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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
1
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL:
https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/
349
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/08(日) 21:52:29 ID:1d4drIFg0
あるがままを理解することは、上のように神の意志を自分の意志と誤魔化すような欺瞞とは違った過程を必要とするというのじゃ。
それには努力も要らないというのじゃ。
過去や未来を考える精神にはあるがままを理解する能力は無いのじゃ。
今ここにあることだけが必要なのじゃ。
あるがままを理解できれば真実は理解されるのじゃ。
350
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/09(月) 19:09:12 ID:2UjGVukA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 1
質問
祈りに表現されたあこがれは、神への道ではないでしょうか。
K
まず初めに、私たちは、この疑問の中に含まれた問題を、検討しましょう。それには、祈り、集中、瞑想という意味が含まれています。そこで、私たちの言う祈りとは、どういう意味でしょうか。まず初めに、祈りには、あなたが神、真実と呼ぶものへの嘆願、懇願があります。あなたは個人として、何か神と呼ぶものから導きを要求し、嘆願し、請い、求めています。ゆえに、あなたの接近は、報賞を求めること、喜びを求めることの一つです。あなたは、国家 [・民族]的、または個人的な困難 [の状態]にあります。それで導きのために祈るのです。またはあなたは混乱しています。それで明晰さを請います。神と呼ぶものに助けを求めます。これには、神が-たとえどんな神であろうとです。私たちは当分はその議論はしません-私とあなたが造り出した混乱を、きれいに片づけてくれるであろう、という意味が含まれています。結局、混乱、悲惨、混沌、ぞっとするような暴政、愛の欠如をもたらしてきたのは、私たちです。それで私たちは、それをきれいに片づけてくれる神と呼ばれるものが、欲しいのです。言い換えれば、私たちは、自分たちの混乱、悲惨、悲しみ、葛藤を、他の誰かに片づけてもらいたいのです。光と幸せをもたらしてくれるよう、もう一人に嘆願するのです。
そこで、あなたが祈るとき、何かに向かって請い、嘆願するとき、それが一般的に生じるのです。あなたは求めるとき、受け取ります。しかしあなたが受け取るものは、秩序を造り出さないでしょう。なぜなら、あなたが受け取るものは明晰さ、理解をもたらさないからです。それは満足させ、喜びを与えるだけで、理解をもたらさないのです。なぜなら、あなたは要求するとき、自分自身が投影するものを、受け取るからです。どうして真実、神が、あなたの特定の要求に答えられるでしょうか。測ることのできないもの、言葉で言い表しえないものが、私たちの些細で小さな心配事、悲惨、混乱-私たち自身が造り出したもの-に、関心を持てるでしょうか。ゆえに、答えるのは何でしょうか。明白に、測ることのできないものは、測られるもの、些細なもの、小さなものに、答えられません。しかし、答えるのは何でしょうか。私たちは祈る瞬間、かなり静寂で、受け入れる・受容の状態にあります。そのとき、私たち自身の潜在意識が、瞬間的な明晰さをもたらします。あなたは何かが欲しい。それにあこがれています。するとそのあこがれ、そのおもねた・こびへつらった要請の瞬間において、あなたはかなり受容力があるのです。あなたの意識的、活動的精神は、比較的静かです。そのため無意識がその中にそれ自体を投影します。それであなたは答えを得るのです。それは確かに、真実からの、測ることのできないものからの答えではありません-それは、あなた自身の無意識的な応答です。それで、あなたの祈りが答えられるとき、自分が真実と関係していると混同して考えないようにしましょう。真実は、あなたのところに来るにちがいありません・来なければなりません。あなたはそこへ行けません。
(´・(ェ)・`)つ
351
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/09(月) 21:34:41 ID:1d4drIFg0
神への祈りは嘆願とか誓願に過ぎないというのじゃ。
それは欲の表れでしかないのじゃ。
そうであるから真実をもたらさないのじゃ。
祈りがかなうとしても、自分の欲したものを受け取れるだけなのじゃ。
自分の欲がかなうだけなのじゃ。
352
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/10(火) 20:13:54 ID:n2jj.iZI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 2
この問題には、もう一つの要因が関与しています-内なる声と呼ばれるものの応答です。私が言いましたように、精神が懇願し、嘆願しているとき、それは比較的静かです。あなたが内なる声を聞くとき、それは、その比較的静かな精神に、それ自体を投影しているあなた自身の声です。さらに、どうしてそれが真実の声でありうるでしょうか。混乱し、無知で、渇望し、要求し、嘆願している精神、それがどうして真実を理解できるでしょうか。精神が、自分自身のためでも、国家 [・民族]のためでも、もう一人のためでも、要求しない、渇望しない、あこがれない、求めないで絶対的に静かであるときだけ、それは真実を受け取れるのです。精神が絶対的に静かであるとき、願望が止むとき、そのときだけ、真実が生じるのです。要求し、嘆願し、懇願し、命令・指図にあこがれている人物は、自分の求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真理ではないでしょう。彼が受け取るものは、彼自身の精神の無意識の諸層の応答であるでしょう-それ [無意識の層の応答]は、それら自体を意識の中に投影するのです 。彼に命令するその静かな、小さな声は、真実ではなくて、無意識の応答であるだけです。
この祈りの問題には、また集中の問題もあります。私たちのほとんどにとって、集中は排除の過程です。集中は、努力、強制、命令、模倣をとおしてもたらされます。そのため集中は排除の過程です。私は、いわゆる瞑想に興味があります。しかし私の思考は散漫です。それで私は自分の精神を、 [一つの] 映像・画像、イメ-ジ、観念に固定させて、他のすべての思考を排除します。この集中の過程、すなわち排除が、瞑想する手段であると考えられています。それがあなたのすることなのではないでしょうか。あなたは坐って瞑想するとき、自分の精神を [一つの]言葉、イメ-ジ、画像に固定させます。しかし精神はそこらじゅうさまよいます。他の観念、他の思考、他の情動の常なる中断・割り込みがあります。それであなたはそれらを押しのけようとします。あなたは自分の思考と戦うことに、自分の時間を費やします。この過程を、あなたは瞑想と呼ぶのです。すなわち、あなたは、何か自分が興味のないことに集中しようとしています。それであなたの思考は増加し、増大し、中断しつづけます。そのためあなたは排除に、避ける・かわすこと、押しのけることに、自分のエネルギ-を費やすのです。あなたは自分の選択した思考に、特定の対象に集中できるなら、ついに瞑想に成功したと、思うのです。確かに、それは瞑想ではないのではないでしょうか。瞑想は排除する過程ではありません-避ける [という意味] 、侵入してくる観念に対して抵抗を築くという意味での排除、です。祈りは瞑想ではありませんし、排除としての集中は瞑想ではありません。
瞑想とは何でしょうか。集中は瞑想ではありません。なぜなら、興味があるところ、何かに集中することは、比較的たやすいからです。戦争、虐殺を計画している将軍は、とても集中しています。金もうけをしている事業家は、とても集中しています-彼は他のあらゆる感情を脇に置いて、自分が欲しいものに完全に集中しながら、無慈悲でさえあるかもしれません・まったく無慈悲であるかもしれません。何ごとでも興味のある人は、自然に、自発的に集中しています。そういう集中は、瞑想ではありません。それはたんに排除です。
(´・(ェ)・`)つ
353
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/10(火) 22:24:31 ID:1d4drIFg0
一般に言われる瞑想とは精神を一つの観念に集中させるものであるから、排除の過程に過ぎないというのじゃ。・
クリシュナムルティの言う瞑想とは排除ではないというのじゃ。
観察し、気付くためには何かを排除するのは危険であるからじゃろう。
何かを排除すれば見落としてしまうからのう。
そもそも集中は瞑想ではないと言うのじゃ。
354
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/11(水) 21:07:35 ID:iUpUjRSA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 3
それで瞑想とは何でしょうか。確かに、瞑想は理解です-心の瞑想は理解です。排除があるなら、どうして理解がありうるでしょうか。嘆願、懇願があるとき、どうして理解がありうるでしょうか。理解には、平和があります。自由があります。あなたが理解するもの、そこから、あなたは解放されるのです。たんに集中したり祈ったりすることは、理解をもたらしません。理解が、瞑想のまさに基礎、根本的過程です。あなたはそのために、私の言葉を受け入れなくてもいいのです。しかし、あなたは、とても気をつけて、深く、祈りと瞑想を検討するなら、それらのどちらも理解につながらないことを、見つけるでしょう。それらはたんに頑固さに、固定化に、幻影につながるだけです。ところが、瞑想は-それには理解があります-自由、明晰さ、統合・融合をもたらしてくれるのです。
では、私たちの言う理解とは、どういう意味でしょうか。理解とは、すべてのものごとに正しい意義、正しい価値を与えることです。無知であるとは、間違った価値を与えることです。まさに愚かさの本性が、正しい価値の了解の欠如です。正しい価値があるとき、正しい価値が確立されるとき、理解が生じるのです。どのようにして正しい価値を確立するのでしょうか-財産の正しい価値、関係の正しい価値、観念の正しい価値を、です。正しい価値が生じるには、あなたは思考者を理解しなければならないのではないでしょうか。私が思考者、すなわち私自身を理解しないなら、私が選択するものは意味がありません。すなわち私が自分自身を知らないなら、そのとき、私の行動、私の思考はまったく・なんの基礎・根拠もありません。ゆえに、自己認識が瞑想の始まりです-あなたが私の書物から、権威から、 から拾い上げる知識ではなく、自己探求、すなわち自己気づきをとおして生じる知識です。瞑想が自己認識の始まりです。自己認識なしに、瞑想はありません。私が自分の思考の、感情の道を理解しないなら、私が自分の動機、願望、要求、行動の様式の追求、すなわち観念を理解しないなら-私が自分自身を知らないなら、考えるための基礎がないのです。自分自身を理解することなく、たんに求め、祈り、排除する思考者は、必然的に混乱、幻影に終わるにちがいありません。
(´・(ェ)・`)つ
355
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/11(水) 21:46:36 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの言う瞑想とは理解そのものなのじゃ。
観察なのじゃ。
何かに集中して他のものごとを排除してしまえばそこに理解は無いのじゃ。
理解は気付くことから起こるからのう。
自分に気付く自己認識から瞑想は始まるというのじゃ。
そして瞑想から自己認識が始まるともいうのじゃ。
堂々巡りなのじゃ。
356
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/12(木) 20:14:11 ID:1HJphfiA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 4
瞑想の始まりは自己認識です-それは、思考と感情のあらゆる動きに気づくこと、自分の意識の層すべてを-表面的な層だけでなく、隠れた、深く隠された活動を-知ることです。深く隠された活動、隠れた動機、応答、思考、感情を知るには、意識的精神に平静さがなければなりません。すなわち、意識的精神は、無意識の投影を受け取るために静かでなければなりません。表面的、意識的精神は、その日常の活動、生計を立てること、他の人たちを欺くこと、他の人たちを利用する [・搾取する]こと、問題から逃げ出すことに-私たちの存在の日常の活動すべてに-携わって・従事しているのです。その表面的精神は、それ自身の活動の正しい意義を理解して、よってそれ自体に平静さをもたらさなければなりません。それは、たんなる厳しい管理により、強制により、修練により、平静さ、静けさをもたらせません。それは、それ自身の活動を理解することにより、観察することにより、気づくことにより、それ自身の無慈悲さが-それが召使いに、妻に、娘に、母などに、どのように話しかけるのかが-わかることによってだけ、平静さ、平和、静けさをもたらせるのです。表面的、意識的精神が、その理解をとおして、そのすべての活動に、こうして充分に気づくとき、それは強制により麻痺させられたり、願望により厳しく管理されて [静かになるの]ではなく、 自発的に静かになるのです。そのとき、それは、無意識の、精神の多くの多くの隠れた層の-人種的本能、埋もれた記憶、隠された追求、まだ癒されていない深い傷の-ほのめかし、暗示を受け取る位置にあるのです。それが永遠のものを受け取る位置にあるのは、これらすべてがそれら自体を投影してしまって理解されるとき、意識全体が重荷を負っていない [とき] 、どんな傷によっても、どんな記憶によっても、まったく足かせをはめられていないときだけです。
瞑想は自己認識です。自己認識なしに、瞑想はありません。あなたがいつのときも自分の応答すべてに気づいているわけではないなら、自分の日常の活動を充分に意識し、充分に認識していないなら、たんに部屋に閉じこもって、自分の、自分の大師の写真の前に坐って瞑想することは、逃避です。なぜなら、自己認識なしに正しい考えはないし、正しい考えなしには、あなたのすることは、たとえどんなにあなたの意図が高尚であっても、意味がないからです。こうして祈りは、自己認識なしには意義がありません。しかし自己認識があるとき、正しい考え [があるし]、ゆえに正しい行動があるのです。正しい行動があるとき、混乱はないし、ゆえにあなたをそれから導き出す他の誰かへの懇願はないのです。充分に気づいている人は、瞑想しています。彼は祈りません。なぜなら、彼は何も欲しくないからです。祈りをとおし、厳格な統制をとおし、反復とその他すべてをとおして、あなたは一定の静けさをもたらせます。しかし、それはたんなる鈍さであり、精神と心を疲労困憊状態に陥らせるのです。それは精神を麻痺させることです。そして排除-あなたが集中と呼ぶもの-は、真実につながりません-どんな排除も決してできません。理解をもたらすものは自己認識です。そして正しい意図があるなら、気づくことは、あまり難しくありません。あなたが自分自身の過程全体を-たんに表面的な部分だけではなく、あなたの存在全体の総合過程を-理解することに興味を持っているなら、そのとき、それは比較的たやすいのです。あなたはほんとうに自分自身を知りたいなら、自分の心と精神を探し出して、それらの充分な内容を知るでしょう。知ろうとする意図があるとき、あなたは知るでしょう。そのときあなたは非難や正当化なしに、思考と感情のあらゆる動きに付いていけるのです。あらゆる思考とあらゆる感情が生じるままに付いていくことにより、あなたは平静さをもたらします-それは、強制されたのではなく、厳しく管理されたのではなく、なんの問題も、なんの矛盾も持たないことから出てきたものです。それは、風のない夜・夕べに、穏やかに、静かになる池に似ています。精神が静かであるとき、そのとき、測ることのできないものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
357
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/12(木) 20:34:25 ID:1HJphfiA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 1
質問
意識的精神は、無意識的精神について無知で [あり] 、[それを] 恐れています。あなたは主に意識的精神に呼びかけて・に取り組んでいますが、それで充分でしょうか。あなたの方法は、無意識の解放をもたらすでしょうか。どうすれば充分に無意識的精神に取り組めるのか、どうか詳細に・詳しく説明してください。
K
私たちは、意識的と無意識的精神があることに、気づいています。しかし私たちのほとんどは、意識的な水準で、精神の上の層においてだけ機能します。それで私たちの生全体は、実質的に・実際上それに制限されるのです。私たちは、いわゆる意識的精神に住んでいるので、 [そこから] たまに・ときにほのめかし、暗示がある [ところの] より深い無意識的精神に、決して注意を払わないのです。その暗示は今のところ、私たちの特定の意識的要求に応じて、無視され・軽視されたり、歪曲されたり、翻訳されたりするのです。そこで質問者は、「あなたは主に意識的精神に呼びかけていますが、それで充分でしょうか」と訊ねます。私たちのいう意識的精神とはどういう意味なのかを、見てみましょう。意識的精神は、無意識的精神とは違っているのでしょうか。私たちは意識を無意識から分割しました。これは正当化されるでしょうか。これは真実でしょうか。意識と無意識の間に、そういう分割があるでしょうか。意識が終わって無意識が始まる [ところの] 明確な障壁、境界線があるでしょうか。私たちは、上の層、意識的精神が活動していることに気づいています。しかしそれが、一日中活動してる唯一の道具でしょうか。もしも私がたんに意識の上の層にだけ呼びかけていたなら、そのとき確かに私の言っていることは、価値がないでしょう。それは意味がないでしょう。けれども私たちのほとんどは、意識的精神が受け入れたことにすがりつくのです。なぜなら、意識的精神は、一定の明白な事実に適応することが都合がいいことを、見つけるからです。しかし無意識は反逆・反抗するかもしれないし、しばしばそうします。それでいわゆる意識と無意識の間に葛藤があるのです。
ゆえに私たちの問題は、こうなのではないでしょうか。実のところ、意識と無意識といったような二つの状態 [があるの]ではなくて、唯一つの状態があるのです。唯一の存在の状態があります-それは意識です。けれどもあなたはそれを、意識と無意識とに分割するかもしれません。しかしその意識は、決して現在についてのものではなく、いつも過去についてのものです。あなたは終わって・過ぎているものごとだけを意識します。あなたは、私が伝えようとしていることを、瞬間後で、意識するのではないでしょうか。あなたはそれを瞬間後で理解します。あなたは決して今を意識したり気づいたりしません。あなた自身の心と精神を見守ってください。すると、意識は過去と未来の間で機能していること、現在はたんに過去から未来への通路であることが、わかるでしょう。ゆえに意識は、過去から未来への動きです。
(´・(ェ)・`)つ
358
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/12(木) 21:42:34 ID:1d4drIFg0
意識は一つしかないのじゃ。
日常でも感じられる心の働きを意識と呼び、感じられない部分を無意識と呼ぶだけなのじゃ。
それは記憶に依存しているものであるからいつも過去のことになるのじゃ。
自らの心の働きを観察すればそれは過去と未来の間で機能しているとわかるのじゃ。
359
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/13(金) 18:36:46 ID:H9FlaIWU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 2
あなたは働いている自分の精神を見守るなら、過去 [への動き]と未来への動きは、 [そこに]現在がない過程であることが、わかるでしょう。過去は、楽しくないかもしれない現在からの逃避の手段であるか、または未来は、現在から離れた希望であるか、どちらかです。それで精神は、過去や未来に携わって、現在を捨てる・なげうつのです。すなわち精神は、過去により条件づけられ、インド人、バラモン、非バラモン、キリスト教徒、仏教徒などとして条件づけられるのです。その条件づけられた精神が未来の中にそれ自体を投影するのです。ゆえにそれは、どんな事実をも直接に、公平に・偏見なく見る能力が、決してないのです。それは、事実を非難して拒絶するか、それとも [事実を] 受け入れて、それ自体を事実と同一化するか、どちらかです。そういう精神は明白に、どんな事実をも事実として見る能力がありません。それが、過去により条件づけられている私たちの意識の状態です。そして思考は、事実の挑戦への条件づけられた応答です。あなたが信念の、過去の条件づけに応じて応答すればするほど、ますます過去の強化があるのです。その過去の強化は明白に、それ自体の継続です-それを未来と呼ぶのです。ですからそれが私たちの精神の、意識の状態です-過去と未来の間を前後に揺れている振り子です。それが私たちの意識です-それは、精神の上の層からだけでなく、またより深い水準からも成り立って・作り上げられています。そういう意識は明白に、違った水準で機能できません。なぜなら、それは、それら二つの前後の動きを知るだけであるからです。
あなたはとても気をつけて見守るなら、それが常なる動きではないこと、二つの思考の間に間隔があることが、わかるでしょう。それはほんの一秒の極何分の一であるかもしれないけれども、振り子の前後の揺れ動きには、意義のある間隔があるのです。私たちは、自分たちの考えることが、未来へと投影される過去により条件づけられているという事実が、わかります。あなたは過去を許し・認めた瞬間、また未来をも許さなければなりません。なぜなら、過去と未来といった二つの状態 [があるの]ではなくて、意識と無意識の両方を、集団的過去と個人的過去の両方を含む一つの状態があるからです。集団的と個人的過去が、現在への応答において、一定の応答を発します-それが個人的意識を造り出すのです。ゆえに意識は過去についてのものです。それが、私たちの存在の背景・地盤全体です。あなたは過去を持った瞬間、必ず未来を持ちます。なぜなら、未来はたんに修正された過去の継続であるからです。しかしそれもやはり過去です。それで私たちの問題は、もう一つの条件づけ、もう一つの過去を造り出さずに、どのようにしてこの過去の過程に変容をもたらすのか、です。
(´・(ェ)・`)つ
360
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/13(金) 21:51:54 ID:1d4drIFg0
過去と未来は記憶に拠って作られるものじゃ。
記憶に依存している人間には過去と未来だけで現在が無いのじゃ。
過去の記憶が未来にも投射されているのじゃ。
それが不安を作り出すのじゃ。
361
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/14(土) 16:05:40 ID:vnzMlciY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 3
それを違ったふうに言うと、問題はこうです-私たちのほとんどは、一つの特定の形の条件づけを拒絶して、もう一つの形の、もっと広い、もっと意義のある、もっと楽しい条件づけを、見つけます。あなたは一つの宗教をあきらめて、もう一つを採り入れます。一つの形の信念を拒絶して、もう一つを受け入れます。そういう代用は明白に、生を、関係である生を理解することではありません。私たちの問題は、どのようにしてすべての条件づけから自由であるのか、です。それは不可能である。人間の精神は、決して条件づけから自由でありえない、とあなたは言うか、それとも実験し、探究し、発見しはじめるか、どちらかです。あなたは、それは不可能であると主張するなら、明白に競争・競技に加わっていないのです。あなたの主張は、制限された [経験]や広い経験やたんなる信念の受け入れに基づいているのかもしれません。しかしそういう主張は、探求、調査・研究、探究、発見の否定です。精神がすべての条件づけから完全に自由であることは可能なのかどうかを見出すには、あなたは自由に探究し、発見できなければなりません。
今私は、精神がすべての条件づけから自由であることは、明確に可能であると、言います-あなたは私の権威を受け入れるべきである、ということではありません。あなたはそれを権威に基づいて受け入れるなら、決して発見しないでしょう。それはもう一つの代用であるでしょうし、それは意義がないでしょう。私が、それは可能であると言うとき、私にとってそれは事実であるから、そう言うのです。私は言葉であなたにそれを示せます。しかしあなたは、自分自身でそれの真理を見出すつもりであるなら、それを実験して、それにすばやく付いていかなければなりません。
条件づけの過程全体の理解は、分析や内省をとおして、あなたにやって来ません。なぜなら、あなたが分析者を持った瞬間、まさにその分析者自身が、背景 [・地盤]の一部であるし、ゆえに彼の分析は意義がないからです。それは事実であるし、あなたはそれを脇へ置かなければなりません。自分が見ているものを検討し、分析する分析者は、彼自身が条件づけられた状態の一部であるし、ゆえに彼の解釈、理解、分析が何であろうとも、それはやはり背景 [・地盤]の一部です。ですからそのように逃避はないし、背景を打ち壊すことが不可欠 [・本質的]です。なぜなら、新しいものの挑戦に出会うには、精神は新しくなければならないからです。神、真理-何であれ-を発見するには、精神は新鮮で、過去により汚染されていてはなりません。過去を分析すること、一連の実験をとおして結論に達する・到り着くこと、主張と否定、その他すべてをすることは、まさのその本質において、違った形での背景の継続、という意味を含んでいます。あなたはその事実の真理がわかるとき、分析者が終わってしまったことを発見するでしょう。そのとき、背景から離れた実体はありません。背景としての思考だけがあるのです-思考は、意識的と無意識的、個人的と集団的両方の記憶の応答です。
精神は過去の結果です-それ [過去]は条件づけの過程です。精神が自由であることは、どのようにして可能でしょうか。自由であるには、精神は、その振り子のような過去と未来の間の揺れ動きを、見て理解するだけではなくて、また思考の間の間隔にも、気づかなければなりません。その間隔は自発的です。それはどんな原因・因果関係をとおしても、どんな願いをとおしても、どんな強制をとおしても、もたらされません。
あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ
362
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/14(土) 21:53:59 ID:1d4drIFg0
人は条件付けから拒絶して、別の条件付けを受け容れるだけというのじゃ。
それを分析しても分析する者が起こるから無意味なのじゃ。
思考の止まった間に静寂の時があるというのじゃ。
その時だけ条件付けからの自由がありえるというのじゃ。
363
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/15(日) 16:36:28 ID:sCeJO2BA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 4
あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ
364
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/15(日) 21:47:46 ID:1d4drIFg0
昨日の後半なのじゃ。
思考の隙間に注目なのじゃ。
365
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/15(日) 21:54:53 ID:EYmr2PAU0
鬼和尚、いつもありがとうであります。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 1
質問
私たちは逃避できない身体的、心理的必要としての性を知っています。そしてそれは、私たちの世代の私的な生における混沌の、根本原因であるように見えます。どうすれば私たちはこの問題を取り扱えるのでしょうか。
K
私たちは、自分たちが触れるものは何でも、問題に変えてしまうのは、なぜでしょうか。私たちは神を問題にしました。愛を問題にしました。関係を、生きることを問題にしました。そして性を問題にしました。なぜでしょうか。なぜ、私たちがするあらゆることが問題、恐怖なのでしょうか。なぜ私たちは苦しんでいるのでしょうか。なぜ性が問題になってしまったのでしょうか。なぜ私たちは、問題とともに生きることに服従する・甘んじるのでしょうか。なぜそれらを終わらせないのでしょうか。なぜ来る日も、来る年も、自分たちの問題を持ち運ぶかわりに、それらに対して死なないのでしょうか。性は確実に今日的な意義のある・当を得た問題です。しかし第一の・主要な問題があります-なぜ私たちは生を問題にするのか、です。働くこと、性、金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること-知っているでしょう、生きることにかかわること全体を-なぜそれは問題なのでしょうか。それは本質的に、私たちがいつも特定の視点から、固定した視点から考えるから、 ではないでしょうか。私たちはいつも中心から周辺に向かって考えています。しかし周辺が、私たちのほとんどにとって中心であるし、そのため私たちが触れるどんなことも表面的です。しかし生は表面的ではありません。それは完全に生きることを要求します。私たちは表面的にだけ生きているから、表面的な反動・反応だけを知っているのです。私たちが周辺でするどんなことも、必然的に問題を造り出すにちがいありません。それが私たちの生です。私たちは表面的なもののなかで生きています。そして表面的なものの問題すべてとともに、そこで生きることに満足しています。私たちが表面的なもののなかで、周辺で生きるかぎり、問題は存在しています-周辺は「私」とその感動・感覚です。それは客観化されることも主観的になることもできます。それは普遍的なものと、国と、精神により作り上げられた何か他のものと同一化されることもできます。
私たちが精神の領域の中で生きるかぎり、複雑さがあるにちがいありません。問題があるにちがいありません。それが、私たちが知っているすべてです。精神は感覚です。精神は蓄積された感覚と反応の結果です。それが触れるどんなものも、必ず悲惨、混乱、終わりなき問題を造り出します。精神-昼も夜も、意識的、無意識的に機械的に働いている精神-が、私たちの問題のほんとうの原因です。精神はもっとも表面的なものです。私たちは精神を育成することに、それをますます利口に、ますます微妙に、ますますずるがしこく、ますます不正直で曲がったものにすることに、数世代を使ってきましたし、自分たちの生全体を使います-そのすべては、私たちの生のあらゆる活動において明らかです。まさに私たちの精神の本性そのものが、不正直で曲がって、事実に向き合う能力がないことです。それが問題を造り出すものです。それが、問題自体であるものです。
(´・(ェ)・`)つ
366
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/16(月) 21:06:51 ID:1d4drIFg0
性が問題という者に何も問題は無いというのじゃ。
それを問題にするのは宗教的な信念によるものなのじゃ。
観念によって作り出された問題に過ぎないのじゃ。
それを見ることができれば問題は何も無いのじゃ。
367
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/17(火) 16:45:45 ID:pYh4Du5g0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 2
私たちのいう性の問題とは、どういう意味でしょうか。それは行為でしょうか、それとも行為についての思考でしょうか。確かに、それは行為ではありません。食べることが、あなたにとって問題でないのと同じように、性的行為は、あなたにとって問題ではありません。しかしあなたは、他に何も考えることがないから、一日中、食べることや何か他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。性的行為は問題でしょうか、それともそれは、行為についての思考でしょうか。なぜあなたはそれについて考えるのでしょうか。なぜあなたはそれを-自分が明白にしていることを-築き上げるのでしょうか。映画、雑誌、物語、女性たちの服の着方・着こなし方、あらゆることが、あなたの性についての思考を築き上げます。なぜ精神はそれを築き上げるのでしょうか。なぜ精神は、そもそも性について考えるのでしょうか。なぜでしょうか。なぜそれは、あなたの生において中心的論点になってしまったのでしょうか。こんなに多くのものごとが、あなたの注意を呼び起こし、要求しているとき、あなたは性についての思考に完全な注意を払うのです。何が起きるでしょうか。なぜあなたの精神は、こんなにそれに携わって・専心しているのでしょうか。なぜなら、それが究極の逃避の道・仕方であるからなのではないでしょうか。それは完全な自己忘却の道です。今のところ・さしあたり、少なくともその当座は・その瞬間は、あなたは自分自身を忘れられるのです-自分自身を忘れる他の道はないのです。あなたが生においてする他のあらゆることは、「私」、自己を強調するのです。あなたの事業、宗教、神、指導者たち、政治的、経済的行動、逃避、社会的活動、一つの党派に加わって他のを拒絶すること- そのすべてが、「私」を強調し、強さを与えているのです。すなわち、「私」の強調がない唯一つの行為があるのです。そのためそれが問題になるのではないでしょうか。ほんのわずかな瞬間・たった数秒間でも、究極の逃避への、自分自身の完全な忘却への道である唯一つのものごとが、あなたの生にあるとき、あなたはそれにすがりつくのです。なぜなら、それが唯一の、あなたが幸せである瞬間であるからです。あなたが触れる他のあらゆる論点は、悪夢に、苦しみと苦痛の源になるのです。それであなたは、完全な自己忘却を与えてくれる一つのものごとにすがりつくのです-それを幸せと呼ぶのです。しかしあなたがそれにすがりつくとき、それもまた悪夢になります。なぜなら、そのときあなたは、それから自由でありたい、その奴隷でありたくないからです。それであなたは再び・またもや純潔の、独身・禁欲の観念を、精神から考案するのです。そして抑圧をとおして、禁欲を守ろう・通そう、純潔であろうとします-そのすべてが、事実からそれ自体を切り離そう・断ち切ろうとする、精神の操作です。これもまた、何かになろうとしている「私」に、特定の強調を与えます。それであなたはまたもや、苦労に、困難に、努力に、苦痛に捕らわれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
368
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/17(火) 20:59:32 ID:1d4drIFg0
性についての行為には何も問題は無いというのじゃ。
性についての思考が問題を作り上げるのじゃ。
それは自分を一瞬でも忘れさせてくれるから囚われるのじゃ。
しかし、それはまた新たな苦を作り出すのじゃ。
苦から苦への連鎖になるのじゃ。
369
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/18(水) 17:19:28 ID:CtskuhVw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 3
あなたは、問題について考える精神を理解しないかぎり、性はとてつもなく難しく複雑な問題になります。行為自体は決して問題ではありえません。しかし行為についての思考が問題を造り出すのです。あなたは行為を守ります・保護します。あなたはだらしなく・いいかげんに生きたり、結婚に耽る・身を任せたりします。よって自分の妻を娼婦にしているのです-それは見たところ・外見上、すべてとても体裁よく見えます。それであなたはそれくらいにしておくことに満足するのです。確かに、あなたが「私」と「私の」-私の妻、私の子ども、私の財産、私の車、私の達成、私の成功-の過程と構造全体を理解するときだけ、問題は解決できるのです。あなたがそのすべてを理解して解決するまで、性は問題として残っているでしょう。あなたは、政治的、宗教的、どのようにでも野心的であるかぎり、野心-個人としてのあなた自身の名においてでであれ、国の、党派の、宗教と呼ぶ観念の名においてであれ-で養う・飼い育てることにより自己を、思考者を、経験者を強調しているかぎり、この自己拡大の活動があるかぎり、性的問題を持つでしょう。あなたは一方で自分自身を造り出し、飼い育て・養い、拡大しながら、他方で瞬間だけでも・当分の間だけでも、自分自身を忘れよう、自分自身を失おう・我を忘れようとしているのです。どうして二つが共存できるでしょうか。あなたの生は矛盾です-「私」の強調と「私」を忘れることは、です。性は問題ではありません。問題は、あなたの生におけるこの矛盾です。そして矛盾は、精神により橋渡しできません。なぜなら、精神自体が矛盾であるからです。あなたが自分の日常の存在の過程全体を、充分に理解するときだけ、矛盾は理解されうるのです。映画に行ってスクリ-ンの女性たちを見つめること、思考を刺激する本や半裸の写真を載せた雑誌を読むこと、女性たちを見るあなたの仕方、あなたの [視線] を捕らえる・つかむこそこそした視線・まなざし-これらすべてのものごとが、誤った自己の強調の仕方をとおして、精神を助長していると同時に、あなたは親切で、愛情を持って、優しくあろうとしているのです。二つは共存できません。霊的にせよそうでないにせよ、野心的である人は、決して問題なしではありえません。なぜなら、自己が忘れられるとき、「私」が存在していないときだけ、問題は止むからです。そして自己が存在していないその状態は、意志の行為 [・作用]ではありません。それはたんなる反応ではありません。性は反応になります。精神が問題を解決しようとするとき、それは問題をもっと混乱させ、もっとやっっかいに・面倒に、もっと苦痛にするのです。行為が問題ではなく、精神が-それは純潔でなければならないと言う精神が、問題です。純潔は精神のものではありません。精神はそれ自身の活動を抑圧できるだけです。抑圧は純潔ではありません。純潔は美徳ではありません。純潔は育成できません。謙虚さを育成している人は、確かに謙虚な人ではありません。彼は自分のうぬぼれ・高慢さを謙虚さと呼ぶかもしれません。しかし彼は高慢な・傲慢な人です。そういうわけで、彼は謙虚になろうと努めるのです。高慢さは決して謙虚さになれませんし、純潔は精神のものごとではありません-あなたは純潔になれません。愛があるときだけ、あなたは純潔を知るでしょう。愛は精神のものでも、また精神のものごとでもないのです。
(´・(ェ)・`)つ
370
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/18(水) 21:52:20 ID:1d4drIFg0
問題について考える時、それはとてつもなく難しく複雑な問題になるというのじゃ。
そこには欺瞞があるからなのじゃ。
自分のものという観念への囚われと、自分を忘れようとする逃避の矛盾になるのじゃ。
高慢な者が謙虚に成ろうと努力するのと同じなのじゃ。
371
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/19(木) 17:23:51 ID:CtskuhVw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 4
ゆえに、世界中でこんなに多くの人々を拷問にかけている性の問題は、精神が理解されるまでは、解決されえません。私たちは考えることを終わらせることはできません。しかし思考者が止むとき、思考は終わるのです。過程全体の理解があるときだけ、思考者は止むのです。思考者と彼の思考の間に分割があるとき、恐れが生じます。思考者がないとき、そのときだけ、思考に葛藤がないのです。言外に含まれていることは、理解しようとする努力を必要としません。思考をとおして、思考者が生じます。そのとき思考者は、自分の思考を形造ろう、制御しよう、それらを終わらせようとけんめいに努力します。思考者は架空の・虚構の実体、精神の幻影です。事実としての思考についての悟りがあるとき、そのとき事実について考える必要はないのです。単純で無選択の気づきがあるなら、そのとき事実に含まれているものが正体を現しはじめます。ゆえに事実としての思考は終わります。そのときあなたは、私たちの心と精神を食い尽くしている問題、私たちの社会構造の問題が、解決できるということが、わかるでしょう。そのとき性はもはや問題ではありません。それはそれの適切な持ち場があります。それは不純な・汚れたことではなく、また純粋な・浄らかなことでもありません。性はその持ち場があります。しかし精神がそれに支配的な・優越した持ち場を与えるとき、そのときそれは問題になるのです。精神は性に支配的な持ち場を与えます。なぜなら、それは何らかの幸せなしには生きられないからです。それで性は問題になるのです。精神がその過程全体を理解し、そして終わるとき、すなわち考えることが止むとき、そのとき創造があります。それは、私たちを幸せにする創造です。その創造の状態にあることは、至福です。なぜなら、それは、自己からとしての反応がない自己忘却であるからです。これは、日常の性の問題への抽象的な答えではありません。それが唯一の答えです。精神は愛を否定します。愛なしに、純潔はありません。あなたが性を問題にするのは、愛がないからです。
(´・(ェ)・`)つ
372
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/19(木) 22:55:14 ID:1d4drIFg0
性の問題は思考によるものであるから精神が理解されるまで解決されないというのじゃ。
思考する者が無い時に思考は止まるというのじゃ。
思考の過程全てに理解がある時だけ思考する者は止まるというのじゃ。
そして問題は無いと理解されるのじゃ。
その時だけ愛が理解されるのじゃ。
373
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/20(金) 18:46:18 ID:eUuVdyI60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 1
質問
あなたのいわれる愛とはどういう意味でしょうか。
K
私たちは何が愛でないのか・愛でないものを理解することによって発見しようとしています。なぜなら、愛は知らない・知られていないものであるので、知っているものを切り捨てることによってそれに至らなければならないからです。知らないものは、知っているもので充ちている精神によって発見されえません。私たちがやろうとしていることは、知っているものの価値を見出し、知っているものを見つめることです。それが純粋に非難なく見つめられるとき、精神は知っているものから自由になるのです。そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それで私たちは肯定的にではなく、否定的に愛に接近しなければなりません。
私たちのほとんどにとって、愛とは何でしょうか。私たちは誰かを愛していると言うとき、どういう意味なのでしょうか。私たちはその人物を所有しているという意味です。その所有から嫉妬が生じます。なぜなら、私が彼や彼女を失うなら、何が起きるでしょうか。私は空っぽで・空しい、失った気持ちになります。ゆえに私は所有を合法化します。私は彼や彼女を(確保)します。その人物を確保すること、所有することから、嫉妬があります。恐れと、所有から生じる無数の葛藤すべてがあります。確かにそういう所有は愛ではないのではないでしょうか。
明白に、愛は感情・情緒ではありません。感情的であること、情動的であることは、愛ではありません。なぜなら、情にもろいこと・感傷性と情動は、たんなる感覚・感動であるからです。イエスやクリシュナについて、自分のや他の誰かについて泣く・涙を流す宗教的な人物は、たんに感情的、情動的であるだけです。彼は感動に耽っているのです-それは思考の過程です。思考は愛ではありません。思考は感覚の結果です。ですから感情的である [人] 、情動的である人は、とうてい愛を知ることができません。あらためて私たちは情動的、感情的ではないでしょうか。情にもろいこと、感情的であることは、たんに一つの形の自己拡大です。情動で充ちていることは、明白に愛ではありません。なぜなら、感情的な人物は、自分の感情が応答されないとき、自分の気持ちがはけ口を持たないとき、残酷でありうるからです。情動的な人物は、憎しみへ、戦争へ、虐殺・殺戮へと掻き立てられうるのです。感情的で、自分の宗教のために涙で充ちている人は、確かに愛がありません。
許しは愛でしょうか。許しに含まれている意味は何でしょうか。あなたは私を侮辱します。私はそれを恨みます、それを覚えています。そのとき、強制をとおし、または悔い・後悔をとおして、私は「私はあなたを許す」と言います。初め、私は保留・保有します。それから拒絶します。それはどういう意味でしょうか。私がやはり中心人物です。私がやはり重要です。誰かを許しているのは私です。許しの態度があるかぎり、重要なのは私であって、私を侮辱したと思われている人ではないのです。ですから私が恨みを蓄積し、それからその恨みを否定するとき-それが許しと呼ばれます-それは愛ではありません。愛している人は明白に憎しみを持っていませんし、これらすべてのことに対して無関心です。同情、許し、所有欲の関係、嫉妬、恐れ-これらすべてのことは愛ではありません。それらはすべて精神のものなのではないでしょうか。精神が判定・調停者であるかぎり、愛はありません。というのは、精神は所有欲をとおしてだけ調停するからです。そしてその調停は、たんに違った形での所有欲です。精神は愛を腐敗させられるだけです。それは愛を生み出せません。それは美・美しさを与えられません。あなたは愛について詩が書けますが、それは愛ではありません。
(´・(ェ)・`)つ
374
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/20(金) 22:55:45 ID:1d4drIFg0
世間で言う愛とは所有であるというのじゃ。
確保して所有するから、他人がそうすると嫉妬があるのじゃ。
それは本当は愛とはいえないものじゃ。
感情とか情緒とか宗教にも愛は無いのじゃ。
思考とか精神、マインドには愛は無いと言うのじゃ。
375
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/22(日) 08:42:41 ID:gsjWwTOg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 2
本当の尊敬がないとき、もう一人を尊敬しないとき-彼があなたの召使いであろうと友人であろうと、愛はありません。あなたは召使いに対して、いわゆる「目下の」人たちに対して、尊敬して親切で寛大でないということに、気づいたことがないでしょうか。あなたは目上の人たち、自分の上司、百万長者・大金持ち、大きな家と肩書きを持つ人、あなたによい地位、よい仕事・職を与えることができ、彼から何かを得られる人に対して尊敬を払います。しかしあなたは自分より下の人たちを蹴り飛ばします・足蹴にします。彼らに対して特別な言葉を持っています。ゆえに尊敬がないところ、愛はありません。慈悲のない、愍れみ・憐れみのない、許しのないところ、愛はありません。そして私たちのほとんどはこの状態にあるので、私たちには愛がありません。私たちは尊敬もなく、慈悲深くもなく、寛大でもありません。私たちは所有欲が強く、感情と情動で充ちています-それは殺すこと、虐殺すること、または何か愚かな無知な意図について統一すること、いずれかの道に向けられるのです。ではどうして愛がありうるでしょうか。
これらすべてのことが止んでしまい終わりに至ったときだけ、あなたは所有しないとき、対象への献身をもってたんに情動的ではないときだけ、愛を知ることができるのです。そういう献身は、嘆願・哀願、違った形で何かを求めることです。祈る人は愛を知りません。あなたは所有欲が強いから、献身をとおし、祈りをとおして目的、結果を求めるから-それ [献身、祈り] はあなたを感情的、情動的にします-当然、愛はありません。尊敬がないとき、明白に愛はありません。あなたは、自分は尊敬すると言うかもしれませんが、あなたの尊敬は、目上の人に対してです。それはたんに何かを欲しがることから来る尊敬、恐れの尊敬です。あなたはもしも本当に尊敬を感じたなら、いわゆる最高の人とともに最低の人に対しても尊敬するでしょう。あなたはそれを持っていないから、愛はありません。何とほとんどの人たちは、寛大でも、許しも、慈悲深くもないことでしょう!あなたは(引き合う)とき、寛大です。見返りに何かが見えるとき、慈悲深いのです。これらのものごとが消え去るとき、これらのものごとが、あなたの精神を占有しないとき、精神のものごとがあなたの心を充たさないとき、そのとき愛があります。そして愛のみが、世界の現在の愚行・愚かさと狂気を変容させられるのです-左翼のであれ右翼のであれ体系・体制ではなく、理論ではないのです。あなたは所有しないとき、妬んで貪欲でないとき、尊敬しているとき、哀れみと慈悲を持っているとき、自分の妻、子供たち、隣人たち、不幸な召使いに対して配慮を持っているときだけ、本当に愛しています。
愛は [それについて] 考えることができません。愛は育成できません。愛は実践できません。愛の実践、同胞愛の実践は、やはり精神の領域内にあります。ゆえにそれは愛ではありません。このすべてが止んでしまったとき、そのとき愛は生じるのです。そのときあなたは愛することが何であるかを知るでしょう。そのとき愛は量 [的] ではなく質 [的] です。「私は世界全体を愛している」と、あなたは言いません。しかしあなたは一つ・一人をどう愛するかを知るとき、全体をどう愛するかを知ります。私たちは一つをどう愛するかを知らないから、私たちの人類・人間への愛は架空・虚構なのです。あなたは愛しているとき、一(人)も多(数)もありません。ただ愛だけがあります。私たちの問題すべてが解決されうるのは、愛があるときだけです。そのとき私たちはその恵み・至福とその幸せを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
376
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/22(日) 23:54:43 ID:1d4drIFg0
所有する者には尊敬が無いというのじゃ。
それは自分のもちものであるからのう。
所有が無く欲も無い時尊敬はあると言うのじゃ。
それが愛なのじゃ。
全ての問題を解決できるのは愛がある時だけというのじゃ。
377
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/23(月) 09:49:27 ID:OWAnVtK.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 1
質問
死は生とどんな関係があるのですか。
K
生と死の間に分割があるのでしょうか。なぜ私たちは死を、何か生から離れたものとして見なすのでしょうか。なぜ私たちは死を恐れるのでしょうか。そしてなぜ死について書かれたとても多くの本があるのでしょうか。なぜ生と死の間に、この境界線があるのでしょうか。そしてその分離は本当でしょうか。それともたんに気ままな・恣意的な精神の事柄なのでしょうか。
私たちが生について話すとき、私たちのいうのは、そこに同一化のある継続の過程としての生活、という意味です。私と私の家、私と私の妻、私と私の銀行預金、私と私の過去の経験-それが私たちが生によって意味することなのではないでしょうか。生きることは、無意識的とともに意識的な記憶における継続の過程です-それ [記憶]には、 様々な格闘、諍い、出来事、経験などを伴っています。そのすべてが生と呼ばれるものです。その対極に・それと対比して死があります。それは、そのすべてを終わりにすることです。対極すなわち死を造り出しておいて、それを怖れるとき(ので)、私たちは進んで生と死の間の関係を探そう(探ろう)とします。私たちは何かの説明でもって、継続への、来世への信念でもって、その割れ目・隔たりに橋を架けられるなら、満足するのです。私たちは輪廻転生や何か他の形の思考の継続を信じています。そのとき知っているものと知らないものの間に関係を確立しようとします。私たちは知っているものと知らないものを橋渡ししよう(に橋を架けようと)とします。よって過去と未来の間に関係を見つけようとします。私たちは生と死の間に何か関係があるのかどうかを探究するとき、それが、私たちがしていることなのではないでしょうか。私たちは生きることと終わることに、どう橋を架けるのかを知りたいのです-それが私たちの根本的願望です。
そこで、終わり、すなわち死は、生きている間に知りえないのでしょうか。私たちは生きている間に、死が何であるかを知ることができるなら、そのとき問題を持たないでしょう。私たちがそれを怖れているのは、生きている間に、知らないものを経験できないからです。私たちの格闘は、私たち自身-それは知っているものの結果です-と、死と呼ばれる知らないものとの間に、関係を確立することです。過去と、精神が考え出す(思いつく)ことのできない何か、すなわち死と呼ばれるものの間に、関係がありうるでしょうか。なぜ私たちは二つを分離するのでしょうか。それは、私たちの精神が、知っているものの領域の中で、連続的なものの領域の中でだけ機能できるから、ではないでしょうか。人は、悲惨の、楽しみの、愛、愛情の、様々な種類の経験の一定の記憶を持った思考者として、行為者(actor 作者)として自分自身を知っているだけです。人は自分自身を連続しているものとして・自分自身が連続していることを知っているだけです-そうでないと自分自身が何ものかであるという回想(追憶)を持たないでしょう。そこで、その何かが終わりになるとき-それが死と呼ばれます-知らないものへの恐れがあるのです。それで私たちは知らないものを、知っているものの中に引き込みたいのです。私たちの努力全体は、知らないものに連続性を与えることです。すなわち私たちは生-すなわち死を含んでいるもの-を知りたくないのです。いかに継続して終わりにならないか・終わらないかを知りたいのです。私たちは生と死を知りたくないのです。いかにして終わることなく継続するのかを知りたいのです。
(´・(ェ)・`)つ
378
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/23(月) 21:55:57 ID:1d4drIFg0
死と生は離れたものではないというのじゃ。
それは同じものの変化なのじゃ。
肉体がある時に生きるということがあり、それが止まることを死と呼ぶだけなのじゃ。
死は生の終わりであり、生は死の必要条件なのじゃ。
生がなければ死も無いからなのじゃ。
その二つを引き離すことは出来ないのじゃ。
379
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/24(火) 18:06:36 ID:fFvb601s0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 2
継続するものは新生がありません。継続(連続)性のあるものには、何も新しいものがありえません。何も創造的なものがありえません-それはかなり明白です。常に(そもそも)新しいものの可能性がありうるのは、連続性が終わるときだけです。しかし私たちが怖れるのは、この終わることです。日毎に私たちの経験、記憶、不幸を持ち越すことにではなく、終わることにおいてだけ、新生が、創造的なものが、知らないものがありうるということが、私たちはわからないのです。新しいものがありうるのは、古いものすべてに対して、毎日死ぬときだけです。連続性があるところ、新しいものはありません-新しいものとは創造的なもの、知らないもの、永遠のもの、神、何でもです。知らないもの、真実のもの、永遠のものを求める人物、連続的な実体は、決してそれを見つけないでしょう。なぜなら、彼は自分自身の中から投影するものだけを見つけられるし、彼が投影するものは真実のものではないからです。終わること、死ぬことにおいてだけ、新しいものが知られうるのです。生と死の間に関係を見つけよう、(連続するものと彼方にあると思われるものに橋を架けよう)と努める人は、架空の・虚構の真実でない世界、すなわち彼自身の投影に生きているのです。 では、生きている間に死ぬことは可能でしょうか-それは終わる、無としてある、という意味です。あらゆるものがますますなろう、またはますますなるまいとしているこの世界、あらゆるものが登り、達成し、成功する過程であるこの世界で生きている間に、そういう世界で死を知ることは可能でしょうか。すべての記憶を終わらせることは可能でしょうか-事実について [の記憶] 、自分の家に帰る道についての記憶などではなく、記憶をとおしての心理的安全への内面的執着、蓄積し、貯えてきて、そこに安全、幸せを求める記憶です。そのすべてを終わりにすることは可能でしょうか-それは、明日の新生があるように、毎日死ぬという意味です。生きている間に死を知るのは、そのときだけです。その死ぬことにおいて、その終わること、連続性を終わりにすることにおいてだけ、新生が、永遠であるその創造があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
380
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/24(火) 23:17:06 ID:1d4drIFg0
連続するものは新しいものはないというのじゃ。
それは記憶に依存しているからなのじゃ。
記憶に依存していればなにものかが連続しており、過去と未来が在ると思うのじゃ。
その連続性が無い時にのみ新しいものがあると言うのじゃ。
連続性の終わりが死であるというのじゃ。
死は終わりではなく新しいものの始まりなのじゃ。
381
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/25(水) 17:11:53 ID:RnRU.n1I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 1
質問
過去はただちに解消できるのでしょうか。それとも、それは必ず時間を必要とするのでしょうか。
K
私たちは過去の結果です。私たちの思考は昨日と何千もの昨日に基づいています。私たちは時間の結果です。私たちの応答、現在の態度は、何千もの瞬間、出来事、経験の累積的結果(影響)です。ですから過去は、私たちの大多数にとって現在です。それは否定できない事実です。あなた、あなたの思考、あなたの行動、あなたの応答は、過去の結果です。そこで質問者は、過去が即時に一掃できるのかどうかを知りたいのです。それは、時間においてという意味ではなく、即時に一掃するという意味です。それとも、この累積的過去は、精神が現在において自由になるために時間を要求するのでしょうか。疑問を理解することが重要です。それはこうです-私たち各自は、常に変わり、常に変化する無数の影響の背景を伴った過去の結果であるので、その背景を、時間の過程を経ずに一掃することは可能でしょうか。
過去とは何でしょうか。私たちのいう過去とはどういう意味でしょうか。たしかに、私たちのいうのは、年代的な過去という意味ではありません。 確かに私たちがいうのは、蓄積された経験、蓄積された応答、記憶、伝統、知識 [という意味] 、無数の思考、感情、影響、応答の潜在意識的(意識下の)倉庫、という意味です。その背景をもって真実を理解することは不可能です。なぜなら、真実は時間のないものであるにちがいないからです。それは無時間です。ですから、時間から出てきたものである精神をもって、時間のないものは理解できません。質問者は、精神を自由にすること、または精神、すなわち時間の結果であるものは、即時に存在しなくなることは可能であるのかどうかを知りたいのです。それとも、長い一連の試験を経て、分析して、それで精神をその背景から自由にしなければならないのでしょうか。
精神は背景です。精神は時間の結果です。精神は過去です。精神は未来ではありません。それはそれ自体を未来の中に投影できます。精神は現在を未来への通路として使います。ですから、それが何をやっても、その活動、その未来の活動、その現在の活動、その過去の活動が何であろうと、それはやはり時間の網の中です。精神が完全に止むこと、思考過程が終わりになることは可能でしょうか。さて精神には明白に多くの層があります。意識と呼ばれるものは、多くの層を持っています。各層は他の層と相互に関係しています。各層は他に依存し、相互に作用しています。私たちの意識全体は、経験しているだけでなく、また名づけ、用語付け、記憶として貯えてもいます。それが意識の過程全体なのではないでしょうか。
私たちが意識について話すとき、私たちのいうのは、経験すること、その経験を名づけたり用語づけること、それによりその経験を記憶にたくわえておくこと、という意味ではないでしょうか。違った水準で、このすべてが意識です。精神、すなわち時間の結果であるものは、背景から自由であるために、一歩ずつ分析の過程を経ることができるでしょうか。それとも時間から全く自由になって、真実を直接に見ることは可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
382
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/25(水) 21:51:41 ID:1d4drIFg0
過去とは精神であるというのじゃ。
それは記憶に拠って作られたものじゃ。
それを理解できれば瞬時に消えるのじゃ。
ただの観念妄想であったと気付くからなのじゃ。
383
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/26(木) 19:46:58 ID:T9jfcAc60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 2
背景から自由であるには、あらゆる応答、あらゆるコンプレックス、あらゆる障害、あらゆる閉塞物(障害・妨害)を検討しなければならないと、分析者の多くは言います-それは明白に時間の過程という意味を含んでいます。これは、分析者は自分が分析しているものを理解しなければならない、自分が分析するものを誤って解釈(誤解)してはならない、という意味です。彼は自分が分析するものを誤って解釈するなら、それは彼を間違った結論に導き、ゆえにもう一つの背景を確立するでしょう。分析者は自分の思考と感情を、極わずかの逸脱もなく分析する能力がなければなりません。そして彼は自分の分析において一歩も失敗して(はずして・見失って)はなりません。なぜなら、間違った歩みをすること、間違った結論を引き出すことは、違った線に沿って、違った水準で、背景を再確立することであるからです。この問題もまた生じます-分析者は自分が分析するものとは違っているのだろうか。分析者と分析されるものとは接合した(共通の・共有の)現象ではないでしょうか。
確かに、経験者と経験とは接合した現象です。それらは二つの分離した過程ではありません。それでまず最初に、分析することの難しさを見ましょう。私たちの意識の内容全体を分析して、よってその過程をとおして自由になることは、ほとんど不可能です。結局、分析者とは誰でしょうか。分析者は、自分が分析しているものと自分は違っていると思うかもしれませんが、違っていません。彼は自分が分析するものから自分自身を分離するかもしれませんが、分析者は自分が分析するものの一部です。私は或る思考を持っています。或る感情を持っています-例えば、私は怒っているとします。怒りを分析する人物は、やはり怒りの一部です。ゆえに分析されるものと共に分析者は、接合した現象です。それらは二つの分離した力や過程ではありません。ですから私たち自身を分析すること、展開すること、次から次へとぺ-ジをめくって私たち自身を見つめること、あらゆる反応、あらゆる応答を見張ることの難しさは、計算できないほど難しくて長いのです。ゆえにそれは、私たちを背景から自由にする道ではないのではないでしょうか。もっと単純でもっと直接の道があるにちがいないし、それが、あなたと私が見出そうとしていることです。見出すためには、偽りであるものを切り捨て [なければなりません] 、それにすがりついてはなりません。ですから分析は道ではありません。私たちは分析の過程から自由でなければなりません。
そのときあなたは何を去ったのでしょうか。あなたは分析することに慣れているだけではないでしょうか。観察している観察者-観察者と観察されるものは接合した現象です-自分が観察するものを分析しようとしている観察者は、自分の背景から自由にならないでしょう。そうであるなら-そうなのですが-あなたはその過程を捨て去るのではないでしょうか。あなたは、それが偽りの道であることがわかるなら、それが偽りの過程であることを、たんに言葉の上だけでなく現実に悟るなら、そのときあなたの分析に何が起きるでしょうか。あなたは分析するのを止めるのではないでしょうか。そのときあなたは何を去ったのでしょうか。それを見守ってください。それに付いてきてください。すると、どんなに急速にすばやく、背景から自由になれるかがわかるでしょう。それが道でないなら、他に何を去ったのでしょうか。分析すること、探り、覗き込むこと、解剖すること、結論を引き出すことなどに慣れている精神の状態は、どんなものでしょうか。その過程が止んでしまったなら、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
384
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/26(木) 21:52:30 ID:1d4drIFg0
記憶から自由であるためには全ての観念を見る必要は無いのじゃ。
自分自身が見る者であり、見られるものであることに気付けば善いのじゃ。
それが自分を見る事になるのじゃ。
観察する者と観察されるものがあるという観念があれば記憶から離れることは無いのじゃ。
385
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/27(金) 19:58:45 ID:n2jj.iZI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 3
精神は空白であると、あなたは言います。その空白の精神の中にさらに進んでください。言い換えれば、あなたは、偽りであるとして知られているものを切り捨てるとき、あなたの精神に何が起きたのでしょうか。結局、あなたは何を切り捨てたのでしょうか。あなたは背景から出てきたものである偽りの過程を切り捨てたのです。そうではないでしょうか。一発(一撃)で、いわばあなたは全体を切り捨てたのです。ゆえに、あなたが分析過程と共にそのすべての含意(意味合い)を切り捨てて、それが偽りとわかるとき、あなたの精神は昨日から自由であるし、ゆえに時間の過程を経ずに直接に見る [能力がある] し、よって即時に背景を切り捨てる能力があるのです。
疑問全体を違ったふうにすると、思考は時間の結果なのではないでしょうか。思考は環境の、社会的、宗教的影響の結果です-それはすべて時間の一部です。そこで思考は時間から自由でありうるでしょうか。すなわち時間の結果である思考は止まって、時間の過程から自由でありうるでしょうか。思考は制御され形作られえます。しかし思考の制御はやはり時間の領域の中にあるのです。そこで私たちの困難は-時間の、何千もの昨日の結果である精神は、どのようにしてこの複雑な背景から瞬時に自由でありうるのか-です。あなたは明日にではなく現在、今、それから自由でありえます。それは、あなたが偽りであるものを悟るときだけ、できるのです。偽りのものは明白に分析的過程です。それが私たちの持っている唯一のものです。強制をとおしてではなく、その過程の避けられない偽りを理解することをとおして、分析的過程が完全に止まるとき、そのときあなたは、自分の精神が完全に過去から分離されていることがわかるでしょう-それはあなたが過去を認識しないということではなく、あなたの精神が過去と直接の交流を持たないという意味です。それで、それは即時に、今、過去から自由になれるのです。この過去からの分離、昨日からのこの完全な自由は-年代的にではなく心理的に-可能です。それが真実を理解する唯一の道です。
それをとても単純にすると、あなたが何かを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたが自分の子供を理解したいとき、誰かを、誰かが言っていることを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたは他の人が言っていることを分析し、批判し、判定していません。あなたは聴いているのではないでしょうか。あなたの精神は、思考過程は活動していないがとても鋭敏である状態にあります。その鋭敏さは、時間のものではないのではないでしょうか。あなたはたんに鋭敏で受動的に受け入れる(受容力がある)けれども、充分に気づいているだけです。そして理解があるのは、この状態においてだけです。精神が動揺し、問い、悩み、解剖し、分析しているとき、理解はありません。理解しようとする意図があるとき、精神は明白に平静です。もちろんこれは、あなたが実験してみなくてはなりません。私の言うことを真に受ける(信じる)のではありません。あなたは分析すればするほど、ますます理解しないということがわかるはずです。あなたは一定の出来事、一定の経験を理解するかもしれませんが、意識の内容全体は、分析的過程をとおして空っぽにすることはできません。それは、あなたが分析をとおした接近の偽りがわかるときだけ、空っぽにできるのです。あなたは偽りを偽りとわかるとき、そのとき何が真実であるかがわかりはじめます。そしてあなたを背景から解放することになるのは、真理です。
(´・(ェ)・`)つ
386
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/27(金) 23:32:46 ID:1d4drIFg0
思考は時間に拠っているから時間からは自由でありえないというのじゃ。
記憶に縛られているのじゃ。
思考に拠らない理解は時間によるものではないのじゃ。
時間を掛けず瞬時に理解できるのじゃ。
それが気づきなのじや。
387
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/28(土) 11:18:52 ID:fukTh4tE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 1
質問
真理が来るために、あなたは観念をもたない行動を、主張されます。観念をもたずに、すなわち目的を視野にもたずに、いつのときも行動することは、可能でしょうか。
K
私たちの現在の行動は何でしょうか。私たちのいう行動とは、どういう意味でしょうか。私たちの行動-私たちがしたい、ありたいと思うこと-は、観念に基づいているのではないでしょうか。それが、私たちの知っているすべてです。私たちは観念、理想、約束・誓約、あるがままの自分たちとそうでないものについての様々な定式を持っています。私たちの行動の基礎は、未来の報賞か、罰への恐れです。私たちはそれを知っているのではないでしょうか。そういう行動は孤立させ、自己を閉鎖しています(孤立的、自己閉鎖的です)。あなたは美徳についての観念を持っていて、その観念に応じて、関係において生き、行動します。あなたにとって関係は-集団的でも個人的でも-理想に向かい、美徳に向かい、達成などに向かっている行動です。
「私は勇敢でなければならない」、「私は模範に付いていかなければならない」、「私は慈悲深く・情け深くなければならない」、「私は社会的に意識しなければならない」、などといったように-私の行動が理想、すなわち観念に基づいているとき、その観念が私の行動を形造り、私の行動を導きます。私たちは皆「私が付いていかなければならない美徳の模範がある」と言います-それは、「私はそれに応じて生きなければならない」という意味です。それで行動はその観念に基づいています。行動と観念の間に大きな隔たり・深淵があります。分割があります。時間の過程があります。そうなのではないでしょうか。言い換えれば、私は慈悲深くないのです。愛していないのです。自分の心の中に許しがないのです。しかし慈悲深くなければならないと、感じるのです。それであるがままの私とあるべき私との間に隔たりがあるのです。私たちはいつのときも、その隔たりに橋を架けようとしています。それが私たちの活動なのではないでしょうか。
では、もしも観念が存在しなかったなら、何が起きるでしょうか。一挙に、あなたは隔たりを取り去ってしまったのではないでしょうか。あなたはあるがままのあなたであるでしょう。「私は醜い。美しくならなければならない。どうすべきでしょうか」と、あなたは言います-それは観念に基づいた行動です。「私は慈悲深くない。慈悲深くならなければならない」と、あなたは言います。それであなたは、行動から分離した観念を導入します。ゆえにあるがままのあなたの真の行動 [・作用]は決してなくて、いつもあるであろうあなたの理想に基づいた行動があるのです。 愚かな人はいつも、自分は利口になろうとしていると、言います。彼は座って、なろうと働き、格闘して・もがいています。彼は決して止めません。「私は愚かだ」とは決して言いません。それで彼の行動、すなわち観念に基づいているものは、全く行動ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ
388
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/28(土) 22:34:20 ID:1d4drIFg0
観念がある時には行動は無いというのじゃ。
なぜならば観念による行動は欲とか規範による反応であるからというのじゃ。
観念を持つ者は行動しているのではなく、ただ反応しているのみなのじゃ。
観念が無いと時こそ真の理想に基づいた行動があると言うのじゃ。
389
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/29(日) 17:00:18 ID:e5flW1XM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 2
行動とは、すること、動くことという意味です。しかしあなたが観念を持つとき、それはたんに行動との関係において、観念作用が続いている、思考過程が続いているだけです。観念がなければ、何が起きるでしょうか。あなたは、あるがままのあなたです。あなたは慈悲深くありません・無慈悲です。あなたは許していません。あなたは残酷で愚かで無思慮です。あなたはそれと共にとどまれるでしょうか。あなたはそうするなら、そのとき何が起きるか、わかります。私は自分が慈悲深くなく愚かであるのを認識するとき、それがそうであることに気づくとき、何が起きるでしょうか。慈善の心がないでしょうか。智恵がないでしょうか。私が慈悲深くないことを、言葉ではなく、作為的にではなく、完全に認識するとき、自分が慈悲深くなくて愛がないのを認識するとき、まさにそのあるがままを見ることこそに、愛がないでしょうか。私は即時に慈悲深くならないでしょうか。私が清潔であることの必要性がわかるなら、それはとても単純です。私は洗いにゆきます。しかしそれが、私が洗うべきであるという観念であるなら(私は洗うべきであるということが観念であるなら)、そのとき何が起きるでしょうか。そのとき清潔さは延期されるか、または表面的です。
観念に基づいた行動は、とても表面的です。全く真の行動ではありません。ただ観念作用だけです-それはたんに思考過程が続いているだけです。
人間としての私たちを変容させ、革新、償い、変容をもたらす行動-何と呼ぼうと-そういう行動は観念に基づいていません。それは、賞罰の連続とはかかわりのない行動です。そういう行動は時間がありません。なぜなら、時間の過程、計算する過程、分割し、孤立化させる過程である精神が、その中に入ってこないないからです。
この質問はあまりたやすく解決されません。あなたたちのほとんどは、質問をして、「はい」とか「いいえ」とかいう答えを期待します。「あなたのいうのはどういう意味でしょうか」というような質問をして、それから深く坐って、私に説明させることはたやすいです。しかし自分自身で答えを見出すことのほうが、はるかにもっと困難です-問題がなくなるほどに、それほど奥深く、それほど明晰に、なんの腐敗もなく問題の中に入ることのほうが、です。精神が問題に向き合ってほんとうに静寂であるとき、それは起こりうるだけです。問題は、あなたがそれを愛するなら、夕暮れと同じほど美しいのです。あなたは問題と敵対しているなら、決して理解しないでしょう。私たちのほとんどは敵対しています。なぜなら私たちは、結果に、進めば起きるかもしれないことに、怯えているからです。それで問題の意義と範囲・視野を失うのです。
(´・(ェ)・`)つ
390
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/29(日) 23:33:39 ID:1d4drIFg0
観念がある行動は行動ではないばかりか、観念そのものとまで言うのじゃ。
行動は無く観念が続いているだけなのじゃ。
汚い自分を洗おうとする観念による行動は汚い自分を続けるだけというのじゃ。
観念に基づかない行動だけが変容を引き起こすというのじゃ。
391
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/30(月) 19:12:14 ID:GB63TOaY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 1
質問
私はあなたの言うことを聴くとき、すべてが明確で新しく見えます。家では、古いもの、鈍い落ち着きのなさが、自己を主張します。私の場合、何が間違っているのでしょうか。
K
私たちの生において、現実に起きているのは何でしょうか。常なる挑戦と応答があります。それが存在であり、それが生なのではないでしょうか-常なる挑戦と応答です。挑戦はいつも新しくて、応答はいつも古いのです。私は昨日あなたに会いました。そしてあなたは今日私のところへ来ます。あなたは違っています。あなたは修正されています。あなたは変わりました。あなたは新しいのです。しかし私は、あなたが昨日あったのと同じあなたの映像を持っています。ゆえに私は新しいものを古いものの中に吸収します。私は新たにあなたに出会わないのです。昨日のあなたの映像を持っています。それで挑戦への私の応答は、いつも条件づけられるのです。あなたはここでは当分は、バラモン、キリスト教徒、高いカ-スト、-何であろうと-であるのを止めます-あなたはあらゆるものごとを忘れます。あなたはただ聴いて、熱中して、見出そうとしています。あなたは自分の日常の生を再開するとき、自分の古い自己になります-自分の仕事、自分のカ-スト、自分の体制、自分の家族に戻っています。言い換えれば、新しいものは古いものにより、古い習慣、慣習、観念、伝統、記憶の中に、いつも吸収されているのです。決して新しいものはないのです。というのは、あなたはいつも古いものでもって新しいものに出会っているからです。挑戦は新しいのですが、あなたは古いものでもって、それに出会うのです。この質問における問題は、いつのときも新しくあるように、どのようにして思考を古いものから自由にするか、です。あなたは花を見るとき、顔を見るとき、空、木、微笑を見るとき、どのようにして新たにそれと出会うのでしょうか。私たちがそれと新たに出会わないのは、なぜでしょうか。古いものが新しいものを吸収して、それを修正するのは、なぜでしょうか。あなたが家に帰るとき、なぜ新しいものは止むのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
392
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/11/30(月) 21:40:31 ID:1d4drIFg0
記憶に依存していれば常に全ては古いものになるのじゃ。
過去の記憶から今見ているものごとが解釈されるからのう。
今は直ぐに古くなってしまうのじゃ。
記憶に依存しなければ全ては常に新しいのじゃ。
393
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/01(火) 17:44:57 ID:v1y86gyc0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 2
古い応答は思考者から生じます。思考者はいつも古いものではないでしょうか。あなたの思考は過去に基づいているから、あなたが新しいものに出会うとき、それに出会っているのは思考者です。昨日の経験がそれに出会っているのです。思考者はいつも古いものです。それで私たちは違った仕方で同じ問題に戻って来るのです。どのようにして精神を、思考者としてのそれ自体から自由にするのか。どのようにして記憶を-事実に基づく・関する記憶ではなく、心理的な記憶、すなわち経験の蓄積を-根絶するのか。経験の残り滓からの自由なしには、新しいものの受容はありえません。思考を自由にすること、思考過程から自由であって、それで新しいものに出会うことは、困難なのではないでしょうか。なぜなら、私たちのすべての信念、すべての伝統、教育におけるすべての方法は、模倣、真似ること、記憶すること、記憶の貯え・貯蔵所を築き上げることであるからです。その記憶が常に新しいものに応答しています。その記憶の応答が、考えることと呼ばれます。その考えることが新しいものに出会うのです。それでどうして新しいものがありうるでしょうか。記憶の残り滓がないときだけ、新しさがありえるのです。経験が終わり、終了し・終結し、終わっていないとき、残り滓があるのです。すなわち経験についての理解が不完全であるときです。経験が完全であるとき、残り滓はありません-それが生の美しさです。愛は残り滓ではありません。愛は経験ではありません。それは存在の状態です。愛は永遠に新しいのです。ゆえに私たちの問題は-家においてさえも、常に新しいものに出会えるでしょうか。確かにできます。そうするには、思考に、感情に、革命をもたらさなければなりません。あらゆる出来事が、瞬間瞬間考え抜かれるとき、あらゆる応答が-たんにいいかげんに・何気なく見られ、投げ捨てられるのではなく-充分に理解されるときだけ、あなたは自由でありうるのです。あらゆる思考、あらゆる感情が完全にされ・完了され、最後まで考え抜かれるときだけ、蓄積する思考からの自由があるのです。言い換えれば、各思考と感情が考え抜かれ、終了・終結されるとき、終わりがあるのです。その終わりと次の思考の間に空間があるのです。その静寂の空間に、新生があり、新しい創造性が起きるのです。
(´・(ェ)・`)つ
394
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/01(火) 21:32:42 ID:1d4drIFg0
認識が記憶に依存していれば、新しいものも古い記憶から解釈されてしまうのじゃ。
記憶によって認識したことから思考が生まれるから、思考は常に古いのじゃ。
記憶に無い新しいものごとは思考されないのじゃ。
それを理解できた時に静寂があり、新しいものを認識できるのじゃ。
395
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/02(水) 18:20:24 ID:AaNyLhQ20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 3
これは理論的ではありません。これは非実践的ではありません。あなたは、あらゆる思考と感情を考え抜こうとするなら、それはあなたの生において、とてつもなく実践的であることを、発見するでしょう。というのは、そのときあなたは新しいし、新しいものは永遠に永続するからです。新しいことは創造的ですし、創造的であることは幸せであることです。幸せな人は、自分が富裕であるか貧しいかに関心がありません。彼は社会のどんな水準、どんなカ-スト、どんな国に、自分が属しているかを気にしません。彼は指導者も、神も、寺院も、教会も [持ちません]、 ゆえに諍いも、敵も持ちません。
確かにそれが、この現在の混沌の世界において、私たちの問題を解決するもっとも実践的な道ではないでしょうか。私たちが自分たちの意識の違った水準すべてにおいてこんなに反社会的であるのは、私たちが-私がその言葉を使っている意味において-創造的でないからです。私たちの社会的関係において、あらゆるものごととの関係において、とても実践的で効果的であるには、幸せでなければなりません。終わりがなければ、幸せはありえません。常なるなりゆきの過程があるなら、幸せはありえません。終わることのなかに、新生、再生・復活、新しさ、新鮮さ、喜びがあるのです。
背景があるかぎり、精神、思考者が、自分の思考により条件づけられるかぎり、新しいものは古いものに吸収されるし、古いものは新しいものを破壊します。背景から、条件づける影響から、記憶から自由であるには、継続・連続性からの自由がなければなりません。思考と感情が完全に終わらないかぎり、継続性があります。あなたは思考をその終わりまで追求し、よってあらゆる思考、あらゆる感情を終わらせるとき、思考を完全にする・完了するのです。愛は、習慣、記憶ではありません。愛はいつも新しいのです。精神が新鮮であるときだけ、新しいものとの出会いがありうるのです。そして記憶の残り滓があるかぎり、精神は新鮮ではありません。記憶は心理的と共に事実に基づいています。私は事実に基づいた記憶についてではなく、心理的な記憶について話しています。経験が完全に理解されないかぎり、残り滓があります-それが古いものです。それが昨日のもの、過去であるものごとです。過去はいつも新しいものを吸収しているし、ゆえに新しいものを破壊しています。精神があらゆるものごとに新たに出会うのは、それが古いものから自由であるときだけです。そしてその中に、喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
396
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/02(水) 21:31:35 ID:1d4drIFg0
思考とか感情をどこまで追及するならばそれが消える境地にまで達するのじゃ。
実際にそれは出来ることじゃ。
思考とか感情を終わらせれば新しいものに出会えるのじゃ。
そして喜びが在るのじゃ。
397
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/03(木) 06:52:42 ID:h1RGr7360
うむ。
確かに、永遠に続く苦しみの様に思われる強い感情や、負の思考も、やがて消え去ることを知っています。
Kの方法は、その思考、感情が消え去るまて考え抜き、感じ続けることでありますかね?
「観」の徹底を求めてるのでありましょうか?
呼吸への集中→雑念に巻き込まれて集中することを忘れる→そのことに気づいて集中に戻る→雑念が消える。
↑こちらの方が、だれでもできる楽な実践法のように思えるのでありますが、Kは、「集中」「止」が、「観」の徹底の邪魔をすると考えてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b
398
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/03(木) 19:32:02 ID:hh98Jcm20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 1
質問
情動に名づけることやレッテルを貼ることなしに、どうしてそれに気づけるのでしょうか。私は [ある] 感情に気づくなら、それが生じた後にほとんど即時に、その感情が何であるかを知っているように見えます。それともあなたは、「名づけてはいけない」と言うとき、何か違ったことを意味しているのでしょうか。
K
なぜ私たちは何かに名づけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人物に、感情に、レッテルを貼るのでしょうか。自分の感情を伝達するため、花等々を叙述するため、または自分自身をその感情と同一化するため、のどれかです。そうではないでしょうか。私は伝達するために、何かに、感情に名づけます-「私は怒っている」。またはその感情を強めるため、解消するため、それについて何かをするために、自分自身をそれと同一化します。私たちは他の人たちに伝達するために、何かに、バラに名前をつけます。またはそれに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちは「それはバラです」と言って、急いで・すばやくそれを見て次に進みます。それに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちはそれを分類しておいて、よってその花の内容と美しさ全体を理解したと、思うのです。
何かに名前をつけることにより、私たちはたんにそれをに入れただけです。それでそれを理解したと思うのです。私たちはそれをもっときっちりと見ないのです。私たちはどんなふうにでもそれに名前をつけないなら、それを見るように強いられるのです。すなわち私たちは花でも何でも、新しさをもって、新しい検討の質をもって接近するのです。私たちはまるで今まで見たことがなかったかのように、それを見ます。名づけることは、ものごとや人を整理する・処置するとても便利なやりかたです-彼らはドイツ人、日本人、アメリカ人、インド人であると言うことにより、あなたは彼らにレッテルを貼って、レッテルを破壊できるのです。あなたは人々にレッテルを貼らないなら、彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことは、はるかにもっと難しいのです。あなたは爆弾でレッテルを破壊して正しいと・正義だと感じることができます。しかしあなたはレッテルを貼らないで、ゆえに一個の・個々のものごと-それが人でも花でも出来事でも情動でも-を見なければならないなら、そのとき、それと自分の関係、後に続く行動との関係を考えるように強いられるのです。それで用語づけることやレッテルを貼ることは、何かを処理する-それを否定したり非難したり正当化したりする-とても便利なやり方です。
あなたがそこから名づけてくる中核・核芯は何でしょうか。いつも名づけ、選択し、レッテルを貼っている中心は何でしょうか。私たちは皆、中心、核があると感じるのではないでしょうか-そこから私たちは行動しています。そこから判断しています。そこから名づけています。その中心、その核は何でしょうか。或る者は、それは霊的本質、神、などであると考えたいように思うのです。それでその核、その中心が何であるかを見出しましょう-それが名づけ、用語付け、判断しているのです。確かに、その中心は記憶なのではないでしょうか。同一化され、閉じ込められた一連の感動-現在をとおして命を与えられた過去です。その核、その中心が、名づけること、レッテルを貼ること、覚えておくことをとおして、現在を常食にするのです。
(´・(ェ)・`)つ
399
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/03(木) 21:51:42 ID:1d4drIFg0
>>397
そうじゃ、それを観察と呼ばないだけなのじゃ。
実際は観察しているのであるがのう。
そのようじゃ。
集中なく観察をしろというのじゃ。
困難なことじゃ。
400
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/03(木) 21:53:44 ID:1d4drIFg0
名づけるのはものごとや人を整理するのに便利であると言うのじゃ。
しかし、それは記憶による分別なのじゃ。
記憶により分別されてしまえばそれはもはや古いことになってしまうのじゃ。
今ここにいることはできないのじゃ。
過去の記憶に生きているのじゃ。
401
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/04(金) 18:02:46 ID:SpAN1P/60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 2
私たちは、それを展開する・紐解くにつれて、この中心、この核が存在しているかぎり、理解はありえないことが、やがてわかるでしょう。理解があるのは、この核の消散をもってだけです。なぜなら、結局、その核は記憶であるからです-名前、レッテル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です。名づけられ、レッテルを貼られたそれらの経験をもって、その核から、経験の記憶の感動 [に応じ] 、楽しみと苦痛に応じて、受け入れと拒絶、あろう、あるまいとする決意・決心・決定があるのです。ですからその核は言葉です。あなたがその中心に名づけないなら、中心はあるでしょうか。すなわちあなたが言葉という見地に立って考えないなら、言葉を使わないなら、考えられるでしょうか。考えることは、言語化・言葉にすることをとおして生じます。または言語化は、考えることに応答し始めます。中心、核は、言語化された無数の楽しみと苦痛の経験の記憶です。どうかそれをあなた自身のなかに見守ってください。すると実体よりも言葉のほうがはるかにもっと重要になってしまったこと、レッテルのほうがはるかにもっと重要になってしまったことが、わかるでしょう。それで私たちは言葉を拠り所に・糧として生きているのです。
私たちにとって真理、神のような言葉が-またはそれらの言葉が表す・表現する感情が-とても重要になってしまったのです。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「ヒンドウ-教徒」という言葉や「怒り」という言葉を言うとき、私たちが、感情を表す言葉です。しかし私たちはその感情が何であるかを知りません。なぜなら、言葉が重要になってしまったからです。あなたが自分自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉はどういう意味でしょうか。その言葉の裏の意味は何でしょうか-あなたはそれを決して検討したことがありません。私たちの中心、核が、言葉、レッテルです。レッテルが大事でないなら、大事なものは、レッテルの裏にあるものであるなら、そのときあなたは探究することができます。しかしあなたはレッテルと同一化されて、それに突き刺されている・それがこびりついているなら、前進できません。私たちはレッテルと同一化されています-家、形・姿、名前、家具、銀行預金、自分たちの意見、自分たちの刺激物等々と-。私たちはそれらすべてのものごと-名前により表されているそれらのものごと-です。ものが、名前が、レッテルが、重要になってしまったのです。ゆえに中心・核が言葉です。
(´・(ェ)・`)つ
402
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/04(金) 21:52:40 ID:1d4drIFg0
言葉や名前による分別が記憶から起こっているというのじゃ。
それが問題の核であるというのじゃ。
その核がなくならない限り理解はないというのじゃ。
仏教で言えば阿頼耶識じゃな。
今ここにあるものごとよりも、記憶による名前の方が現実と認識してしまっているからそれは消滅させなければならないのじゃ。
403
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/05(土) 09:55:45 ID:fh1mgHQQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 3
言葉がなく、レッテルがないなら、中心はないのではないでしょうか。分解・解消があります。空っぽがあります-恐れの空っぽではありません-それは全く違ったことです。何でもないもの・無としてあるという感覚があります。あなたはレッテルすべてを取り除いた・剥がし取ったから、というよりむしろなぜ自分が感情と観念にレッテルを貼るのかを理解したから、あなたは完全に新しいのではないでしょうか。あなたがそこから行動している中心はありません。中心、すなわち言葉は解消されたのです。レッテルは剥ぎ取られました。すると中心としてのあなたは、どこにいるのでしょうか。あなたはいます。しかし変容があったのです。その変容はほんの少し恐ろしい・ぎょっとするのです。ゆえに、あなたは、それにやはり関与しているものを続けないのです。あなたはすでにそれを判断し、自分がそれを好きか好きでないかを決定しはじめています。あなたは近づいている・来たりつつあるものの理解を続けません。すでに判断しています-それは、あなたが、そこから行動している中心を持っているという意味です。ゆえに、あなたは判断した瞬間、固定したままでいるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが名づけないとき、何が起きるでしょうか。あなたはもっと直接的に情動を、感動を見ます。ゆえに、ちょうどあなたが花に名づけないときそれと持つような全く違った関係を、それと持ちます。あなたは新たにそれを見るように強いられます。あなたは人々の集団に名づけないとき、彼らすべてを全体・集合体として扱うのではなく、各個人の顔を見るように強制されます。ゆえにあなたははるかにもっと鋭敏で、もっと観察力があり、もっと理解があるのです。あなたはより深い哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかしあなたが彼らすべてを全体として扱うなら、それは終わっています。
あなたはレッテルを貼らないなら、あらゆる感情を生じるままに見なければ・凝視しなければなりません。あなたがレッテルを貼るとき、感情はレッテルと違っているのでしょうか。それともレッテルが感情を目覚めさせるのでしょうか。どうかそれをよく考えてください。私たちがレッテルを貼るとき、私たちのほとんどは感情を強烈にします。感情と名づけることは瞬時・瞬間的です。もしも名づけることと感情の間に隔たりがあったなら、そのときあなたは、感情が名づけることと違っているのかどうかを、見出せるでしょう。それで感情に名づけることなく、それを扱うことができるでしょう。
問題はこうなのではないでしょうか-怒りといったような、私たちが名づける感情から、どのようにして自由であるのか、です。どのようにしてそれを服従させ・征服し、昇華し、抑圧するのかではなく-それはすべて白痴的で・ばかげて幼稚です-どのようにしてそれからほんとうに自由であるのか、です。それからほんとうに自由であるには、私たちは、言葉のほうが感情よりももっと重要なのかどうかを、発見しなければなりません。「怒り」という言葉のほうが、感情自体よりももっと意義を持つのです。ほんとうにそれを見出すには、感情と名づけることの間に隔たりがなければなりません。それが一部です。
(´・(ェ)・`)つ
404
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/05(土) 21:55:29 ID:1d4drIFg0
言葉があるとき感情も起こり、好き嫌いも起こるというのじゃ。
そして執着が起こり、苦も起こるのじゃ。
言葉とレッテルが無ければ空があるのじゃ。
観念が無くとも意識は常に在るのじゃ。
405
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/06(日) 13:25:06 ID:ephB6SPw0
うむ。科学、技術的な言葉、観念わ否定するのではなくて、感情、感覚などを蓄積した記憶に基づく観察を否定しているのでありますね。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 1
質問
私たちの精神は、知られたものだけを知っています。私たちの中で、知られないもの、真実、神を見つけるように駆り立てるのは、何でしょうか。
K
あなたの精神は知られないものに向かって駆り立てるのでしょうか。私たちには、知られないもの、真実、神への衝動があるのでしょうか。どうかそれを真剣に考え抜いてください。これは修辞学的な問い・反語ではなくて、現実に見出しましょう。私たち各自には、知られないものを見出したいという内面の衝動があるのでしょうか。あるのでしょうか。どうしてあなたは知られないものを見つけられるでしょうか。あなたがそれを知らないなら、どうして見つけられるでしょうか。真実への衝動があるのでしょうか。それともそれはたんに知られたものへの拡大された願望でしょうか。私のいうことがどういう意味なのか、理解していますか。私は多くのものごとを知ってきました。それらは私に幸せ、満足、喜びをくれませんでした。それで今や私は、もっと大きな喜び、もっと大きな幸せ、もっと大きな生命力-何であれ-を自分にくれるであろう何か他のものを、欲しがっているのです。知られたもの-それは私の精神です-なぜなら、私の精神は知られているから、過去の結果であるからです-その精神が知られないものを求められるでしょうか。私は真実を、知られないものを知らないなら、どうしてそれを探求できるでしょうか。確かにそれは来なければなりません。私はそれを追ってゆけません・追いかけられません。私はそれを追ってゆくなら、何か自分が投影した知られたものであるものを、追っているのです。
私たちの問題は、私たちの中で、知られないものを見つけるように自分たちを駆り立てるのは何なのかではありません-それは充分明らかです。それは、もっと安全で、もっと永久的で、もっと確立され、もっと幸せでありたい、騒乱・騒動から、苦痛、混乱から逃避したいという私たち自身の願望です。それが私たちの明白な駆動力です。その駆動力、その衝動があるとき、あなたは-ブッダに、キリストに、政治的とその他すべてに-すばらしい逃避、すばらしい避難所を見つけるでしょう。それは真実ではありません。それは知ることのできないもの、知られないものではありません。ゆえに知られないものへの衝動は、終わらなければなりません。知られないものへの探求は止まなければなりません-それは、累積する知られたもの、すなわち精神の理解がなければならないという意味です。精神は、知られたものとしてのそれ自体を理解しなければなりません。なぜならそれが、それが知っているすべてであるからです。あなたは、何か自分が知らないものについて考えられません。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。
私たちの困難は、精神が知られたものに進んでいかないことです。それは、精神がそれ自体を [理解して] 、そのすべての動きが、どのように過去から現在をとおして未来にそれ自体を投影しているかを理解するときだけ、起きるのです。それは知られたものの一つの連続した動きです。その動きは終わりうるでしょうか。それは、それ自身の過程の機構が理解されるときだけ、精神がそれ自体とその働き、そのやり方、その目的、その追求、その要求を-表面的な要求だけでなく、深い内面的な衝動と動機を-理解するときだけ、終わりうるのです。これは全く困難な作業です。*あなたが見出すのは、ただ会議の中や講義においてや本を読むことにおいてではないのです。反対に、それは、思考のあらゆる動きへの常なる見守り、常なる気づきが要るのです-あなたが起きているときだけでなく、また眠っているときも、です。それは散発的な、部分的な過程ではなく、総合的な過程でなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
406
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/06(日) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
悟っていない者が知るのは記憶の中にあるものだけなのじゃ。
記憶に無いものごとは知られないのじゃ。
それでも知ろうとする意志は起こるのじゃ。
その意志をも観察して理解することで無くすのじゃ。
本当に知らないものが理解できるのはその後なのじゃ。
407
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/07(月) 17:43:36 ID:0XbLwQ/k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 2
また、意図が正しくなければなりません。すなわち、私たち皆が内面的に、知られないものを欲しがるという迷信の停止がなければなりません。私たちが皆神を求めていると考えることは、幻影です-私たちは [求めて]いません。私たちは光を探し求めなくていいのです。闇がないとき、光があるでしょう。闇をとおして、光は見つけられません。わたしたちにできるすべては、闇を造り出すそれらの障壁を取り去ることです。除去は意図に依ります。あなたは光を見るために、それらを取り去っているなら、そのとき何も取り去っていません。闇の代わりに光という言葉を用いているだけです。闇を越えて・の向こうを見ることさえも、闇からの逃避です。
私たちは、自分たちを駆り立てているのは何なのかではなく、なぜ自分たちには、そういう混乱、そういう騒動、そういう闘争と敵対が-私たちの存在の愚かなものごとすべてが-あるのかを、考慮しなければなりません。これらがないとき、そのとき光があります。私たちはそれを捜さなくていいのです。愚かさが去ったとき、智恵があります。しかし愚かであって智恵を持とうとする人は、やはり愚かです。愚かさは決して英知になれません。愚かさが止むときだけ、英知、智恵があるのです。愚かであって智恵を [持とう]、賢くなろうとする人は、明白に、決してそうあることができません。何が愚かさなのかを知るには、表面的にではなく、充分に、完全に、深く、奥深く、それに入らなければなりません。愚かさの違った層すべてに入らなければなりません。その愚かさの停止があるとき、英知があります。
ゆえに、知られたものより何かもっと多くのもの、何かもっと偉大なものがあるのかどうかを、見出さないこと [が重要です] ・見出すのではなくて-それが私たちを知られないものへと駆り立てているのです-私たちの中で、混乱、戦争、階級差別、俗物性・根性、名声の追求、知識の蓄積[を造り出し]、音楽をとおし、芸術をとおし、こんなに多くの仕方をとおして逃避を造り出しているのは何なのかを見ることが、重要です。確かに、それらをあるがままに見ること、あるがままの私たち自身に戻ってくることが、重要です。そこから私たちは、進めるのです。そのとき、知られたものを脱ぎ落とすことは、比較的たやすいのです。精神が静寂であるとき、それがもはや何かを願って、それ自体を未来へと投影していないとき、精神がほんとうに静かで、深く平和であるとき、知られないものが生じるのです。あなたはそれを探し求めなくていいのです。あなたはそれを招待できません。あなたが招待できるものは、あなたが知っているものだけです。あなたは知らない客を招待できません。あなたは自分が知っているものを招待できるだけです。しかしあなたは知られないもの、神、真実-何であれ-を知りません。それは来なければなりません。それは、田畑が健全であるとき、土が耕されているときだけ、来れるのです。しかしあなたは、それが来るために耕すなら、そのときそれを得ないでしょう。
私たちの問題は、どのようにして知ることのできないものを求めるのかではなく、精神の累積する過程-それは常に知られたものです-を理解することです。それは困難な作業です。それは、そこに散漫の、同一化の、非難の感覚がない常なる注意、常なる気づきを、要求します。それはあるがままと共にあることです。そのときだけ、精神は静かでいられるのです。どれほどの量の瞑想、修練も、言葉の真実の意味で、精神を静かにさせられません。そよ風が止むときだけ、湖は確かに静かになるのです。あなたは湖を静かにさせられません。私たちの仕事・努めは、知ることのできないものを追求することではなくて、自分たち自身の中の混乱、騒動、悲惨を理解することです。そのとき、そのものがぼんやりと・かすかに生じます-そこに喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
408
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/07(月) 20:57:42 ID:1d4drIFg0
神とか真実を求めることさえ幻影だというのじゃ。
それはただ金とか権力のために神や真実に頼っているのかもしれんからのう。
神や真実を求めようとする自分を観る時にのみそれは止むのじゃ。
そして精神が平静に成った時に神も真実も来るのじゃ。
409
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/08(火) 18:02:13 ID:Q/57jf6g0
18:30 (南ア) GDP-Q3
19:00 (独) ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) GDP 確定値-Q3★★
22:30 (米) 非農業部門労働生産性・改定値-Q3★★
22:55 (米) レッドブック米週間小売売上高
24:00 (米) OP NY CUT (NYT 10:00)
01:00 (英) London Fixing (LDN 16:00)
03:00 (米) 3年債入札
06:45 (NZ) 製造業売上高-Q3
米大統領選の選挙人確定期限
★Rank★ FX証券各社を参考
中国・武漢市で最初の新型コロナ感染者出現から1年
ケロ様スレより無断借用。
(´・(ェ)・`)つ
410
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/08(火) 18:03:20 ID:Q/57jf6g0
誤爆であります。
(´・(ェ)・`)つ
411
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/08(火) 18:54:03 ID:ZQVqKKDE0
訂正、
403の後に、次の↓文章が抜けておりました。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 4
私が感情に名づけないなら、つまり思考がたんに言葉のためにだけ機能していないなら、または私が言葉、イメ-ジ、象徴という見地に立って考えないなら-私たちのほとんどはそうします-そのとき何が起きるでしょうか。そのとき確かに精神は、たんに観察者だけではないのです。精神が言葉、象徴、イメ-ジという見地に立って考えていないとき、思考すなわち言葉から分離した思考者はありません。そのとき精神は静かなのではないでしょうか-静かにさせられるのではなく、それは静かです。精神がほんとうに静かであるとき、そのとき生じる感情は、即時に取り扱えるのです。感情が連続性・継続性を持つのは、私たちが感情に名前を付け、よってそれらを強めるときだけです。それらは中心に貯えられています-そこから私たちはそれらを強めたり、伝達するために、さらなるレッテルを貼るのです。
精神がもはや、言葉で、過去の経験で作り上げられた思考者としての中心でないとき-それはすべて、貯えられ、範疇に、仕切りに入れられた記憶、レッテルです-それがもはやそれらのものごとを何もしていないとき、そのとき明白に精神は静かです。それはもはや縛られていません。それはもはや私という中心を持ちません-私の家、私の達成、私の仕事-それらはやはり言葉であり、感情に勢いを与え、よって記憶を強めているのです。これらのものごとが何も起きていないとき、精神はとても静かです。その状態は否定ではありません。反対に、その地点に至るには、あなたはこのすべてを経なければなりません-それは途方もない仕事・企てです。それはたんにわずかな言葉を習い覚えて、男子生徒のようにそれらを-「名づけないこと」、「名づけないこと」 [と言って]- 反復するだけではありません。そのすべての含意・意味合いを遂行する・徹底的にやり抜くこと、それを経験すること、精神がどのように働くのかを見て、よってあなたがもはや名づけていない地点に至ること-それは、もはや思考から離れた中心がないという意味です-確かにこの過程全体がほんとうの瞑想です。
精神がほんとうに平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることが、可能です。他のどんな過程も、真実への他のどんな探求も、たんに自己投影的で、自家製であるし、ゆえに非真実です。しかしこの過程は困難です。それは、精神が、内面的にそれに起きているあらゆることに常に気づいていなければならない、という意味です。この地点に至るには、始めから終わりまで-これが終わりであるということではありません-判断も正当化もありえません。終わりはありません。なぜなら何かとてつもないことがなを起きている・続いているからです。これは約束ではありません。それはあなたが実験し、自分自身の中にますます深く入っていくことです。そのため中心の多くの層すべてが解消されるし、あなたはそれを急速にまたは怠けてできるのです。精神の過程-それがどんなに言葉に依存するか、言葉がどんなに記憶を刺激したり、死んだ経験を生き返らせ・復活させて、それに生命を与えるか-を見守ることは、とてつもなく興味深いのです。その過程のなかで、精神は未来や過去のどれかに生きているのです。ゆえに言葉が、心理的と共に神経学的にも途方もない意義を持つのです。どうかこのすべてを、私からも本からも学ばないでください。あなたはそれを他の一人から学んだり、本の中で見つけたりできません。あなたが学んだり本の中で見つけたりできるものは、真実ではないでしょう。しかしあなたはそれを経験できます。あなたは行動の中で自分自身を見守り、考える自分自身を見守り、自分がどのように考えるのか、感情が生じるままに、どんなに急速にそれに名づけているか、がわかることができます-過程全体を見守ることが、精神をその中心から自由にします。そのとき精神は静かであり、永遠であるものを受け取れるのです。
(´・(ェ)・`)つ
412
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/08(火) 21:51:46 ID:1d4drIFg0
言葉による名づけが無いならば、観察する者ではなく観察されるものであると気付くというのじゃ。
その時精神は静かになるのじゃ。
それもまた思考の過程を見守ることで可能になるのじゃ。
そして永遠であるものを受け取れるというのじゃ。
413
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/09(水) 17:42:28 ID:PfnRtg620
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘につい-て 1
質問
あなたが言ってこられたように、真理は反復されるとき、どうして嘘になるのでしょうか。嘘とは、ほんとうは何でしょうか。嘘を付くことは、なぜ間違っている・悪いのでしょうか。これは、私たちの存在の水準すべての上で、奥深い、微妙な問題ではないでしょうか。
K
これには二つの問いがあります。それで最初のものを検討しましょう-すなわち、真理は反復されるとき、どうしてそれは嘘になるのか、です。私たちが反復するのは何でしょうか。あなたは理解を反復できるでしょうか。私は何かを理解します。私はそれを反復できるでしょうか。私はそれを言葉にできます。それを伝達できます。しかし経験は確かに反復されるものではないでしょう。私たちは言葉に捕らわれて、経験の意義を逃し・見失います。あなたは経験をしたなら、それを反復できるでしょうか。あなたはそれを反復したいと思うかもしれません。それの反復、それの感動への願望を持つかもしれません。しかしいったんあなたが経験をしたなら、それは終わって・済んでいます。それは反復できません。反復できるものは感動と、その感動に生命を与えるところの付随する・一致する言葉です。不幸にも、私たちのほとんどは宣伝者なので、言葉の反復に捕らわれるのです。それで私たちは言葉を糧に生きているし、真理は否定されるのです。
愛の感情を例に取りましょう。あなたはそれを反復できるでしょうか。「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉を聞くとき、それはあなたにとって真理でしょうか。あなたが自分の隣人をほんとうに愛するときだけ、それは真理です。その愛は反復できなくて、ただ言葉だけ[が反復できるの]です 。けれどもあなたがたのほとんどは、「あなたの隣人を愛しなさい」や「貪欲であってはいけない」という反復でもって、幸せで満足しています。それで他の一人の真理、またはたんに反復をとおしてあなたがしたことのある現実の経験は、真実にならないのです。反対に、反復は真実を妨げるのです。たんに一定の観念を反復するだけでは、真実ではないのです。
これの難しさは、対極という見地に立って考えることなしに、問いを理解することです。嘘は、何か真理と対立したものではありません。嘘や真理という対立において、対比においてではなく、言われていることの真理を見ることができます。私たちのほとんどは、理解することなく反復するということを、ただ見てください。例えば、私たちは感情などに名づけることと名づけないことの議論をしてきました。あなたたちの多くは、それが「真理」であると考えて、それを反復するであろうと、私は確信します。一つの経験が直接の経験であるなら、あなたはそれを決して反復しないでしょう。あなたはそれを伝達するかもしれませんが、それがほんとうの経験であるとき、その裏の感動は去っています。言葉の裏の情動的満足は全く消失しています。
(´・(ェ)・`)つ
414
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/09(水) 21:45:42 ID:1d4drIFg0
理解とは反覆できないものというのじゃ。
何かを理解した瞬間は繰り返すことはできないからのう。
無理に繰り返せば嘘であり、欺瞞になるのじゃ。
直接の体験は反覆できないのじゃ。
415
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/10(木) 17:06:01 ID:XHLRsrnQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 2
例えば、思考者と思考は一つであるという観念を、取り上げましょう。それはあなたにとって真理であるかもしれません。なぜならあなたはそれを直接的に経験したからです。もしも私がそれを反復したなら、それは真実ではないのではないでしょうか-どうか、偽りと対比してではない真実です。それは現実ではないでしょう。それはたんに反復的なだけであり、ゆえに意義を持たないでしょう。おわかりでしょう。私たちは反復により、教義を造り出します。教会を建てて、そこに避難します。言葉と非真理が「真理」になるのです。言葉はものごとではありません。私たちにとってものごとは言葉です。そういうわけで、何かほんとうに理解しないことを反復しないように、極めて気をつけなければなりません。あなたは何かを理解するなら、それを伝達できます。しかし言葉と記憶は、それらの情動的意義を失ってしまいました。ゆえにそれを理解するなら、普通の・通常の会話の中で、見解・視野、語彙は変わるのです。
私たちは自己認識をとおして真理を求めているし、たんなる宣伝者ではないので、これを理解することが重要です。反復をとおして、言葉により、または感動により、自分自身に催眠術をかけます。幻影に捕らわれます。それから自由であるには、直接に経験することが必須・肝要ですし、直接に経験するには、反復の、習慣の、言葉の、感動の過程の中で、自分自身に気づかなければなりません。その気づきがとてつもない自由を与えてくれるので、そのため新生・蘇生、常なる経験、新しさがありうるのです。
他の問いは-「嘘とはほんとうは何でしょうか。嘘を付くことはなぜ悪いのでしょうか。これは、わたしたちの存在の水準すべてにおいて、奥深い微妙な問題ではないでしょうか」-です。
嘘とは何でしょうか。矛盾-自己矛盾なのではないでしょうか。意識的、または無意識的に、矛盾することができます。それは意図的か、または無意識的か、どちらかでありえます。矛盾は、とても微妙か、または明白か、どちらかでありえます。矛盾における分裂がとても大きいとき、そのとき不均衡になるか、それとも分裂を悟ってそれを修復する・繕うことに取りかかるか、どちらかです。
この問題を-嘘とは何か、なぜ嘘を付くのかを-理解するには、対極という見地に立って考えることなしに、それに入らなければなりません。私たちは、自分たちの中のこの矛盾の問題を、矛盾しないようにすることなしに、見られるでしょうか。この問いを検討する中での私たちの難しさは、私たちがあまりに直ちに・すぐに嘘を非難することなのではないでしょうか。しかしそれを理解するには、私たちは真理と嘘・虚言 [という見地に立って] ではなく、何が矛盾なのかという見地に立って、それについて考えられるでしょうか。なぜ私たちは矛盾するのでしょうか。なぜ私たち自身に矛盾があるのでしょうか。規範に添って、様式に添って生きようとする試みが-他の人の見地でも自分たち自身の見地でも、常に自分たち自身を様式に近づけること、常に何かであろうとする努力が-ないでしょうか。様式に順応したいという願望があるのではないでしょうか。その様式に添って生きていないとき、矛盾があります。
(´・(ェ)・`)つ
416
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/10(木) 21:39:53 ID:1d4drIFg0
見る者と観られるものは一つであると気付けばそれは真理なのじゃ。
しかし、誰かがそれをまねて一つであると語れば反覆であり、嘘になるのじゃ。
自ら気付いたことではないからのう。
自らの矛盾そのものに気付くことで真理が達成されるのじゃ。
417
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/11(金) 18:15:20 ID:GoKiwAEE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 3
なぜ私たちは、自分たちがそれに添って生きようとしているところの様式、規範、近似、観念を持つのでしょうか。なぜでしょうか。明白に、安全であるため、安心するため、一般的であるため、自分たち自身についてよい意見を持つ・よく思う、などのため、です。そこに矛盾の種があるのです。私たちが自分たち自身を何かに近づけて、何かであろうとしているかぎり、矛盾があるにちがいありません。ゆえに偽りと真実の間にこの分裂があるにちがいないのです。あなたがそれに静かに入る気があるなら、これが重要であると、私は思います。偽りと真実がないということではありません。しかしなぜ私たちには矛盾があるのでしょうか。それは、私たちが何かであろうと-高尚であろう、善良であろう、美徳を持とう、創造的であろう、幸せであろう、などと-試みているからではないでしょうか。何かでありたいという願望こそに-何か他のものでありたくないという-矛盾があるのです。こんなに破壊的であるのは、この矛盾です。何かと、これやあれとの完全な同一化の能力があるなら、そのとき矛盾は止みます。私たちが自分たち自身を何かと完全に同一化するとき、自己閉鎖があります。抵抗があります-それは不均衡をもたらします-それは明白なことです。
(´・(ェ)・`)つ
418
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/11(金) 23:09:20 ID:1d4drIFg0
人が様式や規範を持つのは安心するためというのじゃ。
それは自分以外のものになろうとする試みなのじゃ。
そこには常に矛盾が在るのじゃ。
それがあればそこに抵抗や不均衡が在るのじゃ。
419
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/12(土) 08:14:42 ID:v4WToSgY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 4
なぜ私たちには矛盾があるのでしょうか。私は何かをしました。そしてそれを発見されたくないのです。私は何か目標・水準に及ばない・達していないことを考えました-それが私を矛盾の状態に置きます。私はそれが好きではありません。近似があるところ、恐れがあるにちがいないし、矛盾するのは、この恐れです。ところが、 [何かに]なることがなく、何かであろうと試みることがないなら、そのとき恐れの感覚はありません。矛盾はありません。意識的、無意識的に、どんな水準でも、私たちに嘘はありません-何か抑圧されるもの、何かあばかれるもの [はありません]。私たちの生のほとんどは、気分と・姿態の事柄なので、自分たちの気分に依存して、気取るのです-それは矛盾です。気分が消えるとき、私たちはあるがままの私たちです。ほんとうに重要なのは、あなたが丁重な・優雅な、罪のない・汚れのない嘘を言うか、そうでないかどうかではなく、この矛盾です。この矛盾が存在しているかぎり、表面的な存在 [があるにちがいないし]、ゆえに守られなければならない表面的な恐れがあるにちがいありません。そのとき罪のない嘘と-知っているでしょう-その他すべてが続きます。何が嘘なのか、何が真理なのかを訊ねるのでなく、これらの対極なしに、この問題を見ましょう。私たち自身の中の矛盾の問題に入りましょう-それは極めて難しいのです。なぜなら私たちはあまりにも感動に依存しているからです。私たちの生のほとんどは矛盾しています。私たちは記憶に、意見に依存します。私たちは覆い隠したいと思うあまりに多くの恐れを持っています-これらすべてが自分たち自身に矛盾を造り出します。その矛盾が耐えられなくなるとき、理性・正気を失います。人は平和が欲しいのに、人がするあらゆることが、家族においてだけでなく、外側でも、戦争を造り出します。何が葛藤・抗争を造り出すのかを理解するかわりに、私たちはますます一つのものや他のもの、対極になろうとするだけです。よってより大きな分裂を造り出しています。
(´・(ェ)・`)つ
420
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/12(土) 23:52:53 ID:1d4drIFg0
矛盾は何からなろうとか、何かであろうとする時にあるというのじゃ。
矛盾があれば恐れもあると言うのじゃ。
矛盾に絶えられなくなると理性を失うというのじゃ。
それが戦争やより大きな分裂を作り出すのじゃ。
421
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/13(日) 08:01:15 ID:mOloVa0k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 5
なぜ私たち自身に-表面的にだけでなく、はるかにもっと深く、心理的に-矛盾があるのかを理解することは、可能でしょうか。まず最初に、矛盾した生を生きていることに、気づいているでしょうか。私たちは平和が欲しいのに国家 [・民族]主義者です。私たちは社会的悲惨を避けたい。それなのに私たち各自は個人主義的で、制限され、自己閉鎖的です。私たちは常に矛盾の中で生きています。なぜでしょうか。それは、私たちが感動の奴隷であるから、ではないでしょうか。これは否定されるべきでも、また受け入れられるべきでもありません。それは感動、すなわち願望の含意のたいへんな理解を必要とします。私たちは、すべてが互いに矛盾の中にあるとても多くのものごとが欲しいのです。私たちはあまりに多くの矛盾する仮面です。私たちは、それが自分たちに似合う・都合がよいとき、仮面をつけるし、何か他のものがもっと利益になり、もっと楽しいとき、それを否定します。嘘を造り出すのは、この矛盾の状態です。それに反して・対比して、私たちは「真理」を造り出します。しかし真理は確かに、嘘の対極ではありません。対極を持つものは真理ではありません。対極はそれ自身の対極を含んでいます。ゆえにそれは真理ではないし、この問題をとても奥深く理解するには、私たちがその中で生きている矛盾すべてに気づかなければなりません。私が「私はあなたを愛している」と言うとき、嫉妬、妬み、不安・心配、恐れが伴います-それは矛盾です。理解されなければならないのは、この矛盾です。それに気づく [とき]、どんな非難も正当化もなく気づくとき-たんにそれを見ているとき-だけ、それを理解できるのです。それを受動的に見るには、正当化と非難の過程すべてを理解しなければなりません。
何かを受動的に見ることは、たやすいことではありません。しかしそれを理解するなかで、自分の感じ [方] と考え方の過程全体を理解しはじめます。自分自身の中の矛盾の充分な意義に気づくとき、それはとてつもない変化をもたらします。そのときあなたは、何か自分があろうとしているものではなく、あなた自身です。あなたはもはや理想を追いかけ、幸せを求めていません。あなたはあるがままのあなたです。そこから前進できるのです。そのとき矛盾の可能性はありません。
(´・(ェ)・`)つ
422
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/13(日) 23:45:11 ID:1d4drIFg0
常に矛盾があるのが人の心だというのじゃ。
平和を望んで国家を守るために戦争をしたりするのじゃ。
そのような矛盾を理解するには、矛盾の過程全てに気付かなければならんというのじゃ。
肯定も否定もせずに観る時に変容も起こるのじゃ。
423
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/14(月) 19:34:47 ID:NxgCcdWQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 1
質問
あなたは真実を悟られました。神とは何であるかを、私たちに言ってもらえませんか。
K
私が悟ったことを、あなたはどのようにして知るのでしょうか。私が悟ったことを知るには、あなたもまた悟っていなければなりません。これはただの利口な答えではありません。何かを知るには、あなたはそれのものでなければなりません。あなた自身もまた経験をしていなければならないし、ゆえに私が悟ったとあなたが言うことは、見たところ意味がありません。私が悟ったか悟っていないかどうか、それがどうしたというのでしょうか。私の言っていることが真理ではないでしょうか。私がほとんど・最も完全な人間であるとしても、私の言うことが真理でないなら、なぜあなたは私の言うことをたんたんと聴くのでしょうか。確かに、私の悟りは、私の言っていることと全く何の関わりもないし、他の人が悟ったということのために他の人を崇拝する人は、ほんとうは権威を崇拝しているし、ゆえに彼は決して真理を見つけられません。悟られたことを理解することと、悟った人を知ることは、全く重要ではないのではないでしょうか。
伝統全体が、「悟った人と共にいなさい」と言うのを、私は知っています。彼が悟ったということを、どうしてあなたは知ることができるのでしょうか。あなたにできるすべては、彼との交わり・交際を保つことです。それさえも、今日では極めて難しいのです。言葉のほんとうの意味で、善良な・よい人たち-何かを求めていない、何かのあとを追っていない人たち-は、ほとんどいません。何かを求めていたり、何かのあとを追っている人たちは、搾取者です。ゆえに愛すべき仲間・相手を見つけることは、誰にとってもとても難しいのです。
(´・(ェ)・`)つ
424
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/14(月) 22:34:49 ID:1d4drIFg0
他人が悟ったことを理解できるのは自ら悟った者だけなのじゃ。
自分が悟らなければ何もわからないのじゃ。
伝統に従っているだけなのじゃ。
それでは神についても知ることが出来ないのじゃ。
425
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/15(火) 12:36:24 ID:GHXQWsSY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 2
私たちは、悟った人たちを理想化して、彼らが自分たちに何かを与えてくれるだろうと願います-それは偽りの関係です。愛がなければ、どうして悟った人が伝達できるでしょうか。それが私たちの難しさです。私たちはすべての議論において、ほんとうは互いに愛し合っていません。私たちは疑り深いのです。あなたは私から何かが-知識、悟りが-欲しいのです。または私との交わりを保ちたいのです-そのすべては、あなたが愛していないことを、表示しています。あなたは何かが欲しいのです。ゆえに利用 [・搾取]しようと躍起になります。私たちがほんとうに互いに愛し合っているなら、そのとき瞬時の疎通があるでしょう。そのときあなたが悟っていて、私が悟っていないかどうか、またはあなたが高い者か低い者かどうかは、大事ではありません。私たちの心が萎れて・褪せてしまったから、神がものすごく重要になってしまったのです。すなわち、あなたは自分の心に歌をなくしたから、神を知りたいのです。それで歌い手を追い求めて、彼があなたに歌い方を教えられるのかどうかを、訊くのです。彼はあなたに技術を教えられますが、技術はあなたを創造に導かないでしょう。あなたはたんに歌い方を知るだけでは、歌い手でありえません。あなたはダンスの・足どりすべてを知るかもしれませんが、自分の心に創造性を持たないなら、機械として機能しているだけです。自分の対象・目的がたんに結果を達成することだけであるなら、あなたは愛せません。理想というようなものはありません。なぜなら、それはたんに達成であるからです。美しさは達成ではありません。それは真実、明日ではなく今です。愛があるなら、あなたは知られないものを理解するでしょう。神が何であるかを知るでしょう。誰もあなたに教えなくてもいいのです-それが愛の美しさです。それはそれ自体で永遠です。愛がないから、私たちは、それを自分たちに与えてくれる他の誰かや神が、欲しいのです。もしも私たちがほんとうに愛していたなら、これが何と違った世界であるだろうか、知っているでしょうか。私たちはほんとうに幸せな人たちであるでしょう。ゆえに私たちは、ものごと、家族、理想に、自分たちの幸せを投資しないでしょう。私たちは幸せであるでしょう。ゆえにものごと、人々、理想は、私たちの生を支配しないでしょう。それらはすべて二義的なものごとです。私たちは愛していないから、それで幸せではないから、ものごとが私たちに幸せを与えてくれるだろうと考えて、それらに投資するのです。それで私たちが投資するものごとの一つが、神です。
(´・(ェ)・`)つ
426
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/15(火) 18:47:10 ID:PVzkRgUY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 3
あなたは私に、真実が何なのかを言って欲しいのです。叙述できないものが言葉に表せるでしょうか。何か測ることのできないものを、測れるでしょうか。あなたは自分の拳に風を掴めるでしょうか。あなたがそうするなら、それは風でしょうか。あなたが測ることのできないものを測るなら、それは真実でしょうか。それを定式化するなら、それは真実でしょうか。確かにちがいます。というのは、あなたが何か叙述できないものを叙述した瞬間、それは真実であるのを止めるからです。あなたが知ることのできないものを知られたものに翻訳した瞬間、それは知ることのできないものであるのを止めます。けれども、それが、私たちがあこがれている・恋いこがれているものです。いつのときも、私たちは知りたいのです。なぜなら、そのとき私たちは継続できるだろう、そのとき究極の幸せ、永久性を捕まえることができるだろうと、私たちは思うからです。私たちは知りたいのです。なぜなら、私たちは幸せではないからです。私たちは惨めに奮闘しているから、擦り切れて・疲れ切って、堕落しているからです。けれども単純な事実-私たちが堕落していること、鈍くて、疲れ切って、騒乱の中にいること-を悟るかわりに、私たちは知られたものであるものから知られないものへ移転・移動したいのです-それもまた知られたものになるし、ゆえに私たちは決して真実を見つけられないのです。
ゆえに誰が悟ったかや、神が何なのかを訊ねるかわりに、なぜ自分の注意と気づきの全体を、あるがままへ向けないのでしょうか。そのときあなたは知られないものを見つけるでしょう。というよりむしろ、それはあなたに来るでしょう。あなたは、何が知られたものなのかを理解するなら、誘導されず、強制されない、あのとてつもない静寂を、それにおいてのみ真実が入り込める、あの創造的空っぽを、経験するでしょう。それは、なろうとしている、奮闘しているものには来れません。それは、ありつつあるもの、あるがままを理解するものに、来れるだけです。そのときあなたは、真実は遠くにないこと、知られないものは遠く離れていないこと、それはあるがままの中にあることが、わかるでしょう。問題への答えが問題の中にあるのと同じように、真実はあるがままの中にあるのです。私たちはそれを理解できるなら、そのとき真理を知るでしょう。
鈍さに気づくこと、貪欲に気づくこと、悪意、野心などに気づくことは、極めて難しいのです。あるがままに気づくという事実こそが真理です。解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの奮闘ではありません。こうして真実は遠くないのですが、私たちはそれを遠く離れて置きます。なぜなら、自己継続の手段として、それを使おうとするからです。それはここ、今、即時 [当面・目前]のものにあるのです。永遠のものや時間のないものは今です。今は、時間の網に捕らわれている人により理解されえません。思考を時間から自由にするには、行動を要求します。しかし精神は怠けています。それは怠惰です。ゆえに常に他の障害を造り出します。それは正しい瞑想によって可能なだけです-それは、連続的な行動ではなく、完全な行動という意味です。完全な行動は、精神が継続の過程、すなわち記憶-事実に基づく [記憶]ではなく、心理的な記憶- を了解するとき、理解されうるだけです。記憶が機能するかぎり、精神はあるがままを理解できません。しかし終わることの意義を理解するとき、自分の精神、自分の存在全体がとてつもなく創造的に、受動的に鋭敏になります。なぜなら、終わることの中に、新生がありますが、継続の中には、死がある、腐敗があるからです。
(´・(ェ)・`)つ
427
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/15(火) 21:55:16 ID:1d4drIFg0
真実や神について聞くことは商売と同じだというのじゃ。
自分が費やした投資に相応しい見返りが欲しいだけなのじゃ。
神や真実を聞くことより、自らの心を観るべきだというのじゃ。
その時にこそ真理を知ることが出来るというのじゃ。
428
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/16(水) 21:03:46 ID:CD61wBH20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 1
質問
私は、あなたが話しておられる真理を、何の前準備もなく、この場で悟れるでしょうか。
K
あなたのいう真理とは何でしょうか。私たちがその意味を知らない言葉は、使わないようにしましょう。私たちはもっと単純な言葉、もっと直接的な言葉を、使えます。あなたは問題を直接的に理解できるでしょうか。了解できるでしょうか。それが、含意されていることなのではないでしょうか。あなたは即時に、今、あるがままを理解できるでしょうか。あるがままを理解するなかで、あなたは真理の意義を理解するでしょう。しかし真理を理解しなければならないと言うことは、ほとんど意味がありません。あなたは問題を直接的に、充分に理解して、それから自由でありうるでしょうか。それが、この質問に含意されていることなのではないでしょうか。あなたは、危機を、挑戦を、即時に理解し、その全体の意義がわかり、それから自由でありうるでしょうか。あなたが理解するものは、跡を残しません。ゆえに真理または理解が解放者です。あなたは問題から、挑戦から、今解放されうるでしょうか。生は、一連の挑戦と応答なのではないでしょうか。挑戦へのあなたの応答が、条件づけられ、制限され、不完全であるなら、そのときその挑戦はその跡を、その残余を残します-それは、もう一つの新しい挑戦によりさらに強められます。それで常なる残余の記憶、蓄積、傷跡がありますし、これらすべての傷跡をもって、あなたは新しいものに出会おうとします。ゆえに決して新しいものに出会いません。ゆえにあなたは決して理解しません。どんな挑戦からの解放も、決してありません。
問題は、問いは、私は完全に、直接的に、挑戦を理解できるだろうか-そのすべての意義、そのすべての香り、その深さ、その美しさ、その醜さを感じて、それから自由でありうるか-です。挑戦はいつも新しいのではないでしょうか。問題はいつも新しいのではないでしょうか。例えば、あなたが昨日持った問題は、あなたが今日それと出会うとき、それはすでに新しいほどに、修正を受けた・被ったのです。しかしあなたは古いものをもってそれと出会います。なぜなら、あなたはたんに自分自身の思考を修正するだけで、変容させることなく、それと出会うからです。
それを違った仕方で述べましょう。私は昨日あなたに会いました。その間に、あなたは変化しました。あなたは修正を受けました。しかし私はやはり昨日のあなたについての映像を持っています。私はあなたについての自分の映像をもって、今日あなたに会います。ゆえにあなたを理解しません-私が昨日取得したあなたについての映像だけを理解するのです。私は、修正され、変化しているあなたを理解したいなら、昨日の映像を取り去らなければなりません。自由でなければなりません。言い換えれば、挑戦すなわちいつも新しいものを理解するには、私もまた新たにそれと出会わなければなりません。昨日の残りがあってはなりません。それで私は昨日にさようならを言わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
429
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/16(水) 21:27:44 ID:1d4drIFg0
他人の言う真理を他の者が悟れるはずも無いのじゃ。
人は自らの真理を悟らなくてはいかんのじゃ。
真理を悟ってから他人が話す真理も理解できるのじゃ。
それは真理に対する全ての妄想がなくなった時に可能に成るのじゃ。
430
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/17(木) 19:29:36 ID:cBRCBlc20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 2
結局、生とは何でしょうか。それはいつのときも何か新しいものなのではないでしょうか。それは何か常に変化を受けていて、新しい感情を造り出しているものです。今日は決して昨日と同じではありません。それが生の美しさです。あなたと私はあらゆる問題に新たに出会えるでしょうか。あなたは家に帰るとき、自分の妻と子どもに新たに出会えるでしょうか。挑戦に新たに出会えるでしょうか。あなたは昨日の記憶の重荷を負っているなら、そうすることができないでしょう。ゆえに、問題の、関係の真理を理解するには、それに新鮮に近づかなければなりません-「開いた精神」をもってではありません。というのは、それは意味を持たないからです。あなたは昨日の記憶の傷跡をもたずに、それに近づかなければなりません-それは、各挑戦が生じる毎に、昨日の応答すべてに気づく、という意味です。昨日の残り、記憶に気づくことにより、あなたは、それらが格闘なしにいつの間にかなくなるし、ゆえにあなたの精神が新鮮であることを、見つけるでしょう。
準備なしに、即時に真理を悟れるでしょうか。私はできると言います-私の何かの空想・気まぐれからではなく、何かの幻影から [言うの] ではありません。心理的に、それを実験してみてください。するとわかるでしょう。どんな挑戦、どんな小さな出来事でも取り上げて・選んでください-何か大きな危機を待たないでください-すると、自分がそれにどう応答するか、わかるでしょう。それに、自分の応答に、自分の意図に、自分の態度に気づいてください。するとあなたはそれらを理解するでしょう。自分の背景を理解するでしょう。あなたは自分の注意全体をそれに向けるなら、即時にそれができると、私はあなたに保証します。あなたが自分の背景の充分な意味を求めているなら、それはその意義をもたらします。そのときあなたは一撃で、真理を、問題の理解を発見します。理解は今、現在、すなわちいつも時間がないもの、から生じます。それは明日であるかもしれないけれども、それはやはり今です。たんに延期すること、明日あるものを受け取る準備をすることは、あなた自身が、今あるものを理解するのを妨げることです。確かに、あなたは今あるものを直接に理解できるのではないでしょうか。あるがままを理解するには、あなたは邪魔され、注意散漫であってはなりません。自分の精神と心をそれに向けなければなりません。それはその瞬間に、完全にあなたの唯一の興味でなければなりません。そのとき、あるがままは、その充分な深み、その充分な意味を、あなたに与えてくれます。よってあなたはその問題から自由です。
(´・(ェ)・`)つ
431
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/17(木) 22:58:17 ID:1d4drIFg0
自分を理解することと、悟りは瞬時にやってくるものじゃ。
気付くことであるからなのじゃ。
それに長くかかるものがいるのは、自分の恐れや障害があるからなのじゃ。
自分の全てを捨てる覚悟と決意で観察すればそれは即座に現われるのじゃ。
432
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/18(金) 10:17:08 ID:zvtvRz/M0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 3
例えば、あなたが財産の真理を、心理的意義を、知りたいなら、今ほんとうにそれを直接的に知りたいなら、どのようにしてそれに接近するのでしょうか。確かに、あなたは問題との同族・血族を感じなければなりません。それを恐れてはなりません。自分自身と問題との間に、どんな信条、どんな答えも持ってはなりません。あなたは直接的に問題との関係のなかにあるときだけ、答えを見つけるでしょう。あなたは答えを導入するなら、判断し、心理的な嫌気を持つなら、そのとき延期するでしょう。「今」において理解されうるだけのものを、明日理解しようと準備するでしょう。ゆえにあなたは決して理解しないでしょう。真理を知覚するには、準備は要りません。準備は時間を含意するし、時間は、真理を理解する手段ではありません。時間は継続・連続性ですし、真理は時間がなく、連続しません。理解は連続しません。それは残余がなく、瞬間瞬間です。
残念ながら、私はそのすべてをとても難しく聞こえさせ・言い表しているのではないでしょうか。しかし、あなたがそれを実験してみさえするなら、理解するのはたやすく単純です。あなたが突然夢の状態に陥り、それについて瞑想するなら、それはとても難しくなります。あなたと私の間に障壁がないとき、私はあなたを理解します。私はあなたに対して開いているなら、あなたを直接に理解します-開いていることは時間の事柄ではありません。時間は私を開かせるでしょうか。準備、体系、修練は、私をあなたに対して開かせるでしょうか。いいえ。私をあなたに対して開かせるものは、理解しようとする自分の意図です。私は開いていたいのです。なぜなら隠すものが何もないし、恐れていないからです。ゆえに私は開いているし、即時の親交があるのです。真理があるのです。真理を受け取るには、その美しさを知るには、その喜びを知るには、理論、恐れ、答えにより曇らされていない瞬時の受容性がなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
433
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/18(金) 21:57:14 ID:1d4drIFg0
自らが問題そのものであると理解するならば、変容は即座にやってくるのじゃ。
その時既に問題はなくなっているのじゃ。
思考に拠って自分とは別の問題を考えればそれはいつまでも理解できないのじゃ。
明日とか明後日に常に持ち越されるのじゃ。
今ここにおいて全てを受け容れて観ることだけが大事なのじゃ。
434
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/19(土) 13:13:40 ID:65pjRgqY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三二 単純さについて 1
質問
単純さとは何でしょうか。それは、本質的なものをとても明確に・はっきりと見て、他のあらゆるものごとを切り捨てる、という意味を含んでいるのでしょうか。
K
単純さでないものを、見ましょう。-「それは否定です」とか「何か肯定的なものを、私たちに言ってください」とか、言わないでください。それは幼稚な、無思慮な反応です。あなたに「肯定的な」ものを提供する人たちは、搾取者たちです。彼らは何かあなたにあげるものを持っています-あなたはそれが欲しいし、それをとおして彼らはあなたを搾取するのです。私たちはその種類のことは何もしていません。私たちは、単純さの真理を見出そうとしています。ゆえにあなたは観念を切り捨て、裏へ置いて・忘れ去って、新たに観察しなければなりません。内面的、外面的に多く持っている人は、革命を恐れています。
何が単純さでないのかを見ましょう。複雑な精神は単純ではないのではないでしょうか。利口な精神は単純ではありません。目的を-精神はそのために働いています、報賞、恐れを視野に持つ精神は、単純ではないのではないでしょうか。知識の重荷を負っている精神は、単純な精神ではありません。信念で損なわれている精神は、単純な精神ではないのではないでしょうか。それ自体を何かもっと偉大なものと同一化してしまって、その同一性を保とうと奮闘する精神は、単純な精神ではないのではないでしょうか。ほんの一二枚の腰布を持つことが単純であると、私たちは考えます。私たちは単純さの外観が欲しいのです。それでそれにたやすくだまされるのです。そういうわけで、とても富裕である人は、放棄した人を崇拝するのです
(´・(ェ)・`)つ
435
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/19(土) 23:45:02 ID:1d4drIFg0
単純ではないものとは否定とか肯定であるというのじゃ。
肯定的なものを与えるのは搾取する者ともいうのじゃ。
分別をする精神とか知識を持つ精神、欲や恐れがあっても単純ではないというのじゃ。
同一化や信念さえもあれば単純ではないのじゃ。
436
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/20(日) 06:52:19 ID:3uawh5ng0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三二 単純さについて 2
単純さとは何でしょうか。単純さは、非本質的なものの切り捨てと本質的なものの追求でありうるのでしょうか-それは選択の過程という意味です。それは選択-本質的なものを選択することと、非本質的なものを切り捨てる-という意味ではないでしょうか。この選択する過程とは何でしょうか。選択する実体は何でしょうか。精神なのではないでしょうか。あなたがそれを何と呼ぶかは、大事ではありません。あなたは「私はこれを選択しよう-それは本質的なものだ」と言います。何が本質的なものなのかを、あなたはどのようにして知るのでしょうか。あなたは、他の人たちが言ってきたことの様式を持っているか、それとも自分自身の経験が、何か或るものが本質的であると言うか、どちらかです。あなたは自分の経験に頼れるでしょうか。あなたは選択するとき、あなたの選択は願望に基づいているのではないでしょうか。あなたが「本質的なもの」と呼ぶものは、あなたに満足を与えてくれるものです。それであなたは再び同じ過程に戻っているのではないでしょうか。混乱した精神は選択できるでしょうか。それが [選択]するなら、選択もまた混乱しているにちがいありません。
ゆえに本質的なものと非本質的なものとの間の選択は、単純さではありません。それは葛藤です。葛藤のなか、混乱のなかの精神は、決して単純でありえません。あなたがこれらすべての偽りのものごと、精神の策略・芸当を切り捨てるとき、ほんとうに観察してわかるとき、それを見て、それに気づくとき、そのとき単純さとは何かを、自分自身で知るでしょう。 信念に縛られている精神は、決して単純な精神ではありません。知識で損なわれている精神は、単純ではありません。神に、女性たちに、音楽により散漫である精神は、単純な精神ではありません。事務所・会社、儀式、祈りの決まった日課に捕らわれている精神、そういう精神は単純ではありません。単純さは、観念を持たない行動です。しかしそれはとても希なことです。それは創造性という意味です。創造がないかぎり、私たちは災い、悲惨、破壊の中心です。単純さは、あなたが追求し経験できないものです。花が正しい時・瞬間に開くように、各自が、存在と関係の過程全体を理解するとき、単純さが訪れるのです。私たちはこれまでそれについて考え、それを観察したことがないから、それに気づかないのです。私たちはわずかな所有物という外的な形ばかりを評価します。しかしそれらは単純さではありません。単純さは、見つけられるものではありません。それは、本質的なものと非本質的なものとの間の選択としてあるのではありません。それは、自己がないとき-精神が、憶測、結論、信念、観念作用に捕らわれていないとき-だけ、生じるのです。そういう自由な精神が、真理を見つけられるだけです。そういう精神のみが、測ることのできない、名づけることのできないものを、受け取れるのです。それが単純さです。
(´・(ェ)・`)つ
437
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/20(日) 23:30:18 ID:1d4drIFg0
本質的なものと非本質的なものという分別があれば単純ではないのじゃ。
その他どんな選択や分別があっても単純ではないのじゃ。
自己も観念も無い時のみ単純さがあるというのじゃ。
その時、真理を見つけられるというのじゃ。
それは既に悟った状態なのじや。
438
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/21(月) 16:29:22 ID:BqJgU8Dk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三三 表面性について 1
質問
表面的である人は、どのようにして真剣になるべきでしょうか。
K
まず初めに、私たちは、自分たちが表面的あることに気づかなければならないのではないでしょうか。表面的であるとはどういう意味でしょうか。本質的に、依存するという意味ではないでしょうか。刺激に依存すること、挑戦に依存すること、もう一人に依存すること、一定の価値、一定の経験、一定の記憶に、心理的に依存すること-そのすべてが表面性に寄与しないでしょうか。高められる・向上するために、助けてもらうために、私が毎朝または毎週、教会に通うことに依存するとき、それは私を表面的にしないでしょうか。私が自分の統合性の感覚を維持するために、または自分がかつて持ったことがあるかもしれない感情を再び獲得する・取り戻すために、一定の儀式を執り行わなければならないなら、それは私を表面的にしないでしょうか。私が国に、計画に、特定の政治的集団に捧げる・身を任せるとき、それは私を表面的にしないでしょうか。確かにこの依存の過程全体は、私自身の回避です。このより大きなものとの同一化は、あるがままの私の否定です。しかし私は、あるがままの私を否定できません。私はあるがままの自分を理解しなければなりません。宇宙と、神と、特定の政党や何であれ、自分自身を同一化しようとしてはなりません。このすべてが浅い考えにつながるし、浅い考えから、永続的に-世界的規模でも個人的規模でも-有害である活動があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
439
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/21(月) 22:01:16 ID:1d4drIFg0
今の自分の状態に気付かなければ何も始まらないのじゃ。
自分が表面的であるならば、その原因を探すのじゃ。
依存があるから表面的になると観察できれば消えるのじゃ。
そしてあるがままの自分が観られるのじゃ。
440
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/22(火) 20:16:59 ID:xpD5ITNM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三三 表面性について 2
まず初めに、私たちはこれらのことをしていることを、認識しているでしょうか。私たちは [認識] していません。それらを正当化します。「私はこれらのことをしないなら、何をすべきだろうか。もっとひどく・悪くなるだろう。自分の精神はばらばらになる・まいってしまうだろう。今少なくとも、私は何かもっとよいものに向かって格闘している」と、私たちは言います。私たちは格闘すればするほど、ますます表面的になります。私はそれを初めに見なければならないのではないでしょうか。それが-あるがままの自分を見ること、自分が愚かであること、浅いこと、狭いこと、嫉妬していることを承認することが-もっとも難しいことの一つです。私はあるがままの自分を見るなら、それを認識するなら、そのときそれをもって出発できます。確かに、浅い精神は、あるがままから逃避する精神です-逃避しないことは、困難な究明を、無為の否定を必要とします。私が自分が浅いことを知った瞬間、すでに深まる過程があるのです-私が浅さについて何もしないなら、ですが。「私は卑小だ。それでそれに入ろうとしている。この卑小さ、この狭める影響の全体を、理解しようとしている」と、精神が言うなら、そのとき変容の可能性があります。しかし卑小であることを承認して、読書により、人に会うことにより、旅をすることにより、猿のように絶えず活動的であることによって卑小でなくなろうとしている卑小な精神は、やはり卑小な精神です。
またあなたは、私たちがこの問題に正しく接近してこそ、ほんとうの革命があることも、
わかるのです。問題への正しい接近は、私はあなたに保証しますが、山をも動かすとてつもない確信を与えてくれるのです-自分自身の先入観、条件づけという山です。浅い精神に気づくとき、深くなろうとしないでください。浅い精神は決して大いなる深さを知ることができません。それはたくさんの知識、情報を持てます。それは言葉を反復できます-活動的である表面的な精神の道具一式全体を、知っているでしょう。しかしあなたは自分が表面的で浅いことを知るなら、浅さに気づいて、判断なく、非難なく、そのすべての活動を観察するなら、そのとき浅いものごとは、あなたがそれに作用することなしに、全く消滅してしまったことが、すぐにわかるでしょう。それは、結果への、達成への熱心な願望ではなく、忍耐、見守りを必要とします。達成、結果が欲しいのは、浅い精神だけです。
あなたはこの過程全体に気づけば気づくほど、ますます精神の活動を発見するでしょう。
しかしそれらを終わらせようとすることなしに、それらを観察しなければなりません。なぜならあなたは終わりを求めた瞬間、またもや「私」と「非私」の二元性に捕らわれるからです-それは問題を継続させます。
(´・(ェ)・`)つ
441
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/22(火) 23:56:39 ID:1d4drIFg0
浅い精神に気付いていなければ深い精神に気付くことも無いのじゃ。
浅い精神に気付くことでもっと深い精神にも気付く機会ができるのじゃ。
それは徐々に深く観ることができるのじゃ。
それについて考えたりすることも障害になるのじゃ。
結果を期待せずにただひたすらに心を観続けるのじゃ。
442
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/23(水) 21:36:28 ID:Obt11fUQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三四 些細な・取るに足りないことについて 1
質問
精神は何に携わる・従事するべきでしょうか。
K
葛藤がどのようにして生み出されるのかについての、とてもよい例・実例があります-あるべきものとあるがままとの間の葛藤です。初めに私たちは、あるべきもの、理想を確立します。それから、その様式に応じて生きようとします。精神は、高尚なものごと、反利己性、寛大さ、親切、愛に携わるべきだと、私たちは言います。それは様式、信念、あるべきもの、ねばならないものです。それで私たちはそれに応じて生きようとします。それであるべきものの投影と、現実-あるがままのものとの間に、葛藤が動き始めているのです。その葛藤をとおして、私たちは変容させられたいと願うのです。私たちはあるべきものと格闘しているかぎり、美徳があると感じます。徳がある・善であると感じます。しかしどちらが重要でしょうか-あるべきものとあるがままとでは。私たちの精神は何に携わっているのでしょうか-イデオロギ-的にではなく、現実にです。些細なものごとに [携わっているの]ではないでしょうか-自分がどのように見えるのか、野心、貪欲、妬み、うわさ話、残酷さに、です。精神は些細なものごとの世界に生きているし、高尚な様式を造り出している些細な精神は 、やはり些細なのではないでしょうか。問いは、精神は何に携わるべきかではなくて、精神は些細なものごとから自由になれるか、です。私たちはそもそも気づいているなら、そもそも探究しているなら、自分たち自身の特定の些細なものごとを、知っています-絶えざる話、精神の永続的なおしゃべり、あれこれについての心配、人々がしている [こと] やしていないことについての好奇心、結果を達成しようとすること、自分自身の増大・拡大を模索すること、などです。私たちはそれに携わっているし、それはとてもよく知っています。それは変容させられうるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。精神は何に携わるべきかを訊くことは、たんなる未熟さです。
(´・(ェ)・`)つ
443
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/23(水) 23:39:10 ID:1d4drIFg0
人には大抵理想とする自分のイメージがあるものじゃ。
そうではない自分の性質との間に矛盾があるのじゃ。
そこに葛藤が生まれるのじゃ。
何かに携わるべきだという思いもそこから起こるのじゃ。
そのような思いから自由になるべきなのじゃ。
444
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/24(木) 11:40:24 ID:Fdz43.Xw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三四 些細な・取るに足りないことについて 2
そこで、私の精神が些細であり、些細なものごとに携わっていることに気づくと、それはこの条件から自由になれるでしょうか。精神は、まさにその本性そのものにより、些細ではないでしょうか。記憶の結果を除いて、精神とは何でしょうか。何についての記憶でしょうか。どう生き残る・生き延びるのかについて [の記憶]-身体的にだけでなく、また心理的に、一定の性質、美徳の発達 [をとおし] 、経験を貯えておくこと [をとおし] 、それ自身の活動においてそれ自体を確立することをとおして [どう生き残るか]です。それは些細ではないでしょうか。記憶の、時間の結果である精神は、それ自体において些細です。それは、それ自身の些細なものごとから自由になるには、何ができるでしょうか。それは何かできるのでしょうか。どうかこれの重要性をわかってください。精神、すなわち自己中心的活動は、その活動から自由になれるでしょうか。明白に、できません。それがすることは何でも、やはり些細です。それは神について憶測できます。それは政治的体制を工夫・考案できます。それは信念を考案できます。しかしそれはやはり時間の領域の中に・圏内にあります。その変化は、やはり記憶から記憶へ [の変化] です。それはやはりそれ自身の制限に縛られています。精神はその制限を壊せるでしょうか。それともその制限は、精神が静かであるとき、それが活動していないとき、それ自身の些細なものごと-それらをどんなに偉大であると想像しようとも-を認識するとき、壊れるのでしょうか。精神がその些細なものごとを見てしまい、それらに充分に気づいて、そのためほんとうに静かになるとき- そのときだけ、
これら些細なものごとがなくなる可能性があるのです。精神は何に携わるべきかを、あなたが探究しているかぎり、それは些細なものごとに携わるでしょう-それが教会を建てようと、祈ろうと、神殿・聖堂に通おうと、です。精神自体が卑小で、小さいし、たんにそれは卑小であると言うだけで、あなたはその卑小さを解消しなかったのです。あなたはそれを理解しなければなりません。精神はそれ自身の活動を認識しなければなりません。そしてその認識の過程において、それが意識的、無意識的に築いてきた些細なものごとへの気づきにおいて、精神は静かになるのです。その静けさに、創造的状態があるし、これが、変容をもたらす要因です。
(´・(ェ)・`)つ
445
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/24(木) 11:50:03 ID:Fdz43.Xw0
○⌒\
(二二二)
(⌒(´・(ェ)・`)
( o旦とI
(__し―J
あと8回でKの講読会は終了であります。
446
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/24(木) 22:26:46 ID:1d4drIFg0
些細なものごととは本来しなくてもよいようなものごとなのじゃ。
金とか権力とか名声のための行い等なのじゃ。
そのような囚われに気付く時にそれは解消されるのじゃ。
実はやらなくてよい行いであったと気付くからなのじゃ。
447
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/25(金) 12:28:21 ID:y8r1aV7o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 1
質問
なぜあなたは精神の静寂について語られるのでしょうか。そしてこの静寂とは何でしょうか。
K
私たちが何かを理解しようと思うなら、精神が静寂であることが、必要ではないでしょうか。私たちは問題を持つなら、それについて悩まないでしょうか。私たちはそれに入ります。それを分析します。それを理解することを願って、ずたずたに・断片に引き裂きます。そこで、私たちは、努力をとおし、分析をとおし、比較をとおし、何かの形の精神的格闘をとおして、理解するでしょうか。確かに、理解は、精神がとても静かであるときだけ、来るのです。私たちは、飢餓の、戦争の、または他のどんな人間の問題も、 [それと] 格闘すればするほど、それと葛藤すればするほど、ますますそれをよく理解するだろうと、言います。そこで、それは真実でしょうか。戦争-個々人の間の、社会の間の抗争-が、幾世紀の間続いてきました。内面と外面の戦争が常にあります。私たちは、さらなる葛藤・抗争により、さらなる格闘により、ずるがしこい尽力により、その戦争、その葛藤・抗争を解決するでしょうか。それとも私たちは、直接にその前にあるとき、事実と向き合うときだけ、問題を理解するのでしょうか。精神と事実の間に干渉する興奮・動揺がないときだけ、私たちは事実に向き合えるのです。それで私たちが理解すべきである・しようとするなら、精神が静かであることが重要ではないでしょうか。
「どのようにして精神は静かにできるのでしょうか」と、あなたは必然的に訊くでしょ
う。それが即時の応答なのではないでしょうか。「私の精神は興奮し・動揺しています。それでどうしてそれを静かにしておけるのでしょうか」と、あなたは言います。何かの体系が精神を静かにさせられるでしょうか。公式、修練は、精神を静かにさせられるでしょうか。できます。しかし精神が静かにさせられるとき、それは静けさでしょうか。それは静寂でしょうか。それとも精神は、観念の中に、公式の中に、文句の中に囲い込まれる・閉じ込められるだけでしょうか。そういう精神は死んだ精神なのではないでしょうか。そういうわけで、霊的、いわゆる霊的であろうとするほとんどの人たちは、死んでいるのです。なぜなら、彼らは自分たちの精神を静かであるように訓練してきたからです。彼らは静かである間、自分たち自身を公式の中に囲い込んだ・閉じ込めたのです。明白に、そういう精神は決して静かではありません。それは抑圧され、押さえつけられ・抑えられるだけです。
(´・(ェ)・`)つ
448
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/12/25(金) 23:36:09 ID:1d4drIFg0
理解は精神が静寂であるときだけ来るというのじゃ。
しかしそれは修練によるものではいかんというのじゃ。
観念や公式の中に閉じ込められた精神は死んでいるというのじゃ。
訓練による静寂は観察には役に立たないというのじゃ。
それはただの抑圧であるからなのじや。
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