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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

533鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/28(日) 23:01:05 ID:BHST3W8k0
 開眼はブラフマンを本性とするものではないというのじゃ。
 開眼とはブラフマンを対象とする内官の変容の一種なのじゃ。
 聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが自ら輝くのじゃ。

 ブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて、シャンカラも内的アートマン、ブラフマンは絶対に対象ではないというわけではないと述べていたのじゃ。
 ブラフマンは、直証されている時にでも、すべての添性を離れているわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、それ自身滅びつつある状態にあるから、自己および自己以外の添性とは対立するが、やはりブラフマンの添性であるのじゃ。
 内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、直証でありえないからなのじゃ。

 つまりブラフマンも悟りに導く法であるから、知覚の対象になるのじゃ。
 観念であり、性もあるものじゃ。

 しかし法として対象はなく、添性もないと説かれるのじゃ。
 そのように法と、法の現すものの区別に注意しなくてはならんのじゃ。

534避難民のマジレスさん:2022/08/29(月) 01:43:37 ID:SrlHKUME0
(つづき)   p288
  また「これ(直証)は、推論に基づいて修習した火についての直証(直接体験)のように、想像上のものであるので、正しい認識根拠ではない」256というのは、[正しく]
ない。何故なら、その(火についての直証)の場合には、火自身の特質が間接的であるのに対して、この(ブラフマンの直証の)場合には、個人存在は添性によって汚されてはいて[も、本来は]ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的[に経験 されている]あるからである。というのは、清浄であり、悟っている等の性質は、実際 にはそれ(個人存在)と異ならないからである。実に[聖典にも]、あれこれの添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っている等々を本性とするブラフマンなのだ、 と唱い上げられているではないか。また、あれこれの添性を離れることも、それ(ブ ラフマン)と異ならないのである257。従って、音楽理論の書の意味(音楽理論)に関 する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた、耳という感覚器官によって、[人が]シャドジャ等の一連の音階に関して、上昇音、下降音258の区別を直接経験するよ うに、ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた [個人存在は]、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、[直接に体験する のである。]

脚注
256 本駅258頁参照。
257 この一文は、以下のような反対主張に対する答論であるとされている。「あれこれの添性を離れることは、真実なのかそれとも非真実なのか。後者の場合、すなわち添性を離れたものが非真実である場合には、添性が真実であることになるから、それ(添性)はブラフマンと異なることになり、不二一元論が損なわれることになる。前者の場合でも、添性を離れたものは、真実であってブラフマンと異なるのだから、不二一元論が損なわれることになる。」
258インド音楽の音階には、七音階があるが。それには上昇音と下降音があり、•••従って•••上昇音の場合と下降音の•••区別は音楽理論についての知識がなければ理解できないのである。
(´・(ェ)・`)つ

535鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 00:16:03 ID:a/Epxlw20

 ブラフマンの直証の)場合は、個人存在は添性によって汚されてはいても、本来ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的に経験 されているというのじゃ。
 個人存在はもともと清浄であり、悟っているのじゃ。

 聖典にも添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っていることを本性とするブラフマンなのだ と説かれているのじゃ。
 添性を離れることも、ブ ラフマンと異ならないのじゃ。
 ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた個人存在は、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、直接的に体験するのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのじゃな。
 無明の覆いが無ければ、みんな悟っているのじゃ。

536避難民のマジレスさん:2022/08/30(火) 02:28:36 ID:zubZC57E0
3.3.1.3.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(3)一 さまざまな反対主張を退ける  p289 146右/229

  [反対主張]内官の変容というブラフマンの座言正を生ずるのに、それ(ブラフマン) の念想は祭式を必要とするのである。
  [答論]そうではない。それ(ブラフマンの念想)と祭式の執行とが共存することは ないから、[ブラフマンの念想が]それ(祭式)と協同することはありえないからである。実に人は、「汝はそれなり」等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンー[それは]本性上清浄で、悟っており、無関心であって、行為者ではないという性質をそなえ、バラモンという性質等のカーストとは無縁で、身体とは異なる一 を理解すると、[自己の]祭式に対する資格を理解することができないのである。[こ のように祭式に対する資格を理解]できない人がどうして、[祭式の]執行者であったり、[祭式を執行する]資格のある人であったりしようか。
  [反対主張]たとえ真理が確知されても、錯誤に基づいて日常的経験が継続するのが経験されるではないか。たとえば、砂糖は甘いと確知しても、甘い[砂糖]を吐き出して捨てることから分かるように、感覚器官が黄疽で損なわれている人には、あいかわらず苦く感じられるようなものである。従って、無明の潜在印象が続くから、祭式の執行は存在しており、それ(祭式の執行)が明知と協同してそれ(無明とその潜在印象) を滅ぼす、というのは妥当なのである。
  また、「無明を本質とする祭式が、どうやって無明を滅するのか。また、無明を滅ぼすものである祭式が、何によって滅せられるのか」と言うべきではない。というのは、 自己および自己以外の同類のものと対立する(を滅する)存在がしばしば認められるからである。たとえば、牛乳はほかの牛乳を腐らせ
、またそれ自身腐ってゆくし、毒はほかの毒を鎮め、また自らも鎮める。さらにカタカの屑は、ほかの屑で濁った水の中に 投げ込まれると、ほかの屑を沈澱させまた自らも沈澱して、水をきれいにする。このように祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

537鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 21:57:24 ID:Ew4smaMg0

 反対なのじゃ。
 内官の変容というブラフマンの直証を生ずるために、ブラフマンの念想は祭式を必要とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想と祭式の執行とが共存することは ないというのじゃ。
 そうであるから、[ブラフマンの念想が祭式と協同することはありえないのじゃ。
 聖典の汝はそれなり等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンを理解すれば、祭式の資格もなくなるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 真理が確知されても、錯誤に基づいた日常的経験が継続するのではないかというのじゃ。 
 悟っても砂糖は甘いというように。
 祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのであるから必要だというのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2022/08/31(水) 02:25:19 ID:BkE9XLdk0
(つづき)  p289-290
   [答論]その通りである。「愛児よ、[太初には]この[世界]は有のみ[であった]」で始まり、「汝はそれなり」で終わる章句259一[それは]ブラフマンの考察に役立ち、よく復唱される一に基づいて、身体一[その]質料因が無始の無明である一とは異なる内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続してゆく。にもかかわらず、これらの日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じない。それはちょうど、黄疽で感覚器官の損なわれた人は、砂糖を吐き出して捨てても、それ(砂糖)が苦いと[信じてはいない]ようなものである。また 同様に、[祭式の]行為、行為者、行為手段、行為方法、果報などの様々なものが実在しないと確知している者に、どうして[祭式を執行する]資格があろうか。というのは、 [祭式を執行する]資格があるのは賢者だからである。さもなければ、動物や奴隷にも [祭式を執行する]資格があると認めざるをえないであろう。そしてここ祭事部では、 [祭式の]行為、行為者等の本質の違いを知っている者(vidsyamāna)260が、賢者だと思い込まれているからである。まさにこのような理由で、神聖なる註釈者(シャンカ ラ)は、聖典が無明を持つ者に関係していると説明していたのである261。従って、バラモンや庶民というカーストに属すと思い込んでいる人は、王族というカーストに属す と思い込んでいる人が執行者であるラージャスーヤ祭262に対して、[執行の]資格がな いように、再生族、行為者、行為、行為手段等の区別[があると]思い込んでいない人 は、それら[の区別があると]思い込んでいる人が執行者である祭式に対して、[執行 の]資格がないのである。また、[執行する]能力はあっても[執行する]資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は、バラモンやクシャトリヤの行ったヴァイシュヤストーマ
祭263のように、果報を生みださないのである。従って、目に見える果報のために[行われる]祭式の場合には、[執行の]能力のある人が執り行えば、[果報は]目に見えるので、[その]果報を得るであろうが、目に見えない果報のため[に行われる祭式]の 場合には、[その]果報は聖典に基づいてのみ理解される[ので]、[執行の]資格のな い人にもたらされることはないであろう。以上のような理由で、[ブラフマンの]念想 の結果[が生ずる]のに祭式は必要ではないのである。

脚注
259
260ここで知者を表すのに、未来形の分詞を用いている理由について、実際は賢者でないのに、賢者に見える人という意味をもたせるためだとしている。
261 本訳257-258頁参照。
262この祭式は王の即位式である。
263この祭式は庶民が行うものとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/31(水) 23:45:32 ID:O4EMOl5U0
答えたのじゃ。
 その通り内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続するというのじゃ。
 しかし、日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じないのじゃ。
 そうであるから祭式の行為や行為者や行為手段や行為方法や果報などが実在しないと確知している者には祭式を執行する資格がないというのじゃ。
 それは動物とかが意味を理解しないで祭式を執行するのと同じだというのじゃ。
 
 祭式を執行する資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は果報を生じないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの念想の結果が生ずるのに祭式は必要ではないのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2022/09/01(木) 05:03:34 ID:i53sF5860
(つづき)   p290-291
  [反対主張]祭式一[それを執行する]資格には人間であるという思い込みが含まれている一が命じられている時には、そういった思い込みのない人には[祭式を執行 する]資格がないように、禁令の場合も、[それを実行する]資格に人間[であるという思い込みが含まれている]ので、そのような思い込みのない人には、動物などと同じ ように、それ(禁令)に対する資格もないことになろう。従って、この者(人間だという思い込みのない人=ブラフマンの念想が完成した人)264は、禁じられている[行為] を行って[も]、獣などと同じで堕落することはないので、[自己]以外の者[に適し た]行為[を行っている]ということ(bhinnakarmatā)265になってしまうであろう。
  [答論]そうではない。実にこの者(ブラフマンの念想が完成した人)に、人間であ るという思い込みがまったくないわけではない。そうではなくて、この者の場合でも、 無明の潜在印象は継続しているので、そういった(人間であるという)思い込みがすこしは続いているのである266。
  [反対主張]「継続してゆく[日常的経験や諸観念]が虚妄であると考えている人は、 [それらを実在だとは]信じていない」267と述べられていたが、もしそうだとすると、 だからどうだというのか。
  [答論]だから以下の通りなのである。すなわち、儀軌を信じている人が[祭式を執行する]資格のある人であって、信じていない人はそうではないのだ。従って、人間で ある等の思い込みに対して信仰をいだいていない人は、儀軌[を説く]聖典に対して資 格がないのである。そして同じ趣旨で「信仰なしに、供えられた供物、与えられた布施云々」268という聖伝句がある。だが、禁令[を説く]聖典は信仰を必要とせず、それどころか禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのである。従って、信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動して堕落するので、「[その人は自己]以外の者[に適した]行為[を行っているのだ]」という[反対主張者の]見解は、認めることができないのである。 [ともかく]以上の理由で、[ブラフマンの]念想の結果[が生ずるの]に祭式は必要でないのである。

脚注
264
265 自分に行う資格のない祭式(行為)を行っても、祭式(行為)の果報を得ることができないという原則があるので、人間だという思い込みのない者は、人間に対して禁じられている行為を行っても、地獄に落ちるというような悪い結果は生じないことになってしまう。
266 悟ったがまだ生きている人は、まだ依然として修行階梯にあるのか、それとも修行を完 成した人であるのか、あるいはまた、その人に無明が残っているのか、それとも無明の潜在印象だけが残っているのかという問題について、ヴァーチャスパティ・ミシュラがどう考えていたかという 点に関しては•••
267 本訳290頁1行参照。
268
(´・(ェ)・`)つ

541鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 00:51:46 ID:ECK.c7KU0
 
 反対なのじゃ。
 祭式と同じく、自分という思いがなく禁令も効果を生じないならば、それはもはや人間に適した行為ではないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。 
 ブラフマンの念想が完成した人でも無明の潜在印象は継続しているので、人間であるという思い込みがすこしは続いているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの念想が完成した人は日常的経験や諸観念が虚妄であると信じていると述べられていたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 禁令を説く聖典は信仰を必要とせず、禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのじゃ。
 信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動すれば堕落するのじゃ。
 そうであるからブラフマンの]念想の結果が生ずるのに祭式は必要でないのじゃ。

542避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 02:42:23 ID:W56OOOXo0
3.3.1.4.ブラフマンの念想それ自体が生ずるのに祭式は必要でない  p292 148左/229

  まさに同じ理由で、[ブラフマンの]念想が生ずるのにも[祭式は必要では]ない。 [というのは、すでに]述べたように、聖典に基づく疑問の余地のない知識が生じたのちには、祭式に対する資格というものが存在しないからである。そして同じ趣旨で、「[人 は]祭式によっても、子孫によっても、また財産によっても[不死に達しない]。放棄 によってのみ不死に達するのである」269という天啓聖典句があるのである。

脚注
269

3.3.1.5.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つ(1)一一供犠等の場合 p292-293

  [反対主張]さて、ところで祭式は、この世でまったく無用なのだろうか、もしそうだとすると、「供犠によって知ろうと望む」等の天啓聖典句が矛盾することになろう。
   [答論]そうではない。というのは、供犠等の祭式は[ブラフマンの知識が生ずるのに]間接的に役立つ(ārādupakāraka)からである。詳論すれば次の通りである。バラモンは、このアートマンを、ヴェーダの学習によってすなわち常にヴェーダを学習す ることによって、知ろうと望むすなわち知りたいと欲するが、知るわけではない。というのは、知識は実際には主要なものであるが、[/vidという]語根(prakrti)の意味なので、言葉の上では従属的な位置にあるのに対し、欲求は[sanという]接尾辞の意味なので主要なものであり、さらに行為は主要なものと一致する(sampratyaya) からである270。実に、「王の家来を連れて来い」と言われた時には、実際には王が主要なものであるが、それは家来を修飾しているので、言葉の上では従属的な位置にある (upasarjana)271[から、王を]連れて来ることはない。そうではなくて、言葉の上ではそれ(家来)が主要な位置にあるので、まさに家来を[連れて来る]のである。このように供犠も、ヴェーダの学習と同じように、欲求[を生ずる]手段として命じられているのである。苦行すなわち節食の場合もまた同じである。苦行とは、欲望のままに食べないことである。実に、清らかな良いものを適度に食べる人に、ブラフマンを知 りたいという欲求が存在するのである。だが、まったく食べない人には、[ブラフマンを知りたいという欲求が存在し]ない。死んでしまうからである。また、cāndrāyana 等の苦行(断食)272に没頭している人にも、[ブラフマンを知りたいという欲求は存在し]ない。気持ちの平静さが崩れること(dhātuvaisamya)になるからである。

脚注
270ここで語根と訳したprakrtiは、語が変化する以前の元の形のことを言い、実際には動詞語根と名詞語幹のことを言うが、ここでは内容的には語根のほうを指しているのでこう訳した 。なお語根や語幹より接尾辞の意味のほ うが主要である。
271従属的な位置にあるものとは、compoundにおいて第一格で示されるものであるが、第六格が第一格で示されているので、compound 中の第六格はupasarjanaである。
272
(´・(ェ)・`)つ

543鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 23:18:58 ID:BVnktc520

 今まで述べたように、ブラフマンの知識が起きたらブラフマンの念想が生ずるのにも祭式は必要ではないというのじゃ。
 人は祭式とか、子孫とか、財産によっても不死にはなれないのじゃ。
 放棄によってみ不死に達するというのじゃ。

 自我の放棄じゃな。


 反対なのじゃ。
 それでは祭式は全く必要はないのかと聞いたのじゃ。
 そうだとすると聖典が間違いということになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つのじゃ。
 祭式はヴェーダの学習と同じく、ブラフマンを知りたいという欲求を起こすのに役立つのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 23:43:37 ID:Ts/y8tnc0
3.3.1.6.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接白勺に役立つ(2)一時に日々義務 として行わなければならない祭式の場合 p293-

   さらに、これらの日々義務として行わなければならない祭式は、すでに身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのである。同じ趣旨で、「実に、『この自己の一部はこれによって浄化される。この自己の一部はこれによって増大する』と知る者が、自己に対する供(犠)を行う者(ātmayājin)である」273という天啓聖典旬があるが、[そこで]「これによって」で言及されているのは、供犠等だと考えるべきである。また、「これらの四十八の浄化式を備えて[いない]人は、[ブラフマンとの合一にもブラフマンと同じ世界にも達しない]」274という法典句もある。さらに、日々義務として行わなければならない祭式と臨時に行わなければならない祭式を執行することによって、汚れが(滅)せられて、心が浄化され、さらに知りたいという欲求が生じて知識が生ずるのは、無知な人の場合だけであることを示す、アタルヴァ・ヴェーダ系統の[次のような]天啓聖典句がある。「しかし、心が浄化された人は、瞑想しながら、こうして部分のないそれ(ブラフマン)を見る」275と。また、「祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずる」276という聖伝句もある。日々義務として行わなければならない祭式はし常に行えば、すでに身についた罪を滅して人を浄化する、とまさに確定しているので、それは、[浄化の結果である]知識の生起に対して従属関係にある。そして、 [この従属関係が]成り立つ時には、結合と分離という関係による直接的な従属関係277[を想定するの]は正しくない。想定がまわりくどくなってしまうから(gaurava)で ある278。詳論すれば以下の通りである。日々義務として行わなければならない祭式を執行すれば、ダルマが生ずる。それから罪が止滅する。それ(罪)はまさに、無常で、 不浄で、苦である輪廻を・永遠で・清浄で・楽であるとする錯誤によって、心の中の鈍 質(Cittasattva)279を汚しているのである。従って、罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、直接知覚と論理によって、輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解する。そしてこの[理解]から、それ(輪廻)に対する離欲、 [それは]無執着(anabhirati)とも呼ばれる一が生ずる。それから、それ(輪廻)を 捨てたいという欲求がめぐってくる。それから、[輪廻を]捨てる手段を捜し求める。 そして捜し求めている時に、アートマンという真理がその手段であると聞いて、それ (アートマンという真理)を知りたいと望む。それから、聴聞等280の順序に従ってそれ (アートマンという真理)を知る。従って祭式は、心の純質を浄化することによって、真理の知識が生ずるのに間接的に役立つ、[と考えるの]が正しいのである。まさにこの同じことを、『バガヴアッド・ギーター』も[次のように]述べている。「ヨーガ[の高み]にのぽろうとする聖者こは、祭式が手段であると言われる。その[聖者]がヨー ガ[の高み]にのぼった時には、安息が手段であると言われる」281と。

脚注
273
274 脚注235参照。
275
276 出典不明。
277 脚注239参照。
278 ある事柄を説明するために想定された考えは、より簡潔明瞭であるほうが優れているわけだが・「祭式が罪を滅して心を浄化し、その結果、知識の生起に役立つと考える」のと、「祭式が、一方ではその固有の果報に役立ち、他方ではブラフマンの念想が知識を生ずるのに役立つ」と考えるのを比べると、前者 のほうが後者の前半部がない分だけ簡潔である。
279
280「等」には思惟、瞑想が含まれる。
281
(´・(ェ)・`)つ

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 00:11:43 ID:9wee1HQQ0

 祭式は身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのじゃ。
 聖典には心が浄化された人は、瞑想してブラフマンを見ると説かれているのじゃ。
 祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずるともいうのじゃ。
 
 祭式によって罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、それによって輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解するのじゃ。
 そしてこの理解から、輪廻に対する離欲がおこるのじゃ。
 そして輪廻から解脱したいという欲が起こり、輪廻を捨てる手段を求めるのじゃ。

 そしてアートマンの法を知り、法を聞いたりして真理を知るのじゃ。
 このように祭式は間接的に役に立つのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2022/09/04(日) 01:44:29 ID:jWMkK7ss0
3.3.1.7.結論一祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である  p294-295 149左/229

  だとすれば、祭式を執行しなくても、前世に行った祭式の効力で心が浄化され、さら に輪廻には実質がないと見て取ることで離欲が生じていれば、その人には、祭式の執行 一[それは]離欲を生みだすのに役立つ一は余分だということになる。何故なら、前世で祭式を執行するだけでそれ(離欲)はすでに完成されているからである。そして、この同じ特に優れた人に関して、天啓聖典句は「あるいは、もしそうでなければ、 学生期のあとすぐに遊行すべきである」282と述べている。だから[「註解』に]、祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからであると述べられていたのである。また同じ理由で、学生期の者には[三つの]債務がないのである(もし[彼等に三つの債務が]あれば、それらを弁済するために祭式を執行すべきであろうが)283。そして、「実にバラモンに生まれた者は三つの債務を背負って生まれるのである」284という[法典句]は、これ(先の天啓聖典旬)と合うように、家住期の者のことを説明しているのだと解釈すべきである。さもなければ、「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとに〔遊行すべきである]」285という天啓聖典句に矛盾が生じることになるからである。だが家住期の者の場合でも、債務を弁済するのは心を浄化するためなのである。また、老衰による死に[際して執行される祭式] 関する規定、灰に帰すことに関する規定、葬式(antyesti)286は、祭式に麻痺した無知 な人に対するものであって、アートマンという真理に精通した人に対するものではないのである。従って「そこで」という語は、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがある時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような、そのXの直後にという意味なのである。だが、祭式に関する知識はそのようなものではない。それ故、 祭式に関る知識の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない、とすぺてが明らかになったのである。

脚注
282
283 本訳281頁参照。
284 出典不明。
285 脚注282参照。
286 それぞれ人が、老衰あるいは病気等でまさに死なんとする時に行うぺきとされている葬式に関する規定、火葬に関する規定、生涯に渡って供犠を行ってきた人の場合に息子が執行する葬式のこと。
(´・(ェ)・`)つ

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 23:04:11 ID:Yb3y/KCc0

 そうであれば前世から祭式を実践していて浄化されていて、輪廻からの離欲もしていれば祭式は不要だというのじゃ。
 すでに離欲は完成しているからなのじゃ。
 祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。

 以上の理由で、そこでという言葉は祭式に関する知識の直後ではないというのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:27:36 ID:1UY5tJm60
3.3.2.理由(2)ダルマの考究ののちにブラフマンの考究へという 順序は意図されていない    p295-297

  また、[供犠に用いる動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[心臓ののちに舌を切り取る云々という]順序が意図されているので、 [「そこで」が]直後であることは決まっているが287、この(ダルマの考究と ブラフマンの考究の)場合には、そんなふうに順序が意図されているわけで はない。というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するもの (śesa)と主要なもの(śesin)という関係288や、資格ある者(adhiklra)にとっての資格(adhikāra)という関係289を示す認識根拠が存在しないからで ある。

   [反対主張][ダルマの考察とブラフマンの考察の場合、両者の]順序は、アグニホ-トラ祭と粥の場合とは異なり、[それぞれの]目的(用途artha)に基づくことはない であろう290。しかし、明言に基づく(śrauta)291[順序]は存在するであろう。というのは、「家住者となったのち森住者となるべきである。森住者となったのち遊行すべ きである」292というジャーパーラ[・ウパニシャッド]の聖典句が、「家住者」という語によって供犠等の遂行を暗示しているからである。また、「儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に 向かうのである」293という聖伝句もある。さらに、「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」294という非難の言葉もある。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して]、また、[供犠に用いる 動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[「そこで」が]直後で あることは決まっていると言っているのである。何故か。何故なら、「まず心臓を、そこで舌を、そこで胸を切り取る」295という場合には、「まず」と「そこで」という語によって、順序が意図されているからである。[だが]、この[ダルマの考究とブラフマンの考究の]場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではない。というのは、 「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」296という天啓聖典旬が示しているように、そのようには(直後であるとは)決まっていないからである。実に[この天啓聖典旬は]、離欲を暗示しているだけなのである。同じ理由で、「欲を離れたまさに同じ日に、遊行に出るべきである」 297という天啓聖典句もある。また[先の]非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものである。すなわち、心の不浄な人は、解脱を望みながらも、怠慢なためにその(解脱の)手段に向かわないまま、家住期のダルマである日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式を遂行せずに、一一瞬一瞬溜 め込まれてゆく罪を背負って地獄への道を行く、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

549避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:29:27 ID:1UY5tJm60
(つづき)
脚注
287
288 śesaとは、ほかのもののためのものであって、それには、供物、祭式の際に唱えられる真言、祭式の準備、祭式中の個々の行為、これは果報のためのものである、果報、これは人の ためのものである、人、これは祭式中の諸行為のためのものであるがあるとされる。そして、 このśesaとśesinの関係は、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行う人とphalaを享受する入が 別入であれば、そのkarmaがphalaのためであるというような関係が成立しないように、行為者が同一である時に成り立つのである。そして、行為者が同一であれば、śesaとśesinのどちらかが先に行われるはずであるが、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行ってそのphaIaを享受するという順序が あるように、śesaが先でśesinが後に行われるのである。
289Dārsapūrnamāsa祭を行った者にSoma祭を行う資格があるというような場合、両祭式のあいだに、 どちらかがどちらかに従属するという関係があるわけではないが、両祭式を行う人は同一であるので、当然Dārsapūrnamāsa祭が先でSoma祭が後であるという順序がある。
290 諸祭式行為間の遂行順序を知る認識根拠として、明言、目的、 用途、言及、位置、主要、開始の六種を挙げている。この うち・ここにでてくる二番日のarthaとは、次の通りである。 たとえば「アグニホートラ祭を行う」という聖典句と、粥を 料理する」という聖典句とがある時、両者の順序は、粥はアグニホートラ祭に用いられるものであるか ら、粥を料理するほうが先であると決定する。これがartha(目的、用途)による順序である。ところ で、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合、前者が後者のためのものであるとか、後者のために用いられるというような関係はない。
291 次に一番目のśrutiに基づく順序とは、聖典句の一文中で、「まず」「次に」等の語、ablative case,,一ktvε接尾辞(ともに順序を示す機能がある)などで、順序が明言されているような場合である。
292 293 294
295 脚注287参照。
296 脚注282参照。
297
(´・(ェ)・`)つ

550鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/05(月) 23:48:28 ID:NeLjGvWw0

 ダルマの考究と ブラフマンの考究には、順序が意図されているわけではないというのじゃ。
 なぜならばダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するものと主要なものという関係や、資格ある者にとっての資格というような関係がないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 明言に基づく順序は存在するというのじゃ。
 ジャーパーラ・ウパニシャッドには家住者という語によって供犠等の遂行を暗示しているのじゃ。
 儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に向かう」という聖伝句もあるのじゃ。
 さらに「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」という非難の言葉もあるのじゃ。

 それらが明言された順序なのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究の場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではないのじゃ。
 学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」という天啓聖典句が示しているように、直後であるとは決まっていないのじゃ。
 さらにその非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものなのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 01:21:26 ID:xOFkdVm.0
3.3.2.1.ダルマの考究とブララフマンの考究には従属するものと主要なものという関係がないからである  p297-298 150右/229

  [反対主張]明言に基づくものであれ、目的(用途)に基づくものであれ、[ダルマの考究とブラフマンの考究の間に]順序は存在しないとしておこう。だが、言及(pātha) [の順序]・[占める]位置(sthāna)[の順序]・主要(mukhya)[祭における順序] ・ 開始(pravrtti)[した順序]という認識根拠に基づく298順序が、どうしてないことが あろうか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。 従属するものとはサミト祭等であり、主要なものとはアークネーヤ祭等で、[それらは] 同一の果報に限定されている[ので]、同一の果報に役立つものと知られており、同一の執行儀軌から理解され、同一の[執行]資格を持つ人によって執行され、同一の時期 すなわち新月あるいは満月の日に属す299。しかし、[それらを]同時に執行することは不可能なので、その結果順序を決めなければならないことになるが、このように特定のそれ(順序)が必要な時には、言及[の順序]等[の認識根拠]によって、その(順序の)区別を決定することが可能なのである。しかし、サウルヤ、アールヤマナ、プラージャーバティヤなどのように、従属するものと主要なものという関係がない場合300、ま た同一の資格という限定がない場合には、順序を区別する必要がないので、言及[の順序]等は特定の順序を決定する認識根拠ではない。[しかし、順序がまったくないと いうわけではない301]。というのは、その(サウルヤ等の)場合、[「サウルヤ云々」等
の聖典句を同時に唱えるのは不可能なので、人間の恣意によるものであれ]302、それ (特定の順序)が避けがたいものとして了解されているからである。そして、このダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す 認識根拠すなわち明言などのうちのどれか一ーーは存在しないのである。

脚注
298 言及の順序とは、ヴェーダ聖典のなかで言及されている順序に従って諸祭式行為間の順序が決定されるということ。たとえば、Darśapūrnamāsa祭の前に行われる従属祭として、 聖者を神に捧げる儀式があるが、その場合それらの順序は、ヴェー ダ聖典の言及の順に従うのである。なお、一文中に順序が示されていない点が、明言に基づく順序とは異 なる。次に、位置の順序とは、ある祭式行為が祭式のなかで占める位置に基づいて決まる順序のことで、たとえば、基本祭であるJyotistoma祭に対して、応用祭Sādyaskra祭があり、その祭 では、Jyotistoma祭では三日に渡って別々に捧げられた三匹の動物(第一日目がagnīsomīya、第二日目 がsavanīya、第三日目がānubandhya)が、一日(第二日目)で捧げられるが、この時には、Jyotistoma 祭と異なり、savanīyaが最初に神に捧げられる。というのは、これらの三匹の動物が捧げられるのが、第二日目、すなわち基本祭Jyotistoma祭ではsavanīyaの捧げられる日に位置するからである。さらに, 主要祭おける順序とは、応用祭における祭式行為の順序は基本祭の順序に準ずるとい うことである。最後に開始した順序とは、たとえば、vājapeya祭で十七匹の動物を捧げる時、水をかけて清める等の儀式をどの順序でやるぺきか決まってはいないが、もし最 初の儀式を動物(1)から動物(17)の順で始めたとすると、以下の儀礼はそれと同じ順序で行わなけれ ぱならないような場合である。
299Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなり、さらに、前者は三種の祭式から、後者は別の三種の祭式からなる。このDarśa祭と、pūrpa祭にはそれぞれ、先駆祭・後続祭等の従属祭が付属している。そしてSamit祭は、Prayāja祭のひとつである。これらの祭式は、すべてがDarśapūrnamāsa祭を構成しているので、Darśapūrnamāsa祭の執行儀軌という同一の儀軌から理解され、これらの祭式すべてからら生じたapūrvaが集まって天界という同一の果報を生じる。そしてこの果報は、同一の人、すなわちDarśapūrnamāsa祭を執行した人に生ずるのである
300saurya祭等「望ましい果報を欲して行う祭式」 には主従関係がない。
301 302
(´・(ェ)・`)つ

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/06(火) 23:20:44 ID:6JJtvqTQ0

 反対なのじゃ。
 言及の順序とか、主要な祭式の順序などの認識根拠に基づく順序があるはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは主要なものと従属するものという関係を示す認識根拠がないから、それはないというのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係がない場合とか、同一の資格という限定がない場合、順序を区別する必要がないので、言及の順序等は特定の順序を決定する認識根拠ではないのじゃ。
 そうであるからこのダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠である明言などのうちのどれも存在しないのじゃ。

553避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 23:51:47 ID:GwuJ8BsY0
3.3.2.2ダルマの考究とブラフマンの考究にはすでに資格ある者にとっての資格という関係がないからである   p298-300

  [反対主張]従属するものと主要なものという関係が存在しない場合でも、順序が決まっていることが見られるではないか。たとえば、ダルジャプールナマーサ祭の従属要素(水を振りかける儀式)の際に[用いられる]牛乳の容器一[これは祭式(ここでは水を振りかける儀式)のためのものではなく]人間のためのものである一の場合303や、「ダルジャプールナマーサ祭を行ったのち、ソーマ祭を行うべきである」という時のダルジャプールナマーサ祭とソーマ祭の場合には304、従属するものと主要なも のという関係は存在しないが、[一定の順序が決まっているのが見られる]ように。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。こ れが[『註解』本文の]文脈なのである。すなわち、ダルジャプールナマーサ祭[を執 行する]資格のある者一つまり天界を望む者一であってかつ家畜を望む者に、水を振りかける儀式一[それは]ダルジャプールナマーサ祭のためのものである一に基 づく牛乳の容器(を用いる)資格がある305。実に、牛乳の容器という用具は、[それ自体で]作用することはないから、直接に家畜を生みだすことができない。また、[牛乳の容器が水を振りかけること]306以外の作用と関わるとも、天啓聖典に述べられてもいない。何故なら、[もし水を振りかけること以外の作用と関わっていれば、その牛乳の容器は]、それ(ダルジャプールナマーサ祭)の従属要素の[執行]順序の範囲外に なってしまうからである。だが、[それが]水を振りかける儀式に基づくことは、[次の理由から]理解される。すなわち、(1)[牛乳の容器と水を振りかける儀式が]、「チャマサ杯で水を振りかけるぺきである。家畜を望む者の場合には、牛乳の容器で」307と 一緒に述べられており、さらに、(2)それ(牛乳の容器)は水を振りかけるのに適しているからである308。従って、牛乳の容器は、祭式のためのものである水を振りかける儀式に基づくから、人間のためのものであっても、牛乳の容器には、それの順序に従って順序がある、と確立されるのである309。また、ダルジャプールナマーサ祭(isti) 310とソーマ祭[には、執行の]順序[がある]のと同じように、[ダルマの考究とブラフマンの考究にも]順序[があるという考え]も、明言に基づく論破によって退けられるのだ311、と知るべきである。

脚注
303Darśapūrnamāsa祭のなかに水をふりかける儀式があり、この祭式自体は、 Darśapūrnamāsa祭のためのものであるので、従属要素の定義に従って、これは祭式に対する従属要素である。だがその時に、家畜を望む人が任意に用いて水をかける道具である牛乳の容器は、家畜を望んでいる人のためのもの、すなわちその人に従属するのであって、水をかける儀式に従属するのではない。従って、この牛乳容器と水をかける儀式には主従関係はない。にもかかわず、牛乳の容器で水を汲むのが先で水をかける儀式が後という順序が見られる。
304この両祭式が主従関係になく、「Darśapūrnamāsa祭を 執行したのちSoma祭を行うべきである」は、単に時間的な前後関係について述べているにすきない。なお、この両祭式の場合、 Darśapūrnamāsa祭を行う資格のあるものにSoma祭を行う資格があるということが言われているわけだから、前者が先で後者が後である。
305 Darśapūrnamāsa祭を執行する資格は、天界を望む者であることであり、この祭式の中の水をふりかける儀式において牛乳の容器を用いる資格は、家畜を望む者であることである。従って、後者の資格は前者の資格を前提としているので、前者が先で後者が後である。
306
307 出典不明。
308 これをすなわち、sāmarthya(効力)というlińgaによる説明であるとしている。
309 牛乳容器は水をかける儀式に基づき(従属し)、水をかける儀式はDarśapūrnamāsa祭に従属する。従って・この従属の順に牛乳の容器で水をすくい、水をかけ等々の順序で行われるのである。だか、 ダルマの考究とブラフマンの考究にこのような従属関係係がないことは、すでに説明済みである。
310istiがDarśapūrnamāsa祭を意味する。
311 Darśapūrnamāsa祭とSoma祭の場合には、順序が一 ktva接尾辞によって明言されているが、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合はそう ではない 。
(´・(ェ)・`)つ

554鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/07(水) 23:30:13 ID:Jhtm4LM20

 反対なのじゃ。
 主要なものと従属するものという関係がみられない場合でも、順序が決まっていることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないから順序はないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究に]順序があるという考えも、明言に基づく論破によって退けられるのじゃ。

555避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 08:08:06 ID:.s3PLAMs0
3.3.3.理由(3)ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究 の対象に違いがある  p300-301 152左/229

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いが あるからである。[すなわち]、ダルマの知識の果報は繁栄であり312、それは [祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり313、それはなんら[行為の]遂行に基づかない。また考究の対象であるダルマは、の ちに実現されるべきも(の)であって、考究の時点においては存在しない。何故なら、人間の努力に基づくからである。しかし、考(究)対象であるブラフマンはこの 世にすでに存在しているものである。というのは、ブラフマンは永遠に存在 し、人間の努力に基づかなしいからである。

  [反対主張]たとえ、従属するものと主要なものという関係、あるいは、すでに資格 のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、もし同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるであろう。たとえば、天界という同一の果報によって限定されている、アークネーヤ等の六つの祭式の場合のように314。あるい は、もしダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるので、順序が意図されていることになるのであろう。それはちょうど、[『ブラフマ・スートラ』]四章[全体]で明らかにされるブラフマンが、各章でそれぞれなんらかの観点から明らかにされている時、 四つの章は[その]考究の対象に違いがないので相互に関連しており、その場合には [四章間に]順序が意図されているのと同じである。
  [答論]これら[の条件が]両者とも存在しないという意図で、[師シャンカラは]、 また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いがあるからで あると言っているのである。[さらに]、果報の逢いを区別して、ダルマの知識の果報は繁栄である云々と[言っているのである]。すなわち、考究(知りたいという欲求)は 事実上知識に基づいているので、知識の果報は考究の果報にほかならない、という意味 である。また、ただ単に本性上果報が異なるだけでなく、それ(果報)を生みだす方法 にも違いがあるので、それ(果報)が異なるのである。だから[師シャンカラは]、それ は[祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり、それはなんら[行為の]遂行に基づがないと言っているのである。すなわち、「聖典に基づく知識を反復すること以外の[行為の]遂行に基づかない。というのは、[ブラフマンの念想が]、日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式と共存するということにしては、すでに論破したからである」315という意味なのである。
  [さらに]考究の対象が完全に異なることを、ダルマは、のちに実現されるべきも(の)で あって云々と言っているのである。のちに実現されるべきもの(bhāvya)とは、のちに生ずぺきもの(bhavitr)のことで、[bhāvyaという語の]krtya接尾辞(一ya)は、 行為主体を表しているのである316。そして、のちに生みだされるぺきものは、生みだ す人の活動によって実現されるから、それ(生みだす人の活動)に基づいているので、 それ(生みだす人の活動)以前一すなわち[のちに生みだされるぺきものが]知られた時点一には存在していない。これが[『註解』のこの箇所の]意味である。[一方]、 すでに存在しているものとは真実(実在)のことで、[それは]絶対に真実(実在)であって、どんな時でも決して非真実(非実在)ではない、という意味である。

脚注
312 天界のこと。
313 解脱のこと。なお、Śańkaraは祭式により繁栄が、知 識により至福が得られるとして、この二つの道をはっきりと対置させている。(くま注、Śańkaraのńはnの上に・であるが、活字がないのでńとした。以下同)
3I4 脚注244,299参照。
315 本訳280頁参照。
316krtya接尾辞(bhavyaの一ya)が行為者(kartr)を表し得ることについてーーの論議は、通常karma(行為の対象)を示す接尾辞一yaが自動詞/bhūにつくのはおかしいとい
う反対主張に対する答論であるとされる。
(´・(ェ)・`)つ

556鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/08(木) 23:22:38 ID:AQuD3DP.0

 ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究の対象に違いがあるのじゃ。
 ダルマの知識の果報は繁栄なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報は至福なのじゃ。

 考究の対象であるダルマは人間の努力によって実現するのじゃ。
 考究の対象であるブラフマンはすでに存在していて、人間の努力によらずともあるじゃ。

 反対なのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係や、すでに資格のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるというのじゃ。
 さらにダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるのじゃ。
 そこには順序もあるのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラはダルマの考究とブラフマンの考究には、前記の通り果報と考究の対象に違いがあるからこれらの条件が両者とも存在しないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究は果報も、考究の対象も違うのじゃ。
 ダルマは人が実践するものであるから、人が実践する前には存在しないのじゃ。
 ブラフマンは人が実践しなくとも、真実として常にあり続けるものであるから違うのじゃ。

557避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 23:35:51 ID:.s3PLAMs0
3.3.4.理由(4)ダルマの考究とブラフマン考究にはヴェーダの教 令の機能の仕方に違いがある  p302-303

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからである。というのは、教令(codana)は、ダルマの特徴であって317、[人に]それ自身の対象(祭式)を実行するように命じながら人に教えるが、一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだが らである。[後者の場合]、知識は教令から生ずることはないから、入は教令に よって]知識を得るように命じられているわけではない。たとえば、目と対象が接触すれば対象に関する知識が生ずるが、その場合と同じなのである。

  考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっている。だから[師シャンカラは、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからであると言っているのである。[ここで]教令とは、 ヴェーダの言葉のことを言っているのである。何故なら、[教令という]特殊によって [ヴェーダの言葉という]一般が間接的に表示されているからである318。[さらに]機能の違いを区別して、というのは、教令は、ダルマの云々と[言っているのである]。 人間の手になるものではないヴェーダの場合は、人間の意図によって異なる命令等の余地がないので、教令とは教えのことである。同じ趣旨で「それ(ダルマ)を知る手段 が教えである」319とも述べられている。そして、それ(教令)は、それ自身から生み だされる志向(bhāvanā)320、すなわち人間の活動、さらにはその(志向)の対象で ある供犠等を、[実行するよう人に命ずるのである]。実にそれ(供犠等)が志向の対象 なのである。何故なら、(1)志向すなわち[人問の]努力は、それ(供犠等)に基づいて決定されるからであり、(2)対象(visaya・くま注sな下に・)という語は、「siñ[(くま注sな下に・)という語根]は結びつけるという意味である」と[パー二二の規定にある]、この(siñという)語根から派生したものだからである321。[教令は、直接に]志向に基づいて、あるいは[間接的に]それ(志向)を通して322、供犠等が望んでいるもの(天界)[を得る]手段であることを[まず人に]理解させ、[次に]それ(供犠等)に対する欲求を起こさせること によって人に[供犠等を]実行するように命じながら、供犠等のダルマを教えるのである。それ以外のやり方によってではない。一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみである。[人を活動に]向かわせながら教えるのではない。何故か。知識は活動と無縁であって、教令から生ずることはないからである。

脚注
317codanāは、「[人を]行為へと向かわせる言葉」と定義されている。一方、Bhāmatī は、「ヴェーダ の言葉」と解釈する。なお。codanāが、このようにヴェ-ダ全体を意味し得るという解釈は他にも見られる。
318 319
320「天界を望む者は供犠を行うべきである」等のヴェーダの文章を聞くと、人に供犠を行おうという意図が生じ、供犠を行う。通常の命令の場合は、人Aが人Bに その命令を行おうという意図を生じさせるのだが、ヴェーダの場合には、ヴェーダの 文章自体が人にそれを実行しようという意図をおこさせるのである。
321対象という語には語源的に結びつけるという意味があるから、志向は対象に対して結びつけられているのである。
322
(´・(ェ)・`)
(つづく)

558鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/10(土) 00:12:33 ID:TSoLXVsA0
 さらにダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの教令の機能に違いがあるというのじゃ。
 教令はダルマの特徴であり人にそれ自身の対象である祭式を実行するように命じながら人に教えるのじゃ。
 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。

 考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっているのじゃ。
 教令とはヴェーダの言葉であり、神から授かった教えだというのじゃ。
 ダルマの教令は人間の活動と、志向の対象である供犠等を実行するよう人に命ずるものというのじゃ。
 供犠等が志向の対象なのじゃ。

 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。
 人を活動に向かわせながら教えるのではないのじゃ。。
 知識は活動と無縁であり、教令から生ずることはないからだというのじゃ。

559避難民のマジレスさん:2022/09/10(土) 02:29:07 ID:hwrjf2p60
(つづき)  p303-304
   [反対主張]ウパニシャッドは、「アートマンは知られるべきである」323という儀軌
と同一の文脈を構成するから、その儀軌に従属しており(のためのものであり一para)、 [人を]知識へと向かわせる324。[そして]人は、それ(ウパニシャッド)によって、ブラフマンを知るのである。だから、ダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、人は[教令によっ て)知識を得るように命じられているわけではないと言っているのである。その趣旨は以下の通りである。まず第一に、人はブラフマンの直証を実行するよう命じられるはずはない。何故なら、それ(ブラフマンの直証)は、ブラフマンを本性としているので、永遠であり、行為の結果ではないからである。また、〔ブラフマンの]念想を[実行するよう命じられるはず]もない。というのは、それ(ブラフマンの念想)は、知識 を優れたものとする原因であって、一致(anvaya)と矛盾(vyatireka)という方法によってすでに確立したものとして了解されているので325、教令によって命じられるものではないからである。さらに、聖典に基づく知識を得るように[命じられるはずも ない]。何故なら。人がヴェーダを学習し、話とその(語の)意味を知り、言葉の規則 に関する真理を理解していれば、それ(聖典に基づく知識)は、なんの障害もなく生じてくるからである。まさにこのことに関して例を[挙げて、師シャンカラは]たとえぱ目と対象が云々と述べ、[その例を]例によって示されているものと結びつけて、その場合と同じなのであると[言っているのである]。さらに、ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属している(のためのもの)とすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになろう。というのは[その場合には]、それ(ウパニシャッド)は、そのアートマンという真理のためのものではなく、その(アー
トマンの)知識を命ずる儀軌のためのものであることになり、それ(ウパニシャッド) がそれ(アートマンの知識を命ずる儀軌)のためのものであれぱ、それ(アートマンの 知識を命ずる儀軌)がそれ(ウパニシャッド)の意味であることになるからである。ま た、「知識は知識の対象に基づき[知識の対象を]必要としているから、[知識]以外の ものを目的とするものからでも、知識の対象が確知される」326ということはない。何 故なら、それ(知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということ)は、附託 によっても成り立つからである327。従って、ウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しない(のためのものではない)と確定した。

脚注
323
324この論議に関しては、BSBh I.1.4.の、ウパニシャッドは釈義であるという反対主張を参照のこと。
325「AはBである」という同一判断を示す文において、AとBという語に両立し得る意味を追求してゆくのが、一致の方法であり、AとBという語に両立しない意味を排除してゆくのが矛盾の方法である。たとえば、「汝はそれなり」という文において、「汝」という語の意味のうち、「それ」(すなわちブラフマン)と両立し得る意味(すなわち内的アートマン)を追求し、両立しない意味 (すなわち身体等の非アートマン)を排除するのが、一致と矛盾という方法なのである。
326この箇所は次のような趣旨の反対主張であるとされている。限定儀軌、たとえば「ソーマによって供犠を行うべし」という儀軌)の場合、その供犠は直接的には被限定者(ソーマによって限定されている供犠、すなわちソーマを用いる供犠)を行うよう命じているのであって、限定者(ソーマ)を用いることを命じているわけではないが、間接的には限定者(ソーマ)を用いることも命じていることになる。これと同じように、ウパニシャッドは、アートマンの知識以外のもの一すなわちアートマンを命ずる儀軌一を目的とするものであっても、この儀軌がアートマン という対象に限定されている限定儀軌なのだから、限定者であるアートマンもこのアートマンという対象に限定された、理解を命ずる儀軌の力で確知されるのである。
327縄を蛇と誤認するような場合で、この蛇の認識は誤った認識であっても、蛇の附託された縄という対象に基づき、その対象を必要としているわけだから、知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要とするからといって、対象が確知されるとはかきらない。
(´・(ェ)・`)つ

560鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/11(日) 00:01:08 ID:Jb7igCBA0
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドはアートマンは知られるべきであるという儀軌と同一の文脈を構成するから、儀軌に従属しており人を知識へと向かわせるというのじゃ。
 人はウパニシャッドによって、ブラフマンを知るのじゃ。
 そうであるからダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラは人は教令によって知識を得るように命じられているわけではないと言っているのじゃ。
 まず人はブラフマンの直証を実行するよう命じられていないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としているから永遠であり、行為の結果ではないからなのじゃ。

 さらにブラフマンの念想を実行するよう命じられることともないのじゃ。
 ブラフマンの念想は、知識 を優れたものとする原因であって、一致と矛盾という論理的方法によってすでに確立したものとして了解されているのじゃ。

 聖典に基づく知識を得るように命じられるはずもないのじゃ。
 人がヴェーダを学習し、話とその語の意味を知り、言葉の規則に関する真理を理解していれば、聖典に基づく知識は、なんの障害もなく生じてくるからというのじゃ。

 ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属しているとすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになるのじゃ。
 それは聖典の否定なのじゃ。
 ウパニシャッドはそのアートマンという真理のためのものではなく、アートマンの知識を命ずる儀軌のためのものであることになりるからなのじゃ。
 ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌のためのものであれぱ、アートマンの 知識を命ずる儀軌がウパニシャッドの意味というこになるのじゃ。

 知識は知識の対象に基づき、必要としているから、知識以外のものを目的とするものからでも、知識の対象が確知されるということもないのじゃ。

 知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということは、附託によっても成り立つからなのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しないと確定したのじゃ。

561避難民のマジレスさん:2022/09/11(日) 00:10:19 ID:hwrjf2p60
3.4。四種の条件の直後にブラフマンの考究が開始されるべきである  p304- 306 154左/229

  従って、Xの直後にブラフマンの考究が教示されるそのXが何か述べられ なければならない。答えて言う。それは、永遠なものと無常なものとを識別すること、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、解脱を求める者であることである。というのは、これらが存在していれば、ダルマの考究の前でも後でも、ブラフマンを考究して知 ることができるが、その逆ではないからである。従って、「そこで」という語は、ここに述べたような手段を得た直後を示しているのである。

  [師シャンカラは、これまで論じてきた]主題を結論づけて言う。従って、Xが何か述べられるべきあると。[すなわち]、Xが存在しない時にブラフマンの考究が存在せず、Xが存在する時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような[そのXが述べられるべきである]という意味である。そこで[さらに]言う。答えて言う。永遠なものと無常なものとを識別すること云々と。永遠なものとは内的なアートマンのことで、無常なものとは身体・感覚器官・対象等のことである。
  [反対主張]もしそれ(内的アートマン=ブラフマンと身体等)を識別することが確知であれば、このブラフマンの考究は余分なものとなろう。何故ならブラフマンは [この段階で]すでに知られているからである。
  [反対主張に対する反論]識別することとは単なる知識であって確知ではない。
  [反対主張]その場合には、これ(識別すること)は、錯誤とは異なるが、疑間の余 地があることになろう。だとすれば、[それが]離欲を生ずることはないであろう。[離欲を]生ぜずしてどうして、ブラフマンの考究の原因でありえようか。
  [答論]だから、以下のように説明すべきなのである。永遠なものと無常なものは、 永遠なものと無常なものの中に存在しているから、その属性のことであり、永遠なものと無常なものの基体およびその諸属性を識別することが、永遠なものと無常なものとを識別することなのである。その趣旨は以下の通りである。
  「この永遠なものが真実であり、この無常なものが非真実である」というような形で、特定の基体を識別することはないであろう。そうではなくて[人は]、永遠なものと無常なものの基体一般およびその諸属性を区別して、確実に知るだけなのである329。そして永遠であるということは真実であるということであり、それ(永遠であるとい う性質)のあるものは真実なものであるから、[永遠なものは]欲求の対象となるので ある。[一方]、無常であるということは非真実であるということであり、それ(無常であるという性質)のある無常なものは非貞実なものであるから、[無常なものは]欲求の対象にならないのである。さらに、これら「汝」という観念の対象である客観と 「私」という観念の対象である主観が経験されている時に、あるものが永遠すなわち真実すなわち幸福であると確定すれば、それは欲求の対象となるであろう。一方、あるものが無常すなわち非真実すなわち三種の苦しみ330にとりつかれている[と確定すれぱ]、それは放棄されるであろう。そして、この永遠なものと無常なものとを識別することは、前世あるいは現世に行った祭式によって心の浄化された人に、経験と論理に基づいて生ずるものなのである。
  また、「実に真実なものはまったく存在しない」と言うべきではない。それ(真実なもの)が存在しなければ、それ(真実なもの)に基づく非真実なものも成り立たないからであり、また、[すべては]空であると主張する人たちの場合にも、空性自体が真実だからである。そこで、この優れた人、すなわち経験と論理に基づいて上手に考察する人は、自己および生命体の世界[全体]を[次のように]考えるのである。すなわ ち、「和および生命体すべては、生死を繰り返しながら331、サティヤ界からアヴィーチ 界332のあいだを巡っており、一瞬・ムフールタ・ヤーマ・一昼夜・半月・一季節・半年・一年・一ユガ・四ユガ・マヌ期・帰滅・最終的帰滅・最初の創造・中問的な創造[と いう時期的区分]のある333輪廻の海の波に、どうしようもなく翻弄されて、三種の苦しみにとりつかれている」と。すると[この優れた人には]、この輪廻の世界は本質的 に無常で、不浄であって、苦しみに(ほ)かならない、というプラザンキヤーナ念想334が 生じてくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

562避難民のマジレスさん:2022/09/11(日) 00:11:16 ID:hwrjf2p60
脚注   (つづき)
328
329「永連性・無常性という属性が、アー トマンと非アートマンとの集合体に存在しているが、それらの属性はその基体に基づいて存在しているにちがいない」ということが確知されるにすきないのである。
330 331
332 サティヤ界とは最高の天界のことで、アヴィーチ界とは最低の地獄のことである。 333ムフールタとは一昼夜の三十分の一(48分)、ヤーマとは一昼夜の八分の一(3時間)である。またユガ期にはクリタ・ユガ(4,800年)、トレータ・ユガ(3,600年)、ドヴァーパラ・ユガ(2,400年)、カ リ・ユガ(1,200年)の四期(合計12,000年)があり、神の一年は人間の360倍なので、神の四ユガ期は12,000x360=4,320,000年となり、これがマヌ期と呼ばれる。そして、このマヌ期の二千倍、すなわち8,640,000,000年が、ブラフマー神の一昼夜すなわち劫(kalpa)と呼ばれ、世界は劫を周期として発生持続帰減を繰り返すとされる。
334この念想は、知行併合論の代表。ここBhāmatī では肯定的に評価されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

563鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/11(日) 23:10:24 ID:RKi7m0KQ0
 今まで論じてきた何の直後にブラフマンの考察をするのかということをやっと語るのじゃ。
 それは永遠なものと無常なものとを識別すること、現世と来世に利益を享受したい欲を捨てること、心の平静とか感覚器官の制御、あるいは心を馴らす等の手段を得ること、解脱を求める者となることなのじゃ。
 つまりは悟りを求めるための条件を満たすことじゃな。
 このような条件を満たしていれば、ダルマの考究の前でも後でも、ブラフマンを考究して知ることができるからなのじゃ。

 永遠なものとは内的なアートマンのことで、無常なものとは身体や感覚器官や感覚の対象等のことなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 内的アートマンであるブラフマンと身体等を識別することが確知であれば、このブラフマンの考究は余分なものだというのじゃ。
 何故ならばブラフマンはこの段階ですでに知られているからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 識別することとは単なる知識であって確知ではないのじゃ。
 つまり内的アートマンとか、ブラフマンとか知識を得ただけではいかんのじゃ。
 自分の心の中にそれを追求する実践をして、確知を得なければいかんのじゃ。

 知識ではなく、気づきによって人は悟りを得るというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは識別は錯誤ではないが、まだ不完全なものとなるというのじゃ。
 不完全なものが離欲を生ずることはないというのじゃ。
 離欲を生じないものがブラフマンの考究の原因とはなれないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は永遠なものと無常なものの基体一般およびその諸属性を区別して、確実に知るだけなのじゃ。
 そして永遠であるということは真実であり、永遠であるという性質のあるものは真実なものであるから、永遠なものは修行者の欲求の対象となるのじゃ。
 無常であるということは非真実であるということであり、無常であるという性質のある無常なものは非真実なものであるから、欲求の対象にならないのじゃ。
 要するにこの世の無常を観て考察すれば、永遠である内的アートマンを求めるようになるというのじゃな。

 そうであるから真実なものはまったく存在しないと言うべきではないのじゃ。
 真実なものが存在しなければ、真実なものに基づく非真実なものも成り立たないからじゃ。
 さらにすべては空であると主張する人たちの場合にも、空性自体が真実なのじゃ。
 仏教徒のことじゃな。

564避難民のマジレスさん:2022/09/12(月) 06:20:41 ID:b9y8PlGw0
(つづき)   p306-307
  そののち、このようなプラザンキヤーナ念想一[その]特徴は永遠なものと無常 なものとを識別するところにある一から、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てることか(ら)生ずるのである。[ここで利益というのは]、求められている もの、望まれているものという意味、すなわち果報等の意味である。[そして]、それ (利益)を捨てることとは、[その利益を]享受しないことを本質とする無関心な気持ち (buddhi)のことである。それから、心の平静・心を馴らすこと等の手段を得ることが [生ずる]。というのは、食欲等の汚れという酒に酔った心(思考器官,manas)は、感覚器官をそれぞれの対象に様々に向かわせ、善悪という果報を生みだす様々な活動を 生じさせて、人を輪廻という火山一[それは]様々な苦しみという業火の混ざり合っ たものである一の中に供物として投げ込むのである。しかし心(思考器官)は、プラサンキヤーナ念想を反復することで得られた離欲が完成する(熟する)と、食欲等の汚れという酒の酔いから醒めて、人に克服すなわち制御されるのである。[そして]、離欲を原因とする、まさにこの心(意)の克服が、心の平静(śama)とも「心の制御と 呼ばれているもの」335とも言われるのである。そして、克服された心(思考器官)は、 真理という対象に対して適応しやすくなる。まさにこの[適用]しやすさが、心を馴らすこと(dama)なのである。たとえば、「この若い牛は飼い馴らされている」というのは、「鋤や荷車などを運ぶのに適すようになった」ということである、と理解するようなものである。[『註解』本文中の]等という語には、対象を捨てようという欲求 (titiksā)、それ(対象)から退くこと(uparama)、真理を信ずることが含まれる336。 同じ趣旨で、「従って、[このように知る者]は、平静で、心が馴らされており、[対象 から]退いていて、[対象を]捨てたいと望んでおり、信仰をそなえた者となって、自己の中にアートマンを見、すべてをアートマンの中に見るのだ」337という天啓聖典旬がある。この心の平静・心を馴らすこと等の手段を得ること、すなわち[それらの手段が]優れたものとなることが、心の平静・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと) 等の手段を得ることなのである。そののち、この人(優れた人)に、輪廻の束縛から解脱したいという欲求が生ずるので、[師シャンカラは]、解脱を求める者であることであ ると言っているのである。そして、ブラフマンー[それは]本性上永遠で、清浄で、 悟っており、解脱しており、真実である一の知識が解脱の原因であると聞いて、ダルマの考究の前であろうと後であろうと、この人(優れた人)に、それ(ブラフマン)を 知りたいという欲求(考究)が生ずるのである。従って、[ブラフマンの考究は]まさ に、それら(永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件)の直後であって、ダルマの考究の[直後]ではない。だから[師シャンカラは]、というのは、これらが云々と言っているのである。そして、[これらの四種の条件がそろっていれば]、単 に考究だけでなく知識も[生ずる]というので、知ることが[できる]と言っているのである。[そして最終的に]結論づけて、従って云々と[言っているのである]。

脚注
335 336
337ここではUpanisadの原意よりBhāmatī の解釈にあわせて訳した。
(´・(ェ)・`)つ

565鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/12(月) 23:23:51 ID:h54.WZ4o0
 
 そして永遠なものと無常 なものとを識別するラザンキヤーナ念想によって、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てる心構えが生ずるというのじゃ。
 仏教では無常の観想にあたるものじゃな。
 現世が常に移り変わり、一切皆苦であることを観じて、この世を捨てて悟りを目指す決意和するのじゃ。

 現世の利益を捨てる決意をすることで、心の平静や修行の成果を得られるようになるのじゃ。
 そのようにして克服された心は、真理という対象に適応しやすくなるのじゃ。
 信仰を備えた者となって自己の中にアートマンを見て、全てをアートマンの中に見ることができるのじゃ。

 ブラフマンの考究はまさ に、永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件の直後であって、ダルマの考究の直後ではないというのじゃ。

566避難民のマジレスさん:2022/09/13(火) 01:39:55 ID:G7UG7Xt20
4.スートラの語義解釈(II)一「この故に」の語義 p.308 156/左229

  「この故に」という語は理由の意味である338。すなわちヴェーダは、「行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行(punya)によって得られた世界は来世で滅びる」339等々と、繁栄を達成する手段であるアグニホートラ祭340等の果報が無常であることを説き、また同じように、「ブラフマンを知る者は最高に達する」341等々と、ブラフマンの認識から入 人間の最高の目的 (解脱)342[が得られること]も説いている。それ故、先に述べた[四種の]手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきなのである。

  [スートラ中で「そこで」の]次にくる「この故に」という語を、[師シャンカラは、 次のように]説明している。「この故に」という語は理由の意味であると。[そして]、 「この故に」という語の[示す]理由の中味をヴェーダは云々と述べているのである。
ここで以下のように反対主張が提示される。

脚注
338、339
340 再生族の者(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ)で家住期にある者が、死ぬまであるいは遊行者となるまで、日に二回朝夕に義務として行わなければならない祭式で、牛乳等の供物を火に捧げるものである。
341、342 人間の目的には、実利、ダルマ(宗教的義務)、解脱の四種があるとされるが、ここではそのうちの解脱のことである。
(´・(ェ)・`)つ

567鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/13(火) 23:21:22 ID:AqcnZMQg0

 さらに続く、この故に、という語は理由の意味であるというのじゃ。
 ヴェーダは、行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行によって得られた世界は来世で滅びる、等々と、繁栄を達成する手段である祭式等の果報さえも無常であることを説いているのじゃ。
 ブラフマンを知る者は最高の境地に達する等々と、ブラフマンの認識から人間の最高の目的である(解脱が得られることも説いているのじゃ。
 そうであるから先に述べた四種の手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきだというのじゃ。

568避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:36:10 ID:G7UG7Xt20
>>566 と本日の2カ所の
「手投」は「手段」の誤植かなと思うであります。
(´・(ェ)・`)b

569避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:40:02 ID:G7UG7Xt20
4.1.四種の手投(→段)を得たのちにブラフマンを考究することは不可能 であるという反対主張
   p308-309

  [反対主張]その通りである。先に述べられた[四種の]手投(→段)を得た直後に、ブラフマンの考究が存在するのである。だが[そうだとすると]、それ(ブラフマンの考究) は不可能である。というのは、現世と来世において果報を享受したいという欲求を捨てることは、不可能だからである。すなわち、果報の特徴は欲求の村象であるというところにあるので、果報は好ましいものだと知るべきなのである。そして、[このようにそれ自体]執着の原因であるそれ(果報)に対して、[人は]執着を捨てることがで きないのである。
   [反対主張に対する反論][楽しみは]苦しみと裏腹なので、楽しみにかける執着を捨てることさえあるではないか。
   [反対主張]ああ、なんということを。[では]どうして、「[苦しみは]楽しみと裏腹だから、苦しみに対する執着を捨てることさえある」とはならないのか。従って、[人 は]楽しみを享受している時には、苦しみを避けるよう努力すぺきなのである。[そして]避けられないものとして苦しみが訪れた時でも、[その苦しみを]捨てて、楽しみ のみを享受すぺきなのである。それはたとえば、魚を得たいと思っている人が、苔や 刺のついた魚を取ってくると、取るべきもの(魚)だけ取って[あとは]捨てたり、あ るいは、穀粒を得たいと思っている人が、殻のついた穀粒を取ってくると、取るぺきも の(穀粒)だけ取って[あとは]捨てたりするようなものである。従って、「現世と来 世における楽しみは、好ましいものだとは知られてはいて[も]、苦しみを恐れるため に捨てられるのだ」というのは適当ではない。実に人は、獣がいるからといって、米の 種をまかないというわけではないし、また、乞食がいるからといって、調理用の鍋を火にかけないわけではないのである。
  さらに、白檀や女性などと接触することから生じる目にみえる楽しみは、[それらが] 滅するものだというところからくる苦しみのほうがうわまることがあるので、極めて 臆病な人ならあきらめるかもしれないが、天界などの来世の[楽しみ]は、滅すること がないので、そんなことはないのである。実に聖典にも、「我等はソーマ酒を飲んだ。 我等は不死となったのだ」343と述べられているし、また同じ趣旨で、「実にチャートルマースヤ祭を行った人の善行は、滅することがない」344と[いう聖典句も]ある。
  また、この[天界の]場合には、「作りだされたものだから、滅するものである」345と いう推論は成り立たない。人間の頭蓋骨が清浄であるという推論346と同じように、[その推論の]中味が、聖典によって否定されるからである。従って、先に述べられた[四種の]手段を得ることはありえないので、ブラフマンの考究は存在しえない、と結論づ けられるのである。

脚注
343
344チャートルマースヤ(Cāturmāsya)祭とは、四ヶ月毎に行われる季節祭のことで、れには、春の到来を告げるVaiśvadeva祭、雨季の到来を告げる Varunapraghāsa祭、秋の到来Sākamedha祭の三種がある。
345「天界は滅するものである。何故なら、作り出されたものだからである。たとえば、壼等のように」という反対主張者の推論が挙げられている。
346「人間の頭蓋骨は清浄である。何故なら、生きものの部分だからである。たとえば、法螺貝ように」という推論は、「人は骨に触れたら沐浴し、着物をまとって水に入 るべきである」(出典不明)等の聖典句と矛盾するので、否定されるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

570避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 07:19:15 ID:G7UG7Xt20
4種の手投→
1、永遠なものと無常なものとを識別すること、
2、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、
3、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、
4、解脱を求める者であることである。
(´・(ェ)・`)b

571避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 22:25:56 ID:esgAx5y60
>>570
4種の手投→4種の手段
(´・(ェ)・`)b

572鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/14(水) 23:43:33 ID:eRiEmGmY0

 反対なのじゃ。
 四種の手段を得た後にブラフマンの考究をするのは不可能というのじゃ。
 現世と来世の果報を欲求する執着を捨てるのは、不可能だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 苦楽は表裏一体と知って、安楽への執着を捨てることもできるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 苦が起きた時でも、苦を捨てて楽しみを享受するべきだというのじゃ。
 天界の楽しみは滅しないからあきらめてはいかんというのじゃ。
 そうであるから四種の手段を得ることはありえないからブラフマンの考究は存在し得ないというのじゃ。

573避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 23:49:05 ID:esgAx5y60
4.2.四種の手段を得たのちにブラフマンを考究することは可能で あるという答論  p310-311

  [答論]このような[反対主張者の]結論に対して、神聖なるスートラ作者は、この故にと答えているのである。[そして]その意味を、『註解』の作者は、すなわち、 ヴェーダは云々と説明しているのである。その趣旨は次の通りである。
  確かにその通りである。獣や乞食などは料理人や農夫が追い払うことが可能である。 しかし、様々な原因から生じた様々な苦しみは、取り除くことができないのである。というのは、[自己以外の外的な]手段に頼ることからくる苦しみと[楽しみは]滅するものであるというところからくる苦しみとは、最終的には、作りだされたあらゆる楽しみと常に共存しているからである。実に、最もすぐれた職人でも、蜜と毒のまじった食べ物から毒[だけ]を捨てて、蜜のついた[食べ物]を食べることはできないのである。また、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]ように云々」347とい う聖典句は、[天界は]滅するものであるという推論に裏付けられて、[天界が]滅するものであることを明らかにしており、[その場合には]「我等はソーマ酒を飲んだ云々」 等の聖典旬は、文字通りの意味であることが不可能なので、二義的な意味(比喩的な意味)をもつものであることになる。たとえば、プラーナに精通している人は、「元素に
帰るまでの状態が不死性と呼ばれるのである」348と述べているのである。
  そしてここでは、ブラフマンという語によって、それ[を知る]認識根拠であるヴェーダが思い起こされるのである349。さらに[ヴェーダのなかでもこのスートラの主題に]適したものということで、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]よう に云々」等のそれ(ウパニシャッドの聖典句)が、「これ故に」[の「これ」という]代 名詞によって言及され、さらに[「これ故に」の「故に」にあたる]理由を示す第五格によって示されているのである350。
  [反対主張]天界等の作りだされた楽しみは、苦しみと裏腹である。ブラフマンもそれと同じであろう。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは]また同じように、 ブラフマンの認識がら[最高の人問の目的(解脱)が得られること]も云々と答えてい るのである。その意味するところは以下の通りである。すなわち、「この故に」=「天界等が滅するものであることを明らかにし、かつブラフマンの知識が人間の最高の目的であることを明らかにする聖典に基づいて」、先に述べた[四種の]手段を得、それ からブラフマンの考究が[行われるべきである]、と確定したのである。

脚注
347 348
349この箇所は、バースカラの次のような見解に対する答えである とされている。「永遠なものと無常なものとを識別すること等が主題となっているわけではないので、それ(永遠なものと無常なものを識別すること等)の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない。従って、「この故に」という語は、祭式の果報が可滅であり、ブラフマンの知識が解脱の原因であるとい うことに言及しているわけではない、とするのが正しいのである」。すなわちここでは、このような見解 に対して、スートラ中のブラフマンという語から、ヴェーダなかでも祭式の果報が(可?)滅で、ブラフマンの知識が解脱の原因であることを説くウパニシャッドの聖典句が思い起こされ、「この故に」の「この」が、そのウパニシャッドの聖典匂に言及しているので、このバースカラの見解は正しくないというのである。
(´・(ェ)・`)つ

574避難民のマジレスさん:2022/09/15(木) 17:19:16 ID:Pz2aH0Zs0

脚注
350「この故に」というのは、代名詞「これ」に第五格を示す接尾辞がついたもの である。
(´・(ェ)・`)b

575鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/15(木) 23:32:08 ID:P/npat6E0

 答えたのじゃ。
 スートラにはさまざまな原因から起こる苦は取り除くことができないと述べられているのじゃ。
 どのような苦も最終的には、あらゆる楽しみと常に共存しているからなのじゃ。
 さらに聖典には天の世界も、やがては滅すると書かれているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 天界の楽しみは苦がないはずなのじゃ。
 ブラフマンも同じだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、 ブラフマンの認識から人問の最高の目的である解脱が得られるというのじゃ。
 つまりは苦から逃れるには、悟りを得るしかないというのじゃ。
 天界等も滅するものであり、ブラフマンの知識が人間の最高の目的であるという聖典により、四種の手段を得てから、ブラフマンの考究が行われるべきであるというのじゃ。

576避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 02:06:16 ID:Pz2aH0Zs0
5.スートラの語義解釈(III) ーー「ブラフマンの考究」の語義  157右/229
5.1.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表す第六格である  p311

  「ブラフマンー考究」(brahmajijnāsā)とは、ブラフマンの考究のことで ある351。そしてブラフマンの定義とは、[ブラフマンとは]それ基づいて この[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と[次のスートラI.1.2で]述べられるであろう。従って、ブラフマンという語に[バラモン というような]カースト等の別の意味を想定すぺきではないのてある352。「ブラフマンの」(brahmanh)というのは、行為の対象を表す第六格であり、 それ以外の関係を表す(śese)353[第六格]ではない。何故なら、考究には 考究の対象が必要であり、かつ、[ブラフマン]以外の考究の対象は示されていないからである。

脚注
351
352「ブラフマン」という語には、絶対者としてのブラフマンという意味以外に、バラモンというカーストという意味や、ヴェーダという意味などがあるが、ここでは絶対者としてのブラフマンという意味にとるぺきであるということである。
353「それ以外の場合に第六格が[用いられる]」とあり、ここではこれを前提としている。なお「それ以外の場合」とは、行為の対象等を示す場合および名詞語幹の意味を示す場合以外のことで、所有、被所有の関係等を示す場合であるとされている。

5.1.1.「ブラフマンの考究」という語は第六格の格限定複合語である  p312

  [スートラ中の]「ブラフマンー考究」という[複合]語を説明して、[師シャンカラ は]、ブラフマンの[考究のことである]と言っているのである。[このように]第六格の複合語[であること]を示すことによって、これまでの註釈者たちの[解釈]、すなわちブラフマンのための考究が「ブラフマンー考究」であるという第四格の複合語[とする解釈]を退けているのだと知るべきである354。というのは、(1)「第四格の複合語の場合には、素材と[その]産物(prakrtivikrri)とが理解されるべきである」355という力一テイヤーヤナの言葉によって、祭式用の杭と[その素材である]木などのように、素材と[それの]産物という関係のあるものの場合にのみ、第四格の複合語となると決まっているので、素材と産物という関係のないこの(ブラフマンと考究)等の場合’には、それ(第四格の複合語とすること)は禁じられているからであり、(2)「馬のかいば等は第六格の複合語であるべきである。」等[の文章]が、かいば等の場合には、第 六格の複合語[となること]を規定しているので、[「ブラフマンー考究」が]第六格の複合語であっても、ブラフマンが実際には主要なものであるということは成り立つか らである356。

脚注
354
355 第四格は、素材(prakrti)と その産物(vikrti)の場合に用いられるとされている。
356また同じ箇所で、「馬のかいば」という複合語の場合には、「馬のためのかいば」という意味の第四格のと解されるから、第四格のを素材とその産物だけに限るのは不適当ではないか、という反論に対して、この場合には、第六格と解すぺきであるとされている。そしてこの場合、かいばは馬のためのものであるから、馬のほうが主要なものである。
(´・(ェ)・`)つ

577鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/16(金) 23:00:59 ID:dNtawhug0
ブラフマンと考究の複合語である、Brahmajijnasa とはブラフマンの考究のことであるというのじゃ。
 バラモン階級をあらわすブラフマンではないというのじゃ。
 Brahmanaとは行為の対象を示す第六格の言葉であり、ブラフマンが考究の対象であるというのじゃ。
 ブラフマンが考究の対象として主要なものであるというのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 23:52:41 ID:3HJ9Ki4o0
5.1.2.「ブラフマン」という語は最高のアートマンを意味している  p312

  [反対主張]ブラフマンの考究と言った時に、ブラフマンという語にはいろいろな意味 があるので、どのブラフマンの考究なのかという疑問が生ずる。ブラフマンという語は、 「バラモン殺し」357(brahmahatyā)という場合のように、バラモンというカーストの意味で[も用いられるので]ある。また、「ヴェーダを捨てること」358(brahmojiham) という場合のように、ヴェーダという意味で[も用いられるので]ある。また、最高の アートマンという意味で[用いられることもある]のである。たとえば、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」359という場合のように。
  [答論]まさにこの疑問を、[師シャンカラは次のように]退けているのである。そしてブラフマンの定義は[次のスートラI-1.2で]述べられるであろうと。[このよう に師シャンカラは]、ブラフマンの考究を提唱したのちに、それ(ブラフマン)を認識させるために、最高のアートマンだと定義づけているので、われわれは、これ(ブラフマンの考究)とは最高のアートマンの考究のことであって、バラモンというカーストなどについての考究ではないのだ、と理解するのである。これが[「註解』のこの箇所の]意味なのである。

脚注
357 358 359

5.1.3.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表わす第六格である  p313 右158/229

  [反対主張]第六格の複合語であることは認めるにしても、これは行為の対象を示す第六格ではなくて、それ以外の関係を示す[第六格]である。そして、それ以外の関係とは、一般的関係のことであるので、「ブラフマンの考究」というのは、「ブラフマンに関係する考究」ということである。従って、「ブラフマンの考究」[という語]によって 理解されるブラフマンの考究の中味は、ブラフマンの本質、[ブラフマンを知る]認識根拠や論理、[ブラフマンに達する]手段、[ブラフマンを知る]目的に関するもろもろの考究すぺてなのである。というのは、[ブラフマンの本質、ブラフマンを知る認識根拠等は]、直接的間接的にブラフマンと関係しているからである。だが、行為の目的を示す第六格の場合には、ブラフマンという語の示すものは、[考究という]行為の対象であって、それはとりもなおさず[ブラフマンの]本質のことであるので、それ(ブラフマン)[を知る]認識根拠等は含まれないことになろう。従って、認識根拠等に関する考察は、命題として提示されていない事柄に対するものとなってしまうであろう。
   [答論]このように考える人たちに対して、[師シャンカラは次のように]答えてい
るのである。「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す云々と。[そして]その理由を、[何故なら]、考究には云々と述べているのである。すなわち、知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマ ンである。[そして]実に、知識はその対象がなければ形をなさないし、考究(知りた いとう欲求)は知識がなければ形をなさないのである。従って考究は、[知りたいとい う欲求を]達成することと結びついているので、なによりもまず[欲求という]行為の対象を必要とするのであって、[それに]関するもの[一般]を[必要とするの]で はない。それ(行為の対象)に関係するもの[一般]が存在しなくても、行為の対象が
存在すれば、それ(考究:知りたいという欲求)は形をなすからである。実に、太陽と月を見て、「これは何に[関係しているのか]」と、[太陽や月と]関係するものを詮索 することはないのである。そうではなくて、知識といった時には、「何がその対象なの か」という形で対象を詮索するのである。従ってブラフマンは、[考究に]まず第一に 必要なものなので、対象として[考究と]関係しているのであって、[考究に]関係するもの一般として[関係しているの]ではないのである。というのは、それ(考究に関係するもの一般)は、二次的なものだからである。従って、[「ブラフマンの」というの は]、行為の対象を表す[第六格]であって、それ以外の関係を表す[第六格]ではな いのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

579鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/17(土) 23:30:27 ID:/8BnkeKE0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンという語にはいろいろな意味があるから、どのブラフマンの考究なのかという疑問があるというのじゃ。
 バラモン階級とか、ヴェーダとか、最高のアートマンとかなのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの定義は次のスートラで述べられるといったのじゃ。
 ブラフマンの考究を提唱した後、ブラフマンを認識させるために最高のアートマンを求めるべきだと定義づけているので、ブラフマンの考究とは最高のアートマンの考究のことだとわかるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究というのは、ブラフマンに関係する考究ということだというのじゃ。
 ブラフマンの、というのが行為の対象を表す言葉であれば、認識根拠等に関する考察は命題として提示されていない事になるからなのじゃ。

答えたのじゃ。

 知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマンなのじゃ。
 知識はその対象がなければ形をなさないし、考究は知識がなければ形をなさないのじゃ。
 考究は、知りたいという欲求を達成することと結びついているから、なによりもまず欲求という行為の対象を必要とするのじゃ。
 それに関するもの一般を必要とするのではないのじゃ。
 行為の対象に関係するもの一般が存在しなくても、行為の対象が存在すれば、考究は形をなすからなのじゃ。 

 
 知識という時には、何がその対象なのかという形で対象を詮索するのじゃ。
 ブラフマンは考究にまず第一に必要なものであるから、対象として考究と関係しているのじゃ。
 考究に関係するもの一般として関係しているのではないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの、というのは行為の対象を表す第六格であり、それ以外の関係を表す第六格ではないというのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2022/09/17(土) 23:49:44 ID:FeYARfGE0
5.2.「ブラフマンの」が行為の対象を表わす第六格である理由 p314-316 159左/229

  [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表 す[第六格だ]と認めたとしても、ブラフマンが考究の対象であることは矛盾 しないのではないか。何故なら、一般的な関係は特殊[な関係]に基づくからである。
  [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の対象であるということを否定して、一般的[関係]を媒介とすることによって、間接的に対象である と想定するのは無駄な努力であろう。
   [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関係するすべて[の事柄]について考察することを約東するという意味があるからである。
  [答論]そうではない。主要なものが認識されれば、それ(主要なもの)に基 づくものは[すべて]付随的に理解される(arthāksipta)からである。[そして]実にブラフマンは、知識によって最も得たいと望まれているものなので、主要なものなのである360。その主要なものである考究の対象が理解された時には、それらが考究されなければブラフマンが考究されたことにならないような事柄は、まさに付随的に理解されるので、[それらを]別個にスートラで述べる必要はないのである。たとえば、「かの王が行く」と言った時には、王が従者とともに行くことが述べられていることになるが、それと同じである。さらに、[このようにブラフマンが考究の直接の対象であるとするのは]、天啓聖典句と一致するからなのである。すなわち、「実にそれよりこれらの諸存在が生じてきた云々」361で始まる諸天啓聖典句は、「それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」362と、ブラフマンが考究の対象であることをまさに直接に示しており、それら(諸天啓聖典句)は、[スートラ中の「ブ ラフマンの」という語を]行為の対象を表す第六格に取った時に、スートラと一致するのである。従って、「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す 第六格なのである。

  ある者がその意図を隠して、[次のように]反対主張を提示している。
   [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表す[第六格だ]と認めたとしても云々と。すなわち、一般的関係は特殊な関係と矛盾しないので、考究は、[ブラフマンが考究という]行為の対象であることと矛盾せずに、形をなすことができるからである、というのが[その]意味なのである。
   [師シャンカラ自身も]まさにその意図を隠して、[次のように反対主張を]批判しているのである。
   [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の云々と。すなわち、[ブラフマンが考究の]対象であることは、聖典に]直接述べられており、また[それは]考究がまず第一に必要とし、かつ考究とまず第一に関係してしかるぺきである[のに]、[その対象であるという]関係を放棄して、[考究に]関係するもの一般一[それは]のちになってなんとか必要となってくるものである一との関係[を想定するの]は、最後のものを最初にし、最後のものを最初にすることになる。とすれば[ここでは]、諭理 の)原理がなんとうまく説明されていることか(全く説明されていないことになる)。 そして、直接のとか間接にと言っているのは、「主要な」とか「主要でない」あるいは 「明らかな」か「明らかでない」という意味なのである。
  反対主張者が自己の意図を明らかにする。
  [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関するするすぺて云々と。 これはすでに説明したところである。
  答論者も自己の見解を明らかにする。
  [答論]そうではない。主要なものが理解されれば云々と。ブラフマンは、[言葉の上では主要なものではないが]、実際には主要なものなのである363。その他の意味は、 例も含めて、不明なところはない。また、天啓聖典句の趣旨も不明なところはない。
  以上のように、[「ブラフマンー考究」という]複合語を、[自分の]望んだ通りに、 [行為の対象を表す第六格の複合語だと]確定したのち、[師シャンカラは次のように]、 「考究」という語の意味を述べているのである・ [考究とは]知りたいという云々と。

脚注
360行為の村象(Karma)の定義によれば、行為の対象とは、「行為者にとってもっ とも得たいと望まれているものである」とされており、この定義がここで前提となっていると思われる。
361 362
363脚注210参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

581鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 00:08:12 ID:IpT5Tkiw0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの、というの一般的な関係であっても、考究の対象であることと矛盾しないというのじゃ。
 特殊な関係も一般的な関係に基づくからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが直接の関係ではなく一般的な関係を媒介にして、間接的に対象とするのは無意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関する全てを考察するから無意味ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 主要なものが認識されれば、主要なものに基づくすべてが付随的に理解されるから必要ないのじゃ。
 ブラフマンは主要なものなのじゃ。
 そうであるからブラフマンのというのは、行為の対象を表す第六格なのじゃ。

582避難民のマジレスさん:2022/09/19(月) 07:37:04 ID:PGamRFVQ0
6.スートラの語義解釈(IV) 「考究」の語義
   p316-319 160左/229

  「考究」とは知りたいという欲求のことである。[そして]理解(悟り,avagati) をもって終わる知識が、san[という語尾]によって表されいる欲求の対象な のである364。何故なら、欲求はその結果を対象とするからである365。さらに、知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのが、ブラフマンなのである366。というのは、ブラフマンの理解(悟り)は、輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので、人間の目的だからである。従って、 ブラフマンが考究されるべきなのである。

脚注
364「考究」(jijñāsā)という語は、「知る」(/jña)という語根にsanという欲求を示す接尾辞がついてできたものである。
「村に行く」というような場合には、行くという行為の対象は村であり、行くという行為の結果は村に到着することであるというように、行為の対象と行為の結果は異なるが、欲求の場合には、結果を望んでいるわけであるから、欲求という行為の対象がそのままその行為の結果となるので、両者は一致するのだとされている。
366 脚注360参照。

6.1.ブラフマンの知識は欲求の対象が否か

  [反対主張]知識は欲求の対象ではないであろう。楽しみを得て苦しみを避けるこ と、および、それらを媒介としてそれら(楽しみを得て苦しみを避けること)の手段 が、欲求の対象となるのである。[だが]ブラフマンの知識はそうではない。それは実 に、好ましいものだとも好ましくないものを止滅させるものだとも経験されていない のである。さらに、それら両者(楽しみと苦しみ)を得る手段でもない。というのは、 それ(ブラフマンの知識)がある時でも、特別の楽しみは見られないし、苦しみは引き
続いていて止滅することがないからである。従って、スートラの作者の言葉にのみ基 づいて、知識が欲求の対象であるとすぺきではない。
  [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。理解(悟り)をもって終わる云々と。ただ単なる知識が望まれているのではない。

そうではなくて、理解(悟り)すなわち直証を生み出す「理解(悟り)をもって終わる [知識]」が、San[という語尾]によって表されている欲求の対象なのである。何故か。 欲求はその結果を対象とするからである。すなわち欲求は、その結果が得られるまで、 それ(結果)[を得る]手段を対象とするというのが、言外の意味なのである。
[反対主張]知識は理解(悟り)をもって終わるとしておこう。[だが]だからといっ て、望ましいものとなるのだろうか。というのは、必要とされていないものを対象と する知識は、たとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないからである。 [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。さらに知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのがブ ラフマンなのであると。 [反対主引長]ブラフマンを対象とする理解があるとしておこう。たとえそうでも、 [その理解は]どうして望ましいものなのか。
[答論]このような[反対主張]に対して、[岬シャンカラは]、というのは、ブラフ マンの理解(悟り)は、人間の目的だからであると答えているのである。それは繁栄で あろうか。そうではない。そうではなくて、至福なのである。すなわち、苦しみとの関 わりがすべてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ること([それは] ブラフマンの本質にはかならない)、それこそが至福であり、人間の目的なのである。
(´・(ェ)・`)つ

583鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 23:51:04 ID:ij8ZaVPk0
 考究とは知りたいという欲求であり、その知識はブラフマンの理解である悟りで終わるものであるから、欲求の対象となるのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、輪廻の原因である無明を滅するから人間の目的なのじゃ。
 そうであるからラフマンが考究されるべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 知識は欲求の対象ではないというのじゃ。
 苦を避け、快楽を求めるものが欲求の対象となるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 欲求はその結果を対象とするから知識も対象となるのじゃ。
 欲求はその結果が得られるまで、結果を得るための手段である知識も対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 必要とされていないものを対象とする知識はたとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識という認識根拠によって、理解という悟りを得たいと人々が最も望んでいるのがブラフマンなのであるから知識も欲求の対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンを対象とする理解があるとしても、その理解が望ましいものとはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、人間の目的であるから望ましいのじゃ。
 それは至福なのじゃ。
 最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ることが至福であり、人間の目的なのじゃ。

584避難民のマジレスさん:2022/09/20(火) 03:35:29 ID:S56uQNvI0
6.2.ブラフマンを知ることは人間の目的か否か   p317-318 160右/229

  [反対主張]ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。何故なら、人間の目的は、人間の活動によって、その存在する領域が覆われていなけれぱならない(vyāpya)367からである。だが、これ(ブラフマンの悟り)は、ブラフマンをその本性とする[ので]、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりすることがありえな いのである。というのは、そのような場合には、[ブラフマンは]無常であることになり、その(ブラフマンとしての)本性をそなえることが成り立たないからである。そして、生ずること等が存在しなければ、[ブラフマンの悟りが]、活動によって、その存在する領域を覆われることはないのである368。従って、ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。
   [答論]以上のような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので云々と。確かに、ブラフマンをその 本性とするブラフマンの悟りに、生ずること等はありえない。だが、[実在であるとも 非実在であるとも]表現することのできない無始の無明のせいで、ブラフマンの本性は、輝いているのに輝いていないかのように、[自己]以外のものに基づくことなく輝 いているのに[自己]以外のものに基づいて輝いているかのように369、身体・感覚器官等とは異なるのに異ならないかのように見えるので、輪廻の原因である無明等の悪が滅せられる以前には獲得されていないかのようであって、それ(無明等の悪が滅せられること)が存在する時に獲得されたかのように見えるのである。そのため人に望まれるので、人問の目的なのであるとするのが正しい。

脚注
367 人問の目的は人問の活動の目的であるから、人間の活動が存在する領域のなかに人間の目的の存在する領域が含まれて必要がある、というのである
368ブラフマン=ブラフマンの悟り=解脱が、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりするものでない。このようにブラフマンの悟り が生じたりしなけれぱ、人間の活動の対象ではないことになるので、人問の活動の存在する領域のなかに含まれていないことになるのである。
369 不二一元論学派によれば、ブラフマンは自らに基づいて輝いている認識そのものであって、通常の対象の場合とは異なり、ブラフマン自身以外のものに基づいて認識されるというようなものではないとされ ている。

6.3.解脱を望む者はブラフマンを考究すべきである  p318

  なお[『註解』本文の]無明等の等という語からは、その(無明の)潜在印象が理解 されるのである。また、無明の止滅は、念想の結果である直証一[それは]内官の変 容の一種である一から[生ずる]と理解すべきである370。[さてここで師シャンカラ は、次のように]結論づけている。従って、ブラフマンが先に述べたような特徴をそな えた371解脱を望む人によって考究されるべきなのであると。実に、その(ブラフマンの)知識がなければ、無明一[それは]潜在印象をともない、様々な苦しみの原因で ある一が滅せられることはない。そして、それ(無明)が滅せられなけれぱ、苦しみ との関わりがすぺてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アー トマンとが同一であるという直証は、個人存在に現れることがないのである。従って、 歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アートマンとの同一性を望む者によって、 それ[を知る]手段である知識が求められるぺきなのである。
(´・(ェ)・`)つ

585鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/20(火) 23:25:22 ID:beBu0zAQ0

 反対なのじゃ。
 人間の目的は人間の活動領域にあるからなのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは人の領域にないから目的にはならないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 無明のせいでブラフマンの輝きも、心身との違いもないようにみえるのじゃ。
 無明がなくなればブラフマンが自ら認識されるのじゃ。
 そうであるから人に望まれ、目的にもなるのじゃ。

586鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/20(火) 23:28:43 ID:beBu0zAQ0

 そうであるからシャンカラは解脱を望む者に、ブラフマンの考究が実践されるべきというのじゃ。
 ブラフマンの知識があれば、無明も滅せられ、苦がなくなればブラフマンとアートマンの同一が直証されるのじゃ。
 そのためにブラフマンの考究が実践されるべきなのじゃ。

587避難民のマジレスさん:2022/09/21(水) 04:52:56 ID:ykaKzq6s0
6.4.「ブラフマ・スートラ』I.1.1の意義 p319 161右/229

  またそれ(ブラフマンの知識)は、諸ウパニシャッドのみから[生ずるの]ではなくて、ブラフマンの考察に助けられて[諸ウパニシャッドから生ずるので]ある。従っ て、[ブラフマンを知りたいという]欲求が[人を]ブラフマンの考察へと向かわせる のであり、[その欲求が人を]、諸ウパニシャッドやその(諸ウパニシャッドの)意味を 述べようとすることへと、[向かわせることは]ないのである。というのは、(1)これ (諸ウパニシャッドの意味を述べようとすること)に関してはすでに、「そこで、この故 に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」というスートラー[これは]、ヴェー ダの学習を命ずる儀軌の趣旨が、[ヴェーダの文章の]意味をその果報372も含めて理解 するところにあるということを、スートラという形で述べたものである一によって 開始されているからであり、(2)また、ダルマという語は、ヴェーダ[全体]の意味を 暗に示しているので、非ダルマと同じようにブラフマンも暗に意味していることになる からである373。[だが]たとえ、ダルマの考察の場合のように、ブラフマンの考察も、ヴェーダの意味の考察によって暗に意味することが可能であるにしても、それ(ブラフ
マンの考察)は、前者の考察(ダルマの考察)からは生じないのである。また、ブラフマンの考察は、単なる[ヴェーダの]学習の直後に[開始されるべきもの]ではない。
従って、ブラフマンの考察を開始するために、また永遠なものと無常なものとを識別す
ること等の直表に[ブラフマンの考察が開始されるべきことを]示すために、このスートラが開始されるぺきなのである。だから[このスートラは、「そこで、これ故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」というスートラがすでに述べたことを]、繰り返して述べているわけではないのである。

脚注
370『パーマティー』の場合には、シャンカラとは異なり、解脱への階梯のなかで,心的な活動である念想が極めて重要な役割を果たしている。
371「先に述べたような特徴をそなえた」とは、(1)永遠なものと無常なものとを識別すること、(2)現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、(3)心の平静・感覚器官の制御等の手投を 得ること。(4)解脱を求める者であること、というブラフマンの考究のための四種の条件をそなえたという意味である。
372 ヴェーダの学習の結果得られる果報である天界のこと。
373ヴェーダのなかには、ヴェーダの儀軌が行うように命じているダルマや、禁令が命じている非ダルマや、ヴェーダの一部であるウパニシャッドに説かれているブラフマンなどが含まれている。
(´・(ェ)・`)つ

588鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/21(水) 23:46:40 ID:a14PsG7c0
 ブラフマンの知識は、諸ウパニシャッドのみから生ずるのではなくて、ブラフマンの考察に助けられて諸ウパニシャッドから生ずるのじゃ。
 
 経典を参考にして実践することでブラフマンの知識も生じるというのじゃ。
 
 ブラフマンの考察は、ダルマの考察からは生じないのじゃ。
 ブラフマンの考察は、単なるヴェーダの学習の直後に[開始されるべきものでもないのじゃ。

 永遠なものと無常なものとを識別すること等の直後、ブラフマンの考察が開始されるべきであることを示すために、このスートラが開始されるぺきなのじゃ。

589避難民のマジレスさん:2022/09/22(木) 02:33:41 ID:fPgzSqHs0
7.ブラフマンの考究の意義
7.1.ブラフマンの存在はすでに良く知られている  p319-320 161右/229

  [反対主張]ところで、ブラフマンはすでに良く知られているものなのだろうか、それともまだ知られていないものなのだろうか。もしすでに良く知られているものだとすると、考究する必要はないであろう。またもしまだ知られていなければ、考究することは不可能であろう374。
   [答論]まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、また、全知で全能をそなえたものとして、存在しているのである。何故なら、ブラフマンという語には、その語根である/brhの意味に 従って、もともと語源的に、永遠性・清浄性等の意味が認めれらるからである375。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのである。というのは、人はすべてアートマンが存在すると信じており、「私は存在しない」とは[信じて]いないからである。実にもし、アートマンが存在することが知られていなければ、他の人はすべて「私は存在しないのだ」と信じていることであろう。そして、(この)アートマンがブラフマンなのである。

脚注
374 同じ論議がダルマに関して行われている。
375語源学の書でも、Brahmanという語の語源を増大する、強大となると解釈している。

7.1.1.ブラフマンは、すでに良く知られているにせよ、まだ知られていないにせよ、考究の対象とはならないという反対主張 p320-321

   [反対主張]「このスートラは、[ブラフマンの]考察がブラフマンの知識を得る手段であることを明らかにしている」376と先に述べられていたが、それは正しくない。何故なら、[ブラフマンは次のような]疑問(vikalpa)にたえないからである。このような趣旨で[われら反対主張者は、次のように]反対主張を提示しているのである。ところでブラフマンは云々と。すなわち、[ブラフマンは]、諸ウパニシャッドー[それらは]人間の作ったものではないので、正しい認識根拠であることがそれ自体で確立している一に基づいて、すでに良く知られているか、あるいは、まだ知られていないかのいずれかであろう。もしすでに良く知られているとすると、[ブラフマンは]、ウパニシャッドの文章から生じた確実な知識の対象であることになるので、考究する必要はないであろう。というのは、[ウパニシャッドという認識手段の]対象(ブラフマン)に、[認識という]行為がすでに生み出されているのに、[そのブラフマンという]対象に対して、[ウパニシャッドという認識の]手段が、なんら違いをもたらさないとすれぱ、それは、手段の定義からはずれてしまうことになるからである377。
  またもし、諸ウパニシャッドからまだ知られていなければ、諸ウパニシャッドは、それ(ブラフマン)について教えていないことになるので、[ブラフマンは]どうやっても知られないということになり、考究すること(知りたいと望むこと)ができなくな るであろう。というのは、欲求は、すでに経験されていてかつ好ましいものに対して生ずるのであり、どうやってもこれまで経験したことのないものに対しては、[欲求が 生じ]ないからである。また、[ブラフマンというまだ経験されていないものに対してでも]、欲求が生ずるとしても、[それを]知ることはできない。何故なら、[それを知る]認識根拠が存在しないからである。というのは、聖典が[ブラフマンを知る]母胎(典拠)だからであると、[『ブラフマスートラ』I.1.2で]述べられるように、聖典 のみがそれ(ブラフマン)[を知る]認識根拠だと言うべきなのであるが、[すでに述べ たように]、もしそれ(ウパニシャッド)がそれ(ブラフマン)を教示していないとすると、それ(聖典)はそれ(ブラフマン)に関する正しい認識根拠ではないことになるし、また、[聖典]以外の認識根拠がブラフマンに対して作用することはないからであ る。従って、すでに良く知られているものは、知ることができても考究(知りたいという欲求)が存在しないし、また、まだ知られていないものは、欲求の対象とはならないので知ることができないから、[いずれにせよ]ブラフマンは考究の対象とはならない のである。
  以上が反対主張である。

脚注
376 本訳318-319頁参照。
377すでに生じている認識とそれ以後に考察という手段を適して得られた認識とになんら変わりがなければ、考察という手段は手段としての用をなしていないことになる。 
(´・(ェ)・`)つ

590鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/22(木) 23:32:03 ID:fLu192wg0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが知られているならば考究しなくてよいのじゃ。
 知られていないものならば、考究することができないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、全知で全能をそなえたものとして、存在しているのじゃ。
 ブラフマンという語の語源に永遠性や清浄性等の意味があるのじゃ。
 ブラフマンはすべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのじゃ。
 人はすべてアートマンが存在すると信じているのじゃ。
 アートマンが存在することが知られていなければ、人はすべて私は存在しないと信じていることになるのじゃ。
 人の心にあるアートマンがブラフマンなのじゃ。

591避難民のマジレスさん:2022/09/22(木) 23:47:24 ID:PXQ/B2vU0
7.1.2.ブラフマンの存在はすでに良く知られているという答論  p321-322

  [答論][以上のような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けているのであ る。まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして云々と。その趣旨は以下の通りである。すなわち、たとえブラフマンの考察以前でも、人は、ヴェーダを学習し、ヴェーダの補助学である語源学・文法学等378を学ぶことによって、語とその意味との関係を理解していれば、とりたてて論考しなくても、「愛児 よ、太初にはこの[世界]は有のみであった」379で始まり、「汝はそれなり」380で終わる[聖典句の]繋がりから、即座に、ブラフマンー[それは]永遠である等の性質をそなえている一の本性を理解するのである。ところで、ここ(『註解』本文中)で、ブラフマンは云々[という個所]は、[一義的には]理解の対象(すなわちブラフマン)を示すものではあるが、[ここでは]それ(ブラフマン)を対象とする理解のほうを暗に意味しているのである。というのは、それ(ブラフマン)が存在するということは、 疑問の余地があるので、論考以前には決まらないからである381。また、永遠でというのは、滅してゆくものだというところからくる苦しみを排除しているのである。また、 清浄でというのは、身体等の添性からくる苦しみを排除しているのである。また、悟っておりというのは、[ブラフマンが自己]以外のものに基づくことなく輝いていること、 および、歓喜を本質としていることを示しているのである。何故なら、歓喜と輝きは 異ならないからである382。
  [反対主張]解脱がすでに存在していれば、これ(ブラフマン)の清浄さ等は輝いて いる(認識されている)ことであろう。だがそれ(解脱)以前には、[ブラフマン=アー トマンは]身体等と区別されていないので、その(身体等の)属性である生・老・死等の苦しみと結びついているから、清浄さ等が輝いているということはないであろう]。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。解脱したものとしてと。すなわち、[ブラフマンは]常に解脱しており、常に純粋であ るが、無始の無明の力による附託のせいで、そのように(身体等と異ならないかのよう に)現れるのである、という意味である。
  このようにブラフマンの添性に限定されていない姿を示したのち、[師シャンカラは 次のように、その]添性に限定された姿について述べている。また、全知で全能をそな えたものとしてと。これで、これ(ブラフマン)が世界の原因であることが示されてい るのである。というのは、原因であるとか原因でないというのは、能力と知識の存在’ 非存在に基づくからである。

脚注
378 語源学、文法学、祭事学、音韻学、韻律学、天文学というウェーダ聖典研究のための六種の補助学のこと
379 380
381『註解』本文では、ブラフマンの存在証明は、さらに[ブラフマン]すべての入のアートマンなの で以下で展開されており、このブラフマンは云々の箇所ではまだ、ブラフマンの存在は証明されていない。 従ってこの段階では、ブラフマンの存在にはまだ疑間の余地があるので、ここのrブラフマン」という語 は、ブラフマンという対象を指しているのではなく、ブラフマンという語で理解されているものを指しているというのである。
382 不二一元論学派では一般に、ブラフマンは実在であり、知であり、歓喜であり、実在等はブラフマンの属性ではなくブラフマンそのものであるとされている。ここでもおそらく同じように、歓喜と輝きはブラフマンそのものであるから、歓喜と輝きは異なるものではないということを言っているのであろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

592鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/23(金) 22:43:59 ID:14LIr/j20

 前の続きなのじゃ。
 反対なのじゃ。
 ブラフマンはウパニシャッドによって知られているか、知られていないかなのじゃ。
 知られているならば、考究する必要はないのじゃ。
 知られていないならば考究もできないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、ブラフマンの考察以前でも人はヴェーダを学習してブラフマンを理解できるというのじゃ。
 そして疑問があるからさらに考究すべきであるといのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱していないならばブラフマンは苦と結びついているから清浄ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは常に解脱しているというのじゃ。
 無明によって身体と同一視されているたけなのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2022/09/24(土) 00:20:09 ID:Q2tDKdEM0
(つづき)  p322-324
  [反対主張]ではどのようにして、このようなブラフマンの本性が悟れるのか。
  [答論]このような疑問に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。何故なら、ブラフマンという語には云々と。このようなブラフマンは、ただ単に、「愛児よ。[太初には]この[世界]は有のみであったのだ」383等の諸聖典句の前後の文脈を考察することによってのみ悟れるのではなく、ブラフマンという語[自体]が語源的にこのような意味をもっているのである。[師シャンカラは、その]語源を[次 のように]述べている。その語源である/brhの意味に従って云々し実に、「増大する」という意味の/brhという語根は、優れていることを意味するのである。そして、まさにこの限りなく優れていることが、これ(ブラフマン)が永遠であり、清浄であり、悟っている等々のこと一[それはブラフマンという語]以外の語384から悟られる一を許すのである。これが[『註解』本文]の意味である。 このように[師シャンカラは]、「それ」という語の意味が清浄さ等であることは良く知られているということを述べたのち、「汝」という語の意味についても[次のよう に]述べている385。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのであると。ブラフマンが存在することはす ぺての人に386、すなわち、足がほこりにまみれた農夫にすら良く知られているのである。何故か。アートマンだからである。まさにこのことを、[師シャンカラは]、というのは、人はすべて云々と明らかにするのである。[そしてこの]認識を、[次のようにそれとは]逆の認識を否定することによって、確実なものとするのである。[「私は存 在し」ない]とは[信じてい]ない[がらである]と。すなわち、「私は存在する」と認識しないことはなくて、[「私は存在する」と]認識するのである、という意味である。   
  [反対主張]「私が存在する」とは知っていようが、アートマンは知らないであろう。
   [答論コこのような反対主張に対して、[師シャンカラは]、[実に]もし云々と答え ているのである。すなわち、「私は存在しないのだ」と信じていることであろうと[言 うのである]。つまり、「私」という語の対象が個人存在[に内在する]アートマンでなければ、「私は存在しないのだ」と信じているであろうという意味である。
   [反対主張]すべての人が、アートマンを「私」という語の対象だと信じているとしておこう。だが、ブラフマンに関してはいったいどうなのか。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは]、アートマンがブラフマンなのであると言っているのである。何故なら、[アートマンを指す]「汝」[という語] と[ブラフマンを指す]「それ」[という語]が、[「汝はそれなり」というように]同格関係にあるからである。従って、「それ」という語の意味が清浄さ等であることは、聖 典から良く知られており、「汝」という語の意味が個人存在[に内在する]アートマン であることは、直接知覚に基づいて良く知られており、さらに、文章の意味の認識は語 の意味の認識を前提とするので、「汝はそれなり」という聖典句から「汝」という語の 意味がブラフマンであると悟るのは、理にかなっているのである。以上が[『註解』本文の]意味である。

脚注
383
384「永遠である」等の語から悟られるということ
385「汝はそれなり」という文章は、不二一元論学派では、「汝」とい う語が指し示すアートマンと「それ」という語が指し示すブラフマンとが同一であることを示す、極めて重要な聖典の文章(大文章)とされ、様々な解釈がほどこされてきたが、ここでも、この文章を前提とし て論議が進められているのである。
386 『註解』本文は、[ブラフマンは]すべての人のアートマンなのが、ブラフマンが存在することは良く知られているのであると訳しておいたが、『バーマティー』はこれを、「ブラフマン存在することはすぺての人に良く知られている。なぜなら、[ブラフマンは〕アートマンだからである」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

594鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/25(日) 00:31:21 ID:Vl6sTIjo0
 反対なのじゃ。
 どのようにして、ブラフマンの本性が悟れるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは語源から、優れて永遠であり、清浄であり、悟っているアートマンが、それという言葉で現されているというのじゃ。
 汝という言葉もブラフマンはすべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているというのじゃ。
 私は在る、という言葉によって知られているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 人々は私が在ると知っていようが、アートマンは知らないであろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もし私という語の対象が個人存在[に内在するアートマンでなければ、私は存在しないのだと信じていることになるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すべての人がアートマンを私という語の対象だと信じているとしても、ブラフマンに関しては知らないであろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンがブラフマンなのであると言っているのじゃ。
 汝はそれなり、という聖典の言葉は、アートマンである汝と、ブラフマンである、それ、という言葉が同格であることを示しているのじゃ。

595避難民のマジレスさん:2022/09/25(日) 00:38:06 ID:Q2tDKdEM0
7.2.ブラフマンの存在がすでに良く知られていてもブラフマンの 考究には意義がある   p324-325 164左/229

   [反対主張]しかしもし、ブラフマンがアートマンとして世間で良く知られているとすると、[ブラフマンは]すでに知られているわけだがら、考究の対象ではないということに再びなってしまうであろう。
  [答論]そうではない。それ(アートマン)の特性387に関して見解の対立があるからである。すなわち、普通の人たち388および唯物論者たちは、精神性をそなえた単なる身体がアートマンであると信じている。別の者は、精神的存在である諸感覚器官こそがアートマンであると[信じている]。他の者は、思 考器官が(アートマンであると考えている)389。ある者は、瞬時に滅する識 が[アートマンだと思っている]390。また別の者は、空が[アートマンである]と[考えている]391。別の者は、身体とは異なる輪廻者、行為主体、経験主体が[アートマンで]ある[と信じている]392。ある者は、経験主体だけが[アートマンであって]、行為主体はそうではない[と考えている]393。またある者は、それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると [信じている]394。また別の者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]395。このように多く対立する見解があり、[それらはそれぞれ]論証や聖典句および似非論証や似非聖典句に基づいているのである。 従って、もしそれらを考察することなしに、なんらかの見解を受け入れれば、 その人は、至福からはずれて悪に赴くことになろう。たがら、[このスートラ で]ブラフマンの考究に着手するのを手始めとして、ウパニシャッド諸聖典句 の考察が、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)と矛盾しない論理に助けられ、 至福を目的として、開始されているのである。

  反対主張者は、[ブラフマン=アートマンは良く知られているという]第一の見解に存する欠陥を、[次のように]述べている。しかしもし、[ブラフマンがアートマンとして]世間で云々と。[ここで]世間というのは、師と弟子の継承のことである396。この 場合もし、「汝はそれなり」という聖典句から、ブラフマンがアートマンとして良く知 られているとすると、〔ブラフマンは]すでに良く知られているわけだから、[考究の対象でないということに再びなってしまうであろう]397。[また、「汝はそれなり」とい う聖典句は]アートマンがブラフマンであることを述べているとすべきところを、プ ラフマンがアートマンとして[良く知られている]となっているのは、[ブラフマンと アートマンが]異ならないことを述べようとしているのだと理解すべきである398。

脚注
387 以下対立する見解を列挙する順序は、粗大なものから微細なものへという順序になっている 。
388「普通の人たち」とは聖典の知識が欠けている人たちのことである。
389 以上の三種の見解は唯物論者のなかでの見解の対立である。
390 唯識論者の見解である。
391 中観論者の見解である。
392Nāya学派等の見解である。
393Sāmkya学派の見解である。
394Yoga学派の見解である。
395Vefānta学派の見解である。
396 馬鹿な人たちも世間の人であり、彼等は、「汝はそれなり」という聖典の文章を学習していないので、「汝はそれなり」という聖典の文章から、ブラフマンがアートマンであることを理解できないはずである。 従ってここでは、世間という語を、師と弟子の継承という意味に解すべきである。
397
398「汝はそれなり」という聖典の文章は、「汝」という語の指し示すアートマンが「それ」という語の指し示すブラフマンであることを述べているのであるが、ブラフマンがアートマンであることを述べていると『註解』本文がしているのは、アートマンとブラフマンとが異ならないことをも一緒に述べようとしているからである。
(´・(ェ)・`)つ

596鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/25(日) 23:13:13 ID:mOjBORec0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンがアートマンとして世間で知られていならばブラフマンはすでに知られているから、考究の対象にならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンの特性には見解の対立があるから、考究も必要というのじゃ。
 身体とか、感覚器官とか、思考器官とか、輪廻とか行為、経験の主体がアートマンと思っている者もいるのじゃ。
 そうであるからブラフマンの考究゛必要なのじゃ。

597避難民のマジレスさん:2022/09/26(月) 05:10:47 ID:Gv5BZCvw0
7.2.1.アートマンに関する様々な見解の対立   p325-326

  [答論][師シャンカラが反対主張を]退ける。そうではない。何故か。それ(アートマン)の特性に関しての見解の対立があるからである。この箇所では、見解の対立は、証明する認識根拠と否定する認識根拠が存在しない時には、疑問の原因であるということを言っているのである。従って、疑問の余地があるから、考究が成り立つのである、という意味なのである。なお、論争の基盤となる前提(dharmin)は、すべての教理の定説によって確定されていると認められていなけれぱならない。さもなければ、すなわち基盤のないあるいは基盤の異なるものは、見解の対立ではないであろう。実 に、対立する見解が見解の対立なのである。基盤のない見解というものは存在しない。 何故なら、[見解の]基づくところがなくなってしまうからである。また、基盤の異なるものが対立することはない。というのは、「統覚機能は永遠である」と「アートマンは永遠である」というのは、[本当の意味での]見解の対立ではないからである。従っ て、「それ」という語の意味が清浄さ等であることはウパニシャッドの諸聖典句から知 られ、「汝」という語の意味が個人存在[に内在する]アートマンであることは、経験上確定しているというのが、すべての教理の定説なのである。だが、それ(「それ」と いう語の意味と「汝」という語の意味が同一であるという認識)が現れているか現れていないか399、さらには、[両者の指すもの]それぞれの特性に関して、ここに見解の対立があるのである。従って、[論議の]前提となるものが一般的な形では良く知られて いても、その特性に関して見解の対立があれば、その諸特性に関して疑問の余地がある のは当然なのである。
  このうちまず、[師シャンカラは]、「汝」という語の意味に関する見解の対立を、[すなわち、普通の人たちおよび唯物論者たちは、精神性をそなえた]単なる身体がから経験主体だけが[アートマンであって]行為主体はそうではない[と考えている]まで [の箇所]で示しているのである。このうち、身体、感覚器官、統党機能、瞬時に滅す る識を精神性(アートマン)400とする見解の場合は、「それ」という語の意味である永遠性等は、「汝」という語の意味と結びつかない。適合性がないからである401。[精神性は]空であるとする見解の場合にも、[空は]あらゆる言語表現とは無縁で語の意味 (対象)ではない[ので]、どうして、「それ」と「汝」(という語)の対象となろうか。また、〔アートマンが]行為主体・経験主体を本性とする場合にも、[それは]変異するものなので、「それ」という語の意味である永遠性等と結びつくことはない402。[アー トマンは]行為主体ではないが経験主体であるとする見解の場合にも、[アートマンは]変異するものであることになるから、永遠性と結びっくことはない。またたとえ経験 主体でないとしても、[その見解によれば、アートマンは]多様性によって限定されているので、永遠ではないということになるし、また[アートマンが]不二であるということが損なわれるので、 「それ」という語の意味と結びつかないのは同じことである403。

脚注
399 400
401 身体等は永遠なもの等ではないので、「汝はそれである」という同一であることを示すような形で表現できないのである。
402アートマンが経験主体であるとすれば、それは各身体ごとに異なることになり、個々に異なるものは、水差し等のように可滅で物質的存在であることになるから、永遠でないことになる。
403アートマンが多様であれば、アートマンは不二でないことになり、「それ」という語で指し示される 唯一の存在ブラフマンと同一でないことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

598鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/27(火) 00:41:44 ID:DIQ0Irmk0
 シャンカラはアートマンの特性に関しての見解の対立があるというのじゃ。
 疑問の余地があるから、考究が成り立つのじゃ。

 それ、という語の意味と「汝」という語の意味が同一であるという認識が現れているか現れていないか、両者それぞれの特性に関して、見解の対立があるのじゃ。
 
 シャンカラは「汝」という語の意味に関する見解の対立を、単なる身体がから経験主体だけがアートマンであり行為主体はそうではないと考えている者までの箇所で示しているのじゃ。
 身体、感覚器官、統党機能、瞬時に滅する識等をアートマンとする見解は、「それ」という語の意味である永遠性等は、「汝」という語の意味と結びつかないから違うのじゃ。
 
 精神性は空であるとする見解の場合にも、空はあらゆる言語表現とは無縁で語の意味ではないから違うのじゃ。
 アートマンが行為主体や経験主体を本性とする場合にも、変異するものなので、かないからそれという語の意味である永遠性等と結びつくことはないから違うのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2022/09/27(火) 03:00:00 ID:Gv5BZCvw0
(つづき)  p327
  [このような]「汝」という語の意味に関する見解の対立によって、「それ」という語 の意味にする見解の対立も示されているのである。すなわち、唯物論者等のヴェーダ の妥当性を認めない論者たちは、「それ」という語の意味に間する認識が誤りであると考えており404、一方、ヴェーダの妥当性を認めている論者たちは405,「それ」という語 の意味を比喩的なものあるいは[聖典句の]意図していないものだと考えているのであ る。このように、「汝」という語の意味に関する見解の対立を通して、「それ」という語の意味に関する見解の対立を暗に示しておいて、[次に師シャンカラは、次のように]直接に、「それ」という語の意味に関する見解の対立を述べるのである。またある者は、 それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると[信じている]と。そ れというのは、個人存在[に内在する]アートマンのことを言っているのである。[すなわち主宰神は]、ただ単に身体等と[異なる]だけでなく、個人存在[に内在する]諸 アートマンとも異なるのである。そして彼(主宰神)は、全世界を支配するのである。 [さらにこの]主宰神としての性質を確立するために、この(主宰神の)本来的な二つの性質を全知・全能と言っているのである。[だが]、それ(主宰神)も個人存在[に内在する]諸アートマンとは異なるから、「汝」という語の意味と同格関係にはならないというので、[次に師シャンカラは、次のように]自己の見解を述べている。また別の 者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]と。すなわち、経験主体つまり無明という添性に限定された個人存在[に内在する]アートマンにとっ て、「それ」という語の意味であるかの主宰神がアートマンなのである。従って、個人存在[に内在する]アートマンは、主宰神と異ならないのである。ちょうど、壷の中の虚空等が大虚空と[異ならない]ように。以上が[『註解』本文の]意味なのである。
  [このような]もろもろの見解の対立を結論づけるにあたって、[師シャンカラは次のように]、見解の対立の原因について述べている。このように多くの云々と。[多くの対立する見解は]、論証あるいは似非論証、聖典旬あるいは似非聖典句に基づいている、というのが文の脈略なのである。

脚注
404「それ」という語が永遠・清浄等であるブラフマンを指し示しているというのは、ヴェーダ聖典、な かでもウパニシャッド聖典から知られるわけであるが、ヴェーダ聖典の権威を認めないものたちは、当然のことながらこのことを認めていない。
405Mīmāmsā学派のことである。なお、「それ」いう話を比喩的な意味あるいは[聖典句の]意図していない意味に解するという点に関しては、本訳267頁参照のこと。

7.2.2.ブラフマンの考察を開始する意義   p328 166左/229
  [反対主張]もろもろの見解の対立があり、それ(見解の対立)に基づいて疑問の余地があるとしておこう。たとえそうだとしても、[このスートラで]ブラフマンの考察が開始されるのは、なんのためなのであろうか。
  [答論]このような疑問に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。従っ て、もしそれらを考察することなしに云々と。すなわち、真理の知識からは至福が得られるが、真理でないものについての知識からは[至福を得ることが]できない。そればかりか、信仰があっても、真理でないものについての知識からは、悪が生ずるのである。これが[『註解』本文の]意味なのである。[最後に、この]スートラの趣意を結論 づけて、[師シャンカラは次のように]述べている。だから云々と。ウパニシャッド諸聖典句の考察とは、まず第一に論理のことで、それ(ウパニシャッドの諸聖典句の考察)と矛盾しないその他の論理、すなわち、前ミーマーンサー学派とニヤーヤ学派でヴェーダや直接知覚等の妥当性を論証する際などに言及されている諸論理をも406、補 助的手段としているのだが、その(ウパニシャッド諸聖典句の考察)が、このように[『註解』本文に]述べられているのである。以上のような理由で、最高の至福を達成する手段であるブラフマンの知識を目的として、ブラフマンの考察が開始されるぺきなのである、と確定した。

脚注
406 論理とは推論とarthāpattiのことで、「その他の論理」とは、ミーマーンサー学派の用いる明言、語意等の聖典解釈のための六種の認識根拠など、およびニヤーヤ学派の用いるヴェーダや直接知覚等の定義などである。
(´・(ェ)・`)つ

600鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/27(火) 23:54:33 ID:PllW.nyE0
 汝という語の意味に関する見解の対立によって、「それ」という語の意味にする見解の対立もあるというのじゃ。
 認識が誤りとか、それは比喩的なものであるとか、アートマンとは異なる全知全能の主宰神が存在するとかなのじゃ。

 シャンカラは、主宰神が経験主体のアートマンであるというのじゃ。
 経験主体、つまり無明という添性に限定された個人存在に内在するアートマンにとっ て、「それ」という語の意味である主宰神がブラフマンなのじゃ。
 
 個人存在に内在するアートマンは、主宰神ブラフマンと異ならないのじゃ。
 シャンカラは見解の対立の原因について述べているのじゃ。
 多くの対立する見解は論証あるいは似非論証、聖典旬あるいは似非聖典句に基づいているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 このスートラでブラフマンの考察が開始されるのは、なんのためなのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もしそれらを考察することがなければ、真理の知識からは至福が得られるが、真理でないものについての知識からは至福を得ることができないからというのじゃ。
 信仰があっても、真理でないものについての知識からは、悪が生ずるのじゃ。
 以上のような理由で、最高の至福を達成する手段であるブラフマンの知識を目的として、ブラフマンの考察が開始されるぺきなのじゃ。

601避難民のマジレスさん:2022/09/28(水) 13:08:07 ID:yW596VPc0
『パーマティー』I.1.2
1.ブラフマンの定義  p329 166右/229

  [反対主張]ブラフマンが考究されなければならないと[これまで]述べられてきたが、いったいブラフマンの定義は何なのか。
   [答論]たから、神聖なるスートラ作者が[次のように言っているのである]。

  [ブラフマンとは]それに基づいてこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである](janmādy asya yatah,BS I.1.2)。

  以上のようにまず、第一のスートラで、[ブラフマンの]考察が開始[されなければならないこと]を説明して、[次に第二のスートラで、次のように]ブラフマンの考察が開始されるのである。[ブラフマンとは]それに基づいてのこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と。[そして]註作者(シャンカラ)は、このスートラ[が第一のスートラの次に来るのに]適していることを、[次のように]述べている。ブラフマンが考究されけれぱならないと[これまで]述べられてきたが、 いったいブラフマンの定義は何なのかと。ここでは、ブラフマンの知識という主要なものを論義の対象(pratijñā)とすることによって、それに付随する[ブラフマンを知るための]認識根拠等も論義の対象となることになるが、[ブラフマンの]本質が主要なものであるので、それだけを問題にして、まず最初に[ブラフマンの本質を]確定してゆくのである。
   [反対主張]ところで、(1)ともかく[われわれが]経験しているものはすべて、有限であり、不浄で、悟っておらず、可滅である。[従って]、それらの認識に基づいては、それらとは相対立するブラフマンー[それは]本性上永遠であり、清浄で、悟っ「ている一の本質を定義づけることはできない。実に、永遠なものが、作られたものという性質によって定義づけられることは決してないのである。(2)また、それ(ブラフマン)が、それ(ブラフマン)の属性である永遠性等によって定義づけられることもない。何故なら、それ(永遠性等のブラフマンの属性)は、まだ認識されていないからである。実に、すでに良く知られているものが定義なのであり、まったく知られていないものはそうではないのである。(3)また同様に、聖典もこれ(ブラフマン)に適用されない。何故なら、ブラフマンは、まったく知られていないので語の対象ではなく、 従って、[聖典の]文章の対象ではないからである。以上の理由で、[ブラフマンには]定義が存在しないことになるので、ブラフマンは考究の対象とはならないのである407。
  以上が反対主張の趣旨である。
  この反対主張を、神聖なるスートラ作者が[次のように]退けている。[ブラフマンとは]それに基づいてこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と。 現に経験されているこの世界がブラフマンを定義づけるものとされているのは、[それが]それ(ブラフマン)の属性であるからでも、[ブラフマンと]同一であるからでもなく、それ(ブラフマン)から生じたものだからであろう。[それは]ちょうど、太陽 の運行の場合は、別の場所に到達することが[その定義とされている]ようなものであ る408。これが[スートラの]趣旨なのである

脚注
407 同類のものと異類のものを排除することを目的とする特質が定義(特徴)であり、ブラフマンをを定義づける(特徴づける)ものは、(1)現に経験されているこの世界であるか、(2)永遠性、清浄性等のブラフマンの属性であるか、(3) 「汝はそれなり」等の聖典の言葉であるかのいずれかである はずだが、そのいずれもブラフマンの定義とはなりえないのである。
408 世界はブラフマンから生じたものであるので、その原因であるブラフマンを知らせるものであるとい う意味で、ブラフマンを定義づけている(特徴づけている)ことになる。だが、実際には、世界の原因であるという性質がブラフマンの定義(特徴)なのである。それはちょうど、太陽の運行は太陽が別の場所に達するという結果から知られるという意味で、別の場所に達することが太陽の定義(特徴)とされることがあるが、実際には、別の場所に達する原因であるという性質が太陽の運行の定義であるのと同じてある 。
(´・(ェ)・`)つ

602鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/29(木) 00:03:14 ID:nKx1FBUk0
 反対なのじゃ。
 考究されなければならないブラフマンの定義とは何かと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 スートラには、それに基づいて世界が生起するものであると記してあるというの゛ゃ。
 まず最初にブラフマンの本質を確定してゆくのじゃ。

 反対なのじゃ。
 人が経験しているものはすべて、有限であり、不浄で、悟っておらず、滅するものなのじゃ。
 そんな人がどのようにして無限であり、清浄で、悟っていて不滅のブラフマンの本質を定義づけることができるのかというのじゃ。

 永遠のものが作られたものに定義づけされる筈もないのじゃ。
 人は永遠のものを知らず、定義づけできないからなのじゃ。
 人に知られたものが定義づけされるからなのじゃ。
 聖典にとってさえも言葉の対象ではないから考究の対象にはならないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとはそれに基づいてこの世界の生起等が存在するものであるのじゃ。
 この世界が存在することでブラフマンも定義づけされるのじゃ。
 世界はブラフマンから生じたものであるからなのじゃ。

603避難民のマジレスさん:2022/09/29(木) 01:57:40 ID:/POlEYl20
2.スートラの語義解釈    p330-332 167左/229

  スートラ中の「生起等」(janmādi)[という語は] 「生起(janma)すなわち発生(utpatti)を最初のものとして所有するもの」という意味の所有複合語で、[複合語の構成要素の意味するものが、その複合語全体の意味するものの]不可分の性質として理解される[タイプの]ものである409。[すなわち]、 「生起と存続と帰滅」というのが[「生起等」という]複合語の意味なのである。そして生起が、[生起・存続・帰滅のなかで]最初のものであることは、天啓聖典の教えに基づき、またものの[自然な]変化(vastuvrtti)に基づいているのである。まず、天啓聖典の教えは、「実にそれよりこれらの存 在が生ずるのである」410という聖典句に、生起・存続・帰滅の順序が示され ているからである。また、ものの[自然な]変化も、生じて存在するようになったもの(dharmin,属性の基体)が存続して掃滅してゆくことになるからである。
  [スートラ中の]「この」(asya)とは、直接知覚等によってとらえられた もの(dharminすなわち世界という基体)を、「これ」 (idam)[という代 名詞]によって指しているのであり411、[この代名詞の「この」という]第六格は、生起等の属性[と世界という属性の基体]との関係を意味しているので ある4I2。[また]「それに基づいて」(yatah)とは、[それが生起等の]原因であることを示しているのである。

  [師シャンカラは]、スートラの各部分を区別して[まず、「生起等」という語は]「生起すなわち発生を最初のものとして所有するもの」という意味の云々と[述べている。ま た]スートラ作者は、[スートラを]簡潔なものとするためにjanmādi(生起等)と中性形を用いており、その[用法]を根拠づけるために[師シャンカラは]、生起と存続と帰滅 (janmasthitibhańgam)と[中性形をとる]集合並列複合語(samāhāradvandva) を用いているのである413。[なお]そして生起がで始まり原因であることを示しているのであるで終わる文章の脈絡は自明である。

脚注
409 所有複合語には、(1)複合語の構成要素の意味するものがその複合語全体の意味するものの不可分の性質として理解されるタイプのものと(2)そうでないものがあり・・・以下丁寧な説明が続くが、長いので省略。
410この聖典句は、以下のように、世界の生起・存続・帰滅の順序を説いている。「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅っしてゆくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンである」と。
411「これ」という代名詞は、直接知覚の対象を指す。
412 第六格が属性と基体の関係を意味する。
413並列複合語には、(1)複合語全体が集合名詞とされて中性単数形で表現される集合並列複合語(たとえば苦楽)と、(2)複合語の各部分が独立のものとされて全体が二個を表すか三個以上を表すかによって、最後の名詞がその性を保ちつつ両数形あるいは複数形をとる相互並列復合語(たとえば、ハリとハラ一男性両数一、あるいは、象たちと牛だち一男性複数ー)があ るが、ここで「生起と存続と帰滅」という並列複合語は、中性単数形をとる集合並列複合語なので、スートラでも「生起等」と中性単数形が用いられているのである、という趣旨である。
(´・(ェ)・`)つ

604鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/29(木) 23:22:58 ID:YpKUvUzY0

 スートラ中の生起等という語は発生を最初のものとして所有するものを意味しているというじゃ。
 つまり生起と存続と帰滅」というのが生起等という複合語の意味なのじゃ。

 生起が生起と存続と帰滅のなかで最初のものであることは、天啓聖典の教えに基づいているのじゃ。
 天啓聖典の教えは実にそれよりこれらの存在が生ずるのであるという聖典句に、生起と存続と帰滅の順序が示され ているからなのじゃ。
 
 スートラ中の、この、とは、直接知覚等によってとらえられたもの、すなわち世界という基体を、代名詞によって指しているのじゃ。
 この、という第六格は、生起等の属性と、世界という属性の基体との関係を意味しているのじゃ。
 それに基づいてとは、それが生起等の原因であることを示しているのじゃ。



シャンカラはまず生起等という語は発生を最初のものとして所有するものという意味と述べているのじゃ。
 スートラ作者は簡潔なものとするために生起等と述べたが、シャンカラはそれを解説しているのじゃ。

605避難民のマジレスさん:2022/09/29(木) 23:32:27 ID:G6wkSKB.0
3.スートラの文脈解釈 ブラフマンが世界原因である p332-334 168左/229

  [世界は]、名称・形態を通して展開され414、多くの行為主体・経験主体を含み、特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体であり415、[その]構造は思考器官によってすら思い描けない性質のものであるが、「この」すなわち世界の生起と存続と帰滅は「それに基づいて」すなわち全知・全能である原因に基づいて存在する。[そして]「その[全知・全能の原因]がブラフマンな のである」という文章を[このスートラに]補うべきである。

  [反対主張〕根木物質、時間、宿星の神々、護方神、運動、偶然、[もの]それ自体の性質、無416[などの多くのもの]が[世界の原因として]存在しているときに417、どうして、全知・全能のブラフマンが世界の生起等の原因でありうるのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、世界は]名称・形態を通して云々と答えているのである。この[『註解』本文の]うち、名称・形態を通して展開されとは、精神的存在が[世界の展開を]行うことを示しており、根本物質等の物質的存在が[展開を]行ったり、また無が[展開を]行りたりすることを禁じているのである。実に、名称と形態を通して展開されたものはすぺて、精神的存在が[その展開を]行っているのだと経験されている。たとえば壼等のように。そして、論議 の的となっている世界は、名称・形態を通して展開されているのである。従って[世界は]、精神的存在が[展開を]行っているのだと考えられる。実に、精神的存在は、心のなかで名称と形態を考えたのち、壼という名称を通して、また法螺貝のような(首?→貝)などの形態を通して、外在する壷を作り出すのである。従って、壼は、これから作り出さ れるものであっても、[心の]なかのアイデアという形ですでに存在している[ので]、 それには、「彼は壷を作る」というような、行為の対象と行為の主体という関係が存在しているのである。この同じ趣旨のことを[先学は]、「心のなかにすでに存在するものは非存在ではない」418と述べている。以上のように、物質的存在が心のなかで考えられないものを作り出すのだとは考えられない、というのが[『註解』本文のこの個所の]趣旨なのである。

脚注
414「世界が名称・形態を通して展開されたものである。」
415ここでは諸註釈および諸訳に従い、「特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体」と訳したが、rバーマティー』だけはのちにでてくるように、これを「特定の場所と時間と原因と行為と結果の基体」という意味に解している。
416根本物質は、サーンキヤ学派の説く世界原因である。また、時間以下の、偶然・ものそれ自体の性質等が世界原因であると考えられているという点に関しては、Upanisadの一節(I.2)を典拠として「時間、ものそれ自体の性質、必然性、偶然、諸原素、母胎、原人が[原因であると]考えられている」。
417
418出典不明。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

606鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/30(金) 23:52:07 ID:/ftnzWB60
 名称と形態を通して展開され、多くの行為主体と経験主体を含み、特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体である性質のものが世界なのじゃ。
 その世界の生起と存続と帰滅は全知全能である原因に基づいて存在するというのじゃ。
 それがブラフマンなのである、という文章をこのスートラに補うべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 根本物質、時間、宿星の神々、護方神、運動、偶然、ものそれ自体の性質、無などの多くのものが世界の原因として存在しているのに全知全能のブラフマンが世界の生起等の原因でありうるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、このような反対主張に対して、世界は名称と形態を通して展開されると述べているのじゃ。
 名称と形態を通して展開されたものはすぺて、精神的存在がその展開を行っているのだと経験されているのじゃ。
 世界は、名称と形態を通して展開されているのじゃ。

607避難民のマジレスさん:2022/10/01(土) 00:05:34 ID:IwpEkltg0
(つづき)  p333-334
  [反対主張]精神的存在である宿星の神々や護方神たちが、名称と形態を心のなかで考えて、世界を生み出すのであり、先に述べられていたような(全知・全能という)性 質をもつブラフマンは不要であろう。
  [答論]だから[師シャンカラは]、多くの行為主体・経験主体を含みと述べているのである。[世界のなかの]ある者は、料理人や供犠僧のように、行為主体ではあるが 経験主体ではない。一方ある者は、祖霊祭における父親やヴァイシュヴァーナラ祭に おける息子の場合などのように、経験主体ではあるが行為主体ではない419。そのため、 両者が述べられているのである。[そしてこのように、多くの行為主体・経験主体という諸々の個人存在が創造されることを示すことによって、単なる宿星の神々や護方神 たちは、世界の創造者としては相応しくないということを述べているのである。]420
  場所と時間と原因と行為と結果というのは、相互並列複合語(itaretaradvandva)である。そして、[特定の場所云々という語は]、「特定の」と「場所等」に分かれ、「特定の」という語は、「場所」等をそれぞれ修飾するのである421。[そして]、それら(特 定の場所等)の基体が世界であり、その(世界の)[原因がブラフマンなのであると繋 がっていくのである]。実にあるものは、黒い鹿等のように、特定の場所で生ずる。あるものは、カッコーのさえずりなどのように、特定の時間に生ずる。またあるものは、 特定の原因に基づいている。たとえば、雌の鶴などが、[雨季に入ったばかりの]時期 の早い雲からの笛の音に基づいて妊娠したりするように422。あるものは、特定の行為を遂行する。たとえば、供犠等はバラモンの行為であってそれ以外の人の行為でないように。同じようにあるものは、特定の結果を享受する、たとえばあるものは幸福 であり、あるものは不幸であり、また同じく、幸福な者があるときには不幸であるように。これらすぺては、[世界の原因が]、偶然一別名偶発とも言う一である場合や、[もの]それ自体の性質である場合や、[世界の]創造者が全知・全能でない場合には、 不可能である。何故なら、限られた知識と能力を備えた宿星の神々や護方神たちなど は、[世界すべてを]知ることも創造することもできないからである。
  まさにそのことを[師シャンカラは、その]構造は思考器官によってすら思い描けな いものであると述べているのである。すなわち、一つの身体の構造ですら、思考器官 によって思い描くことは全く不可能なのだから、世界の構造を[思い描くことは]なお さら[不可能]であるのに、一体どうして、[それを]創造することが[できようか]、 という意味なのである。
  [そして最後に、師シャンカラは]、スートラの文章を[次のように]完結させている。「その[全知全能の原因]がブラフマンなのである」という文章を[このスートラ に]補うべきであると。

脚注
419 祖霊祭では、息子が父親等の亡くなった祖先の霊にたいし祭式を行うわけであるが、この場合には、息子は祭式を行うだけで、その祭式の果報は父親等の祖霊に行く。つまり父親等の祖霊が果報の経験主体 なのである。一方、息子が誕生したときに息子の幸福を願って行われるヴァイシュヴァーナラ祭の場合に は、父親が祭式を行いその果報は息子が享受するのである。
420
421相互並列複合語については脚注413を参照のこと。
422 雌の鶴が雨季に入ったばかりの雲から鳴りひびく雷の音を間いて妊娠するというモティーフは、雨季の到来を示すものとして、カーリダーサの『メーガドゥータ』をはじめ、文学作品において非常に好まれたものである
(´・(ェ)・`)つ

608鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/01(土) 23:50:50 ID:LdlkytFg0
 反対なのじゃ。
 精神的存在である宿星の神々や護方神たちが、名称と形態を心のなかで考えて、世界を生み出すのであり、ブラフマンは不要だというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうであるからシャンカラは多くの行為主体と経験主体を含むと述べているのじゃ。
 ある者は、行為主体ではあるが 経験主体ではないのじゃ。
 他の者は経験主体ではあるが行為主体ではないのじゃ。
 このように、多くの行為主体と経験主体という諸々の個人存在が創造されることを示すことによって、単なる宿星の神々や護方神 たちは世界の創造者としては相応しくないのじゃ。

 場所と時間と原因と行為と結果というのは、相互並列複合語(itaretaradvandva)である。
 特定の場所云々という語は、特定のと場所等に分かれ、特定のという語は、場所等をそれぞれ修飾するのじゃ。
 特定の場所等の基体が世界であり、その世界の原因がブラフマンなのじゃ。

 世界の原因が偶然である場合やものそれ自体の性質である場合や、創造者が全知全能でない場合には不可能であるのじゃ。
 限られた知識と能力を備えた宿星の神々や護方神たちなどはすべてを知ることも創造することもできないからだというのじゃゃ。

609避難民のマジレスさん:2022/10/02(日) 00:06:37 ID:IwpEkltg0
4.スートラに生起と存続と掃滅だけが言及されている理由 p334-335 169左/229

  また、[生起・存続・帰滅]以外の存在の変化は、[生起・存続・帰滅の]三 種のなかに含まれるので、ここ(スートラI.1.2)では生起と存続と帰滅[だけ]が述べられているのである。一方、ヤースカの列挙しているような「生ず る。存在する」等423が[このスートラで]述べられているとすると、それら (生起・存在等の変化)は、世界が存続しているときに[のみ]可能なので、世 界が根本原因に基づいて発生し、存続し、帰滅するということは述べられていないことになる、という疑問が生ずることになろう。[従って]、このよう に疑うべきではないというので、ブラフマンからの発生とそれ(ブラフマン) のなかでの存続とそ(ブラフマン)への帰滅というそれら(三者)だけが[このスートラで]述べられているのである。
  [反対主張]一体何故、ここ(スートラI.1.2)では、「[生起]等」という語は、生起と存続と帰滅にだけ言及しており、増大や変容(parināma)や減少にも[言及していることには]ならないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、生起・存続・帰滅]以外の存在の変化、すなわち増大等は、[生起・存続・帰滅の]三種のなかに含まれるのであると答えているのである。まず増大とは、部分が増えることである。従って、少しの部分からなるもの(たとえば二本の糸からなるもの)から[それとは]別のもの (たとえば大きな布)が生ずるのだから、増大とは生起にほかならないのである。また 変容は、性質の変容、時相の変容、状態の変容という三種であるが424、生起にほかならない。というのは、金等の基体の性質が変容したものである腕輪や王冠等は、それら(腕輪や王冠等)の生起にほかならないからである。同じように、腕輪等が現在存在すること等[の時相]の変容も生起である。また同じように、状態の変容、すなわち新しさや古さ等も、生起なのである。一方減少は、部分が減ることであり、滅することにほかならない。従って、増大等は、それぞれ生起等に含まれるから、別個には述べられ ていないのである。以上が[『註解』本文の]意味なのである。

脚注
423そこでは「生ずる。存在する。増大(成長)する。変容する。減少する。滅する」という六種の変化に言及されているが、これらはすべて、世界が生起したのちの世界が存続しているときに起こる存在の変化について述べているのである。
424 これらの三種の変容については Yogasūtra参照
(´・(ェ)・`)
(つづく)

610鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/02(日) 23:51:49 ID:cAU3Jzgs0
生起と存続と帰滅以外の存在の変化は、それら三 種に含まれるので、スートラでは生起と存続と帰滅だけが述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 何故スートラでは生起等という語は、生起と存続と帰滅にだけ言及しており、増大や変容や減少に言及していないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは生起と存続と帰滅以外の存在の変化、すなわち増大等は、この三種のなかに含まれるのであると答えているのじゃ。
 増大とは、部分が増えることであるからは生起にほかならないのじゃ。
 変容も生起にほかならないのじゃ。
 減少は、部分が減ることであるから滅することにほかならないのじゃ。
 そのように増大等はそれぞれ生起等に含まれるから、別個には述べられていないのじゃ。

611避難民のマジレスさん:2022/10/03(月) 02:37:03 ID:IwpEkltg0
(つづき)  p335-336
  ところで、たとえこれらの増大等が生起等に含まれないとしても、〔このスートラで は]生起と存続と帰滅だけが述べられていてしかるぺきなのである。というのは、その場合には(すなわち、このスートラで世界の生起と存続と帰減が述べられている場合には)、「実にそれよりこれらの存在が生ずるのある[云々]」という、それ(世界の 生起と存続と帰滅)を教示するヴェーダ文章が思い起こされ、そのときに、世界の根 本原因であるブラフマンが[このスートラで]定義づけられていることになるからである。だがさもなければ、「生ずる。存在する。増大(成長)する」等が[このスート ラで]述べられていることになり、そのときには、それ(生起・存在・増大等)を教示 する『ニルクティ』の文章が思い起こされることになろう。[だが]それ(『ニルクタ』 の文章)は、[世界の]根本原因を教示することを目的とはしていないのである。何故 なら、[世界が]帰滅する以前に存続しているときにでも、その(『ニルクタ』の)文章 が述べているような生起等の存在の変化は、成り立つからである。従って、[このような]疑問を退けるために、[師シャンカラは、このスートラでは]ヴェーダに述べられ ているような生起と存続と帰滅が言及されているのだということを、一方、ヤースカの列挙しているような云々と述べているのである。
  [反対主張]たとえそうであっても、[このスートラでは]、生起だけが示されていればいいのではないか。存続と帰滅はそれ(生起)から必然的に理解されるのではないか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、ブラフマンからすなわち原因からの発生云々と答えているのである。すなわち、[生起と存続と帰減という]三者によって、これ(ブラフマン)が[世界の]質料因であることが示されているのである。だが生起だけでは、動力因とも共通なので、[ブラフマンが]質料因(くま注)であることは示されていないことになろう。だから[師シャンカラは]、それ(ブラフマン)のなかでの[存続と]云々と述べているのである。

脚注
くま注 質料因・動力因:アリストテレスが論じた、現象についてその4種類の原因を検討すべきである(四原因説(しげんいんー)とする説。
*質料因:存在するものの物質的な原因
*動力因:作用因:そのものの運動変化の原因
*形相因:そのものが「何であるか」 を規定するもの
*目的因:そのものが存在し、運動変化する目的
(´・(ェ)・`)つ

612鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/03(月) 22:22:57 ID:y74MYpbg0

 世界の根本原因であるブラフマンが[このスートラで]定義づけられているから生起と存続と帰滅だけが述べられているべきだというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 スートラでは生起だけが示されていればいいのではないかというのじゃ。
 続と帰滅は生起から必然的に理解されるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 生起と存続と帰減という三者によって、ブラフマンが世界の根本原因であることが示されるのじゃ。
 生起だけでは変化するだけの原因と同じであるからいかんのじゃ。

613避難民のマジレスさん:2022/10/03(月) 23:15:49 ID:d/TCzrVs0
5.ブラフマンが世界原因であるという推論について p336-346 170左/229

  上述のような特質をもつ世界は、上述のような特質を備えた主宰神以外の別のもの、すなわち、物質的存在である根本物質425や原子426や無427や輪廻者428から生ずることなどはありえない。また、[もの]それ自体の性質から (すなわちひとりでに)429[生ずることもありえない]。何故なら、これ(ものの生起等)には、特定の場所と時間と原因が必要だからである。 [そして]、 このような推論が輪廻者とは異なる主宰神の存在等を証明する手段であると、 主宰神が[世界の]原因だと主張する人々430は考えているのである。

  先に原因(主宰神)と結果(世界)の特質を述べた目的を、[師シャンカラは]、上述 のような云々と述べているのである。このように[『註解』本文の]この論議は、[ブラフマンを知るためにウパニシャッドの考察を開始すべきであるという]命題の対象である、ブラフマンの本質を定義することによって、[ブラフマンの存在が]論証可能なものであること(sambhāvanā)を述べているのである431。そこで次に、[ブラフマンを知るための]認識根拠が述べられるべきである。たとえば、ニヤーヤ学派の人々も[次のように]述べている。「命題のなかで、論証可能な主張(paksa)が、理由に基づいて論証されるのである。「石女が母である』の場合のように、生ずると同時に成立しないような[主張]が、理由に基づいて論証されることはない」432と。実にこのように、 [世界の]生起等云々という[ブラフマンの本質の定義]は、[ブラフマンの存在が]論証可能なものであるという根拠となる。だからこそヴァイシェーカ学派など他の人々 は、推論に基づいて主宰神[の存在]を確定しようとするのである。そのため[師シャンカラは、ブラフマンの存在が]論証可能なものであることを確実なものとするため に、このような[推論が]云々と(育→言)っているのである。

脚注
425サーンキヤ学派の説く世界原因である。
426ヴァイシェーシ力学派の説く世界原因である。
427中観論者の説く世界原因である。
428ヴェーダに説かれている世界原因ピラニヤガルバのことである。
429
430 ヴァイシェーシ力学派の人々のことである。
431
432 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

614鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/04(火) 23:23:03 ID:S4E5s/qE0
 世界は他派の言うような原因からではなく、ブラフマン以外のものから生じるこはありえないというのじゃ。
 独りでに生じることもありえないというのじゃ。
 特定の場所と時間と原因が必要であるからというのじゃ。
 このような推論が輪廻の主体とは異なる、ブラフマンの存在を証明する手段であるというのじゃ。

 シャンカラはこの議論は命題の対象であるブラフマンの定義をすることで、ブラフマンの存在が論証できると述べているのじゃ。
 次には認識根拠が述べられるべきだというのじゃ。
 ブラフマンの存在が論証可能なものであることを確実なものとするために、このような推論がと、述べているというのじゃ。

615避難民のマジレスさん:2022/10/05(水) 01:57:28 ID:kK.0rKvU0
5.1.ブラフマンの考究における推論の意義  p337-338 170右/229

  [反対主張][世界の]生起等云々というこのスートラでも、まさにそれ(推論)が問題となっているのではないか。
  [答論]そうではない。何故ならスートラは、ウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするものだたらである。実に、ウパニシャッドの諸々の文章が、スートラによって引用され考察されているのである。何 故なら、[ウパニシャッドの]文章の意味を考察して[その意味を]確定することによって、ブラフマンの悟りが達成されるのであって、推論等の認識根拠によって[ブラフマンの悟りが]達成されるわけではないからである。だが、ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となることは妨げられない。何故なら、 天啓聖典自身が、論理を[聖典理解の]補助として認めているからである。たとえば、「[アートマンは]聞かれるべきであり、思惟されるべきである」433という天啓聖典句があり、また、「学識があって思慮深い人がガンダーラに到達 するように、師を得た人は[『私が解釈するまでは云々』と]この世で知るのである」434と、人問の統覚機能が[聖典]自体の補助であることを示しているのである。

  反対主張が提示される。[世界の生起等云々という]この[スートラ]でも云々と、これまでで、[この]節(adhikarana)の主題(ブラフマンの本質)は完結しているのであるが、[師シャンカラは]、親切にも以下の節の主題にさらに言及して、[反対主張を次のように]退けているのである。そうではない。[何故ならスートラは]、ウパニシャッドの云々と。[そして、スートラが]ウパニシャッドの文章という華をつなきとめることを目的とするものであるということを、[次のように]示している。[実に、 ウパニシャッドの[諸々の文章が]云々と。[ウパニシャッドの文章の意味の]考察の帰結は、二種の無明が潜在印象(くま注)とともに滅せられることである。まさにそののちに、ブラフマンの悟りが達成される、すなわち現れてくるのである。
  [反対主張]ところで、ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのであろうか。たとえば思惟はどうなのだろうか。またそれ (ブラフマン)への開眼すなわち直証はどうなのだろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。だが、ウパニシャッドの諸文章が云々と。だが[ここで言う]推論は、ウパニシャッドと矛盾せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づくものであると理解すべきである。また、聖典の言葉と矛盾せずかつそれ(聖典の言葉)に基づく論理による考察が、思惟なのである。そして論理とは、アルターバッティ435あるいは推論のことで ある。

脚注
433 434
435アルターパッティは、「理解されるべきものに関する認議によって理解させるものが想定されること」と定義されてい る。すなわち、X(たとえば夜食べること)がなければY(たとえば昼食べない人が太っていること)が理解されないとき、そのY(昼食べない人が太っていること)が理解されるべきものであ り、X(夜食べること)が理解させるものであるが、このようにアルターパッティとは、理解されるべきもの(昼食べない人が太(り→っ?)ていること)を知って、それを理解させるもの(夜食べているということ)を想定することを言うのである。
くま注
サンスカーラ 潜在印象
http://www.wikidharma.org/index.php/サンスカーラ
(´・(ェ)・`)つ

616鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/05(水) 23:42:37 ID:riEZUEaA0
 反対なのじゃ。
 このスートラでもまさに推論が問題となっているのではないかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの諸々の文章がスートラによって引用され考察されているのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の意味を考察して確定することによって、ブラフマンの悟りがるのではないのじゃ。
 ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となるのじゃ。
 推論は補助的な役割なのじゃ。
 
 何故ならば天啓聖典自身が、論理を聖典理解の補助として認めているのじゃ。
 「アートマンは聞かれるべきであり、思惟されるべきである」という天啓聖典句があるようにのう。

 ウパニシャッドの文章の意味の考察の帰結は、二種の無明が潜在印象とともに滅せられることなのじゃ。
 まさにその後に、ブラフマンの悟りが達成されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのかというのじゃ。
 思惟とか、ブラフマンの直証とかなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 推論はウパニシャッドと矛盾せず、ウパニシャッドに基づくものである場合だけ適用できるのじゃ。
 聖典の言葉と矛盾せずかつ聖典の言葉に基づく論理による考察が、思惟と呼べるのじゃ。
 そして論理とは、アルターバッティ、分析的な思惟じゃな、あるいは推論なのじゃ。

617避難民のマジレスさん:2022/10/06(木) 06:35:56 ID:kK.0rKvU0
5.2.ブラフマンの考究とダルマの考究との違い  p338-343 171左/229

  ブラフマンの考究の場合には、ダルマの考究の場合とは異なり、天啓聖典等 だけが認識根拠であるわけではない。そうではなくて、この場合には、天啓聖典等436と開眼等が可能な認識根拠なのである。何故なら、ブラマンの知識は開眼(体験,anubhava)をもって終わり、また、すでに存在する事物を対象としているからである。実に、行われるべきもの(祭式行為)が対象である場 合には、[それに関する知識が]開眼(体験)に基づくということはないので、天啓聖典等だけが認識根拠であるであろう。何故なら、行われるべきものは人間に基づいて存在するようになるからである。行為は、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、それを行うことも、行わないことも、別なやり方で行うことも可能である。たとえば、「馬で行く」「別の方法で行く」というように。また同様に「アティラートラ祭にはショーダシン杯を取る」「アティラートラ祭にはショーダシン杯を取らない」437「太陽が昇ったときに供物を(持→捧)げる」「太陽が昇らないうち供物を捧げる」438というように。このような場合には、儀軌と禁令には意味があり、また任意選択、一般的規則、例外にも意味があるであろう439。だが、[すでに存在する]事物は、「このようである」「このようではない」「存在する」「存在しない」というように任意に選択されることはない。だが、諸々の誤った想定(vikalpanā)は、人間の統覚機 能に基づいて存在しているのである。[一方]、事物に関するありのままの知識は、人間の統覚機能に基づかない。では何に[基づくの]か。それ(事物に関するありのままの知識)は事物に基づくのである。何故なら、同じ一本の柱に関して、「柱である」か「人である」か「それ以外のものである」というのは、 真理の認識ではないからである。そのうち、「人である」と「それ以外のものである」というのは誤った認識である。「柱である」というのが真理の認識なのである。何故なら、事物に基づいているからである。このように、すでに存在する事物を対象とする認識の妥当性は、事物に基づいてているのである。 そして同じように、ブラフマンの知識も事物に基づいている。何故なら、[それは]すでに存在する事物(ブラフマン)を対象としているかである。

脚注
436この「等」をBhāmatī は叙事詩、プラーナ、聖伝書と解し、一方、Nyāyanirnaya は、ここで「天啓聖典」と訳したśrutiを「明言」と取り、「等」は「語意、文内文脈、章内文脈、位置、原意語」という、聖典解釈のための認識根拠だと解し ている。
437 出典不明だが、この二つの引用文は、引用され、この矛盾した内容のものをとう解釈するかが問題にされている。
438
439 以下の『バーマティー』の説明を参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

618鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/06(木) 23:16:51 ID:i/MWnwFs0
 ブラフマンの考究の場合には、ダルマの考究の場合とは異なり、天啓聖典等 だけが認識根拠ではないのじゃ。
 天啓聖典等と開眼等が可能な認識根拠だいうのじゃ。
 ブラマンの知識は開眼体験、悟りをもって終わり、また、すでに存在する事物を対象としているからなのじゃ。

 ダルマのように実践されるものは天啓聖典等だけが認識根拠だというのじゃ。
 
 すでに存在する事物を対象とする認識の妥当性は、事物に基づいているからなのじゃ。
 ブラフマンという実在する事物に基づいているものごとは、天啓聖典等と開眼等が可能な認識根拠になるのじゃ。

619避難民のマジレスさん:2022/10/06(木) 23:21:17 ID:kK.0rKvU0
5.2.1.ブラフマンの考究はダルマの考究とは異なり開眼をもって終わる  p339-340 171右/229

   [反対主張]ダルマの場合には人間の統覚機能が[ダルマ理解の]補助となることはないが、何故ブラフマンの場合にも同様ではないのか。
  [答論]だから[師シャシカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。一[ブラフマンの考究の場合には]ダルマの考究の場合とは異なり云々と。[なお]天啓聖典等とは天啓聖典、叙事詩、プラーナ、聖伝書という認識根拠のことである、[また]開眼(体験)とは、内官の変容の一種であって、ブラフマンの 直証のことであり、無明が減せられてブラフマンの本質が顕現するというのが、その (開眼という)認識根拠[から生ずる]果報なのである。そしてそれは、果報のような 果報であると理解すべきである440。ダルマの考究の場合にも、全体としては直接知覚等が作用しているが、直接的にではない。だがブラフマンの考察の場合には、開眼等 は直接に生ずるのであって、ブラフマンの考究は開眼のためのものなのである441。だ から(師シャンカラは、ブラフマンの知識は]開眼(体験)を以て終わるからであると 述べているのである。すなわち、ブラフマンヘの開眼つまりブラフマンの直証は、すべての苦しみの取り払われた最高の歓喜を本質としているので、人間の最高の目的な のである。

脚注
440ブラフマンはすでに存在するものであって、生み出されたり変化してできたりするものではないから、ブラフマンの本質の顕現も、いわゆる果報すなわち生みだされたり変化してできたりするもとは異なるからである。
441「ダルマの考究の場合は、天啓聖典だけが認識根拠であると述べられていたが、ヴェーダを対象とする耳による直接知覚等も必要等も必要ではないのか」という反対主張に対して、「ダルマの考究の場合にも、耳による直接知覚等が作用していることは確かだが、それは間接的なものであって、ブラフマンの考究の場合に、真理を直証することなしには輪廻という直接知覚されている錯誤が滅せられることがないのとは異なる」と答えているのである。
(´・(ェ)・`)つ

620鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/07(金) 23:15:33 ID:XekoxrGc0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンはダルマの場合と違い人間の統覚機能が理解の補助となるのはなぜであるかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ブラフマンの 直証は内官の変容の一種であり、無明が減せられてブラフマンの本質が顕現するのじゃ。
 それがブラフマンの開眼という認識根拠から生ずる果報なのじゃ。
 そしてそれは果報の如き、果報であると理解すべきなのじゃ。
 なぜならばブラフマンは最初からあるものであり、何かの結果として報いられるものではないからなのじゃ。

 ブラフマンの考察では、開眼等は直接に生ずるのであり、ブラフマンの考究は開眼のためのものなの゛ゃ。
 シャンカラは、ブラフマンの知識は開眼を以て終わるからであると 述べているのじゃ。
 ブラフマンヘの開眼つまりブラフマンの直証は、すべての苦しみの取り払われた最高の歓喜を本質としているので、人間の最高の目的なのじゃ。

621避難民のマジレスさん:2022/10/08(土) 06:03:31 ID:sD1lRISA0
5.2.2.ブラフマンはダルマとは異なり開眼の対象である p340-341 172左/229

  [反対主張] [ブラフマンの]考究はブラフマンヘの開眼のためのものであるとしておこう。だが、その開眼自体が不可能なのである。何故なら、ブラフマンがそれ[開眼]の対象であるというのはありえないからである442。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。ブラフマンの知識はすでに存在する事物を対象としているからであ ると。すなわち[ブラフマンの]直証には[本来、対象(ブラフマン)と対象をもつもの(直証)との関係というような多元性は]存在しない(vyatireka)443のではあるが、 誤って構想された形の、対象と対象をもつものという関係が存在する。[従ってブラフマンの知識は、ブラフマンの直証(開眼)をもって終わりうるのである]444。しかし ダルマの知識は、このように開眼をもつ終わることはない。というのは、それ(ダルマ)への開眼は、それ自体では人間の目的ではないからである。何故なら、人間の目的は、それ(ダルマ)を遂行することによって達成されるのであり、その遂行は、開眼が 存在しなくても、単なる聖典に基づく知識により成立するからである445。だから[師シャンカラは]、実に、行われるべきものが云々と述べているのである。さらに、これ (ダルマ)は直証の対象ではありえない。何故なら、[ダルマは]現在は存在しないもの であり、現在存在しないものは確実なものではないからである446。だから[師シャンカラは]、人間に基づいて云々と言っているのである。[そして、これから]行われるべきものは、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、人間に基づいているのだということを、それを行うことも、行わないことも云々と述べているのである。[また ]、世俗の行為が不確実なものであるという例を、たとえば「馬で[行く]」云々と挙 げている。[さらに]、世俗的な例とともに聖典に基づく例を、また同様に「アディラートラ祭には•••」云々と並記している。この例は、行うことも行わないことも[可能であ る]ということに関して挙げられているのである。また、することも別なやり方で行うことも[可能である]ということに関しては、「[太陽が]昇らないうちに•••」云々と いう例が述べられている。

脚注
442ブラフマンは主観なので、対象(客観)とはなりえないのである。
443 444
445ダルマとは、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好ましい事柄」であり、それはヴェーダという聖典の教令に従って遂行されるのである。
446このダルマは、聖典の教令を理解してそれを遂行したのちに実現されるのであるから、聖典からダルマが理解された時点ではまだ存在していないのである。
(´・(ェ)・`)つ

622鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/08(土) 23:41:26 ID:JTrn3QFw0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究はブラフマンヘの開眼のためのものであるが、その開眼自体が不可能なだというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは開眼の対象であるというのはありえないからなのじゃ。
 主体であるから対象である客体にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの知識はすでに存在する事物を対象としているのじゃ。
 ブラフマンの直証には本来、対象ブラフマンと対象をもつものは存在しないが、 誤って構想された対象と対象をもつものという関係が存在するのじゃ。
 それ故に開眼も可能なのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は、ブラフマンの直証である開眼をもって終わることもできるのじゃ。

 しかし ダルマの知識はこのように開眼で終わることはないのじゃ。
 ダルマへの開眼は、それ自体では人間の目的ではないからなのじゃ。
 ダルマとは法であり、悟りへの手段であるからなのじゃ。

 人間の目的である悟りは、ダルマを遂行することによって達成されるのであり、その遂行は、開眼が存在しなくても、単なる聖典に基づく知識により成立するのじゃ。
 そのダルマは直証の対象ではありえないのじゃ。
 何故ならばダルマは現在は存在しないものであり、現在存在しないものは確実なものではないからなのじゃ。
 ダルマとして行われるべきものは、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、人間に基づいているのだということを、それを行うことも、行わないこともできるとシャンカラは述べているのじゃ。

623避難民のマジレスさん:2022/10/09(日) 04:38:19 ID:PZptn2eg0
5.2.3.ダルマの場合には儀軌と禁令や任意選択等には意味がある。p341-342 172右/229
  
  [反対主張]人間は、行わなければならないことに関して独立した存在なので、儀軌 と禁令が無意味であることになろう。というのは、人間が行為に従事したり行為を停止したりするのは、それ(儀軌と禁令)に基づかないからである。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。このような場合には、儀軌と禁令には意味があるであろうと。[「アディラートラ祭•••」云々の場合]「取る[べきである]」447というのが儀軌であり、「取る[べきでは]ない」というのが禁令である。「太陽が昇ったときに供物を捧げる[べきである]」「太陽が昇らないうちに供物を捧げる[べきである]」という場合には、両者とも儀軌である。同じように、人間の骨に触れるべきではないという禁令や、バラモンを殺した人はそれ(人間の骨)を身につけるべきであるという儀軌があるが448、このような儀軌や禁令には意味があるのである。
  [反対主張]何故か。
  [答論]だから[師シャンカラが]、また任意選択、一般的規則、例外にも[意味があるであろう]と言っているのである449。[ここで]また(Ca)というのは理由の意味である。すなわち、次のような理由で[儀軌と禁令には意味があるのである]。[ショ-ダシン杯を]取る取らないとか、「太陽が昇ったときに供物を捧げる」「太陽が昇らないうちに供物を捧げる」というような場合には、両者は相矛盾しているので、同時に行うことは不可能であるが、両者には同等の効力があるので、否定するものと否定されるも のという関係(bādhyabādhakabhāva)は存在しない。このようなときには、任意選択が避けられないのである。一方、人間の骨に触れることに関する禁令とそれ(人問の骨)を身につけること[に関する儀軌]の場合には、両者は相矛盾しているが、同等 の効力があるわけではないので、任意に選択されることはなく、一般的な聖典に述べら れている[人間の骨に]触れることに関する禁令(一般的規則)が、[人間の骨を]身につけることを命ずる儀軌を述べている特定の聖典(例外)によって否定されるのである。以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。このようなまだ理解されていなくてこれから実現されようとしている事柄は、儀軌と禁令によってのみ、[有益なものであるか否かが]450知られるのである。従って、[人間が]行為に従事したり行為を停止 したりすることは儀軌と禁令に基づいてはいても、それらを行うことに関しては人間は独立した存在なのである。 だが、すでに存在する事物の場合には、このようなことはない。だから[師シャンカラは]、だが、[すでに存在する]事物は、「このようである」「このようではない」「存 在する」「存在しない」というように[任意に選択されることはない]。と述べているのである。すなわち、[『註釈』の]この個所は、[事物の存在の]在り方(Prakāra)に関 する任意選択を否定しているのである。[そしてさらに、師シャンカラは]存在それ自体(Prakārin)に関する任意選択を、[次のように]否定している。「存在する」「存在しない」というように[任意に選択されることは]ないと。

脚注
447ヴェーダ聖典中で現在形で表現されている動詞が、行為を命ずる願望法の意味で解釈されることがある。
448 Vedāntakalpataru,P.90は、人間の骨に触れるべきではないという禁令の例として、「人間の骨に 触れたら、沐浴し、着物を着たまま水に入るべきである」を挙げ、人間の骨を身につけるべきであるという例として、「バラモンを殺した者は、十二年間、頭蓋骨を旗印として托鉢し、その所行を[人に]知らせ ながら節食すれば浄化されるであろう」を挙げている。
449『註解』本文中のCaは(相互に依存しあうことのないものどうしを結びつけること)の 意味で理解して、「または」と訳しておいたが、ここで「バーマティー』は、このCaを理由の意味に取っているのである。
450

くまの思いつき
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠んだ一休さんは、博識だったので、448の知識もあって、頭蓋骨を持って街中を歩いていたのだったとしたら•••、だれか師匠筋の人を殺しちゃってたのかもと想像してみた。
(´ ゜(ェ) ゜ `)b




624鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/10(月) 00:06:34 ID:d3veuYGk0
 反対なのじゃ。
 人間が行わなければならないことに関して独立した存在ならば宗教的な儀軌と禁令が無意味であることになるというのじゃ。
 なぜならば人間が行為に従事したり行為を停止したりするのは、それ儀軌と禁令に基づかないことになるからなのじゃ。


 答えたのじゃ。
 人間の骨に触れるべきではないという禁令や、それに反するバラモンを殺した人は人間の骨を身につけるべきであるという宗教的な儀軌があるが、このような儀軌や禁令には意味があるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 何故か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 任意選択、一般的規則、例外にも意味があるからなのじゃ。
 相矛盾してことは同時に行うことは不可能であるが、両者に同等の効力がある時は否定するものと否定されるものという関係は存在しないというのじゃ。
 このようなときには、任意選択が避けられないのじゃ。

 人間の骨に触れることに関する禁令と人問の骨を身につける儀軌の場合には、両者は相矛盾しているが、同等の効力があるわけではないのじゃ。
 宗教的な儀軌の方が優先されるのじゃ。
 そうであるから任意に選択されることはなく、一般的な聖典に述べられている人間の骨に触れることに関する禁令、一般的規則が人間の骨を身につけることを命ずる儀軌を述べている特定の聖典による例外によって否定されるのじゃ。

 このようなまだ理解されていなくてこれから実現されようとしている事柄は、儀軌と禁令によってのみ有益なものであるか否かが知られるのじゃ。
 人間が行為に従事したり行為を停止 したりすることは儀軌と禁令に基づいてはいても、それらを行うことに関しては人間は独立した存在なのじゃ。

 すでに存在する事物、ブラフマンにはこのようなことはないのじゃ。
 事物の存在の在り方に関 する任意選択を否定しているのじゃ。
 シャンカラは、だがすでに存在する事物は、このようであるとか、このようではないとか、存在するとか、存在しない、というように任意に選択されることはない、と述べているのじゃ。

625避難民のマジレスさん:2022/10/10(月) 00:25:19 ID:Fgg0hfJA0
5.2.4.ブラフマンの場合には任意選択は成り立たない p343 173右/229

  [反対主張]すでに存在する事物に関しても、「柱か人か」というように任意選択が見られるではないか。従って、[すでに存在する]事物が任意に選択されないなどということがどうしてあろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、諸々の誤った想定は[人間の統覚機能に基づいて存在しているのである]と答えているのである。すなわち、人間の統覚機能とは内宮(くま注)のことであり、[すでに存在する事物に関する]諸々の誤った想定つまり諸々の疑問と錯倒が、それ(人間の統覚機能)に基づいて存在してい るのである。[その誤った想定は]、(1)夢の場合のように[覚醒状態時の]潜在印象を備えた思考器官のみから生ずるか、あるいは、(2)[覚醒状態時の]、柱に関する「柱か 人か」という疑問や「人である」という錯御一[それが錯倒であるのは]それ以外の ものという語が、実際の柱以外のもの、すなわち人を表しているのによる451一の場 合のように、[誤った]潜在印象を持った感覚器官と思考器官から生ずるかのどちらか であるが、実際の人あるいは実際の柱に基づいているわけではない。何故なら、[誤っ た想定すなわち疑問と錯倒は]、共通の属性をもった[異なる]基体を知覚することに のみ基づいて生ずるからである452。従って、ありのままのものではない事物に基づく 誤った想定が、[ありのままの]事物を任意に選択したり別なものに変えたりすること はないのセある。以上が[『註釈』本文のこの箇所の]意味なのである。 一方、真理の認識は、統覚機能に基づかず事物に基づくのである。従って、それ(真 理の認識)に基づいて事物が確定されるのが正しいのであって、訳った想定に基づい て[事物が確定されるの]ではない。だから[師シャンカラは]、[一方]、事物に関す るありのままの知識は、[人問の統覚機能に基つが]ないと言っているのである。以上 述ぺてきたようなやり方で[師シャンカラは]、すでに存在する事物を対象とする知識 の妥当性が事物に基づくことを明らかにし、[次に]、ブラフマンの知識が事物に基づくことを、そして同じように云々と述べているのである。

脚注
くま注 
内官;感覚器官とその知覚作用の両者を含めて生理作用と心理作用とを統一的に考える場合の哲学用語であり、外界知覚に関する感覚器官(五感)を外官と呼ぶのに対し、自己の意識内部を知覚する能力を内官と言う。
451『註解』本文では、「柱であるか。」「人であるか。」「それ以外のものであるか」と訳しておいたが、『バー マティー』はこれを、「柱である」か「それ以外のもの、すなわち人であるか」と取っているのである。
452 疑問と錯誤には、疑問の場合には共通の属性が知覚され、錯誤の場合には類似した属性が知覚される という違いがある。
(´・(ェ)・`)つ

626鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/11(火) 00:15:33 ID:P2bdCPsE0
 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物に関しても、柱か人かというように任意選択が見られるというのじゃ。
 そうであるからすでに存在する事物も任意に選択されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは諸々の誤った想定は人間の統覚機能に基づいて存在していると答えているのじゃ。
 人間の統覚機能とは内官であり、存在する事物に関する諸々の誤った想定つまり諸々の疑問と錯倒が、人間の統覚機能に基づいて存在しているのじゃ。
 その誤った想定はまず夢の場合のように、覚醒状態時の潜在印象を備えた思考器官のみから生ずるものがあるのじゃ。
 次に覚醒状態時の柱に関する柱か、人かという疑問や、人であるという錯御の場合のように誤った潜在印象を持った感覚器官と思考器官から生ずるかのどちらかであるのじゃ。

 実際の人あるいは実際の柱に基づいているわけではないのじゃ。
 誤った想定すなわち疑問と錯倒は、共通の属性をもった異なる基体を知覚することにのみ基づいて生じるからなのじゃ。
 ありのままのものではない事物に基づく誤った想定が、事物を任意に選択したり別なものに変えたりすることはないのじゃ。

 真理の認識は、統覚機能に基づかず事物に基づくのじゃ。
 真理の認識に基づいて事物が確定されるのが正しいのであって、訳った想定に基づいて事物が確定されるのではないのじゃ。

 シャンカラは事物に関するありのままの知識は、人問の統覚機能に基づかない言っているのじゃ。
 シャンカラはすでに存在する事物を対象とする知識の妥当性が事物に基づくことを明らかにしてブラフマンの知識が事物に基づくことを述べているのじゃ。

627避難民のマジレスさん:2022/10/11(火) 02:44:04 ID:saJEBlPE0
5.3.ブラフマンは推論の対象ではなくウパニシャッドの文章の対象である p344 174左/229

  [反対主張]ブラフマンがすでに存在する事物であれば、まさに[聖典]以外の認識根拠(すなわち直接知覚や聖典等)の対象である。従って、ウパニシャッドの文章の考察は無意味(で)あることになろう。
   [答論]そうではない。何故なら、[ブラフマンは]感覚器官の対象ではないので、[感覚器官と]結び付くとは考えられないからである。すなわち、感覚器官はその性質上外界の事物を対象としており、ブラフマンを対象とすることはないのである。実にもし、ブラフマンが感覚器官の対象であれば、こ[の世界]はブラフマンに関連した(から生じた)結果であると認識されるであろう。だが[実際には]、結果[である世界]だけが認識されているのであって、 [その世界が]ブラフマンと関連しているのか、それとも[ブラフマン]以外 のものと関連しているのが決めることはできない。従って、[世界の]生起等云々というスートラは、推論を問題にするためのものではなくて、ウパニシャッドの文章を明らがにするためのものなのである。
  [反対主張]では一体、ここでスートラが示そうととしてるウパニシャッド の文章とは何か。
  [答論]「ヴァルナの(の✖︎)子ブリグが父ヴァルナに近づき、『尊者よ、ブラフマンについてお教え下さい』 [と言った]」で始まり、「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅 していくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」と説く[聖典の文章]、およびその結論の文章である「まさに歓喜よりこれらの存在が生じ、生じたものは歓喜に基づいて生存し、歓喜に向かって行って滅していく」453である。さらに、その他のこのような文章、すなわち、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しており、全知で全能である[世界]原因について述べている文章454も挙げるべきであろう。

  ここで反対主張が提示される。
  [反対主張] [ブラフマンが]すでに云々と。実に、すでに存在するものを対象とする文章は、[その文章]以外の認識根拠の領域にあるものを対象としているので、[すでに他の認識根拠によって知られたことに]再び言及している(anuvādaka)455のだと 理解されるのである。たとえば、「河岸に果実がある」の場合のように。ウパニシャッドの文章もそれと同じである。従って[ウパニシャッドの文章は]、すでに存在するもの(ブラフマン)を対象としているので、他の認識根拠によって認識された事柄に再び 言及しているのであろう。そしてブラフマンに関しては、世界の生起等を理由とする 推論が別の認識根拠なのである、ということはすでに述べた通りである。従って、[ブラフマンを知るための]最も主要な[手段]であるそれ(推論)を考察すべきなので あって、その正しさがそれ(推論)に基づくウパニシャッドの文章を[考察すべき]で はない。それ故、スートラがウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするなどということがどうしてありえようか。以上が[反対主張の]趣旨である。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは]、そうではない。何故なら、[ブラフマンは]感覚器官の対象ではないので云々と退けているのである。

脚注
455anuvādaとは、もともとミーマーンサー学派の述語で、これまで他の認識根拠(すなわち他のヴェー ダの文章)によって理解されていないものがはじめてその認識根拠(すなわちそのヴェーダの文章)によって命じられる場合に対して、すでに他の認識根拠(他のヴェーダの文章)によって 理解されたものが再度言及される場合を言う。
453 454
(´・(ェ)・`)
(つづく)

628鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/12(水) 00:10:01 ID:Xcx/T/s60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンがすでに存在する事物であれば、聖典以外の認識根拠である直接知覚等の対象であるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドの文章の考察は無意味になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは感覚器官の対象ではないから、それと結び付かないのじゃ。
 感覚器官はその性質上外界の事物を対象としており、心の中にあるブラフマンを対象としていないのじゃ。
 
 ラフマンが感覚器官の対象であれば、この世界はブラフマンから生じた結果であると認識されるじゃろう。
 しかしそうではないから、この世界はブラフマンから生じた結果であるのか、ないのか決められないのじゃ。
 そうであるから世界の生起等云々というスートラは、推論を問題にするためのものではなくウパニシャッドの文章を明らがにするためなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの文章は何を言わんとしているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ヴァルナの子ブリグが、父ヴァルナに近づき、『尊者よ、ブラフマンについてお教え下さい』 と聞いたのじゃ。
 答えた「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅 していくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」と説く聖典の文章とその結論の文章であるというのじゃ。
 「まさに歓喜よりこれらの存在が生じ、生じたものは歓喜に基づいて生存し、歓喜に向かって行って滅していく」というところもあるのじゃ。
 本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しており、全知で全能である[世界]原因について述べている文章もあるのじゃ。
 つまりブラフマンについて説いている文章じゃな。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章は、すでに存在するものであるブラフマンを対象としているので、他の認識根拠によって認識された事柄に再び言及しているのじゃ。
 ブラフマンに関しては、世界の生起等を理由とする 推論が別の認識根拠なのじゃ。
 ブラフマンを知るための推論を考察すべきなので あって、その正しさが推論に基づくウパニシャッドの文章を考察すべきではないというのじゃ。
 スートラがウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするなどということはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは感覚器官の対象ではないとして退けているのじゃ。

629避難民のマジレスさん:2022/10/12(水) 00:24:25 ID:dLzV7E3E0
(つづき) p345-346
   [反対主張]一体なぜ、内的な[アートマン]は感覚器官の対象ではないのか456。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような疑問に対して、[すなわち、感覚器官は]その性質上云々と答えているのである。まさに同じ趣旨で、次のような天啓聖典句がある。「創造主が[感覚器官の]出口を外に向かって穿ったので、[人は]外を見て内なるアートマンを[見]ないのである」457と。[そして]実にもし、[ブラフマンが]感覚器官の[対象であれば]云々というのは、内的なアートマンが[感覚器官の]対象ではないことを明らかにしているのである。なお、〈その自相がまだ知られていない普遍を対象とする〉(sāmānyatodrrsta•rstの下に•)型の推論458も、ブラフマンに対しては適用 されないということについては、のちに明らかにするつもりである459。また同じことは、『ニヤーヤカニガー』のなかで詳しく明らかにしておいた460。さらに、すでに存在するものを対象としているという理由だけでは、[他の認識根拠によって知られたことに]再び言及しているにすぎないということにはならないということも、のちに明らか にするつもりである461。従って、すべてが明確になったのである。
  [『註解』本文に引用された]「実にそれより云々」という聖典句は生起を示し、「生じたものがそれに基づいて生存し」という[聖典句]は生存すなわち存続を[示し]、「それに向かって行って云々」という[聖典句]はそこへの帰滅を示しているのである。そして、その結論の文章が、すなわち、根本物質等[が世界の原因であるのではないか]という疑問に関してここで確定的なことを述べている文章が、 「まさに歓喜より云々」 なのである462。その趣旨は次の通りである。すなわち、縄についての無知と結びついている縄を質料因とする[存在の]流れは、縄が存在するときには存在し、まさに縄のなかに帰滅してゆくのだが、それと同じように、無知と結びついたブラフマンを質料因とする世界は、ブラフマンのなかに存在し、まさにそれ(ブラフマン)のなかに帰滅していくのである、と確定したのである。

脚注
456ブラフマンとアートマンとは同一であるという前提に立っている。
457
458 推論には伝統的に、(1)煙を見て山に火があることを推論するような、その自相がすでに知られている普遍を対象とする推論一たとえば、火性という 普遍の自相については、台所で火を見たことがあってすでに知られている一と、(2)その自相がまた知 られていない普遍を対象とする推論と、(3)消去法とがあるとされる。ここでブラフマンは、その自相がまだ知られないものであるから、推論によって知られるとすれば、(2)が(通→適)用されるはずであるが、ブラフマンにはそもそも徴標がな いので、それも適用できないのである。
459 460 461
462 根本物質等の物質的存在が歓喜ではありえないのである。
(´・(ェ)・`)つ

630鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/13(木) 00:22:44 ID:B/apmWrI0

 反対なのじゃ。
 なぜ内的アートマンは感覚器官の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは感覚器官はその性質上外部のものしか認識しないからというのじゃ。
 心中のアートマンは観られないのじゃ
 無知と結びついたブラフマンを質料因とする世界は、ブラフマンのなかに存在し、まさにブラフマンのなかに帰滅していくというのじゃ。

631避難民のマジレスさん:2022/10/13(木) 02:55:26 ID:YYppjdzU0
『パーマティー』I.1.3

1.スートラ解釈(1) ブラフマンは聖典の母胎である p347- 348 175右/229
 
  [ブラフマンが]世界の原因であることを示すことによって、ブラフマンは全知であると示唆しておいたが、まさにそのことを確実にしようとして、[スートラ作者は]次のように述べている。

  聖典の母胎であるから[ブラフマンは全知なのである](śāstrayonitvāt,BS I.1.3)

  リグ・ヴェーダ等463の偉大な「聖典」一[それは]多くの学問分野464に支えられ、灯火のようにあらゆる事柄を照らし、全知者に近い一の「母胎」 すなわち原因が、ブラフマンである。何故なら、全知者の特質を備えたこのような聖典一[それは]リグ・ヴェーダなどからなる一が、全知者以外のものから生ずることはないからである。たとえば、パーニニ等から『パー二二・ スートラ』という文法書465が[生ずる]場合のように、学問の一分野に関するものではあっても広範な内容の聖典が、ある特定の人から生ずるとき、その人はそれ(聖典)よりも多くの知識を備えている。これは世間で周知の事実である。まして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一[それは] 様々な多くの枝派466に分かれ、神・獣・人間・力一スト・生活期等を区別する根拠となっているが、「このリグ・ヴェーダはかの偉大な存在の吐き出した息である云々」467という聖典句にあるように、かの偉大な存在という母胎から、遊戯でもあるかのように468、また人の人の呼吸でもあるかのように、なんの努力もなく生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えているのだ、ということは言うまでもない。
以上が第一の解釈である。

脚注
463 「等」には、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ・ブラーフマナ・アーラニヤカ、ウパニシャッドが含まれる。
464 祭式学・音韻学・天文学・語源学・文法学という六種のヴェ-ダ補助学とプラーナ、論理学、祭事学・律法論という十種の学問分野のことを言う。
466ヴェーダを伝承していった様々な派のことで、それぞれの派がその派独自のヴェーダ書巻をそれぞれ伝承しているのである。
467
468 「世界創造が主宰神の遊戯である
(´・(ェ)・`)つ

632鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/13(木) 23:30:52 ID:pr5AEO0Y0

 ブラフマンが世界の原因であることを示すことによって、ブラフマンは全知であると示唆して[スートラ作者は次のように述べているのじゃ。

  聖典の母胎であるから[ブラフマンは全知なのである

 リグ・ヴェーダ等463の偉大な聖典の母胎であり、原因はブラフマンだというのじゃ。
 聖典さえもブラフマンから生じたというのじゃ。
 聖典が全知者以外から生まれる筈はないからというのじや。
 もしそれが特定の人から生じたならば、その人は聖典よりも多くの知識を備えていることになるからなのじゃ。
 そうであるから聖典を生み出したのは全知全能のブラフマンしかいないというのじゃ。
 
 それが第一の解釈というのじゃ。


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