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なぜ、カインの捧げものを認められなかったのか?

1ダイボン:2004/02/05(木) 15:43
フランシスさん、また質問させていただきます。
創世記の、カインとアベルが捧げものを捧げる箇所ですが、
なぜ、カインの捧げものを認められなかったのでしょうか?
よろしくお願いします。

2ウィリアム  オブ ベッカム:2004/02/05(木) 15:43
 カインとアベルは,「神の絶対的意思主義・恣意性」を顕しています。神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛られることは,論理上ありえないのです。
 このたとえ話について,「アベルは心からの犠牲を,カインは心のこもらない犠牲をささげたから」という解説がありますが,誤っていると,主意主義である私,ウィリアム オブ オッカムは考える次第です。

3パンプキン:2004/02/05(木) 15:44
ダイボンさま、はじめまして。
ヘブル語もギリシャ語もわからない私なので、語源を踏まえた詳しい解説はフラ
ンシスさまにお任せするとして、先日ちょうどそこの部分の解説を読んだばかり
なので、正統派の解釈ではありませんがひとつの例として書かせていただきます。
カインとアベルの話の前に、エデンの園の追放の話がありますが、蛇が「おまえ
は、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」と言われた「腹ばいで
歩く」とは、天を仰ぐことをせず、肉や地上のことに固執して生きることを指す
らしいです。同様に、エデンの園から追い出された人が「土を耕すようになった」
とあるのもまた、地上のものに執着するようになり、感覚や肉体的な快楽に支配
された、物質的(形体的)な心になったというようなことを指すみたいです。
従ってその直後に出てくるカインの「土を耕すものとなった」というのもまた、
農業従事者になったというだけの意味ではなく、「地上のものに執着するように
なった」「形体的になった」と同様の意味を持つと思われます。本にはそこから
発展して「信仰が形体的になり、愛を失ったことを指す」というようなことが
書かれています。
>このたとえ話について,「アベルは心からの犠牲を,カインは心のこもらない
>犠牲をささげたから」という解説がありますが
これ、私も小さい頃聞かされましたが(笑)上の本によるとこれは間違いという
ことになりますね。まあ子どもに説明するには仕方なかったのかもしれませんが。
しかし
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛ら
>れることは,論理上ありえない
という考え方もまた、理屈はわかるのですが、自然法や公平原理に縛られない
ことを我々人間に本にしてまで伝える理由はなんだろうかと、私は考えてしま
うのであります(^^;;
極言すると、「愛のない信仰を、神は認めたまわない」というということだと
いう解説が、上の本には書かれていました。ひとつの解釈として、ご参考までに。

4へっぽこ@同感:2004/02/05(木) 15:45
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛ら
>れることは,論理上ありえない
という考え方もまた、理屈はわかるのですが、自然法や公平原理に縛られない
ことを我々人間に本にしてまで伝える理由はなんだろうかと、私は考えてしま
うのであります(^^;;
極言すると、「愛のない信仰を、神は認めたまわない」というということだと
いう解説が、上の本には書かれていました。ひとつの解釈として、ご参考までに。
パンプキンさま
へっぽこも同感です。へっぽこはもっと極端な解説をきいたことがあります。
「カインのささげものは、穀物だったからダメで、アベルのささげものは
”羊”だったから”義”とされた..(”羊”は”キリスト”の象徴だから)」
(ある「韓国系一致運動の教会)
んなあほな!
だったら、カインはアベルから羊を譲り受けて ささげものにしなければならなかったの?
へっぽこはむしろ、カインに「自分のささげものは優れている。弟のものより
神に喜ばれる。」というおごりたかぶりのこころがあったから、それを神に
見抜かれたと思うのですけれども。そして、受け入れられなかった後も、
まだ自分が正しいと思っているから、納得できない。神様には逆らえないから、
弟に嫉妬して、殺した。カインは「裁こう」として「裁かれた」のかも...
何か、「信仰」を自分達だけ解るもののように囲い込んでいるクリスチャンが、
カインの過ちを繰り返しそうに思えるへっぽこです。(もちろん自分も含めて)

5名無しさん:2004/02/05(木) 15:45
理性によって(人間が)神を縛ることはありえても、自然法や公平原理によって神を縛ることなんてできるのかな。
そもそもこれらの概念はそう言うことを予定していないと思うんですけど。

6フランシス・ヒデ:2004/02/05(木) 15:47
ダイボンさま、
創世記の4章冒頭ですね。
で、まず最初に私の立場を明記しておかねばなりません。
私はキリスト教徒なので、ユダヤ教聖書の正典39巻については、あくまで
ユダヤ教徒の釈義を尊重し、私自身は突っ込んだ釈義をしないことにして
おります。
ご存知のとおり、この39巻はあくまでユダヤ教徒が著作・編集して発展させ、
おそらくは1世紀末頃にユダヤ教のラビ達の会議で39巻正典が定められた
ものです。それをキリスト教が、いわば「かってに失敬」して使ってきた
側面を、否定できません。ですから、私はユダヤ教正典39巻については
あくまでユダヤ教のラビなどにご相談なさることをお奨めしております。
例として、
http://www.outreachjudaism.org/asktherabbi.html
には、問い合わせ用フォームがありまして、英語で質問を書き込むとラビが
英語で説明してくださるようです。
これで私からの応答を終わりにしてもよいのですが、そうするとあまりにも
無愛想だと思われかねないので、まず私の上記の態度を説明しておきましょう。
この「カインとアベル」の例を引くなら、キリスト教正典(新約正典)の
以下の箇所をご覧ください。
ヘブライ11:4 (アベルの捧げものの方が、カインのそれよりも信仰に
よって優れたものであった、という釈義になっています。しかし、創世記4章
には、そうした釈義を支持する要素は見当たりません。カインが「不信仰」で
あったのなら、そもそも何ゆえにカインが捧げものをしたのでしょうか??
やはり、ヘブライ書の著者が同書では信仰を強調するがあまり、無理な釈義
例を引き出したことは否定できません。)
I ヨハネ3:12 (ここでは、捧げモノの比較はありません。この箇所は
あくまで、カインがアベルを殺したという「悪い行い」を問題にしていると
見るべきでしょう)
上記の2箇所のうちのヘブライ書のほうに、「作成・継承させた集団ではない
別集団が、勝手に釈義すること」の危険性が現れていますね。
実際、この「無断釈義・適用」という傾向は2世紀のバルナバ書などでは
もっと先鋭化しまして、まるで「ユダヤ教聖書は、実はキリスト教徒のものだ。
ユダヤ教徒は、我々キリスト教徒の釈義に従え」といわんばかりなのです。
バルナバ書から1800〜1900年を経て、現在の我々はすでにキリスト教徒による
ユダヤ教徒迫害、ゲットーなどを知っておりますし、20世紀には(キリスト教徒
がイニシアティブを取ったものではないにせよ)アウシュヴィッツさえありまし
た。
こういう歴史を反省し、私は「ユダヤ教正典は、まずユダヤ教徒の釈義を
尊重しよう」と言っているわけですね。ですから、私自身は「39巻」の
突っ込んだ釈義などを行わないわけです。
ついでに言っておくと、日本にいる我々は「聖書」というとき、「いわゆる
”旧新約”の翻訳をあわせて製本した出版物」に慣れっこになってしまって
います。しかし。私も含めてユダヤ教徒と親しく接してきた人物であれば
だれでも知ることですが、正統派のユダヤ教徒にとって、この「あわせた製本」
そのものが「とんでもない暴挙」です。上記の歴史を考えていただけば、
すぐに納得してもらえるでしょう。一緒に製本してしまうこと自体が、
正統なユダヤ教徒にとっては、「なんだ、この制本社/出版社は、要するに
ユダヤ教徒の心理は無視してキリスト教側にたってるのか?」とも言いたくなる
わけですね。
ついでながら、「旧新約聖書66巻はすべて神の言葉で・・・」などと公言する
一部教派がありますが、このcredo(信条)自体が、ユダヤ教徒への鈍感さを
裏に持つものであることは、もはや言うまでもありますまい。
なお、こういうとすぐに、「でも、個々人が”旧訳”から霊の糧を得て生きて
きた場合、それを奪う権利など誰にもないじゃないか!?」といった無理解な
反論が予想されます。ご覧のとおり、今回の問い合わせは「誰でも読める」
公の掲示板上でのことです。個々人が私生活において、どのような文書を
どのように解釈しようと、私は知ったことではありません。それは、個人の
まったく自由です。私が問題にしているのは、ユダヤ教正典の成立事情や
キリスト教徒による「無断曲解」、またキリスト教徒によるユダヤ教徒迫害など
の公的・社会的な事実です。この掲示板も、だれでもご覧になれる以上、
ある程度公的な性格を有しています。個々人がどの書物を・どのように釈義
するかについては、私はまったく関心がありませんし、「掲示板」という
メディアで扱うべき問題ではありません。
以上で終わってもよいのですが、「フランシスは冷たい」という誤解を避ける
ために、次に概略的な釈義例だけを短く紹介しておきます。

7フラソワーズ・ヒデ:2004/02/05(木) 15:48
ダイボンさま、
では、「冷たい応答」と思われないため、創世記4章冒頭の主な釈義例を、
ごく短く記しておきますね。
1)考古学その他でよく見られる説
これは、牧畜集団と農業集団の対立がこのエピソードの背後にあり、この
エピソード自体は牧畜集団側のものだったので、農業集団の「捧げもの」が
拒否されたことになっている、というものです。
この釈義はいかにも「霊性に欠ける」と言われてしまいそうです。ですが、
どうも信仰者という者はとかく「霊性」面ばかりに目を向け、社会状況や
文明の構造などの問題を無視してしまう嫌いがあります。信仰者としても、
「霊的な意味」を尊重しながらも、同時にこうした「冷たい視点」は
維持しておくべきでしょう。
2)先のヘブライ書にあるような釈義
これはやはり、あまりにも一方的な釈義だと言わざるを得ません。個々人が
私的にこうした釈義を持つ/持たないはご自由ですが、公の掲示板でこの
種の釈義を主張するのなら、「ではユダヤ教徒が成立させ選定した書物を、
キリスト教徒がキリスト教的な”信仰”の視点で釈義して、どこまで妥当
なのか?」というやっかいな問題に直ちに直面することになります。
3)ヘブライ語の人名の意味に着目
ヘブライ語のQayin(カイン)という名前には、「得る、設ける、作る」という
意味があり、これは4:1後半からも明らかでしょう。(ついでながら、ヘブ
ライ正典には、この種の「シャレ」が多数あります。)
ここまでは、特に問題ないですね。一方のHebel(アベル)は「虚しい・空虚・
すぐに消える」といった意味の形容詞とまったく同じスペルです。
これに着目して釈義を進めるなら、「YHWHは強いものではなく、弱いもの・
無力なものの捧げものに目を止められた」という釈義も可能ですね。
(なお、この箇所はいわゆるJ資料のようで、”神”の名はYHWHになっています)
この3)の釈義が、皆様のお気に召すのでは?
もしそうなら、まずは我々キリスト教徒自身が、西欧社会の多数派になった
ときに少数派のユダヤ教徒に対して何をやらかしてきたのか、その反省材料と
しても読みたいですね。
では、詳しいことはぜひユダヤ教のラビなどにお尋ねくださいね。
それと、これはダイボン様に限らずどなた様からであっても、今後は、
ヘブライ正典の釈義に関するお問い合わせを私宛にいただいても、↑の6
の返答を繰り返すかもしれません。決して悪意からそうするのではありません
ので、主旨をよくご理解いただければと願っております。

8へっぽこ@解釈:2004/02/05(木) 15:48
フランシスさま、
?解釈は一通りではないこと
?ヘブライ聖書の解釈は、ユダヤ教徒の解釈を尊重すること
この2点ですね。へっぽこも、学生時代マービントケイヤー先生の
著書を読んだことがあるので、入信前から、「ユダヤ教徒にとっては、
キリスト教徒がいうところの”旧約聖書”がそれ自体独立した
聖書である、ということは知っていました。
へっぽこが経験した教会の多くは、やはりユダヤ教徒を無視してキリスト教徒
としての旧約解釈をしていたと思います。
しかし、ここまで教えてくれる教会、なかったなあ!

9ウィリアム オッカム:2004/02/05(木) 15:49
 「神と民との契約?」
 神は,民に約束された。「私は,愛である(昔こんなしゃれたCMがあっった)。私は正義である。私は公平である。私は真理である」と。
 そのように約束された以上,神は,自己の「恣意性・主意主義」をその限りにおいて,抑制された。
 このように考えれば,「主知主義と主意主義」の調和について「一応の説明」はできるように思えます。
 そうすると「パクタ スント セルバンタ(合意ハ履行セラルベシ)」という根本的自然法に,神は,羈束されることになるから,これは,やっぱりかみの「絶対的主権性」に反するのではないかという問題に突き当たります。
 ちゃんと,オッカムを読んでみようと思っていますが,何しろ難しいし,分厚いし。

10続き:2004/02/05(木) 15:49
 神の絶対的主権性,絶対的恣意性を強調するのは,確かに危険だ。神=アサハラショウコウという曲解をもたらしかねない。
 「カトリックはカルト」という問題と通底することになろう。
 法律学者や「良い加減」な神学者は,その辺,「良い加減(落としどころ)」のところで「理論構成」するのだが,真の神学とか,真の哲学というのは,そういういい加減な姿勢ではいけないのだね。
 私は,大学生時代,ケルゼンばっかり呼んでいたので,「主権者の意志に従うべし」という命題を措定しているのだが・・・・。そうでないと,理論構成ができないから。

11続き:2004/02/05(木) 15:50
 「9」のような考え方は,やはり,「神以前に」「神以外に」「愛・正義・公平・真理」が存在するということになってしまうように思われる。これでは,やっぱり,ローマ教会やブルンナー的見解になってしまう。「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言うことになってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。

12ダイボン:2004/02/05(木) 15:59
フランシス様
いつもご返答ありがとうございます。
やはり、キリスト教はユダヤ教の聖典を勝手に失敬してしまったのですか?
私の今までの理解では、イエスはユダヤ教徒で、
旧約聖書に書かれているメシアであると思っていました。
だから、旧約聖書は新約聖書と共に神の霊感によって書かれたと思っていました。
フランシスさんの解釈によると、聖書は神の霊感で書かれていないということですか?
私の通っている教会は、そのように教えられています。
私自信も、いろいろキリスト教を勉強していき、
クリスチャン、牧師でさえも、非常に無知であることが多いことに、
危惧を覚えることがあります。
これから、聖書を読むときは、どうしたらよいかちょっと分からなくなりました。

13へっぽこ@よろしく:2004/02/05(木) 16:00
00:29
>>クリスチャン、牧師でさえも、非常に無知であることが多いことに、
>>危惧を覚えることがあります。
ダイボンさま
ご挨拶が遅れました。へっぽこです。よろしく。
↑同感ですね。もうあまり悪口は言いたくありませんが、聖書やキリスト教の
歴史など基本的なことを押さえていない牧師や信徒はなにか悲しくなります。
主イエス=受肉したロゴス。フランシスさまから教わった言葉です。
ロゴスには、「理性・知性のロゴス」と「神秘のロゴス」の両側面がある
ことも学びました。つまり、勉強することも大切であるが、”信じる”ことは
もはや理屈ではなく、体験すること、と受け取っています。
ともに学んでいきたいと思います。これからもよろしく!

14フランシス・ヒデ:2004/02/05(木) 16:23
ダイボンさま、
「聖書の霊感」については、実は非常に分かりにくい問題でして、一見同じよ
うに「66巻の霊感」を説く諸教派のあいだでも、
○ まったくinerrantで、あらゆる事項の正解が66巻に秘められている
という極端な主張もあれば、
● あくまで聖書は古生物学や政治学などの本ではなく、我々の救いに関する
啓示だ
と見なす立場もあります。
つまり、アメリカで言うfundamentalistsとneo-evangelicalsの違いなどに
示されるような多様な立場が現実にあるのですね。
で、私自身はウェストミンスター信仰告白のような「聖書(という書物)に
啓示が完結している」という立場を採用せず(この立場を採用すると、自動的に
ペンテコステやカリスマ派を排除することになります!)、どちらかというと
ルターに近い立場ですね。つまり、聖書はあくまで人間の言葉による書物でも
あることは否定できない("神の言葉”なんて、そのまま我々人間が読み解ける
はずがない!)以上、考古学や歴史研究、パピルス学、文献諸学などを反映した
高等批評もフルに活用すべきだが、聖霊が働くとき、そこにキリストを見出す
ことができる。とでも要約すればよいのか。。つまり、聖書の高等批評と
キリストへの信仰とが、必ずしも矛盾・対立しないわけですね。
また、地上での「人としての」ナザレのイエスがユダヤ教徒であった点は
間違いないのですが、初期キリスト教徒のヘブライ正典の扱い方は、本来の
テキストの意味というよりも、むしろフィロなどに近いアレゴリー解釈を
多用していますよね。そうしないと、ヘブライ正典と”新約”正典とは
結びつけるのが難しい面があるのですね。やはり、この両者のあいだには
400年の隔たりがあることを考えねばならないでしょう。ですから、「ユダヤ
教」とはいっても、主イエスが地上におられた頃の「ユダヤ教」を理解するには
ヘブライ正典も必要ですが、死海文書やアポクリファ、プセウドエピグラファ、
フィロの著作などいろいろ必要になるわけですね。こうしたものすべてを総合
的に考慮していって、主イエスの言動記録を読んでいこうとするのが、私の立場
です。当然、”66巻”であろうと、批判すべきは批判します。
なお、ダイボン様がご自分でどのような「聖書観」に立脚するかを、ご自分で
考えてお決めになればよいかと存じます。たとえば↑の2種類の「霊感説」で
あっても、○のほうは現実には「聖書以外、何も読む必要はない」といった
反知性主義を少なからず招いておりますが、●のほうは実際に穏健で健全な
福音主義諸派を生み出しております。後者の穏健な諸派の聖書学者が集まって
作成したWORDという聖書注解シリーズなどは、私も愛用しており非常に
優れた注解書です。この霊感説なら、反知性主義などに必ずしも陥らないと
いう実証ですね。
一般に、自分がタマタマ行っている/行った教派・教会の霊感説や教理などを
鵜呑みにする必要はどこにもありません。個々人の性格や環境という要素も
ありますので、最初は鵜呑みにしかけても仕方がないかもしれませんが、いずれ
ご自分で納得できる霊感説や教理などを考えていかれることも重要ですよ。

15パンプキン:2004/02/05(木) 16:49
23:54
横レス失礼します。
>キリスト教はユダヤ教の聖典を勝手に失敬してしまったのですか?
>私の今までの理解では、イエスはユダヤ教徒で、
>旧約聖書に書かれているメシアであると思っていました。
>だから、旧約聖書は新約聖書と共に神の霊感によって書かれたと思っていました。
私もダイボンさまと同じ理解です。
旧約聖書も、ユダヤ教徒の聖典であると同時に、神が我々すべての人類に与えて
くださったものと思いたい私です。(^^;
しかし、フランシス・ヒデさまの書かれたことも踏まえるならば、そう思う以上、
新約聖書もイエス・キリストもキリスト教徒の専有物ではなく、全人類に与えて
くださったものであり、たとえ他宗教の方がそれらを自己の宗教に従って解釈した
としても(例えばE証人とかでも)目くじら立てることなく、その方々がこの遺産
から何かを得ているならばそれを尊重するのでなければ、自分たちがユダヤ教に
対してしてきたことと矛盾することになるのですね。肝に銘じておきたいことです。
>クリスチャン、牧師でさえも、非常に無知であることが多いことに、
>危惧を覚えることがあります。
ワタシ自身は、いろいろ勉強しなければ、聖書にアプローチできないという考え方は
好きではありませんし、フランシス・ヒデさまがそのようなお考えではないことは
以前書かれておられたことからも承知しております。そうでなければ、ますますキリ
スト教というものの敷居が高くなりますしね。へっぽこさまの
>”信じる”ことはもはや理屈ではなく、体験すること
につきると思います。
「聖書が霊感による書物だと信じているならば、読む方も霊感によって照らされ
て読むべき」と思っているのですね。
過去にガリレオの発見を聖書の権威によって封じ込めようとしたとか、そういう
のは極端な例ですが、人間がただ読んだだけで聖書の意味がわかるのであれば、
聖書の深みというものはあまりないわけで、地の言葉によって天の言葉を
解読しようと試みているようなものだと思います。
天の言葉は、天の言葉によって解釈するべきで、人間の方が祈りの中で生ける主と
交わり、聖霊によって導かれる中で示された解釈は(もちろん一通りではなく)
それこそ無限のものを引き出すことができ、個々人がその時々で必要とする答えを
与えてくれるものだと思うのです。

16パンプキン:2004/02/05(木) 16:49
23:55
というわけで、私はフランシスさまが分類するところの
● あくまで聖書は古生物学や政治学などの本ではなく、我々の救いに関する
啓示だ
に属する人間です。(あるいは私の立場は「我々の生き方に関する啓示」と
言い換えた方が正確かも)
私も以前、通う教会を探そうとして、それこそ電話帳で片っ端から調べ、教会めぐり
をしたことがありました。それこそ好みは人それぞれですが、私自身は、背景知識
ばかり述べる牧師さんは肌に合いませんでした。フランシスさまのように「聖書の
高等批評とキリストへの信仰とが、必ずしも矛盾・対立しない」方もいらっしゃる
と思いますが、たいていはどちらか一方に偏っており、おそらくフランシスさまは
稀な部類ではと思います。(^^;
聖書の言葉を、自分自身の歩みと関係づけて、悩み、祈り、聖書を開き、答えを見
つけようとしているような牧師さんが教派を問わず私は好きで、そういう方にも何
人かお目にかかることができました。というのも、そういう体験に基づいた説教こ
そがわたし自身の歩みにも役立つからですね。説教が実生活と結びつくのです。
ですから私はまず聖書を開くとき、自分は何に対する答えを求めているのか?とい
う問題意識(読む目的)を明らかにし、そして祈りの中で示されるようにと待ち望む
ことを心がけています。教職者でもないですし、別に系統だって人に説明できる解釈
ができる必要はないんですしね。実際は、牧師さんや書物の解説に頼っている場合が
多いですが(笑)最終的には、自分の知恵で読もうとするか、天によって教えられ
ようとしているかというのが、分かれ目になるんではないかと思っております。
(あと、よい目的で読むというのも大事なんでしょうね、きっと)
ところでオッカムさま、
>「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言うこと
になってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。
どうして気持ち悪いんでしょう?(真面目な質問)

17へっぽこ@パンプキンさま:2004/02/05(木) 16:50
パンプキンさまのスレには、いつも”暖かみ”がありますね。
聖書の読み方も、「血が通っている」読み方のように思えます。

18ドゥンス・スコトス(騙り):2004/02/05(木) 16:51
 業務連絡>東大阪さんand/orフランシスさん
 このスレッドは,「神学」のカテゴリに丸ごと移転できませんでしょうか? かなり奥が深い問題だと思います。
 お詫び
 このたびは,不詳の弟子,オッカム君が,極端なことを言って,皆さんを混乱させてしまいました。
 普通「学者」という者は,初代は,とんがったラジカルな学説を説き,2代目は,それをマイルドにし,3代目は,初代の学説を忘れてしまうものですが,オッカム君は,私より,とんがってしまいまスタ。

19オッカム:2004/02/05(木) 16:51
 以下は,私淑する神学者富井健先生との問答です。
 私は,富井先生から,「転載全面許諾」を得ていることをお断りします。
http://www.path.ne.jp/~millnm/no33.html
自然法ではだめ part2
(Q)先生は、自然法の存在に肯定的な掲示をしておられます。これは、「自然法」という概念をどのように定義するかという半ばロゴマギーの問題でしょうが……。 自然法思想の「典型」は、トマス・アキナス以前から連綿と続くカトリック神学・カトリック法思想です。この神学は、かのエミール・ブルンナーの「自然」神学と本質的に同様であり、「人間は、聖書による特別啓示なくしても、自然や・人間の本性を理性的に観察することにより、神の存在や、客観的絶対的な正義を認識できる。」という思想が根本にあると思います。
 先生が言及する「自然法」もこれと同値と考えて良いのでしょうか? これは、神による世界の創造・倫理規範や律法の制定「以前」にあるいは,それとは「別に」客観的な「正義」が存在したという考えにつながるように思えるのです。 「人間以外が=神が−意思によって−定めた法」
を自然法と定義するなら、先生の用語法も理解できます。しかし,「自然法」という言葉を「人であれ神であれ−意思による制定行為なくして−客観的に存在する法」と定義するならば、先生のご見解は、ブルンナーやカトリックに近いように思えます。
(A)自然法について肯定的な発言をしたのは、自然法が社会や個人の倫理規範としてある程度まで秩序を保つのに役立つからであって、それが最終的なものであると考えておりません。聖書的キリスト教はあくまでも、宇宙が神によって創造され、神の法によって統治されていると考えます。それは、神という人格者の意思によって統治されており、この意思の外において起こることは一切ないし、また、神の意志に反して行われることはすべて刑罰の対象となるという意味で、神の法は絶対なのです。ですから、聖書の三位一体の神とは無関係に存在する自然法などというものは、聖書的キリスト教において絶対に認められないのです。それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。
 19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。個人や社会の倫理を決定するものが「誰かはわからないが、とにかく宇宙を統治している神的存在」であるという信仰は、適者生存、自然淘汰の「弱肉強食」的世界観によって破壊されたのです。秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。これは、もはや universe ではなく、multiverse です。つまり、多神教の世界観なのです。唯一神による統一的宇宙ではなく、多くの神々の支配する多元的宇宙なのです。20世紀は、自然法の死と同時に、多神教の時代を迎えたのです。この意味で、アダムにおいてサタンが実現した「法の制定者としての人間」像が復活しました。

20続き:2004/02/05(木) 16:52
 人間が神とは無関係に善悪を決定していくという考えは、今日世界に満ちています。中絶賛成、死刑制度反対、自由恋愛・・・。こういった無秩序は、人間が宇宙に統一的な法を認めないことから起こっています。聖書的キリスト教を土台として作り上げられた西洋キリスト教文明はこのような多神教的無律法主義によって破滅の危機に瀕しているのです。
 では、どこからこのような問題が発生したのか。その発端は、キリスト教が、理性を堕落の影響の埒外において、神の法によらずとも、人間理性のみによって認識し、統治できる領域を許容したところにあります。このようなギリシャ無神論に起源を持つ自然法思想の混入を許したところにキリスト教の堕落が始まったと見ることができるのです。宗教改革はある程度この問題を解決しました。「聖書のみ。信仰のみ」の原則は、自然法へのある程度の制限を設けました。しかし、それが徹底したものでないところに、十分な改革が行われず、今日のような世俗化を許した元凶があると見ることができます。カルヴァンは、申命記の説教の中ではっきりと聖書律法による世界統治の原則を打ち出しています(ゲイリー・ノース著「カルヴァンはセオノミストだったのか」福音総合研究所(武蔵野市中町)刊、参照)。しかし、残念なことに「キリスト教綱要」の中では自然法を認めるかのような発言をしているのです。
 「しかしながら、私は、ことのついでに、国家が神の御前で敬虔に用いなければならない法律はどの様なものでなければならないのか、そして、国家の正しい統治の仕方はどの様なものなのかということについて少しく述べてみたい。もしこの問題で多くの人々が危険な間違いに陥っているという事実がなければ、私は、このような問題に関わる気はない。というのは、ある人々は、モーセの政体(polity)を無視する国家も正しく統治されており、諸国民の普通法(common law)にしたがってうまく治められているのだということを否定しているからである。この意見の危険性と煽動的性格の証明は他の人に任せることにして、私はその誤謬性と馬鹿馬鹿しさを明らかにしたいと思う。」(「キリスト教綱要」第4巻20章14節)
 しかし、彼において明確にされた「全的堕落」の教理により、理性も堕落の影響を免れていないこと、したがって、正しい世界認識は、啓示と聖霊によらなければならないという原則が確立されていたことは、カルヴァン主義におけるその後の有神論的世界観の発展を可能にしました(渡部公平著「カルヴァンとカルビニストたち」小峯書店)。人間理性の自律を絶対に許さず、万物を聖書律法によって統治しなければならないことが、今日人間に与えられた唯一の解決策であると考える次第です。

21パンプキン:2004/02/05(木) 16:53
私の質問に対する答えをいただいたのかな?と思いますので、レスしようと
思ったのですが、頭が悪いもので、オッカムさまの書き込みが十分理解で
きたとは言えません(^_^;
しかし、「聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです」というくだりは、なかなか
センセーショナルですね。(^^;まあ、先日新聞に載っていましたイタリアにおける判決、
つまり不妊治療におけるクローンの禁止や、受精卵の凍結禁止や第三者の精子による
受精卵を他人の母胎に植えることの禁止、あと同性愛者同士の結婚の禁止などはそうした
闘いのひとつということなのでしょうか。
しかしオッカムさま自身も述べておられたように、
>神の絶対的主権性,絶対的恣意性を強調するのは,確かに危険だ。神=アサハラ
>ショウコウという曲解をもたらしかねない。
という危険性は、やっぱりあるんですよね。何しろ、神の制定された法の中心となる
もの(神への愛と隣人愛)を中心にすることを忘れると、とんでもないことになりま
すし、神の法と矛盾するかどうかを判断するのが人間という絶対ではありえない存在
であることを考えると・・・。
バイブルカルトにも通じる問題ですね。
それでも、「神はいかなる存在か」ということは常に考える必要があり、それが
「私を見たのは、父を見たのです」といわれたイエスの人格から垣間見られるもの
であると考えるならば、自然法というものは神の法の、程度が弱まった形(不完全な形)、
あるいは雛型のようなものと考えることができますね。ベストではないにしろ、
セカンドベストというべきで、まあ「最終的なものではない」ということには同意
するものであります。
人間の理性の中には、自己が起源のものもあれば、神が起源のものもあるでしょう。
すべてが相反するものでもないのでしょうが、しかし自分の理性が神を起源にして
いる(よく祈ってもいないで)という思い込みにはゆめゆめ注意しなければなり
ませんね。

22タチバナ@灰羽連盟:2004/02/05(木) 17:08
>19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。

ぜんぜん意味わからんですね。自然法が虚構であろうがなんだろうが、現代法学で完全に捨て去られてたりしてますかね。
カント、ダーウィンを出してくる脈絡も私にはまったく理解できないですが。なんで適者生存という生物学理論(仮説)が法秩序と関係あるのかしらん。ひとむかしまえの社会進化論の誤謬を思い出させます。
>秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。
もちろんカント倫理学からこんな妙な結論は出てきません。カントの「定言命法」はまさしく無条件な(普遍的な)倫理を指すからです。
カントはよく「相対主義者」が利用したりしますが、私はカントは元来反「相対主義」の立場だと思う。そうでなければあれだけ「純粋(無条件)」にこだわるはずがない。

23オッカム(騙り):2004/02/05(木) 20:14
 私が何者であるかは,バレバレでしょうが,敢えてこのスレッドでは,別ハンドルを使いましょう。
 何で,「神学の場で,法哲学の話になるの?」と思われるかもしれませんが,神学・信仰と法哲学・法律学は,かなり近い関係にあります。
 それから,このような問題は,本当は参考文献を熟読しなければならないのですが,ちょっと気力が続かないので,力を入れた書き込みは,後日とします。
 まず,「自然法」ですが,「国会とか国王とか人民(憲法制定権者)」とかが定める法(実定法)を超えた法,とでも定義しておきましょう。「超えた法」ですから,「自然法に反する実定法は無効」なのです。例えば,国王とか人民とかが憲法(実定法)で,「ユダヤ教徒は見つけ次第ぶち殺せ。ぶち殺さないものは死刑に処する」と制定しても,「自然法違反だから無効」というのが自然法論者の言い分です(つまり,「宗教ガ違ウト言ウ理由ダケデ隣人ヲ害シテハナラナイ」とか「人ヲムヤミニ殺シテハイケナイ」いう自然法がある,ということですね。)
 これに反対する考え方が,「法実証主義」です。「自然法なんてない。実定法を制約するような(実定法を超えるような)ものは存在しない,という考え方で,上記のような「異教徒ぶち殺し法」も「有効」です。
 さて,問題は,「自然法なんて,条文集があるわけじゃないのに,どうして,自然法の内容を認識できるの? 自然法があるという根拠は何なの?」と言うことになります。いろいろな考え方(有力なのは社会契約説)がありますが,一番由緒正しいのは,「カトリック法哲学」です。
 この「カトリック法哲学」というのが,かなりのくせ者なのです。「十戒・旧新約律法」にその淵源・条文を求めるのならば,話は直線的で,明解です。しかし,連中はそうは言わないのです(聖トマス。古代教父がどう言っていたかは文献を読まないと分からない)。
 人間は,「神の存在」「神による特別啓示(聖書)」を抜きにしても「理性」とか「良心」とか「事物の本性」とかそういったもので,自然法を認識できるのだ! と言うことです。だから,無神論者や仏教徒でも自然法を認識できるわけです。
 で,バルトとか,富井先生とか,私ことオッカム(騙り)は,「そういう理性主義・主知主義」は突き詰めれば,「無神論になってしまうぞ。『神の全能性』のテーゼを放棄することになってしまうぞ。神を制約する『自然』とか『理性』とか言うものを仮設していいのかね?」と言っているわけです(かなり極端な単純化ですが)。

>それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然
>法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無
>効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。
 と言う,富井先生の極端な物言いは,こういう考え方が背景にあります。
 この問題は,ロマ書1・20を巡って,「神学プロパー」の問題にも深刻な影響を与えています。ご承知の方もいると思いますが,バルト対ブルンナーの論争です。
(続く)

24続き:2004/02/05(木) 20:42
>>「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言
>>うことになってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。
>どうして気持ち悪いんでしょう?(真面目な質問)

 気持ちの悪さを説明するのは,結構骨が折れます。どうしても「自然法論」と「法実証主義」の話になってしまうので,その辺は,ご容赦ください。
 「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といったものは,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれています。それは,「自明」ですよね。そして,そのような「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」は,クリスチャン以外でも持っていることはもちろんです(それは,「神−ヤハウェ−を淵源とする一般啓示だ」,という考えもありますが,寄り道になるので,この辺は別に書く)。
 「法実証主義」というのは,「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といった,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれているものをワザと「法的思考原理」の外に置くのです。ガビー氏お得意の「現象学」流に言えば「括弧に入れる」ということになりましょうか?
 このような「法実証主義」は,ある意味単純明快で,(論理は飛躍しますが)「聖書字義信奉者」と思考形態が似ています。「法トハ主権者ノ意思デアル−オースティン?」「『主権者ノ意志ニ従ウベシ』と言う根本規範を措定すればそれで良いのだ。ケルゼン」。
 「聖書ニ書イテアルカラ,ソレハ,神ノ言葉ダカラソレデイ良イノダ」と言うのは,良く似た思考形態でしょう。

 このような考え方(法実証主義・聖書字義信奉主義)は,単純明快であると同時に,どーーーしても「人工的・技巧的思考」となってしまいます。だって,「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といった,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれているものは「自明」でしょう? 
 これで,「実証主義者」・「聖書主義者(と敢えて自己にレッテルを貼っておく)」の私ことオッカムが心の中に抱く「気持ちの悪さ」は分かっていいただけるのではないでしょうか?

25パンプキン:2004/02/10(火) 08:04
レスありがとうございました。
うーむむずかしいですね(^^;何度も読んでみたのですが。

オッカムさまは実証主義者であるのですね。で、実証主義者は主権者の意志に従う
べしとする。たとえそれが我々の理性や良心や公平原理と反しようとも。というわけ
ですね。
うーんまとはずれなことを言っていたらごめんなさいなのですが、主権者を、私たち
は選ぶことができるわけですよね。まあ日本なら主権者は国民のはずですが、首相と
かは一応国民の選択ということになっていますし。従うことのできるような主権者
(理性や良心や公平原理と反しない主権者)を選ぶことも、大事ですね。
神様でいえば、理性や良心や公平原理に反しない神さま(宗教・教義)を選ぶという
ことも、同様に大事かと思われるのですね。

こういうと神様は人間が存在する前から存在する唯一のお方であり、人間が選ぶも
選ばないもないと、言われるかもしれないのですけども、世界というものは存在
しても、人間が認識しない限り、その人間にとっては存在しないと同じことです
ものね。世界観も神観も、つまるところその人間が作り出すものでもあるわけ
ですね。こういうの、何主義というのかわかりませんが(^^;

人間には、神の存在を受容する自由も否定する自由も与えられていると思うの
ですが、同時に神観(教義)を選ぶ自由も与えられているような気がします。
残酷でもありうる神を選んだとしたら、それを作り出したのは他ならぬその人
でもあるわけですから、「自然法に縛られない神」を想定し、それに基づいて
行動した場合、責任はあくまでその人間にあるのではないかと。(たとえ「神
に命じられた」としても)

私が上記のような質問をしましたのは、まさに

>(それは,「神−ヤハウェ−を淵源とする一般啓示だ」,という考えもあり
>ますが,寄り道になるので,この辺は別に書く)。

という考えを私がもっているからで、どのような気持ち悪さがあるのかな、
と思って質問させていただいた次第です。

26パンプキン:2004/02/10(火) 08:04
ちょっと脱線するのですが、旧約聖書といって思い出すのは、一昔前流行り、
私も夢中になってしまった(^_^;グラハム・ハンコック『神々の指紋』という本
です。まあこの本がトンデモ本かどうかということは別として、私がとても
面白いなと思ったのは、古代の人々は、天体などの法則をはじめ、ある概念を
次の世代に残し伝えるときに「神話」という形をとったということですね。
そのまま天体法則などを伝えればすぐに忘れられてしまうけれど、神話という
形ならもとの形に近いままで後世まで口述されて残されるわけです。ある意味、
「情報のコード化」というようなものが行われていたのではないかという考え
が主張されていました。

古代の人々の神話を私たちは「非科学的だ」といって時に馬鹿にしたりもする
わけですが、実は古代の人々の科学は私たちが思うよりもっと発達しており、
ただ同時に「神話化」「表象化」という技術も持っていたがゆえに、私たち
にはコード化された情報のみが残された。ところが、表象化の技術をもたない
私たちは、コード化された情報をもとに戻すことができない。そこでコード、
つまり「神話」だけを見て「非科学的だ」と判断しているということも考え
られるわけです。

旧約聖書をこれにあてはめると、旧約聖書の言葉もまた、古代の人々が、
(霊感によってであれ、そうでないのであれ)ある事柄を伝えるために
「神話」という媒体を使った、という考え方も成り立つわけですね。
私たちに残されているのは、いわばコード化された、概念を運ぶために
用いられた乗り物としての言葉であると。そう考えると、その「物語」
ひとつひとつの文字通りの字義的な意味よりもむしろ、そこに乗せて
伝えられた概念に注目する必要があるのかな、と思ったことでした。
これもひとつの聖書の読み方になるのではと思います。

27タチバナ@灰羽連盟:2004/02/10(火) 09:30
>オッカムさまは実証主義者であるのですね。で、実証主義者は主権者の意志に従う
べしとする。たとえそれが我々の理性や良心や公平原理と反しようとも。というわけ
ですね。

いったいどこをどう読めばこうなるんだろう・・

28タチバナ@灰羽連盟:2004/02/10(火) 09:43
ああ、そうか。
「法実証主義」→「実証主義」(???)
という流れになっとるのね。
ただの「実証主義」と「法実証主義」は異なるはずですが、それをごちゃまぜにしているわけだ。
「法実証主義」=「聖書字義信奉主義」という図式もむちゃくちゃだけど。

29パンプキン:2004/02/10(火) 19:47
げっわたくし、なんか激しく勘違いしとりますか?

えーとオッカムさまは「主意主義」ですよね。
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛られる
ことは,論理上ありえない

わけですから、少なくともオッカムさまは自然法論者ではない。
ここまではよいのでしょうか?(^^;
自然法論者と反対するのが法実証主義ということなので、そう思ったわけです。
しかし「実証主義」と「法実証主義」が違うとなると、お手上げです(^^;実証主義
の定義がここにはないもので・・・。
まあ、背景知識がないもんで、難しいです。

あと、2番目の書き込みはスレ主さんのアベルとカインの話の流れ
で出てきた、旧約聖書の捉えかたに関するひとつの話題でした。

30タチバナ@灰羽連盟:2004/02/11(水) 09:15
あ、いえいえパンプキンさまはおかしくないです。
オッカム氏の脈絡のない日本語が、私にはまったく解読できないだけです。

はげしく単純にいうと「法実証主義」は一元論で、実定法しか法と認めないわけです。実定法の正否を判断する別の基準を認めない。
逆にいえば、いまある法はいつでも変更可能ということになります。
「聖書字義信奉主義」は申すまでもなく、聖書の一字一句を変えてはならんという立場。
これでなんで「法実証主義」と「聖書字義信奉主義」の思考形態が似ている、なんて言えるんでしょうねえ???

31タチバナ@灰羽連盟:2004/02/12(木) 18:13
「神々の指紋」は他人の業績をつきはぎして作っており、ト本の中でもかなりレベルが低いのですが、いちおう以下のような批判ページがあります。ご参考までに。

http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/index.html

32パンプキン:2004/02/14(土) 08:13
>タチバナさま

面白いサイトのご紹介ありがとうございます。つい、全ページ読んでしまいました。(笑)

まあ、「神々の指紋」がトンデモ本であるとしても、門外漢の私にはこれを読んでしても
判断する能力がなく、(どちらが本当のことを言っているのか、根拠を確かめるすべも
能力もなく)どちらにも「なるほど」と思うしかなく、それが「言いくるめられている」
というレベルであることは変わりないのですが。(^^;

ただひとつ私が自分で判断できるレベルで「ん?」と思ったのは、例えば「オリオン・
ミステリー」で南中高度が低いとか、明るさがそれほどでもないという理由から古代の
人々の信仰の中心になっていたとは考えにくいという批判は、説得力が乏しいとは思いま
した。明るければ、目だってさえいれば古代の人々の信仰の対象になったとかいうのは
どうも古代の人々を単純にとらえすぎているのではないか、と。
もっと表象的なものとしてとらえていると考えることもできるわけですから。
配置とか、方位とか、そういうものの方が重要だったと考えることもできるわけです。

まあ脱線するのであまり話を突っ込んでもなんですけども、
しかしこの本は最終的に「終末論」を展開していますから、このようにトンデモ本に
分類されていることは、いいことかもしれません。(^^;
終末論を強調しすぎると、いいことないですからね。
どうせ「概念を運ぶ乗り物としての言葉(神話)」に着目したのなら、この終末論
そのものも、何かの概念を運ぶ乗り物(表象)と捉えることもできるわけなのに・・・。

一方で紹介いただいたサイトの「大槻義彦『神々のトリック』」だけは聖書の話なので
執筆者の論旨の展開が裏づけを伴って完全に理解でき、非常に楽しめました。

33タチバナ@灰羽連盟:2004/02/14(土) 09:39
あのサイト、ちょっと読みにくいですよね。目次をもっと整理すればいいのに・・

>ただひとつ私が自分で判断できるレベルで「ん?」と思ったのは、例えば「オリオン・
ミステリー」で南中高度が低いとか、明るさがそれほどでもないという理由から古代の
人々の信仰の中心になっていたとは考えにくいという批判は、説得力が乏しいとは思いま
した。明るければ、目だってさえいれば古代の人々の信仰の対象になったとかいうのは
どうも古代の人々を単純にとらえすぎているのではないか、と。
もっと表象的なものとしてとらえていると考えることもできるわけですから。
配置とか、方位とか、そういうものの方が重要だったと考えることもできるわけです。

それでは反論になりえません。どういう意味でどのように「配置とか、方位とか、そういうものの方が重要」であったかを具体的に立証しなければなりません。
ただの憶測でなにを言ってもいいのなら、ト学説とまともな学説の区別はできなくなります。
古代人が現代人よりも高度な「科学」(???)をもっていたと主張するためには、単にあれこれの「解釈」によってではなく、誰でも納得するに足る明確な証拠がいります。
古代人は現代の「文明人」よりももっと高貴で文明的だった!という意見は、さかのぼればルソー以来ある、大戦後うんざりするほど量産された逆立ちしたヨーロッパ中心主義ですが、依然「解釈」レベルの問題でしかない。

34タチバナ@灰羽連盟:2004/02/14(土) 10:08
以下、同サイトの
http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/fog_b013.html
からコピペしました。
ト本や擬似科学本を読む際の注意となるでしょうから、ご紹介しておきます。いちおう「啓蒙屋」なので。
まあ、慣れると読まないでも中身がアレだってすぐわかるようになりますけど(笑


>知らず知らずに取り憑かれる

>この本が大ベストセラーになった一つの要因としては、前例のないほど悪質な嘘・歪曲が挙げられるでしょう。内部矛盾を突くことは論理的訓練を積んだ者にとってはさして難しくなくても嘘を見抜くには知識が必要です。
私が一番危惧しているのは、この本について全体としては否定的な立場を取りながらも「エジプトに関してはもう少し定説を見直す必要があるのではないか?」とか「『神々の指紋』は地殻移動説など自然科学の側面からは否定できるが、考古学・文献学についてはその指摘は正当だろう。」というように、この本を「部分的に」認めてしまう人たちです。また「どっちもどっち論」に立ってしまっている読者も少なくないと思われます。

>そうした人たちから「憑き物を落す」には、やはり一つ一つ具体的に指摘していくより方法はないと思います;執念深いとかねちこいとか言われようとも(^^;)。

>具体性なく反論しようとするのは、ろくに読んでいない人たち(実は上述の「部分的に認めている人」も入る可能性がある)のやり方ですが、こうすると往々にして「わけのわからない文明論」に陥ってしまいます。「物質万能主義を信じる者=考古学者」とかトンデモない方向に議論が発散してしまうのです。実は、こうした抽象論に入ることこそ疑似科学者の思う壷なのだと理解しておいてください。「知ったかぶりは危険」というのは疑似科学に対する場合も有効です。

35パンプキン:2004/02/15(日) 17:31
>タチバナさま

そうですねえ、反論には確かになってませんが(^^;;;

素人が想像するに、古代史の研究というのは、遺跡などから証拠を見つけて、それを
積み上げてコツコツ推論、実証、という形になっていくんだと思うのですが、
例えばですよ。こんなことを想像してしまうのです。今ある教会が、聖書などの
文献なしに、そのまま後世に残ったとします。それをもはや現代の教会の状況など
知りえない遠い未来の人々が発掘したとしたら、彼らは教会など信仰の場である
建物のいたるところに十字が刻まれているのを見て、なんて思うのかしらって。
「当時は十字架信仰が行われていた」とか。あるいは南十字星の見える場所であれ
ば、南十字星信仰と思われるとか。
(ま、イエスさまがついている像もありますけど(^^;;)

あるいは現代でさえ、プロテスタントの牧師がある日カトリックの礼拝堂を訪れ、
そこにマリア像や聖人像を見つけ、「カトリックの人たちはマリア崇拝、聖人崇拝を
している」と思ったりすることもあるわけですよね。しかし実際それらはあくまで
表象、マリアさまや聖人たちであれば、彼らの「従順、純潔、慎み」などの人格、
徳を表現し、信者さんたちがそれを目指す目標としての対象だったりするわけです。

同様に、古代の人々の神殿に太陽が描かれていたから「太陽崇拝」だとか、月が
描かれていたから「月信仰」だとかいうことは、一概には言えないと思うのです。
これも、もしかしたら目に見えない唯一神を信じていた人々の、唯一神の
表象としての太陽であり月であったかもしれません。

何が言いたいかといいますと、信仰という事柄について、後世の人々が遺跡など
から証拠を見つけ、その現物から当時の信仰について推測をめぐらすということ
は、とても難しいものなのではないかということですね。目に見える事柄からし
か、推測ができないからです。太陽崇拝を支持する証拠は、太陽の絵やそれに
むかって人々が拝んでいる絵が次々に発見されさえすればいいことです。でも
「太陽は単に表象でしかなかった」という説は、はなから実証できる性質の事柄
ではないわけです。

で、古代に太陽崇拝や月信仰などが見られた(と考えた)考古学者さんたちは、なぜ
太陽や月が崇拝の対象として選ばれたのかということに思いをはせ、それはやっぱり
一番光輝いており、一番目立ったからではないか、というような発想になってい
るのではないかと、そういう先入観にこの批判している人もとらわれているのでは
ないかと、上記部分の「批判」の話の流れから、感じたわけです。

36パンプキン:2004/02/15(日) 17:31
で、

>どういう意味でどのように「配置とか、方位とか、そういうものの方が重要」であったかを具体的に立証しなければなりません。

については、全然具体的な立証はできません。(爆)
ただですね、「南中高度が低く、明るさがそれほどでもない」だから「信仰の中心に
なっていたとは考えにくい」という論理には、「信仰の中心になるのは、必ず高度が
高く、明るさが際立っている星である」という前提が隠されているわけで、この前提は、
まだ全然立証済みではないと思うわけです。(ですよね?)この前提が立証されてい
ない限り、この論理は成り立たない。(批判としての根拠に乏しい。)そういうもって
いきかたでは、ダメでしょうか?(^_^;

まあ知識のない私には、「論理の組み立て」のようなものに着目することしかできない
もので。

すでに数年前に読んだ本なので詳しいことは忘れたのですが、オリオン・ミステリー
では「3つ」ということが特徴なんですよね。この「3」という数字が現代の
キリスト教とかでも非常に重要な意味をもっていたりするわけで、そういった神学的
な捉えかたから重要だったことも考えられるんじゃないかというひとつの可能性を
考えてみたわけです。(ええ、ええ、ただの憶測ですとも、笑)

37パンプキン:2004/02/15(日) 17:32
・・・とまあいろいろ書きましたが、決して「グラハム・ハンコックさんが嘘つきだ
なんて、信じたくなーい!」というわけではないんです。この方の説をそのまま信用
するなら、まあハンコックさんは科学者とは言えないのはもちろんのこと、(実際、
ジャーナリストのようですが)ある「解釈」の宣伝屋さんだったということになる
わけですね。

嘘つきかどうかまでは、私では判断できませんでしたが。こういう問題は私のよう
に知識のない人間にはつまるところ「どっちの人間が誠実か」というレベルの話
にしかならなくなってしまうんですよね。
上記サイトでは具体例をひとつひとつあげてくださっていますが、「当時はしし座
なんてなかった」と言われても「いや、当時はしし座はあった」と言われても私に
はどうしようもないですから。(^^;

よく幼稚園の子供を持つママ同士でも、「あのママは、こういう嘘を言った
から、あなた、付き合わない方がいいわよ。」という会話を耳にすることがあるの
ですが、最終的には、誰でも彼でも「付き合わない方がいいわよ。」と批判していく
そのママ本人とつきあわない方がよかったりすることもあるのであり(笑)、とにかく
自分にとっては真偽が確認できない「噂」の範疇でしかありえない場合には、どんな
に多数の人にけちょんけちょんにけなされている人であっても判断を保留し、自分の
目で確かめられてから判断するようにしようかと思っているわけです。(喩えが卑近
すぎで申し訳ないです(^^;)
グラハム・ハンコックさんが嘘つきかどうかを自分で判断できるだけの知識を私が
身に付ける日は、おそらく永久に来ないような気がするんですけど・・・。

それでも多数の人に批判されている「科学」本は、「解釈」本として読んだ方が
害は少ないのでしょうね。

38タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:25
>>36
パンプキンさまはなぜか異様なほどに「南中高度」にこだわってますが、
該当ページを読めばわかるとおり(ROMのみなさんも全文読んでみてください)、
http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/fog_b005.html
「オリオン・ミステリー」のある主張への反証はそれだけではありません。
むしろ、それは末節の話であり傍証に過ぎません。
これは初歩的な読解の問題ですから、あえていちいち指摘しなかったんですが、反論してきたので、いちおう応答しました。

39タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:28
以下、コピペしておきます。

オリオン・ミステリー
『オリオン・ミステリー』の主張
ロバート・ボーヴァル、エイドリアン・ギルバート[共著]、吉村作治[監修]、近藤隆文[訳]『オリオン・ミステリー』NHK出版 1995, ISBN4-14-080215-4, ¥2400(原著は1994年)は、『神々の指紋』下巻を支える重要な柱です。
『オリオン・ミステリー』は、全体として見れば、「異端」の本といえるでしょう。『神々の指紋』のような疑似科学(トンデモ)本とは一線を画します。ボーヴァルは、悲しむべきことに後にハンコックと組んで『創世の守護神』を著しますが、共著者の一人がトンデモの彼方へ飛んでいったとしても、『オリオン・ミステリー』がトンデモ本に変わるわけではありません。

『オリオン・ミステリー』は、

1.古王国時代の星辰信仰、とくにオリオン座への信仰をまず述べ、
2.次いで、大ピラミッドのシャフトが2450BC頃のりゅう座α星(当時の北極星)、オリオン座ζ星(三ツ星の左端)、シリウス、に向かっていること、を指摘し、
3.そして、ギーザの3大ピラミッドの配置が、三ツ星と一致していることを示します。
4.最後に、3大ピラミッドの方向が、三ツ星の南中時の角度と一致するのは10500BC 頃であることを示します。
(年代は、『創世の守護神』の数値を出しました。『オリオン・ミステリー』では、若干異なっています。)
--------------------------------------------------------------------------------

『オリオン・ミステリー』から学ぶべきこと
この主張の当否を論じる前に、まず、しっかりと認識していただきたいことがあります。それは、『オリオン・ミステリー』を読めば一目瞭然なのですが:
A.エジプト学者は、ボーヴァルのようなアマチュアの活動にきわめて寛容で積極的に彼に発表の場を与えていること。また、この本の謝辞は、I. E. S. エドワーズ、ジャミール・マレック、ヴィヴィアン・デイヴィス、といった本物のエジプト学者に捧げられていること(もっとも、デニケンの名も挙がっていますが(^^;))。
B.エジプト学者の見解は、決して一枚岩ではないこと。上述の1.2.で挙げた説は、ほとんどがボーヴァルのオリジナルではなく、何らかの理由で多数派は形成できなかったにせよ、正統派のエジプト学者が唱えていた説であること。
ABの両点について、『神々の指紋』『創世の守護神』と比較してみてください。
--------------------------------------------------------------------------------

内容の検討
オリオン信仰・シャフトの角度
さて、『オリオン・ミステリー』の内容に入りますと、上述の1.2.は、「異端」と呼べるかどうかもわからないもので、正統的な学問の論議の枠内に十分に収まります。正しいかどうかは別問題ですが。
3大ピラミッドの配置
3.は、『オリオン・ミステリー』の中では、最もセンセーショナルなトピックでしょう。確かに写真ではよく一致していますが、これが偶然ではないとするボーヴァルの仮説は、「異端」の説に含めることができます。これに関して彼を支持するエジプト学者はほとんどいないでしょう。仮説としては成り立つとしても根拠薄弱であることは間違いありません。
たとえば、小さな第3ピラミッドはきわめて急いで作られたとする「通説」にとって有利な点として、第3ピラミッドの方位の誤差が第1・第2ピラミッドの誤差に比べてずっと大きい、などが挙げられます。

第3ピラミッドの大きさが小さすぎることも、ボーヴァルの説にとって不利な点です。ピラミッドの面積が、三ツ星の各星の明るさと比例関係にあるとしたら、右端の星は左端の星より1.5等級ほど暗くなければなりませんが、実際はそれほど暗くありません。

それから、「三ツ星」以外の星とギーザ以外のピラミッドが対応していない点も、ボーヴァル説の大きな弱点です。対応はある、とボーヴァルは主張するのですが、ギーザのピラミッド=三ツ星、と同じ縮尺で合わせようとすれば、全く対応していないことは明白です。
位置が北東〜南西方向に並んでいるのは、たとえば春分・秋分の日の日の出時に、東のピラミッドの影がかからないように配慮した、という説明も可能です。第3ピラミッドは十分な大きさを作るだけの時間的余裕がなかった、と見れば済むことです。

とはいえ、この「異端」の説が正しいとしても、「正統派」のエジプト理解を根底から覆すような必要はないことも押さえておく必要があります。

なお、『神々の指紋』下巻p.106 では、 「ボーヴァルのその後の研究の成果は、数学者や天文学者から全面的に支持されている」 とありますが、支持している「数学者や天文学者」の名と所属を一人でもいいから、明らかにしてほしいものです。

40タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:30
(コピペつづき。↓見れば分かるとおり、「南中高度」の話はボヴァール説批判の{{{{{一部}}}}}に過ぎない。)

10450BC
さて、問題の4.ですが、これは完全に「トンデモ」説です。
1.2.では文献史料やノイゲバウアー&パーカーのエジプト天文学に関する研究書なども用いて地道に論を進めていてそれなりに説得力があり、3.では奇抜な着想に驚かされますが、4.はただ単にぶっ飛んでいるだけです。

なんといっても、南中時の角度まで正確に一致する年代がピラミッド基本計画の作成時、であるとする説を裏付ける根拠が全くありません。『オリオン・ミステリー』pp.107,121で示される古代エジプト壁画の三ツ星を見ても、ただ星を3つ並べればそれで良かったようで、角度まで考慮しなければならない理由はどうみても史料上には存在しません。

歴史的には、12000年前に天文学を発達させるような文化は存在しなかった、と言ってしまえばそれきりです。

低すぎる高度
天文学的な弱点もあります。1.で述べられた「オリオン」や「シリウス」に対する信仰、というのは、「4500年前すなわちピラミッド時代のギーザ(北緯30゜)」の星空でのもとです。星空そのものは、「現在の日本」「現在のエジプト・ギーザ」とそう大きな差異はないので、私たちにも何となく理解しやすいでしょう。
しかし、「10500BC のギーザ」の星空になると、だいぶ様相が異なります。三ツ星の左端の星(ζOri)の南中高度は、9.5゜(『創世の守護神』下 p.159)ということですから、オリオンの四辺形の下辺の星(リゲル、サイフ)の南中高度は2〜3゜くらい、上辺の星(ベデルギウス、ベラトリクス)でも、20゜に達しません。現在の北緯35゜における南中高度で比較すれば、ベテルギウスの高度でも、現代日本におけるアンタレスはおろかフォーマルハウトより5゜以上低く、三ツ星は同じくさそり座の最南よりさらに低く、つる座の2つの2等星と大差ない高度になります(「つる座」ってご覧になったことあるでしょうか?)。

南中高度が低いということは、それだけ大きく見える、ことになりますし、現在の京浜京阪あたりでカノープスを見るのと同じで稀少価値も出てくる、ということがあるので、そのころ見てもそれなりに目立ってはいるでしょうけど、それでもあまり長い間見えるわけでもなし、天空を旅する、というイメージとはかけ離れた南天を擦るような星座です。特別なモニュメントが作られるほど信仰されるとは考えにくいでしょう。

さらに、シリウスの南中時高度も2゜弱です(『創世の守護神』下 p.159)。これも地平線を擦っていくだけです----明るいから目立つことは目立つでしょうが。こんな「シリウス」と「オリオン」が星辰信仰の中心になったり、ピラミッドなどという大モニュメントの配置の下になったりする、というのはきわめて考えにくいことでしょう(まだ、疑問の残る人は夜、外に出て、低空のケンタウルス座がどのように見えるか、自分の目で確かめてみてください)。

ボーヴァルの説は、ピラミッド時代においては成り立ちますが、10450BC にはとても通用しません。「現在の北半球中緯度」の星々のイメージで話を進められていくと何となく納得してしまいそうになりますが、注意が必要です。

後で詳しく述べますが、もし、12000年前に北半球に超古代文明が存在し、そこに星辰信仰があったのなら、まず間違いなくヴェガ(織女)がその信仰の中心になっていたでしょう(南天ならカノープス)。あれだけ明るい星が天の北極から十数度離れたところで一晩中輝いていたのですから。

41タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:40
>>37
そういう「どっちもどっち」という態度(相対化)はいっけんもっともらしいのですが、多くの善良な方がそのような曖昧な態度に終始するからこそ悪質な擬似科学が世にはびこることにもなるのです。
紹介サイトに書かれていることは、それほど高度でもなんでもありません。普通の読解力があれば誰でもわかることです。
それでもなおハンコックについて評価を保留するというのは、疑似科学の被害を拡大することに寄与することはあれ、自他に対して一利もないことです。
サイト作成者が書いているとおり(>>34も参照)、「事実」(つまり知識)によって批判できるところは多少大変ですが、そういうト本や疑似科学本は単に内容が論理的に矛盾していることも多いですから、そこをじゅうぶん目をこらして読む努力は誰でもすべきです。
ハンコックの本自体は「悪質」とまではいえないでしょうが、この程度のインチキにはすぐ気づく教育が必要なのでしょう。学校はあてにならないから社会的啓蒙を広げるしかありません。

42タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 17:24
それとやや筋はずれの問題ですが、該当サイトの筆者とボヴァールとの立場は非対称ということです。
ボヴァールは積極的に自己の説を展開しているのに対し、サイト作者はあくまで「批判」的な位置にいます。批判者側は相手の立論に対する反証をあげ論を突き崩せばいいのであって、それ以上なにか積極的に主張する必要はありません。
パンプキンさまがボヴァールやハンコック側に立つ以上、彼らの論を積極的に証明できなければ、該当サイト筆者への「反論」にはなりえないのです。
ト学者や擬似科学者は、えてして、この非対称性を無視して、
「われわれの論も絶対ではないが、批判者の論も絶対ではない。どっちもどっちである。だからわれわれの論が間違いだとはいえない」
といった「相対化戦略」でけむに巻くのです。
世の「定説」なるものも、もちろん厳密にいえば絶対ではありませんが、多くの証拠を積み上げ、自然な推論を潜り抜けて成立しています。「定説」に反する説を立て、ひとびとに納得させるためには、それと同様の多くの証拠や推論をくぐりぬけなくてはなりません。
「神々の指紋」はそうした学術的手続きをないがしろにし、事実を無視したり飛躍した論理を展開したりしているようですから、「どっちもどっち」などというレベルでさえありません。

43タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 17:30
さらに補足としていうと、該当サイト筆者の批判の直接の目標はハンコックでありボヴァールではないことです。ボヴァールの説はハンコックが利用しているという文脈上取り上げたのであって、完全なトンデモであるハンコックとは区別してます。
かりにボヴァールの説が完全に正しいと仮定しても、それでハンコックがトンデモでなくなるというわけでもないのです。
「南中高度」の話がいかに枝葉末節のことであるか、これでご理解いただけたと思います。

44パンプキン:2004/02/17(火) 09:21
>タチバナさま

わかりやすい解説ありがとうございます。
自説を展開している本と、その批判本とではその性質上、非対称であること、
そこから来る批判本に反論する場合の注意点というものも、よくわかりました。

まあ、最初に「ハンコック氏が嘘つきである」という表現に接したときはちとショック
だったのですが、読んでいくうちに最初のショックに見合うような批判がないような
印象があったのです。学術的手続きをないがしろにしたとか、飛躍した論理を展開し
たりしているというのは、ハンコック氏の科学者としての資質の欠如(またその理論
の科学性の欠如)を言い表すものとして適切かとは思うのですが、「嘘つき」という
言葉にはもっと悪質な響きがあります。それは『神々の指紋』本文の一語一句、
100%を否定させるだけのインパクトがありますよね。そして上記サイトの全文を
読んでみたのですが、「嘘つき」に匹敵する部分が見つからないのですよね。
明らかにハンコックの「誤解」と言える部分があったにしろ。

そこで
>紹介サイトに書かれていることは、それほど高度でもなんでもありません。普通の
読解力があれば誰でもわかることです。

このサイトが展開している論理は確かに読めばわかるのですが、これはこのサイトの著者
が「嘘つきではない」ことを前提としていますよね。
このサイトの著者の書いていることが「嘘ではない」と理解するには、それこそ普通の
読解力ではダメなんですよね。
「ハンコックが嘘つきだ」と言われると、「そうか、こういう事柄はうのみにしちゃいけ
ないんだ。嘘をつく人がいるんだから」となるわけで、そうすると批判本もうのみにする
わけにはいかなくなってしまう。(笑)まあ、「知識がないからこのサイトの言ってるこ
とがよく理解できない」というのはそういう意味合いなのです。

45パンプキン:2004/02/17(火) 09:21
また、南中高度の話が枝葉末節のことであるというのは、おっしゃる通りだと思います。

なぜここにこれほどまでに私がこだわるかといいますと、個人的に『神々の指紋』につ
いては「古代人の信仰」とか「知恵」とか「表象の技術」というものに一番関心がある
からで、それは南極の文明などの事柄と違い、これらのことは(自分的には)旧約聖書
を読み解く上で非常に関連が深い部分と思っているからだったりします。
で、上記サイトのこの部分に、著者の古代人の信仰観というものが現れていたので
ちょっと突っ込んでみたのであります。

まあ、反論として公の掲示板に書くには、タチバナさまのおっしゃるような手続きを
踏まなければ反論にはなり得ないことがわかりました。

46パンプキン:2004/02/17(火) 09:22
困ったことに、私は擬似科学本と言われる本がけっこう好きなんですよね〜。というより、
正確には私が「これいい!」と思った本は、周囲からトンデモ本と言われている場合が
多いのです。(笑)
擬似科学本の多くは、宗教的な思想を含んでいます。そこがミソなんですよね。擬似科学
本が世にはびこる理由としては、私のように「科学的な立証なぞは興味がなく、そこから
引き出される概念(思想)に興味がある」という人間が、世の中にけっこういるからで
はないかと思います。

宗教と科学は決して対立するものではないけれど、同じ土俵で論じられるものでもない。
でも、宗教に足を突っ込んでいる人間も、科学と全く別々に歩むのではなく、宗教的な
思想に科学の裏付けがあればもっと素晴らしいとも思っていると思います。そこに、
擬似科学本が歓迎される土壌があるような気がするんですよね。あるいは、科学の裏付
けという消極的な姿勢だけでなく、科学的事実をもとに、宗教的な思想がもっと発展す
る部分もあるといいますか。

擬似科学本に宗教的な収穫を求めている人間は、著者の論にちょっとくらい科学的欠陥
があってもおそらく気にしないでしょう。「まだ科学と言えるほどの十分な証明ができ
ていないだけだ」「しかし事実は事実として認め、そこからなんらかの解釈を引き出さ
ねばならない」と思うわけですから。科学者にとっては重大なことでも、多くの読者に
とっては重要ではないことがあり得るわけです。むしろそこから引き出された新しい概
念に惹きつけられるわけです。多くの人はエンタテーメントとしてこうしたトンデモ本
を読んでいるでしょうが、面白いトンデモ本というのは、思想的な方向性を持つからこ
そ面白いわけです。

しかし、「著者が嘘つきだった」となれば、話は全然別です。宗教的収穫を求めて読む
人間は、科学的理論の展開に欠陥があったとしてもあまり気にしませんが、著者が嘘つ
きかどうかは大いに気にします。それは、嘘つきだったら、その本の思想的価値そのも
のもゼロにしてしまうからですね。

トンデモ本を見抜く目を養うのは、難しいですね〜。ところで、一般にトンデモ本と
評価されている本って、他にどんなのがあるんでしょうかね?どこかにいいサイトが
あるかしら。調べてみようっと。


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