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なぜ、カインの捧げものを認められなかったのか?

23オッカム(騙り):2004/02/05(木) 20:14
 私が何者であるかは,バレバレでしょうが,敢えてこのスレッドでは,別ハンドルを使いましょう。
 何で,「神学の場で,法哲学の話になるの?」と思われるかもしれませんが,神学・信仰と法哲学・法律学は,かなり近い関係にあります。
 それから,このような問題は,本当は参考文献を熟読しなければならないのですが,ちょっと気力が続かないので,力を入れた書き込みは,後日とします。
 まず,「自然法」ですが,「国会とか国王とか人民(憲法制定権者)」とかが定める法(実定法)を超えた法,とでも定義しておきましょう。「超えた法」ですから,「自然法に反する実定法は無効」なのです。例えば,国王とか人民とかが憲法(実定法)で,「ユダヤ教徒は見つけ次第ぶち殺せ。ぶち殺さないものは死刑に処する」と制定しても,「自然法違反だから無効」というのが自然法論者の言い分です(つまり,「宗教ガ違ウト言ウ理由ダケデ隣人ヲ害シテハナラナイ」とか「人ヲムヤミニ殺シテハイケナイ」いう自然法がある,ということですね。)
 これに反対する考え方が,「法実証主義」です。「自然法なんてない。実定法を制約するような(実定法を超えるような)ものは存在しない,という考え方で,上記のような「異教徒ぶち殺し法」も「有効」です。
 さて,問題は,「自然法なんて,条文集があるわけじゃないのに,どうして,自然法の内容を認識できるの? 自然法があるという根拠は何なの?」と言うことになります。いろいろな考え方(有力なのは社会契約説)がありますが,一番由緒正しいのは,「カトリック法哲学」です。
 この「カトリック法哲学」というのが,かなりのくせ者なのです。「十戒・旧新約律法」にその淵源・条文を求めるのならば,話は直線的で,明解です。しかし,連中はそうは言わないのです(聖トマス。古代教父がどう言っていたかは文献を読まないと分からない)。
 人間は,「神の存在」「神による特別啓示(聖書)」を抜きにしても「理性」とか「良心」とか「事物の本性」とかそういったもので,自然法を認識できるのだ! と言うことです。だから,無神論者や仏教徒でも自然法を認識できるわけです。
 で,バルトとか,富井先生とか,私ことオッカム(騙り)は,「そういう理性主義・主知主義」は突き詰めれば,「無神論になってしまうぞ。『神の全能性』のテーゼを放棄することになってしまうぞ。神を制約する『自然』とか『理性』とか言うものを仮設していいのかね?」と言っているわけです(かなり極端な単純化ですが)。

>それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然
>法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無
>効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。
 と言う,富井先生の極端な物言いは,こういう考え方が背景にあります。
 この問題は,ロマ書1・20を巡って,「神学プロパー」の問題にも深刻な影響を与えています。ご承知の方もいると思いますが,バルト対ブルンナーの論争です。
(続く)


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