誤解を解くべく、聖は祐一の代わりの弁解を口にする。
それは紛れもない事実であった。環も、そこを疑うつもりはないのだろう。
一つ大きく息を吐き、環は怒りを放散する。

771インターセプト:2009/05/16(土) 01:40:38 ID:iXOGC6ZY0
「紛らわしい言い方は、止めて欲しいわ。そういう事情なら、仕方ないじゃない」
「悪い、向坂……」

気を落としている祐一から視線を外し、ここでやっと環は自分達を取り囲むようにしている少女達を見渡した。
環にとっては初対面となる女性ばかりが、そこには集まっている。
敵意は感じられない。
うち一人、少しの間だがともに時間を過ごした相手と同じ制服を纏った少女が目に入り、環は悲しげに瞼を下げた。

「なぁ。放送、何かあったのか?」

押し黙った環の様子を窺うように、祐一が恐る恐ると声をかける。
彼は彼で、把握できていない状況に対する不安が強いのだろう。
……隠しても、意味はない。
環は、苦い気持ちを噛みしめながら祐一の目を強く見据えると、しっかりとした口調で彼に現実を突きつけた。

「その様子だと、本当に何も知らないみたいね。……藤林さんと神尾さん、亡くなったわよ」
「は?」
「消防署を出て行ったあなた達四人のうち、二人の人間が死んだのよ。
 生き残ったのはあなたと柊君のみ。それも名前が呼ばれなかったってだけで、柊君の安全だって分からないわ」

祐一の思考回路が、止まる。
祐一が知らない間に流れた時間は、想像以上に長かったということである。
自然と握りんでいた拳を振るわせる祐一を見下ろす環の眼差しは、あくまで冷ややかだった。
責める訳でもなく、同情するでもなく。
痛ましい事実を自分がどう受け止めているのか、それを祐一達周りの人間に見えないよう取り繕う環の姿は、表面上だとあくまで冷静なもので落ち着いているとしか思えないものであろう。
環に自覚はないが、この温度が祐一の胸に罪悪感を強く植えつけていた。

「何だよ、それ……」

772インターセプト:2009/05/16(土) 01:41:02 ID:iXOGC6ZY0
祐一の声は、カラカラに乾いてしまっている。
激しくなった彼の動機は、収まる気配を全く見せない。
これはタイミングが悪かった。祐一が意識を取り戻し、まだ一時間も経ってないのである。
精神的にもやっと落ち着き、祐一がおぼろげになってしまっている昨夜の出来事を思い出そうとしたのも、つい先程、数分前だ。
その時点で祐一は、途切れてしまっている自身の記憶に軽い混乱を見せていた。
今環にこのような事実を突きつけられ、その内容を上手く噛み砕くことができない祐一の頭の中は、さらに訳が分からないことになっているだろう。

肩を落とし、ぺたんとベッドに再び腰を落とした祐一は、地面を暗い面持ちで見つめている。
広がった沈黙。誰もが二人にかける言葉を失っていたその時、今まで無言を貫いていた一人の少女が小さくそっと口を開く。

「……また、誰か来るの」

ゆっくりと視線を扉の向こうに走らせながら、静かに呟いたのはことみだった。
彼女の言葉で祐一以外の他のメンバーも、耳をすませば確かに捉えることができるそのリズムに気づく。
コツコツと鳴る床が表すのは、人の足音に間違いないだろう。
環が入ってきた扉は、開けっ放しの状態である。
今更閉めには戻れない。
扉に一番近かった真希と美凪が、じりじりと後ろに下がっていく。
ぎゅっと美凪の手を握りながらも、真希は睨み付けるように扉の向こうの様子を集中して窺っていた。

コツ、と。
最後に比較的大きな一音を鳴らした所で、靴音が止む。
バグナグを装着し直した聖に、十徳ナイフを取り出したことみ。
寄り添う真希と美凪など、まるで環がこの保健室に現れた時の光景を再現しているかのようである。
ただ一人、自身への惑いで余裕がなくなってしまった祐一だけ、この世界から隔離された場所で過去に思いを馳せるのだった。

773インターセプト:2009/05/16(土) 01:41:44 ID:iXOGC6ZY0
【時間:2日目午前7時40分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:呆然・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:20)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:扉に注目】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:聖に注目】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:扉に注目】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:扉に注目】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:扉に注目】

(関連・945・1041)(B−4ルート)

774(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:30:34 ID:moWm6PFw0
「ったく、無茶しやがって」
「勝てたんですからいいじゃないですか」
「悪運の強い奴だよ、お前は」
「どんなもんです」
「褒めてない」
「知ってます」

 なんとも噛み合わない会話だと思いながら国崎往人はぐったりとして動かない伊吹風子を背負って山を下っていた。
 風子自体は命に別状があるわけではないが、疲弊しきった彼女はもう歩く気力も残っていないようだった。
 それゆえ一旦麓に戻ることにしたのだが、重たい。風子ではなく、荷物が。

 内心悪態をつく。いつから自分は武器庫になったのだろう。
 おまけに急な坂道であるために歩みは遅々として進まず、往人も辛い状況だった。
 少しでも気を紛らわせようと風子と喋っているものの先程の通りのちぐはぐで、
 会話の種を出すのにも苦労する往人は寧ろストレスさえ感じていた。

 風子が悪い人間でないのは分かっている。分かってはいるのだが……それとも最近の婦女子というものはこんなものなのだろうか。
 溜息を腹の底に飲み下すと共に往人はさらにコミュニケーションを図る。自分らしくないと思いつつ。

「しかしだ、ホテルはそんなことになってるのか」
「……はい。風子だけ、命からがら逃げてきました」

 事実を認める風子の声には色がない。受け入れるしかないという諦観を含んだ声だった。
 だからと言って問い詰める気は往人にもない。お互い誰かを助けられず、見捨ててきたのも同じだ。
 責めたり、慰めたりする権利は誰にもない。自分達に出来るのはそれでも仲間であるという意思を示す、それだけだ。

 そうか、とだけ返事をして、往人はついに人形劇を見せてやることが出来なかった笹森花梨の姿を思い浮かべた。
 どうしてあんなに人形劇を見たがったのか往人には分からない。聞かなかったからだ。
 けれども花梨は自分の芸を望んでいた。応えてやれなかったのは、心苦しい。

775(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:30:59 ID:moWm6PFw0
「ですけど、風子はこれを受け継ぎました。だから風子は、まだ死ねません」

 肩越しに青い宝石が差し出される。かつて花梨が大事そうに抱えていたものだ。
 こちらの願いも聞き届けることは出来なかった。つくづく自分は約束を反故にしていたのだなと思う。
 すまなかった、と往人は宝石の輝き越しに見える花梨の意思へと向けて黙祷を捧げる。
 続いて誓う。だから自分達は絶対に生きて帰るのだ、と。

 強く思って宝石を見つめたとき、ぼうっと宝石が光ったように思えた。
 だが一瞬のうちに光は消え失せ、また元の、深海の如き深い青色のみが往人の目に映る。
 気のせいか、と思いなおして「もう仕舞っていいぞ」と伝えた。

「風子、ミステリ研には興味ありませんが……この願いだけは、絶対に叶えます。それが風子の役割ですから」

 ミステリ研。その言葉が往人の耳を打ち、ああそうだったのかという納得を得る。
 要するに不思議なものが好きなだけだったのだ。人形劇の法術に興味があったということか。
 分かってしまえば単純な理由だった。人が行動する理由なんてそんなものなのだろう。
 低い笑いが漏れ、同時に自分の行動もまた人としては同然のありようなのかもしれないという思いが突き上げる。

「何がおかしいんですか」

 馬鹿にしたと思ったのだろう、風子が若干棘の入った声で聞いてくる。
 往人は「お前を馬鹿にしたわけじゃない」と返して、そのまま続ける。

「笹森のことが少し分かっただけだ。……お前も、もう少し自分に正直になってもいいんじゃないか」
「風子はこれでいいんです。これで……」
「まあ個人の勝手だがな。でも何かひとつくらいあってもバチは当たらないさ。そうでなきゃ、いずれ空しくなる」
「……」

 思うところがあるのか、答えるのも億劫になったのか、風子は無言だった。
 人のために何かするのもいい。けれどもそれだけでは失ったときに大きな喪失感だけを生み出し、空白を形作る。
 埋めようとするあまりに、人はまた間違いを犯す。

776(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:17 ID:moWm6PFw0
 自分や、舞がそうなりかけたように。
 朝霧麻亜子が一度はそうなってしまったように。

 だが今は自分達も持っている。自分が望むことを、自分で決めて生きている。
 往人自身もだ。人形劇と共に生きたい。自分のために。
 急に考える必要はない。じっくり考えていけばいいだろうと断じて、往人はそれ以上何も聞かなかった。
 風子もまた聞いてこようとはしなかった。眠ってしまったのかもしれない。
 風子の体は、静かに往人にもたれかかっていた。

「……さて、そこにいる盗み聞き野郎。いささか趣味が悪いと思うんだが」
「人聞きの悪いことを言うな。やり過ごそうとしてただけだっつーに」

 気付かれていたことに舌打ちして、がさがさと茂みの奥から男が一人這い出してくる。
 往人も存在を感知したのはついさっきだ。それも、相手が去っていこうという段階でようやく気付けた有様だ。
 言葉と行動が示す通りやり過ごしてどこかに向かおうとしていたのは事実らしい。
 仕方がないというような表情で男は不満そうな雰囲気を含ませていた。

 戦意はないらしい。あるなら問答無用で襲い掛かられているはずだった。
 ろくに反撃も出来ないほど往人の体は荷物まみれなのである。
 それでも隠れていたということは後ろめたいものがあるかもしれないということ。
 見過ごして後の災いに繋がるようなら。声をかけたのはそう判断してのことだった。

 これが殺し合いの開催直後だったら、また結果は違ったのかもしれない。今の自分は他者と積極的に関わろうとしている。
 目的が自分のためだとしても、誰かと関わりを持とうとすることに己の変質を実感する。
 良いことなのか悪いことなのかまでは分からなかったが。

777(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:34 ID:moWm6PFw0
「なぜ隠れていた」
「見知らぬお兄さんと鉢合わせしたくなかったから」
「悪いが女もいる」
「誘拐してきたのか」
「任意同行だ。で、どうして鉢合わせしたくなかった」
「一人の方がよかったから」

 どうしたものか、と要領を得ない男の言動に往人は頭を悩ませる。
 戦意はないが、誰とも会いたくなかった。
 だとするなら何もする気がなく逃げ惑っていると考えるのが妥当だが、目の前の男はそんな風に見えない。
 寧ろ飄々としてつかみどころのない雲を想起させる。
 やっていることを知られたくない、という意思だけははっきりとしていたが。
 正直に聞いたところでこの男は何も答えてはくれないだろう。往人は全く見えない男の表情に辟易しつつ続けた。

「俺を抜けて行こうとしてるのなら、ひとまず手伝え。見返りはある」
「それはなにか、鉛玉かい?」
「情報だよ。悪いが、無理にでも連れて行かせてもらう。重いんだよ、これ」

 往人はそう言って、荷物の一部を持ち上げた。ああ、と得心したらしい相手は唇の端を僅かに上げた。

「引っ越し屋の手伝いなんてたまらないな」
「そう言うな。女房が待ってるんでね」
「……マジ?」

 それまで保っていた仮面が崩れ、年相応の少年の驚きが現れた。
 往人は破顔する。適当に言ってみたつもりだったのに。自分は妻帯者に見えるのだろうか。
 そんなものとは最も縁遠いはずなのだが。思わず驚いたことを失念していたらしい男は、
 今さらのようにしまったという渋面を作ったものの後の祭りだ。
 無防備な安心感を得ながら往人は「方便だ」と付け足した。

778(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:31:55 ID:moWm6PFw0
「だよな……いや、夫婦ではないにしても恋人かなにかと思って」
「いると思ったか?」
「あんた、意外と顔は悪くないぜ」
「……そうなのか?」

 これまでの人生で人相の悪さしか言われることがなかっただけに新鮮な感想だった。
 自分が変質しつつある結果なのだろうかと思う。他者を寄せ付けず、生きることしか考えられなかった昔。
 何も省みることもなかった過去に比べれば、今の自分は少しは余裕を持って生きていると言えるのだろうか。
 殺し合いの場で余裕というのもおかしな話だが。

「いいよ。負けた。少しくらい寄り道したって悪くはないだろ。荷物貸せよ、お兄さん」
「国崎往人だ」

 堅い雰囲気をどこかに追いやったかのように男の言葉は闊達だった。或いはこれが本来の姿なのかもしれない。
 ただ年上に言葉をかけるには少し馴れ馴れしいと思ったので、こちらもぞんざい気味に荷物を投げて寄越すことにした。
 けれども男はまるで苦もなく全部受け取り、ひょいひょいと肩にかけていく。
 見た目よりも器用で鍛えているのかもしれない、と思った。

「国崎さんか。俺は奈須宗一。職業は正義の味方(志望)かな」
「ほう、職があるのか」
「……突っ込んでくれないんすか」
「お前の言葉を真に受けてたら頭が持たないことは分かったからな」
「そりゃ、どうもすんませんした」

 悪びれた様子もなく、宗一はやれやれと肩を竦める。
 正義の味方というのは嘘にしても、この掴みどころのない性格を演じるには普通の仕事と精神ではないのは明らかだ。
 往人にはそれが何か想像も出来なかったが、個人として付き合うにはぞんざいなくらいで十分だと結論する。

「しかし、仕事か……俺も職を変えないとな……」

779(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:18 ID:moWm6PFw0
 仕事と聞いたからか、往人はついそんなことを口にしていた。
 今までは人形劇だけをしていたが、もう自分にはそれだけではない。
 いや、正確には旅をする必要性なんてなくなってしまったのだろう。
 少なくとも、今の自分では母から聞かされた目的を為しえることはもうないに違いない。
 空の少女は、後の誰かに託そうと思った。

 弟子でも取るか、それとも一子相伝といくか。
 そこまで考えて、空想が過ぎると己に嘆息する一方、初めて将来のことを考えているとも自覚する。
 これまでは目先のことは考えても未来のことなんて予想さえしていなかったから……

「ひどい仕事なのか?」

 尋ねてくる宗一に「ああ」と苦笑しながら返した。
 全く、ひどいものだった。自分のこれまでが。
 だが変えられる。昔では掴めもしなかったものが、今は掴みかけている。

 現在は確かに血塗られた道なのだろう。人の死を経験し、間違いを犯し、自分でも許せないものを抱えていることは事実だ。
 それでもこうして未来を見つめることが出来る。罪を抱えながらも、それでもより善い生き方にしようと必死で模索している。
 一度間違ったからといって、それで飛ぶことをやめてしまう方が本当の罪になると思ったから。
 血を吐き続けながら飛ぶとは、そういうことなのだろう。

「だが、もう吹っ切れたよ。今度こそ、間違えずに求められる」

     *     *     *

 人のいない洗面所に、水音が響いている。
 それは火照った顔を冷ますためのものだ。はぁ、と溜息をついて川澄舞は目の前の鏡に自らを映す。

 何の変哲もない自分。無表情に近く起伏もないはずの自分の顔が赤く染まっている。
 熱があるわけではない。これは先程の朝霧麻亜子の悪戯によるものだ。
 きっとそうに違いないと思いながらも、ふと国崎往人のことが頭に浮かぶ。

780(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:33 ID:moWm6PFw0
 惚れている、と断じた麻亜子の言葉が頭を過ぎり、しかしこれという結論もつけられない自分に困惑する。
 そもそも恋もしたこともなければそれがどういうものなのかも分からない。
 知識として頭にはあっても体感しているかと言われれば、何を言うことも出来ない。

 かと言って往人に対しどんな感情も抱いていないのかと問われれば、それもまた違う。
 見守ってくれると言ってくれた往人。人に恥じず、己に恥じない生き方を共に探そうと言ってくれた人。
 舞の中で大きなウェイトを占めているのは確かだ。ただ関係性を表す言葉が分からないのもまた確かだった。
 家族に向ける情でもなければ、友達でもない。好敵手などではなく、パートナーというには距離が近すぎる。
 思慕の念、という表現が一番近しいように思えた。麻亜子はそれを恋と言ったのかもしれないが。

「……ひとを好きになる、か」

 珍しく舞は一人ごちた。こうして戸惑っている自分は、かつての佐祐理との関係に似ている。
 無愛想で誰とも関わりを持とうとしなかった自分にもいつも笑顔で接してくれた親友。
 どうして佐祐理が自分と関わりを持とうとしてくれたのか、今となってはもう確かめようがない。

 ただ、今なら理解出来る気がする。予想の範疇でしかなくても佐祐理がどう思っていたのか想像できる。
 寂しかったのかもしれない。我が身だけで歩き、何もかもを引き摺って歩いている自分の姿を見ていられなかったのかもしれない。
 佐祐理は自分を見て、彼女自身の姿を見ていたのかもしれなかった。彼女もまた……一人でいることの多かった人間だったから。

 互いに何とかするべきなのだと言外に語ろうとしていた。
 自分だけで全てを背負い、それ以外を余所者だと、
 関係のない他人だと見なして交わろうとしないことに警鐘を鳴らしていたのだ。
 そんなことをするより、自分を無防備に晒して肩を組んで歩く方が楽だというのに。

 今さら気付くことの愚かしさに己を恨みたくもなったが、
 それ以上にこうして歩いているという実感が舞の靄を晴らし、すっきりとした気分にさせている。
 だからこれでいいのだと、舞は結論付けて鏡の自分を見据えた。

781(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:32:51 ID:moWm6PFw0
 そこにいる己の姿は決して祝福されるべき存在ではない。神様がいるのだとすれば、最も程遠い存在には違いない。
 だとしても、と舞は思う。未来が絶望だとは限らないし、絶望だと感じるかどうかも定まってはいない。
 何よりも自分の眼は、無限に遠くとも希望を見つめていた。自分達の目指す幸福という名の希望を。
 その幸福の中に、是非往人もいて欲しい。最後にそんなことを考えて、舞は洗面所を後にした。

「よー少女まいまい。初体験はどうだったかな?」

 廊下で待っていたのは数十分も舞の脇腹をくすぐったりその他諸々をしていた麻亜子であった。
 すれちがいざまにチョップという名の手刀をかまし、黙って荷物を回収する。
 麻亜子もこの通り元気になった。そこで二人は往人に合流しようということで結論を見たのだ。

 こんななりだが、麻亜子は舞より年上であるらしい。
 本人はじゅうよんさいだとか言っているが、ささらの先輩なら自分より年上だ。
 それにしては幼い外見だと思いながら必要な武器を身につけていく。

「反応が悪いなぁ。そんなんじゃ夫婦漫才は出来ぬぞー」
「……」

 すたすたすた。

 ぽかっ。

「が、がお、何するかなー」
「余計なこと言い過ぎ」
「なんだよー、人生の先輩として女の手ほどきをだな……」
「じゅうよんさいじゃなかったの」
「実年齢と人生経験に因果関係はないのだよ明智クン」

 意味もなく胸を逸らす麻亜子に付き合いきれないとばかりに舞はデイパックを背中にかけ、身支度を整えた。
 そのまま麻亜子を待つ。反応が返ってこなくなったと認識した麻亜子はこれ見よがしに溜息をつき、大袈裟に嘆息する。

782(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:07 ID:moWm6PFw0
「ああなんということでしょう。あたしゃこの子をこんな子に育てた覚えはないよ、よよよ」

 そして泣き崩れるふりをする。目が覚めてからというもの一事が万事この調子である。
 目覚めたときの儚く、今にも押し潰されそうだった麻亜子と同一人物だとは思えない。
 素なのか、演技なのか。或いは安心してふざけられるほど自分は信頼されているということなのだろうか。

 よく分からない。まるで掴みどころがない、と舞は考えて、
 そういえば相沢祐一が自分に対して同じようなことを言ったのを思い出した。
 無論麻亜子とは違う種類の掴みどころのなさなのだろう。祐一曰く天然、らしいがこれもよく分からない。
 分かるのは、自分も麻亜子も変人らしいのだということだった。

「……むぅ。チミからリアクションを取るには相当苦労しそうだな。しょーがない、今回は諦めて書を捨てに町へ出るとしますか」

 ふと見ると、既に麻亜子は準備を整えていた。
 いつの間に、と麻亜子の抜け目のなさに驚き、また彼女の目が鋭さを帯びた真剣なものに変貌していることにドキリとする。
 呆気に取られる舞を見た麻亜子は、ようやく満足したようにニヤリと笑った。

「こーいうのなら、得意なんだけどさ」

 ボウガンを肩に掲げ、こちらに向き直った麻亜子はやはり年上だと思わせる風格があった。
 自然と表情が引き締まり、日本刀の鞘を握る力が大きくなる。

「さて、行きましょうかね」

 麻亜子が玄関の扉に手をかけようとしたところで、先に扉がガラガラと開いた。
 侵入者か!? 咄嗟に刀に手を掛けた舞だったが、直後の一言がそれをかき消した。

「俺だ! 今戻った」
「あや、鉢合わせ」
「……こりゃまた」
「二人……誰?」

783(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:26 ID:moWm6PFw0
 荷物まみれの往人。刀を抜きかけた舞。ボウガンを向ける麻亜子。後ろで含みありげに唸る宗一。そして風子。
 合流は、実に奇妙な形となった。

     *     *     *

「ということで、こいつは動けない」
「おーよく寝てるね。ほれほれ」
「まーりゃん、悪戯しない」
「はいはい分かってますってば……それで、そっちのあんちゃんは?」
「見た目小学生の奴にあんちゃんとか言われると腹が立つな」
「小学生じゃねーっ! アイドルなんだぞ、美少女なんだぞー!」

「……こんな奴だっけか」
「こういうキャラ」

「そこ! あたしのキャラを誤解しないで頂きたい。いいかねあたしは」
「まあ話の腰を折るのはそこまでにして、だ。俺は山頂の火事があった場所に向かってたんだが、国崎さんと会ってな」
「荷物運びをしてもらった」
「やーい、パシリー」
「道中、山頂で何があったのかは大方国崎さんから聞いた」
「あ、無視っすか」
「伊吹の話だから実際俺は見ていないが……何人かが戦っているかもしれん。ただ、伊吹の知り合いは全滅した」
「……往人も、知り合いだった?」
「ああ、とは言っても顔合わせしかしていないが……だが、あいつらを助けられなかったのは事実だ」

784(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:41 ID:moWm6PFw0
「それで、だ。調査と殺しあってる奴らを倒すという意味で伊吹をお前らに預けて、俺達でまた山頂に向かう手はずだ」
「伊吹が逃げ出したころにはもう戦いも佳境だと考えていい。
 だからもういないかもしれないが、用心に越したことはない。装備を整えてから再出発するつもりだった」
「確かに、荷物が多すぎるねぇ」
「まるで武器庫」
「こっちとしては好都合だがな。だがとにかく早く準備は済ませたい。俺は今まで通りの武器でいい。奈須はどうする」
「貰っていいのか? だったら……ナイフ二本だな。本当ならファイブセブンの弾が欲しかったが、まあ普通ないしな」
「サブマシンガンは使わないのかい?」
「好みじゃない。そっちこそどうなんだ」
「あたしはそういう柄じゃないしねえ……小柄だし?」
「私は銃は撃てない……それよりは、まだ白兵戦の方が得意」
「グレランは……まあ、雨だから使い辛いな。結局のところ遊撃する分には拳銃とナイフの組み合わせが一番なんだよな。
 保険でショットガンは持ってるが」
「詳しそうだね、奈須くんや。ガンオタク?」
「いや軍事オタクかな、この場合」
「後はここに誰が残るか、だな。最低でも伊吹を守るために一人は……」

「――必要ないです」

785(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:33:58 ID:moWm6PFw0
 一通りの話し合いが終わり、ここに誰を守りに残すかの相談が始まろうとしたとき、のそりと起き上がる気配があった。
 全員がぎょっとして振り返る。そこにはまだ疲れの色も濃い風子の表情があった。
 ただその目は生気に溢れかえっており、ギラギラとした確かな意思がそこにある。
 いつから起きていたのだ、と誰が尋ねる間もなく風子は続ける。

「ここが正念場のはずです。悪い人たちをやっつけるチャンスのはずです。
 風子に構っている時間はないはずです。……違いますか?」

 たどたどしい言葉で、それでも風子は自分の意思を伝える。
 仇を討ってほしいという願いと、役に立たない自分に構わないで欲しいという、弱気で切実な気持ちだった。
 それは逃げ続け、今も集団の中で自分の必要性を見出せないでいる風子という少女の心情を表しているかのようだった。

 往人のみならず、ここまで面識がなかった舞や麻亜子、宗一でさえ風子にものを言うのは躊躇われた。
 それほどまでに風子が味わい続けてきた悔しさは誰の目にも明らかだったし、
 自分自身がちっぽけでしかないことはこの場の誰もが知り抜いていた。だから風子の言葉に反対できるわけがなかった。

「……それで、いいんだな?」
「はい」

 ようやく搾り出された往人の声にも、明朗な声で風子は応じた。
 何の躊躇もない返事がかえって自分自身の無力を自覚しているようで、往人は思わず言葉を続けた。

「必ず戻る。それまでしっかり留守番してろ」
「風子、子供じゃないです」

 そこでようやく、風子が苦笑した。けれどもその笑いは力がない。
 生きるしかない。自分の生をそのようにしか捉えていないかのようで。
 往人は人形劇を披露したい気持ちに駆られる。こんな笑い方をしてはいけない。
 その思いが突き上げ、パン人形を取り出そうとする。が、その前に舞がやさしく風子の頭に手を乗せた。

786(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:20 ID:moWm6PFw0
「あなたは弱い。逃げ出すしかなかったのなら、あなたは弱いのかもしれない。
 ――でも、無力じゃない。それは分かって欲しい」

 無力じゃない、という言葉に風子の瞳が揺れ、一瞬困惑したような表情を見せるが、すぐにぷいっと顔を背けた。
 頭を撫でられたことに照れただけなのか、それとも風子の内面に化学反応を引き起こしたのか。
 往人には分からなかったが、舞の言葉に重みがあることは理解していた。

 友達も親友も助けられず、みすみす見殺しにしてしまい、その果てに自殺しようとした舞は、弱いとも言える。
 往人だってそうだし、麻亜子にしても同じだった。
 だが、誰一人どうにも出来なかったわけじゃない。往人は舞を、舞は麻亜子を。
 弱いながらも、それでも手を引っ張り、肩を互いに組んで進み続けている。

 ならばきっとそれは、無力ではないということだ。
 麻亜子も口を挟まず、黙って風子を見つめていた。舞の言葉を噛み締めるようにして。

「……その通りだ。ひとは、いくらでも強くなれるし考えだって変えられる。
 無力だったら、それだって出来やしないさ。お前は違うだろ?」

 麻亜子や往人の代わりに、宗一が言った。自分達を総括する言葉に、不思議な確信が持てる。
 俺達は先へ進めるんだ、そんな確信を。

「俺の大切な奴もそうだしな。あいつだって弱いままじゃない。今、あいつも踏ん張ってる」

787(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:31 ID:moWm6PFw0
 だからこっちも踏ん張ろう。宗一の言葉に風子は黙って頷いた。
 ぎゅっ、と拳を握り締めて。

「それじゃ、行くか」

 今人形劇をする必要がなくなったことに安心と残念な気持ちの両方を得ながら往人は全員を促した。
 それぞれが頷き、各々の持ち物を持って往人についてくる。
 風子は壁にもたれかかったまま目を閉じ、静かに呼吸を繰り返している。
 気持ちを整理しているのかもしれないと思いながら、改めて玄関で靴を履いたとき、ぽつりと呟く声があった。

「いってらっしゃい、です」

 別れを告げる声ではなく、帰ってきてくれることを願う声だった。
 往人達が振り向くと、風子は不自然に顔を逸らし、あらぬ方向を向いていた。
 顔を見合わせ、互いに苦笑した。この場の誰もが巣立ったばかりの雛鳥で、まだまだこれからだった。

「ああ」

 全員が短く答え、目指す山の頂へと向けて飛び出していった。

788(明るい週末)/Passing Moment:2009/05/17(日) 16:34:55 ID:moWm6PFw0
【時間:2日目午後21時30分頃】
【場所:F−3・民家】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(2/7)、ボウガン(34/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 5/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾0/10) 予備弾薬57発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。ホテル跡に向かう。後に椋の捜索】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。疲労困憊でしばらく行動不能。民家に残る】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数11/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、スラッグ弾8発(SPAS12)、投げナイフ2本、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:心機一転。健康】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る。ホテル跡方面に移動】

【その他:民家には以下のものが置かれています。
 イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】

→B-10

789午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:26:49 ID:1qEO/8a60
 
その明かりも灯らぬ暗い部屋には、底冷えするような空気が流れている。
何本もの配管が複雑に絡み合う壁に寄せるように置かれた幾つかの大きな鉄製の箱が、
家具一つないその部屋の性質を物語っている。
部屋は倉庫であり、箱はコンテナであった。
子供の背丈ほどもある鉄製のコンテナは重機で運搬することを前提にしているのか、
無造作に二つ、三つと積み上げられている。
どこか遠くから、空調の眠気を誘うような低音が響いていた。
時折部屋全体が微かに揺れる他には動くものとてない、無闇にがらんとした空間には、
しかし目を凝らせば二つの影がある。
片膝を立て、鉄のコンテナに背中を預けて座る鏡写しのような二つの影を、小さな光が照らした。
じ、と一瞬だけ燃え上がり、すぐに消えたのは影の擦ったマッチの炎である。
消えた炎が子を産んだように、後に小さな火が二つ、残った。

「狡兎死して走狗煮らる……か」

肺腑に満たした紫煙を細く吐き出しながら呟かれる声に、傍らに座る影が同じように
煙草の火を大きくしてから応じる。

「つまらん愚痴だな坂神。御堂あたりの病に侵されたか」

闇の中にも鮮やかな長い銀色の髪が微かに揺れる。
軽く灰を落としながらゆらゆらと紫煙の舞う中空に視線を漂わせる男を、光岡悟という。

「我々はいつだってこうしてきただろう。南方でも、大陸でも。
 今更、儀仗隊の捧げ銃でもあるまい」
「それは、そうだが……」

790午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:27:17 ID:1qEO/8a60
言いよどんだ坂神蝉丸が、その先の言葉に詰まる。
船が、揺れた。
結局、定刻まで御堂と石原が戻ることはなかった。その生死とて知れぬ。
今はただ二人、がらんとした暗い倉庫の中で、船に揺られている。
寒々しい闇の中、鬱屈した感情が滓のように腹の底に沈んでいく。
自分は構わぬという思いはあった。
どれほどの戦功を挙げようと畢竟、坂神蝉丸は脱走兵である。
命令不服従に軍備品の横領も加わろう。
銃殺を免れ得ぬ身に歓待など望むべくもない。
拘束されるでも憲兵に引き渡されるでもないこの待遇は、むしろ破格とも言えた。
九品仏によるプロパガンダに利用されるにせよ、それは仕方のないことでもあった。
元来、強化兵とはそういった政治色を払拭しきれぬ身の上でもある。
しかし。しかし、と蝉丸は思う。
しかしそれは、坂神蝉丸に対してのみ与えられるべき仕打ちであろう。
暗い部屋を見渡す。
置かれたコンテナに詰まっているのは銃器か、弾薬か。
貨物倉庫に詰め込まれた強化兵は、軍の備品扱いか。
それでいいと思っていた。
國の礎となるならばそれでもいいと、かつての蝉丸は考えていた。
だがこの島での戦いを経た今となっては、既に疑問しか浮かばぬ。
ましてこれが、己に忠義を尽くす者への扱いか。
光岡悟は九品仏少将にとって欠くことのできぬ懐刀ではないのか。

「閣下はお忙しい身だ」
「……」
「元より汚れ役の俺などに割くお時間などありはせん」

それは、蝉丸の迷妄を喝破するように直截な、躊躇いのない声だった。
だから蝉丸は、言葉を飲み込む。

791午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:27:37 ID:1qEO/8a60
「そんなことよりもな、坂神。これからは我等も忙しく立ち働くことになるぞ。
 閣下の作られる新たな國の基となるべく、今上の御世を影から支え奉るのだからな。
 まずは老いさらばえた狒々どもを駆逐し、未だ幼くあられる陛下を警衛し奉ることになろう」

闇の中、小さな火が躍る。
身振りを交えて楽しげに語る光岡の手にした煙草から落ちる灰を、蝉丸はじっと見ていた。
はらはらと、花の散るように白い灰が舞い、闇に溶けていく。
それがどこか、何かを暗示しているかのように感じられて、蝉丸は小さく首を振る。

「……貴様がいいなら、構わんさ」

結局、それだけを呟いた。
最後に大きく紫煙を吸い込んで、煙草を床で捻り消す。
別れた道は交わり、これからも続いていく。
二度と再び、違えることもあるまい。
溜息を隠すように細く吐いた紫煙は、ゆらゆらといつまでも漂っている。
煙の向こうに志半ばに倒れた少年の幼さの残る顔が浮かび、やがて消えた。
それきり口を噤んで、蝉丸は静かに目を閉じる。
何も残らぬではない。
覚えている。刻んでいる。
ただ、泥のように疲れていた。
その明かりも灯らぬ暗い部屋は、無闇に広い。



******

792午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:28:05 ID:1qEO/8a60
 
 
少女がひとり、ぼんやりと海を眺めている。
波間の向こうに日が暮れようとしていた。
目深に被った麦藁帽子のつばが海風に煽られてはためくのを押さえるでもなく、
観月マナはひんやりと冷たい手摺に寄りかかったまま、舷側に寄せ返す波濤から
際限なく吹き上がる白い泡沫をその霞のかかったような瞳に映している。

「あ……」

ふわり、と。
一際強い風が、吹き抜けた。
咄嗟に伸ばした手は間に合わない。
麦藁帽子が、風に舞う。
眼だけで追ったそれを、

「よっ……、と」

掴み取った手が、ある。
ひょろりと肉の薄い、背の高いシルエット。
少年から青年に移り変わろうとする年代特有の、どこか遠くを見るような眼差し。

「えっと……藤田、だっけ」
「呼び捨てかよ」

苦笑したその少年のことを、マナは何も知らない。
ただこのプログラムの生還者として同じ回収船に乗り合わせたという、それだけの知識しかなかった。
否、それ以前の問題として、

「ま、いいか。……あんた、何も覚えてないんだって?」
「……」

マナが沈黙する。
事実であった。
マナには、この島に来てからの記憶がない。
突然拉致され、妙な兎の映像に殺し合いをしろと強要されたのは覚えている。
だが、そこまでだった。
その後の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
じりじりと暑い砂浜で目を覚まし、回収に来た軍の人間に救助されるまで、何をしていたのかがわからない。
気がつけば、そこにいた。
そう言う他はなかった。

793午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:28:30 ID:1qEO/8a60
「っと。悪いこと、聞いちまったかな」
「……別に」

ぼそりと呟く。
事実、何の感情も浮かばない。
広報によれば、生存者は十六名。
行方不明者八名。
そして死者、実に九十六名。
二十四時間で、百人近くの人間が死んでいる。
それだけの殺戮が行われたあの島で、自身が何をしていたのかはわからない。
わからないのは恐怖でもあったが、しかしそれだけのことだった。
空白の記憶に、良いも悪いもありはしない。
たとえばその空白に、何か大切なものが詰まっていたのだとしても。
写真のないアルバムを眺めることに、意味などなかった。
それでも。

「……」
「……ねえ」

沈黙に耐えかねたか、困ったような顔で頭を掻いている少年に、尋ねる。

「あたし、あの島で何を……ううん、違う」

言いかけて、口を噤む。
僅かな間を置いて、仕切りなおす。

「何かを……できたのかな」
「……」

それは、ただ一つ観月マナの思考と感情との周りをぼんやりと、しかし切実に巡る問いであった。
現実として、マナはここにいる。それはいい。
記憶の空白も、それ自体は構わない。
それは単に、そういうものだ。
時間が経てば、得体の知れない恐怖に押し潰されそうになるのかもしれない。
しかし今はまだ、そのことに実感が伴ってはいなかった。
だからこそ今のマナが自身に問うのは、ただその一点である。
自身に問い、しかし記憶のない身に答えの出ようはずもない。
だから、声に出した。
九十六人の死者を出した二十四時間を乗り越えた人間が、目の前にいる。
彼が、マナの問いに何らかの示唆を齎してくれることを期待した。
しかし。

794午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:29:15 ID:1qEO/8a60
「さあな。俺はあんたを知らねえ」

少年は、あっさりと期待を粉砕する。
内心で小さく溜息をついて、マナは少年から視線を外す。
夕焼けの海がマナの短慮を笑っているように感じられて、目を閉じた。
寄りかかった手摺のひんやりとした感触が心を冷ましていく。
そんなものだろう、と思う。
彼には彼の二十四時間。マナにはマナの二十四時間。
それは、重ならない。それは、分かち合えない。
たとえばマナに記憶があったとして、同じことを彼に訊かれれば、同じように返しただろう。

―――あたしは、あんたなんか知らない。

取り付く島もなくそう言い放つ自分の声を想像した瞬間、どうしてだか心の隅が、疼いた。
じわりと、閉じた瞼の端に涙が滲むのがわかる。
それを少年に気取られるのが嫌で、マナは目を閉じたまま顔を伏せる。
震える唇を、奥歯をかみ締めて堪える。

「……けど、さ」

少年が、何かを言おうとしていた。
もういい、と。
もういいからどこかに行ってと、叫びたかった。
口を開けば涙声になりそうで、声を出せなかった。

「昨日は百二十人からの数がいて、今日こうして帰りの船に乗ってるのは俺たちだけでさ」

少年が訥々と、ぶっきらぼうに喋っているのが聞こえる。
デリカシーのない男だと感じる。
態度で分かれと思う。
独りに、してほしかった。

「なら、そこには何か意味があるって……信じたい。そういうのは、あるかもな」

滲んだ涙が珠になって、目の端から零れそうになる。
堪えきれなかった。
袖で拭えば感付かれそうで、だからマナが目を伏せたまま無言で歩き出そうとした、
正にそのタイミングで背後から声がした。

「……浩之」
「お、柳川さん。どうだった?」

795午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:29:40 ID:1qEO/8a60
びくりと肩を震わせたマナに気づいた様子もなく、少年が声の主に言葉を返す。

「こちらには来ていないようだ」
「そっか……ったくあの人は、どこをほっつき歩いてんだか」
「大きな船ではない。すぐに見つかるだろう」
「まーな」

そんなやり取りが耳障りで、足早に立ち去ろうとしたマナに、少年の声が響く。

「おい、あんた!」
「……」

マナは足を止めない。
背後から、かつかつと追いかけてくるような足音が聞こえる。
鬱陶しかった。

「少なくとも俺は……俺たちは、あんたに助けられたんだぜ」
「え……?」

一瞬、何を言っているのか理解できず。
意味を咀嚼して驚いて、思わず振り返って、涙目に気付いて急いで顔を背けようとして、
ぽふり、と。

「わ……」

被せられたのは、麦藁帽子だった。
突然の闇に覆われた視界の外、帽子の上からぽんぽんと軽く頭を叩く感触。
目深に押し込まれた帽子のつばを持ち上げたときには、少年はもう踵を返した後だった。

「じゃーな」

手を振る背中だけが、あった。



******

796午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:30:31 ID:1qEO/8a60
 
 
「お、あれ……」
「倉田といったか」

舷側の向こうから歩いてきた少女の名を、柳川が即座に告げる。

「一度会っただけでよく覚えてんな……さすが刑事」

茶化すような浩之の言葉に柳川は答えない。
代わりに呆れたような視線が返ってくる。
軽く肩をすくめてみせた浩之が少女、倉田佐祐理に向けて小さく手を上げる。

「よう」
「あ……藤田さんたち」
「あんたも刑事だったのか」
「……?」
「いや、なんでもねえ」

きょとんとした顔の佐祐理に、言い繕うように浩之が続ける。

「そういや、あんたが川名を助けてくれたんだってな」
「あははーっ、それは違いますよー」

屈託のない笑顔と共に手を振ってみせる佐祐理。

「佐祐理はただ、軍の方に川名さんの居場所を伝えただけですー。
 船まで運んでくれたのはあの方たちですよー」
「けど、あの……パンも持ってきてくれただろ」

パン、と口にする瞬間、浩之の表情に微妙な影が落ちる。
その脳裏に浮かぶ存在がパンというカテゴリに収まってしまう代物ならば、自分は一生白米党でいよう。
そんな風にすら思えてしまう記憶を振り払うように、少し乱暴に頭を掻く。

797午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:30:55 ID:1qEO/8a60
「あれがなきゃ川名は目を覚まさなかったかも知れねえ」
「うーん……」

苦笑気味に小首を傾げた佐祐理が、顎に指を当てたまま反駁する。

「あれも佐祐理じゃありませんねー。大切な友人からの預かりものを届けただけですー」
「友達……って、あの」

この回収船に乗り込む前、佐祐理と熱心に話し込んでいたその姿を、浩之は思い浮かべる。
陽光の下、白く輝く毛並み。
精悍に伸びる手足と、涼やかな目をした女性の顔。
まるで御伽噺から飛び出してきたような、それは半人半獣とでもいうべき存在だった。
全身を覆う毛皮の他には一糸纏わぬその姿は、見る者の眼を捉えて離さぬ神々しさをすら秘めていた。

「……藤田さん、もしかしていやらしいことを考えていますか?」
「考えてねーよ! そういや、あの人は船に乗らなかったみてーだけど……」

人、と呼んだ瞬間、佐祐理の微笑がほんの少し深くなったことに浩之は気づかない。
それこそが、藤田浩之という少年の美徳であったのかもしれない。

「舞は……友人は、まだあの島にやり残したことがあるそうなので」
「やり残したこと?」
「何でも魔物を迎えに行く、とか」
「……なんだ、そりゃ」
「さあ? 舞は時々、不思議なことを言う子ですし……」

あっけらかんと、しかし否定の色の一片すらなく、佐祐理が言ってのける。

「でも、あの子がそう言うのなら、それは本当に大切なことなのでしょうから」
「そっか……」

微笑の奥に横たわる深く濃密な信頼を、依存と呼ぶべきか、陶酔というべきか。
そのどちらをも選ばず、浩之は言葉を切った。
僅かな沈黙に、ふと佐祐理の微笑がその色を緩める。

798午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:31:25 ID:1qEO/8a60
「そういえばお二人とも、お散歩の途中でしたか?」
「……ああ、そうだった」

言われて初めて気付いたように浩之が天を仰ぐ。

「いや、散歩じゃねーよ。実は川名を探しててな」
「あらら、いらっしゃらないんですかー。……お部屋には?」

数時間に及ぶ船旅にあたって、生還者にはそれぞれ個室が宛がわれている。
客船でない以上、簡素なものではあったが、休むことくらいはできた。
それを指した佐祐理に、浩之が首を振って答える。

「ちらっと見たが、電気がついてないみてーだったからな」
「あの、それは……」
「―――浩之」

と、それまで浩之の背後に影のように付き従い沈黙を守っていた男が、何かを言いかけた佐祐理の言葉を遮った。

「ん? ……ああ、そうだな」

それをどう受け取ったか、浩之がひとつ頷いて佐祐理の方へ向き直る。
男の視線が背後で物言いたげに伏せられるのを、浩之はまるで見ていない。

「えーと、倉田……だったよな。話し込んじまって悪かったな」
「いえいえ、お話できてよかったですー。川名さんを見かけたら、藤田さんたちが探してたって
 伝えておきますねー」
「ああ、頼むな」

手を振る佐祐理に背を向けて、浩之は歩き出す。

「ったく、どこ行ったんだか……」



******

799午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:34:03 ID:1qEO/8a60
 
 
頭を掻きながら歩いていく少年たちの背中を見送って、小さく溜息をつく。
困ったものだ、と見やった空はすっかり群青色に染まって、夜の訪れを待っている。
水平線の向こうに沈んだ夕陽を惜しむように吹く風が、長すぎる髪と大きすぎるリボンを揺らして
いつも通りの不快感を私に齎してくれる。

振り払うように、歩き出す。
舷側を少し進めば小さな闇が口を開けている。
船室へ向かうための階段だった。
かつかつと金属的な音を響かせながら、狭くて急な階段を下りていく。
踊り場を一つ経由して薄暗い廊下に出た。
船舶という性質上、無駄な容積を取れない設計の廊下はひどく狭く、息苦しい。
壁面には用途も分からないパイプが敷き詰められ、視覚的にも圧迫されるように感じられた。
そんな、ごみごみとして、無機質で、鉄臭い廊下を歩く。

一つ、二つと扉を通り過ぎる。
あてがわれた部屋の扉も越えて、足を止めたのはその隣。
密閉可能な鉄の引き戸は、しかし今は薄く開いている。
開いた扉の隙間からは闇が漏れ出していた。
動くものの気配も、音もない。
気にすることなく、ノックを一つ。

「―――お邪魔します」

それだけを告げて、返事も聞かずに引き戸を開ける。
ぼんやりとした廊下の天井灯が、福音のように部屋の中を満たしていく。
部屋に詰まった闇が流れ出すように、暗がりが払われた。
暗闇の中から小さく無個性な据付のスチールデスクと簡素なパイプベッドが、そうして最後に、
そのベッドの端に腰掛けた一人の少女が、現れる。
ぼんやりとした明かりにぼんやりと照らし出されたのは、光を映さぬ瞳。

「……えっと」
「倉田です。倉田佐祐理」

800午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:34:32 ID:1qEO/8a60
驚いた風もなく、しかしどこか戸惑った様子の少女に、私は臆面もなく名を告げる。
戸惑うのも当然だった。
突然居室に誰かが入ってくるということ自体、普通では考えられない。
まして盲目の少女にとっては些細な想定外の事態ですら、致命的な恐怖の対象となり得るのだ。
更に言えば少女、川名みさきと私との間には、全くといっていいほど面識がなかった。
幾重にも礼を失し、既に愚挙と呼ぶべき行為に及んで、しかし私には罪悪感がない。
そんなものは当の昔に、あの小さな棺に入れて燃やしてしまった。
だがそんな私を見て、否、私の声のするほうに顔を向けて、川名みさきは静かに微笑む。

「……ああ、わたしを助けてくれた人だね。その節はありがとう……でいいのかな?」
「お加減はいかがですか?」
「うん、もう大丈夫。元気だよ」

世間話のようなやり取りに、ひどい違和感が付きまとう。
何か、薄い膜のようなものを隔てて話をしているような感覚。
眼を凝らさなければ見えないような、薄くて軽い、透き通った壁。
そうして普通の人間は、誰かと言葉を交わすときに眼など凝らさない。
だから誰も気付かない、薄くて軽い、しかし突き破ることの叶わない、隔壁。
それは、川名みさきの張り巡らせているものだろうか。
それとも、川名みさきと向かい合う私が無意識に張り巡らせていたものだっただろうか。
分からない。確かなのは、私と川名みさきを隔てる何かがそこにあるということ。それだけだった。
だから私は、壁を通して通じる言葉を、使う。

「藤田君たちが探していましたよ」
「え? ……もう、ずっと部屋にいたのに。ひどいよ」
「お連れの方は気付いていたようですけどね」

801午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:35:28 ID:1qEO/8a60
可愛らしく頬を膨らませる川名みさきの子供じみた仕草を見ながら、私はもう一度溜息をつく。
そう、川名みさきは全盲だ。
わざわざ自室の照明をつける習慣など、あるはずもない。
部屋が暗いという理由で不在を確信するなど迂闊に過ぎる。
まして全盲の少女が慣れぬ船の中を歩き回るものか。
想像力が足りないのか、深く考える癖がついていないのか、或いはその両方か。
もっとも、と私は心の中の評価シートの、あの薄ぼんやりとした背の高い少年の欄に刻まれた
低い数字に疑問符をつける。
あのとき、照明のことを指摘しようとした私の言葉を遮った男。
藤田浩之の後ろに立っていた、ひどく鋭利な眼をしたあの柳川という男が、言葉巧みに
少年を言いくるめた可能性は決して低くはないだろう。
何故だかは分からないけれど、あの男は藤田浩之を川名みさきと会わせたがっていない節がある。
もしかしたら、いつまでも二人でうろうろと歩き回っていたいだけかも知れない。
そんなはずはないか。
取り留めのない思考に沈みかけた私を掬い上げたのは、川名みさきの声だった。

「まあ、いいや……わざわざありがとう」
「いえ、佐祐理も少しお話してみたかったので」
「わたしと?」
「はい」

咄嗟に口をついて出た言葉に、私自身が驚いていた。
川名みさきと話をしたい? 一体何を? そんな疑問を封じるように、言葉が続く。

「色々、ありましたし」
「まあ……そうだね」

呟いて小さく天井を見上げる川名みさきの表情には、感情というものがない。
そのことに、何故だか奇妙な苛立ちを感じた。
廊下から漏れるぼんやりとした光に照らされて、ぼんやりとした顔だけが浮かび上がっている。
役目を終えた仮初めの福音は、いつの間にか鍍金が剥げてただの天井灯に戻っているようだった。
そんな光に照らされているのが苦痛で、後ろ手に扉を閉めた。
からから、がちゃりと乱暴な音が鎮まると、狭い部屋からはすっかり光が喪われる。
闇が、降りた。

802午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:35:51 ID:1qEO/8a60
「たくさんの方が亡くなりました」
「そうみたいだね」

表情は見えない。

「昔から知っている方も、この島で出会った方も」
「わたしの一番の親友もね」

感情は見えない。

「……こういうときは泣いてみせたほうが、それっぽいのかな?」
「いいえ」

闇の中に、言葉だけが響く。

「いいえ、悲しみの受け止め方は、人それぞれですから」

言いながら、私は一つの顔を思い浮かべていた。
久瀬。
臆病で、神経質で、いつも虚勢を張っていた少年。
彼もあの島で命を落としたと聞いた。
涙は流れなかった。
ただ、悲しいという感情だけは、確かにあった。
今もそうだ。
彼の顔を思い浮かべた私は、きっと悲しい顔をしている。
闇の中で、表情は、見えないけれど。

「悲しいっていうのとも、たぶん少し違うんだけどね」

803午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:36:29 ID:1qEO/8a60
声に混じったのは、苦笑の色だろうか。
少なくとも、そこに悲愴は感じ取れない。
ただ、淡々と。

「雪ちゃんはもういない」

無明の世界に、言葉が響く。
訥々と。
ただ、降った雨の、水に落ちて小さな輪を作るように。

「それは、……うん、目が覚めたときにはもう分かってたんだよ」

喪失を、受容する。

「ずっとずっと、わたしのために頑張ってくれて、最後まで頑張ってくれたから。
 だからわたしは、こうしてここにいる。ここにいられる。
 ……雪ちゃんがここにいないっていうのは、そういうことだと思ってる」

小さな棺の閉じるのを、じっと見つめたあの日のように。

「だからね、だけど、わたしはそれで、思うんだ」

変質を、許容する。

804午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:37:01 ID:1qEO/8a60
「わたしには、何もできない」

言葉だけが響く闇が、灰と黒とに染まった雨の空を連想させて。
ああ、と。

「ずっと、そう考えてたんだ。わたしは目が見えないから。
 だから何もできないって。しちゃいけないんだって」

ようやく、思い至る。

「だけど……」

川名みさきは。

「だけど違うんじゃないかって。目が見えないから何もできないんじゃなくて。
 目が見えないから何もできない……って、そんな風に考えるから何もできないんじゃないか、って」

この全盲の少女は。

「そう、思った……ううん、思えたんだよ」

私と、似ている。

「……」
「おかしいかな?」
「いいえ」

細く、長く息をつきながら、答える。
何のことはない。
薄く軽い、透き通った壁は。
私と、川名みさきと。
両方から、張り巡らされているのだ。

「でも、笑ってる」

笑っている。
そうだ。確かに私は、笑っている。
嘘つきめ、と笑っている。
誰でも受け入れるみたいに微笑んで。
だけど誰にも見えない、きっと眼を閉じなければ見えない透き通った壁を積み上げて。
そういうもので心の奥のずっと底の、本当に暗い場所に隠した嘘を包んでいる。
川名みさきは。
倉田佐祐理は。
嘘つきだ。

805午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:37:56 ID:1qEO/8a60
だから私は笑っている。
楽しくて、嬉しくて、笑っている。
だから、

「何でも、ありませんよ」

だから私は、それだけを口にする。
いつか、いつか、あなたの嘘が、綺麗な本当のお日様の下で、溶けてしまいますように。
それを、心から願いながら。

「―――」

ああ、私は光の道を行こう。
大切な友の、表情の乏しい物憂げな顔を思い浮かべながら、思う。
私は私の奥底に、喪服を濡らす雨の冷たさを抱えながら光の下を歩こう。

その先には作り上げるべき世界が、待っている。
この世界でいちばん大切な人が帰ってくる、帰ってこられる場所が、私の歩みを待っている。
立ち塞がるのは政治と経済の世界だ。
取るに足らない、私の決意に敵すべくもない相手だ。
倉田佐祐理の、それが道だ。

「―――」

ふと、闇の中に降りた沈黙に気付く。
浸り込んでいた思考から、意識が浮上する。

「すみません、川名さん……川名さん?」
「―――」

返事はない。
闇の中、少女の姿は見えない。
耳を澄ませば微かに聞こえてくるのは、定期的な呼吸の音。
どうやら川名みさきはいつの間にか、眠ってしまっていたようだった。
苦笑して、音を立てないように立ち上がる。
静かに開いた、引き戸の隙間を抜けようとしたとき。

「……え?」

背後の少女が、何かを呟いたような気がして、振り返る。
しかし、

「―――」

それきり何も、聞こえない。
寝言か何かだったのだろうか。
部屋を出ながらそう考えて、後ろ手にそっと扉を閉める。

一歩を踏み出せば、かつんと硬質な音。
暗闇を満たした部屋から遠ざかる音。
かつかつと響く、それは私の足音だ。
倉田佐祐理の未来に響く、足音だ。

見上げる。
薄ぼんやりとした光の向こう、狭くて急な階段を昇った先に、夜が訪れようとしていた。




******

806午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:38:16 ID:1qEO/8a60
******












「おめでとう」











******

807午後六時十二分/Epilogue:2009/05/21(木) 22:38:39 ID:1qEO/8a60
 
【時間:2日目 PM 6:43】

観月マナ
【状態:生還】

藤田浩之
【状態:生還】
柳川祐也
【状態:生還】

川名みさき
【状態:生還】

倉田佐祐理
【状態:生還】

坂神蝉丸
【状態:生還】
光岡悟
【状態:生還】


→1061 ルートD-5

808名無しさん:2009/05/21(木) 22:48:43 ID:1qEO/8a60
「【改正BR第十三回プログラム第一次生還者 第九次追跡調査報告書概略】」

 
 
発:厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態管理課特殊資料室 栗原透子
宛:厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態管理課 課長 榊しのぶ



※本件は極秘扱とする。
 閲覧後は所定の手続にて回収・処分のこと。



******




藤田浩之【――】

・生還後、高校・大学を卒業。
 同年、総務省入省。
 現在は同省固有種公民権問題対策準備室に所属。
 関係各省庁の連携・調整に忙殺されている。
 昨年、官舎より転居。



柳川裕也【固有種】

・生還直後、県警を退官。
 現在は都内にて民間の護衛・探偵業を営んでいる。
 昨年、数年来の自宅としていた事務所より転居。



観月マナ【行方不明】

・生還後、元の生活に復帰する。
 高校卒業後に突如として失踪し、現在に至るまで行方不明。
 最後の通院記録によれば記憶は戻っていなかったようだ。



倉田佐祐理【――】

・国民議会決議による財閥解体を期に倉田家本流から距離を置く。
 都市圏への外資流入による大規模な経済混乱期の政争・暗闘を回避し、
 地方金融を中核としたグループとして旧傘下の中堅企業を纏め上げた。
 現在も数社の取締役として多忙な日々を送りながら、固有種公民権問題に
 積極的なロビー活動を行っている。
 生還後、魔法の力は失われたようだ。



川名みさき【――】

・生還後、故郷に小さな私塾を開いた。
 近年、各界に優秀な門下生を多く輩出し徐々に存在感を増しつつあるが、
 その思想と影響力の台頭を危険視する声も一部に上がり始めている。



光岡悟【死亡】

・終戦協定後、軍部の大規模な再編に伴い首相付護衛武官に異動。
 大過なく任務を遂行していたが、五年前に突如として幼い先帝を拐かし武装蜂起する。
 現政権に國体護持の資格なしとの主張を掲げ首相暗殺を試みるも失敗。
 国外へ脱出し、軍の一部急進派を率いて転戦する。
 南方密林で包囲され、拠点に火をかけて先帝諸共自刎したと伝えられている。
 軍機密のため詳細は不明だが、拠点内から先帝の亡骸は発見されなかったとの
 まことしやかな噂もいまだに囁かれている。



坂神蝉丸【死亡】

・終戦協定後、軍部の大規模な再編に伴い教練所指導員に異動。
 優秀な教導官として信頼を得るも、光岡悟の武装蜂起に呼応し合流。
 その後は国外を転戦するも、南方で戦死した模様。
 大陸で子供連れの白髪の男を見たという複数の証言があるも関連は不明。



******



→1066 ルートD-5

809Nos appetimus responsum unic?s quod absolut?s.:2009/05/21(木) 22:49:44 ID:1qEO/8a60
 
 
 
ここから先のすべては蛇足である。


物語は既に完結している。
世界は救われ、人々は日常へと帰った。

この先に得られるものは何もない。
そこにあるのは取るに足らない答え合わせと、愚にもつかない辻褄合わせ。
描かれるのは一人の敗者と一つの祝福。

繰り返して警告する。
ここから先のすべては、蛇足である。




******

810Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:50:15 ID:1qEO/8a60
******







葉鍵ロワイアル3

ルートD-5/終章


 「生」







******

811Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:50:44 ID:1qEO/8a60
 
 
 
そこには花が咲いている。


「神さま、しんじゃったね」
「そうだね」


儚げに天を仰ぐ、白い、白い花。


「もう、くりかえせないね」
「別に構わないさ」


見渡す限りの一面に咲き誇る花の仰ぐ天に、光はない。


「いいの?」
「ここは僕たちが生まれるに価しなかった。結局それだけのことさ」


闇夜に日輪はなく、


「……そう」
「それとも、もう一度始めてみたかった?」


星の瞬きすらもない。


「……さあ」
「なら、いいじゃない」


そこにはただ、


「……そうかもしれないね」
「最後の世界が終わるまで、どのくらいかかるかな」


赤い、赤い、瞳のような、


「……」
「ま、いいか。どうせいつかは終わるんだから」


月だけが、浮かんでいる。

812Nos appetimus responsum unicas quod absolutas.:2009/05/21(木) 22:51:04 ID:1qEO/8a60
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:世界の終わりの花畑】

岡崎汐
【状態:――】

少年
【状態:――】


→1067 ルートD-5

813明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:21 ID:9hfe7kLg0
 いつの間にか、雨が降っていた。
 闇夜から落ちてくる透明な粒は髪を濡らし、顔を濡らし、体を濡らす。
 熱を持った傷痕が夜雨の冷たさと中和され、心地良い痛みを作り出している。

 天然のシャワーをその身に浴びながら、天沢郁未は完全に崩落した廃墟を眺めた。
 兵どもが夢の跡。様々な人の血を吸い、命を喰ったホテル跡は僅かに炎の残滓を残すのみで瓦礫の山を築き上げていた。
 燻る煙は、殺された参加者達の怨念か無念か。けれども空に溶けてゆく様を見ればそんな思いだろうが関係はなかった。
 死んだらそこまで。敗北者は敗北者としてでしか語り継がれない。死んだ人間の存在はその程度のものだ。
 だからこそ、そうはならないために自分は戦って戦って勝ち続ける。そうしなければならないのだ。

 命の重たさが身に沁みる。敗北者どもの魂が我が身に宿っている。意外にも好敵手は多かった。
 芳野祐介。古河秋生。那須宗一。十波由真。七瀬留美。誰もが己の勝利を確信していた猛者どもだ。
 このうちの半数は既に死に、いくらかは自分が屠った。

 勝ち残れたのは自分の執念が勝っていたからだ。生きたいという願望。負けられないという願望。
 願いは大きくなり、他者を取り込みながら増大していっている。
 自分は知っている。借りを返そうと命を支払い続けた女の姿も、愚直なまでに己の正義を信じ続けた女の姿も。
 それらの存在があるからこそ自分の立ち位置も知ることが出来、生きている実感を持つことが出来る。

 そう。生きることは、戦うことだ。生きている限りは誰かとぶつかり合う。その中でこそ己の存在を認識する。
 結局人間は孤独で、互いにしのぎを削りあう存在だ。仲間などというのは利害の一致でしかない。
 だから郁未は渚の存在が、主張が許せない。

 誰かと共に有り、無条件で信じ合えると言った女。絆が力になると言った女。
 そして、戦うことを拒否した女。

 何もかもが腹立たしい。何故戦わない。何故力を見つめようとしない。何故戦いが悪いと決め付ける。
 それだけではない。何ら対抗策も持たず、ただ漠然と誰かが何とかしてくれるという他人任せの姿勢。
 主義主張はあってもその理由も持とうとしない、現実を見つめようとしない姿勢。

814明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:41 ID:9hfe7kLg0
 一番許せないのがそこで、そんな彼女が守られていることが理解も出来ない。
 だから潰す。無策でしかいられず信念も持たない渚も、その周囲の人間も。
 命を持っていいのは自分がどうしたいか、を知り抜いている奴だけだ。
 結果として戦おうが、殺しあおうが、利用し合おうが関係はなかった。
 来栖川綾香でさえ郁未にとってはこの島にいられるだけの価値がある、と思えるものだった。

「……あー、もう、むかつく」

 吐き出しても吐き出してもイライラは収まらない。
 結局のところ自分は口であれこれ言い合うよりも勝って正しさを証明する(ただし手段は問わない)方が性に合っているのだろう。
 案外単純な気質なのかもしれない、と思う。女の子としてはどうかとも思うが。
 軽く笑って、デイパックから水を取り出して一気に喉に流し込む。

 散々熱いところで激しく運動をしていたために喉が渇ききって仕方がなかった。
 腹を下すのではないかと思うくらいに、さして美味しくもないはずの水を飲み続ける。
 瞬く間に水の量は減っていき、気がつけば既に半分を飲み干していた。
 口を放し、残った水を頭からかける。多量の水が顔と髪を際限なく濡らし、
 へばりついていた煤や血糊が綺麗になくなる感触があった。

 なんとなく豪勢な気分になれたので、残りの水も引っ張り出して身体中にかける。
 雨で湿っていた服はずぶ濡れの様相を呈し、布地はぴったりと体に張り付いて郁未のラインを露にする。
 寒いとは思わなかった。内側から際限なく溢れ出してくる血液の熱と混ざり合い、寧ろ適温のように思えた。
 豪快にかけすぎて下着まで水が染み込んでしまったがどうでもいい。かえって邪魔だとさえ感じられる。

 とはいえこの場で素っ裸になれるほど郁未も恥知らずではない。とにかく心地良さだけがあればよかった。
 ペットボトル全てを空にした郁未は瓦礫の上に腰掛け、装備の確認をする。
 改めて見てみれば、随分とたくさんの品を抱え込んでいた。

815明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:52:58 ID:9hfe7kLg0
 拳銃が四丁。サブマシンガンが一丁。鉈。その他諸々。
 ノートパソコンに至っては二台もあった。
 いらないから捨てるべきかと思ったが、どうせこの場から動けないので捨てる意味もない。
 考えた挙句、鉈と拳銃を二丁だけ持って残りはデイパックに放り込んだ。

 ただしデイパックもいくつかあったのでひとつは食料用(使うのか疑問だったが)、
 ひとつはいらないと思ったもの、もうひとつは武器用として分けることにする。
 武器用のデイパックは常に携帯しておく。鉈を使って器用に分解し、
 腰に巻くようにして縛りなおし、調整する。これで断然動きやすくなった。
 もっとも待つことになるのは当面変わらないので本当に動きやすいかどうかは分かったものではないが。

「さて、待とうかしらね」

 荒く息を吐き出して、郁未は戦うべき相手を待った。
 未だ燻っている炎をカーテンに。瓦礫の山を玉座に。王は、ただ戦いを望む。

     *     *     *

 道中は静か過ぎるほど静かだった。
 雨の音一切排除したかのように、山の中は無音に満ちている。
 四人の会話は殆どない。
 それは登る途中で、変わり果てた男と幼い少女の遺体を見つけたせいもあるのかもしれなかった。

 死体ならば四人とも見たのは一度や二度ではないはずだ。
 だが見ていて気分のいいものではないし、慣れるものでもない。
 それにあの死体が誰であるか、誰にでも予想ができたのもあった。
 残してきた伊吹風子の知り合いであり、仲間だったという人間の遺体。
 往人に至っては少女は知り合いだったという。

 彼らを見捨てて逃げなければならなかった風子の心情、
 そしてホテル跡を調査するために埋葬を諦めざる状況であることも重なり、
 どことないばつの悪さが敷衍し、それぞれが違う方向を見ながら歩く時間が続いていた。

816明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:21 ID:9hfe7kLg0
 会話がない以上、互いにやれることは作業しかなかった。
 那須宗一は国崎往人のコルトガバメントカスタムが汚れているのに気付き、簡単な整備を施してやることにしたのだった。

「まったく、武器の手入れくらいちゃんとしとけよ。弾切れだし、泥だらけだし。銃は乱暴に使うもんじゃない」
「……面目ない」

 ナイフの刃で細かい泥を取り除いたり、詰まっているところはないかとチェックしながら、
 宗一はぶつぶつと小言を往人にぶつける。
 自分よりも年齢と背が高いはずの往人がしょぼくれているのを目にするとなんとなく締まりが悪かったが、
 銃器の扱いを生業としている人間にとってみれば見逃すべきではないことだ。

 こうして整備を怠り、銃が暴発して二度と使い物にならなくなったエージェント達の姿を宗一は知っている。
 身だしなみをきちんと整えるのも銃器と付き合う人間の役目だ。そういう意味では相棒であり、女房だ。
 まったく、いつまで経ってもスパイ気質が抜けやしない。
 チェックしているうちにグリップの握り具合やトリガーの堅さを確かめ、使いやすさを吟味していることに内心苦笑する。

 人間長く仕事を続けていると慣れてきてしまうものだ。自らの生活を守るために始めたはずのエージェントも、
 今ではそれなりの余裕と楽しみを持って続けている。
 その一方で、裏の稼業で食べている者の常として人の強欲、利権を貪る醜さを見てきたこともある。

 『仕事』として人を殺したことも一度や二度ではない。エージェントは情報収集が任務だが、任地は安全な場所ばかりではない。
 マフィアやギャングが多く潜む暗黒街での仕事で争い沙汰になるのも日常茶飯事だった。
 人を殺した次の日は決まって悪夢に苛まれる。殺した人間が幽霊になって、とかそういうものではないが、
 殺しを強要される過去の自分を夢見るのだ。いやだと内心に絶叫しながらも人の体に穴を穿っていく自分。
 それも回数を重ねるうちにいつしか感覚が麻痺し、悪夢すら冷めた感覚で眺めるようになった。

 人殺しの業なのだと達観し、それに抗うのは無理だと断じて空白の瞳で見つめ続ける。
 そうして気付けば夢の中の己も冷めた目で他人を見下し、無言で銃を手にとって殺される人間へと感情のない顔のまま、撃つ。
 悲鳴を上げて絶叫するようになったのは殺される側の人間になっていた。
 何度も何度も繰り返し、死体の山がうず高く積み上げられていく。

817明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:39 ID:9hfe7kLg0
 異臭が蔓延り、人の手足がだらりと投げ出され、もはや何を語ることもない。
 二人の自分は何も感じず死体を増やしていく。
 けれども、ふと、目を凝らしてみれば……死体の山の中には、見知った友人達が、混ざっていて――
 そこで目を覚ますのだ。

 それでも自分は何も思わない。またか、と辟易する程度に留まる。そう感じている自分にもまた嫌気が差すのだ。
 自己嫌悪を紛らわせるために歓楽街に繰り出し、酒と快楽に身を寄せて悪夢が薄まるのを待つ。
 世界一のエージェントはそうしなければ生きられないような男だった。
 ここに来るまでは誤魔化しと言い訳に浸り続け、何を守りたかったのかも何をしたかったのかも思い出せなった男だ。

 今はどうなのだろう。
 不実を自覚し、忘れていたことを思い出した現在の自分は悪夢を見ることもないのだろうか。
 もちろん思い出したからといって過去の事実が清算されるわけではないし、そんなつもりもない。
 ただ曖昧に誤魔化し、記憶を薄めるのではなくしっかりと捉え、現在を構成する自分に反映させていきたい気持ちがあった。

 過去は悪いことばかりじゃない。
 地獄でもついてきてくれようとしていた夕菜の存在、
 自分のことを慮ってくれた皐月やゆかりの存在が残っている。
 思いを共有し、体を預けて歩いていられる渚という存在も生まれた。

 だから歩いていこうと思った。たとえ地獄でもついてきてくれるひとがいると知って……確かめたかったのだ。
 もう悪夢は見ないかどうかということを。
 故にエージェントは続ける。自分が自分のままでも間違ってはいないということらしいのだから。

「ほらよ。もう手荒にすんじゃないぞ」
「済まない」

 ぽんとコルトガバメントカスタムを手渡し、宗一は手持ち無沙汰にしていた往人に笑いかけた。

818明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:53:56 ID:9hfe7kLg0
「高くつくからな」
「……出世払いで頼む」

 難しい顔をして往人はそう返した。金と聞いて顔色を変えるあたり金銭難な生活だったのかもしれない。
 格差社会の弊害というやつだろうか。宗一から見ても中々格好いい男なだけに勿体無いと思う。
 新しい働き口を探していたようでもあったから、コネをいかして今度仕事を斡旋してやろうかと考える。
 意外にホスト稼業なんかいいんじゃないか、と思いかけて、やっぱりやめることにした。
 銃を真剣に見つめている往人の横顔を見れば、今考えるべきことはそれではないことが分かったからだ。

「まーしかしだがしかし、那須っちは銃に詳しいねえ。まるで軍人さんみたい」

 その一部始終をずっと眺めていたらしい朝霧麻亜子が感心したように尋ねる。
 元は往人達とは敵対に近い関係だったらしいが、まるでそんな素振りも感じさせない緩い声である。
 本人は深く語らないが、何人か殺害している可能性はある。
 ……そうでなければ、時折眼の奥に見える哀切に満ちた色があるわけがない。

 この女もまた、仮面を被っている。本当に辛いことや悲しいことを打ち明けられず、一人で自己解決してきた自分と同じだった。
 ただそこに踏み込む権利は自分にはないし、その役目は往人や川澄舞が担っているのだろう。
 麻亜子自身も望んでそうしているようだったから、これ以上は詮索するまいと宗一は思った。

 しかし渚といい、自分といい、麻亜子にしてもこの島には似たものが多いものだ。
 そういう人間だけ生き残ってしまったのかもしれないが――そんなはずはないか。
 自らの空想を消し、宗一は努めて軽い調子で答える。

「一応、軍事マニアなんでね。実際に撃ったこともあるぜ」
「ほうほう、本場のアメリカ〜ンで?」
「イエス。実は英語も喋れる」
「あー、流れ的に英語で質問されそうなのでまいまいにパス」

819明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:11 ID:9hfe7kLg0
 私? と急に話題を振られた舞が自分を指差す。目を合わせられ、どうしたものかと往人に視線を移す。
 不自然に目を逸らされた。この野郎、と聞こえない程度に口に出し、宗一は自分にも無茶振りをさせられたことに悩む。

「……」
「……」

 無言で見つめあう二人。こうなったら最後の手段だ。
 宗一のただならぬ雰囲気を察知したのか、舞はコクリと頷いた。
 やがて宗一は大きく息を吸い、無駄になめらかな発音で喋った。

「Do you speak Japanese?」
「Yes,I do」

 完璧な英会話だった。

「待たんかい! んなのあたしにだって出来るってーの!」
「無茶振りしてきたのはお前だろ」
「あたしとしてはだなー、英語が上手く出来ずに赤面するまいまいに萌えてセクハ……もとい、愛情表現を」

 とんでもない女だった。

「……馬鹿ばっかりだ」

 そして嘆息する往人。お前だって目を逸らしたじゃないかと言いかけて、そんなコントをしている場合ではないと思い直し、
 詰め寄ってきた麻亜子のほっぺたをぺちんと両手で挟み込む。

「ぶっ」
「いいかよく聞け」
「ひゃい」
「取り合えずそろそろ現場も近い。漫才はここまでだ」

820明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:29 ID:9hfe7kLg0
 コクコクと頷く麻亜子によしと言い、宗一は麻亜子を解放して先に進み始めた。
 本人もふざけたつもりでやったのではないのだろうが、締めるところは締めておかないと何があるか分かったものではない。
 麻亜子も流石に雰囲気を変え、鋭い視線を周囲に向け始めていた。

 まるで別人のようだった。
 最初からこうしてくれれば良かったのにと思いながらも、一連の会話の流れで緊張は程よく緩和されている。
 無駄な思考が削げ落ち、必要なことだけ考えていられる。会話がそういうものを排除してくれたのだろうか。
 少し前まであったはずの重苦しく会話さえ憚られたような空気は完全に払拭されている。

 任務のときも現地に入るまではエディと馬鹿話をしていたことを、ふと思い出す。
 そう言えばいつも締めはエディだったな、と宗一は気付き、今はその役目が自分に回ってきたことに苦笑する。
 無茶苦茶少年の名を返上するつもりではなかったのに。

 しかし不思議と悪くない気分だった。誰かの舵を取りつつ振る舞うのも新鮮なものだ。
 ただ突っ走るだけではない、支えながら走る感覚。
 エディがなんだかんだでついてきてくれたのはこれがあったからなのかもしれなかった。

 ようやく気付いたかと失笑する声が聞こえ、うるさいと言い返してやった。
 返上じゃなくて、改名ということにしよう。これからの俺は『無茶苦茶青年』だ。
 英語にするとナスティマン。格好悪いが、それが今の自分だ。格好悪く生きているが、これでいいと思えた。

「そろそろだな」

 一度ホテル跡を尋ねている往人がぼそりと呟いた。
 見た目にはまだ見えないように思えるが、微かに煙の匂いが漂ってきている。

「……あそこが燃えていたってのは本当らしいな」
「はっきり見えたからな。問題はそれがどの程度かってことなんだが」
「芳しくはなさそうだねぇ」

821明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:54:45 ID:9hfe7kLg0
 火事の度合いによっては調査どころではなくなる。
 風子が逃げてきた時点ではそもそも火事は起こっていなかったしい。
 が、それから何時間か経った今、争いの最中に燃え広がったと考えていいだろう。

 一番こちらが益がないのは完全に焼失していることだ。
 そんな場所に誰も留まっているはずはないからである。
 そうなると逃げた連中を探して動き回らなくてはならなくなる。
 時間の浪費であると共に、自分達のような集団を作りきれていない人間にとっては脅威となり得る。

 風子によるとあの時ホテルにいたのは自分を含めて八人。風子達を除いて少なくとも五人が戦っていたという。
 そこから風子を追ってきたのが一人。
 だとすると最悪の場合、四人が逃げた可能性すらあるのだ。
 無駄足は避けたいところだが……宗一のそんな希望はすぐに瓦解することになった。

「……こりゃ、ひどいね」

 麻亜子の呆れ返ったような、いっそ清々しさを感じさせるような声に、全員が全員同意せざるを得なかった。
 完全な崩落。もとホテルがあったと思われる場所は完全に瓦礫の山と化していた。
 炎の舌が雨に炙られてちらちらと揺らめき、僅かに出ている煙が空へと拡散していることを除いて、何も残ってはいない。
 死亡者の確認すら不可能な現場。分かることはといえば、凄惨な殺し合いが繰り広げられたらしいということだ。

「くそっ、ここまでとは思わなかった」

 自らの読みの甘さに落胆する。ただの徒労になってしまった。
 落ち込んでいられる場合でもないが、ここで得られるものもないではないか。
 渚に合わせる顔がない……

 呆然と立ち尽くす宗一だったが、他の三人は知ったことかとそれぞれに焼け跡を調べ始めていた。
 もしかすると遺留品のひとつ、もしくはメッセージでも残されているかもしれない、そう言うように。
 ……何をやってるんだ、俺は。

822明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:04 ID:9hfe7kLg0
 諦めようとしていたことにまたぞろ溜息をつく。
 想定外の事態に突き当たれば誤魔化して言い訳しようとする悪癖。
 仕方のないことと断じて疑わないこの放棄癖を持ち続ける己を殴り飛ばしたくなる。

 ほとほと自分の冷めた感覚に腹が立ってしょうがない。こんなことで渚を支えられるものか。
 平手で頬を叩き、宗一も往人達に混ざって調査を開始しようとしたとき、ぞわとした気配が頭上に立ち昇るのを感じた。
 それは直感に過ぎない。だが醍醐と対峙したときのような凍て付く視線、刃を突きつける凶悪な気配が、確かにあったのだ。

「離れろっ!」

 反射的に叫んだ言葉を全員が受け止めた。
 弾かれたように飛び退いた場所、そこをなぎ払う、漆黒の影があった。
 瓦礫の上から忽然と現れた影はさながら獣のように鉈を振るい、
 空間そのものを刈り取るかの如く麻亜子へと襲い掛かる。
 麻亜子は咄嗟に武器を構えようとしたが、間に合わない。

 なら、間に合わせるまでだ――!

 ベルトに挟む形で忍ばせておいたナイフの一本を素早く取り出し、手首に捻りを利かせてスローイングする。
 ダーツの矢を思わせる挙動で放たれたそれは弧も描かず真っ直ぐに飛び、二人の間に立ちはだかった。
 ナイフに気付いた『奴』は鉈を別の方向へと振り抜いて弾く。
 くるくると回転したナイフはそのまま瓦礫の山に埋もれ、そのまま炎の欠片に呑まれる形となった。

 麻亜子はその隙にぴょんぴょんと跳ねながらこちらまで撤退してくる。
 奇襲は防げたという一旦の安堵は、しかしすぐに四人と一人が対峙することで掻き消える。

 目の前に悠然と立ち尽くす『奴』の正体を、宗一は知っている。
 霧島佳乃を死に追いやり、人を道具と判じて使い捨てた、狂戦士の名を自分は知っている。

823明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:21 ID:9hfe7kLg0
 女は、いや、女のかたちをしたものは言った。

「やってくれる」
「光栄だな。そちらさんも相変わらず汚いようで」
「この人数差でそれを言うかしら」
「投降してもいいんだぜ」
「は、冗談」

 吐き捨てるように笑い、身の毛がよだつほどの凄絶な表情を浮かべるのは天沢郁未である。
 彼女の体全体は赤く染まりきっており、それは幾多の戦いを潜り抜けてきたことを意味すると同時に、
 その身に浴びる犠牲者の血もおびただしいことを意味していた。
 顔には引っかかれたような三対の爪痕があり、生来の郁未の研ぎ澄まされた感覚を表しているかのようである。
 実際、郁未はこれまで以上の殺意と闘志、そして執念を持ち合わせているかのように思えた。

 自分達と同じ生きたいという願望。
 だがその方向性は大いに異なるものだった。
 郁未は他者を受け入れず、恐怖で周り全てを駆逐する力の倫理に身を置き、
 自分達は手を取り合って分かり合う一蓮托生の道に身を置いた。

 元は同じ場所に立っていたのであろう彼女は、この島の地獄を経験するにあたりこうする以外にないと判断してしまった。
 話し合う余地もないのは先刻知っての通りだ。
 しかし、それでも宗一は先に手を出すまいと決めていた。
 戦術云々の問題ではない。渚なら、まずきっと郁未の論理を打ち崩しにかかるだろうと思ったからだった。

 皆も迂闊に手を出さない方がいいと思っているのか、自ら動こうとはしなかった。
 宗一が一歩進み出ても動かない。もしかすると、自然と自分の考えていることに共感してくれているのかもしれなかった。
 こんな感覚を抱擁出来るからこそ、人は支えあえる。そのことを実感しながら宗一は郁未と改めて対峙する。

824明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:38 ID:9hfe7kLg0
「随分人を殺したようだな、天沢郁未さんよ」
「あら、まるで私だけが人を殺してきたかのような言い方ね。あんたらだって殺してないはずはないでしょうに」

 冷笑を含んだ目が向けられる。徒党を組むことを極度に嫌い、自分だけを信じ、弱肉強食を信奉する女の姿だった。
 ある意味で彼女は正しいのだろう。この論理に従ってきたからこそ彼女は生きているとも言える。

 だが、その生き方に終わりはない。希望も未来も得ることはなく、
 現在ある戦いのみに身を投じることしか生きている意味も価値も見出せない。
 それでいいのか。それではあまりにも寂しくはないのか。
 そんな生き方を……誰が覚えてくれているというのか。

 もしかすると寂しいと感じるものさえ郁未にはないのかもしれない。
 或いは人を蹴り落とす、その行為にしか縋れなくなったのかもしれない。
 力で支配すると言いながら、自分も何者かに支配されている。それには……気付いているのだろうか。

「確かにな。俺達だって人を殺してきた。結果的に見捨てさえした奴だっている。
 だが、お前のように殺しを楽しんできたわけじゃないし、諦めた末の行動でもない」
「また戯言か。今度はどんな理想論を叩き付けてくるつもりかしら。……ああ、いいわ、言わなくて。反吐が出るから」
「そうやって何も信じられなくなるから、自分だって簡単に諦めるようになる」

 言葉を発したのは往人だった。油断なくコルトガバメントカスタムを構えたまま、
 ぴくりと眉を吊り上げた郁未を見据えて往人は「そういう奴なんだ、お前は」と続けた。

「実際に行動して絶望するのが怖いから理想論だと見下げ果てる。だから安易な方向に逃げる」
「分かったような口を叩く」
「そうなりかけたからな。俺も」

 決定的に違いを告げる声が放たれた。
 殺意が往人に対して向けられていくのが分かる。だが郁未は自ら手出しはしないようだった。
 あからさまにイラついた態度を見せながらも話は聞く。それは否定すべき敵を選定しているかのように思えた。
 まず自分も含め、往人もその対象に選ばれたらしい。既に彼女の思考は、今すぐ殺すか否かの二択しかない。
 それは、やはり、宗一には力という糸に搦め取られた人間の姿のようにしか見えなかった。

825明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:55:58 ID:9hfe7kLg0
「理想論はどこまで行こうが理想論よ。私はちゃんと現実を見ている。
 あんた達のような集まりさえすればどうにかなると盲目に信じ込んでいるのとは違う。
 戦うのはいけないことで、悪いことなんだと決め付けているあんた達とは違うのよ、偽善者どもが」
「なら、あんたの言う現実って何だよ」

 口を挟んだのは麻亜子だった。
 今までの彼女にはない、確かな怒りが感じ取れる。
 盲目的に決め付けているのはそちらではないかと糾弾する視線が、射るように向けられていた。

「現実も理想すら見ていないのはあんたの方だ。何故かって? 簡単だよ。
 あんたは目の前のルールしか見てない。殺しあえと言われたから殺した。考えることさえなく、思考放棄してね。
 あー、ホント、こりゃムカつくなぁ。は、あたしってそんなことしてきたんだと思うと、自分でも腹立つよ」
「……殺し合いに乗ってたわけ?」
「さっきまでね。でも考えて考えたら、何も生み出さないし自分勝手を押し付けてるってことが分かってさ。
 馬鹿らしくて、今はやめちゃったよ。あんたみたいな餓鬼とは違うからね」
「偽善者の仲間入りってワケか。命乞いをして許してくれたからぬるま湯に浸かってそのまんま、ってところか。
 そんなのは敗者の言い訳よ。勝てないから趣旨換えをした奴が、偉そうに」
「趣旨換えをしたことは認めるよ。でもさ……やせ我慢もしちゃいないけどね」

 皮肉った笑みが郁未へと向けられる。同族嫌悪とでも言うべき、もしくは自己嫌悪とでも言うべき笑みだった。
 嘲笑されたと取ったらしい郁未も暗い情念を含んだ笑みを投げ返した。暗黙のうちにお互いが殺すと告げあっている。

「やっぱあんたをいの一番に殺すわ。殺してあげる、チビ助」
「まーりゃんってんだよ、覚えとけ甘ちゃん」
「……まーりゃん?」

 麻亜子の言葉を聞いた郁未はつかの間目をしばたかせ、やがて大声で笑い出した。
 先ほどまでの笑いではなく、ただこの状況を笑うものだった。
 自分にではなく、麻亜子にでもなく、ここにはいない誰かに向けて、しかし勝ち誇ったように。
 ひとしきり笑った郁未は打って変わって興味を示したように「そうか、あんたがあのまーりゃんか」と底暗い瞳を差し向けた。

826明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:14 ID:9hfe7kLg0
「綾香も人を見る目がなかったようね。だから死んだのでしょうけど……まあ、どうでもいいわ。
 あいつをキレさせた餓鬼だっていうじゃない。ますます、一番に殺したくなったわ」
「……なんだ、あやりゃんを知ってたのか。なら尚更だよ。殺される気なんて毛頭ない。
 あんたみたいな『あたし』に殺されてたまるもんか。もう限界なんだけど、那須っち」

 指示を待ちわびる声が聞こえた。麻亜子だけではない。往人も舞も、倒すべき敵を見据えて宗一の言葉を待ち構えている。
 誰もが自分の思いを露にしていた。正しいだなんて一言も言えない、どこか我侭にさえ思える人間の醜い争いに思える。
 だが自分も含めそうなのだとしても、それを貫き通して何が悪いという開き直りのようなものがあった。

 どうあっても分かり合えないなら、押し通るまでと誰もが決意している。
 後々それで責められようとも構わない。それだけの思いが自分達にはある。
 人に恥じず、己に恥じない、自分だけの思いを持っている。宗一は全員の情念を体の芯に焼き付けながら、言った。

「行くぞ。天沢郁未を叩き潰す!」

     *     *     *

 一対四。なかなか上等な戦いだと郁未は感想を抱き、真っ先に向かってきた舞に対して鉈を振るう。
 既に抜いていた舞の日本刀と無骨で重厚な鉈の刃とがぶつかり合う。
 雨に火花が咲き、危うい均衡を以って刃が競る。

 舞は無言、しかし峻烈な怒りと鋭い瞳の両方とが彼女の意思を雄弁に物語っていた。
 郁未はただ笑う。戦う者はかくあるべし。主張は命を刈り取る一撃の中で語られる。
 その姿は正しい。だが、郁未の気に入る答えではなかった。否、そもそもこの場にいる全員の存在自体、彼女は気に入らない。

 だからその主張を叩き潰す。それはこの島において培われた天沢郁未の論理であり、
 弱者はひたすらに嬲られ続けてきたFARGOの現実を知る人間の価値観だった。

827明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:30 ID:9hfe7kLg0
 心の奥底において郁未がFARGOの実態に恐怖していたことは本人でさえ自覚はしていない。
 生き延びるために最善最良を尽くさねばたちどころに自我も自尊も崩壊させられ、肉人形となるか、さもなくば肉塊となる運命だ。
 郁未は犯され続けてきた友人の姿を克明に思い出すことが出来る。
 力を制御しきれずボロ布のように血を噴出させ死んだ出来損ないの末路を知っている。
 だが一方で仲間の存在もあり、共同生活を送ることによっていくらかの恐怖は和らぎ、抑制することが出来た。

 故に郁未はまだまともを演じられた。奥底で築き上げられつつある、
 力と恐怖で支配するFARGOの有り様、引いてはその論理を受け入れていることに気付なかった。
 だが郁未がこの島に放り出されたことで価値観は一変する。

 暴力が猛威を振るい、殺さなければ殺され、裏切らなければ裏切られる。
 友人達もその例外ではなく葉子は自分を庇って死に、他の友人達も早々にこの場から退場していった。
 FARGOのクラス分けからすれば当然の順序であった。……葉子を除いては。

 あのとき油断さえしなければ。自分がもっとしっかりしていれば。さっさと殺していれば。
 そう、殺さなかったばかりに葉子は殺されたのだ。
 口には出さなくとも、郁未はずっとこの一事を悔いていた。いや口に出すことなど出来ようはずもなかった。
 既に友人達は死に、語るべき仲間がいなくなった瞬間、郁未は孤独に責任を抱え込まざるを得なかったのだ。

 だから生き残らなければならない。責任を果たさなければならない。
 その思いはやがて毒となり、郁未を蝕み、最後には心の隅にしかなかったはずのFARGOの論理が彼女を汚染していた。
 何故生きなければならないのか、その理由さえも忘れ、郁未は彼女の教義に反するものを須らく敵対視するようになった。
 殺さなければ殺される。覚悟を決めなければ決めた連中に出し抜かれる。

 だから守らなくてはならない。
 その対象は仲間だったものから、今や孤独でしかない自分へと向けるしかなかったのだ。
 故に天沢郁未は力を振るい続ける。
 もはやたったひとつしか守るものがなくなってしまったこと――即ち、己の命を守るために。

828明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:56:44 ID:9hfe7kLg0
 鉈が弾かれる。舞が一歩引いた瞬間、そこに銃弾の雨が差し込まれた。
 正確には波状攻撃だった。麻亜子のボウガンが側面から迫り、身を捻ったと同時に往人と宗一の拳銃弾が郁未を貫く。
 新たな痛みが生まれる。仰け反る暇もなく郁未はサブマシンガンを取り出し乱射するが、
 広く移動しながら攻撃している宗一達にそれが当たるはずはない。

 さらに弾を吐き出し終えたのと同時に待っていたかのような反撃が返ってきた。
 往人のガバメントカスタムの連射に加え宗一が持ち替えたSPAS12による散弾が群れを成して襲い掛かる。
 半身をくまなく直撃した銃弾の嵐は手の保持能力を完璧に損なわせ、サブマシンガンを宙に放り出す結果となった。
 腕もズタズタに引き裂かれ、それまで受けたダメージと合わせて死亡してもおかしくない痛みの総量だった。

 くるくると回転した郁未の体が地面に落ち、泥にまみれる。
 圧倒的に不利どころか最初から詰んでいた。
 全員が武器を所持しているうえそれぞれが修羅場を潜り抜けここまで生き残ってきた人間達である。
 単純な力量差から見ても一人一人が郁未と同等の力を持っている。
 一対一ならともかくまとめてかかられると勝ち目がないのは自明の理であった。

「もう終わりだ。残酷だが、お前はここまでだ」

 宗一の言葉は既に戦いが終わったかのような口ぶりだった。
 ここまでなのか? 地に伏し、ただ勝利者の言葉を受け止めている自分の冷めた部分がそう語りかけている。
 群れてでしか行動出来ない連中に、偽善の言葉を振りかざす連中に、自分はただ負けるのか。
 それが当然なのだという思考が頭の中を巡り、殺されるまでもなく郁未の意識を閉じていく。

 冗談じゃない。不意に思ったその一言が起き上がり、熱を持って膨張し郁未の身体を満たした。
 ここで死ぬわけにはいかない、死にたくない。
 なぜ、どうしてという理由は浮かばなかったが、とにかくこのまま死ぬのは真っ平御免だという思いが冷めた自分を吹き散らす。

 叩き潰す。とにかく叩き潰す。もっと強い意志を。もっと力を求める覚悟を。
 それがなかったから、今までの自分は真の勝利をもぎ取ることが出来なかった。
 こんなところで諦めてたまるか。こんな連中に負けてたまるか。

829明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:01 ID:9hfe7kLg0
 悪魔にだって魂を売ってやる。勝たなければ、とにかく勝たなければ。
 何もかもを屈服させる、支配の力を。
 血が流動する。身体を動かすように、血が動き始める。
 ――それはまさに、『不可視の』力に動かされているかの如く。
 証明してやる。殺さなければ殺される。やらなければやられる。思い知らせてやるのだ。

 どこか遠く。

 月が、見えた。

     *     *     *

 のそり、と郁未が起き上がる。宗一にはそれが、決して征服されざる怪物の姿のように見えた。
 どうして、という思いが沸きあがったが血まみれでなお立ち上がる郁未の姿がそのように思わせるのだと思い直す。
 何が彼女をここまで衝き動かすかまでは分からない。何が彼女を勝利へと駆り立てているのか知りようもない。
 だがそれもお終いだ。冷酷だが、ここで頭部に銃弾を撃ち込んで決着をつける。

 そう考え、SPASの銃口を向けた瞬間、ぎょろりと浮き上がった郁未の瞳が目に飛び込んできた。
 刹那、危険だという警鐘が己の中で鳴らされる。ただ直感的に感じたものに過ぎない。
 しかし不思議な確信があった。早く撃たねば、取り返しのつかないことになる――
 半ば性急にトリガーを引いたが、散弾のどれもが郁未に命中することはなかった。

「な……!」

 忽然と郁未の姿が消える、いやそうではない。目にも留まらぬ速さで彼女は跳躍したのだ。
 人間では到底有り得ないような高さを、彼女は舞っていた。
 ヤバい。先程よりも更に大きな警鐘……いや、警告が咄嗟に宗一の体を動かし、回避行動を取らせていた。
 一秒と経たぬ間に郁未がそれまで自分のいた場所に鉈を振り下ろす。もう少し判断が遅れていれば首を取られていた。
 ゾッとした冷や汗が流れ落ち、すぐさまSPASを撃とうと構えたが、郁未の姿は既に目の前にあった。

830明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:15 ID:9hfe7kLg0
「嘘だろ!?」

 思い切り上体を逸らして振り下ろされる鉈を回避したものの銃は同じようにはいかない。
 凄まじい力で叩き落され、とても死に掛けの女とは思えない力を宗一に知覚させる。
 絶対的な恐怖。それは動物が本能的に感じる、強者に対する畏怖だった。

 目の前にいる女のかたちをしたもの。それは人間ではない。化け物なのだ。
 余裕は既になくなり、生命の危機を打破すべく頭を必死に回転させ、体は反射的にファイブセブンを取り出している。
 しかしそれでも遅かった。早くも突進している郁未の矛先は、確実に自分を貫く。

「那須っ!」

 ここにきてようやく往人達の声が聞こえた。遅いのではない。郁未が圧倒的に早かったのだ。
 援護の銃声が鳴り響いたが、郁未は振り向きもせず鉈をサッと払っただけだった。
 ただそれだけ。それだけのはずなのに、郁未の体に向かっていた銃弾は全て叩き落された。

 マジックショーかなにかなのか、これは? 避けるならまだしも、叩き落すなんて有り得ない。
 動体視力が優れていようが銃弾の速さは秒速数百メートルはあるのに?
 以前戦ったときとは似ても似つかぬ郁未の変貌振りに宗一は困惑する。
 スイッチが入ったとしか思えない。或いは生命危機に即応した、生物的な進化。
 白い歯をちらつかせ、全身を朱にして嗤う郁未は人間という領域を侵し、神の領分にまで達した生物だった。

 だが、と宗一は思う。ひとのかたちをしているのなら、まだ殺せる。
 確かに力は人間の比ではない。速さはいかなる生物をも陵駕する。しかし決して……不死身ではないのだ。
 寧ろそうとでも思わなければやってられない。ホンモノの化け物と対決なんて勘弁願いたい。

 全く、愉快だぜ? エディ?

831明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:57:34 ID:9hfe7kLg0
 どこか非常識な、それでいて命の危険を感じているこの状況こそが宗一の意識を明白にさせた。
 必ず生きて帰るという、強い目的を抱いてファイブセブンの引き金を絞る。
 残弾も少ないそれを惜しげもなく連射する。それは仲間にも向けた激励でもあった。
 目の前の敵にビビるな。銃声が響くたびにより意識が鮮明となり、闘志を舞い戻らせる。
 だが思いとは裏腹に郁未は凄まじい速度で回避し、掠りすらさせてくれない。

「だったら……!」

 飛び出したのは舞だった。怯懦も恐れもなく真っ直ぐに日本刀を持って立ち向かっていく。
 触発されるように麻亜子もナイフを持って突進する。
 動きを封じようという算段は宗一と往人に、そして郁未にも伝わったようだった。
 同時に挟撃がよろしく踏み込む二人に、しかし郁未は悠然と立ち尽くしたままだった。

 まず舞の刀を受け止め、軽く弾くと反対の拳でかち上げる。
 宙に浮いた舞の体が回し蹴りで吹き飛ばされたと同時、既に麻亜子にも攻撃している。
 足払いでバランスを崩し、腕を取るとジャイアントスイングのように振り回し瓦礫へと向けて放り投げた。
 舞も麻亜子もしたたか体を打ち、こちらに銃を撃たせる暇もなくあしらわれた。

 だがリロードの隙までなかったわけじゃない。ガバメントカスタムに再装填した往人に合わせて宗一もファイブセブンを連射。
 今度は郁未にも余裕は感じられなかった。直後に攻撃を仕掛けられたのだ、当然だ。
 そういう意味ではまだ人の要素を残してはいることに感謝しつつありったけ撃ちまくる。

 体を大きく動かし回避する郁未。やはり避けるだけで精一杯らしく、しかも銃弾の一部が掠ることもあった。
 急所狙いの弾は叩き落されることもあったが、いける。波状攻撃を続ければ勝てなくはない。
 確信を得かけた宗一だったが、唐突にファイブセブンが銃弾を吐き出さなくなる。言うまでもない。弾切れだ。

「やば……!」

 残弾を確認しながら撃つのを忘れていた。基本的なミスを恥じ、そして致命的だと頭が告げる。
 すぐさま取って返した郁未がこちらへと迫る。今武器は投げナイフしかない。しかもそれでは鉈を防ぎきれない。
 郁未の攻撃は避けきれない。毒づいてそれでもと精一杯の回避行動を取る。

832明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:07 ID:9hfe7kLg0
「なめんじゃねーっ!」

 結果的に諦めなかったことが宗一を救った。瓦礫の山から麻亜子が銃を撃っていたのだ。
 形状と銃声から察するにデザート・イーグルだろう。とんだ隠し玉だった。
 突進していた郁未はその場で高く飛び上がり、銃弾を難なく回避する。本当に出鱈目だ。
 しかし宙に浮いた数秒が宗一の命を繋いだ。

「那須! 受け取れ!」

 大振りに往人が投げ渡してきたのはあろうことか、イロモノ拳銃であるフェイファー・ツェリスカだった。
 こんなもん人間に支給すんなと内心で呆れつつ、しっかりと両手で保持。砲丸のような重さが圧し掛かり、宗一の体が崩れる。
 だがこれは考えての行動だった。仰向けに倒れつつフェイファーを構え、浮いている郁未へと射撃する。
 反動も地面に逃がせるためこの化け物拳銃を使うにはうってつけの方法だった。

 化け物対化け物。果たして勝つのはどっちでしょう?
 背中が地面にぶつかると同じくして宗一の指がフェイファーのトリガーを引いた。
 60口径、重量6キログラムの巨体から放たれる600NE弾が凄まじいマズルフラッシュと共に郁未へ向かう。
 いかに頑強な盾でも瞬時にして破壊してしまうだけのエネルギーを持ちうるこれなら或いは、と考えた宗一だったが、
 目の前の敵はそうそう常識で測れるようなものでもなかった。

 信じられないことに飛来する600NE弾を空中で薪をかち割るが如く斬り伏せた。そう、真っ二つにしたのである。
 流石の宗一も呆れるどころかぽかんと口を開けたくなった。
 人間なら一瞬にして粉々の肉片に変えてしまうはずの弾丸が真正面から防がれたのだ。笑うしかない。
 おまけに鉈まで無事ときた。特殊な材質でもあるまいに。

 ただ郁未の顔には僅かに疲労の色が見えた。そういえば弾いたときも仄かに郁未が赤く光ったように思えたのを思い出す。
 あの力は無限ではないということか? 新たな疑惑が生まれ、
 しかしすぐに頭の隅へと追いやり、全身をバネにして宗一はその場から撤退する。

833明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:24 ID:9hfe7kLg0
 郁未が地面に降り立ったのはコンマ数秒後のことである。二発目を撃とうとしていたら殺されていた。
 二度目の奇跡はないと断じて宗一は走りつつ落としたSPASを拾い上げた。
 追い縋ろうとする郁未にここで体勢を立て直した舞が刀を携えて戻る。気付いた郁未は「ちっ」と舌打ちする。

 先程の一戦で切り結ぶのは不利と考えたのか舞は縦横無尽に刀を振るい、鉈のギリギリ外から切っ先を当てるように攻撃する。
 力で叶わぬならば技で対抗する。強者と戦うセオリーを実践していた。

「くっ、ちょこざいなことしてくれるわね!」
「貴女には……負けない!」

 無論宗一達としても手をこまねいて見ているわけではない。
 宗一はSPASにありったけショットシェル弾を入れ、往人はガバメントカスタムをリロードする。
 後は舞を誤射しないようにタイミングを見計らって掃射する。波状攻撃が有効なのは証明済みだ。
 暗黙のうちに全員が了解していて、それぞれが仕事をこなすために動いていた。

 言葉もサインもない。それでも歯車が噛みあっているという実感がある。
 裏を返せばそこまでしても郁未とは互角という程度でしかない。
 ひとつ突き崩されればあっという間に全滅する。この瞬間も自分達は細い綱渡りをしているのだ。

「確かに四方八方から撃たれちゃこっちもキツいけどね……そうなる前に片付ければいいだけのことでしょ!」

 郁未は何を考えたか、天高く鉈を放り投げる。
 突然の奇行に舞の刀が僅かに迷いを見せる。郁未にはそれだけの時間があればよかった。
 彼女は人間ではない。

 下がれ、と絶叫する声が喉元まで込み上げる前に郁未は舞の喉輪を掴み、
 地面に叩き付けた後サッカーボールのように蹴り飛ばした。
 この間、未だ宗一達は銃を構えきるまでに至らない。郁未が裂けるような笑みを見せた。
 彼女の手には既にM1076とトカレフTT30の二丁が収まっていたのだ。

834明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:58:39 ID:9hfe7kLg0
「遅い」

 一斉に連射。郁未の銃は不慣れだったからか急所を射撃するには至らなかったが肉を掠り抜き、削ぎ、
 宗一と往人の二人を地面へと落とした。宗一でさえ全くついてゆけぬほどの神速。
 たかが一秒以下の隙をついて郁未は自分達を突き崩したのだ。

「つくづく人間じゃないぜ……」

 銃を仕舞った直後、落ちてきた鉈が郁未の手に収まる。それはこの間が僅かに数秒であることを指していた。
 郁未も息を荒くしていたが、それでもなお彼女には余力があるように思える。
 一体どんなマジックを使えばこのような芸当が出来るのか。まるでこれでは出鱈目人間の万国ビックリショーだ。
 強すぎる。弱気でも諦めでもなく、素直にそう思った。
 この圧倒的な実力差をひっくり返すことは出来ない。醍醐と戦ったときでさえそんなのは感じなかったのに。

 参ったな……こりゃ、死ぬかもしれない。

 郁未は視線を動かし、地面に倒れ伏す三人の姿を眺めていた。
 どいつから仕留めようかと考えているのか、まだ油断は出来ないと出方を窺っているのか。
 この状態からの騙し討ちは不可能か。だが真正面から郁未を倒すのは今の状態では至難の業だ。
 せめて誰かひとり、もうひとり戦列に加われば。

 救援を待ち望む自分が情けないと思う一方、そうでもしなければ郁未は倒せないという実感があった。
 ないものねだりだということは分かっている。けれども他に思いつく策もなかった。

 ……悪あがき、するっきゃねえよな?

 だから抵抗するまでだ。無茶苦茶青年は諦めない。泥にまみれてでもしがみつく。そうだろ?
 心の中に浮かんだ全員に語りかけ、宗一は立ち上がる。

835明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:01 ID:9hfe7kLg0
「馬鹿正直に立ち上がるか……本当に不意討ちはなさそうね」
「ちっ、ホントに気に食わないぜ、天沢郁未」

 渚の両親を殺し、佳乃を殺し、それ以外にも多くの人間を殺してきた女を目の前にして何も出来ない。
 仇を討ちたいと思う気持ちはますます高まっているのに、それ以上にそびえ立つ壁の高さが思いを阻む。
 恐怖を感じているのだ。このままでは殺されるという絶対的な予感が宗一の体を震え上がらせている。

 虚勢や気合ではどうにもならない、自らの前に立ちはだかる力。
 恐怖を恐怖で縛り付け、人を人でいられなくしてしまう力の倫理が自分を見下している。
 だからせめてそれだけには負けるまいと宗一は強く意思する。

 怖いからといって食い合い、憎しみあい、呪い合う存在にはならない。
 どんなに苦しくとも誰かを見捨て、犠牲にして、諦めて、奪ってまで生きることはしない。
 もっと他のなにか。遅々としてでもいい、苦境を超えられる方法を探して歩き続ける。
 そういう生き方もあるのだと知ったから。

「世界一のエージェントを舐めるな! まだ勝負はついちゃいない!」

 SPASを構える。郁未は例の如く捉えきれない速度でステップしながら接近してくる。
 宗一は動かない。下手に動いたところで自分の動きを制限するだけだ。
 一歩だけでいい。郁未と同等の動きが出来ればそれでいい。

 足音が聞こえる。自分の経験と勘を信じろ。こちとら何度も実戦を潜り抜けてきてるんだ。
 郁未との距離が数歩分になった瞬間、宗一はバネを全開にして体を動かした。
 いくら郁未でも空中で急に体勢は変えられない。どんなに僅かな時間だとしてもだ。
 そう、走っているときにも体が浮く瞬間がある。その間隙を突き、至近距離から散弾を撃ち込めば……!

 それが宗一の作戦で、タイミングも完璧に合わせたはずだった。なのに。
 なのに、どうして天沢郁未は自分の目の前にいる?

 まるで最初からここに来るのを知っていたかのように、郁未は『側面に移動したはずの』宗一の真正面にいた。
 鉈が、振られた。

836明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:20 ID:9hfe7kLg0
「ぐああぁっ!」

 脇腹を切り裂かれ転倒する。痛みは激しいが、致命傷ではなかった。
 そのことに安堵するが、同時に何故だという思いが浮かぶ。
 見上げた先では先程より苦味を増した、しかし勝利の喜悦に満ちた郁未の顔がある。

「残像、って知ってるかしら」
「……冗談が過ぎるぞ」
「でも私の力でそれも可能になる。不可視の力でね。正確には『ドッペル』だけど」

 不可視の力。それが郁未を人間から怪物へと変えたものの正体。
 いつどのようにして郁未が力を顕現させたのか。……恐らくはトドメを刺し損ねたときだ。
 彼女の執念がスイッチとなり、力を覚醒させた。
 身体能力の強化はその一例に過ぎず、残像を生み出すことすら可能にするということか。

「まあ、『ドッペル』がいる間は私も疲れるんだけど……でも十分。こうしてあんたを見下ろせてるんだから。
 さっさと失せなさい、負け犬の偽善者が――」

 郁未が正真正銘のトドメを刺そうと鉈を振り上げる。
 だが振り下ろされようとした、まさにその瞬間。銃声が郁未を遮った。

「!?」

 全くの別方向からの射撃は往人でも舞でも、ましてや宗一でもない。
 慌てて飛び退き、妨害した人物の方角をキッと見据える郁未。
 だがそれはすぐさま驚愕に変わり、やがて狂おしいほどの喜色に満ちたものになっていく。

「あんたか……いつもいつも私を邪魔してくれる。ねぇ、本当に、本当に――反吐が出るわ、古河渚!」
「……決着を、つけましょう」

837明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:37 ID:9hfe7kLg0
 絶叫を張り上げる郁未に対して静かに語ったのは、古河渚だった。

     *     *     *

 現れた渚に対して郁未が感じたのは奇妙なことに『嬉しい』というものだった。
 己の対極にある人間。己が最も嫌悪する人間。断じて許すべきではない人間。
 なのにこうして目の前に立っているのを見るだけでゾクゾクとした喜びを感じるのだ。

 それは狂おしい程の恋。待って待って待ち続けた瞬間がここにある。
 最高の力を手に入れた自分が、最高に憎らしい主張を掲げる渚を殺す。これ以上の喜悦はない。
 しかも渚は未だ人を殺さないという馬鹿げた主義があるらしく銃口をこちらに向けてすらいなかった。
 まるで変わらない。最初と変わらず人殺しはいけないなどと口外にのたまっている。

 だがそれでこそ渚。自分が殺すと決意した女の姿がここにある。
 それがまた嬉しくて嬉しくてたまらず、郁未は体の芯から湧き上がる笑いを吐き出した。

「決着をつける、ですって?」
「そうです。……もう、終わりにしましょう」

 一切の感情を排したかのようでありながら、確かな怒りを携えた声が向けられる。
 以前とはまた少し雰囲気が異なった気がするが、所詮形だけのものなのには変わりない。
 そんなものは何も意味を為さない。怒りを覚えたのなら他者にぶつけるべきなのだ。

 それも出来なければただの臆病者にしか過ぎないし、生きている資格もない。
 なのにのうのうと現れては誰かに守られ、この女は生きている。
 実に許しがたいことだった。誰かにしっかりと守られている渚の実態が。臆面もなく自分を否定する姿が。
 だから殺す。殺して、分からせてやる。最終的に勝つのはどちらかということを。

838明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 03:59:52 ID:9hfe7kLg0
 自分の方が正しいのだということを。戦わない人間に生きる価値もないのだということを。
 完全なる不可視の力を手に入れたこの我が身で。

「――ひとつ、聞かせてください」
「あ?」

 鉈を握り締めた郁未に渚が問いかける。今度はどんな綺麗事をほざくのかと顔をしかめた郁未だったが、
 それも今の自分の前では何の意味も為さない。聞くだけ聞くことにした。
 無論つまらない質問であることは分かりきっていた。
 だから答える価値もなければ無言で斬ってやろうと思いながら「言ってみなさいよ」と返答する。

「分かり合ったひとは、いますか」
「なに?」
「本当に今まで、誰とも分かり合わずに生きてきたんですか」
「……いないわ。最初から最後まで私は一人よ。仲間なんていなかった」

 何故か口が詰まった。渚の雰囲気に呑まれてなどという下らない理由ではない。
 仲間。友達。そんな陳腐な言葉ではなく、分かり合った人、と渚は言った。
 本当にいなかったのかと自問する声が一瞬聞こえたような気がしたのだ。

 だがそんなものいるはずはない。葉子と組んでいたときでさえ最終的に殺しあう運命だったのだし、
 戦力の増強ということで利害が一致していたに過ぎない。そう言い出したのも葉子だったはずだ。
 ――ならば、自分はなんと言ったのだったか?

 思い出そうとしたが、記憶は不透明でぼんやりとしか思い出せなかった。
 関係ないと郁未は断じる。葉子は既に死んだ。死ねば何の意味もない。生きていなければ意味はない。
 だから自分は生きて帰る。そう決断したはずだ。

「だってこれは殺し合いだもの。一人しか、生きて帰れないから」
「……そうですか。だったら――」

839明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:08 ID:9hfe7kLg0
 渚が目を閉じる。どうしてか郁未は別の世界に引き込まれたような気分になる。
 まるで、不可視の力のような。
 冗談じゃないと郁未は気を持ち直す。こんな半端者が自分と同じ力を持っているなどと。
 憎しみが再度沸き上がり、己の中の不可視の力が増していくのを感じる。
 一瞬でかたをつける。腰を落としたと同時、渚が目を開けた。

「――わたし達が、勝ちます」
「ほざけッ!」

 砲弾のように飛び出す。一思いに突き殺す。それで渚は死に、溜飲が下がる。
 その思いに囚われていた郁未が上から影が差したことに気付くまで、多大な時間を要した。

「はあぁぁぁあぁぁぁっ!」
「っ! この女まだ……!」

 蹴り飛ばして戦闘不能にしたはずの女。確かに手ごたえのあったはずの女は泥と血にまみれながら、
 真っ直ぐな双眸を崩さず空高く舞い上がり、こちらへと切り下ろしてきている。
 地を蹴り直角に避ける。まずは鬱陶しいこいつから倒す。
 地面を滑りながら郁未は考え、完全に止まり舞へと反転しようと足に力を入れたと同時、
 瓦礫の影から一人の人物がぬっと現れた。

「どうだっ!」
「まーりゃんかっ!?」

 宗一達と戦っていた間密かに物陰に身を潜めていたのか。
 最初からこれを予測していたとは思えない。だがこうなる隙が生まれることを確信していた。
 確証なんてない。だが誰かがそうしてくれると信じて。

840明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:26 ID:9hfe7kLg0
 ふざけるなという思いが募る。他人任せがたまたま上手くいっただけではないか。
 こんなものにやられてたまるか。不可視の力を用いて体を無理矢理動かす。
 筋肉に痛みが走り、体の内奥に鋭い痛みが走るが、自分の煮え滾る怒りに比べれば物の数ではない。

 郁未目掛けて発射されたボウガンを鉈で叩き切ったときを待ち構えていたかのように、男が背面に回りこんでいた。
 研ぎ澄まされた雰囲気が伝わり、決して最後の力を振り絞ったという風ではないことを郁未に理解させる。
 外れはない。ありったけ撃ち込まれると予感した体が更に不可視の力を発動させるも上半身は既に動ききっている。

 動いたのは下半身、脚部だけ。それも背面に回りこまれていたことから回避する方向が分からず咄嗟に飛び上がってしまった。
 決定的な隙が形作られてしまう。下では倒れたまま、それでも手放さなかったショットガンを構えた宗一がこちらを狙っていた。
 もはや不可視の力を使っても払い落とすのも回避するのも不可能。

 ……なら、道連れに宗一を殺すまでだ。
 勝たせなんかさせない。完全勝利など許してたまるものか。一人だろうが殺して、私が間違ってなんかないことを――

 そう考えてM1076を取った瞬間、視界の隅でもうひとり、自分に銃口を向ける存在があった。

 古河渚だ。

 先程とは違い、確かな意思と覚悟を以って拳銃の銃口をこちらへと向けていたのだ。
 直感的に撃つだろうという確信が走る。
 人を殺さないなどと言っていた渚が?
 戦いを拒否したはずの弱い存在で生きる価値もないはずだった渚が?

 だが渚の目は、あまりにも真っ直ぐ過ぎて。
 渚にだけは撃たれるのは許せない。嫉妬が渦巻いていた郁未の深層意識は、渚へと銃口を変えてしまっていた。
 だが体を動かしきった郁未の動きはあまりにも鈍く――

 宗一の放ったショットガンの散弾が郁未の腹部を撃ち貫き、内蔵をズタズタに破壊し、不可視の力も生命をも霧散させた。
 力が急速に抜け落ちると共に体が地面へと落下していく。
 それは完全敗北の証だった。
 だが不思議と敗北感も悔しさも、怨みもない。
 それは不可視の力も出し切り、最後の最後まで本気で戦い尽くしたからなのかもしれない。

841明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:00:46 ID:9hfe7kLg0
 ただ、自分はやはり仲間などというものに負けたのかと思う。
 これが事実で、自分はどうしようもなかったということなのか。
 自分は孤独だったから、負けたのか?

 しかしそうではない、とどこかから聞こえた声が靄のかかった空白が晴らし、
 かつて郁未が持っていたものを思い出させる。
 FARGOという恐怖に満ちた地獄の中でも皆と食事を取り、笑い合うことができた日々。
 再会を約束し、また明日と手を取り合ったあの日。
 そして最後に思い出すのは、葉子との約束。

『やっぱり私、あなたのそう言う顔、大好きよ』
『私もやっぱりあなたが大好きです、……だから、最後に二人で決着をつけましょう』

 二人して、やはり笑っていた。あの瞬間、確かに自分達は分かりっていた仲間だったのだ。
 絆という名の剣を持った、心強かった仲間がいたのに。
 だとしたら自分にもずっと仲間はいて、渚にも仲間はいた。
 差なんてない。

 結局、競り負けた。渚との戦いに敗北したのだ。
 ああ、やっぱり悔しい。悔しいけど、認めてあげるわ、貴女の強さ。
 だからこの重みを背負いなさい。私に勝って倒したという重みを受け止めなさい。
 私に勝ったのだもの、出来なきゃ殺すわよ?
 悪態をつく郁未の口もとには楚々とした、一切の含みのない微笑が浮かんでいた。
 体中の毒が抜けきり、軽くなった身体が何とも心地よい。
 ふわふわと落ちてゆく実感を確かめながら、静かに目を閉じ、思った。
 こんなにも強いひと。こんなにも全力で戦えたことに――

 ――満足だった。

842明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:01 ID:9hfe7kLg0
     *     *     *

 最後の、殺戮者がいなくなった夜。

 雨が、ようやく上がった。

843明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:16 ID:9hfe7kLg0
【時間:2日目午後23時00分頃】
【場所:E−4・ホテル跡】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン6/8発、スラッグ弾2発(SPAS12)、投げナイフ1本、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る】

844明日の見えぬぼくたち:2009/05/23(土) 04:01:36 ID:9hfe7kLg0
古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

天沢郁未
【所持品1:鉈、H&K SMGⅡ(0/30)、予備マガジン(30発入り)×1】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(1/6)とその予備弾丸14発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:死亡】

【その他:雨が上がりました】

【残り 15人】

→B-10

845そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:58:54 ID:9tDqkDG.0
「ぷひ」

 彼が誰かご存知だろうか。ボタンである。
 降りしきる雨の中とぼとぼと彼は歩き続けていた。
 勢いもよく坂を駆け上がっていたもののすぐにバテておまけに道に迷った。

 説明をさせていただけるならばボタンは現在菅原神社へと続く道を歩いていた。
 所詮は年端もゆかぬ猪。道など分かろうはずもない。
 そういうわけで彼はホテル跡で起こってきた惨劇や凄絶な戦いを目にすることも参加することもなく、
 いわゆるボッチ状態で涙目だった。

 ぐぎゅるるるる、とボタンの腹が鳴る。言うまでもない、食欲がボタンをせっついているのだ。
 当然のことながらボタンは食料などもっているはずもないし、雑草が食べられるわけでもない。
 次第に彼の脳内はご主人様への思いよりも食欲の方に支配されていくのだった。
 所詮は獣畜生である。つぶらな瞳を輝かせながら彼は猪突猛進を続ける。やはり猪である。
 しかしそんなボタンも野生の血を引き継ぐもの。ガサガサと聞こえる不自然な音が聞こえたのを逃さなかった。

「ぷひ?」

 人間だろうか。しかし鼻を嗅いで匂いを探ってみてもそれらしき匂いや気配もない。
 いくら雨の中だとはいえ獣の嗅覚は人間とは比較にはならないのである。
 不可解な現象にぷひ、とボタンが疑問の鳴き声を上げる。

 世の中には自然現象というものがある。今ボタンの体を濡らしきっている雨もそうだし、
 台風や雪という現象があるのもボタンは知っている。
 しかしこの島に来てからというもの、雨以外のそんな現象にはとんと覚えがない。
 野生の勘が「何かある」と告げていた。

846そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:18 ID:9tDqkDG.0
 ここで留意していただきたいのは、ボタンは獣なれども人間に慣れ親しみ、共生してきた猪であることだ。
 普通の獣ならば危険には極力近づかず、己の命を確保することに最善を尽くす。
 しかしボタンはそうではない。藤林杏にしつけられ、彼女の忠実な僕とも言える存在だ。
 山の上に向かおうとしたのだって杏ならばそうするという考えに基づいていたし、
 獣なりの倫理感らしきものも存在していた。
 もっとも今は空腹感に支配されているのだが。

 とりあえず濡れるのは嫌だったし、そちらへ向かうことにした。
 大抵の場合、何か物音がする現場には建物があるというのが相場である。
 道を外れ、草叢の中をがさがさと侵入していく。

 視界はさらに悪くなったが大体音のする方向は検討がついていた。
 視覚と異なり、聴覚で方向を判断する能力は優れている。獣の面目躍如である。
 そうしていくらか歩いたころであった。
 地を揺るがすような大音量が響き、しかる後にけたたましい音が鳴り始めた。

「ぷひ!?」

 今まで経験したことのないような音にボタンの頭が混乱の極みを迎える。
 待てまてまてあわわわあわ慌てるなニホンイノシシは慌てないッ!
 ガタガタ震えることは……流石になかったが、杏に仕込まれたボタンが七つ奥義、『ぬいぐるみ』を発動させ、
 さながら路傍の石が如く動きを止める。混乱すると命を優先する部分はやっぱり獣なのであった。
 それからしばらくしてようやく音が止まる。最後にキーンという耳鳴りがあったような感覚のあるボタンだったが、
 ぬいぐるみ中は無念無想の境地。殴られても投げられても無反応を貫く。

 ま さ に ド M 。

 なお、ボタンはSMという概念などないことをここに記しておく。
 しばらく無音が続いたのだがボタンは念を押してぬいぐるみ状態を続ける。
 この形態になればいかなる人間からも注目されたことはない。持っている人間が注目されることはあったが。

847そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:35 ID:9tDqkDG.0
 だがこの慎重さが裏目に出た。
 収まったかと思えば今度はガサガサという音がボタン側の方に近づいてきたのである。
 何者かが近づいてきたのは明白であったが、匂いはまるでない。そう、質量を持った音だけが近づいていたのだ。
 どうすべきかとボタンは一瞬迷い、結局ぬいぐるみ状態を貫くことにする。この状態なら気配もある程度消せるのだ。
 実際音はまるでこちらに気付くこともなく一直線に進んでいく。
 まるで悩みなどないかのように、考えるべきことなどないかのように。

「……ぷひ」

 気付いていないと判断したボタンはぬいぐるみを解いてみたが、やはりガサガサとした音は依然として変わらず。
 次第に音は遠ざかっていく。一体何だったのだろう。
 まるで正体の分からぬ音の主に生物的な恐怖は感じていた。だがそこに何かがあるという直感を持ったのも事実だった。

 杏のことを頭に浮かべる。少しでも役に立つことがしたい。ここに来てからというもの、まるで主人の力になれてない。
 ボタンを撫でて心を慰撫しているような素振りはあった。しかしそれだけだ。受動的にしか行動が出来ていない。
 主人の危機には何ひとつ出来なかった。隠れているだけで、杏を助けたのはいつも他の人間だった。

 妬ましいとは思わない。無性に自分が情けなかった。いつまで経っても自分は助けられる存在でしかないという事実。
 ひいては立派な大人足り得ないということが悔しさを駆り立てる。
 いつまでも子供ではいられない。立派になって恩返しをしなければならないのだ。
 ならばボタンのするべきことはひとつしかない。その機会はまさに目の前にある。

 思いに衝き動かされ、ボタンは音の根源を追った。耳が良かったし前進速度だけは速かったので追跡することができたのである。
 それに加え、猪は元を辿れば山地に生息する動物だ。山はお手の物。空腹はいつの間にか忘れていた。
 音を追って進んだ先。……そこは何もない草叢だった。

 今までの草叢と同じく、ボタンの身長ほどもある雑草が青々と茂り、静かに揺れていた。
 しかし音はここで途絶えていた。そう、音の根源はここで突如として姿を消したのである。
 だがボタンでも知っている。突然消えるモノなどありはしない。
 他に不審な音はない。ボタンの存在に気付き、隠れているような気配もない。
 草叢だらけのこの場所で少しでも動こうものならたちまちのうちにボタンには察知できる自信があった。

848そのころ彼は:2009/05/27(水) 01:59:50 ID:9tDqkDG.0
 ならば上なのだろうか。視線をずらしてみるが、そそり立つ木々の枝にも何かがぶらさがっている様子はない。
 木の上を飛んでどこかに逃げてしまったのだろうか。それはないとボタンは思った。
 迷いなく進んでいた音の主はそんな器用な思考を持ち合わせていないと思ったのだ。
 生き物なら、一定間隔で動き続けることがどれほど不自然なことかボタンには分かっていた。
 なのに忽然と消えた。ここには最初から何もなかった。そう結論付けるように草叢はただ広がっている。

「ぷひ?」

 何かがあるという直感的な思いの元とことこと草を掻き分けて進んでいたボタンの鼻にツンとした刺激臭が漂ってきた。
 それはボタンにさえ僅かに感じられる程度で、人間ならば気付きもしないレベルであっただろう。
 この匂いの正体をボタンは知っている。冷房の匂いだ。

 正確には冷房の効いた室内の匂いというべきだった。スーパーマーケット、コンビニ、デパートやオフィスに漂うそれ。
 どことなく埃っぽいその匂いをボタンは不思議に思った。冷房は、人間の家にしか存在しない。
 それともここは人間の家なのだろうか。もう一度上を見上げてみるが、黒い空が見える。雨は止んでいた。
 空が見える以上、少なくともここは人間の家ではない。だが人間の家の匂いはする。

 首を傾げてさらに進んでいくと、柔らかい地面にボタンの足が刺さった。
 今まで堅かったはずの地面が突如柔らかくなり、ボタンの体勢が崩れる。こける。
 しかもなにやらカチリという音までした。
 なにか良くない予感がするのを感じつつボタンが起き上がると、そこには違う光景が広がっていた。

 縦穴が広がっていたのだ。突然地面から現れたそれは、猛獣が口を開けて待つように開かれている。
 この奇怪な現象をボタンは理解できなかったが、匂いの根源は理解することが出来た。

 匂いは穴の中から漂っている。入り口の前まで足を進めてみると、チカチカとした赤い光の群れがボタンを迎えた。
 左右の端に警告するように光っている赤いランプ。赤は危険な色だとボタンは知っている。
 中は薄暗く、ここからでは何も確認出来なかった。確かめるには入ってみるしかない。
 おそるおそる足を進める。入り口の前まで来たとき、唐突に声が流れた。

849そのころ彼は:2009/05/27(水) 02:00:13 ID:9tDqkDG.0
『侵入者を確認。識別コードが違います。首輪を爆破します』

「ぷ!?」

 上の方から流れてきた声。ボタンにその正体は分からなかった。
 おろおろして周囲を見回すが誰もいるはずはない。それもそうだった。
 声の主はセンサーと連動しているスピーカーから流れたものだ。
 その言葉の意味はここの参加者であるならばすぐに理解し、絶望に顔を青褪めさせただろう。

 生体反応をキャッチし、コードが違えば即座に首輪を爆発させる防御システムは目の前のボタンに対し信号を送りつけた。
 悲鳴を上げる間もなく、信号を送られた人間は首が吹き飛ぶはずだった。
 ……しかし、ボタンは参加者ではない。首輪などあるはずがなかった。
 当然のことながら信号は意味を為さず、送るだけでそれ以外の対処など持ち得ない機械のセンサーは無言を貫くだけだった。
 参加者を即座に爆破する絶対無敵のシステムは『支給品』には何の意味もなかったのだ。
 侵入者を抹殺し、役割を果たした入り口が再び閉じ始める。それも急速に。

「ぷひ!」

 我に返ったボタンは閉じ始めた入り口と、外の世界を交互に見やり、やがて意を決したかのように中へと向けて走り始めた。
 ボタンが闇の中に消えたと同時、入り口は完全に閉鎖され、元の殺風景な草叢の風景がただ広がるばかりになる。
 猪を放り込んだ闇の在り処を、誰も知る由はなかった。

850そのころ彼は:2009/05/27(水) 02:00:26 ID:9tDqkDG.0
【時間:二日目午前23:50】
【場所:D-2】

ボタン
【状態:杏を探して旅に出た。謎の施設に侵入。主催者に怒りの鉄拳をぶつける】

→B-10

851管理人★:2009/05/28(木) 12:54:49 ID:???0
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