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なぜ、カインの捧げものを認められなかったのか?

1ダイボン:2004/02/05(木) 15:43
フランシスさん、また質問させていただきます。
創世記の、カインとアベルが捧げものを捧げる箇所ですが、
なぜ、カインの捧げものを認められなかったのでしょうか?
よろしくお願いします。

22タチバナ@灰羽連盟:2004/02/05(木) 17:08
>19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。

ぜんぜん意味わからんですね。自然法が虚構であろうがなんだろうが、現代法学で完全に捨て去られてたりしてますかね。
カント、ダーウィンを出してくる脈絡も私にはまったく理解できないですが。なんで適者生存という生物学理論(仮説)が法秩序と関係あるのかしらん。ひとむかしまえの社会進化論の誤謬を思い出させます。
>秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。
もちろんカント倫理学からこんな妙な結論は出てきません。カントの「定言命法」はまさしく無条件な(普遍的な)倫理を指すからです。
カントはよく「相対主義者」が利用したりしますが、私はカントは元来反「相対主義」の立場だと思う。そうでなければあれだけ「純粋(無条件)」にこだわるはずがない。

23オッカム(騙り):2004/02/05(木) 20:14
 私が何者であるかは,バレバレでしょうが,敢えてこのスレッドでは,別ハンドルを使いましょう。
 何で,「神学の場で,法哲学の話になるの?」と思われるかもしれませんが,神学・信仰と法哲学・法律学は,かなり近い関係にあります。
 それから,このような問題は,本当は参考文献を熟読しなければならないのですが,ちょっと気力が続かないので,力を入れた書き込みは,後日とします。
 まず,「自然法」ですが,「国会とか国王とか人民(憲法制定権者)」とかが定める法(実定法)を超えた法,とでも定義しておきましょう。「超えた法」ですから,「自然法に反する実定法は無効」なのです。例えば,国王とか人民とかが憲法(実定法)で,「ユダヤ教徒は見つけ次第ぶち殺せ。ぶち殺さないものは死刑に処する」と制定しても,「自然法違反だから無効」というのが自然法論者の言い分です(つまり,「宗教ガ違ウト言ウ理由ダケデ隣人ヲ害シテハナラナイ」とか「人ヲムヤミニ殺シテハイケナイ」いう自然法がある,ということですね。)
 これに反対する考え方が,「法実証主義」です。「自然法なんてない。実定法を制約するような(実定法を超えるような)ものは存在しない,という考え方で,上記のような「異教徒ぶち殺し法」も「有効」です。
 さて,問題は,「自然法なんて,条文集があるわけじゃないのに,どうして,自然法の内容を認識できるの? 自然法があるという根拠は何なの?」と言うことになります。いろいろな考え方(有力なのは社会契約説)がありますが,一番由緒正しいのは,「カトリック法哲学」です。
 この「カトリック法哲学」というのが,かなりのくせ者なのです。「十戒・旧新約律法」にその淵源・条文を求めるのならば,話は直線的で,明解です。しかし,連中はそうは言わないのです(聖トマス。古代教父がどう言っていたかは文献を読まないと分からない)。
 人間は,「神の存在」「神による特別啓示(聖書)」を抜きにしても「理性」とか「良心」とか「事物の本性」とかそういったもので,自然法を認識できるのだ! と言うことです。だから,無神論者や仏教徒でも自然法を認識できるわけです。
 で,バルトとか,富井先生とか,私ことオッカム(騙り)は,「そういう理性主義・主知主義」は突き詰めれば,「無神論になってしまうぞ。『神の全能性』のテーゼを放棄することになってしまうぞ。神を制約する『自然』とか『理性』とか言うものを仮設していいのかね?」と言っているわけです(かなり極端な単純化ですが)。

>それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然
>法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無
>効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。
 と言う,富井先生の極端な物言いは,こういう考え方が背景にあります。
 この問題は,ロマ書1・20を巡って,「神学プロパー」の問題にも深刻な影響を与えています。ご承知の方もいると思いますが,バルト対ブルンナーの論争です。
(続く)

24続き:2004/02/05(木) 20:42
>>「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言
>>うことになってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。
>どうして気持ち悪いんでしょう?(真面目な質問)

 気持ちの悪さを説明するのは,結構骨が折れます。どうしても「自然法論」と「法実証主義」の話になってしまうので,その辺は,ご容赦ください。
 「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といったものは,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれています。それは,「自明」ですよね。そして,そのような「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」は,クリスチャン以外でも持っていることはもちろんです(それは,「神−ヤハウェ−を淵源とする一般啓示だ」,という考えもありますが,寄り道になるので,この辺は別に書く)。
 「法実証主義」というのは,「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といった,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれているものをワザと「法的思考原理」の外に置くのです。ガビー氏お得意の「現象学」流に言えば「括弧に入れる」ということになりましょうか?
 このような「法実証主義」は,ある意味単純明快で,(論理は飛躍しますが)「聖書字義信奉者」と思考形態が似ています。「法トハ主権者ノ意思デアル−オースティン?」「『主権者ノ意志ニ従ウベシ』と言う根本規範を措定すればそれで良いのだ。ケルゼン」。
 「聖書ニ書イテアルカラ,ソレハ,神ノ言葉ダカラソレデイ良イノダ」と言うのは,良く似た思考形態でしょう。

 このような考え方(法実証主義・聖書字義信奉主義)は,単純明快であると同時に,どーーーしても「人工的・技巧的思考」となってしまいます。だって,「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といった,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれているものは「自明」でしょう? 
 これで,「実証主義者」・「聖書主義者(と敢えて自己にレッテルを貼っておく)」の私ことオッカムが心の中に抱く「気持ちの悪さ」は分かっていいただけるのではないでしょうか?

25パンプキン:2004/02/10(火) 08:04
レスありがとうございました。
うーむむずかしいですね(^^;何度も読んでみたのですが。

オッカムさまは実証主義者であるのですね。で、実証主義者は主権者の意志に従う
べしとする。たとえそれが我々の理性や良心や公平原理と反しようとも。というわけ
ですね。
うーんまとはずれなことを言っていたらごめんなさいなのですが、主権者を、私たち
は選ぶことができるわけですよね。まあ日本なら主権者は国民のはずですが、首相と
かは一応国民の選択ということになっていますし。従うことのできるような主権者
(理性や良心や公平原理と反しない主権者)を選ぶことも、大事ですね。
神様でいえば、理性や良心や公平原理に反しない神さま(宗教・教義)を選ぶという
ことも、同様に大事かと思われるのですね。

こういうと神様は人間が存在する前から存在する唯一のお方であり、人間が選ぶも
選ばないもないと、言われるかもしれないのですけども、世界というものは存在
しても、人間が認識しない限り、その人間にとっては存在しないと同じことです
ものね。世界観も神観も、つまるところその人間が作り出すものでもあるわけ
ですね。こういうの、何主義というのかわかりませんが(^^;

人間には、神の存在を受容する自由も否定する自由も与えられていると思うの
ですが、同時に神観(教義)を選ぶ自由も与えられているような気がします。
残酷でもありうる神を選んだとしたら、それを作り出したのは他ならぬその人
でもあるわけですから、「自然法に縛られない神」を想定し、それに基づいて
行動した場合、責任はあくまでその人間にあるのではないかと。(たとえ「神
に命じられた」としても)

私が上記のような質問をしましたのは、まさに

>(それは,「神−ヤハウェ−を淵源とする一般啓示だ」,という考えもあり
>ますが,寄り道になるので,この辺は別に書く)。

という考えを私がもっているからで、どのような気持ち悪さがあるのかな、
と思って質問させていただいた次第です。

26パンプキン:2004/02/10(火) 08:04
ちょっと脱線するのですが、旧約聖書といって思い出すのは、一昔前流行り、
私も夢中になってしまった(^_^;グラハム・ハンコック『神々の指紋』という本
です。まあこの本がトンデモ本かどうかということは別として、私がとても
面白いなと思ったのは、古代の人々は、天体などの法則をはじめ、ある概念を
次の世代に残し伝えるときに「神話」という形をとったということですね。
そのまま天体法則などを伝えればすぐに忘れられてしまうけれど、神話という
形ならもとの形に近いままで後世まで口述されて残されるわけです。ある意味、
「情報のコード化」というようなものが行われていたのではないかという考え
が主張されていました。

古代の人々の神話を私たちは「非科学的だ」といって時に馬鹿にしたりもする
わけですが、実は古代の人々の科学は私たちが思うよりもっと発達しており、
ただ同時に「神話化」「表象化」という技術も持っていたがゆえに、私たち
にはコード化された情報のみが残された。ところが、表象化の技術をもたない
私たちは、コード化された情報をもとに戻すことができない。そこでコード、
つまり「神話」だけを見て「非科学的だ」と判断しているということも考え
られるわけです。

旧約聖書をこれにあてはめると、旧約聖書の言葉もまた、古代の人々が、
(霊感によってであれ、そうでないのであれ)ある事柄を伝えるために
「神話」という媒体を使った、という考え方も成り立つわけですね。
私たちに残されているのは、いわばコード化された、概念を運ぶために
用いられた乗り物としての言葉であると。そう考えると、その「物語」
ひとつひとつの文字通りの字義的な意味よりもむしろ、そこに乗せて
伝えられた概念に注目する必要があるのかな、と思ったことでした。
これもひとつの聖書の読み方になるのではと思います。

27タチバナ@灰羽連盟:2004/02/10(火) 09:30
>オッカムさまは実証主義者であるのですね。で、実証主義者は主権者の意志に従う
べしとする。たとえそれが我々の理性や良心や公平原理と反しようとも。というわけ
ですね。

いったいどこをどう読めばこうなるんだろう・・

28タチバナ@灰羽連盟:2004/02/10(火) 09:43
ああ、そうか。
「法実証主義」→「実証主義」(???)
という流れになっとるのね。
ただの「実証主義」と「法実証主義」は異なるはずですが、それをごちゃまぜにしているわけだ。
「法実証主義」=「聖書字義信奉主義」という図式もむちゃくちゃだけど。

29パンプキン:2004/02/10(火) 19:47
げっわたくし、なんか激しく勘違いしとりますか?

えーとオッカムさまは「主意主義」ですよね。
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛られる
ことは,論理上ありえない

わけですから、少なくともオッカムさまは自然法論者ではない。
ここまではよいのでしょうか?(^^;
自然法論者と反対するのが法実証主義ということなので、そう思ったわけです。
しかし「実証主義」と「法実証主義」が違うとなると、お手上げです(^^;実証主義
の定義がここにはないもので・・・。
まあ、背景知識がないもんで、難しいです。

あと、2番目の書き込みはスレ主さんのアベルとカインの話の流れ
で出てきた、旧約聖書の捉えかたに関するひとつの話題でした。

30タチバナ@灰羽連盟:2004/02/11(水) 09:15
あ、いえいえパンプキンさまはおかしくないです。
オッカム氏の脈絡のない日本語が、私にはまったく解読できないだけです。

はげしく単純にいうと「法実証主義」は一元論で、実定法しか法と認めないわけです。実定法の正否を判断する別の基準を認めない。
逆にいえば、いまある法はいつでも変更可能ということになります。
「聖書字義信奉主義」は申すまでもなく、聖書の一字一句を変えてはならんという立場。
これでなんで「法実証主義」と「聖書字義信奉主義」の思考形態が似ている、なんて言えるんでしょうねえ???

31タチバナ@灰羽連盟:2004/02/12(木) 18:13
「神々の指紋」は他人の業績をつきはぎして作っており、ト本の中でもかなりレベルが低いのですが、いちおう以下のような批判ページがあります。ご参考までに。

http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/index.html

32パンプキン:2004/02/14(土) 08:13
>タチバナさま

面白いサイトのご紹介ありがとうございます。つい、全ページ読んでしまいました。(笑)

まあ、「神々の指紋」がトンデモ本であるとしても、門外漢の私にはこれを読んでしても
判断する能力がなく、(どちらが本当のことを言っているのか、根拠を確かめるすべも
能力もなく)どちらにも「なるほど」と思うしかなく、それが「言いくるめられている」
というレベルであることは変わりないのですが。(^^;

ただひとつ私が自分で判断できるレベルで「ん?」と思ったのは、例えば「オリオン・
ミステリー」で南中高度が低いとか、明るさがそれほどでもないという理由から古代の
人々の信仰の中心になっていたとは考えにくいという批判は、説得力が乏しいとは思いま
した。明るければ、目だってさえいれば古代の人々の信仰の対象になったとかいうのは
どうも古代の人々を単純にとらえすぎているのではないか、と。
もっと表象的なものとしてとらえていると考えることもできるわけですから。
配置とか、方位とか、そういうものの方が重要だったと考えることもできるわけです。

まあ脱線するのであまり話を突っ込んでもなんですけども、
しかしこの本は最終的に「終末論」を展開していますから、このようにトンデモ本に
分類されていることは、いいことかもしれません。(^^;
終末論を強調しすぎると、いいことないですからね。
どうせ「概念を運ぶ乗り物としての言葉(神話)」に着目したのなら、この終末論
そのものも、何かの概念を運ぶ乗り物(表象)と捉えることもできるわけなのに・・・。

一方で紹介いただいたサイトの「大槻義彦『神々のトリック』」だけは聖書の話なので
執筆者の論旨の展開が裏づけを伴って完全に理解でき、非常に楽しめました。

33タチバナ@灰羽連盟:2004/02/14(土) 09:39
あのサイト、ちょっと読みにくいですよね。目次をもっと整理すればいいのに・・

>ただひとつ私が自分で判断できるレベルで「ん?」と思ったのは、例えば「オリオン・
ミステリー」で南中高度が低いとか、明るさがそれほどでもないという理由から古代の
人々の信仰の中心になっていたとは考えにくいという批判は、説得力が乏しいとは思いま
した。明るければ、目だってさえいれば古代の人々の信仰の対象になったとかいうのは
どうも古代の人々を単純にとらえすぎているのではないか、と。
もっと表象的なものとしてとらえていると考えることもできるわけですから。
配置とか、方位とか、そういうものの方が重要だったと考えることもできるわけです。

それでは反論になりえません。どういう意味でどのように「配置とか、方位とか、そういうものの方が重要」であったかを具体的に立証しなければなりません。
ただの憶測でなにを言ってもいいのなら、ト学説とまともな学説の区別はできなくなります。
古代人が現代人よりも高度な「科学」(???)をもっていたと主張するためには、単にあれこれの「解釈」によってではなく、誰でも納得するに足る明確な証拠がいります。
古代人は現代の「文明人」よりももっと高貴で文明的だった!という意見は、さかのぼればルソー以来ある、大戦後うんざりするほど量産された逆立ちしたヨーロッパ中心主義ですが、依然「解釈」レベルの問題でしかない。

34タチバナ@灰羽連盟:2004/02/14(土) 10:08
以下、同サイトの
http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/fog_b013.html
からコピペしました。
ト本や擬似科学本を読む際の注意となるでしょうから、ご紹介しておきます。いちおう「啓蒙屋」なので。
まあ、慣れると読まないでも中身がアレだってすぐわかるようになりますけど(笑


>知らず知らずに取り憑かれる

>この本が大ベストセラーになった一つの要因としては、前例のないほど悪質な嘘・歪曲が挙げられるでしょう。内部矛盾を突くことは論理的訓練を積んだ者にとってはさして難しくなくても嘘を見抜くには知識が必要です。
私が一番危惧しているのは、この本について全体としては否定的な立場を取りながらも「エジプトに関してはもう少し定説を見直す必要があるのではないか?」とか「『神々の指紋』は地殻移動説など自然科学の側面からは否定できるが、考古学・文献学についてはその指摘は正当だろう。」というように、この本を「部分的に」認めてしまう人たちです。また「どっちもどっち論」に立ってしまっている読者も少なくないと思われます。

>そうした人たちから「憑き物を落す」には、やはり一つ一つ具体的に指摘していくより方法はないと思います;執念深いとかねちこいとか言われようとも(^^;)。

>具体性なく反論しようとするのは、ろくに読んでいない人たち(実は上述の「部分的に認めている人」も入る可能性がある)のやり方ですが、こうすると往々にして「わけのわからない文明論」に陥ってしまいます。「物質万能主義を信じる者=考古学者」とかトンデモない方向に議論が発散してしまうのです。実は、こうした抽象論に入ることこそ疑似科学者の思う壷なのだと理解しておいてください。「知ったかぶりは危険」というのは疑似科学に対する場合も有効です。

35パンプキン:2004/02/15(日) 17:31
>タチバナさま

そうですねえ、反論には確かになってませんが(^^;;;

素人が想像するに、古代史の研究というのは、遺跡などから証拠を見つけて、それを
積み上げてコツコツ推論、実証、という形になっていくんだと思うのですが、
例えばですよ。こんなことを想像してしまうのです。今ある教会が、聖書などの
文献なしに、そのまま後世に残ったとします。それをもはや現代の教会の状況など
知りえない遠い未来の人々が発掘したとしたら、彼らは教会など信仰の場である
建物のいたるところに十字が刻まれているのを見て、なんて思うのかしらって。
「当時は十字架信仰が行われていた」とか。あるいは南十字星の見える場所であれ
ば、南十字星信仰と思われるとか。
(ま、イエスさまがついている像もありますけど(^^;;)

あるいは現代でさえ、プロテスタントの牧師がある日カトリックの礼拝堂を訪れ、
そこにマリア像や聖人像を見つけ、「カトリックの人たちはマリア崇拝、聖人崇拝を
している」と思ったりすることもあるわけですよね。しかし実際それらはあくまで
表象、マリアさまや聖人たちであれば、彼らの「従順、純潔、慎み」などの人格、
徳を表現し、信者さんたちがそれを目指す目標としての対象だったりするわけです。

同様に、古代の人々の神殿に太陽が描かれていたから「太陽崇拝」だとか、月が
描かれていたから「月信仰」だとかいうことは、一概には言えないと思うのです。
これも、もしかしたら目に見えない唯一神を信じていた人々の、唯一神の
表象としての太陽であり月であったかもしれません。

何が言いたいかといいますと、信仰という事柄について、後世の人々が遺跡など
から証拠を見つけ、その現物から当時の信仰について推測をめぐらすということ
は、とても難しいものなのではないかということですね。目に見える事柄からし
か、推測ができないからです。太陽崇拝を支持する証拠は、太陽の絵やそれに
むかって人々が拝んでいる絵が次々に発見されさえすればいいことです。でも
「太陽は単に表象でしかなかった」という説は、はなから実証できる性質の事柄
ではないわけです。

で、古代に太陽崇拝や月信仰などが見られた(と考えた)考古学者さんたちは、なぜ
太陽や月が崇拝の対象として選ばれたのかということに思いをはせ、それはやっぱり
一番光輝いており、一番目立ったからではないか、というような発想になってい
るのではないかと、そういう先入観にこの批判している人もとらわれているのでは
ないかと、上記部分の「批判」の話の流れから、感じたわけです。

36パンプキン:2004/02/15(日) 17:31
で、

>どういう意味でどのように「配置とか、方位とか、そういうものの方が重要」であったかを具体的に立証しなければなりません。

については、全然具体的な立証はできません。(爆)
ただですね、「南中高度が低く、明るさがそれほどでもない」だから「信仰の中心に
なっていたとは考えにくい」という論理には、「信仰の中心になるのは、必ず高度が
高く、明るさが際立っている星である」という前提が隠されているわけで、この前提は、
まだ全然立証済みではないと思うわけです。(ですよね?)この前提が立証されてい
ない限り、この論理は成り立たない。(批判としての根拠に乏しい。)そういうもって
いきかたでは、ダメでしょうか?(^_^;

まあ知識のない私には、「論理の組み立て」のようなものに着目することしかできない
もので。

すでに数年前に読んだ本なので詳しいことは忘れたのですが、オリオン・ミステリー
では「3つ」ということが特徴なんですよね。この「3」という数字が現代の
キリスト教とかでも非常に重要な意味をもっていたりするわけで、そういった神学的
な捉えかたから重要だったことも考えられるんじゃないかというひとつの可能性を
考えてみたわけです。(ええ、ええ、ただの憶測ですとも、笑)

37パンプキン:2004/02/15(日) 17:32
・・・とまあいろいろ書きましたが、決して「グラハム・ハンコックさんが嘘つきだ
なんて、信じたくなーい!」というわけではないんです。この方の説をそのまま信用
するなら、まあハンコックさんは科学者とは言えないのはもちろんのこと、(実際、
ジャーナリストのようですが)ある「解釈」の宣伝屋さんだったということになる
わけですね。

嘘つきかどうかまでは、私では判断できませんでしたが。こういう問題は私のよう
に知識のない人間にはつまるところ「どっちの人間が誠実か」というレベルの話
にしかならなくなってしまうんですよね。
上記サイトでは具体例をひとつひとつあげてくださっていますが、「当時はしし座
なんてなかった」と言われても「いや、当時はしし座はあった」と言われても私に
はどうしようもないですから。(^^;

よく幼稚園の子供を持つママ同士でも、「あのママは、こういう嘘を言った
から、あなた、付き合わない方がいいわよ。」という会話を耳にすることがあるの
ですが、最終的には、誰でも彼でも「付き合わない方がいいわよ。」と批判していく
そのママ本人とつきあわない方がよかったりすることもあるのであり(笑)、とにかく
自分にとっては真偽が確認できない「噂」の範疇でしかありえない場合には、どんな
に多数の人にけちょんけちょんにけなされている人であっても判断を保留し、自分の
目で確かめられてから判断するようにしようかと思っているわけです。(喩えが卑近
すぎで申し訳ないです(^^;)
グラハム・ハンコックさんが嘘つきかどうかを自分で判断できるだけの知識を私が
身に付ける日は、おそらく永久に来ないような気がするんですけど・・・。

それでも多数の人に批判されている「科学」本は、「解釈」本として読んだ方が
害は少ないのでしょうね。

38タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:25
>>36
パンプキンさまはなぜか異様なほどに「南中高度」にこだわってますが、
該当ページを読めばわかるとおり(ROMのみなさんも全文読んでみてください)、
http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/fog_b005.html
「オリオン・ミステリー」のある主張への反証はそれだけではありません。
むしろ、それは末節の話であり傍証に過ぎません。
これは初歩的な読解の問題ですから、あえていちいち指摘しなかったんですが、反論してきたので、いちおう応答しました。

39タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:28
以下、コピペしておきます。

オリオン・ミステリー
『オリオン・ミステリー』の主張
ロバート・ボーヴァル、エイドリアン・ギルバート[共著]、吉村作治[監修]、近藤隆文[訳]『オリオン・ミステリー』NHK出版 1995, ISBN4-14-080215-4, ¥2400(原著は1994年)は、『神々の指紋』下巻を支える重要な柱です。
『オリオン・ミステリー』は、全体として見れば、「異端」の本といえるでしょう。『神々の指紋』のような疑似科学(トンデモ)本とは一線を画します。ボーヴァルは、悲しむべきことに後にハンコックと組んで『創世の守護神』を著しますが、共著者の一人がトンデモの彼方へ飛んでいったとしても、『オリオン・ミステリー』がトンデモ本に変わるわけではありません。

『オリオン・ミステリー』は、

1.古王国時代の星辰信仰、とくにオリオン座への信仰をまず述べ、
2.次いで、大ピラミッドのシャフトが2450BC頃のりゅう座α星(当時の北極星)、オリオン座ζ星(三ツ星の左端)、シリウス、に向かっていること、を指摘し、
3.そして、ギーザの3大ピラミッドの配置が、三ツ星と一致していることを示します。
4.最後に、3大ピラミッドの方向が、三ツ星の南中時の角度と一致するのは10500BC 頃であることを示します。
(年代は、『創世の守護神』の数値を出しました。『オリオン・ミステリー』では、若干異なっています。)
--------------------------------------------------------------------------------

『オリオン・ミステリー』から学ぶべきこと
この主張の当否を論じる前に、まず、しっかりと認識していただきたいことがあります。それは、『オリオン・ミステリー』を読めば一目瞭然なのですが:
A.エジプト学者は、ボーヴァルのようなアマチュアの活動にきわめて寛容で積極的に彼に発表の場を与えていること。また、この本の謝辞は、I. E. S. エドワーズ、ジャミール・マレック、ヴィヴィアン・デイヴィス、といった本物のエジプト学者に捧げられていること(もっとも、デニケンの名も挙がっていますが(^^;))。
B.エジプト学者の見解は、決して一枚岩ではないこと。上述の1.2.で挙げた説は、ほとんどがボーヴァルのオリジナルではなく、何らかの理由で多数派は形成できなかったにせよ、正統派のエジプト学者が唱えていた説であること。
ABの両点について、『神々の指紋』『創世の守護神』と比較してみてください。
--------------------------------------------------------------------------------

内容の検討
オリオン信仰・シャフトの角度
さて、『オリオン・ミステリー』の内容に入りますと、上述の1.2.は、「異端」と呼べるかどうかもわからないもので、正統的な学問の論議の枠内に十分に収まります。正しいかどうかは別問題ですが。
3大ピラミッドの配置
3.は、『オリオン・ミステリー』の中では、最もセンセーショナルなトピックでしょう。確かに写真ではよく一致していますが、これが偶然ではないとするボーヴァルの仮説は、「異端」の説に含めることができます。これに関して彼を支持するエジプト学者はほとんどいないでしょう。仮説としては成り立つとしても根拠薄弱であることは間違いありません。
たとえば、小さな第3ピラミッドはきわめて急いで作られたとする「通説」にとって有利な点として、第3ピラミッドの方位の誤差が第1・第2ピラミッドの誤差に比べてずっと大きい、などが挙げられます。

第3ピラミッドの大きさが小さすぎることも、ボーヴァルの説にとって不利な点です。ピラミッドの面積が、三ツ星の各星の明るさと比例関係にあるとしたら、右端の星は左端の星より1.5等級ほど暗くなければなりませんが、実際はそれほど暗くありません。

それから、「三ツ星」以外の星とギーザ以外のピラミッドが対応していない点も、ボーヴァル説の大きな弱点です。対応はある、とボーヴァルは主張するのですが、ギーザのピラミッド=三ツ星、と同じ縮尺で合わせようとすれば、全く対応していないことは明白です。
位置が北東〜南西方向に並んでいるのは、たとえば春分・秋分の日の日の出時に、東のピラミッドの影がかからないように配慮した、という説明も可能です。第3ピラミッドは十分な大きさを作るだけの時間的余裕がなかった、と見れば済むことです。

とはいえ、この「異端」の説が正しいとしても、「正統派」のエジプト理解を根底から覆すような必要はないことも押さえておく必要があります。

なお、『神々の指紋』下巻p.106 では、 「ボーヴァルのその後の研究の成果は、数学者や天文学者から全面的に支持されている」 とありますが、支持している「数学者や天文学者」の名と所属を一人でもいいから、明らかにしてほしいものです。

40タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:30
(コピペつづき。↓見れば分かるとおり、「南中高度」の話はボヴァール説批判の{{{{{一部}}}}}に過ぎない。)

10450BC
さて、問題の4.ですが、これは完全に「トンデモ」説です。
1.2.では文献史料やノイゲバウアー&パーカーのエジプト天文学に関する研究書なども用いて地道に論を進めていてそれなりに説得力があり、3.では奇抜な着想に驚かされますが、4.はただ単にぶっ飛んでいるだけです。

なんといっても、南中時の角度まで正確に一致する年代がピラミッド基本計画の作成時、であるとする説を裏付ける根拠が全くありません。『オリオン・ミステリー』pp.107,121で示される古代エジプト壁画の三ツ星を見ても、ただ星を3つ並べればそれで良かったようで、角度まで考慮しなければならない理由はどうみても史料上には存在しません。

歴史的には、12000年前に天文学を発達させるような文化は存在しなかった、と言ってしまえばそれきりです。

低すぎる高度
天文学的な弱点もあります。1.で述べられた「オリオン」や「シリウス」に対する信仰、というのは、「4500年前すなわちピラミッド時代のギーザ(北緯30゜)」の星空でのもとです。星空そのものは、「現在の日本」「現在のエジプト・ギーザ」とそう大きな差異はないので、私たちにも何となく理解しやすいでしょう。
しかし、「10500BC のギーザ」の星空になると、だいぶ様相が異なります。三ツ星の左端の星(ζOri)の南中高度は、9.5゜(『創世の守護神』下 p.159)ということですから、オリオンの四辺形の下辺の星(リゲル、サイフ)の南中高度は2〜3゜くらい、上辺の星(ベデルギウス、ベラトリクス)でも、20゜に達しません。現在の北緯35゜における南中高度で比較すれば、ベテルギウスの高度でも、現代日本におけるアンタレスはおろかフォーマルハウトより5゜以上低く、三ツ星は同じくさそり座の最南よりさらに低く、つる座の2つの2等星と大差ない高度になります(「つる座」ってご覧になったことあるでしょうか?)。

南中高度が低いということは、それだけ大きく見える、ことになりますし、現在の京浜京阪あたりでカノープスを見るのと同じで稀少価値も出てくる、ということがあるので、そのころ見てもそれなりに目立ってはいるでしょうけど、それでもあまり長い間見えるわけでもなし、天空を旅する、というイメージとはかけ離れた南天を擦るような星座です。特別なモニュメントが作られるほど信仰されるとは考えにくいでしょう。

さらに、シリウスの南中時高度も2゜弱です(『創世の守護神』下 p.159)。これも地平線を擦っていくだけです----明るいから目立つことは目立つでしょうが。こんな「シリウス」と「オリオン」が星辰信仰の中心になったり、ピラミッドなどという大モニュメントの配置の下になったりする、というのはきわめて考えにくいことでしょう(まだ、疑問の残る人は夜、外に出て、低空のケンタウルス座がどのように見えるか、自分の目で確かめてみてください)。

ボーヴァルの説は、ピラミッド時代においては成り立ちますが、10450BC にはとても通用しません。「現在の北半球中緯度」の星々のイメージで話を進められていくと何となく納得してしまいそうになりますが、注意が必要です。

後で詳しく述べますが、もし、12000年前に北半球に超古代文明が存在し、そこに星辰信仰があったのなら、まず間違いなくヴェガ(織女)がその信仰の中心になっていたでしょう(南天ならカノープス)。あれだけ明るい星が天の北極から十数度離れたところで一晩中輝いていたのですから。

41タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 09:40
>>37
そういう「どっちもどっち」という態度(相対化)はいっけんもっともらしいのですが、多くの善良な方がそのような曖昧な態度に終始するからこそ悪質な擬似科学が世にはびこることにもなるのです。
紹介サイトに書かれていることは、それほど高度でもなんでもありません。普通の読解力があれば誰でもわかることです。
それでもなおハンコックについて評価を保留するというのは、疑似科学の被害を拡大することに寄与することはあれ、自他に対して一利もないことです。
サイト作成者が書いているとおり(>>34も参照)、「事実」(つまり知識)によって批判できるところは多少大変ですが、そういうト本や疑似科学本は単に内容が論理的に矛盾していることも多いですから、そこをじゅうぶん目をこらして読む努力は誰でもすべきです。
ハンコックの本自体は「悪質」とまではいえないでしょうが、この程度のインチキにはすぐ気づく教育が必要なのでしょう。学校はあてにならないから社会的啓蒙を広げるしかありません。

42タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 17:24
それとやや筋はずれの問題ですが、該当サイトの筆者とボヴァールとの立場は非対称ということです。
ボヴァールは積極的に自己の説を展開しているのに対し、サイト作者はあくまで「批判」的な位置にいます。批判者側は相手の立論に対する反証をあげ論を突き崩せばいいのであって、それ以上なにか積極的に主張する必要はありません。
パンプキンさまがボヴァールやハンコック側に立つ以上、彼らの論を積極的に証明できなければ、該当サイト筆者への「反論」にはなりえないのです。
ト学者や擬似科学者は、えてして、この非対称性を無視して、
「われわれの論も絶対ではないが、批判者の論も絶対ではない。どっちもどっちである。だからわれわれの論が間違いだとはいえない」
といった「相対化戦略」でけむに巻くのです。
世の「定説」なるものも、もちろん厳密にいえば絶対ではありませんが、多くの証拠を積み上げ、自然な推論を潜り抜けて成立しています。「定説」に反する説を立て、ひとびとに納得させるためには、それと同様の多くの証拠や推論をくぐりぬけなくてはなりません。
「神々の指紋」はそうした学術的手続きをないがしろにし、事実を無視したり飛躍した論理を展開したりしているようですから、「どっちもどっち」などというレベルでさえありません。

43タチバナ@灰羽連盟:2004/02/16(月) 17:30
さらに補足としていうと、該当サイト筆者の批判の直接の目標はハンコックでありボヴァールではないことです。ボヴァールの説はハンコックが利用しているという文脈上取り上げたのであって、完全なトンデモであるハンコックとは区別してます。
かりにボヴァールの説が完全に正しいと仮定しても、それでハンコックがトンデモでなくなるというわけでもないのです。
「南中高度」の話がいかに枝葉末節のことであるか、これでご理解いただけたと思います。

44パンプキン:2004/02/17(火) 09:21
>タチバナさま

わかりやすい解説ありがとうございます。
自説を展開している本と、その批判本とではその性質上、非対称であること、
そこから来る批判本に反論する場合の注意点というものも、よくわかりました。

まあ、最初に「ハンコック氏が嘘つきである」という表現に接したときはちとショック
だったのですが、読んでいくうちに最初のショックに見合うような批判がないような
印象があったのです。学術的手続きをないがしろにしたとか、飛躍した論理を展開し
たりしているというのは、ハンコック氏の科学者としての資質の欠如(またその理論
の科学性の欠如)を言い表すものとして適切かとは思うのですが、「嘘つき」という
言葉にはもっと悪質な響きがあります。それは『神々の指紋』本文の一語一句、
100%を否定させるだけのインパクトがありますよね。そして上記サイトの全文を
読んでみたのですが、「嘘つき」に匹敵する部分が見つからないのですよね。
明らかにハンコックの「誤解」と言える部分があったにしろ。

そこで
>紹介サイトに書かれていることは、それほど高度でもなんでもありません。普通の
読解力があれば誰でもわかることです。

このサイトが展開している論理は確かに読めばわかるのですが、これはこのサイトの著者
が「嘘つきではない」ことを前提としていますよね。
このサイトの著者の書いていることが「嘘ではない」と理解するには、それこそ普通の
読解力ではダメなんですよね。
「ハンコックが嘘つきだ」と言われると、「そうか、こういう事柄はうのみにしちゃいけ
ないんだ。嘘をつく人がいるんだから」となるわけで、そうすると批判本もうのみにする
わけにはいかなくなってしまう。(笑)まあ、「知識がないからこのサイトの言ってるこ
とがよく理解できない」というのはそういう意味合いなのです。

45パンプキン:2004/02/17(火) 09:21
また、南中高度の話が枝葉末節のことであるというのは、おっしゃる通りだと思います。

なぜここにこれほどまでに私がこだわるかといいますと、個人的に『神々の指紋』につ
いては「古代人の信仰」とか「知恵」とか「表象の技術」というものに一番関心がある
からで、それは南極の文明などの事柄と違い、これらのことは(自分的には)旧約聖書
を読み解く上で非常に関連が深い部分と思っているからだったりします。
で、上記サイトのこの部分に、著者の古代人の信仰観というものが現れていたので
ちょっと突っ込んでみたのであります。

まあ、反論として公の掲示板に書くには、タチバナさまのおっしゃるような手続きを
踏まなければ反論にはなり得ないことがわかりました。

46パンプキン:2004/02/17(火) 09:22
困ったことに、私は擬似科学本と言われる本がけっこう好きなんですよね〜。というより、
正確には私が「これいい!」と思った本は、周囲からトンデモ本と言われている場合が
多いのです。(笑)
擬似科学本の多くは、宗教的な思想を含んでいます。そこがミソなんですよね。擬似科学
本が世にはびこる理由としては、私のように「科学的な立証なぞは興味がなく、そこから
引き出される概念(思想)に興味がある」という人間が、世の中にけっこういるからで
はないかと思います。

宗教と科学は決して対立するものではないけれど、同じ土俵で論じられるものでもない。
でも、宗教に足を突っ込んでいる人間も、科学と全く別々に歩むのではなく、宗教的な
思想に科学の裏付けがあればもっと素晴らしいとも思っていると思います。そこに、
擬似科学本が歓迎される土壌があるような気がするんですよね。あるいは、科学の裏付
けという消極的な姿勢だけでなく、科学的事実をもとに、宗教的な思想がもっと発展す
る部分もあるといいますか。

擬似科学本に宗教的な収穫を求めている人間は、著者の論にちょっとくらい科学的欠陥
があってもおそらく気にしないでしょう。「まだ科学と言えるほどの十分な証明ができ
ていないだけだ」「しかし事実は事実として認め、そこからなんらかの解釈を引き出さ
ねばならない」と思うわけですから。科学者にとっては重大なことでも、多くの読者に
とっては重要ではないことがあり得るわけです。むしろそこから引き出された新しい概
念に惹きつけられるわけです。多くの人はエンタテーメントとしてこうしたトンデモ本
を読んでいるでしょうが、面白いトンデモ本というのは、思想的な方向性を持つからこ
そ面白いわけです。

しかし、「著者が嘘つきだった」となれば、話は全然別です。宗教的収穫を求めて読む
人間は、科学的理論の展開に欠陥があったとしてもあまり気にしませんが、著者が嘘つ
きかどうかは大いに気にします。それは、嘘つきだったら、その本の思想的価値そのも
のもゼロにしてしまうからですね。

トンデモ本を見抜く目を養うのは、難しいですね〜。ところで、一般にトンデモ本と
評価されている本って、他にどんなのがあるんでしょうかね?どこかにいいサイトが
あるかしら。調べてみようっと。

47タチバナ@灰羽連盟:2004/02/17(火) 10:24
どうでもいいが、この話、ほかのひとはおもしろいんだろーか(反応ないので不安)。

さて、
>このサイトが展開している論理は確かに読めばわかるのですが、これはこのサイトの著者
が「嘘つきではない」ことを前提としていますよね。
このサイトの著者の書いていることが「嘘ではない」と理解するには、それこそ普通の
読解力ではダメなんですよね。

サイト作成者が「嘘つき」かそうでないかを知るにはむろん事実を知っている必要はあります(ただし、事実と違うことを言っているから即「うそつき」ということにはなりません。それが明確な意図に発してなければ「嘘」とは言えませんから)。
ただ、学術的な手続きに従っているかどうかを判定する基準はあります。引用もしくは参照の際文献をきちんと明示しているかどうかです。サイト作成者が書いていることからするとハンコックはこれを守ってません。明らかに意図的に文献検索をしにくいような記述をしています。
私の経験例でいうと、トケイヤーのいわゆる日ユ同祖論本(邦訳・徳間書店!)を読んだ時に後ろに文献表がありませんでした。それだけでこの本は信用できないなと判断できます。面白いことに訳者のもとへはトケイヤーから大量の資料が送られたとあるのにです。なぜ参考文献表を作成しないのでしょうねえ?
引用元をきちんと明示しているならば、その人がなにをどのように理解しているか、それが正しいかいなかを調べることができます。一般読者がそこまで調査することはないでしょうが、少なくとも第3者によって調査が「できる」状態にある、というのがまともな学術論文の形式です。
トケイヤー本についていうと、私は本文中にあげられていた本を自分で調べてトケイヤーがひとのアイデアをまるまるパクっていることを確認してます。他人の業績を平気で自分のもののようにしているのは、学者としても人間としても最低の行為です。

48タチバナ@灰羽連盟:2004/02/17(火) 10:42
いまゆでたまごを作っている途中・・

>擬似科学本に宗教的な収穫を求めている人間は、著者の論にちょっとくらい科学的欠陥
があってもおそらく気にしないでしょう。「まだ科学と言えるほどの十分な証明ができ
ていないだけだ」「しかし事実は事実として認め、そこからなんらかの解釈を引き出さ
ねばならない」と思うわけですから。科学者にとっては重大なことでも、多くの読者に
とっては重要ではないことがあり得るわけです。むしろそこから引き出された新しい概
念に惹きつけられるわけです。多くの人はエンタテーメントとしてこうしたトンデモ本
を読んでいるでしょうが、面白いトンデモ本というのは、思想的な方向性を持つからこ
そ面白いわけです。

ええと、私は便宜上トンデモ本と疑似科学本を区別せずにいましたが、厳密には違います。
トンデモ学会の定義に従えばトンデモ本とは作者の意図とは関係なくたのしめる本の総体なので、いわゆる擬似科学本も含みますが、それよりも広い外延を持ちます。
さらにいえば、ト学会からすれば、擬似科学批判自体は2次的なもので、外から見て笑うことに重心があり、そのようなスタンスをも込めて「トンデモ」と名づけているようです。
つまりトンデモ本には罪のないトンデモ本もあるわけ。
擬似科学本の場合は違います。それは「科学をよそおって」いる本であり、正しい知識の流通を損なうという意味で社会的に有害です。
間違えてほしくないのは、「疑似科学」は宗教と科学双方の敵だということです。宗教には宗教の領分があり、それを科学が侵犯できない、というのは正論でしょう。その逆もしかりで、宗教が科学を侵犯してもなりません。
互いに足りない部分を補い合うのが最もバランスのとれた状態なのです
宗教書(たとえば聖書)の中に現代科学から見ておかしな記述があったとしても、それ自体は問題ではありません。それをあたかも「科学」的であるかのように語ることがおかしいのです(創造科学は典型的な擬似科学です)。


・・ゆでたまご完了。

49ホスティア:2004/02/17(火) 21:35
 土曜日か日曜日くらいに釈明します。それまで,待っていてください・

50タチバナ@灰羽連盟:2004/02/18(水) 10:20
「釈明」って、なにか罪を犯されたのでしょうか。
よくわかりませんが待ちます。というか、このスレ面白いんだろうか(ひつこい

51パンプキン:2004/02/18(水) 16:49
いや〜、途中から「疑似科学」の話になって、「一匹のひつじ」的には
有益な話題になってるとは思うのですが(本物を見分ける目を養うって
ことで)・・・どなたか興味のある方参加してくださいね〜。
でないとタチバナさまをひとりじめよ。(うふ)

で、「見分け方」ですが、なるほど、「引用・参照文献を明示している
かどうか」というのは素人にもわかりやすい基準ですね。
これまで、いちいち文献表示してある本を「うるさい」と思っていましたが、
これはとんでもないことだったのか。(^_^;

あれからちょっとだけ、「疑似科学」について検索してみました。(ト
ンデモ本とういのは「第3者が笑える」というのが重要なんですね。で
は「擬似科学」という言葉を使うことにします)
超常現象を信じるのは常識の欠如のなせるわざで、「思い込み」という
意味では宗教とおんなじだ、といった、何やらO教授みたいに面白いこ
とを言う方もいらっしゃいましたが(これは擬似科学側の思うツボとい
うことでしたね)
以下は比較的私にもわかりやすいページでした。

http://nova.scitec.kobe-u.ac.jp/~matsuda/psudo/pseudo-science.html

とりあえず、「科学」と呼べるには、論文形式をとって学術雑誌に発表し、科学者
たちの評価にさらされる(同僚評価制度)というステップを通らなければならない
と書いてありました。
タチバナさまのおっしゃる「第3者の調査(評価)ができる状態にある」というこ
とはこれですね。これでいくと、例えば血液型性格判断などは、調査対象や方法、
結果などを科学的論文のルールに従って記述していないために「科学」とは言え
ないということでした。(これは別サイトだったか)

しかしこのページには「啓蒙書」についても書かれていました。血液型性格判断など
の本も、科学ではなくても、啓蒙書には分類されるのかな、と思います。啓蒙書
っていうのは、かなりお気楽に、著者が自説を自由に展開できるんですね。レフリー
がいないという意味では。
で、この「啓蒙書」の中に、『神々の指紋』も含まれ、それは一般読者を対象と
しているがゆえに、科学的手続きの多くを踏んでいない。となると、擬似科学本
というのはほとんどこの「啓蒙書」(本当は啓蒙にはなっていないとしても)に
属するのかなと思いました。

擬似科学本といって検索すると、すぐにUFOとか超能力とかミステリーサークル
とかが出てきてしまうのですが(^_^;私が「これいい!」といってトンデモ本だと
言われた春山茂夫の『脳内革命』とか臨死体験とか出生前心理学(いわゆる胎内
記憶)とかは出てこなかったなあ。これらは擬似科学なんだろうか。
通常科学というものは「事実」を検証するのであって「価値」の分野には踏み込
まないと思うのだけど、これらの本は明らかに「人はいかに生きるべきか」とい
う価値にまで踏み込んでいる(ある方向性を示している)という意味で興味深かっ
たのですが。

52パンプキン:2004/02/18(水) 16:52
っていうか、「擬似科学」という呼称そのものは、内容がインチキだとかいう
意味合いはなくて、内容が正しかろうが間違っていようが、ともかく科学とし
ての正規のステップを踏んでいないということなんですね。
第3者の検閲を通らないので結果としてインチキが多いということでしょうが。

53シジミ蝶:2004/02/19(木) 09:52
>>50
わぁぁん(泣
タチバナさんが来られる前に難しくてわけわからなくなり、
すでにドロップアウトしてますた。
わぁぁん(泣
素晴らしい脳みそをおもちのみなさま、わたしにかまわず、
突進していってくださいましーーー。
わぁぁん(泣

54タチバナ@灰羽連盟:2004/02/19(木) 10:04
パンプキンさま、
サイト紹介ありがとうございます。松田卓也さんはその筋では有名な擬似科学ハンターですね。
科学啓蒙書は有益なのですが、そのなかに「擬似科学」がひそんでいたりするんですよね。一番困るのは、ほとんど正しいのにところどころ不正確なのとか。松田氏がおっしゃるように、啓蒙書は「たとえ」で説明しているから、それを鵜呑みにしないことが大事ですね。

ところで、最近火の洗礼を祈る小羊さんを見かけないんですけど、お元気なんですか。気になってるかたもちらほらいますよ。


シジミ蝶さま、
まあそういわんと気楽に書き込んでくだせえ。
といってもここのスレ主は私ではないんですが。

55パンプキン:2004/02/19(木) 17:06
>シジミ蝶さま

前々からお名前は拝見していますが、はじめまして。(^^)
いえ、途中難しくなっている辺はわたくしも頭悪すぎでついていけてません。(^^;
まあ、せっかく管理人様が「神学掲示板」を作ってくださったことですし、
足突っ込んだ手前閑古鳥が鳴かないようにとせっせと書き込んでいる次第です。

見ての通りあやしいものにひっかかりやすい単純なタイプですが(笑)タチバナ
さまもお手柔らかに相手してくださってますし。

てゆーか、誰も『神々の指紋』なんて興味ないだけか。(^^;;;

>タチバナさま

>一番困るのは、ほとんど正しいのにところどころ不正確なのとか。
これ困りますね。(^^;
今度から食品表示法みたいに、ノンフィクション本にもなにか表示が義務づけられ
るとよいのですけどね。
「科学」(ちゃんと科学的手法にのっとったやつ)、「擬似科学」(科学的
手法にのっとっていない。)、「超常現象科学」(あやしいと思われるかも
しれないが、対象は超常現象でも手法は科学である)「超常現象擬似科学」
(一番あやしいもの)とかなんとか。
誰がどう判断するかっていう膨大な手間を考えると非現実的ですが。

56パンプキン:2004/02/19(木) 17:06
火の洗礼を祈る小羊さんは、私にも消息(^^;不明です。PCが壊れたとこ
までは知ってるんですが、一ヶ月したら復帰するとおっしゃっていたのに
もうじき2ヶ月です。
まあお元気とは思うのですが(根拠なし)、もしかしてネットから脱却し
てしまうくらいの悟りを得られたのではないか、とも思っています。(笑)
いや、それならそれでご本人のためにはよいのですけど・・・。

57パンプキン:2004/02/19(木) 17:07
で、『神々の指紋』を払拭するためにいきなりふりだしの話に戻るんですが。
(スレ主さんはすでにご覧になっていなかったりして(^^;)

私の所属教会では旧約聖書に対して「部分逐語霊感説」をとっておりまして、
同時に「創造科学」といったものとは無縁の解釈をしております。
参考までにどういった捉え方をしているかと申しますと、
アダム以下の人物(ノア、セツ、エノクなど)は実在しなかった。
これは人の名前ではなく、当時の教派の名前であり、その名前の意味する
ところの性質をもっていた、というようなことを言っております。
例えばカインからイラデ、メフヤエル、メトシャエル、レメクなどが
生まれた、というような記述は、その教会から派生した異端(あるいは
分派)の教会のことを言っていると解釈していました。

この解釈で現代のことを言うと、「カトリックからルーテル、バプテ
スト、ホーリネスが生まれ、○百年生きた」というような文章になる
わけですね。

で、3で書きましたような話になるわけです。
最近こうした本を読んだのですが「ほーなるほど」と思い、旧約が
とっても面白くなりました次第です。
原典はもちろん、スエ氏です。あーみんなますます引くかな(^^;

58シジミ蝶:2004/02/20(金) 09:56
ひっくひっく
タチバナさま、あい、泣き止みましたです。すんません。

パンプキンさま、
わあ☆
はじめまして☆
よろしくです。
内容は理解不能ですが、ご挨拶できて嬉しいです。

59タチバナ@灰羽連盟:2004/02/21(土) 18:57
>>55
>今度から食品表示法みたいに、ノンフィクション本にもなにか表示が義務づけられ
るとよいのですけどね。
>「科学」(ちゃんと科学的手法にのっとったやつ)、「擬似科学」(科学的
手法にのっとっていない。)、「超常現象科学」(あやしいと思われるかも
しれないが、対象は超常現象でも手法は科学である)「超常現象擬似科学」
(一番あやしいもの)とかなんとか。
>誰がどう判断するかっていう膨大な手間を考えると非現実的ですが。

これはアイデアとして面白いですよね。
「ミシュラン」みたいなのがあるといいね。最近「エコノミストミシュラン」て経済学者に関する評価本が太田出版から出たんだけど、その自然科学版も欲しい。
私の関心だと、養老孟司さんとかね。専門の解剖学では権威なんだろうけど、その他の発言は非常にあやしげだと前々から思っておるのです・・。こういう大衆啓蒙家は、有益なところもあるし、悪気がないのは明白なんだけど、逆にいうと変なこと言っていてもそのまま通ることがあるのです。

60火の洗礼を祈る小羊:2004/02/22(日) 21:17
皆様に平和。

みなさま、相変わらずお元気ですね。
私のことを心配してくださってありがとうございます。残念ながらネットからはまだまだ離れられそうにありません(笑)。
ISDNのTA故障でADSLに切り替えたら、なんと3ヶ月近くもかかってしまいました。
話の展開や前スレなど読んでいないので、書込みのペースは遅くなると思うのですが、よろしくお願いいたします。

メイン掲示板が荒れているので、みなさんどこに行ったのかなと思っていましたが、こちらにいらしたんですね。
それではごあいさつまで。

61パンプキン:2004/02/22(日) 23:39
>私の関心だと、養老孟司さんとかね。専門の解剖学では権威なん
だろうけど、その他の発言は非常にあやしげだと前々から思って
おるのです・・。

養老孟司さんは、読んだことはないのですが、顔だけはなぜか
はっきり思い浮かびますね。(笑)
『唯脳論』とか読んでみたいです。まあ内容は想像つきますけど。
しかし、専門分野で権威だからといって、オールマイティとは限ら
ないことは、心しておく必要がありますよね。

私は翻訳で仕事をしている人間のはしくれのはしくれなので、
別宮貞徳先生の「誤訳を斬る」シリーズなどはよく読んでいたので
すが、そこにはよく高名な学者さんによる誤訳が俎上にのせられて
います。その道の権威イコール優れた英語力、というわけではない
のは当たり前のことなのだけど、なぜか畑違いの分野でも優れてい
るだろうと、思ってしまいがちなんですよね。
名前に弱いってことですよね。

62パンプキン:2004/02/22(日) 23:42
うわ、子羊さんだっ
お久しぶりです。いやいや、復活おめでとうございます。(^^)
うちももうじき(っていうか半年後くらいかに)ADSLにしようと
思っているのですが、そんなにかかるのか・・・(^^;

もう私とネット集会やるのがいやになったのかと思いましたよ(笑)
っていうか、ひとりになってどうしようかと思いました。

>残念ながらネットからはまだまだ離れられそうにありません
ということで私的にはほっとしています。(笑)
今後ともよろしくです。
(書き込まなかったけど、今日もやりましたよ、ちゃんと)

63タチバナ@灰羽連盟:2004/02/23(月) 09:05
火の洗礼を祈る小羊さま、おひさしぶりです。生きてたんですね(笑
おっしゃる通り、メインが荒れ荒れなので、常連さんはみんな避難しとります。
またまったりスレも増えるといいですなあ。

パンプキンさま、
「唯脳論」はたしかちくま文庫に入ってるんじゃないですか。容易に入手できるかと。たしかに内容が予想つくので私は読まないけど(笑
別宮貞徳さんの本は私も何冊か読んでます。おもしろいですよね。私は英語力があるわけではないのに無謀にも、大学間合同ゼミで昌文社の某書のある章の詳細な誤訳リストを作って発表したことがあります。受けました(笑
学問の世界(とりわけ自然科学)は英語で直接論文書くようなところですから、英語から日本語への翻訳はその分おろそかになるのだろうと思われます。専門語の翻訳が統一されてないこともざらですし。

64火の洗礼を祈る小羊:2004/02/23(月) 21:58
パンプキンさんに平和。
通常どおり、ISDNなり電話回線ネットなりが、繋がっている状態なら、なんら問題ないと思うのですが、切替日を決めてスムーズに移行。
私の場合、TAが故障した状態で、せっかくだからということで切り替えたので、連絡はメールは読めないのに入っているわ、ほぼメールでのやりとりを前提としているので、郵便にしてくれ、といったら、許可がいるとか、大変でした。というわけで故障前の切替をお勧めします。

タチバナさんに平和。
そうですね。chiaraさんとか、アイさんとか、まだいらっしゃるのかな。スレもまだよく見ていないもので。
へっぽこさんは正教に、なんですね。賢明かと思います。スレ主さま、おじゃましました。

65へっぽこ@正教会:2004/02/24(火) 01:36
火の洗礼を祈る小羊 さん
あいたかったよー!!!
「聖書の学びはいっそ教会に行かない方が?」というスレ立てをした時、
小羊さんがいないもんだから、苦戦しまして....ところが

そのきっかけで、正教会さんのHPとのリンクが実現し、
へっぽこも自宅から歩いて10分のハリストス教会に導かれて
しまったのであります。この教会に、りんごさんのいとこがおられる
というのも不思議な導き。(まだどの人か判らない)
神父様のご子息とへっぽこの長女が同級生..

過去スレを見ていたら、小羊さんがへっぽこに、カトかオーソを
薦めて下さっていたことがありましたね。
小羊さんは予言者か?

また新たな交わりをお願いします。

66パンプキン:2004/02/25(水) 07:16
>タチバナさま

いや〜私も駆け出しの頃はプロの翻訳者のチェックばかりやらされておりました
が、誤訳を発見したときのヨロコビはなんともいえないものがありますよね。
他のところが自分で誤訳なしで訳せるかというと、全然そんなことはないんで
すけどね。(笑)

確かに専門用語の統一は甘いと思います。電気関係なんか、辞書で引いた語でも
現場で通用しないとか(^^;ネットで検索すると同じ概念の同じ用語に複数の
日本語があてられていてどっちも同じくらいの頻度で出てくるとか。
日本語の論文なのに、英単語ばかり出てくるという(すごいのになると、英単語
同士を日本語のてにをはがつないでいるような文)のもあったりして。

・・・とまあ、なんだか自動的にまったりしてきてしまいましたね。(笑)

>小羊さま
故障前の切替ですね。わかりました。
パソコンも壊れる前に中のデータ避難させないと・・・

670990:2004/03/07(日) 20:37
ただしくささげないこと・・・つまり聖書の私的解釈をせず、完全に正しい理解、行動に努めれば祈りは、届くと思う。
私的解釈て・・・そこのすれもよろしく。

68名無しの神学さん:2004/03/21(日) 15:24
什一献金を正しくささげない、兄弟姉妹の雛型という。金払いの悪い兄弟姉妹への戒めと誰かはいう。

69名無しの神学さん:2004/03/22(月) 13:27
献金しない者は殺しの罪(反キリストの霊)に振り回されている。??

70名無しの神学さん:2017/05/14(日) 17:38:32
性なるかな 性なるかな 性なるかな アホ卜し
昔、8○3今、卜し
永遠に騙す主を騙り

     ■■■■■
   ■       ■ヽ、ヽ
   |ii \,, ,,/ ii  ♪ コソコソ 一人で 掲示板覗いてぇー
   | _\  ./_ |    〜♪怒りを 募らせるぅー♪そして〜 (オモテでは)おぉーっ、感謝しまーす あ〜晴れるやー 
   ___   ||  ___〉   ___〉           
   | |   ● ●   | 〜♪ そんな 卜しにぃー 
    \   Д.  /  |    ♪ そんな 卜しにぃー なってしまいました〜 
   _/       \    ♪(でも内心は)おぉーっ、悔しいー、あ〜、悔しいー、今に見ていろ〜糞どもが〜
  / ̄  (:::::)   ̄\
/  ■炭,-| |、.■炭   ヽ  ♪サタンが従順なオレさま卜しを攻撃してるだけさー
 | ィ ■  / ,ミ).■゜  r |  
|  \/ /    ´´| |     ♪♪瓜学歴を賛美せよ  逆らう者は8○3を使って口封じ〜
 \    _/      .| |       ♪♪(リピート)
   | ̄ ̄        ノ |
   /\_____/|v、、)
   |.    ■■    | ' ̄
   |   ヽミ■■ミノ |   ←生霊の盾(○ール入り)?? ? ? ? ? ? 禁ちゃん
   ト,.  ■■■■■ |   
   |    ノ  .i

71名無しの神学さん:2018/02/24(土) 15:54:21
作詞:聖イエス会教祖様

時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


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