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折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない

1モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/11(火) 20:51
創価では勤行・唱題より折伏のほうが功徳が大きいと指導し
投票依頼や新聞セールスは折伏と同じだから功徳は勤行・唱題より大きい
と指導しています。

勤行・唱題をやると仏界が涌現しますが
その勤行・唱題より功徳が大きいということは
折伏や投票依頼や新聞セールスでも仏界が涌現するということになります。
しかし、そんなことはありえません。
折伏や投票依頼や新聞セールスで仏界が涌現するなら
勤行・唱題をしなくても折伏や投票依頼や新聞セールスをやるだけで
仏界が涌現することになります。

勤行・唱題をしなくても折伏だけで仏界は涌現するという意見もありますが
それもウソです。なぜなら勤行・唱題で折伏を決めるための祈念をしているからです。
勤行・唱題をしなくても折伏だけで仏界が涌現するなら、また、折伏の成就を折伏より
功徳の小さい勤行・唱題に依存するくらいなら、勤行・唱題などやらずに毎日毎日アカ
の他人でも捕まえて連日折伏だけやっているほうがはるかに早く折伏は成就して、功徳
だらけの生活になるはずです。
しかし連中はそれをやりません。功徳なんか全然ない、生活の
向上に全く寄与しないことがわかっているからです。

12銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 03:31
>我見に対する戒め

仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし
(破良観等御書 1293頁)

仏教には経論にはなれたるをば外道と云う、
涅槃経に云く「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」
(蓮盛抄 152頁)

>いくら日蓮と同意とかいっても

総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、
さだにも候はば釈迦多宝十方の分身十羅刹も御守り候べし
(四菩薩造立抄 989頁)

日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、
共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し不共ならば阿鼻大城に堕つ可し

今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは学無学の人に如我等無異の記を授くるに非ずや、
色法は無学なり心法は学なり又心法は無学なり色法は学なり学無学の人とは日本国の一切衆生なり

(御義口伝 734頁)

然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて
妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、
所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を
「是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候

総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、
日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに
還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す
(生死一大事血脈抄 1337頁)

13銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 03:49
唱題のみでも仏界は開くということ。

唱題をしていく中で、御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、
素直に実践されていくことになるならば、それをもって
唱題で仏界が開くという確たる現証とみなすことができるでしょう。

唱題をしていても、あくまで我見にこだわり、
御本仏の書かれたものやそのご精神を否定されるというならば、
仏界が開くとは言えないのではないかと思います。

14ぱるぱる:2004/05/14(金) 09:15
基本的な事をお聞きしたいのですが「仏界」っていうのは世間との共通言語での「仏界」なのでしょうか?
学会のいう「仏法」は世間との共通言語でないので「仏界」も違うのかな?と思いました。
「本仏」が世間とは違うんですもんね。

で「涌現」の一つのあらわれが願望達成ならば、モーリスさんの仰ってることに同感です。
私はあれこれ願望達成や奇跡についての本を読んでいますが、そのどの本も願望達成についての
方法論がほとんど同じなのですね。
ある一定の意識状態を続けて保つ・・・これは祈り(学会では題目ですね。念仏でもコーランでもキリスト教でも同じです)を静かに続けていくことで
その状態に入っていけます・・・ことが方法なのです。
科学的には証明されていませんが、仮説として宇宙の根本意識というのがあってそれに触れられると
望みが叶いやすくなる、そしてそういう意識状態が触れることのできる状態だという事を書いている本は
枚挙にいとまがありません。
根本意識というのは仏教的にいうと大日如来、キリスト教でいうと主(キリストのいうところの主です)
にあたると思います。
真剣に静かに祈ること。これが願望達成に必要なことです。
なのでその仮説でいくと、新聞、折伏、選挙運動をしていてもその意識状態は保てませんから
願望達成はできないと私も思います。

15ぱるぱる:2004/05/14(金) 09:35
それと思うんですけど、学会のかたはよく「御書根本」と仰いますけど、学会が使っている御書は学会版のものですよね。
背表紙にしっかり「新編 日蓮大聖人御書全集 創価学会版」とあります。
偽書と言われているものが入っていたり逆に本物と言われているものが入っていなかったりしてますね。
それだけでも私などには頼りないような気がしてしまいます。
それに日蓮さんは60いくつかで亡くなっていますけど、親鸞さんのように80過ぎまで生きてたら
また考えが違ってきてたかもしれないなぁと思うんですよね。
そういう事もあって日蓮さんは「法華経に帰依するように」「人に依らないように」と言っていたのかも?とも思います。
なので組織を盛り上げる行動や御書を信仰するよりも、ひたすら題目をあげる(法華経に帰依する)のが信仰としては
幸せになるんじゃないかなぁと感じます。
御書にもたくさん良いことが書いてあると思うので、人生の教訓や指針にするのはおおいに結構と思うのですが、
人間が書いたものなので、それを信仰して批判精神がなくなることは、日蓮さんも望んでいないのじゃないかなと思ってしまうのです。

16銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 20:11
>>14 ぱるぱるさん
>基本的な事をお聞きしたいのですが「仏界」っていうのは世間との共通言語での「仏界
>」なのでしょうか?
>学会のいう「仏法」は世間との共通言語でないので「仏界」も違うのかな?と思いまし
>た。
>「本仏」が世間とは違うんですもんね。

法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり
(観心本尊抄 240頁)

仏が出現する理由とは、法華経に説かれるとおり一大事因縁、つまり衆生をして
仏知見を開示悟入させることでありますが、凡夫が仏界を現す時も、一大事因縁があるはずです。
利他の精神は顕然であろうとなかろうとあって然るべきもののはずです。

また、功徳は功能福徳の略であり、善の行動そのもに、善を生じさせる徳が備わっているということです。
御書には功徳についてこう説かれています。

功徳とは六根清浄の果報なり、
所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、
されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、
功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、
功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり
(御義口伝 762頁)

功徳とは現世利益のみのことを言うのではないのです。


>ある一定の意識状態を続けて保つ・・・これは祈り(学会では題目ですね。念仏でもコ
>ーランでもキリスト教でも同じです)を静かに続けていくことで
>その状態に入っていけます・・・ことが方法なのです。

キリスト教は予定説ですから本来の教義では、神への祈りに神を働かせるようなものはありません。
イスラム教では祈りというものは救済を約束する戒律のうちの一つです。
念仏は娑婆世界ではいくら修行しても成道不可能であるから、
阿弥陀の慈悲にすがって成仏可能な極楽浄土に往生させてもらうための祈りです。
いずれも救済は死後であり、かなり異なるものと考えられます。

17銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 20:13
>根本意識というのは仏教的にいうと大日如来、キリスト教でいうと主(キリストのいう
>ところの主です)
>にあたると思います。
>真剣に静かに祈ること。これが願望達成に必要なことです。

七識までは瞑想などによって入ることができるされていますが、
八識が蔵する業を変化するまでには至らないとされています。
業を変化させるには、唱題によって九識に入ることが必要とされます。
ともあれ、なんらかの方法で種種の願望が達成されたと言っても、それを短絡的に
成仏という願望が達成されたということにするのは飛躍であり非論理的であると思います。

また、唱題することで病気が治ったというのは内薫外護です。
唱題によって仏界が薫発され、法味倍増されて
薬王菩薩などの諸天善神がよく働いたのだということでしょう。
素晴らしいことです。
そうした素晴らしい功徳を受けられ、なおかつ感謝されておられるならば、
或いは苦手意識などがあったりするのはともかくとして、
頭から利他行を否定されるというのは現実的にあまりありえないことだと思います。


>なのでその仮説でいくと、新聞、折伏、選挙運動をしていてもその意識状態は保てませ
>んから
>願望達成はできないと私も思います。

法華経には五十展転が説かれ、50番目の化他行を欠く者の功徳の絶大さを説いていますが、
自行化他を具足する1〜49番目の者の功徳は無量無辺で比べられないほどだ説いてます。
また、確かに自行のみでも功徳はある。しかし、化他行、折伏が欠けたならば
地獄の因を作ることになる、とも経文には見られる。
自行だけでは功徳がないというのは嘘であり方便だが、自行化他でなければいけないと
いうのは経文や御書を照らしてみれば明らかなのです。

法華経を賛嘆するその功徳の大きさを説く場面が経文に見られます。
また逆に弘教をしている者を誹謗して無間地獄に落ちる者のことも説かれております。
貴方の論理に則れば、折伏している大聖人や法を説いている釈尊はその時、
仏ではないということになります。これは矛盾した論理だと思います。
仏界ではなく地獄界を開くことになるはずであり、折伏しても功徳がないなどという
嘘をつかれるのは一切やめておくべきです。

18銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 20:15
>偽書と言われているものが入っていたり逆に本物と言われているものが入っていなかっ
>たりしてますね。
>それだけでも私などには頼りないような気がしてしまいます。

今回、論点となっている折伏や自行化他については他門流においても
その重要性は疑がれておりません。御真筆に限っても立証されることであり、
何ら心配するところのない教義です。


>それに日蓮さんは60いくつかで亡くなっていますけど、親鸞さんのように80過ぎま
>で生きてたら
>また考えが違ってきてたかもしれないなぁと思うんですよね。

61年のご生涯です。
寿命についてご自身が悟られていたことは御書で伺い知ることができます。
御自身の寿命を悟られた上で仕上げられた、
何ら迷うところのない思想と御生涯であられたと拝しております。


>そういう事もあって日蓮さんは「法華経に帰依するように」「人に依らないように」と
>言っていたのかも?とも思います。

「依法不依人」はそのような意味ではありません。
仏法の教相判釈などについて、経文に依るべきで、経文に依らない人師
(つまり例えばあなた方のこと)の言葉を用いてはならないという意味です。

また、大聖人が言っているのではなく、これは涅槃経の文です。
これに従うならば、先にあげた涅槃経の文、
「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし
是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」
にも従うべきであり、折伏すべきです。


>人間が書いたもの

法華経見宝塔品第十一、に、
「此の経第一なり、若し能く持つこと有らば則ち仏身を持つなり」
とあるように、人法一箇です。
また、大聖人は経文から文証を示して語られていますので、「不依人」ではありません。

19モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/15(土) 09:25
>銀舌居士さん

なるほど、確かにそれらの御書があるのは認めます。
しかし、それらの御書は日蓮大聖人ほどの力量や人格や
行動力のある方が書いたからこそ説得力があるのです。

日蓮さんはただ無責任に「折伏やれ」というだけの人間ではありません。
ちゃんとアフターケアやフォローをしてます。
四条頼基が主君から疎んぜられてたところに、頼基陳状を書かれたことはご存知でしょう?
諸々の御書も、そういった行動の裏付けがあればこそ説得力を持つのです。

失礼ながら銀舌居士さんは、折伏をやったために難を受けた会員のアフターケアやフォローが
できますか?会員を迫害する者から会員を救い出せますか?
それとも昨今流行の「自己責任」を言い放って無責任に放置しますか?
あなたは>>12「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」
とおっしゃってますがいかがなもんでしょう?

あと、>>13で「唱題をしていく中で、御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、
素直に実践されていくことになるならば、それをもって
唱題で仏界が開くという確たる現証とみなすことができるでしょう。
唱題をしていても、あくまで我見にこだわり、
御本仏の書かれたものやそのご精神を否定されるというならば、
仏界が開くとは言えないのではないかと思います。」
とおっしゃってますが、そんなことを言ってたら初信の功徳など
絶対ありません。最初からそんな信心に立つ人間などいません。
どういう形で信じようと御本尊に向かって勤行唱題しさえすれば
仏界が涌現するのです。
日寛上人は文底秘沈抄の中で妙楽大師の言葉を引いてこう言ってます。
「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶(なお)多し」

いくら御書に書いてあっても、一般信者は自分で責任の取れないことや
自分でできないことをやる必要はないのです。
自分で責任を負える範囲のことや自分で無理なくできることだけを
やればいいのです。

だいたい折伏だの選挙だの新聞だのは会員の出すお金で食べさせてもらってる
学会本部の役職員がやるべきなのです。
会員に食べさせてもらってる分際で会員をタダ働きさせるなど言語道断です。

20銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 13:56
自行化他が基本であり、折伏に功徳があるということは
御書や経文を通してご理解していただけたと思います。

大聖人の仏法を信じる者として、大聖人の御正意を知っているなら我見を交えずに
率直に伝えることが信仰者としての最低限の責任ではないかと考えます。
もちろん現代的な解釈や臨機応変の対応は当然必要であると考えておりますが、
自身の力及ばずとも言い切るべき時は言い切るのが大事であると思います。

各各師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、
師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし

我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、
設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず。

彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ、
彼等にはただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ
ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、
をそろししといわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ
(聖人御難事 1190-1191頁)

一番肝心なことはこの熱原の農民に対しての激励を拝してもわかるように、
退転の道をふさぐということなのです。


また、折伏はさせられるものではなく、自分で決意してするものです。
折伏は相手の方に対する慈悲心からするものであり、また自分のためでもあります。

人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、
譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし
(食物三徳御書 1598頁)

相手が信心を始めて成長していく姿を見ること、また感謝の言葉をいただいた時など
単に仏縁の手助けしただけの身としては過分な言葉ではあるけれども、
最高に嬉しいことであります。
「我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」です。

功徳は頂くものでもありけれど、積んでいくものでもあると思います。
ともあれ折伏はこのようなものであり、本部職員のためにするものではありません。

21銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 13:56
また、自分が出来ていないことは人にやるべきだと言うものではありません。
それは本部職員に対してのみならず、モーリスさんにも言えることです。
折伏は人任せにするものではありません。

末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、
皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり
(諸法実相抄 1360頁)

とあるように、我々は地湧の菩薩です。

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、
仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし
(減劫御書 1467頁)

と御書に仰せの通り、我々法華経を受持するものは地涌の菩薩としての誓願のとおり、
誰しもがその自身の眷属に下種をし、自身が今いる場所を仏国土に変えていくための
使命があるのだと思います。

また、大聖人は法華経の行者という最高の呼称を与えられるのに、
出家在家の区別をつけてはいません。あくまで信心によってです。

今月十五日[酉時]御文同じき十七日[酉時]到来す、
彼等御勘気を蒙るの時南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、
偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、
例せば雪山童子尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か、
釈迦多宝十方の諸仏梵帝等五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、
大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、
妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。
(聖人等御難事 1455頁)

ここで法華経の行者や雪山童子と呼ばれているのは農民なのです。

22銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 14:06
また、私は唱題行のみで仏界が開かないとは言ってはいません。
初心の功徳についてはあなたの言うとおりでしょう。
しかし、大聖人はこうも仰せです。

月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
(聖人御難事1190頁)

浅を去って深きに就くのは丈夫の心なり
(撰時抄 271頁)

受くるはやすく持つはかたし、さる間成仏は持つにあり
(四条金吾殿御返事 1136頁)

いつまでも初心の時のままの状態であったり、発心が真実でない状態は
大聖人は勧められておりません。
またそのようにして進まず結局退転すれば、善根を断つことになるわけですから、
仏界が開かなかったも同然ということになるでしょう。

南岳大師の四安楽行に云く
「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず
乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、
此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして
観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は
諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり

(聖愚問答抄 494、496-497頁)

いずれ必ず悪道に落ちる者が、今仮に仏界を開いているからと
言って何になるというのでしょう。

仏法は自他宗異ると雖も翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為なり、
謗法に成り伏して悪道に堕つ可くば文殊の智慧富楼那の弁説一分も無益なり
(真言見聞 143頁)

以上の御文を拝すればわかるように、仏法は現当二世なのです。


また、日寛上人のを引かれておりますが、
日寛上人の時代には折伏は幕府によって禁じられていたはずです。
日寛上人の言葉にはそうした時代背景が込められていることは十分に気をつけるべきかと思います。
その上でしかし、日寛上人は次のようにも仰っています。

常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法なるなり。
口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。
(如説修行抄筆記)

さきの日寛上人の言葉を信じるならば、当然これも信じるべきです。

23つぶやき:2004/05/15(土) 21:40
折伏・投票依頼・新聞セールスでは、仏界が涌現しないと、断定なさるモーリスさんを、
妥当と考えます。そう断定するに至った因に重きを置くべきと考えるからです。
モーリスさんのこの言葉は、決して御書・ご本尊・法華経・大聖人への不信から
起こったことではないと理解しています。

折伏を実践し、ご本尊送りをさせていただいた者として、功徳の有無を御書に
照らし合わせて語るつもりはありませんが、折伏で功徳を受けたと感じられない
会員は存在します。
近年の学会組織において「折伏」はただのノルマの一つ、選挙の票取りや新聞
購読推進実績と変わらない位置付けと感じられます。
「今はまだ〜」と躊躇する会員を幹部が囲んで「折伏実践」強要し(主観です。)
結果、会員は後悔し功徳を実感することは出来なかったようです。「幹部」への
不信は感じたようですが・・・。
「今月一杯だから」とか「来月折伏したって見向きもされない」などと平然と
口にする幹部を、私も信頼できませんでした。
「信・行・学」の中の、信を失う因を身近な幹部から受けた場合、その本人に
何が出来ますか?耳に入る「学」もノルマのための、「ウソ」と感じてしまう
場合も起こりえると考えます。
「信」を失わせた人間に「行」を強制されれば、「学」を説かれたところで
人のこころは癒せません。

24銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 00:34
お気持ちは察します。
しかし、幹部の善し悪しによって功徳の有無が生じるということはありません。
また、幹部を信じられるか否かは信心とは一切関係がありませんし、
役職は所詮仮のものに過ぎず、信心を測る物差しとすべきではありません。
幹部に批判すべきものがあればそのつどしていくようにして、
日常の自分の時間においてはそれには囚われないようにしたいものです。

法華経には如来の滅後、法華経を得るためには四つの条件を成就する必要がある
と説かれています。

仏告普賢菩薩。若善男子。善女人。成就四法。於如来滅後。当得是法華経。

一者為諸仏護念。二者植諸徳本。三者入正定聚。四者発救。一切衆生之心。

一には、諸仏に護念せらるることを為、(ご本尊)
二には、諸の徳本を植え、(題目)
三には、正定聚に入り、(和合僧)
四には、一切衆生を救う心を発せるなり(広宣流布)
となります。

利他の精神が必要であることは経文に照らして明白です。

また、折伏で功徳を感じない人がいるということですが、功徳には四つの種類が存在します。

祈祷に於ては顕祈顕応顕祈冥応冥祈冥応冥祈顕応の祈祷有りと雖も
只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候
(道妙禅門御書 1242頁)

顕祈冥応や冥祈冥応においては、その功徳を受けていてもよくわからないのです。
感じないからといって、御書や経文に明確に書かれてあることに対して
不信を起こすのは早合点が過ぎるというものです。
(ずるく感じられるかもしれませんが、御書に書かれてある以上、意味のあることです)


此は物のはしなり大果報は又来るべしとおぼしめせ
陰徳陽報御書 1178頁

「あなたの受けている功徳はまだほんのはじまりにすぎない。
大果報は、また後にくると思っていきなさい」と大聖人は仰っておられますが、
あなたがたの受けている功徳もまた同様で、本来ならばもっともっと大きな功徳を
受けることが出来るだろうと思います。

25銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 00:35
信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり
法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも
法華経の敵をだにもせめざれば得道ありがたし、
たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども
君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還つてとがに行はれんが如し
異体同心事 1464頁

戸田先生はこう仰っています。
「折伏は、素直に、どんどんしなさい。それから人を憎んではならない。
喧嘩口論はいけない。
真面目に、優しく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。
それで反対すれば、反対した本人がだめになる。
優しく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」
「折伏というものは苦しんでやるものではない。楽しくやらなければなりません」

あなた方は折伏を誤解されていると思います。
上のように戸田先生が言われている通りにすればいいのです。

法華経法師品にはこう説かれています。
成就大願。愍衆生故。生此人間。
「大願を成就して、衆生をあわれむが故に、此の人間に生ずるなり」と。
妙楽大師はこれを「願兼於業」と呼びました。
本来は善処に生まれるところを、願って悪世に生まれて法華経を弘通する、と。

戸田先生はこれに関してこう仰っています。
「はじめから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、
われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」

そして池田先生はこう仰っています。
「自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは後ろ向きになる。
それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」
「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。
自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。」

法華経を受持し、自行化他に励むとはこのようなことであると思います。

ところで、心の傷と仰いますが、私はそのようなことは存じ上げておりませんでした。
もしも心的外傷があるならば、ネット上で何年もこのようなことをしていらっしゃるのは
かえって精神的によくないのではないでしょうか?むしろ危険であるような気がします。
私が言うのもなんですが、宗教に変に囚われすぎるのはよくないはずです。
癒しが目的ならば、何らかの別の手段をとることをお勧め致します。

26つぶやき:2004/05/16(日) 01:15
>>24 銀舌居士さん

>幹部の善し悪しによって功徳の有無が生じるということはありません。
>また、幹部を信じられるか否かは信心とは一切関係がありませんし、
>役職は所詮仮のものに過ぎず、信心を測る物差しとすべきではありません。
>幹部に批判すべきものがあればそのつどしていくようにして、
>日常の自分の時間においてはそれには囚われないようにしたいものです。

確かにあなたの仰る通りです。それが道理であり、正しいあり方と認識いたして
おります。功徳の有無に関しては、功徳を受ける本人の心のあり方と考えます。
ただこのように、万人が貴方と同じ価値観を持ち、信仰生活を送れるなら
なにも掲示板で多くの方が、悩みや批判を書き込むことはないと考えます。
「銀舌居士さんは強い方ですね」というのが私の感想です。

迷うことも、絶望することも、批判することも、ながい信仰生活の中で
誰にもあり得ることです。この掲示板での有意義な意見交換を心がけていきたいと
希望しています。

27銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 02:03
>「銀舌居士さんは強い方ですね」というのが私の感想です。
とんでもありません。
強いのではなく、私は運がよかっただけです。
私はこの仏法に利他の精神があったから信じることができたので
もともと弘教は絶対不可欠という考え方ではありましたが、その利他の姿を
客観的に示してくれたのは役職などの上下とは一切関係ない一介の高校生でした。
役職と関係のないところに多くの尊敬する同志・友達がおり、
そうした方がいればこそ役職に惑わされることがなかっただけです。
釈尊は阿難に対し、「善き友を得ることが仏道修行の全てである」と
仰っていますが、全くその通りなのでしょう。
彼らの存在が私の確信につながっているのは間違いありません。


>迷うことも、絶望することも、批判することも、ながい信仰生活の中で
>誰にもあり得ることです。この掲示板での有意義な意見交換を心がけていきたいと
>希望しています。
確かにその通りです。
しかし、ネット上の掲示板というものはその性格上、プライベートなものではありませんので
誰が見ているかわかりません。ROMする方に影響を与える可能性も十分あります。
そうした性質を考えた上での発言であり、意見交換でないといけないだろうなと思います。

28つぶやき:2004/05/16(日) 11:24
>>27 銀舌居士 さん

学会組織は地区・支部によって、雰囲気も考え方も異なり、自分の価値観が
簡単に否定される場合も多く、それは「今は、そう言う時代だから」との一言で
片付けられる現実がありました。(引っ越しの際感じました)
私も、身近な友人の体験等において、仏法に対しての迷いはありませんが、今
憂いているのは、確信のつかめていない会員が、組織の一方的な打ち出しに
追い立てられ信仰に対しての想いを、自らが断念させてしまうことです。

幸い、掲示板という空間を結んで不特定多数の方と、意見交換が出来る機会に
恵まれて、こちらのように、学会員の方が毅然としたコンセプトのもとに
管理する場所に参加できました。そして「不信の原因」が今も昔も変わらない
と言うことを知ることができたのです。

>しかし、ネット上の掲示板というものはその性格上、プライベートなものではありませんので
>誰が見ているかわかりません。ROMする方に影響を与える可能性も十分あります。
>そうした性質を考えた上での発言であり、意見交換でないといけないだろうなと思います。

仰る通りです。私としても書き込みには、心を配って行きたいと考えております。
銀舌居士さんの、「御書講義」?のおかげでしばらくひもといていない「御書全集」を
手に取ったりしております。(^^;)
これからもよろしくお願いいたします。

29モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:12
>>20

>自行化他が基本であり、折伏に功徳があるということは
>御書や経文を通してご理解していただけたと思います。

御書や経文に功徳を謳っているのはわかりますが
勤行や唱題を上回る功徳があるとでも言うのですか?
実際には折伏に勤行・唱題を上回る功徳はないと認識しておりますが。
また、折伏で仏界が起きないことはあなた自身が認めていることです。
それとも前言を翻して勤行・唱題を一切しなくても折伏で仏界が涌現する
というご意見でしょうか?

>大聖人の仏法を信じる者として、大聖人の御正意を知っているなら我見を交えずに
>率直に伝えることが信仰者としての最低限の責任ではないかと考えます。

その責任は一般信者にメシを食わせてもらっている僧侶や教団の役職員が
負うべきであって一般信者が負うべきものではありません。

>自身の力及ばずとも言い切るべき時は言い切るのが大事であると思います。

あなたや学会本部役職員にとっては大事であっても
一般信者にとっては二の次なのです。
仏界が起きない以上、折伏は教団の拡大にとっては大事ではあっても
一般信者にとっては極論すればどうでもいいことなのです。
本人の発心のみで見返りも求めず真心で仏法を知らせたいときだけやればいいのです。
あなたがどういう目的で信心をやってるのか知りませんが
私は生活を良くしたいためだけに信心をしています。
生活の足しにならないものは無意味なのです。

30モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:15
(続き)

>一番肝心なことはこの熱原の農民に対しての激励を拝してもわかるように、
>退転の道をふさぐということなのです。

やめたい人はやめればいいのです。
あくまで本人が決めることです。
誰だって自分の責任で生きているのです。
重ねて尋ねますが、銀舌居士さんは、折伏をやったために難を受けた会員のアフターケアやフォローができますか?会員を迫害する者から会員を救い出せますか?
それとも昨今流行の「自己責任」を言い放って無責任に放置しますか?
あなたは>>12「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」
とおっしゃってますがいかがなもんでしょう?
それともあなたは、難を受けて人生壊れてもかまわないから
とにかく折伏やれとでも言うのですか?

>また、折伏はさせられるものではなく、自分で決意してするものです。
>折伏は相手の方に対する慈悲心からするものであり、また自分のためでもあります。

折伏はあくまで自分自身の意思でやるべきものであって
池田さんや大幹部某さんが何を言おうと関係ありません。
それで折伏が一体どう自分のためになるのですか?
外交力や度胸がつくくらいのことは認めますけどね(まさかそれが功徳とでも?)。
仏界は起きない、世間から顰蹙を買い嫌われる、功徳は勤行・唱題に及ばないのに
一体どうして自分のためになるんですか?
折伏なんかやったって全然生活の足しにはなりません。

31モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:31
(続き)

>また、自分が出来ていないことは人にやるべきだと言うものではありません。
>それは本部職員に対してのみならず、モーリスさんにも言えることです。
>折伏は人任せにするものではありません。

私は一般信者にやれなどとは言いませんが学会本部役職員には
首根っこつかんででもやらせたい気持ちです。
学会本部役職員は一般信者の施しで食べており、組織の維持拡大の
責任を担っているのですから学会本部役職員が
折伏をやるのは当たり前なのです。
一般信者でどうしても折伏をやりたい人はやればいいでしょう。
もっとも、折伏で仏界は涌現しないことを承知の上で
本当に折伏に取り組めるのかわかりませんが。

>其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、
>仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし
>(減劫御書 1467頁)と御書に仰せの通り、我々法華経を
受持するものは地涌の菩薩とし
>ての誓願のとおり、誰しもが
その自身の眷属に下種をし、自身が今いる場所を仏国土に
>変えていくための使命があるのだと思います。

そういうことはあなたや学会本部役職員やどうしても折伏したくてしょうがない
一般信者だけでやってください。折伏で仏界が涌現しないのを承知でどこまで
やれるか知りませんけど。

>また、私は唱題行のみで仏界が開かないとは言ってはいません。

言ってるじゃないですか!
「唱題だけでも×です。折伏だけでも×です。」とね。
両方そろわなきゃ信心が成り立たないといいたいのでしょうが
本音では勤行唱題も折伏も両方やらないと仏界は涌現しないと思ってるんでしょ?

32モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:37
(続き)

>初心の功徳についてはあなたの言うとおりでしょう。

私は>>19で「初信の功徳」とは言いましたが
「初心の功徳」などとは言っておりません。
勝手にスリ替えて論難するのはやめていただきたいです。

>しかし、大聖人はこうも仰せです。
>月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
>。(聖人御難事1190頁)
>浅を去って深きに就くのは丈夫の心なり
>(撰時抄 271頁)
>受くるはやすく持つはかたし、さる間成仏は持つにあり
>(四条金吾殿御返事 1136頁)
>いつまでも初心の時のままの状態であったり、発心が真実でない状態は
>大聖人は勧められておりません。
>またそのようにして進まず結局退転すれば、善根を断つことになるわけですから、
>仏界が開かなかったも同然ということになるでしょう。

あなたは勘違いをしてます。
毎日勤行・唱題を実践して功徳を受けるうちに信心は深まっていくのです。
また、勤行・唱題を休まず毎日やり続けること自体が信心を深めていることなのです。
また、大聖人は「いつまでも初心の時のままの状態であったり、発心が真実でない状態
であってはいけない」とも言ってはいません。
初心であろうがなかろうが、いつでもありのまま(無作)の気持ちで御本尊に向かえばいいのです。
そもそもあなたのいう「発心が真実」の状態というのはどういう状態ですか?
池田さんや学会本部役職員に忠誠を誓うことですか?
学会活動などやらなくても勤行・唱題を怠らずやり続ければ信心は深まりますが
勤行・唱題をしないで学会活動ばかりやっても信心は深まりません。

>いずれ必ず悪道に落ちる者が、今仮に仏界を開いているからと
>言って何になるというのでしょう。

なんで先のことがわかるんですか?
どうして「いずれ必ず悪道に落ちる」などと言い切れるんですか?
そういう傲慢な姿勢のあなたこそ悪道に落ちる可能性が高いでしょう。


>また、日寛上人のを引かれておりますが、

元々言ったのは妙楽大師です。

33モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:44
(続き)

>日寛上人の時代には折伏は幕府によって禁じられていたはずです。
>日寛上人の言葉にはそうした時代背景が込められていることは十分に気をつけるべきか
>と思います。

あなただって「頼基陳状」のことには触れないで、ただ「折伏やれ(趣意)」の
無責任な主張のために都合のいい御文だけを引っ張り出していますね。

>常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法なるなり。
>口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。
>(如説修行抄筆記)
>さきの日寛上人の言葉を信じるならば、当然これも信じるべきです。

その必要はありません。
折伏はやりたいときだけやればいいのです。
あと、私は折伏を禁止などしてません。やるのは勝手ですが仏界が涌現するとか、勤行・唱題を
しのぐ功徳など期待せずにやりなさいということです。また、折伏で仏界が涌現するとか、
勤行・唱題をしのぐ功徳があるかのように思い込ませるような「指導」をやるなということです。
あなたは親や学校の先生や池田さんの言うこと100パーセント守ってますか?
御書に書いてあること全部やってるんですか?
首を斬れと言われたら斬るんですか?一睡もするなと言われたら全然眠らないんですか?
言われたこと全部やらなきゃいけないんですか?
言われたこと全部やる人間なんかいません。
状況にふさわしくないことはどんなに偉い人が言おうとやる必要は無いのです。

あなたの書き込みは学会本部サイド寄りの視点でばかり信心を考えているように見受けられます。
一度、娑婆世界で苦闘している一般信者の観点で信心を考え直してみてはどうですか?
ところであなたはずいぶん学会本部の肩を持ってるようですが、あなたは学会本部の役員か職員ですか?
あと、人間と宗教の関係について、あなたは「宗教のための人間」だと思いますか?
それとも「人間のための宗教」だと思いますか?

34ぱるぱる:2004/05/17(月) 09:38
>>16 銀舌居士さん、こんにちは。

私は銀舌居士さんへという事で書き込みをしたのではないのですけど、丁寧なレスを頂きありがとうございます。
せっかくですので私なりにレスさせていただきたいと思います。
銀舌居士さんと私には考え方の違いや見てる世界の違いなどがあるので、お互いに理解できない事もあると思います。
なのでそれを前提として読んで頂ければ幸いです。
なお、私は外部なのですが子供の頃から学会のかたとなにかと縁があり、夫は学会三世の活動家から非活動家になった会員です。

まず私の「「仏界」っていうのは世間との共通言語での「仏界」なのでしょうか?」のこの問いは、私はモーリスさんにしたつもりでした。
そして、せっかく銀舌居士さんが答えてくださっていますが、私には銀舌居士さんの書いてくださってることが理解できません。
外部の私に説明しようと思ってくださるのならば、専門用語ではなく外部との共通の言葉で説明していただけませんでしょうか。
その説明のあとに出典として御書を紹介して頂く事は私も参考となりますので歓迎です。よろしくお願いいたします。

>キリスト教は予定説ですから本来の教義では、神への祈りに神を働かせるようなものはありません。
学会もそうだと思いますが、自分が信仰していない宗教の教義解釈というのはなかなかに表面的なものになると思います。
そういうものと「祈りの現場」との違いはどこの宗教にもあるものと思われます。
例えばキリスト教についてですが、ピオ神父というかたをご存じでしょうか?
1968年に亡くなり2002年6月に列聖された「20世紀最高の聖人」と呼ばれているかたです。
このかたの祈りの奇跡は驚くべきものがあります。
1974年、生まれつき眼球がなく盲目の少女ジェンマが藁にもすがる思いの祖母に連れられてピオ神父を訪ねました。
事情を聞いた神父は祈りを捧げて仰いました。「お孫さんの目は必ず見えるようになるでしょう」と。
それからおよそ3ヶ月経ったのち少女の瞼の裏で眼球が盛り上がり、通常の人と変わりないほどの視力を得ました。
それまでピオ神父の奇跡に懐疑的だった医師や科学者達も黙するしかありませんでした。

私はこれを「キリスト教だから」と言うつもりはありません。
祈りと信じる力がもたらした奇跡、仏教でいえば功徳でしょう。
それは一宗教団体、教義などを超えていると私は思っています。

35ぱるぱる:2004/05/17(月) 09:52
>>17
>七識までは瞑想などによって入ることができるされていますが、
>八識が蔵する業を変化するまでには至らないとされています。
>業を変化させるには、唱題によって九識に入ることが必要とされます。
>ともあれ、なんらかの方法で種種の願望が達成されたと言っても、それを短絡的に
>成仏という願望が達成されたということにするのは飛躍であり非論理的であると思います。

七識八識九識、というのは証明されていませんので、あると思えばある、ないと思えばないというものだと思います。
また同じ論理が別の宗教、イデオロギーでは違う言い方をされている場合もあると思います。
「業を変化させるのに九識に入らないといけない」とは断言できる根拠はないでしょうし、ですからもちろん
「九識に入るのに題目でないといけない」という事も断言はできないでしょう。
もちろんそう信じてるかたが自分に対してそれを断言する事はまったく自由な事です。
同じ信仰を持たないものとしては「ああ、そう信じていらっしゃるのだな」と思います。

また、願望達成法について誤解をされているのかな?と思いましたので少し説明させて頂きます。
例えば、ちょっと日本ではキワモノ扱いされてしまった感のあるマーフィーの法則ですが、
マーフィーの本を読んでみていただければとても大事な事が書かれていることが
おわかりになると思います。
マーフィーに限らず願望達成の本には最後に信仰心について触れられることが多いです。
周りに嫌な人間がいるとしてもその人の幸せを祈る事が自分の幸せに繋がること。
感謝と愛がとても大切なこと。
この二つが繰り返し述べられています。
願望達成法は「イメージをして願望達成すればいいのです」ハイ、終わり、というものではありません。

36ぱるぱる:2004/05/17(月) 10:10
>>18
>今回、論点となっている折伏や自行化他については他門流においても
>その重要性は疑がれておりません。御真筆に限っても立証されることであり、
>何ら心配するところのない教義です。

私の>>15は御書や御書根本と言われることについて書きました。
ので、それをもとに銀舌居士さんのレスを読ませて頂いたんですが、
結局御書には偽書と言われるものがあるという事ですよね。
学会は偽書とわかっていて編纂したのでしょうか?
学会のかたで全て本物であると信じているかたも多くいらしゃるんじゃないでしょうか?
私の見たところ、そういうかたにきちんとした説明はないようです。
私はそういうことがとても不誠実に感じられます。
もちろんそれは私がそう感じるのであって、そうでないかたもたくさんいらっしゃることと思います。
あくまで私の感想です。

>61年のご生涯です。
>寿命についてご自身が悟られていたことは御書で伺い知ることができます。
>御自身の寿命を悟られた上で仕上げられた、
>何ら迷うところのない思想と御生涯であられたと拝しております。

61歳で亡くなられたのですか。教えて頂きありがとうございます。
才能のあるかたと思いますのでもっと長く生きて頂きたかったですね。
銀舌居士さんはそう解釈されているという事ですね。
事実がわからないので、断言したり他人に同じように思えと仰らないのならば
それぞれがそれぞれに自分の為の解釈があっていいと思います。

>「依法不依人」はそのような意味ではありません。
>仏法の教相判釈などについて、経文に依るべきで、経文に依らない人師
>(つまり例えばあなた方のこと)の言葉を用いてはならないという意味です。

何で読んだか失念してしまって申し訳ありませんが、「日蓮に帰依するのでなく
法に依るように」と解釈していらっしゃるかたのご意見を読んだ事があります。
また私としては、経文に重きを置くのならその出自にも注目したいと思います。
法華経も涅槃経もその出自は仏陀でない可能性が高い事は、学問的に裏付けされている事ですよね。
我見というなら法華経も涅槃経もどこかの誰か(中国の高僧かもしれませんが)の我見なのだなと
私などには思えるのです。

37ぱるぱる:2004/05/17(月) 10:39
>また、大聖人が言っているのではなく、これは涅槃経の文です。
>これに従うならば、先にあげた涅槃経の文、
>「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし
>是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」
>にも従うべきであり、折伏すべきです。

涅槃教もいろいろな解釈があるのではないでしょうか。
経文をどこで切って意味をつけるかにもよるでしょうし。
それに日蓮さんは摂受についても書いていらしゃいますよね。
SGIの布教は摂受を旨とされていますよね。SGI憲章の文章では私にはそう思えます。
「折伏するべき」であるならば、SGI憲章は今のようなものでなく「折伏経典」のようなものに
するのが妥当なのではと思います。
私は日本でも「折伏」をクローズアップするのではなく、摂受本位にしてくれたらいいのにとずっと思っています。
日蓮さんが最終的に言っていることは「題目を信じること」「題目を上げること」「題目を広めること」なのだと
学会のかたに聞いたことがあります。
時や情勢によっては摂受もありと教えられているのですから、鎌倉時代ではない現代においては方向を転換してくれたらなと
思っています。

私としては仏陀も我見、日蓮も我見、親鸞も我見、キリスト教会や学会もみんな我見だと思います。
経文が日本にたどりつくにおいてはもっとたくさんの人の我見が入っていることでしょう。
「法華経」や「涅槃教」など、仏陀に言わせたら「わしゃしらん」となるかもしれません。
それでもきっといろんな人生においての大事なエッセンスがあるからこそ、経文は大事にされていると思います。
ただし、大事にすることと縛られることはまた別だと思います。

私はいろんな人のいろんな我見を聞かせていただいて自分で考えていきたいと思っています。
そして祈りは努力とセットで何を信じるかに限らず宇宙根本の意志に通じる物と思います。
もちろん他人に迷惑をかけない事が、一人では生きていけない人間として最低のルールであることは
申し上げるまでもないでしょうが。

信仰が違う人間の考え方はいろいろ理解に苦しむこともあるとは思いますが、
私の気持ちとしてはこういう事ですので、少しでもくみ取っていただければ幸いです。

38ぱるぱる:2004/05/17(月) 11:14
>>34 すみません、訂正です
>1974年、生まれつき眼球がなく盲目の少女ジェンマが藁にもすがる思いの祖母に連れられてピオ神父を訪ねました。

>1947年、生まれつき眼球がなく盲目の少女ジェンマが藁にもすがる思いの祖母に連れられてピオ神父を訪ねました。
の間違いです。

39ぱるぱる:2004/05/17(月) 13:14
もう一つ気になったことがあったので、書かせて頂きます。
>>17
>法華経を賛嘆するその功徳の大きさを説く場面が経文に見られます。
>また逆に弘教をしている者を誹謗して無間地獄に落ちる者のことも説かれております。
>貴方の論理に則れば、折伏している大聖人や法を説いている釈尊はその時、
>仏ではないということになります。これは矛盾した論理だと思います。
>仏界ではなく地獄界を開くことになるはずであり、折伏しても功徳がないなどという
>嘘をつかれるのは一切やめておくべきです。

外部の人間とお話ししている事を念頭に置いて書いて頂きたいと思います。
学会の信仰の世界で学会が真実と言われているものがあったとしても、それは学会の中でのお話しなので
誰にとっても事実であるという根拠もないのに「嘘をつく」と失礼な事は言わないで下さい。
私も私の思ってることは断言していません。仮説に基づいてそう思うと書いています。
たくさんのかたが著作し、体験談も豊富にありますがそれを誰にとっても事実であると言えば
それこそ嘘になりますから。
銀舌居士さんの書いていることも仮説にしかすぎないと思われます。
それがいくら銀舌居士さんにとって真実であったとしても。
一般的に釈尊の事もいろいろな解釈がありますし、釈尊の教えが事実どうだったかは
釈尊が無記を通しているので本当のところはわかりません。
私は私の信じている仮説に基づき折伏だけではだめだろうと思うと書きました。
断言もしていません。
それが銀舌居士さんの信仰の真実とは違っても、「嘘をつかれるのは一切やめておくべきです。」と
銀舌居士さんから断じられるいわれはありません。

40ぱるぱる:2004/05/17(月) 14:10
>>39
>私は私の信じている仮説に基づき折伏だけではだめだろうと思うと書きました。

これでは不正確ですね。書き直します。

私の信じている仮説でいくと、新聞、折伏、選挙運動をしていても願望達成の意識状態は保てませんから
願望達成はできないと思うと書きました。

に訂正します。

41つぶやき:2004/05/17(月) 18:31
>>34 ぱるぱるさん  はじめまして。

>祈りと信じる力がもたらした奇跡、仏教でいえば功徳でしょう。
>それは一宗教団体、教義などを超えていると私は思っています。

僭越とは存じますが、私は、「宿命転換」とも呼ばれるべきだと考えます。
カソリックにおける「奇跡」には私も興味がありいろいろな文献を読みました。
博学で勤勉なあなたの書き込みは、大変参考になります。

横レスになりましたが、他意はありませんので、よろしくお願いします。

42ぱるぱる:2004/05/18(火) 13:55
>>41 つぶやきさん はじめまして。

言葉を交わすのは初めてですね、よろしくお願い致します。
>僭越とは存じますが、私は、「宿命転換」とも呼ばれるべきだと考えます。
なるほど!と思いました。そういう捉え方の方がより近い感じを受けますね。
カトリックのかたがよく仰る「神様のお導き」の方がどちらかというと功徳に近いかもしれません。
「神様のお導き」は日本的にいうと「神様のおはからい」と似ていると思うので。

>カソリックにおける「奇跡」には私も興味がありいろいろな文献を読みました。
>博学で勤勉なあなたの書き込みは、大変参考になります。

参考にしていただけたら私としても書いているかいがありますし、うれしいです。
学会家族の家に嫁し、気づいたら門前の小僧よろしくいろいろ見聞きして考えるようになりました。
もともと願望達成と奇跡については子供の頃から興味を持ち続けています。
つぶやきさんと興味が同じなのでお話しが合うかもしれませんね。
奇跡についてなど伺わせて頂ければうれしいです。

それから私の書き込みに過分なお言葉ありがとうございます。
私にとってはつぶやきさんのいつも柔らかで落ち着いた文章に敬意を感じます。
私には難しい事なので・・・文章も人により様々で興味がつきません

43つぶやき:2004/05/19(水) 23:58
>>42 ぱるぱるさん  こんにちは。

>奇跡についてなど伺わせて頂ければうれしいです。

大変申し訳ないのですが、立場上掲示板での書き込みには配慮したい
と考えますので、「奇跡」のお話での意見交換は避けたいと思っております。

ただ、「奇跡」の源となった人物は皆、理屈ではなく自らの行いによって、
信仰を示した方ばかりだったと言うことです。



ただ、「奇跡」

44つぶやき:2004/05/20(木) 00:29
>>43 ぱるぱるさんへのお返事の補足です。

中途半端なまま、書き込みをクリックしたようです。
今朝5時半起きでしたので、目の焦点が定まりません、申し訳ありませんでした。

「仏界涌現」と「奇跡」については考えて見たいと思います。
ぱるぱるさんのするどい切り口での書き込み、期待しております。

45モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/22(土) 09:29
中にはがっかりする方もいるでしょうが
このスレでいう「仏界」は創価ほか正宗系団体で定義している
仏界とお考えください。
仏界の存在を自然科学のような方法では証明できませんので・・・

46ぱるぱる:2004/05/22(土) 12:13
>>43 つぶやきさん

あ、えっと、すみません・・・雑談スレッドででも気軽にお話しできたらなーって思ってました。
ご事情もあるでしょうから無理にとは言いませんのでご安心ください。

47ぱるぱる:2004/05/22(土) 12:30
>>45 モーリスさん
どんな定義なんだろう・・・と、ちょっと思ってしまいました(^^)
辞書的なものはいくつかあってその中でも「仏の住む世界。浄土。」これがポピュラーですよね。
一般的には仏という場合、仏陀(釈迦、釈尊)を言いますけど学会ではたしか釈迦より
日蓮さんを上と位置して(久遠元初ですもんねー。でもこの言葉って偽書の可能性のあるものにしか
書いてないそうですが)本仏としてるんですよね。
という事は日蓮さんのいる世界ってことになるのかな。
でもこうなっちゃうとなんというか、こんな言い方はなんですけど、特殊なというかマイナーな世界だなという感想です。

私的には一般的な仏界の涌現というのは、宇宙根本の意志に触れられることと思っています。
意識のというか魂のというかそういうものの奥底(というのもちょっと誤解を招くいいかたですが・・・奥底っていうより
広がりだったりなので)の世界では、宗教のしきりなんてなんの意味も持たない世界だろうと思っているので。
もちろんこれも証明はできない事ですが。
結局何を信じ、どう幸せになるか・・・大事なのはそこですものね。

48銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/24(月) 03:57
>>29-33 モーリスさん
>御書や経文に功徳を謳っているのはわかりますが
>勤行や唱題を上回る功徳があるとでも言うのですか?

上回るということは言っておりません。

「末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」
(三大秘法禀承事 1022頁)
「我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、
力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄 1361頁)
このように御書に明確ですから、どちらが欠けてもいけない、
ということを私は言っているのです。


>また、折伏で仏界が起きないことはあなた自身が認めていることです。
>それとも前言を翻して勤行・唱題を一切しなくても折伏で仏界が涌現する
>というご意見でしょうか?

唱題せずに折伏だけをしてもダメです、とは言いましたが、
折伏で仏界が起きない、ということを私は認めてはいません。
それを認めていたら、あなたとこうして話をする必要がそもそもないでしょう。


>その責任は一般信者にメシを食わせてもらっている僧侶や教団の役職員が
>負うべきであって一般信者が負うべきものではありません。

そのような差別を大聖人がされていないことは先に示したとおりです。


>本人の発心のみで見返りも求めず真心で仏法を知らせたいときだけやればいいのです。

「見返り」とはそもそもいったいなんのことですか?
功徳とは積功累徳、もしくは功能福徳の略ですが、見返りという意味は全くありません。
功徳にしろ、宿命転換にしろ、全ては自身の生命に求められるものあります。
自分以外の何者かから貰うものであれば、見返りという言葉も当てはまるでしょうが
そういうものは仏法には本来、全く関係のないことです。
あなたは自行のみでも功徳があるということを仰いますが、もし功徳を「見返り」
という風に解釈しているのであればそれは全くの間違いであると指摘しておきます。

49銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/24(月) 03:58
>あなたがどういう目的で信心をやってるのか知りませんが
>私は生活を良くしたいためだけに信心をしています。
>生活の足しにならないものは無意味なのです。

一言で言えば自他ともの幸福のためです。
「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」
((崇峻天皇御書 1173頁)
心の財を積んでいくこと、つまり功徳を積んでいくことが
そうした幸福に直結する大道であると思っております。


>やめたい人はやめればいいのです。
>あくまで本人が決めることです。
>誰だって自分の責任で生きているのです。

確かに退転させないよう、脅したりお願いしたりする必要はありません。
責任は全て自身に帰するものであり、それは仏法の説く業の思想に通じるものでもあるでしょう。
しかし、人間とは自分だけで生き存在しているものではありません。全ては縁起です。
縁によって退転することもあれば、縁によって発心することもあります。
弱気になっているのであれば、励ますことが肝要であろうと思います。
後で悔いても遅いからです。


>重ねて尋ねますが、銀舌居士さんは、折伏をやったために難を受けた会員のアフターケ
>アやフォローができますか?会員を迫害する者から会員を救い出せますか?
>それとも昨今流行の「自己責任」を言い放って無責任に放置しますか?

できるものもあればできないものもある、というのが現実です。
その上で私は熱原の法難における大聖人の門下に対するご指導をひきました。
大聖人は大勢の門下を法難によって亡くしておられます。
また、戸田先生の必死の祈りの甲斐もなく、牧口先生は獄中で亡くなられました。
私が救い出せるなどと言えばそれは嘘になるでしょう。


>あなたは>>12「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」
>とおっしゃってますがいかがなもんでしょう?
>それともあなたは、難を受けて人生壊れてもかまわないから
>とにかく折伏やれとでも言うのですか?

大聖人の人生が壊れていると仰りたいわけではないでしょう。
正しいことを正しくやって人生が壊れることなどありはしないと思っております。
本当に真剣に唱題をあげにあげ抜いて、なんら後ろめたさを感じることのないような
折伏を堂々とし抜いて、人生が壊れたという人を私は知りません。
この現代においてでも、半年間で12人弘教したという人を私は知っていますが、
その人の人生は壊れてなどおりません。

50銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/24(月) 03:58
>学会本部役職員は一般信者の施しで食べており、組織の維持拡大の
>責任を担っているのですから学会本部役職員が
>折伏をやるのは当たり前なのです。

彼らが折伏するのが当然なのは否定しませんが、
彼らの人数などたかが知れており、期待するようなものではないでしょう。


>言ってるじゃないですか!
>「唱題だけでも×です。折伏だけでも×です。」とね。
>両方そろわなきゃ信心が成り立たないといいたいのでしょうが
>本音では勤行唱題も折伏も両方やらないと仏界は涌現しないと思ってるんでしょ?

「唱題だけでも×です」≠「唱題行のみで仏界が開かない」
言っていませんよ。

南岳大師の四安楽行に云く
「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず
乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、
此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして
観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は
諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり

(聖愚問答抄 494、496-497頁)

このように、折伏しないと悪道に落ちるというから×なのです。


>私は>>19で「初信の功徳」とは言いましたが
>「初心の功徳」などとは言っておりません。
>勝手にスリ替えて論難するのはやめていただきたいです。

失礼しました。誤字ですね。しかし論点はすりかわっていません。


>勤行・唱題をしないで学会活動ばかりやっても信心は深まりません。

これは全くその通り、当然のことです。


>毎日勤行・唱題を実践して功徳を受けるうちに信心は深まっていくのです。

末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり
(三大秘法禀承事 1022頁)
あなたの仰ることには「自行化他に亘りて」が抜けております。

51銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/24(月) 03:59
>そもそもあなたのいう「発心が真実」の状態というのはどういう状態ですか?

あなたが引いた妙楽大師の「発心真実ならざる」にそってのことです。
あなたは勤行をされているでしょう。五座のご観念文も観念されているはずです。
「世界の平和と一切衆生のために」
これと矛盾していれば論理的に考えて当然それは真実ではないと言えるでしょう。


>池田さんや学会本部役職員に忠誠を誓うことですか?

そんなことはしなくてもまったく構わないことです。
まっとうな人でそのようなことをしろと言う方はいないと思います。


>なんで先のことがわかるんですか?
>どうして「いずれ必ず悪道に落ちる」などと言い切れるんですか?
>そういう傲慢な姿勢のあなたこそ悪道に落ちる可能性が高いでしょう。

私が勝手に言っているのではありません。御文のまま申し上げているのです。

これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし、
いはずば慈悲なきににたりと思惟するに法華経涅槃経等に此の二辺を合せ見るに
いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、
いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし
(開目抄 200頁)

南岳大師の四安楽行に云く
「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず
乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、
此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして
観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は
諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり

(聖愚問答抄 494、496-497頁)


>元々言ったのは妙楽大師です。
そうですね。
妙楽大師が唱題していたとしてもそれは自行のための理行の題目ですから、
自行のみで化他のことについて言及していないのは至極当然のことなのです。

像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて
自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、
末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり
名体宗用教の五重玄の五字なり
(三大秘法禀承事 1022頁)

大聖人は天台の題目とは明確に違うと立て分けられています。

52銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/24(月) 04:00
>あなただって「頼基陳状」のことには触れないで、ただ「折伏やれ(趣意)」の
>無責任な主張のために都合のいい御文だけを引っ張り出していますね。

私はあなたが「頼基陳状」のことを触れているのを踏まえたうえで、
熱原の法難における大聖人の門下に対する指導を引いています。
これで不十分とは思っていません。


>その必要はありません。
>折伏はやりたいときだけやればいいのです。
>あと、私は折伏を禁止などしてません。やるのは勝手ですが仏界が涌現するとか、勤行
>・唱題を
>しのぐ功徳など期待せずにやりなさいということです。また、折伏で仏界が涌現すると
>か、
>勤行・唱題をしのぐ功徳があるかのように思い込ませるような「指導」をやるなという
>ことです。
>あなたは親や学校の先生や池田さんの言うこと100パーセント守ってますか?
>御書に書いてあること全部やってるんですか?

親の言うこと、学校の先生の言うこと、名誉会長の言うこと、
これらは別に守る必要のないことです。全く別次元のことです。
御書には事行の題目は自行化他とあります。
これは根本的なことですから私は言っているのです。


>首を斬れと言われたら斬るんですか?一睡もするなと言われたら全然眠らないんですか?

門下に首を斬ってこいなどと命じられてはおりませんし、
大聖人も日興聖人もちゃんと眠っておられます。


>言われたこと全部やらなきゃいけないんですか?
>言われたこと全部やる人間なんかいません。
>状況にふさわしくないことはどんなに偉い人が言おうとやる必要は無いのです。

状況にふさわしい行動をとらねばならないのは至極当然のことです。
大聖人もそうしなさいと仰ることでしょう。
私は今ここで、現実的にあなたにどうしろこうしろと言っているのではなくして、
教義的な、原則的なことを問題としているのであり、勘違いされないようお願いします。


>あなたの書き込みは学会本部サイド寄りの視点でばかり信心を考えているように見受け
>られます。
>一度、娑婆世界で苦闘している一般信者の観点で信心を考え直してみてはどうですか?
>ところであなたはずいぶん学会本部の肩を持ってるようですが、あなたは学会本部の役
>員か職員ですか?

それはあなたが学会本部を深く敵視しているからそう思うのでしょう。
全くの考えすぎです。私は御書に照らして答えている心算ですし、
学会本部の役員職員でもなければ、職場も学会とは無縁です。
私は普通の娑婆世界で苦闘している末端の学会員ですので、考え直す必要もないでしょう。


>あと、人間と宗教の関係について、あなたは「宗教のための人間」だと思いますか?
>それとも「人間のための宗教」だと思いますか?

「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄 856頁)
であり、また、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曾谷入道殿御返事 1025頁)
です。

53銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/24(月) 10:01
>>52の訂正
>大聖人も日興聖人もちゃんと眠っておられます。
       ↓
     日興上人

54ペルシャ☆ </b><font color=#FF0000>(9qsEuYFE)</font><b>:2004/05/24(月) 21:02
遥様、モーリス様、はじめまして☆彡
ペルシャ☆ですの。よろしくお願いいたしますの。

銀舌居士さん。おひさしぶりですの。
ふふふ・・・☆
お名前は変えていてもトリップでわかります・・・☆
皆様、ご熱心に討論されているんですのね。いいことだと思いますわ。

゚・*:.。 .。.:*・゜゚・*:.。.☆ .。.:*・゜゚・*・゜゚・*:.。☆.゚・*:.。..。.:*・゜☆゚・*・゜゚・*:.。. .・

Wei&szlig;t du, wieviel Sternlein stehen
an dem blauen Himmelszelt?
Wei&szlig;t du, wieviel Wolken gehen
weithin &uuml;ber alle Welt?
Gott der Herr hat sie gez&auml;hlet,
dass ihm auch nichit eines fehlet,
an der ganzen gro&szlig;en Zahl,
an der ganzen gro&szlig;en Zahl.☆

55遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/05/25(火) 07:51
>>54

ペルシャ☆様

はじめまして(^^)
アニメが好きとお見受けしました。。フフフ ( ̄ ー ̄)キラーン
どうぞよろしくです★。、::。.::・'゜☆。.::・'

56モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/31(月) 06:58
>銀舌居士 (ozoLVp46)さん

>>御書や経文に功徳を謳っているのはわかりますが
>>勤行や唱題を上回る功徳があるとでも言うのですか?
>上回るということは言っておりません。
では勤行・唱題以下ですか?
創価学会では折伏をやるとさも勤行や唱題をはるかにしのぐ功徳があるかのような
指導をしてますが。

>このように御書に明確ですから、どちらが欠けてもいけない、
>ということを私は言っているのです。

いけないことはありません。勤行と唱題で十分です。
勤行と唱題で功徳を受けている人はいくらでもおります。
いけないと言ったところで、折伏が欠けたらわれわれの生活に何か
悪影響でもあるのでしょうか?何もありません。
折伏が欠けて困るのは学会本部役職員や関連団体の役職員だけです。

57モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/31(月) 06:59
>唱題せずに折伏だけをしてもダメです、とは言いましたが、
>折伏で仏界が起きない、ということを私は認めてはいません。
>それを認めていたら、あなたとこうして話をする必要がそもそもないでしょう。

いいえ、折伏で仏界は起きません。
勤行・唱題をやるだけで仏界が起きるのですから
折伏で仏界が起きるというなら勤行・唱題をしなくても折伏をするだけで
仏界が起きるはずです。
勤行・唱題もやってはじめて折伏で仏界が起きるなどと言うのは、結局のところ
勤行・唱題で仏界が起きているだけであって、折伏が仏界を起こさせているのではないのです。

>>その責任は一般信者にメシを食わせてもらっている僧侶や教団の役職員が
>>負うべきであって一般信者が負うべきものではありません。
>そのような差別を大聖人がされていないことは先に示したとおりです。
いいえ、たとえ大聖人が示そうと一般信者が負うべきものではありません。
僧侶や教団の役職員は一般信者にメシを食わせてもらっているのですから
組織の維持拡大の責任は大いにあります。

58モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/31(月) 06:59
>>本人の発心のみで見返りも求めず真心で仏法を知らせたいときだけやればいいのです。
>「見返り」とはそもそもいったいなんのことですか?
>功徳とは積功累徳、もしくは功能福徳の略ですが、見返りという意味は全くありません。
>功徳にしろ、宿命転換にしろ、全ては自身の生命に求められるものあります。
>自分以外の何者かから貰うものであれば、見返りという言葉も当てはまるでしょうが
>そういうものは仏法には本来、全く関係のないことです。
>あなたは自行のみでも功徳があるということを仰いますが、もし功徳を「見返り」
>という風に解釈しているのであればそれは全くの間違いであると指摘しておきます。

間違いでもなんでもありません。
功徳は仏道修行の見返りではありませんか。
自身の外から来ようが中から来ようが関係ないのです。
そして私が言おうとしたのは折伏したければそういった見返りを一切期待せずにやれということです。折伏で仏界は起きないのだから、折伏するなら勤行・唱題をしのぐ功徳などアテにしないでやれということです。

続きは今晩書きます。

59醜いアヒルの子:2004/05/31(月) 15:50
初めまして、こんにちわ。
新米学会員のアヒルです、よろしくお願いします。

※諸法実相抄より
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て
三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、
行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、
行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

※三大秘法稟承事より
末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異なり
自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり

※寂日房御書
かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり

>モーリスさん
上の2つの御文に沿って、信行学の3つの大切さを先輩から教わりました。
私も功徳という見返りのみを期待して折伏や勤行唱題をするのは違うと思います。

目の前で困っている人がいたら、手を差し伸べるように
幸せになって欲しいと思うから折伏をするなら問題ないと思います。
また対話することによって、色々な人と話、自分も相手から教わって吸収して
成長することもできるとも思いますしね v(^▽^)
相手に話していくことの必要性って大きいんじゃないのかな?

信行学って3つで1つって私は教わりました。
信じる心、行っていくこと、学ぶこと、どれが欠けてもダメだよって。
行うには、自分が実践して勤行唱題をすることと、相手に伝えていくことの
自行化他という2つがあるんだよって。
自分だけが幸せになって、人はどうでもいいよってなったら、大聖人の仏法から
はずれてしまうんだよ?
皆が幸せに!っていうのが、大聖人のお心だからねって。

私に上記のように教えてくれた先輩は間違っているのでしょうか?
今、友人と、幸せについて仏法対話を少しずつ初めているところです。
でも、モーリスさんのお話を見ていると、先輩の意見や、自分が行っていることが
間違っているのかと迷いが生じ、とても悲しくなったので少し書かせていただきました。

先輩や私っておかしいのでしょうか?

60遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/05/31(月) 16:26
>>59

醜いアヒルの子さん☆

はじめまして。管理人の「遥」と申します
まず注意ですが。。。
ここは上の注意書きにもあるように。。また常連さんの方々、ROMなさっている方々の中には、御書のごの字も知らない方がいらっしゃいます。
まず、そのことをふまえて、御書を引用する際には、ちゃんと「わかりやすい解説つき」でお願いいたします

そして
>自分だけが幸せになって、人はどうでもいいよってなったら、大聖人の仏法から
>はずれてしまうんだよ?
>皆が幸せに!っていうのが、大聖人のお心だからねって。

基本はもちろんコレです
私もそう思います
ではなぜ、こういう掲示板が建ったのか。。。
それは「自分だけの幸せでいいんだよ」という指導が多いからなんです

61遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/05/31(月) 16:28
醜いアヒルの子さん

続きですが。。。
迷いが生じて悲しくなる。。とのことですが。。。
ネットを見て迷いが生じて悲しくなるのならば。。
ネットはしない方がいいかも。。。
したとしても、他の学会の掲示板がいいと思います
信心は自分自身がこれからも行っていくことですからね
相手に迷惑をかけていないのなら、自信もって折伏してくださいね

62モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/01(火) 05:38
>>58からの続き)

>一言で言えば自他ともの幸福のためです。

きれいごとはおよしなさい!
いまは自他ともの幸福などといっていられるでしょうが
自分と他人がそれこそ生涯の命運をかけて対立するようになれば
他人の幸福より自分の幸福を優先するに決まってます。


>>やめたい人はやめればいいのです。
>>あくまで本人が決めることです。
>>誰だって自分の責任で生きているのです。
>確かに退転させないよう、脅したりお願いしたりする必要はありません。

そういいながら、実際には創価学会では「退転は堕地獄の因」などと
言って脅かしてますね。激励とは程遠いですね。

63モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/01(火) 05:41
>しかし、人間とは自分だけで生き存在しているものではありません。全ては縁起です。
>縁によって退転することもあれば、縁によって発心することもあります。
>弱気になっているのであれば、励ますことが肝要であろうと思います。
>後で悔いても遅いからです。

励ますこと自体は否定しませんが、最後に決断するのはあくまで本人です。

>できるものもあればできないものもある、というのが現実です。
>その上で私は熱原の法難における大聖人の門下に対するご指導をひきました。
>大聖人は大勢の門下を法難によって亡くしておられます。
>また、戸田先生の必死の祈りの甲斐もなく、牧口先生は獄中で亡くなられました。
>私が救い出せるなどと言えばそれは嘘になるでしょう。

それならば、折伏は学会本部役職員やあなた一人でおやりになることはあっても、折伏す
ることを他の者には勧めないでいただきたい。なにしろ折伏すれば難を受けるそうですか
ら、そんな危険性をはらむ行為をすることを他人にすすめるならばそれなりの責任を覚悟
することです。

64モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/01(火) 05:48
>大聖人の人生が壊れていると仰りたいわけではないでしょう。

自分で進んで難を受けているのをとやかくいうつもりはありませんが
一般信者を危険にさらすような言動についてはそれがいかなる宗教的信念に
基づこうと大いに異議を唱えます。

>正しいことを正しくやって人生が壊れることなどありはしないと思っております。
>本当に真剣に唱題をあげにあげ抜いて、なんら後ろめたさを感じることのないような
>折伏を堂々とし抜いて、人生が壊れたという人を私は知りません。
>この現代においてでも、半年間で12人弘教したという人を私は知っていますが、
>その人の人生は壊れてなどおりません。

なぜ「人生が壊れることなどありはしないと思っております。」ではなく
「人生が壊れることなどありはしません。」と断言できないのですか!
その人の人生が壊れてないから他の人の人生も壊れないという保証があるのですか?
難の程度によっては人生を壊す可能性は十分ありますよ。
解雇されたり、破談になったり、離縁されたり、村八分になったり、果ては刃傷沙
汰になったりと、人生を壊す可能性はいくらでもあります。銀舌居士さんが引き合い
に出す熱原の信徒はどうですか?斬首され天寿をまっとうできなかったではないですか。
人生が壊れたではないですか。
そもそもなぜ難を受けるリスクに身をさらさねばならないのですか?難を受けるリスクに
身をさらしたら仏界が涌現するんですか?
わざわざ難を受けに行ったり招きよせたりしなくても、誰でも生きているうちには
四苦八苦があるのですから、その四苦八苦を克服する信心をやりさえすればいいのです。
わざわざ難を受けに行ったり招きよせたりするのは学会本部役職員やその関連団体の役職員や
銀舌居士さんだけでやってください。

65モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/01(火) 05:55
>彼らが折伏するのが当然なのは否定しませんが、
>彼らの人数などたかが知れており、期待するようなものではないでしょう。

人数が足りなければ足りるだけ雇えばいいではないですか。
一般信者をタダ働きさせるなど到底容認できません。

>このように、折伏しないと悪道に落ちるというから×なのです。

現実には折伏しても悪道に落ちる人間はいますし、折伏しなくても悪道に
落ちたりしません。

66モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/01(火) 05:55
>末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり
>(三大秘法禀承事 1022頁)
>あなたの仰ることには「自行化他に亘りて」が抜けております。

抜けてかまいません。自行で十分です。
化他では仏界は涌現しませんのでやっても無駄です。生活には無益です。
どうしてもやりたければ無駄を承知で勝手におやりになればいい。

>あなたは勤行をされているでしょう。五座のご観念文も観念されているはずです。
>「世界の平和と一切衆生のために」
>これと矛盾していれば論理的に考えて当然それは真実ではないと言えるでしょう。

その祈念は私もやってますよ。
しかしあなたのいう「真実の発心」は「世界の平和と一切衆生のために」よりも
創価学会の組織の利益が先に来るのではないのですか?

>>池田さんや学会本部役職員に忠誠を誓うことですか?
>そんなことはしなくてもまったく構わないことです。
>まっとうな人でそのようなことをしろと言う方はいないと思います。

まっとうな人がいないのです。
もっともまっとうな人では学会の幹部はつとまらないでしょう。
まっとうな人は学会本部の方針と対立せざるを得ないので組織を追われます。

(続く)

67悟空 </b><font color=#FF0000>(Son59RQs)</font><b>:2004/06/01(火) 18:54
銀下居士さん、はじめまして。

横レスで申し訳ありませんが、唱題・勤行・折伏その他活動が、仏界涌現のための
十分条件なのか必要条件なのか、あるいはそれぞれの組み合わせが十分条件になる
のか必要条件になるのかを明確にされたらいかがでしょうか?
モーリスさんの文章を読むと、十分条件とそうではないものとが明確に区分けされ
ているのがわかりますが、銀下居士さんの場合、レスによって十分条件だったり、
なかったり、同時に存在することを十分条件としていたりと読めてしまって、議論
の妨げになっているように感じれれますので・・・

68モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/02(水) 06:50
>私が勝手に言っているのではありません。御文のまま申し上げているのです。
>これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし、
>いはずば慈悲なきににたりと思惟するに法華経涅槃経等に此の二辺を合せ見るに
>いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、
>いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし
>(開目抄 200頁)

御書に書いてあっても全然悪道に落ちません。
世の中の大半の人たちは創価学会員でない人たちばかりですが、
全員悪道に落ちてますか?絶対に悪道に落ちるのですか?
書いてあることを鵜呑みにして悪道に落ちると決め付けるほうが
どうかしてます。

>妙楽大師が唱題していたとしてもそれは自行のための理行の題目ですから、
>自行のみで化他のことについて言及していないのは至極当然のことなのです。
>像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて
>自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、
>末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり
>名体宗用教の五重玄の五字なり
>(三大秘法禀承事 1022頁)
>大聖人は天台の題目とは明確に違うと立て分けられています。

ご趣旨は承りました。
しかし自行だの理行だの化他だのを一々意識しなくても勤行・唱題すれば功徳は
受けられますし、天台の題目と大聖人の題目を一々立て分けて唱題する人なんかいません。
あと、いくら化他が大事といったところで、化他で仏界が起きない以上、少なくとも
私にとっては化他をやる意義はありませんし、化他だけで仏界が起きることでも
証明してもらわないことには納得しようがありません。

(続く)

69モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/03(木) 06:45
>私はあなたが「頼基陳状」のことを触れているのを踏まえたうえで、
>熱原の法難における大聖人の門下に対する指導を引いています。
>これで不十分とは思っていません。

日寛上人の御文については時代背景がどうの言いながら
大聖人の指導については「頼基陳状」を出している事実は無視して
「折伏やれ」の趣旨の御文だけ引くとは、いかにも無責任な主張ですね。
「折伏やれ。あとは知らないけどな。」の姿勢がありありです。

>親の言うこと、学校の先生の言うこと、名誉会長の言うこと、
>これらは別に守る必要のないことです。全く別次元のことです。
>御書には事行の題目は自行化他とあります。
>これは根本的なことですから私は言っているのです。

別次元じゃありませんよ。人間が教えていることなのですから。
御書に書いてあっても守る必要の無いことは書かれていますけどね。
化他も根本と言ってるのは、そう言わなければ誰も折伏をやらなくなるから
言ってるに過ぎません。


(続く)

70モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/04(金) 06:36
今朝は続き書けなかったので
また今晩にでも書きます。

71モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/05(土) 05:16
(続き)

>門下に首を斬ってこいなどと命じられてはおりませんし、
門下に命じてなくとも、念仏者たちの首を斬れと言ってますね。
同じ大聖人のお言葉ですが…
もっとも本仏と崇め奉られている割には軽率な発言だと思いますけどね。
(私は日蓮さんの南無妙法蓮華経の力は信じてますし、私なりに日蓮さんを
尊敬もしてますが本仏とは思っていません。)

>大聖人も日興聖人もちゃんと眠っておられます。
書いた本人さえできないようなことも御書に書かれていることはこれでおわかりでしょう。
たとえ御書に書いてあってもできることだけやればいいのです。

>教義的な、原則的なことを問題としているのであり、勘違いされないようお願いします。
教義的な、原則的なことであっても同じことです。
一般信者がすべてをやる必要は無いのです。すべてやる義務があるのは
学会本部の役職員たちです。

72モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/06(日) 20:49
>それはあなたが学会本部を深く敵視しているからそう思うのでしょう。
>全くの考えすぎです。私は御書に照らして答えている心算ですし、
>学会本部の役員職員でもなければ、職場も学会とは無縁です。
>私は普通の娑婆世界で苦闘している末端の学会員ですので、考え直す必要もないでしょ>う。

いかにも学会本部と学会本部に与同する者を敵視してますよ。
折伏や新聞セールスや投票依頼をやれば勤行唱題をしのぐ功徳があるかのように
思い込ませて会員をタダ働きさせるなどとんでもないことです。

>>あと、人間と宗教の関係について、あなたは「宗教のための人間」だと思いますか?
>>それとも「人間のための宗教」だと思いますか?
>「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄 856頁)

その御文を引くのは見当違いのような気がしますが…
私は「人間のための宗教」だと思いますけどね。

>「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曾谷入道殿御返事 1025頁)

勤行・唱題さえ毎日やっていればいいのです。あとは自分の判断で行動すればいいのです。
折伏で仏界は涌現しませんので、それをやるやらないも自分の考えで決めればいいのです。
心を師としてはいけないからどうだというのですか?学会本部の言うことを聞けとでも?

73醜いアヒルの子:2004/06/07(月) 18:04
>>60-61
管理人の遥さんへ。

お邪魔させていただいています。
御書の引用方法に関しては了承いたしました。
今からでも現代語訳を書いた方がいいのかな?

>それは「自分だけの幸せでいいんだよ」という指導が多いからなんです
最初に書いたように、まだまだ駆け出しなのでよくわからないのですが
自分だけ幸せならいいというのは本来の姿ではないはずですよね?
なぜ、そういう指導が多いのかな?
指導に関しても、遥さんや他の方々に比べて全く知らないに等しいので
できましたら自分のみが幸せならいいという指導内容を教えて頂きたいのですが。
お願いしては駄目でしょうか?

ずうっとここに書き込みをさせて頂いてから、心に引っ掛かっていました。
いいところ、悪いところを全部見極めたうえで、学会員として活動させて頂きたいと
すごく思いました。
しばらくの間、滞在させていただくと思いますが、よろしくお願いします。




引き続き、モーリスさんからのお返事お待ちしております。

74遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/06/07(月) 21:46
>>73

醜いアヒルの子さんへ

お問い合わせの指導の件なのですが、『指導内容』として具体的になんてお答えをしていいか困ってしまいました
。。。というのも、私が知りうる方の口から皆さんこのようなことを言いますのでw
私の頭の中に残っている指導も
「他人の為。。他人の幸せを祈ることによって、自分自身も幸せになる」
ということだったので、余計に驚いたのです

私が活動を休むときにも、やはり婦人部長に言われました
電話で相談した会館の方にも言われました
私は今、前のように活動していないし、新聞も読んでいないのですが、根本的な学会の指導としては、
「他人のため」だと(私は)信じています

75遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/06/07(月) 21:48
>>73

御書の現代語訳については、次回からでかまいません
もし、知りたい方の書き込みがあったときには、よろしくお願いいたします

76遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/06/07(月) 22:01
そうそう
もちろん幹部の方に
「私は『他人のため』だとおもっていました」
と言いました
すると。。。
「うん。そうだよ。結局、自分に功徳が戻ってくるでしょ」
と言う事でした
またまたつっこむと、『他人のため』ということは省いているというニュアンスだったのですが。。。
私の知りうる方の言い方では、とてもそんな風には聞こえません
私の命がもうバリじゃないからでしょうか?
とも思ったのですが、やっばり誤解を招く指導はいけないんじゃないのかなぁ?って思います
で、そういうことをちゃんと話し合える組織作りが必要なんじゃないのかなぁ?とも思っています

77銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/08(火) 00:26
レスが大変に遅れまして申し訳ありません。

>>28 つぶやきさん

現在、仕事などで忙殺され気味ですので、ここには
あまり時間を割けられませんし、いつまで書き込むかも
わかりませんがよろしくお願い致します。


>>54 ペルシャさん

はて、どこかでお会いしたでしょうか?
人違いじゃありませんか?(笑)


>>34-40 ぱるぱるさん

ぱるぱるさんは学会員だと思い込んでおりまして
かなり不適当なレスをつけてしまい心苦しく思っております。

たくさんのレスをつけていただき恐縮なのですが、
ご批判の中には正確でない事柄が見受けられます。
伝聞や学術的でないものからの借用だと思うのですが、
一度確認のほどお願い致します。
仏界以外のことは、モーリスさんとの話からそれることでもありますし、
また勝手ながら当方の時間の都合がつきませんのでレスは
見送らさせていただきたいと思います。


>>67 悟空さん

ご忠告有難う御座います。
悟空さんの仰ることにも一理はありますが、
基本的にはあまりそうしたことは問題ではないでしょう。
モーリスさんと私との間には仏や法、信仰に対する理解、
生命観等に違いがあり、前提条件そのものが共通していないことが
問題なのだと今は考えております。

78ぱるぱる:2004/06/08(火) 09:05
>>77 銀舌居士
レスありがとうございます。
>ぱるぱるさんは学会員だと思い込んでおりまして
>かなり不適当なレスをつけてしまい心苦しく思っております。

私の始めのレスのどこをどう押したら学会員と思われるのかさっぱりわかりません。
言い逃れではないのでしょうか?
ここはもとから非会員の人も来る掲示板です。
そして、不適切というのであるならば、やはり学会の仏法が道理などと仰らないで頂きたいです。
失礼な発言のもとがそこにあるのならば、学会員相手であろうと非会員相手であろうと相手を納得させられるはずです。
それができないというのならば、もうすでに破綻されているのではないですか?
もしあなたが自分にとっての真実と客観的な事実を混同されているならば。

>ご批判の中には正確でない事柄が見受けられます。
>伝聞や学術的でないものからの借用だと思うのですが、
>一度確認のほどお願い致します。

現実を見なくてはいけないのはあなたの方だと思います。
どこを確認しなくてはいけないか指摘もしないでこういう事を書くのは
そう書いてお茶を濁し、ご自分の殻に閉じこもっていくように私には見えます。

79銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/08(火) 10:51
>>78 ぱるぱるさん

まずスレタイのご確認をお願いしたいのですが、
仏界が涌現するか否かを論じているスレですので
このスレは根本的に内部的な性格を保有しています。
議論に加わるならば、ある程度教学についてご自分で
調べていただかないと困ります。
私は外部の方に教えるためにレスをつけているわけではありませんし、
仏界について私は独自の解釈をしているわけではありませんので、
ご自分で検索をするなりしてお調べ下さい。
基礎的な知識がありませんと、いたずらに話の流れが拡散され、
私とモーリスさんとの会話が阻害されるおそれがあります。
正直言いましてそうした不安を抱かせるようなことをされるいわれは
私には御座いませんのでご遠慮を願いたいと思います。

また、不適切であると言ったのは、外部であるぱるぱるさんに対して
内部の方に対しての話をしてしまったためです。
例えるなら相手が家族と他人では話し方が変わるようなものです。

このスレは仏界が涌現するか否かを論じるスレであって
「仏界がどんなものか」「仏界があるかないか」を論じるスレでは
ありません。
少なくとも仏界という概念を教学的側面から理解し、認めるという
前提の下で話は進められるべきであると考えておりますので
あなたが仏界について理解できるか否かはこの場では問題ではないのです。
必要であれば、別途そのようなスレを立ててください。

また、どこを確認しなければいけないか、何故指摘しなかったかといえば
それはそのようなことを議論しはじめるのがスレ違いだからであります。
仏界を論じるというのは極めて教学的な事柄ですが、経典史や御書に関する
資料的研究、またその内容の解釈を持ち出すからには、それなりにしっかり
としたものを提示して、その上で仏界について論じていただかないと
かえって興をそがれる結果となるのです。
しっかりとした研究を元に話をしていただけるのならば歓迎します。
ともあれどうしてもと言うならば、これも先ほど同様別途スレを立ててください。
そこでご説明致しましょう。

80ぱるぱる:2004/06/08(火) 11:32
>>79 銀舌居士さん
お忙しい中レスありがとうございます。

しかし、おかしなお話しですね。
>>79のようなご指摘ならば、私が>>14を書いた時点でできるのではありませんか?
それに私はあなたにレスしたわけではありませんし。
基本的にはモーリスさんであり、スレッドについての所感です。
そこに>>16のレスをつけてきたのはあなたですよ?
私は>>14ですでに仏界とは基本的になんですか?と問いかけ、願望達成という観点からのお話しをしています。
モーリスさんと私の考える願望達成という考え方の共通点をあげています。
それから所感として御書というものの捉え方を書いています。
もちろんあなた宛ではありません。
今さらあなたからスレタイとしてどうの、不適切などと言われる筋合いはありません。

81ぱるぱる:2004/06/08(火) 11:55
>>78で銀舌居士さんの敬称をつけていませんでした。
申し訳ありませんでした。

82ぱるぱる:2004/06/08(火) 12:27
醜いアヒルの子さん、はじめまして。
非会員のものですが、主人が学会員で以前活動家でした。

少し横レスさせてください。
「自分の幸せの為だけ」という指導は、表だってすることはないと思います。
ただ、折伏やいろんな活動は相手の為でそしてそれが自分の功徳として帰ってくるものと
教えられるのではないでしょうか?
そしてその大義名分のもとに、卒業アルバムの名簿でまったく連絡をとっていなかった
同窓生にいきなり選挙依頼の電話をかけたり、有名人が来るからと学会の会合だと言わずに
外部の連れ出しを行ったりしていると思います。
しかし、された相手の気持ちを学会のかたは考えていないように思います。
自分達の大義名分をこちらに押しつけているのですから。
これは結自分が幸せなら(活動の成果をあげる=自分の幸せ)いいという
実態になっているのではと思われます。

83悟空 </b><font color=#FF0000>(Son59RQs)</font><b>:2004/06/08(火) 12:38
銀舌居士さん

必要条件・十分条件について、
>基本的にはあまりそうしたことは問題ではないでしょう
とのことですが、
折伏・選挙・新聞等で
>仏界が涌現するか否かを論じているスレですので
ということは、
折伏・選挙・新聞等が仏界が涌現の十分条件か否かを論じている
のではないんですか?

ところが銀下居士さんは

1.>>3 >唱題だけでも×です。折伏だけでも×です
    ↑個別には十分条件ではないと発言

2.>>13>唱題のみでも仏界は開く
     ↑唱題は仏界涌現の十分条件であるとして自ら1を否定

3.>>13>御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、素直に実践されていく
     ↑別の条件を付けて自ら2を否定

4.>>22>私は唱題行のみで仏界が開かないとは言ってはいません
     ↑唱題行が十分条件であると発言して再度自ら3を否定

5.>>48>このように御書に明確ですから、どちらが欠けてもいけない
     ↑自ら4を否定

等々おっしゃっていることに一貫性が無いととられても仕方が無いような
書き方をしています。
これでは根本的にお話にならないと思うのは私だけでしょうか?

84ヤレヤレ:2004/06/08(火) 13:47
醜いアヒルの子さんへ
http://www02.so-net.ne.jp/~nkr-606/kaiin/kaiin012/shakubuku1.html
ここの「どうすれば折伏ができるか」の項目を読んでみてください。
「おまえ達は不幸製造器なのか?」と言いたくなります。
不幸など、はじめから無いに越したものだと思いますが・・・
こう言う事を平気で言えるのは学会組織の指導ではないでしょうか?

85ぱるぱる:2004/06/08(火) 14:06
>>79
もう一つ付け加えておきます。
>また、どこを確認しなければいけないか、何故指摘しなかったかといえば
>それはそのようなことを議論しはじめるのがスレ違いだからであります。
>仏界を論じるというのは極めて教学的な事柄ですが、経典史や御書に関する
>資料的研究、またその内容の解釈を持ち出すからには、それなりにしっかり
>としたものを提示して、その上で仏界について論じていただかないと
>かえって興をそがれる結果となるのです。

そんなに大上段に構えなくても、学会教学とそれ以外の仏教学を照らし合わせればすぐわかることも多いのでは?
オリジナルの学会の教学にしたってだいたい破綻してるじゃないですか。
大石寺の講の頃は、血脈をどう言ってました?今はどうですか?
どうしてこういう大事な事がコロコロかわるのですか?御書は変わらないのでしょうに。
偽書の疑いがあるとはいえ日蓮による二箇相承書で「血脈相承」は証明されているのが、
学会の「大聖人直結論」には日蓮による文証がないのではないですか?
創価学会の「大聖人直結論」に従えば、自分は日蓮とつながっている確信すれば別に創価学会に属さなくても
よいということでしょうから、本尊の曼陀羅も創価学会からもらわなくても自分が良いと思うもので良い事になります。
したがって、学会の組織活動である新聞啓蒙も学会への勧誘という事になる折伏も選挙活動も必要ないと言えると思うので
モーリスさんの言ってる事はどっちに回っても矛盾しないと思っています。

86ぱるぱる:2004/06/08(火) 14:42
それに、仕事で忙殺されててここに時間が割けなくていつまで書き込むかわからないというかたに、
別スレ立てろと言われても・・・って感じなのですが。
始めから私の書き込みにああいうレスしなかったら良かったんじゃないでしょうかねぇ・・・。

87銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/08(火) 20:43
>>80,85,86 ぱるぱるさん
ぱるぱるさん、あなたの>>14のレスですが、
これはは私のレスの直後に書かれてありますし
誰宛とも示されておりませんことを忘れないで下さい。
内容的にもモーリスさんと同調していると感じたために、
私はレスをつけたのです。
ただ、結果的には私宛でないということが分かりましたし、
スレの本題とそれる内容であるため省略させていただいた
という次第なのです。

ちなみに私は折伏のみに限定してモーリスさんとはお話しています。
これは純粋に教学的側面から考えるためであり、学会への勧誘という
あなたの仰るような事柄を論点から排除するためにあります。
血脈がどうこう、創価学会に入れさせるのがどうこう、
今論じていることにはそうしたことは関係がありません。
「創価学会はおかしいから折伏しても功徳ないよ」
とはモーリスさんは仰っていません。
「大聖人が折伏しろと言っててもそんなの関係ない。折伏に功徳なんてない」
簡単に言えばモーリスさんはこう言っているわけなのです。
自行化他というものが根本であるという教義を論ずるにあたっては、
論客が日蓮宗でも日蓮正宗でも顕正会でも正心会でも国柱会でも関係ありません。
血脈のことは全く関係がないということをご理解していただきたい。

88銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/08(火) 20:48
>>83 悟空さん
私は前提条件が等しくなければ議論は成立しないということを
言っているのです。具体的に言えば仏法では信・行・学と言いますが、
行に関することはおろか、信の対象が共通していない事が問題だということです。

ともあれ、私の言っている事に対して一貫性がないと
ご批判のようですので試しにご説明しましよう。

まず、4からいきますが、これは初信の功徳についてですが、
初信というのは読んで字の如く、初めて「信」ずるということなのです。
自行化他は「行」ですから本来ここで挙げられるべきことではないと考えます。

次に3ですが、これは不当な仮定です。
>唱題をしていく中で、御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、
>素直に実践されていくことになるならば、それをもって
>唱題で仏界が開くという確たる現証とみなすことができるでしょう。

現証というのは即ち功徳です。
「御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、素直に実践されていくことになる」
これ自体も唱題の功徳だと私は言っているのです。
働きに徳性が備わっていると仏法では考えますので、
例えば、「親切をする」という条件を満たして「親切」という徳がゲットできる、
などということではないのです。
親切という行為そのものの中に親切という徳は備わっている、と考えるのが仏法です。
仏界が涌現されているなら当然、仏の徳性がその振る舞いの中に備わっているものと
考えられます。もちろん御本仏の書かれたことは信じて当然でしょう。

ともあれ2と3についての関係をご説明しました。要は矛盾するものでないということです。
1〜5までも同じようなことが言えるだろうし、2と3が逆になる、つまり折伏するから
一生懸命唱題あげるようになる、ということもありえます。
考えていただければわかると思うのですが、自分の功徳しか考えていない人を
仏と言えるかどうかということです。自分の功徳しか考えていなくても唱題していれば
他人の成仏も考えられるようになるのが煩悩即菩提のこの信心の素晴らしさかとは
思いますが、それも信が根本にあってものです。

一切衆生に仏性があることが法華経には説かれてあり、
一切衆生=自他共の仏性に対する信は基本的なことです。
ですから折伏、これは他者の仏性を礼拝することとも言えますので、
功徳が否定されるわけがないのです。
そして、一切衆生=自他共の仏性に対する信があれば、
自行化他という行になっていくのは当然と言えるでしょう。
これを否定することは仏法を、他者の仏性を否定し、信じないことにも通じますので、
私はモーリスさんとお話をしているのです。

89銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/08(火) 21:15
>>71 モーリスさん
たくさんのレスをありがとうございます。
まずは一点確認を取っておきたいことなのですが、
あなたは日蓮大聖人を本仏でないと考えていらっしゃるということですが、
では誰を本仏とされているのでしょうか、教えてください。
理由も併せて書いていただければ助かります。

90悟空 </b><font color=#FF0000>(Son59RQs)</font><b>:2004/06/08(火) 21:37
銀舌居士さん

4については納得いたしましたが、1と2ではどうなのですか?
1、2、5でも十分二転していませんか?
3が不当な仮説とおっしゃっていますけど、それならば2は否定
されておらず、1と2は矛盾するとはならないですか?

91銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/09(水) 00:00
>>90 悟空さん
化他行は相手があってのものです。
当然自行と違い、したくてもできないこともあります。

自行化他が基本的に大事であるということはわかっているが、
自行しかできていないという状況の方は大勢いらっしゃいます。
というか大半がそうです。
(1年365日弘教されている方を私は知りません)
しかしそうした方は、折伏を否定されているわけではありませんので
状況が動けば折伏するものだと私は思っています。
それは信がぶれているわけではないからです。
私が唱題のみでも功徳はある、と言うのはそうしたケースの場合です。

モーリスさんの場合これとはかなり異なります。
自行化他を否定され、折伏に功徳はないと考え
自行のみをしているのです。
これは先のケースとは明らかに信の質が異なっています。
私が×と言うのはこのケースなのです。

自行化他が基本的に大事だと信じる場合と、
化他行は必要ないと信じる場合は、
明らかに考え方も信じ方も異質となっています。
同じ自行でも前提となる信が異なっているわけです。
私が唱題のみでも功徳はあると言ったとしても
私のそれは化他行も将来にありうる自行です。
ですからモーリスさんのそれとは別物であると考えていただきたいと思います。

92ぱるぱる:2004/06/09(水) 08:32
>>87 銀舌居士さん
>これはは私のレスの直後に書かれてありますし
>誰宛とも示されておりませんことを忘れないで下さい。
ご自分の勘違いを私のせいになさりたいのですか?
別にルールではありませんが、掲示板では誰か宛の場合、誰々さんと始めに書きますよ。
ここでもそうです。
名前ではなく、書き込みの番号あての場合、>>と番号を書いています。
そのどちらもがないのですから、もともと一方的なあなたの思い込みです。

>ただ、結果的には私宛でないということが分かりましたし、
>スレの本題とそれる内容であるため省略させていただいた
>という次第なのです。

願望達成や他宗の事を否定して語ったのはあなたですよ?
人のせいにするのはやめてください。

>ちなみに私は折伏のみに限定してモーリスさんとはお話しています。
それはモーリスさんと合意されているのですか?
確かに>>3であなたは
>通りすがりですが、支援・新聞啓蒙はひとまず置いておくとして。
と書いてありますが、モーリスさんとその点合意していないように読めますが。
モーリスさんは一貫して折伏と選挙支援と新聞啓蒙をひとくくりで考えていらっしゃいますよ。

93ぱるぱる:2004/06/09(水) 08:51
(続き)
>これは純粋に教学的側面から考えるためであり、学会への勧誘という
>あなたの仰るような事柄を論点から排除するためにあります。
>血脈がどうこう、創価学会に入れさせるのがどうこう、
>今論じていることにはそうしたことは関係がありません。

びっくりしました。
あなたの仰る教学的というのは御書(日蓮の遺文)という事のようですが、それでしたら血脈こそ
もっとも大切な教学の一つではないですか。
日蓮が書いたとされる「二箇相承書」が関係ないと?
折伏はいったいなんの為にするのですか?信仰があるからではないのですか?
その信仰の拠り所とも言える血脈を関係ないと言えるあなたはただたんに、
ご自分の都合のいいように教学を利用しているように思えます。

>「創価学会はおかしいから折伏しても功徳ないよ」
>とはモーリスさんは仰っていません。
>「大聖人が折伏しろと言っててもそんなの関係ない。折伏に功徳なんてない」

だったら、教学的なお話しをされる事自体がナンセンスではありませんか?
あなたが御書を引き合いにだしても、それ自体モーリスさんは否定されているのですから。
あとは個々の信仰のスタイルの問題であり、モーリスさんはご自分の信じている事を
ご自分の体験で語っているのです。
もとから土俵の違う事で納得させようとしているあなたに無理があるのでは?
御書で納得させられるという思い込みがあなたにあるのではありませんか?

94ぱるぱる:2004/06/09(水) 10:16
>銀舌居士さん
スレッドに沿ったお話しをとあなたは書いていらっしゃいますが、そもそもこのスレッドは
創価学会の折伏、新聞啓蒙、選挙運動についてのモーリスさんのご意見がもとになっています。
そういう意味では銀舌居士さんの書き込み自体、スレッドからそれているとも思えます。
スレッドに沿ったお話しならば、銀舌居士さんは学会のかたと思いますが、折伏とはどういう事を指すと思われますか?
また選挙運動と新聞啓蒙についてはどう思われているのでしょうか?
その部分の意見交換なしにいきなり折伏を持ってきてもスレッドとは離れていると思います。
モーリスさんはもともと創価学会の活動を視点にしていらっしゃるので、日蓮の折伏が学会とどう
連動しているのか、まったく創価学会の事に触れようとしない銀舌居士さんのお話しでは
焦点がまったく違うと思います。

95ぱるぱる:2004/06/09(水) 14:30
>>87 銀舌居士さん
>ちなみに私は折伏のみに限定してモーリスさんとはお話しています。
>これは純粋に教学的側面から考えるためであり、学会への勧誘という
>あなたの仰るような事柄を論点から排除するためにあります。

始めから考えてみてください。
このスレッドはあなたとモーリスさんが対話する為に設けられたものですか?
あなたは通りすがりにレスしたかたですよね。
もともとこのスレッドがあなたとモーリスさんとが教学的側面から話し合う目的で
立てられたものでない以上、スレッドに関して誰がどのようなレスをしても自由なのですよ。
(もちろんマナーに従ってですが)
私があなたとモーリスさんとの間に直接わって入ったわけでなし、
書き込みの趣旨をあなたが制限する事自体始めからおかしな話しなのです。
どうもおかしいおかしいと思っていたのですよ。
あなたはこのスレッドに関して一方的な勘違いを私に向けていらっしゃるわけです。
このスレッドに関する事柄ならば、誰がどのように書いてもあなたがそれを制限する
権限も理由もないのです。

96モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/12(土) 08:59
本仏ですか・・・
あえて言えば南無妙法蓮華経でしょうか?

97モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/12(土) 09:06
学会本部では破門されたばかりのころ
時に適った布教とか言って新聞セールスを推進してましたな。

今でも末端では新聞セールスや投票依頼を折伏と同じといってますな。
学会本部の見解は知らないけど・・・

98醜いアヒルの子:2004/06/13(日) 16:50
>>74
遥さんへ

ご丁寧なお返事ありがとうございます。
それなのにお返事が遅れてしまってごめんなさい(*×*)

>「他人の為。。他人の幸せを祈ることによって、自分自身も幸せになる」
よく私も言われます(笑)
「お題目の力は凄いんだよ!人をも幸せにできるし、自分自身も幸せになれるんだよ!」って。
「人の幸せを願えるのは、とても凄いことだよね!その思いがご本尊様に伝わらないわけがない。
全部、ご本尊様はお見通しなんだよね!」
「人がいくら幸せになっても、自分が辛い状況のままだったら、やっぱり困るよね?
だから人も幸せになってくれなきゃ困るし、自分も幸せにならなきゃダメだよね!」って。
私は素直に「凄いな!」「そーだな」って思っていましたけど。。。

>「他人のため」だと(私は)信じています
私も賛成です。
友達などが辛い思いをしているのを見ると、私も辛いし、悲しいし、苦しいし。
友達が幸せになってくれて、明るくなってくれれば私にとっても幸せだし。
私はそう考えているので、他人の幸せのためだけど、それは私の幸せにもなると思っています。

>御書の現代語訳については、次回からでかまいません
>もし、知りたい方の書き込みがあったときには、よろしくお願いいたします
はーい!

>「うん。そうだよ。結局、自分に功徳が戻ってくるでしょ」
ご本尊様と向かい合ってお題目を唱えているのは自分自身。
願いは相手のことであっても、どうしても自分自身にも功徳が出てしまうのかもしれませんね。
その功徳のみを期待して唱題していたとしても、その心は御本尊様にはばれているし
本当に相手のことを願っていても、その心は伝わっている。
そのことを忘れなければ、いずれ結果として全てが出てくるんじゃないのかな?って私は思っています。

>私の知りうる方の言い方では、とてもそんな風には聞こえません
>私の命がもうバリじゃないからでしょうか?
言い方ってほんとに大切ですよね。
私も嫌いな幹部の方もいるし、身近な先輩のように頼りにできる方もいる。
何より、ほんとに自分のことを思って話してくれる人の言葉は、心に刺さりますよね。
相手の心が伝わってこない言葉で、いくら綺麗な事や理屈をならべても、何も届かない。
だから、私は遥さんだけが悪いなんて思っていません。

>やっばり誤解を招く指導はいけないんじゃないのかなぁ?って思います
ほんと、そうだと思います。
御文や信心を用いて話しをするときに、相手のことを考えて話すのが第一だと思うし
誤解を与える言い方はよくないですよね。
好き好んで誤解を与えようと思っているわけじゃないとは思いますけど(笑)

>そういうことをちゃんと話し合える組織作りが必要なんじゃないのかなぁ?
組織作りって必要ですよね。
でも、その組織を作っていくのも自分たちなんですよね。
会合などで、自分の思ったこと、不信感、憤り、不満などどんどんぶつけて行くべきですよね。
誰がなんと思おうと、私は私なので、気分が悪ければ悪いと言っています。
幹部指導も納得できるまで、話します。
結構スッキリして帰ってこれるので、遥さんも一緒に如何ですか?
信心ストップして自問自答するよりいいと思うのですが(^^;

誰かが動いて声をあげていかないと、何時までたっても何も変わらない
そんな気がします。

99醜いアヒルの子:2004/06/13(日) 16:56
>>84
ヤレヤレさんへ

初めまして、こんにちは!
サイトの紹介ありがとうございます。
これから私用で出掛けなければならないので、帰ってきてからお返事させて頂きます。
待たせてばっかりでごめんなさい。

100遥 </b><font color=#FF0000>(HARUKAvI)</font><b>:2004/06/13(日) 17:38
>>98

>結構スッキリして帰ってこれるので、遥さんも一緒に如何ですか?
>信心ストップして自問自答するよりいいと思うのですが(^^;
ありがとね〜
でもさ。。。
私もずっとそうしてきて、いい加減疲れちゃったのよ(マジで


>誰かが動いて声をあげていかないと、何時までたっても何も変わらない
>そんな気がします。
うん。
だから、こういう掲示板を立ち上げたんです
組織で訴えていってもラチがあかないんでw

ということで、これからもよろしくね★。、:*:。.:*:・'゜☆

101醜いアヒルの子:2004/06/14(月) 01:00
>>84
ヤレヤレさんへ

遅くなりました。ごめんなさい。
今、折伏の鉄人を読み終わりました。
まずは私が思った素直な気持ちを率直にかかせて頂きます。

(サイト抜粋)
  >今、折伏で悩んでいるあなたのための「超・折伏法」!                 
  >これを心肝に染め、実践しさえすれば、あなたも今日よりは「折伏の鉄人」!
役に立たない商品を、あたかも役に立つような振りをして高値で売る
お店の殺し文句みたいですよね(笑)

(サイト抜粋)
  (2)折伏とは
  >本流だけが目的じゃないということです。
その通りだと思います。

(サイト抜粋)
  (3)功徳を受けよう
  >信心は、頑張ればいいんではなくて、「功徳を受けるように頑張らなくてはダメ」なんです。
折伏の鉄人の中に「功徳を受けるための頑張り方」という項目がない。
なので、相手に通じない恐れがある、何より私には理解できませんでした。

(サイト抜粋)
  (5)どうすれば折伏ができるか(祈り方と下種先)
  >悩みがない人は折伏できません。
2で言っていた「折伏とは」の「本流だけが目的じゃない」は何処へ?
悩みがない人には折伏する必要がない、といわんばかりの発言は理解しかねます。

(サイト抜粋)
  (6)折伏でどう話すか
  >どういうように折伏するかというと、仏法の話をしないことです。
  >しかし、皆さん仏法の説明を一生懸命してるでしょう。仏法の説明は折伏ではありません。
  >ただの解説です。
そうですね。
仏法対話と言っても、仏法の解説をするのはおかしなものですね。
また、相手にも言いたいことが通じ難いでしょうし。

  >「あなたの悩みが解決した方がいいか、しない方がいいか。どうですか」
  >「した方がいいに決まっています」「じゃ、信心しましょう」これでいいんです。
  >簡単でしょう。これが折伏なんです。
確かに簡単です。
でも、二度と友人は相談をしてくれなくなると思います(笑)

  >「伏伏(ブクブク)」です。ブクブクはダメです。悩みに一歩切り込むことです。
  >パっと確信をもって切り込むことです。これが折伏です。
ブクブクには笑いましたがが、上記、下記の一例を見る限り、悩みに一歩切り込む事との
つながりが見出せませんし、またこの方の折伏自体がブクブクのように思えます。

  (7)一番悩んでいる人から折伏してあげよう
  >「悩みはどこから来るかわかりますか。」
  >「あなたの宿命から来るんですよ。」
  >「宿命はどこから来るかわかりますか。」
  >「あなたの過去の謗法から来るんですよ。間違った宗教から来るんですよ。」
  >「だから謗法を捨てて正しい信仰をすれば、あなたの悩みは解決しますよ。」
  >「信心しましょう。」
  >「はい、します。」
  >これでいいんです。簡単でしょう。
確かに凄く簡単です(笑)
でも、今時この内容で信心する人が果たしているのでしょうか?
私が折伏されている側なら、二度と接点を持ちたくなくなると思います(笑)

一生懸命に考えて作られたのでしょうけど…
あなたに友達はいらっしゃいますか?とお聞きしたくなるような内容でした。
このような悪い例を見習っての折伏だけはしたくないと、心に誓いました。

>「おまえ達は不幸製造器なのか?」と言いたくなります。
そう言いたくなるお気持ちはとてもわかります。
このサイトの内容では、まるで唱題を上げて、
不幸な人間を作って私のもとへよこして下さい!と言っているように聞こえますもの。
でも御本尊様にいくら人の不幸を願っても、願われている相手の方が不幸になる事はありません。
もし、そんなことをする仏様がいるなら、それは仏様じゃないと私は思います(笑)

>不幸など、はじめから無いに越したものだと思いますが・・・
その通りだと思います。
好きで不幸になる人も、辛い思いをする人もいないのですから。
ただ、悲しいことに、辛いことも、不幸なことも、あるんですよね。
それを乗り越えるために、幸せになるために、信心が必要なのだと私は思っています。

>こう言う事を平気で言えるのは学会組織の指導ではないでしょうか?
なかには、本当にこのように指導なさる方もいるかもしれませんね。
完全否定はできません。
私は幸か不幸か、まだ、そのような方とお会いしたことはありませんが。
ただ「幹部は、このような発言をする人ばかりじゃない」という事だけは
ご理解いただきたく思います。

102醜いアヒルの子:2004/06/14(月) 01:24
>>100
遥さんへ

>私もずっとそうしてきて、いい加減疲れちゃったのよ(マジで
とても大変だったんですね。
一日も早く活動しやすいブロック、地区になってくれるといいですね。
人のために…って思える遥さんのような方が、活動できないなんて、もったいないです。
ほんとうに。

>組織で訴えていってもラチがあかないんでw
そーですか…。
よほど聞く耳持たずのブロックであり、地区なんでしょうね。
いい人、一人もいないのかしら?
なにはともあれ、一日も早く改善される事、願っています。

>ということで、これからもよろしくね★。、:*:。.:*:・'゜☆
こちらこそ宜しくおねがいします!

それではおやすみなさい。

103銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/19(土) 18:33
>>92-93 ぱるぱるさん

>ご自分の勘違いを私のせいになさりたいのですか?
>別にルールではありませんが、掲示板では誰か宛の場合、誰々さんと始めに書きますよ。
>ここでもそうです。
>名前ではなく、書き込みの番号あての場合、>>と番号を書いています。
>そのどちらもがないのですから、もともと一方的なあなたの思い込みです。

そのとおりです。
そのどちらもないのですから、あなたが誰宛に書いたということも
あなたの一方的な思い込みに過ぎないと言っても過言ではないでしょう?
お互いに一方的な思い込みであったということだと思います。


>願望達成や他宗の事を否定して語ったのはあなたですよ?
>人のせいにするのはやめてください。

いいえ、私は仏界の涌現とはとはそうしたものとは異なるということを示しただけです。
「あなたの仏界涌現の解釈に対する否定」を「他宗の否定」としないで下さい。


>と書いてありますが、モーリスさんとその点合意していないように読めますが。
>モーリスさんは一貫して折伏と選挙支援と新聞啓蒙をひとくくりで考えていらっしゃいますよ。

私は「モーリスさんと合意の上で」とまでは言っておりません。
モーリスさんが話されることの枠内で、私が何を中心として話すかは私の一存で決まることです。


>あなたの仰る教学的というのは御書(日蓮の遺文)という事のようですが、
>それでしたら血脈こそもっとも大切な教学の一つではないですか。
>日蓮が書いたとされる「二箇相承書」が関係ないと?
>折伏はいったいなんの為にするのですか?信仰があるからではないのですか?
>その信仰の拠り所とも言える血脈を関係ないと言えるあなたはただたんに、
>ご自分の都合のいいように教学を利用しているように思えます。

血脈とは南無妙法蓮華経のことであり、これまで私がモーリスさんと話してきたのは
その南無妙法蓮華経を受持するとはどういったことであるかということとも言い換えられます。
つまり信心の血脈について論じてきていたも同然なのですよ。
モーリスさんは大聖人を御本仏と仰がない立場を明確に示されました。
そうである以上は、あなたが仰りたいところの唯受一人の血脈については
大聖人を御本仏と仰ぐ宗派の教義ですので、論じるべき事柄でないのは明白であると思います。

104銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/19(土) 18:34
>>93-94 ぱるぱるさん

>だったら、教学的なお話しをされる事自体がナンセンスではありませんか?
>あなたが御書を引き合いにだしても、それ自体モーリスさんは否定されているのですから。
>あとは個々の信仰のスタイルの問題であり、モーリスさんはご自分の信じている事を
>ご自分の体験で語っているのです。
>もとから土俵の違う事で納得させようとしているあなたに無理があるのでは?
>御書で納得させられるという思い込みがあなたにあるのではありませんか?

確かにモーリスさんは冒頭で「御書に書いてあってもそれはウソです。」と書かれておりますが、
>>23でつぶやきさんが
>モーリスさんのこの言葉は、決して御書・ご本尊・法華経・大聖人への不信から
>起こったことではないと理解しています。
と仰っているところ、モーリスさんはこれについて何ら否定されておりません。
私もそうであって欲しいと思っていましたので、誤解しているのではないかと確認をとっていたのです。
また、掲示板は教学を知らない方も大勢見ますので、モーリスさんの意見が御書と
どう異なっているかをまずははっきりと示しておきたいと思い、引用していきました。


>スレッドに沿ったお話しならば、銀舌居士さんは学会のかたと思いますが、
>折伏とはどういう事を指すと思われますか?

いかにも私は学会員です。
折伏とは報恩を胸に、実践される慈悲の行いだと思っております。
折伏は仏種を植えることであり、つまり発心し、成仏する因を作ることです。
また例えるなら、その仏種が発芽し開花するのを邪魔する石などを取り除いていくことです。


>また選挙運動と新聞啓蒙についてはどう思われているのでしょうか?
>その部分の意見交換なしにいきなり折伏を持ってきてもスレッドとは離れていると思います。
>モーリスさんはもともと創価学会の活動を視点にしていらっしゃるので、日蓮の折伏が
>学会とどう連動しているのか、まったく創価学会の事に触れようとしない銀舌居士さんのお話しで
>は焦点がまったく違うと思います。

確かにあなたの仰ることにも一理はあります。
モーリスさんも分かってらっしゃるとは思っていましたから省略しましたが、
選挙活動は一つの見方として王仏冥合実現の方法論の一つ、新聞啓蒙は弘教の一環であり、
ともに利他という側面が多分に含まれているものです。
ですから私はこれら応用問題について触れる前に、まずは基礎問題、つまり
根本的な化他(利他)行、つまり折伏について論じなければいけないと考えていたのです。

105銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/19(土) 18:36
>>95 ぱるぱるさん

>このスレッドはあなたとモーリスさんが対話する為に設けられたものですか?
>あなたは通りすがりにレスしたかたですよね。
>もともとこのスレッドがあなたとモーリスさんとが教学的側面から話し合う目的で
>立てられたものでない以上、スレッドに関して誰がどのようなレスをしても自由なので
>すよ。
>(もちろんマナーに従ってですが)
>私があなたとモーリスさんとの間に直接わって入ったわけでなし、
>書き込みの趣旨をあなたが制限する事自体始めからおかしな話しなのです。
>どうもおかしいおかしいと思っていたのですよ。
>あなたはこのスレッドに関して一方的な勘違いを私に向けていらっしゃるわけです。
>このスレッドに関する事柄ならば、誰がどのように書いてもあなたがそれを制限する
>権限も理由もないのです。

当然、あなたがモーリスさんと何をお話になろうとも問題はないでしょう。
しかし私とあなたがモーリスさんの話していることの枠外のことを、
・・・・・・・つまり具体的に言ってしまえば、
・私が引用した御書のどれがどういう理由で偽書であるかの説明要求
・法華経が中国産だという誤認に対する指摘
・御書にある依法不依人に対する解釈の根拠の提示を要求
・現存する全経典は学問的に見れば釈尊の出自ではないことになっているにも関わらず、
 法華経のみを下すという偏見に対する指摘

などのスレタイと関係のないことをここで話すのは相応しくないのではないかということです。
信頼性のあるソースに拠ったものでないことはあなた御自身がよくご存知のはずだと思ったので
あえて言葉には出さなかったのですが、認識が甘かったと今は思っております。

ともあれ、私があなたの書き込みを制限するということではなく、
これは単に私があなたに対してレスを省略する理由であるに過ぎません。
私は1度もあなたがモーリスさんにレスをつけることを禁止などしていないはずです。

宛名を書き忘れたあなたのレスを私が勘違いしたことよって
ここまで話が絡まってしまいましたが、これでもう終了としたいと思います。
お疲れ様でございました。

106銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/06/19(土) 19:49
>>96 モーリスさん
なるほど、了解しました。

通りすがりでちょっとレスをつけただけのつもりでしたが
いつのまにか随分長居することになってしまいました。

私が思うに、「折伏に功徳がない」と考えるのは
本仏観が異なる以上はモーリスさんの自由としか言いようがありません。
人のためにお題目をあげること、功徳がないと思っていても、
必要だと思う方に会われたなら信心を勧める、
そういう気持ちがあればまずはよいのではないかと思います。

ともあれ私は、仏界が涌現しているかどうかは、
自分で判断することではないのではないかと思っています。
九界即仏界といい、凡夫即仏と言いますし、衆生がいればこそ仏がいる。
仏だけで衆生がいないということはありえないはずです。
ですから結局のところ、人と人という関係性の中で
仏法は脈打つものだと考えております。

これでここに書き込むことは最後にしたいと思います。
長文のレスありがとうございました。

107銀舌居士さんありがとうございます:2004/06/21(月) 00:46
>>106
一度だけ書き込みをお許しください。
どうしてもこの場をお借りして銀舌居士さんにお礼が言いたい者です。

銀舌居士さん、大変お疲れさまでした、また本当にありがとうございます。
このスレッドで教学を大変勉強させていただきました。心から感謝申し上げます。
銀舌居士さんのお陰で教学の大切さを改めて学ぶ事ができました。私の心の財産になりました。銀舌居士さんがここに書かれた事は日蓮大聖人の仏法を信仰するものにとって宝になるものです。

モーリスさんは、日蓮大聖人の仏法を信仰される方では無かったのですね(お題目は何故か大切なようですが、それはモーリスさんの自由ですね)。

>自行で十分です。
化他では仏界は涌現しませんのでやっても無駄です。生活には無益です。
どうしてもやりたければ無駄を承知で勝手におやりになればいい。
>御書に書いてあっても全然悪道に落ちません。
>しかし自行だの理行だの化他だのを一々意識しなくても勤行・唱題すれば功徳は受けられますし、天台の題目と大聖人の題目を一々立て分けて唱題する人なんかいません。
あと、いくら化他が大事といったところで、化他で仏界が起きない以上、少なくとも私にとっては化他をやる意義はありませんし、化他だけで仏界が起きることでも証明してもらわないことには納得しようがありません。
>御書に書いてあっても守る必要の無いことは書かれていますけどね。
化他も根本と言ってるのは、そう言わなければ誰も折伏をやらなくなるから言ってるに過ぎません。
>門下に命じてなくとも、念仏者たちの首を斬れと言ってますね。
同じ大聖人のお言葉ですが…
もっとも本仏と崇め奉られている割には軽率な発言だと思いますけどね。
(私は日蓮さんの南無妙法蓮華経の力は信じてますし、私なりに日蓮さんを尊敬もしてますが本仏とは思っていません。)
>勤行・唱題さえ毎日やっていればいいのです。あとは自分の判断で行動すればいいのです。
折伏で仏界は涌現しませんので、それをやるやらないも自分の考えで決めればいいのです。
>本仏ですか・・・
あえて言えば南無妙法蓮華経でしょうか?

モーリスさんは独自の宗教を信仰されている他宗の方だと分かり安心しました。あまりに大聖人の教えとかけ離れている事をメチャクチャに書いてらっしゃるので、オカシイナア、と思っていたのです。上記のごとくはっきりいたしましたので、ホッとしました。

銀舌居士さん、同じ南無妙法蓮華経でも、モーリスさんは他宗の方でした。それでも大変ご苦労様でした。私は日蓮大聖人の仏法を信仰する学会員です。私が学ばせて頂きました、ありがとうございます。

最後に、管理人の遥様、有意義な場を提供してくださり有り難うございました。

108モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/21(月) 06:49
>>107
ムチャクチャなのは創価のほうですよ。
詳細はまた後で。
書き逃げはなしですよ。

109モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/21(月) 06:55
>>107

あ、忘れてた
「銀舌居士さんありがとうございます」さん
はじめまして。

この掲示板に書き込むなら
きちんとコテハンつけるように。

110腐った鯖 </b><font color=#FF0000>(SabaD/L.)</font><b>:2004/06/21(月) 11:32
(´-`).。oO(カレー臭がするのは気のセイか?

111モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/06/21(月) 19:13
>>107
折伏と勤行唱題両方やらなきゃダメなんて言ってても
現実には勤行唱題だけで仏界が起きてるんですよ。
折伏で仏界が起きるなら勤行唱題を一切しなくても
折伏だけで仏界が起きるはずです。違いますか?
折伏と勤行唱題両方やってはじめて仏界が起きるなどと言うのは
結局のところそれは勤行唱題によって仏界が起きるのであって
折伏で仏界が起きているのではありません。
しかしそれ以前に「折伏と勤行唱題両方やってはじめて仏界が
起きる」などというのは勤行唱題だけで仏界が起きるという事実によって
すでに虚妄となっているのですよ。わかります?

ましてや創価では新聞セールスや投票依頼を折伏と同じと言い
折伏の功徳は勤行唱題をはるかに上回ると言っています。
勤行唱題をはるかに上回るなら折伏だけで仏界が起きるはずなのに
折伏だけでは仏界は起きないと言うのはどういうことでしょう?


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