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なぜ、カインの捧げものを認められなかったのか?

21パンプキン:2004/02/05(木) 16:53
私の質問に対する答えをいただいたのかな?と思いますので、レスしようと
思ったのですが、頭が悪いもので、オッカムさまの書き込みが十分理解で
きたとは言えません(^_^;
しかし、「聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです」というくだりは、なかなか
センセーショナルですね。(^^;まあ、先日新聞に載っていましたイタリアにおける判決、
つまり不妊治療におけるクローンの禁止や、受精卵の凍結禁止や第三者の精子による
受精卵を他人の母胎に植えることの禁止、あと同性愛者同士の結婚の禁止などはそうした
闘いのひとつということなのでしょうか。
しかしオッカムさま自身も述べておられたように、
>神の絶対的主権性,絶対的恣意性を強調するのは,確かに危険だ。神=アサハラ
>ショウコウという曲解をもたらしかねない。
という危険性は、やっぱりあるんですよね。何しろ、神の制定された法の中心となる
もの(神への愛と隣人愛)を中心にすることを忘れると、とんでもないことになりま
すし、神の法と矛盾するかどうかを判断するのが人間という絶対ではありえない存在
であることを考えると・・・。
バイブルカルトにも通じる問題ですね。
それでも、「神はいかなる存在か」ということは常に考える必要があり、それが
「私を見たのは、父を見たのです」といわれたイエスの人格から垣間見られるもの
であると考えるならば、自然法というものは神の法の、程度が弱まった形(不完全な形)、
あるいは雛型のようなものと考えることができますね。ベストではないにしろ、
セカンドベストというべきで、まあ「最終的なものではない」ということには同意
するものであります。
人間の理性の中には、自己が起源のものもあれば、神が起源のものもあるでしょう。
すべてが相反するものでもないのでしょうが、しかし自分の理性が神を起源にして
いる(よく祈ってもいないで)という思い込みにはゆめゆめ注意しなければなり
ませんね。


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